#では何があるのか。今ここです。そう考えて、毎日を丁寧に生きていきましょう。今日という日を、今日という日のために生きていく。��れを繰り返していけば、気がつけばずいぶん遠
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「生命」
•皺のない脳みそ •張りのない皮膚 •潤いのない眼 •ガラガラの喉 •正気のない魂
お寺の一角で、休んでいると、蚊が、腕を刺す。蚊の体が血の色で膨らんでいく。こんな汚い血で、一匹の虫の命を救ったのか。
#candle#It's too hot I'm about to melt#では何があるのか。今ここです。そう考えて、毎日を丁寧に生きていきましょう。今日という日を、今日という日のために生きていく。これを繰り返していけば、気がつけばずいぶん遠
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9月21日午前6時に父が亡くなった。 老健からの退所が決まり、週末のみ自宅で過ごすことが決定してからの 我が家はまさに上を下への大騒ぎだった。 家の中までの導線を確保した上で車椅子が通るよう道を整備し、 父が使っていた寝室に入るサイズの介護ベッドを調達して 高齢の母の負担が極力減るようにヘルパーの力を頼りながらの受け入れ生活だったが あれほどの労力をかけて準備したにも関わらず、わずか2ヶ月ほどでピリオドを打った。 コロナ感染からの重症化で一時は命も危ぶまれた父は、奇跡的に回復するも 肺炎により嚥下機能が著しく低下していたため誤嚥性肺炎を繰り返しては再入院し、 「急変した際の延命治療はどうしますか」とその都度医師に聞かれた。 そして3度目の再発で入院し、同じように「どうしますか」と問われた時、 半ば慣れっこになっていた私たちは「回復の希望があるならできるだけのことはやってほしいが 機械の力を借りて心臓を動かすだけの措置なら不要」と回答した。 そしてその翌日、まるで私たちの会話を盗み聞きしていたかのように父は逝った。 今年もケムコ様より東京ゲームショウにお誘いいただいていたのだが 父の容体が安定していないことからギリギリまで返事を待っていただいていた。 (快く待ってくださったケムコ様には本当に感謝しかない。ありがとうございます。) 最初から断ることも考えたが、遠出すれば気分転換になるかもという現実逃避的な思考もあり 引き延ばすだけ引き延ばした挙句に父が選んだ旅立ちの日は9月21日、東京ゲームショウの開幕初日だった。 父についてのエピソードで一番古い記憶を辿ると、幼稚園のクリスマス会になるだろうか。 園児のところにサンタがやってきて菓子を配る恒例の会で私も楽しみにしていたのだが 当日やってきたのはサンタのコスプレをした父で、特に素性を隠すでもなく 大声で私の名前を呼びながら「おおしのびん、今年はワシがサンタじゃ」と菓子を手渡した。 私は幼稚園の年少組にして「サンタは親が演っている」ことを知ってしまったのである。 生粋の目立ちたがりで役職のつくポジションが大好きだった父を見て育ったせいか 私は人一倍自分を表に出すことを避けるようになり、今もこうしてハンドルネームでブログを書いている。 母から「お父さんのようになってはダメよ」と言われて育った私は、 言ってみれば父を反面教師にして出来上がった集合体のようなもので、何から何まで合わない。 合わないのに、成長するにつれて父に似た部分が体のあちこちに、思考の節々に現れては嫌悪した。 今にして思えば、父のようになりたくない、は、父のように何事にもオープンで大らかには生きられない 内向的な自分の劣等感が生んだ、羨望からくる逆恨みだったのかもしれない。 そのことを受け入れ、父の中に幾らかの可愛らしさを見出してからの親子関係は 世間で言うところの仲の良い親子には届いていなかったかもしれないが、そう悪くもなかったと思う。 3度目の入院の知らせは突然だった。 デイサービスから「微熱があり酸素量も少ないため念のため病院に連れていきます」と連絡があり またかと思いながら病院に駆けつけた。 前々回、前回と同じようにしばらく入院して、回復すればまた退院するのだろうとぼんやり考えていたので 入院手続きのために膨大な枚数の用紙に記入しなければならないことの方が気が重かった。 翌朝面会に行くと、父は痰を吸入してもらって楽になったのか静かに眠っていた。 夜中も1、2時間おきに吸入をしていたと聞き、頭の下がる思いがする。 とてもではないが、このケアを自宅ではできなかったろう。 父は私のことはわかっていたようで「会いにきたよ、わかる?」と聞けば小さく頷いていた。 「元気になって、また家に帰ろうな」と声をかけるとまた小さく頷いていて 「この様子なら大丈夫だろう」と少し安堵した。 しかし、翌朝の医師の説明では、心臓の機能が大分弱っているので 肺炎が治るよりも先に心臓が持たないかもしれないと告げられた。 そして、冒頭に書いたように「無理な延命治療は本人も辛かろうし不要。 楽になるための治療なら全力でお願いします」と回答して帰宅した。 その日の深夜、病院から容体がおかしいと電話があり、孫たちも連れて慌てて深夜の病院に 大勢で押しかけると、別室に移動した室内で父はスヤスヤと眠っていた。 「みなさんが到着される直前に急に安定し始めて」とナースは申し訳なさそうに笑ったが 「人騒がせなじいじだ」と悪態をつきながらも皆笑顔だった。 その翌日、またしても深夜に病院から電話があり、同じように大勢で深夜の病院に向かった。 酸素がなかなか上がってこないと昨夜より病室内の空気に緊張感があったが 当の本人は傍目には穏やかに眠っているように見えた。 「こんなことがこれから毎晩続くのかしら」と母が疲労困憊の様子で口にするのを聞きながら 昨日医師に「まぁ、こんな感じで心臓がゆっくり止まってしまうほうが本人は楽だと思いますよ。 本当に眠るように、何も苦しまずに済むので。」と言われたことを思い出していた。 ほどなくして心電図を表示している機械から危険を知らせるアラーム音が鳴り、慌ただしくナースが入ってきた。 「まだいったらだめだよ」「起きてじいじ」「起きないと怒るよ」と孫たちがそれぞれ父に声をかけ 「家に帰ろうよ」と姉が語りかけた後に、それまで黙って見守っていた母が父の手を取って話し始めた。 「じいじ、ねえじいじ、本当に好き放題に生きたわね。 突然商売をすると言い始めて、30年間も私にその店を手伝わせている間に 他所で女を作ったり、こっそり家のお��に手をつけたり。 その人を連れてゴルフに旅行にと遊びまわり、飲み歩いてね。 子育てなんて全部私に任せっきりで、ほとんどしなかったでしょ。 でもねじいじ、私はそれでも、あなたにまだ居て欲しい」 父の左手を両手で包み込み、まるで駄々っ子を宥めるように話しかける母の言葉を聞きながら 「おいおい、こんな男にだけはなるなと刷り込み続けて今更それはないだろう」と思ったりもしたが その言葉を聞いて、つくづく夫婦のことは夫婦にしかわからないのだと思い知らされた。 そして母が話し終えるのを待っていたかのように、9月21日午前6時に父の心臓は動きを止めた。 息を引き取る直前まで、話しかければ反応していたし、ゆっくりと腕を持ち上げたりピースサインも出せていて 「ぎゅっと握ってごらん」と言えば握り返していた父の時間は、本当に呆気なく止まったのだった。 けたたましい機械音さえなければ寝落ちを疑うほど穏やかな最期だった。 入退院を繰り返したとはいえ、何週間も昏睡状態が続いたわけでもなく、 在宅介護開始から2ヶ月、再入院から僅か2日で逝った父は ピンピンコロリとまではいかなくとも、ほどほどコロリぐらいの称号は与えても良い気がする。 面倒を見ていた親族の誰も介護疲れに陥らせず 別れを惜しむ気持ちを十分に残した上で旅立ったことは、家庭を振り返らず仕事に恋に奔放に生きた父が 珍しく見せた父親らしい気遣いと言っていいかもしれない。 週末は自宅で皆に介護されながら、コロナ感染の入院直前に食べるはずだった念願の鰻もちゃんと食し 早朝にも関わらず親族8人が見守る中で逝けたのだから、幸せだったろう。 亡くなる前日の朝、家族がいる手前では気恥ずかしさが勝ってしまい、正直な気持ちを話せないと思った私は ひとりで病院に面会に行き、眠っている父に向かって幼い頃から反抗的な態度を取ってきたことを詫びた。 「できの悪い息子でごめんな」と耳元で話していると、父が一瞬、私の手を握り返してきた、気がした。 あの時間がなければ、私の後悔はもっとずっと大きかったと思う。 テレビで何度も見かけた「9月21日午前6時21分、お亡くなりになりました」という医師の言葉を聞き終えて外に出ると もう空は明るくなり始めており、電話1本で飛んできた葬儀屋と話をしているうちにすっかり陽は昇った。 秋晴れの爽やかな朝だった。 悲しみに浸る暇もなく、数々の段取りが始まった。 実を言うと、2年ぐらい前から「親が亡くなった時にするべきこと」という ハウツーのページをブックマークしていて、折に触れて読み返すのを癖づけていた。 10年以上前の別れでは狼狽してしまい、何もかも人任せにしてしまった反省から いざという時にあたふたせず、冷静に適切な行動とれるための予習をしていたのだ。 親族と親しい方々への連絡、役所への届け出、葬儀の手配など まるで流れ作業のように進んでいって、翌日には通夜、翌々日の葬儀がすんなり決まった。 通夜の翌日、親族の集まった部屋に入ると、皆が見守る中で父が風呂に入れられていた。 旅立ちの前に全身を綺麗にするオプションサービスで、母が頼んでいたらしい。 髪も丁寧に洗い、顔もパック&化粧までしてほとんど韓流スターのようなフルコース。 一部始終を近くで見ていた姉が「私がやって欲しいぐらいのサービスだったわ」と感心していた通り 仕上がった父はこざっぱりして生気を取り戻したように見えた。 昼時になり孫たちが腹が減ったと言うのでGoogleMapで調べてみると 田舎のため近くにはコンビニぐらいしか引き当たらない。 「仕方ないから適当におにぎりでも買ってこようか」と義兄は言ったのだが 騒がしく葬るのが我が家のスタイルだからと、私の提案でデリバリーを頼むことにした。 幸い、配達圏内にカレー屋とピザ屋が引き当たったため Uberと出前館に一軒ずつ注文を出し、数十分後には親族控室はカレーとピザの匂いで充満した。 父の想い出話を肴にワイワイと盛り上がり、「こんなに騒がしい親族の控室はないんじゃないか」と 誰かが口にするほど賑やかな昼食になった。 年を取ってもジャンクフードが大好きだった父は、すぐ横で羨ましく見ていたに違いない。 皆で盛り上がっているところに葬儀屋が入ってきて、一枚の紙を置いていった。 折り鶴の形をした形状記憶用紙で、皆で一言ずつ別れの言葉を書いてお棺に入れるのだという。 「お疲れ様でした」「あちらでは偉そうな振る舞いをしないように」(←私)など各自が書き込み、 最後に全員のメッセージを読んでいると、看護学生をしている姪が書いたと思しき一文が目に留まった。 「きちんと面倒をみてあげられなくてごめんなさい。立派な看護師になってみせます。」 淡々と皆の様子を俯瞰で眺めてきた私は、その一文を読んで初めて涙腺が緩んだ。 父親としては赤点だったが、祖父としては孫達に慕われる良きじいじだったのだ。 父の顔の広さもあって、葬儀場には置き場所に困るほどの花が届き、弔問客で溢れ返った。 コロナ禍ではとても実現できなかったであろうし、やはり父はツイている。 「いよいよお別れの時です。 生前お付き合いのあった方は、どうか前に出てきてお顔を見て差し上げてください。 仏様は亡くなっても私達に多くのことを教えてくださいます。 命の儚さ、尊さ、多くの教えを私達の心に遺して旅立たれるのです。」 お棺を閉じる前のお坊さんの言葉に誘われるように棺の前に立ち、眠っている父の顔を覗き込んでみた。 次々と収められる花に囲まれた父は、加工アプリで装飾し過ぎた写真のようなビジュアルで少しだけ滑稽だった。 そしてその姿を見てフフッと少し笑った後に、訳もわからず涙が流れた。 時間にしてほんの1分ぐらいだったと思うが、どこかの栓が抜けたようにドバドバと流れて自分でも驚いた。 「最後ぐらい泣いてくれ」と、父が私の涙腺(栓)を抜きにきたのかも知れない。 こんな機会でもなければ会うことの無かったであろう、数十年振りの知人や親戚と再会し 様々な思い出話をしていると、この時間も父の置き土産なのだと感じる。 簡略化の進む現代風の葬り方にも良い点はあるが、昔ながらの葬式も、その煩わしさも込みでなかなか良い。 親族用にチャーターした火葬場までの送迎バスに乗り込む際、 片手で骨壷を持ち、片手でスマホを持って自撮りをした。父とのツーショットである。 山の中腹にある火葬場は薄曇りで少し肌寒かったが、待ち時間中はやはり四方山話で盛り上がった。 火葬を終え、小さな骨壷に収まった父と帰宅してから 四十九日までの予定を親族で確認し、それぞれが日常に戻っていった。 数日して何気なくiPhoneの写真フォルダを見ていると、入院時に父と撮った写真が出てきた。 亡くなった9月21日は金曜日、その写真は2日前の19日だったので 写真の上にはまだ『水曜日』と表示されている。 iPhoneの写真は1週間以内なら曜日で表記され、1週間以上が経つと○月○日の表記に変わる。 水曜日という表示に、まだ数日前まで父はこの世にいたのだと気づかされた。 老健に長く入っていたし、それほど頻繁に会っていたわけでもないのに 「もういない」ことが日毎に実感となって、音もなく雪が降り積もるように静かに寂しさが募っていく。 あっという間に四十九日を迎え、近しい親族だけで法要を済ませた。 葬儀の時と同じお坊さんがやってきて、最後にまたひとつ話をしていった。 「四十九日が経ちましたね。 毎日元気にお過ごしでしょうか。 今日はひとつ、時間と命について皆さんに考えていただきたいと思います。 私たちは皆、等しく流れる時間の中で生きています。 亡くなった方の時間はそこで止まり、しかし私達の時間は動き続けます。 時間の止まった方との距離は日々遠くなり、日常で思い出す機会が減ってきたり 悲しみが薄れたりしますが、そんな時こそ、生きていることを自覚していただいたいのです。 今日この場で皆さんと過ごした時間が二度と戻らないのと同じように 時間は先にしか流れないと自覚しながら、1日1日を大切に過ごして下さい。」 私にとって父が良い父でなかったように、父にとって私も良い息子ではなかったろう。 生きているうちにもう少し何とか出来たかもと思わないでもないが、全ては後の祭り。 是枝裕和監督の映画「歩いても歩いても」に出てくる 『人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。』を、まんまと私も体験してしまった。 先人からの教訓を受け取っていたのに、実践を怠って同じ後悔をして その気持ちをこうして文章に残し、誰かが悔いを残さないようにと祈る。 そうやって、人は生きていくのだ。
四十九日 - 忍之閻魔帳
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あたしはあなたにはなれない
昼間に書くのは珍しいですね。いつも寝る前に書いています。不眠が加速していたのでブルーライト避けで最近辞めてました。純粋に書きたいと思わなかったしね。まとめておきたいことが終わったので暇だし書き残そう。ずっと書きたかったことでもある。
旅行に行きました。
旅行が嫌いです。子供の頃からあまり好きじゃない。修学旅行も小中高ずっと行きたくないなぁと思いながら義務で行ってた。ここ数年は年に1度だけ毎年同じメンバーで近所にのみ行ってた。静岡とか栃木とか。それも去年はなくて、正直ホッとしてた。旅行、本当に嫌過ぎる。嫌だけど年1は頑張ろうという気持ちだった。「卒業アルバムってマジで要らないし場所取ってるから捨てたいけど、捨てたら人間として何か大事なものを失う気がするから実家に置き去り。」と同じ気持ちで、旅行したくないけど全く旅行をしない人間になるのは逆に怖くて頑張ってた。でも基本行きたくない。長距離移動が苦手。家が好き。旅行で得られる経験と、���行で得るストレスが釣り合ってない。どんなに仲が良くても誘われたら断っていた。結婚式と葬式と旅行とBBQは基本行かない。繰り返しになるけど、嫌いだから。
そんな私が旅行に行きました。いつものメンバーじゃない人と。その人へのお礼のつもりで、自分の殻を破ることでしか誠意を見せられないな、そういうつもりで覚悟決めて行ったのですが、思いの外うまくいったので、逆に旅行させてくれてありがとうみたいな感じになってしまい、恩を返すつもりがまた恩に着ることになってしまった。なので感じたことを書き残しておこうと思う。その人と破綻して全てが嫌になっても、起きた事実を忘れないように。
2泊3日。目的は仙台で行われるイベントへの参加。でも彼が福島県が故郷なのでついでに実家に顔を出したいとのことで、まず1日目に福島県へ行きました。初めて会う人とドライブするなどして過ごした。人と会うのが多分好きなので、そういう目的の旅はいいのかもしれない。ずっと会いたかった人だったしね。観光となると楽しまなきゃ感が出るけど、君に会いに来たよだと急にフッ軽な感じがして、気負わなくてよかった。夜は飲みに行って、いかにんじんを食べたりした。郷土料理に触れるのも案外悪くはないのかもしれない。義務感あるけどそれもまた思い出みたいな。因みにいかにんじんは別に好きじゃなかった。夜はひとりでドミトリーに泊まった。ずっとカプセルホテルに泊まってみたかったんだけど機会に恵まれず、ま��男性のみみたいなところも多いので、泊まれずにいた。カプセルホテル探してたら古い建物をリノベしたおしゃれなドミトリーが見つかったのでそこに泊まった。4人部屋で赤の他人と寝るの面白いなぁって。多分旅慣れてる人たちだったんだろう。嫌な気持ちにはならずに無事朝を迎えた。ドミトリーの斜向かいにお寺があって、そこにねこが何匹か住みついてた。朝散歩した時に撫でるなどした。そうやって行く場所全てでねこの友達を作っている私は。千葉のねこ、練馬のねこ、福島のねこ、仙台のねこ。ねこと酒はどこにでもあるし、ねこと酒きっかけで友達が増えることが多々あるので、ねこと酒が好きで良かったと思った。
2日目は仙台へ移動。在来線で1時間ぐらい?かけて向かいました。電車は寒冷地仕様でボタン押さないとドア開かないタイプ。田舎だからか日曜日だからか、乗った電車は全部座れたな。嬉しかった。途中川沿いの満開の桜並木に出会った。急に窓の外がありえないぐらい美しくなってびっくりした。見惚れた。嬉しくなった。あとから調べたら白石川堤一目千本桜というらしい。1200本のソメイヨシノが植ってて、8キロもあるらしい。本当の千本桜だった。眼福。朝早かったからまだ花見客もいなくて、純粋に川と桜だけがずっと流れていって、ほんとにまばらにしか乗ってない乗客も、みんな黙って流れる景色を見ていて、なんかすごかった。夢とか創作みたいな景色と空気だった。電車から桜が見えるなんて知らなかったのもよかった。そのあとは月並みだけど牛タン定食を食べた。麦飯ととろろ。ネギが入ったテールスープ。あと定規揚げ。食べながら彼のお兄さんと話した。大人になった兄弟を並べるのは面白い。イベントに参加した後、ホテルにチェックインしてお風呂に入ってから晩ご飯を食べに出かけた。2泊目はアパホテル。旅行嫌いはアパにも東横インにも入ったことがない。お風呂が思ったよりよかった。小さいけど露天があって、日曜の昼だから誰もいなくて、大変快適。なんでこんな遠くまで来て人混みにうんざりする必要があるんだよ。という気持ちにならなかったのがよかった。人混みも別に好きではあるけど。露天風呂の壁に書かれていた「虫さんや葉っぱさんもお風呂がだいすきです。見つけたらそっとすくってあげましょう」みたいな注意書きがかわいくて嬉しかった。風呂って変だよなぁって思った。夜は牛タンカレーと牛タンのたたきを食べた。そもそもルゥが美味いのに、でかい塊の牛タンが煮込まれてて天才だった。あとなんか日本で初めて牛タンのたたきを出した店らしい。知らんけど。美味しかったです。帰りにいちご飴を食べた。今年は彼とたくさんいちごを食べれて嬉しい。彼とじゃなくても嬉しいけど。夜は手を繋いで一緒に寝た。いっぱい頑張っててえらいねぇって言われて、��うだぞ私は今めちゃめちゃ旅行を頑張っているんだぞという自意識。寝る時になって泣いた。疲れてるのと、自虐性質でいっぱいになって泣いた。心の中であり得ないぐらい自分のことを虐め抜いてることに気づいた。言われなかったことを悪く想像して勝手に傷つくっていうよくない癖。直したいなと思いながら眠った。
3日目は松島に行くと決めていた。朝7時からやっている老舗っぽいお蕎麦屋さんで朝ごはん食べた。少し待ったけど美味しかったし、女将さんが優しくて、帰る時にいってらっしゃいって言ってくれて、それだけでまた来たいなんて思ってしまった。あと七味がめっちゃ美味かった。買ってくれば良かった。そのあと30分ぐらい電車に乗って松島へ。旅行の嫌いなところ第二位、観光。何観光って。意味ある?興味ないんだが。となっている自分の機嫌を取るために、私がだいすきな漫画、ハチミツとクローバーの聖地巡礼を絡めてなんとか気持ちを乗せた。竹本くんが自転車でたどり着いた場所が松島で、瑞巌寺。ある程度の区切りをつけるきっかけとなったのが、五大堂へ続く透かし橋。同じ場所に行くんだと思えば多少楽しみだった。晴れていたら遊覧船に乗ろうと思っていたが、あり得ないぐらい晴れていたので乗った。島々を見るための遊覧船だが、海苔と牡蠣の養殖を見れたのがよかったという独特な感想。カレーパン、笹かまぼこ、おせんべいなどの食べ歩き。あとは竹本くんと同じように缶コーラを用意しといて、飲んだ。少し写真も撮ってもらって、あぁ今思い出を作っているなぁという自覚がすごかった。晩ご飯に3回目の牛タンを食べてから帰りたかったので、時間を潰すために仙台駅近くの猫カフェに行った。地方都市の平日昼間の猫カフェは最強です。完全にオススメ。東京だと外国人がいつでもいるからね。3回目の牛タンは焼肉。厚切りと普通のと味噌と。3回目なのに3種類食べた。厚切りは誇張なしで拳ぐらいあった。牛タン以外の肉も全部質がいい良い焼肉屋さんでした。ハラミ、美味かったなぁ。あとハイボールも丁寧に作ってくれてて美味しかった。〆にアイスを食べてから少し過去を回想して、新幹線に乗ったよ。帰りの新幹線はずっと泣いてた。嬉しくて。感動してた。旅行が楽しいということに。達成感もあった。でも家に帰りたい気持ちもあって、なんか色々丁度良かった。
頑張ってくれてありがとうと言われた。頑張った。私が彼のことをすきな気持ちをわかってもらえたような感覚があった。頑張れたのは彼に誠意を見せたかったから。彼のことがすきだから。彼と出会ってから私は久しぶりに、ずっと彼とあと自分自身に真面目に真っ直ぐ向き合っている。健全な人間関係。とは言い切れないけど、自分の気持ちを誤魔化したり、相手に無理を強いたりしないでいる。この気持ちを諦めたくない。負けないと信じたい。すきなものをすきだと言い続けたい。表面じゃなくて根幹を愛したい。
旅行というと、ストレス発散とか気分転換に良いとされている行動のひとつだ。リフレッシュ。正直意味がわからない。こんなにストレスの強いものはない。お前ら狂ってるよと思っていた。いやまだ思ってる。そういう大衆の意見から外れていることは自己肯定感の低下に繋がる。しかも持続的なものだから社会不適合感も煽られる。旅行が嫌いなだけで非人間感まで得ていた。なので今回旅行を遂行できたことで、少し人間になれた気がする。ちゃんと楽しかったと思えるんだ。そんな自信をつけた。リフレッシュできたかと言われるとそれは残念ながらできてない。慣れればそうなるもんなのだろうか。分からない。
死にたいと思った分だけ、生きててよかったが来るのかもしれない。ここ1年ぐらいずっと生きててよかったと思っている。心の底から思う。感動して泣くこともある。あの時死なないでよかった。生きててよかった。そういう時は大体きれいなものを見ている。世界が美しいと知ったとき。でもそれはひとりじゃ見られなかった、知れなかった。誰かと一緒だから出会えた景色であることが圧倒的に多い。そうなると、君に出会えてよかったとなる。彼に出会えてよかったと、途中からはそればかり考えていた。こんなに旅行が嫌いだと言ってる人間をこんな遠くまで連れ出してくれてすごい。勇気があるなぁと。強いと思った。僕も強くなりたいと思った。
とはいえやっぱりストレスが強かった。特に行く前。準備が終わって、あとは当日を待つだけの数日間が1番しんどかった。行きたくないとか死にたいとかずっと思って泣いてた。自分には遠すぎるとか長すぎるとか。主に不安と心配。うまくできるかどうか分からない不安と、うまくいかなかったときに自分を守るために逃げる場所がない心配。他人に迷惑をかけるんじゃないかという心配。こんなだったら家にいたほうがいい。失敗してやっぱり旅行は嫌いだなんて改めて��論が出てしまうくらいなら行かないほうがいい。旅行嫌いのコンプレックスが頂点まで達して毎晩泣いたし全く眠れなかった。ただ、仕事中に牛タンがモチベになったのも嘘ではない。楽しみではあった。食いしん坊め。あと旅行中もあまり眠れてない。元々不眠だし場所が変わると眠れないタイプだから仕方ないことだけど。休めないクセにスイッチがずっとオンだったから、旅行から帰ってきた翌日はずっと知恵熱が出てた。こうやって書いてると本当に負担が大きくて笑う。それでも俺はやり遂げたんだ!という自負。
人の故郷に触れるのは2回目だ。1度目の時も感慨深いなぁとは思っていたけど、今回はよりそう感じた。彼の後輩とお母様とお兄様に会った。こういう場所でこういう人たちに囲まれて育ってきたんだという、ひとつの答えが目の前にある感覚。彼のことはすきだけど、顔とか声とか性格とか、そういうのは好きじゃない。好きじゃないというのは語弊がある。好きではある。けどファーストインプレッションであぁこの人のことすきだなと思ったのは、多分こいつは恵まれた環境で過ごしてきたんだということで、今まで積み重ねてきた経験や出会いを好ましいと思った。それを見てきたのだから、そりゃあ感慨深い。みんな優しかったなぁ。もっとお話しして仲良くなりたかった。
頑張ってくれてありがとう、俺も楽しかった、俺の好きな場所と好きな人に会って楽しんでもらえてて嬉しかった、そう言われて、これ以上ない尊重だなと感じた。自分が楽しむことで相手を喜ばせちゃった。これはヤバい良いサイクルの中に入ってしまったかもしれない。このまま高め合って幸せになってしまうかもしれない。今後から目が離せないな。とか言って特に何もないのが人生だったりもする。
大変忙しい時期に2日間お休みを頂いたので、職場にお土産を買っていった。笹団子?ずんだ餅?みたいなやつ。すると同僚から「お土産いただきました」「ごちそうさまです」「どこ行ったんですか?」「牛タン食べましたか?」と声をかけてもらえた!多分これ当たり前のことなんだけど、旅行嫌い人間からするとヤバいことなのだ。こっちは自分の旅行も嫌なので他人の旅行に興味なんか1mmもないのだ。だって話を聞いても行きたいとか思わないから意味ないんだもの。他の同僚が休憩室にお土産を置いてても、あーなんかお菓子があるなぁ程度にしか思ったことがない。そんな非人間に対して、どこに行っただの何を食べたのだの声をかけるなんて。ヤバい。ヤバすぎる。超嬉しい。松島に行きました。牛タンは3回も食べました。楽しかったです。お休みありがとうございました。え?!?!?!私!!!!!人間じゃん!!!!!!!!今超人間なんですけどーー?!?!?!大興奮である。構ってもらえて嬉しいという大変原始的な感情。旅行すごい。お土産すごい。人々の文化的な営みの仲間に入れてすごい。旅行終わってるのにまだあるんですかーーー?!ってなった。次からはお土産をいただいたら興味を持って軽い雑談をしようと思いました。すみません今まで無味乾燥にお菓子だけ食べてて。
さて、じゃあ旅行が好きになったかと聞かれると、別にそんなことはない。ずっと嫌いだったものをそんなに急に好きにはなれない。ただこの3日間のことは好きだった。楽しかった。行くまでの気分の落ち込みもなかったことにはならない。確実に嫌だった。楽しかったからいいや!とはならない。誰とどこに行くかが大事なので、旅行ならなんでも!みたいなことはない。とっても限定的な旅ではあったが、私にも楽しむことができるんだという光明を得たのは大きい。今年はもういいけど、来年なり再来年なり、もっと未来でもいい、またどこかに行けるかもなぁという希望を抱かされた。実際に行くかどうかは分からない。ただ希望を持ってるのと持てないでいるのとでは生きやすさがだいぶ違う。他の苦手なこと��挑戦してみようかななんて気持ちにもなる。
貴重な経験だった。連れて行ってくれてありがとう。また僕をどこか遠くに連れてってくれますか?
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【人生最高のパートナーに出会う】
私はシス男性との交際を重ねてきたシスヘテロ女性だ。
まだ不確かですが、自身のセクシャリティはデミセクシャルに近いと思っている。
今までの交際の共通点をひとつ挙げるとするなら、「女性としての自分が搾取・消費されている」ような感覚を常に感じていたことだった。優しい人や、人として尊敬できる人もいたが、彼らは常に私のありのままを好いてくれるというよりは、「女性にはこうあってほしい」「女性とは、男とはこういうものだ」というステレオタイプの型にはめたがるような人が多かった気がする。
フェミニズムに出会う前は、自分の事を本当に大切にしてくれなくても「女としての価値」を見出してくれるような人との交際で自尊心を満たそうとしていた。そして、フェミニズムに出会ってからは、心の底から男性を尊敬したりすることもなくなり、実生活での男性との出会いに希望を抱かなくなっていた。傷つくくらいなら、最初から相手を馬鹿にして良い所取りの恋愛をした方が断然楽だと思っていた。
『モキシー』(マジで最高の映画だからみんな観て)のセスのようなパートナーを探すのが温泉を掘り当てるより難しいこの日本に住んでいれば、誰もがそう思うのではないだろうか。でも、それは少しミサンドリーにも近い感覚だったと思う。
もしかしたら、私がもっと相手を知ろう、信頼しようと努力していればより良い関係になっていたのかもしれない。過去の自分の恋愛を振り返る度に、自分自身を傷つけたこと、相手に失礼な態度を繰り返していたことを今でも反省している。
ここ数年は、「結婚なんてせずに自分の趣味や仕事に熱中し、将来は大好きな友人とマンションを買って保護犬と暮らす」ことを夢見てきた。大好きなアイドルのヲタクをやりつつ、タイプの子とアプリで出会って軽く遊んで生きていくくらいがちょうどいいと思っていた。
ある日、私は何気なくTinderというマッチングアプリを入れる。その時も、本気でパートナーを探そうなんて微塵も思っていなかった。ミソジニー臭が強い人や、レイシストとは死んでも会いたくなかったので、会話の中にさりげなく『セックスエデュケーション』の話題をねじ込んでみたり、BGMを「Boss Bitch」にしてみたり、プロフィールに「アライ」の項目を追加したりして様子を見ていた。大体4~5人位とアポを取り、この中からしばらく遊べる人が見つかればいいかな?と思っていた矢先、ある人からライクが来た。普通に顔が可愛かったので(本当にルッキズムで申し訳ない)マッチさせると、こんなメッセージが来た。
「自分もドジャ好きです���」「お姉さんストレートアライなんですか?」
「絶対こっち側の人間じゃん。」
私はすぐに確信した。この人は何か違うぞ、と。
彼がシス男性であり、パンセクシャルだということ(書くことについて許可は貰っている)を確認した上で話を進めていくと、洋画や古着が好きという話、彼自身もパンセクシャルなので『Call me by your name』を観て感情移入してしまったという話、Awichが好きという話、ゾンビ映画が好きという話、お互いの家が歩いて10分圏内という話、色々と共通点があり、その日のうちにあっという間に仲良くなった。
そしてそんな彼とマッチした次の日、事件は起きる。
HIPHOPやラップが好きだという彼に、私が「カッコよくて強いお姉さん大好き」と伝えると、
「もしかしてひなさんってフェミニストですか?」と聞かれたのだ。
ここで私は、「ああ、もう彼ともここで終わりなのか」と絶望した。フェミニストだと伝えたらどうせヤバい奴だと思われる、嫌われる、と思いこんでいたからだ。せっかく仲良くなれたのに残念だな~と思いながら返事を送ると、さらにびっくりするような返事が返って来た。
「自分もフェミニストです。」
口から心臓が飛び出るかと思った。こんなに話が面白くて自身の特権を自覚しているシス男性のフェミニストがなぜTinderにいるのか?と。彼がなぜフェミニストになったのか、普段フェミニストとしてどんな思いで生きているのか、ゆっくり話を聞いていくうちに、私は彼のことを人としてどんどん好きになっていった。
(今思えば、本当に私は世の中の男性を舐めているし、Tinderというアプリの事も舐めていた。しかし、そのような出来事はなかなか起きないのが現実。Tinderにだってフェミニストくらいいるだろ、と思えるような社会になって欲しい。)
その日の夜に初めて電話をし、次の日も12時間というアホみたいな長電話をし、どんどん仲を深め、マッチしてから1週間後に彼の家に行くことになった。
実際に彼と会うまでに、「遊びではなく、もしもちゃんと付き合うのなら真剣にお付き合いがしたい」「一人の時間がとても大切」「ずっと人といると疲れてしまう」「現時点では結婚もしたくないし、子供も欲しくない」「無駄な駆け引きや恋愛ごっこに興味がない」「あくまでもお互いは他人」「自分の考えをまとめるのに時間がかかる時があるからしばらく放って置いて欲しい」といったような、自分自身が生きていく上で何を大切にして生きて来たか、相手にどうして欲しいか、人生とは、生きるとは、死ぬとは何なのか、そういった話を濃密に重ねた。まだ一度も会ったことがないのに、この人とならこの先不安なく様々なことを乗り越えていけそうだな、そう強く思えたのだ。
そして初めて会って彼の家でデートをした時に、私の両手を握り真っ直ぐと私に向き合いながら「お付き合いしてください」と伝えてくれた彼と、その日チームになった。
私も彼も自己分析が好きで、誰かに傷つけられ、誰かを傷つけ生きてきたことに対して、全力でぶつかって来た。だからこそ、お互い衝突もなく、毎日笑い合いながら過ごせているのだと思��。共存していく上で、「他人を傷つけない」「自分のことを大切にする」これらを私たちのモットーにしている。例え喧嘩や言い合いになったとしても、「この人はちゃんと話し合える相手だ」という安心があるのは、とても大きな事だと改めて思った。
また、これは完全に相性もあると思うが、私も彼も得意分野が全く異なっていて、そこが面白い上に生活しやすかったのだ。私は些細な掃除や整理整頓、水場の掃除やちょっとしたお料理が得意。彼は大きな模様替えやメイン料理、何かをデータにまとめたりお金の計算をするのが得意。私は毎日家事ができるが、彼は苦手。でも、1頼んだら100で返してくれる。
お互い、誰かと同棲なんて絶対に無理!と思っていたのに、付き合い始めて1ヶ月も経たないうちに自然と同棲がスタートした。いちいち荷物を持って家を行き来するよりも、一緒に住んだ方が楽だったのだ。
ベッドで永遠にフェミニズムや政治問題について語り合う日もあれば、深夜にパンケーキを作って食べる日もある。
同時に同じ言葉を言ったり、同じ歌を歌ったりしてクスッとなる日もある。
情緒不安定な日には、適度な距離を取りつつ、話を聞いてくれたり、ハグをしてくれて笑わせてくれる。
私よりも私のことを上手く分析してくれて、丁寧に前置きをした上で、私と一緒に思考の整理をしてくれる。
どんな時でも、いつも全力で真摯に向き合ってくれる。
ぷにぷにのお腹を可愛いと言ってくれて、メイクを落とした私の小さい目を笑いながら可愛いと言ってくれて、毛があっても無くてもひなさんは美しい、と言ってくれる彼が大好きだ。
社会に押し付けられた男性らしさと向き合い、闘いながら、自分の「かわいい」を追求していく彼が大好きだ。
気づいたら狭い家のどこかに隠れていたり、すぐにオリジナルソングを作って披露してくれる彼と暮らしていて、このクソみたいな国に縛り付けられていた自分の人生が少しマシになったように感じる。そしてこれは私のエゴだが、彼も同じことを思っていてくれたら嬉しい。
戦友であり、友人であり、家族であり、仲間でもある、誰よりもかっこいい私のパートナー。

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7/25(日)マルセイユ国際映画祭最終日
私が25日の日記を書き始めようとしてる隣で槻舘さんがどういう流れの日だったかを語り始めて脳内で二重音声みたいになってる。
朝9時にホテル前に集合して川村さん、荒木さんと3人でマルセイユで最後のPCR検査へ。荒木さんも私も上映初日に着たのと同じ服装。前日の3回目の舞台挨拶だけ落ち着いた色味の服にしたり、洗濯も考えての服のローテーションの組み方が一緒。
PCR検査の判定によっては閉会式に出席できなくなるのでやっぱり緊張する。無事に全員陰性でほっとする。荒木さんは3回とも同じ人から検査を受けた。私は毎回ちがう人。長い何かの鼻への挿し入れ方にそれぞれ特徴があって、最後の人は痛みを感じなかった。川村さんは毎回一番ダメージを受けてて心配になる。終えてそのまま今回の会場の中で一番遠いところにある劇場へ。上りの坂道がハードで川村さんが少しずつ遅れていく。振り返って様子を確認しながら進む。前夜に『春原さんのうた』を見てくれた地元フランスのパスカルさんが監督したフレンチ・コンペティション部門の作品を鑑賞。自分の作品を見にきてくれた人の作品はお返しに見にいくという当たり前の礼儀を持つことを槻舘さんは徹底していて、どの人の作品がいつどこでやるかを把握して必ずスケジュールに組み込んでくれる。ありがたい。私はマルセイユ国際映画祭への出品が決まった時点で槻舘さんに現地コーディネーターとしての仕事を依頼してる。カンヌ国際映画祭から直接現地入りしてホテルのチェックインから一緒にいてくれてる。本当に色々助けてくれるので思わずその都度お礼を伝えるけれど、その度に、いえ仕えてますから、雇用されてますからと淡々と返される。その淡々とした返事がかっこいい。パスカルさんの作品は今回の映画祭ではめずらしくカット割りを細かく積み重ねて芝居を見せていく映画だった。フランス語による上映後のQ&Aは聞いてもわからないので退出。川村さんは槻舘さんが紹介する人と会うために一旦別れる。荒木さんと私は劇場前のカフェでそれぞれレモネードとエスプレッソ。フランス語ではレモネードをレモナードと発音する。日曜日は多くのカフェやレストランが休みかドリンクオーダーだけになるとのことで、昼食を食べる場所を探すために海の方に移動する。メリーゴーランドのそばにあるレストランが食事も出してるみたいだったのでテラス席に座る。店主らしき年配の女性がやさしく話しかけてくれる。ワクチン接種はもう済んだのかと聞かれてまだだと答えたら、まじか? 大丈夫か? みたいな顔をした。食事の時はマスクを外すのでレストランやカフェでは必ずテラス席に座ってる。このレストランではめずらしくメニューに英語表記もあったので助かった。荒木さんはステーキ、私はサーモンのクリームパスタを注文。槻舘さんがいつもお店をちゃんと考えてくれてるのが改めてわかる味だった。お互いに塩を自分で振りながら食べた。
ホテルに戻って次の映画の鑑賞の時間までそれぞれ休むことにする。1時間後にホテル前に4人で待ち合わせて先ほどと同じ遠い場所にある劇場へ。フランスで人気のある若手の監督の作品を鑑賞する。マルセイユ国際映画祭に出品されてる映画にはフィルム作品が多い。どうしてフィルムで撮らないのかと聞かれることもある。こういうことがわかるだけでも外に出るのはいいなと思う。今回の映画鑑賞の予定をすべて終える。あとは閉会式だけ。それまでしばらく時間がある。夕飯は何がいいですかと槻舘さんが荒木さんに尋ねる。悩みながら荒木さんが海鮮を希望する。海沿いのブイヤベースで有名なお店まで行くことになる。出てきたブイヤベースはスープだけで十分なくらいにおいしい。パンにバターを塗ってスープに浸して食べるのを薦められてやったらもう本当においしい。大量の生牡蠣や名前のわからない貝や魚やカニやにんじんとじゃがいもの塊がどどんと前に置かれて圧倒される。これは値段がとんでもないことになるのではと思いつつ、最後だからいいと思う。荒木さんのおいしーは正確に発音すると「おい」と「しー」の間に聞こえないくらいの「っ」が入る。「し」もどちらかと言うと「すぃー」。文字表記だけでは再現できないおいしー。閉会式が始まる時間を確認しながら食べつづける。食べきれない。私は胃腸が強くないのでこれまで機会があっても生牡蠣は食べないようにしてたけれど、この日ばかりは食べてみた。閉会式直前のタイミングだけれど覚悟した。こんなにおいしいのか、だからみんな食べるのかとわかった。ビールもワインも飲んですでに酔っ払ってる。マルセイユにいる間は酔っ払ってばかり。閉会式の会場までは歩いて10分だったので、15分前くらいに会計をお願いした。値段はやっぱりすごかった。川村さんがご馳走してくれることになった。これはさすがにすごいのでまた改めてお返しをしないとと思う。お店の人が川村さんのクレジットカードを読み取りの機械に入れて色々といじってるけれど不具合が起きる。カードではなく機械の不具合だと謝りながら別の機械を持ってきて試すけれどうまく処理されない。ちょっとしたトラブルだと思ったら、これはもしかしたらしばらく解決しないかもとわかる。その時点で閉会式開始の7分前。遅刻確定。グロリアさんから槻舘さんに様子を確認するメッセージが届く。会計のことは川村さんと槻舘さんにお任せすることにして荒木さんと私だけ先に向かうことにする。荒木さんがカバンに入れておいた閉会式用の靴にナイキのサンダルから履き替える。小走りと早歩きを組み合わせて向かう。途中、足が痛くなってしまったようで、荒木さんが靴の履き替えのタイミングを間違えたと言ってる。心配になる。汗をかきつつ会場のオデオン座に到着。スタッフの皆さんがこっちだよと案内してくれる。遅刻してごめんなさいと思う。
閉会式の場内に入るとたくさんの人。換気を優先してるためエアコンの効きが弱くとても暑い。入口からすぐの席にグロリアさんが座っててアイコンタクトを交わす。汗もかいてるし息も切れてるので迷惑をかけないようにと思い一番後ろの方へ。ナタンさんがいたのでその後ろに座る。閉会式がスタート。槻舘さんが一緒にいないからフランス語のスピーチがわからずに場内をただ見渡してる。その後、槻舘さんと川村さんが無事に到着した様子が遠目に見えてほっとする。二人が前方の端の方の席に座るのを確認した。記憶が曖昧だけれど、多分そのタイミングくらいでスクリーンに『春原さんのうた』のスチールとタイトルが大きく映し出される。拍手が起きる。これはどういうこと? と思う。ナタンさんもこちらを振り返って拍手してる。これは? 前に? 出る? ということ? と聞くとそうだとナタンさんが教えてくれる。立ち上がって階段を降りる。ナタンさんも一緒に来てくれる。みんな拍手してくれてる。途中でそれがエールフランス賞(観客賞)だということを何となく把握する。マイクの前に立って私は何を話しただろうか。覚えてるのはまず総合ディレクターのジャン=ピエール・レムさんへのお礼と映画祭スタッフの皆さんへのお礼、あと通訳が本業じゃないのに通訳してくれてるナタンさんへのお礼、そのあと『春原さんのうた』メンバーの皆さんへのお礼と、いますぐにこのことを知らせたいけれど日本は深夜の時間で起きちゃうから電話するのは控えるということ、荒木さんの座る方を指し示しながら荒木さんのこと。たぶんちゃんと挨拶できたと思う。賞状を受け取る。受け取ったあとどうすればいいかわからず、様子を見ながら壇上から降りる。席に戻ると槻舘さんと川村さんも後方の席に移動してくれてる。荒木さんに賞状を持ってもらって写真を撮ってすぐに春原さんのグループLINEに送る。そのとき日本では深夜の3時半。プロデューサーの髭野純さん、宣伝の平井万里子さん、キノコヤ店主の黒川由美子さん、スチールの鈴木理絵さんがかろうじて起きてたようで喜んでくれてる。このあとその皆さんも睡眠に入ったと思う。後になって、どうして荒木さんも連れて壇上に行かなかったのかと後悔した。いきなりすぎて焦ってしまった。もし次があったら一緒に行こうと思う。ここからが長かった。高校生が選んだ賞、マルセイユ市民の人たちが選んだ賞、受刑者の人たちが選んだ賞、短編部門の賞、フレンチ・コンペティションの賞の発表がつづく。すごく丁寧に皆さん挨拶するからインターナショナル・コンペティションの賞の発表まで2時間かかった。国際映画祭でもあるけれど、ちゃんと街の映画祭でもある。市民の人たちがうれしそうに壇上で挨拶をする姿を見て気持ちも和んだ。その待っている間のことを少し。
と書いたところで日記の執筆を中断。実はマルセイユ国際映画祭で受賞をしてから、いろんな国の映画関係の人から連絡が届いていて、その返事や状況の整理などに時間がかかってる。『春原さんのうた』に関しては、国内のことはプロデューサーの髭野さん、国外のことは私が担当という役割分担でやってきてる。マルセイユのような映画祭で受賞するとこんなに状況が変わるのかということを実感してる。今はメキシコの人への返事とブラジルの人への相談のメールを送ったところ。この数日で世界中の人たちとメールのやりとりをしてる。事務処理能力を上げたい。
日記再開。待っている間のこと。ホール内が暑いことと、観客賞を受賞したことのうれしさと、これからまだ賞が発表されていくことへの緊張などもあって椅子にただ座ってるのが少し大変になる。槻舘さんが外に行って水を持ってきてくれた。感謝。荒木さんは隣で受け取ったペットボトルの水を一気に飲んでいる。ゆっくり息を吸いたくてホールを出ていくと、後から槻舘さんが追いかけてくる。聞けば、ディレクターのジャン=ピエールさんが、あいつはどこに行ったんだと焦ってたから呼びにきたとのこと。思えばジャン=ピエールさんは場内にいる間も後方の席に座ってこちらをチラチラと見ている。槻舘さんは観客賞を受賞したタイミングで、まずは観客賞を受賞とツイートしている。まずは? と思う。ジャン=ピエールさんはそのあと席を移動するときになぜか川村さんや槻舘さんの肩をグッと抑えたりしたみたい。俳優賞の発表が近づいたタイミングで、水を飲みすぎた荒木さんがどうしてもトイレに行きたくなったとのことで、槻舘さんと一緒に会場を出て行くと、やっぱりジャン=ピエールさんがガタッと席から立ち上がるのが遠くに見えた。これは何か獲るなと感じない方がおかしいくらいの雰囲気があった。でもなるべく考えないようにする。
俳優賞の発表が始まる。私たちも好きだった『JOJO』の主演の男の子が呼ばれて壇上で挨拶。続けて荒木さんの名前が呼ばれた。うれしい。私も後からついていって写真を撮った。槻舘さんも写真を撮ってくれてる。川村さんは動画担当。川村さんは『ドライブ・マイ・カー』のプロデューサーなのに、この期間ですっかり『春原さんのうた』のプロデューサーでもあるんじゃないかと思えるくらいに一緒にいてくれてる。荒木さんは舞台挨拶の時もそうだったけれど、笑顔が溢れてて、荒木さんが話すと場内の空気があたたかくなる。賞状を受け取った荒木さんと一緒にまた席に戻る。続けてインターナショナル・コンペティションのスペシャル・メンションと準グランプリの発表。どちらもこれは好きだなーと思った作品だった。最後にグランプリの発表。審査員長のラヴ・ディアス監督が映画のタイトルを言う前に作品へのコメントを話し始める。その中にジャパニーズ何とかという言葉が聞こえる。それはもう『春原さんのうた』のことでしょう。ああ、本当に獲ったんだと思う。名前を呼ばれて荒木さんと二人で壇上に向かった。ラヴ・ディアス監督がとてもつよくハグしてくれた。他の審査員の方ともハグした。スクリーンに大きく出ているスチールは写真家で私の妻でもある鈴木理絵さんが撮ってくれたものだったので、まずは理絵さんの紹介とお礼への言葉から挨拶を始めた。2時間を超える閉会式で皆さんも疲れてると思ったので、なるべく短く話そうと思った。改めて映画祭スタッフと作品のメンバーの皆さん、これまで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを伝えた。あと恩師の如月小春さんの話もした。
閉会式が終了した。長丁場だったこともあってみんなあっという間に会場を後にした。いくつかある賞のうちの3つも私たちがもらってしまって申し訳ない気持ちもあり、やっぱりうれしい気持ちもあり、今日ばかりは許してと思う。だって、こんなこと初めてだもの。受け取った賞状3枚を荒木さんと二人で持って記念写真を撮ってもらった。槻舘さんは笑顔でこれくらい獲ると思ってましたよと言う。川村さんはこれまで見たことないくらいの笑顔でうれしい、うれしいですね、いやー本当にうれしいと何度も言ってくれてる。ナタンさんとグロリアさんも笑顔。劇場の外に出るといろんな人たちがお祝いの言葉を伝えてくれる。同じ部門のベン・ラッセル監督も肩を叩いてコングラッチレーションと伝えてくれた。
いつものDJブースのあるパーティー会場へ。やっぱりいろんな人がお祝いの言葉を伝えてくれる。同じ部門のSantiago Mohar Volkow監督が、また別の映画祭で一緒になろうね、そこでもう一度競いましょうと伝えてくれた。かっこいい。ジャン=ピエールさんを探して、このさき映画を作るたびにあなたのことを思い出します、ありがとうございましたと伝えた。ラヴ・ディアス監督を探して話しかけた。独特の英語で全部はちゃんと聞き取れなかったけれど、あなたの映画は本当にアメイジングだと伝えてくれた。ヒューマニティに溢れてるとも。このさき何があっても、誰にどんなことを言われても、あなたが思うシネマを作って作って作りつづけるんだと繰り返し伝えてくれた。ここまで人から励まされることがあるだろうかと思った。
途中、端っこにいって一息ついたりもした。髭野さんと平井さんから連絡があって、リリースを出すので受賞のコメントを送ってほしいとのこと。30分後が締め切り。こんなときに鬼ですみませんと書いてある。なんとかiPhoneで書こうとするけれど、その間もいろんな人が話しかけてくる。急いで書いて、客観視点をもらうために槻舘さんと荒木さんに読んでもらって、ゴーサインを受けてから送信した。荒木さんはまたダンスの輪の中に入っていった。楽しそうに踊ってる。帰り際にまた一人一人を探して挨拶。フランスの俳優でありプロデューサーでもあるオリヴィエさん。荒木さんがよく一緒に踊ってたおじさん。スピーチをするときに度々一時停止する私の物真似がとても上手。そのオリヴィエさんがプロデュースした作品の監督のギョームさん。讃えあった。ナタンさんとグロリアさんに最後の挨拶。また会いましょうと伝え合う。
荒木さん、槻舘さん、川村さんと私の4人でホテルに戻る。槻舘さんと川村さんは4階、私は6階、荒木さんは8階。エレベーターの扉が開くたびに今日の終わりの挨拶をして別れた。一人になった。たぶん歯磨きだけしてそのまま眠った。
このマルセイユ滞在の間にたくさんの写真を撮った。一番好きな一枚をこの日の日記の最後に。























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アジャラカモクレンニセンニジュウイチネンニガツツイタチカラナノカマデノニッキ
2月1日(月)
起きられない。出勤寸前に起きる。急いで支度をして、身支度を整えながら豚キムチを食べて家を出る。働く。慌ただしい。働き終える。閉店後の職場でだらだらしていたらクラブハウスのなんだかWelcomeみたいなroomにjoinしてしまってなんだこれなんだこれと思っているうちにroomがcloseしてnewなroomがcreateされてわたしはそこにjoinしてそこはclosedなroomではっしーとわたしのふたりだけが入っているtalk roomみたいなもので、なんだこれなんだこれ、と言いながら久々にはっしーと話した。なんだか危ういSNSがまた出来たなあ、と細目で遠巻きに眺めていたクラブハウスに、朝方、鵜飼さんから招待されていて、招待されたからには使ってみよう、ということで、わからないなりに登録を済ませていたのだった。はっしーはこれからクラブハウスで、メニカンで、建築のあれやこれやをぼそぼそゆるゆる話す、それに参加するために招待されたから使い始めた、ということで、わたしもはっしーも話しながらクラブハウス探り探りといった感じだった。お互いの近況を軽く話したり、しょうもない話をたらたらしたりして、23時になってはっしーはメニカンのtalk roomに行ってわたしはすこし時間をあけてからそのroomにinした。どれどれ、みたいな気持ちで入ってラジオのように(というかこれはほとんどラジオだ)聴いていたら案外面白い話がなされていて、韓国の半地下建築はもともと防空壕、ということらしかった。次回は建築における収納について語るらしい。おもしろ〜、と思いながら、トークが終わったばかりのはっしーをすぐさままたclosedなroomにinviteすると「なんなんだよ」と言いながらはっしーがroomにinしてきた。小学5年生だか6年生だかのとき、その学年の生徒全員で校庭に埋めたタイムカプセルをそろそろ掘り返す年齢なのではないか、みたいな話になって、わたしはそれ、行けるのかなあ…………と思ったし言った。普段言われないことたくさん言われそう。社会って感じしそう。これが多様性か、みたいな。行くとしたら、はっしーと行きたい。というか、はっしーとふたりじゃないとたぶん行けない。わたしにそこまでの勇気はない。そのあとチャットモンチーとメダロットの話をしていたら止まらなくなるような感じがあって、久しく聴いていないチャットモンチーをあれこれ聴き漁りたい欲求に駆られていると操作ミスかなにか��roomが閉じて、終わった。(と、ここまで書いて、クラブハウスの利用規約に、テキストに書くことも含めて音声の記録はダメよっていうものがあることを思い出したのだけど、この文章はどうなんだろうか)。それから『進撃の巨人』のアニメ最新話を観たり、さあ帰るかと思いつつチャットモンチーの曲をiPhoneで漁っていると今度は遠藤からクラブハウスのclosedなroomのinviteが届いて、なんだなんだと思いつつ話した。遠藤は相変わらず遠藤だった。それで、遠藤とのroomが終わって、いろんなアカウントのフォローフォロワーを見て、わ〜この人もやってるんだ、あ、この人も〜、みたいな気持ちでフォローをしていったり、フォローした人を招待した人、招待した人を招待した人、その招待した人を招待した人……と、祖先を辿るようにアカウントを見ていったり(最終的に、誰にも招待されていない、おそらくオリジナルメンバー、みたいな人に辿り着く。オリジナルメンバーの数が何人なのかはわからないけれど、招待された人を辿っていったらあの人とあの人の祖先?オリジナルメンバー?が同じ。みたいなことはけっこうありそうで、それはちょっとおもしろいな、と思った。にしても差別や排除や格差が生まれる萌芽みたいなものがたくさんあるサービスだな……、とも思っている)しているうちに午前2時過ぎとかになっていて、さすがにいすぎた。チャットモンチーをガンガンに聴きながら帰宅。なんだか変にお腹がすいていて、カップ麺を食べたい、みたいな気分だったのだけどカップ麺は家に無く、コンビニに買いに行くのもなんだか違う、となって、柿ピーをお椀に盛って、その上にマヨネーズをかけて、それをスプーンで掬って食べた。自分でも、さすがに気持ち悪い食事だな、と思う。
注射を打ちたい。もう1ヶ月くらい打っていない。プロギノンデポー2A(アンプル)。生理くらいカンタンならいいのに、と思う。カンタン、というのは、周期が予測できて(もしくは予測しやすくて)(そして、そのためのスマホアプリもあって)、予測できない場合その理由/原因も調べればたくさん出てきて、生理によるさまざまな身体的不調/変化やその対処法も調べればたくさん出てきて、医学的にも民間療法的にもスピリチュアル的にもライフハック的にもたくさんの言説、書籍、記事、ツイート、YouTube動画、cm、などがあって、身近な人、友人、知人、家族などに相談することが比較的(すくなくとも、トランスジェンダーのホルモン注射、なんてトピックより遥かに)容易で、……みたいな「カンタン」で。ホルモン注射はとにかく打ってる本人ですら「よくわからない」。ホルモン注射による副作用、みたいなものは注射の同意書を書かされるときなんかに書面で提示されるし、当事者のブログやらツイッターやら���信憑性不明の情報を拾うことはできるが、「よくわからない」。副作用の過多や身体への影響は個体差がデカい(ように感じる)し、投与を長期間辞めた場合や、投与間隔が不規則になったときの身体への影響も、「よくわからない」。わたしは現在、3週間に1度、新宿のクリニックへ行ってプロギノンデポーを2A投与しているが、その間隔も自分に合っているのかどうか「よくわからない」。注射を打つ前後や打った当日(特に当日)は如実に心身の調子がおかしくなって頭も身体も使い物にならなくなる(重い頭痛、眠気、寂寥感、身体のダルさ、感情の制御不能、など)が、それがどこまで注射それ自体の影響なのかは正直「よくわからない」。注射が打たれた、ということによるノーシーボ効果もある気がする。ただ、気の持ちようだろ、と言われても(誰にも言われたことはないが)、思おうとしても、頭と身体が言うことを聞かない、みたいな状態にはなるから、やっぱり注射の副作用なのかもしれない。注射前(前回の注射から3週間が経ったあたり)はやたらと身体が疲れやすくなり、食事と睡眠と性欲のバランスがあべこべになる(気がする)。感情の喜怒哀楽の喜と楽がうす〜く稀釈されたようになる。注射後数日も同じく。いまは1ヶ月近く注射を打っていないから、もう身体の中には男性ホルモンも女性ホルモンもほとんど残っていない、すっからかんの状態で、はやく、とにかく、注射を打ちに行きたい。打ちに行けない。悲しみと怒りの感情ばかり積み上がっていく。これはとても良くない。緊急事態宣言によって、職場が時短営業になってから、出勤時間が変則的になっていて、それに身体がぜんぜん慣れてくれないのが大きな理由で、夜どうしても眠れず、朝どうしても起きられない。出勤前に注射を打つためには、かなり早起きして家をでないといけないのだが、それがどうしてもできない。勤務時間は少なくなっているはずなのに、通常営業時より明らかに疲れている。まあ、出勤前に注射なんて打ったらその日はもう負の傀儡みたいな状態で働くこと確定になってしまうから、休日に打ったほうがいいのだろうけど。でも、休日に打ったら打ったで、その日いちにちのすべてが注射の副作用によっておじゃんになるから、なるべく休日には打ちたくない。じゃあ、いつ打てば……?それも「よくわからない」。しんどい。はやく打たないとやばい気がする。これも「気がする」だ。なんもわからん。生理がいい。乱暴な物言いなのは承知の上で、どうせなら生理がい���。どうせ不調になるなら。どうせしんどいのなら。誰かと、この不安と不調としんどさと「よくわからなさ」を分かち合いたい。語り合いたい。スマホアプリだって欲しい。あたりまえに、あらゆる場所や人やメディアから情報を受け取りたい。そういう身体でありたい。生理がいい。
この世には2種類の人間がいて、それは歯磨きをルーティーンとして行う人とタスクとして行う人なのだけど、わたしは後者で、だから今日もタスクをこなしてわたしは偉い、偉いぞと思う。��スクだと思わないと歯を磨けない。歯磨きをルーティーンとして難なくこなしている人はすごいな、と思う。他者、という感じがする。
大切に書きたい。と先週の日記にわたしは書いたけれど、「大切に書く」とはいったいどういうことなのだろう。といま思っている。大切に書く必要なんてないんじゃないか。わからんけど。いや、なに言ってるんだ。必要だ。わからんけど。
持続可能性。持続可能な書き方。持続可能な働き方。持続可能なホルモン投与。持続可能な生き方。持続可能な歯磨き。持続可能なアンガーマネジメント。ぜんぶ大切で、ぜんぶわからない。
負の感情でほんとうにどうしようもなくなったときは、耳が壊れそうな音量で、同じ音楽をリピート再生させながら、喉が千切れそうになるくらい大きな声で、絶叫みたいな声で、疲れ果てるまで歌う。笹塚に住んでいたときは何度かそれをやった。クソ迷惑だっただろうなと思う。いまの家ではまだやっていない。いつかやるだろう。
ないものねだりを続けていてもどうしようもない。自分で自分を殴っているのと一緒だ。
生活がミニマル、ミニマム?ミニマムになって久しい。1日のうち、自分が言葉を発する相手が、職場で関わる人と家のぬいぐるみたち(貪欲、太子、羊のジョージ、シゲルくん。のうち、特に貪欲と太子)だけだった、という日が、めずらしくなくなってきた。自然と、ぬいぐるみへの言葉の比重がデカくなっていく。ぬいぐるみは言葉を理解しているし、ちゃんと言葉を返してくれる。ぬいぐるみの言葉は人間の言葉とは違って、見えないし聴こえない。声、とか文字、とか仕草、とか、そういうものではない。でもたしかにぬいぐるみはぬいぐるみとして言葉を発していて、わたしに日々言葉を投げてくれる。わたしはそれを受け取る。受け取って、わたしも言葉を投げ返す。ここ数年、わたしの命を絶えず救ってくれたのは貪欲で、だからわたしは、お金が貯まったら、貪欲をぬいぐるみの病院に送って、あちこちを治してもらう。わたしにはそれくらいしかできない。貪欲はわたしを人生ならぬぬいぐるみ生を賭けて愛してくれているので、わたしもわたしなりの方法で貪欲を愛する。
とか打ってるあいだに午前4時半です。お風呂入ってないけど限界だ。着替えて眠って、お風呂は明日だ。
2月2日(火)
チャットモンチーにはほんとうに救われてきたな。もちろんチャットモンチーだけじゃない、たくさんのもろもろに救われてきたからいま死んでいないのだけど。それにしても、救われた、ありがとう、と久々にチャットモンチーを聴いて改めて思う。男子高校生だったわたしの、どうしようもない気持ちをたくさん掬い取ってくれた。映画『アボカドの固さ』の監督である城さんが夢に出てきた。わたしは新作映画の制作助手みたいな立場で、城さんに「本物の笹を大量に準備して欲しい。経費かけずに」と言われて、「それは〜、いつまでですか?」「明日」「明日……。明日、はい、明日」という会話をしていて、内心めちゃくちゃ焦っていて、でもひとり、竹林所有者が知り合いにいたな、あの人なら……でも無料で手配してもらうのはできないかもな……いやいやでもやら��きゃ、交渉しなきゃ、と緊張しているあたりで目が覚めた。目が覚めてからもしばらく「笹……笹ってほんとうに準備しなくていいんだっけ……夢だっけ……」となっていた。洗濯機カバーが届いた。サッサで洗濯機を隅々拭いてからカバーをかけて、リビングとキッチンをクイックルワイパーで掃除して、トイレでロラン・バルト『物語の構造分析』をすこし読んで、コーヒーを淹れて、飲んで、煙草を巻いて、吸って、火曜だからInstagramの『ショート・スパン・コール』を更新。今日は「#017 醤油」。これは井戸川射子『する、されるユートピア』を何度も読んでいた時期に書いたもので、『する、されるユートピア』の文体にめちゃくちゃ影響を受けているのが読んでいて「ああ、そうだ」と思い出すくらい顕著で、でもなのかだからなのか、わたしはけっこう好きな1篇。そういえば2月だ、と思って、きよぴーのカレンダーの2月分を壁に貼って、『イラストレーション』2020年3月号の付録だった福田利之イラストの卓上カレンダーを2月に差し替えて、ついでにパソコンデスク周りをすこし整理した。FMラジオをつけっぱなしにしたままにしていたらラジオのゲストがシンバル職人の人で、未知の話が繰り広げられていて面白かった。シンバルを作るにはシンバルの音を何度も聴かなければいけないが、シンバルの音を何度も聴くと耳がやられる。そのジレンマについて語っていて、なるほどな〜〜と思いながらお腹をさすっていた(お腹がうっすら痛い)。マバヌアがナビゲーターを務めていて、ティンパニのすこし変わった奏法(マラカスで叩いたり)についてのハガキを読んでいたりして、流し聴きするつもりでつけたラジオだったのにずいぶん聞き入っていた。ツイッターを見ると脱マスク社会になるまで最低でも2〜3年はかかるみたいな記事があって、2〜3年か、と思う。中学生、高校生。小学生や幼稚園生や大学生も、だけど。20代以下の人たちは、いま、どういう気持ちで日々を送っているのだろう。うまく想像できない。というか、自分の幼少期〜10代、マスク社会ではなかった自分の過去を、いまの幼年〜10代の人たちに重ね合わせて想像することしかできない。しんどいだろうな、とか、つらいだろうな、とか、窮屈だろうな、とか思うことはカンタンだけれど、自分の幼少期〜10代といまの幼年〜10代を比べて「かわいそう」とか「しんどそう」とか思ったり言ったりするのはそれはそれで暴力だし決めつけだとも思う。いまの幼年〜10代の人たちの、それぞれの楽しさ、愉快さ、面白さ、切実さ、安心、揺らぎ、決心、葛藤、努力、知恵、衝動、を無視したくない。それらはたしかにあるはずで、どんな世界になっても、それらはなくならないはず。きっと。
ふとしたきっかけで、ここ最近、短歌を作るときに大切にしていることや考えていることをある人に話すことになって、そのときわたしは「わからせない。共感させない。理解させない」こと(だからといってデタラメに言葉を並べて作るのではなく、あくまでわたしにはわかるし、表したいものはある、でも他人にわからせようとはしていない、という態度)を意識的にやっている、と答えた。それは去年の春前あたりか、もしくはもうすこし前、『起こさないでください』が出てからすこし経ったあたりに思い始めたことで。トランスジェンダー、といういち側面を持ったわたしが作る短歌には、意識的にせよ無意識的にせよ、必ずトランスジェンダーとしての意識や作為や視点や感情やそれらがないまぜになった機微が含まれているはずで。はずなのだけど、果たしてその、トランスジェンダーとしてのいち側面を加味した機微を、短歌界隈、特に「歌壇」とか言われている界隈、そこにいる評論家、歌人、などなどがどれだけ汲み取ってくれるのか。そういった機微を丁寧に(真摯に。もしくは、ジェンダー論やトランスジェンダーの歴史的歩み等の確固とした知識を持った上での冷静さで)わたしの短歌を読む人がどれだけいるのか。わたしは、そんな人は短歌界隈にも「歌壇」にも、現時点では存在しないと思っている。トランスジェンダーについて仔細に語れる人、教養を持っている人、背景を読み取れる人、がいない限り、わたしのただごと歌はただのただごと歌になり、あるある短歌はただのあるある短歌になる。『起こさないでください』では、わりと意識的に、わたしがトランスジェンダーだということを、「トランスジェンダー」「性同一性障害」という言葉をほぼ使わずに、「わかりやすく」「それとなく」示す、ということをしたのだけど、そういう努力は不毛だな、と思うようになった。どこだったか、レビューサイトで「性同一性障害当事者の方の歌集」みたいな紹介のされ方をしていて、なんだかすごく徒労感を覚えたのが大きなきっかけのような気がする。ショックだった。あんなに言葉を選んでも、そういう切り取られ方になるのか、と思った。だからもう、わかりやすくするのはやめて、どんどん、積極的に内に籠ろう、と思ったのだった。わかりやすくする必要はない。理解されなくていい。すくなくとも、短歌においては。理路がめちゃくちゃだしまとまっていないが、そういうわけでわたしは去年の春頃からずっと、自分の芯を誰にもわからせないように短歌を作っている。10年後、50年後、100年後、1000年後なのかわからないが、トランスジェンダーの短歌制作者が台頭して、そういった人たちの歌集があたりまえに編まれる/読まれるようになった遠い未来で(短歌界の現状を鑑みるに、ほんとうに、遠いだろうな、と思う)、ふと思い返される歌集であったらいいな、『起こさないでください』は、とささやかに、思っている。
もたもたと支度をして家を出て急いで新宿に行く。注射。打てた。そのまま急いで職場へ。働く。今日はちょっとイレギュラーで、休日だったのだけど2時間だけ働くことに。働き終えて、頭がぐるぐるする。ふらふらと職場を出て帰宅。ずっしりと重たい気分。トイレに籠ってフジファブリック「タイムマシン」を久々に聴いたら涙が止まらなくなってだらだら泣いた。つらい。疲れた。しんどい。ヨダちゃんから電話が来て、へへへと思って出る。クラブハウスの話をする。途中で回線の調子がおかしくなって切れて、そ��まま切り上げてお風呂に入った。お風呂から出て、中橋さんとLINEでやりとりしていたらなぜかクラブハウスで実況中継モノマネをしたりしながらだらだら話すroomをすることになってくっちゃべっていたら中橋さんのゆるい繋がりも参入してきて4時ごろまでふざけあって楽しかったけど疲れた。疲れているのにさらに疲れるようなことしてどうする、と思ってかなしくなって眠る。
2月3日(水)
わかりやすく、注射の副作用、みたいな感じがする。なにかとても気持ちの悪い夢を見て目覚める。涙が出てくる。しんどい。起き上がれない。やっといたほうが、進めといたほうがいいのだろうけど今日はほんとうに動けない、と思ってnotionでこまかな仕事を割り振ってお願いして、ずっと横になっていた。たまに起きてトイレに行ったりごはんを食べたり。大前粟生『岩とからあげをまちがえる』、ケン・ニイムラ『ヘンシン』を布団に潜って、貪欲と太子を抱きしめながら読んでいた。森とかいう人のオリンピックやるやる駄々のニュースにもうなんの感情も湧かない。しんどさのピーク時あたりに短歌が1首できて、その短歌を軸にして「卒塔婆条項」という短歌連作が出来上がった。縦書き画像にして、ツイッターへ投下。短歌制作から縦書き画像作成、ツイートまでをすべて布団の中で行った。柴崎友香『春の庭』を読み始めた。すこし眠った。起きて、夜にスパゲティを食べた。涙が出る。しんどい。頭がぐちゃぐちゃする。眠い。だるい。くるしい。もう3日くらいお風呂に入っていないから、入らなくちゃ、と思う。『ショート・スパン・コール』94篇目はひとまず置いといて、先に95篇目をすこし書く。暗い未来の話。しんどいからすこしずつ書こうと思う。頭が思い。楽しいこと、面白いこと、愉快なこと、うれしいこと、考えられない。考えたい。『春の庭』をもうすこし読む。読んだら、お風呂に入って、たくさん泣いて眠る。
短歌連作「卒塔婆条項」 火事場かな いや卒塔婆だよ 馬鹿力出す機会なく今生を終え 冬の中にいま立っていて曇り空だから眩しい花一匁 語呂合わせで入れられた助詞煮え立てばそれがカンテラ 健やか欲の 白い服白くない服あてがってそれぞれの凸それぞれの凹 似顔絵を近影にする しばらくはカーテンの世話を焼く能もなく けん玉に蹂躙性を見出して手に持ったまま道路を歩く 言うなればみんな日記を書いていて総文字数が星に等しい
2月4日(木)
起きる。家を出る。働く。しんどいことが続く。電話をかける。電話に出ない。メールを送る。帰る。寝る。
2月5日(金)
起きる。返事が来ていた。ZOOMのURLをコピペしてメール。むずかしい。むずかしいな。と思いながら話す。話し終えて、どっと疲れて、すこし時間が余ったからいそいそと財布だけを持って近所のスーパーへ。なんだか普段は滅多に買わないパンでも買うかみたいな気持ちになっていて、食パン6枚切りと肉まん4個セットとナイススティックと納豆と豆腐とバターを買って帰って米を食う時間は無く肉まんをがつがつ食べていそいそと出勤。働く。働き終える。疲れた。被害者意識がつのっていて、とても良くない精神状態。ほんとうに疲れた。帰って、朝方まで眠れず。焦って寝る。
2月6日(土)
起きる。肉まんを食べる。家を出る。働く。あたまがきゅうきゅうする。いそがしい。働き終える。疲れた。ここのところ連日夜〜夜中にクラブハウスでわちゃわちゃとしゃべっている。しゃべりすぎて喉がおかしくなりそう。でも誰かとなにかを話さないと感情がはちきれそうになる。朝方までしゃべる。眠る。
2月7日(日)
起きる。お茶漬けと肉まんを食べる。家を出る。働く。頭の重さと共に働く。職場の環境、モノの配置や運用ルールなどが半月ほど前から毎日のようにがっちゃんがっちゃん変わっていて、慣れてきたと思ったら変わり、慣れてきたと思ったら変わり、のイタチごっこみたいになっていて、頻繁にバグみたいな動きをしてしまう。手が空を切る。その場でツイストする。視線が定まらない。でもそんなバグを何度も何度も起こしながらすこしづつ環境は整えられているような感じもしていて、いつか、いつか安定するようになるのか、ぜんぶ、とか思ったり忙しさに翻弄されて愚直に身体を動かしたり、もはや心が身体の奴隷みたいな状態でズビズバ動いていたら閉店になっていて忙しい日だった。足と腰が明確に重い。頭も重い。でもなぜか今日は昨日一昨日よりすこしは気持ちが明るくて、ばくばくとごはんを食べた。長らく気がかりだった原稿に対する処遇のメールが来ていて、開いて、読んで、ホッとした気分と「直接的な対話はついぞなかったな」「これだけコストをかけても原稿料は出ないんだもんな」といううっすらとした徒労感を感じながら、でもよかった、最悪の結果にならなくてほんとうによかった、諦めなくてよかったし最後までブチ切れなくてよかった、と思いながらビールを飲んで煙草を吸ってだらだらしていたら午前2時半になっていて慌てて家に帰る。今日は湯船に浸かってから眠る。原稿を書く時間と余力がなくてしんどい。なんとかしろ。来週中に。
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誰でもできることを誰もできないくらいやること
「オンラインエール授業」に登場した剣道家の内村良一。
全日本剣道選手権大会で3度の優勝を誇る剣道家の内村良一が29日に配信された「オンラインエール授業」に登場した。 「インハイ.tv」と全国高体連が「明日へのエールプロジェクト」の一環として展開する企画に登場。 インターハイ中止という経験から一歩踏み出そうとする全国の剣道部約80名を対象に授業を行い、逆境の時にこそ前を向く重要性を説いた。 「オンラインエール授業」はインターハイ実施30競技の部活に励む高校生をトップ選手らが激励し、「いまとこれから」を話し合おうという企画。ボクシングの村田諒太、バドミントンの福島由紀と廣田彩花、バレーボールの大山加奈さん、サッカーの仲川輝人、佐々木則夫さんら、現役、OBのアスリートが各部活の生徒たちを対象に授業を行ってきた。
その第27回の講師として登場したのは、剣道界を代表する剣士、内村良一だ。熊本県の強豪、九州学院高校に進学し3年時にはインターハイで個人、団体ともに優勝。玉竜旗高校剣道大会と魁星旗争奪全国高校剣道大会でも優勝を経験した。その後全日本剣道選手権大会では2006年、2009年、2013年と3度の日本一に輝き、世界選手権でも団体で3連覇を成し遂げるなど、数々の大会で活躍してきた。
講義の冒頭、インターハイの中止により悔しい思いをしている高校生を励ますように、内村はこんな言葉を送った。 「年寒(としさむ)くして松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知る」
寒い冬の時期、ほかの植物がしおれている中でも、松や柏の葉は枯れないでいる。つまり、人は逆境の時にこそ真価が問われるということだ。「逆境の中から一歩踏み出せる、何かヒントになるような授業ができればいい」と語った内村。この言葉の裏には、自身の高校時代の経験があった。
「365日稽古をしなかった日はないかもしれない」ほど剣道漬けの生活を送った高校時代。インターハイ王者へ上り詰めた道の途中、「勝てない時期」があったと内村は振り返る。2年次から任された大将の重役。「スランプ」に苦しみ、「先生や先輩、仲間にすごく迷惑をかけた」という。 その時に学んだのが、「諦めないこと」だった。「窮して変じ、変じて通ず」という禅の言葉を紹介した内村。「一生懸命やっていれば必ず壁にぶち当たる。そこで逃げるんじゃなくて、何回も何回もぶつかっていく。それが力になる」と当時の葛藤を思い返すように力を込めた。
剣道界の先頭に立つ名手の話に聞き入る現役高校生。続いて行われたのが質問コーナーだ。「技術」「メンタル」「将来」という3つの項目で、参加者から次々と声が上がった。 剣道上達の一番の近道は「誰でもできることを…」 最初に行われた「技術」に関する質問。1つ1つの質問に対し、身振り手振りを加えながら丁寧に答えていく内村。攻め方のバリエーションを増やす方法や、相手の起こりのとらえ方について説明した。その中で、部活にコーチがいないため、自分で練習メニューを考えているという高校生から、質問が飛んだ。 「高校時代にやって、成長したと感じた稽古は何ですか」と聞かれた内村。一瞬、間をおいて言葉を選びながら「その時の課題によっていろいろあるんですが」と前置きしたうえで、基礎練習の重要性について語り始めた。
「高校時代から今まで続けてきたこと、上達への一番の近道は、素振りだと思います。稽古の時もそうですが、稽古以外の時に隠れて素振りができるのか。努力できるのかが大事になってくると思います。
私の師匠の森島健男先生に、『剣道の修行は平凡なことの繰り返し。誰でもできることを誰もできないくらいやること。これが剣道の修行ですよ』と教わりました。
人が見ていないときにどれだけ竹刀が振れるのか。それが一番の近道だと思います」
基本を大切にし、誰よりも稽古に励むこと。遠回りのようで、実はこれが上達への一番の近道だと言う。自身が実践しているからこそ重みのある言葉だ。質問者の高校生も「素振りは家でもできるので、積極的にやっていきたいです」と目を輝かせた。
続いて、質問コーナーは「メンタル」の項目へ。2年生部員からは「自分は、試合前になると緊張していつもの自分の技が出せません。内村さんは試合前どのようにしていますか」と悩みを打ち明けられた。
これに対し、内村は「みんなプレッシャーは嫌なんですよね。でもプレッシャーが実力をフルに発揮するには一番必要な条件だったとしたらどうでしょう」と異なる視点を提供。科学的な根拠を交えながら、「緊張」についてのある“事実”を紹介した。 「人の安静時心拍数というのは、1分間に70前後と言われています。でもこの安静時心拍数の状態では力は発揮できないんですよね。逆に、プレッシャーがきて心臓がどきどき、息がハアハアしている時っていうのは、(心拍数が)150以上になっているんです。これでもうまくいきません。 これを一番実力が発揮できる120~150のところに持ってくる。その方法として呼吸法があります。剣道では稽古の前後に正座して黙想しますよね。呼吸を整えるんです。実際にプレッシャーを感じたら呼吸を落ち着けて、そこ(心拍数120~150)に持ってくる手段を稽古からやっておく。緊張が来たときに『これは実力を発揮するために必要な条件なんだ。誰にでも来ることなんだ』と考えることだけでも、(緊張改善の)第一歩になると思います」
ある程度のプレッシャーを感じていないと実力はフルに発揮できないことを説明した内村。一番実力が発揮できる心拍数120~150という範囲を、「あくまで一般的な数値」と説明しつつ、最も大事なのは「自分で体験して自分でつかむこと」だと言う。「緊張」を取り除きたいものから必要なものへ、考えを転換させる。内村は稽古から「緊張」に対しても準備を怠らない。
しかし毎日の稽古でモチベーションを高く保ち続けることは簡単ではない。高校生から続けて飛んだ「内村さんは長い期間剣道をやっていると思いますが、長くやってると、めんどくさいなとか、やりたくないなと思う日が絶対あると思います。そういう時の気持ちの入れ方ってありますか」という質問に対し、自身の経験を踏まえて具体的なアドバイスを送った。 「私が一番大事にしていることは目標設定です。試合が終わって目標を達成した、目標達成できなかったとしても、次の目標設定を必ずするようにしています。自分がなかなかモチベーションが上がらないなって時って、やっぱり自分がどこに行きたいのか、どうなりたいのか、明確にできていないときなんですよね。これは剣道だけでなく勉強でもそうだと思いますが、しっかりとした目標設定。自分がなりたい姿を���定できれば、モチベーションは上がってくると思います」 逆境の今だからこそ「悔しい思いに意味を持たせるのは皆さん自身」
剣道着ではなくスーツで、竹刀ではなく言葉を高校生と交えた内村。その姿勢は誠実そのもの。しっかりと後輩たちの“一打一打”を受け止めていた。講義が質問コーナーの最後の項目「将来」に移ると、参加者から「将来つきたい仕事があるが、本当にこの仕事につきたいのかどうかわからない」と将来への不安を打ち明けられた。内村は「私も小さいころからいろんな夢があった」と不安な気持ちを和らげるようにアドバイスを送った。 「警察官になろうと思ったのは就職試験の直前なんですよね。今はこれになるんだ、って決めなくていいと思うんです。いろんな可能性が皆さんにはあります。一つに決めるのではなくて、いろいろな可能性をもっていいと思います。そのためにはしっかり勉強すること。そして今やっている剣道を一生懸命やること。しっかりアンテナを張っておけば、自分がどこに行けばいいのかおのずと見えてくると思うんですね。
私も大学3年生の時、教員になるか警察官になるか迷っていました。警察官になったのは、学生時代あんまり(剣道の)成績を残せなかったな、もうちょっと勝負の世界で生きていきたいな、という思い。国民を守る仕事につきたい、という思いから(警察官に)なったわけで、どこできっかけがあるかわからないんです。ですので、今は一生懸命勉強して、一生懸命稽古をして、アンテナを張って、一つに決めるのではなくいろんな可能性を見つけていけばいいと思います」
あっという間に過ぎた1時間。新型コロナでインターハイという大目標を失った剣道部員たちだったが、偉大な先輩の言葉に勇気づけられた様子だった。講義の最後に内村は参加した高校生たちへ向けこんなエールを送った。 「高校生の皆さんの生の声を聞けて、私自身本当に勉強になりました。新型コロナウイルスの影響でインターハイが中止となり、今は本当に苦しい思い、悔しい思いをされていると思います。でも、この苦しい思い悔しい思いに意味を持たせるのは皆さん自身なんですよね。この逆境、この苦しい状況に意味を持たせる。これがあったから今があるんだ。そう言えるように、これからの毎日、一歩一歩を頑張ってもらいたいなと思います。そしてみんなで力を合わせてこの困難を乗り切って、今度は実際に会って剣を交える時が来ることを楽しみにしています」
夏を失い、苦しい思いを抱いた剣道部員たちを勇気づけた内村。逆境の時こそ真価が問われる。剣道家らしく背筋をピっと伸ばし、正面から送ったメッセージは、若き剣士たちの背中を押したに違いない。
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書くことから随分離れてきた。気づけば夏季休暇が終わろうとしている。
同じような日を何日も繰り返すようになってからが夏休みの本領発揮だと思っているが、短い今年の休みもそれがあった。
以下、この休み中最も多く繰り返されたスケジュール。
朝赤子に起こされ、ねむねむしながらしばらく過ごし、午前中涼しいうちに散歩し、赤子が寝てつかの間の休息を得る。その貴重な時間をどうでもいいインターネットでつぶし、そろそろやるべきことを…と思う頃に赤子が目覚める。
昼下がりになり赤子がお腹を空かせた三人分の食事を準備し、赤子の後にわれわれが入れ替わり立ち替わり食事する。その後のミルクで寝ないか期待するがまあ寝ない。無気力にテレビを眺めつつスマホをいじりつつ赤子と過ごしていたら夕方になり、夕涼みに出かける。
散歩の最中は容赦なく大人同士の会話をしてしまう。近所のいい感じの一軒家を眺めつつ、やっぱ家ほしいよなーと毎回言う。花や犬猫鳥とすれ違えば赤子に見せる。赤子は不思議そうな顔を浮かべる。触りたそうに手を伸ばすときは触れてしまわないようさりげなく身を遠ざける。そうこうしている内に気づいたら赤子は寝てしまう。ラッキーこのまま朝まで熟睡してくれと思うものの大抵は家に着いてだっこ紐から下ろすと目覚める。目覚めているうちに宵闇が来るとこわくて不安げな声を上げてしがみついてくる(かわいい)。
赤子が目覚めて一緒に風呂に入れればいいが大抵コトンと寝てしまう。おかげであせもが出てしまった。
赤子が寝てからがやっと大人の自由時間。しかし赤子の昼寝中と同じく、大抵はスマホを見てどうでもいい時間を過ごしている内に寝る時間になる。この休みにも随分Kindleで漫画を買ってしまった。
だいたい22時半から24時ごろ寝る。翌日また赤子に起こされる。
記録してみると、どうしようもなく怠惰で繰り返されたと思っていた数日も、赤子にとってもわれわれにとっても今しかない時間だったと気づいた。そう考えると悪くないじゃん。
今年の夏季休暇中の記録
8日 赤子に5時過ぎに起こされる。赤子を耳鼻科に連れて行く予定だったが、朝起きたら左手中指から親指とその間の手の甲に痺れがあったので急きょ赤子を保育園に預けてあおば通沿いの神経内科へ。すごく心配する夫に内心そんな大げさなと思っていた。スタバのドライブスルーでコールドブリューコーヒーとツナのマフィンを買う。スタバのフードってやたらと高いんだよな、と馬鹿にしていたがあっためてもらったマフィンをかじるとウーマと声が出た。コーヒーは言わずもがな美味い。
痺れって言ってもねえ、圧迫するような変な寝方したせい?先生にばかにされない?行ったふりして帰っちゃおっかなとも思っていたが、時間が経っても引かなかったのでだんだん怖くなった。
神経内科の先生は今まで出会ったお医者さんのなかでも最も真摯な方だった。丁寧な接し方をされるだけで何か回復するものがあったし、適当に接しようとしていた自分が恥ずかしくなった。色々検査をしたが異常はなく、即日結果が出ないものは二週間後聞きにくるよう言われる。
そのあと採血のせいか気持ち悪くな���適当に入ったそば屋がめちゃめちゃ美味しかったり、それでもだるさが抜けないのでドトールでモンブランと黒糖ラテを飲んだ。
手の痺れは数日続いたが、16日現在ではほぼ治っている。夜は恒例のLINE通話でペストを読む会。
9日 上記のような典型的な日を過ごす。三人で歩いてツルハドラッグに買い物に行くが、帰りは暑すぎてみんな無言になってしまった。
去年は夫とふたりで立町の美味しい朝食を食べに行ったことを思い出す。
10日 お茶のお稽古
11日 蔵王初日 赤子が初の旅館に大はしゃぎ。赤子に見せよう!と勇んで観に行ったヤギに本人はさして興味がなさそうだった。快晴。危険な暑さ。牛乳が美味しかった。宿に着いて三人で初めて貸切温泉に入る。危険な湯加減だったので容赦なく水を注ぐ。後に入る人の為にもあれは良かったと思う。旅館の美味しい夕飯を赤子の世話をしつつ夫と入れ替わり立ち代わり食べる。まるでトライアスロンだった。
12日 蔵王2日目 ブルーベリー狩りは終わっていたし刈田岳山頂は霧で何も見えなかった。山頂食堂で買った玉こんにゃくとあったかいずんだオレが美味しかった。蕎麦屋で信じられないくらい待たされて帰る時間になる。たまご舎のシュークリームとクロワッサンを買う。赤子にはたまごボーロ。
13日 風邪っぽく微熱っぽく具合が悪い。あまり覚えていないので体調不良以外は上記の典型的な日。
14日 あまり記憶がない。恐らく典型的な日。
15日 昼前まで典型的な日だったが、夫の提案で急きょ秋保にドライブ。秋保ビレッジでジェラートを食べる。赤子にあげたら見たことない表情をしていた。梅干しを食べたみたいな顔(冷たさに驚き)から美味しそうな顔に変化するのが面白かった。その後初めて行ったライライキョウがとても良かった。川辺育ちとしては川の匂いを嗅ぐだけでちょっと元気が出た。宵ごろ急に思い立って髪を切りに。21時からペストを読む会。
16日 ほぼ上記の典型的な日。夕涼みには行かなかった。休みが終わるが怖くて具合が悪くなりそうに。レインちゃんのブログを見ていたら、全部同じみたいに見える日常も書き残せばそれぞれに彩りが乗るのでは?そもそも最近全く書いていないから自分のなかの整理がつかなくて全部同じに見えるのでは?という気がしてくる。赤子と心を通わせて遊べて嬉しい。ほんとはスマホやテレビを見がちになるんじゃなくていつもこうであるべきなのに。赤子が寝てからこれを書く。一時間以上かかったが、そんなに時間をかけてやるべき事でもなかったような、やっぱり残せて良かったような。明日まで夏季休暇(たぶん)。
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自分一人の米国挑戦:IBM・K佐藤敏基
3人のXリーグ選手がテキサス州オースティンで開催中のザ・スプリング・リーグ(TSL:The Spring League)に挑戦中。ザ・スプリング・リーグに参加する選手は、ここでスカウトの目に留まりNFLのサマーキャップへの招聘されることを目標としている。
タッチダウンネットワークでは、TSLでプロフットボール選手を目指して、米国人選手と鎬を削る、Xリーグの3選手にインタビューを実施した。
3選手には、自分の長所は米国で通用するか、自分が米国でやって行けるという感触を掴んだか、NFL選手で目標にしている選手は誰か、NFL選手になるための最大の課題は何かと同じ質問を行った。
3人のプロフットボール選手になる夢を実現するため、現在の生活の全てをかけて取り組む姿勢に敬意を表したい。

質問:佐藤さんの長所は米国で通用するでしょうか。
佐藤: 日本ではキック力では負けない自信がありましたが、2年前に米国に来て自分が飛ぶほうではないと思い知りました。やはり、米国人のKは日本人のKに比較して、距離は出ます。
しかし、練習に入る前のウォーミングアップを丁寧に行うこと、細かい���リルの段階を経てキックに入ること、ビデオを毎日見てフォーム研究し続けることなどは、米国人の選手はあまりしないので、自分がKとして成長していく上で優位に立てる点だと意識しています。
米国では特にキックオフの飛距離に弱点を感じていたので、過去2年間はキックオフに力点を置いてトレーニングしてきました。今年3月のトライアウトでは、その成果が出てキックオフでは全体の中で上位10位に食い込むことができました。今年のトライアウトでは、トラックマンという測定器が導入され、弾道、発射角度、球速、滞空時間などが数値化されました。自分としては、それまで球速が速いという自覚はなかったが、球速が上位から数えた方が早かったのが自信に繋がりました。
質問:米国でもやって行けるという感触を得ましたか。
佐藤: 自分にはメンタル面の強さがあり、米国でもやって行けると思っているし、そう思い込むようにしている。
何と言っても、メンタル面がKにとっては最も重要なことです。練習ではこれは凄いと思う米国人のKが、トライアウトの緊張に耐え切れずにボロボロになるのを、何度も見ています。必要以上の緊張をすることなく、比較的自然体でボールが蹴れることは、自分のメンタル面での強みだと思います。
繰り返しになりますが、学生時代から、自分はゲームでFGを決めるのが一番得意だと思っているし、思い込むようにしています。自分は、フットボールを始めてから、成功体験を積み重ねており、メンタル面の強さと相乗効果を上げています。
自分は、生まれつきポジティブな性格であるし、自信を持つだけの練習をしてきたという自負もあります。普段の生活の中でも、何事にもポジティブな考えするように努めています。Kは、外したらダメだと考えるのではなく、決めたらヒーローになれる、最高の気分になれるという、前向きな心が大切です。
質問:NFL選手の中で目標にしている選手は誰ですか。
佐藤: 2年前から、サンディエゴのMichael Hustedコーチの下で、NFLのKに交じって練習させてもらっています。何人ものNFLのK、NFLのKを目指す選手を見てきましたが、シアトルのKマイヤーズを尊敬しています。マイヤーズは、他の大部分の米国人のKとは異なり、普段の練習でもキックを始める前に、時間を割いて丁寧にウォーミングアップを行っています。また、キッキングのフォームもNFLのKの中で五本の指に入るような美しい蹴り方をしています。
もう一人挙げるとすれば、NFLで長年にわたりKを務め、最近はAAFバーミンガムのKを務めたノバックです。ノバックは、通常は自分で練習していますが、たまにMichael Hustedコーチに指導を受けに来ます。奥様が日系人であることもあり、自宅にも呼ばれて親しくなりましたが、優しくて配慮があり、人格的に素晴らしい方です。ノバックはベテラン選手で飛距離には見るべきものはないのですが、NFLでFGを決め続けている勝負強さを尊敬しています。キック力が優れていてもNFLで成功しない選手がたくさんいますが、ノバックは年齢と共にキック力が落ちてきても、FG成功を続けて生き延びているのが凄いと思います。
質問:NFL選手になるための最大の課題は何ですか。
佐藤: 最大の課題は、一言で言えばボールの飛距離が足りないということです。特に、無名選手がスカウトの目に留まるためには、FGコンペで優勝するようなことも考えられますが、やはり蹴ったボールが高い弾道で綺麗に遠くに飛ぶことが重要です。
NFLの一流Kのキックオフは、自分のキックオフを比べると、約8ヤードも遠くに安定して飛んでいます。NFLのゲーム前の練習を見ていると、70ヤードのFGを決める選手もいる。自分には、70ヤードのFGを決めることはできません。全ての要素で最高の条件が整った時に65ヤードが限界であり、米国の一流Kとのレンジの差は明確に存在します。米国のカレッジフットボールでFGを決めてきたという実績がないので、スカウトに注目してもらうためにはスカウトの度肝を抜くような、突出したキック力が必要と感じています。
今、心がけているのはキックのフォームを安定させることです。最近のトライアルでは、キックオフは良い成績を収めることができましたが、その一方でFGは自分として全く納得できる内容ではありませんでした。振り返ってみると、飛距離を出すために、Michael Hustedコーチの指導でフォームの改造に取り組んでおり、自分の中でこれが自分のフォームだと自信ともって断言できない時に、トライアルを迎えたのが失敗でした。飛距離を伸ばすためには、フォームを改造し続けなければならないのですが、同時に矛盾するようですが、FGの精度を考慮すればフォームを安定させることが最大の課題であると思います。
注:Michael Hustedは、佐藤氏の希望で英語表記と致しました。
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どこかの汽水域 あとがき
この文章は、自作短編小説集『どこかの汽水域』が刊行から二年が経過したことをふまえて書きました、あとがき、とも、解説、ともいえる蛇足的文章です。
『どこかの汽水域』他、創作小説などの本は自家通販で常時販売しております。よろしければこちらからどうぞ。
『墨夏』
『どこかの汽水域』を書くよりも五年くらい前に、川に辿り着いて昴に会うまでの描写をずっとメモアプリに残したままにしていて、その先は点々と風景は浮かぶものの霞に隠れたまま。小説の本を作ると決めて先に『いつか声は波を渡る』が出来上がってから、他に何作かあわせたいと考えた時に、かつて残したままにした冒頭が甦り、徐々に続きを繋げていきました。現在もひそかに続けられている日記『朝の記録』の中で書いていて、日記と並行した小説を書くというのは別でやったけれども、日記の文中で小説を書いていく(実質連載)行為はたぶん今後もうやらないだろうなあと思います。そんなわけで実際に書いた時間以上に途中のまま漬けた時間が長かったので、完結まで至った時は独特の感慨深さと疲労感がありました。
途中、ひなこが、昴に憧れて自分の名前を星につけたいと考える文がありますが、ひなこは、漢字表記だと日向子という設定があります。字のごとく、太陽を重ねています。彼女自身は、誰もをまばゆく照らす、典型的な太陽らしい人間像ではないのですが、昴をはじめとして夜にちりばめられる星たちとはすれちがう存在としてのイメージをもたせています。
川辺で出会う青年とどんな交流をしていくかを考えていった時に思い出されたのが、小学校の時、夏休みの終盤に話題になった火星の大接近でした。さすがに火星で被らせるとなんだか記憶に近すぎたので金星に変えましたが、明けの明星である金星は、最後、太陽が昇って見えなくなっていくけれども消えるわけではない星たち、そしてひなこと昴の関係性を表現するには、想像の広がるモチーフだった、と思います。
ひなこと昴の重なる場として川が舞台となっており、彼らはそこで出会い、交流を深めています。川は、彼岸と湖岸の間を流れます。川岸に手向けられ、何度がふれられている小菊は、川に流されていった人たちへの供花でもあります。川に近づいてはいけないとお父さんの言葉がひなこの心では繰り返されていて、そうした事故が起こってきた過去を浮かばせています。お盆という時期もあって、物語の随所でお盆にまつわる描写がちりばめられています。
ひなこと昴の会話に対して家族との会話場面は地の文の中に埋め込まれながら、最後のお父さんからの「帰ろう、ひなこ」だけが鉤括弧で書いているのは、そのままおばあちゃんの家への帰宅を促す言葉であるし、彼岸より戻ってくる暗喩をこめています。
あとこの『墨夏』のすんごいのは、真島こころさんという即興ピアノ音楽をされている方が、冒頭のシーンをイメージして曲を弾いてくださったことです。いやすごい、とんでもないことです。どうぞ聴いてください。ツイートはこちらから。
『魚たちの呼吸』
耳の後ろには髪の毛が生えていない、と小中学生の時に漫画雑誌で知って、実際にさわってみると確かにそこには髪の毛がなくまっさらな肌があるだけ。驚きました。実際に自分の瞳でその密かな場所を見ることはない、この場所には一体なんの意味があるのか、いや、髪の毛が生えていてほしいわけではないのだけれど。もしかして、人間の尻尾の名残である尾てい骨のように、ここには何かあるべきものがかつて存在していて、今は閉じてしまったすべらかな跡なのかもしれません。
書いていてずっと不思議な浮遊感を抱いていた小説でした。
この小説は、他の二作を書いてから、短編集を作るにあたって最低限もう一作あると収まりがいいと、締め切りに追い立てられるようにして書き始めました。書きだす前は、前後二作が偶然夜明けで終わったので、それに合わせて夜明けで揃えるとか、逆に日没で終わらせるとか、時間的な統一感をもたせることを想定していたのですが、書きおわれば夜明けとは言いづらい薄くちぎれていくようなものになり、本としてどうまとめたものだろうと三作並べて考えていくと、そういえば水がこれらの作品に共通していると後追いで気付き、そこからは、水に由来するような自由自在にゆれるあわいの質感を大事にして全体を整えていき、のちに書く「汽水域」に繋がりました。
他作に比べるとちょっと空気感が違うので悪い意味で浮いてしまわないか心配だったのですが、川を舞台の中心に据えた『墨夏』と、東北の海を主題としている『いつか声は波を渡る』のあわい、橋渡しのような作品になったように思っています。河野という苗字。エラをもつ人間。水中を泳ぐ魚のモチーフ。そして最後、海へと向かっていく。
気に入っている文章は、62ページの、頑固として守ってきた河野の耳の裏に、一青の指が寄せられていく場面です。“髪の毛で出来た珊瑚や藻の森を抜けて魚がなめらかに泳いでくる。”という部分が好きです。それから、象徴的ではありますが、一青の、“だからちょっと息がしづらいんだ”も。
『いつか声は波を渡る』
『どこかの汽水域』の三作品の中では、一番初めに完成した小説です。書き始めた当時、インターネットで拾ったお題をもとに三題噺での即興小説をほとんど毎日noteに更新していて、そのお題のうちの一つ『不治の感情』と名づけられた「冷たい、昨日見た悪夢、殺したい」の言葉をもとにして浮かんだのが、冷え込んだ濁流の描写、『いつか声は波を渡る』でした。元々は二次創作での活動が主体ながら、いつか東日本大震災についての話を書こうという思いが燻り続けながら、きっかけをいただいたように思いました。書いていくうちに、これは一日だとかごく短期間で公開までもっていくような容易な物語にはしたくないなと気付き、一連の即興小説とは別で、中期的に丁寧に書いていくことにしました。出来上がってもしばらくは『不治の感情』というタイトルで、流石にお題の題を拝借し続けるのは気が引けたので、他作品『墨夏』『魚たちの呼吸』と並べた印象などもふまえて考えていった結果、『いつか声は波を渡る』に決定されました。ただ『不治の感情』という言葉自体は地の文中に残したままにしています。
3.11に関してはいつか小説なりなんなりの形にしたかった、それは自分にとってのエゴであったのは否めないと思っています。当事者とそうでない人の間には溝があって、それを越えることは難しいし、だからこそ経験していない自分が一体何を語れるのだろうとずっと思っていたし、今も思っています。だから今でもためらいがあります。それでも忘れたくはないし忘れることはない。また、書籍等を読むうちに、現地でもさまざまな考えの方がおられて、つらい震災の記憶を掘り起こさずに、復興していく・更新していく現状に注目してほしい、という方も多くおられることを知りました。ならば、当時は遠くにいてテレビで呆然と見ているしかなかった外側の自分にも、記憶を穿つように物語ることを許されるのではないかと思いました。作品は震災の日から六年後、実際に足を運んだ時に自分が抱いた印象が地盤となっています。現状にそぐわない部分もあるのだけれど、願うならば、許されたい。
喪失を受けとめる・向き合っていく過程は人によってまったく異なっていて、どんなかたちが正しいとも間違っているともいえないとは思うものの、長い年月、親友であるあーちゃんが突如として死んでしまった状況から立ち直れずにいる春香が、物語の中ではどんな結末を迎えるのか、手探りのままで書き進んでいった記憶がありますし、実際のところ終盤は決め切らなくてなかなか筆が進みませんでした。あーちゃんの生きていた証を探してもいた春香を突き動かすとすれば、あーちゃんそのものに値するなにか。
たとえば骨��どうだろうか、死んだ生き物を燃やして残った骨、あるいは灰、そうした肉体のかけらを密かにもって生活する・旅をする、といったアイデアは、生々しいけれども普遍的なものでもあって、どこかぴんとこない。そんな中でふと、まったく違う本を読んでいる時に、自然と抜ける乳歯に関する場面に出会った時に、歯だ、と繋がりました。あーちゃんとの思い出には笑顔がたくさん溢れていて、だから春香はあーちゃんの笑った顔の歯をよく見ていたはずで、あーちゃんの特徴として八重歯をちらつかせ、最後に春香が堤防で発見したかけらを「あーちゃんの歯だ」と断言する場面が浮かびました。
あーちゃんの歯だと信じる春香ですが、実際のところは歯を彷彿させる乳白色の小石や貝殻のかけら、かもしれません。夏希にとっては後者でした。もともと春香の危うさを察知していた経緯もあり、春香が妄想を吐いているとしか思えない夏希は、友人の体の一部と信じ込む姿に恐怖を覚えて引き戻そうとします。かけらが現実的にはなんなのか、というのは一つしか答えがなくても、どちらの言い分も本当、と思います。
最後の一文は、あーちゃんの歯を常に懐にしまっている、という状態を書きたくて当初は財布の中にしまっている、といった描写にしていたのですが、締めの文としてはあまりにも現実的だったので抽象化させました。
余談ですが、今、書きながら、でも、ここ数年のコロナ禍ではマスク着用が当たり前になって、会話して笑っている、「歯を見せる」といった状況は、マスクのない世界の常識なんだなあ、と今更ながら気付きました。
ここからは、刊行から二年が経過しての思いなど。
この小説が震災を扱ううえで適切な表現を突き通せたのかは、少々危ういと感じています。
フィクションという形態に甘えて安易に扱いたくないのは当然と思っていても、終盤の夏希との掛け合いや、あえて愛という言葉に収束させたこと、そして出産というかたちで、時の流れを意識した春夏秋冬の一角を二人の赤ん坊に担わせていく構成は、作り手の偏った決定権が行使されてそこに登場人物が操られていってはいないか、それはある種の偏見や思い込みをもたせてはいないか、そんなことを、ずっと考え続けています。ある程度の「わかりやすくきれいな終わり方」で装飾を施そうとしたのではないか。逃げてはいなかったか。さらっと書いたわけでもなくて、この海岸へ至ってからの終盤は模索が終わらなくて、書き直しの傷跡が無数に重なっています。それでも。震災という、傷の癒えていない現実的事象を中心に据えている以上、そしてそこで喪われた人について語る以上、簡単に逃げないと決めて書いていたものの、本当に過不足なく遂行できていたのか。でも、小説で書かれていることがすべてであることもまた確かで、読み返してみると、数多の分岐がありえた中で、この物語にはこの表現、この展開しかなかったようにも思います。けれど、それでも迷い続けている状態は忘れないようにしていたい、というよりおそらく忘れられずに続いていく。だから震災をめぐっての応答は終わってはいません。
そんなネガティブ気味に書くと、まるでこの物語を否定しているように受け止められるかもしれないのですが、決してそんなつもりではなくて、物語で春香があーちゃんを愛していたのは確かであり、その喪失と向き合う行程も、そして夏希が春香を繋ぎとめながらあーちゃんを探して海のすぐそばまで歩いていった暗い夜明けも、彼らが物語で必死に生きていた証は、何にも代えられません。いつか声は波を渡る、死んだあーちゃんの声は波となり、六年の時を経て春香の耳に届いて、筆舌しがたい情は、確かに春香の中に溢れました。必死ゆえに書いていくには迷いの渦巻く難しい物語を書き切って、世に出して良かったと思えるのは、この物語に呼応してくださった読み手の言葉に支えられているからでもあります。

『どこかの汽水域』
どこかの汽水域というタイトルの、「汽水域」は、三作品の初稿が揃ってさあタイトルどうしようという段階に、本を読んでいる際に目についた言葉です。辞書を引けば「海水と淡水とが混じり合っている塩分濃度の低い水」とある。また「汽」は湯気や水蒸気といった意味の漢字であり、そのどこか霧のようなニュアンスが今回の三作品になにか通ずるものがあるのではないかと思っています。どの作品もどこかに水が関連する場面があるということもありますし、彼岸と此岸、人と人、空と地、生と死など、どこまでいっても本当の意味では平行線のまま決して混じり合わないものが、けれどどこか混ざる瞬間があるような気がしていて、そうした瞬間が三作品には宿っているのではないかというタイトルを、私は気に入っています。
どの作品も、人によってさまざまな受け取り方があります。ここに書いたことは蛇足です。人それぞれの彩りがあってくれたら嬉しいです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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2022年遊んだゲームふりかえり
2022年お疲れさまでした。
毎年これだけ略。恒例の今年遊んだゲームのまとめです。
・ 7 Days to End with You (1月)SP
なんらかのゲームの賞を取っていた気がします、めーちゃくちゃよかった! です! 名詞や数詞まわりはわりとさくさく埋められるんですが、どうしても形容詞や感嘆詞が全然埋まらない。相手が何を考えているのか、表情や素振りから感じ取ったとしても、それを自分の言葉、理解でしか表現できないもどかしさ。その果てに、私が彼女になにをしてやれるのか? どう決断するのか? 限られた言葉を丁寧に選ぶ、異言語コミュニケーションならではのストーリー。面白かったです。
・Pokémon LEGENDS アルセウス (1-2月)Switch
今振り返ると、ゲームとして面白かった!のはSVよりこっちかなあと思います。私はアクションがとことんど下手くそなんですが、それでも終盤あたりになれば煙玉投げて→きのみ投げておびき寄せて→背面取って→ボール投げて→一旦距離を離して→煙玉投げて→…の一連の動作が無心でできるようになりました。これに慣れてしまうと、いつものシリーズ作でわざわざ捕獲のために戦闘するのが面倒であることに気づいてしまう……。 システム面として、ちょっと強いポケモンを無理して捕まえてもズルになり過ぎない(けどきちんと達成感がある)調整がうまかったな〜という感覚があります。あと、長い距離の往復が発生して歩きがめんどくさいな! と思った瞬間に移動速度上昇乗り物を出してくるゲームづくりのうまさに唸らされました。さすが天下のゲーフリ。
・Baba Is You(2月)SP
ちょこっとだけ遊んで、クリアまではできていない気がします。ジャンルで言うとパズルなんですが、これは……どう話せば……。言語とオブジェクトを組み合わせたパズルで、ブロックとして配置されている文字を、意味が通じるように移動させることで、オブジェクトの作用を切り替えていくというか……。「壁」が「私(PC)」になったり、「飛ぶ」ものになったり、「触れると死ぬ」ものになったりするパズルです。「そんなのアリ!?」と手を叩いて笑うこと請け合い。
・マジョのシマ(3月)SP
探索アドベンチャーがやりたい!という飢えにあてられて遊んだもの。歩きが遅かったり時間進行が遅かったりヒントが弱くてしらみつぶしになりがちだったりで、システム的にはちょっと遊びにくいな……と思う部分が多かったんですが、独特な空気感とストーリーの手触りが良かったです。憎めない街の人たちとか、なぜそんなところに?と思ってしまう井戸のおじさんとか。
・HOTELブルーローズ(3月)PC
これはゲームなのか? と思うものの、謎解きがしたくて遊んだ作品です。リアル脱出ゲームの会社のオフラインゲーム。複数人の主人公の足取りを追って、ホテルに隠された秘密を暴いていくストーリーになっていて、ネタバレ配慮で何も言えないんですが、ヒントシステム等遊びやすい作りになっていて、画面もリッチで、贅沢な遊びを提供してもらったなあ……と言う感覚がありました。面白かったです。
・The Shrouded Isle(4月)PC
買ったのは大昔で、クリアできずじまいになっていたので、改めて遊んだ作品。経営シミュレーションは普段あまり遊ばないのですが、この作は運要素が強いかもと感じました。周回しつついい具合に悪徳持ちが配置されるのを祈って、あとはうまく調整して調整して調整して適度に一族郎党皆殺しにして。この画面とBGM、雰囲気作りがもうものすごーーく好きなんですね。よかった。
・VA-11 Hall-A(4月)PC
あっこれ今年かあ。サイバーパンクがやりたいぞで遊んだ記憶があります。色々な(本当に色々な)価値観の人が現れて、自分の思想をばら撒いて、そこに遠慮も呵責もない、まさに「掃き溜め」である場末のバーが舞台。その中で、それでも誠実であったことは必ず周りの人が見ているのだ、と信じられるストーリーが良かったです。本人が塞いでしまったときに、きちんと手を伸ばしてもらえる。翻訳もよかったなあ。
・Replica(6月) PC
ゲームシステムの珍しいものが遊びたいなあとこの頃考えていて、罪悪三部作の名前が目に止まったので、まずは一作目であるここから。他人のスマホを覗き見て、そこから国に争う意思のある人物であったかどうか情報を引き出していくつくり。情報を覗き見ていくうちに、あれこれって自分も割とまずい状況なんじゃないか……? と気づいていく、背徳感と恐怖感との板挟みがよかったです。
・Strange Horticulture(6月) PC
このころは日本語ローカライズがなくて、画像翻訳を駆使しながら英語で読んだんじゃよ(老人)。指定された植物を図鑑見て当てて提供して……と、やっていること自体はわりと単調なんですが、SEと画面演出が凄まじく良くて達成感があるつくり。攻略をちょっと覗いたところEDがべらぼうにあるようだったので、日本語版でまた遊びたいな……と思いつつ後回しになっています。
・Legal Dungeon(6月) PC
今年のトップはこれかディスコエリジウムだな〜!の作品。警察官である主人公が(あるいはそれを操作する私たちが)、警察組織での点数稼ぎと自身の正義感・倫理観との狭間で揺れ動きながら人々の罪に判断を下していく話。主人公が行うのはあくまで意見書の作成で、最終的な判断権は当然裁判所にあるので、その判決との差異が昇進に関わります。自身の昇進? いいえ、自分に関わる全ての人間の。 喋らない主人公とは感情移入のための容れ物である、という認識でいたのですが、主人公清崎蒼はこちらが気づかないうちにずっと遠くに立っているような人物。彼女にしっちゃかめっちゃかにされた経験が強く印象に残っている作品です。UIやゲームシステムとの物語の融和も素晴らしくて、まっすぐに走るとされる「光の列車」の表現が自分の中で意味を持ってしまった瞬間のあの感覚が忘れられない……。
・The Forgotten City(6月) PC
謎解きアドベンチャーがやりたい! が高じて苦手なWASD移動ものに手を出した作品。アクション苦手すぎて泣きました。でも面白かった! 主人公が迷い込んだのは遺跡の中の別空間、切り立った崖に囲まれた集落。そこは誰かが罪を犯した瞬間、住民の全員が金の像と化してしまう呪いが��けられた土地。主人公はその呪いが発動するたびタイムリープを行い、彼らとの出会いのそのときに引き戻されることになります。同じ日を繰り返しながら最適な行動を見つけ、やられたことをやり返し、ルールを掻い潜りながら脱出を目指す骨太なアドベンチャーです。 登場人物が多くて名前を覚えるのもやっとな状態から、少しずつできることが増えていく気持ちよさがたまらなかった作品でした。
・ディスコエリジウム(8月) PC
今年のトップはこれか略。これを「ストロングゼロ文学ゲー」とする紹介記事を読んで以降、ローカライズをず~っと待っていました。主人公のパラメータ(知力、体力…といったもの)を割り振ったうえで、そのパラメータに基づく各所のスキルチェック(ダイスロール)への成否によって物語が分岐していく、TRPGに近いシステムとなっています。この「TRPGっぽい」システムをゲームでやろうとしたときのテキスト量というのがとんでもなくて、分岐もすべてひっくるめるとハリー・ポッターの全巻ぶんに匹敵するとかどうとか。一度EDまでたどり着くだけでも恐ろしいほどの文章量があるので、文字に飲まれたい方はぜひ。 主人公は記憶喪失の刑事。刑事であることも忘れてしまって、二日酔いのパンツ一丁姿でホテルの一室に転がっているところからのスタートです。彼がどう振る舞うか――刑事らしく真面目に捜査を行うか、ダメ人間を貫くか、特定の思想に偏ってみるか、あるいはどっちつかずの中立派でい続けるか、すべてはプレイヤー次第。そのすべてのあり方に、ゲームはきちんと応えてくれます。 私はラスト近くのあるスキルチェックで大きな声を上げてしばらくうずくまりました。あのスキルチェックのために頑張ってきたのだ……。おすすめです。
・ ポケットモンスター バイオレット (11月)Switch
オープンワールド、それも三ルート制ということで、物語が薄味にならないか・それぞれの没入感が薄れてしまわないかを懸念していたんですが、すべて杞憂でした。剣盾でぐんぐんに上げてあったハードルを、きっちり越えてきたのがSVだったなあと思います。 どこにでも行ける、なににでもなれる、好きな自分でいられる、そんなメッセージを感じるようなシナリオだったな~というのを感じています。学校という場所で授業を受けることもできるし、自分だけの宝探しに夢中になってもいい。その学校の先生ひとつ取っても、強面な先生が自分へのレッテルと向き合ったり、言語コミュニケーションを教える立場の先生が口を開かないポケモンのあり方を肯定したり――。剣盾において「旧来の主人公」の似姿が託された人物がチャンピオン、最後の敵として立ちはだかったあと、こういった「自分の道を自分で選ぶ」物語が届けられることには意味を感じました。よかったなあSV……よかったなあ……。
・The House of Da Vinci(12月) PC
脱出ゲームをやるんだよ!!! という勢いで遊んだもの。望んだものを過不足なくお出しいただいたのでたいへん満足しています。とにかくグラフィックと効果音が気持ちよくて、贅沢をしている感覚になりました。ヒントも親切だったのであまり詰まることも……なかったとは言えませんがほとんどなく……じっくり腰を据えて楽しむことができました。年末で時間ができるとパズルゲームを遊びたくなるなあ。
体力と気力の問題で、遊ぶゲームがほとんどsteamになっていく中、やっぱりポケモンは遊んでしまうなあ……ということを感じます。
自分の環境も色々と変わった一年ながら、なんとか元気に生きています。ここをご覧になっている方がいらっしゃるのかはわかりませんが、皆様、よいお年をお迎えください。一年間お疲れさまでした。
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琥珀色のおもてへ、あのいつもの煙草のパッケージが打ちあげられ、これはすぐに見たい幻だと分かった。たぶん毎日、おれはいそいそと見たい幻だけ見ている。幻の原本はすぐそこにある。ここから原本まで、睡眠の底へ下りるさなかにでもこなせる塩梅の逢瀬。造り付けの小棚へと手をのばす時間。そんなゆるいうごきすら、めんどくさいときた。よって亀そっくりにぼやぼやしながら、こまやかにとどくほどのメビウスの箱を、何分かかけてようやっと握りしめた五指の骨。伴ないひっついてきたライターで煙草の先を炙ると、くゆらせ燃えた灰の帰途から、つづら折りの雲が出てゆく。一瞬だけ、腐り落ちてしまったこの世の秒針。いくえの弾道がとまってできたような、そんな雲の羊腸を、無心で見ていた。
なにをやっても、しぬほど単調だった。なんだかおれの目みたいに平板で、単調な線のつまらないもので、すべて、おれのすべて、つまらないもので、今日も霧で覆うため、ごまかすため、ただよった煙にうきうきと謝っている。ごめんなさい。ごめんなさいねと。ひろがり塗れた煙をさらに深奥へ吸いこむために、いつだって重くにぶい煙をもとめていた。ニコチンを吸引し、煙を肺に入れるときだけは、まるでかくれんぼで遠い木陰にひそんだこどもみたいな気持ちになれた。鬼にも、誰にも見つけられたりやしないという幼い優越感と、やがて気づいてもらえずちっぽけに煤けてしまうおののきに、嬉しく屈して、ゆれた。彼がいないと気づいたのは、二本半目の優越とおののきに厭いたときだった。
おれの胎児、どこかしら。
胎児、どこかしら。けれど、だいたいのあらすじは分かっている。きっと今のおまえはただの胎児なんだから。だったらそんな子の止り木は、おおむね、きまっている。
「ねー、」
暗い台所。
「なあ、起きてんなら、」
がなり立てた、包丁の音。
「そう。聞こえないワケね。」
まな板の上で、せわしい指。
奇抜なことはなにひとつない。出窓の月光のもとで、うつむく彼の姿。おれはゆっくりと背後に近づいたあと、光る床に目をうつした。寝そべっている瓶の光輪へとかかる視線のわだち、おれがいつも飲ませている睡眠薬の錠剤がちらばって、あぶれていった終点。
そうっとあの手の甲を握りつつ、首筋にキスをして、うん、うん。だいじょうぶだよ、まるで暗示をかける要領でささやくと、自身は彼の指から包丁を離していく。ひっそりと目を閉ざした冷蔵庫。なにかが出されたけはいは感じられない。慎重な間隔をもたらして、こわばりをほどく。そうして、おれよりもおおきくて強くて、やわらかい背中を捕まえる。自分が、夢遊病患者であることを、彼はしらない。
昔から人間の安堵する呪文のひとつが“だいじょうぶ”だという、そういった類の話を以前にのっぺらぼうの誰かからきいて、あれは、えぇと、こんな言い方だったかな、と丁寧なイントネーション付きの群書からひいてゆく。おれが口から手放すものはみんなそうだった。ことばの使い方などなく、こういうとき、記録媒体そのものとして他の人生をなぞっている水の心地になった。無思考を手に入れて、代わりにおれをうしなった。だいじょうぶは、じぶんのなかにある「なんだかイイ感じっぽい台詞集」という題の、数頁ほどしかない借り物の辞典のなかにあった。
「だいじょうぶ...だいじょうぶ」
首筋に愛撫をつづけた。皮膚と皮膚のきしり音に耳をすませる。するとあわあわしい虹色そっくりの音が、する。
ああ。できれば、いつまでも委ねていたい、あざやかなこの軋轢に。目を、耳を、神経を。ねえ、おれ、とろけていたいんだよ。ねえ、見たい。白蠟病みたいにかがやくおまえから、たとえば頸動脈の離ればなれになったその首元から、園がでてくる日。そうしたら冬の赤い葉でおまえはいっぱいになる。きっと、冬の園はすごくかわいい。そう、おまえのならね。
見上げると、横顔と逢う。暗い半顔の顔料すら淡泊に忘れて、輪ぎりにでもされたふうなそのもう半顔だけ、くっきりと残っていた。現れたおぞましい造花の目に、舌根がきゅぅう、とひき攣った。まだ、この子はねむっている。すぐにじぶんはしがみついた指の力を強め、まるで遠い夏の木陰にひき摺りこむように、逆光のうろへと道づれにした。おれについておいで、とそそのかして。
壁にぶつかり、抱き込むかたちで床にずるりずるりと滑り落ちていく。スウェットのリブを指ではさんで、はぎとろうとした相手の下着ごと、膝もとまでずり下げて、裾ごしに床をひっ掻いた。そうして虚空を見つめる肉のあたたかみを、暗闇のなかで静かになぞった。その死神のあたたかみをなぞった。ツンと目が痛れる。あの痛れ方だ。氾濫でぐつぐつ目頭まで這い上がる前の、あの。だからおれはなきたいのだと思った。ただ鳴きだしたいのだと思った。
蛙の鳴き袋にでも、なれるものなら。
こうして生きているかぎり、擦り切らせるように、息を切らして彼にすり減ってゆくだけの声帯を、おれはきっとゆるしはしない。四つん這いで腰を抱き、唇をひらいた。ゆっくり舌に乗りあげていった浅黒い肌色の食感を追う。それは薬を下してゆくのに、にていた。蒸せかえるにおい。口の粘��のなかに粘りついたタールの苦い臭気とこね繰り回していく。うら筋をえいりに舐りあげたとき、排水溝の詰まった音を彷彿とさせる、歯切れのわるい吐息がきこえて内なる鼓膜は極彩色にどよめく。指で根本をもたげ、奪う。からめた下品な音遣いでもって、睡液までこそげ落とすように。こうしてうなだれた海綿体の逃げ場をとどこおらせてしまえば、彼の不本意であり故意のおよばないところで彼の欲求だけが肥えぶとり、なみなみ血がみなぎってゆくことに、くらい興奮をおぼえた。だからいつもわるさをしたくなった。一気にからだの真ん中はむらむらと熱りはじめ、小刻みにゆれる腰が更にうかされてしまう。とがったボクサーショーツをずらして触ると、生ぬるく濡れていた。夢中で這いずる指をとめられずにいる。上では性器をくわえながら下では濡れた指で管を嬲った。抱かれることを想像してなぐさめ、深く深く、の奥までゆっくり悩惚をしがんで。媚肉を突き上げられる想像で、なんどもなんどもえずいて。鼻腔からもれるまだるっこい婚声と吐息さえ、木々の樹液のようにおれの内側をぎらぎらとうるおわせていった。
はやく、とすがる猫の声色で言う。あの子にすり寄りぐるぐる巻きついた。拒絶の返事も愛玩する虹彩もいらない。いっぽう的に視姦しているのが良かった。あの肉眼がおれを捉えられないということは、同時にだれのことも捉えたりできない事実の裏打ちで。今、今だけは縮尺された砂の地図となり、またきれいなジオラマとなり、ぎゅっと、ぎゅうっと、おれのつまらない素裸でも抱きかかえることができるんだと。
「かわいい、かわいい、かわいい」
おれに反駁しないで。そう甘えた声でのろいを積んで。
あっ、ごつごつして痛いでしょ、ごめんね。なんて足を撫でてやりながら、肩をかるく押して、そのまま横たえさせる。じぶんはその彼の上に、あわせ鏡のように重なった。光のとどかない瞳、丸みをおびた鼻先、上唇が捲れあがりかすかにのぞく歯、それらを囲いこむふてぶてしい骨組みの深淵。こくこくと、呑み込んでゆくのを見た。なぜだか帰りぎわ、もうあえなくなる人を見るような、あやしい切なさがあった。
ばかだね、樹。
そんな台詞があの子からきこえたような気がした。
ばかだなあ、おまえ。
そんな台詞をあの子にきこえるように、独り言ちた。
ふたり、あわせ鏡のままで。
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日本のロック熱は女子の〝好き〟エネルギーが作ってきた 映画「ボヘミアン・ラプソディ」公開を機に振り返る 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開されて話題だ。イギリスのロックバンド、クイーン、そのヴォーカルのフレディ・マーキュリーに焦点を当てた伝記映画。なるほどクイーンは映画が作られるにふさわしいスーパースターだが、1973年のデビュー当時は本国では全く人気がなく、評論家たちにも大不評で「グラムロックの残りカス」とまで書かれたとか。残りカスって……どうよ? よもや半世紀後に伝記映画が作られるとは、書いた評論家も思わなんだろう。 クイーンのフィーバーは日本から世界へ そんなクイーンを最初に注目し、人気を獲得したのは、実はここ日本。しかも音楽雑誌の女性記者の先見の明からだった。その記者とは東郷かおる子。後に、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長となるが、1973年当時はそこの1記者だった。 「ミュージック・ライフ」は1937年に歌謡曲の投稿誌として産まれ、1953年からはジャズと歌謡曲を紹介し始め、1960年代からは海外のポピュラーミュージックを紹介する音楽雑誌として一時代を築いた。 東郷かおる子は1967年に「ミュージック・ライフ」を発行する新興楽譜出版に入社する。高卒の女子。最初は経理部に配属されるも、ゴミ箱に捨てられたスターの写真が載る校正紙を拾っては抱きしめ、憧れのスターに一瞬会えただけでワンワン泣いて感激していた。その熱意で編集部へ異動。愛と情熱で働く、若き女性記者だった。 そんな東郷がクイーンを初めて誌面に登場させたのは1974年5月号。モノクロのグラビア1ページ。「イギリスの新しいアイドルはこれだ!」と銘打ち、「最も将来が期待されているのがこのクイーンである。久しぶりに登場したルックス良し、音良しの華やかな雰囲気を持った若者たちだ」と書いた。東郷はデビュー曲「炎のロックン・ロール」を聴いて気に入っていた。 「メンバーはどんな顔をしているんだろう? そのうちに、モノクロのメンバー・ショットが届いて、それを見たら、ルックスもすごくいいわけね。当時は、まだ四人とも若かった。これ、結構いけるんじゃない?と思って、とりあえずミュージック・ライフに写真を出してみようとグラビアに出したら、読者からすごい反響があったの。それで、クイーンは人気が出るな、いつか取材したいな、と思っていたわけね」 (『ミーハーは素敵な合言葉』より) その機会は瞬く間に訪れた。同じ年の7月号に掲載する、モット・ザ・フープルというイギリスのバンドの“ブロードウェイでの初のロック・コンサート”を取材するために初めての海外、ニューヨークへ行くと、その前座がなんと!クイーンだった。当時そんなわけでクイーンは人気がなく、増してやアメリカなどではまだ無名。照明も暗い中でのわずか30分の演奏だったが、東郷は「このバンドが日本で受けないはずがない!」と確信した。それは彼女の勘というか、ミュージシャンのスター性をかぎ分ける嗅覚で、見事に的中することになるのだが、ここからがまたすごい。 ファンの目線でメンバーに直談判 コンサート後、モット・ザ・フープルのレコード会社の人たちとレストランに行くと、そこにたまたまクイーンのメンバーがやって来た。東郷はずんずんと彼らのテーブルに近寄り、「日本から来た、こういう雑誌の者です。先月号なんですけど、あなた達の写真が載ってるんです」と「ミュージック・ライフ」を差し出した。するとクイーンのメンバーたちは「僕たちの写真が載ってる!」と大喜び。何せ人気がなかったんだから……。東郷はすかさず「時間があるなら明日インタビューを取らせてもらえませんか?」と直談判した。当時ろくに英語も話せなかったという東郷、しかも初の海外取材。大した度胸だ。 これが東郷と「ミュージック・ライフ」の、クイーンとの運命としか言いようのない出会いで、そこから「ミュージック・ライフ」はクイーンに何度も取材を重ね、大々的に掲載する。英米でも彼らは少しずつ知名度が上がっていたものの、日本での人気は圧倒的なものになった。1975年4月の初来日時には羽田空港に1200人以上ものファンが集まって、クイーンのメンバーはもみくちゃになった。 その大フィーバー振りは当然ながら海外へもニュースとして伝わり、そのことがアメリカやイギリスでの宣伝活動に火を点け、もちろん実力あってこそだが、クイーンは世界的スターへと上り詰めて行く。翌1976年の「ミュージック・ライフ」4月号には「クイーン、ついにアメリカでも一流グループの仲間入り」とある。そのきっかけは、東郷の金の卵を見抜く目と耳だったわけだ。 彼女のスターを見つける嗅覚は、1978年に再び発揮される。後に世界的スターとなるチープ・トリックだ。レコード会社から持ち込まれた、前の年にデビューしたばかりの彼らのレコードを聴くと「そこそこパンクっぽくて面白い」と東郷は思った。「じゃ、確かめてみよう」とまたアメリカへ渡り、ブルー・オイスター・カルトというバンドのこれまた前座を務める30分たらずのチープ・トリックの演奏を見た。東郷はこれにたちまち撃ち抜かれた! ちょうどクイーンの人気もひと段落。「新しいスターが欲しい!」と思っていた。「ミュージック・ライフ」は、今度はチープ・トリックを毎号大々的に掲載して、彼らは日本で爆発的人気を得る。ヴォーカルのロビン・ザンダーは王子様的アイドルとなり、他のメンバーもキャラが立っていた。武道館でコンサートを行い、そのライヴ盤が作られて発売されると、なんと全米ナンバー1に輝いた。武道館という名前も、ここで一気に世界に広まったのだ。 2015年に私が東郷にインタビューしたとき、逸材を見つけ、それを大々的に推してスターに育てていく過程をこう言っていた。 「格好いい!と自分が思えることが原動力なわけ。別にファンじゃなくても、光ってる、ビビッときた、行けるわ!と思うと、私のアドレナリンはすごいから。しかも、当たるんだよ、それが。私は最大公約数の人間なんだよね。特別な感性じゃないの。普通なの」 (「季刊レポVol.19号」より) 大衆が何を求めているかを見抜くプロデューサー眼ではなく、大衆、しかも熱狂する女性ファンの目と耳そのものを自ら持ち、逸材を見つけ、とんでもない情熱と、大胆な行動力でクイーンを、そしてチープ・トリックをスターにした東郷かおる子。こんな女性が昭和の時代に日本でロック文化を培っていたのだから驚くが、「ミュージック・ライフ」には実は、東郷が憧れた先人がいた。 日本刀携えてビートルズを訪ねる 1965年、当時既に大スターで誰も成し得なかったビートルズとの単独会見に成功した、ミュージック・ライフ編集長・星加ルミ子がその人だ。彼女については、『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』が詳しい。 星加は短大で英語を学んでいた20歳のとき、新宿のジャズ喫茶で偶然「ミュージック・ライフ」の求人広告を見つけて応募、アルバイトとして入社した。1960年のことだ。最初は読者からの投稿ハガキの整理など雑用をしていたが、3年後には彼女が実質的な編集責任者になる。 それまで日本の歌謡曲と海外のポピュラー音楽を載せるどっちつかずだった「ミュージック・ライフ」を、1963年9月号でエルヴィス・プレスリーを表紙にし、��外のポピュラー音楽専門誌に変えた。投稿欄の担当者だった彼女は、「海外の歌手を載せて」という読者の声が日に日に増えていることに気付いて大胆な路線変更をしたのだ。 それはすぐに功を奏す。1964年2月にビートルズが日本デビューすると、「ビートルズかわいい」という声が続々寄せられた。星加はこれだ!とピンときて、同年4月号でビートルズを表紙にする。宣伝用のモノクロ写真を色づけし、それぞれの顔を切り抜いて配した。この表紙は大好評で、一か月後の返本の際には表紙だけが切り取られたものが幾つも送り返されてきたそうだ。 そこから日本でもビートルズ人気が爆発。それに伴って海外のポピュラー音楽を紹介する「ミュージック・ライフ」の売り上げもどんどん伸びていく。星加は20代前半でやり手の編集長だった。 そんな星加をロンドンに飛ばし、ビートルズに取材させたい、という思惑が周囲から沸き起こるには時間がかからなかった。とはいえ、そう簡単に事は運ばない。ロンドンのオフィスに問い合わせれば、素っ気なく断られる。それでも星加はロンドンに行くことになった。とにかく行ってみなよ、というムチャ振りだ。世界一周、一か月にわたる取材旅行の日程を組んで1965年6月、星加は日本を発った。海外渡航が自由化された1年後のことだ。 しかし、ビートルズに会えるという確証はない。というか、全く希望はなかった。そこで彼女はまずマネージャーに気に入ってもらおうと、お土産に本物の刀をロンドンへ持って行った。今ほど法律も空港も厳しくなかったとはいえ、なんということをするんだろう。星加はビートルズの4人にあげるお土産用のおもちゃの刀に本物の刀を紛れ込ませて持ち込み、ロンドンでマネージャーにプレゼントした。 それが功を奏した……というよりは、日本の音楽雑誌の編集長がまだ20代前半でビートルズと同年代、小柄でおかっぱ頭のニコニコした女の子(イギリス人から見たら子どもに見えただろう)だったことにマネージャーは心を動かされたのだろうと、後に星加自身が言っている。日本公���を行った際には若者たちに見て欲しいと、チケットの値段を低く設定してもいたビートルズだ。当時、彼らは若者の代表であり、仲間だった。星加は仲間として、ビートルズに迎え入れられたのだ。 星加はビートルズに会うことができた。30分の予定が3時間にも及んだという。ビートルズと星加が並んだ写真は「ミュージック・ライフ」の表紙のみならず、世界中の音楽雑誌、そして日本のスポーツ紙や週刊誌をも飾り、日本の若い女性がビートルズに会ってきた!とTVやラジオでも大きな騒ぎとなった。 もちろん、それまでもビートルズは日本でも人気だったが、星加が会ったことで日本におけるビートルズは俄然リアルな実像となって、当時は本当に存在していた「お茶の間」レベルのスターになった。その後の来日公演では教育界や文化人、放送人、政治家、警察まで日本中を巻き込んだ大騒動になっていく。 星加がロンドンでビートルズに会ってなかったら、果たしてここまでビートルズは日本で市民権を獲得しただろうか? 星加が日本にビートルズというスターを連れてきた、といって過言ではないと思う。そしてそれは、日本にロックという音楽文化を根付かせる、大切な大切な一歩だった。 さて、その星加が10代から憧れていたスターはエルヴィス・プレスリーだった。星加はビートルズに会った旅で、実はアメリカに渡ってエルヴィスに会うための画策を図ったが失敗していた。もしビートルズ同様にエルヴィスとも一緒に並んで写真を撮り、「ミュージック・ライフ」の表紙を飾っていたら、どうなっていただろう? 同じことを「ミュージック・ライフ」で当時、「スターの花かご」という人気コラムを書いていた湯川れい子も考えていた。82歳の今も音楽評論家として現役の彼女は1965年10月に渡米し、日本でも大人気だったアメリカのシンガー、パット・ブーンの自宅を訪問する。彼女はパットの来日公演の司会を務めたりで(注:当時はコンサートに司会がついた)、彼とは懇意だった。そしてパットはエルヴィスの友人でもあり、湯川はパットにあるお願いをしていた。 「アメリカに行けるようになったらあなたに会いたい。そしてエルヴィスに会わせてほしいの」 (『女ですもの泣きはしない』より) スター相手に言うね!と思うが、彼女は物おじせずに綱引きをぐいぐい手繰り寄せるように、欲しいものを自分の力で引き寄せる人だ。多少強引でも、笑顔と丁寧な物腰で相手を納得させてしまう。パットはそれで「ロスに来たら感謝祭に自宅に招待するよ」と言ってくれた。湯川が本当に訪問すると、パット自らエルヴィスのオフィスに電話をして取材の交渉までしてくれた。「彼はハリウッドで映画の撮影中。時間が空けば会えるそうです」 楽屋を訪ね、プレスリーとキス ワクワクして待ったが、結局このとき湯川はエルヴィスに会えなかった。エルヴィスは日本を熱狂させるせっかくの機会を失ってしまったのだ。当時彼は30歳。デビューした1956年は21歳だった。エルヴィスがデビューした頃、湯川はまだ音楽評論家ではなかったし、「ミュージック・ライフ」に星加も東郷も当然ながらまだいない。誌面では男性評論家たちが「エルヴィスは男ストリッパーか?」とか、「ハクいスケにもてようと期待するならばエルヴィスの秘密を取得吟味して新しい戦術を作り出せ」といった、過去の価値観を覆す新しいタイプのロックスターを理解できず、彼をこき下ろす記事ばかりが目立った。エルヴィスと日本はタイミングがことごとくズレていた。 それでも湯川自身は全くあきらめていなかった。1971年8月、ラスヴェガスでエルヴィス・プレスリーに初めて対面する。コンサートの楽屋でのことだ。時間は少ししかなかった。 「長居はできない。私は進み出て言った。『キスしてください』エルヴィスの顔が近づき、やわらかい唇が私の唇に触れた」(同) エルヴィスはコンサートで、ファンの女性にキスするのが習わしだったとか。だからキスしてもらいたかったという。湯川はエルヴィスの前でファンであろうとしたのだ。そして、その一部始終をありのまま、エルヴィスがどんなにステキだったかを新聞に書いた。するとそれが「評論家の風上にも置けない」という大バッシングを巻き起こし、湯川は逆に腹をくくった。 「私は評論家などと呼ばれなくたっていいのだ。一生、ミーハーのままでいてやろうじゃないか、という気持ちがさらに強くなった」(同) 湯川にとって「ファンである」ことは、音楽の仕事をする上で最も大切なことだった。1966年のビートルズの日本公演で、武道館に響き渡る少女たちの無垢な嬌声に心底胸打たれ、同時にその少女たちを力任せに抑え込む権力に激しい憤りを感じていた。 「力を誇示する男たちは自分には理解できない、自分の支配力が及ばないエネルギーが怖いのだろう。それなら私は一生、この『キャアア』という叫びの側にいよう」 (『音楽に恋をして~評伝湯川れい子』より) 拙著の引用だが、湯川れい子は敢えてファンの側に立ってロックを伝えてきた。それはエルヴィスに会った翌年の1972年から24年続いた、湯川がDJを務めたラジオ番組「全米トップ40」でいかんなく発揮され、ロック文化を楽しむことを日本の若者たちに広く伝えた。 ちなみに湯川のキス事件騒動こそ、日本では既に忘れられた存在だったエルヴィス・プレスリーが、お茶の間でも知られるスターになるきっかけだった。ジャンプスーツで太ったロックスター、エルヴィスという少々ねじまがったイメージではあったものの、エルヴィスの名前と姿は日本で広く認知されるようになった。 東郷かおる子、星加ルミ子、湯川れい子。彼女たちはひたすらロックを愛し、大胆な行動を起こし、時には暴走もし、それが日本にロックという音楽と文化を根付かせ育て、遠く世界にまで波及させもした。好きこそものの上手なれ。“好き”のエネルギーはどんなハードルをも乗り越ていくのだ。
東郷かおる子「私は最大公約数の人間なんだよね。特別な感性じゃないの。普通なの」だからスターを見抜ける https://book.asahi.com/article/11945630
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みQ文字フォントを作るまで

ぅぇぁみくてんの書いた文字をフォント化した、その作業や知見の記録記事でございます。なんでフォント作るねん変態やろ、頭おかしい、とか色々言われておりますが、そもそものきっかけは本人と喋っていたときに確か日記と文字の話になり、フォントつくろっかなー(カタカナフォントくらい作れるやろ)みたいなことを言っており、(多少どうやって作るか知っていたので)だいぶ大変やで!と言ったら、じゃあ作ってよ!ほな作るわ!ということで作り始めたというのがきっかけだったと……思う……(当時珍しくハイボールを5杯ほどひっかけており記憶がやや曖昧)
ともあれ汚いと言われるみQ文字だけど、実は特徴を見ていくと理に叶った流暢な筆運びであったり、魅力ある字であるとは思っていたのでこれ幸いとばかりに製作に入ったわけです。
フォントを作ること / そもそも興味はあった
おぼろげながらFontForgeというフリーなフォント作成ツールがあることは以前から知っていまして。実はフォント作りたいな~と思いつつ自分の文字をフォントにしても面白くないし、ネタがないのでツールを調べるだけで終わっていたのだ。その頃から色々と他にも新ツールや進化している部分があるのでは?と思���色々調べた。軽い気持ちで。それが、長い旅路の始まりであった……。
Webサービスで簡単に作る? / マネタイズできないサービスは滅びる
どうもテンプレート画像をダウンロードしてきて、そこにうまく載せてアップロードすると自動的にフォントになるぜ!的なのがあると風の噂に聞く。なるほどPaintFontというらしい。さて早速サイトに行ってみると何故かCaligraphrとかいうサイトに飛ばされる……?どうやら名前を変えて有料化していて、無料だと文字数制限がかかるとか……。英数ひらがなカタカナを作りたいのでどう考えても足りない。没か……。
他に類似サイトないかな、と調べてみたが、制限があったり英数字だけだったりどうも要求に合致するサービスはなさそう。普通に考えてWebサービス開いてるだけでもお金かかるし、寄付とかないと無料ではやっていけないわな。そもそもフォント作成サービスてどのくらいの市場規模なんだ……?むしろ無料サービス、なんであるの?
画像取込み / 目を皿にして日記を読み、心で文字を感じる
じゃあどないするか。本質的にはアウトラインフォントを作るので、ベクタ画像の作成が必要である。となると画像の自動トレース。調べてみるとフリーのベクタ画像編集ソフトであるInkscapeにもトレース機能があるようだ。やったね! (実はFontForgeでもpotraceとかを使えば画像トレースできるんだけど管理・編集上一旦SVGで扱いたいのでInkscapeを使う)
さてこの画像トレース、Inkscapeに画像をD&Dしてツールを実行、はい終わり!なのだが、今回の画像ソースはTwitterで連載(?)されているみくてんの日記である。何か問題があるか、というとだいたい次の2点となる。
1.文字の分離が難しい
流れるように書かれている文字なので、文字同士が重なっていたり、罫線なんかが文字に混入してくるので単純にトレースしてしまうと意図した結果にならなかったりする。あと色が薄い文字であるほどノイズに弱くなるのでそのへんの考慮も必要。
2.文字の状態がまちまち
日記1ページ中の1文字を取り出してくるのだけど、日によって割と文字の大きさが違う。大きいぶんにはなんとでもなるのだけれど、小さいとトレース結果がかなり鈍った感じになってしまい原型を留めない結果になりがち。また文字の太さや傾きなども異なるのでこのへんも調整が必要。
ではどうするか。
地道に切り出してレタッチ、そして取り込んだら字形の調整をします!
目を皿にして日記を何度も熟読し、求める字が存在するか1つ1つ確認していく地道な作業を経て、ペイント等で開いて目的の文字だけをサクっとトリミング。そしてノイズを除去し、関係ない文字や罫線を1つ1つ丁寧に消していき、文字を掘り出します。手作業のあたたかみ。
次いで取込み。これ自体はもうボタン1発。そして結果を見て、あっここちょっと細いな……とか、ここの角が丸くなってるから修正しよう……とかやっていく。 線がクロスしている部分はほぼ100%うまくやってくれないので、元の字形を脳内で高解像度化して筆跡の流れを読み、脳内モデルと一致させつつ、不自然にならないように字形を整えて。あとこの段階である程度大きさや太さは統一します。
ほらね、簡単でしょう?(眼精疲労で充血した眼をこすりながら)
SVGフォント / 唯春の夜の夢のごとし
ついでにSVGフォントというものの存在も知る。Inkscapeでもサポートしていて、なんとInkscape内だけでフォントが作れてしまうらしい。早速喜び勇んでチャレンジしてみたのだが、これがまた、つらい……。
基本的な操作としては、専用のウィンドウでSVGフォントの枠を作成し、その中にグリフ(文字)を追加して紐付けする文字(マッチング文字列)を指定したら、対象の字形を選択して取り込みボタン(選択オブジェクトから曲線を取得)をポチっと押す。あとは文字毎にこれを繰り返すだけでそのSVGファイルはフォントとなるのであった……が。
取込する際の位置がフォントとして取り込まれた位置に反映されるため、全ての文字は同じ枠内に配置しなければならない。つまり同じファイル内で複数の文字を管理しようと思うと、レイヤを分けざるをえない。文字毎にレイヤを作って、グリフを作って、位置を調整して……と作業するのはかなり煩雑である。しょうがないので枠作るところはSVGをテキストエディタで直接編集したりした。
また更につらいのが文字毎に幅を指定できないこと。全文字全角か半角になってしまう。そもそも俺が作りたいのはプロポーショナルフォントだ。どうやらSVGフォントの規格自体では幅の細かい指定もできるようで、FontForgeで編集すると実現はできた。が、Inkscapeはそれに対応していないようで指定してしまうと読み取れなくなる。これはメンテナンス上とてもおつらい……。
ついでに書いておくとSVGフォントは現代ではもう殆ど使われていない形式のようで、未来もないのですっぱり諦めた。 (OpenType SVGフォントというものがあったりするのだがこれはまた別のお話……)
svg2sfd / なんかうまくいかない
文字形の編集自体はInkscapeのほうが良いが、ちゃんとしたフォントを作るにはFontForgeが必要だ。FontForgeはSVG取込みするとき字形毎にファイルが別れている必要がある。さて、しこしこ分割して、FontForgeのスクリプティングでなんとかするかな……と思案しているとsvg2sfdなる文明の利器が見付かった。ほぼほぼ似たようなことやろうとしていて、1つのファイル内でグリッドを基準に位置計算してパス毎に分割、パスのIDでUnicode指定するらしい。
これでいけるんちゃう!?と思って既に作ったグリフを移行してみる……と何故か何も出力されない。ソースを見てみると、SVGのパス形式が一定のものを想定しているようで、少なくとも俺が最新版のInkscapeで四苦八苦しながら作ったものはうまく読んでくれないようだった。多少修正を試みたが、破裂したフグのようななれの果てしか取り込まれなかった。無念……。
しょうがないのでしこしこ分割しました。
FontForgeのスクリプティング / プログラマの三大美徳とは怠惰・短気・傲慢である
ここで真打、FontForgeの登場である。細かい説明は省くがフリーでフォント作成といえばこれ、というすごいやつなのである。そしてこいつにはスクリプティング機能が付いていて、画面操作のほとんどを自動化できるというのである。
ふつーに分割したSVGをフォントに取り込もうと思うと、1つ1つの文字を選択した上でSVGを読込むという死ぬ程面倒くさい手順を踏む必要があるのだけれど、スクリプトでImport(”*.svg��)とかやるとsvgファイルを全て取り込んでくれる!そしてファイル名をUnicodeのコードポイントにしておけば自動的にその文字として個別に取り込んでくれるのだ……!(仕様説明が見つからなかったけどそういう動きをするのでたぶん)
フォント名を英語と日本語で設定したり、ファイルサイズ削減の最適化をしたり、文字毎に幅を設定したり細かい調整もスクリプトでやったんだけど詳細は割愛。気になる人はソースを見てください。
(どうでもいい余談: フォント名は日本語は単純に「みQ文字」としたのだけど、フォントIDは英語にする必要があったためどうしようかなーと思案した結果MiQglyphにしました。みQ"文字"のニュアンスとして、ヒエログリフ的神聖文字のニュアンスで呼称されているのではないか、と思い至ったのでグリフを採用しています。)
これで、なんということでしょう、SVGを作れば1秒程度でフォントが出力できるようになったではありませんか。文字を追加するときもSVGを特定のフォルダに置くだけ。これぞ匠の技。驚きの0円(電気代を除く)。
最終調整 ~ 公開 / ラスト・ワン・マイルが遠い
これで終わり!かというと、そうは問屋が卸さない。実際に出力されたフォントで文章を表示してみると、なんか一文字だけガタってたりとか、太さが違うとか、字間が広過ぎ・狭過ぎ、など細かく不満点が出てくる。人の欲は増大して留まることを知らぬ。カチっとしたゴシック体とか明朝体とかであれば文字作成時にルールを決めておけば綺麗に揃うと思うのだけれど、手書きプロポーショナルフォントではなかなかそういうわけにもいかず……。
というわけで私は今、文章表示→字形修正→フォント再生成→インストール→文章表示→…の無限ループを超えて今この世界に立っているのです。ここがβ世界線だ。
時期的に12/8ワンマンがあったので、自分のテンション上げる意図も、プロモーションの一助になれればという意図もありつつ、その前夜をターゲットに作業を進め初版リリースまで無事こぎつけた。できれば英数字ひらがなカタカナ全部含めたかったけれど、10回くらい全日記読み返しても見付からなかったので流石に諦めました。公開にあたっては自分のサイトで特設してもよかったけれど、ソースも公開するつもりだったのでGithubのリリース機能で出してみた。初めて使ったけれど結構便利。
そして臨んだぅぇぁワンマン。本稿からは逸脱するけどこの目立たないところでぶっちゃけ気味の何様やねんな感想などを少し。正直言うと会場が大きく、半分くらいしか埋まらないのではないかとちょっと思っていた。けれど実際は7、8割近く埋まっていて、ぅぇぁ現場で見掛けた人は大体居たのは勿論のこと、東京の知り合いも名古屋の知り合いも来ていたし今日始めて来たという知り合いも居た。 そもそもぅぇぁの現場は一つの界隈の人達が居る、という感じではなくて複数の現場から満遍なく人が来ている印象があって、これは音楽的にもパフォーマンス的にもメンバーのキャラ的にも幅が広い、言い換えればフックが多いことに起因しているのではないかと個人的には思っていたりする。それを続けてきた結果としての動員かなと素直に思うし、動員した人達の期待の斜め上くらいを投げ付けて間違いなく今後につながるパフォーマンスだった。少なくとも俺の期待の斜め上は行ってた。 戦略的には現段階のワンマンは値段設定から見てもプロモーションの意味合いが強いとは思うのだけど、プロモーションだからこそ本気が必要で、その本気が120%出たという感触。メンバーの頑張りは痛い程伝わったし、運営側の頑張りも相当なものだったと思うのだけど、なによりチームとしての信頼関係が素晴しい。セットリスト1つにしても一旦Pが考えたものをメンバーに投げて、意見を取り入れて大幅に組替えたりしたというエピソードはとても象徴的な気がしている。運営はクリエイティブで、メンバーはパフォーマンスで。両輪がまわってどこまで行けるのか。ワンマンを経て楽しみなグループになった。
公開後 / 浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない
ぅぇぁのヲタクの方々からもふぁぼなど飛んできたのでなんとか受入れてもらえたかなー、とか思ってたらまさかのご本人使用例が飛んできて震えています。今にも暗闇からみくてん原理主義者が飛び出してきて「電子的みQ文字など認めぬ」と主張しながら刺してくるのではないか、眠れない夜を過ごしています……。

というのは冗談として。本人からポジティブな反応が来たのは滅茶苦茶ありがたいし嬉しい。基本何やるにしても見返りは期待せず自分が楽しいからやる(色々書いたけど基本楽しんでやっています)、ただし迷惑はかけないよう努力する、という割り切ったスタンスなのだけど、反応があるとやはり嬉しいものだし、やる気も出るものだなぁ、と自らのちょろさを噛み締めている今日この頃です。めっちゃツイート見返した。よーし漢字も拡充していくぞ……!(完)
ライセンスや著作権についての余談
ライセンスはMITライセンスなので誰でも自由に利用・改変・再配布可能です。こういうの明示しておかないと、著作権者が主張したら何でも通る怖い状況なのでライセンスってのは重要なんですよ……。ライセンスがわからないフォントは使ったらあかんですよ!他のライセンスはフォントだとSIL OFLというのがあるようだったが、制限が増えるだけなのでGithubでも対応してるMITライセンスでええやろ、というノリ。一瞬CC BYとかも検討したけど、これ印刷物とかにも全部表示要るんちゃう?という気がしたのでやめた。
一応リリース前に運営に確認をとったりはしたので公開に問題はないだろう、と判断して公開してるのだけど、そもそも法律上今回の製作物は何らかの制限にひっかかるのだろうか?という疑問はあったりなかったり。軽く調べるとデジタルデータとしての著作権は認められる一方、文字の字形自体には一般に著作権は認められないという。ただし毛筆書体などは芸術性が認められるため著作権が発生する、という説明があった。このアナロジーで行くと、このフォントの差し止めを運営側から行う場合は、みQ文字の字形に芸術性が認められるかや、名称の使用あたりが問題になりそうかな……と考えてみたりはしている。(万一の場合も別に争う気はないけど、思考実験的なやーつです)
細かいメモ
作業するにあたってちょっと嵌ったポイントをメモ。
FontForgeのスクリプティングに関してはちょっと古いけどこのへんを参考にした。
OpenTypeでの文字単位は基本1000unitで、SVGでの1px=1unitにあたる。このためSVGのキャンバスはpx単位で1000x1000と作成する。
Windowsのフォント選択ダイアログで「日本語」とか「欧文」とかの区分が出る部分は、TTF名がその言語で入っているかどうかで決まるぽい。
FontForgeのSetTTFNameで指定するnameidの一覧はたぶんこのへんのやつでいける。
未定グリフを表す.notdefの字形をSVGから取り込むには、0x0000のグリフを選択した状態で、グリフ名を.notdefにしてから取り込みをかければよいようだ。
フォント出力時のエラー / 誰かの参考用
FontForgeでOTF(SVGは3次曲線なのだが、TTFは2次曲線、OTF(Type1)は3次曲線使用なのでOTFのほうが再現性が良いと想定される)などを画面で出力しようとすると、めちゃくちゃ警告が出る。とにかくよく出るのが次の2つである。検索しても説明がさっと出てこないのでメモ。あくまで警告で、スクリプトで出力すると警告出ないから関係ないっちゃないんだけどね……。
Wrong Direction
方向って何の方向やねん……と思ったが、どうやらフォント作成時のルールとして「外側の輪郭は時計回り、内側の輪郭は反時計回りのパス」という決まりがあるらしい。このように処理したほうが良い表示結果になるということなのだが、無視しても割と違いがわからない……。なおFontForgeにはこれを自動で修正する機能がある(エレメント→アウトラインの向きを修正)。念のためスクリプトで指定しておいた。
Missing Points at Extrema
Extrema=極値ということで、曲線の頂点に制御点がない、ということらしい。どうもフォント描画の都合上なのかそういう制御点の配置のほうが処理結果が良くなるということのようだ。というわけでこれも無視しても割と違いがわからない……。制御点の数が多過ぎる、と説明している記事があったが、文面上どう考えても違うぞ。
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あ、雨や。ぼーっと外を見つめていたら、ぽとぽとと水滴が細くて白い線みたいになって地面に落ちていくのに気がついた。授業なんてそっちのけでガラスで隔たれた外の世界を観察しているうちに、穏やかに降り始めた雨は瞬く間に激しくなった。体育館で体育をしていた生徒たちが、走って運動場横の通路を駆けていく。もうすぐ授業は終わる。
終盤に差し掛かったのか、教壇に立つ先生はおれたちに向かって今日の重要文法をしつこく繰り返している。先生にとってはどうしても覚えてほしい文法らしいけれど、六時間目にもなって集中力が続いているやつなんかいない。おれは少し先生に同情して、自分のノートに目線を落とした。見慣れた文字が雑に踊っていて、何を書いているのかよく分からない。
授業を聞く気が完全に失せたその時、授業終了を告げるチャイムが鳴った。やる気のない号令のあとすぐリュックからスマホを取り出して、早急な手つきでメッセージアプリを開く。連絡先の一覧から水上、とそっけない二文字を探し出し要件を打った。
『今日傘持ってますか?』
送信ボタンを押した直後、なんとも言えない高揚感に包まれる。毎回何かメッセージを送る度に後悔と期待とが入り交じって落ち着かなかった。ほぼ毎日顔を合わせているのに連絡を取るだけで緊張するなんて、異常だ。
やっぱり取り消そうか、それとももう少し待とうか、既読が付くまでたったの数秒だったのにその間もおれの心のなかでぐるぐると様々な感情が入り乱れていく。
『持っとる』
いつの間にか止めてしまっていた呼吸が正常運転に戻る。返信がなかったことなんて一度もないのに、おれは水上先輩にそのうち見捨てられるような、そんな気がしてしまっている。水上先輩に言わせれば被害妄想なのだろうけど、こればかりは仕方ない。
『おれ傘持ってないんで、入れてください』
こちらの真剣さを悟られないようにスタンプも一緒に送る。緩い猫のような動物がおねだりしているようなイラストのやつ。別に、先輩やなくてもいいんですけどねって言い訳が出来るように予防線を張るのは癖だった。
送ったと同時に既読の表示がついた。アプリを閉じずにおれの返信を待っていてくれたのだと勝手に解釈して、胸を踊らせた。
水上先輩はおれが送ったのと同じシリーズのスタンプを送ってよこした。OKの文字が描かれているものだ。それから『二年の下駄箱前な』と来る。毎回同じ場所での待ち合わせだった。わざわざ二年の下駄箱前を選んでくれるようなところが好きだ。
SHRが終わった。早く水上先輩の元へと辿り着きたい気持ちを抑え、わざと遠回りをして下駄箱へと向かった。先輩のところはいつもどのクラスよりも早く教室から出て放課後を迎えているから、いつもおれが先輩を待たせることになる。おれが来るのを待つ間、おれのことで先輩の頭がいっぱいになればいいと思う。隠岐遅いやん、とかそんなしょうもないことでいいから、おれのことを少しでも長く、おれがいない場所で考えていてほしい。そうして辿り着いた下駄箱で靴をスニーカーに履き替えて先輩に声を掛けた。
「水上先輩はいつも早いですねえ」
水上先輩は特に何もせずただぼーっと待っていただけのようで、気だるそうに下駄箱の側面に身体を預けるようにして立っていた。右手にはいつもの飾り気のない黒い傘がある。
「お前んとこは遅すぎや」
待たされたという意識が滲まない声で、行くかと言われたので、おれは頷いて先輩の後をついて行った。
「ちゃんと天気予報くらい見てから家出ろ」
「はは、おっしゃる通りですわ」
黒い傘の柄は水上先輩が握っている。
おれは、もっと近づかないと濡れると分かっていても、どうしても傍に寄ることができずにいた。右の肩が傘の下からはみ出しているようで、容赦なく冷たい雨が制服を濡らしていく。雨に触れる右手がどんどん冷えていっても、おれはその距離を保ち続けた。なるべく離れるようにしているのに、雨の日はおれが平然を装うための距離が足りない。近づいたことに対する動揺がすぐそばの先輩にまで伝わったらどうしようという怯えが、おれを支配している。
ふいに左腕に温かい温度を感じたと思うと、ぐいと引っ張られ、すぐにおれの安全な場所が先輩の動作で侵された。先輩はおれをじっと見ている。見て見ぬふりをしてほしいのに無遠慮な優しさのせいでぐらりと心が傾いてしまう。ずるい人や。
「何のために傘に入れてやっとると思うてんねん、濡れたら意味ないやろ」
「でもそんな近づいとったら歩きにくくないですか?」
「そういう問題やない。お前が風邪ひいたら諸々メーワクやねん」
たぶん、今の言葉は少し違う。先輩は迷惑だとかひとつも思っていない。この人はおれが風邪なんか引いたらなんも言わずに世話を焼いてくれる人だ。おれはこの人のそういう優しさを知っている。
雨の日の匂いが、だんだん変わっていく。じめじめした匂いが先輩の匂いと混ざって知らない匂いになる。でも知らないはずはない。だって何度も、おれは飽きるくらい雨の日はこの人の横を歩いている。
「……先輩って、優しいんですね」
地面に降り注いだ雨が側溝に流れていく。雨足は強くなるばかりで止む気配はなく、全ての音は雨にかき消されていく。スニーカーも靴下もびしょびしょに濡れていたけど、気にならなかった。
「なんか勘違いしてしまいそうやなー、なんて」
冗談めいた色を乗せて溢れそうな感情を吐き出した。雨が全てを流してくれるような気がしたから。だから、先輩も聞こえないふりか、本当に聞こえていないか、それか冗談で返してくると踏んでいた。なのに。
「勘違いしてればええやん」
最初は冗談だと思った。でもそれが冗談ではないことを、先輩の真っ赤に染まった耳が物語っている。先輩はおれが何重にも丁寧に張り巡らせておいた予防線をすべて、たったひとことで焼き払っていってしまった。
「おまえは一生俺の一挙一動に振り回されてればええねん」
傘の下は雨音でうるさい。それから、おれの心臓の音。一生懸命血を送り出している音。きっと何もかも、この人にはお見通しだったのだろう。おれがわざと傘を家に忘れていることも、いつも折りたたみ傘をロッカーに入れっぱなしなことも。
「じゃあ、一生雨の日は迎えに来てくださいよ」
「水上了解」
「ほんまに来る気あります?」
「了解言うたやん」
「あ、今だるいって顔した」
「してへん、それは隠岐の被害妄想や」
どうでもいい小競り合いを続けているうちにおれと先輩から発せられた笑い声は、雨の音に混ざって幻のように消えていった。
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