#茨城県曹洞宗青��会
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【上山安居指導会】
3月7日(金) 笠間市高寅寺様を会場に上山安居研修を行いました。
この春、永平寺に上山される同寺のお弟子さんに着物の着方や応量器の作法、合掌やお拝の進退など修行をするにあたって基本的な事を指導させていただきました。
一生懸命指導を受ける姿から、これまでの生活を離れ、修行に臨む高い志しが感じられました。
3月になりましたが、まだまだ雪の残る寒さ厳しい永平寺での修行の日々となります。堅固法身、修道無難なる事を願います。



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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には���特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なん���変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の���杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯に��たる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山��栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知ら��を受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが��起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、��戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、そ��隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちが���しゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に���わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老���のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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このたび、お蔭様をもちまして、茨城県曹洞宗青年会は創設60周年を迎えます。
この節目に、2018年2月23日金曜日、茨城県土浦市の土浦市民会館大ホールにて、『感謝』と題し記念講演会を開催いたします。
講演に、「戦場カメラマン」としてテレビをはじめ各メディアでご活躍されている渡部陽一氏にご出演いただく予定です。また、 国内のみならず海外にまで活動の場を広げ演奏をしている 三重県曹洞宗青年会様の有志の皆さんによる和太鼓集団「鼓司」の演奏も予定しております。当日は12時開場、13時開演です。
参加費無料、申込も不要です。仏教に全く興味がない方でもご自由にご観覧いただけます。
ご不明点、お問合せ等ありましたら、080-7745-1588までお電話下さい。
茨城県曹洞宗青年会のホームページはこちら
https://ibasousei.tumblr.com/
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俊樹消息

2020年2月
1日 零の会 2日 出番とす、さいかち集選句、各種振り込み、曹洞宗選 3日 休みとす、越前市連絡し辞退 4日 花鳥編集委員会、年尾研究 5日 出番、南日本新聞・兵頭氏他、紙上選について、経理管理・田中さん、比奈子 / 淡路島永田青嵐大会打ち合わせ、発券 6日 NHK町田教室 7日 休みとす、雑詠選 8日 出番とす、雑詠選、撰集選 9日 協会関東支部大会、茨城県 10日 引き続き茨城県 11日 休みだが深大寺大会選 12日 日本倶楽部、その後経理管理 13日 校正 14日 校正、各地区選 15日 体調不良につき休み 16日 同、芦屋句会辞退 17日 休みとす、虚子俳話、雑詠評、近詠 18日 出番、その後経理管理、高野氏の小熊座の選 19日 再校、編集委員会 20日 調布市俳句大会、櫂さん他 21日 休みとす、自動車保険検討 22日 永田青嵐俳句大会、淡路島にて講演 23日 同帰京 24日 休みのみ 25日 曹洞宗選、��人と夜の会 26日 休みとす、風邪かその他か 27日 出番、協会賞問題 28日 休みとす、共済組合連合会選、協会句会等の開催指示 29日 出番とす、各種会議中止
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最期に 今回、茨城県曹洞宗青年会創立60周年記念事業の1つとして、初めての県外での開催となり、ご本山をお借りしての開催ということで例年と同じようには運営できなかったことでご迷惑をおかけしてしまった方もおられるかもしれません。 また、多くの方のご協力によって無事終了出来ましたこと、改めて御礼申し上げます。 来年以降は例年通り、県内での開催を予定致しております。しかし、またこのような企画がありましたら、この経験を糧により良い運営が出来るよう努めたいと思います。 いただいたアンケートには、多くの方から励ましや応援の温かいお言葉をたくさん頂戴いたしまして、至らぬことも多かったとはいえこのような機会に携われたこと、改めてありがたく感じております。 今回の緑蔭禅の集いのテーマでありました『報恩』の言葉のもと、みなさまのお心に報いることの出来る自分である為、精進したく思います。 改めまして、ありがとうございました。合掌 緑蔭禅の集い事務局
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交通事故犠牲者の慰霊の為、また交通事故撲滅と、交通安全を願う行脚の様子を収めた写真です。
茨城県曹洞宗青年会のページは下記のアドレスです。
https://ibasousei.tumblr.com/
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出張坐禅会承ります。
各学校、会社、団体等での体験坐禅会、新人研修などをご希望の方、県内の曹洞宗青年僧がお伺いし、体育館、会議室等の会場で坐禅をご指導いたします。
対象 茨城県内 申込期間 随時
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【茨城の魅力・お店紹介】 緑蔭禅の集い会議(前回投稿)にて会場として使わせていただいた「露蓮 LOHAS」様にて、精進ランチをいただきました。




「露蓮」-精進料理の店-(@lohas_shojin_mito) 水戸市河和田町 天徳寺門前
今年5月に開店した新しいお店です。
僧侶でありながら栄養管理士の資格を持つ店主が、修行経験や栄養に関する知識を元に料理に腕を振るいます。 地元の野菜を中心に、旬の食材を使用した体と心に優しい食事をいただき、会員一同味わいながらも自然���笑顔になるお食事でした。
また、コーヒー提供はこの日のためにご準備いただきました。 今後はもしかしたらハンドドリップによるコーヒー提供の日を作られるかも…とのことでしま。
会場を快く提供いただき、またご準備いただき、大変感謝いたしております。
露蓮様のInstagramでは、週替わりのランチに提供される旬の野菜の紹介などもされておられます。 全国的にも珍しい、僧侶が作る精進料理が食べられるお店です。 野菜大国茨城県、その魅力をとても感じることができます。
確認と共にご予約をしてみてはいかがでしょうか?


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「露蓮」(@lohas_shojin_mito) 〒311-4153 茨城県水戸市河和田町1167−6 天徳寺門前
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[第50回 緑蔭禅の集い会議]


6月9日、水戸市天徳寺様の山門横にあります精進料理店「露蓮 LOHAS」様(@lohas_shojin_mito)を会場にお借りし、今年度の「緑蔭禅の集い」についての会議を行いました。
今回で第50回を記念する今年の緑蔭禅の会場は、神奈川県南足柄市にあります曹洞宗大雄山最乗寺様(@daiyuuzan_saijouji)にて開催することに決定いたしました。
最乗寺様は御祈祷や天狗伝説などで有名ですが、専門修行道場として多くの修行僧を有しており、我々茨曹青の中にも最乗寺様で安居(修行)させていただいた会員も多くおり、以前には令和4年度の研修旅行でも訪問させていただき、山内の見学や会員の御祈祷もしていただきました。
そして今回、緑蔭禅の会場としてご提案させていただいた所、快く承諾していただきました。
現在、詳細な日程の調整などを調整し、皆様の良い経験となるよう計画を進めておりますので、続報を楽しみにお待ちください。





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[令和7年度定期総会]

5月13日 つくば市ホテルグランド東雲を会場に、令和7年度定期総会を行いました。
開会宣言の後、出席いただいた御来賓の山﨑宗務所所長老師・江田所会議長老師より、会員へ向けての期待を込めたご挨拶をいただきました。
定期総会では、今年度退会となる村上崇則前会長が議長を務め、前年度の活動報告と、今年度の事業計画について話し合いが行われました。
また、新入会員となる方達の自己紹介が行われ、引き続いてこの定期総会をもって卒会される先輩方に対し、花束の贈呈が行われました。
卒会に際し、増田師より、青年会に感じた「和合」の精神をお話いただき、前会長を務められた村上師からは、青年会のこれからの発展を祈念する激励のお言葉をいただきました。
お二方へ感謝すると共に、会のこれからに注目していただけるよう努力して参ります。
また、再来年は当会創立70周年を迎えます。節目の年にはこれまで記念事業を行って参りました。この定期総会では周年事業実行委員長に笠島師が就任し、再来年に向けて今年度より始動してまいります。
ぜひ、ご注目ください。
今年度も永井会長を中心に様々な活動を行って参ります。
どうぞよろしくお願いいたします。
会員一同 合掌









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【ミャンマー地震募金】
3月28日、ミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の地震が発生、隣国タイを含め人的、物的に大きな被害が出ております。この地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族にはお悔やみを申し上げますとともに、被災されたすべての方に心よりお見舞いを申し上げます。
茨城県曹洞宗青年会では、会員のお寺にて「ミャンマー地震募金」を行っております。
集まった募金はシャンティ国際ボランティア会(SVA)を通じてミャンマーへ責任を持ってお届けいたします。
ミャンマーは現在軍事政権によるクーデターにより内戦状態にあります。そうしたこともあり、正確な被害の詳細が分からない状態です。
シャンティ国際ボランティア会ではミャンマー国内の教育機械の提供を支援するなど、以前より事務所を設置し現地に根差した活動を長く行っており、今回の地震発災以降は緊急人道支援が行われております。
ミャンマーは寺院がいわゆる寺子屋を運営し、国内の学校不足を補っていたり、社会と仏教との関わりが深く、敬虔な仏教徒が多い国でも知られております。
国内の動乱だけでなく、大規模な自然災害によって多くの方が苦しんでおります。そうした中にあって大変な思いをされるのは、常に一般の市民であることを忘れてはなりません。
皆様の優しきお心をミャンマーへ。
ご協力をお願いいたします。
※また、募金箱設置にご協力いただける御寺院様がおられましたら、投稿した写真にもあるA4サイズの募金箱案内の印刷用PDFデータをお譲りいたします。メッセージ等でご連絡いただけたらと思います。



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【一文字写経 納経諷経】
4月19,20日に行われました「結いのおと」(結城市)にて、孝顕寺様を会場に皆様にお写経いただいた般若心経の一文字写経納経諷経を行いました。
完成した般若心経や、お預かりしたお願いごと・戒めごとを孝顕寺ご住職お導きのもと、孝顕寺様のご本尊お釈迦さまへ納経とご報告をいたしました。
"お経"はインドの言葉(サンスクリット語)でスートラと言います。直訳すると"糸"を意味します。
大切な言葉をまとめたから糸を意味するスートラという言葉が用いられたという説もあるようです。
19,20日の2日間、皆様に一文字ずつお写経いただき、次第に完成に向かって行く般若心経を見ておりましたら、糸のように紡がれ、一人一人の想いが文字となり形となって結ばれてゆくのを感じておりました。
お写経いただいた皆様や、結いのおとに参加された皆様が健康で幸せに暮らせますように。



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【結城市 結いのおと】◎活動報告

4月19、20日の2日間、結城市で開催された街なか音楽祭『結いのおと』にて、会場の一つとなった孝顕寺様で写経や坐禅のブースを担当させていただきました。
『結いのおと』は、結城市を舞台にした回遊型の音楽祭です。
神社仏閣や酒蔵などをライブ会場に利用し、街に新しい価値観を与えるイベントとして回を重ねる毎に話題になっております。
その会場となった曹洞宗孝顕寺様にて、坐禅堂に坐る「坐禅体験」や、般若心経の一文字を写経していただく「一文字写経」を行いました。
お友達や家族を連れて坐禅をされた方、初めての方、子供の頃ぶりの方、いろんな方々がこの2日間坐禅体験をされました。
一文字写経は、幅広い年齢の方々にご好評いただきました。
久しぶりに筆を握った方も多かったようで、1文字ながら皆様丁寧に丁寧に書かれていたお姿が印象的でした。
完成したものを見ると、文字の上手いも下手もなく、どの字も味わい深いものです。
また、般若心経が完成してからは、お経の結びとして、結いのおとにちなみ、「結」を書いていただき、願いごとや、戒めごとをお預かりさせていただきました。 後ほどお預かりした願いや戒めを御祈祷させていただきます。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
来年もお会いしたいですね。 参加させていただき、私たちもとても��しかったです。
このような機会をいただいた孝顕寺様、結いのおとスタッフの皆様 ありがとうございました。









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【交通事故殉難者慰霊行脚】
4月14日(月)
水戸地区にて交通事故殉難者慰霊行脚をおこないました。
春の交通安全運動期間に合わせ、交通事故によってお亡くなりになられた方々のご供養と、地域の安寧を願い行脚をいたしました。
当日は水戸市祇園寺様にて出発諷経を行い、祇園寺の皆様や、お参りされていた皆様に見送りを受けて出発をし、水戸駅周辺地域を歩いておりました。
道中、私達に声をかけてくれた方や浄財を賜った方々がおられ、手を合わせていただいた私達もまた皆様に手が合わさる思いで行脚をしておりました。
網代笠に桜が舞う暖かな1日でした。









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【釈尊降誕会・研修会】
4月7日(月)
かすみがうら市雲集寺様を会場にお借りし、前回より引き続き曹洞宗で用いられている十六条の菩薩戒について、当会OBでもある笠間市高寅寺ご住職・北條和之老師を講師にお迎えして研修会(説戒)・釈尊降誕会を修行いたしました。
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釈尊降誕会とはお釈迦さまの誕生をお祝いする法要です。
降誕会では花御堂を祀り、その中央にはお生まれになられた際のお姿(誕生仏)をしたご尊像をお祀りいたします。
花で飾った御堂のお釈迦さまに甘茶をかけてお祝いをすることから「花祭り」とも呼ばれます。
この日の法要には会場となった雲集寺様のご住職や、雲集寺様に花御堂を寄進された方など近隣の檀信徒の方々にもご参列いただきました。
随喜・参列した皆様でお釈迦さまに甘茶を注ぎ、お釈迦さま誕生をお祝いさせていただきました。





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両祖忌
中国(宋)にて教えを受け継ぎ、帰国した後に大本山永平寺を開かれた道元禅師様と、
その教えを継ぎ、現在の曹洞宗布教の礎を築き大本山總持寺を開かれた瑩山禅師様の両祖師方の供養を行いました。
法要前には1時間しっかりと馴らし(法要の確認)を行い、法要に挑みました。
我々会員も教えを受け継ぐ者として、身の引き締まる想いでお勤めさせていただきました。
また、法要には当会OBにも御随喜いただきました。御助法賜りありがとうございました。
法要の前には3年後に控えた当会創設70周年を迎えるため、記念事業会議を行いました。
過去の事例を参考に、会員と一般参加者が素晴らしい体験を出来るよう案を出し合い進めております。
こちらのホームページやInstagram、Facebookで会議の様子や活動の様子を報告しておりますので、ご興味のある方はフォローをお願いいたします。










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