#古代と19世紀と自分
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moko1590m · 3 months ago
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人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応
テクノロジーと人類(48)長内洋介
2025/3/29 10:00
人類が今日の繁栄を築いた根本的な理由は何か。その謎を解く鍵として注目されているのが「自己家畜化」という概念だ。人は優しく進化して飛躍を遂げたのだという。
家畜と共通点
人類は約1万年前、ヤギやヒツジ、ウシなどの野生動物を飼育して家畜化した。奇妙なことに、人はこうした家畜とよく似た性質を持っている。この事実は古代ギリシャ時代から知られ、19世紀にダーウィンも注目して研究したが、理由は突き止められなかった。
家畜化された動物は、どの種でも共通の性質が表れる。人を攻撃せず従順で、ストレスに対して鈍感、頭や顎は小型化し、体は白くなり、顔は平面的で幼くなるといった変化だ。
これは「家畜化症候群」と呼ばれ、その多くは人でもみられる。人はチンパンジーと比べて温和で、反射的に攻撃することは少ない。数百万年に及ぶ進化の過程で顎や歯は小型化し、顔は平面的になった。
人はなぜ家畜と似ているのか。その理由を説明するのが自己家畜化だ。人は誰かに家畜化されたのではなく、自ら家畜のような性質に進化したというものだ。
動物を家畜化するときは人に従順な個体が選ばれる。人類も攻撃的な人は排除され、仲良く協力できる人が自然淘汰(とうた)で生き残ってきたと考えられる。自己家畜化が始まった時期は不明だが、われわれホモ・サピエンスが誕生した頃に大きく進展したらしい。
東京大の外谷(とや)弦太特任助教(複雑系科学)は「人類は道具を使い、協力して狩りをすることで多くの食料を得られるようになった。人口が増えて社会が複雑化すると役割分担が始まり、より仲良くすることが有利になって自己家畜化が加速した」と指摘する。
愛知県立大名誉教授で野外民族博物館リトルワールド館長の稲村哲也氏(文化人類学)は「他者と協力し、相手を思いやる人間の特性は自己家畜化の過程で残ってきたのだろう。人は自ら作った高ストレス社会に適応して、より優しくなった」と話す。
仲良くなると情報や物資の交換が活発になり、新たなアイデアが生まれイノベーション(技術革新)が起きる。自己家畜化が人類の繁栄と文明の進歩に重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。
人は大人になってもよく遊ぶ。旺盛な好奇心の表れであり、遊びによる探索や試行錯誤が新たなひらめきの源泉になる。イヌは進化の過程で自ら人に近づいたともいわれ、人と同じようによく遊ぶ。
人類は道具や社会制度を作り、農耕や都市化によって人工的な環境を生み出してきた。人が作った環境の中で家畜が飼育されるように、人間も自ら作った社会や環境の中でしか生きられない存在だ。こうした視点からも人は自己家畜化したと指摘されている。
言語にも関係
自己家畜化は人間らしさの根源である言語の誕生にも関係しているという。小鳥のジュウシマツは野生種を品種改良した家畜で、野生種��り複雑なさえずりができる。人も自己家畜化によって言語の進化が起きた可能性がある。
京都大の藤田耕司名誉教授(進化言語学)によると、野生動物は生きていくため常に天敵や餌の心配を��ているが、家畜はその必要がないため余裕が生じ、多くのことに注意を払い考えられるようになる。
「これが複雑な構造を持つ人間の言語が生まれた一つの要因ではないか。言語による複雑な思考やコミュニケーションが可能になった背景には自己家畜化がある」と藤田氏は指摘する。
家畜化の研究は、ロシアで20世紀半ばに行われたキツネの家畜化実験で大きく前進した。人に従順な雄と雌を交配させ、生まれた子から従順な個体を選び交配させることを繰り返した結果、わずか数世代でイヌのように尾を振る人懐っこいキツネが生まれたのだ。
しかもこのキツネは耳が垂れ、色が白いなどの家畜化症候群も呈していた。数千年は要したであろうオオカミからイヌへの進化を人工的に再現したようなものだ。
この実験によって、従順さを求めると家畜化することが実証されたが、なぜ体の変化も同時に起きたのか。これを説明する画期的な仮説が約10年前に登場し、注目されている。
鍵となるのは神経堤細胞という特殊な細胞だ。胎児のときに脊髄付近から全身に散らばり、ホルモンを分泌する副腎や骨などさまざまな場所の形成を促す。
この働きが低下すると、攻撃性を高めるホルモンの分泌が減るなどして穏やかで従順になる。骨や軟骨の形成も阻害されるため、頭が小型化したり、耳が垂れたりする変化が同時に起きることも説明できるのだ。
この仮説が正しければ、動物の家畜化は神経堤細胞の働きが低い個体を選別する行為といえる。人の自己家畜化も、そういうタイプの人が仲間や結婚相手として多く選ばれ、進行した可能性がある。
京都大ヒト行動進化研究センターでは、チンパンジーと、近縁種で自己家畜化した性質を持つボノボの人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使って、それぞれの神経堤細胞を作り、その働きを比べることで自己家畜化の決め手となる遺伝子を探す研究が進んでいる。
権力への依存
現代人も自己家畜化が進んでいるという。山口大の高橋征仁教授(社会心理学)によると、日本での代表的な美男子コンテストの候補者は、時代を追うごとにひ弱で優しく幼い印象の顔になっている。家畜化で生じる特徴的な変化だ。
分析の結果、女性は男性の優しい顔に恋愛や結婚の相手としての魅力を感じることが分かった。女性が穏やかで従順な男性を選ぶことで人の自己家畜化が進んでいる可能性がある。
自己家畜化の進行は人類の将来に何をもたらすのか。高橋氏は「幼くなるのは若々しくなることで良い���だが、課題は巨大な権力への甘えと依存が強まることだ」と話す。
インターネットが普及した今日、現代人は巨大IT企業が支配する情報インフラを従順に受け入れ、すっかり依存している。人はネット空間という見えない柵の中で飼育され、情報という餌を与えられて生きる家畜への道を自ら選んだと言ってもいいだろう。
一方、外谷氏は「人が協力して行ってきたことの多くは生成AI(人工知能)に置き換わる。人は協力することに価値を見いださず、他者や社会に無関心になっていく」と予想する。
家畜は人間に興味を示す半面、自分と同じ種への関心は低い。人間同士が無関心になることは自己家畜化の帰結ともいえそうだ。
稲村氏は「人は自己家畜化によって社会性や共感を強めてきたが、集団を超えた協力はできていない。集団内の結び付きが強いほど、外部の集団と戦争を起こしてしまう。この矛盾をどう解決するか問われている」と警鐘を鳴らす。
自己家畜化論は人種差別や優生思想と結び付いて政治的に利用された過去があり、現在でも誤解されやすい。だが人間の本質を探る上で重要な論点であり、人類史を俯瞰(ふかん)して理解する新たな視座になるだろう。(科学報道室編集委員)
(人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応 テクノロジーと人類(48)長内洋介 - 産経ニュースから)
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toshimasa-kobayashi · 22 days ago
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(最近、結構)スピってる
ハーマン・メルヴィルは『白鯨』を書いた。19世紀の後半のこと。広大な大西洋と太平洋の両方を、彼はその書物に納めた。なんということ。それはコーヒーを注ぐようにして書き綴られている。断章形式のこのテキスト群は、いわばテーブルの上に並べられたマグカップだ。順にコーヒーを注ぎ、彼はそれをテーブルに置いていく。マグカップのコーヒーをいくら並べたからといって、それは小説とは呼べない。当然のこと。『白鯨』が小説でないのは、読んだことのあるひとなら誰もが知っている。ではなんなのかと問われたら、メルヴィルが並べたマグカップだとしかいかいいようがない。
19世紀後半というと、メルヴィルはドストエフスキーと同じ時代を生きたことになる。ニーチェもこの時代。アメリカ、ロシア、ドイツ。3人は同時代人で、奇遇なことによく似ている。いや、そうでもないかな。彼らはともに今から100年ほど前には、この世から姿を消している。
先日『白鯨』を読んだ。死んだ作家の本を読むのはいい。本を読むというのは、もう死んでしまった人の言葉を読むことでないかと思えてくる。しっくりくるというか、心��安らぎがある。それは作品の質とはあまり関係がない。もういなくなってしまったひとの言葉。文庫で古典を読んでいると、この世のふくよかさを感じ取ることができる。なぜだろう。例えばソーシャルメディアと呼ばれるものが、スワイプする画面越しにわたしたちに与えるものと、それは正反対のものだ。いまを生きるひとびとの”いまここ”が、ソーシャルメディアには溢れている。次から次へと並んでいき、次から次へと消えていく。わたしのいる”いまここ”と、地続きのどこかで起こっていること。一方でメルヴィルの本は、いまの社会とはあまり関係がない。いまのわたしともほとんど関係がない。それは100年以上前に、見知らぬ街で、外国語によって書かれた。書いた本人はとうの昔に姿を消している。それにもかかわらず『白鯨』は、現在に至るまで出版物として残されてきた。何度も印刷され、幾度も刊行されてきた。それが極東の島国にいるわたしに届く。リビングのテーブルが、コーヒーの注がれたマグカップで占有されていく。
作者のメルヴィルと、読者であるわたしとは、遠く隔たれている。時間的にも、空間的にも。両者には実体としてのつながりはない。しかし長大な時間と空間とを隔てながらも、テキストを介してつながっている。そのつながりは極めて仮想的なものだ。時間的にも、空間的にも、遠く隔てられた者どうしがつながるとしたら、それは仮想でしかありえない。つまり文庫本は仮想のネットワークでもある。
死んだ人の言葉を受け取るのは、カテゴリーとしてはスピリチュアルに分類していい。自分でも驚いてしまうのだけど、最近はスピリチュアルなものが必要だと感じるようになった。年をとったということだろうか。いやなもんだ。あるいは本でなくともいい。なんの記録もなくとも、もうここにはいないひととつながりを持てるとしたら。それを信じられるとしたら。そのつながりは仮想のネットワークを成す。異なる水準の仮想ネットワークが幾重にもレイヤーされたのが、この現実だ。現実がそもそもスピリチュアルであり、それはこの世がいかにふくよかなものであるかの証左でもある。最近、結構スピってる。
別の観点を示してみる。死は経験することができない。経験とは反芻可能なものだから、死んだら終わりである以上、死は経験ではない。そして死は回避することもできない。経験ではないが、回避することもできない。この二律背反を、人類は長きに渡り解決できないでいる。あるいは解決すべきでないのかもしれない。いずれにせよ経験することも回避することもできないとしたら、それは実体ではない。つまり仮想だ。死は仮想なのか。わたしという実体に、避け難く仮想がともなっているかぎり、精神は実体以上のものを必要とする。やれ非科学的だ、擬似科学だと嗤おうとも、ひとはスピリチュアルを手放すことができない。現にわたしはマグカップを手に取り、今日もそれを飲んでいる。
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日本の考古学と科学思想の歴史。
第2章 :
日本の考古学者の皆さん、哲学的観点から見た新しい日本考古学へようこそ。 — 前の章で、特定のトピック、歴史、考古学、人類学について質問されるとき、たとえば「私たちの先祖は誰ですか?」とコメントしました。 そして彼らはどうやって X 場所にたどり着いたのでしょうか? 考古学自体が 19 世紀末の 1877 年に登場したとき、1884 年に人類学研究所が、1895 年に日本考古学協会が誕生したことについて触れます。 - 19 世紀の人なら、「私は誰ですか、どこから来たのですか?」と尋ねるでしょう。 ドイツ語、中国語、ノルウェー語、日本語などを尋ねることができます。 この種の質問は今日に至るまで答えられていません。 歴史学と考古学はそれらに答えを与えておらず、今日の他の分野でさえさらに多くのことを知っていますが、道のりはまだ長いです。 19世紀の日本、特にその終わり頃は、自分たちの起源を知りませんでした。 1980 年代の日本の科学者なら誰でも、最初の日本人入植者は誰だったのか疑問に思うでしょう。 ���こに定住するきっかけは何ですか? 現在、最初の入植者は約 3 万年前に到着したことが知られていますが、彼らだけだったのでしょうか? この諸島には、海面が現在より 120 倍も低かったため、中国と朝鮮の半島を北と南から通ってやって来た最初の入植者がいたことが知られています。 日本人は非常に古い本を 2 冊持っていることが知られており、1 冊は西暦 711 年、もう 1 冊は西暦 722 年のものです。 最初の書紀は古事記と呼ばれ、二番目の日本書紀は、神 (カミスと呼ばれる) による西暦 660 年からの日本の建国について語っています。この日本の神聖な起源の概念は、第二次世界大戦 (第二次世界大戦) まで続きます。 これら 2 冊の本は、ヨーロッパではギリシャとローマに遡る最古の本に相当します。 - 気に入っていただければ幸いです。今後の投稿でお会いしましょう。良い一週間をお過ごしください。
HISTORY OF JAPANESE ARCHEOLOGY AND SCIENTIFIC THOUGHT.
Episode 2:
Welcome, Japanesearchaeologicalists, to a new installment of Japanese archaeology, seen from a philosophical point of view. Having said that, get comfortable and let's begin.
In the previous chapter, we commented that when we are asked questions about certain topics, history, archeology and anthropology, for example: Who were our ancestors? And how did they get to X place? We mention, when archeology itself emerged at the end of the 19th century, 1877, the origin of the anthropology laboratory in 1884 and in 1895 the Japanese archeology society.
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A person from the 19th century would ask: Who am I, where do I come from? We could ask a: German, Chinese, Norwegian, Japanese, etc. These types of questions remain unanswered to this day. History and archeology have not given them an answer, even other disciplines today know much more, but there is still a long way to go. Japan during the 19th century, especially the end of that period, did not know its own origin. Any Japanese scientist in the 1980s would wonder who were the first Japanese settlers? What led you to settle here? Currently, it is known that the first settlers arrived about 30,000 years ago. Were they the only ones? It is known that the archipelago was inhabited by other inhabitants who were the first settlers. They arrived through the peninsula of China and Korea, both from the north and the south, since the sea level was 120 times lower than today. It is known that the Japanese have two very old books, one dates from 711 and the other from 722 AD. The first is called Kojiki and the second Nihonshoki, the Kojiki tells of the founding of Japan from the year 660 AD by the gods (called kamis), this concept of the divine origin of Japan would last until World War II (2ww). These two books would be the equivalent in Europe of the oldest dating back to Greece and Rome.
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I hope you liked it and see you in future posts, have a good week.
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stoopid-o · 2 months ago
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ベニテスを理解したくて調べた、現代メキシコ編
この投稿は、2025年4月20日にTwitterで話したスペースの原稿です���元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。
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このスペースはベニテスのことを理解してえと思ったオタクが調べたことを発表するだけの場です。私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。 まず、前提として、今回はメキシコとコンゴについて、一時間ほど話します。性暴力に関する内容が含まれるため、お気をつけください。また、非キリスト教徒で、カトリック知識に詳しくない人間が話しています。人物名は敬称略で呼びます。人物や地名の発音をうまくできないことがあります、ごめんなさい。
さて、まずは前提としてベニテスが何歳で何年生まれなのか。ベニテスを演じたカルロス・ディエスは50代ですが、原作では67歳。自分の中だけの設定として、映画本編を2023年だと仮定し、1960年代前半から半ば生まれの60代前半とします。ご了承お願い致します。 そして、ベニテスが生まれたと仮定する1960年代のメキシコはどんな状況だったのでしょうか。当時のメキシコは制度的革命党の支配体制がしかれていました。こちらの政党の名前が長いPRIと呼ばれ、1927年から2000年まで71年もの間、与党に君臨し、その期間をPRI体制と呼びます。現在もこの政党はメキシコにあります。 当時は各州の知事や政府の人間の多くがPRIの党員で、報道機関も政府の統制下にあり、圧倒的にPRI優位な状況でした。もちろん、国民の間では不満がありました。汚職などが蔓延り、ベニテスが子ども時代を過ごしたであろう1968年は、「1968年騒乱」と呼ばれる年でした。 こう呼ばれる所以は「トラテロルコの虐殺」など様々な事件があったからです。この年にメキシコオリンピックが開催されるのですが、オリンピックへの開催反対運動や反政府デモが各地で発生していました。特に首都メキシコシティでの学生主体のデモが活発でした。学生がキャンパスを占領して抗議活動を行い、政府はそれを軍や警察を動かし厳しく弾圧していました。そんな折、10月の2日、キャンパスを追い出された学生たちがメキシコシティのトラテロルコの三文化広場に集まって抗議活動をしていました。 広場にはおよそ1万人の学生が集まり抗議活動を行っていると、軍が包囲し銃撃を開始します。犠牲者の数は公式発表では30人未満でしたが、実数は推測するしかなく300人から400人とも言われています。この虐殺事件はメキシコオリンピックが開催される10日前の出来事でした。 人々が民主化を求めた激動の時代にベニテスは子ども時代を過ごしていました。 そして10代の後半、1982年にメキシコでは金融危機が起こり、物価の値段が4倍になるなど、苦しい時期でした。公開されている教皇選挙のスクリプトには貧しい両親のもとに生まれと書いてあったので、様々な苦労があったのかもしれません。しかも、1985年にはメキシコ地震が起こります。この地震のマグニチュードは8、死者は約1万人でした。メキシコ沖の震源地からは300km以上離れていましたが、メキシコシティでの被害が大きく、もしベニテスがメキシコシティの出身であれば、家族や住んでいた建物が被害に遭ったかもしれません。 ベニテスが何歳で神学校に入学したのかわかりませんが、おそらく一部は参考にされているフランシスコ教皇が20で神学校に入学したので、私はそれくらいの年齢、1980年半ばまでには入学したと考えています。 この時期のカトリック教会は苦境に立たされていました。 カトリック教会とメキシコについては時代を大航海時代まで遡って説明します。1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到着し、スペインはアメリカ大陸を侵略し始めます。スペイン征服後、先住民へのキリスト教布教のためスペイン国王の命でまずフランシスコ会、ドミニコ会、アグスティン会が1520年代頃から派遣されました。 ここで少し余談ですが、メキシコ先住民のことを何と呼ぶか意見が分かれています。ある研究者は「インディオ」という名称を使っており、インドとアメリカ大陸間違えたゆえの言葉ですが、先住民の権利運動で当事者たちがこの語を使っていたため「インディオ」と記す人もいます。ただ、近年は地元民を意味する「ナティーボ」や「オリヒナリオ」など先住民が自分たちのことを指す言葉が変化してきています。ただ、このスペースでは先住民と称させていただきます。 征服戦争、旧大陸からもたらされた天然痘や麻疹により先住民の人口は激減します。推定であり正確な人口はわかりませんが、征服前にはメソアメリカに600から700万人はいたとされています。それが1550年にはわずか300万人になりました。 このような過酷な状況で先住民に選択肢はなく、キリスト教へ改宗していきます。宣教師たちも、先住民の信仰や文化を許容できる範囲でキリスト教と融合させました。かつて祀っていた神と似たキリスト教の聖人や聖母を祀ったり、多神教になじみのある聖人崇拝を推奨するなど、妥協しつつ布教をしました。こうして現在でもメキシコでは人口の8割から9割がカトリック教徒です。 植民地時代はその土地の住人はすべて王の臣民であり、土地を含めカトリック教会の管理下にありました。教会は宣教活動だけでなく、農業経営や高利貸しも行っており、大きな資金を有していました。 しかし、メキシコが19世紀前半に独立を果たすと、国家はカトリック教会が所有している広大な土地を欲しがります。 1857年の改革憲法で教会特権を廃止し、住民はカトリック教会からメキシコ国家の管理下に置かれていきます。そして1859年には教会財産没収法が制定され、宗教行為に必要な最低限の物以外の教会財産はすべて国家のものになりました。 カトリック教会も黙って受け入れていたわけではなく、ミサなどの宗教行為のストライキを起こしたり、信徒が武装蜂起して「クリステーロの乱」と呼ばれる戦いなどをおこしました。 しかし、この厳しい制限はベニテスが神学校で学んでいたであろう1980年代も続いていました。教会財産の没収以外にも、聖職者への公民権の制限があり、選挙権のはく奪、僧衣をまとったまま外出してはならないなど様々な弾圧がありました。 そういった制限が解消されたのが1992年の憲法改正です。この改正により教会は財産取得と所有が認められました。聖職者の公民権も一部認められ、投票権が回復し僧衣を着たままの外出ができるようになります。ただし、被選挙権は与えられていませんでした。 そして神学校を卒業したベニテスはまずメキシコのベラクルースから活動を始めます。ベラクルース州はメキシコ湾に面した場所にあり、メキシコ征服の拠点となった湾岸都市です。かつては先住民の人口が激減したため、アフリカ大陸などから運んできた奴隷集積所や市場もありました。 ベラクルースで具体的にベニテスがどんな活動をしていたのかわかりませんが、あくまで想像の範囲で推測します。あくまで想像です。メキシコの基本的な町の作りは、広場があり90度の角度で市政庁と教会があります。教会のほとんどはは西向きに正面玄関が設置され、東側に祭壇が置いています。朝日がさ��込むと聖像は後光に包まれ、夕日は入り口から聖像を照らします。そうした効果を計算し、カトリック教会は原則として西側に正面玄関を設置しています。 「レジデンシア」と呼ばれる教会には司祭が常駐し、「ビシータス」と呼ばれる村などの教会には司祭が住んでいません。神父は村人たちの要請でこのビシータスへ赴き、ミサや洗礼を行います。なので、ベニテスもベラクルースの村々を巡っていた可能性があります。 とりあえずこれでメキシコの話は終わります。 参考にしたのは明石書店の『メキシコを知るための60章』清水透 著『ラテンアメリカ500年 歴史のトルソー』国本伊代 著『メキシコの歴史』などです。
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spindrift64 · 5 months ago
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「なぜAI業界は何でもオープンソースにするの?狂ってるの?」という疑問。会計史の観点からいえば「資本主義の仕組みが変わったから」と言えるかもしれない。 株主は配当金ではなく、売却益を目的に株を持つようになった。起業家は売上と利益ではなく、出資を募ることを目標にするようになった。 複式簿記は、中世後半の北イタリアで生まれた。が、それが現代的な会計制度として整理されたのは19世紀、産業革命期の英米だ。とくに鉄道の発展が、複式簿記と会計制度の発達に大きく関わっている。というのも、鉄道はかつてないほど莫大な資本を要する産業だったからだ。 線路を敷設するための土地取得だけでも、膨大なカネがかかる。車両の購入にも、特許の使用料にも、技術開発にも、当然、カネがかかる。燃料費や人件費だって、信じられないほど大規模だ。鉄道の誕生以前の世界では、こんな産業は存在しなかった。 (ちなみに、世界初の株式会社はもっと古い。1602年に設立されたオランダ東インド会社だ。①継続企業(ゴーイング・コンサーン)の前提、②株式を自由に譲渡できる、③有限責任制など、現在の株式会社と同じ仕組みをすでに有していた) 鉄道の時代には、会計の目的は「利益と配当金を正しく計算すること」だった。要するに、当時の株主にとっては「正しい金額の配当を受け取れること」が最大の関心事だったのだ。 ところで、20世紀後半までこの世界のお金は基本的には「金本位制」だった。「1円札に1円の価値があるのは、銀行に持っていけば1円分の金塊と交換してもらえる」という世界だ。戦争で中断することもあったけれど、基本的には、お金とは「貴金属の代わりを果たすもの」だった。 金に限らず、本位制通貨には弱点がある。不況に陥りやすいのだ。産業が発展すると、みんながカネを必要とするようになる。需要と供給に従って、モノに対して、相対的にカネの価値が高まる。1000円を得るのにラーメン1杯を売れば良かった世界から、2杯売る必要がある世界になる。つまり、デフレだ。 デフレが起きると、みんなモノを���わなくなる。投資もやめてしまう。今日は1000円でラーメンが1杯しか買えなかったのに、明日は同じ金額で2杯買えるかもしれない――。そんな世界になったら、「今1000円を使うよりも明日まで待つほうがいい」とみんな考えるようになる。こうして経済は不況に陥る。 経済は、経済は、人類の発明や野心や人口増加によって指数関数的(に見えるほど急速)に発展することがある。一方、金や銀の採掘量は、そんな簡単には増えない。本位制通貨は供給不足に陥りやすく、デフレに陥りやすいのだ。 第二次大戦の終戦直前、アメリカのブレトンウッズ・ホテルに連合国側の代表者が集まり、戦後の通貨制度を決めた。各国通貨と米ドルとの交換比率を固定し、金と交換できるのは米ドルのみにするという、変則的な金本位制だった。この通貨制度を「ブレトンウッズ体制」と呼ぶ。 戦後の復興と爆発的な経済発展で、大量の米ドルが必要になった。一方、金の採掘量はそう簡単には増えない。米ドルと金との交換は次第に困難になっていった。1971年8月15日、リチャード・ニクソン大統領は米ドルと金との交換を停止すると宣言。この「ニクソン・ショック」により、金本位制は終わった。 金本位制の世界では、通貨の供給不足が問題だった。一方、現代の世界では通貨の供給過剰(※過剰流動性)が課題になる。貴金属の保有量など気にせず、刷れば刷るだけお金を増やせるからだ。ヒトやモノを買う「実体経済」で使いきれなかったお金は、「金融経済」に流れ込むことになる。 現在の世界では、金融経済の規模は実体経済をはるかに上回っている。定義や計算方法にもよるが、金融経済を流通する通貨の総額は、実体経済を流通するそれの数倍から十数倍、あるいは数十倍にも上ると見積もられている。 要するに実体経済でチマチマとモノを売ってカネを稼ぐよりも、金融市場で一発ガツンとカネを集めるほうが、容易に稼げるようになってしまったのだ。 現在の世界では、株式の配当金や株主優待の価値は相対的に低くなった。(運よく)株価が上がったときに売り払えば、配当金や優待をはるかに上回る売却益を得られる可能性があるからだ。その結果、会計制度の目的も少しずつ変わりつつある。 かつては、会計制度は配当金を正しく算定することが目的だった。一方、現在の会計制度は「会社の現在の〝価値〟を正しく見積もること」に軸足が置かれるようになりつつある。IFRSが公正価値や包括利益を重視するのも、このような会計のニーズの変化によるものだと言っていい。 ここで冒頭の結論に戻る。現在の世界では、資本主義の仕組みが変わった。たとえビジネスモデルがなく、売上も利益も出ていない状態の企業でも、「ヤバい技術」を開発して公開するだけで、莫大な金額の投資が集まったり、大企業に売却したりして、億万長者になれる可能性がある。 これは株主の側にも同じことが言える。たとえビジネスモデルがなく、売上も利益も出ていない状態の企業でも、みんながその企業の株を買っている���ちは値崩れしない。値崩れ前に売りぬくことができれば、ちゃんと売却益を稼げる。 ここに「ヤバい技術をすぐにオープンにする」というインセンティブがある。特許を取って、ビジネスモデルを考案して、実体経済でチマチマと稼いで――。そんなことをしているうちに、ライバル企業が「もっとヤバい技術」を無料公開するかもしれない。投資を掠め取られるかもしれない。 ……というのが、「なぜAI業界は何でもオープンソースにするの?狂ってるの?」という疑問に対する、俺の理解です。
XユーザーのRootport🔥さん
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ari0921 · 4 months ago
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🔶AIに聞いてみた💡
クリミア半島とバルカン半島はなぜ紛争になるのか
地政学的、歴史的に教えて?
クリミア半島とバルカン半島が紛争の舞台となる理由は、地政学的および歴史的要因が複雑に絡み合っているためです。それぞれの地域について、わかりやすく説明します。
### **クリミア半島**
#### **地政学的要因**
- **黒海の戦略的要衝**: クリミア半島は黒海に突出しており、ロシアや周辺国にとって重要な軍事・通商上の拠点です。特にセヴァストポリ港は、ロシア黒海艦隊の基地として歴史的に価値があります。黒海を支配することは、東欧、中東、カフカスへの影響力を意味します。
- **大国間の緩衝地帯**: クリミアはロシアと西側(NATOやEU)の勢力圏がぶつかる場所に位置し、地政学的な緊張を引き起こします。ウクライナが西側に接近する動きを見せると、ロシアは自国の安全保障上の脅威を感じ、介入する動機が高まります。
#### **歴史的要因**
- **多様な支配の歴史**: クリミアは古代からスキタイ人、ギリシャ人、タタール人、オスマン帝国、ロシア帝国など、さまざまな勢力に支配されてきました。特に18世紀にロシア帝国が併合し、クリミア・タタール人を追放するなど民族構成が変わったことが、後の対立の火種となりました。
- **ソ連時代と独立後の混乱**: ソ連時代、クリミアは1954年にロシア共和国からウクライナ共和国へ移管されましたが、ソ連崩壊後、ウクライナの一部として独立。これをロシア側が「歴史的不正」とみなす声が根強く、2014年の併合へとつながりました。
- **民族対立**: ロシア系住民が多数を占める一方、タタール人やウクライナ人はロシア支配に抵抗する歴史があり、民族間の緊張が紛争を助長します。
#### **紛争の例**
2014年、ロシアはウクライナの親欧米政権誕生をきっかけにクリミアを併合。西側諸国はこれを国際法違反と非難し、経済制裁を課すなど対立が深まりました。背景には、ロシアの黒海支配とNATO拡大阻止の意図があります。
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### **バルカン半島**
#### **地政学的要因**
- **ヨーロッパとアジアの交差点**: バルカン半島は地中海と黒海に近く、ヨーロッパと中東をつなぐ交通の要衝です。歴史的に交易路や軍事ルートとして重要で、大国の利害が衝突しやすい場所です。
- **多様な隣接勢力**: オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア、オスマン帝国(現トルコ)、そして後にNATOやEUといった勢力が影響力を競い合い、緩衝地帯としての不安定さを増しています。
#### **歴史的要因**
- **民族と宗教のモザイク**: バルカンにはセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人、アルバニア人など多様な民族が混在し、正教、カトリック、��スラム教が交錯します。オスマン帝国の長期間の支配や、その後のハプスブルク支配が、各民族のアイデンティティを分断しました。
- **帝国の崩壊と国家形成**: 19~20世紀にオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、新たな国家が誕生。しかし、国境線が民族分布と一致せず、領土争いや民族浄化が頻発しました。
- **冷戦とその後**: ユーゴスラビアとして一時的に統一されたものの、冷戦終結後に民族主義が再燃。1990年代のユーゴスラビア紛争(ボスニア戦争、コソボ紛争など)は、こうした歴史的遺産が爆発した結果です。
#### **紛争の例**
- **第一次世界大戦の引き金**: 1914年、サラエヴォでのオーストリア皇太子暗殺は、バルカンの民族対立が大国間の戦争に発展した例です。
- **ユーゴスラビア解体**: 1990年代、セルビアによる支配に反発したクロアチアやボスニアが独立を宣言し、内戦に突入。民族浄化や介入(NATO空爆など)が発生しました。
---
### **共通点と違い**
- **共通点**: 両地域とも戦略的立地と多民族・多宗教性が紛争を複雑化させています。外部勢力(ロシア、西側、かつての帝国など)の介入も大きな要因です。
- **違い**: クリミアは主にロシアとウクライナ・西側間の大国対立が焦点であるのに対し、バルカンは地域内の民族対立が主で、外部勢力はそれを増幅する役割を果たします。
結論として、クリミアとバルカンは、その地理的価値と歴史的遺産から、常に緊張の火種を抱えています。地政学的な利害と民族・文化の衝突が、解決を難しくしているのです。質問があれば、さらに深掘りしますよ!
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warehouse-staff-blog · 4 months ago
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Lot 1010 DSB OFFSET LOOP COWBOY PANTS(WW II MODEL)
こんにちは 名古屋店 コジャです。
名作の一本がDSB(Dead Stock Blue)ラインで登場。
WAREHOUSE & CO. Lot 1010 DSB OFFSET LOOP COWBOY PANTS(WW II MODEL) \35.200-(with tax) ※ONE WASHは\1.100- UP
新開発 7.2番×7番 セルヴィッチWWⅡデニム オリジナル鉄製ワンスター(月桂樹)ボタン MADE IN USA 鉄製UFOリベット カウハイドラベル
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20世紀から21世紀にかけて、アメリカのジーンズの人気を二分してきた二つのジーンズブランド。
その残存数の少なさから、時代の特定や属性の判断が難しいブランドがLeeではないでしょうか。 1920年代のユニオンオールをパンツにしたような、頑強なトリプルステッチが効いた5ポケット。 1930年代はワークウェアとウエスタンウェアのデザインが分かれる時代。 その狭間ではユニークなスタイルのジーンズが存在しました。バックポケットに入る飾りステッチやスレッドリベット、デニムに早くからサンフォライズド加工をかけたことなど、その独自性は既にこの時代からみえます。 そして、ジーンズに大きな影響を与えたといわれる第二次世界大戦にありながらも、このブランドには規制を感じさせないようなモデルが多くみられています。
ウエアハウスが再現したモデルでは、記憶に新しいものが1920年代のトリプルステッチ。 赤い縫製糸が効いたモデル。 そして大戦モデルとして再現した、ヘアオンハイドのバックルが付かないモデルです。 これを大戦初期として仮定しても、その直後に飾りステッチが入っていたり、コインポケットのリベットが穿たれていたり、まさに一筋縄ではいかないのが同ブランドの最大の魅力。
そしてこの度、満を持して再現されるのが、大戦さなかのモデルとして知られるカウボーイパンツです。 1940年代はジーンズからワーク色を削ぎ落とし、プリミティブに昇華した時代。 カウボーイパンツも、どこか土臭さが抜けきれなかったそのディテール、シルエットから、その後のライダースへと移行する間際に見られる変化があります。 ポケットがそれまでのワークウェア然とした大きく、丸いものからシェイプされ、細くなることです。 そして尾錠の省略によって、よりブラッシュアップされ、スタイリッシュなジーンズへと第一歩を踏み出しているのです。
このモデル、オリジナルのヴィンテージは「大戦の飾りステッチ」が入るモデル。 ウエアハウスでは、あらたにデニムを織りました。 タテ糸は7.2番、緯糸には7番の生成り糸を打ち込んでいます。
その後には左綾に統一されるデニムの綾についつも、この時代は右綾となっています。 インディゴは、COWBOYパンツ独特の青みがかかった色落ちが期待できる専用のものです。 穿き込むとその唯一無二の色落ちに、「穿き込んで良かった」となることでしょう。
戦地に赴く兵士が「隠しておかないと」と呟くくらい、早く穿きたい一本という広告も印象的です。 1930年代のカウボーイの牧歌的な要素、大戦仕様のユニークなディテール、そしてスタイリッシュに昇華するライダースへとモデルチェンジを感じさせるシェイプされたバックポケットは、まさに奇跡的なバランス。幻の飾りステッチの入った、大戦カウボーイの再現といえます。
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[vintage archives]
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過去にも、 あの某有名ジーンズブランドのVintageをベースに作製してきましたが、 今回は同ブランドの希少な別個体から新たに作り上げました。
同ブランドの古い年代のパンツをお目にかかること自体が非常に稀なのに、 オフセットの物は特に「初めて」の方も多いのでは無いでしょうか?
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173cm,60kg SIZE:33(ONE WASH)
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外に振られたハの字に付けられたポケットも特徴の一つ。
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スポットで��生産なので再入荷は無いですよ。 SOLD OUT間近。 サイズが合う方は是非。
では失礼いたします。
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☞ [営業時間のお知らせ]
平素よりウエアハウス直営店をご利用頂き有難う御座います。 ウエアハウス直営店では営業を下記の通り変更しております。
《2025.2.18.現在の営業時間》
◎東京店 【営業時間:平日 12時~19時 土日祝 12時~19時】無休 ◎阪急メンズ東京店 【営業時間:平日 12時~20時 土日祝 11時~20時】無休 ◎名古屋店【営業時間: 平日 12時~19時 土日祝 12時~19時】水曜定休 ◎大阪店 【営業時間: 平日 12時~19時 土日祝 12時~19時】 無休 ◎福岡店 【営業時間: 平日 12時~19時 土日祝 12時~19時】 無休 ◎札幌店 【営業時間: 11時~20時】  木曜定休
今後の営業時間等の変更につきましては改めて当ブログにてお知らせ致します。 お客様におかれましてはご不便をお掛けいたしますが御ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。
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nua-ap · 4 months ago
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しあわせな王子
名古屋芸術大学 Presents
音楽の森 家族のための朗読コンサート「しあわせな王子」
2025年 3月28日(金)・29日(土) 名古屋芸術大学 東キャンパス 8号館スタジオ
会場へのアクセスはこちら
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3月28日(金)17:30〜 3月29日(土)14:00〜 ※各回開演15分前より開場
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名古屋芸術大学地域交流センターでは、毎年、子どもたちとその家族のためのコンサートと、体験型イベントをお届けしています。大学のあるこの北名古屋市のみなさんに、音楽の楽しい体験をしていただき、そしてその後に、ゆっくりとコンサートを聴いていただく催しです。
世界では未だ戦争が絶えず、それを止めることの難しさを私たちは知っています。そして、その時の傷が癒えることはないことも知っています。そのようなことを考えるとき、この小さな自分に何ができるのかと、誰もが自分の無力さを感じるでしょう。でも、地球上のすべての人たちが、近くの誰かに自分の幸せを少しだけお裾分けしたならば、世界は変わるかもしれません。大人も子どもも、しあわせのリレーができる社会でありたいという思いとめぐらせながら、今年も「音楽の森」をお届けいたします。
今年はオスカー・ワイルドの小説「しあわせな王子」です。ごゆっくりお楽しみください。
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家族のための朗読コンサート「しあわせな王子」
クラリネット > 中村由加里 ファゴット > 三吉彩生 ピアノ > 服部響子 ソプラノ > 姫田美優 朗読 > 藤島えり子
原作:オスカー・ワイルド 構成:丹羽康雄 音楽:梶田美香 絵:柳江美咲(美術領域1年) 演出:嗚海康平
音響:夏目依吹、二木陽菜、松木��水実(3年) 照明:嗚海康平/深作百花(2年) 制作:小田原一華(3年)、遠藤美帆、河合仁衣菜、松本千花、蓑原楓子(2年) 主催:名古屋芸術大学 舞台芸術領域
入場料:500円(未就学児無料)
お申し込みはこちらから(webフォーム)
※入場料のお支払いは、当日精算のみ(現金)
お問い合わせ:舞台芸術領域 舞台プロデュースコース[email protected]
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藤島えり子(朗読)
東海地方を拠点とし、2015年度より5年間、愛知県の劇場「長久手市文化の家」の契約アーティスト”創造スタッフ”として活動。2024年度は文化フォーラム春日井による地域創造企画「演劇×自分史」のアシスタントとして活動。近年の主な出演は、第七劇場「三人姉妹」(2023)などストレートプレイのほか、国際芸術祭あいち2022ジョン・ケージ「ユーロペラ3&4」、朗読コンサート「ヘンゼルとグレーテル」など、様々なジャンルの作品に出演。
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中村由加里(クラリネット)
愛知県立芸術大学卒業。クラリネットを朝田文子、黒岩義臣、原田綾子の各氏に師事。第21回岐阜県ソロコンテストにおいて最優秀賞受賞。日本クラリネット協会主催第4回アンサンブルコンクール3位入賞。演奏活動のほか、講師業、音楽アウトリーチ、イベント企画など、活動は多岐に渡る。アイリスクラリネットカルテット メンバー、一宮市アーティスト・イン・レジデンス登録アーティスト。名古屋芸術大学非常勤講師、愛知県立芸術大学大学院 病院アウトリーチプロジェクトコーティネーター、岐阜県立各務原西高等学校吹奏楽部非常勤講師、愛知県立一宮南高等学校部活動指導員。音楽アウトリーチ団体みぢかむじか代表。
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三吉彩生(ファゴット)
愛知県立芸術大学卒業。ファゴットを服部由紀、徳久英樹、青谷良明、大津敦の各氏に師事。大学在学中、選抜メンバーによる「室内楽の楽しみ」に出演。第39回広島市新人演奏会、第6回ドルチェ楽器デビューコンサートに出演。第19回大阪国際音楽コンクールアンサンブル部門 入選。第26回さくらぴあ新人コンクール入選。2021年リサイタルを開催。トリオかさねメンバー。コンサートグループ「花の詩」会員。
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服部響子(ピアノ)
愛知県立芸術大学卒業。ピアノを大島啓子、服部浩美、藤井博子、佐藤俊の各氏に師事。第8回中部ショパン学生ピアノコンクール銀賞、第5回ショパン国際ピアノコンクールinASIAアジア大会入選、第15回日本クラシック音楽コンクール全国大会入選など受賞。2009年~2016年までヤマハピアノデモンストレーターを務める。日進市にて響子ピアノ教室主宰。全日本ピアノ指導者協会正会員。ピティナ・ピアノコンペティション新人指導者賞、ピティナ・ピアノコンペティション指導者賞、ブルグミュラーレッスン賞5回受賞。
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姫田美優(ソプラノ)
東京音楽大学声楽専攻卒業。卒業時に2022年度東京音楽大学主催卒業演奏会、第45回読売中部新人演奏会に出演。 愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽専攻声楽領域修了。 第32回日本クラシック音楽コンクール声楽部門大学女子の部第5位、第2回東京国際管弦声楽コンクール声楽部門新進声楽家の部第3位、第78回全日本学生音楽コンクール声楽部門大学の部名古屋大会第1位。 愛知県立芸術大学オペラにて『アルチーナ』モルガナ役、『フィガロの結婚』スザンナ役として出演。 これまでに声楽を松名深雪、三繩みどり、釜洞祐子、萩原みか、森川栄子の各氏に師事。
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フライヤーレイアウト:橋本デザイン室
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ryotarox · 10 months ago
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『嵐が丘』の名前 - 'nothing but a name,' but 荒木映子 名古屋大学学術機関リポジトリ https://nagoya.repo.nii.ac.jp › files › ivy_23_1
十九世紀という時代にあって、女性が小説を書くためには、男の言葉で、しかも男性名を使って書かなければならなかった。 だからこそエミリーは、小説の語り手にも、ヴィクトリア朝の価値体系に合った、洗練された紳士像を地で行くようなロックウッドという男性を選び、そのロックウッドが、同じくヴィクトリア朝が仕立て上げた「男向きの女」 (man's woman) 像を代表するネリーの話を聞くという設定で書いたのである。 つまり家父長制の枠組の中で、男として書いていることになる。 ネリーが予想以上によく本を読んでいて深く物事を考える人間であることが強調されている(7章)こともむべなるかなである。男の言葉の間に、キャサリンの稚拙な日記やイザベラの手紙等の女の言葉がちりばめられている。ホーマンズが論じているように、この小説は女性作家��してのブロンテ自身の問題をたどっていると言えるのである。(19) 世界を名づける力を持たない女性達は、借りものの言葉で自分を語ることしかできない。しかし、その言葉で語りえないところに、本当の女性の経験がある。名前のないところにこそ、「女性の名前」があるのである。
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荒木 映子 (Eiko Araki) - マイポータル - researchmap
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「嵐が丘 論文」で検索すると論文がたくさん読めておもしろい
嵐が丘 論文 - Google 検索
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kennak · 8 months ago
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日本は1910年の韓国併合後、朝鮮半島出身の移民を大量に受け入れることになります。日本人と朝鮮人移民のコンフリクトがあちこちで発生し、苦慮した日本政府は「朝鮮人移民の日本流入を抑制し、朝鮮・満州に向かわせる」ことによって事態の打開を図ろうとしました。 目次 1. 日本本土を目指す朝鮮人 2. 「朝鮮人を管理せよ」 3. 満州へ移住する朝鮮人 まとめ 有料マガジン公開しました! 1. 日本本土を目指す朝鮮人 韓国で言うところの「日帝強占期」の間、多くの人々が朝鮮半島から日本帝国の支配地域へ移住を行いました。1930年の時点で東アジア各地域に居住した朝鮮人の人口は以下の通り。 日本本土:42万人 満州  :60万人 ソ連  :19万人 その他、中国に1万人、アメリカに1万人ということで、当時の朝鮮の人口が約2000万人なので、約6%の人口が半島外に移住した計算になります。現在の日本で例えたら、埼玉県民(約720万人)が全員移住をしたようなレベル感です。 なぜこのように多くの朝鮮人が移民をしたかと言うと、理由は以下が考えられます。 植民地化と中央集権システムの導入で旧来の方法で生きる農民が困窮したこと 日本資本主義の発展で安価で高品質な労働力への需要が高まったこと 日本と朝鮮半島を結ぶインフラが整備され移動が容易になったこと 日本語教育が普及し本土で暮らすことへの心理的障壁が下がったこと では、貧しい農民が働き口を求めて日本に殺到したのかというとそうではなく、農民の中でもある程度カネを持った中〜上層の農民が日本に渡る傾向にありました。 鉄道や客船により日本行きが容易になったとはいえ、日本に行く���は高額な運賃が必要だったので、「ある程度教育を受け、カネもあり、日本で一山当てようという気概を持つ者」が日本に渡ったわけです。 農民の中でも一層貧しい者やヤル気のない者は、困窮化する農村で貧しさに耐えながら生きていくしかないのでした。 ただし、「ジャパニーズ・ドリーム」を抱いてやってきた者全員が成功できるわけもなく、就職難・経済困窮・言葉の壁による社会不適応など、失敗して故郷に戻る者のほうが多く、特に1930年代の世界恐慌の時は帰還者が圧倒的に多かったのです。 それでも努力して生活基盤を日本に作った朝鮮人は、正月や先祖供養のために故郷に帰ったり、親兄弟を日本に呼び寄せたり、日本から故郷に送金したり、故郷から日本に懐かしい味を送ってもらったりと、様々な形でヒト・モノ・カネを流通させていきました。 2. 「朝鮮人を管理せよ」 韓国併合により朝鮮人は「日本帝国臣民」になったわけで、戸籍も自由に日本に移動できて然るべきなのですが、最後まで政府は朝鮮人の日本本土への戸籍の移動を認めませんでした。政府内には「民族ノ混淆、同化乃至純粋保持当ニ関スル根本問題」があるとして反対意見が根強く、建前は平等を訴えておきながら、最後まで日本人と朝鮮人を区別する政策を採りました。 また日本帝国臣民となった朝鮮人は、「日本国籍から離脱できない」とされました。仮に朝鮮人の日本国籍離脱を認めると「不逞ノ企画ヲ起シ、内外総呼応シテ治安ヲ害スル」者を取り締まれなくなるからというのがその理由。特に三一独立運動や満州建設以降、治安維持や保護・取締りを名目に、朝鮮人を故郷の戸籍に固定し戸籍の離脱を禁じることで、政府は朝鮮人を強い統制下に置くことに成功しました。 日本が近代化して以来、十万単位の多民族の来訪と定着は、日本社会に大きなインパクトを与え、朝鮮人に対する偏見や差別意識から様々な形でコンフリクトを起こすことになりました。関東大震災の「朝鮮人虐殺」は、震災という極限状態で日常の不安や不満が最も残酷な形で爆発した事件でした。 三一独立運動以降、「暴動を起こす朝鮮人を本土に入れてはならぬ」という治安維持の観点から、それまで比較的自由だった朝鮮人の日本への渡航は「警察が発行する証明」が必要になりました。一方で朝鮮国内に入るには「在外帝国公館の証明」が必要になりました。日本本土と朝鮮内の運動家のネットワークを遮断することを狙ったわけです。また証明制度にすることで日本にやってくる朝鮮人の数を少なくし、質を上げることで、社会的軋轢をなるべく少なくしようという意図もありました。 渡航の証明制度は、当たり前ですが当の朝鮮人には大変不評でした。 故郷では適当な仕事がないため仕事を求めて日本にやってくる者が一定数おり、そのような���とりあえず日本行けば何とかなるだろ」的意識の労働者はブローカーの斡旋で日本海を渡り日本本土に密航しました。警察は摘発を強化し、年間で2,000〜5,000名ほどの密航者が摘発され本土に送還されました。 そもそも「日本帝国臣民」であるにも関わらず、日本本土への密航で捕まるという事自体がおかしいのですが…。 1934年頃から帝国全体で朝鮮人移民に対応する方針の策定が始まり、 日本本土に渡る朝鮮人を一層減らすこと 朝鮮内に朝鮮人を安住させられる環境を作ること 満州や朝鮮北部に朝鮮人を移住させること 日本本土の朝鮮人を日本に融和させること の4項目がまとまり、これに伴い朝鮮内で半島出身者の失業者を吸収することと、さらなる発展が見込める満州や朝鮮北部へ労働力を振り分けることが企画されました。 1930年代に朝鮮半島は工業化が急速に進展するのですが、それは朝鮮人の日本本土への流入を防ぐこと、ひいては治安維持や社会秩序維持がその背景にあったのでした。 3. 満州へ移住する朝鮮人 満州、現在の中国東北部への朝鮮人の移住は、古くは19世紀半ばにロシアが沿海州を手にしてから始まり、豆満江以北の間島地方の開墾を清朝政府が許可してからさらに進展しました。 満州に移住した人の多くは貧しい農民で、生活苦で故郷を棄てて新天地に一家をあげて移住するケースが大半でした。一方で韓国併合後は、朝鮮人の抗日武装勢力が満州に逃げて本拠地にし抵抗を続けるケースも見られました。 満州帝国成立後、日本政府は満州への朝鮮人の移住を促進しようとしますが、満州国を支配する関東軍は抗日武装闘争の激化を懸念し朝鮮人の大量移住に反対しました。しかし結局政府との調整が図られ、1937年以降に毎年1万戸とする取り決めがなされ、1941年までに約2万6000戸、10万7800人が満州に入植しました。 満州への朝鮮人の大量の移住が行われたことは、中国人と朝鮮人の間に新たな緊張関係をもたらしました。 日本は朝鮮人を保護する立場にあったので、朝鮮人の利益を優先し中国の主権を侵害するケースがあり、一般の中国人の目から見たら朝鮮人は日本の手先になって自分たちの生活を脅かす存在に見え警戒感を強めたのでした。 例えば、1931年に満州の長春近郊の万宝山で、中国人地主から借りた土地に水路を引こうとした朝鮮人農民と中国人農民との間に小競り合いが起き、中国側の警察と日本側の警察が両方出動しにらみ合いする事件が勃発(万宝山事件)。 万宝山事件 このニュースが伝わると、朝鮮人の間で反中感情が高まり、朝鮮と日本で朝鮮人による中国人襲撃事件が発生。109名が死亡し160名が負傷したのです。 一方で日本の侵略に抵抗するという点で中国人と朝鮮人の協調が図られたケースも多く、例えば中国人民解放軍の東北部隊、東北人民革命軍の幹部には後の北朝鮮のトップ金日成が就いていますし、大韓民国臨時政府は上海に設置されました。 しかし1936年以降、関東軍のゲリラ取締りが厳しくなり、朝鮮人の抗日ゲリラ運動は壊滅状態になり、金日成もソ連に越境し、戦後に朝鮮に帰還しています。
大日本帝国の朝鮮人移民と移民政策|尾登雄平(世界史ブロガー・ライター)
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jimbuchanan · 1 year ago
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ジェームズ・M・ブキャナン邦訳文献まとめ
- 単著(書籍, 出版年は原書)
『財政理論 ―― 民主主義過程の財政学』(1967)
『公共財の理論 ―― 公共財の需要と供給』(1968)
『選択のコスト ―― 経済学的探究』(1969)
『財政学入門』(1970)
『自由の限界 ―― 人間と制度の経済学』(1975)
『経済学の考え方 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『公と私の経済学 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『コンスティテューショナル・エコノミックス ―― 極大化の論理から契約の論理へ』(1991)
『倫理の経済学』(1994)
- 共編著(書籍, 出版年は原書)
『公共選択の理論 ―― 合意の経済論理』(w/ G.タロック, 1962)
『赤字財政の政治経済学 ―― ケインズの政治的遺産』『赤字の民主主義 ―― ケインズが遺したもの』(w/ R.E.ワグナー, 1977)
『ケインズ財政の破綻』(w/ J.バートン, R.E.ワグナー, 1978)
『公共選択の租税理論 ―― 課税権の制限』(w/ G.ブレナン, 1980)
『立憲的政治経済学の方法論 ―― ルールの根拠』(w/ G.ブレナン, 1985)
『財政赤字の公共選択論』(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン, 1986) ⇒ 内ブキャナン著作論文《「赤字体質の政府(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン)」, 「リカード流の等価定理の論理(w/ G.ブレナン)」, 「ケインジアン以後の政治における予算バイアス ―― 財政規範の侵食と復権の可能性」, 「債務不履行の倫理」》
『国際化時代の自由秩序 ―― モンペルラン・ソサエティの提言』(w/ M.フリードマン他, 1991) ⇒ 内、ブキャナン報告《「自由貿易の厚生政治学」》
『行きづまる民主主義』(w/ G.タロック, 加藤寛, 1998) ⇒ 内、ブキャナン報告《「多数決民主主義の制約」》
『財政学と公共選択 ―― 国家の役割をめぐる大激論』(w/ R.A.マスグレイブ, 1999) ⇒ 内、ブキャナン報告《「生い立ち、経験、およびアイデア:回想的評価」, 「マスグレイブ「財政の役割」への応答」, 「政治的行動に対する制約」, 「マスグレイブ「財政連邦主義」への応答」, 「道徳、政治、制度改革:診断と処方箋」》
- 論文など
「はしがき(w/ G.W.ナッタ​ー)」(F.H.ナイト 著『フランク・ナイト 社会哲学を語る ―― 講義録 知性と民主的行動』所収, 1960,)
「個人主義的アプローチによる政治過程論」(D.イーストン 編『現代政治理論の構想』所収, 1971) ⇒ 「政治過程の個人主義理論」として『公と私の経済���』に再所収。
「外部性(w/ W.C.スタブルバイン)」「公共財の供給(w/ M.Z.カフォグリス)」(経済企画庁経済研究所 著『公共経済学理論の展望』, 1971) ⇒ 「外部性」は『公と私の経済学』に再所収。
「公​共財の過密​」(西村光夫,​ ​西​山​千明​ 編『​新しい​自由​社​会の​展​望:木内​信胤先​生古​稀記​念​論​文集』所収, ​1972)
「​競争的供​給における​外​部​不経済(w/ C.J.ゴーツ)」(『​高速道​路と​自​動車』vol.15​ No.1​1 所収, 197​2-11)
「​赤字に​抱かれた​民​主​主​義​ ​―― ケインズ​卿の政治的​遺​産」(『​大​蔵​省​調​査月報』vol.68​ No.1​~5 所収, 19​79-1) ⇒ 『赤字の民主主義』(『赤字財政の政治経済学』)の抄訳。
「日本はまとまりの良い国か A Governable Country?」他(『日本は「ただ乗り大国か」国際シンポジウム 日本の主張’81』所収, 1981)
「ブキャナン教授に聞く ―― 米産業界にヤル気」(『日本経済新聞』所収, 1981-3-19)
「レーガン政権の新経済政策 ―― 減税は赤字財政拡大の懸念 ―― 大幅な歳出削減は当然 規制緩和で民間を刺激」(『日本経済新聞 経済教室』所収, 1981-4-4) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「レーガン政権の新経済政策 ―― カギ握る減税案の成否 ―― 景気の足引っ張る議会との妥協」(『日本経済研究センター会報』所収, 1981-4-15) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「財政赤字の諸問題」(『ファイナンス:財務省広報誌』17(3)(187) 所収, 1981-6)
「コスロフスキー「​資本主​義の倫理」に対す​るJ.M.ブキャナンの​論評」(P.コスロフスキー 著『資本主義の倫理』所収, 1982)
「政治とおせっかい好き」(R.D.トリソン 編『喫煙と社会 ―― よりバランスのとれた評価にむけて』所収, 1986)
「​人間と​国家」(『世​界経済』vol.42 ​No.1 所収,​ 1987-​1)
「ケインジ​アンの​愚​見」(『公​共選​択の研​究』No.​10 所収, 19​87)
「​再​生した政治​の経済理​論」(『​大​蔵​省​調​査月報』vol.77 ​No.6 所収,​ 1988-​6)
「経済インタビュー ブッシュのアメリカ ―― 歳出削減進みそう 為替が赤字調節機能担う」(『読売新聞』所収, 1988-11-10)
「カ​ルテル​・​提​携および​立​憲政治:探索的分析(講​演記​録)」(『公​共選​択の研​究』No.​13 所収, 19​89)
「組織化された人間社会の潜在力と限界」他(『第1回 ノーベル経済学賞日本フォーラム ― 21世紀への創造 ― 1988年』所収, 1989) ⇒ 1988年11月10日 読売新聞に抄訳記事あり
「ポスト社会主義の経済学」(J.D.ヘイ 編『フューチャー・オブ・エコノミックス ―― 21世紀への展望』所収, 1992)
「経済学の勝利 ―― フクヤマ論文は間違っているか もしそうならそれはなぜか」(『会計検査研究』第7号 所収, 1993-3)
「《​対​談》「​分配政治」​への​絶​縁​状(w/ 西​山​千明)」(『月刊 正​論』​250号 所収, 1​993-6)
「レントシーキングと利潤追求」, 「外部不経済下でのレントシーキング」, 「レントシーキング社会における改革」(R.D.トリソン, R.D.コングレトン 編『レントシーキングの経済理論』所収, 1995)
「米のノーベル賞経済学者 ブキャナン氏に聞く ―― 財政赤字削減「米合意、意義ない」 日本の財政・金融分離 予測しやすい政策を」(『日本経済新聞』所収, 1997-9-2)
「ジェームズ・M・ブキャナン教授(ノーベル経済学賞受賞者)に聞く ―― 財政均衡化へ向け米国憲法を改正せよ」(『週刊東洋経済』1997年9月27日号 所収, 1997)
「小手先でなく抜本的改革こそ正道 ―― 日本もシステム全体の変革で「取引」の余地なくせ」(『日経ビジネス』2002年1月28日号 所収, 2002)
- その他
「欧州連邦憲法制定の好機 ―― アメリカ史からの教訓」(『世界経済 Journal of World Economy』vol.45 No.13, 1990-11) ⇒ 要約
「はだかの経済学者」(ブログ『himaginary's diary』, 2010年2月11日)⇒ 一部訳
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hangorin · 1 year ago
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オンライン集会「パリ五輪まであと一か月!カウンターマップで知るフランスの五輪災害」報告
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6月23日、さっぽろオリパラを考える市民の会と反五輪の会共催によるオンライン集会「パリ五輪まであと一か月!カウンターマップで知るフランスの五輪災害」が行われた。
フランスで反五輪運動を展開するSaccage2024が、パリ五輪カウンターマップ「パリ オリンピック・パラリンピック略奪マップ2024 パーティーは終わりだ」を作製。その迫力と情報量、状況分析の鋭さは圧巻だ。日本語版が完成し、Saccage2024のメンバーでパリ在住の佐々木夏子さんが、地図をもとに、パリ五輪に連動して容赦なく進められた都市再編、ジェントリフィケーション、強引な排除、それに対する住民の抵抗、そして現在について報告してくれた。
6月23日をIOCは創設記念日、「オリンピックデー」と名付けている。私たちは「NOオリンピックデー」と呼び、植民地主義、国家主義、競争主義、エリート主義、人種主義、性差別主義、軍事主義の祭典は廃止しろ!、と訴える。
・カウンターマップ
パリ五輪カウンターマップ「パリ オリンピック・パラリンピック略奪マップ2024 パーティーは終わりだ」に先駆け、2010年代、ブルターニュ地方ノートルダム・デ・ランドの空港建設に反対し、地元農民と連帯しながら建設予定地を占拠することによって計画を撤回に追い込んだZAD(守るべき土地)が作ったマップ、その成功があった。これを手がけたアーチス��、地理学者グループが、今回パリ五輪による破壊と強奪の記録、可視化を提案したのだそう。初版は完売、現在二刷目とのこと。
・サン=ドニ
お話は、地図を読み解く前に、パリ五輪の主要な会場、関連施設が集中する、サン=ドニ市周辺の現代史から。1967年、ジャン=リュック・ゴダール「彼女について私が知っている二、三の事柄」、1991年、サン=ドニ出身の移民二世世代ヒップホップユニットSuprême NTMのMV、2015年、サン=ドニ出身女性3人組L.E.JのMV、この3つの映像を手がかりに見ていく。
まず、「彼女について私が知っている二、三の事柄」、「彼女」とはパリ首都圏を指す。パリ首都圏は高度成長期、建設現場や工場の労働者として、旧植民地からたくさんの移民を呼び入れたが、その居住先として巨大な低家賃集合住宅をパリ郊外に作った。登場人物の後ろ、窓の外に広がる景色は、建物にはまだ人のざわめきが感じられない、殺伐としている。誰がどこにどのように住むべきかをコントロールしようとする政策、それは資本と統治の側の都合であって、住民を人として尊重するものでないことが伝わる。
そして約四半世紀がすぎ、高度成長終焉後の都市は、産業構造の変革、脱工業化へと向かう。工場は撤退、団地の若者に仕事がなかった。当時の若者文化を代表するというNTMのラップは、活気の失われた団地を背景に、若者たちの不満が張り裂けている。
2015年、「セーヌ=サン=ドニ・スタイル」と題したNTMの楽曲をカバーするL.E.J、彼女たちも何かに怒っている。その後ろにスタッド・ド・フランスが、映っている。サン=ドニといえばスタッド・ド・フランス。2024パリ五輪のメインスタジアムとなる、この巨大スタジアムは、最も貧しい自治体の常連だったサン=ドニ市が衰退に歯止めをかけるべく、ワールドカップサッカー大会開催のために19915年に誘致した。1998年ワールドカップサッカーフランス大会の決勝戦がここで行われ、フランスが優勝を決めた。当時のフランス代表チームが、さまざまな地域にルーツを持つメンバーによって構成されていたことから、多民族国家フランス「国民」統合の象徴的な場所として、人びとの記憶に刻印される。スタッド・ド・フランス誘致にともなうジェントリフィケーションは、1930年代以降労働者の街サン=ドニ市の政権を握って来た共産党にとって、自らの支持基盤である労働者階級の排除という自滅の道であり、その帰結として、2020年にその地位を失った。
・グラン・パリと五輪
一方、2009年には、パリ首都圏再開発プロジェクトとして当時361億ユーロ(のち2020年に420億ユーロ)という巨額の予算をつぎ込むグラン・パリ・エクスプレス計画が、サルコジ大統領により発表される。パリ郊外を全自動地下鉄新路線でつなぐもので、そのうちの4路線が乗り入れる最重要ハブとして新しくサン=ドニ・プレイエル駅がスタッド・ド・フランス近くに作られた。一日25万人が利用するという、地上5階地下4階の巨大駅は、東京の新国立競技場と同じ建築家隈研吾が設計した。パリ五輪までに完成を急がされたグラン・パリ・エクスプレス工事で5人、その中でサン=ドニ・プレイエル駅工事では4人の労働者が死亡している。
この駅の名前にもなっているプレイエルとは、ピアノ製造メーカーの名で、その工場がこの地区にあった。工場はすでにない。70年代、プレイエルタワーというオフィスビルができていたが、長年ほったらかしになっていた。これが今回五輪を機に4つ星ホテルに生まれ変わった。この周辺は大商業地区になる予定だ。
駅から徒歩圏内、サン=ドニ市、リル=サン=ドニ市、サン=トゥアン市にまたがる56ヘクタールに作られたのがパリ五輪選手村だ。3つの学校、19の企業、2つの集合住宅、1つのホテルが取り壊された。サン=トゥアンには非営利組織ADEFの運営する、経済的に苦しい単身者向け寮があり、1980年代からサハラ以南や北アフリカからの移民労働者が暮らしてきた。ほかに行くところのない居住者たちは、選手村かその周辺に皆がまとまって移住できないか当局と交渉したが、急き立てられ224人がバラバラに追い出された。オリパラ閉会後には6000人の就業が見込まれるホテル、オフィス、商業施設と6000人か入居できる2800の住居、学生寮となる。平均約4000ユーロ/㎡だったこの周辺の地価は、約7000ユーロ/㎡に上昇した(パリ市内約1万ユーロ/㎡)。
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また、ここには内務省が移転し、その職員たちが居住することになる。以前から「治安が悪い」と言われてきたこの地域に、警察���管轄する省がやってきて、そこに働く労働者と家族が居住することで、「住民の入れ替え」が図られている。
さらに、その南には国家治安総局(軍)がパリ西郊から引っ越してくる。軍と警察の街なんて、コワくて住みたくないが、高所得者にとってはむしろ「安心」なのだろうか?
選手村の北、リル=サン=ドニ市には工場跡地が多く残り、そこを占拠する形で約400人が住んでいた(スクワット)が、それらは2023年初頭に取り壊された。
選手村とスタッド・ド・フランスを結ぶ交通の便をよくするために、IOCが高速道路の新しいインターチェンジを作るよう要望し、完成した。その結果、交通量の多い道路が小学校を取り囲んでしまった。怒った保護者らが反対の裁判闘争を展開したが敗北。近くにもともとあるスタッド・ド・フランス近くのインターチェンジは、五輪終了後に壊される。なぜ近くにあるのにわざわざ新しくインターチェンジを作り、古いほうを壊すのかと言うと、スタッド・ド・フランス近くのインターチェンジ付近はすでにジェントリフィケーションが進んでいて地価が高く、インターチェンジにしておくのはもったいない、今後オフィスビルを建て商業地区としてさらに発展させるほうが価値があるという考えたのだ。
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その東、ラ・クールヌーヴ市ジョルジュ・ヴァルボン公園すぐそばにはメディア村が作られる。この公園はEU指定の自然保護区域である。2010年代にここを住宅にする計画が上がった際はそれが理由で実現しなかった。今回は、反対運動の裁判が敗北。五輪後には1300戸の住宅が売りに出される。パリ五輪取材に訪れるジャーナリストは2万人と言われるが、ここに収容できるのはわずか1300人だ。五輪よりも、五輪後のほうがほんとうの目的なのだろう。県は70ユーロ/㎡で払い下げ、新しい住宅は5000ユーロ/㎡で売られる。
その南、オーベルヴィリエには選手の練習用プールが作られ、そのサンルームを設置するために、100年以上の歴史のある労働者の菜園、ヴェルチュ労働者菜園が破壊された。パリはすでに3度、1992年、2008年、2012年招致に立候補したが、21世紀に入るとそのたびにオーベルヴィリエ市は関連施設を誘致しようとした。2008年はこの土地を使って自転車競技場を作ることが持ち上がっていた。今回とうとうパリ五輪が開催される事態を前に、2021年春から、菜園を守るために、菜園利用者、環境団体、五輪に反対する人が集まり、占拠闘争を始めた。しかし9月にはブルドーザーにより破壊されてしまった。反対派は裁判闘争の結果、勝利し、サンルーム建設は撤回されている。ここを再緑地化することも可能であったが、一か月前、ここにコンクリートを入れて都市化する計画が持ち上がった。佐々木さんはその反対集会に、この報告会の後、駆けつけるとのことだ。オリパラは、招致が実現しなくても、招致ファイルにあがった建設計画が実行されることもある。1992年、2008年、2012年パリ大会の選手村建設予定地の開発がそうだった。東京も同様であった。オリパラを招致する狙いは開発に拍車をかけることだが、オリパラが来なくても一度計画された開発の多くは止まらない。
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パリ五輪を前に、現在2030年冬季五輪開催がフレンチアルプスにほぼ内定している。今回はIOCが札幌に見切りをつけた理由は、直接的には東京五輪の汚職が明らかになったことだが、2023年札幌市長選挙により、五輪招致反対の意思が数値としてはっきり示されたことが大きかっただろう。2030年開催地は、ストックホルムやスイスなどが名乗りを挙げてはいるが、ストックホルムは政治家の支援がないこと、スイスは直接民主制の国であるため、開催や招致にあたって住民投票が行われるであろうこと、そのうえで「住民投票は実施しない」と明言したフランスの政治状況を考えれば、フレンチアルプス開催の確率は高い。
6月23日現在、7月7日に国民議会選挙を控え、フランスは混とん状態。今、人びとは極右政権が誕生するのではないか、そのことでいっぱいで、五輪どころではないのが実情。(開票の結果、極右政権は阻止され、新人民戦線が勝利したが、先行きはなお混とん。)
・質疑応答
参加者:札幌の招致が止まってよかった。一方東京では、都の48億500万円をかけたプロジェクションマッピング事業で、オリパラ汚職で入札停止を食らっているはずの電通の100%子会社が受託を受けている。
佐々木さん:電通問題で言えば、パリ大会では組織委のナンバー2にエチエンヌ・トボワという人物がいる。彼の運営するコンサル会社は東京五輪招致に尽力したため、東京都から100万ユーロ支払いを受けている。この成功のために彼は仏スポーツ界の中で出世し、組織委のナンバー2に収まった。トボワの作ったコンサル会社は2017年に電通の100パーセント子会社になった。高橋(電通)同様、このような悪い人脈に通じた人物なしに五輪は成立しない。
参加者:東京大会では開催直前になって、街中が怒り、たくさんの抗議行動が行われた。無観客だったので、交通規制は選手と関係者の移動にかかわるだけに限られたが、それでも会場周辺の住民生活は大きく規制を受けた。パリの住民のかたたちの現在の様子は?
佐々木さん:コンコルド広場、エッフェル塔付近など、テレビ映えする交通の要所が仮設会場になり、道路が閉鎖されている。交通はメチャクチャ、住民の通行にはQRコードを提示させられるなど、不満は高まっている。オリンピックに関心ないという人が優勢な中でも、いろんな側面から反対の声を上げるという動きが生まれている。ただ、それらが一緒になれていない。かつ、今は選挙でそれどころではない。労働組合の元トップが組織委の中枢に入ってもいるが、末端の組合員は五輪に反対している。開催期間中にストライキをすると予告している。もちろん予告しても実行しないということはあるが、もしファシスト政権が誕生したら実行するであろう。あるいはオリンピックという世界の注目を集める環境で、ファシスト政権の顔に泥を塗る行動をするであろう。
参加者:戦争のただなかで行われるオリンピック。環境の問題、不正、汚職、人権侵害いろいろ問題あるが、今はともかく、五輪に使うおカネとエネルギーを使って戦争を、ガザの惨状を止めてほしい。
佐々木さん:戦闘の続く中、「平和の祭典」と言っていられるのか?オリンピック期間中は休戦という建前を持っているが、ウクライナもガザも止められないかぎり、「平和の祭典」の看板は降ろしたほうがいい。
参加者:スクワットしている人たち、ホームレスの人たち、移民難民の人たちが何千人単位で郊外に追い出されていると聞いたが具体的には?
佐々木さん:これは、「パリの野宿者が郊外に」ではなく、「パリ首都圏の野宿や難民のかたたちが地方に」追いやられているという状況。NGO世界の医療団が中心となっている「メダルの裏側」というキャンペーンによる報告では、12545人が排除された。
参加者:札幌ではオール与党が五輪推進、共産党と市民ネットが反対の立場を取った。人々追い出してまでの開催なのに、推進するフランス共産党はパリの将来をどう考えているのか?
佐々木さん:まず、パリは共産党と社会党が与党、パリ郊外は左翼がより強い。その左翼与党が推進する五輪に右翼も賛同、という構造。フランス共産党がどのような将来像を持っているか分析しきれていないが、フランス共産党がほかのどの政党よりもオリンピックを愛しているという話を7月に刊行する本『パリと五輪:空転するメガイベントの「レガシー」』(以文社)に書いたのでぜひ読んでください。簡単に言うと、1930年代まではフランス共産党はオリンピックとIOCに反対していたのに、1950年代、スターリンがIOCに参加を決めて以来、賛成に転換、以後方針を変えることないまま現在に至っている。
参加者28名。パリは今どうなってるんだろう?日本のマスコミからの情報では全くわからない中、パリ五輪開催にかかわる歴史や経緯から現在のなまの様子までがわかる貴重なお話をお聞きすることができました。とても充実した、内容の濃い集会となりました。6月26日には国際連帯声明が出される予定で、各地の参加者から賛同したいとの声があがりました。 佐々木さん、みなさま、ありがとうございました。
関連記事 五輪のための「弱者の追い出し」がパリでも…華やかな祭典では隠しきれない「五輪災害」「負の遺産」の存在(東京新聞)
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toshimasa-kobayashi · 3 months ago
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ドストエフスキー、エブリデイ
「罪と罰」を毎日読んでいる。ドストエフスキー、エブリデイ。日々頁を進めているから、もうそろそろ結末を迎えそうなところ。読んだことのある人なら知ってのとおり、これは結構とんでもない本で。19世紀のロシアでこれが書かれた。これを書いた者がおり、彼にはこれを書かねばならない理由があった。その事実にただ驚愕してしまう。とはいえ本稿は、この小説の内容についてではないのよ。
これまであまり小説を読まないできた。文章で書かれたフィクションを楽しめない体質とでもいうか。風景や人物、それらの成り行きが書き手によって説明されるわけだが、なんだか乗り切れない。誰かの夢の話を聞くときのような白々しさがある。物語の描写には、時に寓意が含まれたりもする。それもまたなんだか寒々しく。ずっと違和感があった。
そんな自分がここのところ小説づいている。どうせ読むならばと、名の知れた名作を選んで読んでいる。ドストエフスキーとか、カフカとか。先日はゴンブローヴィッチを読んだ。世界文学の古典とされるものには、ごろりとした手触りがある。あまり手に馴染まないこの感触が重要で、国も時代も異なるどこかで、見知らぬ他人が長々とこのような数奇な言葉を書き綴ったということ。まずもってその事実に打たれる。長い物語を記す行為は、程度の差はあれ、強迫観念に基づいていると思う。そうした類のエンジンがなければ、とても成せないだろう。あるいは強迫観念なのか、スピリチュアルなのか、霊感なのか。ともかく彼らはそれに従って書き続けた。なんということか。感動する。彼らの天才は名人芸でありつつ、しかし他のどんな形式とも異なっている。彼らは小さな書斎でそれを生み出した。
作品に独自の形式を与えるのは相当に難しい。鉄の意志か、まったくの無我か、ことによるとその両方が必要になる。自分ひとりのやり口でやっていては無理で、わたしが別のわたしを産み直し、それに書かせる必要がある。ここでの”母胎が子を産む”との比喩は、本来芸術には該当しないだろう。そこでは計り知れない無形が生み出されているのだから。形のないもの。価値の定まらないもの。無法なもの。しかしそれらが独自の形式を成すもの。ドストエフスキーもカフカも、そうやって書いたんだなあ。機械と化して、それを生産した。
変わることのない絶対の普遍を求めるなら、やがてその普遍は人間を平らにならしてしまうだろう。そんな場所で巨大なスクリーンを掲げ、上映をはじめること。普遍は平らな水平で、スクリーンはそれと垂直をなす。そこには対立がある。(いったいなんのこと?)誰にも意味の分からないものを書きながら、しかしその意味を知るただひとりの例外であると作者自身が自負してみせる。それが芸術の原理だ。知らんけど。
戦争が悪であるとか、社会が公正であるべきとかは、その意味で芸術ではない。それは法や倫理の問題ではあるにせよ、芸術ではない。それは追���されるべき議題だし、そもそもそうした法や倫理によって、わたしの生存は担保されてもいる。しかしそうした法や倫理の普遍を揺さぶってしまうものとして、例えばドストエフスキーの小説がある。
おっと。主語を小さくしなければ。毎朝欠かさずヨーグルトを食べる。余裕があるときには、冷���ごはんをチンして、納豆と目玉焼きを乗せて食べる。台所で立ったまま、ご飯茶碗から納豆玉子メシをザブザブかっこむ中年の自分。とても人様には見せられないそんな自分を、ふと客体として鑑みたときに感じたこと。身体や精神には決して公にできないあられもなさがある。人間は根本的には法外なものなのかもしれない。
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dainanagekijo · 1 year ago
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ヘッダ・ガーブレル Hedda Gabler
じゃ、私にできることは、何もないのね。
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彼女はなぜ原稿を燃やし、銃の引き金に指をかけたのか——。
自分の生と自己についての実感を求めて、空虚の中で心を圧された女性「ヘッダ」。生きている価値、妻であることやパートナーの意味や意義、ひとりの人間として必要な承認をめぐる、生が自己を求める切実さを描く物語。
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開演日時: 2024年8月31日(土) 14:00・18:00 / 9月1日(日)14:00 ※各回終演後に演出家によるトークセッションを実施予定 ※受付開始は開演の45分前、開場は30分前 ※上演時間は100分を予定
託児サービスあり(先着順・有料) 9月1日の回が対象。公演2週間前までに要申込。 (三重県文化会館 TEL059-233-1122)
英字プログラムあり
会場: 三重県文化会館 小ホール(三重県津市一身田上津部田1234) ※三重県文化会館へのアクセス
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原作:ヘンリック・イプセン 構成・演出・美術:鳴海康平
出演: 木母千尋、三浦真樹 諏訪七海、桑折 現 山形龍平、梨香
舞台監督:北方こだち 照明デザイン:島田雄峰(LST) 音響:平岡希樹(有限会社 現場サイド) 照明操作:前田遥音 衣装:小野花弥 肖像画製作:永村清華 フライヤービジュアル撮影:松原豊 フライヤーレイアウト:橋本デザイン室 アダプテーション:鳴海康平
フライヤー撮影協力:Bon Vivant(三重県伊勢市本町20-24)
※原千代海訳、毛利三彌訳、福田恆存訳、 Deborah Dawkin and Erik Skuggevik 英訳、 Terje Sinding 仏訳を参考にさせていただき、上演台本を作成しています。
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料金:(全席指定) 一般前売 2,500円(当日 3,000円) 22歳以下 1,000円(前売・当日とも)
チケット取り扱い(チケット発売日:6月29日10:00)
▋三重県文化会館 チケットカウンター(窓口・電話) tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) WEBチケットサービス「エムズネット」 https://p-ticket.jp/center-mie/
▋第七劇場(予約のみ) https://www.quartet-online.net/ticket/hedda24
※未就学児の入場不可 ※22歳以下チケットでご入場の際は、年齢の確認できる証明書のご提示をお願いいたします。
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三重県文化会館 公演情報ページ https://www.center-mie.or.jp/bunka/event/detail/48724
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関連企画
「ヘッダ・ガーブレル」を読んでみよう
演出家・鳴海のナビゲートで、実際の上演台本を使った読み会を開催します。みなさんで声に出して読みすすめながら、作品を紐解いてみましょう。
日時:8月12日(月・祝)14:00〜16:00 会場:三重県総合文化センター 生涯学習センター棟 2階 まなびラボ 参加料:1,000円
事前申込制(先着)
参加料は当日精算
定員 15名
申し込み受付は6/29(土)〜8/3(土)※必着
お申し込み・お問い合わせ
tel: 059-233-1122 窓口:三重県文化会館 チケットカウンター  10:00〜17:00/月曜休館(祝日の場合は翌平日休館) 申込URL: https://www.center-mie.or.jp/bunka/
※未就学児のご参加はご遠慮ください。 ※筆記用具をご持参ください。 ※定員に達し次第、受付終了となります。
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ヘッダ・ガーブレル
1891年、ミュンヘンで初演。研究者の夫テスマンとの関係に息苦しさを感じている妻ヘッダは、退��な日々と、身近な生気に溢れた人たちに苛立ちを覚える。テスマンの研究者としてのライバルでありヘッダの元恋人レェーヴボルクの死、ヘッダの古い友人テアとテスマンの研究上の意気投合、レェーヴボルクの死に関する判事の思惑が交錯し、嫉妬と羨望と絶望が高まる中でヘッダは、自身の行動で自らを追い込み自殺してしまう。
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ヘンリック・イプセン(1828〜1906)
ノルウェー出身の劇作家・詩人。「近代演劇の父」と呼ばれる演劇史上の巨人。シェイクスピア、チェーホフと並び、現在でも世界中で盛んに上演される。19世紀当時一般的だった勧善懲悪の物語や歴史上の偉人が登場する大作から離れ、個人の生活や現実の社会の課題などを題材に戯曲を執筆。
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第七劇場
1999年、演出家・鳴海康平を中心に設立。主に既成戯曲を上演し、言葉の物語のみに頼らず舞台美術や俳優の身体とともに多層的に作用する空間的なドラマが評価される。国内外のフェスティバルなどに招待され、これまで国内25都市、海外5ヶ国11都市(フランス・ドイツ・ポーランド・韓国・台湾)で作品を上演。代表・鳴海がポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間滞仏後、2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。2014年、東京から三重県津市美里町に拠点を移設し、倉庫を改装した新劇場 Théâtre de Bellevilleのレジデントカンパニーとなる。 https://dainanagekijo.org
写真「三人姉妹」2023・三重県文化会館 ©松原豊
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鳴海康平
第七劇場、代表・演出家。Théâtre de Belleville、芸術監督。1979年北海道紋別市生まれ。三重県津市在住。早稲田大学在籍中の1999年に劇団を設立。「風景」によるドラマを舞台作品として構成。国境を越えることができるプロダクションをポリシーに製作し、ストーリーや言語だけに頼らないドラマ性が海外で高く評価される。ポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間渡仏し活動。帰国後2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。AAF戯曲賞審査員(愛知県芸術劇場主催 2015〜)。名古屋芸術大学芸術学部舞台芸術領域准教授(2021〜)。
写真 ©松原豊
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主催:三重県文化会館[指定管理者:公益財団法人三重県文化振興事業団] 共催:レディオキューブFM三重 助成:公益財団法人岡田文化財団  文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業(地域の中核劇場・音楽堂等活性化事業))  独立行政法人日本芸術文化振興会 特別協力:名古屋芸術大学
製作:合同会社 第七劇場
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お問い合わせ: 三重県文化会館 tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) 第七劇場 [email protected]
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kachoushi · 1 year ago
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各地句会報
花鳥誌 令和6年7月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年4月4日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
受験の子送りてしばし黙す父母 喜代子 うつうつも待つこと楽し花便り さとみ 初桜幾歳月や句座の道 都 野遊びのノスタルジーを胸に秘め 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
野遊の一人は高きハイヒール はるか 春愁の長き耳垂れ犬来たる 光子 譲ること大嫌ひなの半仙戯 同 ボール蹴る子に一瞬の花吹雪 美紀 ぶらんこを替つてくれず漕ぐばかり 瑠璃 花いつもさびしきところより散りぬ 緋路 大使笑ふ南麻布の花の昼 佑天 花冷のベンチに花冷のお尻 緋路 群青の絵の具は春の水に溶け 同 教会の桜は透けるほど白く 小鳥
岡田順子選 特選句
花に息ととのへてゐる太極拳 光子 鞦韆の蹴り寄せてゐる桜色 三郎 純白の肌着吊られて花曇 同 皆遠き目をしてをれば桜かな 和子 花いつもさびしきところより散りぬ 緋路 子の声は残響となり連翹黄 同 花は散るべしと笛吹く裸体像 俊樹 春の野の児らしか知らぬものがたり 軽象 花すみれ遠くの空に戦闘機 美紀 春光の鳩はみどりの首見せに きみよ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
夕日落つ別離の駅の古巣かな 朝子 冴返る齢八十骨の音 成子 仔犬抱き遅日の船を見送りぬ かおり 菜の花や千の􄼫棺より生るる 睦子 枝枝に声転がせて鳥交る たかし いつせいに揺るゝ吊革鳥帰る かおり 煙草屋は古巣残して店仕舞ひ 久美子 陽炎の消えて居座る陰陽師 美穂 地に古巣天に野鳥の窓があり 修二 我先に舫ひ綱解き鰆東風 たかし 朧月十二単衣に逢へさうな 同 しつけ糸解くおぼろ夜の京友禅 美穂 待つといふうれしさ人も桜にも 孝子 永遠の未完でありぬ桜かな たかし
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月8日 なかみち句会
春の海ばかりの駅に途中下車 秋尚 つれづれに雨音聞いて日永かな 廸子 鎌倉や角曲がるたび春の海 三無 石楠花や参道狭し奥の宮 史空 お別れの日に石楠花の紅の濃く 貴薫 また元の話に戻る母日永 美貴 小刻みにきらめく春の海まどか のりこ 寺領にも石楠花紅く小糠雨 ます江 ………………………………………………………………
令和6年4月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
娘良し妻さらに良し春日傘 三四郎 母の忌を迎へし朝の春の雪 ただし 風光る千年超えし物語 みす枝 春浅し耳朶柔らかなイヤリング 世詩明 天空へ光を返す白木蓮 三四郎 愛猫に愚痴こぼしをり四月馬鹿 みす枝 初蝶の二つ行先定まらず 英美子 貝の紐噛んでひとりの春炬燵 昭子 ほろ酔ひを名妓支へて大石忌 同 校庭の鉄棒に触れ卒業す 時江 薔薇一本くれる夫ではなけれども 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月9日 萩花鳥会
春一番濁りし川の鯉めざめ 祐子 春愁の情緒一新晴衣着る 健雄 春の宵椿徳利の矢の根寿司 俊文 四月空総出で迎える娘の帰国 ゆかり 遊覧の舟に続くや花筏 明子 教科書に漢字で名前進級す 美恵子 ………………………………………………………………
令和6年4月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
山笑ふ札所巡りに􄼺の急き 宇太郎 一歩づつ眼下となつてゆく桜 美智子 渡船場に飯蛸釣りて島土産 宇太郎 桃咲いて捨て犬たちの誕生日 都 杖を曳き混じりて遊ぶ花筵 悦子 囀を総て抱へてゐる大樹 史子 初燕無音の青を切り分けて 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
としあつ忌修す爛漫卓の上 百合子 信濃路は薄紅に花杏 和代 里は今杏の花に溺れたる 白陶 想ひ出のとしあつ談義飛花落花 亜栄子 竹秋の風を聞かむと句碑に佇ち 三無 白寿なる母満開の花と散る 多美女 句碑古りて若さ溢るる花楓 文英 雨上り杏の花の山家かな 幸風 ふんはりと包みたる香の花通草 秋尚 白き卓都忘れの彩映えて 恭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
対岸に人の流れてゆく花見 あけみ 軽貨物春の泥付け走る町 紀子 犬ふぐり自転車の子は風のやう 裕子 烏ども引き連れてゐる田打ちかな 紀子 障子開け全て我が世の花見なり みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月13日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
余生をば貪る朝寝でありにけり かづを 一穢なき姿のままの落椿 同 落ちてなほ華やぎ続けゐる椿 同 春風に仰ぎて凜と左内像 同 板木打つ仕草秘かに春そこに 和子 朝寝して咎める人も無き自在 泰俊 春愁や錆びし火の見の鉄梯子 同 蛇穴を出づと云ふ世の一大事 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
咲き満ちし花に静けきある古刹 かづを 芽柳に縁なる風棲み初めし 同 沈丁の闇をつないでゆく香り 同 九頭竜に吐息とも見る春の雲 同 此の花に幾春秋を共にせし 雪 花を見に一人で行ける所まで 同 春休み児ら自転車で飛び廻る 富子 鴬のしきりに啼く日啼かざる日 英美子 川幅を歪めて流る花筏 真喜栄 夜ざくらやいつも􄼴打つ寡婦暮し 世詩明 筍や十二単の皮を剥ぐ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月17日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
哀愁の容姿あらはに紫木蓮 数幸 徐に白を極めて花水木 千加江 流されて留まり忘る花筏 同 春場所やふるさと力士負け多し 令子 唐門の昔を語る桜かな 啓子 紫の夜空の中に桜散る 同 二人で見いつしか一人花の道 希子 仮の世にしては見事な花吹雪 泰俊 無住寺は無住寺のまま桜咲く 同 愛子忌やせめて初蝶見たること 雪 落椿踏まるるをもて瞑すべし 同 和尚来たかと散る花に酌まるるや 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月19日 さきたま花鳥句会
たまゆらの時を浮遊し石鹸玉 月惑 春愁や己を鼓舞し逝く句友 八草 花篝名残りの片のうらおもて 裕章 脱ぎ捨てし靴下にある花疲 紀花 掛茶屋へたどりつきたる花疲 孝江 花吹雪渋沢像の頭に肩に ふゆ子 腰痛の愚痴ふき飛ばす芝桜 としゑ 楤の芽の口にひろごる大地の香 康子 春炬燵夫の座椅子のたばこ臭 恵美子 藤棚の真中を風の通り抜け みのり 待ちかねた早朝よりの花見客 彩香 十字架の隣に読経山笑ふ 良江
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令和6年4月21日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
メタセコイアむんずと掴む春の雲 三無 今日も来て舞ひを見せたる春の蝶 ます江 佐保姫を見送る空の雲白く 軽象 蒲公英の真白き絮は飛ばず揺れ ます江 一山をより高くみせ桐の花 斉 僧一人花韮咲かす露地に消ゆ 久子 牡丹の重たく崩れかけてをり 秋尚 桜蘂降つて大地に横たはる 斉 春草の足裏くすぐる田圃道 経彦 観音の御手のやさしく著莪の花 芙佐子 ゆつくりと翅を広げて蝶生まる 斉
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年4月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
昨夜爪を切りたる指に草を引く 雪 十一面千手千眼像朧 同 瞑すべし柏翠踏みし落椿 同 この椿もんどり打つて落ちたるか 同 初蝶や昨日は森田愛子の忌 同 不器用を誰憚からず針供養 同 春愁や文箱に封じたる手紙 同 春愁や此の髪に手を置きし人 同 昭和人昔語らず花の下 昭子 本気度を探るお見合亀鳴けり 同 久々に手に取る修司五月来る 同 しなやかにそしてしたたか単帯 同
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ari0921 · 4 months ago
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『カッサンドラの日記』21 黒船はなぜ現れたのか?―クリミア戦争と太平洋 (※長文注意)
橋本由美子
2024.04.05
クリミア戦争
 クリミア戦争と聞いて、日本人はすぐにナイチンゲールを連想するが、それ以外に何を思い浮かべるだろうか? ウクライナ戦争勃発以後、「クリミア」についての情報は豊富になった。しかし、日本では以前にはあまり話題にならない地域だったと思う。クリミア戦争は、当時のヨーロッパから中東にかけての大きな異変であり、この国際関係の大波乱の余波は日本にも及んだ。ペリーを招いたのはクリミア戦争だったとさえ言えるかもしれない。
 クリミア戦争(1854-56)の背景には、オスマン・トルコ帝国の衰退が引き起こしたヨーロッパ諸国の動きがある。巨大な帝国が衰退期に入ると、帝国内の諸民族の独立意識やそれに伴う宗教宗派の対立が顕在化する。当時のトルコ帝国は、バルカン半島からシリア、エジプトに至る広大な領土を持っていたが、モンテネグロ、ボスニア、ヘルツェゴビナ、アルバニアなどの地域で、キリスト教徒・イスラム教徒・ロシア正教徒などの対立が起こり、周辺のヨーロッパ各国を巻き込んで複雑で不穏な情勢になっていた。ナポレオン3世が聖地エルサレムの管理権を認めさせるというスタンドプレーもあって、ロシアは、トルコ帝国内のスラブ系の住民の安全と財産の保護を口実にドナウ河畔に軍隊を進める(いつも同じ口実ですね)。セバストポリの黒海艦隊が戦闘準備態勢に入り、ドナウ河畔で対峙していたロシア軍とトルコ軍が互いに宣戦布告して、ついに開戦となったのは1853年の11月である。
 1854年、英仏がロシアの進出を阻むためにこの紛争に介入し、クリミア戦争が始まった。戦闘はクリミアだけでなく、バルカン半島やバルト海でも他国を巻き込みながら行われ、スウェーデンやオーストリア、プロイセンの思惑も絡んで欧州が対ロシアで動き出す。ロシア軍は英仏艦隊からセバストポリを護るために黒海艦隊を自沈させて海上を封鎖し、陸上では塹壕を掘って要塞化した。塹壕戦はまるで第一次大戦のリハーサルのようで、クリミアでの戦闘は長期化した。双方の戦死者は数十万と言われ、イギリス軍の負傷兵のためにナイチンゲールが戦地に赴くことになる。
 トルコ帝国内や中東地域の民族対立も複雑なら、どの時代も「欧州の天地は複雑怪奇」である。しかし、個々の複雑な様相を俯瞰的長期的に眺めれば、結局のところ、この戦いは、スエズ運河開通前の中央アジアを見据えた「黒海と地中海の制海権争い」だったと言える。南下するロシアに対して、それを阻止しようとする英仏の対決であり、特にイギリスは植民地インドとの連絡線をロシアによって断たれるわけにはいかなかった。トルコ周辺の海域は、ロシアにとっては南下政策の、英仏にとってはアジアの植民地に至る重要拠点だった。広い意味でのシーパワーとランドパワーの対立構図の延長にあり、第二次大戦後のトルコ帝国分割の際の支配権を巡って暗躍したのもこの国々である。
北太平洋
 ロシア軍と英仏軍の戦闘は、太平洋にも及んでいる。太平洋は、18世紀にジェームズ・クックやベーリングの航海でかなり地理的解明が進んでいた。高緯度の海域は気象条件の悪さでなかなか詳細がわからなかったが、ベーリングの航海により、ユーラシア大陸とアラスカが地続きではないとわかってからは、ロシアはカムチャッカからベーリング海峡を北へ進んで大西洋に抜ける航路を見つけようとしていた(北東航路)。イギリスも、喜望峰を回る長距離ルートではなく、アメリカ大陸の北岸から太平洋に出られる航路がないかを探していた(北西航路)。実際には北極海の氷に阻まれて航行は不可能だったが、此処を太平洋への出口とする現在の北極海航路の構想は古くからあった。
 英仏艦隊はカムチャッカの要塞を包囲して、3度にわたってロシアとの砲撃戦が繰り広げられた。特に19世紀になってからは、対馬をめぐる英露のシーレーン構想の対立があり、日本の近海にロシア船やイギリス船が頻繁に現れ、日本を取り込むために遭難の救助や薪炭の補給や開港を迫るようになっていて、幕府が異国船打払令を出すなど、この海域は騒々しくなっている。この頃の清は太平天国の動乱で揺れていた(1851-64)。イギリスは、アヘン戦争終結の南京条約で香港割譲とともに得た上海の権益をこの戦乱から守る必要もあって、イギリス中国艦隊の活動は制限されていた。何よりも、英露双方ともにクリミア戦争への対応で、太平洋に割ける余力は少なかったのだろう。
 しかし、ヨーロッパでは中国市場を含む東アジア地域と、そのルートである太平洋そのものへの関心は高まっていた。フランスも太平洋に進出していて、ポリネシア群島を植民地化して、ゴーギャンがタヒチに住むようになるのはこの世紀の終わりである。この頃の海軍力はイギリスを筆頭にフランス、ロシアが続いていた。ヨーロッパの海軍国がクリミア戦争に集中していたこのときが、アメリカにとっては、太平洋に進出する「絶好のチャンス」だった。アメリカの海軍力は、まだ彼らに及ばないものだったのである。後にペリーが長官となるアメリカの東インド派遣艦隊は、広東やインドシナ半島やフィリピンなどで商業活動をしていたアメリカ人が、アヘン問題で不穏な情勢下のこの海域でのアメリカ海軍の保護を要請したことで常設された。その任務は、いまの第七艦隊の担当海域に近い範囲をカバーするものだったらしい。
メキシコ戦争とカリフォルニア
 それより少し前、アメリカはメキシコとの戦争(1846-48)でアリゾナやニューメキシコやカリフォルニアを含む広大な領土を手に入れた。カリフォルニアには、サンフランシスコやサンディエゴという軍港として使える良港がある。17世紀からカリフォルニア沿岸はヨーロッパに知られていたが、港湾の価値がわかるのは船乗りだけで、西部開拓に東部から押し寄せる人々ではなかった。軍艦の建造に欠かせないオーク材が豊富な地域(オークランド)を背後に抱えるサンフランシスコ湾に目を付けた政治家は、アンドリュー・ジャクソン大統領(在1829-37)である。彼は、此処に捕鯨産業の基地を作るために、なんとしてもカリフォルニアをメキシコから獲得しなければならないと考えていた。当時、鯨を追いかけ回していたのはアングロサクソン系の人々である。鯨の脂肪は鯨油として精製され、機械の潤滑剤として欠かせない材料になり、抹香鯨の頭蓋から取れる脂肪は軟膏になった。油の搾り粕の鯨蝋からは上質の蝋燭が作られた。骨は女性のファッション用コルセットの材料になった。鯨油は1860年代に石油に取って替わられるまで重要な資源で、捕鯨業は主要産業のひとつであった。
 ペリーは、メキシコ戦争にミシシッピ号艦長兼メキシコ湾艦隊副司令官として参戦し、現地で総指揮官としての責任を引き継いでいる。クリッパー(快速帆船)全盛期の時代に、ミシシッピ号という蒸気推進艦の艦長になったことは、蒸気船を実践で使用する貴重な機会を得たことになる。また、メキシコ戦争終結後に造船監督官となったことは、英仏に後れを取っていた蒸気艦船についての知識や今後の海軍計画に有益だった。日本来航のときの旗艦サスケハナ号は蒸気外輪帆船で、風力と蒸気機関という複数の動力機構を持つハイブリット艦である。帆走によって長い航海での石炭の節約が可能で、且つ、スピードが必要な場合には蒸気機関に頼ることができた。
アメリカの意図  
 ポルトガルやオランダの情報から、日本が高度な文明を持つ国だということは各国の共通認識になっていて、どのような方法で開国させるかが課題になっていた。当時の日本近海の騒々しさは、なんとかこの国をこじ開けて貿易港を獲得し、シーレーンを獲得したいという英露の競い合いによるものであった。
 ペリー来航の目的は、捕鯨船の避難や補給のための寄港地と貿易のための開港を要求することだったと言われている。実際、捕鯨業界からの強い要求があり、当面の重要課題であったことは確かだろう。しかし、アメリカの意図は、捕鯨問題というよりも、もっと広大なものではなかったのか。日本派遣に際してペリーに与えられた権限は、殆ど白紙委任状と言えるほどの強大なものだった。アメリカ史上これだけ多くの権限を与えられた指揮官は、他にはダグラス・マッカーサーだけだったと言われている。そのために、航路や航海上の出来事や対日交渉が、どこまでが国家としての意思で、どこまでがペリーの個人的な裁量なのかはよくわからない。彼はホイッグ党のフィルモア大統領の親書を携えていたが、ペリー出発直前に大統領選挙の結果が判明して、次期大統領は民主党に代わることがわかっていた。ペリーは民主党支持者であった。大統領交代で反古になるような親書は、ペリーが作文したという見解もあるらしい。
 幕府の役人に、かつて経験のない「大統領からの親書」の真贋や隠された意図が、英語からオランダ語に翻訳されるという手数をかけて、どこまで正確に判断できたのか疑問を持つ研究者もいる。しかし、オランダからクリミア戦争の情報を得ていた幕府は、ペリーとの条約締結後、1854年10月にイギリスと、翌55年にはロシアとも条約を結んで、英露との間でバランスを取ろうとしたことからも、世界情勢をかなり理解していたと思われる。オランダは、日本との独占的な交易の継続が難しくなった状況を把握し、日英米にそれぞれ恩を売って、自国の権利を確保しようと動いていた。
 ペリーはノーフォークを出航してから、大西洋を横切り喜望峰を経由してアジアに入っている。途中、食糧や石炭の補給に寄港したのは、ケープタウンやコロンボ、シンガポール、香港などイギリス海軍の拠点やイギリスの勢力下にある諸港であった。イギリスが張り巡らせたシーレーンは海運業界を護るための軍港を兼ねている。ロシアと対立するイギリスは、アメリカを味方につけるために協力した。ロシアも、イギリスとの対抗上、アメリカと友好関係を結んでいた。両者がアメリカの日本来航を阻止しなかったのは、クリミアでの英露対立のためで、成り行きを観察していたと言える。
 その頃の東アジアにおけるイギリスの勢力範囲は上海までであった。アメリカはそこからカリフォルニアに至る太平洋の覇権を狙っていたと言えるのではないか。ただ、ユーラシア大陸に沿った海域とは異なり、太平洋は茫漠とした海原に島々が点在しているだけである。帆船から蒸気船への過渡期にあって、今後の石炭の補給港の確保は優先的な課題であったはずだ。広大な太平洋を航行するのに必要な石炭を満載すると、それだけで船倉に余地がなくなる。航海日数を減らすための大円航路は北寄りになって、補給港がない。まだハワイ併合以前のアメリカにとって、日本の港かその周辺の拠点は必須だった。太平洋に進出するには、競争相手になるイギリスとロシアがクリミア戦争で手が回らなくなっているこの時期が絶好の機会であった。
日本列島の地政学的価値と沖縄 
 ペリーは、日本遠征の発令があってから、実に周到な準備と研究をしている。彼はシーボルトが国禁を冒して入手した詳細で正確な日本地図を持っていた。『ペリー提督日本遠征記』の2割が出航前の日本研究であり、全体の約半分が江戸湾到着以前に関する記述である。とく���異常なまでの関心を持っていたのが琉球と小笠原諸島で、これらに関する記述が全体の3割を占める。アメリカに、中国市場や東アジアの海域でイギリスやロシアに先んじて自国の地位を確保しようという狙いがなかったはずはない。『ペリー提督日本遠征記』の原題が『Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan』であることからも、この航海が東アジアの海域全体を念頭に置いたものだったということがわかる。
 本国に送った書簡では、イギリスがボルネオ、シンガポール、香港の拠点を設けたことで他国が西から接近するのを完全に制圧できたことを挙げて、琉球に海軍基地を設けることでイギリスの極東勢力に拮抗できると報告している。1952年8月のペリーから海軍長官に宛てた機密文書には「琉球は米軍艦隊や商船の避難基地としたい。そのために自分は琉球をアメリカの影響下に置き、アメリカのために貯炭所を確保した」という報告がある。また、国務長官から海軍長官宛ての書簡には、日本列島のいずれかに貯炭所を新設することや、それが不可能な場合には、日本の近辺の「無人島」でもよいということが書かれている。敢えて無人島を持ち出しているのは、所有者のない島の「先占」の権利を意識したもので、この海域にアメリカの国益に叶う拠点を是が非でも設けたいという強い意志が窺われる。
 ペリーは、琉球の帰属についても観察していて、清に朝貢していても、民族・言語・文化習慣・道徳などは日本に属するものだと結論付けていたようだ。しかし、清に帰属しているか、日本に属しているか、独立国家なのかを問わず、この島に自国の拠点を設けようという意思は固かったようである。帰属を調査したのは獲得のための作戦上のことであって、帰属の���何に拘らず、此処に何らかの形で自国に有利な軍事拠点を設けることは、来航する以前からの決定事項であったようだ。1853年7月、浦賀で日本側に大統領の書簡を渡した後、ペリーは幕府に与えた猶予期間を沖縄周辺海域の測量に当てている。さらに上陸して島内をくまなく巡って調査し、那覇港はとくに気に入ったようだ。翌1854年3月に再び日本を訪れたペリーは、神奈川条約(日米和親条約)に署名したのち、下田、函館の視察を経て、最後にまた沖縄に戻り7月まで滞在している。
近代戦への転機としてのクリミア戦争
 クリミア戦争によって、戦争の近代化が始まった。戦艦としての帆船はこれ以後使われなくなり、小回りが利いて機動力のある蒸気船の時代になる。機雷はクリミア戦争でロシアによる使用が最初である。実際には使われなかったが、毒ガス兵器も誕生した。銃の製造過程も変化した。フランスで起こった互換技術がアメリカの企業で産業化され、互換性のある部品が銃の製造に使われて量産の道を開いた。
 特筆すべきは通信技術である。サミュエル・モールスが電信線による長距離通信を可能にしたのは1844年で、通信網が敷設された地域での情報がほとんどリアルタイムで伝えられるようになっていた(モールス信号)。これを利用した『タイムズ(The Times)』の従軍記者が戦況を本国に発信し、クリミアでの兵士の悲惨な状況がその日のうちにロンドンに伝わり、市民は戦場を肌で感じるようになった。『タイムズ』の紙面に載った負傷兵の惨状が、ナイチンゲールに戦地へ向かう決意を抱かせたという。通信の発達とメディアの参加により、戦闘の情報が国民感情を大きく動かすようになった。その後、1891年には、ニコラ・テスラによって無線通信が発明され、日本海海戦では、イギリスがシーレーン上に設けた諸港からバルチック艦隊の航行情況を刻々と日本に伝えた。クリミア戦争は、軍事技術や工業生産力、通信やマスコミが、戦略・戦術を左右する近代戦の始まりであった。
ペリーを引き継いだマッカーサー
 ペリーは、日本人がほとんどあらゆる分野で教養度の高い知的に優れた民族だと見ていて、特にその潜在的な工業力が将来自分たちの競争相手になると予想している。その一方で、日本との条約締結について、「この強大な帝国を国際社会の一員にし、さらにその上これをわれわれの宗教の恩恵下におく事業は、まだ始まったばかりである」とも言っている。いかにもアングロサクソン的な目線である。約90年後に、その「事業」を引き継いだのがダグラス・マッカーサーだった。まるでペリーの青写真をトレースしたかのように、日本列島全体がアメリカ海軍の前線として基地化された。ペリーは、自らがアメリカ軍の拠点を置くことにあれほど執着した琉球に大規模な軍事基地が存在している現状を見たら、どのような感想を持つだろうか。
 南シナ海は古くからヨーロッパの植民地経済圏と華僑商業圏の接点であり、西太平洋は英露を始めとする列強諸国のシーレーン確立の対立の場であった。アメリカにとって、太平洋はカリフォルニアのフロンティアの延長上にある。フィリピン諸島から日本列島に至るラインは、ペリーにとっては中国をめぐるイギリス経済圏とのフロントであった。アングロサクソンにとって中国市場の権益がどれだけ大きなものであったのか、ペリーの壮大な青写真が語っているように思われる。日米戦争や現代の米中関係も、ペリーの時代からの一貫した流れの上にある。西太平洋にアングロサクソンの利益圏の前線が置かれたことは、アメリカの太平洋覇権のグランドデザインが日本列島の地政学上のロケーションに立脚しているということである。ペリーの遠征記録の邦題から、原題にある「the China Seas」を削ってしまったことで、ペリーの(あるいは、アメリカの)真の目的が曖昧になってしまっているが、既にこの時代の日本の「魅力」は、嘗ての金や銀の神話で語られた日本そのものではなく、その地政学上に占める「位置」にあった。
 『アメリカのデモクラシー』で、トクヴィルは次のように書いている(第2部第10章 /1835 年)。 ( )内は筆者注。
「今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリア人(アングロアメリカン)である。どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人の目が他に注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した」
「アメリカ人は自然がおいた障害(荒野)と闘い、ロシア人は人間(民族)と闘う。一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる」
「一方の主な行動手段は自由であり、他方のそれは隷従である」
「両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる」 
 アメリカもロシアも拡張する国である。アメリカの征服は、極端に人口の少ない新大陸の原野であり、ロシアが征服しようとした旧大陸には他の民族の営みがあった。「神の隠された計画」によって、日本列島は、アングロサクソンの経済利益圏とロシアの領土拡張対象圏という脅威が重なる運命的な位置に置かれた。そこには古くから中華秩序の勢力圏も存在する。その中華圏は、アングロサクソンの経済利益圏から見れば、ロシアに対抗するためにも取り込むべき領域である。もし、クリミア戦争がなかったら、日本の運命は全く異なるものだったかもしれない。当時の情勢下では、日本列島は、クリミアのようにイギリスとロシアの戦場になるか、分割されるか、あるいはどちらかの勢力下に置かれるということもあり得たのではないか。当時、まだ新興国だったアメリカによって開国したことで、日本にとって「最悪な」事態を避けられたと言えるだろう。
 ロシアとアングロサクソンの対立は、その度ごとに他国を巻き込みながら、まだまだ続きそうである。万が一、東シナ海が中国の海になっても太平洋にアクセスできる千島列島をロシアが手放す意思を持つわけがない。対馬や千島列島は、嘗て、駐日大使のオールコックやパークスによって進出を阻まれた海域である。ロシアがウクライナやNATOの背後にアングロサクソン勢力を見るように、日本を見る目には背後のアメリカが映っているはずだ。ウクライナ戦争が何らかの形で決着すれば、次の対立の舞台は米中露の思惑が絡む東アジアになる可能性は十分にある。ウクライナ戦争やイスラエル・ハマスの戦闘を通して世界中の国々が思い知らされたように、正義や善悪やローカルな固有の歴史や庶民の権利、そして法すらも、Great Power Gameの前では簡単に無視されるものだと覚悟しておかなくてはならない。
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