#一度は降りてみたい駅
Explore tagged Tumblr posts
Quote
私は、高校を卒業してすぐに就職した。生まれ育った静岡県の山奥から、千葉県松戸市へ。 やたらと地方出身者ばかりを集める会社だった。会社名義でアパートを借りてくれ、家賃まで払ってくれる。なんていい会社に入れたのだろう、というのは若さゆえの勘違いだった。 とにかく休日というものがない。シフト上で「休日」とされている日にはタイムカードをうってはいけない。それだけのことだった。 そんな環境でも二年間勤めたのは、単に逃げられなかっただけだ。会社名義でアパートを借りているので、職を失うというのは住居を失うのと同義だった。 食事もろくに摂れなかったため、がりがりに痩せた。食事の時間があるならば、そのぶん寝る時間にあてたかった。となると歯など磨くはずもない。虫歯が痛み、前歯を一本失ったが、それすらどうでもよくなっていた。 関連会社の男性社員から「借金してでも逃げろ」とまで言われ、ようやく逃げたのが二十歳の頃。 振り返れば、その二年間に休日という休日はなく、七百連勤以上を続けていたのだ。 千葉県内に土地勘などなかった。あてもなく新京成線に乗り、新津田沼駅で降りた。新津田沼を目指したわけではない。単に人がたくさん降りたから、つられて降りた。それだけだった。 駅とイトーヨーカドーがくっついているのは驚きだった。そんな場所がこの世にあるとは知らなかった。 そのままイトーヨーカドーへ入った。エスカレーターで上の階へあがると、そこにはゲームセンターがあった。ゲームセンターといっても、小さな子どもをメインターゲットにしたもので、真ん中には大きなトランポリンが設置されていた。 ここで働きたい。そう思ったのは、子どもが好きだとかそんな理由ではなかった。暇そうだったからだ。もう一生懸命働きたくなどない。この二年間で、一生分働いた。そんな気分だった。 求人誌で見つけたのか、インターネットで見つけたのかはいまとなっては記憶が曖昧だが、そこのゲームセンターは求人広告を出していた。アルバイトで、週に三日程度から可。 とはいえ、住所不定の若造を雇ってくれるとも思えない。先に住居を探した。 幸いなことに、新しい住居はすぐに決まった。駅から遠い、築五十年超の木造アパート。壁を叩けばゴキブリが五、六匹出てくるような部屋だったが、ようやく自分の居場所を手に入れた気分だった。 その住所を履歴書に書き、就職の際に両親が買ってくれたスーツに身を包み、伸びたままだった髪は自分でカットした。がりがりの体と失った前歯はどうしようもなかった。 鏡を見て、「まあ、これは雇わないだろうな」と自分でも思うほどだったが、面接ではなんとなく好感触を得た気がした。 そして数日後、採用が決定したと連絡があった。なぜ採用されたのかは知らない。他に応募者がいなかったのかもしれない。 赤いポロシャツに、黒いズボン。センスがいいとは言いがたい制服だったが、不満はなかった。 とにかく来客数が少なく、やることと言えばクレーンゲームの景品の補充だとか、当時流行っていたムシキングとかおしゃれ魔女などのカード補充とか。 あとはトランポリンで遊びたい子が来たら対応をした。たしか五分で百円。十分だったかもしれない。詳細は覚えていないが、百円玉を握りしめた子どもが目をきらきらさせながら声をかけてきたのは覚えている。 一度の勤務が四時間程度。それを週に数日。時給はたしか八百円ほど。食っていけるはずもなかったが、しばらくはその生活を続けた。とてももう、まともに働く気力などなかった。 借金がある程度膨らんでから、ようやく他にも仕事を始めた。コンビニ、警備員、チラシのポスティング、宅配便の仕分けなど。非正規雇用ばかりを山ほど抱えて、なんとか借金は返した。 ゲームセンターでのアルバイトは続けるつもりだったが、近いうちに閉店すると耳にした。一時間あたりの売り上げが私の時給を下回っているような有様だったので、遅かれ早かれそうなるだろうとは思っていた。 閉店まで続けようかとも考えたが、そのときに面接を受けた倉庫作業の会社で正社員の誘いがあったので、そのまま辞めてしまった。辞めた後、しばらくは営業をしていたようだったが、たしか一年経たずに閉店してしまった。 私は就職し、転職し、結婚して離婚した。また就職して、転勤して、いまは東京の西のほうで暮らしている。 津田沼まで片道一時間強。あまり気軽には来れなくなってしまった。 あれから約二十年。私はすっかりおじさんになってしまったが、おじさんになれてよかった。いま振り返ると、あの頃の自分はいつ人生を終わりにしてもおかしくはなかった。 あそこで働いたのは一年だったか、二年だったか。もっと長かったかもしれないが、まったく思い出せない。 あのゲームセンターはたぶん、七階のマクドナルドの前にあったはずだが、いくら検索しても情報は出てこない。 まるで幻だったかのように、私自身にも曖昧な記憶しか残っていない。検索しても、トランポリンがあったのは屋上だという情報ばかり。屋上ではなかったのはたしかなのだが。 ともあれ、私がなんとか再起をはかれたのは、あそこで働いた期間があったからだ。変に忙しい職場に入っていたなら、きっと潰れてしまっていた。 しかしまさか、イトーヨーカドー津田沼店自体がなくなってしまうとは。 なんとなく、イトーヨーカドー自体はずっとそこにあってくれるような気がしていたので、いつでも行けると思い込んでいた。 二十代前半の、あの時期の私の中心にはイトーヨーカドー津田沼店があった。書店にもよく寄ったし、四本の親知らずのうち三本はヨーカドー内の歯科で抜いてもらった。 あと、誰も気にしていないようなことだけれど、トイレの洗面台の脇に置かれた小さな花瓶に花が生けてあったのが好きだった。造花かもしれない。ただ、誰かの気遣いがそこにあった。トイレ自体古かったが、きちんと清掃しているのはよくわかった。私とは違い、仕事熱心な人が清掃を担当していたのだろう。もう何年も訪れていないので、最近はどうだったのかは知らない。 テナントが徐々に撤退していったのは伝え聞いていだが、それがなんだか思い出の場所が徐々に衰弱していくようで受け入れられなかった。 さて。ここまで長々と書いてきてどう締めればいいのかわからない。結局、歳ばかり重ねて、あの頃からまったく成長などしていない。 「さようなら、いままでありがとう」 でいいのだろうか。 あと、「寂しい」と「もう大丈夫」を付け加えて文を締めたいと思う。 小山征二郎さんが、イトーヨーカドー津田沼店閉館に寄せたエッセイ
時給800円のゲーセンに救われた… 閉館の商業施設に寄せた思い出
251 notes
·
View notes
Text
以前知り合ったJR乗務員から聞いた話を思い出しました。一度書いたかもしれない。 信越本線の直江津→長野方面を、タンク車を連ねた貨物列車の機関士として乗務。冬のがいかに過酷かを話してくれた。
午後、出発時間が迫るころに日本海の向こうで雷光が見えるとまず「覚悟」を決める。
というのも、それは強い雪雲が近づいている現れだから。この先長野へ向かって登っていく���中、日本最大級の豪雪地帯を通る。列車が差し掛かるころには大雪になるのがわかるから、その覚悟だ。 蒸気機関車時代と違って電気機関車は一人乗務。一人ぼっちで立ち向かう。
タンク車には石油が満載。それをたくさんつなげているが、この「積み荷が液体」というのはそれだけで相当難儀なものらしい。というのも、タンクの中で前後方向に激しく揺れるため、引いている貨車すべての動揺が機関車を直撃するからだ。 前進しようとするとがん!と後ろに引かれ、
減速するとドカン!と押し出される。この状態で峠越えをするのは並みの運転ではない。 降り出した雪は山が近づくにつれ激しくなる。せわしなく動くワイパーもじきに役に立たなくなる。寒冷地の人なら知っている通り、溶けた水分がワイパーゴムについて凍り、雪を拭わなくなるからだ。
そうなると身を乗り出して素手で氷を掻き落とす。これを繰り替えす。気が付けば日はとうに沈んで、視界に入るのは前からごうごうと吹き付ける雪だけの世界になっている。 そんな中を、海岸近くの直江津から700mも登っていくのだ。 新井を過ぎたあたりから坂がだんだんきつくなってくる。
線路は雪に覆われていて、窓から顔を出して下を見ると、機関車の跳ね飛ばす雪がまるで波しぶきのように見える。「船みたいだ」とか思っていると空転!急な減速でタンク車からドカン!砂を撒いたり、微妙なハンドル操作で加減速をしつつ進行するが、雪はどんどん深くなり抵抗が増す。
こうなってくると��定された速度などまったく届かず、ただただ止まらないよう祈りながら、限られた視界で前方を覗きつつ進む。 関山から先はもう雪壁しか見えない。前方からは吹雪。見えるものが限られてくると空間識が怪しくなってくる。運転室の後方ではモーターが轟音を上げている。
不安になって振り返ると、機器室がほんのり赤い。発熱がひどい。関山・妙高高原間は日本最大の豪雪地帯だ。日本最強のロータリー除雪車もここに配備されたくらい。 そこを、孤独な機関士が十数両の石油満載のタンク車を牽いて登っていく。 「ほんとにね、ああいうときは泣きたくなります。」
ここで加減速操作を誤ると、一気に空転して停止してしまう。そうなると終わり。再起動できる可能性は低い。 ここで行き倒れたら信越本線は当面運転できなくなる。それだけは絶対に避けなければならない。 だから全身の神経を機関車の動輪とタンク車からの動揺に集中させてハンドルを操作する。
こんな過酷な条件の中、孤独な機関士は格闘する。 一般人には想像もできない仕事の現場だ。 そしてどうにか妙高高原駅までたどり着けば、やっと一息つくことができる。過熱した機器を冷まし、ほとんど雪で覆われた機関車の前面窓やワイパーをどうにかし、そしてやっと持参したお茶を口にする。
この先は、雪は減るし基本的には下りなので今までほどの緊張感はない。 しかし下りでのタンク車からの動揺は危険だ。各タンク内の揺れはまちまちだから、両数が同じでも衝撃は毎回違う。下手をすると減速直前に波長の揃った衝撃を食らうかも知れない。 だから長野駅までは本当に気が抜けない。
ぼくら鉄道ファンはただただ線路際で喜んでいるだけだけど、状況によっては乗ってるほうはそれどころじゃないよってことですね。 ちなみに彼はその後飯山線を経て新幹線運転士になりました。
X / 電電臨電 @erikichijo
16 notes
·
View notes
Text
実験するみたいに目をぎゅうと細めてコンタクトの洗浄液をケースに流し込む。とびきり良い映画を観たあとは、なんかこう、ぜんぶ立体に聴こえて、ぜんぶ鮮明にみえる。あまりに見えすぎている、という感じ。
思い立って新宿から日比谷までレイトショーを観に1時間半かけて歩く。気まぐれに入った喫茶店があまりにタバコ臭かった。「あのヘッドフォンの人かっこいいね」と言う友達に、「そう?カッコつけすぎじゃない?」と答える。そこからずっと歩いて、赤信号で立ち止まって、たまに思い切り走って笑ったりした。夜に蝶々ってそういえば見たことがないなとか思いながら、脳みそのずっと奥のほうではあなたのことばかり考えていた。疲れてしまった。自分を良いように魅せるとか、価値があるように振る舞うとか。己が太陽のようにまっさらで溌剌としているように感じられる日もあれば、ただただ静かに降り注ぐ小雨に涙が出るほど心の糸が張り詰めている日もあるし、ほんとうに疲れた。もう多分彼からの連絡は来ないけど、別にそれでいい。「何も無い花こそ本当、花だけ本当」「嘘じゃないから」という歌詞について考える。生きているだけで汚れるというのは本当かもしれない。ぜんぶ疲れたから草むらに裸で寝転んで、湿気った土に頬をぴたりとくっつけたい。パスタを素手で不細工に食べたいし、名前も知らない誰かとキスをして、産まれたての赤ん坊のように泣き出したい。もう誰もわたしの何も知らなくて良いとさえ思う。わたしは家族と友達がだいすきで、雨上がりの匂いや木の葉の揺れに感動できる感性を大切にしていて、この世界をとびきり愛している(そして世界もまた愛を返してくれる)そこらへんのただの女の子��ということ。(22歳はもう女の子じゃないかもしれないけれど“おんなのこ”という響きがすき)どんなに急いでいてもコンビニのレジではバーコード面を表にして商品を差し出すし、エレベーターではみんなが降りるまで開閉ボタンを押す。荷物を抱えながら階段を登る人に手伝いましょうかと声をかけようか悩んで、通り過ぎて、でもまた戻って頑張って声をかける。一度も会ったことがない人でもそれが大切な人の友人で病に伏しているのだとしたら一番美しい花を買って見舞いにいく。自分の内側にいる幼くてあどけない、やさしいわたしがいつだってその手を握り返してくれる。100年後には何もかも閉じてしまう物語だから、せめて今だけはわがままでいたい。でも傲慢なのはいやだ。全部欲しい。一つ残らず見たい。叶うなら恐竜がどんな姿見で空を飛ぶのかみたかった。光を反射する鱗肌と、重たいその足音が大地に響き渡るのを聞きたかった。お母さんがまだわたしと同い年だった頃、彼女と会って話をしてみたかった。100の異なる人生を同時進行で生きてみたい。豪雨の中でワルツを踊りたい。自分の子どもを産みたい。ずっと一緒にいたいと思えるような人と出逢いたいし、ほんとはその運命を最後まで守り切れるほど成熟した女性でありたかった。
0時を少し過ぎて映画が終わると、終電が近いのか、エンドロールを見届けないまま人がぞろぞろ帰っていった。スクリーンライトに照らされて、綿毛みたいに細い埃が頭上で舞っているのを目で追う。降り注ぐ奇跡と、約束された明日。また「花だけ本当」という歌詞について考える。わたしも花の香りの名前を名付けてもらったのに、「本当」を生きてはゆけない哀しさ。(わたし、ほんとうはこんな性格じゃないのにな)と思う行動ばかりとってしまって、いつも後悔している気がする。でももういい、全部。どうでもいい。人がいなくなって不気味な白さを放つ駅で、なぜか笑みが、走り出した足が止まらなかった。「それ、罪滅ぼし?」 「お前みたいなやつの書いた作品が世に出回るなんて害でしかないから」 映画の台詞がしゃぼん玉みたいに脳裏を過っては消える。月9のドラマの主題歌を聴く。これはだれの人生?大好きな音楽を聴くと、いろいろな景色を想像する。割れるガラス、草原、海、笑い声、蝶々、風、カーテン、白、眩しい光、流れ星、男の子、裸足。やっぱり幸せかも、と思った。はやく戦争が終わりますように。もっと書きたいけどここまで。明日は図書館へ行こう。
23 notes
·
View notes
Text
2024.09.28
10月に地元で会う約束をしているYから、彼女の好きな小説家のサイン本を買ってきてほしいと頼まれた。それで、今日の昼から池袋の本屋を回ったけれど、どの店でもとうに売り切れているようだった。時間を持て余して、大学図書館へ向かう。
大学時代の同級生と数年に一度出している同人誌の次号を、今年の12月に発刊することになった。私はもう短歌をやりたくなく、短歌以外に何を出せばいいのかも分からない。そのまま同人誌用には何も書かないで過ごしていたのだけれど、主宰が面白がったので、数日前に書いた自室の記録を加筆修正して寄稿することにした。卒業生カードで入館し、しばらく文章を直していた。こども園で働くFさんを幼稚園教諭と呼ぶことが正しいか分からず、「あなたの職業って何て書くのが正しい?」とメッセージを送る。正式には保育教諭というのだと教えてくれた後「カリスマ保育教諭とか?」とおどけた台詞を付け足すのがFさんらしかった。
ペンを持つ右手が疲れてからは散歩に出かけた。好きな本屋を経由して、自由学園明日館へ行った。正面入口に着くと「“本日は結婚式で貸し切りのため外観のみの見学”ですって、あらあ、おめでとうございます」と看板を読み上げている人がいた。その声色に少しの落胆も滲んでいないことが良かった。芝生や窓を眺めて、売店でポストカードを1枚買った。




明日館を出てから、Hと落ち合うまでを東京芸術劇場で過ごした。その場所で長い時間を過ごすのは、大学の入学式以来だった。地下1階から最上階までを目的もなく往復して、何枚か写真を撮った。最近はカメラを持つのが楽しくて、写真を撮っては投稿している。その頻度を自覚すると、自分の饒舌さに嫌気が差してくるので、記録しておきたい写真を一度に残すためにこれを書いている。この投稿は写真まみれです。


芸劇の椅子に座っていると、目の前のエスカレーターで降りてくるHと目が合い、手を振る。外では何かのお祭が開かれていて、その賑やかさから逃げるように東へ向かった。目的地とした喫茶店が閉まっているのを確認し、散歩に切り替える。テーブルと椅子を外に出しているミニストップを見つけ、カフェオレを買ってそこに腰かけた。テーブルを指差しながら「いい店知ってるんだよね」と自慢げに話すと「ダセ~」と笑われた。京都のお土産を渡した。Hと一緒に暮らすWさんの分も含めて、少し量の多いお香にした。



今日は曇り空で、街全体が白く見える日だった。電線や工事現場の壁が落書きのように浮いていた。途中、ワインの空き瓶を入口に並べている店があり、「テイクフリーかな」とふざけると「喧嘩用じゃない?」と返される。酒瓶を持って殴り合うジェスチャーをする。




都電荒川線の駅に行き着き、降りる駅も決めずに乗車する。「電車というよりは線路を移動するバスと呼ぶほうが近いね」と話しながら、googleマップ上で路線をなぞる。飛鳥山公園という場所に城のような山型遊具があることを知り、そこを目的地とした。


飛鳥山公園は、とても良い公園だった。目的としていた城は、遊具と呼ぶには気が引けるほど大きかった。かつて実際に走っていたらしいSLや子供用の船、頭を垂れた幾種もの動物たち、遊びきれないほどの遊具があった。すべり台よりも象が主体になっている遊具を見て、三崎亜記の『象さんすべり台のある街』という短編を思い出した。城の中で遊びたかったけれど、子供やその親たちが楽しそうにしているのを邪魔したくなく、また違う時間帯の様子を見たかったこともあって、「夜にまた来ましょう」と決めて公園を出た。




喫茶店で一杯ずつ酒を飲み、Hの喫煙のために王子駅まで歩く。Hが「めっちゃ良い公園だったな」と呟くので「過去形にしないで」と返すと、「めっちゃ良い公園であり続けるだろうな」と訂正してくれる。それがツボに入り、しばらく笑っていた。私と同じくHもこの街が気に入ったらしく、「ここは住み良いのかな」と引越しまで検討しているようだった。


日の暮れたころに公園へ戻ると、昼にいた子供たちは姿を消していて、代わりに大学生くらいの年頃の集団が点在していた。うち1つのグループが手持ち花火をしていて、遠くからその火を眺めていた。城の中へも入って、物見へ立ってみたり、すべり台で遊んでみたりした。ずっと楽しかった。もう営業終了していたけれど、小さなモノレールの駅もあった。“飛鳥山山頂駅”と看板の出ているのを見つけて、「下は“麓駅”なのかな」とHが言うのを確かめに行くと、“公園入口駅”と掲げられていた。冬にも来たいね、早朝も良いだろうね、ここで花見をしたら楽しいだろうね、と話をした。どの季節のどの時間にも、自分たちの楽しそうにしている様子が想像できた。


Hと別れて部屋に戻り、撮った写真を眺めていた。動物たちの写真を見て、新しい部屋でここへ来たいと思う。皆それぞれ好きな動物がいて、その動物たちと彼らとが近くにいるのを見たかった。「いつかみんなで行きたいです」とメッセージを書きながら、象は何頭かいたけれど、イルカはいなかったことを思い出す。オットセイはいた。城の写真も併せて送ると、Rさんから「籠城したい」と返信があり、それがRさんらしくて好きだった。



21 notes
·
View notes
Text

2025年も最初の一ヶ月が終わりましたね。撮影後記です。2月は只見川第一橋梁と星空のスタートレイルです。
長年通っている只見線、いつもは早朝に出掛けて日没とともに帰路に着く撮影行がほとんどなのですが、昨年は夜間の撮影に何度か挑戦しています。
というのもこの只見沿線は鉄道が走っている地域としてはあまりない、街の明かりによる光害がとても少ない、星空を撮影するのにも適したエリアだということに気づいたのです。
それ以来新潟の平野部では撮影が難しい天の川や彗星の撮影に挑戦してきましたが、この日はこの沿線ならではの星空を光跡で表現してみたいと思い、夜の帳が降りた後、いつもの展望台に登ってみました。 日中は多くの観光客が訪れるこの場所も、さすがにこんな時間帯に人はいません。スマホから音楽を流しつつ、最上段に立ちました。
鉄道写真ですから夜間撮影であっても、その多くは列車通過の一瞬を撮ることがほとんどなのですが、今回は星の光跡を捉えるべく、列車通過の一時間ほど前からシャッターを切り始めます。 数十秒の露光カットを連続で撮影して、それを比較明合成という手法で一枚にまとめて現像します。
三脚に設置したカメラをレリーズ固定で連続撮影している間、ベンチに腰掛けて暗闇の中、降る様な星空を眺めます。そのひとときはまるで宇宙の中にいる様な錯覚を感じました。
やがて最終列車の汽笛が聞こえ、暗闇の中で全く見えていなかった橋梁や只見川が汽車の窓灯りに照らされて浮かび上がります。自分はやはり地上にいたのだなと我に帰る瞬間でした。 星の軌跡を美しく処理するために、さらにもうしばらくカットを追加して下山しました。
この日は麓の道の駅で車中泊をしましたが、満天の星空を眺めながらまどろむ時間も最高の時間でした。 今年もまた、只見の星空撮影に出かけたいと思います。
19 notes
·
View notes
Text

#おでかけ #犬山
驚いたのが、これだけ桜が見頃なのでもっと人でごった返しているかと思いきや、それほどでもなかったこと。平日だからこんなもんかな、と思って犬山城の城下町の方に行ったら、通りが人で全て埋まっているぐらいの混みようで再度びっくりしました。なんっじゃこの混みようは!
行き交う人を見てみると、外国人観光客と大学生が多そうな感じ?かな?��休み期間中だしな。
皆さんひととおり食べ歩いて、そして15時ぐらいには城下町の通りからぞろぞろ犬山駅に向かって歩いていくのが見えました。
まあ確かに食べ歩きだけが目的なら城下町だけで満喫できるでしょうが、近隣の民としては、この木曽川沿いのさくら並木も推したいところです。

さくらの季節じゃなくても、この辺りをぶらりと歩くと結構気持ち良い。皆様、犬山に遊びに来られる際は、犬山駅で降りず、犬山から岐阜方面に一駅行った犬山遊園駅で降りるのです。で、犬山遊園駅からこのさくら並木を歩いて犬山城まで向かい、食べ歩いて、犬山駅に戻ると無駄のないルートになりそうかなと。
と、城下町の人混みの中、数本ある桜に群がっていた人々に伝えたい。
外国人観光客の方だと、多分桜に対する熱意(?)がまた日本人とは違いそうだなと思うんですけど、まあでも花が一斉に咲く風景は皆綺麗だと思うのでは……?どうなんでしょう??


9 notes
·
View notes
Text
続・デート記録 0422 夕方に吉田寮に行き哲学博士とトンファンという居酒屋に行った。べたべたと壁中に映画のポスターが貼ってあった。 帰りは雨が降っていた。寮に戻り、中を案内してもらったり中庭を眺めたりしていたがやむ気配はなく、「泊まっていったら」くらい言われそうだなと思ったけれど(彼の部屋は一人部屋だった)雨具を貸してくれたのでそのまま帰宅した。ベッドに入ったら電話が鳴ったので40分くらい会話して眠った。 0423 熊野寮でナンパした忍成修吾にそっくりな建築修士を寮まで迎えに行き、京阪と阪急を乗り継いで桂へ。 あまり話すタイプに見えなかったので前の恋人から教わった建築の話を頑張っていろいろ振ったらはにかみながらこれまでの学生生活について教えてくれた。まだガイドツアーまで時間があったので桂駅のカフェでケーキを食べた。 「私はあまり恋愛とかに興味がないんです」というので「もし**君みたいな人をすきになったらどうやったら付き合える? とにかく我慢強く横にいたらいい? わりきってベストフレンドを目指すべき?」と問うと前者だった。ごり押しすれば付き合えるんだ、とわかってなぜかうれしかった。 西日が差すなか桂離宮を歩いて回った。カメラでバシャバシャ撮りながら建築について教えてくれてかっこよかったけどそれに関しては前の彼氏で履修済みだった。だとしても専門分野がある人って本当かっこいい。 イノダコーヒでお茶して解散。やっぱり186センチ以上ある男の人ってヒール履いても全然抜かされなくていいな、とか俗っぽいことを思いつつ帰宅、寮で友だちにデート報告した。 0425 午後、阪急内で仕事をしながら神戸へ。兵庫県立美術館に行く。 中谷さんを呼びだしたが「ごめん夜空かなくなった」と言われた。むかつく、と思いながらもわたしはこの男が大好きだからいまさらドタキャンくらいでキレたりしない。 展示会場を簡単に案内してもらったのちパ��ルクレー展をゆっくり楽しんだ。 「次はアンディモリ歌ってよね」と文句を告げるとまんざらでもない顔で「うん、コレクション展もかわるしまた来て。しばらくはここで働いてるし」とちゃっかり営業された。 0426 夜に吉田寮へ行き、自転車で哲学博士と鴨川爆走した後ガボールという地下の喫茶でおやつたべたあと寮へ戻って車を出してもらい天下一品の総本店でらーめん食べて琵琶湖まで走った。アメスピを湯気みたいに蒸かしながら運転していて、まんまと、かっこいい……と思った。 ドラムはどこで習ってたの?とたずねると野良で自分で練習して習得したらしかった。 月が出ていなくて、星明りだけが頼りだった。夜の湖はとても神秘的で、誰かの夢の記憶の中に立ち尽くしているみたいだった。 帰宅すると彼の友人と喫煙所で出くわし、「へー友達?」「ふーん、友達……え、友達でいいの?」とにやつきながら話しかけてきてあまりにもからみ方が大学生過ぎてつれであるこっちが赤面する羽目になった。 客用布団を出してもらい、吉田寮に泊まった。 0427 吉田寮で起床、彼の案内でカフェのテラス席でランチ食べたあとまた琵琶湖に行った。 0428 採卵2回目にあたり、クリニックで検査するため新幹線に乗って東京へ戻った。 雨の中笹塚に行って元彼と鍋家という中華を食べた。吉田寮で会った男の人についてのろけていたら「田舎の30歳くらいの、場末で頑張ってるキャバ嬢がエロく感じるみたいな話?」と言われて全然通じてなかった。 0429 神保町のトロワで富田さんと1年ぶりに会った。 東大の院に進学したらしい。本屋回った後暇になって東大へ行って散歩した。やっぱりこの人の顔すきだな、と思った。 しばらくは板橋にいるというので、今年こそ、告白されない程度にあそんでもらお~と思った。 18時半に京都へ戻る。哲学博士が車で迎えに来てくれた。わたしが予定よりも1時間新幹線を遅らせたことについて「じらされてるみたいでつらかった、あてもなく運転して時間潰してたよ」と零され、メンヘラじゃん♡と思ったけど言わないで「ごめんねありがとう」と返して貝だしらーめんを食べた。
19 notes
·
View notes
Text
16/01/2024











昨年末、ダメ元で申し込んだある講演会に当選し、その講演会で来福しました🏙️ 先持って福岡市の神様にご挨拶です🤲✨ 本当は天神の街中に警固神社という有名な神社があるのですが、ここの御神木が好きなので、真っ先に香椎宮に来てしまいます。


去年の3月に延伸した地下鉄七隈線(博多―天神南)に初乗車🚆車両もホームも新しくてきれいでした✨ 天神南で降車したので、コロナ以降最初の大丸の地下にあるはじめの一歩で魚のフライ定食を🍴 フライもサクサク、ふわふわで美味しかったし、茶碗蒸しまで付いていました😋

講演会会場に到着(無料)。

講演会で使用する書類もろもろが置かれています。 ボールペンはもらって帰れます🖋 既に家に数本あります笑 書き心地が良いので気に入って愛用しています笑 写真撮影は開始前のこの席の様子で終了です。
講演会は双日主催で、双日の前社長(熊本県出身)が地方格差を嘆き、地方にもこういった講演会があってもいいんじゃないか!と言ったのが事の始まりだそうです。 私は第1回目に当選しましたが、途中から倍率が高くなり外れることもちらほら…泣 現社長は久留米出身です笑 別に九州びいきしているわけではないと思いますが、歴代の役員は総じて西日本出身が多いそうです。 来年4月は社長交代しますが、今度の社長は姫路の人だそうです。 毎回質疑応答もでき、私も数年前に質問してみましたが、登壇者がささいなことも丁寧に答えてくれるので、皆さんガンガン質問します。 ちなみに今回の講演会の司会は双日の社員の方で、私と年齢が近い雰囲気のバリキャリの雰囲気の女性。

帰り際はお土産の受け取り&双日の社員の方たちのお見送り付です笑 その中に司会の人もいましたが、心なしか同年代と思われたようでフレンドリーというか親しみを持たれたような雰囲気でお見送りされました笑 今日は平日、それも昼間。講演会の参加者の中で最年少は私のようでした笑









講演会終了後、大丸に戻りました🔙
くまモンの展示会が開催中(無料)だったので、見学してきました🐻

ずっとネットで気になっていたeteのリング。 これまでジュエリーショップはネットで済ませていたので行ったことが無かったのですが、意を決して訪問笑

元々指は太いので、当初は上の画像(スレンダー)をピンキーリングの候補にしていました。つけてみたら ゆるゆる…⁉️ お店の人も 「指輪、ゆるくないですか❔💦」 そして、この指輪の一番小さいサイズが私がつけているサイズだったので、下の画像の別デザイン(レイヤード)を紹介してもらいました。 可愛いデザインでこちらはさっきよりも小さいサイズがあったので、つけてみたら、まさかのピッタリ✨


お値段もしたけれど、大満足💖 毎日つけます🥰
そして、これを投稿しているのはまたも博多駅のホームomg 早く寝たいです…💧
56 notes
·
View notes
Text

241021
朝、寒くなればなるほど、布団が愛しい。
気持ちが低空飛行。無気力。 寒いからということにする。 最高気温13℃、最低気温は-1℃。
-
241022
曜日感覚がずれている。 今日は火曜日、と言い聞かせる。 アルバイト。アルバイトに行くと気持ちが疲れる。
帰宅して試作。 ほんとうはもう本番をつくり始めていないといけないのにまだ試作している。 なかなか決められない詩のタイトルがひとつあって、ずっと悩んでいた。
-
241023
朝、たっぷり雨が降っている。 ずっと本をつくっていた。
-
241024
朝、あたらしくしたカーテンから陽の光が透けている。 カーテンはまだ部屋に馴染んでいない。 部屋を片付けた方がいいかもしれない。
-
241025
絵と本を発送して、選挙の期日前投票をして、車の運転の練習をした。 こわくて早く帰りたかった。
-
241025
カーテン。 新しいレースカーテンをリビングの窓にかけてみたらよい雰囲気になって、嬉しい。 わたしの部屋には合わなかった。 絵を描くことも、詩をかくことも何にもならない。 それでも絵を描いていると癒されて、これはやめられない、と思う。
そういえば今日、アルバイトで一緒の人に、友人と世界がずれてきてしまったと話をした。わたしより、たぶん、10歳くらい年上の素敵な人。 そのときそのときで、同じような状況にいる人といることになるんだよ、と言っていた。 主婦になったら主婦と。 大人になってしまった。 日記を書きながら、でも、今は違うところ立っていたとしても、その人をみて話ができるようでありたい、と思った。 いろんなまとうもの、関係なしに。
日記を書く前、ふて寝してしまっていて、そんな自分が嫌になって、落ち込んだ気持ちで今日を終わりにしてしまいそうだったけれど、食器を洗ったし、布巾も煮沸した。 気持ちよくねむれそう、と思って、ねた。
-
241026
朝、身体がかたい。 全身に力を入れたまま、ねてしまう。 疲れがとれなくて、目の下にクマ。
アルバイト。 わたしがわたしじゃないみたい。 でも、動いている。話をして、笑顔にもなる。けれど、空っぽだ。 アルバイト終わり、パンをもらう。 アルバイト先の人の娘さんのバイト先の豚丼豚かつの店の店長が趣味で作っているパン。 それにアルバイトの余りものをのせて作ってくれた。せっかくだから、とコーヒーも淹れてくれた。 やさしい世界で生きている。 それなのに、毎日ハッピーとはならないのはなぜだろう。 駅前のベンチとコパンとコーヒー。 木漏れ日も落ち葉もきれいと思えたから、大丈夫。
映画をみた。 映画をみると、ここじゃないところにいる。 北海道に来る前の生活をしているみたいな錯覚。泣きそうになる。 映画館から家まで1時間、歩いて帰った。 自分の場所を確かめたかった。
夜、身体が熱っぽい。 そういえば今日はある程度の気温があるのに、寒がっていた。 芯が冷えている。
-
241027
朝、肩が重い。 お腹がすいた。 昨日の晩ごはんは春雨スープ。ご飯を考えることが面倒で、残り物のわかめスープに春雨とハムを加えただけでよしとしたのだった。 彼が出張に行っている。 ひとりだと、ダイエットをしているわけではないのに、ダイエットメニューのようになってしまう。 このままではほんとうに体調を崩してしまう。
-
241028
いろんな人に連絡したり、本をつくったりしていた。 次につくろうとしている本のタイトルがさくっと決まって、嬉しい。
今日は母の誕生日。 53歳になったらしい。 親も年をとることが不思議でならない。 わたしの中で母は36歳で止まったままだ。
-
241029
アルバイト。 のんびりとした日で、おしゃべりをしていた。 いつもこうだったらいい。 フォンダンショコラを買って帰る。
とにかく気持ちが悪く、うまいこといかなかった。
8 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)3月13日(木曜日)
通巻第8692号 <前日発行>
日本で文科省を解体すると教育はまともになる?
全米教員組合猛烈に反対するが、すでに内堀も埋められていた
*************************
トランプの教育省解体が始まった。日本で言うと文科省解体、赤い教師追放、裏返して言えばレッドパージである。だがそのことは口にださない。
教育システムの効率化、頭のよい子を育てるより、コミュにティに於ける教育のほうが重要で、テストの成績ではなく人間の成長にこそ教育の意義があるというのがトランプの一貫した主張である。
教育の役割を州に与えることを重視するトランプ大統領は「教育省の将来を再評価」しなければならないとし、リンダ・マクマホン教育長官に対し、「法律で認められる最大限の範囲で」、教育省の閉鎖を促進するために必要なあらゆる措置を講じるよう指示した。
年初に教育省の職員は4133人だった。削減対象をのぞき、2183人の所帯とする。ただし教育省を廃止するには、議会の承認、とく上院で少なくとも60票の賛成が必要となる。民主党はたとえ教育省解体に賛成であったも、トランプのやることはすべて反対だから解体には到らないだろう。
3月11日、教育省職員1315名にレイオフを通達し、そのうえ全職員に自宅待機を命じた。勤続年数1年未満の試用期間中の職員63名は先月すでに解雇された。
教育省の設立以来1兆ドルを超える連邦支出にもかかわらず、テスト成績が急落した。表向き、これを大幅な削減の理由とした。マクマホン教育長官は「教育を州に戻す。これらすべては、教育の改善、官僚主義の削減、各州が自らの教育決定を主導できるようにする」と意気軒昂である。
全米教師連盟のランディ・ウェインガーテン会長は、トランプ大統領が米国教育省を閉鎖しようと動き始めたため激しく反撥し、教員組合の団結を呼びかけた。
しかし内堀も埋まっていた。教員組合の自壊作用が拍車をかけた。
たとえば日本で日教組は共産党が支えているが、党員はピーク時から半減し、1980年には赤旗購読者が355万部もあったが、現在は公称85万部。駅前の共産党の情宣活動をみても往時のエネルギーはない。
アメリカ教育組合は教師不足が原因だと主張し、解決策として納税者の資金をさらに増やすよう議員に働きかけてきた。本末転倒、教育現場はますます荒廃した。
一部の過激教員の暴走とはいえ、無残な結果はトランスジェンダーになりたい少女たちを育てることだった。教師ではなく狂師だった。
▼サンクチュアリでは治安悪化、言葉の通じない子どもが増えて、学力が顕著に低下していた
ニューヨークを例に取ると、「ニューヨークの子ども達のテストの点数が急落し、子どもたちは逃げ出した。空っぽの学校は開校したまま、数十億ドルが無駄になっている」という悲惨の事実がある。ところが教員組合はさらなる支出を要求している。パンデミックの初期に学校が閉鎖されたとき、かれらは教師不足だと言いつくろい、連邦議員は学校への追加支出約1900億ドルを計上した。
多くの管理者は、その現金を昇給や転校する教師の契約金に充てた。そうやって対策資金を使い果たし、組合は再び資金不足を宣言している 公立学校の生徒数は 2019年以降減少している。
新規採用者の多くは教師ですらない。過去半世紀、学校管理職の割合はなぜか急増し、教室担当ではない学校職員が七倍となっていた。
ともかく教育省を閉鎖すれば、 DEI(多様性、公平性、包括性)を重視する教師研修などの左翼プロジェクトに連邦政府の補助金交付がなくなる。トランプ政権はすでに補助金を6億ドル削減した。
DEI は単なる労働組合の道徳的運動ではない。個人の態度や行動を変えるのに効果がないことが判明している。にもかかわらず納税者の支出を増やすよう呼びかける政治スローガンだったのだ。
11 notes
·
View notes
Text

秋旅2023 横川~アプトの道へ
信越線 群馬側の終点 横川からアプトの道を散歩してみた。
関東近辺も紅葉が色づき始め、一度 行ってみたいなと思っていたアプトの道をこの度 散策。何気に群馬県に降り立つのは初めてかもしれない(いつも通過ばかりなので)。




北陸新幹線(当時は長野新幹線)長野先行開業に合わせて、廃止となった旧信越本線 横川-軽井沢。その線路跡の一部を遊歩道として整備したのが、このアプトの道。 下り線の一部は今も碓氷峠鉄道文化むらの施設として、トロッコやかつての電気機関車が走る一方で、上り側は線路もはがされた歩行者専用。とはいえ錆びた信号機等、鉄道遺構も残っていることもあり、前面展望の列車に乗っている気分がしなくもない。かつて列車を苦しめた難所 碓氷峠の勾配を登っていきます、歩いて登る分にはダラダラ坂なのでそんなに苦ではないね(なお、下りは後述…)



途中の温泉施設から先は、さらに古い信越線の旧線跡(長野新幹線開業までに使われていたのは新線)に道はつながります。レトロなトンネルを何個もくぐり、一度道をそれて碓井湖の眺望を楽しんだのち、さらに足を進め。。。


歩き始めて2時間弱、目的地 めがね橋で知られる碓氷第三橋梁。レンガ積みの壮大な橋梁で、ここもかつては信越旧線が通っていたところ。なかなかの高さがあり、眼下に紅葉した山々のグラデーションを楽しめました。いやぁ、美しい!わき道から険しい階段を降り橋を見上げれば、某峠を攻める漫画をもとにしたゲームで見覚えのある光景に。聖地みたいなものなので、スポーツカーでお越しの方もちらほら。なるほど、車で来るのも楽しそうね。




アプトの道はもう少し続きますが、足腰の疲れがいい感じ(嫌な感じ)にきはじめていたので、ここでUターンします。一転して今度は下り勾配。登るときは特に何も感じなかったダラダラ坂ですが、下ってみると結構 急に感じるものね。踏ん張りをきかせないといけない故に、足が辛い。。。というわけで中間地点くらいの温泉施設 峠の湯でお湯につかり小休止。冷たい峠風を浴びながらの露天風呂は最高でした(ちょっと湯温が低めでしたが、まあその分 長湯できるということでよしとしましょう)。
湯冷めしないよう速足で来た道を戻り横川駅へ。道中、くつろぐお猿さんも。
遅めのお昼に、おぎのやの峠の釜めしをいただいた後、電車に揺られ帰路へ。気持ちよく寝られました。
68 notes
·
View notes
Photo




「もう日本の町じゃない」成長続ける”世界のニセコ”―時給高騰し人集められず…閉鎖する介護事業所も 2/16(日) 17:01配信
パウダースノーを武器に、世界的リゾートに成長した北海道のニセコ地域。投資熱は冷めず、円安を追い風にインバウンド(訪日外国人)の流入も止まらない。食品スーパーには、外国人向けの1折3万円を超える生ウニが並び、飛ぶように売れている。
【写真で見る】北海道各地でトラブル…“迷惑外国人”も出現―雪まつり会場スタッフに“雪玉攻撃”する様子配信
バブルのような好景気に沸く一方で、労働力が枯渇し、時給水準が東京より高い2000円を超えるまでに高騰している。人を集められず、閉鎖する介護事業所も出てきた。
外国人の交通事故も一冬500件を超し、住民とのトラブルも増えている。拡大を続けるニセコの現状に迫った。
スーパーに並ぶ3万円のウニ 地元民は「手が出ない」 倶知安町のスーパーで販売されている1パック3万円を超える生ウニ
ここは本当に食品スーパーなのか――。ニセコ地域の一角、倶知安町の「マックスバリュ倶知安店」には、世界的なリゾート地にふさわしい高級食材が並んでいた。
「外国人客が多い冬期間は観光客に満足してもらう商品を豊富に取り揃えている。やはり味にこだわらないと需要はない」(店長の田村誠さん)
北海道産生ウニが1折で3万2184円。急速冷凍したタラバガニのボイルには2万7864円の値札がついていた。霜降りの和牛もきれいに陳列されている。地元住民が目を丸くするような金額だ。
ウニを前に大興奮の外国人観光客
店内を見わたすと6割が外国人。高級食材をためらいなく、買い物かごに放る。アメリカの男性は「どの商品もアメリカより安いし、この品質なら全然高くない。せっかく日本に来ているから、おいしいものを食べないとね」と満面の笑み。かごをのぞくと総額11万5000円の食材が入っていた。
「私には縁がないかな。品ぞろえが良く安く買えるので、ほっとしている」。地元住民の買い物客はうらやましそうに外国人を見つめていた。
外国人ばかり 住民「私たちの町じゃない」とため息 外国人観光客らが歩くニセコのひらふ地区
ニセコ地域は倶知安、ニセコ、蘭越の3町を指す。2023年度の外国人宿泊数は、統計の残る2006年以降最多の延べ73万8800人。12月から3月のハイシーズンは関係者の間で「ニセコ100日戦争」とも言われている。
スキー場のふもとにあり、最もにぎわう倶知安町の「ひらふ坂」は目の前には雄大な羊蹄山が広がる絶好のロケーション。1戸10億円を超えるコンドミニアムや別荘、高級ホテルが並ぶ。
1平方メートルで70万円以上する土地もあり、価格は10年前の倍。札幌の高級住宅地よりも高いところがあり、投資熱は一向に冷めない。 行き交う人の大半は外国人。バス停の行列も外国人だ。「活気があるのはいいが、ひらふはいまや私たちのマチではなくなった」。地元住民の女性が本音を漏らした。
時給2000円超も 開発で上昇する賃金水準 店頭に出されているすき家5号倶知安店の求人
外国人の開発は賃金の高騰をもたらした。人材サービス大手の「ディップ」によると、去年12月のニセコエリアの平均時給は3年前を555円上回る1585円。これは札幌より445円、東京都より117円高い。
地元関係者によると、ひらふ地区の相場が時給2000円、英語を話せるなら2500円。市街地の大手牛丼チェーンでは時給1650円、深夜なら1900円でスタッフを募集していた。
あるホテルのスタッフは「飛び抜けてよい条件は出せないので早めに求人を出して目立つようにしている。たくさんの応募があるので面接するのが大変」と笑う。
別の関係者は「うちを含めて飲食店や宿泊施設は常に人が足りていない」と打ち明ける。
賃金格差大 人材争奪戦に敗れ撤退した法人も 地域内で賃金の格差が生じているニセコ地域
人手不足は地元民の生活を支える施設でも深刻だ。ニセコ地域を管轄する岩内公共職業安定所によると、介護や接客などのサービス業の有効求人倍率(去年11月)は4.52。人手が足りず、壮絶な争奪戦となっている。
倶知安町では、訪問介護事業所と認知症対応型の共同生活介護施設の2つの事業所が去年10月までに相次ぎ閉鎖した。
運営する社会福祉法人によると、理由は「働く人が集まらない」。他の地区よりニセコ地区の単価を上げて求人を出していたが、5年間応募はゼロだった。
物価高や最低賃金の上昇が追い打ちをかけ、廃止を決めた。利用者約20人は町内2か所の事業所に引き継がれた。
閉鎖する介護事業所もあり、高齢者にしわよせが
ある町内の事業所には8人が移った。そもそも人手不足でヘルパーを増やせないので、以前からいた利用者にしわ寄せが及んだ。 「週3から週1に減った方もいる。お金を払うからもっと利用したいと言われても対応できない」(利用者を引き受けた事業所の職員)
この法人が運営する別の事業所で働いていた従業員が内情を明かす。
「介護は大変なわりに時給が1000円ちょっと。ひらふはベッドメイキングでも時給2000円。あまりにも賃金の格差がある。ひらふ辺りはもう日本の町じゃない」(元従業員)
介護事業所の閉鎖はすぐに町内を駆けめぐった。倶知安町で暮らしてきた70代女性は不安を口にする。
「いまは人手不足の時代なので、介護する人も少ないのは仕方ないが、年齢が年齢なので不安。やはり最期は倶知安で過ごしたい」 交通事故の4割外国人 日々の生活に不安 夜も外国人でにぎわうひらふ地区
北海道警倶知安署によると、ニセコ地域で昨冬に起きた交通事故は前年同月比133件増の1024件。そのうち45%を外国人が占めた。大半は冬道に不慣れな人の操作ミスが原因だが、地元住民にとっては不安の種だ。
「交差点で一時停止しない。スピードを出して走っている」「気を付けないと。対向車線を走っている外国人がいるので」(いずれも地元住民)
日本の法律を確認せず、自国のルールや価値観で車を運転することもある。
1月13日未明、ひらふ地区で、オーストラリア国籍の男(31)が酒気帯び運転の現行犯で逮捕された。
警察の調べに男は「自国のルールでは少しアルコールが残っていても大丈夫なので、日本でもいいと思った」などと供述した。
スキーヤーの連絡手段? 不法電波で飛び交う外国語 パウダースノーを求めてやってきたスキーヤーら
法令違反は道交法にとどまらない。違法な周波数で無線を使用するケースも多い。総務省の出先機関、北海道総合通信局によると、1月の調査で確認された121回の不法電波の交信のうち、114回は外国語だった。
バックカントリーが盛んなニセコでは、外国人のスキーヤーらが仲間と連絡を取るために無線を使っているという。
「パトカーや消防、航空機の通信が妨害され、人命に危険を及ぼす可能性がある」(北海道総合通信局)
悪意はないとみられるが、明らかな違法行為だ。
物価高で「普通の生活」さらに困難に 識者の懸念 倶知安町駅で行われている北海道新幹線の延伸に向けた工事
倶知安町の人口は1万7000人。外国人が20%以上を占める。
ニセコ人気の先行きは――。北海道の不動産に詳しいアナリスト、志田真郷さんは今後も投資が進むと分析。物価の上振れで、家賃の高騰し新たな施設が建設しづらくなる。地域住民が生活しづらい状態は加速するとみている。
新幹線の開業を知らせる看板
「ニセコは海外の所得水準に合わせて上振れしている。住宅地の価格も上がっていて、通常の住宅地や商業施設、介護施設が成立する水準ではなくなってきている。生活の利便性も下がっていくだろう」
夜も外国人観光客でにぎわう
オーストラリア人がニセコに投資し始めてから20年がたつ。ニセコはアイヌ語で「切り立った崖」の意。隔絶された豪雪地帯から世界の富裕層を魅了する高級リゾートとなった。
北海道新幹線が延伸されると、札幌との移動は2時間超から25分に短縮される。インバウンドの流入や投資は止まる気配はない。 パウダースノーを武器に、世界的リゾートへと成長したニセコ。最もにぎわう「ひらふ坂」は見渡すかぎり外国人で、まるで異国のようだ。
スキー場のふもとにある倶知安町は人口2万人弱の町。平均時給は東京を上回り、ひらふでは、時給2000円超えはめずらしくない。「ひらふ辺りはもう日本のマチではない」。地元住民が嘆くのも無理はない。
深刻なのは、介護事業所の相次ぐ閉鎖だ。撤退をよぎなくされた事業所によると。他の地域より単価を上げて求人を出しても応募は5年間ゼロだった。「あまりに賃金の差が大きい」(介護事業所の職員)。たしかに介護職の時給はひらふの半分ほど。格差が生まれ、従来の地域コミュニティーをゆるがしかねない事態になってしまった。
北海道新幹線の延伸が予定され、ニセコへのインバウンドの流入や投資は止まる気配はない。「最後は倶知安で過ごしたい」。取材中に何度も聞いた高齢者の言葉が脳裏に浮かぶ。地元住民���思いは届くのだろうか。
※この記事は北海道ニュースUHBとYahoo!ニュースとの共同連携企画です。コロナ禍からのインバンドのV回復に追いつかず、オーバーツーリズムの危機に直面する北海道観光の現状を追いました。
(「もう日本の町じゃない」成長続ける”世界のニセコ”―時給高騰し人集められず…閉鎖する介護事業所も(北海道ニュースUHB) - Yahoo!ニュースから)
12 notes
·
View notes
Text
大学院入試を受けてきた。
修士課程をもうすぐ修了し、春から博士課程に進む予定である。内部で進学する場合も、一応、形式的ではあるが試験を受けなければならない。それが、今日だった。

試験の日に限って雪が降るのはもう典型である。だが、地下鉄通学なので事なきを得た。わたしの住む地域は雪国のいいとこ取りをしている節があるので、雪が降ってもこうやって、数センチ積もるだけに留まることが多い。ドカ雪にならなくてよかった。
試験は、筆記試験と、15分程度の面接がある。
筆記試験は、B4の試験用紙3枚にびっしりと、修論の概要と今後の研究計画を英語で書くというパワー系の問題が出題されるので、それはまあ、対策した通りに書いた。まあ、これは良いとして。
問題は面接だった。ちょ〜詰められた。
今後の研究計画を話してください、と言われて、話したら、担当教員以外の先生方からの激詰めタイムが始まった。要は、わたしの研究テーマが結構センシティブなことを扱っているので、倫理的な問題を孕むのが心配だし、それ一本で学位を取るのは難しいのではないか? みたいなことを言われていた気がする(多分)。もちろん昨今はアンチ・ハラスメント時代だから言葉尻はキツくはなかったが、今思い返してみればまあ結構な言われようだったと思う。
じゃあわたしが扱っている問題は放置でいいんですか?って感じなんですよこっちからしたら。誰かが研究しないと社会はこのままですよ、いいんですか? ていうか学位を取るための研究テーマってなんだよ。社会を少しだけマシにできる研究って意味ないの? それって何がいけないの? 研究意義なんてなんぼでもあるやろ。な~んてことを考えながら、にこにこしてたら終わりました。本当に疲れました。
そして明日は修論の口頭試問がある。同じ顔ぶれの先生たちからの激詰めタイムが明日また繰り返されるということ。考えるだけでムカついてきた。
ムカつくので、大学帰りに同じ試験を受けた同期と食事を摂った。洋がいい、と彼女が言うので、駅ビルに入っている洋食屋さんを選ぶ。わたしは偏食なので、パスタはオイルベースのものしか食べられない。ペペロンチーノがあることを確認してから入店した。

「楽な道、楽な道へと進んできたらとうとうD進するところまで来てしまった」
「やりたいことは何もないけれど研究も別にしたくない」
「みんなどういう気持ちで研究をしてるんだろうね」
そんなことを話して、もちろん解決もしないままぬるっと解散した。モラトリアムを延長しまくった結果が今のわたしたちである。将来もクソもない。ただ、日々をそれなりにやり過ごしているだけなのである。博士課程を3年で卒業できるとは到底思えない。研究室の先輩たちもみんなオーバードクターでぬるぬるやってる。
たまに思う。半年くらい休学して、ずっと、ずっと家で眠っていたいと思う。何にも追われず、何をも追わず。
お金持ちにならなくて良い。ただ毎日、ご飯を食べて、たまにタクシーに乗れるくらいの生活水準で良い。それなりに、それなりに生きてさえいられればそれで良いのにな。だけどふつうに働いていくには社会性が足りなさすぎる。黙って研究すればそれで済む話なんだよな〜。ぬるっとおわります。
10 notes
·
View notes
Text

まぁまぁ歩いたな!
職場も難波あたりだし、普段彼氏と遊ぶ時も難波が多いから、
今日は久しぶりに大阪駅行ったけど、
広くて人多くてほんっっっっっとうに疲れた……😩😫笑
乗り換えのために、大阪駅降りて、その時に少しカフェ行っただけなんだけど、
あの人の多さはカオスじゃ無い?人口密度おかしくない?ってなった。
三連休だったし、インバウンドもいるから余計人口密度おかしいんだろうな。
正直もう一年くらいは大阪駅降りたく無い……😞笑
昔は人混みそこまで嫌いじゃなかったけど、ここ最近は本当に苦手になった。
多分もうユニバもディズニーランドも京都も行けないかもしれない😂😂😂彼氏とはまだ行ったこと無いけどもしかして行かないかもねwww
若い時は人混み行けてし、むしろ行きたかった気がするなぁ。今も、人がいなさすぎる場所は寂しいから嫌だけど。
程よいのが一番いい。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
明日、明後日とまた早番。
水曜日休みやしがんばろ〜。
9 notes
·
View notes
Text
しあわせだったころしたように
あんたの母校の近くを通りかかった。駅前のロータリーはタクシーの1台もなく静まり返って、日曜の昼なのに、というか、だから、なのか。童夢みたいなでかい団地が囲繞する一帯があったかと思えば、安普請のアパートがいくつも並んでいる路地が不意に現れて、あの陋屋のひとつびとつ、似たり寄ったりのワンルームで、ひと頃の俺やあんたみたいな学生がくすぶっているんだろうと思うと、俺はなんていうか、死にたくなるというか、死ねばよかったって思う、思った。生きててよかった夜、死ねばよかった朝。汚れたスポンジを替えるタイミング、排水溝の髪の毛、隣の部屋の人の気配。尖ったまま折れたかった。透き通ったまま消えたかった。早すぎると気付いた時には遅かった。遅すぎると気付くのが早すぎた。何度かの狂言自殺を繰り返して、俺も、あんたも、10年も歳を取った。年齢も性別もあいまいな掠れた声で、まわりくどい、ただ好意を伝えようとしただけの言葉。閉じていく2人の間柄。雨の予報だったけど、降る前に帰ってきた。窓の外の雨は、地球の裏側で降る雨と本質的に変わらないと思った。
19 notes
·
View notes
Text

かつての福岡ビル・天神コア・ビブレ跡地に新たに建った ONE FUKUOKA BLDG. 略称「ワンビル」が本日全館開業とのことで、まことにおめでとうございます。
福岡市営地下鉄の天神駅で降り、天神地下街からそのまま歩いて「ワンビル」に入り、エスカレータに乗ってあがってゆくと、鹿児島睦さんが手掛けた象嵌タイル "Mi volas paroli 私は話したい" が壁面のあちこち、地下二階から地上四階まで描かれているのが目に入ります。さまざまな生きものたちのなかには、かつて福ビルにあった「NIC」に勤めていた鹿児島さんらしく、NICのシンボル「シマウマ」の姿も。「じゃあ、一階の犬のあたりにいるね」「買いもの済んだら二階のキツネのところで」などの声が交わされ、いろんな人の出会いがこの場に生まれることかと思います。
今回、FACT(Fukuoka Art Culture Talk)の一員として、壁画制作の記録を一冊にまとめる機会をいただきました。ということで撮影は重松美佐さん、デザインは三迫みさこさんという、僕にとっての最強のお二人にお願いして制作いたしました。
冊子には象嵌タイルの画像だけでなく、設置計画と監理に携わったリズムデザイン・井手健一郎さんと鹿児島さんによる対談「都市の記憶を壁にかたどる」や、2019年に開催したNICに関する座談会、昨年9月のAFAF(ART FAIR ASIA FUKUOKA)における本作品に関した座談会なども収めることができ、後世に残す資料としてなかなか貴重な一冊となったのではないかと思います。制作にあたっては西日本新聞社の鳥越さん、そして西鉄の皆さんに多大なご協力をいただき、ありがたかったです(一度だけ僕のカイリューが暴れましたが……)。
この冊子、西鉄さんへの報告書として制作しているため、広く頒布されるタイプの印刷物ではないのですが、いつかどこかで広くご覧いただける機会が来ることを願っています。店には見本を置いていますので、ご興味ある方はお声かけください。
新たな街が立ち上がり、街の風景が大きく更新される現場に立ち会う機会、何よりも鹿児島さんの作品制作に関わることができる機会をいただき、とても嬉しい仕事となりました。ありがとうございます。そして「ワンビル」が街の人々に末永く愛される場になることを深く深く願っています。



3 notes
·
View notes