#骨盤のゆがみをとる
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値段ジワジワってか、万博あるせいか上がりだしてるね
こんな時はドロンして、キッパリ忘れなきゃ
財布が痛いだけ
ちょいとやり過ぎもあったし、丁度いいや。
休止宣言
と言っても、相手探すのとか相性良いのとか、まずそこがめんどくさいから、誰ともやらない宣言してたけどね。
先日ついつい年上のタチ親父からお誘いあり、そんな遠くでも無いし、いっかぁと連絡返した。
到着して、さぁ。と言う時にタチは俺はやらない。
T満足するまで掘ってから自分も食うと。
紳士的な人だなぁ。。
悪い気もするけど���向こうがそう言ってるしと、15入れて狂った
掘られてるけど向こうはシラフ
隠してやる時のシラフ以上に冷めた顔しながら掘ってるから、気分が乗らなくなったから、別にいいから、一緒に食いましょ。
掘れない時はまたそれはそれでと、伝えてHはニコリとやっと笑顔になる
さぁどうぞって待ってると、自分で縛れない付けない押せないの初心者だった。
それなら先に行ってよと思いながら、準備する。
自分のなら失敗しても平気だが、相手のは気をつかうし、体制をうまく固定してくれないから、やりにくい。
この人いつもやって貰ってんの?
と、何とか成功した。
暫くは黙ってて、キタって言ったら何処かへ消えて行き、戻ってきたら、一応来てるんだろうけど、やたら大人しい。
しかも最低ない事にマグロタチだった
初心者で15位へれたら動けんわなぁ。
59歳のダンディーだった親父がどんどんメス泣き始まると、あー、またか!
俺は乳首弄れば勃つ
ドリにはならない
自分で言うのも何だけど、ウケには勿体無いマラ持ってる。
オッさんサービスなし、俺のマラしゃぶる事も無く手でローションで扱いて、跨って来た。
ウケは騎乗位は腰少し浮かすんだよ!
と叫びたい位、全体重乗っかって、自分のいい奥を擦り付ける。
痛いんだよお前の骨盤とケツの重さで、息苦しくなる。
浮かせようとしても、アンアン言ってのけぞり、狂い出すからこっちは唖然と冷めてくる。
思いからバックにさせ後ろからガン付きふるも声は出ないし、自分からケツ振ることも無し、今度はマグロウケか??
自称キメタチってこーゆータイプ多いと思いません?
だったらウケリバとの方が楽しい気がする。
中年になってもこんなのに引っかかるなんて、俺はバカだね。
やんわり、疲れたからと切り上げ、シャワー浴びて帰ったよ。
そしたらまた掘ってください、Tさんのチンポ太くて感じると、連日メッセージが来る。
ブロックブロック
てな締めで今回の再開は幕を閉じます。
よーく考えてみて、冷めた時その人ともう一度やりたいって思った人何人いる?
終わりが無い、満足がない世界なんですよ。
g35000だったら、本当の旅行行くわ。
ではまた会える日まで👍
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理���尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべ���切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれ���いう人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞��取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっ��待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)3月13日(木曜日)弐
通巻第8693号
タッカー・カールソンは変節したのか
イスラエル問題ではトランプ政権と距離
*************************
イスラエルのメディアが一斉にタッカー・カールソン批判に転じている。
自分たちの気に入らない政治家や、反対派の思想家から率直な意見を引き出すことがカールソンの目的だが、そうした人物を番組によぶこと自体が敵に塩を送る行為だとする批判となり、原則小児病的である。
カールソンがモスクワでプーチンとの独占インタビューをなしたとき、当時のバイデン政権はカールソンを徹底して妨害し、批判し「利敵行為だ」などと難詰した。ところがカールソンの番組は世界中の人々が視聴した。
カールソンの立場は鮮明である。真実を知りたい。それがモットーで欧米のリベラルメディアが意図的に伝えないロシアなどの動き、指導者たちの真意を探ろうとしてきたのだ。「敵を知らず己を知らずんば百戦すべて危うし」と孫子は言ったではないか。
カールソンはプーチンの頭脳といわれたドウギンとも会見し、またラブロ��外相とも独占インタビューをおこなう一方で、亡命中のスノゥデンとも非公式に接触した。
カールソンは共和党支持者である。24年7月の共和党大会ではトランプ支援に駆けつけて応援演説もこなした。それゆえにトランプ・シンパと考えられてきたが、トランプから距離を置き始めた。主因はずばりイスラエル問題だ。
最近もカールソンはジェフリー・サックスを番組に招いた。サックスは旧ソ連、級東欧の経済改革でアドバイザーを務めた上、中国擁護論者としても知られる。
CIA陰謀論に近いが、「シリア政権の崩壊は、ネタニヤフ首相によって画策された」などと根拠薄弱なことを主張した。
サックスは「米議会にはイスラエル・ロビーが台頭している。アメリカがネタニヤフ首相の命令でレバノン、イラン、イラク、シリア、リビア、スーダンと戦争を始めたのだ」と根拠の希薄な陰謀論を主張した。
イスラエルのディアスポラ省チャイ・チクリ大臣も、カールソンを非難した。
「タッカー・カールソン氏が、イスラエル国家に反対する過激なホロコースト否定論者、陰謀論者、流血の誹謗中傷愛好家にとっての主要なプラットフォームとなった」
ようするに言い分はイスラエルの「国益を損ねた」と言うのだ。
米国でも保守系ジャーナリズムは「サックスは反米共産主義者だ」としており、「カールソン氏がなぜサックス氏を番組に招待したのか」と疑問を呈した。
すべてを政治プロパガンダの視点から見れば、カールソンの番組に不満が昂じるのは無理はない。あらゆる事象をかたくなな政治的見解の視点で判断し、その立場の差違を基準としているからだ。
カールソンは「ナチスの捕虜や反体制派の死は殺人ではなく計画の不備や兵站上の問題によるものだ」と主張するダリル・クーパーを招いて番組を放映した。このときも大きな物議を醸した。番組をみればわかるが、カールソンはクーパーの見解に賛同しているわけでない(小誌はこの詳細を報じた)。
▼反対派の意見を聞くことはジャーナリストの使命ではないのか
最近、カールソンはカタールの首相シェイク・モハメッド・ビン・アブドゥルラフマン・アル・サーニーにインタビューした。それにも米国やイスラエルの保守派は反発し、「イスラエルに対する物議を醸す立場で知られる国々との足並みのそろいを示している」との批判がイスラエル各紙に論調である。「タッカー・カールソンの反ユダヤ主義はトランプ政権の価値観を反映していない」と批判組の論調基盤だ。
モハメッド(カタール首相���は、「(イスレルの)イランの核施設への攻撃により、湾岸地域の水源が深刻に汚染され、カタール、アラブ首長国連邦、クウェートなどの国々に影響を及ぼす可能性がある。そんな事態が起きれば、湾岸地域は水も魚もなく、何もかも、生命もなくなる」と強調したにすぎず、それとなくイスラエルに軍事行動よりも外交的解決を求めた。
タッカー・カールソンは反ユダヤ主義か?
カールソンが「反ユダヤ主義的見解」を持っているという批判が多いが、客観的にみても、アメリカの異常なイスラエル支援のほうが問題ではないか。
バイデンもトランプも、あれほど諸政策において対立的なのに、ことイスラエル問題となると、徹底的なイスラエル贔屓で、ウクライナへの武器援助は停止しても、イスラエルの武器供与は続行している。
トランプ自身は長老会派、旧約聖書重視のプロテスタントだから、イスラエル支援は骨の髄まで徹底している。
したがってカールソンは、この問題に関してはトランプから離れている。
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禁断の契約
登場人物
* 青山 悠真 (あおやま ゆうま): 35歳。
* 身長: 168cm
* 体重: 75kg
* 建設会社に中途入社した、都会的で洗練されたイケメン。小柄ながらも日々の鍛錬で培われた筋骨隆々の肉体を持つ。過去の恋愛で心に傷を負い、深く踏み込むことを恐れていたが、神谷との関係で自身の新たな快楽の扉を開く。仕事はできるが、どこか達観した雰囲気を持つ。
* 神谷 健吾 (かみや けんご): 55歳。
* 身長: 178cm
* 体重: 95kg
* 年商10億円を誇る下請け会社の社長。身体はゴツく、無骨な職人肌だが、その実、繊細な芸術家肌の一面も持ち合わせる。妻帯者だが、最近は家庭に安らぎを見いだせず、自身の性的指向に変化が訪れていることに戸惑っていた。特に若い男性への抑えきれない興味が芽生え始めた。彼の肉体的な特徴として、極太のチンコの持ち主であり、その勢力が強すぎるのが長年の悩みである。家族は沖縄に住んでおり、神谷自身は港区の広いタワマンで一人暮らしをしている。
* 滝本 涼介 (たきもと りょうすけ): 鳶の会社を率いる若きイケメン社長。
* 身長: 188cm
* 体重: 80kg
* 年収7億円。背が高く、健康的な色黒の肌を持つ。元ヤンだが、現在は経営者として成功している。生粋のゲイで、イケメンには目がない。自身も港区のタワマンに一人暮らしをしており、若い男のセフレが20人以上はいるという噂がある。しかし、青山悠真の登場で、彼らには興味を失い、青山に完全にゾッコンになる。デカマラの持ち主であるという噂が業界内でまことしやかに囁かれている。神谷とは古くからの付き合いで、彼の家族構成や内情にも詳しい。
物語のあらすじ
大手建設会社に中途入社した青山悠真は、168cmと小柄ながらも75kgの引き締まった筋肉質な体を持つ、都会的で洗練されたイケメンだ。彼が配属された大規模な商業施設プロジェクトの現場で、初めての打ち合わせのため詰所を訪れる。そこで、主要な下請け業者である神谷健吾社長と出会う。神谷は55歳、178cm、95kgのゴツい体躯と無骨な言動で知られ、業界では一目置かれる存在だ。年商10億円を誇る彼の会社は盤石で、神谷自身は港区の広いタワマンで一人暮らしをしており、家族は沖縄に暮らしている。
詰所で書類に目を落とす悠真の大人しくも洗練された雰囲気に、神谷は次第に惹きつけられていく。神谷は妻帯者だが、これまで意識したことのなかった若い男性への性的興味が芽生え始めていたのだ。特に、悠真の秘めた色気と、自身の若い頃にはなかった都会的な雰囲気に、抗しがたい衝動を覚えるようになる。
神谷は仕事終わりに悠真を飲みに誘い、その後も会社の仲間との飲み会が何度か開かれるうちに、悠真への執着を深めていく。ある日を境に神谷は悠真を自身の港区の広大なタワマンに招き入れるようになる。広々としたタワマンの一室で、神谷の男らしい包容力、揺るぎない経済力、そして何よりも大人としての余裕と魅力に、悠真は強く惹かれていった。神谷が打ち明ける孤独と、その裏にある繊細さに触れるたび、悠真の閉ざされていた心はゆっくりと解け始める。
やがて、二人の関係は単なる友人を越え、裸で抱き合う関係へと発展する。神谷は、自身の極太のチンコと、その持て余す勢力を悠真が受け入れてくれることに安堵し、深く満たされていく。悠真もまた、神谷の圧倒的な存在感と、彼との肉体的な繋がりの中で、自身の心の奥底に眠っていた感情が呼び覚まされるのを感じていた。特に、神谷の極太のチンコが生み出す、これまで経験したことのない強烈な快楽に、悠真は完全に魅了され、深くハマってしまう。時には一晩に30回以上も果たすほどの、狂おしいような性交渉を重ねるようになる。気づけば、悠真は神谷のタワマンに自分の荷物を持ち込み、事実上の半同棲状態となっていた。二人の間には、現場での厳しい顔とは異なる、穏やかで睦まじい時間が流れるようになっていた。
滝本の嗅覚と介入
そんな神谷と悠真の仲睦まじい関係に、鳶の社長、滝本涼介は鋭くピンとくるものがあった。涼介は188cmの長身に80kgの筋肉質な体格を持ち、色黒で元ヤンだが、現在はイケメンでデカマラの持ち主として、一部界隈では有名人だ。年収7億円を稼ぎ、自身も港区のタワマンに一人暮らしをしている涼介は、生粋のイケメン大好きゲイである。これまで20人以上の若い男のセフレがいたが、悠真の噂を聞きつけ、その洗練された美しさに触れるうちに、瞬く間に他の男たちへの興味を失い、青山に完全にゾッコンになる。神谷とは古くからの付き合いで、彼の家族構成や内情にも詳しい涼介は、神谷が最近、特に満たされた表情をしていることや、悠真が現場で神谷と二人きりになる機会が増えたことなど、細かな変化を見逃さなかった。
ある夜、業界の飲み会で神谷と涼介が顔を合わせる。涼介は巧みな話術で神谷に酒を勧め、普段は決して弱音を吐かない神谷を泥酔状態に追い込んだ。そして、神谷の口から、悠真との関係について探りを入れる。「神谷さん���最近なんかいいことありました? 青山くんと、ずいぶん仲良いみたいじゃないですか」涼介の問いかけに、神谷の口元が緩み、ぼそりと「あいつといると、心が安らぐんだ…あいつだけが、俺のこの(言葉を濁しつつ)…を本当に受け止めてくれるんだ…」と本音が漏れる。涼介はそれ以上の詮索はせず、ただ静かに神谷の言葉を受け止めたが、彼の心には確信に近いものが芽生えていた。神谷の「極太のチンコ」と「勢力強すぎる」という悩みを涼介は知っていたからこそ、その言葉の重みを理解できた。
数日後、現場の作業が終わり、帰ろうとしていた悠真を、涼介が呼び止めた。「青山くん、ちょっといいかな?」涼介のいつになく真剣な表情に、悠真は足を止める。涼介はまっすぐに悠真を見つめ、静かに問いかける。「神谷さんと、どんな関係なんだい?…噂は耳に入っているよ。神谷さんも、かなり参っているみたいだしね」涼介の言葉に、悠真の表情は一瞬で凍り付いた──。
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きのうは珍しく故郷にも雪が積もった。午後にはほとんど止み、犬の散歩について行って少しだけ歩いた。わたしが遅いので犬は母とともに先に歩いて行くが、時折、突然止まってこちらを振り返る。犬にしてみればおそらくわたしの方が新参者なので、群れのしんがりか弟子がちゃんとついて来ているか確かめているのかなと思ったら面白い。
胎児は無事38週を迎えた。推定3200グラムを超え、毎日元気そうにモギュモギュと動いてくれている。そろそろ、いよいよ腹の中は狭いだろう。いわゆる正期産の時期に入り、もう、いつ産まれてきても大丈夫なのだという。病院でもらったテキストを見よう見まねでストレッチをやったりしてみている。お産はやっぱり怖いが、ともかく元気で会おうねと話しかける。
健診では子どもが相変わらず大きいので頭が骨盤を通れるかどうかレントゲンを取りましょうと言われ、レントゲン室へ行ったら脚の間に発泡スチロールで固定したプラスチックの定規のようなものをキュッと挟まれたのでビックリした。先日のうおのめといい、医療は進んでいるようでいてときどき突然に原始的。うおのめは結局こちらへ来てから同じところにもう一回できてしまい、近所の皮膚科でゴリゴリ削ってもらった。まえ行った病院では行ったその日にムギューとされたが、今回は数日間薬を貼ってから削ってくれたので、なんとなくこっちの方が具合がよさそうだなと思っている。削られたあとは今のところ痛くない。
入院するまえにと思って実家近くの美容院にも行き、髪を短くしてもらった。美容院は父と犬で歩くときの散歩コースの途中にあり、店員さんたちが忙しくない時間だと総出で犬を撫でてくれるらしい。犬のおかげで父と近所の人との交流が生まれていると母が言う。あとは図書館で本を借りたりしてゆっくり暮らしている。情報量のあまり多くない暮らしをしていると思うのだけれど、夢はたくさん見る。脳の中の整理整頓をしているのか、単にお手洗いが近くて夜中に何度か起きるから眠りが浅いのかもしれない。
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hello! Hope you are doing well!
I wanted to ask can you give the Japanese voice line of Ace SR Gala Couture Lines.
Hey! I realise I don't know if you mean the audio or the text, but here's the text in any case:
Homelines
面倒事もパパッと解決してやろうじゃん。オレの活躍、期待していいぜ
この袖、物を隠せなくて手品向きじゃないんだよな。ま、今回のショーはそういう技使わないからいいけど
真っ白な衣装なんかつまんなそうって思ってたけど。刺繍とかアクセサリーのおかげ?イイ感じ
さっき野生の蝶が花冠のほうに寄ってきたぜ。作り物の蝶を仲間だと勘違いしたのか?
どうよ、この格好のオレ。……おいコラ褒めながら笑うのやめろ
祝祭中は食べ物も出んのかな?いや、手のひらサイズの妖精とかって普段なに食ってんのか気になってさ
昔から父さんや兄貴と一緒に手品の練習してたし手先の器用さには自信あるんだよねー
朝食の時、スライハンドマジックでデュースの前から卵を消してみせたんだ。すげー焦ってて面白かったわ
シルバー先輩は突然居眠りすることがあるって聞いたんだけど……さすがに作戦中は寝ないよな?
そうそう。背中に入れた羽根の刺繍にまでクルーウェル先生のこだわりがつまってんの
なんか手伝いたいって?なら、頑張ってるオレを労うのに肩でも揉んで。じゃ、今から30分よろしくー
似合ってるって言ってくれよ?
あーもう、普通に緊張するんですけど!どうして妖精って、こうも勝手なヤツが多いわけ?
さあ、お集まりの皆様! ここからは瞬き厳禁。最後までどうぞお見逃しなく
Vignette
Part 1:
ヴィル: ストップ!2人とも、そのまま止まりなさい。 ヴィル: ウォーキングは脚だけで歩こうとせず、骨盤を太ももの上にのせるイメージで。何度言わせるのかしら。 ジャック: ……すみません。 シルバー: 難しいな……。 ヴィル: はあ……寮の用事で少し席を外すわ。 ヴィル: その間、しっかり自主練すること! ヴィル: サボったり手を抜いたら承知しないわよ。戻って来たら成果を確認するから、そのつもりで。 エース: ……こんな調子で、大丈夫なのかねえ。 エース: 女王��乗り気にさせるには魅力的なショーをしなきゃなのに、雲行き怪しすぎるんですけど。 リリア: 大変そうじゃのう。見てる分には面白いが。 エース: わっ!? ……リリア先輩?え、いつの間に入ってきたんすか? リリア: くふふ、すまんすまん。驚かせるつもりはなかった。 リリア: 凍える寮生たちの対応でごたごたしておったんじゃが、ようやく時間がとれてのう。 リリア: 練習に励むシルバーを応援してやろうかと思ったんじゃ。 エース: へ~。ゆっくりすりゃいいのに、わざわざポムフィオーレまで来るなんてやさしーっすね。 リリア: それはお互いさまじゃろう。あの2人の練習を食い入るように見つめおって。心配で仕方ないか? エース: そりゃ心配にもなるっしょ! オレたちみんな運命共同体なんっすから。 エース: 見てくださいよ、ジャックのあの動き。 エース: 緊張してるせいか、いつもの運動神経の良さからは信じられないほど酷いザマ。 リリア: ふーむ……確かに。見ていると何かを思い出す独特な動きじゃのう……。 リリア: あ! わかった。頭をぶつけた鳥じゃ! エース: 頭をぶつけた鳥!?見たことないのに想像付く絶妙な例え! リリア: 足元がフラッフラしてるのに真面目な顔してるからギャップが……ぷぷっ! エース: 言われてみると、クロッケーで目を回したフラミンゴそっくりだわ。 リリア: フラミンゴか。照れてちょっと赤くなっている可愛らしいところなんか似てるかもしれんのう。 エース: そうそう、それ。ジャックくんってば照れ屋で困りますよねえ。 リリア: いやいや。初々しくて良いではないか。 リリア: よく見ると、シルバーも慣れない体勢で脚がプルプルしておるな。ヤツが幼かったころを思い出すのう。 リリア: いくらでも眺めていられそうじゃ。 ジャック: ……チッ……2人とも好き勝手言いやがって……完全に楽しんでやがるな。 シルバー: ジャック、集中を乱すな。 ジャック: あ、はい! ……無視だ無視。外野は気にせず、落ち着いてやるぞ……。 ジャック: よし、今度こそ……膝を伸ばして優雅に、骨盤を太ももの上にのせるイメージで……。 エース: ジャック、大丈夫か~?まっすぐ歩けないなら支えてやってもいいぞ! リリア: 表情も硬いの~。ショーなんじゃから笑顔でやらんか。ほれ、スマイル! ジャック: 無視……無視……! リリア: おお、なんと前衛的な振り付けじゃ。右手と右足が一緒に出おった。 リリア: 動きの硬いシルバーと合わせると、ロボットダンスのようである意味新しい。それが狙いか? エース: 2人とも緊張しすぎ! ほらほら、もっとリラックスしないと〜。 リリア: そうじゃ、スマイルスマイル! ぶすっとされてちゃチケット料は払えんぞ。 リリア: 金返せ~! 1マドルも払っとらんけど。 エース: そーだそーだ、この前貸してやったノート代返せ~! ジャック: うるせええええ!!!! ジャック: なんなんだ、てめーら!邪魔するんだったらどっか行きやがれ!! ジャック: だいたい、ノート代はその日のうちに返しただろうが!! ��ース: あれ、そうだっけ? ジ���ック: なんで貸したことは覚えてるのに返されたことは覚えてねぇんだよ! シルバー: 落ち着け、ジャック。論点がずれてるぞ。 ガラッ! ヴィル: 廊下にまで大声が聞こえてきたわよ!!!!! ヴィル: アンタたち……練習サボって遊んでたわね……? ジャック: ち、違いますよ! ジャック: 俺たちはちゃんとやってたのに、この2人がしつこく野次飛ばしてきたんす。 リリア: わしらはお主らの緊張を解いてやろうとしてたのに…そんな言い方されてショックじゃぁ……。 エース: うわっ、泣かした~! オレらせっかく応援してたのに……ジャックくんサイテ〜。 ジャック: 完全にウソ泣きじゃねぇか! ジャック: くそ……ただでさえ上手くいかなくて困ってんだ。これ以上面倒をかけさせんな。 ジャック: ヴィル先輩、シルバー先輩、すんません。すぐにつまみ出しますから。 ヴィル: そうね。練習を止められるのは迷惑だし。 リリア: ふうむ……困ったのう。もう少し見ていたいんじゃが。 エース: ま、オレは暇つぶしにはなったから、つまみ出されずとも別んとこ行くわ。それじゃあ、頑張れよ…… リリア: そうだ! エースよ、ここはひとつ、ウォーキングの手本を見せてやるのはどうじゃ? エース: えっ? て、手本?
Part 2:
リリア: そうだ! エースよ、ここはひとつ、ウォーキングの手本を見せてやるのはどうじゃ? エース: えっ? て、手本? ジャック: へぇ、いいじゃないっすか。やってみろよ、エース。 エース: はあ? なんでオレが! ジャック: おいおい、ここまで煽っておいて自分はやらねーって?そんな我が儘通ると思ってんのか。 ヴィル: はあ……こんな空気じゃまともなレッスンもできない。 ヴィル: 一体感を生み出すためにも、リリアの言う通り一度エースに参加してもらうわ。 シルバー: エースのパフォーマンスか。楽しみだ。勉強させてもらおう。 エース: ええ〜、嫌ですよ。司会役のオレがわざわざウォーキングなんてする必要ないでしょ。 リリア: エースよ。ジャックに侮られたままで悔しくはないのか? リリア: ここはバシッと、ヤツらを見返してやれ! エース: いや、別に悔しくないんですけど……。 エース: つーか、リリア先輩はどっちの味方なんすか? リリア: お主に決まっておるじゃろ。ほれほれ、早うせい。 エース: はいはい、やりますよ。 エース: えーっ。自信ないんだけどなあ〜。 ジャック: ははっ、楽しみだ。うまくできなかったらすぐに野次を飛ばしてやる。 エース: ……それじゃ、いきます。 ジャック・シルバー: ……!! リリア: ほう! ヴィル: ……重心がぶれず、膝も無理なく綺麗に伸びてる。なかなかやるじゃない。 エース: ……ま、こんなもんかな! エース: どうすか? みんなのリアクションを見るに、けっこー上手くできた感じ? ��ィル: そうね。多少は粗もあるけど……及第点には達してるわ。 エース: ははっ、どうもでーす。 ジャック: おい、エース! なんでそんなに上手く歩けるんだ? シルバー: 過去にモデルの経験でもあるのか? エース: ないない。ウォーキングもこれが初めてだし。 ジャック: じゃあ、なんで……! エース: なんでって、簡単だろ。さっきの練習でヴィル先輩がおまえらに言ってたことを、実践しただけだし。 エース: あの内容を聞いて、こんな感じかなーって考えてやってみただけ。 ジャック: は……? リリア: くふふ。話を聞いただけで、あっさり実践できてしまうとは、器用じゃのう。 エース: これくらい、すぐできますよ。 エース: むしろ、ヴィル先輩があんなに教えてくれてんのに、なんでできないの? って不思議なぐらい。 エース: でもまあ、褒められて悪い気はしないかな。ありがとうございまーす。 ジャック・シルバー: …………。 ヴィル: わかった? アタシは別に難しいことをアンタたちに求めてるわけじゃないのよ。 ヴィル: まあ、エースが器用っていうのもあるかもしれないけどね。 エース: さてと。これで文句ないでしょ?オレはそろそろ行きますわ。 リリア: おや、もういいのか? エース: 言ったじゃないですか。暇つぶしになったって。 エース: オレもなにかと忙しいんでいつまでも恥ずかしがり屋のジャックくんの面倒は見てらんないかな〜。 エース: そんじゃ、お疲れさまで~す。 リリア: おー、またな~! ジャック: く、くそ……エースなんかに負けてられねえ!絶対にウォーキングを完璧にしてやる! ジャック: ヴィル先輩!もっと厳しくご指導お願いします! シルバー: そうだな。俺たちはまだエースには及ばないが、努力でカバーしよう。 ヴィル: そう意気込まなくても、あれくらいの差なら、真面目に練習すればすぐ埋められる。 ヴィル: ……でも、いい刺激になったみたいね。 ヴィル: 休憩は終わりよ。ほら、練習再開! ジャック・シルバー: はい! リリア: ふむ……2人とも、なかなかいい表情になったのう。 リリア: なるほど、ずいぶん不器用な“応援”じゃな。 リリア: くふふ。 エース: はー。軽くちょっかいかけるだけのつもりだったのに。オレもやることになるとは思わなかったわ。 エース: ま、あんだけ煽ればあの2人も安心かな。もともと馬鹿真面目な面子だし。 エース: オレの出番がちゃんと来るように……しっかり頼んだぜ?
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続��ている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商��誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。

ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)

僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)

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冷や飯を食わされ続けた政治家が、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して権力を握ると、「恨みはらさでおくべきか」という心境になるのもよくわかる。 新首相は、暗殺された元首相・安倍晋三を「国賊」呼ばわりして処分を食らった村上誠一郎を重要閣僚に据え、最盛時には100人を数えた旧安倍派からは誰一人として大臣にも党四役にも登用しなかった。絵にかいたような「報復人事」で、ここまで徹底する��かえって清々(すがすが)しい。 もし、石破が「悪党政治家」だったなら、このような人事はしなかっただろう。「悪党政治家」とは、拙著「政治家は悪人くらいでちょうどいい!」(ワニブックス)で詳しく書いたが、「あらゆる手練手管を使って国家権力を握ろうとする強い政治家」のことである。吉田茂や岸信介、田中角栄といった政治家をイメージしていただきたい。 彼らが、いま新総裁に就任したなら人気のある高市早苗を幹事長に、小林鷹之を重要閣僚に起用して総選挙と来年夏の参院選を戦い、終わったところでお役御免にしていたはずだ。あるいは、40歳代の小林だけ抜擢(ばってき)し、ライバルの高市を孤立させる策を採ったかもしれない。 12年前の総裁選で石破に逆転勝利した安倍は、大嫌いだった石破を幹事長に抜擢して挙党態勢を演出して政権奪還に成功した。政権基盤が安定してから彼を幹事長ポストから追い出し、徐々に力を削いでいった。 そんな芸当は、彼にはできなかった。結果として「石破人事」は、自民党を完全に分断した。 旧安倍派はもちろん恨み骨髄だろうし、高市や小林の両陣営で積極的に働いた面々も政権にそっぽを向き、かつての石破のように「党内野党」として鋭い言葉の刃(やいば)を首相やその取り巻きに投げつけるだろう。 もし27日投開票の衆院選で、自民党が敗北すれば、党内抗争が激化するのは必至だ。だから、新総裁は党内融和に腐心すべきだ、という陳腐な能書きは言わない。 「高市現象」は世界的潮流 他社のある先輩記者は、高市を「キワモノ政治家」と表現したが、自民党員の3割が支持した彼女は、もはやキワモノではない。 トランプばかりではなく、オーストリアでは、極右政党が第1党となり、フランスではルペンが大統���にあと一歩まで迫っているように、「自国第一主義」を掲げる政党や政治家が大きな支持を集めている。 自民党総裁選での「高市現象」は、富める者はより富み、貧しき者はより貧しくなっているグローバリズムの行き過ぎを是正しようという世界的潮流を反映したものだ。 来年、結党70年を迎える自民党に大乱の予兆がみえる。
「自民大乱」の予兆が見えた! 「悪党政治家」ではなかった石破茂 大手町の片隅から 乾正人 - 産経ニュース
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式典05
ホールで射精を続けるヒーローたちもそろそろクライマックスを迎える頃だろう��。
「い、一体、何が起こっているんだッ!」
ヒーローたちが、ペニスから吐き出し続ける『それ』は、彼らの身体を少しずつ這い上がっていく。『それ』に侵食されて、彼らのインナースーツは、徐々にクリーム色に染まっていった。
ドロドロした粘液が、腹を這い、迫り出した逞しい胸筋の谷間を伝い、喉元に到達する。 『それ』がどこを目指しているのか、ヒーローたちは勘づき始めている。しかしどうすることもできない。 インナースーツはそれ自体がもはや布の体裁を保っていなかった。全体が粘液の膜で覆われており、身体を動かそうとするたびにネバネバと糸を引き、ヒーローたちの動きを強固に封じている。 ヒーローたちはなすすべもなく、身悶えながら無意味に足掻き続けるしかない。
『それ』は、ヒーローたちの首筋を伝い、ついに頭部に到達する。ヒーローたちは必死に顔を逸らそうとするが、当然逃れることはできない。 抵抗虚しく、『それ』はインナースーツがカバーしていた本来の領域を超えて、ヒーローたちの頭部を丸ごと飲み込む。激しくもがこうとするたびに、身体を覆う粘液が大きく波打ち、その動きを抑え込んでいく。次第に必死に抵抗していたはずのヒーローたちの動きは緩慢となり、『それ』も本来のインナースーツのような質感に落ち着いていく。
頭部を含めて、文字通り全身がタイツのような『それ』に塗り固められ立ち尽くすヒーローたちの姿は、まるで大量に並べられたマネキン人形のように見える。 一般人向けのマネキンではなく、筋肉質でヒロイックなヒーローを模ったマネキンだ。しかし、その静寂は長くは続かない。ホールに並べられた大量のマネキンたちが、ひとつ、またひとつと震え始める。頭部を覆っていた『それ』は再び波打つと、ヒーローたちの耳や鼻の奥へと勢いよく吸い込まれていく。あたかも着床を目指して泳ぐ精子のように、乳白色の『それ』は彼らの脳を目掛けて進んでいった。
再びヒーローたちの顔が晒されたとき、彼らは一様に白目を剥いて、壊れた玩具のように激しく身体を痙攣させた。そして、ぎこちなく逞しい腕が動き、右手は額に擦り付けるようにして敬礼の形を取り、左手は自らのペニスを握って扱き始める。
彼らは、喘ぎとも認めづらい「あ」や「お」などの短い音を喉から発しながら、勃起したペニスを刺激し続ける。まさにボディペイントのような状態で、はっきりと形が分かる睾丸は徐々に持ち上がり始め、絶頂が近いことが分かる。
私は、自分の装着しているブレスレットに目を落とす。表示を確認した瞬間に、ブレスレットから乾いた通知音が鳴った。 それは最終洗脳処理を実行するかどうかの確認だった。 迷うことなく私は、ブレスレットをタップし、許可を与えた。
その瞬間、ホールにいるヒーローたちは、それぞれが身体を背骨が折れそうなほど弓形に反らせる。一拍の間を��けたあとに、彼らのペニスから白い迸りが一斉に放たれた。 果たしてそれが『それ』だったのか、それとも正真正銘彼らの精液だったのかは私にも分からない。しかし、その量と匂いの強さから彼らの陰嚢の中で混ざり合り、かき混ぜられて生まれた濃厚なクリーム状の何かだということは確かだった。
ホールは、ヒーローたちが放った体液で乳白色に彩られている。鼻を刺すのは強烈な精液の匂いと、むせ返るような男たちの汗の香りだ。
そして壮絶な射精を終え、ゆっくりと姿勢を正すヒーローたち。背筋を伸ばし、敬礼し続ける彼らの瞳は、正義への情熱を胸に宿すヒーローが持つ輝きそのものを宿していた。その精悍な眼差しは、壇上にいる私に向かって一心に向けられている。
その状態で彼らは、一斉に口を開いた。
「ヒーロー協会、ヒーロー一同ッ! 洗脳射精を完了しましたッ! 我々ヒーロー一同は、逞しく鍛え上げた肉体と魂、そして成熟した男性器の全てを捧げることを誓いますッ!」
一言一句、乱れることなく言い切った彼らは、決してマネキン人形などではない。彼らは、頼り甲斐すら感じさせるヒーローらしい精悍な表情のままで、自らの全てを私に捧げると宣誓しているのだ。宣誓の内容さえ除けば、限りなくヒロイックな姿を見せるヒーローたちに、私は満足して頷いた。
ヒーローたちのブレスレットの赤い明滅は止まっている。 そして、操作盤には「DONE」という言葉だけが静かに表示されていた。
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通うのをやめて久しいヨガスタジオにまた通おうと思ったけれど、心置きなく通えるインストラクターがどうにも見つからず諦め。家での筋トレを初めて20日くらい。服がゆるくなったし、体が薄くなった。お尻もまあるくなってきたし、骨盤底筋もばちばちに鍛えてみたら生理が3日で終わってびっくりした。後半、だらだら血が出るのがなくなった。すごい。
来月ハワイで着る水着も買った。彼とペアルックになるやつ。すごくかわいい。
腰回りと背中をもうすこし絞りたいので引き続きがんばる。
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愛の完成
あなたが殺してくれと言うので、それなら一緒に死のうよ、と返した。 その即座の返答が、あなたには意外だったのだろうか。少しだけ悩んだそぶりを見せてから、そうするかあ、と返事が来る。あなたがその返事を打ち終えるまで、「……」と表示されるメッセンジャーのトーク画面を見つめていた。ようやく覚悟が決まったらしい文面に、「やった、念願の心中だ」とわたしは無邪気に喜んでみせる。あなたの数秒のためらいはなかったことにしながら、努めて無邪気に。「ようやく一緒に死ねるね」と。たった数秒かけて打ち込んだだけのあなたのしょうもない覚悟、その覚悟なんかに何の意味もないことを察しながら、それでも努めて無邪気に、無表情のまま、文面だけは無邪気ぶって同調し、あなたのそのか細い不安の尻尾を捕まえて自分のものにしようとする。 それは醜悪な独占欲の行使だったが、やっと、やっと捕まえたと思ったのだ。死の匂いのする愛の場処に、ようやくこの人を引きずり降ろしたのだと。
*
「殺してくれ」と言われて、「一緒に死のう」と返す。その姿ははたから見ればまるで幼い茶番のようだが、まったく笑えも救われもしないのは、私たちがこれらの言葉を至極本気で言い交わしているからだった。 われわれの交わす言葉に嘘も虚飾もない。それは、数年来、知力の限りを尽くして言葉によってやりとりしてきた関係の守ってきた、唯一の約束だった。ほかに何も交わせないからこそ、それだけは決して破ってはならない約束。言葉という、そもそもが虚飾になることをまぬがれないツールにおいてその約束を結んでしまった以上、われわれは言葉の粗さによって生の実を歪めることを受け入れ、それによって隙のない盤石な関係を築き、「われわれの倫理」という誰にも踏み込むことのできない倫理領域を作り上げた。われわれはその倫理の国の薄い空気のなかで必死になってのたうちまわってきた。いよいよ酸素も足らなくなり、死んでしまおうと計画し始めたのだった。
息も絶え絶えになってしまった私たちは、本気でこんなことを言い交わして、しかし心に飼っている理性は、われわれがこの心中計画をどうしたって実現し得ないことを知っていて、あからさまに失笑してみせる。互いの頑強な現実的理性がストッパーを担っていることを、本当は互いにわかっていた。どんなに恋愛に苦しんだところで、それは形而上のものでしかない。狂おしい現実に適応するべく理知に従って生きている私たちは恋愛のためには死ねない。この甘い甘い心中計画は永遠に果たされない。わかっていながら、われわれの築いてきた強固な倫理の要求にあらがえず、一緒に死のうと言い交わすことになってしまった。 なんてやるせない愛の睦言だろう。システマティックに煽られた感情にすぎないこの睦言には、けれど倫理を成立させるだけの情熱と真意がたしかに燻っている。社会的な倫理と私的な倫理の相剋は、私たちを無様に苦しめた。どんなにこの愛の深みに沈み込んでみたところで、死をもって完遂することはできないだろう。関係が袋小路に入ったところで、信じたいはずの互いの言葉が空虚なものとして舞う、苦しいばかりの中途半端な共依存関係がわれわれをずたずたに傷つけていた。二つの倫理に引き裂かれているがゆえの、中途半端な共依存関係。
睦言が睦言に過ぎないことを知っている大人同士の、けれどもその寂しさがゆえに成り立つ、これは「完成された恋愛」だった。私たちのためだけに築いた二人だけの倫理が成り立たせる、何の澱みも、緩みも、破綻もない恋愛だった。言葉を拠り所として紡いできた関係は、それゆえ、互いの言葉への信用がなくなればあらがいようなく終わってしまうのだった。 一緒に死のうだなんてあからさまに陳腐でみっともないことを言い交わす羽目になってすら、私はまだあなたとの恋愛の甘い夢から覚めることができないのだった。関係して6年。交わしてきた膨大な言葉たちが溶け合って、私はとうに自分を見失っている。自分の大きな一部を、大きすぎる一部を、あなたに明け渡してしまっている。おのれの足だけではもう、立てなくなってしまっている。 わが半身となった者なしにはすでに歩くこともままならず、ようやく一緒に死のうと言い交わせても、言葉にすることでそれが土台不可能であることを理性でもって再確認するだけだった。一人で立てもしないが、二人で死ねもしない。おのれの一部を明け渡していると自覚することは、同時に、おのれの全てをあなたに明け渡すことができないと了解することであった。 あまりにも似すぎている者同士の、相互理解の深さが私たちを悲しみに追いやった。相手が私のために死ねないことなど、はじめからわかっていた。私が相手のために死ねないことも、わかっていたはずだった。
あなたは言う。「あなたはこの先、誰と恋愛をしたってどうせ深く傷つき続けるだろう。だったら、その相手はわたしであってほしいと、身勝手ながら、そう思うんだ。どうせ誰かに傷つけられるなら、わたしが傷つけたい。わたしでいいじゃないか。わたしに、傷つき続ければいいじゃないか」。 あなたは言う。「あなたが恋愛で傷つく相手は、これからもずっとわたしであってほしい。一生、わたしであってほしい。どうせつく傷ならば、その傷はわたしによるものであってほしい。でなければ、わたしは気が狂ってしまう。あなたがほかの男に傷つけられることを考えると嫉妬に狂ってしまう、暴力でもなんでも行使してあなたを独占してしまおうという虚妄に身を灼かれてしまう」。
あなたの言うことには一理ある、と思う。一理どころではなく、このわれわれの倫理に則るのなら、それだけが真実だと思う。あなたのその嫉妬心も独占欲も、人が抱くものとして、真っ当なものだと思った。それらは人が人に向ける感情の中でもっとも狂おしく、もっとも切実で、もっとも真剣なものだ。そして、あなたがそれを発揮できるのは、われわれの倫理の内側でのみだ。私はあなたの吐露したその切実さに絡め取られて、思う、確かに私にとっても、これからも傷つき続けるのであれば、その相手はあなたがいい。暴力的に独占されるのであれば、その相手はあなたがいい。 けれど、そうか。私はこの先も、傷つき続けるのか。私のもう一つの倫理がそれを拒もうとする。この叫ぶような痛みを受け取り続ける生を送るのか。あなたは、私が傷つき続けるこの世界から私を救い出してはくれないのか。そんな生を、私はずっと生き続けるのか。
あまりにも強固なわれわれの倫理に絡め取られて、すでにこの身は牢獄の囚人のよう。あまりにも寒く、あまりにも惨めだ。けれど実のところ、どちらかといえば、私のほうがあなたを牢獄に引きずり込んだのだった。私はそれに気づいていた。その責任を果たさねばならないと思って、あなたよりも数年早く、私は二人で死ぬことについて静かに腹を括ったのだった。この結末は死にしかないだろうと結論づけたのだった。 括った腹の、括った紐が緩めば、臓器が汚い床にぶちまけられるだろう。赤黒い腸が跳ね、痛めつけられて穴だらけになった胃がべしゃりと形を崩し、膵臓がそこに黄濁して積み重なる。そのグロテスクな光景を見てもまだ、あなたは私を愛するだろう。破裂した私をも尚、あなたは愛するだろうと思えるほどの骨がらみの恋愛を、私はしていた。渾身でもって。そうしてようやくその汚濁にあなたを引き摺り込んだ。
*
ぼんやりと、視力の落ちた目で自分の暮らす一人きりの部屋を眺める。輪郭は揺らいでしまって掴めないが、それでも色彩だけは判別できる。本棚に差す書物の色を選べないせいで、夥しい色が自室にあふれかえっているのがゆらゆらと揺蕩って見える。これらの色々の、すべてに生気が宿っているような気もするし、すべてが死んでいるような気もする。この景色がそのまま私の存在にも反映されていることだろう。私のすべてに生気が宿っているような、私のすべてが死んでいるような——こんなマージナルで危うい生を、これからもまだ、生きるのか。とうに限界を迎えているというのは、どんな言葉で訴えても誰にも正しく伝わらない。私だけが知るところだった。私だけが、つかみどころのない人生に膿んでいた。それはすでに、生ではなく死であるように感じられた。 このぼやけた景色は「完璧な恋愛」の代償だった。愛は命を削る。私の命は削られていた。あなたの命もまた、削られた。
心中の相談をしながら、あなたと私の感情はけっしてそこに乗ってはいない。ただ、理屈の上だけでの話をしてお互いを慰め合っているのだった。「死ぬの、どこがいい?」「東尋坊でしょう。遺体が見つからない場所がいい」「私もそう思ってた。身投げですね」「うん、そうしましょう」。 なんて空虚な会話だろう。私は唇の片方だけを吊り上げて笑う。ここにあるのは形式だけだ。私たちは間違いなく、何があろうと間違いなく、東尋坊で身投げなどしない。一緒に海の藻屑になることを選びはしない。倫理の強制力に従って口にしているだけだ。この会話すら、「あなたを深く深く、深く愛している」と告げるためのメタファーにすぎなかった。そこには形式だけがあった。 これほど陳腐でこれほど切実なメタファーもない。私たちは確かに、そのメタファーに乗せて、互いの思いを伝えあっていた。けれど、そもそもそこに載せるべき感情は、本当に存在しているのだろうか? わかっている。これは、心中というロマンティシズムに淫することもできないまま、ただ会話をつなげているだけの空虚なやりとりなのであった。愛と呼ばれる美しい交歓はすでに散ってしまって、私たちのあいだに残されているのは、責任、けじめ、矜持、昇華願望、そして諦めだけなのだとすれば、どうしよう。——愛って何だっけ?
*
私は知っている、あなたという人は、あまりにも歪なやりかたで、「本心」というものを置き去りにしながらこの世を生きてきた。その場の、場当たり的な誰かの要望に無我に応じることで生をやりすごしてきたあなたは、ここにきて、私の切なる終わりに対しても、いよいよ同じ態度をとっているのではないか。そして、私もまた同じであるからこそ、それに気づいてしまうのではないか。 当事者の私たちですら拾いきれないほどの数多の言葉を交わしてきたから、改めて語られずとも、あなたの生き様についてはよくわかっている。私が送ってきたのとは真逆の生をあなたは生きてきた。奇跡的なことに、互いの「愛」の定義だけが同じだった。だから愛をやれた。完成するまで、愛をやれた。愛は完成した。完成した愛は、そののちに、壊れようとした。
完成とは「それ」が永遠になることだと、語義の上で、経験の上で、ずっと信じていた。それなのに、完成した愛も齟齬によって破綻しうるのだとすれば、一体何を目指してゆけばよいのだろう。 私はすでに、何によってその完成した愛が罅割れたかを理解している。互いに抱えてきた二つの倫理の矛盾がそこに歪(ひずみ)を生じさせた。その罅を修復するだけの力が、もう私たちには残されていなかったのだ。6年という歳月で、あなたも私も、おそろしく老いてしまった。私たちにはもう、愛のために無理を押し通す力が残されていないのかもしれない。
私は言う。「あとはあなたを地獄に道連れにすることしかできない」と。その最後通牒に、あなたはもう何も言えなくなってしまう。 私は思う。人を愛することはこんなにも苦しい��とだったかと。人を愛することは、人に愛されることは、こんなにもままならないことだったかと。それでもあなたを愛していると。愛する人の手を離すことはこんなに苦しいことだったかと。あなたを愛することができない日が、もう二度と、こないでほしいと。一緒に死のうと言った時に、理性をかなぐりすてて、感情のままに、お互いだけを見つめあって、一緒に死ねればよかったのにと。
私たちが築き上げてきた美しい倫理によってすらそれが叶わなかった生を、これからどう生きてゆけと言うのかと。
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2024年3月、突然、身体が動かなくなって救急搬送され、呼吸困難に陥った朝ドラ常連俳優の小堀正博さん。感染症が引き金となる多発性の神経障害『ギラン・バレー症候群』であると診断。誰しもかかる可能性がある、難病だ。 『ギラン・バレー症候群』という名前を聞いたことがあるだろうか? 突然の脱力感に始まり、手足や顔面の麻痺、最悪の場合には呼吸困難に陥ることもある恐ろしい病だ。 俳優の小堀正博さんがこの病気にかかったのは、2024年3月。「それまでは健康そのものだった」という小堀さんを襲ったのは、突然の脱力感だった。 花粉症かなと思っていたら突然の脱力と呼吸困難 「2月半ばくらいでしたでしょうか。数日の間、微熱が出て、目やのどがイガイガする症状がありました。でも時季も時季だし、“ついに僕も花粉症デビューかな?”と思っていたんです。 僕は家庭教師の仕事もしているのですが、3月9日のオンライン授業中は手に力が入らず、ペンも持てなくなっていました」(小堀さん、以下同) 翌朝には38度台後半まで熱が上がり、夕方にはベッドから起き上がれず、トイレに這って移動をしたものの、そのまま動けない。慌てて救急車を呼び、即入院となった。 「救急隊を待つ間は不安で不安で……。到着した救急隊の方からは“感染症からくる脱力では?”と言われましたが、頭の中はハテナマークでいっぱい。訳がわかりませんでした」 病院で点滴を受けたが、翌日に容体が急変してしまう。 「朝方、呼吸ができなくなってしまい、ICU(集中治療室)に移されたんです。ナースコールも押せなかったことは覚えているのですが、そこから記憶は途絶えています。気がついたときには全身が管だらけでした」 ギラン・バレー症候群は、免疫システムが自分自身の末梢神経を攻撃することで起きる難病のひとつだ。まだ原因は十分に解明されていないが、感染によることが多い。 症状は、脱力感やヒリヒリ感、身体や顔面の筋肉の麻痺などで、小堀さんのように呼吸困難が起きる割合は患者の20~25%。まれに重症化し、合併症により3~5%が命を落とすこともある。 年代を問わず罹患する可能性があるが、特に成人男性に多くみられる。 治療では、早い段階で血液から抗体を除去する��血漿(けっしょう)交換』や『免疫グロブリン点滴療法』を行えれば後遺症が残りにくいと考えられている。 「僕の場合、緊急入院した病院に脳神経内科があったので、担当医が“ギラン・バレー症候群では?”と疑いを持ってくれて、すぐに治療ができたんです。 きちんと検査をしてからとなると、治療の開始が遅れるし、そこは本当によかったですね。ただ、急変するのは想定外だったようで、医師からも“ここまで一気に症状が進んだ例を見たことがない”と言われました」 幻聴や幻覚による不眠で神経がおかしくなり…… 何とか危機を脱し、意識が戻ったが、本当に大変だったのはそこからだった。 「少しだけ手を動かせるようになったのは、2週間後の3月末でした」 声を初めて出せたのは、そこからさらに半月後。それまではコミュニケーションはすべて文字盤を使っていた。 「病室のエアコンが寒いとか、ちょっとしたこともすべて文字盤を使わなければならないのがすごくもどかしかったです。顔の筋肉も麻痺しているから、表情で伝えられない。自律神経も乱れてしまって体温調節ができず、3月でまだ寒い日もあるのに身体の下に氷枕を5つも入れたりしていました」 同時に幻聴や幻覚の影響による不眠に悩まされる。 「神経がおかしくなっていたんでしょうね。その場にいない家族の声が聞こえたりするんです。自分の身体につながっている機械の音もうるさくて、夜中も1時間半ごとに目が覚めてしまう。 このころは治る見通しも立っていなかったので、頭がハッキリするにつれ“もう役者としてはおしまいだ”と考えてしまい、絶望感に苛まれました」 人工呼吸器を外して自発呼吸に戻れたのがゴールデンウイーク明け。そこから1日3時間のリハビリが始まった。 「少しずつできることが増えるので、リハビリ自体はつらくありませんでしたが、以前のように動けるとはまったく思えませんでした」 そんな中、家庭教師として関わっている生徒やその家族からの励ましの声が大きな支えになったという。 「僕の生徒さんは受験生も多いので突然、連絡が取れなくなって迷惑をかけてしまったという申し訳ない気持ちでいっぱいだったんですが、オンラインでメッセージを集める『WEB寄せ書き』をいただいたんです。とてもうれしかったですね。 教えるのも好きなので、俳優を続けられなくてもこの仕事があれば大丈夫だと思うと、気持ちも少しラクになりました」 そんな毎日の中、希望になったのが次の仕事だった。 「7月に広告の撮影が入っていたので、それまでに何とかしなきゃという気持ちだけが当時の支えでした」 撮影日から逆算して退院することを目標に定め、リハビリに力を入れた。 「それで身体も顔もかなり動くようにはなったのですが、やっぱり意のままに、というには程遠くて。演技に不可欠な表情が思うようにつくれないし、左半身の動きも悪いまま。俳優として現場に戻れるとは思えませんでしたね」 4か月以上の入院生活後、退院して��らは…… 途中、転院を挟みながらリハビリを地道に続け、4か月以上にもわたる長期入院の末、7月26日に退院。 しかし、体重は入院前と比べて13キログラム減。痩せたことでお尻の肉がなくなって骨が当たるため、痛くてトイレに座っていられない状態だった。 今は体重も元に戻り、主にオンラインで家庭教師をしつつ、週1回リハビリに通っている。日常の静的な動きならほとんど問題ない程度には回復したが、走ったりジャンプしたりするのはまだ難しいという。 「例えば、ゆっくりしか歩けないので、横断歩道は信号が青になった直後じゃないと最後まで渡れません。外出時は時間に余裕をもって出るようになりました。 今の僕の状態をわかったうえでやらせていただける仕事もあるし、まだ難しくてお断りさせていただくこともある。でも一日一日、できることが増えていくのはうれしいです。この調子で、ゆくゆくは何の制限もなく芝居ができるようになりたい。目下の目標はそれです」 病気の特性上、食事制限や行動制限もないそうで、徐々に以前の自分に近づいている感覚はあるとか。 「再発の可能性も、実はゼロではないそうです。だから感染症には気をつけないといけないし、担当医には食中毒を引き起こす細菌である『カンピロバクター』への感染には特に注意が必要と言われました。 でも、怖がっていたら何もできないので、無理のない範囲でリハビリと仕事を続けていきたいですね。ゆくゆくは趣味の野球が以前のようにできるようになりたいですから」 驚異的な早さで回復した小堀さん。ただ、中には後遺症が残ってしまう患者もいるのが、この病気の怖いところだ。 「僕はありがたいことにさまざまな幸運が重なり、ここまで回復することができました。 今もこの病気で苦しんでいる方やそのご家族から、たくさんご連絡をいただきます。回復した一例として希望となれるよう、これからもこの病気に関する発信をしていきたいです」 また、ギラン・バレー症候群は難病ではあるものの、日本では『難病医療費助成制度』の対象外となっている。高額療養費制度を使えば負担は減るものの、医療費は高額になる。 元気なときはピンとこないかもしれないが、事前にこの病気を知っておくことが自分や周囲の人を助けることにつながるかもしれない。 小堀正博(こぼり・まさひろ)●大阪府在住。2006年、映画『かぞくのひけつ』でデビュー。『舞いあがれ!』『おちょやん』『まんぷく』『べっぴんさん』『マッサン』などのNHK朝ドラやCMで幅広く活躍。並行してオンライン家庭教師の仕事にも注力 取材・文/遊佐信子
「花粉症かなと思ったら難病」朝ドラ俳優を襲った病魔、救急搬送と“幻聴”のリアルを聞いた(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
通巻第8070号
AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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CHRISTOPHER L G HILL - TURTLE (亀)
会期:2023年6月24日〜7月22日 開廊:土曜日12時〜18時
(Scroll down for English)
床の表面、絵画、ジョリス=カルル・ユイスマン著『さかしま』の装飾されたカメの甲羅。
地表の弧はまるでカメの甲羅だ。その内側だけでなく、張り巡らさた神経と、地表プレートを指の爪のように保護している。
カメの甲羅は一見すると一枚の覆いのようだ。まるでラミネートのように。しかしその曲線は極めて複雑な組み合わせによってつくられている。脊椎、骨盤、肋骨、ウロコからなる背甲。
水平な畳の表面には中断が宿る
甲羅干して石にまぎれて横たわるカメ
二次元の思考は三次元で立ち上がり(概念としても物理的にも)ふたたび精神の二次元世界へともどる。
革命は訪れては去りゆく
世界は別のものとなる。しわがれてまっ平に。
亀は道路に沿ってゆっくりとさまよう。白い破線をつくるその仲間たちに沿って・
平和主義者のカメ トレーラーのタートル 水平なカメ プラトンの洞窟/カメの甲羅 ジョリス=カルル・ユイスマンの宝石で装飾されたカメ 床を這うカメ ひっくり返ったところを仲間に助けられたカメ 内向的なカメ 河童のカメ ジャガーから保護されるカメ 積み重ねられたカメ まっ逆さまのカメ 宇宙を背負うカメ アボリジニのヨタヨタのカメ 逃げたカメ 円盤のカメ コキジバトのカメ ミュータントタートル 甲羅干しするカメ 幻想のカメ 幸運のカメ 金運のカメ 慎重なカメ イシガメ ノイローゼのカメ 『原始家族フリンツストーン』のカメ 長寿のカメ テラピンカメ 霊亀 蓑亀 ヤートル・ザ・タートル 楽器のカメ Total turtle パープルのカメ ウサギとカメ スープのカメ カメ島 ガメラ ゼニガメ フランクリン・タートル コトブキ 玄武 贔屓 ジチ=ミキナクのカメ 『ディスクワールド』のカメ ンベクのカメ チャーチー・ラファムのカメ ビーニーベイビーのカメ モックタートル
Translation by Hiroshi Ooka
CHRISTOPHER L G HILL - TURTLE
June 24th – July 22nd, 2023 Open Saturdays 12 - 6pm
The surface of a floor, a painting, the gemstoned shell turtle in Joris-Karl Huysmans' À rebours (Against Nature/Against the Grain)
The curved surface of the world is like a turtle shell, protecting its inside but also a system of nerves, and plates like fingernails.
Despite the raised curve of a shell being able to be read as flat covering, like a laminex, the turtle's shell is a complex and structurally a curve made up of vertebrae, pelvis, ribcage, and the carapace made up of scutes.
Horizontally the surface of the tatami mats has moments of interruption.
Turtles blend in with rocks sunning themselves.
The 2 dimensions of a thought come alive in 3D (actual and conceptual) and blend back into the 2D of the mind.
Revolutions come and go.
Worlds become other worlds, scrunched up, and flattened.
Turtles wander slowly along the road, their comrades painted over with white lines.
pacifist turtle caravan turtle horizontal turtle Plato's cave/shell turtle Joris-Karl Huysmans' gem encrusted turtle crawling on the floor turtle upside down made upright by their friend’s turtle introspective turtle kappa turtle. protected from the jaguar slow and solid turtle stacked turtle all the way down turtle a turtle earth Yorta Yorta turtle an escaped turtle a discus turtle wax turtle dove turtle teenage mutant ninja turtle sunning turtle fantasy a turtle fortunate a turtle money turtle patient turtle pond turtle shellshock turtle Flintstones turntable turtle long-life turtle tortoise terrapin turtle reiki turtle Minogame turtle Yertle the turtle instrument turtle total turtle purple turtle rabbit and turtle soup turtle island turtle Gamera turtle Squirtle turtle Franklin the turtle *90's cartoon Tortimer turtle Genbu black turtle Bixi Turtle Gchi-Mikinaak the great turtle Discworld turtle Mbeku turtle Churchy LaFemme turtle Peekaboo and Speedy turtle mock turtle
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231212 EXTRA
素直さを手に入れよう。オスは暗に明に人柱や生贄のポジションを期待されている。
生贄や人柱はその自己犠牲によって誰かを救うという点において「親」である。
オスは我儘な非オスの親である。本来強さは弱い仲間を護る為に行使されるべきもの。
だからオスの強さはより弱いものに食い物にされる為に備わっている。
自分はいずれ、いや遠からず娘からも空気扱い、ムカつくインフラストラクチャー扱いされるようになるだろう。親サイドがどんなに歩み寄ろうとも親が親ロールを引き受けている限りは子供は親の脛を骨までかじる。
スネをひとくちもかじらせないのが毒親。僕のスネは既に早くも白骨だ。弱いな。
食いでのない親だ。ハズレだな。
役立たずな生贄。敬うに値しない犠牲。
やば、コスり損しかない感情。
損だよこの感情フォーカス。畜生バカ脳。
いや、いやいやいや待て、今こそチャンス!
この心理状態から再び信頼感を高速で取り戻す技見つけたら孤独解消テクとして紹介できるじゃん。
ヒスは回避しろ。ひとつひとつの手続きの積み重ねが大事だぞ。
愛情コスト注いだものが自分を谷底に突き落としてきた、でもオッケイ! 自分飛べるし不死だし、的な結果オーライ汝ら罪なしテンション。でもそれバレたら民衆はガンガン自分を谷底に蹴り込む(それも弱さなので仕方ないし許すべきだ)から、復活後は名前変えて別人気取るのはどうだ?
なんか悪い方向にしか事態が転がらん気がするぞ。
自分が護ろうとしている子供的存在の頭が悪いと無限に悪辣ムーブ繰り返す。これは自分が子の立場になった際にそのままブーメランとして刺さる言葉だ。
くそ、バカ。レンダリングしろ身勝手に。理想の愛着対象を。その際現実の身勝手で自分をすぐ食い物にする弱い命とひもづけるな。理想は一緒に弱者に喰われてくれる親仲間、人柱仲間。
あ、そっか。お互いが「別の弱者に喰われ続ける」事で繋がり信じあえる仲もあるか。え、それ被搾取者同士が集まって傷の舐め合いする駄サイクルそのものじゃあ…
ま、いいじゃん。そこにある温みが本物ならさ。ハプバーだってハッテン場だってゆきずりの恋だってそこにある温みは本…
堕ちてる! 120%自傷入ってる‼︎
抜けられん、レベルがまだ低い。徳が低い徳が低い徳が低い
この状態で特定の温みにすがるとその対象に依存してしまう。それはセルフコントロールを失うリスク。だから分散依存を試みる。
複数ジャンルのエンタメやスポーツ的なものを用いてネガティブな甘えを上書きする。何はともあれ食事して散歩だろ。
快楽と信頼のコンボ切れたら食事して散歩。
暫くはリアル他者介さず過去の心地よいアーカイブと本から栄養摂取。
次に動物動画を手続き的に観る。ナショジオ的弱肉強食ネイチャー動画は観ない。途方もない気持ちになったらアウト。カメラを上空に上げすぎるな、SF的思考に逃げるな。
人間介した刹那的温み摂取は楽しいけどお金と時間かかるしリスキー。畜生それだとディスコのVCはハードルくそ高いって事に…
いや、自鯖作れよな、自サイトのように。まずはテリトリー作りだろ。これが精神安定の基盤作る上で必須の手続き。そこに人を呼べるようになりゃむっちゃ強い。
そう、自分もイラストカルチャーに居場所失ったと感じた時USTに城を作った。リアルに居場所がないと感じた時にこの日記を書き始め、FANBOX始動の準備とした。
そしてFANBOXでの交流を拡張する為のディスコ鯖を作り精神安定の基盤にした。
だいぶちゃんとやってるな。刹那的温みに逃げず、積み上げタイプの信頼築いて���思うよ我ながら。
やれる範囲でやれる事やってる。マネタイズできてなくとも格安で他者との建設的コミュニケーションする為のインフラ整えてる。各々が自分主導でそれをやればいい。
40過ぎて消費オンリーだと核家族化進んだ都市社会においては孤独が増すばかり。お隣の国と比べ親や年寄りは敬うものではなく貶すもの、という文化だからな日本は。
心の中に、揺るぎない芯を持とう。加齢や能力低下に左右されないしなやかで丈夫な
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みきくらのかい『夜曲 放火魔ツトムの優しい夜』昼回の感想
みきくらのかいの朗読に行ってきたので感想です。石田彰さんと三木眞一郎さんの2人の朗読。これはおきあゆさんにはまった人のブログで、この公演におきあゆさんは出演されていないわけですが、まあおきあゆさんにはまっていなかったら声優さんたちの朗読を観に行くこともなかったので、この文章の一文字一文字にはおきあゆさんにはまったおかげで面白い朗読を見られた感謝がこめられているということにしましょう。それもちょっと気持ち悪いか。
で、感想。
最後、放火魔野放し!?
序盤の女の子の台詞で「あなたの」付けた火では、って言っていたし、実はツトムが火をつけたのはあの女の子に導かれたあの場所だけでした(他の火事はツトムの放火だというのはツトムの空想だった)、みたいなオチまでもっていくのかと思ってました。というか、そうでもないと、放火と放火魔を情緒的に美化した野放しENDになってしまう。ツトムが火をつけたのではなく、ある意味では火をつけさせられていた、ツトムが運命に導かれ・利用された特別な夜のまぼろしの付け火だった、くらいまでもっていかないと厳しい。時差ぼけと暑さでぼけぼけだったうえに、それを検討するつもりで聞いてたわけではないので確かではないんですが、どうだったんだろう。
ただ、序盤の会話をとおして、この世界で周縁に追いやられている(人々に相手にされない新聞勧誘員で、しかも成績がよくない)キャラクターが唯一見いだしえた解放の瞬間としての放火という位置付けはきっちり打ち出されていたので、最低限はクリアされていたという気もします。ツトムは、社会の完全なるアウトサイダーではないけど、弾き出されかけている人。自分でそれを知っている人。だから、社会の「外」、日常の「外」の世界を経験することができる。そのために通過しないといけないゲートが放火。わかるはわかる。
物語で非倫理的な行為がおこなわれるとき、まず、物語上でキャラクターが抱えているものとその非倫理的な行為との関係を観客が理解できるかどうかがひとつのポイント。そのうえで、作品がその非倫理的な行為をどう位置付けるのかというのもひとつのポイント。ふたつは別のもので、私がひっかかってるのは後者ですが、今回の作品は前者をクリアしたことと、あとは全体的なテイストの力業でおしきった感があります。
脚本、全体に野田秀樹っぽさを感じました。日常のようなところから始まって、そこから非日常へ、非日常の世界の奥へ、謎へ、さらなる謎へ、謎の奥へ。謎が明かされる瞬間には、もう何も取り返しがつかない。なんにも。
アングラ演劇の気配も感じました。世界から弾き出された人に見えている世界と、だからこそ経験することになる物語。話は合理性の世界を離れ、時空はねじれ、言葉遊びにはハイカルチャーとサブカルチャーが混ぜこまれ、それが世界の厚みを増しながら、物語の核ではリアリスティックな日常ではありえない強い情念がたちのぼる。ツトムの放火、ぼんぼんのおぼっちゃんのふわふわな生きかた、部下のほうの武士の陰謀、射殺されたほうの武士の道ならぬ関係、規範を逸脱する人々がたくさん出てくる。価値観が揺り動かされ、性別も揺らぐ。魅力的な物語、魅力的な世界観、魅力的な上演だったと思います。
アングラからつながって、もっと古い演劇もちゃんとおさえてそうだなという印象もありました。高貴なトラジディから卑俗なコメディへの転換のあたり、シェイクスピアや歌舞伎のような古い演劇の系譜を感じさせるところがある。しかも、その転換に観客をちゃんとついていかせている。聞きかじりや雰囲気でやってるんじゃなさそう。みきくらのかいの作家のこと1ミリも知らないんですけど。声優さんたちのお名前だけでチケットを買って、何も確認せずに行き、何も確認せずに帰ってくる、雑な観客なので…。
全体的に、言葉や筋はこび、設定から感じられる演劇性がある。これ、なんか演劇っぽいねっていうふわっとした演劇性じゃなくて、あの演劇、この演劇、そういう演劇への理解がきっちり下地にあって作られてる朗読。その中でも今回の朗読で特により強く気配を感じ取れる野田秀樹やアングラ演劇といえば身体性ですが、別にそういう演劇にあるのは身体性だけじゃない。奇想天外な展開や言葉遊びのイメージの豊かさ、骨太の情念だってある。そういうものと朗読という形態は相性がいいんだって、今回初めて知りました。それに、野田秀樹やアングラっぽさを感じさせつつ、ただそれを朗読でやりましたっていう安直な脚本ではなくて、野田秀樹やアングラにあるものからいくつかの要素をつかんで、広げて、自分たちのものにしてみせていた。
それから今回の朗読は、朗読ではなくてもいい話を朗読でやっているというような、形式における怠惰さもない。この人たちで、このかたちの朗読で、これをやります、っていう姿勢があった。それだからこその面白さが、ちゃんと。この物語において、瞬間瞬間の関係や、深い情念の模様は、基本的には2人のキャラクターの組み合わせから生まれている。そうしたキャラクターの組み合わせがいくつもあり、そのひとつひとつが強く、そして他のキャラクターのものとからみあっていく。そのことが、朗読する人が2人だけの今回のかたちだと、演劇とはちがうやりかたで前に出てくる。いや朗読なので前後左右は言葉とパフォーマンスの中にしかありませんが。みきしんさんと石田さんのやりとりの中で、みきしんさんと石田さんのおひとりの演じ分けの中で、あるキャラクターともうひとりのキャラクターのあいだで結ばれる強い感情が強烈に立ち上がっていく。それぞれのキャラクターを演じる俳優がいて、そういう俳優たちが何人も舞台に出てきてしまうと、今回みたいな、ある意味俳優の身体に宿らないからこそ、ビジュアルがないからこその純粋な情念の炎は燃え上がらない。エンタメのつくりに説得力と納得感があったし、ただのポジションや肩書きの名前じゃない、創る人々としてのクリエイターの意志をちゃんと感じました。
構成も悪くなかったです。導入、転換、さらなる転換、という展開をとりながら、出来事の継���性と飛躍のバランスがよかった。そうやって向かう先も。非倫理的な日常から非日常へ、ファンタジーへ、過去との接続へ、時空をつらぬくほどの愛憎へ。もはや滅びた家、相続、忠義、でもよみがえれば人々の情念もよみがえる。消せるのは火だけ。
しかも、物語は「なんか…放火の話なの??」っていうところから700年をまたぐ情念の物語へ、秘めた情念の物語へととぐいぐい進んでいきつつ、まとまりもしっかりある。火をつけるときほんとに消えてほしいのはモノではなくその火が求められるほどの現実だということは、序盤のツトムの台詞から述べられている。そして最後に、あの女の子(脚本もパンフも買ってないので名前がわからん)の懇願のなかで、もう一度それが求められる。はるかに強く。脚本術の本を読んで真似してやってみました~とか、手癖でやりました~とかじゃない、2時間をつらぬく、時空をつらぬく、強い希求が描きだされる。火にしか託すことのできない、強い、人間の希求が。見ごたえがありました。朗読だから聞きごたえか。
声優さんの朗読イベントには、正直、「これを書いた人はラノベしか読んだことがないのか」と言いたくなるようなあっさい脚本(と人間なるものへのうっすい洞察と貧しいボキャブラリーとお粗末な表現力)の脚本もある。単純に、上演において言葉がどうはたらくのかをわかっていない脚本も。そうすると、舞台で、プロの俳優さんを使って、その場に集った全員の時間を費やすのに値するほどの力をもっていない上演になってしまう。今回の朗読は、そういうのとは一線を画してました。しごでき脚本。
そしてもちろん、地力のある脚本に呼応する声優さんたちがいた。「たち」と言っても2人ですが。声優さんのスキル、演技力、個性、才能、ぜんぶのせて、さらに遊び心もあった。これができるはずだという人に委ねて、受けるほうもその仕事をきっちりできる人たちで。脚本とキャスティング、公演のコンセプトがうまく実現するってこういうことなんだろうと思います。クオリティが高かった。いや、これをクオリティとは言わないのかもしれない。アーティスティックな意志と、信頼と、それぞれがやるべきことの達成。成功した公演だったと思います。
ヘロQのパノラマ朗読劇や今回のみきくらのかいような企画を見かけたときに、「お仕事で…さんざん読むお仕事をしてるのに…さらに自主的にも読むんですか!?」と思うことがあります。でも、この作品ならやる意味、意義がわかる。むしろ、これをやりたい人、できる人たちに、あれやこれやのチャラ仕事、「娼婦の声」仕事をやらせてしかも喜んでてすみませんまであります。もちろん、そのお仕事とボイスの幅も素晴らしいんですけども。私だって石田彰さんやみきしんさんの女子たらしこみボイスはそれなりに好きだし(この「それなりに」は自分が基本的におきあゆさんにどはまりしたオタクであるということから書き加えられたものであり、お2人の才能を限定するものではなく…)。というか他の声優さんでは「は?」となるところでも、お2人のたらしこみボイスには平伏するほかないみたいなところもあります。欲が深い。
石田彰さんの担当キャラクターで「殺したいなら殺せばいい」みたいな台詞がきたとき、「ヒエ~ッ!」ってなりましたよ私は。石田彰さんのボイスでなんという台詞を言わせる・聞かせるんじゃ!!と。そのあと「なんという展開にしてくるんだ!」という展開になって、その運命の激しい渦のさなかにあるキャラクターの叫びがみきしんさんによって語られる。なんとぜいたくな。ごちそうじゃないですか。ごちそうのような朗読でした。
都合9人(くらい?たぶん)を2人で演じて、さらに2人ともト書き的な文も読むので、ついていくのがたいへんといえばたいへんでした。ただこれはこっちの集中力と想像力の問題で、わかりにくくはないんです。むしろ、今回の公演の、観客への甘やかしと同義のわかりやすさは目指さないという手心のなさには、作り手から観客への信頼も感じます。これについてこられる観客のはずだ、という。そこもいい公演だなと思いました。いい企画、か。
声優界隈って、いろんな声音が出せることがそれだけで評価されがちな印象がありますが、演技の観点からいえば声音をさまざまに変化させることそれ自体は演技というより曲芸に近い。真に大事なのは演技だということが、今回の公演ではよくわかります。みきしんさん、「女の人の声」は出していないのに、女の人だとはっきりわかる。他の役のときと声の高さを変えつつ、その属性の女の人の口調、リズムや抑揚をしっかりつけたら、ちゃんと「女の人の台詞」になる。演じ分けることもできる。うまい、というか声の演技力ってこういうことですよね。
しかも、通常の演劇で一人の俳優が複数の役を演じわけるときには、声だけじゃなくビジュアルと体を使って役を切り替えるからもっと間が開くところを、声優さんの朗読は声だけでぽんぽん切り替えていく。2人ともテンポがよくて、でもそれぞれの役の声と口調、演技の一貫性にブレがない。さらに、複数のキャラクターの言葉をそうやって語り分けながら、ト書きにあたる言葉のときの引きかたというか抜きかたというか、ここは���葉のレベルがちがうっていうのの語り分けも明確。繰り出されるさまざまな言葉が、まさにそうあるべきようにきっちり、よどみなく、きまっていく。脚本にあるのは文字だけ、それを読み上げるのは声だけなのに。プロの声優さんの朗読劇。すごい。
演出はどうかなあ。ホールが大きかったんですが、話のスケールが大きくて(700年をまたぐ物語で)、話が扱う感情も大きい(死ぬの殺すのの物語)から、作品と会場の相性はよかったと思います。お2人とも黒のスーツで、それぞれテーブルと椅子、それだけっていうのもよかった。美術館で、絵を見せるためだけにシンプルな壁と広い空間があるみたいに、朗読を届けるためだけのシンプルな場。ただ、音読されるト書きにある物音、たとえば馬や弓矢のような戦場の音は、入れすぎると蛇足になる危険もある。照明も、空間が大きいから、ちょっと色を変えるだけでかなり大きく変化することになる。2人の朗読の力強さや豊かさ、明晰さがあるだけに、音と光の補足が蛇足に思えたところもあった気がします。が!2時間もあり、こちらは時差ぼけでぼけぼけだったので、音や光が目先を変えてくれるのに助かったのも事実。あれは蛇足ではなくやさしさだったのかもしれません。判断しきれない。
この前のヘロQのパノラマ朗読劇と、今回のみきくらのかいの朗読は、面白いくらいに方向性がちがう。ヘロQは、ビジュアルを盛り盛りに盛りながら、朗読であり続けるところに面白さがある。演劇ガチ勢じゃないからこその、funで無邪気なわくわくワンダーランド。みきくらのかいは、ずっと硬派で足場がしっかりしている。エンタメなんだけど(私に「ごちそうじゃん!」と叫ばせるほどに)、そのエンタメ性を生みだすための手つきは見事にストイック。演劇や脚本に関して、地力を感じる。ある意味手堅い。手堅さがないとたどりつけないところにたどりついてる。どっちも面白かった。当たりな公演をこんなふうに続けて見ることってあるんだ~という気分です。
おきあゆさんにどはまりしていなかったら、声優さんたちの朗読劇というジャンルの公演を観に行くことも、こういういろんな面白さを知ることもなかったと思うと、いっそ不思議な感じもします。やはりここは感謝か。
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