Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
8
「人が死ぬこと。それは人が生きてることを証明するんだろうとおもう。」
とわたしは少し前のブログで述べた。実際、そうであると確信している。そうでなければ、なんだか生きることの定義づけが曖昧になってしまいそうだから、これがいちばんもっともらしいと思う。
わたしはいま現在、ツイッターのアプリを消去している。理由はわたしが馬鹿だからだ。昔ほどツイッターを見なくなっているが、使い方がわたしは根本的に間違っている。便利なものを手にすると、どこまでも怠惰が進行してしまうような性格なので、悪いことをしてしまうから、それなら消してしまえと思い消した。
選択は間違っていない。余計な情報は入ってこなくなった。使い勝手の悪いモバイル版のツイッターなんて、これ誰が使っているのか。ほんとうに使いにくいので、あまりツイッターをしようと思わなくなった。この選択は間違っていなかった。
わたしたちは、きっとこの先年老いて、何かの病気で死んでいくんだろうと思う。その前に両親が死んだりして、身近な人間の死をどう受け止めるのだろう。うちの両親はすでに50を超えているので、江戸時代なら寿命を迎えている。人間の体の限界など、きっと50そこそこのはずだ。現代はいろいろなものを駆使して、80まで生き永らえる。50にもなれば、なんとなく死を意識するだろう。本人自身も、わたしたち周りの人間も。だから少しずつだけど、���悟ができてくる。死を迎えるための準備ができてくる。
わたしは30になったら何をしようとか、40なら、結婚しなかったら、などいろいろなパターンで自分の将来を想像する。きっと今よりお金が手に入るし、経験も積むし、人として今より大人になれてるはずだと、そのために何をしようかなって沢山想像する。それは、きっと訪れる将来のことだから気軽に想像できるんだと思う。わたしは間違いなく30を迎えるし、50にもなる。多くの人の人生がそうであるように、わたしの人生もそうであるはずだから。
でも、ほんとうにそうか?24のわたしは、ほんとうに30を迎えられる?何事もなく、時の流れに沿って当たり前のようにわたしは年老いていくのか。
youtuberの男の子がついこの前亡くなった。動画を見ていて、知っている子だった。
沢山その子たちの動画を見ていたわけじゃない。自分の好きなグループの動画にたまに出てくるから、なんとなく見たりしてた。なんとなく知っていた。曲も作ってて、ラップだったから聴いてみてた。ただ、それだけだ。
それでも彼が死んだことが、なんだか旧友との別れのようで、すごくかなしくて毎晩泣いてしまう。ほんとうは、この先この子たちの動画を沢山見るんじゃないか、ほんとうは好きになるはずだったのではないか。あるはずのない未来に思いを馳せては、涙を流してしまう。
わたしがこんなにかなしいのでは、彼の周りの子たちはどうなってしまっているのか、それを想像するとさらに泣いてしまう。3人で動画を続けていけるのか、でもあの子たちは、あのみんなで住んでいた家で、彼がいた痕跡を感じては、寂しさを募らせてしまうのではないか。あんだけ仲良くて、一緒に暮らしてた子が、突然いなくなっちゃったら、わたしだったら耐えられない。
死んでしまってから、こんなに愛おしさを感じてしまうのは、愚か者としか言いようがない。なぜ死んでしまった後に、それはただ何か一種の悦に浸ってるような気がして、みにくいなと思う。Febbのときみたく同じ轍を踏んでしまっているように思う。
https://www.youtube.com/watch?v=_fw8ftcQ1Lo
わたしの大好きな曲だ。冒頭でPUNPEEは
『人はこれって時にどうしても 「時間を戻せたら」とかいうね でも誰も直せないよ 治せないんだな 昔からそうだし まぁ しょうがないね』
と歌っている。わたしもきっとあの子たちも、彼らをずっと応援してきた子たちも、周りにいる人たちも、時間を戻して彼を連れ戻したいと思っているだろう。でもそうなんだ、誰も時間は戻せない、これは仕方ないことなんだ。頭ではわかってるけど、でも時かけみたいにできないのかなあ、彼をどうにか救えないのかなあ、ってふと帰り道思った。
「まぁ しょうがないね」って思えるまで、��ことん泣いてやろうと思う。準備ができなかったからこんなにもつらいのだろう。わたしの泣き虫は永遠に治らないし。これはしょうがないねってもう思ってることです。
えいちゃん、元気でね。あの子たちを、どうか見守っていてあげてください。
0 notes
Text
7
再び研究室のパソコンから更新している。きょうは博士の先輩もまだいる。先輩も博論を書いているので、それで残っているんだとおもう。
ちなみにわたしは修論を書き終えた。すごい!えらい!とおもうだろう。わたしはえらいしすごい女なのだ。ただ修論を書き終えたら、今度来月末の審査会用のスライドをつくらなきゃいけない。苦しみは続く。
わたしが院生として行っている活動が一つある。ざっくりいうと、理系の女子院生がちびっこや高校生に、理系の面白さや研究のことをお話したりするイベントに参加する、というもの。
わたしは元々おせっかいババアなので、そういう活動が大好きだ。人前に出る、というよりは、自分をキッカケとして年下の子たちが目覚めてくれるとめちゃくちゃうれしい、という変な欲求がそうさせているような気がする。
この前も修論でヒィヒィいってるのに、活動してきた。高校生相手で、彼らは県内一の進学校のため質問もすこし鋭くて困ってしまった。わたしは自分の専門の話はできるけど、「理系」や「大人」という大きな枠組みから意見することに関して、まだまだ未熟だと痛感した。じぶんより年下の子たちと触れ合うほうが、甘える先がないから成長できるような気がしている。じぶんはもっともっと善い大人になれるのではないか、と度々おもう。
みんなは「大人」について、どういう印象をもっているだろう。
年齢がハタチを超えたら、大人って言える?そもそも成人と大人の違いとはなんだろうか。社会人になれば大人なのか、親になれば大人なのか。どこまでいけば大人として認められるのか。そもそも大人である、とおもう必要があるのか。
わたしは以前もいったが、「大人」に対してすごい厳しい目で見ている。じぶんより年上の人で、大人だな~って感じる人は少ない。わたしのベースが他人を下に見てしまっているせいもあるのかもしれないが、わたしが認める大人は、本物の大人なのだ。
となると、じぶんはいつまでもお子ちゃまで、50歳くらいになったら、とりあえず大人になれるんじゃないかな~っておもう。年齢で決められるわけじゃないけど、もう死に向かっていく年齢に差し掛かって、それでも尚子供だったらわたしは自殺してしまうかもしれない。
今回は音楽と絡められなかった。
わたしの好きな向井秀徳でお別れしよう。
https://www.youtube.com/watch?v=S0RMeX7ji0U
0 notes
Text
6
人が死ぬこと。それは人が生きてることを証明するんだろうとおもう。帰納的だ。
https://www.youtube.com/watch?v=CUxIykX4hfw
わたしがhiphop良いな、とおもったキッカケはSTUTS feat. PUNPEEの夜を使いはたして、を聴いてからだ。ワルの聴く音楽だとおもっていたhiphopが、わたしみたいな根暗が聴いても馴染むのか、とおもって驚いた。繰り返し聴いた。
そのSTUTSくんはいまや星野源の楽曲製作にも関わるようになったのだから、わたしの耳はとても正確に、じぶんの好みを察知できるんだな、とおもって嬉しかった。
12月20日、STUTSくんの新譜「Eutopia」からラストに収録されている楽曲のMVが公開された。
https://www.youtube.com/watch?v=3fAu79uJOx8
これを初めて聴いた時、すぐに「Febbの歌だ」っておもった。
『全て罪に目を瞑る』『時が来れば許す心と会いに行こう』『光の次訪れた闇は深く深く...』『孤独も良しと知る』
などなど、Febbに対するリリックなんじゃないか?って勘ぐってしまうものがほんとうに沢山散りばめられている様に感じた。
『上野の路地 また回すペダル』というリリックで思い出したのは、Febbが死んだ時のjのツイートだ。
https://twitter.com/__j_j_j__/status/964454118667333634?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E964454118667333634&ref_url=http%3A%2F%2Ffurisuta.info%2Frap-news%2F1395.html
(この曲抜きで、このツイートを見るたび泣きそうになるのは秘密ね)
2バースめになると、あまりFebbに対して歌っていない様な気がしたが、最近KID FRESINOが出した新譜のインタビューで、赤ちゃんが産まれたという話があった。そしてMVで分かった、2バースはFebb以外のjの周りの人たちに歌ったんだろうと。
わたしは、��んなにも色々な感情が伝わってくるMVを見たことがない。jの後悔も回顧も決意も、感じるものがあまりに多すぎる。もちろんこれはわたしのひとりよがりな解釈だろう、間違ってるかもしれない。ただ、そういうの関係なく、わたしはもうこの先一生わすれられない、ずっとこの先大切にしていく曲だとおもわせた、それくらい良い映像だ。
この曲は、Febbが死ななかったらできなかったものだと、わたしはおもう。人の死に意味づけをするのは好きじゃないから、Febbが生きてたからできた曲である、という表現のほうが良いかな?とおもったけど、でもやっぱそれでは伝わらない。Febbの死が、これを産んだ。わたしが一生大切に聴いていく、と断言させたこの曲を。
生きるということを考える。死ぬということは生きることの先にある。ゴールが死だ。死ぬことで何かがうまれるなんて、死んだ側にはぜったいにわからないことで、それがもどかしい気がする。でも死んでしまえばそんなこと気にしないか。
Febbのこと抜きにしても、この曲はほんとうに良い。STUTSくんがつくった音だし、jのリリックはいつもやさしい。だからみんなも聴いてね。そしてできれば、愛してね。
0 notes
Text
5
あれ、なにか書こうとおもっとったのに、めちゃめちゃ忘れた。健忘かな。
https://www.youtube.com/watch?v=_3E-oGV4oz4
PUNPEE大好き!といってる女、RAU DEFくんの新譜にfeatしてるSugbabeがPUNPEEだと気付いてなかったんです。え〜さすがにアホすぎ、って感じ。かなしいな、もっとアンテナはっておかんと…。
きょう、高校時代のマブがわたしと同じ年齢になった。12月って誕生日の人多い気がするな、2月ってセックスする感じなんかな?てかクリスマスにセックスして妊娠したら、10月末に子供産まれるやん?ってことに気付いてから、人に誕生日聞けんくなっただよね。あはは。
で、まあこの高校時代のマブってのは、異様に癖がつよくて、でもわたしと同じテンションで「暗い話」ができる唯一の友人なんだよね。
わたしは星野源が好きだから暗い話も好きなわけでなく、もともとの性質として暗い部分が多いんだろうとおもう。ネガティブか?といえばそうではない気がするので、ネガティブという表現は適切でないかな、と個人的におもう。
で、その友人とは素面でも永遠と自分たちの暗い部分を話続けられる。わたしは「他人に向けられる悪意」というのは得意ではないので、愚痴関連だと基本話を聞く気にならない。わたしたちが話す暗い話は、あくまで内向に徹している。根暗のくせに、わたしたちはじぶんのことが好きな人種なのだ。
二人でコンセンサスが得られた考えは、基本的に信頼で���る価値観としてわたしたちの中で根付いていった。
たとえば、わたしたちは女子校出身だから、思春期に異性にあまり接触せずに生きてきた。これは無論負にはたらいてる面ばかり見えるが、案外わたしたちが人として生きてくためには必要な環境ではなかったのか?とも思える。
わたしたちは人からの承認に「性別」を加味しない。わたしたちは「人として」どう認められるかが当たり前だったから、女である自分に価値を見出されると困惑するのだ。困惑する、という理由が先だったろうが、結果としてわたしたちはやはり性別関係なく承認されることを軸にしている。その方が普遍的でわかりやすいからだ。
じぶんの価値観の形成に、友人が関わってくれていたことに気付いた時は、ほんとうにうれしかった。友人って、こんなに意味のあるものなのか…!と。
https://www.youtube.com/watch?v=b3_ax_7_3JQ
小学校のころからつるんでたわけじゃないけど、めちゃめちゃ大切な友人だ。24才おめでとうね。
0 notes
Text
4
たとえば、じぶんにとって良いものを「ちがう」と相手がジャッジしたときのこころの持ちよう。
価値観や感性を共感まで持っていくのが理想とおもえば、それは奇跡と同等と考えても良いのかもしれない。わたしが美味しいとおもうもの、綺麗だとおもう詩、感激した音楽、愛おしいとおもう人。それを「ちがう」とジャッジされたら、わたし自身を否定されるよりもしんどい。よく「彼女のことは悪くいうな!」って怒る男の子がいるけど、馬鹿にしちゃうが根幹は同じだ。
おととい、8つ下の弟が16才になった。
わたしは親よりも弟たちの方が色濃く同血であると感じる。確率的には親の方が共通した遺伝子を持っているとおもうが、顔が似てなくとも、鼻の高さが違えども、弟たちはわたしのいちばんの親族であるという感覚がある。
8つも下となれば、わたしにとっては永久に赤ちゃんのままだ。わたしたちの年の差は当たり前だが縮まらない。身長を抜かされても、変声期を迎えようとも、いつまでも「おぼこい」ことに変わりない。
家族をどのようにおもうか、まるで重荷のように感じることも、唯一無二だと感じることも、どれが最適解なのかはわたしたちは決めることができない。とりあえず大切にしとく、というのもアリだとおもうが、なんとなく正解でもないような気がする。
わたしは親がどうなろうと「大人なんだから、尻拭いは自分でしろ」とおもう。というより、わたしより大人であるからには、親に限らずそのようにおもってしまう。生きることに意味があるとするならば、積み重ねた生の上に、わたしより優れた何かをもっていてほしい。
ともなれば、弟にはそのようにはおもわないのが道理で、実際そうだ。弟はわたしより長く生きていないからだ。つまりわたしたちの年の差分、積み重ねたものがわたしにあるという仮定のもと、弟の人生をより良くしたいと、お節介だがおもうのだ。血縁であるが所以の贔屓もあるが、血縁がなくとも、年下の子たちにはその人生に、わたしたちより苦しみや悲しみを多く背負わせるわけにはいかないとおもう。
じぶんの人生は、紛れもなくじぶんのものだ。ただ、じぶん一人で生きているわけではなく、悪くいえば沢山のしがらみにとらわれて、わたしの人生はなんでこんなにも思い通りにいかんのか、とおもうこともある。
ここさいきん、殊更におもうのは、人生だけでなく世の中には、そもそも思い通りにいかないことばかりなのではなかろうか、ということ。思い通りにするために努力すれば、きっとどこかに歪みが出てくる。哀しいけれど、妥協点を見つけないと、人生はギュウギュウの苦しいだけのものになってしまうのかもしれない。「諦めが肝心」ともいうことだし、じぶんの力ではどうしようもないことだってあるし、そこは仕方ないなあって、わたしが大人になってやらんとな。
長く文を書けば書くほど、帰結点を見失う。文の構成は大きな窓口からどんどん絞りを閉めてくのが定石だろうが、わたしは脱線が多く、そもそもゴールを定めずに走り出してしまう。
まあ、結論は、家族は大切なんだよな〜ってこと。わたしは罪悪感にひどく弱い女、どうせならドドン!とすべてを許容してしまえば良いのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=HG0M_eZduxY
星野源がアルバム名にもなってる新譜を出した。STUTSくんもMVに出演している。源くんは常々ブラックミュージックへの愛を語るが、今回はNYの地下鉄を意識した風景のMVなんだろうか?そういえばSTUTSくんが有名になったのは、ハーレム地区の路上でMPCをピコパン叩いてた動画がきっかけだったよな、とか。
このアルバムには、Family Songも収録されています。家族ってことだね。無理やりオチつくっちゃった。
0 notes
Text
3
いま、研究室のパソコンからブログを書いている。人がいないのだ。ここ最近、わたしがさいごまで居残りしている。M2だからね、修論だから、ね。
音楽のことをずっと考えている。
24を境に、新たな音楽に触れていくことがめっきり減る、というのを聞いたことがある。それはなんとなく確かに感じていて、あんだけMix集からみつけたアーティストをpick upして他の楽曲を聴いてたのに、この行為を全然しなくなった。
まあでもそれでも良いか、と感じていた。徐々にじぶんの好みがfixされて、馴染んでる感触があった。もうこの先、ずっと追いかけてく人たちは変わらない予感がしていたし、あとは少しずつかいつまんで、という感じにシフトすると。
わたしは八方美人の気があり、それは生まれながらの気質ではなく、自己防衛のために手に入れたものだ。だれにも嫌な顔をしないし、だれかが嫌がる仕事を代わりにやるし、嫌なことで空気がよどむのが堪えられない。
音楽も、だれかに好かれたくて、だれかと同じ価値観を共有できる気がしていて、だれかの好きなものを好きになって、だれかが聴かないものを避けて。そんな音楽、ぜんぜん響かないよ、っていわれたら、堪えられる?
好きなものを好きという力も、嫌いなものを嫌いという力も、わたしは持たざる者に成り下がっていた。嫌われる覚悟がないのに、いまの関係が壊れるのが嫌なくせに、どこまでも踏み込んで関係を築けないのに、だれかに好かれようだなんて、アホだよ、気付けよバカ。
音楽は、いまだれかに好かれたくて聴いてない。お洒落だっておもわれたい欲求は少なくともあるが、そんな女が星野源が世の中でいちばん好きだなんて大きな声でいわない。星野源はいまや大衆的だ。わたしの中で大衆的であることはお洒落なものに繋がらない。
八方美人であるのもさいきん辞めた。わたしが先天的にもってた愛嬌を失うわけでない。わたしの良さは、わたしが分かってるし、母も、高校の同級生も、研究室の隣に座ってたアホたちも、わたしのことブスっていってくるよく行くお店のオッサンも。意外といる。わたしの周りには、わたしを愛してくれてる人が想像してたより、いる。ブスでもアホでも生意気でも、八方美人を辞めたって大丈夫だと踏んだのは、もうこの人たちがいればわたしって生きてけるなっておもったから。
化学には物質はエネルギーを持ってる不安定な励起状態から、そのエネルギーを外に放出しながら安定した基底状態になる、という現象(反応)があるんだけど、それを人間にも当てはめられるよねって話をしてくれた人がいた。
23のわたしは基底状態だった。24になりたてのわたしは励起状態にいた。25に向かうわたしはまた違う相の基底状態に移行したとおもう。わたしも当てはまった。わたしは変わったんだとおもう。わたしはかなしくて仕方ないときに、エネルギーをまき散らして、そしていまの穏やかなじぶんを手に入れた。
その人に教えてもらった人のアルバムがすごく良かった。まだまだわたしには知らない、わたしの好きになる音楽がこの先にある。それはわたしがいまの場所に停滞していては、手に入れられない。探し続けなきゃ。
中村佳穂
https://www.youtube.com/watch?v=7eyOKJwaZJg
0 notes
Text
2
はやく「だれかの目線を気にする」ことに囚われないように生きたい。
所謂わたしは自意識過剰、被害妄想が鬼ひどい女だ。他人にどうおもわれるか、めちゃめちゃに気になる。悪くおもわれたらどうしよう、ってめちゃめちゃにビビってる。
特に「ダサい」っておもわれるのが猛烈にかなしくて嫌なので、洗練されてる街や店に行くのがまったくもってできない。じぶんがその街や店のひとピースとなったら、それはもう崩壊を意味している。雰囲気ぶち壊し。ダサさの侵食。
でも案外、周りのひとってわたしのことを気にして生きてなくて、通行人も店員さんも気に留めているかどうか、といえば気に留めてないんだろうとおもう。そこまで他人を注視したり、他人に興味をもって生きていないはず。
そういえば、遅ればせながら、崎山蒼志くんの「国」を聴いた。この動画もまだそうだが、彼の声がまだ完成されてないからか、声が妙に震えるときがある。
https://www.youtube.com/watch?v=fAuFnfbDwbE
あまりにリリックが良すぎる。なんども聴き直していないから、具体的になにが良いのかの説明はできない。ただ、こころが震える。泣いてしまいそうになる。不安定さが儚さに変換される?
わたしは音楽を聴いていて良かったな〜とおもう。わたしがなにも創れない、いつなんどきも消費者でしかないけれど、だからこそわたしを間接的に豊かにしてくれるものに触れられて良かった。
0 notes
Text
1
はてなブログから移行する、とおもう。
ちなみにTumblrは昔、わたしがネットで知り合った男が好きで好きで仕方なかった時にアカウントをつくっていた。改めて思い出すと、その男のおかげでわたしは活字に触れるようになり、読書を生活の一部に組み込むようになった。
ついでにその次に好きになった男の話をすると、その男は音楽にすごく詳しくて、POPEYEに出てくるようなシティなボーイって感じだった。もともとマイケルジャクソンと星野源を熱心に聴くような、謎を極めた音楽センスを保持していたわたしを矯正してくれた男の子だった。ちなみに彼もネットで知り合った。ティンダーだ。
他の女は知らないが、わたしは男に影響されてカルチャーに踏み込んだ。自ら踏み込んだと脳内変換していたが、このブログに書いてた文章を読み直したら「そういえば、」と思い出した。男のおかげだ。
なぜTumblrを思い出したか?というと、imaiというアーティストの音楽を聴いてからだ。実はPOPEYE BOYの苗字と同じなんだ。え〜〜〜って感じでしょ。どこにでもいる苗字。imaiはおすすめです。MVがかわいい。あと彼が前に活動してたgroup_inouっていうのも良いですよ。Enjoy Music Clubに似ている。ホヨホヨしたラップをするような感じ。
imai
https://www.youtube.com/watch?v=iQi3aMQXip8
group_inou
https://www.youtube.com/watch?v=hj566OQUQIE
Enjoy Music Club
https://www.youtube.com/watch?v=jeXm-vME_mA
ちなみにEMCのこの夏の魔法というMVに出てくるシャムキャッツの夏目くん、かわいいよね。うちは好みではありませんが。ちなみにEMCはEMCのラップ道の方が有名だと思われる。
恋愛って難しいんだろうか 。わたしは恋が実ったことないけど、でもちゃんとした恋愛もしたことないからね。わからないね。できたら良いけど。
仙台はとても寒い。みんなのところはどうか知らないけど、風邪とか引かないで過ごしてくださいね。さらば。
1 note
·
View note