#江戸前の旬
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2024年の4月下旬から6月にかけて、米国の南東部から中西部で、200年の時を超えて大自然の交響曲が奏でられる。周期ゼミの2つの集団が221年ぶりに同時に姿を現しはじめるのだ。「今年はとても重要な年になるでしょう。神秘的で驚くべき出来事です」と、「虫博士」として知られる米ミズーリ大学のタマラ・リオール氏は言う。(参考記事:「17年ゼミの大発生始まる、動物たちの反応は?」) 221年ぶりなのは、2つの集団の周期がそれぞれ13年と17年だから。前回同時に姿を現したのは1803年のこと。米国大統領はトーマス・ジェファーソンで、江戸幕府の将軍は第11代の徳川家斉だった。 リオール氏によると、次回起こるのは2245年になる。「私たちの5世代後になるまで、この2つの集団が同時に現れることはありません」(参考記事:「周期ゼミの大量発生、実は3種、鳴き声も違う」)
221年ぶりに周期ゼミの2集団が同時に大量発生、江戸時代以来 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ) 五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に��乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がつい���傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた) 猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河��が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(��江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。 この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。 轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐��入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央���論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下) 家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・���れは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪��談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があ���たという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのよう��ものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
























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よしもとかよ 「日々是好日」。vol.135 (2024 / 6 / 5 + 6 / 12 )
2024 5th + 12th june
M1 mademoiselle hortensia (Yvette Giraud)
M2 God only knows (Des'ree) M3 green (Edie Brickell)
M4 the Garden (Bobby McFerrin) M5 sweet little truth (Tasmin Archer) M6 ambrosia (A Reminiscent Drive) M7 in God's hands (Nelly Furtado) M8 laughter in the rain (Ashley Maher)
[好日の素…挿し芽をすること]

6月と聞くと やはり梅雨のイメージ。 雨が降ると わたしたち人間にとっては 何かと都合の悪いような印象がありますが、 植物にとっては 水分を吸い上げてよく繁ることができて まさに恵みの雨。 庭仕事に精通していらっしゃる方には 頷いていただけるかと思うのですが、 実は5月下旬ごろから6月にかけての時期は 梅雨挿し、という言葉もあるほど 挿し木や挿し芽に向いている時期と言われます。 わたし自身の経験でも 確かにこの時期は 挿した植物が根を張って成長する 確率が高いように感じます。 土の中の温度や水分量が 挿し芽に適した状態になるから、というのが 理由のようです。 植物の種類によっては 挿し芽や挿し木ができないものもあったり 別の時期の方が適している場合もありますが、 この時期に挿し芽ができる植物の場合、 簡単なものだと 挿し穂を土に挿しておくだけで 育ってくれるものもあります。 多肉植物の場合だと 挿し芽の切り口を乾かしてから挿す、とか 葉のおおきなものは半分に切ってから…など 少し手をかけることで 成功率があがるケースも。 我が家では、正直なところ もう鉢の置き場がないような状態なのですが(笑、 枝の整理などをすると、どうしても もったいない気持ちから 挿し芽をしてしまうんですよねぇ。 苗を増やすために挿す、というよりは そういうもったいない気持ちと あとは植物を長く楽しむために 苗を更新するべく、挿し芽をして 同じ品種の植物をいくつかキープする、と いったところでしょうか。 挿し芽が思いのほかうまくいって 増えすぎてしまったものは 草花交換会に出したりもしています。 雨の日が多くなりがちな時季ですが 植物の成長をたのしみに待つ、というのも これはこれで悪くないかもしれません。
* * * * * * * * * * *
[日々是食べたい!… わらびもち ]

気温も上がってきて そろそろ のど越しのよいものが 食べたくなってくる頃。 とはいえ、 キンキンに冷えたものには まだ少し早いような気もします。 そんなところで、選択肢のひとつとして 挙げてみたのが、わらびもち。 何でも平安時代から 食べられており、 第60代天皇である醍醐天皇が たいそうお好きだったとか。 わらびの根のでんぷんを 使ったのがはじまりで わらびもち、と呼ばれるのですが 現在では わらびのでんぷんは 希少価値が高く、 わらび以外の素材のでんぷんを ブレンドしたもので つくられることが多いそうです。 よく見られるのは きなこをトッピングしたものですが こちらは 安土桃山時代の茶屋の名物として愛され、 あんこを包んだタイプ��ものは 江戸時代に 位の高い方が召し上がる 特別なお菓子になっていったのだそう。 そして今では、 抹茶や黒糖の風味はもちろん ミルク味にカフェオレ味、 フルーツのフレーバーのものに ドリンクタイプのわらびもちまで バリエーションも豊富になり、 日本だけでなく、海外の方々にも 愛されるようになりました。 基本的にはつめたいおやつなのですが この頃では 出来立てのあたたかいわらびもちを 提供するお店もあるそうです。 わたしもじぶんでつくった際に つまみ食いで(笑、 ほんのりあたたかいものを 口に入れたことがありますが、 確かにそれもまたおいしい! 以前このコーナーで触れた 和菓子店さんのレシピ集を参考に わらびもちをつくって、たのしんでいます。
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川崎市川崎区殿町付近の多摩川河川敷でスーツケースから無職の男性(46)=東京都江戸川区=の遺体が見つかった事件で、県警捜査1課と川崎臨港署は25日、死体遺棄の疑いで、男性の元交際相手の無職の女(32)=大阪府高槻市=と、女の父親で派遣社員の男(53)=千葉県船橋市=ら5容疑者を逮捕した。県警は5人のうち誰かが男性の殺害にも関与した可能性があるとみて調べる。 他に逮捕されたのは、女の母親で無職の女(51)=東京都大田区=と、女の兄でアルバイトの男(34)=同=、女の知人で会社員の男(39)=大阪府高槻市=。 逮捕容疑は、5人は共謀して昨年12月中旬ごろ、都内の多摩川河川敷に男性の遺体をスーツケースに入れて遺棄した、としている。 同課によると、女の母親は「私はやっていない」と容疑を否認し、他4人は「間違いありません」などと容疑を認めている。女の父親ら3人は、女と男性がトラブルになっていたと話しているという。 捜査関係者によると、遺棄した場所は遺体発見現場から約2キロ上流の東京都大田区本羽田付近とみられる。 スーツケースは同月29日午後10時10分ごろ、「大きめのスーツケースがある」と釣り人から110番通報があり、署員が河川内から回収。翌30日午前、スーツケースの中から男性の遺体を発見した。男性の遺体には首を絞められたような跡があり、他に争った形跡はなかった。司法解剖の結果、死因は窒息死で死後数日以上が経過していた。 県警は殺人、死体遺棄事件として、現場付近の防犯カメラ映像や男性の交友関係などを捜査。男性が同月中旬ごろに殺害されたとみて調べている。
川崎・多摩川スーツケース遺体 死体遺棄の疑いで元交際相手の女ら5人逮捕 | カナロコ by 神奈川新聞
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜���票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2025/5/15 14:00:34現在のニュース
東京・江戸川区、対象外の外国籍85人に10万円誤給付 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/15 13:57:17) 「中2日で投げたい」ハマの鉄腕バウアー、疲れ知らずの秘訣は睡眠「話したら3時間ぐらいになる」([B!]読売新聞, 2025/5/15 13:54:13) 三井住友FGとソフトバンク、包括提携を正式発表 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/15 13:51:43) 京アニ事件「まねた」 徳島ビル放火の被告([B!]産経新聞, 2025/5/15 13:51:39) 大林組が見せた地元の意地 万博大屋根リング前倒し完成 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/15 13:45:15) 「出前館」配達員は登録と別人 ウズベキスタン人に名義貸した日本人ら逮捕 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/15 13:45:15) 「神奈川県警は批判受け止め、急ぎ検証を」公安委員長 川崎女性遺棄(朝日新聞, 2025/5/15 13:41:12) 前知事の岸本氏死去���伴う和歌山知事選が告示 新顔2氏が立候補(朝日新聞, 2025/5/15 13:41:12) 国産サーモン増産の波 今が旬、店頭価格はマグロの3分の1 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/15 13:33:33) 寒い時期に授かった子「太りにくい」 受精日の気温、脂肪の燃えやすさに影響 東北大などのチーム:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/15 13:33:14) 敦賀署の拾得物が急増、前年同期の4倍…「倉庫いっぱいになりつつありこれ以上増えると苦しい」([B!]読売新聞, 2025/5/15 13:30:38) ドリルで脊髄神経を切断、執刀医らに8800万円の賠償命令…執刀医は半年強で医療事故8件起こす([B!]読売新聞, 2025/5/15 13:30:38)
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大野山 2025.4.19

ニガナ(苦菜、黄瓜菜[1]、学名:Ixeris dentata)キク科の多年草
野原、林縁、土手の日当たりのよい場所にごく普通に生える多年草で、日本全土、東アジアの温帯〜亜熱帯に分布する。葉や茎にある白い乳液の苦味が、和名の由来になっている。
高さ約40〜70cmで、茎は上部が枝分れする。根出葉は柄が長く、茎葉は基部が茎を抱き、下のものほど細長い。5〜7月に、黄色の5弁花に見える舌状花を5〜7個もつ頭花を散状に開く。雄蕊は筒状に合着し、先が二つに分かれた雌蕊を抱く。
これっぽいけど、おおいぬのふぐりくらい小さくて背が低かった気がする。

シャガ(射干、著莪、胡蝶花、学名:Iris japonica)アヤメ科アヤメ属の多年草
人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生する。開花期は4 - 5月ごろで、白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。
根茎は短く横に這い、群落を形成する。草丈は高さは50 - 60 cm程度までになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。いわゆる単面葉であるが、この種の場合、株の根本から左右どちらかに傾いて伸びて、葉の片面だけを上に向け、その面が表面のような様子になり、二次的に裏表が生じている。
*単面葉(たんめんよう、unifacial leaf):裏側の性質しか持たない葉
シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物である。三倍体のため種子が発生しない。

イラクサ(刺草、学名: Urtica thunbergiana)イラクサ科イラクサ属の多年草。別名、イタイタグサ。
日本では、本州の福島県以南、四国、九州に分布し、山地の林縁や林内の湿った場所に生育する。世界では、朝鮮半島、台湾に分布する。
茎は四角形で縦稜があり、下向きの微毛が密に生え、直立して高さ40-80cmになる。茎に刺毛があり、刺さると痛い。
葉は対生し、葉身は卵形から卵円形で、長さ5-15cm、幅4-10cm、縁は欠刻状の粗い鋸歯で、しばしば重鋸歯状になる。葉身の先は尾状にとがり���基部は心形、葉の両面に細点が多く、表面に伏毛がまばらに生え、裏面の葉脈上に短毛が生える。
葉柄は葉身とほぼ同じ長さになる。茎の各節に2個の托葉があり、長楕円形で長さ7-8mmになり、ときに先端が2裂する。
花期は9-10月。雌雄同株。葉腋から1対の穂状花序を出し、雌花序は上方の葉腋につき、雄花序は下方の葉腋につく。雄花は緑白色で径2mm、花被片は4個、雄蕊も4個ある。雌花は淡緑色で、花被片は4個、内側の2個は花後に増大して痩果を覆う。
果実は緑色で卵形の痩果で、扁平で長さ約1mmになる。
茎や葉に生える刺毛(トゲ)の基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体の入った嚢があり、トゲに触れその嚢が破れて皮膚につくと強い痛みがある。死亡することはないが、蕁麻疹を発症することがある。
ヨーロッパや北米には近縁種のセイヨウイラクサがある。山菜のミヤマイラクサは別物。
葉っぱの点々は病気じゃなくてデフォルトらしい。

カンザン (関山、学名:Cerasus Sato-zakura Group ‘Sekiyama’ Koidz.、シノニム:Cerasus serrulata ‘Kanzan’ ; Prunus lannesiana ‘Sekiyama’)バラ科サクラ属のサクラ
オオシマザクラを基に生まれた栽培品種のサトザクラ群のサクラで日本原産のヤエザクラ。学名のシノニムにはカンザンとセキヤマの両名で登録されており、別名はセキヤマ。
Googleレンズじゃサクラの細かい品種までは分からないと思いきや、しっかり検索にでてくるみたい。

オオシマザクラかヤマザクラだと思われる。山頂にはその二つがあるらしい。どっちだろう。
葉柄が赤くないし、葉縁の様子から多分ヤマザクラではない。萼筒が太くないからソメイヨシノでもない、のでオオシマザクラっぽい。
オオシマザクラ(大島桜、学名: Cerasus speciosa)バラ科サクラ属のサクラ。
日本の固有種で、日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。成長が速く再生力が強く古来雑木林に植えられて燃料として多用されたことからタキギザクラ(薪桜)の別名があるほか、葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラ(餅桜)とも呼ばれる。
開花時期は、3月下旬から4月上旬、早いところでは2月に開花する。花と葉は、クマリン由来の比較的強い芳香を持つ
野生種らしいけど、大野山の山頂のは植えられたのか野生なのかどっちなんだろう。桜餅の葉の品種考えたこともなかったけど、これがそうと言われるとなんか驚き。

ヤマブキ(山吹、学名: Kerria japonica)バラ科ヤマブキ属(本種のみの一属一種)の落葉低木
花期は4 - 5月。花は一重のものと八重のものがあり、一重のものは花弁は5枚。
登山中は自生しているんだと思ってたけど、大野山の桜とかこういう派手な植物は人為的に植えられたのかな、山のなりたちが気になる。

ハナモモ(花桃)バラ目バラ科モモ属の耐寒性落葉低木
原産地は中国。花を観賞するために改良されたモモで、花つきがよいため、主に花を観賞する目的で庭木などによく利用される。日本で数多くの品種改良が行われ、種類が豊富。観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在の園芸品種の多くも江戸時代のものが多い。
江戸時代!?
サクラの開花前に咲くことが多い。長野県では桜より遅く、4月中旬から5月初めにかけて、各地の名所で観られる。桃の節句(雛祭り)に飾られる。結実するが実は小さく、食用には適さない。


イブキらしいけど、この葉の一部が黄色いことについて情報がない…。
お花が沢山咲いてて楽しかったけど、枯れたススキが目立つので、冬に行くのが一番きれいだとおもう。
いた動物:ハクビシン?(茶色かった)、トカゲ。
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アルフレッド
一般に販売されているボディオイルなども裏の成分表を見るとこのセサミオイルが使われていることもあるとのこと。セサミオイルを使って洗うことで髪は寝癖が付きにくくなり、体は乾燥が防げて、洗っている時にはオイルをしっかりと体に伸ばし体全体に触れることでここが疲れているな、などの体の変化にも気づくようになったそうだ。(中略)そんな話を聞いていくうちに合点がいった。その暮らしの豊かさが、彼のするメイクにも反映されているのだと。それに対し私は「贅沢ですね」と言ったのだ。
−���川葵「じんせいに諦めがつかない」
麗しい花がある。すぐそこに。そして、ほら。そこにも。雪割草だ。昔からここに咲く花。子供の頃からあった。主には紫色と桃色。大抵は紫だが、ここに横一列に並ぶものは桃色で、私はこちらの方が好きだ。ほかにも微妙な色の変化を告げる2月頃になると咲く花。これは三角草の一種。三角草が先にあって、これが後というのだ。
顔を前に向けると広葉樹の群れが見える。3月下旬の今はまだ、幹と枝をのぞかせているだけ。空は曇っており、学校のグラウンドがどこか物寂しく見えている。グラウンド、これは去年まで知らなかった外来語だ。私の世界はすべてがめくるめく速度で移り変わってゆく。私の生きている明治32年の新潟市は10年前まで新潟町と呼ばれた地域で、次から次へと言葉が敷き詰められていくことだけは分かる。ただ言葉だけがある、レンガ造りのような、あるいは鉄筋コンクリートのような。目の前にある鉄筋コンクリートの学校こそが、明治政府の言う国の改革なのだ。武家の跡継ぎである父親が生きていても、まずもって理解できなかったであろう。もっともこのような技術はペリー提督の来航以前から見られるもので、宝暦12年、西暦で言うと1762年に発明家で蘭学者、戯作者の平賀源内による考案を10年足らずのうちに弟子たちが実用化し、江戸や大阪に一気に広まっていき、幕末には30を数えるコンクリートの内部に鉄筋による補強用の芯を配置した建築物が現れたという。そのようなくの字型の形状が北西を起点にし、南東に向けてつながる4階建ての、県内でおよそもっとも巨大な建築としてそびえる校舎が新潟女子師範学校だ。
「畝北さん」と自分を呼ぶ声が聞こえる。こういう時に自分はこれは音だ、考えることにしている。そのような迂回したことを考えている間は仏陀や親鸞の考える涅槃には遠いような気もする。真の精神の統一というのは対象を完全に没する水準にあるのだから。目の前にものがあるから駄目なのだ。そして女も……。今日の会合は間違いだったかもしれないと自分の中の無邪気さが言った。
「うん」
と言って、振り向くと永井とその横に見知らぬ白色人種が立っている。すごく体が大きい。永井よりも8寸は大きそうだ。当然私との���長差もその程度だ。永井と私は似たような体型だった。永井よりも私のほうが痩せ型だったが。白色人種と言ってもかなり日焼けしているようだ。私とそんなに変わらない程度には浅黒い。
「ご紹介します。こちらアメリカからお越しになったアルフレッド・カーターさん。カーターさん。こちら武士の末裔の畝北権三です」
アルフレッドと紹介された白色人種はにこやかにこちらを向き、手を差し出しながら、「はじめまして、畝北さん」とたどたどしいながらも、はっきりと聞き取れる日本語を話した。ずいぶん上手に話すな、と思った。そして実に印象的な笑顔だ。これは商人の笑顔。商人が恥じらう控えめな表情だ。自分が優位に立ったと即座に感じた。そして彼は男前だった。新聞に載っていた歌舞伎役者の素顔を思い浮かべた。しかしやはり顔立ちが我々とは違っていた。鼻が高く、目もはっきりしていた。どこか別の星の生物のようだ。暑苦しいと思えるほど厚着しており、薄い青の模様が入った着物に、黒い西洋風のコートと同じく似た色調の首巻きを合わせていたが、不思議と違和感はなかった。この服には、なにか秘密があるのかもしない。
「はい、はじめまして。私は畝北権三です。今日はこの女学校を紹介するためにやってまいりました」
と、自分も手を差し出し、握手をかわす。
「自分は2年間日本に滞在しています。その期間に日本語は学びました。プロテスタントの牧師であり、さらにこの2年以内にこの国に学校を創設することが目標なんです」
発音はやはり拙いが、これだけの日本語を話せるならばたいしたものだろう。
「私の家は武家で、いま自分は東中通にある県庁に勤めています。いわば特別枠です��
「おぉ、なるほど、あなたはエリートだ」
アルフレッドがエリートという聞いたことのない言葉を使ったが、しかし褒められたと思って私は、
「いや、それほどのものでもありますまい」
と述べた。
では、さっそくまいりましょう。と永井が我々2人を校内に誘導した。私は新潟女子師範学校に来たことが何度もあったが、アルフレッドは初めてだと言った。こんなところに男がいてもいいのだろうか、と。
校内の女生徒たちはアルフレッドに興味津々といった様子でみなこちらを眺めていたが、挨拶するものは驚くほど少ない。初めて見る白色人種に抵抗感があるのだ。まぁしかたない。ここを歩いていると無数の小さな円形の窪みが連なる、打ちっぱなしのコンクリートの内装が浮き彫りになってくる。こういう壁だとこの季節は少し冷えるようだ。この校舎はもともと明治7年にできた新潟師範学校であり、現在も多くの男子生徒が使っているが、相互の交通がくの字型の結節点から先行われない仕組みになっており、一の字の形をした校舎を男子と女子それぞれが分有して使っている。女子だけが使う新潟女子師範学校は明治12年に設立された、女子師範科が分離独立してできたもので、先述した通り校舎は真っ二つに分けられているが、現在別のものを建設中だそうだ。鉄筋コンクリートかもしれないし、そうではないかもしれない。そのような予定にあまり詳しくない。なんにせよ新潟女子師範学校というのは、たんに名前の都合でしかなさそうだ。13歳から17歳ぐらいの比較的裕福な家の娘たちが通っており、初等学校すなわち尋常小学校と中学校以上の中等学校の女性教員を育成している。校舎が位置する新潟島は書いて字の通り市の中心部の海沿いに小さな島を形成しているが、私が子供の頃とは大きく様変わりし、西洋風の建築が多く連なっていた。
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【東京】飯田橋「Dining Bar 檜」
【ヒルナンデス】大人気!せいろ蒸し『Dining Bar 檜』大江戸線で東京観光 #砂田将宏 #榊原郁恵 2025/2/21放送 東京都新宿区神楽坂3-2-50 サンク本多横丁ビル 1F #ヒルナンデス #陣内智則 #SHELLY #ぺこぱ #久本雅美 #王林 詳しく見る↓
飯田橋駅「Dining Bar 檜(Hinoki)」 食べログでcheck! 和と洋が融合した創作料理とお酒を楽しめるダイニングバー メニューは和食と洋食がバランス良く構成されており、定番メニューに加え、季節の食材を使った創作料理も豊富で、いつ訪れても新しい発見がある。 特に人気なのは、旬の食材を使った「セイロ蒸し」。 素材の旨味を最大限に引き出すセイロ蒸しは、ヘルシーで美容にも良いと評判。 また、日本酒にも力を入れており、全国各地から厳選された銘柄が揃っています。料理とのペアリングも楽しめる。 ランチメニュー 蒸し5点盛り 1280円 ディナーメニュー カレニフォンデュ 858円 住所 東京都新宿区神楽坂3-2-50 サンク本多横丁ビル 1F TEL 03-4400-7540 行く前に!見どころ&口コミをチェック Dining Bar 檜(神楽坂/ダイニングバー) –…
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2025/1/31
東京国立博物館 大覚寺展に行ってきたよ
テレビで見てからずっと髭切膝丸を実際に鑑賞してみたいと思いつつ、「でも京都行ける機会ないしなぁ…いつか社会人になってからかな」と思っていたので本当に嬉しい。しかも二振り同時!!!!同じケース内で!!!!レア過ぎる。友人も見ながら「夢のような時間」と溢してて本当に同感。
写真NGだったので写真は無し。残念。
でも記念にミュージアムショップで髭切膝丸と江戸三作と童子切安綱と大般若長光と、、その他たくさん写真とともに来歴が紹介されている刀剣画報を買ったのでヨシ!源氏のあれこれの解説も載っているので彼らの持つ物語をようやく少し理解できる。(撮影OKのプレミアムな抽選鑑賞会が別日に開催されていて、それに参加した方がTwitterに写真を載せて下さっていたので、拝借した髭膝の写真はスマホのフォルダ内にはある)
鬼切丸も、薄緑も、
本当に「みずみずしい、神々しい、光」。
語彙力なくて申し訳ない。でも今まで見た刀の中で一番みずみずしくて光り輝いていた。彼らが主人に与えた生命力の反面に、人の命のかかっていた危うさの影が見える。刀剣乱舞の世界線抜きで、もしもこの世のこの刀に、本当に付喪神が宿っているとしたなら、とてつもなく神格の高い神様なのだろうなと畏怖を覚えるほどの神々しさ。刀剣乱舞の「髭切膝丸」も危うさを秘めた感じだけれど、彼らとは「別物」と感じた。(1年前三日月宗近の本霊を見に行った時は、「ああ、うちの本丸の「三日月宗近」と同じ匂いがする。ここの長として堂々とそこに在る感じが。」 と親近感を覚えた。不思議。)
見どころの一つ、襖絵の章も演出が圧巻でした。この章この空間がひとつの作品のよう。

今期は小龍景光が展示されていたので、常設展も見てきました。
龍、緻密で格好いいね!!


今日のために1月初旬からちまちま自作していた髭膝概念ネイル

ちなみに先にランチをして、午後からトーハクへ。会期初日から1週間後の平日午後なら、晴れの日でも結構観覧客は少なめ。前回の雨の日の午前と変わらない感じ。※横を通った西洋美術館は何の催しか、もしかしたら全員モネ展目的なのか、ものすごい長蛇の列だった…恐ろしい😨 「他にどこか行く?それともトーハクゆっくり見て回る?」と話していたのだけど、行く予定にしなくてよかった笑
ランチは上野さくらテラスのLA COCORICOへ
前菜もボリュームたっぷり、グラタンもバゲットもとっても美味しかった(*´ч`*)満腹。これで平日¥1210なのお得すぎる✨店員さんの雰囲気も良かった。また行きたい!平日は開店直後11:00に並んでおいたら予約無しでも入れそう。


髭切のおうち北野天満宮も、膝丸のおうち大覚寺も菅原道真公とのゆかりが深いとの事、二振りは勝利をもたらす吉兆の刀という事で、ふた振りにとっては私はただの観覧客であるのは重々承知で、烏滸がましくも 「私事ですが、来年薬剤師国家試験を受けます。1年間本気で勉強に取り組みます。もっと清らかな人間になれるよう努力してまいります。もし宜しければどうかお力添えの程よろしくお願いします!!」 と心の中でお祈りしてきました(北野天満宮行けたらいいのだけど行ける暇がないので…)。本霊が伝えてくれるとは思っていないけれど、私個人の「けじめ」のような宣言を失礼しました。
弊お髭さん 「主、頑張るって言ったもんね」
近侍監視の元、泣いても1年、笑っても1年。
心身健康第一で頑張ります。
本霊に会って誓いを立ててきたのでやるしかないのです。ただ見守っていてほしい。
身の回りの邪気を払うのはうちの付喪神たちが請け負ってくれるはず(よろしくお願いします)。
できるかどうかは関係ない。ただ「する」。そこに感情を挟む余地はない。実行するのみ。単純な事。
追伸。この日からタイトルコールにお髭さんが出てきてくれる事がめちゃめちゃ増えたのだけど、え、もしかして「ちゃんと頑張るって言ったもんね、主?」って監視されてる…?!
焦り(¯∇¯٥) いや、来週からハードな授業期間が始まるので今のうちに羽を伸ばしておこうと…。今だけ、本当に今の数日間だけ休ませて。いつも365日200%学生やってるんだから今だけは。そしたら残り一年は頑張るから
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静岡市葵区に位置する神社で、神部・浅間・大歳御祖神社の三つの神社の総称で、その歴史は大変古く、2,000年前にはこの地に鎮座していたと伝えられています
徳川家康とゆかりが深い神社で、現在の壮麗な社殿群は徳川幕府の指示によって造営されたもの
静岡県を代表するお祭りの一つ、廿日会祭が開催される神社としても知られています
静岡浅間神社の三社はそれぞれ造られた年代が異なり、最も古い歴史を持つのが神部神社で約2,100年前に造営され、平安時代には駿河国(現・静岡県)の総社になりました。
大歳御祖神社は2番目に歴史が古く、約1,700年前に造営されたと伝えられています。かつては奈古屋神社といい、静岡市の地主神です。
浅間神社は901年に後醍醐天皇の直接の命令により、富士山本宮から分祀されて神部神社のすぐ隣に祀られます。以来、富士山新宮として土地の人々の信仰を集めました。
三つの神社は明治時代まで、それぞれ別の家によって祭祀が行われていたと伝えられています。それとは別に、神社は造営されてから明治まで朝廷やこの地を治めた武将たちによって庇護を受けてきました。
徳川家康は14歳の時にここで元服を行い
彼は1582年に武田氏を攻略する際、勝利をしたら必ず壮麗な社殿を再建するという誓いを立て、神社の社殿を焼き払ってしまいましたが、その後、天下を統一した徳川家康は約束どおりに壮麗な社殿を再建。
その後、社殿は2度にわたり火事で焼失しますが、その度に徳川幕府によって再建され、現在の社殿群は1864年頃に再建されたもの。
江戸時代の間、神社は徳川家の祈願所として大いに栄えました。
明治時代になると別々の家で管理されていた三つの神社は、一つの神社となります。その後神仏分離令によって仏教的な物が境内から取り払われますが、神社が寂れたり荒廃したりすることはありませんでした。現在まで「おせんげんさま」の愛称で親しまれ、多くの方の信仰を集めています。

#神部神社
✡主祭神 大己貴命 #大國主命
✡ご利益 #延命長寿 縁結び 除災招福
崇神天皇7年(紀元前90)鎮座と伝わる駿河国最後の総社
#浅間神社
✡主祭神 #木之花咲耶姫命
✡ご利益 子授け安産 #婦徳円満
醍醐天皇の勅願により延喜元年(901)に富士山本宮浅間大社から分祀
全国1300社程ある分祀の中で1番大きくて古いお社
立川流彫刻が見所の神部神社と浅間神社 (改装中)
重要文化財指定の一つの建物に祀られており、比翼三間社流造りの建物の向かって右が神部、左が浅間の本殿
屋根付近に三代にわたり彫られ続けた立川流の彫刻が見所
大拝殿 二階拝殿 は神部・浅間 両方の拝殿で、社殿の上に更に別の社殿が載った浅間造りの代表的な建物
高さ25m殿内の広さ132畳
内部の十間の天井は一つに繋がっており各部屋ごとに狩野栄信・寛信によって八方にらみの龍と #迦陵頻伽 天人の天井絵が描かれているそう

🐅躍動感のある楼門
精密な彫刻が美しい壮麗な楼門は、総漆塗りで、2層部分には #當國總社冨士新宮 という二つの社名の扁額が掲げられている
家康公が今川家の人質であった時代に元服式が行われ
後に5カ国の大名となった家康公は天正14年9月11日に浜松城から駿府に移ると浅間神社の造営や臨済寺の再興を行った
毎年4月上旬に開催される静岡まつりの大御所花見行列は
家康公が大名・旗本を連れ浅間神社に花見に出かけたという言い伝えを再現したもの🌸

🪭舞殿 ぶでん は、江戸時代後期に造られた社殿群の中で唯一漆を塗っていない素木造り
虹梁に施された立川流の彫刻も彩色が施されていない
神社の例大祭である廿日会祭は、450年以上の歴史があり、毎年4月1日から6日にかけて行われ、静岡県指定の伝統芸能 #稚児舞楽 (ちごぶがく)で、みやびやかな衣装を着け子供たちが奉納舞をします

静岡浅間神社内の浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ内のあさまじんじゃ
神部神社
かんべじんじゃ
楼門と舞殿は撮れましたが、一番メインの本殿が、どちらも改装中だったので、また何年か後に行ってみたいと思ってます🧚♀️


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2024年10月15日

島根原発2号機 中国電力が原子炉に核燃料入れる作業を申請(NHKニュース)
中国電力は、12月に再稼働を計画している島根原子力発電所2号機について、原子炉に核燃料を入れる作業を今月28日から行いたいとする申請書を15日、国の原子力規制委員会に提出しました。そのうえで12月上旬にも原子炉を起動する方向で調整を進めています。
中国電力は2012年以降停止している松江市にある島根原発2号機について、ことし12月の再稼働を計画していて、準備を本格化させています。
そして一連の安全対策工事が予定どおり進んだとして、原子炉に核燃料を入れる作業を今月28日から行いたいとする申請書を、15日、原子力規制委員会に提出しました。
作業は1週間程度を見込んでいるということで、そのあとの安全確認などが順調に進めば、12月上旬にも原子炉を起動する方向で調整を進めています。
島根原発2号機は事故を起こした東京電力の福島第一原発と同じ沸騰水型と呼ばれるタイプで、このタイプで再稼働するのは、今月29日にも原子炉を起動する工程を示している東北電力の女川原発2号機に続き2基目になる見通しです。
中国電力は「引き続き安全確保を第一に検査を進めるなど、再稼働に向けた一つ一つの準備を着実に進めてまいります」とコメントしています。

島根原発、12月上旬に再稼働 2号機、10月末に燃料装填(共同通信)

島根原発2号機、12月上旬再稼働 中電、10月28日に燃料装荷開始(中国新聞 10月15日)

島根原発2号機、12月上旬再稼働 中国電、10月末に燃料装荷(産経ニュース 10月15日)

島根原発2号機 28日燃料装荷開始 12月上旬再稼働へ(BSS 山陰放送 10月15日)

島根原発2号機、再稼働は「12月上旬」10月28日に燃料装荷開始 中国電力(山陰中央新報 10月15日)

島根原発2号機、12月上旬に13年ぶり再稼働 28日から燃料装荷(朝日新聞 10月15日)

島根原発2号機再稼働認めない仮処分退ける 広島高裁松江支部(NHKニュース 5月15日)
再稼働に向けた準備が進む松江市の島根原子力発電所2号機について、広島高等裁判所松江支部は、地元の住民が地震や火山の噴火などの想定が不十分だと主張して再稼働を認めないよう求めた仮処分の申し立てを退ける決定を出しました。
松江市にある島根原発2号機は、定期検査で運転を停止した2012年から稼働しておらず、3年前に原子力規制委員会の審査に合格したことなどを受けて、中国電力はことし12月に再稼働させる計画で準備を進めています。
これに対し、島根県と鳥取県の住民4人は、地震や火山の噴火などの想定が不十分だとして、去年3月に再稼働を認めないよう求める仮処分を、申し立てました。
これまでの審理で住民側は、「中国電力が想定する原発周辺での最大規模の地震の揺れは低すぎるほか、島根県内で火山が噴火した場合に降り積もる灰の量も過小評価している」などと主張したのに対し、中国電力側は「想定される地震の揺れは科学的知見を踏まえた合理的なもので、住民側が指摘する規模の噴火が起きる可能性は十分に小さく具体的な危険はない」などと反論していました。
これについて、広島高等裁判所松江支部の松谷佳樹裁判長は、15日、住民側の主張を認めず、申し立てを退ける決定を出しました。

「あまりにも早急」島根原発2号機 28日から核燃料装てん・12月再稼働に抗議 市民グループが中国電力に申し入れ(RCCニュース 10月16日)
中国電力が島根原発2号機を12月上旬に再稼働させると明らかにしたことを受けて、市民グループが抗議しました。
抗議の申し入れをしたのは広島県内の5つの市民グループで���。中国電力の担当者は抗議文書を関係部署に伝えるとして受け取りました。
中国電力は15日、10月28日から島根原発2号機の原子炉に核燃料を装てん、検査などが順調に進めば12月上旬に原子炉を起動し、再稼働させることを明らかにしました。
申し入れでは、島根原発2号機が停止して13年が経つことから、「部品の劣化や原発の運転員の未経験者が増えていることなどが考えられるため、再稼働は危険だ」などとしています。
上関原発止めよう!広島ネットワーク 溝田一成 共同代表「地震に耐えられるかどうかなどそういうことをもう一度考え直してから、燃料装荷してほしい。あまりにも早急すぎる。」
島根原発2号機の運転再開は、定期点検で停止した2012年1月以来となります。

原発5キロ圏の児童ら避難訓練 12月再稼働、島根2号機(共同通信 10月19日)
中国電力島根原発2号機が立地する松江市は19日、原発から約5キロ圏内の予防防護措置区域(PAZ)にある幼稚園や小中学校に通う子どもを対象に重大事故を想定した避難訓練を実施、一部を報道陣に公開した。島根2号機は12月に再稼働を予定している。
訓練には園児や小中学生、保護者ら約千人が参加。幼稚園や学校から、退避所となる市の体育館にバスで移動した児童らを保護者に引き渡す手順を確認するなどした。
小学生の子と参加した松江市の会社員津森哲郎さん(48)は「実際に事故が起きたとき、訓練があるのとないのとでは違ってくると思う」と話した。

【速報】金の国内小売価格が過去最高値を更新 初の1万4000円台に(テレ朝news)
中東情勢の緊迫化などを背景に、金の需要が国際的に高まり、日本国内の金の小売価格が過去最高値を更新しました。
金の国内小売価格の指標とされる、田中貴金属工業のきょうの店頭販売価格は、1グラムあたり1万4069円となり、営業日として最高値を更新しました。
金の価格は、およそ1カ月で1000円以上上昇しています。中東情勢が緊迫していることや、アメリカの金融政策が利下げに転換したことなどが要因とみられています。
金は「有事の金」ともいわれ、戦争や災害など世界経済を揺るがすような事態が発生すると需要が高まる傾向があります。

アベノマスク契約めぐる訴訟 裁判長も「全て口頭で?」と突っ込み(朝日新聞)2024年10月15日
大量の在庫が問題になった新型コロナ対策の布マスクを巡り、業者との契約過程を示す文書を開示するよう上脇博之・神戸学院大教授が国に求めた訴訟で、複数省庁による「合同マスクチーム」のうち業者と直接やりとりした職員ら3人が15日、大阪地裁(徳地淳裁判長)に証人出廷した。「やりとりは口頭が基本で、文書は残していない」と口をそろえた。
マスクは2020年4月に安倍晋三首相(当時)が各戸配布を表明し、政府が400億円超をかけて約3億枚を調達したもので、「アベノマスク」と呼ばれた。需要の乏しさから約8300万枚が残り、国会などで税金の無駄遣いが指摘された。
この日の証人尋問で経済産業省からチームに出向した職員は、「募集に応じた業者からはチーム宛てに電話やメールが毎日のように来ていた」と説明。ただ自身が受け取ったメールは「容量が限られているため2~3日に1度消去し、保存していない」と証言した。
「文書作っている余裕ない」に、反応した裁判長
原告側から業者選定のためにやりとりを記録しておかないと「不便では」と問われると、「いちいち文書を作っている余裕はなく、上司が近くにいる時に口頭で価格や数量、納期などを報告していた」と話した。
徳地裁判長からも「単価や枚数は間違えると大変なことになる。全て記憶して口頭で報告していたのか」と突っ込まれると、「そうです」と答えた。
原告側が裁判所に求めて業者側から入手したチームとのメールには、この職員が業者の担当者と会って直接打ち合わせをした記録が残っていた。
職員は「どんな業者か確認するために上司から頼まれたら打ち合わせをセッティングしていた」としつつ、原告側から打ち合わせで話した内容や同席職員を問われると「覚えていない」と証言。その時の記録は「余裕がなくて作った記憶がない」とした。
行政文書管理規則では、意思決定の過程や事業の検証に必要となる行政文書の保存期間は「原則1年以上」とし、共有フォルダーに保存するとしている。メールもこの対象に含まれうるが、職員は「スピード感を求められていた。残した記憶はない」と話した。
事業規模小さい会社に大量発注、原告側「不自然」
続いて出廷した経産省の課長補佐(当時)は、マスクチームのメンバーではなく「サポートする立場だった」と説明。募集の意思を示した業者に枚数や納期を聞き取り、チームに報告していたという。
課長補佐が担当した会社は、20年の時点で設立3年弱でウェブサイトを持たず、従業員が5人しかいなかったことが原告側のとった登記簿などで判明している。会計検査院の報告書によると、政府はこの会社と2カ月で計約30億円の契約を結んでいた。
原告側は事業規模に見合わない大量の発注をしているのは不自然だとして、受注能力を登記簿などで事前に確認したかを尋ねた。課長補佐は登記簿も決算書も「確認していない」が、「金額や枚数、納期の点では問題がなかった。ベーシックなところは確認した」と証言。やりとりを示す文書は「保存していない」とした。
上脇教授は20年7月までに複数回、情報公開請求をした。契約書は開示されたが、経過を示す文書やメールは「不存在」とされたため、「巨額の税金が使われた契約の過程を国民に説明する義務が国にはある」として21年2��に提訴していた。
裁判はこの日で現職の省庁職員6人全員の証人尋問が終わった。次回12月24日に原告・被告双方が最終的な主張をして、結審する。(大滝哲彰)
コメントプラス
綿野恵太(文筆家)【視点】 <「徳地裁判長からも「単価や枚数は間違えると大変なことになる。全て記憶して口頭で報告していたのか」と突っ込まれると、「そうです」と答えた」
なかなか常識的に考えられないですよね。たとえ同じ職場の人間であっても、伝達ミスを防ぐためにメールで記録を残したりするものですが……
明石順平(弁護士・ブラック企業被害対策弁護団)【視点】 全部口頭。まあ嘘であろう。火事場泥棒を隠そうとしているようにしか見えない。マスク配布を奇貨として政府関係者に金を配っただけではないか。それがばれるのが怖いから、こんな言い訳をしている。
あの布マスクはサイズが小さ過ぎる上に、素材が布であるから、感染予防の観点からも不適切であった。また、1世帯2枚しか配られなかったので、数の点からも中途半端である。
感染予防効果からすれば不織布マスク一択であるが、国が粗悪な布マスクを配ったせいで、同じく感染予防効果の低いウレタンマスクなども許容される状況が生まれたと感じる。したがって感染対策について実害が生じていたと私は思う。
安倍総理だけがアベノマスクをかたくなに着用し、周囲が不織布マスクを着用している光景は異様だった。
単なる思い付きにすぎない有害な政策ですら誰も止められない状況は、国家機能不全状況を示す象徴的なものだった。
このアベノマスク問題は絶対にうやむやにしてはいけない。
ダースレイダー(ラッパー)【視点】bコロナ対策の検証がなぜ必要か? それは今後、新たな感染症や災害に見舞われた際にどの対策がどのように有効で、どれが失敗したかを後世の人たちに参考にしてもらうためです。
全国一斉休校もマスク配布もどのような効果があったか? あるいは無かったか?今回の裁判で明らかにされたような意思決定が為され、検証可能な証拠が何も残っていないとすれば、その点を持ってして対策として失敗しています。
政治家がよく使う未来のためにというフレーズは、具体的には上記のような検証作業を繰り返すことで実現するものだと考えます。
今、まさに選挙が行われています。例えばこのマスクの件に対してどういう態度を取るか?だけでも資質がわかると思います。
岩尾真宏(朝日新聞名古屋報道センター長代理)【視点】 血税が投入された新型コロナ対策の布マスク配布をめぐって、やりとりが本当に「口頭で」なされていたとすれば、あぜんとするばかりです。ただ、役所の習性を踏まえると、この説明を真に受けるには無理があるように思います。この当時、忙しかったことは事実でしょうが、これほどの規模の事業に関することを「口頭で」進めていくでしょうか。
ちなみに、石破茂首相は首相就任前の2020年6月のブログで、この「布マスク」が早急に届いていないことに触れた上で、次のような指摘をしています。「届いたマスクには生産したメーカーの名も、連絡先も記載がありません。マスクには法的な表示義務はないものの『全国マスク工業会』の自主的な表示基準として記載すべき事項が列挙されているのですが、これら事項の表示もありません。内閣総理大臣肝いりの政策がこんな杜撰なことでよいわけがありません」
ご指摘の通りで、内閣総理大臣肝いりであろうとなかろうと、税金を投じた事業について、後にその決定過程を検証できないようなことでよいわけがありません。
いま、過去の自身の発言が色々とはね返ってきている石破首相ですが、「納得と共感」のためにも、以前の政権下での政策検証もぜひ取り組んで頂きたいと思います。
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太平洋戦争末期の1944年11月以降、アメリカ軍による国内都市部への空襲が本格化し、死者は約56万人、負傷者は約30万人に達した。爆撃の対象となった市町村は800以上に及び、都市機能は失われ、建造物は多大な被害を受けた。その中には、城も含まれる。
日本の近代都市は、江戸時代に藩の政庁が置かれていた街がほとんどである。藩の政庁とは、つまり城のこと。都市が空襲を受けるにあたり、城が被害にあうのは避けがたいことであった。また、明治以降、地方の巨大城郭には軍隊が入り、司令部が置かれていたことも空爆を受けた理由の一つとなる。大阪城(大阪府)や広島城(広島県)、仙台城(宮城県)がそうであった。
空襲の被害としてよく語られるのは、やはり城のシンボルである天守であろう。水戸城(茨城県)、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、和歌山城(和歌山県)、岡山城(岡山県)、福山城、広島城(ともに広島県)の天守が、空襲により焼失・倒壊している。これら7つの天守は、すべて戦前の旧国宝に指定された建物であった。
徳川御三家の居城、水戸城、天守、御三階櫓 徳川御三家の居城・水戸城のシンボルであった天守(御三階櫓)。8月2日未明の空襲で焼失。戦後復元されることもなかった(絵葉書より/水戸市立博物館提供)
岡山城天守 岡山城天守の古写真。城内には天守のほか、県立中学校が建てられていたが、6月29日の空襲でことごとく灰燼に帰した。天守は戦後、1966年に復興(岡山市立中央図書館提供)
このうち、名古屋城は折からの空爆の激しさにより、天守に載る金鯱の疎開措置が取られており、最上階に足場を組んで南方の金鯱は天守内に下ろされていた。しかし、5月14日の空襲ではこの足場に焼夷弾が直撃し、その衝撃で窓が開き、窓から火の粉が飛びこんで炎上の原因になったとされる。この日の空爆では、144面の障壁画とともに、やはり旧国宝に指定されていた本丸御殿も全焼している。
名古屋城天守 炎上する名古屋城天守。天守は銅瓦葺であり、焼夷弾に対しても防火効果があったはずだが、窓から火の粉が入ったことで火の手が広がってしまった(岩田一郎撮影/名古屋空襲を記録する会提供)
天守ではないが、旧国宝の建造物としては仙台城(宮城県)の大手門と隅櫓、伊予松山城の天神櫓など11棟、宇和島城の追手門なども被災した。アメリカ軍の空爆には、発火性のある薬剤を入れた焼夷弾が用いられていた。多くの木造建造物が焼失したのは、この焼夷弾の使用が大きな要因であった。
全壊となった首里城と広島城 被災した城の中でも、全壊といえるほどの被害を受けたのが首里城と広島城である。
首里城は空爆ではなく、戦艦からの艦砲射撃によって壊滅した。1945年3月、南洋諸島や硫黄島で日本軍を破り、日本本土に迫っていたアメリカ軍は次の標的を沖縄に定める。日本軍は首里城に地下壕を築き、これを司令部として上陸してきたアメリカ軍に反抗。それに対し、アメリカは5月25日から3日間にわたり、軍艦ミシシッピをはじめとする戦艦からの砲撃を開始。首里城攻撃を含むこのときの艦砲射撃は、「鉄の暴風」と表現されるほど凄まじいもので、首里城は正殿や守礼門をはじめほぼすべての建物・城門が破壊され、わずかな石垣が残るのみとなった。同時に、歴代琉球国王の肖像画をはじめ、貴重な宝物・歴史資料も失われてしまった。
alt 沖縄戦で徹底的に破壊された首里城。守礼門や瑞泉門などが旧国宝指定を受けていたが、すべて灰燼に帰した(沖縄県公文書館所蔵)
20万人近い犠牲者を出した沖縄戦が終結したのが6月下旬。その後、本土への空襲はさらに激しさを増した。そして、8月6日を迎える。
この日、広島の天候は薄曇りであった。労働者や挺身隊らが仕事に着手しはじめた8時15分、原子爆弾が広島に落とされる。原爆の投下目標は、広島城から900m程度しか離れていない相生橋だった。広島城内には江戸時代以降の現存建造物や近代以降の軍事施設などが建っていたが、爆風によってことごとく倒壊。天守は低層階の柱が壊れたことにより、自重に絶えきれずに崩れ落ちた。城内の建造物はすべて失われ、まったくの更地となったのである。
倒壊した広島城天守コピー禁止 倒壊した広島城天守。部材は発火することなく、住民らの建材として持ち去られた(林重男撮影/広島平和記念資料館提供)
太平洋戦争で失われた多くの天守は焼夷弾によって焼失したのに対し、広島城天守は倒壊こそしたが、炎上は免れた。その部材は周辺の住民らによって持ち去られ、バラックの建材になるなど、復興の一助になったのである。
(空襲・沖縄戦・原爆投下ー太平洋戦争で日本の城はどんな被害を受けたのかから)
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「公害の原点」とされる水俣病の遺構や資料を後世に残そうと、熊本県水俣市で民間団体が取り組みを続けている。今月1日で公式確認から68年が過ぎたものの、今なお救済を求める訴訟が続く。公害に関連する遺産は「負の遺産」として撤去される例や所有権を巡る課題もあるが、関係者は「水俣病を現在の問題として見つめるきっかけにしたい」と保存を願っている。(石原圭介) 水俣病遺構「現地で見るからこそ、背景が浮かぶ」…「公害の原点」保存へ取り組む人々 「ここには、メチル水銀の汚染水が流れていたんです」。4月下旬、原因企業チッソの元従業員、山下善寛さん(83)が金網の向こうを指さすと、県内外から参加した約10人がじっと見つめていた。その先には、チッソが有害な工業廃水を流した「 百間ひゃっけん 排水口」がある。 水俣病の遺構を巡る取り組みで、企画したのは昨年7月に結成した「水俣の歴史的遺構(跡)を残す会」。会の発足は、百間排水口の 樋門ひもん の撤去計画が浮上したことがきっかけだった。 百間排水口では、1932年から、政府が水俣病を公害と認定した68年まで、30年以上にわたって工業廃水が流された。数十年前から市が管理し、現地の案内板で「水俣病の原点」と紹介されてきた。 ただ、老朽化が進み、市は安全面から撤去する計画を公表。被害者や支援者らは会を結成し、市に保存を訴えた。最終的に県が間に入り、樋門を複製して、現地に設置することになった。 加藤タケ子代表(73)によると、百間排水口は、江戸時代には塩作りに使われた歴史もあるという。「人々の生活を潤わせていたものが、水俣に悲しみももたらした。現地で見るからこそ、背景が浮かぶ」と現地保存の意義を語る。 会によると、市内各地には、百間排水口と同じく廃水を排出していた「丸島排水口」や、チッソと排水口を結ぶ水路など、水俣病に関係する施設や跡地が残る。会は、これらを「水俣病関連遺跡群」と位置づけて市の文化財保存活用地域計画に盛り込むよう求めている。 ただ、課題は多い。市は「水俣病の責任追及の側面も強い」と否定的であることに加え、チッソが所有する施設もある。例えば、排水経路だった 八幡残渣はちまんざんさ プールは埋め立てられ、太陽光発電用の敷地などとして活用されている。同社の担当者は「有効利用している以上、文化財の登録に許可は出せない」とする。 保存の先例となりそう��のが、2008年に国史跡に指定された足尾銅山跡(栃木県日光市)だ。 日本初の公害事件が起きた地だが、行政が主導して保存の動きが強まった。日光市文化財課によると、足尾銅山を所有する古河鉱業(現・古河機械金属)も当初は難色を示したが、公害対策の近代化を進めた遺産として残すことを丁寧に説明し、理解を得たという。 同課は「目的を明確にし、公害防除の起点として残している」とする。現在は官民が共同で、世界文化遺産への登録を目指している。 歴史学に詳しい熊本学園大の矢野治世美准教授は「公害関連施設を遺構として残すのは珍しく、企業の協力も必要でハードルは高い。ただ、広島で原爆ドームが象徴となったように、物を残すことで感覚的な理解がしやすくなる」と指摘する。 「二度と悲劇を繰り返さない」。会は今後も見学の機会を設けるなどして、機運を醸成していく考えだ。 「水俣で、実物を見てもらうことに意味がある」 水俣病を後世に伝える課題と向き合い、今年設立50年を迎えたのが、一般財団法人・水俣病センター 相思社そうししゃ (水俣市)だ。患者や被害者の支援で培った人脈を生かし、約28万点の資料を集め、保存している。職員の坂本一途さん(31)は「地域とつながってきたからこそ続いてきた」と振り返る。 相思社は、運営する水俣病歴史考証館で、その一部を展示。「実物」にこだわり、チッソの付属病院長が水俣病の原因を特定するため、ネコに廃液を混ぜた餌を食べさせる実験を行った「ネコ実験の小屋」も、往時の姿を残す。約40年前に職員が採取した百間排水口付近のヘドロや、住民が使っていた漁具なども並ぶ。 ただ、保存と継承は考証館でも課題で、空調設備が整っていないほか、未整理の資料も多数ある。運営は主に寄付や会費で賄っており、完全な保存環境を整えるのは容易ではないという。坂本さんは「水俣で、実物を見てもらうことに意味がある。今も続く水俣病問題を考えるきっかけにしてほしい」と語る。
水俣病遺構「現地で見るからこそ、背景が浮かぶ」…「公害の原点」保存へ取り組む人々 | ヨミドクター(読売新聞)
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今週末は「菊の節句フェア」来週9/9は重陽の節句、菊の節句と言った方が通りがいいですね。重陽の節句は五節句のひとつですので毎年恒例でうんちくを。
「九」は「苦」につながるとして忌み嫌う人や地域もあるようです。でも、これは近代以降の考え方のようで、もともとは、中国渡来の陰陽思想が日本に根を下ろした頃から、奇数は縁起のよい「陽の数」とされ、一番大きな陽の数である「九」は究極数として崇高なものの象徴とされていました。
九重(ここのえ)という言葉の意味も、単に「物が九つ、または、いくつにも重なっていること」の意にとどまらず「宮中(中国の王城は門を九重に作ったことから)」を指す意味も込められているのです。ですから九月九日は「九」が二つ重なることから「重陽(ちょうよう)」と呼ばれて非常に縁起の良い日とされていたのです。古代中国では、この日、菊の花弁を浮かべた菊酒を酌み交わして、長寿と無病息災を願う風習がありました。この風習が、日本に伝わって「重陽の節句」となったのです。
この菊酒ですがほんとの菊酒は菊を浸した水で作ったお酒のことで菊の花びらを浮かせて飲むのは菊酒を疑似的に楽しむ習慣です。 平安時代には重陽節として宮中の正式な行事にもなっていました。当時の宮中では「菊花の宴」が催され、菊酒を飲んで天皇の長寿を祝ったそうです。当時、菊には不老長寿の霊力が宿っていると信じられていたので、重陽の日の前夜、綿に菊の香や露をしみ込ませ、節句当日にそれで体を拭いて長寿を祈ったのです。皇室の紋章として「菊花」が用いられていることからも、「菊」に対する想いは古くから特別なことがあった事を感じさせますね。
江戸時代になって、一月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕とともに五節句として武家の祝日になり、この日には参勤交代で江戸城下の屋敷に駐留していた各藩主が登城して将軍家にお祝いをしたのだそうです。 そして、藩主達もこのような風習を良いこととして国許にも伝えたところ、江戸武士の習慣であった節句祝が日本中に根を下ろしていったそうです。
もとは旧暦での日程設定だったものを明治政府による改編で約一か月ほどずれた現在の暦の設定になりました。ですので旧暦、現在では10月中旬ごろなら菊の花も盛りなのでしょうが現在の9/9はまだ菊真っ盛りとは言えない時期です。というか夏です、まだ。
菊の節句なのに菊の流通量が少ない、なので価格も高い!という花業界あるあるの季節イベントですが菊が旬な時期、11/6には「いいマムの日」があるのでそこでたくさん楽しんでもらおうと思います。今日は輸入のマムにも手伝ってもらい店頭販売をしていますので、菊を愛でながら菊酒を楽しんでください。
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