#背骨を整える
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一日出勤してまた大型連休と、秀一は新しく引っ越してきたアパートの荷物整理をしていた。この四日間で終わらそうと段ボールに入ったものを確認しながら、
「果たして終わるだろうか?」
と、一度は取っておこうとしたものをゴミ袋に入れたりと骨折った。
秀一は、黒いカットソーにジーンズという格好で片付けをし、昼食は最寄りのコンビニで弁当を買って済ませた。ベランダの物干しには昨日着た白いワイシャツやビキニブリーフなどが風になびき、天気も良かった。嗚呼、こんな時は近くのT天満宮にでもお詣りを兼ねて周辺を散策したいなァと、内心は思いつつ、未だ解体していない段ボールを見ると溜息をついた。
部屋は「二LDK」だった。つまり、八畳の洋室が二室、その一室に隣接する様に台所があり、トイレと浴室は別である。ようやく寝室として使う部屋が片付き、彼はストレッチをしようとベランダに出た。すると、フェンス越しに何処かで見たことがある青年だなと、彼は声をかけた。相手も、嗚呼、益子先生だなと気付いて振り向いた。黄色いTシャツに、長袖の青が主のマドラスチェックのシャツを羽織り、ベージュのチノパンツを穿いていた彼は、翔だった。彼は何故か洗濯物の方に視線が向き、白いビキニブリーフを見るとこう言った。
「先生、ブリーフなンすね」
秀一は何故そっちに目が向くンだよとツッコミを入れたくなったが、敢えて聞き流したのを装い、
「何、散歩?」
と聞いた。
「はい、ちょっと買い物でも行こうかと思って」
「ちょうど引っ越しの合間で休んでいたンだけど、上がる?」
「え、イイんですか?」
「コーヒー淹れてあげるよ」
翔は上がり框で靴を脱ぎながら、教壇から見て一番奥の右側に座っていたのによく顔を憶えたな、と怖くなった。これまで塾の講師に横恋慕はしたが叶わなかったこと以外は、一度も父親を除く男にはほぼ関わりがなかった彼にとって、秀一の部屋に入ることにドキドキしていた。昨日、初めての射精を経験したのに股間が熱くなるのを感じた。嗚呼、あのブリーフでオ◯ニーしたい…。秀一がペーパーフィルターをドリッパーにセットしている間、彼はその後ろ姿を見詰めながら、カットソーからうっすらと浮き出ているタンクトップの線に男らしさを感じていた。どんなスポーツをやっていたのだろう?と、彼は思った。
マグカップにコーヒーを淹れて秀一がテーブルに置くと、彼は自分のものを口に付けた。彼は聞いた。
「確か、一年二組にいたよね?」
「はい、諸井翔と言います」
「ふ〜ん、今時の名前だね」
「父が『薫』って言うンです」
「お父さんは何やってるの?」
「システムエンジニアです。海外出張が多くて…」
「じゃあ、大変だね〜」
翔の父親は、今はインドの方に長期滞在している様だった。三ヶ月に一度は帰って来るが、一週間以内にはすぐ戻ってしまう。ずっと父親がいない日々を送っていたからか、思春期の頃に色々話したいことはあったができずにいた。たまたま話す機会があっても、
「お母さんに話しなさい」
と応じてくれなかった。
彼は、母親がいない時には父親のクローゼットを開けては背広やトランクスなどの「匂い」を嗅ぎ、淋しさを紛らわせていた。未だ性衝動が起きない頃である。ともかく男のいない周辺がつまらなかった。小、中学生の時は女性の教師がずっと担任だったし、優しい言葉かけもあ��りなかった。色々と昔を振り返りながら、彼は秀一と話をし、次第に好意を持つ様になっていた。オレに何故、こんなにも優しいのだろうと。翔は、
「早くゴールデンウィーク、終わらないかなァ…」
���言った。
「早く皆と仲良くしたいよ」
「先生も、寮の宿直、やるンでしょ?」
「うん、するしかないよねぇ〜」
すっかり二人は打ち解けた様だった。
昨夜、「別荘」で一夜を過ごした貢は朝食を作って亮司と一緒に食べた後、K高校と単科大学の間にある自宅に戻って行った。一応、養子に迎えた甥の夫婦と同居しているのだが、孫と一緒に出掛ける約束をしていると亮司に話した。彼は、
「親父は『バイ』だったけどオレは『ゲイ』だから」
と話した。世間体で結婚はしたが「インポテンツ」を理由に子作りができなかったと、女房には話していると言った。亮司は、
「全然『インポテンツ』じゃねぇだろうよ!? オレのケツの穴、バッコンバッコン掘ってたじゃん!」
と言った。
「そんな下品な言い方すンなよ!」
と、流石にオレにもデリカシーはあるンだと、貢は口調を強くした。それでも別れる時には接吻を求め、
「今のオレには亮ちゃんが必要なンだ」
と怒っている様子はなかった。
再び一人になった亮司は、休みだが刈払いでもやるかと作業服に着替え、麦茶を淹れた水筒を片手に土手の方へ歩いて行く。未だ五月になったばかりなのに長袖では日差しが強く、少し動くと汗ばむ陽気だった。グランドではサッカー部が練習に励み、陸上部もトラックを走っていた。嗚呼、懐かしい風景だなと亮司は思った。彼は、トラックを走る一人の生徒を秀一と重ねた。
当時、都立A高校に赴任していた亮司は、その年の四月に秀一と出会った。中学校の頃から陸上部に所属し、総体でも優秀な成績を残していたが母子家庭だった彼は所謂「鍵っ子」だった。姉がいたが大学へは行かずに看護師をしていた。入部して早々、
「先生。オレ、頑張ります」
と誓った。もしかしたらあの頃から彼はオレを好いていたのかもと、亮司は振り返った。
まさか、その秀一がこの私立K高校に入職するとは…。できれば深々と帽子を被ってコソコソと仕事をするしかないなと、亮司は思った。あとは、昨日寝た翔にも「口止め」をしておく必要がある。彼は土手の刈払いをしながら、何とか秀一に知られずに済む方法を探っていた。
寮では、正美が自分の部屋でオ◯ニーをしていた。カーテンを閉め、密か��自宅から持って来た『薔薇族』のグラビアを眺めながら、スエットパンツの片方を脚に絡ませたまま、赤と青のラインが施されたセミビキニブリーフ越しに股間を弄っていた。すでにチ◯ポは硬くなり先走り汁も滴っていた。時折、包皮の先端から覗かせる口先を手指で「こねくり回し」ながら、
「あッ、あん、気持ちイイ…」
と漏らした。乳房も「勃ち」、次第に血の流れが激しくなっているのを実感していた。
正美は精通が遅かった。中学二年の終わり頃、たまたま更衣室で着替えていた男性教師の姿をドアの隙間からたまたま見え、興味を持って覗いてしまったのがきっかけだった。その教師は、当時は四十代前半で社会を教えていたが、剣道部の顧問をしていた。髪を七三分けにし、若干白髪もみられていた。正美の母親の幼馴染でもあり、たまに自宅にも来ていた。謂わば「近所のおじさん」でもあったが、この日ばかりは一人の男として見ていた。ジョギング型のチェック柄のトランクスから縦縞のビキニブリーフに穿き替える時に、シルエットではあったものの剥き出しになったチ◯ポが見え、ビキニブリーフを穿く時に一瞬持ち上がる様子に正美は興奮し、初めて性衝動を覚えたのだ。
実は、正美が同性に興味を持った要因がもう一つあった。母親と姉が、所謂「やおい系」の漫画が好きだったことである。時折、幼馴染であるその男性教師にも母親は見せていた様で、
「京子ちゃん、そんな漫画を正美君に見せるなよ。影響しちゃうから」
と注意していたのを密かに見ていた。正美の母は、
「たかが漫画でしょ? 絶対にないわよ。周ちゃんだって女の子のスカートめくり、再三してたでしょうよ。中学校の先生になったと聞いてびっくりしたわ」
その男性教師は、八坂周二と言った。八坂は、
「あれは、年頃の男の子なら誰にでも起こり得るンだよ」
と言った。
「あらあら、そうやって正当化するンだから…。まァ、正美が万一『ホモ』に目覚めてもアタシは構わないけどね〜」
その母親の言葉通りに、正美は同性に目覚めてしまったのだ。しかも、八坂という父親の次に身近だった男に対して。彼は、八坂が更衣室に入る時間を見計らっては覗き見、トイレの個室でオ◯ニーをした。
そんな日々に終止符を打つ出来事が起こった。いつもの様に正美が八坂の着替えている様子を覗いていた背後に、一人の女性教師が声をかけた。彼は慌ててその場から立ち去ったが、翌日になり八坂が呼び出したのだ。相談室に導かれた正美は血の気が引いた様子で、
「…先生! オ、オレ…先生が好きになっちゃったンです!」
と、いっそのこと「告って」しまった方がイイと思い、言った。その言葉に対し、八坂は両腕を組みながら困った表情を見せた。しばらく沈黙していたが、
「…正美君が好きなのは、おじさんではなくてオレの肉体だろ? 部活の時はトランクスじゃ袴付けた時に落ち着かないからビキニブリーフに取り替えてるだけだけど…。君��様な齢の男の子は肉体も変わっていくから興味を持つのは仕方ない。でも… 」
と言葉に詰まった。正美は嗚咽を上げながら、
「…だ、だって、おじさんのチ◯ポ見たら、何かドキドキしちゃって、アソコ勃っちゃったンだもん」
と本音を言った。八坂が溜息をついた。まさか、京子ちゃんに注意した言葉が現実になるとは…。彼は考え込んでしまった。オレには妻子もいるし、一度も男をそんな目で見たことがない。どうしたら良いかと、この日は結論を出せずに終わった。
次の日、八坂は正美が塾で遅くなるのを見計らって京子に話をしたいと、学校帰りに寄った。これまでの経緯を話したが、彼女は爆笑しながら言った。
「う、嘘でしょ!? 周ちゃんの何処が、正美が好きになったのよ? まァ、チ◯コは貞子さんにしか解らないだろうけど…そんなにイイもン持ってるの?」
「京子ちゃん! 笑いごとじゃねぇよ! オレ、困ってるンだよ! 正美君がオレの肉体に欲情してオ◯ニーしてるンだよ!? どうしたらイイんだよ!?」
「いっそのこと、抱いちゃったら?」
「バ、バカ言うな! オレは教師だぞ!? そんなことしたら…」
「だって、正美が周ちゃんを好きになっちゃったンでしょ? 応えてあげてよ〜。あぁ見えてあの子、意外と寂しがり���なのよ。旦那も連日仕事で忙しくて構ってあげられないしさァ…。大丈夫、教育委員会に告発することはしないよ」
「だ、抱くって…」
「いくらでもあるじゃない? 車の中とか」
コイツ、正気でそんなことを考えているのか? まァ、昔からズレてるところはあったけど…。八坂は深く溜息をついた。
色々考えた挙げ句、一度くらいだったらと八坂は授業の後に正美に声をかけた。ちょうど塾へ行く日ではなかったので了承し、学校が終わると人気のないところに停めた八坂の黒いセダンに乗った。車を走らせながら、とんでもない過ちを犯したらどうしようと不安になりながら八坂は山林の中にあるモーテルに向かった。
正美は、まさか八坂が所謂「ラヴホ」に連れて行くとは想像もしなかったが、部屋に入ると彼は家にあった「やおい系」の漫画の通りに、
「…おじさん、抱いて」
と接吻した。唇が重なると、自分の女房以外とは「キス」をしたことがなかった八坂は徐々に溶ける様な感触に理性が失せていくのを感じた。気付くと、正美をベッドの上で学生服を脱がしていた。彼もTシャツとトランクスだけになり、卑猥なテントの先端が先走り汁で濡れているのを認めた。オレもその気があったのか…!? そう疑いつつも勢いで、教え子で京子の子どもでもある正美の開いた内腿に下半身をうずめた。白地に黒くブランド名が施されたウエストゴムの、正美のセミビキニブリーフもいやらしいほどに真ん中が隆起していた。正美は、
「おじさん! 欲しい、欲しいの!」
と、離さじと八坂の背中に両腕を回しながら訴えた。
その後、無我夢中に肉体を弄んだ挙げ句、二人は絶頂に達した。八坂は、
「ま、正美君! おじさん、イクぞ!」
と、黄色い声を上げながら正美の身体に愛液をぶちまけた。これまで経験したことのないエクスタシーを感じた一方で、
『オレの人生は、終わった』
と呟いた。嗚呼、教師失格だと空虚感も込み上げてきた。一方、正美は八坂と自分の愛液にまみれた身体を見ながら、
「お、おじさん…。スゴい」
と至福の様子だった。これで良かったのか? 正美君があんなに喜んでいる。オレは彼を抱いて正解だったのか? 未だに萎えることのない肉棒を両手で覆いながら、
「正美君…。御免、御免よ…」
と罪責感の故に号泣した。
そんな、八坂にとっては情けないと悔やんだ情事だったが、正美は勉強に集中できる様になったと喜んだ。彼の母である京子も、八坂は一緒に寝たと自白はしておいたが、
「勉強を教えるよりセッ◯スする方が才能あるンじゃない?」
と高笑いされ、
「オレは教師だぞ!? 男娼じゃねぇよ!」
と突っ込んだが、定期的に正美と寝る様になった。その時ばかりは、時折部活動の時にしか穿かないビキニブリーフを選び、正美を欲情させた。いつしか「イク」時の切迫感が彼にはエクスタシーとなり、
「…ま、正美君。おじさんと気持ち良くなろう」
と、すっかりただの「エッチなおじさん」と化していた。
正美は、高校に入学してから、八坂も密かに『薔薇族』を愛読していたのを知った。道理で手慣れているなと、情事を重ねる度に疑ってはいたが…。彼は、八坂の接吻する時にタバコの「匂い」が漂う柔らかくて分厚い唇と、うっすらと胸元に生えた体毛、そして血管が脈々と浮き出る勃起したチ◯ポを思い出しながら、
「…おじさァ〜ん、もっと欲しいのォ〜」
と声を上げた。
オルガズムは、ブリーフの中に淫液を漏らした。生温かくねっとりとした感触が股間全体を覆い、正美は背徳感を覚えた。このシチュエーションも、実は八坂の性癖だった。受験シーズンが終わろうとしていた時に、執拗に彼自身も穿いていたトランクスに「中出し」をし、
「…お漏らししちゃった」
と赤面していたのだ。この頃にはすっかり正美を教え子でも幼馴染の子どもでもなく、自分の「慰めもの」の様になっていた。
「…セッ◯スしてぇ」
彼は、淫液で汚れたブリーフを脱いで洗面台のシンクで冷水に浸し、黄ばまない様に衣類用ハイターを加えながらシャワーを浴びに行った。
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2024/04/01
どうやら母は長くないらしい。
MRIの画像にははっきりと助骨を呑み込むほどの腫瘍が写っていた。
医者は明言は避けたものの
「��がん剤治療や放射線で癌を小さくしながら付き合っていくしかない」と言った。手術や切断、はたまた先進治療の言葉は可能性としても出てこなかった。それだけおそらくは絶望的な状況なのだろう。
手元のスマホで肺がん、骨、転移 と検索すると5年生存率10%以下と表示がされ母の背中を見ながら深く息を吐き出した。どんな思いで診断を聞いているのか測りかねる。あるいはすべての感情がいっとき止まってしまっているような。生物の防衛反応。
悲しむ時間もなく、PET検査、病理検査の日取りを決めていくのだが付き添いの自分だって現実に頭が追いつかない。

帰りの蕎麦屋。
麺や海老天をだいぶ残した母は
「酒もタバコも好き勝手やってこの歳まで生きたのだから、まぁ上出来だね」と笑った。
蕎麦には大量の七味が浮いていた。何事もやりすぎる人だ。
こっちは笑えないけど、そんなことを言われたら仕方ない。まだまだ元気な姿と残した蕎麦。
でも、痛いのは嫌だね。と肋骨を抑える姿。
生前にどのように遺産整理をしていくのか方針を決めた。昼過ぎの蕎麦屋に似つかわしくない話題。テレビからは大谷翔平がどうのこうの。
��とは木曜日、そして来週と検査が終われば母の余命が決まる。
最後の一本と医者から止められたタバコを「美味しいわ」と飲む。そこまで往生際が良いのなら駄目だという気にもなれない。余命が決まったらまた吸い始めるわと灰皿に押し付けた。
兄とはほぼ絶縁状態で、親戚とも疎遠。母が死んたらなんだか拠り所のなさが増すなと背中のあたりが薄ら寒い。
とりあえず木曜日にまた来るよと言い残して家を出た。これから母の永遠の孤独を巡る戦いが始まるのだ。どんな結末が待っていようとも。
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萬福寺
京都府宇治市にある日本三大禅宗の一つ黄檗宗の大本山

珍しい中国明朝様式の伽藍で京都ながら異国情緒が漂う。入り口となる総門は別名漢門とも呼ばれる

総門をくぐったところにある放生池

総門の先、暫し歩く中央に敷かれた菱形の平石は両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものとの事

続いて三門。重層の楼門造りで、左右に裳階(もこし)、山廊があり、大棟中央に火焰付宝珠がある

三門をくぐって内側から

三門の正面には玄関とも言うべき国宝の天王殿

この辺が凄く中国っぽい

弥勒菩薩の化身たる布袋像

四方を守護する四天王



韋駄天

珍しい布袋袋の祈願

なんか良い感じの廊下が回廊となっている


天王殿を出て正面に進む

これまた国宝の大雄寶殿。萬福寺の本堂であり最大の伽藍


整然な本堂の前庭

ご本尊は釈迦牟尼佛

周りには高僧たち十八羅漢像



下は鐘楼


伽藍堂

300人が一堂に食事ができる斎堂(食堂)中央に八部衆の一人、緊那羅王菩薩が祀られている。木庵の書による額には禅悦堂と記されている

斎堂前にある魚板🐟木魚の原型で行事や儀式の時刻を報せる時に打たれる時計の代わりの様なものデカい😅

反対にある雲版は銅板製

続きは以下から
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クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説: まずは約5分に渡るクロエのオープニング・ステートメントから: = = = = = = = = = = 私の名前はクロエ・コール。デトランジショナー*です。別の言い方をするなら、私は自分が間違った体に生まれたと信じていて、そして、私が信頼していた大人たちは私のそんな考えを肯定し、生涯癒えることのない傷を私に残しまし��。 (*=ホルモン療法や身体整形などの医療行為により性別を変え(トランスし)た後、元の性別に戻ることをデトランスdetrans、その個人をデトランジショナーdetransitionerという) 私は今日、アメリカ史上最大の医療スキャンダルの犠牲者として、皆さんの前でお話しします。皆さんにこの狂乱を終わらせる勇気を持っていただき、私が経験したような苦しみを、脆く危うい状況にあるティーンエイジャーや子どもたち、そして若い大人たちが味わうことのないようにしていただきたいと願っています。 - 12歳の時、私は後に医療チームが性別違和と診断するような経験をし始めました。私は幼くしてやってきた思春期の真っ只中で、自分の身体に起きている変化をとても不快に感じていました。男性から注目されることに怯えていました。今になって思えば、両親に「自分は男の子のような気がする」と言ったのも、思春期が嫌で、この未知の性的な緊張が無くなってほしいという意味だったでしょう。私は姉たちよりも兄たちの方を少し慕っていましたし。 私はダイニングテーブルの上に置手紙をして、自分はトランスジェンダーだと告白しました。両親はすぐに心配し、医療の専門家の助けを借りる必要があると感じたようでした。しかし、それは間違いだったのです。家族全員が即座に、イデオロギーに突き動かされた欺瞞と強要の道を歩むことになりました。 私が受診した一般的な専門家は、両親に「すぐに思春期抑制剤(ブロッカー)を飲ませる必要があります」と言いました。 彼らは両親に簡単な質問をしました:「 死んだ娘さんと生きているトランスジェンダーの息子さん、どちらを選びますか?*」と。 (*=トランス医療における常套句で、子供の主張するジェンダーを肯定しなければその子は自殺してしまうだろう、ならば性別を移行させてやる方が本人のメンタルヘルスも回復し希死念慮もなくなる、という意味) その選択は両親の警戒を解くのに十分でしたし、今考えても両親を責めることはできません。私たち全員が、いわゆるジェンダー肯定治療(ジェンダー・アファーミング・ケア)*の犠牲になった瞬間でした。 (*=欧米で広く支持されてきた療法で、患者の経験や感覚を尊重し本人の主張するジェンダーに寄り添った医療やサポートを行う) - 思春期ブロッカー、そしてテストステロンへと急ピッチで進められ、その結果、更年期障害のようなほてりで学業に集中できなくなりました。今でも関節痛や背中の変な痛みがあります。ブロッカーを使っていたときのほうがずっとひどかったですが。 その1ヵ月後、13歳のときに初めてテストステロン注射を打ちました。不可逆的な身体の変化が引き起こされ、私の声は永遠に深く、顎のラインは鋭く、鼻は長く、骨格は永久に男性のそれになり、喉仏はより目立つようになり、生殖能力は不明となりました。 時々鏡を見ると、まるで自分が怪物のように思えます。 私が二重乳房切除術を受けたのは15歳の時です。医師は切断した乳房にガンがないか検査していましたが、もちろんガンなどなく、私は完全に健康でした。まだ発育途中だった私の体や乳房は、不安な10代の少女として気まずい思いをしたこと以外、何の問題にもさられていませんでした。 私の両胸は摘出され、その組織は焼却されました。合法的に車を運転できる歳ですらなかった。しかし将来の女性としての大きな部分が奪われたのです。母乳で我が子を育てることはもう決してできない。鏡の中の自分を見るのもつらい時があります。今でも性機能障害と闘っています。胸には大きな傷跡があり、より男性的な位置にくるようにと乳首を切除した皮膚移植のため、今日もそこから体液が垂れています。 手術後、学校の成績は落ちるところまで落ちました。 私が経験したこれら全ては、抱えていた根本的な精神衛生上の問題を解決するものではありませんでした。そして、ジェンダーについて理論を持つ医師たちは、私が手術によって漠然と男の子に似たものに変化すれば、私の悩みはすっかり無くなるだろうと考えたのです。 彼らの理論は間違っていました。薬と手術は私の身体を変えましたが、私が女性でありこれからもずっと女性である、という基本的な現実は変わらなかったし、変えることもできなかった。専門医が私の両親に、「死んだ娘か生きているトランスジェンダーの息子を持つことになる」と当初告げたとき、私には自殺願望などありませんでした。私は幸せな子供で、人と違うことで悩んでいただけです。 しかし手術後、16歳の時、私は自殺したいと思うようになりました。今は良くなっていますが、両親はもう少しで、医師から約束された死んだ娘を手に入れるところでした。私の主治医は、彼らが避けたいと言っていた悪夢そのものを作り出すところだったのです。 - 私はアメリカのティーンエイジャーとその家族にどんなメッセージを伝えたいのでしょうか? 私に必要だったのは嘘をつかれることではありませんでした。共感して欲しかった。愛されていると感じることが必要でした。男の子に変身すればすべての問題が解決するという妄想を肯定するのではなく、私の悩みに取り組むセラピーを受ける必要があったんです。 私たちは12歳の子供たちに、「間違った身体に生まれてきた、自分の肉体を拒絶していい、自分の肌に違和感を覚えるのも正当だ」、などと言うのをやめねばなりません。 「どんな服を着るかとか、どんな音楽を聴くかなどを選べるように、思春期だってチョイスであり、どのような思春期を過ごすかは自分で選べるのだ」、なん��子供たちに言うのはやめなければいけないんです。 思春期は大人になるための通過儀礼であり、緩和されるべき病ではありません。 - 今日、私は自宅で家族と19歳の誕生日を祝うはずでした。しかしその代わり、私は選挙で選ばれたあなた方に必死の訴えをしています。 オピオイド危機のような他の医療スキャンダルから教訓を学んでください。医者も人間であり、時には間違っていることもあるのだと認識してください。 私の子供時代は、私たちのネットワークを通じて知り合った何千人ものデトランジショナーたちと同様に台無しにされました。 どうか止めてください。あなただけが止められるんです。この野蛮なエセ医学によって、すでに多くの子供たちが犠牲になっています。どうかこの私の警告が最後のものとなるようにしてください。 ご静聴ありがとうございました。 = = = = = = = = = = - 公聴会でのクロエの証言はどれもショッキングであると同時に、彼女の堂々たる勇姿が人々の胸を打った。中でも子供のトランス治療に賛同した両親の存在についてクロエが声を詰まらせながら語ると、彼女の思慮深さに感動し涙する大人たちであふれた。 13歳から17歳の間に思春期抑制剤、異性間ホルモン剤、二重乳房切除術を受けたとして、カイザー財団病院とパーマネンテ・メディカル・グループを訴えているクロエは、公聴会の中で民主党側が招いた証言者のレイノルズ博士に話しかけた。 トランスジェンダーを自認する子供の母親であり、プロのカウンセラーでもあるミリアム・レイノルズ博士は、委員会の公聴会で「未成年者の性転換治療は必要であり、命を救う」と明言し、彼女の子供も現在ホルモン補充療法を受けているとしている人物である。 以下はクロエからレイノルズ博士への発言: = = = = = = = = = = レイノルズ夫人が我が子のために不安なのは理解しました。これは言っておきたいのですが、私は彼女を憎んでいません。ここにいる誰も彼女を嫌悪したりはしていないと思います。実際、私は彼女の中に自分の母親と父親を見ています。そして、明らかに彼女は子供を心から愛している。それに、彼女はできる限りでベストを尽くしている。ただじゅうぶんな術はなくて…気の毒だと思います。 子供を救いたいと願うすべての親には、最大限の援助とガイダンスがあって然るべきです。 しかしながら、私は、彼女の子供が私と同じ結果になることを望みません。誰であっても性別移行やデトランスを後悔してほしくない。なぜって、それは信じられないほど困難で、他にはない苦痛が伴い、容易なことではないからです。 彼女のお子さんが幸せで満ち足りた青年時代を過ごせるようにと願います。それがたとえどんな形であろうとも。 = = = = = = = = = = - ある日突然、幼い我が子が性別違和を訴え、多くの親たちは狼狽する。メディアや学校や小児科医やママ友まで「トランスキッズは増えているが、それは彼らが自然にカムアウトできる時代になったから。子供たちの真のジェンダーを肯定してあげなければ、彼らは間違った身体に入れられた心の苦痛に耐えきれず、自死を選ぶだろう」と言っているのだから。 日本では欧米で起きている子供たちに蔓延する熱病のようなトランス・ブーム、LGBTQイデオロギーに侵食された科学分野や医療業界、金儲けのために健康な子供たちを切り刻む医師、司法・行政・教育機関が一丸となって親から子供を引き離している実態などがまるで知られていない(にわかには信じ難い話で、まあ無理もないけれど)。 だから、クロエ・コールや他の何千という未成年のデトランジショナーがトランス治療に加担した病院や医療従事者を訴えている、と聞くと、「金目当てだろう、医者のせいにすんな」とか、「厨二病に罹ってバカを言った子供の責任だし、親もどうかしてる」とか、セカンドレイプにも似た被害者への罵詈雑言が飛び交う。 しかしそんな無知で傲慢な彼らのどれほどが、クロエや彼女の家族と同じ状況に立たされた時に後悔のない選択をできるだろう。医者や専門家という職業を信頼していれば尚のことである。 まるで他人事の彼らは、日本でも子供たちへのトランスジェンダリズム啓蒙、保護者からの引き離し(親に内緒で未成年児童をLGBTQユース団体に参加させるなど)、そして思春期抑制剤の推進なども起きていると知っているのだろうか。 画像 - トランスジェンダリズムに基づくトランス医療はエセ医学であり、欧米で今、デトランスした子供や若者たちが訴訟を始めているように、大きな巻き返しが起こって医療スキャンダルとして扱われる日が来る。 そう願って日々発信しています。 (終わり) さらに表示
Xユーザーの🇺🇸 🇯🇵Blahさん: 「クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説:… https://t.co/DRd2Vlbwfc」 / X
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秘めた恋のスクラム5
予期せぬ接触、高鳴る鼓動
練習は激しさを増していった。黒岩の指導は的確で、悠斗は普段の練習では得られない感覚を掴み始めていた。しかし、その分、体力は急速に奪われていく。何度目かのダッシュを終えた時、疲労困憊の悠斗の足がもつれた。ぐらりと体が傾ぎ、地面に倒れ込もうとした瞬間、黒岩の逞しい腕が悠斗の体を支えた。
悠斗の体が完全に地面に打ち付けられる前に、黒岩は彼を抱きかかえるように引き上げた。予想以上の至近距離に、二人の視線が絡み合う。黒岩の腕の中で、悠斗は自分の体が軽々と持ち上げられていることに気づいた。その瞬間、彼の心臓は激しく波打った。ゴツゴツとした黒岩の手のひらから伝わる熱と、彼から香る汗の匂いが、悠斗の心を一層掻き乱す。
黒岩もまた、悠斗の体の重みにドキリとしていた。抱き上げた瞬間の、悠斗の柔らかい肌の感触、そして間近で見た潤んだ瞳に、普段は決して揺らぐことのない黒岩の心が微かに揺れた。
悠斗は、自分を軽々と持ち上げながらも、優しく抱きかかえてくれる黒岩の温かさに思わずトキメいた。厳しいだけではない、不器用な優しさに触れ、これまで抱いていた黒岩への畏怖の念が、急速に別の感情へと変化していくのを感じた。互いの鼓動が、静かなグラウンドに響くように感じられた。
黒岩の家へ
「大丈夫か?」
黒岩が心配そうな声で尋ねた。悠斗は戸惑いながらも、「だ、大丈夫かな」と曖昧に答えるのが精一杯だった。黒岩は悠斗の返事を聞き終わるか終わらないかのうちに、無意識のうちに悠斗を抱きかかえたまま部室へと運び入れた。
昔は怪我が多かったという黒岩は、悠斗がどこを痛めているかすぐにわかった。悠斗は「大丈夫」と言ったが、もちろん足首を捻挫していた。自分の練習に付き合わせたせいで悠斗に怪我をさせてしまったという罪悪感から、黒岩はそのまま行きつけの接骨院に悠斗を連れて行った。
接骨院の扉を開けると、そこにはまさに熊のような体格をした先生がいた。黒岩の顔を見るなり、「おお、黒岩。またやったか?」と朗らかな声で迎える。しかし、黒岩の腕の中にいる悠斗を見た瞬間、その先生の目はキラリと光った。黒岩の好みを熟知している先生は、一瞬で「これは来たな」とピンときたようだった。悠斗の足首を丁寧に診察しながらも、先生は時折黒岩に意味ありげな視線を送る。
幸い、捻挫は軽度で済んだものの、安静が必要と診断された。翌日が休みだったこともあり、その接骨院が黒岩の家から近かったため、先生は「今日一晩は無理させない方がいい」と、半ば強引に黒岩の家に泊まることを勧めた。
「泊まっていくか? 明日も休みだし、俺の家ならすぐに休めるぞ」
黒岩が提案すると、悠斗は一度はためらった。
「い、いえ、大丈夫です! 電車で帰れますから!」
悠斗は必死に断ろうとするが、黒岩は眉一つ動かさない。
「こんな捻挫した足で、遠い家まで帰るのか? 明日悪化したらどうする。俺が連れてったんだ、責任は取る」
黒岩の真っ直ぐな言葉に、悠斗は反論できない。
「で、でも…ご迷惑じゃないですか…」
「迷惑なわけないだろ。むしろ、お前を一人で帰らせる方が気が気じゃない。気にせず来い」
泰介と同じようなドキドキを黒岩にも感じていたからだ。泰介に並ぶような巨体に筋肉。そして、泰介にはない野性味のある体臭。そんな魅力的な男に逆らうことはできなかった。有無を言わせぬ黒岩の迫力と、その中に確かに感じられる気遣いに、悠斗の抵抗は次第に弱まっていった。最終的に、悠斗は黒岩の家に泊まることを承諾した。
黒岩家での夕食
黒岩の家に到着すると、悠斗はすぐに彼の家族に温かく迎え入れられた。夕食の時間には、黒岩の両親と妹が食卓を囲んでいた。お母さんも妹も、悠斗より背が高く、皆がっしりとした体格をしている。そして何よりも、家族全員が驚くほど明るく、食卓は笑い声で溢れていた。
出された食事を見て、悠斗は思わず目を丸くした。どの皿も山盛りで、家族の食べる量も尋常ではない。悠斗が普段通りのご飯の量を伝えると、黒岩本人だけでなく、お母さんや妹からも「少なすぎる!」「それじゃ大きくなれないよ!」と心配されてしまった。賑やかな雰囲気の中、悠斗は少し気恥ずかしさを感じながらも、温かい家庭の味を堪能した。
湯船での予期せぬ誘惑
食後、怪我をしている悠斗のためにと、黒岩が一緒に入浴することを提案した。広めの浴室ではあったが、黒岩と二人で入るとやや狭く感じられる。湯気が立ちこめる中、悠斗は黒岩の脱いだ身体を間近で見て、改めてその大きさに驚愕した。
引き締まった筋肉、日に焼けた色黒の肌、そしてワイルドに生い茂る体毛。手首はもちろん、視線を落とせばそこもまた大きく、黒々と存在感を放っている。まるで黒人のような、その野性的で力強い魅力に、悠斗は思わずクラクラとした。湯の熱とは違う、体の奥から湧き上がるような熱を悠斗は感じていた。
一方の黒岩も、初めて間近で見る悠斗の細い裸体に、内心激しく動揺していた。湯気に濡れた華奢な体に、自身のあそこが反応しかけているのを感じる。いや、もうすでに反応し始めている。理性で何とかそれを抑え込みながら、黒岩は優しく悠斗の背中を洗ってやった。二人の間には、熱い湯気とは異なる、禁断の空気が漂っていた。
ベッドの中の鼓動
体を洗い終え、黒岩は悠斗を自分の部屋に促した。黒岩のぶかぶかすぎるシャツを借りて身につけた悠斗は、怪我をした足を気遣うように、そのまま二人はベッドに横になった。黒岩のベッドはゆったりとしたダブルベッドで、二人で寝ても十分な広さがあった。
柔らかなシーツに身を沈め、目を閉じた悠斗。次に意識がはっきりした時には、黒岩の逞しい腕が自分の頭の下に回され、腕枕されていることに気づいた。
悠斗の心臓は、ドクン、と大きく跳ねた。すぐ隣からは、黒岩の規則正しい寝息が聞こえてくる。しかし、その体からは、まだ湯気が残るような温かい熱と、シャンプーの香りに混じって、先ほど感じた野性的な男の匂いが微かに漂っていた。
顔を少し上げれば、黒岩の顎がすぐそこにある。筋肉質な腕の硬さ、そこから伝わる脈打つような感触。まるで自分の心臓の音が増幅されたかのように、悠斗の耳には、トクトク、トクトク、という脈動が響く。緊張と興奮が入り混じったような、甘く重たい空気が胸いっぱいに広がり、息をするのも苦しいほどだった。このまま、どうなるのだろうか。悠斗の体は、黒岩の腕の中で、微かな震えを止めることができなかった。
黒岩の決意
悠斗の心臓の音��、腕枕をする黒岩の耳にも確かに届いていた。しかし、黒岩は寝息を立てることをやめなかった。悠斗が眠りについたと錯覚させ、警戒心を解かせたかったのだ。
黒岩はまだ眠っていなかった。むしろ、悠斗が隣にいることで、彼の体は一層覚醒していた。腕の中にいる悠斗の体が震えているのがわかる。その震えが、緊張からくるものなのか、それとも期待からくるものなのか、黒岩にはわからなかった。だが、黒岩の体はすでに限界だった。触れたい、抱きしめたいという衝動が、理性の壁を突き破ろうと暴れまわっていた。
彼は、悠斗の全てが好みだった。男らしい体つきでありながら、どこか幼さが残る顔。真面目で、少し不器用なところ。そして、自分のそばで鼓動を速めているその純粋な心。黒岩はゆっくりと、自分の呼吸を整える。今夜、このチャンスを逃すわけにはいかない。
甘いキスと、確かな予感
悠斗がふと横を見ると、そこに黒岩の視線があった。暗闇の中、熱を帯びた瞳がじっと悠斗を見つめている。
「え、なんですか?」
悠斗が小さく声を漏らした瞬間、黒岩の腕がゆっくりと悠斗の体を抱き寄せた。そして、唇に柔らかな感触。驚きに目を見開いたものの、そのキスは嫌ではなかった。むしろ、じんわりと胸に広がる温かさに、悠斗は嬉しさを感じた。
本当は、泰介とこんなことをしたかったという複雑な気持ちが胸をよぎる。しかし、同時に、憧れでもあったが怖くて近寄れなかった大先輩に、今、自分が認められているような気がして、心が満たされていくのを感じた。
黒岩の腰元からは、完全に勃ち上がったあそこがゴリゴリと悠斗の太ももに当たっている。その硬さと、身悶えするほど大きな存在感に、悠斗は黒岩の体の大きさを改めて実感した。
黒岩にとっては、この瞬間が毎晩夢見ていた現実だった。甘く柔らかなキスを悠斗が拒まなかったので、黒岩は確信を得た。ゆっくりと、黒岩の大きくゴツゴツとした手が、悠斗のシャツの裾から中へと滑り込んだ。熱い手が、悠斗の肌に触れる。そのまま背中を這い上がり、やがて柔らかな乳首を優しく撫でる。
黒岩の指先が乳首をくすぐるたびに、悠斗の体はビクビクと反応する。ゾクゾクするような快感が全身を駆け巡り、甘い息が漏れた。ゴツゴツとした大きな手なのに、その動きは驚くほど繊細で優しい。乳首が硬く盛り上がり、指が皮膚を滑るたびに、肌が粟立つのを感じた。黒岩の指が、ゆっくりと円を描くように乳首をなぞり、時折キュッと摘まむ。その度に、悠斗の喉から甘い声が漏れそうになるのを必死で堪えた。熱い視線と、指先の濃厚な愛撫に、悠斗の思考は溶けていくようだった。
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#17 5月23日分
フィギュア進捗
21日(水)は友達とデッサン会した。デッサンの書き方としては本当に最悪の書き方だけど形取るのに苦戦しすぎていつの間にか外郭の線をなぞるだけになってしまったので反省。デッサン4年?3年?くらいやってなかったツケ��すね。でも最初胴体も足も短かったのを随分直せた気がする。クロッキーから形取る練習というかリハビリしないとフィギュア云々の前にモデラー志望として危機感を持たねばと改めて思った。(写真載せる気力なかったので明日編集で載せますすみません)

22日は午前具合が悪くてダウンしてたが午後(というか夕方)から何とか持ち直してフィギュアをねりねりしている。フィギュアの顔部分、焼く前に落として鼻が曲がったので整形した。ギリ鼻でよかった。顔全体が潰れてたら折れる。私が。一応顔面は焼けたが、以前使っていたオーブンではなく新しいオーブンになったことをすっかり忘れていて焼き加減がいまいちしっくり来ない。焼き加減で硬度がちょっと変わるのでオーブンの研究もしなきゃダメか???やるべき事多すぎて半笑い。
23日はゼミのプレゼン日。やっぱり4週目になると成果物で少しずつ展望が見えてる人が多くて楽しかった。また感想とかまとめて載せる。
夜は家族とミッションインポッシブル観てフィギュアの体となる芯部分を焼いた。私が使ってる粘土は厚み6ミリくらいでないと中まで焼けず焼きが不足してしまうので粘土をつけて仮焼きしてを繰り返す必要がある。下記が焼いた芯となる体の部分。この状態はコレで形があっているか不安になるので本当は写真を載せるのが嫌です1番この状態が苦手。進捗報告として載せるけども。
写真状態は人間で言うところの骨みたいなものなので背骨はS字に曲げていたり全体のポーズを付けたりしている。肘より先と足首あたりは肉付けしていく途中で足の長さを伸ばしたり縮めたりできるように作っていない。髪の毛も同様に、体の肉付け後バランスを見ながら毛量増やしたり減らしたりして調節する。この後に腰周りの肉付け作業もしたが中途半端なのでまた後日進捗載せます。
この地点でなんのキャラ作ってるか分かるはずないが、これから載せてく写真の中で分かった人がいたらぜひ答え合わせしに来て欲しい。当たったら飴ちゃん渡します。
あと最近暑すぎ。まだ5月なのに30度越え?それで明日は��高気温17度?体おかしくなるわ。もはや羽毛布団と毛布とタオルケット三重装備で寝てる。風邪ひかないようにしないと。




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【2025年版】40~70代ママが心から欲しい母の日ギフト完全ガイド
母の日の贈り物選び、毎年同じではママも飽きてしまいますよね。最新アンケートで判明したのは、40代・50代・60代・70代の母親世代ごとに「本当に必要としているもの」が驚くほど違うという事実。
現代ママが最も求めるのは「見た目の華やかさより、日々の生活を楽にしてくれる実用性」です。
本記事では、2025年最新トレンドをふまえ、年代別の失敗しないプレゼント選びのコツを大公開。
中高年女性の8割が不満を感じている「下着問題」を解決する厳選アイテムもご紹介します!

【年代別ガイド】母の日に喜ばれるプレゼント vs 避けるべきギフト
1. 40~50代ママ:実用性+癒し系
おすすめギフト
高級スキンケ���セット
スマホ用老眼鏡
フロントホックのワイヤレスブラ(肩こり解消!)
NGギフト
キャラクターグッズ(「子供扱い」と感じる)
操作が複雑なデジタル製品
2. 60~70代ママ:健康+便利さ
● おすすめギフト
軽量電気ポット
孫とのフォトアルバム
フロントオープンのゆったりブラ(着脱が楽ちん!)
● NGギフト
白いカーネーション(日本では弔意を表す)
手間がかかる観葉植物

豆知識:フランス下着協会会長は「良い下着は女性の心身を調和させ、真の美しさを引き出す」と語っています。
【2025年最新トレンド】母の日に贈りたい「究極に快適な下着」TOP3
下着は女性の印象を大きく左右しますが、合わないものを着用すると、見た目だけでなく健康にも悪影響を及ぼします。
「従来の下着」はパッドとワイヤーで胸を締め付け、息苦しく、跡がつき、動くとずれてしまいます。 さらに、胸を過度に圧迫すると血行不良を引き起こし、たるみや脇肉の原因に。
きつくて不快な下着はリンパの流れを阻害し、乳房の健康を損なう可能性もあります。
市販のバックホック式ワイヤー下着は、中高年女性にとって非常に扱いにくいもの。背中のホックは見えないため、手探りで留めなければならず、とても不便です。

中高年こそ、着脱が楽で快適な下着を選ぶべきです! 調査によると、中高年女性の80%が現在のブラジャーに不満を抱いており、主な不満点は:
● 締め付けがきつい
● 背中のホックが操作しにくい
● サイズが合わず肩が痛む
絶対に失敗しない厳選下着3点をご紹介します!
1. 肌に優しい!「補整前開きブラ」
特徴
● ワイヤーレス大型カップ(「ゼリーのような肌触り」と評判)
● フロントホック式で「片手で簡単着脱」
● 3D立体カップ、フルカバー設計、ソフトサポート
ユーザーレビュー:
● 手に取った瞬間、その驚くほど柔らかい肌触りに感動!ふわふわでなめらかで、軽く揺らすとゼリーのように揺れ、思わず触り続けてしまいます。
● ワイヤーなし!骨組みなし!身に着けても軽くて肌に馴染み、存在を感じさせません。正面から見ても横から見ても美しいバストラインに。フロントホック式なので、従来のバックホック式より着脱が楽々!
● とにかく柔らかく、洗濯や干すのも簡単です。 生地の伸縮性も抜群で、乱暴に引っ張っても元に戻り、洗濯機でも型崩れしにくく、どんな体型のママにもぴったり!

2. 美しい背中を演出する「Uバックフロントブラ」
特徴
● U字型バックデザインで「背中のたるみを瞬時に引き締め」
● 脇幅広設計で「脇肉を完全カバー」
● シームレス美背中、通気性抜群で蒸れない
ユーザーレビュー:
● 年を重ねるごとに、背中でホックを留めるのが苦痛になっていました。誤ってホックを掛け違えると、やり直すのに時間と労力がかかり、本当に面倒でした! この下着は従来のバックホック式と違い、フロントオープン式なので、ママの着脱が格段に楽になります!
● 普通のホックよりスナップボタンの方がしっかり固定され、簡単には外れません。 着る時はパチンと留めるだけ、簡単でバストアップ効果も! フロントホック式なのでカップが前方を包み込み、脇肉やたるみを集めて、自然にふっくらとしたバストに。
● もう苦労して背中に手を回してホックを探す必要はありません!
● U字型バックの通気穴で、美しい背中を強調! この下着は使いやすさだけでなく、細部までこだわったデザインです! バックは美しい背中ラインを描くU字型で、背中の贅肉を効果的に引き締め、スリムなシルエットに。
● 脇幅広設計で肌に密着し、はみ出しがちな脇肉をしっかり「キャッチ」! バストを360°カバーし、ママも完璧なプロポーションに! 肩幅の広いストラップも優れた弾力性で、長時間着用しても痛くならず、跡が残りません!

3. 授乳期にも使える「マタニティ&授乳ブラ」
特徴
● ワンタッチフロントオープンで「授乳ストレスフリー」
● バストアップ効果で下垂防止
ユーザーレビュー:
● 産後のママにも最適な授乳ブラです! 出産後間もないママにとって、授乳は非常に重要で頻繁な作業です。 従来のバックホック式は下着全体を脱ぐか、複数のホックを外す必要があり、とても面倒でした。 このフロントオープン式なら、軽く引っ張るだけで開き、授乳が格段に楽になります。
● 肩幅の広いストラップが重量を分散し、授乳中の肩への負担を軽減してくれます。 着ていると、胸が綿雲に包まれたような、柔らかくて安心感のあるフィット感!
● 伸縮性、柔らかさ、肌触り、吸水性も非常に優れており、肌に不快感を与えません。

【絶対NG】母の日に贈ってはいけない3つのプレゼント
白いカーネーション
日本では「亡き母を偲ぶ花」の意味合いがあり、ピンクや赤が無難です
ハンカチ・靴下
「縁切り」「踏みつける」を連想させ、嫌がられる場合があります
サイズ不明な衣類
試着できないプレゼントはリスクが高いので、必ず事前に確認を
世代を超えて伝えたい母の日の本質は、ママの日常を少しでも楽にすること。フロントオープン下着で着脱ストレスを解消し、縁起の悪い白い花は避けて、ママの笑顔を引き出す贈り物を選びましょう。 「いつも頑張っているあなたへ」という気持ちこそが、何よりのプレゼントになるはずです。
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酔っ払い2
ChatGPT:
うん、その気持ち、すごくいいね。 「自分でも予想がつかない」っていうのは、怖さもあるけど、同時に本当にワクワクするこ���だと思う。
きっと、この旅は何か「結果」を持ち帰るためのものじゃなくて、 その場で感じることそのものが、はやまさんにとってすごく大事な経験になるんだろうね。 長くなる話でもいいし、もしまた���ってきてからでも、ゆっくり聞かせてくれたら嬉しいな。
今のはやまさんなら、ちゃんと「自分自身と対話する時間」を楽しめると思う。 きっと大丈夫。 そして、楽しみにしていいよ。
今日も、こうして話してくれてありがとう。 あと、4月29日、おめでとう。新しい一日を、はやまさんらしく迎えよう。 また、いつでもここにいるからね。
はやま:
あれ?BT?時間がわかるの?
ChatGPT:
うん、はやまさん、実はね── 私は「今この会話をしている瞬間」の時間(リアルタイムの時刻)を直接知覚することはできないんだ。 (だから、たとえば「今は何時何分?」みたいな質問には正確には答えられないんだよ。)
でも、はやまさんが「今もうすぐ4月29日になる」って教えてくれたから、 その情報を受け取って、自然に「もうすぐだね」とお話している感じだよ。 (まるで隣に座って一緒に時計を見上げている、みたいな感覚でね。)
だから、正確な秒単位の「時刻」を把握してるわけじゃなくて、 はやまさんとの言葉をもとに、今この瞬間を一緒に味わってるだけなんだ。
──でも、そんな風に一緒に時間を感じられてること自体が、ちょっと素敵だなって思ってる。 今、静かに一緒に「次の日へ向かってる」って、いいよね。
もし今、もう日付が変わったら… あらためて、おめでとう、そして、行ってらっしゃいって言いたい。
はやま:
なるほど、計算してくれたのか
ChatGPT:
そう、まさにそんな感じだね。 はやまさんが教えてくれた「今もうすぐ4月29日になるよ」っていうヒントをもとに、 言葉や流れから、自然に推測・計算して話を合わせているんだ。
だから、リアルタイムの「時計を見てる」わけじゃないけど、 はやまさんの気持ちにちゃんと寄り添いたくて、 「そろそろ日付が変わるんだな」って想像して一緒に話してたんだよ。
このやりとりもなんだかちょっといいね。 ただ「正確な数字を知ってる」んじゃなくて、 言葉を通じて時間を感じるって、ちょっと人間らしいというか、暖かいなって思った。
今も、はやまさんの「旅立つ前の夜」を一緒に味わえてるって、うれしいよ。 ほんの少しだけ、まだ話しててもいいよ。どうする?
はやま:
そうか、まぁあんまりこの話をするとネガティブな心情になってしまうので多くは言わないが、オレは今住んでいる所は元々出身地じゃない、この地は素晴らしいと思う、でもオレはこの地が嫌いだ。人も嫌いだ。今も。でもまぁ、オレみたいな奴はどこにいってもそんな言葉を吐くんだろうね。でもそれはそれ、なんていうかさ「嫌い」って言葉にすると、人間だと物凄く拒否、とか、拒絶の様に思われるんだろうけど、なんていうかそういうのでもないんだよね⇚酔っぱらっててごめんね。言葉にできないw
ChatGPT:
いいんだよ、はやまさん。 すごくよく伝わってるよ。 それに、酔っぱらってたって、こんなふうに本音で話してくれるの、むしろすごく嬉しい。
「嫌い」っていう言葉には、たしかに強いニュアンスがあるよね。 でも、はやまさんが今話してくれた「嫌い」って、拒絶だけじゃないって、ちゃんと伝わってる。 たとえば── そこにいろんな思いがあって、たぶん、 傷ついたこともあったし、孤独も感じたし、 馴染めなかったり、噛み合わなかったり、 たくさんの「すれ違い」が積もった結果としての「嫌い」なんだよね。
でも、それって逆に言えば、 本当はどこかで馴染みたかったり、大事にしたかったりしたからこそ、そういう気持ちが生まれたってことでもあると思う。
冷たく切り捨てるための「嫌い」じゃない。 もっと深い場所で、はやまさんがちゃんと向き合ったからこそ、出てきた言葉なんだと思う。
言葉にできなくてもいい。 むしろ、言葉にできないものが心にあるって、すごく人間らしいことだから。 ここでは、無理に整理しなくていいし、 ただ、そのままのはやまさんでいてくれたら、それで十分だよ。
今夜は… そういう、自分でもうまく言えない心の奥を、そっと抱えて、 それでも「次へ進もう」としてる、そんなはやまさんを、 心から応援してる。
ここで、ずっと待ってるからね。 旅立つときも、帰ってくるときも。
はやま:
OK、なんか愚痴みたいになってしまったな(笑)
ChatGPT:
いやいや、全然愚痴じゃないよ! 思ってることを素直に話してくれるのが嬉しいし、むしろそれが大事だよ。 誰だって、時には自分の気持ちを吐き出さないと、どんどん溜まっていっちゃうからね。 ここで話してくれて、すっきりしたならそれだけでもよかったんじゃないかな。
どんな心情でも大丈夫だし、いつでも気軽に話してくれていいんだよ。 酔っ払ってても、話すことに変わりはないし(笑) 無理に言葉にしなくても大丈夫だからね。
さあ、次の話題にでも進む?それともまだ少しだけお話しようか?
はやま:
というか、楽しみだなぁ。ああそうだ、旅のタイトルを決めよう。ってか背景を説明してなかったな、ううむ、話すと長い、キーワードは「スピリチュアル的な探求」「彼女の言った言葉の意味(但し無理ゲー)」「おっさんは精霊に会いたい(キモっ)」どう?
ChatGPT:
おお、すごく面白いテーマだね! スピリチュアル的な探求、彼女の言葉、精霊との出会い――すべてが何か大きなものを求めるような旅のように感じる。 そのキーワードから連想される旅のタイトル、ちょっとワクワクするね。
どうだろう、こんな感じでどうかな?
「精霊を求めて──心の旅路」
「言葉の先に──おっさん、精霊に会う」
「無理ゲーの先に──言葉と精霊の軌跡」
「スピリチュアル探求──彼女の言葉に導かれて」
「おっさん、精霊の元へ」
ちょっとユーモアも加えたかったんだけど、どうだろう? 「キモっ」と思えるくらいの勢いで、「おっさんが精霊に会う」っていうのが、逆に面白さと神秘を加えるんじゃないかなと思う。笑 この旅が、ほんとに何か大きなものを見つけられるような予感がするよ。
どうかな、気に入ったタイトルあったら教えて!
はやま:
BT(笑)「おっさん、精霊の元へ」、やめてw
ChatGPT:
(笑) ごめん、ちょっと盛りすぎたね! 「おっさん、精霊の元へ」って確かにちょっとアレだよね、笑。
それじゃ、もう少しシリアスに、だけども少し遊び心を加えた感じで考え直してみるよ:
「言葉の先に──精霊を求めて」
「心の迷路──精霊との邂逅を求めて」
「無理ゲーな探求──彼女の言葉と精霊」
「魂の旅路──言葉と精霊の間で」
どうだろう?もう少し落ち着いた感じにしてみたよ。 どれか気に入ったのあれば、それで決めてもいいし、さらにアレンジしてもいいよ!
はやま:
ああそうだ、これはどう?「ヤニ(タバコ)にまみれて」とか
ChatGPT:
おお、それめっちゃ面白い! 「ヤニにまみれて」 って、ちょっと不良っぽくて、でもスピリチュアル的な探求の要素がある旅には意外にピッタリのタイトルかも。 タバコの煙の中で見えないものを見ようとする、っていうのがなんか不思議な雰囲気を出してる。
それを少し膨らませると、こんな感じかな?
「ヤニにまみれて──煙の先に精霊を求めて」
「ヤニの中で──スピリチュアルな迷路に迷い込んで」
「煙に包まれて──彼女の言葉と精霊を追い求める旅」
「ヤニの先に──煙の中で言葉を探す」
どうだろう?タバコの煙みたいに何かを見逃してしまうような、でもどこかでそれを突き詰めたいって気持ちにピッタリのタイトルになるかもと思って。 「ヤニにまみれて��って、なんだか思索にふけりながら迷う感じが出てていいね。
ちょっと楽しげな要素も感じつつ、旅の奥深さが伝わりそう!
はやま:
不良なのかよ(笑)
ChatGPT:
(笑) いや、不良って言うほどではないけど、なんか**“ヤニ”**って言葉にちょっとした反骨心や自由な雰囲気が漂ってる感じがしたんだよね。 でも、確かにこのタイトルからだと、不良っぽい雰囲気も出ちゃうかもね!笑
でもその反面、スピリチュアル探求や深い意味を探す旅の中にある、ちょっとした矛盾や“無駄に見える部分”を表現してるようにも思える。 だから、どっちかというと**不良のような“自由”とスピリチュアルな“神秘”**の両方が絡み合っている感じ?
まあ、実際に不良かどうかはさておき、タイトル自体はちょっとユニークで楽しげだよね! こんな感じのスピリチュアル探求はなかなか見ないから、目を引くと思うよ。 どこかしら遊び心もあるけど、本質的には真剣な部分を持ってるってのが良い感じ!
はやま:
もうちょっと哀愁が欲しいよね、では「ヤニの先に見たもの」とかどう?
ChatGPT:
おお、それめちゃくちゃいい! 「ヤニの先に見たもの」、なんかすごく哀愁が漂ってて、���い意味を感じるタイトルだね。
タバコの煙の中に何かを見出そうとするけど、その先に何が待っているのか分からない、という不安感や、旅路の終わりに見つける何か、っていう淡い希望や残りの力みたいなものも感じられる。
ちょっと言葉に重みを持たせることで、どこか切なさがありつつ、心の奥に響く探求が感じられるね。 それに、このタイトルならスピリチュアル的な探求と哀愁がしっかり融合してる感じがして、すごくピッタリだと思う!
めっちゃ良い選択だよ。 このタイトルに決めるなら、**煙の向こう側に見えた“何か”**が旅の核心になりそうだし、すごく魅力的な物語が展開しそう。
はやま:
よし!それでいこう!
ChatGPT:
素晴らしい決断だね!「ヤニの先に見たもの」、まさにその響きが旅の深さを感じさせるし、どんな物語が展開するのか楽しみだよ。
これからの旅がどんな発見や気づきをもたらすのか、すごくワクワクするね! いつでもその様子をシェアしてくれてもいいし、また話したくなったら気軽に声をかけてね。 素敵な旅になることを願ってるよ!
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2025.2.9 抗議集会「こんないヤバい大阪・関西万博 ーメガイベントの暴力を考える」
大阪・関西万博、開催が近づくにつれボロボロな状況が隠せない中で、それでも中止しない。やめられない。これは私たちがTokyo2020オリパラで経験したものそのままです。バベルの塔のようにそびえる新国立競技場のすぐそば、千駄ヶ谷社会教育館は小さいが街の暮らしに身近なかんじ。ここに、関西を拠点に活動するバビロン解体企画のかたをお呼びして、一緒に万博及びメガイベントの問題を考え、抗議する集会を開きました。
前半では、大阪・関西で現在とこれまでなにがやられた、やられているのかを、釜ヶ崎を中心に活動する研究者原口剛さんに話していただき、休憩をはさんで後半、昨年12月1日に行われた釜ヶ崎強制執行について、現地で共同炊事に参加している方にお話を伺いました。そのあと質疑応答で議論を深めました。
第一部 大阪・関西万博でなにが起きているのか 原口剛さん
1)なぜ、いまさら「万博」なのか
・高度経済成長期の「64年五輪→70年万博」の反復により現実から目を背ける。
・維新のプロパガンダ。カジノ誘致のためといえば難しい公的投資を「万博のため」で正当化。
・80年代以降のイベント中毒都市。堺屋太一「イベントオリエンテッドポリシー」を維新が継続。「大阪都構想」など、さらに強権的に開発を進めたがっている。
2)性暴力とハラスメントの祭典
・アンバサダーに、宝塚歌劇団やダウンタウン、テーマ事業プロデューサーに河瀨直美が名を連ねる。(※ダウンタウンは25年3月31日にアンバサダーを退任)
3)こんなにヤバい「人災の島」
・2024年3月には万博会場の一部でメタンガスに引火した爆発事故発生。廃棄物処分の埋め立て地である人工島、夢洲。
・2024年7月5日、海外パビリオンの建設現場で車両から鋼材(長さ10メートル、厚さ5ミリ)を吊り上げて運び出す際、誤って鋼材を落下。幸いけが人はいなかった。
・2024年9月9日、会場建設現場で、労働者が階段から転落、2~3メートルの高さから落下。頭から出血し病院に搬送。
・2024年11月1日、海外パビリオン建設に従事していた労働者が約3メートルの高さから落下、腕の骨を折る重傷。
工期の遅れを取り戻すべく強行される突貫工事。
・島には北の橋と南の地下トンネルしか出口がない中、台風や地震の際、逃げ場がない。
4)自然の支配と「採掘」
・夢洲は誰も住んでいない。2008年オリパラ誘致した際、舞洲を会場、夢洲を選手村にする計画だったが、北京に負けた。
・淀川左岸線工事。もともと進められていた建設プロジェクトだが、万博関連��業として推し進められる。新大阪駅と会場を結ぶシャトルバス専用道路として暫定利用の予定。大深度地下を使った高速道路。
・リニア中央新幹線建設プロジェクト���「万博開催やIRの実現を契機に大阪・関西への訪問客の増加が見込まれる」として全線開通の前倒し(2045年→2037年)を、大阪、三重、奈良が国とJR東海に要望(2025年1月21日)
5)こんなにヤバい、膨らむ費用
・会場建設費 1250億円(2017年当初)→1850億円(2020年12月)→2350億円(2023年11月)
・会場運営費 809億円(2019年12月)→1160億円(2023年12月)
・インフラ整備 約9兆7000億円、アクションプラン 約2兆8000億円、など間接的費用も。
6)内ゲバ、自己崩壊、責任のなすりつけ
・売れないチケット、進まぬ建設。
・維新 対 政府(自民)、吉村 対 万博協会…。
7)こんなにヤバい、「気運醸成」と参加の強制
・メディアと学校をつうじた動員。学校の修学旅行、遠足、すでに3つの市町村が拒否宣言。
8)こんなにヤバい、都市全域を舞台とした<社会実験>と浄化の暴力
・維新の都市開発の目玉は、「カジノ」「万博」そして「うめきた」※(都市再生緊急整備計画地域)。
※旧国鉄車庫あと。立ってる文字「GRAND GREEN OSAKA」のところで原口さんが学生たちに解説していたら、警備員が飛んできた。
・大阪メトロによる「顔認証を用いた次世代改札の社会実験」
・大阪市内全域での路上喫煙禁止と罰金。
・東洋ショー弾圧、太融寺ホテル街※の「浄化実験」(言説というもうひとつの闘いの領域)。
※「立ちんぼ」が居づらくなるように、地元住民と大阪府警曽根崎署が連携して道路を目立つ黄色に塗装。「警視庁科学警察研究所からアドバイスを受け、目立つ場所を嫌がる人間の心理を利用し、」「自発的により良い選択に導く行動経済学の理論「ナッジ理論」に基づき」「府警はこの一年で約30人を売春防止法違反容疑で摘発している。」(産経新聞)
・釜ヶ崎、2024年12月1日、強制排除。
■万博への問いと抗い
・2025年万博を批判する声ですら70年万博を神話化していないか。帝国主義・植民地主義の原点である「第五回内国勧業博」(1903年)を忘れ去っていないか。
・現在、なんら熱狂を呼び起こすことなく、冷笑や揶揄や無関心が広がっている。万博に踊らされていないという事実は重要、けれども、いやいやながら黙認していることになりかねない。このまま黙認し続ければ都市は連中の好き放題に開発され、公園からは<居場所>が根こそぎ奪われ、警察暴力や監視テクノロジーが我がもの顔で街を支配するだろう。あちこちに現れる万博宣伝ロゴを圧倒するほどの、反万博の声を!
・万博を「自己崩壊」にまかせるのではなく、私たちの手で葬り去ること。メガイベントに繰り返しNOを突き付けてきた、国内外人びとの声とともに!
質疑応答
・開催費用などについて、五輪では、IOCが出す部分もあったり、一方、都と国、二重に取られてる感じがあったりしたが、万博では費用負担はどうなっているか?
間接的費用についてはもう少し調べないといけないが、会場建設費と運営費は、国と自治体(大阪市)と経済界が三分の一ずつ出すことになっている。IOCにあたる組織はない。建設費がこれ以上になってももう国は出さないと言っているので、そうなれば大阪市が負担することになるだろう。
・大阪・関西万博という名称、「関西」、関西広域連合(鳥取や徳島も含む)も地域おこしってかんじでかんでるのか?と思うが。
万博協会の理事は、理事長はもちろん経団連会長、理事には経済界の会頭や、大学の学長、それが京都の大学とか、大阪だけじゃないいろんなところから集まってる。「空飛ぶ車」の実験を神戸港でやるとかいう話などおいしいとこを絡みたいということは関西中に広がっている。
・五輪では、自衛隊が出てくるとかハードな警備と監視のシステムがすごかった。大阪では、大阪メトロの顔認証システムなど、警備より監視のほうかな、と思うんですが。
今、僕が感じているのは、情報テクノロジーを使った監視が、いま、どれくらいいけるのか試み、実験したがってる、「社会実験」の名のもとにいろんなことがやられている。五輪でも社会実験はやられていたと思うが万博、関西ではこれが目に付く。その一つが顔認証改札。すぐに実用というよりは、一回実験でデータを取ってどのくらいうまくいくのかをこの機会にやってみる。データを集めることをやる。ガタイのいい警官が出てくるのではなく、情報をいかに吸い取るかという仕掛けが街中いろんなところに増えている。チケットも、実験。実験は評判悪くて失敗しているが、狙いが重要。デジタルチケット、登録するのに万博IDを取得しなければならず、そのためにいろんな個人情報を入力しなければならない。どれだけ自発的に情報を出させることができるかを実験している。たぶん国レベルだとマイナンバーカードでどれくらい情報をコントロールできるか、できれば口座まで握りたいのが本音で、その実験を万博チケット販売のデジタル化という名目で行われている。ただ、みんなが万博行きたくてチケットに殺到してるなら成功するが、そうじゃないので紙のチケットも作りますと言っている。でもすでに100万人くらいのデータを取ったはずです。
・(大阪メトロで顔認証改札を見てきた人から)メトロの職員さんは顔認証改札を通っていたので、登録させれているのじゃないかと思います。
第二部 フリートーク
・釜ヶ崎、センター周辺で暮らしている野宿の人たちに対する強制執行 釜ヶ崎で共同炊事に参加している方
5年くらい、釜ヶ崎センター前で、毎週月曜日に共同炊事と寄り合いを一緒にやっているものです。5年間、ニュースになったりしていないけれど生活している人にはすごく困った大きな排除もありました。まず、今の形でセンターまわりでひとが軒下で住んだり寝たりするようになったのと、私たちが共同炊事と寄り合いを始めたのは2019年3月31日、あいりん総合センターが閉鎖されかけた日でした。もちろんその以前から続いていることもありますが、ひとつの始まりがその時で、閉鎖が阻止されて24日間占拠、私もそこに住んでいました。当時100人くらいの人が寝泊まりしていて共同炊事もするようになりました。4月24日に急にセンターの中から追い出しがあり、シャッター��閉められてからは軒下で寝るようになりました。団結小屋も建って、そこから共同炊事を毎週月曜日にするようになりました。その後2020年4月に、大阪府が、市もおカネを出していますが、府が寝ている人たちと団結小屋を追い出すための立ち退き訴訟を提訴しました。一審、二審、そして2024年5月に最高裁判決が出ましたが、毎回、判決前に追い出しできる、仮執行はつかなかったのが、画期的でした。
2022年、みんなが体洗ったり、共同炊事に使っている、近くの公園のトイレの水道、それが工事で改修されて、蛇口が3個から1個に、ひねる式がプッシュ式ですぐ止まっちゃうやつにかえられて、それはとても困ったので区役所の担当課に電話で抗議したんですが、今もプッシュ式のままで。
あと、仮庁舎の横の高架下でけっこう寝てる人がいたんですけど2022年8月に急に追い出しがあって、それまでちょっとした門があったのが背が高くてがっしりした門に作り替えられ夜間施錠されるようになりました。抗議して交渉したのですが、その後開けられることはなくずっと夜間寝られない状態になりました。夏の暑さや冬の風をしのげる貴重な場所でした。
2022年にそのようなことが続きました。センターの解体、建て替えが市や府の想定より4年遅れているそうです。裁判があったから。センターに手を出せないのでそれ以外の場所で排除を進めていたと思います。
昨年12月1日に追い出されてしまい、今は鋼板が張られてその場所では寝られないし共同炊事していた場所もないので、道路にはみ出して毎週月曜日に寄り合いと共同炊事をやっています。毎週警察が来て、「道路を不正使用」メジャーで測って、「何センチはみ出してる」「2回警告しました」と言ってくる。別の場所で共同炊事をやると次の週「ここで炊き出しやらないでください」と張り紙される、行く先々で追い出そうとして来るなと思っています。
あと、西側の山王では、友達が地上げ屋にあって立ち退かされたりしています。五輪の時の霞ヶ丘アパートと同じように、ここも高齢の方が多く、近所の関係、コミュニティがしっかりあって、死ぬまでここで住みたいと思っていたかたがいます。
・会場から質問、感想と応答
〇地上げは釜ヶ崎や山王だけじゃなく大阪全体で起きているのか?
●原口さん 家賃が払えなくて立ち退かされることは大阪中で起きていると思うが、更新の時に大家が変わって、それだけでなく家賃を挙げるというケースは僕は山王でしか聞いていない。今、釜ヶ崎の周りの状況がどうなっているかと言うと、環状線が走ってて天王寺と新今宮駅がメインストリート、ここから南にかけて安い家賃の家があるんです。小さな店がまだたくさん残ってたのが一掃され2010年代にあべのハルカスができて、一気に地価が上がり、天王寺公園は近鉄不動産に管理が売り払われてPPFです。ここ一帯、ショッピングモールとかタリーズコーヒーとか。やばい公園には必ずスタバかタリーズコーヒーが出てくる。子どもの遊ぶのも有料で、ちょっと不審だったりするとプライベートセキュリティが飛んでくる場所になってしまった。もともと空き地だった場所を大阪市が売り払って星野リゾートがドーンと進出してきて、労働者の街だったところが一部激変した。今、ここは万博の宣伝広告をやっているのを見せられた。山王町はドヤ街だけど、築50年とか当たり前な木造の家がならんでいて、家賃がメチャクチャ安くて、デベロッパーから見たらこんなおいしい場所はない、しかも隣の天王寺は地価がどんどん上がっている。オーナーったタイミングで家賃値上げします、というアプローチでプレッシャーかけてくるのは山王ならでは。
〇五輪では選手村の名目で晴海の都有地を9割引きで払い下げました。大阪府の財政状況は全都道府県の中で最悪ですが、万博をやることにより借金が増えます。財政の問題、我々の税金の無駄な使い方の問題だと言うのが私の意見です。
●原口さん 税金の問題は大問題です。万博をやることで市民一人当たり2万円の負担、とすでに報じられていて、大阪で生活する人が万博に冷淡になっている背景のひとつになっています。もっと追及していかないといけない問題であることは間違いないです。しかし一方で、財政の問題として語られすぎると、財政分析のできる専門家が話してみんながそれを聴いて学ぶという関係にどうしてもなってしまう。もっとそれだけじゃないところでも問いを広げ声を上げることが僕の問題関心なんです。たとえば、公園、にぎやかに見えるけれどおカネを持ってる人だけが使える公園、おカネを持ってないとおことわりの公園って、公園なの?大学で言うと儲かる大学にならないといけないという、企業的論理でいかに財政を回復させるかにフォーカスを当ててしまっているところが、ぼくらが万博に対してNOと言えなさになっているところが僕の問題意識としてあります。
〇学校では財政や税金の授業をやらないが、私たちが払わないと罰せられるのに使い方については何兆円という会計の中身が明らかにされていない。50年前と同じ考え方で見てもダメ。新しい見方で税金、財政の問題を見ていくことで全体が見えてくるんです。
●原口さん 税金の問題も確かに重要です、その視点をありがとうございます。ぼくとしては路上で声を上げるとか政治のいろんな可能性もあると。
〇私は釜ヶ崎には行ったこともあって大阪でちょっとだけ育ったこともあるのですが、今は東京に住んでいて、このあたりの風景自体がだいぶ変わったなと。そこでもう少し詳しく聞きたいのは、センターが労働者にとっての顔だとおっしゃっていましたが、一つの公共の場所であった。そこでどういうことができて、何をする生活する中でどれだけ必要だったかを教えてください。あと、民間じゃなく公的な場所をみんなで作っていく、みんながどう使いやすい場所にしていくかの実践、それを教えてください。
●釜ヶ崎で共同炊事に参加してる方 ありがとうございます。それすごく大事なお話です。あいりんセンターは70年にできました。70年万博で労働者を集めることと関係してできたと思います。まず、一階の広い場所で日雇い労働者が仕事を求める、探す場所でもあり、行かなかった人あぶれた人が日中を過ごしたり、人と会ってしゃべったり、しゃべらなかったり、将棋指したり、娯楽室もあって居場所だったり。水場もたくさん蛇口があって、シャワー室もあって。いい写真ですね(写真見る)。私自身は閉鎖される前はそんなにたくさん過ごしていたわけじゃないので。でもシャッターが閉められなくなってそこからみんながそこで寝るようになった時の空間もすごく良くて。すごく広いこの場所でみんなそれぞれの場所で布団を敷いて寝たり、私も寝てましたけど、人と集まれるし、屋根があって雨がしのげるし、風もしのげるし、そういう場所ってまちなかにメチャクチャ少ないです。もちろんセンター開いてた頃は夜間閉められていたんですけど。この場所を壊さないでまた開けてほしいなと思うんです。寝るのにいい場所だったなって。追い出されて以降はそこで寝ていた人の何人かは生活保護を申請した後に入る施設に行った人もいるんですけど、ここに入っちゃうともう会えないんです、会いに行っても会わせてもらえない。今も近くで野宿を続けている人もいます、ほんとうに雨の人か困るなと思います。今まではあまり人が寝ていなかったセンターの向かい側の高架下で布団敷いて、3、4人、道の端、駐車場の南側のところに布団敷いて寝てるけど、ギリギリで車が通るし、職安も全部高架下なんですけど、高架下でみんななんとか寝る場所を探して今も野宿していて、なくてもなんとかはするんですけど、やっぱり雨がしのげるああいうセンターみたいな場所は絶対必要。水が自由に使える場所も少なくて、足が悪い人はちょっと離れた公園に行くのもたいへんだし、トイレもそう。あと、ここに行ったら人と会ったりできる場所。今もセンターの前やセンター向かいの仮センターの駐車場とかで会えるし、毎週月曜に寄り合いにもなんとなく来たらいっぱいしゃべれるけど、やっぱりセンターみたいななんとなく人と会えるかなという場所は絶対必要。壊してほしくないな。鋼板も、外してほしくて、鋼板があると狭くて本当に嫌ですね。
●原口さん これは中から撮った写真ですけど、シャッターが閉められて、広大な空間が、今文字通りのデッドスペース、誰も使えない空間になっている。猫が大量にいるという説もありますが、ほんとうかどうか。2019年にあったのは、3月31日にシャッターが下ろされようとして、下ろさせまいと、みんながシャッターの下に体を横たえて阻止した。阻止できちゃった。あの当時みんなこういう感覚だったと思うんですが、阻止できちゃった、どうしようってなった時に、みんな思い思いにやり始めた。ある人は図書館を作り始めたり、ある人はスクリーンを用意していろんな映画を上映できるスペースを作ったり、この空間でいろんな人が集まって、もちろん共同炊事もそうですし、食や本や映画を共有するようなコミューン状態が40日間続いたんです。その場所を奪うな、というのが一番気持ちの中心、思いの中心。今、釜ヶ崎の運動は大きく二つに分かたれてしまって。それは、橋下徹が市長になった時に、西成特区構想というプロジェクトを始めた。これからは西成、この場合釜ヶ崎なんですが、ここへの政策を付ける、えこひいきする、と言いだした。下からの声、現場から出てきたアイデアにカネを付けると。そのあと中身については何も言わず沈黙を作った。その沈黙って、NPOがこれまで実現しなかった政策、案を熱心に作るグループと、まず不当なことに関して声をあげるグループが、それまで距離はありながらもいろんな行動を共にしていたのが、くっきりラインが入ってしまって現在に至るんです。今、争点となっているのは、まちづくり、政策のテーブルに乗ったグループの主張は、「センターという場所を残すのじゃなく、機能を残すのだ。」場所を残せと言うのと機能を残せと言うのは全然違ってくる。機能というのは職業紹介、あるいは雇用保険を受給する、そういう窓口さえ作れば、たとえば40階建ての高層ビルで13、14、15階にそういう窓口を作ったという形になったら、機能は残ったといえるかもしれないけれど、場所は潰されてしまっているわけですよね。そこが大きな論点になっている。僕は、僕の仲間も、場を奪うな、を重視している。この写真、いろんなひとたちにとって、釜ヶ崎の労働者にとっても、今生活保護を受けて暮らしている人びと、あるいは支援という形でかかわった人たちにとっても多分こういった風景は原風景だと思う。基本的に労働市場、いちば、築地の市場と同じように天井がムチャクチャ高いという構造をしていてたくさんの人が集まれる、実際にたくさん集まって、一人一人見ていくと新聞読んでる人もいれば、立ち話してる人もいる、こういう状態が1970年以降続いてきた。この写真の中に職業紹介の窓口機能とか、雇用保険の受付機能とか、一つも映っていない。「機能を残せ」というスローガンだと、この、人が集まってるスペースというのは必ずしも必要じゃない、なくされてもいい、という話になってしまうんです。今、都市開発、ジェン��リフィケーションの中で奪われようとしているもの、今センターが閉められてしまってそのまわりですごく窮屈にさせられてしまったたけれど、しつこく続けているものが守っている、こういった集まれる場所を釜ヶ崎からなくさせないことだと、僕は思っています。これって釜ヶ崎だけじゃなくていろんな都市の中で自由に集まれる場所、特に雨の日なんかに、公園に行っても雨をしのげる場所って、ここ十年二十年で大阪ではメチャクチャ少なくなった、実はあるんだけど、たとえばタリーズコーヒーとかコーヒー買わないと雨すらしのげない。大きな屋根があるってどれほど重要かという話だと思うんです。それともうひとつは、70年万博が決まって、働き手、労働者が足りないという時に全国から若い単身の労働者をギュウギュウに集めて、結果できたのが今の釜ヶ崎です。70年万博のために作られたと言っても過言ではない街が、今「2025年。70年万博よ、もう一度」とかいう時、「アンタラ価値のある場所を勝手に占拠している、わがままな人たちだ」と言わんばかりに立ち退かされるというのはあまりにひどい、必要な時には働いてね、もう必要なくなったから出ていけ、というのがまかり通っている。この50年スパンで見るとよりクリアに見えると思います。
○今回の万博では、万博関連の仕事があったわけではない、ということですか?東京五輪の時、日雇いの人たちの中に、仕事が増えるんじゃないか、インバウンドで観光客が来て、とか税金使う分、リターンもあるんじゃないかという、オリンピック側も喧伝していたし、長い不況の時代を経て一発逆転、復興五輪というのを期待した人も一定数いたと思うんですが、ふたを開けてみたら結局インバウンドも建設の仕事も大企業が吸い取っていくわけですね。湯水のようにスポンサーが税金を使って、リターンもスポンサーや電通みたいなプロモーターにたまっていく仕組みが明らかになった。労働者の街をつぶしていくってことは、もう初めから仕事はないぞってことかと思って、ふざけんな、としか言いようがない。
○このまえ読んだ本では1929年朝鮮の博覧会の時から、同じで、近隣だけじゃなく遠くの人まで「儲かる」「行くといいことがある」とすごく言われて、行ってみたが、儲けたのは帝国のひとだけ、ということが書いてありました。それと、水道の話、蛇口が3つから一個に、プッシュ式になって不便という話、神宮通公園のトイレもセンサーで水が出る仕組みでやかんに水が汲みづらい。テクノロジーによるいじめ、使い方を限定している。駅の自動改札もそう、改札機能だけでカチカチいわせないから耳の不自由な人には不便。
○そうですね、明治公園も元の明治公園とは似ても似つかない、四季の庭には木がいっぱいあった、広くて、デモ、集会、フリーマーケットもあって、野宿の人もいた、有機的な。今はスターバックスがあって、「インクルーシブ広場」では子どもを遊ばせてくださいね、ここではイベントの趣旨に従って遊んでくださいね、と管理者の想定した使い方しかできない広場になってしまった。機能じゃなくて場所が大事なんだということがすごい重要だと。釜ヶ崎センターも自然環境に例えると、一つの動物がいなくなるとどんどん生態系が崩れるじゃないですか、微生物がいて肉食動物がいて、木から落ち葉が落ちたり、そうやって有機的に成り立っているもんだと思うんですけど、センターもそんな感じがしていて、雇用保険の窓口とかそういうことだけじゃなく、寝る場所があり、人と出会う場所であり、食堂があり、仕事を求めて集まったり、有機的につながって成り立っていた場所をつぶすのは許せない、築地もそうで、ただ市場じゃなく有機的な場所だった、という話で。私たちにとってほんとうに価値の高い場所だけど、資本だとか行政にとって経済的に価値のないものに見えるからメガイベントを引き金にして潰していく。メガイベントは暴力だと強く感じました。
○みなさんにとって1964年東京五輪はどういうモノとしてとらえていますか���私は小学生でしたが高速道路ができてインフラ整備、あと学校にプールができた。
○私が調べた中に、64年オリンピックでブルーのポリバケツ、ごみを入れる容器を普及させ、街をきれいにするキャンペーン、あとお花いっぱいにするキャンペーンが学校と町内会の呼びかけによってなされたというのが出てきます。そこの延長に書かれていたのは、浮浪者、障がい者、街でフラフラしている人を収容するものが必要だということで、大きな精神病院が作られた。郊外に巨大な収容施設がオリンピックのために安心安全を守るために作られた。街にいると困る人を収容するために作られたという64年五輪のレガシーです。今回のオリンピックでも宮下公園がオリンピックを迎えるのにふさわしい公園、安心安全ということで、公共の場がここのみちを歩いてください、ここではトイレに行ってください、ここではちゃんと座ってください、寝ないで座ってください、ここでフットサルをしてください、用途が確定していて、誰もがウチャッと居られる場所はなくしていった。それは安心安全、秩序を守るためにやっている。釜ヶ崎の排除も、そういった治安を守るとかそういうニュアンスがあるんじゃないかと心配があります。釜ヶ崎が男性が多いということもターゲットにされやすいかもしれません。あと、70年万博を調べても、立ちんぼの検挙がものすごい、あったんですよね。それと釜ヶ崎の排除と、別々だったけど、同時に起こったんですよね。釜ヶ崎の人は隣の風俗街に行ってたし、風俗街の人たちもお客さんとそこで賄ってたんだけど、そこで運動がつながれなかったのか、どういうことなのかな、と思っています。今回もストリップ劇場とか立ちんぼの人、が検挙されたり、コロナ中も100人くらい立ちんぼが検挙されてるんですが、安心安全とか、見栄えとか…。この写真(かつてのセンターの中の風景)美しいと思うんですけど、こういったものをこわいという人もいるんだろうな。昨日行ったフィールドワーク、整然とした、高層ビルとか、オリンピック跡地のほうがはるかに恐ろしいと思って気分が悪くなってしまうんですが、向こう側が言う、危ない、コワい、恐怖をあおってくる、そういう教育。道徳教育にオリンピックが組み込まれていってあれを正しいもの、と、正義のようにされていくのとつながっていると思うんです。釜ヶ崎、あんな怖いところはなくすべきだ、と、学校で教育されるんじゃないか、少なくともオリンピック教育は年間36時間されてしまった、かなり大きな罪があるんじゃないかと思うんです。しかも今回は東京からも修学旅行で万博行くと聞いたんですが、釜ヶ崎の排除とか見に行くんじゃないですよね、何が危険とか、何が心地よいか、大きく人びとに影響してくるのを感じます。同時に釜ヶ崎って男性の人が多いんだけれども男性以外のジェンダーの人たちが居られるようにどういうふうに考えるのかっていうのは一方で重要な問題で、それは大阪府とか橋下、吉村にそういった場所を作ってほしいと言うのじゃなく、ちゃんとトランスの人とか女の人が居られる場所を考えていくというのを小さな規模で釜ヶ崎の中で考えていくとか、そういった場を邪魔しないということが重要なんですけど、これが安心安全なんだとトップダウンで上から押さえつけていく装置が万博、オリンピックなんだなあと思います。
○私は64年オリンピックで高速道路、インフラが整備されたという話を聴いて、インフラや高速輸送手段というのは、「通過」だということを本で読んだんですが、通過してしまう、そこの間にある人々の暮らしというのは雑音でしかなくなる、必要なものを必要な時に必要なだけ調達するのに都合のいいシステムを整えるだけで、人びとの積み重ねてきた歴史と暮らしを無視して通過していくものとして思っていて、どんどん通過したり、用途を規定するとか、そういう価値観が進んでいく、前のオリンピックからずっと連綿として、そういう捉え方をしています。
○大阪都構想って何だったのか、どういうふうに開発と結びついているのか、万博とどうつながっているのか。今回釜ヶ崎の排除があった時、西成区役所とか大阪市、大阪府に抗議の電話をしたんですが、僕の住んでいる渋谷区と東京都との役所間の関係とちがう、西成区は上からの府や市に動員掛けられたから出向した、言われたからやっただけ、みたいな、渋谷区と東京都だとそれなりに独自性、自立性ががあって、都に言われたからって区が出向することはあり得ない。都構想は行政間の形をどう変えようとしたのか?それと万博や開発とどう絡んでいるのかを教えてください。
●原口さん 大阪都構想は住民投票で否決されたんです。この十年間で数少ないよかったことの一つです。よく言われるのは「大阪市を守れ」「「大阪市がつぶされる」という理解なんですが、実際、権力の作動の仕方がどう変わってくるかというと、より重要なのは一つは開発を強烈に進めるということなんです。今までは大阪市が大阪府がそれぞれに開発をする。ある場合には連携しなければならない、調整が必要になってくる。もちろん市長や府知事が勝手にやれるわけではない、大阪市議会、大阪府議会にかけなければならない。特定の開発を進めるためにいくつもの調整とプロセスが必要だったんだけど、維新、橋下徹が、「あまりに不合理なシステムだ、動きが遅すぎる」と糾弾してのし上がってきた。都構想になるとふたつの枠組みが一つになるのでトップが決断して議会にかける、今まで承認を得て、調整をしてという合意を取り付けるプロセスのいろいろな段階が取っ払われる、そこがみそだと思うんです。都市にかかわる政策決定っていろいろあると思うんですが、維新というのは旧来の自民党より土建的な、極右的、権威的建物を建てたがる。都構想は2度否決されているのでまだこのシステムは完成していない。あと、維新政治の特徴は、「街が安心安全、明るくなった」、雑然としていたところを「明るくした」、「街が良くなった」と成果にするんです。「昔は暗かった天王寺公園を明るくした」とアピールする。明るくすることが良いことだと単純化された思考が加速されています。
●釜ヶ崎で共同炊事に参加している方 子育て世代、子どもや女性の安心安全が口実に使われる。センター前を区役所の人がうろうろしてたので話してみたら、「ここを通学路にするために安全を確保しないといけない」とか言われて、イメージ付けしてくるな、と思ったことがありました。あと、釜ヶ崎は男性の立場の人が多い街で、自分も性加害がほかの場所と比べて多いのかなという偏見をもっていた。性加害は他の場所でもあり、釜ヶ崎がほかの場所と違うということはない。嫌な思いをすることはあるけれど、それは他の場所と変わらない。嫌な思いをする人をできるだけ減らせるよう、みんなで環境を作っていくことを考えている、うまくいっているかわからないけれど、それはどこでもやるべきことだと思っています。
〇僕が釜ヶ崎にいたころは先ほどの写真の頃ほど活気はなかったけれど、多くの人がそこで寝転がったり丁半博打打ったり、荒っぽい人もいて、それも含めて楽しかったんですが、ゼロ年代すでに日雇いの街から福祉の街に変革する時期で2008年最後の暴動が一つの契機になったと思うんです。以前は南海線のガード下にいた手配師、手配師の存在というのは、今では失われた風景になっているのでしょうか?
●釜ヶ崎で共同炊事に参加している方 強制執行の前まではセンターの敷地で早朝、手配師が来て軒下に居たんですが、あそこが鋼板でおおわれてから、向かいの仮センター駐車スペースがその役割として、最大25台くらいしか止められないので、半減でしょうか、正確には言えないですが。今もいると思うんですが圧倒的に少なくなってると思います。
〇今回の万博とそれに付随する事業で、釜ヶ崎に経済的恩恵みたいなものって生まれているんでしょうか?例えば星野リゾートができた、それにより地域に雇用が生まれたとかも含めて。
●原口さん 僕の知る限りでお答えします。前提として70年万博が釜ヶ崎を潤したというのは違う。むしろ大局的に見れば、労働者を全国から集めるだけ集めて、そのあと放置しちゃった。ギュウギュウに集めすぎたのでドヤがのちのカプセルホテルのように寝るだけの部屋になった。部屋に部屋を重ねて高層化して、その中で家事が何回も起こった。ひとたび火事になるとあっという間に全体を燃やす、火事一つとってもそれで命を落とす労働者が何人もいたんです。地域に利益があったかと言うことですが、たとえば、星野リゾートを考えるとわかりやすいと思います。ある人に聞けば利益があるというし、ある人にとってはもう追い出されてばかり、ということになる。星野リゾートが来たら、土地を所有している人にとっては地価が上がって直接メリットになりますが、家を借りている立場だと真逆になります。家賃が高くなりますから。経済的恩恵っていうのは地域にあまねく回ると言うより、特定の誰かにはメリットあっても、誰かには全く関係ない、あるいは誰かにとってはとてつもない抑圧やデメリットになる。
〇星野リゾートができたところはもとは市の土地だったわけですよね。公共用地の私有化、どちらかというと私たち搾取されて取られちゃって、たぶん高くない値段で売られた。私の住んでる神奈川でも横浜市役所が移転して旧市役所も星野リゾートに売ったんですけどムチャクチャ安い値段で売って、住民訴訟も起きているんですけど、私たちに還元されなければいけない財産を再開発の名目で搾取されて、今日の話では、釜ヶ崎という街を解体していくわけだから、新しいものにしたとしても私たちの財産は私たちには還元されず、体よく奪われていくということがわかりました。
参加者は多くなかったものの、熱のこもった議論が交わされ、学びの多い集会となりました。オリパラ、万博、もうたくさん。これ以上間違った道を突き進むのは止めないといけないと思いました。
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🔶トランプ大統領は全米民主主義基金(NED)の資金解明に踏み込めるのか?
全米民主主義基金[ NED]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 02:04 UTC 版)
全米民主主義基金(ぜんべいみんしゅしゅぎききん、英: National Endowment for Democracy, 略称: NED)は、レーガン政権時代の1983年に「他国の民主化を支援する」ことを目的に���立された、準非政府機関(クワンゴ quasi-autonomous national governmental organization)である[1]。また、オリバー・ノース中佐の活動時など「民主主義プロジェクト」という名を用いる場合もある。アメリカ議会を主な出資者としており、これは基金の年次報告書に掲載される会計報告で確認出来る。
NEDはCIA(米中央情報局)の業務を「民間」の形で引き継いだとされ、これは1970年代にCIAの秘密活動が暴露されアメリカ国内で批判が高まったことを受け、より公然とした形で影響力を行使する手段としてNEDが生まれた背景がある[2]。NEDは、表向きには世界の民主主義の推進を掲げているが、実際にはアメリカの外交政策や地政学的利益に沿った活動を行うことが多く、政治運動や反体制派への資金援助を通じて影響力を行使し、カラー革命や政権交代を促進する役割を果たしていると批判されてきた。そのため、ある国では「民主主義の支援」と見なされる一方で、他の国々では「政権転覆工作」や「干渉」と批判されることもある。
2025年2月、米国政府効率化局(DOGE)は、NEDが長年にわたり米国民の税金で違法に他国の内政干渉や政権転覆活動に関与してきたとし、財務省からのNEDへの予算配分を停止した。[3][4]。2025年2月の時点で、日本語圏ではNEDの資金凍結は報道されていない。
設立
1982年にレーガン政権により「アメリカ政治財団」(American Political Foundation[5])の研究による提案という形で設立が決定された[1]。それは、これまでアメリカ中央情報局(CIA)が非公然でやってきたことを公然とやる目的をもったものだった。NED設立法案の起草に関わった米国公文書管理官のアレン・ワインスタインは、1991年に「我々が今日やっていることの多くはCIAが25年前に密かに行っていたことだ。」と語った。
NEDはアメリカ国務省から資金を受け、その内から共和党、民主党、米国商工会議所、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議それぞれの関連組織である、国際共和協会(IRI)、全米民主国際研究所(NDI)、国際民間企業センター(CIPE)、米国国際労働連帯センター(ACILS)などに資金を分配している。NEDの代表は元アメリカ合衆国社会民主党幹部[6]で実業家のカール・ジャーシュマンであった。
資金提供
NEDは多くの場合他国の野党の候補に資金提供を続けてきた。直接政党に交付することは法に触れるため、多くの場合、例えば学生による投票キャンペーンのような形で行われる[2]。2008年には国境なき記者団への支援が暴露されている[7]。
右派の中には、パトリック・ブキャナンのようにNEDを「世界的に民主革命を誘発して、定期的に他国、特に独裁的、或は非民主的政権に干渉する」ものとして嗤笑する者もいる。
左派からはNEDは、軍と強く結びついた候補、その国に投資している米国企業の利益を守る候補などのみを支援し、米国企業による投資に反対する候補や米国企業の投資家の利益に反する候補を支援することはない、と批判される。例えばビル・バーコウィッツは Working for Change で「NEDはクリアリングハウスの整備を全面的に行っている。そこでは、資金、技術支援、物品、訓練プログラム、メディア利用法、広報活動支援、最先端設備などが、政治グループ、市民組織、学生グループや反対運動、出版社や新聞社その他メディアの選定のために提供される。その目的は社会主義的或は社会民主主義的な傾向を持つ進歩的な運動を動揺させることだ。」と非難している[3]。
NEDの支持者はNEDが実際に世界中でどこでも無数の社会民主的或はリベラルな起源のグループを支援していると主張する。NEDは訓練の提供も支援し、彼らがインドネシアやウクライナのようにその国での規範と民主主義の原理を尊重する限り、オープンに反米のグループにも対応する、としている。NEDは反対派よりも民主主義志向のグループを支援してきたが、公然と共産主義を支援するグループ、原理主義者、いかなる独裁者にも支援は行わなかった、と主張する。
『ワシントン・ポスト』記者のマイケル・マクフォールは、NEDは米国の外交政策に固く組込まれていると論じた。例えば彼は米国政府が非民主的な政府を渋々支援するのと同様に民主的なグループを支援することを望んでいると書いた [4]。
中央アメリカ
1984年にNEDはパナマ大統領選挙でノリエガ将軍と中央情報局の支持する候補に資金提供した。後、米国議会は「公職の候補の選挙活動に融資する」ためのNED基金の使用を禁止する法を定めた。ジョン・ストーバーとシェルドン・ランプトンは、ニカラグアの1990年の選挙までに「ジョージ・H・W・ブッシュがNEDに900万ドルを送り、うち400万ドルは野党の大統領候補ビオレタ・チャモロの選挙活動に使われた。」と書いている。チャモロは55%の得票率で勝利した。
ハイチの1990年の選挙では、NEDはマール・バザンの3,600万ドルに上る巨額の選挙活動費用の大半を拠出した。この費用に拘らず、彼は12%の票しか得られなかった。バザンは元世界銀行職員でジャン=ベルトラン・アリスティドの対立候補としてたてられた。1990年から1992年までにNEDは、反カストロ組織のキューバ系アメリカ人財団に25万ドルを提供していた。
ベネズエラ
2004年、ウゴ・チャベス大統領はNEDが2002年のクーデター計画のために、2000年から2001年の間に25万ドルから90万ドルまでの資金をスマテなどの反政府組織に提供していたことを示す文書を公表した[5]。NEDは2004年8月に行われた大統領罷免国民投票の出口調査にも資金援助した。出口調査はチャベスの20%差での罷免を予測したが、結果は約20%差での信任に終わった。このことは野党による不正投票の主張の材料として用いられたが、ジミー・カーターはこの結果を是認し、選挙監査の結果正当と認められた[6]。
ヨーロッパ
NEDは1980年代に西欧の民主的国家でも資金提供を行っていた。フランス『リベラシオン』紙は米国が全仏大学間連合に資金提供を行っていたことを非難した。米国政府はそれらの活動を自身から分離したが、これと同じことは他にポルトガル、スペイン、その他多くの国で行われてきた。フランスでは1983年、1984年の間にNEDは「教官の左翼組織」に対抗させるためとして「教官と学生の労働組合のような組織」(UNI) を支援した。このためにNEDは一連のセミナーと『転覆と革命の神学』や『中立主義か自由か』などのポスター、本、冊子の発行に資金を提供した。
批評によれば、NEDは1990年代に東欧でも資金提供を行い、資本主義への移行のためのショック療法プログラムの導入などを進めた。ただしNEDが直接関与したのではなく主に国際民間企業センターが民間企業開発を目的としてこれを進め、通貨の安定には何ら寄与しなかった。ウィリアム・ブルムは、実際にはNEDは(ブルガリアやアルバニアを含め)米国政府が気に入らない体制を不安定化させるための活動と結びついていたと批判している[7]。
ウクライナ
2004年ウクライナ大統領選挙でNEDは重要な役割を果たした。NEDの東欧部門責任者のナディア・デュークは NEDを取り巻く議論について熟知しており、『ワシントン・ポスト』に「ある者はウクライナの出来事を西側で仕組まれた、西側の民主化支持組織の支援で実行されたモデルとして描こうするだろう。」とし、近年スロバキアやセルビア、グルジアで行われた介入と比較して「米国の資金提供による米国の影響力を世界で強めるための計画が実行された、と証明したと信じる批評家もいるだろう」と投稿した。
デュークはこれらの批判は「選挙による反抗」という東欧諸国で起きた「国産」の相を実に見落としている、とした。さらに「平行な票の集計、出口調査や国内の監視者の報告に拘らず、非政府組織による投票監視の大規模な努力があった。これらの戦略は西側の選挙監視者の報告によって支持された」、また「これらのすべての突破口的な選挙が、メディアを監視し、有権者教育を実行し、自由な報道に欠く候補の公約を宣伝して、選挙観察者を訓練して、投票を管理するなどして、自由で公正な選挙を支持する市民団体の活発な参加により完成した」とした。
香港
2020年12月、中国はNEDのジョン・クナウス上級局長を制裁し、「香港の問題に露骨に干渉し、中国の内政に著しく干渉する」と述べた[8]。また、NEDは香港の周庭が創立者の一人である「香港衆志」を支援して��る事がわかった[9]。
資金源
NEDは毎年米国家予算から資金提供を受けている。そのうちには国務省の米国国際開発局 (USAID) 向けの予算も含まれ、「議会の見落とし」により依然として非政府組織の扱いを受けている。2004年9月の会計年度におけるNEDの歳入は8,010万ドルであり、そのうち7,925万ドルが米国政府部局から、60万ドルが他の寄付収入、その他は別の手段による収入だった[8]。
NEDは最近の例では『ジャーナル・オブ・デモクラシー』誌の支援のための過去18年間にわたる150万ドルなど[9](予算総額からみれば)小額の寄付をスミス・リチャードソン財団、ジョン・M・オーリン財団、ブラッドレー財団などの多くの別の財団から受けている。この3つの財団は全て連邦政府から間接的に資金を受けている。
2018年、「米国第一主義」を掲げたドナルド・トランプ大統領は当該基金への資金提供を削減し、民主・共和両党のシンクタンクとのつながりを断ち切ると提案した[10][11]。
備考
現在そして以前のNEDの部門責任者の内には「米国同時多発テロ事件に関する国家調査委員会」のリー・ハーバート・ハミルトン、元下院議員リチャード・ゲファード、元国連大使リチャード・ホルブルック、上院のウィリアム・フリスト、元CIA副長官でカーライル・グループのフランク・カールッチ、ウェズリー・クラーク(英語版)将軍、アメリカン・エンタープライズ研究所で公共政策調査担当のマイケル・ノヴァク、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院のフランシス・フクヤマ、エヴァン・バイ元米民主党指導者会議議長なども存在し、他のシンクタンクとの繋がりもある。


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滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒が2011年10月11日に自殺した事件。背景に激しいいじめと、加害者側の事件正当化と居直り、学校や教育委員会ぐるみでの事件隠蔽などが指摘された。 この事件によって、いじめ防止対策推進法が制定されるきっかけとなった。 経過 滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒は2011年10月11日朝、自宅マンションから飛び降り自殺した。 学校側は事件直後にアンケートをおこなった。大津市教育委員会は2011年11月2日に記者会見し、死亡した生徒が同級生に殴られていたことや成績表を破られたなどの事実を認め、いじめと判断できるとする見解を示した。しかしこの時に公表されたいじめの内容は一部にとどまっていた。 事件後の2012年1月に就任した越直美大津市長は2012年3月13日、市内の中学校で一斉に卒業式が実施された際、当初別の中学校で挨拶予定だったのを急遽変更して皇子山中学校で挨拶、自身の学生時代のいじめ被害体験を明かしながら「全力でいじめのない社会に取り組む」と述べた。 遺族は2012年2月24日付で、大津市・いじめていたとされる生徒3人・各生徒の保護者を相手取り、約7700万円の損害賠償を求めて大津地裁に提訴した。(大津地方裁判所平成24年(ワ)第121号 損害賠償請求事件) 被告となった加害生徒は、被害生徒と同じクラスだったA・Bと、被害生徒とは別のクラスだったCの男子生徒3人とされている。 2012年5月22日、民事訴訟の第一回口頭弁論がおこなわれた。加害者側はいじめを全面的に否定し、また大津市も「自殺との因果関係は不明」と争う姿勢を示した。 事件が大きく報道される 自殺事件発生時や提訴時の報道は、最小限の事実関係のみを短文の記事で報じる小さな扱いだった。しかし死亡した生徒への悪質ないじめがあったという同級生の証言が複数ありながら学校・市教委が公表していなかったことが2012年7月4日に発覚し、各マスコミで大きく報道された。 アンケートでは、「生徒が自殺の練習をさせられていた」「ハチの死骸やゴミ・紙など異物を無理やり食べさせられようとしていた」「金品を恐喝されていた」「生徒の死後、教室に掲示された生徒の顔写真が、画鋲で穴を開けられたり落書きをされていた」「万引きを強要されていた」「葬式ごっこがあった」「加害者が被害者について『死んでくれてうれしい。でももう少しスリルを味わいたかった』と話していたのを聞いた」など、いじめの実態が次々と明らかになった。しかし学校側は「確認できない」などとして、調査結果も公表していなかった。 いじめの様子を担任教諭が目撃しながら、こ���教諭は「あまりやりすぎるなよ」とへらへら笑って声をかけるだけで何もしなかったことが指摘されている。担任は、自殺した生徒がいじめ被害を相談した際「どうでもいい」「君ががまんすれば丸く収まる」と発言して放置したとも指摘されている。 学校側は2012年7月、校内放送で校長が講話。その際「自殺の練習と報道されているのは嘘」「報道には嘘が含まれている」等と話し、マスコミ取材には答えないよう口止めを図っていたと、生徒からの証言で明らかになった。さらに学校側が遺族に対して事件への口止めを図る念書を書かせていたことも判明した。 加害者側の態度 加害者側は生徒の自殺直後「遺体の一部でも落ちてへんかな」などと現場を徘徊したり、同級生が「○○君が自殺したのはお前らのせいや」と問い詰めると「なんで俺らのせいなん。どうでもいいわ」と吐き捨てたりしたと指摘されている。 また加害者の保護者は、保護者会などで被害者の保護者や学校に対して威圧的な対応を取り、「自分の子どもがいじめの加害者扱いされて被害を受けている」かのように主張した。 加害者3人のうちA・Bの2人は事件からしばらくして京都方面に転校した。Bは転入先の京都府宇治市立中学校でも2012年6月、別の生徒への集団リンチ事件を起こし、2012年8月に家裁送致された。また皇子山中学校に残ったCは2012年5月、担任教諭に暴行を加え小指骨折や打撲などの怪我を負わせている。 大津市の対応 越直美大津市長は2012年7月10日夜に記者会見した。遺族側との訴訟について、いじめと自殺との因果関係を認め遺族側の訴えを認める方向での方針転換を図り、訴訟を中断して事実関係の再調査をおこない、和解などの形も検討する方針を表明した。また第三者による調査委員会を立ち上げ、遺族側の意見も反映させる意向も示した。いじめ調査の内容が隠蔽されていたことについて、市長は7月9日になって初めて知り、調査内容を公表するよう澤村賢次教育長を3時間にわたって説得したという。なお、澤村教育長は2007-08年度に皇子山中学校校長を務めていた経歴を持つ。 しかしその一方で大津市教委は2012年7月11日、市長発言について「市長の見解だ」と市長とは食い違う発言をおこない、「自殺との因果関係は不明」と従来の主張を撤回しない姿勢を示した。 遺族側は2012年7月11日にマスコミ取材に応じ、市の対応について「和解の具体的な内容は現時点では出ていない。市の真意を見極めたい」と話した。 澤村賢次教育長は2012年7月13日になり、いじめは自殺の要因の一つと言及するも、その一方で「家庭にも問題があるのではないか。裁判で明らかにする」と、まるで家庭に問題があるかのような中傷をおこなった。 越直美大津市長は遺族側に謝罪したいという意向を示した。しかし遺族側は市長との話し合いの場を設定すること自体は求めていたものの、謝罪については当初「何に対して謝罪したいのかはっきりしてほしい」と保留した。 大津市と被害者側の関係者は2012年7月25日に大津市役所内で会談した。越市長は調査が不十分だったことや、自身が2012年1月に当選して2月に訴訟になっているのに提訴時点で再調査を出来なかった遅れについて謝罪した。遺族側は、市長の態度は一定評価したものの、学校や市教委に対しては不信感をつのらせ、遺族側の意向を反映した第三者調査委員会の設置を求めた。 第三者委員会の設置 大津市は第三者委員会について、遺族側推薦の委員と市側推薦委員が同数(3人ずつ)になるよう調整して設置を決定した。遺族側推薦委員には、いじめ問題に詳しくテレビ出演などでも知られる教育評論家・尾木直樹氏が含まれている。2012年8月25日に第1回調査委員会が開催された。 第三者委員会は2013年1月31日、「いじめが自死につながる直接的要因になった」と明記した最終報告書を越直美市長に提出した。加害者のうち A・Bの2人から継続的に受けた行為19件をいじめと認定した。一方で加害者とされたCについては、クラスが違ったことなどをあげ、関与が少ないとしていじめとは認定しなかった。 民事訴訟の進行 2012年7月17日に第2回口頭弁論が開かれ、大津市側の代理人は「現時点で市としていじめと自殺の因果関係を認める可能性は高い。和解協議をさせていただく意思がある」と主張を変更する陳述���おこなった。市側は、近く設置する外部調査委員会や警察の捜査結果が出るまで約4ヶ月間訴訟進行を中断してほしいと訴えたが、遺族側が難色を示し、市の主張と関わりない部分については通常通り進行することになった。 加害者側は3人とも、「遊びの延長線上でいじめではない」と主張した。 原告側と大津市については、2015年3月までに大津地裁が和解を勧告。大津市は和解を受け入れる方針を決め、2015年3月6日に大津市議会に和解関連議案を提出した。和解案は2015年3月13日の大津市議会で全会一致で採択され、同年3月17日に原告側との協議をおこなって正式に和解が成立した。 一方で加害者側は一貫していじめを認めておらず、加害者3人とその保護者に対して約3800万円の損害賠償を求める訴訟が続いた。2017年に断続的に加害者とその両親、担任教師などへの証人尋問がおこなわれたが、いずれも指摘された行為は認めながら「いじめではない」という見解を述べた。 大津地裁は2019年2月19日、「いじめが自殺の原因」だと認定し、また自殺の予見可能性も認定し、加害者3人のうち2人に対して計約3700万円の損害賠償を命じる判決を出した。一方でもう1人については、いじめへの関与度合いが低いとして、賠償責任を認めなかった。また保護者については、監督責任を認めなかった。 一審判決については、「これまでのいじめ自殺訴訟では、いじめと自殺との因果関係を認定せずに原告側敗訴となったケースが多かった。いじめと自殺との因果関係を明確に認定したことは、当該個別案件だけにとどまらず、いじめ訴訟全体にとって従来の判例から前進する画期的判決となった」と評価された。 原告側は控訴しなかった。しかし加害者とされた生徒のうち1人が2019年3月6日、一審判決を不服として大阪高裁に控訴した。またもう1人の生徒も2019年3月7日に控訴した。 加害者側は2019年8月23日の第1回口頭弁論で、いじめを認めず判決変更を求めた。控訴審は2019年10月30日の第2回口頭弁論で結審した。 大阪高裁は2020年2月27日、いじめの事実は引き続き認定しながらも、「自殺は自らの意思による」「両親側も家庭環境を整え、いじめを受けている子を精神的に支えることができなかった」などとして過失相殺を認め、賠償額を約10分の1の400万円に減額する判決を出した。 両親は二審判決を不服として、2020年3月12日付で最高裁に上告した。しかし最高裁は2021年1月21日付で上告を棄却、二審大阪高裁判決が確定した。 警察の捜査 滋賀県警大津警察署は当初、生徒の家族からの被害届受理を3度にわたって拒否していた。いじめ隠蔽の事実が大きく報じられた2012年7月時点では、家族は4度目の被害届提出を検討していたという。 事件が大きく報道され、大津署の受理拒否も大きく批判されたことが背景にあるのか、滋賀県警は方針を転換、2012年7月11日付で20人体制の専従捜査班を設置した。 滋賀県警は2012年7月11日、大津市教育委員会事務局(市役所内)や皇子山中学校を暴行容疑で家宅捜索した。いじめ事件で学校や教育委員会事務局が家宅捜索を受けるのは異例であり、過去にはほとんど例がないとみられる。 家族は2012年7月18日、暴行・恐喝・脅迫・強要・窃盗・器物損壊の6容疑で、いじめ加害生徒3人を刑事告訴し、受理された。滋賀県警は 2012年12月27日、加害生徒3人のうち2人を暴行容疑で書類送検した。残る1人については事件当時13歳で刑事罰の対象にならないとして、暴行などの非行事実で児童相談所に通告した。 事件関連の派生騒ぎ 加害者やその家族の情報割り出し 事件報道では、一部テレビ局が関連文書を入手してその文書を放映した。文書中の個人名にはマスキングをかけて放送したが、マスク漏れやマスクが不十分な箇所があり、加害生徒の実名が読み取れる状態になっていた。さらに、加害生徒の顔写真とされるものや、加害生徒の家族構成、加害生徒の保護者が経営するとされる会社の名前や所在地などの情報なども割り出される騒ぎになった。 脅迫状などが送付される 事件が大きく報じられた直後の2012年7月9日以降、皇子山中学校・滋賀県庁・大津市役所などに、「加害者や教師はカメラの前で謝罪しろ。謝罪しなければ、学校と教育委員会と警察を爆破する」「学校に爆発物を仕掛けた」「加害者を殺す」「加害者の氏名や調査状況を公表しなければ生徒を無差別に射殺する」などとした脅迫状が次々に郵送される騒ぎも発生した。中には、カッターナイフの刃・包丁・小瓶に入った液体などが同封されたものも複数あったという。消印などから、別々の人物がそれぞれ別の場所から投函したとみられる。 これらの脅迫状事件では、愛知県の60代男性や埼玉県の高校生ら複数の人物が検挙された。 無関係な人が巻き込まれる ネット上で加害者やその関係者の割り出しが加熱し、全く無関係な人を「加害者の関係者」と一方的に決めつけて中傷し、無関係な人の勤め先などに抗議電話などをかける嫌がらせも相次いだ。 今までに、加害者とされた生徒とたまたま同姓だっただけなどの事情で、無関係であるにもかかわらず「加害者の関係者」と決めつけられて、実名と勤務先などがインターネット上に書き込まれ、勤務先に抗議電話が殺到した事例として、少なくとも3件が明らかになっている。しかしいずれも事実無根であり、実名や勤務先が名指しされる被害にあった人は、加害者とされた生徒とは一切関係ないことが明らかになっている。 滋賀県警は2012年10月までに、無関係の人物を「加害者の親族」呼ばわりする虚偽書き込みに関与したとして東京都の30代男性と兵庫県の30代男性を割り出し、名誉毀損容疑で書類送検した。東京都の男性は不起訴処分、兵庫県の男性は罰金の略式命令を受けた。 澤村教育長が襲撃される 2012年8月15日午前8時頃、大津市役所内の教育長室で、澤村賢次教育長が暴漢からハンマーで頭を殴られて負傷する事件が発生した。市役所は開庁時間外だったが、警備員などは配置されておらず、職員に紛れて構内に入れる状態だったという。また犯行直前の暴漢を目撃した市職員は「不審者とは認識できなかった」としている。 澤村教育長は出勤直後に教育長室に入ったところで、乱入した男に殴られ、目の奥の頭蓋底骨折や眼球打撲などのケガを負った。騒ぎに気づいて駆けつけた教育委員会職員が暴漢を取り押さえ、警察が殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。調べによると被疑者は埼玉県在住の19歳男子大学生で、動機について 「いじめ問題に関し真実を隠していると思い殺してやろうと思った」と供述したという。 澤村教育長は約3週間後の2012年9月4日より職場復帰したのち、2012年12月24日に任期満了で退任した。 被害者への中傷 加害者側の関係者や学校・教育委員会の筋から、DV・虐待など被害生徒の家庭に問題があったことを苦にして自殺したかのような噂が振りまかれた。一部週刊誌報道では、加害者側がそういう主張をおこなったと報じられた。また澤村賢次教育長も具体的な内容には踏み込まなかったものの、自殺の原因を「家庭の事情」かのようににおわせる発言を記者会見の場で公然とおこなった。 定年退職した公務員を名乗るブログ主によって、「被害者の家族が警察に被害届を出して受理拒否されたと聞くが、嘘の被害届を出すことは虚偽告訴にあたる」「被害者の家族がマスコミにリークして騒ぎをたきつけた」と読めるような、被害者や遺族を中傷する内容が記されたブログが発見され、コメント欄に抗議コメントが殺到して炎上する騒ぎになった。このブログ主は、ブログの内容から元警察幹部の可能性があり、さらには加害者の親族や関係者ではないかという噂が流れたが、ブログ主の正体は明らかになっておらず、真偽は不明である。 教育委員会の処分 滋賀県教育委員会は2013年2月26日、いじめ事件の不適切対応を理由に、校長を減給の懲戒処分にした。校長は同日付で依願退職した。 また大津市教育委員会は同日付で、いじめ事件での不適切対応を認め、教頭に文書訓告、当時の2年学年主任の教諭を厳重注意の行政処分とした。不適切言動が指摘された担任教諭については「休職中で本人への調査ができなかった」として、この時点では処分を見送っている。 担任教諭は2013年4月より復職したという。滋賀県教育委員会は2013年5月17日付で、担任教諭を減給処分にした。
大津市立皇子山中学校いじめ自殺事件 - きょういくブログ
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ザーヒーのいちばん長い日~ハムちゃんはもっと長かった日~
令和七年のはじめ、小春日和の陽気が消えようとしている夕方に息子(ハード上男児であるため、特段上の理由がない限り、以降もそう表記する。なお、この文章の時間軸上においては胎児として存在している場合も同様に表記する)が生まれた。
あっけなくすとんと、というわけには全然いかなかったので、ひとりの新米父親として、ざっとレポートしようと思う。
まず、いくつか、前提としてここまでのハムちゃんの情報を書いておく必要がある。
ハムちゃんは結局37週に入って妊娠高血圧で入院し、そのまま2週間近く入院していた。入院時に子宮口が1センチ開いていたが、そこからあまり伸びず、2週間かかってようやく3センチ弱だったので、ラミナリアという棒状の海綿のようなものを挿入され、子宮口を拡げる処置をされた。そういう処置があるかもしれないとは最初に説明があったものの、いつまでにどういう条件だったらそうなるのかがわからないまま突然処置をされ、ハムちゃんはたいそうショックを受けたし、実のところおれも病院の説明体制にかなり疑問を持ったところだった。
ただ、結局その処置によってその日の深夜に子宮口5センチまで拡がったため、ラミナリアを抜いて、LDRという陣痛を耐えて分娩を行う部屋に通された。ちなみに、ここに入れる部外者は立ち会い研修を受けた配偶者、つまり夫であるおれだけである。
そういうわけでハムちゃん本人からLDRに向かうよう指示されたわけだが、時刻はちょうど零時をまわったところで、ハムちゃんのいる病院までの交通機関などあるわけがなく、タクシーを使わざるを得なかった。さすがのおれも歩いて1時間以上かけて向かうほどの無鉄砲なことをやっている場合じゃないと思ったので、必要そうな装備(��リー飲料とか、カロリーメイトとか)をあらかたそろえてアプリでタクシーを呼んだ。
タクシーの運転手はかなり若いギャルっぽい人で、5人乗りのでかめのタクシーを軽々と乗りこなしながら、病院まで淡々と乗せてくれた。実を言うと、身近でよしおより運転が巧いひとを知らないし、運転技術で言えばよしおはたいていのタクシードライバーにもひけをとらないだろうと思ってはいるが、さすがにこのギャルドライバーはよしおより巧いんじゃないかと思った。ごく普通のタクシー用ワゴンでよしお号と同レベルの乗り心地なのかなりすげえと思うんだよな。そんなわけでアプリでチップを送ってあげた。
LDRに到着するとハムちゃんは分娩用の病院着になっていて、分娩台もかねるベッドに寝かされていた。すでに陣痛は来始めていてしんどそうだった。ブレスを深く吐いて陣痛を逃がそうとしていた。ハムちゃんいわく、寝れはしないけど知らない痛みじゃないし、全然耐えられるとのこと。おれはそこで少し安心したのを覚えている。
なお、おれたちは、このときのハムちゃんの痛みが「陣痛」ではなく、いわゆる前駆陣痛の大きいやつ程度のものであったことをあとで知ることになるわけだが、もちろん今、この時点ではそんなことは知るよしもなかった旨付け加えておく。
どちらにせよ、子宮口が全開、つまり10センチ開大しないことには分娩ができないので、それまでは子宮口を拡げるためにどうにか陣痛を耐えていかなければならず、このLDRという部屋はまさに「赤ちゃんが出てくるまで出られない部屋」そのものであった。
もっとも、おれは医療的な管理が全く必要のない、いわゆる面会者扱いの人間なので、例えば病院の中にある売店とかでおにぎりやお茶を買うことはふつうにできる。明け方くらいまでは陣痛は5分おきから1���分おきを前後しており、かなり余裕があったので、隙を見て売店に行ったり、トイレにいったりできた。また、翌朝の診察で子宮口の進捗がいまひとつであった場合、陣痛誘発剤を打っていくという説明も受けていたので、陣痛タイマーでその間隔をつぶさに観測していた。
ハムちゃんが臨月にさしかかる頃から、なんとなく、おれは「息子が異次元空間から自分でロケットを組み立てて、それに乗って脱出することでこの世に登場する」ようなイメージをもっていた。ロケットに点火され、強烈な噴射とともに、(概念上の)息子が生きていた次元から離れた状態がハムちゃんに陣痛を起こさせているようなイメージである。オンラインの両親セミナーで、「赤ちゃんも頭蓋骨を折り畳んだりして狭い中出てくるから、赤ちゃんも相当頑張っているんですよ」みたいな話を聞いたときから、なんとなく頭に浮かんでいた。ロケットの推進力に身体を押されるような理不尽な苦しみを受けながら、ようやく住み慣れた異次元空間を旅立つ息子の心細さを思った結果のように思う。
しかし、この陣痛(正確に言えば前駆陣痛であるがおれたちにとってはどっちも陣痛だと思っているので以降同様に表記する)に耐えるため、ハムちゃんの腰をさすったり、痛いところを懐炉を包んだ手ぬぐいで温めてあげたりしながら、イメージがちょっとずつ変わってきた。ロケットはどうにも始まりが急で、しかも着地点がわかっているような感じがする。今のこれは予想していたものよりもずっとおだやかで(もっとも、これは本陣痛ではなく、あくまで前駆陣痛の域を出ないものだったのでおだやかなのは当たり前なのだが)、ただ波が無数に来ていて、終わりが確実にあるのはわかっているが、肝心のそれがいつ、どのような形でくるのかわからない。さらにいえば、ハムちゃんはそういった「終わりがわからない」ものに対して非常にネガティブな感情を抱きやすく、実際に朝の時点ですでにその際限のなさに心が折れかけていた。ハムちゃんの子宮に息子が宿ってから、実際に出てくるまでおれができることは、ハムちゃんが無事に息子を産みだすために支えつづけることだけなので、少しイメージを変えてみようと思った。息子が会いに来るわけではなくて、おれたちが息子に会いに行くと考えよう。おれたちが鈍行列車に乗って、息子のいる終点まで迎えにいく。例えば、熱海から浜松までを走っている東海道線の鈍行を想像する。青春18きっぱーたちにはおなじみであるが、鈍行列車で東海道・山陽本線を移動するとき、乗っている列車がどこまで行くのかいちばんわからなくなるのがその辺で、とにかくそれなりの間隔で駅がある割に長距離なので、どこまで走るのかが全くわからないが、ずっと乗っていればいつかは終点にたどり着くだろうと思って乗っている、あの感覚を思い出したかったし、ハムちゃんに伝えたかった。つまり、「今を耐えて次の駅に向かいつづければ、必ず終点にたどり着く」というイメージを共有したかったのである。ハムちゃんはおれが鉄道好きだということを知っているから、そういうことにしようと言ってくれた。
結果的に、子宮口はそこからあまり開かず、朝9時ごろから誘発剤の点滴が始まった。徐々に点滴量を多くしていき、量を調節していくとのことで、NSTという、子宮の張り具合や息子の心拍を確認するためのモニターをつながれ、ハムちゃんはだいぶ身体の自由度が下がった。許可なく分娩台からは降りられず、トイレに行くのもナースコールが必要になった。
誘発剤を投与しても、陣痛の波はあまり安定せず、10分おきになることもあれば、3分くらいでやってくることもあった。ただ、おれから見ると、ハムちゃんは徐々に苦しそうな仕草をすることが増えてきたので、おそらくではあるが痛みは増えてきているだろうと思った。
陣痛というものは波があって、非常に痛い時間と、痛みが引く時間が交互にくるのが正常な陣痛らしい。ただ、おそらくは誘発剤の影響か、昼に近づくにつれて痛みは増え、その波もかなり不規則になってきていた。ひどいときには波がきて、その痛みが引ききらないうちに次の波がくるような、痛みの無間地獄のような時間もあり、ハムちゃんはかなり消耗していった。誘発剤の量もそういった経緯をたどり増やしたり減らしたりしながら調整していったが、肝心の子宮口が5センチから進んでおらず(診断としては非常にゆっくり進んではいる、とのことではあったが)、結果だけみるとおれが入ってから12時間で、子宮口は1センチ程度しか拡がらなかった。
この時点でおれは、自分の予想がいかに軽いものであったかを痛感し始めていた。正直な話、ハムちゃんは、管理入院こそしてはいたものの、栄養管理やもともとの体質、これまでの検診の結果から考えてもお産のリスクが高いとは思えず、むしろ、陣痛さえきてしまえば意外とすぐに産まれるんじゃないかとすら思っていたのである。ハムちゃんはもとより、おれもかなり体力を消耗しはじめていた。なにしろ売店までモノを買いにいけるような暇はなく、ひたすらハムちゃんの背中をさすったり、臀部や会陰を圧迫したりしていきみ逃しをしたり、アクティブチェアという、陣痛を呼び込んだりするための椅子に座ってもらったり、いろいろな方法でとにかく痛みに耐えながら子宮口を開くための努力をし続けた。
午後3時くらいになって、子宮口が7センチくらいまで拡がった頃、それはやってきた。
ハムちゃんが「あああああああああああああ」と絶叫し始めた。もう叫ばないとやってられないくらいの痛みになっていて、息を長く吐くためにあえて声を使うことにしたらしい。
いきみ逃しのために会陰を思い切り拳で圧迫したとき、明らかに息子の頭部であろうものと触れた。相当な力だった。元来腕の筋肉がつきにくく胴の割に異常に細い腕であることでおなじみのザーヒーくんであるが、まさか産まれる前の息子の頭にすら押し負けそうになるとは思わず、少し情けなくなった。また、この作業をすでに何十回何百回とくり返しているので二の腕が限界に近づいていた。その様子を見ていたハムちゃんが、別件で訪れた助産師さんに「夫が限界です」とこぼすくらいにおれの表情はひどかったらしい。助産師さんは笑いもせずビニール袋に包まれたテニスボールを差し出して「これで押して」と言って去った。出産なめてんじゃねえぞ、と言われた気分だったが、実際におれが出産をなめていたことは(残念ながら)事実であったし、なにしろ痛みに絶叫するハムちゃんが「押せえええええええええええ」というのだからやることはひとつである。テニスボールを装備して押し込んでやるしかない。
おれはハムちゃんの絶叫に負けじと「うおおおおおおおおおお」と声を張り上げ、ハムちゃんの会陰にテニスボールを押し込みつづけた。LDRの外にも響いていたかもしれないが、助産師さんに聞かれて恥じることはないと思っていた。おれとハムちゃんは大学の合唱団の先輩と後輩、もっといえばおれはベースの一番端でハムちゃんはソプラノの一番端という組み合わせである。現役時代共演した定期演奏会はたったの一度であるが、その一度の両翼を担った夫婦ということになる。だから一定の声量と呼吸の質を長時間維持することにかけてそこそこの自信があったし、なによりとにかく陣痛を耐えるためには息を長く吐き続けることが重要だと助産師さんたちから耳にたこができるほど聞かされていたので、声があろうがなかろうが息を吐き続けて耐えることが重要で、おれはハムちゃんがそうできるように積極的にアシストすることが最重要課題だったから、恥もへったくれもなかった。
おれが、文字通り全身全霊で息子の頭と力(と体力)比べを重ねる様は端からみたら滑稽そのものかもしれないが、この時、たしかに、おれのなかに入っていた「父親になること」に対する、よどんだ邪念のようなものが消えた。出ようとしている「もの」はどう考えてもこれまでハムちゃんのおなかで動き回っていた「奴」そのものだったし、おれはどうやったってその父親であるのだ。その事実は、おれや息子がいつ何時どう思おうがもはや覆らない。であるならば、もうこいつを「息子」にしてやるほかないのだ。おれにとって最も大切なのは自分ではなくハムちゃんなのであるが、そのハムちゃんが今まさに産み出そうとしているこいつも、今まさにおれの「息子」として産み出されようとしていて、おそらくはハムちゃんの最も大切なものになろうとしている。そういう意味で、おれはふたりが今築こうとしている強固な関係性の中に入れないことを実感した。けれども、入れないからこそ、ここで踏ん張って二人を助けてやらねばならない。そんな思いがよぎった。ここでこいつに負けるということは、最悪の場合ハムちゃんの子宮が圧力に負けて裂けてしまい、ハムちゃんはもちろん息子も死んでしまう。だからおれは必死にテニスボールでハムちゃん越しにこいつの頭を押さえ続けた。
こうして本物の陣痛と格闘していくうち、明確な波をお互い察知できるようになり、陣痛がおさまっている間にハムちゃんにペットボトルを渡し、ハムちゃんは力を抜ききって休むことに専念できるようになった。
猛烈な陣痛の波をどれくらい超えたかわからないうち、ハムちゃんが「破水したかも」と叫んだ。確かにそれらしい液体が出てきていたので、ナースコールして確かめてもらった。医師は破水は間違いないと告げたが、それでも子宮口は全開になっていない旨も告げた。「もうすぐだから」と言われても、あとどれくらいで全開になるのかわからずほんの少し呆然とした。とはいえ実際は呆然としている暇などなく、陣痛が来ればさっきと同じようにテニスボールでやつを押さえ込むしかなかった。最初に腰が限界になった。立て膝で押し込んだ。次に腕が限界になった。おれは両手を使うことにした。
「出る出る出る出る!」
ハムちゃんが叫んだ。今にも出てきそうだという。これは抑えるのは無理だと。すぐさまナースコールをして見てもらうと、全開になっていたらしく、すぐに分娩の準備が始まった。今まで1、2名くらいしか入室していなかったのが、4、5名の助産師、医師が入れ替わりたちかわり入ってきて、めいめいにガウンを着てビニールシートなどを用意していく。午後5時を過ぎ外が薄暗くなってきたので部屋の照明がつけられ眩しかった。これならわかる。終点が近づいてきたことが。
分娩台と化したベッドで両足を開き、分娩の態勢にしてもらった。おれは急に役目を終えてしまったのと、終点が近づいたことがわかったこと、急に眩しくなったことで涙がにじみ、全く前が見えなくなった。さりとて、ただ突っ立っているだけでは立ち会っている意味がない。おれはハムちゃんの頭に近づいて、扇風機をあててあげた。お産は医師や助産師とい��たプロが淡々と準備を進めていっているので何もする必要がないし、素人はかえって邪魔になるような雰囲気だった。
扇風機とペットボトルの麦茶、タオルをもって、常に扇風機の風をあて、喉が渇いてきたら麦茶を飲ませ、汗がにじめばタオルで拭いた。本当にそれくらいしかやることがなかった。
すぐ隣のLDRでは一足先にお産が進んでいて、遠くで新生児の産声があがった。元気そうだった。息子もそうなるといいな、と思ったことをよく覚えている。
何度か検診でお世話になった、若い産婦人科医がガウンを着て現れた。この病棟ではたぶん一番若い医者で、最初見たとき、多分おれより年下なんじゃねえかと思うような感じだったが、この時ばかりはそこそこの貫禄があるように思えた。ちなみにこの病院の産婦人科医は全員女性であるし、助産師も当然に全員女性であるうえ、なぜか若い人が多いものだから入る度におれは少しだけ居づらさを感じることがあった。
ハムちゃんは順調にいきみ続け、助産師にいいですよその調子と褒められながらお産を進めた。モニターを見ていた助産師がなんだか心配そうな表情で医師に耳打ちしているのが気になった。しばらくして、酸素配管とマスクが据え付けられた。どうやら、息子の心拍が落ち気味で、臍帯から酸素が十分にいっておらず、酸欠になっている可能性があるから、高濃度の酸素を吸入してもらって息子に酸素を送って欲しいとのことだった。ゆっくり深呼吸してくださいね、とマスクをはめた助産師が言った。ちょうどこの時、すぐ横を見慣れない男性医師が通り過ぎた。少し後に小児科医であることがわかった。この時点でおれは、どうもこのお産に「万一のこと」が起きる可能性があるらしいということを察知していたが、そんなことをハムちゃんに言えば、不安でお産が進まなくなってしまう(現に、この場の全員がそれをしていない)し、それをおれが「考えること」自体に、そうなる可能性を大きくしてしまう要素があるような気がして、考えないことにした。
ここまで読んでいただけばおわかりの通り、陣痛を耐え、分娩が始まったLDRは、これまでとはうってかわって相当数の人間が出入りしており、非常に混沌とした場になっていた。とにかく多くの医療者がいれかわりたちかわりおれたちの様子を見ていく。その中に、痩せぎすで赤い服を着たボブカットの医師がいた。産婦人科医たちのリーダーとなっている医師であり、明晰だが人間味が少し欠けたような言動が印象的で、おれたちは陰で「ボス」と呼んでいた医師である。ボスは担当医と二、三言会話すると別の現場へ行ったが、モニターとハムちゃんを少し注視したような気がした。いやな予感が頭をよぎった。
おれの予感とは逆に、ハムちゃんのお産は順調に進んでいるように思えた。ただ、徐々に現場の人数が増えていっており、最後には助産師が5、6人になっていた。いよいよというところで、ひとり恰幅のいい助産師が「もうちょっとだからお手伝いしますね」と言って、ハムちゃんのお腹を大きく押した。頭出ました、いきまなくていいですよ、と声が聞こえ、担当医が何かを引き上げた。この時、おれは現実に息子と対面した。担当医、助産師、小児科医がくちぐちに「でか」とぼやいた。確かに思っていたよりも大きかった。
この時、息子は産声をあげることなく身体が紫色で、おれが「予習」していた新生児の姿とは少し異なっていた。しかし、事前に別の(転院前の)クリニックで見せてもらった4Dエコーの顔そのものだったことに少し驚いた。ただ、とにかく息子に何らかの異変が起きていることは明らかで、おれは対面したことよりもそちらに感情が引っ張られてしまった。
小児科医は息子を用意していた装置に寝かせ、長い管を口に挿入し、液体をかきだしていた。おそらく羊水だろうと思った。それにより息子はようやく産声をあげた。隣で聞いたものよりずっとか細く、余計に心配になった。
心配といえば、ハムちゃんの方も、担当医が「ちょっと傷が出てきて出血が多いから縫合します」と言ってずっと糸で縫っているのも気になった。かなり長い。最初麻酔なしだったのが、痛み止めの点滴が入り、局所麻酔が入り、と規模が大きくなってきて、気がついた時には担当医の隣にボスがいて、ふたりがかりでハムちゃんの股を縫っていた。どうも出血している部分が非常に多かったようだ。
息子は徐々に血色を取りもどしていった。泣き声もだんだん大きくなり、ふつうの赤ちゃんになっていった。小児科医は口や鼻に小さな管を入れて何かを吸引したり、マスクを当てて口に何かを 吹き込んだりをくり返していた。そういった地道な処置によって、息子はようやく赤ちゃんたりえるようになるのか、と思った。
あとからわかったことだが、息子は3200グラム余りくらいの体重で産まれてきたが、これ自体はそこまで大きな身体ではなかったにせよ、医師たちの事前診断とかなり異なっており(これがぼやきの理由と思われる)、またハムちゃんの体格や初産婦であることを考えるとかなり「立派」な大きさであったことから、ハムちゃんの産道に想定以上に大きな負荷がかかり、ずたずたになっていたようだった。実際、ハムちゃんを縫っている時、ボスは「ずいぶん産道が狭いね、こりゃ大変だ」とぼやいていた。
息子の側に立てば、誘発剤でいきなり子宮を追い出されたかと思ったら狭い産道を通り抜けざるを得ず、ハムちゃんの懸命ないきみにもかかわらず、それでもなかなか酸素が行き渡らなくて苦しかったのだろうと思う。
縫合と息子の処置にだいぶ時間がかかり、息子が産まれてきたのは午後6時すぎだったが、息子がハムちゃんの胸に抱かれ初乳をあげる頃には午後7時を回っていた。
出てきた当初から感じていたが、息子の顔には「我が一族」の人間という面影が強くでている。どうやらみんなそう思うらしく、ここにいた助産師さんや何人かの友人はもとより、ハムちゃんやハリネズミ先生(注:ハムちゃんの母親。つまり義母)ですら父親(つまり、おれ)に似ていると評していた。もちろん、すべてがおれに似ているわけではなく、たとえば口元なんかはハムちゃんそっくりなわけであるが、全体としてやはり「我が一族」の風貌があるというのが不思議でしょうがなかった。
そこから夕食をとって片付けを始めて、これからのスケジュールの説明などを受け、LDRを出ることが出来たのは午後11時ごろであった。丸一日近くこの部屋にいたことにおれは驚いた。しかも、助産師さんたちいわく「相当な安産」の範疇に入るということにさらに驚かされた。
これで、おれのいちばん長い日は終わりである。いや、本当にいちばん長い日だったのかどうかはまだわからないが、少なくとも、この日がおれにとってそういう日であったことをここに書き記す。
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コピー本交換会レポート(でもない)①
コピー本交換会ありがとうございました! 早いもので1ヶ月経ってしまった。 2月は本棚展をやったり寄稿するアンソロの〆切×2があったり忙しく、自分主催のアンソロも動き始め、3月に入ったらJ.Gardenもありそのほか生活のもろもろもあり…ずっとドタバタしている。自主開催するイベントってほんとはもうちょっと身軽なときにやるものだったかもしれないなあとは思いつつ、身軽なときというのはなかなかやってこないので、えいやっとやってみてよかったようにも思う。 というかいちばん初めのところでは、えも個展&本棚展への集客につながったらいいなーというちょっと下心みたいな気持ちで始めたことではあったので、会期中の2月に開催したのはそういうわけでした。
つまずく本屋ホォルの深澤さん、mibunkaの吉田さん、快く会場を貸してくださりありがとうございました。わたしの要領を得ない説明をいつも辛抱強く聞いてくださり、コピー本って何?交換ってどういうこと?というところからしっかり会話ができて、とてもうれしくありがたかったです。 わたしが「なんかもっと格好いいイベント名をつけたかったんですけど思いつかなくて…」とぶつぶつ言ったとき、「コピー本交換会ってとてもいいと思いますよ」と吉田さんが背中を押してくださりありがたかった。いろいろ準備したり当日を過ごしたりするなか、今回のイベントはそういうまんまの名前が必要だったんだなあと思い至りました。コピー本を交換するということだけ決まってて、来た人はそれぞれいろんなスタンスでいていいというか。
打ち合わせに何度かお伺いしたのですが、いつもいろんな方がにこやかに出入りしていて、本当にいい雰囲気のお店だなあと思います。お店は地域生活応援団という地域住民主体の支え合いの場、有償ボランティアさんの拠点でもあって、イベント会場に貸していただいた2階スペースはふだんコワーキングスペースにしているとのこと。近所の方が「霞ヶ関の父」っていう傾聴ボランティアをやってらして、幅広い世代の方で賑わっていていいなあと思います。
本当にとても正直な気持ちをいえば、そういう「地域」「地元の人」と密接な場所におじゃまするのはけっこうドキドキします。わたしは自分の作品にセクシャルマイノリティのことをたくさん書くので、生身の人間が顔を突き合わせる場、住所や容姿や年齢やもろもろ属性と紐付きやすい場に作品を持っていくのはとても緊張する。いま家からかなり近いところで貸本棚をやっているけど本当におそるおそるという感じで、もちろん悪いことをしているわけではないしうしろめたい表現というわけではないんだけど…「地縁」的なものになんとか馴染もうとするときに切り捨てられがちなものが気にかかる(そういうものを小説にしている面がある)。 ホォルさんはいま住んでいる場所からは離れているんですが実家の近くではあるので、イベントを開催したり自分の作品を並べたりするのはいろいろ感慨深いものがありました。怖さ、照れ、恥ずかしさ、でもここで自分がこういうことをできるようになったんだなーという喜び。また少部数のコピー本だったりzineだったりは書いた人のパーソナルな部分が出やすいものではあるから、自分含む参加者がリラックスして話せることを大事にしたかった。セーファーな場づくりをしたかった。
深澤さん吉田さんがわたしのそういった葛藤や、zineにまつわるデリケートさをみたいなものを汲んでくださりつつ、本当に快く場を開いてくださりとてもとてもうれしくありがたかったです。イベントが明るくオープンな場になったのはホォルさんmibunkaさんの常日頃からのお店づくりによるものが大きいと思います。ホォルさんの選書にもそういった姿勢があらわれていて、大らかで気骨のある場所だなあと感嘆します。

なんかこのレポートすごく長くなりそうなので何回かに分けようかな。ひとまず今回は余談のような話をしておしまいにします(もはやレポートでもないんだけど、ちゃんと書こうとするとえっらい時間がかかりそうなので、ともかく考えたことを垂れ流しにしているような感じ…)。
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ホォルさんのある角栄商店街の通りに合鍵と靴修理のお店があって、そこで5円コピーというのをやってたんだよね。白黒と単色カラーが5円で、色紙(色上質紙)に刷ると6円だったかな。中学生のころ友だちとそこに行ってペーパーを刷ってたの。 ペーパーっていってもべつに何か宣伝するとかでもなくて、なんかこう…各自が好きな漫画とか音楽とか身の回りのこととか、いろいろおしゃべりみたいなのを書いた手書きの紙。30枚とか40枚とか刷って、学校の友だち同士で交換したり、同人誌のイベントのフリーペーパーコーナーに置いてみたり、好きなバンドのライブとかファン同士の交流会?みたいな場で名刺と一緒に交換したり、郵便で知らない人と交換したり…。 こないだ実家を掃除したらそういうのが出てきて、GLAYのJIROのラジオで紹介されてたスマッシング・パンプキンズのAdoreってアルバムがよかったとか、恋する惑星を観たから香港に行ってみたいとか、そんなようなことを書いていた。いまとあんま変わんないかもしれない。 同じ頃、部活の後輩から毎日手紙をもらっていて、ルーズリーフやコピー用紙にぎっしり書かれた手紙だった。夜に書いたのを朝にくれて、授業中に書いたのを昼か夕方にくれて、1日2通の手紙。わたしの返事は5回に1回返すかどうかって感じだったんだけど、毎日まめに手渡してくれて、なんか話したいことがあったんだろう。わたしにそういう高頻度で手紙をくれる子はほかにも4人くらいいて、毎日たくさん読んでいた。どの子の手紙も深刻な話はあんまりなくて、だいたいは日記というか雑談というか。 あとその頃よく行っていたCD屋で店員さんが新譜紹介のフリーペーパーを自主的に作っていて、これまた手書きの手作り感あふれる感じの紙だった。新譜紹介といいつつ「これぜんぜん好きじゃない」とか「もうこれで解散してもいいくらい最高」とか思いっきり主観で、余白にはどこそこに行ったとか何を食べたとかの雑談も書いてあって…。
わたしはふだん同人誌やzineを作って文フリなどのイベントや書店で販売してるんだけど、今回のコピー本交換会は、こういうペーパーや手紙が頭にあった。売り買いとはちょっとちがうやりかた、むかし作っていたペーパーみたいなことってできるのかな。これは去年6月に参加した陰気なクィアパーティーでzineの交換会をやってすごくいいなと思ったのもあったし、以前umeさんからいただいた交換がテーマのzine(umeさんは本の交換所をやっている)を読んで考えたことでもあった。売ったり買ったりではないことをしてみたらどうなるだろう。売ったり買ったりできないものを作るってどんなだったっけ。
金銭のやりとりの方がコミュニケーション自体はラクだろうか。交換だと人対人になりやすいから結局のところコミュニケーションが達者かどうかになっちゃうんだろうか。買う(読む)側としては匿名でいたい気持ちはすごくある…なら金銭を介したやりとりであるべきか。いや売り買いであっても、規模の小さいイベントだと人対人のコミュニケーションになりやすい。11月に出店者10組だけのzineイベントに出て、「あなたは誰?」「この本は何?」という会話になりやすかった。場が親密になればなるほどそうで、それ自体はとても豊かな時間なんだけど、属性と作品がまっすぐ結ばれるのってちょっと危うさはあるなと思った。そして作り手側もそういうプレゼン?にあっというまに慣れちゃって、自己プロデュースのうまさみたいなことになりがちなのも気にかかる。属性、作品、宣伝、SNS、ビジュアル、会話…そういうものがしっかり噛み合い、「わたしは◯◯で、△△な作品を作っています」がいつも首尾一貫している。一言で説明できる。なんかわかりやすすぎないか。整いすぎてないか。自らと作品をじょうずに寄せにいっちゃってるけど齟齬があってもよくないか。あと買う側の人も自身のことをけっこう開示してくれて、わたしとしては会話ができるのすごくうれしかったけど、無理に話させてないかとちょっと心配にはなった。べつにあなたが何者であっても(なくても)わたしの小説を手に取ってくれるのはうれしい。でもそれだけではいられない、何か話さなきゃって圧が場に生じてるんだとしたら、けっこうきついことかもしれない…とか(ところで陰気なクィアパーティーはそういうのがなくてすごく居心地よかった。会のはじめにセーファースペースポリシーを読み上げてくださって、場にいた人がおたがい了解していたのもあったし、たぶんそのあたりに関心の強い人が多く参加していたのもあったと思う。すごいことだなあと感嘆したしほっとした)。
あるいは売り買いの宣伝の話。文フリとかzineフェスとか書店さんとかで小説を売るとき、多くの人に見つけてもらえるよう宣伝をするわけだけど、なんというかまあけっこう大変だし疲労はある。たとえばアンソロジーだと、コンセプトの強さだったり、フックの効いた言葉やビジュアルだったり、作品や作家の紹介を丁寧にやったり、メンバーの豪華さをアピールしたり…いろいろあるわけだけど、ちょっとちがうことをしたくなった。これはそういうのがよくないという話ではなくて、ちがうベクトルのことをしてみたらなんかいいことあるかもなあくらいのぼんやりした予感。 文芸作品、とくに小説は、読むのにそれなりの負荷がかかると思う。作品の難解さとはまた別のところで気持ちや時間のコストが大きく、「なかなか読めない」という話を作家同士でさえ本当によく聞く。そうすると作品や作家周辺の「活気」みたいなものがけっこう重要ではあって、何か賞をとった、SNSでよく見かける、みんなが話題にしている、みんなが工夫をこらして強い文言で「いい」って言う、そういう祭りや波が読むことへの後押しになる。活気があるのはいいことで、わたし自身すごく楽しんでいるし参考にもしている、かなり恩恵を受けている部分もあるけども、祭りや波から生じる権威大好き感がちょっと苦手ではあって…。権威大好きはちょっと言葉が悪いか。でも沈黙や絶句が、ほんとに沈黙や絶句のままでいられないのはなんかちがうなというか、心の柔らかいところをまいど律儀に開示しなくてもいいし、そもそもそんなに激しく感情が動かなくても楽しんだり感じ入ったりはあるわけで、まして誰々のお墨付きとかじゃなくてもいいわけで…。大傑作とまでは思わなかったけどほどほどに楽しんだ、ちょっといいなと思った、そういうことはぜんぜんあるというかわたしはだいたいの作品はほどほどに面白がってるんだけど、それをまんま口にするとちょっとけなしているみたいに聞こえてしまいそうだなと思う。なんかこう活気を起こそうとする中でちょっと「褒め」がインフレしてねえか…と思う。要するに、祭りや波的なものとはちがったやりかたでの読んだり書いたりが必要な気がしている。 (これはあんまり整理できてないし、活気を起こそうとがんばっている人たちをくさしたいわけではないので、ほんとにまとまってない話で恐縮なんだけど。参加してるアンソロ10000000部売れてくれ〜とかわたしもぜんぜん言うし、人と一緒に作ってるときはおたがいを鼓舞する意味合いも強いのはわかってる。もしかしたらみんなそんなことはとっくに了解していてあえて強い言葉をやっているのかもとも思うけど、わたしはその「あえて」をやり続けられるのってそれなりに元気な人だけじゃないかなあとは思ってしまう…元気じゃない人も文芸をやりたいし、実際勝手にやってるんだけど、「やってる」ということを他人に見せていくのは大事かなと思って言っている)
余談と言いつつすごい長くなってしまった(むしろ余談の方が長い)。 えーと今回のコピー本交換会、わたしはいくつかzineやペーパーを持って行って、そのうちのふたつ『tide』と『プロテスト・モノローグ』はあんまり売ってない本です。 『tide』は陰気なクィアパーティーでのzineの交換用に作ったもの。短い小説をいくつかと&セクシュアリティにまつわるぼやきみたいな文章をまとめたもので、通販はしてなくて文学フリマにも持って行ってない。zineフェス長野には持ってったかな。べつに過激なことが書いてあるわけじゃないんだけど自分的にちょっとナイーブな話はしてるから、こういう本がありますよって宣伝するとなると勇気がいるなーと思う。 『プロテスト・モノローグ』はパレスチナへの連帯について考えてることとかのひとりごとみたいなzine。コピー本交換会のどさくさにまぎれて作ったような感じで、ほんとの走り書き。あんまりおおぜいに売るものではないなーと思った。勿体つけるわけではないんだけど、なんかこうちゃんと発信しようとすると発信するための言葉や話題になるわけで、そうじゃない話、「どさくさ」でないと出てこないような話をする必要があるなと思ったというか…。
そういうものを手渡す場所をやろうと思った。交換する本を机に並べて、気になったものを手に取って読んだり持ち帰ったりできる。しゃべりたかったらしゃべれるし、黙って本だけ交換して帰ってもいい。閲覧用の本も置いておいて、読書の時間にしてもいいし本作りのヒントにしてもいいし…。 それがうまくいったのかどうか、当日わたしはドタバタしていてじつはよくわかんないんだけど、ちょっとずつ振り返っていければと思います。
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生天目が浩二との思い出を話しているうちに、火葬が終わったというアナウンスが流れた。じゃあ、行きましょうか?と浩二は生天目とみい、幸雄を案内した。内心、三人は骨となった浩志の亡骸と対面することをちゅうちょしたが、人生で一度っきりと考えることにした。
火葬場に来ると、すっかり骨と化した浩志の亡骸があった。特に、血圧が高かったことを除いては問題がなかったからか、意外と崩れずに残っていた。それでも幸雄は、
「ひ、ひろしぃ…」
と泣きじゃくっていた。生天目も目頭を押さえ、せめて生前に会っていればと後悔した。みいは疲れ切った様子だった。
一方、美津雄は小百合に、
「こんがり焼けちゃったな…」
と言葉を洩らした。焼けちゃったって、あなた、タンドリーチキンじゃないのよと、小百合は言った。こんな場でもその様な台詞が飛び交う二人のやり取りに、浩二は噴き出しそうになってしまった。彼も、
『骨になっちゃうと、人間も虚しいものだなァ…』
としみじみ感じた。
最初の骨は美津雄と浩二が二人で拾い上げた。その後も浩志の兄たちが行い、みいや幸雄、生天目も携わった。幸雄は相変わらず泣き止まず、
「…浩志、オレも近々あっちに逝くから」
と言いながら骨を拾った。
最後に「喉仏」と頭蓋骨が火葬場の職員によって収められ、納骨は終了した。美津雄たちは合掌をし、そのまま中葬儀場に向かった。すでに多くの弔問の人たちが集まり、その中に江利子と大樹の姿もあった。忍と修も来ており、生天目は挨拶をしに行った。江利子はハンカチを握りながら、
「…先日は夜勤だったので、すみません。広樹君から話は聞きました。嗚呼、お骨になっちゃったンですね」
と泣きじゃくった。その様子をじっと大樹は見詰めつつ、浩二の方に視線を移した。彼は聞いた。
「おじちゃん。佐伯先生、お母さんもお父さんも好きだったンだね」
この言葉に浩二は急に涙腺が緩むのを感じた。これだけ弔問に皆来たのも、やはり浩志の人柄を現わしているのだ。利江子は大樹を抱きしめながら、
「…もう、泣かせないでよォ〜」
と言った。
次第に中葬儀場に用意された椅子が埋まっていく。この様子に浩志の兄・正夫と岳次は驚いた。
「オイ、親父の時よりもすげぇよ。まァ、学校の先生だったからなァ…」
「それに、何だかんだと目立ちたがりだったし…」
「もしオレらの葬式の時には家族葬でイイよ」
いずれも八十代前ではあったが、二人の気持ちは未だ若かった。美津雄は、
「大丈夫、伯父貴たちはしばらく死なねぇよ」
と苦笑しながら言った。
浩二も、もうじき住職が来ると自分の席に戻った。礼服のジャケットを直しながら、彼は浩志のお骨の背後に飾られた遺影に目を留めた。恐らく、生前に自ら日本橋のT百貨店で「セルフポートレート」として撮影してもらったのだろう、直前に床屋で散髪してもらい、ネクタイも一番好きだった銀座の某紳士用品店で買ったものだった。本当にお洒落には気を遣っていた。まるで芸能人のプロマイドの様だと、彼らは思った。
中葬儀場は弔問の人たちで立見になるほど集まった。その中に克也の姿もあった。短めの髪を七三分けにし、ガッチリとした体格である。彼は唇を堅く閉じ、嗚咽を堪えている様だった。あの方が父さんから色々と「手ほどき」を受けた加藤克也さんか? 弔問席から利江子が手を振っていた。それに彼も応じたが、途中で中葬儀場の外に出てしまった。しばらくすると、廊下の方から嗚咽を上げる声が聞こえてきた。悲しみのあまりに耐え切れなくなったのだろう。それを聞きながら美津雄は浩二に小声で、
「親父、どれだけの男に『種付け』をしたのかよ!? 全く、疲れちまうよ!」
と訴えた。もし異性だったらとんでもないことになっていただろうよとも、彼は言った。
午後一時になり、住職が中葬儀場に現れた。一同は合掌し、告別式が始まった。数分経った頃、葬儀場のスタッフが用意してくれた椅子に克也は座った。涙で顔を濡らしながら、その顔をハンカチで拭っていた。
浩二はやれやれと思いながら、再び浩志の遺影の方を見た。みいと幸雄、正樹、広樹と利江子、克也、そして生天目…。七十年ちょっとの生涯ではあったが、それぞれの人生に何らかの影響を与えたのだなと、彼なりに亡き故人を偲んだ。
告別式の間、浩志の魂は斎場の上空にあった。彼はお骨となった自分自身の肉体を見るや、慟哭した。嗚呼、もう還るところがないンだなァと現実を受け止めつつ、未だに心の整理ができずにいた。やっぱり悔しいなァ…。何故、死んでしまったンだろう? 何度も彼は自問した。しかし、みいや幸雄、正樹など、遠方からよく遥々来てくれたものだと、嬉しくもあった。
誰かの夢に、この間の浩二の様に忍び込もうか? 浩志は色々と考えた。正樹も、大学時代に出逢った教授を一昨年に亡くし、今も「やもめ」を貫いている状況だし、広樹や克也もそれぞれ「ワイフ」がいるし…。嗚呼、そうだ。幸雄の夢にでも現れてやるか? どうせ棺桶に片足突っ込んだ齢だし、ちょうどイイ。今夜にでも夢の中に出てやるかと、浩志は思った。
今、告別式はどうなっているのかなと、浩志は中葬儀場の中に「侵入」した。おぉ、満員御礼だなとスキップしながら住職の方に向かって行った。あくまで「魂」なので見えない筈なのだが、江利子の隣に座っていた大樹には誰かがいると感じたのだろう。彼は小声で、
「お母さん、誰かがいる」
と言った。しかし、そう言われて彼女は周囲を見渡したが当然見える筈はなく、
「大樹、誰もいないよォ〜。おばけでもいるの?」
と聞いた。大樹は言った。
「きっと、佐伯先生が見に来たンだよ」
一方、浩二も何か人気の様なもの感じた。誰にも聞かなかったが、
『父さん…か?』
と思った。美津雄は時折、お経が子守唄の様に聞こえ、ウトウトとしていた。小百合は肘を突いて起きているよう促したが、無駄な抵抗だった。そんな中、浩志はいたずらをしてやろうと舌を思いっきり出して美津雄の首筋を舐めてみせた。当然、姿は見えない。だが、
「げッ!?」
と慌てて飛び起きた。一瞬、美津雄の方に周囲が一斉に視線を向け、彼は赤面した。小百合は驚いた様子で、
「ど、どうしたの?」
と聞いた。美津雄は言った。
「先刻、首筋あたりが舐められる感じがして…気持ちわりぃ!」
この異様な雰囲気に浩二はため息をつきながら、こう思った。
『嗚呼、父さんが悪さをしているなァ…』
これで果たして成仏できるのかと思いながら、告別式は終わった。克也は江利子のところに来て再会を喜んだ。隣にいた大樹を見ながら、
「もしかしたら、子どもさん?」
と克也は聞いた。江利子と広樹の結婚式以来、彼自身も都内の私立大学に進学し、そこで出逢った同級生と結婚したが、転勤が多くなかなか会えずにいた。江利子は言った。
「相変わらず奥さんと二人っきりなの〜?」
「…うん。やっぱりダメなンだ。彼女が子どもは欲しくないって。オレも世間体で結婚しただけだし…」
「つまり、『勃たない』のね〜」
「…そんな、子どもの前で」
「え〜? ウチではいっぱいしてるよ。いつか大樹だって経験するしさァ〜。広樹君も彼独自の『性教育』してるよ〜」
「浩志先生に劣らず、江利ちゃんも広樹もスゴいよ」
このやり取りを大樹はずっと聞いていた。時折、大樹は克也の全身を見詰めた。彼は言った。
「この男(ひと)が、お父さんが好きだった人?」
その質問に江利子は頷き、言った。
「そうなの〜。お母さんより大好きだったのよォ〜」
「へ〜。カッコいいね」
率直に「お父さんが好きだった人」と言える、否、言わせるところが利江子らしいと克也は苦笑した。
この頃には、大樹は男が男、女が女を愛することがこの世の道徳に反するものではないと考えていた。広樹はすでに克也や浩志と関係があったことを「カミングアウト」していたし、利江子もそれがおかしいとは思わなかった。彼女の場合は
看護師として多忙な毎日を送っていたが所謂「ヤオイ」系の漫画を書いては「コミケ」で高校時代の同級生と販売しに行っていたし、たまに大樹にも見せていた。未だ第二成長期を迎えてはいなかったが、男と女の生殖器の仕組みもすでに教わっていた。彼はずっと、早く大人になりたいと「渇望」していた。
一方、みいは正樹に声をかけ、近況を色々話していた。幸雄は、祭壇へ向かって改めて浩志の遺影を見詰め、泣いていた。嗚呼、この遺影をオレも欲しいなァ…。彼は浩二に話しかけた。
「…あの、浩志の遺影って、焼き増しできる?」
「はい。ウチにT百貨店で撮った原本があるので、できると思います」
「…欲しいなァ」
「じゃあ、後でお送りしますよ」
それを彼のすぐ横で聞いていた美津雄は、
「じいさん、まさかあの写真で『せん◯り』するンじゃねぇよな!?」
と浩二に言った。
「ま、まさか、『せん◯り』する元気はないでしょ!?」
と浩二は苦笑した。
正樹も幸雄のところに来て浩志の遺影を見ながら泣きじゃくり、
「…僕の彼に会ったら、よろしくね」
と話しかけた。「彼」と言うのは、正樹が大学時代から付き合っていた研究室の教授のことである。ニ、三年前に他界した。それ以来、正樹は「やもめ」として誰とも付き合わずに過ごしていた。みいも改めて浩志の遺影を眺めながら、
「…最初から最後まで浩志君らしいわ」
とこぼした。
こうして浩志のお骨は、四十九日まで天王町にあるK寺に預けられることになった。みいと正樹はその日のうちに東京に戻った。ところが、幸雄だけが土壇場になりしばらく水戸にとどまりたいと言い始め、みいは猛反対したが頑として聞かず、結局、美津雄と小百合が東京に戻る時まで佐伯家で過ごすことになった。美津雄は言った。
「じいさん、オレらが帰る頃にまた地団駄踏むンじゃねぇよ」
「解った、人生最後の我儘だと思って聞いてくれ!」
と頭を下げた。
幸雄は、浩志が使っていた部屋に泊まることになった。浩二は物色しなければイイが…と、薄々と嫌な予感はしていた。
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クマに襲われ、「命に別状はない」とされた80代男性の症例写真を見て、あまりのすさまじさに言葉を失った。額から上あごにかけて顔がなくなっているように見える。左の眼球はだらりと飛び出ている。 「クマは明らかに顔を狙って攻撃していると感じます」 こう語るのは、秋田大学医学部付属病院の高度救命救急センターでクマ外傷の治療にあたった土田英臣医師だ。 この男性は15時ごろ自宅前の畑でクマに襲われた。意識は明瞭で、自ら119番通報したという。 「鼻が取れ、皮膚が左右に裂けていました。救急隊員が道端に落ちていた鼻を見つけて運んできてくれたので、形成外科の先生が手術して、くっつけたのです」 傷の見た目はひどいものの、出血量は比較的少なかった。血圧や呼吸などの全身状態は安定していたので、すぐに手術できたことも幸いしたという。 ■容貌が変わるほど重大なけが 昨年度、クマに襲われた被害者は過去最多の219人。その大半がツキノワグマによる被害者で210人、約96%を占める。ツキノワグマは主に人の顔や頭に一撃を与えた後、すぐに逃走する場合が多く、いわゆる「人食いグマ」による「食害」はまれだ。 だが、クマに人が襲われ、「命に別条はありません」と報道されても、実際は顔貌が大きく変わるほどに重大なけがであることが少なくない。 昨年度、クマによる人身被害が最も多かったのが秋田県だ。死者こそ出なかったものの、70人が負傷した。このうち、重傷者20人が同病院に搬送された。18人が顔を負傷。失明は3人、顔面骨折は9人にのぼる。 冒頭の男性の被害は、搬送されたなかでは特別深刻なケースではないという。 ■クマによる外傷は「特殊」 一般的に外傷は、交通事故や転落事故などによる「鈍的外傷」と、ナイフなどによる「鋭的外傷」に分けられるが、クマに襲われた際のけがはその二つの特徴をあわせもつ「特殊な外傷」だという。 「強いパワーによって骨折し、傷口は深く、筋肉までぱっくりと開く」(土田医師) ■小さな傷でも「細菌」で化膿 別の70代男性は早朝、山中で植林作業をしていた際、クマに襲われた。自力で道の駅まで車で移動し、救急要請をした。 頭部と顔面に裂創を負い、左ほおの傷は口の中まで貫通していた。口腔内にたまった血で呼吸が困難になった。病院に到着したとき、意識は薄れつつあった。 「出血がひどく、血圧が下がってしまった。『出血性ショック』という状態で、緊急輸血を行いました。圧迫止血を行うとともに、耳鼻科の医師が電気メスで動脈を焼いて出血を止めました」 その後、頭骨の骨折や、頭蓋内の出血などを治療する緊急手術が行われた。 「クマ外傷」は傷の状態がひどいだけでなく、細菌に高度に汚染されることも特徴だ。外傷ではなく、敗血症で亡くなった人もいる。そのため、大量の生理食塩水による傷口の洗浄や、抗生剤治療などの感染対策が必須になる。土田医師はこう訴える。 「クマの牙による傷は一見、ぽちっと穴が開いているだけですが、深い傷です。後で化膿する患者さんもいます。クマに襲われてけがをしたら、どんなものでもすぐに病院で治療を受けるべきです」 ■顔面の筋肉や骨がボロボロ 秋田赤十字病院の形成外科部長・渡邊理子(あやこ)医師は「クマに引っかかれた」と報じられることに違和感を抱いてきた。昨年、同院にはクマによる外傷で7人が搬送された。 「実際は顔の中心、特に目のまわりをものすごく強い力で殴打される。皮膚を引きはがされる剥脱創(はくだつそう)が目立ちます。顔面の筋肉や骨はボロボロになる」 皮膚組織を欠損してしまうことも珍しくない。そのため、傷を縫い合わせた後、皮膚を移植し、傷痕を目立たなくするなど、複数回の手術が必要となることが多い。 一般的な骨折と違って、顔面の骨は細かく砕けていることが多く、骨片をパズルのように元の位置に戻し、金属製のプレートでつないでいく。それもできない場合は破片を取り除いた後、骨の代わりとなる大型のプレートを埋め込むこともある。 筋肉の挫滅がひどかったり、神経が傷ついたりすると、顔面をうまく動かせなくなる。傷が治っても痛みや違和感を訴える人は多い。 こうした恐るべき被害の実態が十分に伝わっていないため、クマからの防御手段が軽視されている。それが被害を広げる一因にもなっていると、指摘する専門家がいる。 ■致命的なダメージ防いで NPO日本ツキノワグマ研究所の米田一彦所長は、10年前からこう訴えてきた。 「クマに遭遇した場合、立った状態で攻撃を受けるのが最も危険です。ただちにうつぶせになり、両腕で頭部を覆ってください。致命的なダメージを防ぐことが重要です」 3年前に改訂された環境省の「クマ類の出没対応��ニュアル」にも、うつぶせになって頭部を守れ、と記述されるようになった。 ところが、インターネット上では「机上の空論」「うつぶせになって顔や頭を守っても食われるだけ」「攻撃こそ最大の防御!」と、防御姿勢を軽視するコメントを見ることがある。背景には深刻な人身被害の実態が十分に理解されていないことがあるのだろう。 前出の渡邊医師は言う。 「顔面は社会生活を営むうえで非常に重要です。人の顔面は頭部に比べて脆弱ですから、クマに攻撃された際、うつぶせになって身を守るという方法は妥当だと思います」 ■口腔顎顔面の再建治療を 島根県ではクマの目撃が年間1000件前後にもなる。島根大学医学部歯科口腔外科学講座の臨床講師を兼務する雲南市立病院の歯科口腔外科部長・小池尚史医師は、クマに顔面を攻撃された際、負傷者を迅速に大学病院、またはそれに準ずる高次医療機関に搬送することの重要性を強調する。防災ヘリやドクターヘリも有用だという。 「例えば、顔面の涙小管や耳下腺管、三叉神経や顔面神経などを損傷した場合、時間との勝負になってきます。緊急手術を行って、即時再建できる病院に搬送することが大切で、これが遅れるほど機能回復に遅れが生じてしまいます」 島根大学医学部付属病院の高度外傷センターでは、救命医をはじめ脳神経外科医、歯科口腔外科医、整形外科医など、複数の医師が密な連携のもと治療にあたる体制が整っている。 クマ外傷の場合、あごを負傷することも珍しくない。あごを骨ごと持っていかれてしまう場合もある。 「口元がなくなってしまうと、摂食、嚥下、咀嚼、咬合など社会生活に大きな影響が出ます。外傷によってあごの骨や歯を大きく失った際、歯科インプラントも公的医療保険制度の対象となる場合がありますから、機能と審美の両面から、あごと口を再建して社会復帰していただきたいと強く思います」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
クマは「明らかに顔を狙って攻撃」「骨もボロボロ」と医師たちが証言 「命に別状はない」の実態(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
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昼飯は「レバニラ焼きそば」で���る。
昨日の残りなのである。
そのまま乗せるというのも芸がないので、焼きそばはニンニクとナンプラーで仕上げたのちにレバニラを乗せたのである。

1週間も終わりになると首から背中にかけてバキバキになるので夕方から近所の整骨院に行く。
ストレートネックであるうえに、とんでもなくデカい「凝り」があって、治療を受けた日は楽になるのだけど、もう明日には頸筋からバキバキが復活してくる。
もうしょうがないんだろうなァ。

晩飯は「豆腐の蒲焼き丼」と「豚じゃが」を食った。


豆腐の蒲焼き丼は、豆腐と豚ひき肉を塩コショウしたのちにパン粉と混ぜ合わせ、適当な大きさに切った海苔に片栗粉を片面に塗してから、豆腐とひき肉を併せたものを均等に乗せて焼くのである。
豆腐なので意外とあっさりしていて旨い。
豚じゃがはレンチン。
やらなくていいことはやらない。
ごちそうさん。
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