#ブル��キーのひつじ
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annamanoxxx1 · 5 years ago
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月兎 03
   左馬刻の気配がした。サアサアと鳴る雨音の中。遠く、左馬刻のドレスシューズの音が聞こえる。踵に重心のある、足を引きずるような歩き方��今日は特に足取りが重い。人の気配に敏感な観用少年の中でも、銃兎はとりわけ、神経質とも言えるほどに物音を感じ取る個体だ���た。人の足音を聞き分けるのは得意だ。
   店の前まで来た、と思う。左馬刻の息遣いがいつもと違う。荒い。おかしい。目を、開けてみた。飛び込んできたのは、べたりと硝子に張り付いた赤い手形。
   立ち上がる。窓辺に駆け寄る。そんな銃兎を見て、左馬刻が顔を上げて、笑った。こめかみを伝って顎先から流れ落ちた雫。膝から崩れ落ちるずぶ濡れの体。赤い手形が、硝子に尾を引いた。
「左馬刻!」
   声が出た。理鶯の前でないと出ないはずの声が。硝子越しに左馬刻に近づく。ドン。思わず両手で叩いた、透明の板一枚分の距離がひどく遠い。
「理鶯!理鶯っ!」
   半狂乱で、銃兎は叫んだ。大きな声を出す事を忘れた喉が、痛んだ。切れたのかもしれない。でも、きっと、左馬刻はもっと苦しい。理鶯早く!左馬刻が死んでしまう!
「理鶯っ!」
「銃兎、どうした」
   重い足音と共に理鶯が部屋に飛び込んで来る。外の左馬刻を見て、理鶯は躊躇なく扉を開けた。左馬刻を抱えて店に戻り、扉のカーテンを降ろし、鍵を締める。
「左馬刻、意識はあるか」
   理鶯の問いかけに、左馬刻が薄っすら笑う。べっとりと赤黒く染まった開襟シャツを力任せに開いて、理鶯は傷口を確認すると、銃兎の手を引き押し付けた。
「銃兎、力一杯抑えていろ、いいな?」
   理鶯の迫力に、銃兎は否とは言えず、左馬刻の脇腹を力一杯に抑える。心臓の動きに合わせて血液が手のひらに溢れだすのが、酷く恐ろしかった。温かい左馬刻の血液。まるで、左馬刻の中身に、直で触れているような錯覚。
 もうやめろ。これ以上溢れるな。流れ出るな。止まれ。止まれ!お願いだから、止まってくれ!
「っ……」
   泣きながらも、銃兎は理鶯の言いつけを守り続ける。左馬刻が、何かを言いたそうに銃兎を見た。
「銃兎、どけ」
   銃兎を引き剥がした理鶯が、すぐにバチン、バチンと左馬刻の腹部を医療用のステープラーで留めていく。傍らには、従軍時代のドクターズバッグ。
「銃兎、小官は左馬刻を医者に連れて行く。貴殿を一人残して行くのは危険だ。一緒に来てくれ」
   閉じた傷口の上からテープで傷を塞ぎ、理鶯が左馬刻に上着をかける。理鶯から車のキーを受け取り、銃兎は左馬刻を抱えた理鶯の後ろを小走りで追いかけた。理鶯を追い越して、裏口を開ける。すぐに見えた車体に、キーのボタンを押した。ピピっという電子音と共に外れるロック。
「銃兎、先に乗れ」
 理鶯に促されて、後部座席に乗り込む。続いて理鶯が、銃兎の膝に左馬刻の頭を乗せるように横たえた。
「左馬刻の容体に変化があったら、すぐに教えてくれ」
 そう言って、後部座席のドアを閉める。理鶯が運転席に乗り込むと、すぐにエンジンがかかった。ブル、と銃兎は体を震わせる。店の外が怖い。でも、今は我慢だ。左馬刻が死んでしまう。
「左馬刻」
 名を呼びながら、銃兎はぽろぽろと涙をこぼす。元々色の白い左馬刻の顔は、白を通り越して、青い。こんな顔色を、銃兎は見慣れている。怖い。人間はすぐに死んでしまう。つかの間の安寧で、そんなことも忘れていた。
「左馬刻」
 息ができない。どうしてこんなにも苦しいんだろう。自分は、たくさんの人間の死を見てきたというのに。
「ようやく……俺様を見たな」
 ため息のような呟き。左馬刻は、笑っていた。こんな時に。
「お前の声……イイな……張りがあって、良く…通る」
 それきり、左馬刻は口を閉じた。瞼が落ちる。恐怖に、銃兎の体が強張った。息は、ある。でも、ひどく弱い。いつ止まってしまうか分からない。いやだ。怖い。
「さま…とき…」
「銃兎」
 運転席から、理鶯が話しかける。
「左馬刻の名前を呼び続けろ。絶対に逝かせるな」
 それだけ言うと、理鶯は電話をかけ始める。早口に何件かかけ、時には英語での通話もあった。
「銃兎、降りるぞ」
 十分ほど車で走ると、理鶯は港の際にあるヘリポートで車を止めた。フェンスの前にいたスタッフが鍵を開ける。理鶯は後部座席の左馬刻を抱え上げ、歩き出した。その後を追いかけて、銃兎は潮風の中、足を踏み出す。数分も経たずに、近づくヘリの爆音。耳が痛くなるほどのプロペラ音に耳を塞ぐと、降り立ったヘリコプターから、理鶯よりもさらに大柄な、長髪の人物が顔を覗かせる。
「毒島君!」
  男の長い髪がめちゃくちゃに風に靡いた。ヘリの後部から降ろされたストレッチャーに左馬刻を乗せ、男は待機していたスタッフにヘリに収容するよう指示を出す。そんな男に、理鶯が怒鳴った。
「車で向かう!」
「分かった!待っているね」
 長身の男も理鶯に怒鳴り返し、機内に引っ込むと、直ぐにヘリが空中に浮いた。
「理鶯……」
 目の前で起きる出来事に、銃兎がぎゅっと理鶯のチャイナ服の端を握る。ヘリはあっという間に消えていった。銃兎の肩を抱き寄せて、理鶯はゆっくり歩き出した。
「怖かったな、銃兎。……あの医者が来たから、左馬刻は大丈��だ。着替えて、我々も病院へ向かおう」
 理鶯はヘリポートのスタッフに礼を言うと、助手席に銃兎を乗せ、シートベルトを締める。銃兎も理鶯も、血まみれだった。後部座席も、左馬刻の血で汚れてしまっている。
 呆然と助手席に座る銃兎を横目で見ながら、理鶯は車を出した。銃兎には強すぎる刺激だっただろう。店に来てから、銃兎は凪いだ海のような日々を生きてきた。恐怖も暴力もない世界。あるのは退屈と、少しの享楽。銃兎は、外の世界を怖がっていた。店の、さほど厚くもない硝子一枚で隔てられた世界。よく躾けられた猫のように、銃兎は外に興味を持つ事なく、ただ毎日をあの陳列窓で過ごしていた。出窓でうたた寝をする猫のように。
「理鶯、左馬刻が死んでしまったらどうしましょう」
 対向車のヘッドライトを見つめながら、銃兎が呟く。
「こうしている間にも、もう、死んでしまっているかも」
 カタカタと、銃兎の手が震えている。手袋をしているかのように、赤く染まった手。
「大丈夫だ、銃兎。ドクター神宮寺は死人だって生き返らせると言われるくらいの名医だ。左馬刻は死なない」
「ほんとう?」
「ああ、本当だ」
*
 シンジュクに向かう高速道路を走りながら、理鶯は傍の銃兎について、考えていた。店に戻り、さっとシャワーで銃兎の身体を洗い流し、自分の汚れも落として乗り込んだ、年季の入った愛車。仕事用ではないプライベートな空間に誰かを乗せたのは初めてだった。古い車体特有の、腹に響くエンジン音。その低く心地よい振動を感じながら、理鶯はできる限りに道を急いでいた。
 銃兎は疲れたのか、眠っている。大きめのシートに収まった細身の体。背は成人男性と比べて高い方だ。だが、線の細さから、それほど大きくは見えない。特に今は、普段の煌びやかな服装ではなく、地味なTシャツにロングカーディガン、足首を少し出したスリムフィットのパンツに革のローファーといったシンプルな服のせいで、余計に華奢に見える。
 いつもかけていた繊細な装飾の眼鏡も、今は直線で構成されたアンダーリムのシンプルなものをかけている。服装に合わせて、理鶯がかけかえたのだった。
 左馬刻の元へ行ったら、どうしようか。まずは宿を確保しなければ。今夜中にヨコハマには帰れないだろう。理鶯は、銃兎を泊めることのできるホテルはどこかと複数の候補を思い浮かべる。けれど、どこも、十分ではない気がした。普段銃兎が眠っている寝具は、すべてが絹製の一流品だ。そんなものを使うホテルなんて、シンジュクにはない。肌は荒れてしまわないだろうか。理鶯は思案する。食事のためのティーカップとミルクは持参している。温める時はポットで湯煎でもすればいい。左馬刻の状態については、心配はしていなかった。何かがあれば、ドクター神宮寺は必ず連絡を入れてくる。親切でマメな男だ。
「理鶯…」
 不意に、助手席から銃兎に話しかけられた。目が覚めたのだろう。もうすぐ高速の出口だ。ドクターの病院まではそう遠くない。
「どうした?銃兎」
 呼びかけに答えると、銃兎はもぞもぞと座り直す。フロントガラスに反射する姿。
「ねぇ、理鶯、わたし、左馬刻の前で声が出たんです」
 沈んだ口調で、銃兎は言った。
「あなたの前でしか、話せないと思ったのに」
 銃兎は萬屋ヤマダの山田一郎を気に入っているが、会話をしたことがなかった。それは、銃兎が理鶯の前でしか声を出せないからだ。観用少年・少女は基本的に主人や一部の特殊な人間としか会話ができない。そう造られている。理鶯と銃兎が話せるのは、理鶯がその一部の特殊な人間だからだ。波長が合う、とでも表現すればいいのか。それは訓練などでは身に着けることのできない、ギフトだ。だからこそ理鶯は、商人として、観用少年・少女を扱うことができる。扱いの難しい彼らを、枯らさずに、最良の状態で新たな主人の元へと届けることができるのだ。
 銃兎はそれきり、口を閉じた。理鶯にしても、左馬刻の状況を考えると、能天気に、左馬刻に銃兎を買えとは言えなくなった。左馬刻は、暗闇を生きる人間だ。回復したとして、またいつ、今日のような状況に陥るとも限らない。そんな男に、銃兎を譲渡して良いものだろうか。だが、銃兎と左馬刻が惹かれあっているのも事実だった。銃兎があんな声をあげるなんて。今でも、理鶯の助けを呼ぶ銃兎の声が、耳に残っている。そして…
 考え事を続ける間も無く、病院の建物が視界に入る。理鶯は駐車場に車を停め、銃兎の手を引いて裏口へと回った。ここを訪れるのは初めてではない。守衛に自らの名と、神宮寺の名を告げると、あっさりと通された。
 指定されたナースステーションで、再度名を告げる。少々待たされた後に、神宮寺寂雷が暗い廊下から現れた。
「毒島君、待っていたよ。左馬刻くんは今夜ICUで様子を見て、大丈夫そうなら明日一般病棟へ移す予定だよ」
「それなら、今晩は顔を見ることは不可能だな」
「申し訳ないけれど」
 肩をすくめた医師に、理鶯がうなづく。それならば、今日はもうここですることがない。さっさと宿を決めて立ち去ろう。明日、また出直せばいい。
「まさか君が、左馬刻君と知り合いとはね」
 寂雷が、腕を組む。
「一度、茶を飲んだ」
「……それだけかい?」
「ああ、そうだが」
 理鶯の言葉に、寂雷がぽかんとした顔をした。
「左馬刻は有名人だ��らな。小官達の世界では。あんたなら、なんとかしてくれると思って連絡した。元TDDの神宮寺寂雷」
「君の情報網には恐れ入るよ」
「また明日、出直そう。では、失礼する」
 そう言うと、理鶯は銃兎の背を抱いて、廊下を後にした。建物を出ると、直ぐに目星をつけたホテルへ電話をかける。部屋を確保できたことを確認して、理鶯は銃兎を車に乗せた。やれやれ、今日は全く、騒がしい1日だった。
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