#あたしって何でこんなに学習しない��鹿なの??
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#あたしって何でこんなに学習しない馬鹿なの??#何この気持ち??#どう足掻いても報われない、詭弁に基づいた気持ちだって、もう中学時代に確認したはず#なのに数年ぶりにこんなドキドキ、この渇望を感じた#今でもほとんどメッセに答えてくれないしね
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Sean bienvenidos amantes del mundo japonés, a una nueva publicación de actualidad. Dicho esto póngase cómodos que empezamos.
En esta ocasión, vuelvo otra vez a traer malas noticias sobre el país del sol naciente. Veo que la gente es muy burra y muy payasa por intentar ganar unos asquerosos likes de migrantes, comentarios, entre otras cosas, a través de la red social y dárselas de importante, de decir:Mira dónde he estado, mira lo que he hecho, solo con tal de llevar la atención y hacer el ridículo. Este tipo de gentuza no les importa, no les interesa la historia ni la cultura ni nada en absoluto, nada que tenga que ver con alguno de estos puntos mencionados anteriormente o algo similar; solo van a estos países, sobre todo al país desconocido o a países circundantes, porque están de moda y porque está en la sensación máxima ir para quedar bien y decir ante tus amigos o conocidos, Mirad dónde he ido y tú no. Por culpa de gentuza y de peña así, determinadas áreas del país del sol naciente están siendo vetadas para los turistas. Esto no quiere decir que los japoneses odien a los extranjeros y menos a los turistas; lo que odian son determinadas acciones o actitudes de dichos turistas, como subirse, por ejemplo, a la estatua de un perro icónico llamado Hachiko en frente de a estación de Shibuya.
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O por ejemplo como el caso de la chilena inculta e inmadura por hacer el postureo en un lugar sagrado para los japoneses para mí es una calumnia y una blasfemia lo que ha hecho la chilena y además para mí es un insulto lo que los turistas están llegando a hacer en Japón convirtiéndolo en un parque de atracciones por favor parad ya de hacer el gilipollas o el imbécil en un país dejad que vaya gente que realmente valore y aprecie cultura, valores costumbres de un país. Temo postear esto en 2025; la raza humana da vergüenza.
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Espero que os haya gustado y nos vemos en próximas publicaciones. Que pasen una buena semana.
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日本世界を愛する皆さん、最新刊へようこそ。そうは言っても、安心して始���ましょう。
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この機会に、私は日出ずる国についての悪い知らせを伝えるために再び戻ってきました。ソーシャルネットワークを通じて、とりわけ移民から嫌な「いいね」やコメントを獲得しようとして、偉そうなふりをして、「私がどこにいたのか、私がどうなったのか見てください」と言う人々は、非常に愚かで非常にピエロであることがわかります。注目を集めて自分を馬鹿にするためだけにやったのです。このタイプの人々は、歴史や文化などにはまったく興味がなく、上で述べた点や同様のものとは何の関係もありません。彼らがこれらの国、特に未知の国や周辺国に行くのは、ファッショナブルだからであり、見栄えを良くして友人や知人に「ほら、私はどこに行ったのに、あなたはどこに行ったの?」と言うのが究極の感覚だからです。 t.このような暴徒や集団のせいで、日出ずる国の特定の地域は観光客の立ち入りが禁止されています。これは、日本人が外国人を嫌い、さらには観光客を嫌っているという意味ではありません。彼らが嫌うのは、例えば渋谷駅前にあるハチ公と呼ばれる象徴的な犬の像に登るなど、観光客の特定の行動や態度だ。
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あるいは、例えば、日本人の神聖な場所でポーズをとった無学で未熟なチリ人女性の事件のように、私にとってチリ人女性の行為は中傷であり冒涜であり、また私にとって観光客の行為は侮辱である。日本で何をするか、遊園地に変えるか、その国で嫌な奴や馬鹿みたいな行動はやめて、その国の文化、価値観、習慣を本当に大切にして感謝している人たちを去らせてください。 2025 年にこれを投稿するのは怖いです。人類は恥ずべき存在だ。
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気に入っていただければ幸いです。今後の投稿でお会いしましょう。良い一週間をお過ごしください。
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Welcome, lovers of the Japanese world, to a new publication of current events. Having said that, make yourself comfortable, we're starting.
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On this occasion, I am back again with bad news about the country of the rising sun. I see that people are very stupid and very clownish trying to gain some disgusting likes from migrants, comments, among other things, through the social network and acting like they are important, saying: Look where I've been, look what I've done, just to attract attention and make a fool of themselves. These types of scum don't care, they are not interested in history or culture or anything at all, nothing that has to do with any of these points mentioned above or anything similar; they only go to these countries, especially to the unknown country or surrounding countries, because they are fashionable and because it is the ultimate feeling to go there to look good and say to your friends or acquaintances, Look where I've been and you haven't. Because of scum and people like that, certain areas of the country of the rising sun are being banned for tourists. This doesn't mean that the Japanese hate foreigners and even less tourists; what they hate are certain actions or attitudes of said tourists, such as climbing, for example, the statue of an iconic dog called Hachiko in front of Shibuya station.
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Or for example, like the case of the uneducated and immature Chilean woman for posing in a sacred place for the Japanese. For me, what the Chilean woman has done is slander and blasphemy, and for me, what tourists are doing in Japan by turning it into an amusement park is an insult. Please stop being an idiot or an imbecile in a country. Let people who really value and appreciate the culture, values, and customs of a country go there. I'm afraid to post this in 2025; the human race is shameful.
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I hope you liked it and I'll see you in future posts. Have a good week.
#日本#japan#歴史#unesco#ユネスコ#kyoto#hachiko#hachiware#photos#photography#japan photos#influencer#culture#geography#education#historyjapan#history#京都#渋谷#ハチ公#アート#インフルエンサー#チリ#教育#文化#art on tumblr#artists on tumblr
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いま知識が豊富だからという理由で昇進することなどありえない。どれだけはやく深く学習し身につけられるかが評価される
最初の100日で何をすべきで何をすべきではないか?|miyasaka
新任リーダが最初の100日ですべきは?してはいけないことは?なにだろうか? 最初の100日でもっともしてはいけないことで共通するのが「華麗にビジョンを語り戦略を策定して期待値をあげること」はしてはいけない。 逆に最初にすべきことはなにか?「勉強マシーンになること。具体的には資料を読み人に会って話を���きまくる」こと。つまり最初の100日は「口はほどほどにして耳と目と足を動かせ」ということだ。
いま知識が豊富だからという理由で昇進することなどありえない。どれだけはやく深く学習し身につけられるかが評価される
何が問題かわかっていると思っていた。そして、それは間違いだった
前任者をどう扱うは極めて重要であり、しかもひどく簡単に過ちを犯しやすい
よそ者には、バカな質問が許されるという得難い特権が与えられる
自分は何も知らない部外者だと考えるようにした
せっかちすぎて上手く進まなかったことがいまになるとわかる。
最初にすべきことは何もしないことだ。新任リーダーは自分が思ってるほど状況を理解していない。仕事ができることを見せつけようとか思わないことだ。まずは立ち止まってできるだけ聞き役に徹すること。それがトップとして最も大切なことだ。
口を開く前にやるべきことがあることを理解していなかった(サマーズ)
座って聞くだけで、多くを成し遂げられるのだということを私は学んだ。
たとえ危機が迫っていても、聞くことに時間を費やすのは無駄ではない
人間は自分の話を聞いてもらうのが大好きである。
人を知るには質問することだ
今、現在のIBMに最も必要でないもの、それはビジョンである。たった今求められてるものは実践性の高い事業ごとの戦略である(ガースナー)
短期戦略は「小さな約束、大きな成果」
新CEOが着任するなり、戦略を披露するなんて馬鹿げている
新しい事業環境に乗り込んできた新米経営者は必ず苦い現実に気が付く。それは、最も無知な時に最も自分の最高を発揮しなければならないという事実だ
文化に馴染めないトップは簡単に弾き出される
改革は上から命じるものではなく、中から生み出すものだ。何万人もの社員の考え方や行動を変えるのは、大変な難事業だ。二、三度演説をしたり宣言文を書いたぐらいでは何も変わらない。社員を信じなければダメだ。(ガースナー)
誰、ではなく、何、が悪かったのか?
上司(または取締役会)の仕事へのモチベーションを理解する
株主にもっと高い価値を提供する、などと言っても社員は心を動かされない
最も好ましくない過ちは立派な約束をしてお粗末な結果を出すこと
会議にはかならず2分前に到着する
最初の100日はあちこちに回って有権者に訴える選挙運動期間のようなもの
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[B! 組織] 最初の100日で何をすべきで何をすべきではないか?|miyasaka
raimon49 全社員から聞いて回る、最近読んだサンリオ2代目社長のインタビューでも実践したって言ってた。 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20240227-OYT1T50108/ HAL研社長時代の岩田さんも社員との面談を重視していたと本に書いてあったよね。
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ハローキティ1強に限界、次世代のカワイイはファン投票…サンリオ���代目「予想以上の業績好転」 : 読売新聞
サンリオ社長 辻朋邦氏
痛切な反省のもと第2の創業を掲げた中期経営計画では「サイロ化した組織」「頑張っても報われにくい人事制度」など反省すべき点をしっかり掲げました。 ただ、自分だけの考えでは空回りしてしまうと思いました。そこで1年半かけて私と社員、1対4の形で年代別に全社員と対話する場をもちました。何のための改革かを理解してもらおうと。 祖父はトップダウン的な部分が強かった。それが悪いわけではないですが、反面、社内の議論が少なかった。キャラクターをどう育てていくのかという議論もあまりなかった。まずはそこを変えようと、経営会議を新設しました。
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2025年2月3日 東京地裁でのHPVワクチン薬害裁判傍聴記録【前半】 世界で唯一、非科学的で激烈な反HPVワクチン報道を行ってきた日本のマスコミ。 彼らが決して詳細を報じない、HPVワクチン薬害訴訟。 今回は自分のこれまでの傍聴レポートの中でも最も長いのですが、最も読む価値があると思います。 一人でも多くの方に読んで頂きたいです。 特にマスコミ関係者の方々は、マスコミの権力を用いて医学的に誤った情報を流布した事の影響力を知って下さい。 また、鹿児島大学病院と信州大学病院の関係者にも読んで頂きたいです。 マスコミの方々が、あたかも正義の味方かのように祭り上げたHPVワクチン薬害弁護団ですが、その実態を記録しています。 自分にとっては5回目の傍聴。 4回目までの傍聴記録は、この裁判傍聴のツイートに引き続いて貼り付けておきます。 マスコミが大々的に取り上げた"HPVワクチン後遺症"は、法廷でも複数の医師から誤診の疑いやワクチン接種と無関係だと指摘されてきました。 ジャーナリストの鈴木エイト氏も、長年に渡ってこの問題を記録しています。 氏のこれまでの傍聴記録も参考にして下さい。 例によって法廷は録音録画が禁止されているので、自分のメモからの書き起こし。 なので、一字一句が正しい記載ではない点はご了承ください。 傍聴券の配布に並んだが、最終的に希望者全員が傍聴可能。 会場に入って納得したが大阪地裁や福岡地裁よりも会場のキャパシティあり、およそ100名を収容可能。 なお入場の際に、近くの傍聴者の一部の中年女性たちからは 「オーガニックな韓国料理レストランが近所に出来てね、やっぱオーガニックは安心...」 「こんな危険なワクチンを3回も接種させるなんて...」 との声。 今回の裁判は、以前にも証言台に立った角田郁生先生(近畿大学医学部微生物学講座教授)に対して、原告のHPVワクチン薬害弁護団が順番に尋問する形で進行。 個人的な感想ですが、原告弁護団の対応は終始に渡り角田先生に対して礼を失した態度で接しており、極めて不快でした。 余談だが、奇しくも角田先生は、自分が先週傍聴した福岡地裁での証人である畑澤先生と同じ東北大学医学部卒。 以下、利便性の為に薬害弁護団を"原"、角田教授を"角"と表記する。 原(小柄な女性弁護士) 証人はHPVワクチン後遺症の診察はしていますか? 角 基礎研究者なのでしていません。 論文などで把握しています。 (会場の原告支援者から失笑) 原 証人は未知の疾患の診断基準を作成したことはありますか? 角 ありません。 原 原告側がその意見を裁判で用いている ・鹿児島大学の高嶋先生(鹿児島大学神経内科教授高嶋博) ・信州大学の池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・HPVワクチンの不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意) ・横田先生(もと小児科学会理事長横田俊平) ・高橋先生(静岡てんかん・神経医療センターてんかん科高橋幸利) が臨床経験が豊富であることはご存じですか? 角 豊富かは分かりませんが、会ったこともあるし、会っていない方もいる。 原 質問には、"はい"か"いいえ"かでお答えください。 グラクソスミスクライン(以下、GSK)弁護士 それはいくらなんでも、質問がおかしい。 原 HPVワクチン後遺症に関して、前述の4人の医師の診療経験を知っていますか? 角 知りません。 原 HPVワクチンの後遺症では、多様で重層的な症状が出現することはご存じですか? GSK弁護士 具体的にお願いします。 原 池田修一先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)の論文ではHPVワクチン後遺症の72例が取り上げられており、疲労・頭痛・自律神経症状・広範囲にわたる痛み・学習障害・神経障害などが、HPVワクチンで引き起こされたとあります。 HPVワクチン接種者では頻度が高いですか? 角 これだけでは分かりません。ただですね... 原 質問には、はい、いいえ、で答えてください。 裁判長 証人の回答を妨げないでください。 原 池田修一先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)の論文では、HPVワクチン接種により多様な症状が生じたと き・さ・い、されている。 そうですね? 角 記載はされているが、それは科学的な正しさを示さない。 その論文には対照群すらも存在しない。そしてですね、、、 裁判長 回答は、はい、いいえ、だけでよいです。 原 72名のHPVワクチン接種後の方には、症状の共通性がある。 よいですね? 角 分かりません。これだけでは。 原 次は高橋論文です(静岡てんかん・神経医療センターてんかん科高橋幸利) HPVワクチン接種後に32例が中枢神経症状をきたしています。 運動障害22例、知覚障害13例、脳神経障害16例、精神障害22例などです。 それらは複数の患者で共通して生じている そのように、高橋先生の論文には書いていますね? 角 そんなことは書いていません。 そもそも論文として欠陥があります。 原 記載されているか、されていないか、そのことを確認しています。 記載されていますね? 角 記載されていません。 原 次の質問です。 高嶋先生(鹿児島大学神経内科教授高嶋博)の論文です。 HPVワクチン接種後の36例の神経症状です。 頭痛・疼痛が89%、運動障害が72%、自律神経症状が64%に生じている。 そう記載されていますね? 角 記載と言うか、その対照群がない。 原 西岡先生(西岡久寿樹・東京医科大学)・横田先生(もと小児科学会理事長横田俊平)らはHPVワクチン接種後にめまいなどの神経症状を生じた例を、日本では104例、デンマークでは84例あると発表しています。そのように記載されていますね? 角 対照群がない。そもそも比較対象が不適切。 そして2020年と2021年に、デンマークからはHPVワクチンによってそういった症状の有無に有意差がないという論文が、、、 原 聞かれたことにだけ答えてください。 GSK弁護団 いいかげんにしてください。 都合の悪いことになると、原告弁護士は証言を妨げています。 裁判長が仲裁に入る。 原 いいから質問に答えろ!と、別の原告弁護士(のちに登場する壮年男性)が大声で介入。 GSK弁護士 先ほどから原告側は、記載の有無ばかりを確認している。 それは法廷で必要な手続きではない。 証人は専門家として答弁している。 原(痩せぎすの壮年男性の弁護士、また再登場するので乞うご期待) 記載があるかどうか、それだけを答えろと言っている! 長々とした答弁は最終尋問でやるべきで、まずは地裁なら地裁でのやり方がある。 GSK弁護士 証人は質問にきちんと答えている。 原告側が、証人の回答の途中で話を遮るべきではない。 原 いや、答えていないでしょ。 GSK弁護士 証人が話しているのに、原告代理人がそれに被せて話し始めるのはおかしいでしょ。 ここで原告側と被告側の弁護士たちが言い争いを始め、怒号が飛び交って何を言っているかわからない状況。 これを法廷で、弁護士たちが繰り広げる姿は非常に滑稽(笑)。 しかし、これもまだ序章である、、、 裁判長 では、証人は可能な限り、はい、いいえ でお答えください。 それが難しそうな���ばGSK代理人が質問して、証人はそれに答えてください。 原告側は "記載されていますか?いませんか?" のような、法廷において無駄な質問は控えてください。 角 まだ質問にお答えしきれていないかと思いますが、、、 原 疲労・頭痛・めまいを訴えている方が、デンマークでも日本でも75%を超えていますね? 角 公表された表を見る限り、有意差のあるデータではありません。 ただ発熱・痛みにに関しては、接種群の方が有意に多いですね。 デンマークと日本のデータを比較しても、症状に一貫性はありません。 原 はい、いいえ、で答えてください。 もういいです(明らかに苛立っている)、次の質問です。 厚労省研究班の岡部(川崎市健康安全研究所所長岡部信彦)らの報告では、、、 GSK弁護士 これは証人が詳細を知らない可能性が高いので、どのような報告か説明を。 角 初めて見ました。 どのようなデータですか? 原 次の質問に移ります。(記入ミスではなく、原告弁護士はしばしば証人の質問を無視して次の質問へ) SLE、全身性エリテマトーデスは症候群ですね? 角 はい。 原 SLEの代表的な症状は、皮膚症状・関節炎・腎障害ですね? 角 はい、それらは他にも関節リウマチなどでも見られます。 原 SLEは自己免疫疾患ですね? 角 はい。 原 自己免疫疾患では自己抗体が見られ、一つの症候群だけではなく、症状に共通性のある症候群が含まれる。 共通の自己抗体がなければ、必ずしも同一で一連の症候群とは診断されるのでしょうか?されないのでしょうか? 角 それぞれの診断基準を確認してください。 抗核抗体や抗DNA抗体なども参考になります。 原 そんな回答を要求するような質問はしていません。 角 私は教えてあげたにすぎません。 原 証人は以前に、HPVワクチン後遺症に関しては多様な病態を寄せ集めたに過ぎない、そう言いましたよね? 角 SLEをそのような疾患に含めるべきではない、そのようには言ったかと。 原 自己免疫性疾患では、共通する症状があるかないかを聞いています。 SLEの話はしていません。 角 いえ、あなたがSLEの話を始めたんですよ。 GSK弁護士 SLEの話は終わったんですか?終わっていないんですか? 原 次の質問です。 シェーグレン症候群では抗SSD抗体が20-30%に見られる。 そうですね? 角 そうです。 原 自己抗体が検出されなくとも、自己免疫疾患であると言えますね? 角 必ずしもそうではありません。 原 未知の自己免疫疾患で、抗体が未発見である疾患もあり得ますね? 角 あり得ます。 原 潰瘍性大腸炎は、近年になっ���自己抗体が発見された。 だから自己免疫疾患と判明した。 そうですね? 角 潰瘍性大腸炎は自己抗体が発見されたが、自己免疫疾患と判明したわけではありません。 GSK弁護士 私が聞いていても、原告代理人が法廷で何を確認したいのかが分かりません。 はっきりお願いします。 原 HANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)は自己免疫性疾患であり、自己抗体が発見されていないだけ、という事です。 次は松平論文です。(静岡てんかん・神経医療センター松平敬史) 12人のHANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)患者では、脳の糖代謝異常と炎症が生じている。 そう記載されていますね? 角 医学的に正しいかは何とも言えませんが、、、 原 分からないなら、答えて頂かなくても結構です。 角 いえ、相関係数などを考慮する必要があるのですが。 まぁ、いいです。 原 もう答えなくてもいいです。 次はPETによるHANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)の診断や、IAPP(免疫吸���療法)の有効性に関しては証人は"不明"と答えていましたね? 角 そうです。 原 では、複数の自己抗体が検出される自己免疫疾患もありますね? 角 はい。 原 以下の先生たちはそれぞれHANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)患者から、異なった自己抗体を検出している点には同意できますか? ・鹿児島大学の高嶋先生(鹿児島大学神経内科教授高嶋博) ・信州大学の池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意) ・高橋先生(静岡てんかん・神経医療センターてんかん科高橋幸利) 角 一人の患者から複数の自己抗体が検出されたわけではない。 従って、HANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)から複数の自己抗体が検出されるかと言えば、それに同意はできません。 原 自己免疫疾患では診断基準のすべてを満たさなければならない、そうですね? 角 違います。 原 高橋論文(静岡てんかん・神経医療センターてんかん科高橋幸利)では、HANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)患者群ではNMDA型グルタミンに関与する抗体が、健常者よりも多く検出されました。 そう記載されています。 それは認めますか? 角 高橋先生の生データを確認すると、NMDA抗体をELISAという手法で検出しています。 しかし、国際的にはELISAでの検出は認められておらず、高橋先生もその点には同意している。 そもそも適していない方法で検査を施行することの問題が、、、 原 そんなことは聞いていません。 質問に答えてください。 記録には、記載はありますか? GSK弁護人 原告代理人は、証人の証言をきちんと聞くべき。 原 いいから質問に答えるべきです。 証人は話が長すぎる。 裁判長 原告代理人は 記載がありますか? という無意味な質問はやめて下さい。 証人は、できるだけ簡潔な回答をお願いします。 原 じゃあもう結構です!(唐突に声を荒らげて) 次の質問です! HANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)患者らへ施行した検査が、保険収載されているかはご存じですか? 角 知りません。 原 HANS(HPVワクチン関連免疫異常症候群)という診断に合理性がないとお考えですか? 角 はい。合理性はありません。 原 免疫学の教科書によると、遺伝や感染や外傷やワクチンでも数年から数十年後に自己免疫疾患を発症する可能性がある、と記載されています。 HPVワクチンで自己免疫疾患を発症するのは、一般的な教科書の知見でも明らかではありませんか? 角 それは古い教科書の記載でしょうかね。 衛生仮説などに基づいているのかもしれません。 結核や寄生虫などによる、成人後のアレルギー性疾患などを念頭��置いているのかもしれません。他にも可能性として、、、 原 もう結構です! 次の質問は、、、 裁判長 原告側代理人は、一部の文書の切り取りではなく、その前後の文脈も説明するように気を付けてください。 原 いえ、証人は関係のない話ばかりをしています。 それが問題です。 GSK弁護人&裁判長 いや証人の発言は、さすがに質問に関係があるでしょう! 原 次の質問です。 GSK弁護士 次の質問に移る前に、、、 原告代理人は都合が悪くなると "次の質問です" と証言を打ち切るのはやめてください。 証人は正しく質問に答えています。 それを妨害しているのは原告代理人です。 原 いや、証人の回答は終わってるでしょ! 裁判長 証人は、回答が終わっているとお考えですか? 角 いえ。 回答としては、今までの医学的な知見からは、ワクチン接種と自己免疫性疾患との関連性はありません。 原 SLE 115例を解析した論文では、症状出現の3年前から自己抗体が出現していたと報告されています。どうお考えですか? 角 それもワクチンとは関係がない。 ここで分子相同性に関する質問があったが、後半へ持ち越し。 ここまでで、全体の半分未満です。 裁判は合計で3時間弱。 日本のマスコミが決して報じないHPVワクチン裁判の実態が、ある程度把握できたのではないかと思います。 後半はさらに見どころがあります。 ぜひ���後まで、お付き合いください。 1時間の休憩後に後半開始。 原 証人が証言すると論点が増える。 とにかく、はい、いいえ、で答えるべき。 それが無理なら端的に。 超過時間に関してはサッカーのロスタイムみたいなものであり、状況によってはノーカウントにしてほしい。 GSK弁護士 専門性が高い領域の裁判なので、はい、いいえ、での回答は困難。 むしろ原告側は都合が悪くなると話を遮る。 ロスタイム制なんてものは不要。 既に原告側の複数の代理人が、裁判の進行を妨げている。 裁判長 こちらの裁量で判断します。 証人が前提などを説明する必要がある場合、一言その旨は伝えてください。 原告側は質問の際に "記載されていますか?" "はい、いいえ、でお答えください" と答弁を行うのは、避けてください。 原(午前中の小柄な女性弁護士から、水口弁護士に交代) 池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)のマウス実験は、実際にはシオザワ先生が行ったことはご存じですか? 角 シオザワ先生ですか?さあ、、、 原 ウェッジという雑誌が関わった、村中璃子氏と池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)の裁判はご存じですか? 角 はい。 原 証人は、youtubeで池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)の研究を捏造と発言したり、村中氏をサポートする旨を述べていますか? 角 たぶん、、、 原 池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)には、研究結果の捏造はなかった。村中氏は名誉棄損を行った。 そうですね? 角 まあ、、 原 HPVワクチン・インフルエンザワクチン・B型肝炎ワクチンの成分をマウスの脳に振りかけて、緑色の変化があるかどうか。 緑色の変化があれば、異常があると判断して良いですか? 角 そうです。 原 証人は、池田先生(信州大学神経内科もと教授池田修一・不適切な研究発表で厚労省と信州大学から厳重注意)のこの報告に対して、信州大学が行った実験では再現性がなかったと述べましたか? 角 はい。 原 信州大学はその原因を、検体の保存が困難、実験でのプロトコルが煩雑、と判断しました。 それでよいですか? 角 よくありません。 検体の保存は簡単であり、プロトコルも単純。 信州大学の判断には同意できません。 原 自己抗体は血液脳関門(BBB)を通過しませんか? 角 しません。 原 一般論としては、通過するともいわれていますがどうですか? 角 しません。 原 自己免疫性の小脳性運動失調症の論文では ①タイトジャンクションの破綻 ②ケモカインや炎症性サイトカインの侵入 によって BBBは破綻することがあるとされています。 これは正しいですか? 角 はい。 原 ではワクチンでも生じるのでは? 角 ワクチンでは生じない。それが一般的な医学的判断。 原 BBBの機能低下は疼痛やサイトカインでも生じる。 つまり一般的にはワクチンでも生じるのでは? 角 一般的には生じない。 原 BBBの知見に関する論文では、インターロイキン6などのサイトカインでもBBBの変動が生じると記載がある。 記載はありますね? 角 記載はあるが、非常に特異な現象であり、一般的には生じない。 GSK弁護士 原告側代理人は、文献を提示する際には前後の文脈を含めて正確に提示してください。 また何度も指摘されているように "記載がありますか?" という質問は止めてください。 原 BBBに関するこの論文での知見を踏まえると、、、 GSK弁護士 この論文は知見としてそもそも確立していない。 それを一般論とするには異議があります。 原 HPVワクチン接種で、BBBが破綻して、様々な症状が生じる。 その可能性は否定はできませんよね? 角 これまでの論文やMRIなどの知見からは、その可能性はあり得ません。 原 もう一度質問します。 HPVワクチンが、医学的に中枢神経の機能を破綻させる可能性はありませんか? 角 ありえません。 世界中でHPVワクチンが多数接種されて... 原(原告弁護士が痩せぎすでメガネの壮年男性へ交代、個人的にはこの裁判で断トツで興味深い人物) ワクチンの学会誌で、HPVワクチンの毒性を訴えた論文が取り下げられたでしょうが! 角 そうです。それは取り下げられた論文ですね。 原 編集長の要請で、取り下げられたんだ! よく読んでください。 角 分かりました。読みます。 原 こちらで読みましょうか? 角 私は老眼ですが、文字は読めますので。 原 メガネを持ってきましょうか? 角 いえ、メガネはありますので。 このレターを読むと、、、 ワクチン誌の編集長には、製薬会社との癒着の可能性がある。 利益相反の為に、HPVワクチンの毒性を指摘する論文が取り下げられたのではないか、と書かれています。 バカげていますね。 原 はぁ!?ちゃんと答えろ!!! GSK弁護士 いくらなんでもこの答弁はおかしい。 質問を明確にしてください。 裁判長 証人は、質問に答えているにすぎません。 証言を続けてください。 角 このレターは論文の不備を指摘された執筆者が、その学会誌の編集長を個人攻撃しているに過ぎない。 論文に不備があって論文撤回を指示されたら、それに従うのが普通。 このようなレターを作成するのは普通ではない。 原 だから!質問に答えろ! 裁判長 角田先生の証言は、妥当だと考えます。 角 サイエンティストとして、おかしいものにはおかしいと言ったまでです。 GSK弁護士 そもそも原告代理人は、何度も何度も証人の発言を遮っている。 法定での行動として、さすがにおかしい。 原 質問しているだけだ! 編集長のホランド博士は、製薬会社と利益相反があるんだ! 角 いや、そうではなくて、、、 GSK弁護士 原告代理人の質問への回答は 答えなし で、よろしいでしょうか? 原 よいです。 でも、百日咳毒素を使ったのが問題だから、この論文が取り下げられたのでしょうか? 角 それも問題の一つです。 原 百日咳毒素が、BBBへダメージを与えて、BBBを開かせると明示されていますね? 角 BBBが開かれた、開かれていない、それぞれを比較していますね。 原 ワクチン自体の使用量が多いのも問題と言いましたね。 角 言いました。 原 実験手順を確認すると、アルミニウム及びHPVワクチンのマウスへの投与量は、ヒトに換算すると特別に多いとは言えないのでは? 角 そうであれば、私の記憶違いかもしれません 原 では次にその取り下げられた論文を見ていきます。 ガーダシルやアジュバントの水酸化アルミニウムや百日咳毒素を比較した論文です。 図1を見てください。 結果に有意差がありますね。 角 図1だけでは判断しない。 図4まで見た上で論文全体を見る。 一貫性があるかを判断する。 原 しかし、図1のP値は0.05以下である。 角 図1から4まで見れば、その結果に一貫性はありません。 原 だから!図1は有意差があるでしょ! はい次の論文。 これも1回は査読を通っている。 しかし学会誌の編集長によって撤回。 この論文は百日咳毒素を用いたことと、HPVワクチンの投与量は問題ないはず。 角 百日咳毒素はヒトには普通は投与しない。 他にも論文撤回の理由は多数ある。 原 動物実験では、ヒトより多めの投与を行うのは一般的でしょう。 角 なので、それだけではない論文撤回の理由があったのだろう。 撤回された論文なので、それ以上の検証は出来ない。 原 ナカシマDrとアラタニDrは、別々の論文で同量のHPVワクチンを使用しているが? 角 それぞれの実験の意図が異なる。 異なる実験を同一視すべきではない。 原 病理学的分析に移ります。 以前証人は、マウス1匹の脳切片の論文で判断すべきではないと証言している。 角 言ったかな、、、 原 しかし証人が指摘した図は、マウス3匹の画像ではないか? 角 確かに、これは論文の文言を読んだだけでは分からない。 健常なマウスをも含めた画像分析だった可能性がある。 改めてみると、やはりこの取り下げられた論文はおかしいとしか言いようがない。 原(また弁護士交代、メガネの中年女性で自己紹介。矢吹弁護士。ここの項目���自分も理解不能なので簡潔に) 分子相同性に関しての質問です。 エピトープ、アミノ酸の最小単位ですが、長さは5-8でよろしいでしょうか? 角 正確には今ここで分からないが、もっと長いのでは? 原 線形エピトープはどうでしょうか? 角 線形エピトープとされているのは、実際には立体エピトープでしょう。 原 次の分子相同性の論文です。 この論文でのB型肝炎ウイルスなどでの全長は? 角 分からない。マウスじゃなくてラビットなので、その長さにコンセンサスはないはず。 原 チロシンからグルタミンまでは6個でよいですか? 角 そうです。 原 6つのアミノ酸を共有していれば、分子相同性からも交差反応は生じ得る。 自己抗体を産生し得る。 それがHPVワクチンと自己のタンパク質で生じ得る。 それでよいですね? 角 そうですね。 ここで2回目の10分間の休憩。 そして再開。 後半へ続く。
Xユーザーのたぬきちさん
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*受験期の頃に書いた日記です
傷 kiss
友人たちが次々と大学に合格していく事実が今もずどんと馬鹿でかい劣等感と化して心臓の上で横たわっている、昨日も同じ夢を見た。不安な気持ちばかりが先走るけれど、かっかしていても何も変わらなかった。他人と比べて自分の優れているところを必死に探していないと自己を保てない自分がほんとうにほんとうに惨めで、マスクが無ければたぶんぼろぼろ泣いてしまっていたと思う。心の底に横たわるみずうみが氷っていくの、口元が覆われているとそれだけで自分が自分じゃない感じがして冷淡になれた。わたしは自らの足音にだけ集中して、ただ早足で行き交う人々のあいだをすり抜ける。ずーっと頭の中を同じ映像が流れるのをむりやり切り落として、でんしゃを滑らせる線路をじっとみつめる。夕陽の光が錆びたその金をうつくしく縁取る様子が痛々しいくらいにまぶしい。受かった瞬間に内職をぱたんと辞める同級生。せーので問題を皆んな一緒に解き始めるとき、隣の子が必死に解答を隠すように背中を丸めて腕を机の上に伸ばす。そういうのばかり見ているとほんとうに、ほんとうに。言葉もでなくなってしまう。なにをそんなに誰かのことを気にするの?と、母の言葉が反芻する。光がまばらに散らばる街並みをみて、光も照ら��ものを選ぶのかしら、とかおもった。まいにちずっと罰を受けているみたいな日々、冬が近づくにつれて正気を失ってゆく街の様子にそれはもう痛いくらい同情してしまうし、ひたつやふたつ良いことがあっても誰かのそれと比べて自ら幸福の値段をどんどんさげてしまう。何も着ないでぶるぶる震えるわたしのからだを愛しているひとが白いバスローブで包みこんでくれたこと、カチカチに凍ってしまったアイスクリーム。減ってゆく数字。つめたいのにあつい、霧のカーテンの向こうに浮かぶ満月。目の前を歩いている女の子が落としたカードのようなものを拾い上げて渡す。舌に吸い付いた生ぬるい塩っぽさを誤魔化すために、瞬きもせずその息を呑んだ。
落ちてゆく流星群
不確かなものに心を揺さぶられながらもそれを掴んで決して離そうとしない自分の必死さに、自分で傷ついている。教科書を開いて新しい知識を得るたびに、脳内にびっしりと張り巡らされた細い糸のようなものがぴんと鋭く光って、しずかに緊張する。その感覚をわたしは思い出そうとすればいつでも思い出せるし、べつに勉強が嫌いなわけじゃない。ただ、生きているなあ、と、胸に広がるあたたかさを抱きながらそっと泣いたりする夜が少なくなった。そもそも生きていながら生きているという実感が欲しい、なんてことを考えている時点で可笑しい話かもしれないけれど。
中学の頃、冬になると毎年マラソン大会が開催された。今日みたいな寒い日にふと当時の怠さを思い出したりする。校庭の砂に石灰で大きく楕円が描かれ、その周りをひたすら走るだけの超つまらないイベント。冬の、鼻先をつんとすり抜けるような寒さと冷たい風の乾いた匂い。忍ばせたカイロと、白く上がる息。
このごろのわたしはちょうどその延長線上を生きているような感じがする。毎日同じ景色の中をぐるぐるとまわり続け、いっそのこと軌道から外れてすべてを諦めてしまいたいと思うけれど、そんな勇気も出ないまま、結局は体力と時間だけをひたすら消耗しながらゴールへ向かって淡々と走ることしか出来ない。気を緩めると涙がぽろぽろ溢れてくる。生きているという事実だけでくるしい。日に日に遠のいていく同級生の背中がいつだって意図せずとも視界に入ってきて、やるせない気持ちになる。地に足付かずでいたい、なんてことを随分と昔に書いたような気がする���とうとうそんなことも言えなくなってしまった。未来のことを考えましょうと言う先生の言葉を聞くたび、わたしは勝手に銃口を突きつけられているような感覚になる。もはや自分が果たしてどこにいるかもわからない。
来月には部活の大会を控えているし、予備校の冬季講習に加えて学校の講座を受けないといけない。三者面談と進路選択。期末試験。呑み込めずに舌の裏で転がるC判定という言葉を噛み砕くのにまだ必死なのに。
やりたいことを一つに絞るということは、それ以外を切り捨てるということ。ここから気になる大学を選んでくださいと、大学の名前と学科の一覧が記載された辞書のように分厚い本が配布された。今のわたしには、その厚さの分だけ未来の選択肢がある。そこに記載されている言葉の数だけ莫大なあたらしい世界が。そこから否が応でもたったひとつのものを掬い上げないといけない、その事実が少しだけ重苦しい。けれどそれに値するほどの価値が、これから先の時代を生きるわたしにあるということが同時にちゃんと嬉しい。
もう秋も終わってしまう。寒いね、寒い、とぽつぽつ浮かんでくる言葉を拾いながら、誰かと手のひらを重ねたい。人と比べてしまう限り、わたしはこれからもずっと孤独をひとりで噛み締めないといけないから。胸をきゅうとさせる寂しさにもそろそろ慣れてしまいそうだから、はやくすべてが終わってほしい。はやく好きなことの勉強だけに追われる生活がしたい。そういう思いでひとつずつ過ぎ去っていく毎日の、行き場のないもどかしさも冬の寒さに凍ってしまえばいいのに。
無題
銭湯に行きたい。受験して、でもいいところにひとつも合格しなかったら巫女のアルバイトでもしながら京都で浪人生活をしたいな、とかんがえていた。ひさしぶりにおふろで哀しい音楽を聴いた。なんでもない日に哀しい歌をきくと、より一層哀しさが加速されるというよりなんだか心が細く研ぎ澄まされていく感じで今までの日々がきゅうっと音をたてる。雑巾をさいごまで力強く捻って絞り出す汚水、長距離走の最後の2分間、なみだが出る前の喉元になにかが込み上がってくる感じ、そういうの。とてもぼろぼろなんだけど、それと同時になにか澄み渡っていくものがある。だれかのがんばりと比べると劣るかもしれないけれど、ようやく夏も終わろうとしていることに救われる。ふつうの日々が、たくさんあつまって束になる。ぺたぺた歩く、濡れた髪にドライヤーをあてると耳の中に残っていた水があったかくなってきもちわるい。わたしは顔が良いわけでも、精一杯の力で努力できる力量もない。かといって特別な才能だって持ち合わせていないし、たまに数え切れないほどきらきらしたものを抱えている人をみると妬みと自分への劣等感で自らを押し潰れてしまう。だれかの人生で自分自身が、自分のうみだしたものが、かけがえのない財産になれるってとてもうつくしくてズルいと思う。今年の夏は滝をみるはずだったけど、それすらまぼろしになっちゃった。ずーっと空白の未来の下準備を重ねているような現実から離れて、すこしはずれた小さな町で虫捕りしたり桃を買って丸噛りしたりしたかった。大学に入ったらどんなひとがわからないけれど、自分がもっているものと同じくらいのものをもっている人がいるのかなと思うとすこし楽しそうかもという気持ちになる。免許を取りたいけれど友だちにありじの運転は危なっかしそうだから乗るのこわい〜と言われた。だれにもわからないことがあっても、言葉にされない何かがあっても、それを価値のないことと結びつけることは暴力じみた愚行かもしれない。自分の中にもまたいろいろな自分が内在していて、自分でも翻弄されてしまうことがあるし、文章を書いていても一貫性がなくて凛としない。英文法の参考書をぱらぱら眺めていたら、into the blue というのがあった。遠いところへ、彼方へ、という意味らしい。あーあ、しんじゃいたいね。
無題
予備校が終わって帰ろうと駅へ着いたけれど、次の電車が10分もあとにくるのでホーム内にある明るい禁煙スペースに入る。寒くなってきたので制服のブレザーを卸した。おおきな硝子に自分の閉じた長い足が映る、ひとが一人ずついなくなっていって、さいごには結局がらんどうの箱のなかでひとりただじっと電車を待つことになった。曖昧な形の◯とか△とか、がさがさ、つやつや、さらさらとか、そういうふうに不確かな輪郭だけ残してことばが次々とその形を変える。一つずつ掴んで物語を紡いで美しく完結させたいのにビー玉とか乱射する光みたいに思い浮かんだことすべてが一種の暴力を伴って脳内を猛スピードで駆け巡る。自分を飼い慣らすことでさえこんなに疲れる、もうだれとも話したくない、と消化しきれない感情がずっと身体の皮膚の内側のいちばん近いところで叫ぶこともできずにちりちりと火花を放っている。ロックとかやさしさとか愛とかそういうのぜんぶ病名みたいなものなのかもしれない。ひとつの感情にもその後ろにはそれをそれたらしめる色〜んな歴史があるし、たぶんこの不甲斐なさもいつかコピーペーストを重ねるうちにすこしずつ美化されてしまうんだろうなと思う。線路にわざと隙間があるのはとりわけ夏あたりに摩擦熱で鉄が溶けてしまわないようにするため、というのを授業できいた。がちがちに隙間のひとつも有さずに固められたものがいちばん揺るぎないもののように思えるけれど、実はちがくてそういうのが最も脆いもの���しい。ともだちにしろ恋人にしろ自分の将来とか自分のアイデンティティも然り、全てに対して揺るぎなさ、安定とか、そういうのをひっきりなしに求めていたけれど、もっと流動体のような観念で受け止めたい。ずっとそこにある月でさえ欠けたり満ちたりするし、花の一つをとってでさえその形や色はすべて毎日かわってゆくけれど、それはそれらが美しくないことの理由付けにはならないし、信用に足らないことの言い訳にもならない。情報として飛び込んでくるいろいろなもの���変に調律したり濃く輪郭をなぞったりするのではなくて、ぜんぶ自分のもっているものの周りに飾っていきたい
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ここのバカどもは、反対する人の意図がまったくわからないのが面白い。私が AI アートに反対するのは、客観的に見て悪いからではなく、AI をガンの治療や火星への移住に使うべきであって、クリエイティブな人たちから仕事や雇用を奪うためではないからだ。この馬鹿げた行為を称賛する人たちは、クリエイティブな人でも才能もなく、アートシーンが AI に乗っ取られても何も失うことはない人たちだ。この人たちは AI の大ファンだが、ニューラル ネットをコーディングしたことも、機械学習の研究をしたこともない。 残念ながら、AIは最も我慢できない人々、つまり自分は非常に頭が良いと思い込んでいるがコーディングクラスをパスできないような偽善者を多く引きつけます…私は機械学習を研究しているコンピューターサイエンスの大学院生としてこう言います。
バークリーの教授は、スノは生徒の 80% よりも音楽的に優れていると語る : r/singularity
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高取山近辺 断片的な記憶
思ったより移動に時間がかかり、駐車場についたのが12時。これから登るのはスタートが遅い。でも仕方がない。 準備を簡単にする。何年か前に買ったポストペットの日焼け止めをやっと使い切る。登山に際して少しでも軽くしようとビニールのパッケージを外し、SPF情報は手で書き直したもので少し思い入れがある。塗った後にタイヤの下に入れるように日焼け止めを置いた。
下っていくとハイキング帰りの人が見える。こんな時間に駐車場から登山装備で出てきた私のことをどういう目で見るのか。気にしても仕方がない。目を合わさずにすれ違う。
今日は携帯のアプリで見るオフライン地図がない。最近のYAMAPは地図のダウンロード制限が厳しく、無料会員ではここぞというときにしか地図が使えない。 しかし、低山でGPSに頼っていては仕方がない。これは訓練だ。
道祖神で分岐する。地元の老人会が作ったという手書きの地図を念のため写真に収めておく。 舗装された道を登るが、ときどき蜘蛛の糸の感触を顔や手に感じる。これが残っているということはあまり登山者がいないのかもしれない。1m程度のヘビが自分の前をゆっくり横切るのを待つ。
聖峰にはすぐ着いた。四人組のパーティが二つのテーブルを使っていた。一人がタバコを吸っていて、ライターを落としたので拾って渡した。右の二の腕に大きな蜘蛛の巣のタトゥーが入っていた。
何人かの左手の薬指に指��をしているのが見える。自分が育った家では誰も指輪をつけていなかった。
四人組が去り、私が単眼鏡でスカイツリーを探していると上の方から中高年の二人組が下ってきた。一人はゲイターを足に巻き、もう一人は長ズボンの裾を靴下に入れていた。明らかにヒル対策と思われるため、ヒルが出るのか聞いた。道は選ぶと思うが、それなりに出るらしい。塩を持参しているから大丈夫だ、と答えた。
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二匹の蝶々が飛んでいる。お互いを追いかけるようにくるくると回転している。 どちらかが求愛していて、それをかわそうともう一匹が逃げているようにも見える。 蝶々がムードをどのようにとらえているかはわからないが、そんなことに時間とエネルギーをつかわずにさっさと交尾すればよいのにと思った。 けれどその直後に自分の考えが甘いことを恥じた。おそらく、愛を証明しろということなのだ。さっさと逃げられて、それで諦めるような相手であれば、そこまでだったということだ。時間とエネルギーを愛の証明に使わずして、一体何に使うというのか?
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梅の風味ののど飴を口に入れる。最適な登山ペースというのはギリギリ口の呼吸をしない程度であると前本で読んだ。 飴をなめている間は口で呼吸することが難しいのでペース管理に役立つ。 放っておくとすぐにペースがあがり、結果バテることになる。自分のことは自分が一番知らない。
高取山山頂はすぐだった。木の間から少しだけ大山方向が見える。大山の中腹に雲がかかっている。ほのぼのとした絵本のような山。先ほどの四人組とまた会った。会うのが二回目になると��拶をするのは野暮だ。疲れていないので休まずそのまま大山方面の尾根を進む。 ちょっとだけ歩くと林道に出るはずで、今日はそこまでは見ておきたかった。いつかこの林道から大山に上ることができれば、自分の歩いた道筋で大山山頂までをつなぐことができる。
ゆるやかな下りの途中、草むらにタヌキがいた。こちらに気づくと逃げた。逃げる速度はシカや猿よりも遅かった。本気で走れば追いつくだろう、という速度。 小熊だったらどうしようか、親が来てもどうすることもできないが、ちょっとだけ気を張った。そのあとすれ違った人には「クマに襲われたらすみません」と心の中で謝った。
山ではすれ違う人には挨拶をすることが一般的だ。ただ、すべてのひとが挨拶を徹底しているわけではない。挨拶されたら返す、というスタンスの人も一定いる。 相手が挨拶を返すことができない、すれ違うギリギリで声をかけることを置き挨拶と心の中で呼んでいる。
目的の不動越までついたので引き返す。
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今日はコミティアがあった。私にはコミティアで買いたい本があったが、行くつもりはなかった。大学のころはサークルで同人誌を作り、発布したことがあった。私はいま本や漫画を描いたりしていない。 せめてと思い久しぶりに日記を書こうとこの時に決めた。
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また高取山に戻ってきた。ここからは一旦南に向かって下る。 緩やかで走りやすい道なので軽く走りながら下山する。5分ほど下りて、妙に日差しが明るくなって町に近づいていることに違和感を覚える。秦野の街が見える。方向が違う。 地図アプリで現在地を見る。尾根を間違えて真西に下りていた。 このまま下りても駐車場にはたどり着くことができない。 仕方なく来た道を引き返すことにした。走って下りた道を登り返すのは本当に馬鹿らしい。軽快に下りたことを心底後悔する。 自分の信じる宗教によっては、これは神が与えた試練であると考えることもできるだろう。 それについて私は、自分の都合のために神を利用するということだろうかと考えた。これも機会と考え、単にトレーニングとして活用すればよい。 いや、起きた事象を自分の何らかに利用するという考えが愚かであると感じた。 「せずにすめばよいのですが」。これは筆耕人バートルビーの象徴的なセリフだ。 全てのこと、すべての選択に対して、イエスでもノーでもなく、オルタナティブな態度を貫く。それこそ私たちがなすべきことではないか。バートルビーであれば今どう考えるか?そのように利用されることも快く思わないだろう。思い上がりなのだ。 院生の時に私にバートルビーを教えてくれたあの人は、今も神戸にいるのだろうか。
空の色が反射して枯れ葉が青く光る。ラジオで聞いた「煩悩即菩提」という言葉を思い出す。 煩悩があっても悟りに至ることができる。むしろ、煩悩がなければ悟りに至ることはできない、という説明だった。 煩悩を知ってこそ、煩悩の輪郭を知ることができ、そこから脱することができる、と解釈はできる。しかし、これは慈悲の言葉にも見える。煩悩があろうが正しく生きることが大事なのだ、まだ引き返せる、がんばれ、みたいな。 それはどうなんだろうか。煩悩を知らずとも悟りに至ることは理論上可能だろう。 煩悩を利用して悟りに至る。すべてのものを利用するという態度が気に食わない。 理由はなく、すべてのものがそこにある。ただ一切は過ぎていきます。
また、高取山の頂上に着く。居た人と会話する。私の経路のことを話すが、全然話が通じない。高取山に一度ついてから別の尾根を2回下りて登って、という人は少ないはずだし、意味が分からない。 親切なことに「昼下りのジョニー」という名前のヒル避けスプレーを貸していただけた。靴にかけるのが下手くそで無駄に何度も使ってしまい、心から申し訳なく思った。
ここからはそのまま帰っても面白くないので正しく南下して弘法山方面に向かうことにした。 17時に駐車場が閉められるが、まだ余裕はあるはずだ。
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行きの車では「サカナクション山口一郎のナイトフィッシングRadio」の録音を聞いた。 ジッタリン・ジンの特集で、ドライで明るい感じが心地よかった。 「君がいた夏はとおい夢の中 空に消えてった打ち上げ花火」。 そんなことがあったか?と自分の昔を思い出す。
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ざっくりした緩やかな下りで、スピードを上げやすい。 多少衝撃があったほうが骨にも良いだろうと雑に駆け下りていく。
昨日の夜、若干寒気を感じた。風邪を恐れているので葛根湯を飲み、肌着を��枚増やし、ズボンの上にさらにズボンを履いて寝た。 朝は特に風邪っぽさはなかった。でも不安はあった。 登山することで自分が風邪でないことが逆説的に証明できると考え、そのために今自分が山にいる。そんなストーリーを一瞬、後付けで理由として考えた。
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亡くなった犬のことを思い出す。 僕らには忘れないことぐらいしかできない。
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ちょっときつい急登を登る。木の根を探してそこを頼りに登っていく。 頂上からは東に下りることができるが、南下して弘法山方面に向かう。
大昔、山を切り開いて作った切通しのあとがある。 その道端に頭が石で置き換えられた地蔵が二体いる。
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来る途中、後ろの車が前方のGEOに入店するために一時的に対向車線に入り、右折して駐車場に入るところを見た。その際、右折のタイミングを間違えたのかサイドスカートを縁石にぶつけ、周囲に大きな音を立てていた。縁石にはこすったパーツの跡が見えた。
森を一人で歩いているとこういう、よくわからない事を何度も思い出す。 登山の良さは何なのか。圏外になって誰とも繋がれない時に自分の暮らし、過去、将来などから距離をとって考えることができるのが魅力だと思う。それができれば頂上は必要ない。
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あなたが私の本をわざと返していないことを知っている。
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すでに16時が近く、時間的な余裕、体力的な余裕、足が壊れないことの保証(最近アキレス腱の調子が若干よくない)もないので、弘法山までは行かずに、246のトンネルの上付近で東に下ることにした。 吾妻山の頂上でミックスナッツと水分を補給した。見晴らしはいいが、標高が低く建物が縦方向に圧縮されてあまり見栄えが良くない。
勢いで下山する。だがこれで終わりではない。駐車場まで戻るのだ。駐車場まではあと2kmある。しかも登りだ。 公共交通機関の登山と自家用車の登山は訳が違う。何があっても必ず車に戻るのだ。行きて帰りし物語なのだ。
施錠30分前に駐車場についた。学生が一人、吹奏楽の練習をしていた。 混んでないはずなのになぜ私の車の横に車が止まっているのか、気にはなったがタイヤの下の空になった日焼け止めを回収して、靴を履き替え、服を着替え、ドライブスルーができる店を手早く探し、車に乗って帰った。
2025-06-01
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1988年のこと、私はサンタモニカの専門研究所のコンサルとして働いていた。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の分析ルーチンをセットアップしていた。私は、核酸に関するものであれば、何でも分析ルーチンのセットアップについては多くを知っていた。私がポリメラーゼ連鎖反応を発明したからだ。だから彼らは私を雇ったのだ。
その一方で、後天性免疫不全症候群(AIDS)は、何かしら私の良く知らないことだった。だから、私はこのプロジェクトの進捗とゴールの報告書を書こうとしたときに気づいたのだ、私が書こうとする宣言を裏付ける科学リファレンスの無いことに。つまり「HIVがエイズの原因としてありそうだ」と。
私は隣の机のウイルス学者に聞いてみた。彼は必要無いというのだ。同意できない。特定の科学的発見やテクニックがあまりに確立されていて、そのソースがもはや現代の文献では参照されていないことは本当だ。しかし、HIV/エイズのケースについては、そうではないように思える。私にとってこれは本当に驚きだったが、致死的で治療法の無い病気の原因を発見した者が、科学論文で継続的に参照されないなどということがだ。その治療がされ、忘れられる以前にだ。しかし、すぐに私はわかった、確実にノーベル賞ものだろうが、その者の名前を誰も思い出せないのだ。
もちろん、この単純なリファレンスは、どこかにあっただろう。でなければ、数万の公務員と多くの尊敬される科学者が、25歳から40歳の間の多数の同性愛者や静脈内薬物使用男性の悲劇的な死を、一つの狭い調査チャンネルで研究し解決しようとしても、許されなかっただろう。他すべての池が空と立証されるまでは、全員が同じ池で釣りなどしない。公開論文がなければならない。あるいは、いくつかが共に示すことだ、HIVがエイズの原因としてありそうだと。なければならないのだ。
私はコンピュータ検索を行ったが、何も出てこない。もちろん、コンピュータ検索では重要なものを見逃してしまうことがある、単に正しいキーワードを入れなかっただけでだ。科学的問題について確実にするには、他の科学者に聞くのがベストだ。それが理由で、ナイスなビーチ付きの遠い場所で科学カンファレンスが開かれるのだ。
私は、仕事として多くの会合やカンファレンスに行ってきた。エイズについて話す者があれば誰でもアプローチする習慣だった。そして彼あるいは彼女に聞くのだ。私の「HIVがエイズの原因でありそうだ」という、ますます問題になっている宣言について何をリファレンスとすれば良いのかと。
二年間にわたる10か15の会合の後、私は極めて怒っていた。誰もリファレンスを示せなかったからだ。心に形成されつつある醜い結論を、私は気に入らなかった。21世���の黒死病と見なされるようになった病気に対するキャンペーン全体が、その起源を誰も思い出せない仮説に基づいているのだ。これは科学にも常識にも反している。
最終的に、HIVとエイズ研究の巨人に質問する機会に恵まれた。パスツール研究所のドクター・リュック・モンタニエである。彼がサンディエゴにスピーチに来たときだ。これは最後のチャンスだろう、怒りを見せずに私の小さな質問を聞くことができるだろう。そして、モンタニエは答えを知っているだろうと考えた。
見下すような困惑を見せながらモンタニエは言った、「疾病対策センター(CDC)のレポートを引用したらどうでしょう?」
私は言った。「それはHIVがエイズの原因としてありそうかという問題に取り組んだものではありませんよ。そうじゃないですか?」
「違いますよね」と彼は認めた。疑いなく、私が行ってしまわないかと思っている。彼は、周囲の小さな人の輪を助けを求めるように見た。しかし彼らはより確実な答えを待っていた、私と同じく。
「では、SIV(サル免疫不全ウイルス)の仕事を引用したら」と良いドクターが提示した。
「それも読みました、ドクター・モンタニエ」と応答した。「この猿に起こったことはエイズとは似てもいません。それに、その論文は二ヶ月前に出たばかりですよ。私が探してるのはオリジナルの論文です。HIVがエイズを起こすと、誰かが示したものです」。
ドクター・モンタニエの応答としては、素早く立ち去り、部屋中の知り合いに挨拶してまわることだった。
(その事件の後の)数年前の私の車の中にシーンを移そう。私はメンドシノからサンディエゴにドライブしていた。他の者と同じように、私は欲した以上に多くエイズについて知ることになっていた。しかし、未だに知らないのだ、その原因がHIVであることを誰が結論づけたのか。サンバーナーディーノ山に近づくにつれ、私は眠くなってきた。ラジオを付け、エイズについてしゃべってる男を聞いてみた。彼の名はピーター・デュースバーグだった。バークレーの有名なウイルス学者である。彼のことは聞いたことがあったが、論文も読んでないし、講演も聞いたことがなかった。しかし聞いてみたら、ギンギンに目が覚めた。彼が正確に説明していたのだ、HIVとエイズの関係についてのリファレンスを見つけるのに、なぜ私がこれほど手こずったのか、その理由を。何も無かったのだ。いまだかつて、HIVがエイズを起こすことを証明した者はいない。私は家に着き、米国化学学会の会合で彼の考えを話してくれるよう、デュースバーグをサンディエゴに招いた。最初はほとんど疑っていたのだが、視聴者はそのレクチャーにとどまっていた。そして二時間の質疑応答があり、部屋の時間になるまで個別に話し続けていた。全員が持ち込んだ疑問よりも多くの疑問を残していた。
私はピーター・デュースバーグが好きだし、尊敬している。彼が必ずしもエイズの原因を知っているとは思わない。それについては不同意だ。しかし、我々は共に、何がエイズの原因で無いかは確信している。
HIVと呼ばれるウイルスがエイズという病気を引き起こすなどと、一体全体なぜほとんどの人々が信じているのか、何の理由も我々は発見できなかった。単純にこれが真実であることを示す何の科学的証拠も無いのである。
それとまた発見できなかったことは、なぜ医師がAZT(Zidovudine)という毒性の薬を人々に投与するかだ。彼らはその血液中にHIVに対する抗体が存在するという以外は何の症状も無いのである。実際のところ、我々には理解できない、いかなる理由であろうが、なぜ人間がそんな薬を接種するかを。
我々には理解できない、これらすべての狂気がどうして生まれたのか、そして両者ともバークレーに住み、我々は本当に奇妙ないくつかの事柄を見てきた。我々は過ちを犯すのが人間であることは知っている。しかし、HIV/エイズ仮説は最悪の間違いである。
私はこれを警告として強く言いたい。デュースバーグはこのことを長く言ってきた。この本を読むのだ。
キャリー・B・マリス
1993年ノーベル化学賞受賞者
キャリー・マリス:Inventing The AIDS Virus序文 | 字幕大王
我々は馬鹿であることが期待される
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104 :名無しさん名無しさん:2009/11/19(木) 14:57:38 よう、ニートども! 元気か。 今日はオレ様がお前ら腐れ豚でもアニメーターになれる方法を教えてやる。 まずは鉛筆を用意しろ。 鉛筆が無いやつは画材屋か文具店かホームセンターかスーパーで買ってこい。 ネット通販は駄目だ。 今すぐ買え。 Bを買え。 鉛筆削りが無い馬鹿はそれも買っておけ。 消しゴムは買うな。 必要ない。 紙はA4のコピー用紙だ。 これも手元に無い奴は今すぐ買いに行け。 用意ができたら描け。 とりあえず何でもいいから20枚描け。 すると手が慣れてくる。 緊張もほぐれる。 ウォーミングアップは終わりだ。 次に模写をやってもらう。 『電脳コイル ビジュアルコレクション』の模写だ。 他の本では駄目だ。全く駄目だ。 この素晴らしい原画集を表紙から強制的に順番に模写して行け。 消しゴムは使うな。 失敗した線を残したまま描き進めろ。 A4の紙を動画用紙だと思って適切な絵のサイズで仕上げろ。 決して小さな絵を描いては駄目だ。 鉛筆で線を引くときにも指を動かしてばっかりいては駄目だ。 肩を動かして描け。 全身で描くんだ。 この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる。 間違いない。 この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる、というのは嘘だ。 だがこのプロセスは必要だ。 まずは理屈ではなく経験によって体で覚えるんだ。 理屈はその後でいい。 さて、理屈だが、『アニメーターズ・サバイバルキット』を 注文して買ってもらう。 その他の本は一切読まなくていい。 『ディズニーアニメーション 生命を吹���込む魔法 ― The Illusion of Life ―』 も良書だが、 読むのに時間がかかりすぎるし、アマゾンでは現在在庫切れだ。 『アニメーターズ・サバイバルキット』は2~3日あれば読める。 よく分からない所があっても、とりあえず通読しろ。 読み終わった頃には、最初の方の内容は忘れているだろうから、 もう一度読み直せ。 ただし今度は模写をしながら読め。 全ページ分の模写だ。 これは絵柄が簡単だからかなり楽しい作業だ。 この再読&模写の作業が終了する頃にはありえないほどの自身が付く。 騙されたと思ってやってみろ。 ポイントは、教科書は『アニメーターズ・サバイバルキット』のみに 絞るということだ。 多少の違和感もあるだろうが、 とにかくこのアメリカ式の作画理論を身に付けろ。 勉強はまだまだ続くが、順番は守れ。 そうすればお前もアニメーターになれる。 上に挙げた2冊の模写が終わったら、『アニメーションの本』を注文しろ。 この本には、近藤善文が作った練習課題が載っているから、それをやれ。 2冊分の模写を終えた奴なら必ずできる課題だ。 だが、何の勉強もしていなくても、 いきなりこの課題を器用にこなす奴もいる。 そういう天才もいるが気にするな。 天才じゃなくてもアニメーターにはなれる。 この本はプロになったら必ず使う本だから必ず買え。 必ずだ。 巻末にある動きの実例集が役に立つ。 値段も安い。 動きの基礎が分かってきたら、今度は絵の練習をしてもらう。 絵は上手ければ上手いほどいい。 練習をしすぎるということはない。 その練習だが、まず人物画からやってもらう。 教科書は『やさしい人物画』だ。 たぶん、これはもう持っているだろう。 持っていない馬鹿は、大き目の書店で買うか、注文しろ。 だが、持っていても、 全ページ分の模写をやった奴はそんなにいないだろう。 やれ。 終わったら、人物画の練習はとりあえずやめておけ。 ここで色々な本に手を出して、 人物画ばかりやっていてもあまり意味がない。 次は動物画の練習だ。 教科書は、『動物画の描き方』だ。 この本を模写すると、 “あ、人間と~、動物って~、同じ~じゃん~”ということが分かるはずだ。 そのことが分かったら、人物画の練習を再開してもらう。 パースの込み入った勉強は、まだ必要ない。 今のところは『やさしい人物画』で学べる内容で十分だ。 あせってマグの本に手を出すな。
アニメーターになりたいという人集まれ - 絵が上手くなりたいお
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大学入ってから一番考え事してた1日の舞
どうも、後輩が入ってくることが信じられず体験稽古全ブッチしたい気分のてにです。まあそもそも水金バイトで月曜は5限があるのでフルで行ける日が存在しないのですが...いやでも���験稽古で話した先輩の存在ってデカいんだよな〜ってことで授業終わったら速攻向かいます。さて、役者紹介を書きたいんですが白湯ってことで人数多いのでちょっとサボってふざけます。ところどころ情緒不安定ですがお気になさらず
ホット
箏
初演出お疲れ様!突然やったことない事が降ってきて困ってたのをよく覚えてます。でも稽古頑張ってダメ出してて最後までやりきって。ホントすごいなって。また演出見てみたいな。オムニとか?いや早すぎ出木杉杉鱸〜〜〜
錫蘭リーフ
新人とは一転してシリアスなキャラになりましたね〜。いつかセイロンがカフェで働いてる姿見たいな〜なんて。実は大道具班に入ったこと無いのは内緒
園堂香莉
我らが照明スパチ。これからも照明班を繁栄させていきましょう!なぽりさんは毎回思いますが声が通るな〜と。舞台上で聞きやすいなんですよね。お勧めのたい焼き屋さん教えてください
海月
ちゃうかではちょっと強気というかなんというかな役が多い気がする。気のせいかな。また演出してほしいですね。照明班、永遠に
森々仙入
36期男子の良心。コイツを貶したら誰が生き残るんだって思うぐらい偉大な兄貴。ラムダは頑張ってはぜにヘアアレンジしてもらいなさい!
黒井白子
白子さんと共演するのは初めてですね。本当に演劇好きなんだなあっていうのが伝わってきて僕も負けじと頑張ろうって思わせてくれました
和來
いや、ほんと申し訳ない...梅田とかに衣装探しに行けば良かったのに僕の体力が無いばっかりに...ふっふっふを魔王っぽく言って欲しかったな〜
粕味
言わずもがな。僕と同じく公演ごとに髪弄られる枠となるんだ。僕らの力じゃメイク案は変えられぬのだから。
叶イブ
我が照明班の同志、スミに忠誠を誓う者。あなたはクラッシャーの一人ですね。何のとは言いませんが...今後被害者の会を設立します。稽古初期と比べて名取だいぶマイルドになって安心しました
水原一PAY
僕の思う平和はただの仮初だったと気づかせた大罪人。こちらもふぃあ同様被害者の会を設立します。ゴマすりはもっと擦るんだ、甘えよぉおおお!
暁レミエル
当パンの存在忘れててスミません...せっかく1週間前に教えてくれたのに締め切り遅れるし...宣美ってそんなもんか!なわけあるかい。
アイス
海泥波波美
外公に続き2回目の演出。僕が好きなコテコテ演出が作り上げられていくのが大好きです。稽古してて本当に楽しかったです。あと1回だけでも演出してくれることを祈って。
縦縞コリー
こりさん主人公じゃああああああん。何気に僕がちゃうかに入ってから一度も主人公の姿見てない気がしますね。待ち望んでましたよ!!
あろハム権左衛門
あろーさんの前で吹田を馬鹿にしたら抹消されちゃう...助けて、エピえも〜ん!また秋公のおふざけ3人組見せてください。あれのおかげで地面師見たくなりました。マダミテナイケド
西峰ケイ
おふざけ役も良いですがシリアスも似合いますよね!今回の公演では「こっちもこっちで大変なんだ」のセリフが好きです。水族館のシーンも良かったな〜。おいしそ~
衿君
今回は筋肉担当じゃなくて残念です...もう一度あの上腕二頭筋が見たかった...でもエリックさんのセンター分けが見れて満足です。またがっころの時みたいに共演したいな
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エピさあああああああん いや、ほんとね、その ぐすっ、八つ当たりしたい気分です。ってのは冗談で(ホントかな?)これまで一体何回共演してきたと思います?オムニのころからずっと舞台で会話してる気がしますね。エピさんがいる時の安心感ハンパないって!!あ、でもアイスの1ステで笑わせてきたので許しません。なんかいつもよりも面白かった。秋公何が何でも出て欲しいな...
こけまる
僕は見てしまった、新歓期間でボールペンを持っていないこけさんを...あれは、誰だ...?とりサーのシーンのテンポ好きだな〜。ボケってやっぱりハイテンポでこそだなと思いました
白
君も来てしまったか、はぜサロンに。もうバチバチに決まってイキった大学生になっちまったな...僕と一緒にヘアアレンジ練習していこうぜ!
紅みそか
新歓期間で一体何度偽みそかさんに会ったことか...「は〜い」が聞こえてくる...もう本物が分かんなくなってきました。「あぁダメだ最後の一言が不謹慎すぎて全部吹っ飛んだわ」が笑いを誘う言い方で良いな〜
ミル鍋
暴走してましたね〜。でもそれでこそゆにさんだなと。特に何か?みたいなあの顔が迫真でいいないいな、ゆ〜にさんっていいなでしたね。何でも笑って許してくれる姉貴です。
埖麦
現状僕の気持ちを共有できる理解者。むぎなら俺の気持ちが分かるよな!つらいッピね〜。暴走するゆにさんをよく止めた!いや、止められたか...?楽ステは止められると信じて
白湯
鞠凸二郎
毎度毎度髪セットしてもらってもう...ほんと頭が上がりません...また変な役になっちゃって...もう普通の役には満足できない体になっちゃったか...
中森ダリア
gal ちょっとひらりさんあまりにもチンピラだったな〜。小物感というかなんというか。舞台で笑いそうになって最高でした!「ここに居座らせてもらうからなー」がイチオシ
雨々単元気
僕 祝、ジョジョ7部アニメ化決定!俺は照り焼きチキンなんだああああああ(元ネタ : 俺はアポロ11号何だあああああ)いやそれ6部やないかい
東愛莉
もしかして今まで共演したこと箸1膳だけでは?と今気づいてしまった。あれは共演...?ん〜怪しい。白湯で舞台上でも一緒にいることが多いからかなり仲良くなれた希ガス。舞台上で結構しょうもないこと言い合ってましたね〜。
帝京魂
今回の公演で一番仲良くなれた先輩じゃないかな〜と。秋公で座組も違ったし今まではあんまり機会がなかったけどオムニ同じがっころですよ!?大体たい焼き行っちゃってましたけど...こんさんってダメが的確で好きなんですよね。どう直せばいいのかセットで言ってくれて改善しやすいというか。ちなみに僕の推しは褒められるのを待ってる時のこんさんです。
新歓が終わったらしばらく灰になります。優しくしてね... 灰って何だ...? 人間ってね、一人で考え込んでも何も生まれないし解決しないんだよ(キリッ) 何事も他人に頼ることさ ってなわけねええだろおおおお
(ドガッ、ガクンッ)
僕に合う服を一緒に買いに行ってくれる人募集中だよ〜、ファッション楽しもうね。 そこ!どうせまた買わないんだろとか言わない!
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『ボールパークでつかまえて!』1話
ZOZOマリンスタジアムビールのチョロギャル売り子アニメ。常連になる会社員や迷子対応のベテラン警備員と新人バイトのいい話。売り子中心にいろんな人とのからみなのかしらね。野球場はあんまり行ったことないけど、やきう中継よく見るし、視聴決定。
『ある魔女が死ぬまで』1話
17歳誕生日に師匠から余命1年を宣告された魔女見習いメグちゃん。運命を変えるには1年以内に嬉し涙を1000粒集める必要が。毎回ちょっといい話で涙集めてく今期の魔女っ子もの。絵柄はかわいい。視聴決定。
問題はこの2つは来週からワンオペ育児ガンダムとかぶることね…。
『履いてください、鷹峰さん』1話
学園一の優秀生徒会長鷹峰さんは下着を脱ぐと時間を巻き戻す能力で不都合なことをなかったことにしていた。それを体育倉庫で見てしまった主人公は、「わたしのクローゼットになりなさい」と下着鞄にされる。設定の馬鹿さ加減はウけるけど、いかんせんエロ系なのであたし向きではないわね…。1話切り
『ユア・フ��ルマ』1話
電策女捜査官と助手の人型ロボットイケメン男のバディ捜査ものSF。特殊な型である助手が容疑者にされ警察と対立。人間も記憶や感情が全部チップに保管されてる世界。つかみはまあまあ、次も見るかしらね。
『最強の王様、二度目の人生は何をする?』1話
現代兵器が空を舞う世界ので剣で王になったけどなぜか死んで魔法のある世界の若夫婦の赤ちゃんに転生。前世の王の記憶あるまま、魔法世界の知識を吸収して3歳で家をふっとばす。よくあるテンプレっぽく感じるけど一応2話は見るつもり。
『ゆるかわメルちゃん』1話
リカちゃん人形みたいな人形側の5分アニメ。特に何もないから1話切り。
『未ル わたしのみらい』1話
農業機械メーカーヤンマーが作ったロボアニメ。1話はプラネテスオマージュ的なスペースデブリ回収業。機械とAIの世界における人間とは、みたいな?1話完結でいろんな世界のオムニバス形式っぽいわね?視聴決定
『一瞬で治療していたのに役立たずと追放された天才治癒師闇ヒーラーとして楽しく生きる』1話
楽しく=ハーレム。無免許闇医者的な主人公の周りは、金髪ツインテ幼女エルフが世話係、常連客の3バカ露出多め衆、和風幽霊で最初から5人ハーレム。
貴族に虐げられてた亜人奴隷ちゃん助ける1話も、要員追加じゃなく別れる。テンポも設定も微妙。1話切り
『ロックは淑女の嗜みでして』1話
今期期待のバンド枠。開幕金髪ドリルツインテお嬢様鈴ノ宮さんの3人分の幅を取るツインテがいいわね。超お嬢様学校で学園を代表するお嬢様黒鉄さんのピックを拾ってストーキングして旧校舎音楽室でドラムとギター対決セッションまで。CG演奏シーンぬるぬる作画もよかったし、演奏もBAND-MAIDでロック。女王タイプに変貌煽りドラム黒鉄さんや、煽り耐性なし超絶ギター鈴ノ宮さんも、お嬢様学園シーンとのギャップがいい感じ。「そんなギターやめちまえ!!ごきげんよう♡」視聴決定!
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絶縁
今日は眠れそうにないから、絶縁状態になった友人の話を長々とさせてほしい。
友人とは、中学時代に出会った。
入学初日からぐいぐい来るやつで私はそのようなタイプの人間が苦手だから約1ヶ月間その友人から逃げていた。
けど、友人は私に逃げられている間、私のありとあらゆることを周りから情報収集していた。私はさすがにこれはもう逃げられない(半ば恐怖心)と思い、観念したのだ。
それからは距離が縮まるのが早かったと思う。当時の私たちは反抗期に入りたてで何もかもがダルかった。
本当に何もかも。
なかでも印象的な出来事だったのは、中2のとき授業を抜け出して外階段でだらだらと喋ったこと。あとは、当時私はある一定の女子に妬まれていたので男子と関わると有る事無い事言われまくってた。
こういったことで心折れたり、縮こまったりするタイプではなく、逆に売られた喧嘩は買うタイプなので目の前で悪口を言われたらそいつを捕まえて
「せめてあたしの目を見て言えや」
と言ってた。それを間近で見てた友人は
「やっぱ◯◯(私の名前)最高ーー!ふぉー!」
などと叫ぶような人間である。さすがに人生のハイライトすぎて鮮明に覚えている。
中学時代に一緒に悪さもしたことで悪友にもなった私たちは居心地のよさを互いに感じていた。性格の根っこは似ているけど、趣味とか力を注ぎたいものは違っていたからわりと別行動もあったと思う。でも、幸いにも3年間クラスが一緒だったからだいたいのことは一緒にやってきたし、お互いのことを見てきた。
友人はとても負けず嫌いだったから、テストはガチ勢だったしいわゆる優等生コースを歩いていた。本人はそこから外れようと必死だった。今思うとそれも思春期だったのではと思う。
私はというと、負けず嫌いとは縁遠い人間でテスト勉強をする場合は前日にするタイプ。何事も及第点が取れたらあとは手を抜く。出来ないもんは出来ないで終わらせる。(なんか書いてて自己嫌悪に陥りそう笑)とにかく、こんな感じで過ごしてたもんだから二者面談で詰められるのが毎回のオチ。
高校は別々の高校に進学した。思い返すと、あの時から歯車が狂い出したように感じる。友人は、会おう会おうとLINEをくれるけど予定を立て始めるのは私だった。あまりにもうんざりして
「人任せにするのどうにかしなよ。いつか周りにいる友達が気づいたらいなくなっちゃうからね。」
と、親しい仲だからこそ言えた。それからは改善されたように思う。
さて、大学進学です。友人のスケジュールの緩さに拍車がかかりました。相変わらず、大学の中枢に位置するサークルに入ってたから忙しいわけですよ。承知承知と頭に言い聞かせながらも、許せないラインが私にもあるわけ。そのときは電話越しに怒った。
これもまた、関係がきちんとしているから出来たことなんだよね。
どうやらかなり反省していたようで、意思表示をきちんとするようになった。なったというか、戻った?いやいや、これ��正常だと私は思うんだけど。
はい、次は就職です。友人は昼夜逆転がざらにある業界に身を置いたので会うことがそもそも難しくなった。その次はLINEの返信が滞る事案が発生するんですね。仕方ないことです。社会人になるということは、こういうこともある。その繰り返しでだんだんと私も諦めが(会えない。あるいは、予定を立てるのが必ず私。)出てくるからLINEするのがめっきり減った。
ある時、会えない?ときたのでこれは何かあったな。と長年の付き合いでピンときた。友人の職場近くまで行って会って、話を聞いた。十分な時間を過ごせたと思う。うん、あそこまではまだ良かった。
急だけど、友人Bを登場させます。友人+友人B+私で会うことが中学時代からあった。友人Bは遠い県で働いているからそもそも会うことが難しい。だから会うとなったら綿密な計画を立てなきゃならん。それはいい。会えることはいいことだから。
さぁさぁ、長らくお待たせしました。絶縁に至る原因までやっと辿り着いた。
去年のお盆期間に会おうとLINEが送られてきたので、私はめちゃくちゃ忙しい期間だったけど予定をこじ空けて返信した。が、返信は返ってこなかった。それは今も。
昔から会おう会おう詐欺の常習犯2人。だからこそ、2人に対しては特別その辺の懐は深く持ってた。これは私が持ちたくて持ったものだから、2人は悪くない。そして今までは2人に怒ってきたけど、さすがに今回ばかりは呆れた。意味がわかんなかった。
私の12ヶ月は8月の3週間と9〜11月までが特に忙しい。それは2人は知っていることで、そんな中私は予定を空けた。確保した。それを2人は呆気なく潰した。まじでありえないと思った。今も思ってる。
人間としてどうかしてるし、あいつらこんなことしてるのにほんとに仕事できてんの?まで思った。
昔から2人はスケジュールを立てることに関してズボラで、それが行き過ぎた時は注意してきた。でももういいかなって思った。だって私たちもういい大人じゃん。昔からの友達って数えるくらいになるから大切にしなさいという母の教えのもと大切にしてきた。でも、私を大切にしてくれないならもう2人にしがみつくことないよなって。大人になっても新しい友達ができることを去年体験したからこそ、私は違うフェーズに行くことにした。
心も落ち着いた2025年1月。友人から「明けましておめでとう!今年こそは会いたい!」ときたときはこいつ馬鹿なん?って本気で思った。返信するか迷ったけど、「私は大人私は大人」と声に出してから「明けましておめでとう」のスタンプ送った。子供じみているだろうか?でもここまでの長々と綴った文章を読んでそう思いますか?私の精一杯の善良な心を絞り出したつもりだ。それ以上は出したくなかったし、一度諦めたわけだからスタンプ以上のものはないなと思うんです。
1月3日友人からまたLINEが来た。
「友人Bと今日の午後から会うんだけど来れる?」
はぁあ?意味わかんなっ。却下
「予定あるから無理」(実際本当にあった)
「だよね、ごめん!」
今考えてもまじでどんな気持ちで送ってきた?と苦言を呈したい。
一応ですね、3人のグループLINEがあるんですね。何もそこで話し合えば良くない?だるっ
グループ抜けたら面倒なことが起こりそうなので放置してたらこんなことやられた。
ドライなLINE返信を立て続けに送られた友人はさすがに察したらしい。あれから音沙汰ない。
8月の事件と新年の事件を機に、これは縁切れたな。しばらくは友人を大事にすることなんて出来ないと思ったのでもうやめた。本当にやめた。
まさかこんなことになるなんて思わなかった。
関係を取り戻したいときがもし来たら、どうやって取り戻すんですかね?
まぁしばらくは必要ない情報だけどさ。
そもそも友人が既読無視してなければ、こうはなってない。
めちゃくちゃキモい記録残して自分でもゾワゾワしてる。誤字脱字、言い回し変が相当ありそうな文だけど添削なんてするもんか。
では、眠れない夜を過ごします。
みなさんはおやすみなさいませ。
忠告!⚠️
既読無視だけはすんな
関係性なんて、あっいう間に崩れて去る。拾えるこぼれカスもないからな!
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
通巻第8118号
孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
(十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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中学生のとき初めて付き合った同級生は別々の小学校だったけれど、小学校6年生のとき、市内の小学生が一挙に集う連合運動会でその姿を見かけていた。幼心にかっこいいなと思って、そしたら同じ中学にいて、クラスは別々だったけれど中2の冬に付き合った。高校のとき毎朝同じ電車の同じ車両に居合わせていた他校の男の子は、リツイートで回ってきたアカウントがきっかけで最終的にSNSで繋がった。ほんの少し好きだった教育実習の先生とは連絡先など一切交換しなかったけれど、高校卒業後にたまたま自分のバイト先に来ていた彼と顔を合わせ、そこで連絡先を交換した。大学で付き合った先輩とは大学一年の春、端末室で出会った。履修登録のシステムにログインできず困窮���ていたらやり方を教えてくれ、それがきっかけで同じサークルに入り、最終的に付き合うことになった。今の恋人との出会いは、まだ赤の他人だった頃に彼が私のバイト先にご飯を食べにきたのがきっかけだった。その1週間後に街中でビラ配りをする彼と再会し、そこで逆ナンして最終的に今に至る。この前都内でやっていた大道芸イベントに、今年の夏にエディンバラで見かけた日本の大道芸人さんがいたので思わず声をかけた。
心のどこかで、偶然の出会いを信じている。昔はあまりにも無防備で、よく海外とかで何も酷い目にあわずに済んだなと思うほどに無防備だったけど、年齢を重ねるとともに危機管理能力も危険察知する力も身についてきたと思う。でもそれ故に、今の自分がどれほどその偶然のパワーを享受できるのかは、正直わからないけれど。でも、信じている。そんなことをたまに考える。昔は出会いなんていくらでもあると思っていたけれど、マッチングアプリを頑張る友達や先輩の行状を知るたび、そんなことはないのだと思い知る。でも馬鹿みたいに偶然を信じることだって馬鹿にできない気がするのだ。いつ一人になってしまっても、大丈夫、たまにそんなことを考えては、過去に積み重ねた偶然の出会いに漠然と思いを馳せている。
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最近になって、ギブアンドテイク、トレードオフの概念が自分に欠けていることに気がついた。 例えば、特定の人か��何か助けてもらったときに「今度はあの人が困っていたら、進んで助けよう」という気持ちにならない。 もちろん、その人が困っていたら助ける。 だがそれは、以前助けてもらったからではなく、目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去の善行に依存しない。 また、逆もある。 例えば、特定の人から何か嫌なことをされたときに「もうこいつのことを助けないぞ」という気持ちにならない。 さっきの例えで言うと、その人が困っていたら助ける。 目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去の悪行に依存しない。 こう言うと一見優しい人に見えるかもしれないが、まるで違う。 他人から親切をしてもらった時に、全くそれを覚えていない(もちろん情報として覚えてはいるが、その後の行動の変化には寄与しない)ため、 その後、その人が「ちょっとオマケしてよ。(前に〇〇してやったでしょ?)」等の【少しだけ過剰な要求】をしてきたときに、それをするのが嫌な場合、断ってしまう、ということが起こる。 「あいつ、〇〇のとき助けてやったのに……。」と思われていると思う。 数学で習った、「互いに独立の事象」ってやつが一番しっくり来る。 自分の場合、全ての物事が一回ずつの独立事象であり、過去が引き継がれない。 では、なぜこれを認識して記録できるかだが、最近やっと、もしかしてこの世界は自分が考えているよりもギブアンドテイクやトレードオフの関係でできているんじゃないか?(独立事象ではないのではないか?)と気がついたからである。 最近読んだルポ、「ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス」では、マンションの管理組合を崩したい陣営が有志で集まり、クーデターを起こす様子が詳細に記録されていて非常に面白い著書となっているのだが、 「あのとき〇〇していただいたので」 「〇〇さんには頑張っていただいてるので、私も」 「では僕は印刷物を自腹で印刷します」 と、人と人とが関わり合う中で生まれていくギブアンドテイク(と言ってはなんだか陳腐だが、もっと暖かみのある表現がほしい)のようなものが有志の人々を動かす原動力になっていることが、衝撃だった。 また、今まで、ほとんどテレビドラマというものを観たことが無かったのだが、仕事の関係で大河ドラマの「べらぼう」を1話から視聴している。(面白い) 主人公の本屋が江戸を駆け回り、様々な人に声をかけ仲良くなり、仕事を回していく様子が自分の中では目から鱗だった。 男色家の平賀源内に書評を書いてもらいたいときは源内のために男装の女郎を用意して気分を良くさせたり、 「吉原に行っていることは黙っててくれないか。」 と武士の弱みを握ったら 「その代わり、祭の芝居を監督して盛り上げてくれないか?」 とプロデュースをお願いしたりと、ドラマとはいえポンポンと人を繋いで仕事を依頼する様子に頭が下がる。 自分が平賀源内だったら、好きな女郎を用意されてご機嫌になっても書評の件はまた別で一考してしまうし、 自分が主人公だったら、武士の弱みを握ったとして「それを利用して祭を盛り上げてもらおう」と思いつかない。 なんてったって自分にギブアンドテイク、トレードオフの概念が無いらしいことに最近気がついただけなので、具体例が上記しかなくふわっとしているのが申し訳ないのだが、一事が万事これで人生をやってきてしまった。 プレゼントのお返しとか、最後の出勤日の挨拶とか、社内政治とか、何もかも、わからない。 シンプルにアスペなんだとは思うが。 流石に、人を傷つけたり、テイカー気質になりたくないので、どんな人にも優しくするよう気をつけてはいる。 だが、あまりにも自分の中にギブアンドテイクがインストールされていなくて、上記のような親切にされたことを覚えていられない。 これで人を傷つけていたら怖い。 もし、同じような独立事象系の思考回路の人がいたらどうやって日本社会を生き抜いているか、コメントをくれると助かる。 -------------------- 【追記】2025-03-24-12:45 みんなコメントありがとう。賛否両論あるけども、みんなの文章を読むのがいちいち勉強になる。 仕事やりながらだからまだ全コメント見れてないんだけど、少し追加します。 特性を理解してくれたのか、書籍を紹介してくれた人、ありがとう。 影響力の武器、21世紀の貨幣論、贈与の歴史学、古代中国の裏社会、読んでみる。 他にも、おすすめの書籍があったら教えてほしい。 言語となって記述されていると、構造が理解できる。 構造が理解できないままでは、いくら枝葉の作法だけ学んでも、現実の人間たちとリンクしないから、助かる。 ブコメの方で「池井戸潤の小説にいたら破滅しそう」って書いてる人いたけど、マジでそれ。ありがとう。 本文には書かなかったけど、池井戸潤の話はマジで理解ができない。登場人物たちが、各々の個別の目的のために動いて好き嫌いしあったり欺いたりする様が頭に入ってこなくて、話の骨子はとても面白いのに登場人物の感情の機序がわからないからみんなが何をやっているのかわからないという不思議な感覚に陥る。 ちなみに本文で紹介した「べらぼう」も、主人公が本を売るために奔走するシークエンスはギブアンドテイクの勉強になるし興味深いのだが、徳川家の対立とか政治的なところはサッパリわからん。だからテレビドラマ観ないんだけどな。 4000円のバレンタインデーのお返しがしょぼいチョコだった、っていうXのエピソードを引用してくれた人、ありがとう。 自分もその一連を読んで、完全に夫側だったからXで色んな人のコメントを読んで勉強していたところ。 自分はそういった「バレンタイン↔︎ホワイトデー」とか「出産祝い↔︎内祝い」「誕生日↔︎誕生日のお返し」のような、言語で記述できるお返しに関しては理解はできる。 逆に記述されてないと覚えられないから、「バレンタインのお返しは同額程度のもの、内祝いは出産祝いの半額程度のもの」と法律で決めてほしいまである。 まあ、“そういうんじゃない”からこそのお返しなんだろうけれども。 この増田、私の夫みたい、という奥さんの意見も多いね。マジでごめんって思ってるよ。 そんなギブアンドテイクの概念が無い人間を、何故好きになって結婚まで至ったのか、可能であれば追記して教えてくれると嬉しい。 あと、自分らみたいな人間は言えば動きはするから、「バレンタインのお返しは〇〇がいいな」と言ってくれると、本当に嬉しい。 ギブするのが嫌な人間でない限り、リクエストされるの嬉しいと思う。 「貴方が考えた贈り物が良いのに!」と思ってるかもしれないけど、それは本当にごめん。愛情のプロトコルが違うと理解してほしい。 「そうやって言語化できるってことは本当はわかってるんだろう」という意見もあったけど、本当にわからないからこそ苦労してきて、最近、勉強を始めてやっと言語化ができるようになったんだ。 でも指摘してくれてありがとう。 みんなにはあまりにも当たり前の原理かもしれないけど、自分からしたら今まで裸眼視力が0.01なのに眼鏡をかけずに生きてきて、眼鏡をかけたら「世界ってこんなだったのかよ!」と衝撃を受けたから、それを表したくて、言語化している。しかしあくまで自作の変な眼鏡ありきの視力しかないので、キモい文章になってたらごめん。 この性格で得しているのは、どんな押し売りや営業トークにも靡かないことくらいか。 色んな営業本に書いてある「先に少しサービスをしてあげると、返報性の原理でお客さんは貴方に何かを返さないといけない、と後ろめたくなり、契約が結びやすくなります。」 の原理が全く働かないので、試食させてもらったり試飲させてもらったり粗品を貰ったりしても、それとこれ(本題の商品を買うかどうか)は全く関係がない事象なので、「ありがとうございました!買わないです!」と言うことができる。 ……いや、胸を張って言うことじゃないけど。 若い頃は「なんでこんなに優しくしてくれるんだ?!この会社って儲かってるんだなー!」と思ってた。馬鹿だ。 -------------------- 【最終追記】2025-03-25-12:15 まさかこんなにコメントをいただけるとは思っておらず、正直びっくりしています。 書き込んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。すべて読ませていただきました。めちゃくちゃ勉強になる! 本文が長くなってしまうのは申し訳ないが、それでも性分ってやつで、追記します。 いろんな人に言われてる、「“情けは人のためならず”の話じゃない?」とか「“義理の話”じゃない?」 いやほんと、それ。ありがとう。
無理に自分の中にない概念を言語化しようとしたけど、日本語には義理って言葉があったね。ワハハ。義理、わからん。ワハハ。 あと、これも複数の人に突っ込まれてた「それトレードオフって言わないのでは」 ほんまそれ。
しかもこれに関しては、なぜこの言葉を使ったのか自分でも思い出せない。
多分だけど、それこそ池井戸潤の小説が理解できないって話を書こうとしてて、池井戸潤ってトレードオフ的な概念がよく出てくるのに、自分はそれを読んでもピンとこなかった……みたいな話をしたかったんだと思う。たぶんね。 「これをするかわりにこれをやってくれ、と頼まれたら増田はきっと断らないでしょ?」 って意見ももらったけど、ちょっと前提が違う。 自分が言いたかったのは、そういった交渉の仕組みが分からない、と言う話じゃないです。
「(これをする代わりに)これをやってくれ」と前半が省略されている場合、普通は相手が過去に何かしてくれた→自分が何か返す、という流れに自然と至るものなのかもしれないけど、自分はそもそもその「その人に積み上がった恩ポイント」を覚えていないので詰んでいる、という話です。 つまり、ギブアンドテイクが分からないというより、「恩や害が特定個人に蓄積されない」が正しい。
タイトルがミスってました。申し訳ない。 「概念がわからない、ではなく行動規範に組み込まれてない、だろ」って意見、ほんとそれ。
自分でも「わからない」って言葉を雑に使いすぎてたなと反省してる。
概念として理解はしてるし、言葉も知ってる。 ただ、それが自分の無意識な行動を決めるロジックの中に入ってないだけ。それだけの話だったのに、そこをごっちゃにして書いたせいで、全体的にズレた伝わり方してる気がして、コメントくれた人に申し訳ない。 今から全部書き直したいくらいには、色々ミスってるなぁ……。 「〇〇さん△△さんではなく「ヒト一般」として見てる」 って書いてくれた人、まじでそれ。ありがとう。
多分この人には伝わる気がするから、もうちょい踏み込んで言うと、自分の中にはこの社会をシステムと見なすような全体構造があって、その中に「people」とか「everyone」みたいな、複数を指してるけど一語で済むような「ヒト一般」っていうモジュールが組み込まれてる。 で、その「ヒト一般」が社会の中で苦しんだり困ったりするのはシステムにとってマイナスなので、メンテナンスが必要。(これが俗に言う人助けってやつや) だから「people」の一部を助ける、「people」の一部に助けられる、ってのは、「モジュールとしての人間群」を正常稼働させるための処理であって、そこに特定個人への重みづけは基本的に存在しないという感覚。 自分自身も「people」モジュールの一部なんで、普通に忙しかったり余裕がなかったりする時は助けられないです。
そこはもう、仕様的に無理なときは無理、みたいな割り切りです。 多分、返報性の原理が自然に働く人って、「people」という大雑把なモジュールなんかではなく、きちんと一人一人に対して、
「〇〇してもらった」「〇〇してくれなかった」みたいな専用の関数を紐付けてるんだと思う。
で、それが非明示的に記録されてて、後から無意識の行動に影響してくる。 その感覚って、自分にはちょっとピンとこないけど、たしかにそういう視点もあったら便利だなって思う。
見えてる世界が違うなーって純粋に面白い。 「例えば誰かが自らの命を犠牲にして増田の命を救ったとしても全く恩を感じないということ?」 それは、すごくいい人だな〜、と思う。
でもそれって、“増田だから”助けてくれたというより、“その人は誰でも助けるんだろうな、素晴らしい人だ!”という認識。
そういう人は普通に尊敬するし、幸せになってほしいと思う。
でも、助けられたのが増田じゃない、全然知らない人でも同じように感じると思う。 助けた(行動を起こした)その人が立派なのであって、助けられた対象は別に自分でも、他の誰でも、関係ないと思う。 上記のようにトロッコ問題みたいな極端な例えを出してくれてる人も沢山いるけど、それが自然に出てくるって時点で、みんな「義理」の発想がちゃんとあるんだなと思う。
自分からすると、「朝トーストを食べたんだから、じゃあ野党支持者なんでしょ?」みたいな極論に聞こえてしまう。
いや、野党支持かどうかって、朝トースト食べたかどうかじゃ決めないでしょ、っていう。 あと、「ヒーロー」とか「いいやつ」とか「炭治郎」って言ってくれてる人、かなり誤解してる。 「嫌いな人でも困ってたら助ける」って、嫌いな奴がピンチの時に万難を廃して駆けつけて「俺が助けに来たぜ!」とかっこよく立ち回ることじゃないです。
嫌いな奴が仕事でミスしてて、「自分が直した方が全体として良くなる」って判断したら、巻き取ることもあるし、
そいつが体調崩してゲロってたら、「迷惑かけられても嫌だし」って理由で水を買って横に置いておく。 全体としてスムーズに、自分が快適になる方を選択する。 その人のためにやってるわけじゃない。自分のためでもない。その「場」における「ヒト一般」が上手く回るためにやっているという感覚。
もしそのあと重要な予定があったら助けない(助けられない)と思うし。 助けたかどうかの結果、ってのは、自分の中ではあまり重要じゃない。 それで優しいかどうか、人として優れているかどうかを判定するのはピンと来ない。
自分の助けにそこまで価値を置いていないというか。 ただ、コメントでも多くあったけど、大半の人は「助けたかどうかの結果」をめちゃくちゃ気にしててだからこそトロッコ問題みたいな例え話で“結果”を知りたがるんだろうなと思う。 それこそが、ヒトが義理堅い証拠なのかもしれんね。 「恋愛してるのか、したいのかはわからないけど「なんでそう言う人と一緒にいるの?」って聞くのが愚問なくらい、増田も恋愛市場で素敵な人間なんじゃないかと思います。」 ……優しいコメント、ありがとうございます。
正直、自分はバツイチでして、恋愛とかそういう話題を正面から語るのは流石にちょっと気恥ずかしくて、あえて割愛してましたが、そうやって思ってくれる人がいるんだなって��と、教えてもらえて嬉しかったです。ありがとう。 あと、これは旦那さんからの伝言だけど、バレンタインのお返しとかプレゼントのお返し関連は、ブランド名・型番・色番まで書いてくれるとめちゃくちゃ助かるってことは覚えておいてください!笑 長くなってすみません。
でも、コメント読んで、自分の変なクセとか思考パターンが整理できた気がして、書いてよかったなと思ってます。 最後に、「返報性の原理を越えて、困っている者を助けるって、アガペーだよな......アスペじゃなくて。」とコメントしてくれた人、週明けにめちゃくちゃ笑わせてもらった、マジでありがとう!!
【最終追記あり】ギブアンドテイクの概念がわからない人
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(高校時代の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。そんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いた。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているのでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。わたし、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、���たいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまう。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほど悪口を書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた自転車の車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、とい��か野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と���ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはた��して歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込���れて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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