#浮屍
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kaoriof · 7 months ago
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いままで重ねきてきた罪がドミノみたいにすれすれに並んでいるのをずっと遠くから眺めているような気持ちだった。心の奥底でぴんと糸を張る緊張感がいつもわたしを誤らせる。(愚かだ あなたは暑いときに読み間違う)という長谷川白紙の歌詞をおもいだしながら暗くなる空を見つめていると、なんかもうカサブタを無理やり剥がされていくみたいな感じがして傷だった。わたしは夏が大好きだけど大嫌いで、永遠に続くかのように全てが眩しくて美しい若さにいつまでも浸っていたいけれど、一方では早く年老いて静かに暮らしたいと思っている。相反する思いをつねに抱えながらその境目で絡まる糸を解こうと精一杯もがいている。今この瞬間も街のどこかで一枚のフィルムが現像され、誰かの想い出に色が与えられる。豊洲、ビル群に沈んでいく冷たい夕陽、騒音とウミネコの細い足、まつ毛の上を滑り落ちる光。今日もわたしは身を削り働いている誰かに、得体の知れない神経信号に、大いなる存在に生かされている。自分の思うとおりに瞳や手足が動くという事実がたまに恐ろしくてたまらない。夜な夜な寝付けずそんなくだらないおぼつかない事象について考えを巡らせていた。目の前で光ってゆらゆら笑う運命に諦めたように微笑み返す。これはけして悲しい日記ではない。溢れてくる感情は山ほどあるのにそれに名前をつけたら終止符が勝手に打たれてしまうような気がして、気が付いたら大量の屍を背負っていた。屍はなんかちがう、色を落とした季節とか、風化した手紙、音を失った楽器とか、そういう表現のほうが正しい気がする。悲しいサンタクロース、みんなに優しさを振りまくけどほんとうはそれと同じようにだれかにただ慰めてほしかっただけだった。わたしはきっとまた思い返す。何度でも思い出す。あなたのくれた思い出ではなく、あなたが好きだったことを思い出す。人々が言葉を手放していくのには理由があって、それは「妥協」でもなくて「幸せになったから」でもなくて、ただ目の前にそのすべてを体現している美しい命のかがやきがあるからなのではないかと思ってしまうほど、あなたをまっすぐ好きだった。どんな小説の文言も重厚なメロディもがらんどうに感じてしまうほど、無鉄砲であぶなっかしい、まっさらなその素直さにいつも心を揺さぶられていた。あなたは不器用でいつも失敗して後悔ばかりしていたけれど、その全てが愛おしくて、わたしはあなたの最後の過ちでありたかった。思うままに泣いたり怒ったり笑ったりするあなたが、最後、涙を堪えていたのをいまでもはっきり覚えている。家族を愛するあなたの一番の理解者として選ばれたかったし、ずっとあなたがとらえる季節のいろどりや機微に憧れていた。ガラスのように脆いのか強いのか、繊細で傷付きやすいのか誰かを傷つけてしまうほど危ういのか分からないあなたの感性はいつだって万華鏡のように姿形を変えど、この世の全ての美しいものを映していた。あなたの変わっていく音楽の趣味、言葉選びと服装に自分の痕跡が垣間見えるたびにわたしは浮かれて、もっとあなたのことを好きになっていった。間違ったっていい、後悔したっていい、運命を踏み間違えた結果としてあなたが誰かに拒絶される理由になるなら、そんな世界は壊れてしまえばいい。精一杯、がむしゃらに生きていい。だれにも許されなくても愛されなくてもあなたはあなたであっていい。ただ諦めければそれでいい。これは誰かに宛てたものではない。これまでの歴史、そしてこれからの日々について考える。谷川俊太郎の詩を思い出した。あの空のあの青に手をひたしたい。まだ会ったことのないすべての人と会ってみたい話してみたい。明日と明後日が一度に来るといい。ぼくはもどかしい。地平線のかなたへと歩き続けたい。そのくせじっとしていたい。この草の上でじっとしていたい。声にならない叫びとなってこみ上げる。
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neigesucre · 2 years ago
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コンディション絶不調。省察の時期。
・彼氏(仮)と壊滅的に会話が合わない。おそらくお互いに恋愛の不確定要素への期待値が下駄だった。そして、こんなにデートしたんだから、とサンクコストが働いてしまった。
・私は会話のコミュニケーションへのウェイトが高すぎる。会話を通した他者とのカタルシスを本当に愛している。彼とはそれがなかった。
・彼とのコミュニケーションに違和感を抱いてから、加藤をはじめ、好きだった男の子たちとたくさん会ってみた。めちゃくちゃ気持ち良かった。セックスより気持ち良い会話があると思っているけど、それだった。そういう人のことを性的に好くのだと思う。痛い目を見てもなお彼らに執着しているのがずっとわからなかったけど、たぶんそういうこと。
・じゃあなぜ彼と合わないのか、細かなコミュニケーションロスはさることながら、抽象的な事象を考える癖がないから。そして私が会話に求めるのは、私の発した言葉を他者の言葉で噛み砕いてもらうことによって���思考の輪郭をより鮮明にさせる工程。
・かよ先輩やひなちゃんに会うと「正気になれる」感覚がある。加藤たちも同様。各々との共通言語に違いはあれど、大好きな人に共通しているのはそれだった。概念を咀嚼するのがうまいんだと思う。
・1人でいる時はずっと考え込んでしまう。屍になった下書きがiPhoneのメモ帳に巣食っている。会話で吐き出せないものを文字に起こすことで昇華したいんだと思う。
・だから、そんな時間を必要としないほど忙しくするのを好んでいる。今回は、便宜上恋人ができたことによってマッチングアプリの類をやめたタイミングと、キャストが増えてバイトのシフトが減ったタイミングが重なったのがが本当に良くなかった。
・近い未来の計画を立てることに時間を費やすことが精神安定になる。この夏はトータル3週間ほど海外で過ごすことにした結果、情報収集に長く時間を割いたわけだけど、内省の時間が減るのが良い。旅程を完遂してしまったことも良くなかった。同棲、結婚、出産、進学等々の準備は紛れるから楽しそう。具体について思考する時間を無理やり捻出する必要がある。やっぱりライフイベントはあった方が良い。
所感
・遅かれ早かれ続かないのはあまりにも見えきっている。が、縒りあわせるのを諦めるのはなんか悔しいのでまだやる。私の問題。
・数多の据え膳を食べ損ねたので、私は意外と浮気しない。
・が、それが私にとっての枷でもあるゆえに、相手に求めるコミュニケーションパフォームのハードルがバカ高い。
・恋人がいることでセックスへの期待値の下駄を脱げるので、恋人がいるほうが他者と良質なコミュニケーションができる。
・旅程は早めに組むのが良い。
・ライフイベントを通して手足を動かすことが私には必要。早く結婚するべき。
・私はマジで忙しくしたほうが良い。
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iseilio-blog · 8 months ago
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寄 旅 平 生
人們一般對於文字、尤其是那些形容詞,都做了文勝於質的使用,
從而對生命有了過度的闡發。人的七情六慾,在形容詞上面就有:
痛苦、悲傷、憂愁、快樂、自卑、憤怒、焦慮、絕望、欣喜,等等
詞彙的存在。於是研究文字,行文走筆在無意間的使用,令這些
詞彙有了必然的彰顯。
人的情緒總是隨著時時刻刻的日常生活,以及工作上的種種變化,
於是處於臨境狀態的感覺,也隨時生滅、轉換。這也就是人生在世
一個屬於哲學的部份。“哲學” 要做什麼?不就是要對人們的生活、
生命提供一個解方嗎���兄弟鬩牆、夫妻反目、友朋背叛,這是負面
的一方;兄友弟恭、父母慈愛,開朗陽光、快樂無比,這是正面的
一方。
將生命拉成一條直線,上面所說的種種情緒、感覺,就是一些高高
低低的起伏,去除了這些高低起伏,生命恐怕就不實際存在。天涯
若比鄰 相見不相識?行屍走肉?這些當然也是生命,相較起來,
透過這些形容詞,生命呈現出了鮮活動態。宏偉壯大的生命,對
一般人來說,其實意義不大,可以高高掛起,存而不論。你好嗎?
吃飯沒?溫柔、情愛、春夏秋冬、生老病死,這些才是內容。
生命是什麼?生命就是一個能量由生到死的過程。存在於這個世界
的睡覺、吃喝拉撒,是生物性的;罵他會哭、哄他會笑,這個生命
上面就有著靈魂。人之異於禽獸者,幾希?就是這個生命的
“泛化”。這個世界分疏了三教九流,智愚賢不肖,也出現了種種
政治、經濟、生物、化學等等的學問。直至今日繼往開來,甚至發展
出有一天或許替代掉人類的 AI。這個 AI 乘載了人類幾千年發展出來
的智識,卻沒有生命死亡的問題。只要天地有著宇宙射線做能源,他
甚至可以一直存在下去,甚至巡遊宇宙,發出咔咔咔的聲音,無所為
而為的辛勤工作,企圖尋找早已從宇宙消失的他曾經的主人。也透過
化學與生物學結合的研究,企圖回復 “原人” 的再生。到了這個階
段,一片咔咔咔作響的宇宙,再度重現嗡嗡嗡的活潑生機,生氣勃勃
的恢復了過來。
*「 天地者,萬物之逆旅;光陰者,百代之過客,而浮生若夣,
為歡幾何!」 - 李白 春夜宴桃李園 序
遼 尉 臣 筆記 — 日 本 大 勢 三 轉 考
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(195) Winning The Mindgame of Golf - YouTube
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sakanafromhell · 1 year ago
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微生物がいたからってなんなの(1999字)
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 亜沙子が生身のまま宇宙に旅立ったというのは人づてに聞いていた。戻っていたのは知らなかった。  何が起きてもたいして話題にならない時代だ。愛もお金も才能も、今では人類の共有財産。働かなくても生きていけるし、生きていなくても死んでない。格差はあっても怨嗟はないし、英雄もいなければ悪漢もいない。人類は対立せず、疑問を持たず、我関せず、ただ綿毛のように漂っている。
 亜沙子は林檎ひとつを左手に持って、ふらりと私のもとを訪れた。会うのはいつ以来だろう。以前と変わらない神秘的な瞳でじっと私を見つめると、挨拶もそこそこに妙なことを口走った。 「これ、ニュートンが ** を発見したときに見ていた、あの日の林檎。宇宙で見つけた。宇宙には失われたすべてのものが置いてある。地球だって宇宙の一部だが? みたいなのは今はやめてね」 「へえ~」とだけ私は言う。「で、宇宙どうだった?」 「まあまあ退屈かな。踊れないし。文脈もないし」 「友達できた?」 「友達の定義を持っていない」 「じゃあ私って何なんだろ」 「忘れたんだ?」 「勝手に宇宙なんか行くから……。でもさ、宇宙広いでしょ? 友達じゃなくても、知的生命体とかいなかったの」 「ぜんぜん。微生物みたいなのは見つけたけど」 「えっ。大発見じゃないの、それ」 「微生物が?」 「昔よく話題になってなかった? NASAとかが凄い時間とお金をかけてさ。遠い星に微生物の痕跡を発見しました、ってのが大ニュースになったりして」 「微生物がいたからってなんなの」 「なんなんだろ」 「なんでもないでしょ」 「いやいや。人類はどこから来てどこへ行くのか? とかそういうね、昔からある問答の役に立つんじゃない? いずれ。微生物が」 「気の長いこと」亜沙子はせせら笑う。「人類はどこからも来てないし、どこにも行きゃあしない。せいぜいが子宮から来てイオンモール行く程度。だろ?」 「宇宙でパンクとか聞いてた? 初期の」 「遅すぎる���だよね、何もかも。ニュートンは一瞬で世界を変えたのに。この林檎を見た瞬間にすべてを思いついた。ニュートンが創作するまで、 ** なんてこの世には存在しなかったんだよ」 亜沙子は左手に持っていた林檎をかじった。   白い歯に咀嚼され、   舌の上で蹂躙され、   喉の暗闇を通って、   亜沙子の体内に落ちていく、   真っ赤な林檎。
 **なんてこの世には存在しなかったんだよ。
     重
 力
   だ。
 私は重力を再発見する。
 重力。  最近では流行らない、どころかすっかり忘れ去られたアイデアだ。何しろ今はあらゆるものが宙にぷかぷか浮いている。綿毛のように。  そういえば、宇宙から帰った亜沙子はずっと地面に足をつけている。私は浮かんでいることが急に恥ずかしくなって、なんとか着地しようともがくのだけど上手くいかない。  見かねた亜沙子が腕を伸ばして私の手首をつかむ。それで私の手首の骨は粉々に砕けてしまった。皮膚の中で、たぶん星みたいに散っている。  激しい痛み。  でも、ぞっとするほど懐かしい感覚だ。自分の輪郭がくっきり濃くなったような。  亜沙子に手を引いてもらって、私はようやく地面に降り立つことに成功した。  偉大なる一歩。  地面に足をつけると、私と地面がまったく別のものだってことがよくわかる。そんなことすら忘れていたのだ。接することで距離を感じる。別々の物体だからこそ、反発したり引きあったりしてしまう。  亜沙子が私を抱き寄せた。  亜沙子の質量。  押し返してくる肌の弾力。  息づかい。  まつ毛のたわみ。  発する言葉。  あらゆるものに重力を感じる。亜沙子の肩に落ちる髪にも。においにも。視線にも。初夏の日射しにも。戦争とか貧困にも。愛とか平和にも。怒りとか憎しみにも。虚勢とか汚辱にも。金儲けとか陰謀論にも。エヴァンゲリオンとかフロイト式の精神分析にも。二時間後の流星群とか古びたミサンガにも。神とか悪魔にも。砂漠にも。森にも。スタジアムにも。失われていた重さが宿る。 「久しぶり」亜沙子は私の頬に手を置いた。  触れられた部分がたちまち焼け爛れる。 「あれ?」焼け爛れながら私は言った。「私、なんか……幸せかも?」 「不幸になったんだよ」亜沙子は笑いながら言う。「私たちは思い出してしまった。本当はどんな些細なものも共有できない生き物だってことを」 「これって不幸なの?」 「不幸の典型だね。空にぷかぷか浮かんで、みんなでひとつの夢を見ていたほうが幸せに決まってる。人類が進むべき方向はそっちだよ。事実そうなりつつある。でも進化の道からはぐれてしまうのも悪くない。二人きりなら。そう思わない?」  私たちは地面に立っている。この星で私たちだけが重力を感じている。  だけどそれは何のニュースにもならないだろう。  ロケットの燃料みたいに世界から切り離されて、ただ燃え落ちてゆくだけの私たち。  恋愛感情を万有引力に喩えてきた、��今東西の凡庸な詩の群れ。  その残骸の山。  私と亜沙子は新たにそこに加わった、珍しくもない屍のひとつだ。
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)弐
    通巻第8108号 
中国人はなぜ軍や警察を敵視しているのか。
「はい、中国では賄賂を取りしまる警察が賄賂漬けです」
*************************
 はい、中国では賄賂を取りしまる警察が、じつは賄賂漬けなのです。
 大連、旅順、瀋陽(奉天)など日本に馴染みの深い遼寧省(人口4200万人)。その遼寧省警察トップが地元業者の不法行為を黙認し、巨額の賄賂を受け取っていた。
 李文喜・元庁長は在任中に凡そ111億円の賄賂を受け取っていた。23年に執行猶予付きの死刑判決。手口は鉱山企業が違法採掘の捜査を逃れるため李庁長を買収した。
 こうした体質はまるで変わらない。
 鉱山の入り口に「立ち入り禁止。操業停止中」と看板や標識があるが、実際には採掘している。これは常識、操業停止中の看板は撮影用である。
 違法操業の鉱区で『事故』が起きると隠蔽する。事故で犠牲になっても補償金は雀の涙。未亡人が告発すると翌日河に屍体が浮かぶ。事故と聞いて現場に駆けつける新聞記者は『書かない』と言って現金を受け取る。中国の『新聞記者』って、恐喝屋という裏の顔をもつ手合いが多い。
後任の薛庁長は収賄に明け暮れて、総額は28億円の賄賂を受け取った。
その後継の王大偉・前庁長は114億円を受け取った。アルミ製品メーカーのオーナーが、外為関係の不正を摘発されたため、捜査に手心を加えてもらった。賄賂には人民元と米ドル紙幣の現金が400万米ドル。この手口はマカオに4回招待し、わざとギャンブルに負けて「合法的に」香港ドル(邦貨換算で38億円)を渡すなど。遼寧省の警察では空前の巨額賄賂事件となった。
 起訴されると裁判となる。裁判官も買収次第で刑が加減される。殺人��でも無罪となり、窃盗犯でも裁判官の機嫌がわるかったり賄賂が少なかったりすると、重罪扱いされる。
だから裁判は異なる行政区の裁判所に移されるのである。
 中国人がなぜ軍や警察を敵視しているのか。庶民は賄賂と権力の癒着構造を知っているからである。軍が威勢の良いことを言いながら、物資を横流しし、軍経営のホテルは娼婦館であり台湾侵攻を呼号しても、あの軍は張り子の虎、闘わないだろうという軍人の体質を知っているからである。
日本のように警察を信頼し、自衛隊を頼りにしている国柄とは根本が違う。
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propwc · 1 year ago
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只有啓程,才會到達理想的目的地,只有拼搏,才會靠近嚮往中的成功,只有播種,才會收穫夢想中的果實。
(20240212)
當你的才華還撐不起你的野心的時候,你就應該靜下心來學習;當你的能力還駕馭不了你的目標時,就應該沈下心來,歷練;夢想,不是浮躁,而是沈澱和積累,只有拼出來的美麗,沒有等出來的輝煌,機會永遠是留給最渴望的那個人,學會與內心深處的你對話,問問自己,想要怎樣的人生,靜心學習,耐心沈澱。
這世上沒有所謂的天才,也沒有不勞而獲的回報,你所看到的每個光鮮人物,其背後都付出了令人震驚的努力,請相信,你的潛力遠沒有爆發出來,切勿給自己的人生設限,你自以為的極限,只是別人的起點。
人生需要不停地奮鬥,一個不懂得奮鬥的人,註定成不了大事,過著渾渾噩噩、行屍走肉般的生活,猶如失去的了靈魂後僅存的空空如也的軀殼,機械地重復著每天的生活,失去了生命的意義和價值,所以,為了不碌碌終生,我們需要奮鬥終生。
拖延將不斷滋養恐懼,而行動是治癒恐懼的良藥。
當你在猶豫的時候,這個世界就很大;當你勇敢踏出第一步的時候,這個世界就很小,等到有一天你變成了你喜歡的自己的時候,誰還會質疑你的選擇不靠譜呢?你已經變成更好的你了,一定會遇到更好的人的,你是誰,就會遇到誰。
接受生活的不完美,是一種力量,更是一種張力十足的復活。
人生像一張潔白的紙,全憑人生之筆去描繪,玩弄紙筆者,白紙上只能塗成一灘胡亂的墨跡;認真書寫者,白紙上才會留下一篇優美的文章。
逆境使人成熟,絕境使人醒悟,麥穗越成熟越懂得彎腰,人越懂得彎腰才會越成熟,不要把別人對自己的放棄,變成自己對自己的放棄。
如果想走出陰影,那就讓你的臉面向陽光;如果你想告別懦弱,那就讓心在歷練中慢慢堅強;如果你想擺脫平凡的生活,那就努力讓自己��傲的飛翔。
人不能自卑,自卑把自己看得太低,什麼事都做不成,人不能自傲,自傲把自己看太高,最後沒有人能看得起你,人最重要的是別太關注別人的眼光,不斷和自己比,和自己較勁,讓自己成熟和進步,取得自己的天地,在別人眼中活自己,永遠是別人眼光的附庸,在自己眼中活自己,就是自己的主人。
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yvonnebiopsy · 2 years ago
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Watch "洪患上萬人死亡! 利比亞近海大批浮屍染紅海面 重災區飄散屍臭味! 政府撇人禍怪"老天"打撈工作恐需數月│記者 王少筠│【國際局勢】20230917│三立iNEWS" on YouTube
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phantomthief-1008 · 20 hours ago
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七律:讀〈入武林〉有感
北風席捲漢家山,赤手書生欲補天。
靖難起兵招勇士,勤王駢力復東南。
捨身取義垂青史,視死如歸遺絕篇。
忠烈千秋懸日月,同光二聖感煌言。
註:武林指杭州。駢力指和鄭成功配合抗清。復東南是指張煌言率兵收復了安徽浙江四府二十餘縣。日月暗喻明朝。二聖指岳飛和��謙。@*
七絕:殉國
(一)
天祥燕市仰南天,世傑秀夫葬海瀾。
大宋文臣多死節,明亡畢竟有煌言。
(二)
取義成仁重泰山,精忠報國仰前賢。
立碑湖畔名三傑,一樣冰心鑒海天。
張煌言〈入武林〉
國亡家破欲何之?西子湖頭有我師。
日月雙懸于氏墓,乾坤半壁岳家祠。
慚將赤手分三席,敢為丹心借一枝。
他日素車東浙路,怒濤豈必盡鴟夷!
注1:一枝是指小小的棲身之所。語出《莊子•逍遙遊》:「鷦鷯巢於深林,不過一枝。」用鳥一枝可以立足來比喻人一抔可以埋身。這兩句的意思是我赤手空拳起兵抗清,失敗了,很慚愧,不敢和岳飛和于謙並列三席,但我有一顆忠義之心,也希望死後和兩位前輩葬在一起。
注2:素車指錢塘江潮。鴟夷:皮革製的囊,借指伍子胥。《史記•伍子胥傳》說子胥死後,吳王取其屍「盛以鴟夷革,浮之江中。」《吳越春秋》:「吳王乃以子胥之屍,盛以鴟夷之器,投之江海,子胥因揚波成濤激岸,隨潮往來。」伍子胥死後為海神,每年八月都會駕素車白馬,驅錢塘江潮,拍岸伸冤。我的理解是素車白馬是另外空間的情景,而在人間看到的就是錢江大潮,所以素車就是大潮。這兩句是說:我死後今後再有錢塘大潮時,那怒濤並不一定完全屬於伍子胥的,也有我張煌言一份。表示自己死後也要化為驚濤駭浪反抗異族統治精忠報國的決心。
張煌言,字玄著,號蒼水,1620年出生於鄞縣(今浙江寧波),是南明大臣,文學家,民族英雄。他是崇禎時的舉人,官至南明兵部尚書,南京失守後,與錢肅樂等起兵抗清。後奉魯王,聯絡13家農民軍,並與鄭成功配合,親率部隊連下安徽20餘城,堅持抗清近20年。1664年,魯王朱以海病死於金門,張煌言終於認為復明無望,將軍隊解散,躲避至浙江象山附近的小島隱居,之後仍為清軍偵知逮捕,在省城杭州被處斬決,臨刑前,賦〈絕命詩〉。他詩文多是在戰鬥生涯裡寫成,質樸悲壯,表現出作家憂國憂民的愛國熱情,有《張蒼水集》行世,張煌言與岳飛、于謙並稱「西湖三傑」,與羅綸並稱為「張司馬二客」。
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castiel2462 · 12 days ago
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台中最近光新聞報導不明原因墜樓跟浮屍就不計其數,現在直接在街上發生疑似自焚(南區復興路某加油站)
最恐怖的就是對這些事毫無感覺繼續票投中國黨的台中人
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imarkettomo · 12 days ago
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螞蟻屍體會引來螞蟻嗎?
在一個陽光明媚的午後,我在家中發現了一隻死去的螞蟻。好奇心驅使我仔細觀察,心中不禁浮現一個問題:螞蟻屍體會引來其他螞蟻嗎?這個問題不僅關乎生態學,還涉及到螞蟻的社會行為與生存策略。 研究顯示,當一隻螞蟻死亡時,其體內釋放的化學物質會吸引其他螞蟻前來。這些螞蟻會將屍體帶回巢穴,這不僅是對同伴的尊重,也是維持巢穴衛生的重要行為。這種現象不僅存在於螞蟻之間,還反映了自然界中生物之間的互動與合作。 因此,當我們看到一隻螞蟻的屍體時,不妨思考這背後的生態意義。這不僅是生物界的循環,也是生命與死亡之間深刻的聯繫。透過這樣的觀察,我們能更深入理解自然的奧妙,並珍惜每一個生命的存在。 文章目錄 螞蟻屍體迷思:經驗分享與在地觀察 螞蟻屍體引蟻之謎:專家解析與科學證據 蟻群危機警報:如何有效應對與預防 打造無蟻家園:實用建議與在地資源 常見問答 因此 螞蟻屍體迷思:經驗分享與在地觀察 身為一個土生土長的…
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kaoriof · 1 year ago
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(高校時代の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人も��るらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。そんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価を��つだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題 
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と���すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時に���たりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いた。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連��とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているのでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。わたし、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼い��い、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。���たしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう��このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまう。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌い��なりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほど悪口を書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた自転車の車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった��それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速��せる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな���に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全て���吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと���慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それ��のに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが���女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方な���。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程���何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール���ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に��めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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apple88888888 · 1 month ago
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對於吃飯不想掃興,但是因為吃飯跟那個宗教信仰有關係,有的人不吃魚啊,有的人不吃海鮮,有的很不吃牛肉豬肉啦這些都可以理解,但是對於餐館就會非常的麻煩,因為大部分的餐館都是葷食餐廳,衫食麥當勞,最近因為在家裡面聽宗教音樂有一個感覺,大型動物的業障香是最重的,所以僧團的音樂馬上停止,驚訝,喔!,要吃什麼看心情或看人,畢竟身體不好要營養,也是一個問題
去年還是前年大展駕訓班買一本全新的駕駛手冊焚燒應該都收得到,不想再聽到阿伯在抱怨,因為那個徐佳瑩的音樂這個憑空跑出來的車子撞到,到2020,2021中悅倒垃圾路旁,聽,還是不要亂燒,有的東西燒出黑煙就表示那這個東西不好,白煙是正常,燒給我媽的DM燒家具DM還有家電類的DM,奇異現象生鮮超市的DM不行,神隱,全素神明,不用超市dm
這個也很奇怪,因為補習班的廣播實在叫太大聲,隔壁鄰居門口常常又亂丟垃圾,就稍微去看一下,原來這麼髒,然後這兩天去幫你們掃是因為第一天本來想說稍微把垃圾清一下就好了,你們自己掃,但是因為掃完當天晚上就做惡夢,夢到類似歐洲巫婆在煮魔藥的那個鍋子然後還有動物的屍體還有蛇,昆蟲,第二天再幫你掃乾淨並且直接跟老闆小老闆娘講倒垃圾,今天已經掃的非常乾淨了,只剩下木材要通知垃圾隊清潔隊要來收垃圾,木材是垃圾,必須要通知清潔隊來收,夏天到了整條路的環境整潔蠻重要的,不然夏天又一大堆人又要去看醫生,這跟環境衛生關係很重要,我都覺得很扯耶,這個,這些人是到墳墓裡面去找紅線嗎,若不掃地不拖地不擦桌子,就這個地方是不用,那是因為老媽跟老闆有小聊天,不然我也不曉得,老媽說老闆是買一台車來拆解,然後研究車子的所有零件來做生意的,我家大概只有我媽會去串門子,我們真的沒有什麼話題可以講,除了倒垃圾,蝦鄰居
梵蒂岡藏眾後遺症,摩西過鴻海,耶穌都有後代,其他也是一樣的,紅白香蕉,衣服全部都是紅白,我只是猜測,不曉是不是,這應該要問那個歐洲的基督徒或者是教堂的神職人員,宮廟一樣紅白,救人的才會有香火,不辭千里來搭一條線,要什麼有什麼,不救人,大家現實,要什麼沒有什麼,自己想辦法,爭執超過阿罵,空殼,仇日連神仙後代也不例外,大陸人移居到小島,早就超過60年,問題都是大陸內戰遷到小島,什麼東西都怪小島居民也不對吧 阿罵半年很久了
聖經的墮落天使的故事是真的,被上帝砍斷翅膀的天使,在陸地上與人類結合,然後再生出來的後代,返祖現象又長出翅膀,梵蒂岡是應該是大白天這一群的天使的後遺症,一堆介紹天使的後代還有人魚的後代,發現這一群人靠胸部就夠用了, 母親的懷抱,那個胸部守護者就可以講了,我們是不理
爛英文口說物語,拒訪,撤離別人家攻戰第一年破一個大洞的房屋離譜,惡戰,現在,距離2001,2002台北的外貿協會廣告公司公司也只有一年,屬騙,德國漢諾威展覽,展覽大到要搭公車逛展閒聊,德國總理梅克爾跟賀少俠形同母子義大利吵鍋,笑小王被抓住,混屬條,遷,美國德州才會講這麼久,德州確實是德國的家屬家族,石油公司夠養人,德國聽說是希臘家族整理的,東西德統一麵,東德經濟狀況不好西德是工業發達,統一,經濟面倒退10年,這還是當時統一的那一年有一堆的爭議浮出檯面,後續幾年就是希臘家族整理,那是電話在講,一般人不知道,歐洲國家有一堆的空殼,考蝦子,美國楚門的世界就是答案,那只是沒有人,參透,霍爾的城堡應該是有人已經醒了,但是我們還不曉得,年年都是經濟麵,誰會想到,誰會管那麼多,怪獸電力公司,門超多的,整神
鄰居阿兄的兒子,外勞的配偶欄不是我們家的家屬,我們家的衣服都被她弄漂白水弄退色,她真的很可惡,已經吵了好幾個月了,把我家搞雞飛狗跳的,帶子早就不止了,隔壁丸子三兄弟還想靠外勞摺養,今天外勞有錢她就不會來台灣打工了,怎麼會一堆跟外勞牽拖台語相對的台灣人到國外去也是一樣啊就是台勞啊,哪裏來這麼多屎尿,真的是非常離譜,她在刺遷怒太久,我不覺得生兒子有多了不起,污魚對切油飯拿起來,這還是電話裡面人,這個高山烏龍茶在吵,我才發現了刪減色狼,老奶奶薑茶,2016工廠對面講話,維大力同事外號講話,以前很好拿現在為什麼不好拿,你妳不可以講答案,他她要刪減人數,騙倒欺倒一堆喔,這一群人在搞事,那整座島就不會有人了,邏輯不合本來就要分開煮食
美國就算是總統也是陌生拜訪,他後悔給他前妻的巨額贍養費去包養小狼狗,一整串的肉粽,然後一堆人全部都是森巴,美國這一群家族剉冰,倒錢,他老婆不見了變黑色人口,跟她的女傭朋友是一塊待在家裡面罵人,美國的事情跟我們家2005開始爭執是兩回事,眾吵移民分配給別人,小吃店餡料減少,一堆扯遠了,火滅不完,因為一直都在點火,主要是宗教神子跑出來講話2009男天使死不值,高空安全繩索搭我爸小發財車公事包搭蓋房節目美國工人包包有講,是這兩年2022,23,24又發現神火,然後又剛好看視頻調出三年前國外YouTube舊影像檔,女天使出來講話,剛好基督教一男一女,罵,阿嬤娘家派一男一女點香,全部都是諜家爭執,沒有想到,沒有用,全部都是宮廟對面,宮廟是解散,教堂洋人的廟也是一樣
入境隨俗的生活方式🐸天災人禍🥦移轉國度與宗教,只要是好的宗教上天堂,🍒大家轉,都不管🍇,研究宗教神力與功德,🤡取笑西人牙膏的豬肉麵,整色卡住😄,天使是女生胸部這麼大真的是夠用了🤭,我們吃的雞胸肉真的很有肉🫨,這樣子創業賣雞排應該是成功的🤑天空之神的福利社🍅,原來天空之神都是裸身的🔥
圖書館員臥虎藏龍,掌握知識,天下無敵,那些陪我們度過時間的偶像卡,海報,書籍,書中內容與童裝格式很雷同,滿人背心,書籍內容曉談,幾乎跟在家沒兩樣,美語櫃檯協對面,衣服年代有分,最近是聊到會搭配衣服訪談有加分效果
還有大嫂他妹ada在法國時候帶的那副眼鏡,讓我想到我小學同學的眼鏡很像透明塑膠鏡框,好像是風紀股長的眼鏡,剛好吉得堡美語可以談,還有中祥餅乾也是安親班的小學同學,家裡都會買餅乾,還不錯吃,拜拜都會用到餅乾
美國TLC節目陪你10年,各行各業是藏爭逢,還有美國官員的家屬,節目裡面是官股,久談激貸糕
研究大園空難的機長的名字屬龍名字又有龍,龍年出生的人又這麼多,沒有想到這麼多,龍起來,龍眾挫冰
忘了把廚房的景象拍下來,一堆米奇真的會吃飯,吵久,大概有20隻趕動,兩年,米奇不但不離開還在這孵蛋,一陣子米奇消失一些,正在處理趕走米奇,最近又跑進來,全部都駡,米奇會聽,這如果家裡開餐廳的話應該超過50隻到100隻喔,真的一堆動物在家裡吃buffet
餐桌談不完,業障香用誣賴的,想的美,美國建築灰搭,罩找路,軍用吉普車的車型,路上趴趴走,用講的,還有一個高中的建築模型找材料,小貨車奮鬥史,寶特瓶全部撿,我爸開的小貨車載我去鶯歌找建築模型的材料廠商,父女倆個找路,然後高中畢業製作的建築模型是班上有分組,整個團隊完成並非一人所為,不曉得大家是不是有收到建設公司的聘書,我有收到一張,但是我選擇去補習考大學,是不是早知道先去上班,而不是考大學,但是當時的社會氛圍就是鼓勵你升學啊,整食物斂,斂不完,然後三年後921大地震,房子倒下全部損失歸零,繼續蓋房子,剛好到台南家專讀書碧文跟我同一組我們在談那個室內設計選系的問題,不見得選視覺傳達系加深立體概念,所以我才會很喜歡畢業製作蕭貞雅的透明模型概念,畢業製作的成果展各組人馬的作品,有的不錯,有的還好,高雄室內設計師的作品,家可選,喔上班可以,但是學校未知風水不行,環怨是散,還有電話天外來的指令,指令我不曉得,從高中華航到台南的指令,還有刈包未知,我跟我爸媽,老奶奶的薑茶老奶奶的菜錢,是孫女給的,所以她閉口不談我不意外,奶奶如果講的話錢盤馬上斷了,大家疏遠了,平常真的省吃儉用我跟我媽還有奶奶的菜錢,三個女生的內褲啦數位教學斜對面,我聽了一肚子火,我已經很火大了,我這裡是家庭流水帳,會計部對面喔,去年下半年才發現的媽跟胖子,在談一些問題,鏡去不可能,主要是探究什麼東西有問題,我覺得超級不可思議的,麵筋扯住了,那樓下8000不是10年前就早就火化,大家就不用了,一整個超過了耶,最離譜的就是還有佔女生的便宜,這是色狼扯住了,大家根本就不救色情狂,超級離譜的,只有吉得堡的櫃台林錦雲可以講,黃騰輝6點半阿嬤,旅行社考試對接,大嫂這條線可以繼續談,補習班的負責人,替換道路線接英國跟法國這條線,對面在家上課啦,數位教學真的可以用
加害者要當被害者家屬,扯電視超不搭,惡爭,訪欺也一樣,錢面,爸爸媽的紅白包攔住也不合,媽說給別人,爭議
最好的戒菸方式發現還有一種把它變成窮人,菸酒直接斷了,斷面黑松汽泡水概念,這也是一種方式之一,上帝幫你關了一扇窗,必定為你開扇門,穿梭陰陽門爭年
壞文青,冰垃圾,廢拔辣
耳爭,空中廚房,德國人跟以色列人的便當,全部都丟到垃圾桶,再撿回來給客人吃@@!鬥破局,鬥花超離譜,空中廚房超有梗,免煮
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wangwill · 1 month ago
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感傷
H:文人的感傷既長且深,一個秋,可長篇如韓愈「秋懷詩」,如梭羅「散步」。一般人只能望字興嘆,而且有興致的讀下去。納蘭性德「人生若只如初見,何事秋風悲畫扇。」自己的思念,扯到秋風卻成名句。詩人散步,寫千古名句,一般散步,回來會說「好熱」就没下文。張愛玲:「不知道,是什麼讓自己滄桑,不明白,是什麼讓自己撐起,才知道人生短暫,而生命的路途還是那麼遠。」宋.無門慧開「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪;若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」年輕太閒易生事,要在忙中取閒。老一輩的人笑年輕人太閒要當仙,道行尚淺有可能成仙嗎?年紀大想太多易生病,要在閒中取得規律的生活。想太多,無彩工。宋周邦彥「此時情緒此時天,無事小神仙。」清  錢德蒼《解人頤》「一生風月且隨緣,窮也悠然,達也悠然。日高三丈我猶眠,不是神仙,誰是神仙?」能閒能睡就是福,日高三丈我猶眠賽神仙「貧惰仙」。晨4:45起,太閒,查感傷相關!20250525W7
維基文庫:
秋懷詩
作者:韓愈 唐本作品收錄於《昌黎先生集》《秋懷》詩十一首,《文選》詩體也。唐人最重《文選》學,公以六經之文為諸儒唱,《文選》弗論也。獨於李並阝墓誌之曰:「能暗記《論語》、《尚書》、《毛詩》、《左氏》、《文選》。」而公詩如「自許連城價」,「傍砌看紅藥」,「眼穿長訝雙魚斷」之句,皆取諸《文選》,故此詩往往有其體。多自感,其趨尚不與世合,故末章有「避語阱」、「觸心兵」之句,繼又以霜菊自嘆,可見一時直道之不容也。
姊妹計劃: 數據項
 窗前兩好樹,眾葉光薿薿。[1]秋風一披拂,策策鳴不已。微燈照空床,夜半偏入耳。愁憂無端來,感嘆成坐起。天明視顏色,與故不相似。羲和驅日月,[2]疾急不可恃。浮生雖多途,[3]趨死惟一軌。胡為浪自苦?得酒且歡喜。
白露下百草,蕭蘭共雕悴。[4]青青四墻下,已復生滿地。[5]寒蟬暫寂寞,蟋蟀鳴自恣。運行無窮期,稟受氣苦異。適時各得所,松柏不必貴。
彼時何卒卒,[6]我誌何曼曼?[7]犀首空好飲,[8]廉頗尚能飯。[9]學堂日無事,驅馬適所願。茫茫出門路,欲去聊自勸。[10]歸還閱書史,[11]文字浩千萬。陳跡竟誰尋?[12]賤嗜非貴獻。[13]丈夫意有在,[14]女子乃多怨。
秋氣日惻惻,秋空日淩淩。上無枝上蜩,[15]下無盤中蠅。豈不感時節,耳目去所憎。[16]清曉卷書坐,南山見高棱。其下澄湫水,[17]有蛟寒可罾。惜哉不得往,豈謂吾無能。
離離掛空悲,戚戚抱虛警。露泫秋樹高,[18]蟲吊寒夜永。斂退就新懦,趨營悼前猛。歸愚識夷塗,[19]汲古得修綆。[20]名浮猶有恥,味薄真自幸。庶幾遺悔尤,即此是幽屏。[21]
今晨不成起,端坐盡日景。蟲鳴室幽幽,[22]月吐窗囧囧。[23]喪懷若迷方,浮念劇含梗。塵埃慵伺候,文字浪馳聘。尚須勉其頑,王事有朝請。[24]
秋夜不可晨,秋日苦易暗。我無汲汲誌,何以有此憾?寒雞空在棲,缺月煩屢瞰。[25]有琴具徽弦,再鼓聽愈淡。古聲久埋滅,無由見真濫。[26]低心逐時趨,[27]苦勉只能暫。有如乘風船,一縱不可纜。不如覷文字,[28]丹鉛事點勘。[29]豈必求贏余,所要石與甔。[30]
卷卷落地葉,隨風走前軒。鳴聲若有意,顛倒相追奔。空堂黃昏暮,我坐默不言。童子自外至,吹燈當我前。問我我不應,饋我我不餐。退坐西壁下,[31]讀詩盡數編。作者非今士,相去時已千。其言有感觸,使我復淒酸。顧謂汝童子,置書且安眠。丈人屬有念,[32]事業無窮年。
霜風侵梧桐,眾葉著樹乾。空階一片下,琤若摧瑯玕。[33]謂是夜氣滅,望舒霣其團。[34]青冥無依倚,飛轍危難安。驚起出戶視,倚楹久汍瀾。[35]憂愁費晷景,日月如跳丸。[36]迷復不計遠,[37]為君駐塵鞍。
暮暗來客去,群囂各收聲。悠悠偃宵寂,亹亹抱秋明。世累忽進慮,[38]外憂遂侵誠。強懷張不滿,弱念缺已盈。[39]詰屈避語阱,冥茫觸心兵。敗虞千金棄,[40]得比寸草榮。知恥足為勇,晏然誰汝令。[41]
鮮鮮霜中菊,既晚何用好。揚揚弄芳蝶,[42]爾生還不早。[43]運窮兩值遇,婉孌死相保。[44]西風蟄龍蛇,眾木日雕槁。由來命分爾,泯滅豈足道。
《木蘭詞·擬古決絕詞柬友》納蘭性德
人生若只如初見,何事秋風悲畫扇。
等閒變卻故人心,卻道故人心易變。
驪山語罷清宵半,淚雨零鈴終不怨。
何如薄倖錦衣郎,比翼連枝當日願。
「無事是貴人」這句話的意思是,心中沒有煩惱、無罣礙的人,才是真正的貴人。 聖嚴法師曾解釋說,這種人不會計較個人利害,對所有的人都有幫助,就像幫助他人脫離苦海一樣。
宋  周邦彥《鶴沖天》(溧水 長壽鄉 作):
      「梅雨霽,暑風和,高柳亂蟬多。
小園臺榭遠池波,魚戲動新荷。 
        薄紗櫥,輕羽扇,枕冷簟涼深院。
此時情緒此時天,無事小神仙。」
清  錢德蒼《解人頤》
   「小門深巷巧安排,沒有塵埃,卻有莓苔。
自然瀟洒勝蓬萊,山也幽哉,水也幽哉。
       東風昨夜送春來,才見梅開,又見桃開。
十分相稱主人懷,詩是生涯,酒是生涯。
       一生風月且隨緣,窮也悠然,達也悠然。
日高三丈我猶眠,不是神仙,誰是神仙?」
「懶惰」在閩南語裡有多種表達方式,例如「貧惰」(pîn-tuānn)、「懶屍」(lán-si)、或者「懶惰蟲」(pîn-tuānn-thâng)等等。 其中,「貧惰」是最常用的詞彙,表示懶惰、不勤快。 
具體來說: 
貧惰(pîn-tuānn): 表示懶惰、不願意工作。
懶屍(lán-si): 表示懶洋洋、無精打采的樣子。
懶惰蟲(pîn-tuānn-thâng): 比喻懶惰的人。
【臺灣唸謠】貧惰仙
 貧惰仙,貧惰仙,
一天過了又一天,
身軀無洗全全鉎。
走去溪仔邊洗三遍,
毒死烏仔魚數萬千。
貧惰骨
釋義
名詞 懶骨頭、懶惰蟲。
第1項釋義的用例:
彼个貧惰骨,日頭曝尻川矣閣毋起來。
貧惰(pîn-tuānn): 泛指懶惰. 
貧惰仙(pî-tuānn-sian): 類似「懶惰仙」的說法,帶有幽默、戲謔的意味. 
懶屍(lán-si): 形容懶洋洋、倦怠的狀態. 
懶屍骨(lán-si-kut): 類似「懶惰蟲」的說法,強調懶惰的程度. 
乞食仙(khit-tsia̍h-sian): 類似「懶惰蟲」的說法,比喻懶惰成常. 
荏懶(lám-nuā): 形容懶惰. 
畏懶(uì-lán): 形容對工作或活動的厭倦和不願做. 
維基文庫
翻譯:散步 (梭羅)
語言
監視
編輯
散步
作者:亨利‧戴維‧梭羅
1861年於美國
譯者:維基用戶
漢語譯文借鑒了以下書籍:
    1.(簡體中文)亨利·梭羅 著,台灣藍色瓶子文化編譯小組 譯. 《山·湖·海》[M]. 文學新象系列. 北京:中國對外翻譯出版公司. 2000年1月第1版. ISBN 7-5001-0655-6.
    2.(簡體中文)瑪麗·奧斯汀;梭羅 著,朱筠;龔燕靈、祝秀波 譯. 《少雨的土地 漫步》[M]. 美國自然文學聖典. 桂林:漓江出版社. 2009年8月第1版. ISBN 978-7-5407-4618-6.
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我願為自然、為絕對的自由和野性代言,而與此形成對照的自由和文化只是文明些罷了——為了將人類視為自然的居民或重要部分,而不是社會的一員。 我願作出極端化的陳述,若是這樣的話,我就可以作出強調性的陳述,因為文明的衛士夠多了:牧師,以及學校委員會,還有你們每一個人都會小心保護它。
在我的人生歷程中,只遇過一兩個理解散步之藝術(��走路之藝術)的人——他們可謂有saunter(法語:逍遙信步,悠遊)的天賦:這個詞完美地源於“中世紀在鄉野漂泊漫遊,並藉口去往à la Sainte Terre(法語:聖地)以乞求施捨的閒人”,直到孩子們大聲嚷道:“那裡來了一個Sainte-Terrer(法語:朝聖者,saunterer)”——信步者。 他們在散步時從未如佯稱的那樣去聖地,確實不過是遊手好閒者和流浪漢;但確實去那裡的人卻正是我所指的褒義的信步者。 然而,有人將這個詞溯源至sans terre(法文:無地無家),因此褒義地說,意味著居無定所,同時卻也四海為家。 因為這是順利圓滿的信步的奧秘。 終日靜坐屋中的人,也許是所有人中最漂泊不定的;但褒義的信步者並不比蜿蜒漫步的河流更漂泊不定,河流始終孜孜探尋著奔向大海的最短捷徑。 但我卻更偏愛前者,那其實是最有可能的字源出處。 因為每一次散步就是一種十字軍東徵,由我們心中的某個隱修士彼得來佈道,出發去從異教徒手中奪回這片聖地。
不錯,我們只是膽小怯懦的十字軍戰士,如今連散步者們也沒有堅持不懈、永無止境地努力。 我們的遠徵只是旅遊而已,到了晚上就重又折回我們出征的舊爐邊。 散步的路程中有一半只是在原路返回。 我們應沿著最短距離向前走,或許,憑藉不朽的冒險精神,絕不歸還——準備著把我們塗著香料的心,僅作為遺物送回我們荒涼孤寂的王國。 若你預備好離開父親母親、兄弟姊妹、妻孩朋友,再不相見——若你還清了債務、立下了遺囑,並把一切事務料理妥當了,而且是個自由的人,那麼你就準備好去散步了。
而談到我自己的體驗,我的同伴和我(由於我間或有個同伴)樂於幻想我們自己是一支新建的,確切地說是古代的騎士團的騎士——既非古羅馬的騎手亦非法國的騎手,既非德國的騎手亦非英國的騎手,而是散步者,我確信,這是更為古老而榮耀的類別。 曾經屬於騎手的豪俠精神和英雄氣概現在似乎永存於,或許恐怕累積於散步者了——不是騎士,而是散步者、遊俠。 他是教會、國家和人民以外的一種第四等級。
我們感到,我們差不多是在附近獨自實踐這一高貴的藝術;儘管說實話,至少,要是我的大多數同鄉自己的主張得到接受的話,他們有時欲像我一樣去散步,可他們沒有辦法。 財富買不到必需的閒暇、自由和獨立,那些才是這一行當的首要之處。 它只承蒙上帝恩典而至。 成為散步者,需要來自天堂的直接授命。 你必須出身散步者世家。 Ambulator nascitur, non fit.(拉丁語:散步者與生俱來,無可製成。)我的有些同鄉,真的,能夠記得住並向我描述他們十年前的幾次散步,他們蒙福於此,以至於在林中沉浸了半個小時;可我非常清楚,無論他們會怎樣自詡以躋身這被揀選的類別,他們會一直把公路上揀選的類別,他們卻一直被揀選的類別,他們一直被揀選。 無疑,透過回憶過去的一個存在狀態,他們暫時是高尚的,那時連他們都是林中居民和法外之徒。
「當他來到綠林的時候,
  是個愉快的早上,
 那兒他聽到細小鳴聲,
  是鳥兒愉快的歌唱。
‘我上次在這裡,’羅賓說,
  『是在很久很久以前;
 我呢有點想要,
  朝暗褐色的鹿射箭。 ’”[佚名詩謠:《羅賓漢傳奇》(Gest of Robyn Hode)]
我認為我保持不了健康與活力,除非我每天至少花四個小時——一般會更長——信步穿過樹林、翻過山丘和田野,絕對自由地免於一切世俗的事務。 你可以有把握地說,你到底在想什麼。 有時我想到,機械技工和鋪坊老闆不僅整個午前,而且整個午後都呆在他們的鋪坊中叉腿而坐,他們許多人——好像創造出腿是為了坐著,而不是為了站立或步行——我就會覺得,他們沒有全都早早地自殺,應為此而受到些讚譽。
我在屋子裡待一天就要生鏽,當我有時偷偷溜出去散步,下午四點鐘快要結束了,來不及挽回一天,當夜幕已經開始混入晨曦,我感到似乎我犯了某一宗要被贖回的罪——我承認,我驚訝於我的鄰居的忍耐力,更不必說其道德麻木感了,他們整日鋪整月 我不知道他們的行為方式出自什麼貨色的習俗——此刻下午三點鐘坐在那兒,就好像是早上三點鐘。 波拿巴可能會談到早上三點鐘的勇氣,但對於那樣的勇氣——能夠在午後的這個時辰愉快地坐下來,面對著你熟悉了一上午的自我,為的是用飢餓迫使你以如此強烈的同情心所必定迫使得了的守軍出來——這算不了什麼。 我納悶,大約這個時候,或者說下午四五點鐘之間,讀早報嫌太晚,讀晚報嫌太早,街頭巷尾竟聽不見一聲通常的猝響,好讓一大批陳舊過時且家長里短的胡思亂想為一次外出兜風隨風而逝——如此則邪惡自愈。
比男人更侷限於家的婦女是如何熬過來的,我並不知道;可我琢磨著猜想,她們大多數人根本就沒有熬。 一個夏日的午後,我們早早地從衣衫下擺拂去村莊的塵垢,疾行而過那些房屋,它們朝路的一面是純粹的多立克式或哥特式,籠罩著安詳恬謐的氣氛,我的同伴悄聲低語道,它們的住戶們這種時候大概都已睡了吧! 那時我就欣賞了建築的美麗與壯觀,它自己從不就寢,卻永遠矗立,持續守護著入眠者。
毫無疑問,氣質,尤其是年齡,與它非常相關。 當人變老時,他靜坐並辦理室內事務的能力隨之增長。 隨著桑榆暮景的逼近,他的作息同樣逐漸日薄虞淵,直至最終快要黃昏時他才現身露面,並在半個小時內散完他所需的步。
但我所說的散步,絲毫不近乎像病人定時吃藥那樣的所謂鍛鍊──像揮舞啞鈴或盪鞦韆那樣;而它本身就是一天的事業與冒險。 如果你要運動的話,去探求生命的泉源吧。 想想一個人為其健康而揮舞啞鈴,而那些泉水則在遠方他未追尋過的草原中噗噗上冒著!
此外,你得像一隻駱駝般散步,據說駱駝是動物中惟一邊散步邊沉思的。 有個旅行者請華茲華斯的女僕給他瞧瞧她主人的書房,她回答說:“這兒是他的藏書房,可他的書房在屋外頭。”
常生活在戶外、風吹日曬,無疑將造就性情的某種粗野——將使較厚實的表皮生長於我們本性中某些較細膩的品質之上,像臉上和手上,或像重體力勞動使手部分喪失了其觸覺的靈敏一樣。 所以,待在屋子裡,另一方面,雖說不上皮膚之薄,也會造就柔軟和光滑,伴隨著對特定印象的敏感度增強。 也許我們應該對若干深深影響我們智識和道德成長的作用力更敏感些,對身上的風吹日曬是否少了一點更敏感些;而使皮膚之厚薄均衡合適,無疑是件不錯的事。 然依吾之見,那是很快就會脫落的皮屑——可以發現,自然按照夜晚朝���白天、冬天朝著夏天、思想朝著體驗的方向來補償其比例。 在我們的思想中將有多得多的空氣和陽光。 自尊而英勇的身體組織更細膩,其觸覺震顫心靈,與軟弱無力的慵懶手指相比,它們同勞動者結趼的手掌更有交情。 遠離曬黑和結趼的體驗,白天躺在床上自認為是白的,那隻不過是多愁善感。
我們散步時,便自然地走向田野和樹林;若我們只是在花園或林蔭大道散步,會遇得到什麼呢? 連某些學派的哲人也感到了向自己引進樹林的必要性,之前他們沒有去過樹林。 在露天柱廊裡subdiales ambulationes(拉丁文:頂天而行)之處,「他們種下小樹林和法國梧桐小徑」。 當然,如果踏出的腳步沒把我們帶到樹林,往彼處走去也是無用的。 若我已走入樹林一英里,身體到了,精神卻還沒到那兒,遇到這種情況,我是驚恐的。 午後散步時,我欲忘卻我所有的晨間事務和社會義務。 但我有時無法輕易地甩脫那個村莊。 有些事情的思緒將在我的腦海中縈繞回環,而我並不在身體所在之處——我超越了我的感覺。 散步時,我欲回歸我的感覺。 若我總是想著樹林外面的東西,我在樹林裡還做了什麼事? 當我發現我自己竟如此受所謂善舉的糾纏連累時——由於這有時可能會發生——我就懷疑我自己,並不由自主地戰慄。
我家附近提供了許多不錯的小徑;可儘管多年來我幾乎每天都散步,有時連著好幾天,可我仍沒把它們研究透。 全新的景緻就是莫大的快樂,而我在任何一個下午還能得到這快樂。 兩三個小時的散步將攜我去見一片鄉野,如我所曾期待的那樣奇妙陌生。 我以前未見過的單獨一間農舍,有時同達荷美國王的領地一樣漂亮。 在方圓十英里範圍內(即一次午後散步所及之處),以及一甲子又十年的人生之中,潛在的風景間其實顯露有一種和諧。 它絕不會變得讓你徹底熟悉。
如今差不多所有人所謂的改善,像是造房、砍伐森林和砍倒一切大樹,都簡直是在拆毀風景,使它越來越馴和鄙劣。 一個民族,始於燒籬笆、讓森林站起來! 我看到被吞噬了一半的籬笆,其盡頭隱沒在大草原的深處,一些塵世的守財奴帶著勘測員照看著他的邊界,同時天堂在他周圍出現了,而他沒有看到天使往來穿梭,卻正尋覓著伊甸園中間的一眼舊樁洞。 我又一瞧,看到他站在泥潭似的斯堤克斯河沼澤中間,被魔鬼團團圍著,因此他無疑找到了他的邊界,三顆小石頭打了個樁子,我再湊近一瞧,看到黑暗王子是他的勘測員。
從我自己的門口啟程,我能輕易地走十英里、十五英里、二十英里、無論多少英里,不經過任何一所房子,不穿越道路,除非是狐狸和貂穿越的:起先沿著大河,然後是小溪,然後是草地和林邊。 我家附近有幾平方英里荒無人煙。 從許多小山上,我能看見遠方的人的文明世界和住所。 農夫及其成果並不比土撥鼠及其洞穴更顯眼。 人及其社交活動、教會與國家與學校、貿易與商業、製造業與農業,甚至其中最擾亂人心的政治——我高興地看到,它們在風景中佔據了多麼小的位置。 政治只是片狹窄的田野,那邊有更狹窄的公路通往它。 我有時給旅行者指點到彼處的路。 如果你要去政治世界,跟著大路走──跟著那販子,讓你的眼中含著他的灰塵,它將直接領你到它那兒;因為它也不過有個一席之地,沒佔著所有的地方。 我經過它,就像途經一片豆田而進入森林,於是就把它給忘了。 半小時內,我能走到地球表面的某個部分,在那裡,一個人不會從一個年底競選到另一個年底,所以那裡沒有政治,因為政治只如同一個人的雪茄煙霧一樣。
village(英文:村落)是道路所趨向的地方,是公路的一種擴張,就像河中之湖。 它是身體,道路是其手臂和雙腿——一個三岔或四岔的地方,旅行者的大道和小客店。 這個字來自拉丁文villa(拉丁文:郊外別墅),還有via(拉丁文:路)或更古老的ved和vella,瓦羅把攜帶溯源到了veho(拉丁文:攜帶搬運),因為villa是個東西被帶進帶出的地方。 靠運輸謀生的人被說成是vellaturam facere(拉丁文:做運輸的)。 因此,拉丁單字vilis(拉丁語:廉價的)和我們的vile(英語:卑鄙的)太顯然了;同樣的還有villain(英語:惡棍)。 這暗示著村民有何種墮落的傾向。 在他們之處來來往往的旅行使他們旅途勞累,而他們自己卻沒有旅行。
散步是一種激發詩興的行為,許多詩人都在散步中獲得靈感,例如杜甫的《江畔獨步尋花七絕句》。 以下是一些與散步有關的詩句例子: 
杜甫《江畔獨步尋花七絕句》:
杜甫在江畔散步時,寫下了七首絕句,描寫了春花、花草、風景等。 
王維《終南別業》:
「興來每獨往,勝事空自如。 行到水窮處,坐看雲起時。」王維也喜歡在散步中尋找靈感,這首詩描寫了他獨往獨來,享受山水的樂趣。 
蘇軾:
蘇軾在黃州散步時,寫下了「雨洗東坡月色清,夜來風過竹葉聲」。 這首詩描寫了夜晚散步時的景象,表達了對大自然的喜愛。 
江畔獨步尋花七絕句
朝代:唐代
作者:杜甫
江上被花惱不徹,無處告訴只顛狂。
走覓南鄰愛酒伴,經旬出飲獨空牀。
稠花亂蕊畏江濱,行步欹危實怕春。
詩酒尚堪驅使在,未須料理白頭人。
江深竹靜兩三家,多事紅花映白花。
報答春光知有處,應須美酒送生涯。
東望少城花滿煙,百花高樓更可憐。
誰能載酒開金盞,喚取佳人舞繡筵。
黃師塔前江水東,春光懶困倚微風。
桃花一簇開無主,可愛深紅愛淺紅。
黃四孃家花滿蹊,千朵萬朵壓枝低。
留連戲蝶時時舞,自在嬌鶯恰恰啼。
不是愛花即肯死,只恐花盡老相催。
繁枝容易紛紛落,嫩葉商量細細開。
終南別業 / 初至山中 / 入山寄城中故人
朝代:唐代
作者:王維
中歲頗好道,晚家南山陲。興來每獨往,勝事空自知。
行到水窮處,坐看雲起時。偶然值林叟,談笑無還期。
東坡
朝代:宋代
作者:蘇軾
雨洗東坡月色清,市人行盡野人行。
莫嫌犖确坡頭路,自愛鏗然曳杖聲。
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iamot · 1 month ago
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死蟑螂可以沖馬桶嗎?
在台灣的家庭中,蟑螂常被視為令人頭痛的害蟲。有時候,我們會遇到死去的蟑螂卡在角落或不小心掉進馬桶裡。這時候,一個常見疑問浮現:“死蟑螂可以沖馬桶嗎?”許多人擔心是否會堵塞管道或造成環境污染。其實,從專業角度來看,將少量已經死亡且體積較小的蟑螂沖入馬桶,是相對安全且方便的方法,但前提是數量不要過多,也要確保排水系統良好。在台灣,由於地區排水設施普遍完善,小型死蟑螂沖走通常不會造成堵塞問題。然而,如果家中頻繁出現大量死蟑螂,建議還是應該徹底清潔並尋找根源,以避免更嚴重的衛生問題。正確處理死蟑螂,不僅能維持居家整潔,更有助於預防潛在疾病傳播。因此,在面對這樣的小困擾時,用適當的方法解決,是每個台灣家庭都值得掌握的重要知識。 文章目錄 蟑螂屍體沖馬桶?台灣居家環境衛生專家深度解析 馬桶沖蟑螂:從台灣水管系統結構看可行性與潛在風險 蟑螂屍體沖馬桶後的清潔與消毒:台灣家庭實用指南 告別蟑螂困擾:台…
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eli-rooks-ni · 1 month ago
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日暮之前 第十三章:安德森命案・其一
【四月二日】 前一天剛下過雨,所以今天天氣依舊又濕又冷。 Jules 一知道咖啡機壞了,就意識到今天肯定不會是他的日子。他只好拿出幾個月前 Halls 給他的濾掛咖啡包來頂著喝。
他長嘆一口氣,穿上制服外套後,騎上腳踏車。他習慣騎車去警局。這種習慣不太尋常沒錯,但他早就養成這樣的生活方式,要改變幾乎是不可能的事了。
離警局還有一個街口時,腳踏車的輪胎突然爆了。 「Stewart 偵探!需要我載你一程嗎?」摩托車在他臉上噴了一口廢氣,說話的聲音對這麼淒慘的早晨來說實在太過歡快。
啊,果然,是 Carlson 警員。 「不用了,我走路就好,謝謝。」Jules 朝那位警佐揮了揮手,把那輛不聽話的腳踏車拖著走完剩下的路。
他的新案件一開始還算單純。是個謀殺案,沒什麼證據,只找到一具浮腫的屍體,被鈍器擊中後沖上海邊。
不,現在有新的驗屍報告了。
死者 Beatrice Anderson 根本不是當地人。她居住在佛蒙特州——天涯海角般的地方。
彷彿這還不夠奇怪,她沒有任何聯絡人。她的資料乾乾淨淨,乾淨到 Jules 幾乎可以肯定曾經被人清理過。
或者,這只是那句「需要更高權限等級」的說詞在作怪。
手邊沒什麼線索,自然地,Jules 聯絡了 Reagan Robe,請他提供地理上的見解。他知道這麼做可能不被允許,甚至可能違法,畢竟 Robe 並不是與案子有關的人。
但他在乎嗎?
Robe 很快就接了電話。
他們沒有聊太多。Robe 根據當地河流的水流方向,迅速推測出可能的犯案地點,並保證等從丹麥回來後,會親自提供更詳細的分析。
最後他們在城市邊緣、靠近河邊的公園裡找到了命案現場。Carlson 找到準確位置時臉上的得意簡直快要藏不住。
他們沒預料到那棵樹根旁會坐著一個男子,雙手沾滿乾掉的血,幾步外還有一根同樣染血的棒球棒。
Carlson 馬上行動,對那名男子下令。但男子只是空洞地看著他,好像根本沒聽懂他的話。Carlson 愈說愈兇,語氣也越來越硬。
嫌犯突然爆走,從一個迷茫的遊民變成狂怒的野獸。Carlson 幾乎來不及招架,只勉強擋下攻擊,還叫得很不體面。
Jules 趁亂將男子壓制住,並把他銬上帶回警用廂型車後座。在短暫的搏鬥後,男子的眼神依然渙散、茫然,彷彿……
彷彿他根本不知道自己做了什麼。
Jules 查找 Carlson 的時候發現他還沒從公廁的方向回來。他走過去,發現 Carlson 站在河邊,一臉空白地望著水流。
那表情……太熟悉了。熟悉到令人毛骨悚然。
然後——
——
Jules 的頭彷彿要因為偏頭痛的劇烈痛楚而炸裂。他悶哼一聲,把身體縮得更緊。
「LSI,你聽得到嗎?快點,把……」
他又是一聲呻��,抽搐再次襲來,然後整個人又再度陷入昏迷。
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xiangshanching · 2 months ago
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真人不露相,露相就走人(象山慶25.5.11) https://blog.udn.com/6ccc7d15/182458024
有人說:佛菩薩示現於世間,絕不自暴其身分,若已暴露(被揭發),立刻入滅;若還不走就可能是大妄語者,招搖撞騙。如永明(延壽)大師,是阿彌陀佛再來,但身分暴光,就入滅。「真人不露相,露相非真人」,諸佛菩薩、祖師大德如是示現,讓那些冒充的人不得其便。   
    上引之教理根據,乃《楞嚴經》卷六<四種清淨明誨>:
若大妄語,即三摩地不得清淨,成「愛見」魔,失「如來」種。所謂「未得謂得,未證言證」,或求世間尊勝第一,謂前言人:「我今已得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果,阿羅漢道、辟支佛乘、十地地前諸位菩薩。」求彼禮懺,貪其供養。是一顛迦(icchantika,一闡提),銷滅佛種,如人以刀,斷名羅木,佛記是人,永斷善根,無復知見,沈三苦海,不成三昧。
我滅度後,敕諸菩薩,及阿羅漢,應身生彼末法之中,作種種形,度諸輪轉。或作沙門,白衣,居士,人王、宰官、童男、童女,如是乃至淫女、寡婦、姦偷、屠販,與其同事,稱讚佛乘,令其身心,入三摩地。終不自言:我真菩薩,真阿羅漢,泄佛密因,輕言末學。唯除命終,陰有遺付。云何是人,惑亂眾生,成大妄語?汝教世人,修三摩地,後復斷除諸大妄語,是名如來先佛世尊,第四決定清淨明誨。
是故阿難,若不斷其大妄語者,如刻人糞,為旃檀形,欲求香氣,無有是處。我教比丘,直心道場,於四威儀,一切行中,尚無虛假,云何自稱,得上人法?譬如窮人,妄號帝王,自取誅滅,況復法王,如何妄竊?因地不真,果招迂曲,求佛菩提,如噬臍人,欲誰成就?若諸比丘,心如直絃,一切真實,入三摩地,永無魔事。
宋.子璿《首楞嚴義疏注經》:
真聖利物,終不可測,以承佛制,不妄漏泄,此聖真因,唯聖自證,故云密因。未學之前,不可輕說,陰有遺付者,不顯稱也。此開臨終,密有表示,遺囑弟子,如求那屈指事。
《楞嚴義海》:
非公然惑眾,但私示於人耳。南嶽之言鐵輪,天台之示五品[1],功德鎧說偈[2],真觀師屈指[3],即其事焉。
《楞嚴經觀心定解》
然此猶言此生親證,若文殊普賢之化為寒山拾得,戒師/七娘[4],方是應身生此末法也。……求那跋摩,此云功德鎧,宋文時死,反屈二指,表證二果;真觀居錢塘下天竺,隋文帝時死,反屈三指,表證三果。
《印光法師文鈔》與泰順林枝芬居士書二:
自古高僧,或古佛再來,或菩薩示現,然皆常以凡夫自居,斷無說我是佛、是菩薩者。故《楞嚴經》云:……而智者大師,實是釋迦化身。至臨終時,有問所證位次者。答曰:「我不領眾,必淨六根。損己利人,但登五品。」是仍以凡夫自居也。五品者,即圓教觀行位,所悟與佛同儔,圓伏五住煩惱,而見惑尚未能斷。智者臨終,尚不顯本。意欲後學勵志精修,不致得少為足,及以凡濫聖耳。今之魔徒,妄充得道者,乃壞亂佛法,疑誤眾生之大妄語人。此大妄語之罪,甚於五逆十惡百千萬倍。其師其徒,當永墮阿鼻地獄,經佛剎微塵數劫,常受極苦,末由出離。何苦為一時之虛名浮利,膺長劫之慘罰酷刑?名利惑人,一至於此[5]。
守培師《楞嚴經妙心疏》:
佛敕菩薩、羅漢,應生世間,作種種形,渾跡一切世間,用心不在謀利,而在稱讚佛乘,熏習善種,令彼身心入三摩地,無須自說是菩薩、是羅漢也。是故菩薩住世,終不自言是菩薩,洩漏佛之密因也。(事形未張前,曰密因;預先言之,曰洩漏)。
海仁師《楞嚴經講記》:
始終不肯自言:我是真菩薩,或真阿羅漢,以泄漏佛之祕密;……「諸聖應世,住則不泄,泄則不住。故除臨終捨報,暗中遺言付囑外,絕不自認菩薩再來,或佛應世」。妙心云:「陰有遺付者:此亦為道之計,為無知之人,不識聖賢之言行可���,以臨終暗暗表示,令人感覺,其人雖逝,追想其所言所行,必生尊重,為世之軌範。菩薩住世,雖至臨終,祇略露其鋒,猶不明言」。智者大師,實是釋迦化身,至臨終時,有問所證位次者,答曰:「我不領眾,必淨六根;損己利人,但登五品」,是仍以凡夫自居也。……智朗請云:「伏願慈留,賜釋餘疑,不審何位?沒此何生?誰可宗仰?」報曰:「汝等懶種善根,問他功德,如盲問乳,蹶者訪路,告實何益?……吾不領眾,必淨六根;為他損己,只是五品位耳。……」五品者,即圓教觀行位,所悟與佛同儔,圓伏五住煩惱,而見惑尚未能斷。………六根清淨,是相似即佛,圓教十信、內凡位也。
依《楞嚴經》所開示、古今各家之注釋,及所舉豐干+寒山+拾得、南嶽慧思+天台智者、永明延壽、求那跋摩、杭州真觀等大師「真人不露相,露相就走人」[6]的實例,於理於事,皆足以證明。如吳思飛《佛學概要十四講表述記》不妄語戒:
    或問「今時有人自言是某佛、某菩薩再來,如何辨其真偽?」
    答:「以戒/教勘驗,真偽立辨。……佛入滅後,遣菩薩、羅漢,應現末法時代,以各種不同身分,與各種眾生同事,度眾生入佛道。然決不自洩露身分,輕言於後學。除非臨終或命終之後,暗有遺付,以示於人,而此亦婉轉洩之,絕無公灼惑眾者也。茲舉例說明:如華嚴宗初祖杜順和尚,乃文殊菩薩所應現[7]。……又如天臺山國清寺之寒山,乃文殊菩薩化身,拾得乃普賢菩薩化身,豐干乃阿彌陀佛化身;皆於洩露身分後,立即離去化去,不復住世矣!」
    古代皆如此,今亦不例外;若有人為貪名聞利養而大妄語,自稱「佛菩薩(化身)再來」,而廣聚徒眾,公開的散播邪見、印可(授記)果位,不僅自造惡業,也誤人慧命。勸彼詳讀《楞嚴經》,以此佛法的「照妖鏡」[8]返照自他的原形,若有違犯大妄語戒,應立即依法懺悔,免致「永斷善根,沈三苦海」而後悔不及。
[1]慧思禪師的證果「鐵輪位」,就圓教階位,已到十信,「見/思」惑俱斷,乃至界內/外「塵沙」惑亦斷。智者大師是再來人, 慧思禪師印證他所入是「法華三昧」前方便,而他所開發、體證的,是「初旋陀羅尼」,於佛所說法門,皆能圓滿具足、靈活運用,沒有障礙。證得圓教的「觀行即佛」—「五品」觀行位,比慧思禪師所證略遜一籌。
[2]臨終遺文,偈頌36行:前頂禮三寶 淨戒諸上座 濁世多諂曲 虛偽無誠信 愚惑不識真 懷嫉輕有德 是以諸賢聖 現世晦其跡 我求那跋摩 命行盡時至 所獲善功德 今當如實說 不以諂曲心 希望求名利 為勸眾懈怠 增長諸佛法 大法力如是 仁者咸諦聽 我昔曠野中 初觀於死屍 膖脹蟲爛壞 穢膿血流 繫心緣彼處 此身性如是 常見此身相 貪蛾不畏火 如是無量種 修習死屍觀 放捨餘聞思 止林樹間 是夜專精進 正觀常不忘 境界恆在前 猶如對明鏡 如彼我亦然 由是心寂靖 輕身極明淨 清涼止是樂 增長大歡喜 則生無著心 變成骨鎖相 白骨現在前 朽壞肢節離 白骨悉磨滅 無垢智熾然 調伏思法相 我時得如是 身安極柔軟 如是方便修 勝進轉增長 微塵念念滅 壞色正念法 是則身究竟 何緣起貪欲 知因諸受生 如魚貪鉤餌 彼受無量壞 念念觀磨滅 知彼所依處 從心猨猴起 業及業報果 依緣念念滅 心所知種種 是名別相法 是則思慧念 次第滿足修 觀種種法相 其心轉明了 我於爾焰中 明見四念處 律行從是竟 攝心緣中住 苦如熾然劍 斯由渴愛轉 愛盡般涅槃 普見彼三界 死焰所熾然 形體極消瘦 喜息樂方便 身還漸充滿 勝妙眾相生 頂忍亦如是 是於我心起 真實正方便 漸漸略境界 寂滅樂增長 得世第一法 一念緣真諦 次第法忍生 是謂無漏道 妄想及諸境 名字悉遠離 境界真諦義 除惱獲清涼 成就三昧果 離垢清涼緣 不涌亦不沒 淨慧如明月 湛然正安住 純一寂滅相 非我所宣說 唯佛能證知 那彼阿毘曇 說五因緣果 實義知修行 名者莫能見 諸論各異端 修行理無二 偏執有是非 達者無違諍 修行眾妙相 今我不宣說 懼人起妄想 誑惑諸世間 於彼修利相 我已說少分 若彼明智者 善知此緣起 摩羅婆國界 始得初聖果 阿蘭若山寺 道跡修遠離 後於師子國 村名劫波利 進修得二果 是名斯陀含 從是多留難 障修離欲道 見我修遠離 知是處空閑 咸生希有心 利養競來集 我見如火毒 心生大厭離 避亂浮於海 闍婆及林邑 業行風所飄 隨緣之宋境 於是諸國中 隨力興佛法 無問所應問 諦了真實觀 今此身滅盡 寂若燈火滅
[3] 《武林梵志》: 隋開皇十五年有僧真觀者,錢塘人,操行高潔,掌有仙文。《續高僧傳》卷30<真觀(隋杭州靈隱山天竺寺)>:端坐怡然,不覺已滅逝於眾善之舊寺,從子至午,��頂俱暖,身體柔軟,顏色不變,右手內屈三指。
[4] 淳熙年間,文殊菩薩應身為兜率寺戒闍黎時,普賢菩薩亦同時化身為周氏女,排行第七,人皆稱她周七娘。生時便有種種神異,長大后不肯嫁人,每天行乞於市,晚常宿於普濟橋下,常與戒闍黎在一起,妙行莫測。時人不解,笑為瘋婆。後有聖者歌曰:『戒師文殊,周婆普賢,隨肩搭背,萬世流傳。』後人始知是菩薩應世。
[5] 蕅益師(寒笳集):「倘名關未破,利鎖未開,藉言弘法利生,止是眼前活計。一點偷心,萬劫纏繞。」
[6] 《西遊記》99回:「自古道:真人不露相,露相不真人。」
[7]賢首宗杜順(557-640)神通事蹟甚多,亦能治病;相傳為文殊菩薩之化身, 贈弟子偈:「遊子漫波波,台山禮土坡;文殊此便是,何處覓彌陀!」。所著《法界觀門》中提出的法界三觀,包括真空觀、理事無礙觀、周遍含容觀成為後來《華嚴經》法界觀的思想基礎。
[8] 宣化上人云:《楞嚴經》是佛教照妖鏡,所有天魔外道、魑魅魍魎,見到《楞嚴經》都現原形了,無所遁形。在過去,智者大師聽說有這部經,就向印度遙拜了十八年,懇切至誠的求這部經到中國來。
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