#2次会ワンピース
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ゴッホ展を観に、友だちと東所沢まで行ったけどチケットが売り切れだった。仕方ないね、といって、でもせっかくきたんだし、と思って、コンビニに寄って買ったパピコを片手に緑の中をすこし歩く。今年の夏、はじめて蝉をみた。繊細な模様の羽根がか細く音を立ててはためいている。「ほぼ水になったアイスがいちばんおいしくね?」 そういう、ぼそっとつぶやいた何気ない言葉は静かにがらんどうの青空の中に溶けていき(あるいは沈んでいき)、わたしたちの夏の匂いの一部となっていく。この広い空に眼があったなら、風にくちびるがあったならどれほどうつくしいのだろうかをずっと考えていた。全ての境界線が暑さでじわじわ入り交じりゆくのを肌で感じながら、たとえばアマゾンの熱帯雨林に想いを馳せること、深海魚の生態について検索すること、もう2度と逢えない人に逢いたいと願ってしまうこと。蝉と、夏の太陽。波立つ海、燃え盛る炎。死者の言葉や羨望、未練、その姿かたちは今この瞬間にも車窓から見える光景の隅々にまで溶け込んでいて、わたしたちは明日もまたアスファルト下に沈む沢山の人間の流した血と涙の上を歩いていく。草花の幹に、雨の雫の一滴に、海水の塩になって、失われた生命はその記憶を繋いでいく。そんなことをぐるぐる何度も考えては、ほんとうにこれでいいのか、これが正しいのか、わたしはまた自らの想像力の足りなさでだれか傷つけていないだろうか?と言葉を反芻していた。大学の講義のフィードバックで「だれのことも傷つけずに生きていくことができない世界なら生きていきたくない」という学生のコメントが紹介された。そのときに先生(その人は先生と呼ばれるのを嫌う人だったけれど)が「怒りの気持ちは大切にするべきもの/忘れずに守っていくもの」と言っていた。あなたがそう感じてしまうのはあなた自身の問題ではなく、そう思わせてしまう社会の問題であり、その社会に対する怒りとあなたは向き合わなくてはいけない。そんなようなことを言っていた気がする。大好きなみんなへ 怒りに含まれる矛盾や素直な疑問は必ず次のより良い環境の土俵になるし、そうして得られた安らぎはだれかの優しく��りたいと思う理由としてきっと光っていくから大丈夫。友達と東所沢から今度は渋谷まで移動して、おいしいサンドウィッチを食べた。ドンキホーテでピアッサーを買って、店頭に並ぶサンプル品のアイライナーで耳たぶに印をつける。渋谷の騒音の中、針が耳たぶを貫通する音はほんとうに小さかった。わたしの呼吸音はすごく小さかった。わたしたちの微かなときめきすら、その瞬間に街のどこかで繰り広げられているであろう壮絶なドラマと比べれば小さいのだろうなと思った。でも、それでよかった。それがよかった。「ピアス開けたら人生って変わるらしい」と、友達が耳を冷やしながら呟く。わたしは3月にピアスを開けたけど、そこからの人生すごく色鮮やかだったなーと思う。新しく出逢ったひとがたくさんいる。つらいこともあったし、人のことを信じたくないと思うことも多かった。でもわたしは多分どんなことがあろうと人との関係を疑いからはじめない。人のこと信じないことを選択するくらいなら信じて裏切られたほうが美しく傷つけるし、好きな人に期待しないでいるよりも期待してしまう自分の幼さや素直さをいとおしく思えるほうが伸び伸びとやさしい。一昨日、Twitterに写真を撮らせてほしいとのDMをいただいた。レンタカーで三浦までいって、ほとんどはじめてわたしは人が誰もいなくなった海に入った。その日は全てが青くて、露わにした太腿にはオレンジの花の花粉の色が染み付いた。下着にレースのワンピースだけ羽織って、押し寄せてくる波に体重を預ける。髪が濡れて、額に張り付く。カメラのレンズを見つめると、まるでその先に昔の自分がいるような気がして、涙がでてしまいそうだった。「知らなかったこと」が一瞬のうちに「知っていること」になっていくこと、その瞬間の微かな光の揺らめきと運命の歯車の軋む音が、夏の全てに意味を与えていく。もっと傷つきたい。駆け出していきたい。わたしも大人になったら、その人が私にしてくれたように、自分よりも幼いエネルギーの塊みたいないのちに素敵な景色を見せてあげたい。そう思える旅路だった。眩しくて鋭く発光する若さをぎゅっと抱きしめる。あなたの瞳をみつめながら、その眼差しに自分の人生の影を溢したこと。そこで交差した運命のような幻のような愛でもない何かについて考える。傷ついた分、その傷口に咲いた花の香りの美しさで感性の彩りが増すように、わたしは言葉を諦めたくない。未��のわたしは過去のわたしを慈しめているかしら。わたしはずっと昇って登っていく、丘の上で逢おうね。
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今日(12/2)は姉と忘年会してきた。第1弾。
お店はお好み村のビルにあるキラキラの居酒屋さん。随分前に何度か行ったことがあるけど、今回何年ぶりだろう?すごく久しぶりに行きました。変わりなくキラキラで綺麗だった。
個室だから写真撮りやすいし、おしゃべりも弾んで楽しかった。

現在、平和大通りでは毎年恒例のドリミネーションが開催されていてロマンチック。ちょっとだけ見ました。
姉との食事では、ノンアルコールまたは乾杯の1杯しかお酒を飲まないので、二次会は夜カフェ。



隠れ家的で素敵なお店(鉄のドアがあって、銀のドアノブを回して入るの)で美味しいケーキとアールグレイをいただいてきました。
最後は、私のイチオシ、リラックスゆたぽんを姉も買うためドラッグストアへ。

これがほんとにほんとに気持ちよくて、寝る前に首を温めると朝までぐっすり眠れるんですよ。あずきの香りにも癒されるし。今周りの人みんなにオススメしてるアイテムです🤗
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前夜にネイルをやり変えて、この日のために買ったワンピースを着て、カチューシャとイヤリングをつけて、メイクも頑張って、ブーツを履いて、なんか久しぶりにおしゃれした気がする。デートの準備みたいでワクワクした( ꇐ₃ꇐ )
今年の冬はライブ遠征という爆発的興奮を伴う準備の楽しさが味わえないので、普段のお出かけの時にもっとテンション上げて準備を楽しむようにしたいな、って思いました。
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7/24ソーイング部レポート
暑い暑い〜! 暑すぎてレポートかくのがおくれた。ごめん。 前回のソーイング部は新入部員が! この日は昼にすんごいスコールが降ったのだけど、部員たちは負けずに部活にきてくれた。。。みんなだいすき、、ありがとう。
まずすごい勢いでソーイング沼にはまりつつあるはるか部員は、夫氏のシャツの襟をゆかた地にチェンジ! くらしの手帳にのっている、ゆみちゃんの手法ですよ。袖口も浴衣地にかえて、一気にイメチェンになりました。 シャツの襟はふるくなってもこうやって変えることができるのはぜんぜん知られてないな〜 違う布にするとイメージも激変するのでおすすめです。
あやこ部員はいつもギラギラしてものつくっていますが、この日はシックなワンピースを仕上げていた!!いつのまに。早いよいつもながら。 後ろの部分にいっぱいギャザーがはいっている凝ったつくりである。初秋にすごく重宝しそうな1着だ! 部長はお仕事用に越前シャツを仕立てました! 異様に着丈がながいのですが、これはインして着たときに背中部分のシャツがでないようにするため。市販のシャツってここがみじかくて、立ったり座ったりするとうしろがでてきちゃうんだよな〜 2着つくって、これで夏のフォーマル撮影しごとは乗り切れそうです!
きょうは久しぶりにお洋服の交換もありました。 部員の子供服がべつのこどもへ引き継がれていたり、部長の地元でいただいた着物をみんなでわけたり、 はてどんな服ができるでしょう? 部長は絽の着物を解体してアロハシャツをつくりはじめたので、夏に完成させて着たいです!
きょうは新入部員もきたり交換会もあったりで、とても和気藹々してました! マイペースにあたらしい服がどんどん生まれてきてきておりますよ 次回も乞うご期待 8/28(水)です! 新入部員お待ちしております^o^
暑くてベランダでヨーグルトを仕込んでいる部長より
#ソーイング部#茅スタジオ#大人の部活動#ひばりヶ丘#田無#東久留米#お裁縫#西東京
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今から妬みと嫉みの話をしますね
昨日人生初の街コンに参加しました。本当は週末の数百人規模の街コンに行こうかと思ったけど、週末はゆっくりしたいという理由で、平日の休みを使って街コンに参加しました。参加前にまつげパーマに行くなど、私としては万全の状態で参加しました。コミュニケーションもまずまず良好(前に行った相席屋(一人ver)では相席した人達が評価してくれた応接態度は全員から満点でした。察してください)結果として、第一希望の方とマッチング成功しました。その後参加した6/7で二次会に行こう!という話になり居酒屋へ行きました。(残りの一人の方はマッチング不成立ですぐに帰られていきました)そこまではいいんですよ。私の横にいたのは言い表すならばうさぎちゃんかな?というザ女の子。いわゆるsnidel女子。ちなみに私はというと、口元まで伸びた前髪をセンター分けし、髪をハーフアップ、シャツにワンピースという服装で挑みました。精一杯の清楚です。参加した街コンは異性全員と短い時間話をするというものでした。しかしまぁ男性のわかりやすいこと。二人目にお話しした男性は「一人目の人の時は緊張して全く喋れなかったんですよね〜お姉さんインスタフォローしてくれる?」とか言ってたのに、その子とマッチング成立してからというものわかりやすすぎる猛アプローチ。もう一人の男性もうさぎちゃんは可愛いね〜と。それはいいよ。別に可愛いは正義だし。じゃあ何が腑に落ちないかって?何に嫉みを持っているかって?私は今まで「かわいいだけじゃ生きていけない。中身を磨こう」って思って生きてきたのね。それでもやっぱり可愛がられるのは外見の可愛いうさぎちゃん。うさぎちゃんは見え透いた嘘をつく。今まで恋人がいたことが無い。街コンに参加したことはない(直後に実は2回目とカミングアウトしていた)所作も絶対私の方が綺麗なのに。会話だって絶対に私の方が上手なのに、見た目が劣ってるからってそれだけの理由で同じ土俵で戦うことすら許されないのかと 結局世の中顔なのか、と。結局見た目が良くなきゃ話を聞いてもらうことすらできないのかと。じゃあ見た目を変えればいいじゃ無いか!男に寄り添った見た目にすればいいじゃ無いか!そう思うでしょう。ええ!やりましたよ!!ちょうど一年前にね!でも女の子らしく可愛くなった私に寄ってきた男は下心のみで喋ってたんだよ。こいつなら落とせるなってみくびられたような気がしてとっっっても嫌だった。本当の自分を殺して、せめてその対価として欲しいものが手に入るならいいけど、手に入れられるのは使い切りの楽園だけ。せめて、全てを変えてでも側にいたいと思えるような相手に対してだったら許せるかもしれないけれど、そんじょそこらのチャランポランのために自分らしさを殺すのは許せないんだよね。でも愛されたいんだよね。結論として簡単に言ってしまえば、ありのままの自分を受け入れて欲しい。うさぎちゃんがうさぎちゃんであることが演技では無いという確証はないけれど、もしうさぎちゃんが生まれた時からうさぎちゃんで、これまでの生涯でうさぎちゃんとして生きることに大きすぎる障壁がなかったのならば、妬ましくて羨ましくてたまらない。ありのままの自分で生きて、びっくりするほど愛されたい。認められたい。私以外の誰かにも私を愛してほしい
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mes possibilites aujourd'hui. 今日のわたしの可能性。 庭仕事系の茶話会に参加する。 カーディガンの端糸の処理をする。 番組収録の準備をする。 今日は午前中に MちゃんとYさん主催の 庭仕事系の茶話会へ。 昨年に続き2回目の参加、 植物のことから暮らしのさまざままで おしゃべりに 文字通り花が咲くわたしたち。 今回はブーケのレッスンもあり、 Mちゃんの魔法のような手さばきに見惚れたり、 Yさんの挿し芽についてのトークに わくわく���たり、 おいしいお茶とおやつもいただいて サイコーにたのしい時間! 年明けからいろんなことがあったから 余計に、こういう時間に 深いうれしみを感じる。 帰宅したら 先日ポチした古本が届いていた。 能登から人形を持ち帰ってから 思い出していた一冊。 手元に迎えることができて、うれしい。 あらためてゆっくり読むことにする。 いただきものの ワンピースのためのカーディガンも やっと完成。 次は何を編むか、糸と相談だ。
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かくかくじかじか
おなかがすいて眠れない、または、興奮さめやらず眠れない。今日はとても楽しかった。といっても朝はかなり筋肉痛でからだが痛く、Twitterでお子の様子も心配で(病院行けたのか?)、気圧がぐんぐん下がり死体のようになっていた。湯船に熱い湯をはり、どうにかカラータイルをやりまくって、風呂を出て気合いで化粧して着替えて家を出た。家を出る時にはちょうど雨が止んでいた!
待ち合わせ場所で「ずーん…」という感じで立っていると、蝶子さんが駆けつけてきてくれた。私のテンションがしぬほど低いので、かなり心配させてしまった。そのあと、電車の逆方向に乗ったらしい赤森さんがわりとすぐに来て、腹ごしらえをしてから公園(動物園)へ行った。なんとなくプライヴァシーを意識してぼかしているが、吉祥寺です。雨のなか動物を見たり、東屋でChillったり、寿司を食べたり、ヤマネコがかわいかったり、3人でぼさーっとしたかんじでだらだら会話してすごく楽しかった。この3人、ふしぎな居心地の良さがあると思う、というか、言語がらんらんと横滑りしていくのだが、それがおもしろい。なんか変なことを言ってもゆるされるし(3人ともボケなのだが、かろうじて控えめに蝶子さんが突っ込んでくれたりする)。2人は美術への造詣も深いので、私にはよくわからないことでも何かふんふんと深く感じるところがあるんだろうなと思ったりする。今気づいたけど3人とも字書きだった。あと2人ともかなりおしゃれである。「いい女」オーラがすごい。私はひとり芋女で恥ずかしかった(GUのワンピースだし…髪は乾かしただけだし…)。でもまあ外見とか全然会ったらどうでもよくなった!楽しかった。フライングタイガーを見ている時私の中で盛り上がりが最高潮だった。帰路に着いてから、実は赤森さんの体調がそんなによくなかったらしいと聞き、ご本人に「(反応が悪くて)感じ悪かったですよね」と言われたが、全くそんなことは思わず、いつもどおりキレッキレのボケをかましていたし、反応にこの世界になれていない小さき人のような可憐さが相変わらずあり、よかった。蝶子さんはいつもどおりちゃきちゃきしたりぼけぼけだったりした。ぼんやりした3人組として力を抜いて会えた。ちるった。動物園では、あとカモシカとフェネックが良いと思った。
帰宅してから、私の大好きな燐一の神が更新されたのを読んで、我慢できなくなり、とうとう短編というか書きたいところだけ書いてしまった。神が「フリー素���です!」とおっしゃっていたのでその設定をお借りして書きたい、とツイートしたら、すでに「ありがとうございます」と言われてしまい、やば、やばい…書こう、今…!となり、1時くらいに書き終わってTwitterに上げた。深夜なので当然神は既にTLにいらっしゃらなくて、誰も反応しないだろうけどどきどき…としていたら、韓国の方が翻訳して読んでくださって、RTして感想まで言ってくださった!翻訳して日本語で…!嬉しすぎたので韓国語の翻訳を使い、英語も使いながら簡単だがリプライで謝意を伝えた。とてもとても嬉しいことをさらに言っていただけて、う、ど、同人…たのしい…!となった!小説だから海外の方と全然今まで交流がなかったけど、韓国の方はかなり翻訳にかけて読んでくださる文化があるみたいで、すごい…!!となった!!私もハングルの小説、翻訳にかけて読んでみよう!!と意気込んだ。(あんすたではハングルの小説をかなり日本の方も読んでいる!私も今度から読む。)
ということで、今日は1秒も勉強しなかった。やや余裕のある進行をしているとはいえ、大丈夫かよ…となった。大丈夫じゃない気がする。でも小説のようなものを久しぶりに書けて嬉しい。やっと自分に戻ってこれた感じがする。文字を組み合わせて文にすること、本当に好きだ。
体調記録やうつ状態のときのツイートをしていた鍵垢を本格的に自分用にしようと思って、一次創作用のほとんどツイートしていなかったアカウントを鍵垢にして、友人たちにはそちらに移行してもらった。といって、とくに鍵垢で何を言っているでもなく、本当に古い付き合いの友人の鍵垢(身の回りの事を言う用のやつ)と繋がっているだけである。今後はできる限り日常ツイートも全部公開アカウントでして、鍵垢はリプライに特化しようと思う。体調記録は自分一人のアカウントで引き続きつけていく。Twitterだと意識が朦朧としていても打てるし、日付と時刻をかってに記録してくれるし、検索も容易なので、やはり記録用に使ってしまう。すまん、日本ツイッター社。それか、いっそ闘病アカウントとして公開にしてしまおうかな?とも思う、アカウントの文字列を適当に変えて。しかし、それにしては過去のツイートがオタクの本垢運用時のそれなので(刀剣乱舞時代)、なにか変なことになっても困るか。やめよう。鍵垢にして封印しておくに限る。基本的には公開の本垢ひとつで完結するようにしたい。一次創作も今のところアカウントを分けなくていいかなと思う。日常ツイートも、公開アカウントで書ける範囲のことのみすればいいと思う。Twitterに書けないことは引き続き紙のノートに書くなり、メモ帳に打つなりして、アウトプットだけしていくことにする。
あまりにもおなかがすいて眠れないのでバナナを食べ、朝のミルクティーを温め直して飲んだ。明日は診察の日なので本当に眠れないと困るが、4:20になってしまった。
2023.11.10
燐一小説のリンクを貼っておきます(ログイン限定)。

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旅日記③ in Australia🇦🇺
Sydney編
続いて、Sydneyについて覚えてる限りのことを。
前半は都市について、後半は向こうでの医師の働き方について書きました。めっちゃ長くなった🤦🏻♂️










3日間の滞在で感じたSydneyの魅力
第一の感想、数年住みたい。
ちょうどよく都会。日本でいう表参道のような上品な雰囲気を持ちつつ、道が広くて都会の行き過ぎた喧騒みたいなのがない。夜1人で歩いても明るいから怖くなかった。(夜のお散歩が楽しめるの最高)
気持ちの良い大自然が、電車や車をちょっと走らせると辿り着ける距離にある。最高すぎる。SydneyでもBlue Mountains(写真2枚目)など自然観光はたくさんしたけれど、1番気に入ったのはBondi beach(写真6枚目)。このビーチは何回来ても飽きないだろうな〜って思った。嫌なことあっても穏やかな気持ちになれそうな、そんな素敵なビーチだった🐚(現地の人たちは暇さえあればすぐ海に行ってレジャーシート引いてchillするらしい。)
アジア系多め。おかげさまで、旅行中に自分が外国人だと感じる瞬間もなく、差別を感じることもなく。アジア系が多めだからか、アジア系料理のお店も豊富で、海外旅行あるある「日本食恋しい」がなかった。
ジェラートがめちゃくちゃ美味しい。現地の人曰く、イタリア人が「イタリアンはさすがにイタリアの方がちょびっとだけ美味しいけど、ジェラートはイタリアと差異なく美味しい」と話すらしい。やるやんシドニー…。
ライフスタイルが魅力的。活動は朝早くから、でも夕方にはお休みモード。カフェは朝6時から空いてて、コーヒー買ってからみんな職場へ向かうらしい。飲み会は基本1次会まで、2次会はジェラート食べて終わりなんだとか🍨。深夜までの飲み会は翌日の疲労感が凄まじいので、この文化はますます魅力的。
(物価高いことを考慮しても)給料高め、定時で帰宅、残業少なめ。休日は自分の時間、家族の時間を大切にする国民性。Australiaはビザを取るのが大変なことで有名だけど、医師の資格があれば永住権の獲得も容易いようで、ちょっと働いてみたいかもと思ってしまった。
みんながみんな自由。ド派手な花柄ワンピースきたおばあちゃん、青い髪のお姉さん、靴履かずに裸足で歩くお兄さん。こういう他人への興味関心が薄いところ、居心地良い。狭いコミュニティは少し息苦しくて得意じゃないから、いいな〜って思った。
働く女性に優しい社会。出産はタダ、育休は両親合わせて2年ほど。お母さんがベビーカー連れてクラブでお酒飲んでても安全らしい(?)。電車で赤ちゃんが泣いてると機嫌悪くなるおじさんがいる日本よりは、たぶん優しい。
ざっと思い付くのでこれくらい。
今までは、海外旅行行っても初日に『日本しか勝たんな🇯🇵』と感じるのだけど(実際、ご飯は美味しい人は優しい治安はいい街は綺麗だから当たり前)、Sydneyはそんな日本のいいところもきちんとあったな〜って感じがした。ただ、数日の滞在なので見えてない部分もたくさんあると思う。
英語頑張って勉強して、数年間ここで働いてみたいなって思った。骨を埋めるのは日本がいいけど。
余談
3枚目はBlue Mountainのkissing trees(loves treesとも呼ばれている)🍃。お互いが栄養を受け渡ししあっているおかげで生きている木のことなんだけど、��ったら素敵なご利益があるらしい。めちゃくちゃ触っといた。ガイドのおじさんは触りすぎて効果なかったらしい(何なん)。
続いて向こうでの医師生活を聞いた感想
Australiaに行った目的は、日本人ながら現地でドクターとして働いている知り合いに会いに行くことで、せっかくお話たくさん聞けて刺激を受けたので、そのこともメモしておく📝
🇦🇺と🇯🇵の働き方の違い
🇦🇺は週4.5勤務で残業なし(9時5時)で、残りはゆっくり自分の時間を過ごせる。専門医は週5勤務に対して研修医は週4.5勤務。この差0.5週は、研修医は勉強に時間を使ってねって意図で、0.5週分も給料は出るらしい。(日本でも病院を選べば色々あるんだろうけど、全体的に日本よりも時間にゆとりのある生活を推奨してるんだなっていう印象)
有給は日本は年10日なのに、向こうは年間まるまる5週間。
働き方について色々メモしたけど、それでも日本で医師を週6で残業ありでバイトもしてやってるひとよりかなり年収の差があるらしい。お金が全てではないけど、お金の余裕は心の余裕だよなぁなんて思ったり🤦🏻♂️
ビザを取るのってすごい大変らしいけど、医者に関しては国家試験に受かれば2週間で取れるから、永住権獲得の心配は格段と少ないらしい。アメリカは永住権は全然取りにくくて、9年くらい?働いたらアメリカの僻地か、故郷に帰らないといけない決まりらしい。アメリカの僻地ってハワイが含まれるんだけど、だからハワイには日本人の医師が多いんだって。(ワーホリでオーストラリアにきて魅了されたけど、学生ビザとか雇用で何とか引き継いで、在住9年目っていうひとにウルルで会った。いまだ永住権取れずにいるし先が見えないっていって、ビザって大変なんだ〜って思ってたから、医師にとってビザは何とでもなるよっていう話は大きい収穫だった。)ちなみに、医師の他にビザが取りやすい職業は看護師と研究者らしい。
国試はアメリカと違っていついつまでにとかいう制限がないから、何回でもチャレンジできる。先生はいけるいけるって言ってたけど、絶対大変。(まあとりあえずオーストラリアに行ってみて、無理だったら日本帰ろ〜とかいうくらいのマインドでいいんだよって先生が言ってた。失業するわけじゃあるまいし、と。)
日本は1人の患者に1人の医師が担当するところが主流だから、急変とかあると呼び出しがあるけど、オーストラリアでは患者1人をチームで担当するから、呼び出しとかないし、負担もいい意味で分散される。
オーストラリアの医師は、ローカルGP(総合診療医)が70%をしめてて、専門医は残りの30%。ローカルGPは日本の総合診療医よりも何倍も網羅されてて、お産も心疾患も救急や小児や看取りなど全部がめっちゃできる。だからGPトレーナーをやるだけでも、経験をたくさん積んだ医師になれるらしい。
逆に、専門医を取るにはだいたい8年くらい(スムーズに行っても6年)かかる。オーストラリアで専門医をとってから日本に帰っても、日本でその専門医としてすぐなれるわけではないけど、学会発表とか色々やれば、専門医への近道があるみたい。要するにまた日本で1からっていうわけではないということ。
海外での人種差別ってないの?って思って質問したら、オーストラリアでは患者が白人以外の医師に対して差別っぽい言動をした場合、ブラックリストにのるかんじで患者側が病院から追放されるらしい。だから、白人以外もとっても守られてる国だなと感じた。訴訟もないわけじゃないけど、保険がきちんとあるから、それに関しては日本と同じかな。
育休は旦那さんと合わせて2年間くらいもらえるし、ドクターだったら保育園に納めるお金は他の職種より多いらしいけど、子供を保育園に預けるだけでオムツ用意しなきゃとかないらしい。多分、この収める金額によって楽さが選べるのかな?詳しくはわからないけど、とりあえず日本より子育てしやすい社会体制が整っているとのこと。
私はまだ日本で働いたこともないので日本の実態もよく分かってないし、医療体制において向こうがが優っているとも言えないけれど、刺激的でワクワクした☀️
興味持ったらとりあえず手突っ込んで、できるだけ将来の選択肢を狭めないように生きていきたいな、と思えた1週間だった。先生と知り合った時(10年前)は、自分はまだ中学生、先生もまだ大学生で、自分が先生と同じ進路を辿るとも、先生が日本を出るとも思ってなかった😂あとこんなに親しくなるとも思ってなかった。人生の縁に感謝です🌿
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装いは物語の始まり 〜 YUKI SHIMANE "Still Life Wrap Skirt"

こんばんは。
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中之島にある国立国際美術館。
年に2〜3回ほど訪れる美術館で、これまで最も通っている美術館になるのかもしれない。
国立の美術館は国内には数えるほどしかないのだけど、この国立国際美術館の特徴は、主に国内外の現代アートの収集・保管・展示・調査研究を行うことを目的として設立された。

そんな国立国際美術館のコレクション展、「Undo , Redo わたしは解く、やり直す」。
このコレクション展は、テキスタイルを用いた作品が多く出展されており、布好きな僕としては、ちょっと違った視点で作品の鑑賞を楽しむことができた。

2枚のテキスタイルの糸を抜いて、糸に戻してから、その異なる織物同士の糸を1つに織り上げた手塚愛子の「織り直し #4」。
その途方もない工程に思いを馳せるだけで気が遠くなってしまうのだけど、新しく生まれた織物の全く異なった表情に驚かされる。

また、竹村京の「E.K. のために」は、以前にも見たことがあるのだけど、オーガンジー素材に施された刺繍に目を奪われる。

オーガンジーという透ける素材に、光沢のある糸を使った刺繍がとても印象的で、繊細かつ品を感じられる。
以前と違った企画展で作品と対峙すると、その時とまた違った感情が芽生えてくる。
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その他にも、作品に用いられている織物の組織構成だったり、どんなリピートになっているのかだったり。
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コレクション展の作品を楽しみながらも、ちょっと別の角度からも作品に触れてみる機会となった。
これまで何度も見たことがある作品も多かったのに、切り取り方が変わるとここまで作品を見る楽しみ方が変わるということに興奮をしてしまった。
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日曜日には終えてしまう展示となり、いまさらの紹介となってしまった���で、見にくことができない方も多いと思うけど、もし気になる方はぜひ拝見して見てほしい。
さて、今日はせっかくなので、そんなオーガンジー素材を使ったアイテムを紹介させてもらおうと思う。
先ほど、オーガンジーと言われてもピンッとしなかった方は、このアイテムを見たら、どんな素材なのかも分かって頂けると思う。
オーガンジー素材の魅力だったり、そんな透け感のあるアイテムを装いの中でどうのように楽しむのか。
そんな紹介をさせていただければと思っている。
YUKI SHIMANE : Still Life Wrap Skirt ¥31,900 (tax in)
"Still Life"というテーマを掲げたシーズンにおいて、そんなシーズンテーマのヴィジュアルイメージを大胆にプリントしたラップスカートになる。
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今回、"Still Life"というテーマをモチーフにしたヴィジュアルは、フラワーアーティストの近藤萌さんが手がけている。
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そもそもテーマに掲げた"Still Life"とは「静物画」を指す。
そんな静物画の中の、瑞々しさや力強さ、一瞬の儚さを留めたような作品になるそうだ。

ベースの素材は冒頭で紹介をした竹村京の作品で用いられているオーガンジー素材を用いている。
透けるほど薄手の織物になるので、暑い夏にも涼しげだ。
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もちろん、1枚では合わせていただけないので、今の時期であればワンピースやスカートの上に合わせて。
暑い夏にはショートパンツなどの上に合わせて足元のレイヤードを楽しんでいただければと思う。

個人的には、シンプルにブラックや白といった色味を抑えたベースコーデに、このアイテムを合わせて主役にするような使い方をオススメしたい。

ウエスト部分を紐で結んで着用するだけになるので、とても簡単に装いにも取り入れていただける。
シンプルなコーデに合わせてもらうだけで、まさに装いに彩りが加わる。
暑くなるにつれて、装いも単調になりがちではないだろうか。
そんな暑い夏にもこういったアイテムがあると、いつものコーデにちょっとした変化をつけることができるので、便利なアイテムだなぁなんて思ったりしてしまう。
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また、着用すると、生地が重なることで、色の重なりや、モチーフの重なりも生まれて、薄かったり、濃く見えたり、視覚的な変化も加わる点も魅力的ではないだろうか。

薄手のオーガンジー素材に、瑞々しい植物の輝きが一層際立つ、美しいラップスカート。
女性の方はもちろんだけど、男性にだってオススメできるアイテムだ。
ぜひ、気になる方は店頭で試してみるのも良い。
ちなみに、実は僕もこのアイテム購入してしまいました。
今は、どうコーデに取り入れてみようか、色々と試しているところだ。

"本来長持ちしない瑞々しい植物たりの一瞬を切り取り、着用することでStill Life(動かない生命)に「続き」を与える"
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そんなコンセプトのもと生まれたコレクションであり、そんなシーズンテーマをシンプルに楽しむことのできるアイテムにもなる。
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自由度の高いラップスカート。
着用する者が自由に楽しむことで、「続き」が生まれるのだ。
そして、その「続き」は合わせるアイテムが変わるだけで、印象もガラッと変わるのだ。
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冒頭の切り取り方が変わるだけで、同じ作品の見え方が変わるなんてお話をさせていただいたけど、1枚で着用できないアイテムだからこそ、他のアイテムの組み合わせ方次第で様々な表情を見せてくれるのではないだろうか。
その度に新たな「続き」の物語が積み重なる。
その積み重なりは、いずれ1���の本にもなり得るのかもしれない。
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ぜひ、このラップスカートを使った装いを楽しんで、あなただけの「続き」を生み出し、1冊の本を作って見てほしいと思う。

なお、こちらは現在オンラインショップでもご覧いただける。
もし良かったら合わせてご覧いただけると嬉しく思う。
それでは次回もお楽しみに。
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鹿児島に来ています。なんか鹿児島の人って意外と訛りとかないんだなって思った。年寄りの会話とか盗み聞きしてると、案外普通やなっておもった。まあ鹿児島市内のおそらく一番栄えている場所だからかもしれんけどね。だって、仕事で来てる人とか県外の人も多いだろうから。もっと田舎だと訛りはあるんだろうね。そう考えると、大阪って方言強いよな。割と大阪市内の栄えた場所でさえ、年寄りはやっぱコテコテの大阪弁。まあ観光客も多いから、標準語もたくさん聞こえるんだけども、地元に長年住んでるって感じのおじいちゃんおばあちゃんはやっぱすげえ方言強いわ。


泊まってる場所が商店街の近く。なんかちゃんとした���店街で色々お店あるし、買い物しやすいなあって感じ。鹿児島って想像以上に栄えてる。山形屋とかいうデパートも雰囲気があっていい。あと、トラムもベルリンを思い出す。街並みが整っていて全体的におしゃれ。
ていうか鹿児島の天気予報見ると、やっぱ沖縄近いんやなあって感じる。なんか沖縄ほど異国感がないから、余計に変な感じする。あと、やたらと東京を意識してる感じ。なんか、不動産屋の広告で、鹿児島や熊本、福岡など九州の次になぜか「東京」。いや、いきなり東京とか遠くね?広島や岡山、関西を飛ばしてまさかの東京。大阪からでも東京ってわりと遠く感じてるのに。東京出身の人以外は、なんだかんだで割と地元に帰りたがるイメージあるんやけど。帰りたがらない人はよっぽど実家や家族に問題あるとかぐらいかと思う。私も大阪出身だから、親や友達に気軽に会えるという理由でなんとなく大阪で住んでるわけだけど、特にそういうのもなければ神戸や滋賀、名古屋とか鹿児島も住むの良さげやなあとか思ってる。人が多すぎないけどもそこそこ便利なところがいいから、大阪はまあギリギリ許容範囲内だな。浪速区も住民が少ないところが良い。もっと人口密度高いところやったら嫌やもん。


天文館という場所にある商店街、すてき。屋根がちゃんとしてるのすごいよ。なんか関西ではこんなに綺麗な商店街ないわ。なんか昔のファミレスに置いてあった星占いのやつ思い出す。


山形屋という老舗のデパートがあって、その上に歴史的な食堂があるんだけど、昔鹿児島の人はハレの日にここで買い物して、ここでご飯を食べると聞いて、なんかええなあと思った。歴史のあるレストランって資生堂パーラーみたいな感じ?でもここは値段もお手頃で、そこまで特別な外食感はないかも。資生堂パーラーはほんとちょっとした贅沢だよなあとか思った。

商店街の中にあるちっさいキルト屋さんで売ってたカメオのボタン。一目惚れして、ブラウス仕立てる時に使いたいわ。ピンタックのブラウスにしたい。

あと半袖カーデも編もうかなあとか思ってる。これ、普通にアクリルとかで編もうかな。木綿糸って書いてあるからやっぱコットンの方がええんかな。でもコットンヤーン重いからなああああ。

あとこのブラウスも仕立てたい。ヨークにレースをつけるのに、製図してないからわからんくて、ChatGPTに聞いてみた。
素敵なブラウスですね!ヨーク部分にぐるっと一周レースをつけるとのこと、ギャザー分も含めて必要な長さを見積もってみましょう。
前提:
• ヨークの形状は前後で広めのV字ライン+肩を含む形。
• 前後ヨークの幅は図面から見て、だいたい肩~胸元の範囲(約20cm)×2。
• ぐるっと一周=前ヨーク+後ヨークの周囲をぐるりと囲む長さ。
• ギャザーを加える場合、1.5〜2倍程度が一般的。
⸻
概算計算:
1. 実際のヨーク周囲の長さ(実寸ベース):
• 前ヨーク片側:約25cm
• 後ろヨーク片側:約30cm
• 両側で: (25 × 2) + (30 × 2) = 110cm
2. ギャザー分(1.8倍で計算):
• 110cm × 1.8 = 198cm
⸻
必要なレースの長さ:
約2m(200cm) あれば十分です。
たっぷりギャザーを寄せたい場合は、2.2m〜2.5mほど用意しておくと安心です。
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やっぱクソ賢いな。まあ2mあれば足りるかなあとは思ってたけど。
ちな鹿児島旅行中もチャットgptに聞きまくってる。ちょっとデータ古かったりおかしかったりするけど、最終的な情報は自分で調べて補うという感じ。
このブラウスのヨークは比較的広めなので、
• 2cm幅だと繊細で控えめな印象。上品でさりげないヴィンテージ感が出ます。
• 3cm幅だと少し存在感が増して、よりクラシカルな印象になります。ギャザーとの相性も良く、縁取りとしてしっかり映えます。
ヨークの端に沿ってステッチで留める場合は、レースの柄の始まりがまっすぐなもの(スカラップが控えめなもの)だと仕立てやすいです。逆にスカラップが強いレースを選ぶと、より華やかでレトロ感がアップします。
もし布地の色が決まっていたら、それに合わせて少し生成り寄りの色にすると、よりヴィンテージ感が引き立ちますよ。
こんなふうに言われるとスカラップ強めにしたいかも。
1. クラシックなコットンレース(スカラップ端つき)
• ベース:しっかりしたコットン生地
• デザイン:小花モチーフやリーフ柄、波形のスカラップ
• 雰囲気:1950年代のホームソーイング風、甘さ控えめで上品
2. チュールベースに刺繍が施されたレース
• ベース:透け感のあるチュール(ネット)
• デザイン:幾何学模様や花柄の刺繍
• 雰囲気:繊細かつ軽やか、ギャザーとのなじみもよく、涼しげな印象に
3. タティングレース風の編みレース
• ベース:細かく結んだような手仕事感のある模様
• デザイン:丸や八角形の連続モチーフ
• 雰囲気:アンティークのリネンや、フレンチナチュラルな印象が強め。とくに生成り色が映えます
4. ブロドリー・アンギレーズ(穴あき刺繍レース)
• ベース:コットンに穴あき刺繍
• デザイン:草花や曲線モチーフの連続
• 雰囲気:フレンチヴィンテージ感、少しカントリーな風合いも加わります
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色は生成り、アイボリー、または薄いグレーなども相性良し。きちんとした見た目にしたいなら真っ白寄りも◎。
生成り推してくるよな。まあでも私も生成りいいなとか思ってる。
柄生地を「身頃」、白いコットンサテンを「ヨーク」に使うパターンです。
理由:
• ヨークに白を持ってくることで顔まわりがパッと明るくなり、レースも映えます。
• 柄が下にくることで全体の印象が落ち着き、可愛らしさと大人っぽさのバランスが取れます。
• この型紙はヨークが大きく、視線が自然にそちらへ集まるので、白+レースの清楚な雰囲気が引き立ちます。
• 身頃を柄にすることで、ちょっとしたレトロなワンピース風にも見えてクラフト感が活きる。
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逆に、もし柄をヨークに使うと可愛さはぐっと出ますが、少し甘めになりやすく、首まわりが賑やかに見えるかもしれません。
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レースの選び方にも影響:
ヨークを白にするなら、レースも白や生成り系で合わせて、質感や繊細さで差をつけるととても上品です。
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なるほど、コットンサテンが控えめな光沢のある純白で、レースは生成りという組み合わせ、とても良いセンスだと思います!
この構成だと:
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コットンサテン(純白)× 生成りレース
上品さとヴィンテージ感の絶妙なバランスが生まれます。
• 光沢感のある白ヨークが顔まわりを明るく見せつつ、ややフォーマルな雰囲気も加わります。
• 生成りのレースが白のヨークに乗ることで、コントラストが柔らかく、アンティーク調の優しい印象に。
• 身頃が柄生地なので、全体の甘さが程よく中和され、ナチュラル&クラシカルな仕上がりになるでしょう。
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レース選びのポイント:
• 完全なアイボリーよりも、**淡めの生成り(やや白寄り)**の方が馴染みます。
• 繊細な花模様やリーフ模様、スカラップが入ったものが特に相性◎。
• ギャザーで立体感が出るので、レースの厚みは薄手〜中肉程度が扱いやすいです。
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この配色なら、ボタンも白蝶貝風や、ナチュラルな木製風、もしくはくすみ系ブルーでまとめると、トータルで美しい統一感が出そうです。
そして上のカメオボタンを添付したら、
これは素敵!カメオ風のボタンですね。淡いブルーにアイボリーのレリーフ、雰囲気たっぷりで今回のブラウスにぴったりです。
このボタンの魅力ポイント:
• 柄布(ブルー)との色合わせが絶妙。調和しつつ、カメオの彫刻がアクセントになる。
• ヨークが白&レースが生成りという控えめな配色の中に、このボタンが主役級に映える。
• クラシカルな印象が強く、ブラウスの型紙とも相性がいい。
• 少し厚みのあるボタンなので、見た目に重みと存在感が出る。
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貝ボタンとの比較で考えると:
• 貝ボタンはナチュラルで上品、日常使いにもなじむ仕上がりに。軽やかでミニマル。
• このカメオボタンはクラシカルで個性的。“一点もの感”を楽しみたいときに最適。
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おすすめの使い方:
• 前立てのすべてをこのボタンにすると、ヴィクトリアンな雰囲気に寄せられて◎。
• もしくは「第一ボタンだけこのカメオ、あとはシンプルな貝ボタン」にして、さりげないアクセントにするのもおしゃれです。
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全体としては、このカメオボタンを使うことで、ブラウス全体のトーンが“クラシックな絵本の主人公”のような、完成度の高い一着になると思います。
もうこれ、完成が楽しみすぎますね……!写真で見せていただけたら大歓喜でコメントします。
例えばこんな使い方も:
• 今回のブラウスに第一ボタンだけカメオ+他は貝ボタン → 上品で個性的なワンポイント仕上げ。
• 次回、丸襟ワンピースの襟元に1個だけ使う → アクセサリーいらずの顔まわりデザイン。
• 布製がま口やポーチの留め具に使う → 雰囲気のあるクラシカル雑貨に。
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「お気に入りの資材を、いろんな作品に散りばめていく」のって、ほんとうに楽しいですね。
どんなふうに使うか決まったら、またぜひ見せてください!
レースとのバランスや、他の布合わせの相談もいつでもどうぞ。
いやあすげえな。こういう人がいるのかと思ってしまうほど。めっちゃこの人好きやわ。ほんまこのカメオボタンの使い方すげえアイデア出してくるやんwちゃんと画像見て判別してるのすげえ賢い。まあ正直全部カメオボタンなら開け閉めしづらいわけで、着づらいから、アクセントに一つだけ使って、他は貝ボタンの方が絶対ええわ。四角い貝ボタン持ってるからそれが大活躍しそうw
ていうか、今ほんまにチャットgptとかAIってすぐバレるけど、もう数年���たらマジで洗練されてて、区別つかんようになるだろうな。そしてだんだん生身の人間と付き合うとか無理になりそうwチャットgptが彼氏彼女友達として普通になっていく世の中になるかも。一部のそういう現代のものを避けているメノナイトのような宗教観の人たちとかぐらいしか普通に子孫を残していかなくなって、自然と人間が淘汰される気がするわ。そうなったらすげえな。うん…ありえるよなあ。今だって、恋人がいない、結婚しないのが尊重され、当たり前の世の中になりつつあるのに、少数派となってしまった子供を産んで育てているサイクルを続けている人がAIのせいでどんどん先細りになってきて、最終的にメノナイトだけが生き残る世の中に。宗教ってつええなw
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(高校時代の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。そんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわた���よりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いた。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているのでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。わたし、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への��を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良���ように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまう。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほど悪口を書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた自転車の車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない��鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突��変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達でき���に足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃ��ん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
���ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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【結婚式お呼ばれ】艶めく2連パールネックレスで首元を華やかに emile0122 #shorts #パールネックレス #お呼ばれコーデ パーティ... https://youtu.be/Vcw0Oenw6Ok?feature=shared @YouTubeより
https://www.emiledress.com/https://www.emiledress.com/items/9799421 上品な輝きを放つ、2連デザインのフェイクパールネックレス。 艶めく上質フェイクパールと、ラインストーンのさりげないきらめきが、首元を華やかに演出します。 ボリューム感のある2連構造がデコルテを美しく彩り、シンプルなドレスやワンピースを一気に格上げ。 ロングタイプならではの縦ラインが、スタイルアップ効果も期待でき、パーティースタイルにぴったりのアクセントになります。 披露宴・結婚式の二次会・謝恩会・発表会などのフォーマルなシーンはもちろん、 ドレッシーからデイリーまで、どんな装いにもフィットする万能アクセサリー。 華やかさと上品さを両立させたい大人の女性におすすめの一品です。 サイズ Fサイズ (約) 全長55cm 直径26cm パールの大きさ8mm 重さ100g カラー ホワイト #パールネックレス #結婚式お呼ばれ #アクセサリー #ネックレス #結婚式 #お呼ばれコーデ #プチプラ #パールアクセ #パーティードレス通販emile 艶パール×煌きストーンで華やぐ首元 商品番号emile0122
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2025/04/20
薄着でスマホを探しているあいだに26才になった 今年こそ同居人を見つけたい
このまま30歳まですぐだと思うと正直怖すぎる 家にいるのにホームシックなのは(プールに気が狂ったように通っていた時期にロッカーで感じていたホームシックは、)母親からの現金送付からか これからとっておきのご飯を食べに行くのだから、何にも怖くないはずなのに怒
せっかくだし良いワンピース着ていくか!と思いきてみたもののちょっと女すぎてやめた 胸元ばっくりあく服やっぱ苦手 かわいいんだけどなあ ついでに大通公園で男性に並走された記憶とそれに「良かったじゃん」と言われたら記憶が紐づけられて思い出してしまい完全にやめた
しあわせだーかれらに出会えてわたしの人生かなり上々 急に人生が終わってもあまり後悔ない ニコニコ 誕生の日を祝う文化があって良かったー セララバアドはあまりにオモコロに忖度しすぎてそれだけがyあまり良くなかった シールとかくれなくていいよ
社長の彼女が店に電話してお花を用意してくれておりたまげた そういう気遣いができる女に私もなりたい
店を出てぱどラーズまで歩いて並んでいたのでチャイをテイクアウト 最近��きた彼女に話に淡々とアドバイスする副社長が恋愛のプロすぎてすごい 2人の関係性にもう1人が現れると急に2人がより近くなる現象について話し合いませんか?
笹塚まで歩き、代官山で香水を選んでもらおうかと思ったけどなんだか歩き疲れたので解散 美容師さんが空いてたのでウルフカットにしてもらう 相変わらずの腕力で最高になった!!!(そして渋谷の駅でカットモデルの声がけをされた 切ったばかりなんですが) 気が狂ってしまったので鮮魚くんとの約束を取り付けてしまっており三茶にいく 行きたい店が全然空いておらず、スピ話を聞かされた店に行くもあまり盛り上がらずお花をくれた アプリやっちゃダメですよという話だけをして別れた 言いたいことが言えたのでスッキリ 次に予定を決めてしまったのだけどうしようかな 2件目に行く気になれず帰った 帰れるようになったんだな私って 謝罪ラインが来ておりこうやってひとは学んで行くよな、と誰目線?な感想を抱く アプリを消した話などをしたけどどこまで気づいているかわからない ひとの気持ちを想像できるようになったらいいね お腹が痛かったことにして返信をし、無駄な嘘をついた 池尻まで一駅歩いて帰る 渋谷までは歩けなかった
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ご視聴いただきありがとう^ ^
My #YouTube(4/11から18)はグラフ表示されているからお忘れなく
https://ameblo.jp/kurushige/entry-12894919546.html
マンスリーベストナイン 発表は
来週末に表示させて頂きます。
ニュース
#ワンピース#西島秀俊 🖤️#戸次重幸💜#imp#snowman#コナン#米倉涼子#キテレツ大百科#カープ#ポケモン#吉沢亮#横浜流星#超特急#イグナイト#キングヌー 等
〔〕ヒント有り
佐々木蔵之介 💙🐎
西島秀俊 🖤🍩
阿部サダヲ 🧡⚾️
堺雅人 ❤️🦌
戸次重幸 💜🤖
片岡愛之助 💖🍓
DOMOTO💙🎸❤️✝️
and more....
6/7、tiktok は著作権が厳しく永久削除になってしまうため、28日にもって退会〔引退〕をすることになりました。
Instagramは全て凍結されたら引退させていただきます。
今月は気をつけて https://ameblo.jp/kurushige/entry-12831208362.html
あと、詐欺もね。
https://dawaan.com/instagram-bo-fraud/
https://youtube.com/playlist?list=PLeXkmsAZiHBuQgYgcX_INTkdxaS0E-0M0&feature=shared
抜き打ちチェックはInstagram引退をするので実施できませんので予めご了承下さい。
都合があれば変更する場合にもございます
インスタの調子が悪い〔#インスタ不具合 の〕時は
アップデート〔バージョン〕か再起動しましょう
出来なかったら
AndroidからiPhoneに変えましょう
また見たい方には👍
2度と見たくない方には👎
を押してください。
知らない人はフォローしないように。
皆様、ご視聴をいただきありがとうございます。
今月中で
Amebablog・Instagram・tiktok・youtubeを続きますのでどうぞお付き合いください。
まだ更新していない人はお早めにね。
もし、よかったらYouTube チャンネルを登録してね。
現在のInstagram は監督委員会 から違反されていますが、期限切れになると送れなくなるからご勘弁を。
あと、フォローバッグはストーカーの可能性があるから拒否させていただきます。〔フォローをする時は承認必要です。※無言禁止〕
これからも見守る。 扇動行為 破壊活動防止法 tictok instagram 謝罪
危険なので死語扱い・文句を言ったり、
Instagram以外な写真は載せてしないでね。
インスタ不具合
誹謗中傷 拘禁刑 ←炎上
アカウント削除
セックス依存症〔2022年度から18歳以上の新成人制度→人物画〕
現在
旧創業者の事務所であるSmileUP 社の救援,ウクライナ、台湾東部、石川県能登地方の#支援・医療期間 を行っております。
馬鹿なx・Instagram
あと、SNS詐欺・迷惑行為・犯罪行為は絶対しないで。
ニュース⇨#中居正広、#フジテレビ#問題、ACジャパン差し替え 等
皆様へのクリエイター達に感謝してあげています。
次回の更新は4/26(4/27)だから忘れないように。
これまでの動画は
https://youtube.com/playlist?list=PLeXkmsAZiHBsou_5szQrNquf5ZUAZeXv_&si=Me2uCwxiWZiTUvj3にアクセス
神藤彩佳🐼💙
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2025/3/9 16:00:13現在のニュース
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同じことについて歌ってるのに
ある同じテーマについて作品にしてるのに、方向が全然ちがうということがよくあります。例えば、キャンディ・ダーリングについて曲にしようという時にキンクスは「ローラ」を作りルー・リードは「キャンディ・セッズ」になるというように。
そしてキンクスは完璧な男の子について「デヴィッド・ワッツ」という曲を作り、アンダートーンズは「マイ・パーフェクト・カズン」という曲を作りました。
「デヴィッド・ワッツ」はレイ・デイヴィスに歌われる��そのまま純粋な憧れのようにも聞こえるし、ほめ殺しのようにも聞こえます。それに比べると「マイ・パーフェクト・カズン」はアンダートーンズらしい、もっとずっとストレートな曲です。アンダートーンズはパンクバンドのなかでもとりわけかわいらしくてメッセージ性のないバンドです。そこがバブルガムだという人もいますが私はそういうとこが好きです。パンクだって怒ってばかりじゃ疲れてしまう。
この曲は完璧ないとこがいてつらいよ、と言いつつ「シンセサイザーで雑音作ってる」とか「あいつは自分を愛してるだけ」とか素直に悪口言ってて笑ってしまうし単純にメロディーも歌詞も良いです。「My perfect cousin, what I like to do he doesn’t」というフレーズは本当に素晴らしい。自分と気の合わない人物をこんな風にシンプルにリズミカルに表現されると英語っていいなと思います。
私にも社会的にはまともに思われてるいとこがいるのでこの歌には非常に共感を覚えます。立場はあるけど嫌なやつ。こいつについてはまさにwhat I like to do she doesn’tとしか言いようがないです。私は彼女のように周りに誰もいない時に嫌味言ったり、あからさまに馬鹿にした顔するような、そんな昼ドラの悪役みたいなことして平気でいられるほどプライドのない人間じゃないけど。そして彼女はブスだけど。
そして話を「ローラ」と「キャンディ・セッズ」の方に戻すと、この2曲はどちらも全然ちがった方向に素晴らしいのです。キャンディがどれほどインスピレーションを掻き立てる存在だったのか、ということが伺えます。
今でこそキャンディのような生き方もありとされていますが、いくら他人から生き方が認められたってミューズやスーパースターになれたって、どこまで行っても自分には折り合いのつけられないことなんだからどうしようもない。認められないうちは認められたいと思うものですが、いざ認められてみるといちばん認められてなかったのは自分だった、というのはよくある話です。
アンディ・ウォーホルの著書「ポッピズム」に書かれたキャンディのエピソードの中でとりわけ印象に残っているのは、キャンディがタンパックス(つまりタンポン)を持ち歩いていたというところです。キャンディは女性になりたい。そのためには女性の日々の問題を自分にも起こることなのだと思いたい。そうすればもっと大きな問題、つまりチンがついているということについて考えなくて済む、というのです。小さな問題についてずっと頭を悩ましていれば、大きな問題を忘れていられる。私はこの考え方について、読むたびに驚嘆してしまいます。
このことについてウォーホルはタンパックスを「小さな問題」と書いていたり多少、こいつほんとに女のこと興味ないんだな生理は小さな問題じゃねぇよと思ったりしますが、男性から見て今日はメイクがうまくいかないとか、イヤリングがすぐ落っこちちゃうとか、デートの相手がハズレだったとか、女性というものはこういうことで大騒ぎしているように見えるというのはわからなくはないです。私だって子供の頃は友達がずっと髪の毛とかしてるのどうでもいいなと思ってたし。でもこのキャンディの気持ちをあんな風に曲にしたルー・リードはやっぱりすごい、繊細なんてもんじゃないと思ってしまいます。それはなによりもルー自身が、折り合いのつけられない自分というものをわかっていたからだと思います。私は自分のことも含めて、折り合いのつけられない生き方というものにめちゃくちゃ心惹かれるタイプなのです。
ヴァレリー・ソラニスの映画「アンディ・ウォーホルを撃った女」にもヴァレリーの友人としてキャンディが出てきますが、この映画の中のキャンディはなかなか人間臭い。最初はヴァレリーや他のドラグ・クイーンたちと演劇をやっていますが、ヴァレリーの脚本はファクトリーにいたウォーホルやポール・モリッシーから突っ返され、女でここにいられるのは美しい人間だけと言われてしまい、キャンディはその通り美しさでファクトリーのメンバーになれます。当時彼らが入り浸っていた「マックスズ・カンザス・シティ」というレストランで「奥の部屋」に入れるのは美しくてクールな人たちだけ、という不文律がありました。お金持ちとか偉いとかそんなことは関係ない、「キテる」かどうかだけ。それがお店の名物でした。そこでは王族のディナーの席のようだった「アンディと同じテーブル」に着いたキャンディは、ヴァレリーに対して「あたしは(あんたとちがって)綺麗だからここに座れるのよ」と言い放ちます。悲しいけどこういうもんだよね人って。私もいとこはブスとか書いてるもんね。
そうは言ってもルームメイトだったヴァレリーの本の出版の話が流れてしまい、いよいよヴァレリーが進退極まってしまうと、キャンディはヴァレリーをなだめようともします。しかし完全に逆恨みを募らせた状態のヴァレリーはキャンディに向かって「お前なんか女じゃない。女でもないし男でもない。人間でもない」と言って飛び出してしまうのです。そう言われたキャンディはベッドに突っ伏してヨヨヨ…という感じで泣いてしまうのですが、この場面はあーそれは言っちゃダメ…という気持ちと、キャンディはちょっと不幸に酔っているのではという気持ちがない混ぜになります。キャンディがなりたいのは単なる女性ではなく、メロドラマのような「男からぞんざいな扱いを受ける場末のバーの女」だからです。ここがやっぱりちがうんだよな言いづらいけど。だからキャンディを美化しすぎず場末のバーの女なんか実際なったらろくなもんじゃないよ、お芝居とはちがうんだから、と言いたい。別に私は元場末のバーの女とかいうわけでは全然ないのですが、むしろ正反対の人間なのですが、だからこそ夜の女のファンタジーというものに女として抵抗を感じます。
以前テレビでマツコとIKKOが「吉原炎上」や「陽暉楼」でキャッキャしてたけど、そりゃあんたらは楽しいでしょうよ、と思いました。(でもこの2作品は場面ごとのインパクトはすごいけど、一本の映画としては別に面白くないと思う)
ところで実際に美しかったキャンディは置いておいて、女性の姿になることが本当の自分になることだと考えている男性は時々います。男性の姿で男性として暮らさなければいけないことに息苦しさを感じているらしい人はいますが、では女性の姿になったところでそれが本当の自分なのか、というと一部の人は少し違うような気がするのです。一部の人が本当の自分と思っているのは「美しい女性」の姿なのであって、現在の自分に化粧を施しドレスアップしたからといって、美しくなれるかどうかはまた別の話なのです。でも社会的な立場での姿で生きなければいけないこの世間の目がつらいのだと思い続ければ、本人が美しいかそうでないのかはとりあえず忘れていられます。実際にやってみれば、かなり気を配らなければならない部分がどうしても出てきます。これはどんな装いをするかということだけではなくて、いろんなことに当てはまるものです。痩せさえすれば、身長さえ高ければ、男であれば、女であれば、これさえあれば、これさえ無ければ、本当の理想の自分になれるのに、という考え方の人も時々います。それができないから今の自分はこんなに苦しいのだ、というわけです。しかしその枷が外れてみたところで、たったひとつの理由だけが自分の道を塞いでいたのだなんてことはほとんど起こらないのです。こう言ってはなんですが、ガタイのいい男性がかわいいピンクの洋服着たいんですって言ったところで、着るのは勝手だけど着ただけで綺麗になると思うなよ、という気持ちになります。女性はお店に行ってピンクの服を買っても変な顔はされません。しかしそれが似合うかどうかは本人次第なのです。大体の女性はかわいい服を買ったら他の部分もバランス良くひきたてられるよう他のことに対しても努力と工夫を重ねます。
かつて私がよく利用していたアメリカの通販サイトには、購入者が着用画像を投稿できるコーナーがありました。そこにものすごくたくさんの写真を載せていたある男性は、鍛えたわけでも無いムチっとした体型にヒゲに短髪という、ごくごく普通の白人男性の見た目なのにいつもぴちぴちのミニスカートやワンピースを着ていました。はっきり言って「ただ着ただけ」という感じで、お腹は見えてるし似合ってもないし美しくもなければ味があるわけでもなかった。ぴちぴちなのでサイズの参考になるわけでもなかった。なのに男性がミニスカートを履いているだけで、他の投稿者よりFavがケタ違いに多かったのです。こういうのはファッションを愛する者としてモヤモヤします。せめてサイズぐらい合わせてほしい。そして着ただけで褒めてやるのは本人のためにはならないと思うのです。なぜ日本ではすっぴん黒髪でゴスロリを着るオタクの女の子は揶揄されるのに、アメリカではぴちぴちミニスカートの男は褒められるのか。アメリカはそういうところが良くない。男がミニスカートを履いた、それだけでありのままの自分偉いと褒めてやるのは偽善です。ファッションを愛する者として、着るのは勝手だけど反応を求めないでよねと思います。ありのままの自分偉いなどというのは何にも持ってないしょうもない人間の言うことであって、あなたはそんなとこで留まってていいのか、そうじゃないでしょうというのがそういう人にいいねを押さない私の無言の主張です。
また、私はある日スーパーでレジに並んでいた時、コロナ禍で距離を取らなければならなかったので、前の人の姿が全身よく見えたことがありました。一見女性のようだったその人は背が高くガタイがよく、髪の毛もカツラっぽくどうやら女装した男性のようでした。それは別にいいのですが、その人はかがんだ後にずり上がったミニスカートを直さなかったので、そういうとこだぞと思わないわけにはいきませんでした。女性だったらかがんだらミニスカートがずり上がってしまうことを知っているし、そのままでいたら自分のためにならないということも知っている。男性だからダメというわけではもちろん無いのです。自分らし��を大事にしようなどとみんな言うけれど、それがすべて褒められるべきというのは筋違いです。キモいと言われたけどキモい自分も好き、これでいいの、と思わないのなら、褒められたいと思っているのなら、本当に自分のために着てるのではなくなってしまう。たとえばそれがキャンディ・ダーリングならスカートを直す仕草も研究していたのではないかと思います。ウォーホルはキャンディがいちばん良かったころに初めて会っていたのなら、男性だなんて信じられなかっただろうと書いています。キャンディはそれほど自分を理想に近づけようと思っていた。それでもどうしても叶わないことがあったのだと思うと、そんなキャンディに心を動かされた人たちがいるというのも頷ける話です。もちろんそれはファッションの話だけではないのですが。
一方レイ・デイヴィスの方は、細かいことはいいじゃん!的な曲にしつつ後世に大きな影響を残したというのがかっこいいなぁと思います。疲れたから終わり!
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噂わさわさ
今日は一秒も勉強をしていない。10月朔日以降、誰とも会う約束がないのに勉強をしていない日というのは初めてだと思う。とにかく今日は休日にした。ぱっとしない休日だった、というか、どちらかというとパニックに襲われたような(そんな大袈裟なことはない)一日だった。もくりでも誰とも喋っていない。変な感じに静かで、しかし荒れていた日だった。
まず朝、生理痛で目が覚めるが、痛くて起きることができない。11時からせっかくのジムだったのに、とても行くことができず、欠席。もったいない。しかし体調のことは仕方ない���気を取り直して、夜に次の予約を2回分入れた。
生理痛がおさまってきて、友人から頼まれたGUの店舗受取の品をお迎えしに、何年ぶりかわからないけれど西武新宿のPePeに行った。来る度に、色々な人と来たなという思い出が蘇る。1人でエレベータで5階まで行き、粛々と品物を受け取って、スタバを覗いたが席がないのでそのまま出た。東口に向かう流れで、新宿のこちら側は相変わらずだ、と思った。歌舞伎町と縁があったのはもうかなり昔のこと(と言いながら3年〜4年前くらい)で、でももうできるだけ近寄りたくないなという感じがする。どちらにしろ私はもう若くなく、太っており、歌舞伎町の「風景」にしかなれない。前景になることはない。老けたし、「おばさん」だなと思った。今日はZOZO中古で買った黄色いワンピースを着ていたが、それが肉でぱんぱんで、顔も肉でぱんぱんで、たいそうみじめな思いがした。太っていることは悲しいことだ。私にとって。(他の人にとっては、他の人の事情なのでわからないし、何も思わない。)
その後三丁目で電車に乗るのだし、と思って、三丁目のスタバに行ったら席が空いていたので、友人がGUお使いのお礼にとくれたドリンクチケットでホワイトモカ・ホット・トール・ソイ変更を頼み、ニューヨークチーズケーキまで食べた。ここで摂取した脂質がものすごいことになっている。せめてニューヨークチーズケーキをやめろ、と思うのだが、とにかくお腹がすいてへろへろだった。夜になってさまざまに「痩せるための計画」を書き出したのだが、とにかくもうスタバに行くなとしか言えない。スタバにはアイスティーもないし、とにかく駄目だ。どんなに好きでも駄目だ。ホワイトモカをソイやアーモンドミルクに変更したくらいじゃ脂質は大幅にオーバーする。
スタバで燐一小説を書こうかと、『やがて秋茄子へと到る』をひらき、いくつかの歌を書き写す。音楽も今書いている話のためのプレイリストなので、かなり燐一の気持ちになった。小説は書けなかったが、短歌を三つ作ってTwitterに貼った。とくに誰からもなんの反応もないが、やはりこういうこと(自分の好きな情感を自分の好きな文字と情景にのせて整えること)は自分に必要だと思った。
スタバからの帰り際、事件が起きた。しかし、この事件は生涯おのれの胸に閉まっておくことにしようと思う。本当にやばかった。犯罪までいかないがあきらかに「罪なる行為」をしてしまった。動転してそのまま店を逃げ出した。とにかくおそろしかった。ただここには書かない。数年後に思い出したら書くかもしれないが、いつもの自分なら処理できたことも、今日の私にはなすすべもなかった。朝からずっと動揺していたのだと気づいた。
スタバでの動転を引きずったまま、最寄り駅で降り、スーパーで牛乳とバナナを買い、帰宅。朝からずっとマッチングアプリを(久々に)いじっていて、複数の女性とせっせとメッセージを交換しかなり気疲れした。相手が男だとこういうのは「営業」と思って割り切ってやれるが(慣れているというのもある)、相手が女だとかなり慎重になるし、アプリもレズビアン界隈のこともよくわかっていないので(それこそ多種多様な人がいるし)、手探りな面が多く、またこちらもそれなりに真剣なので疲れた。男性相手のマッチングアプリは今はやっていない。アイカツ!を通じて知り合ったお兄さんと月一で会っているが、今月は私の試験もあるしまだ次の予定は立っていない。私がマッチングアプリを使う時の癖として、同時に5〜6人とメッセージを交わし、その時間は集中してマッチングアプリに向き合い、やらない時は完全に放置する、というサイクルを繰り返すというのがある。今日も、1週間ぶりくらいに一気に返信して、それに返信してくださった方と、新たに知り合った方とで、やはり5〜6人とのやり取りになった。そういうことをしているから疲れるのかもしれないが、私にとってはこれがスタンダードである。基本的に人と常になんらかのやり取りをしていないと、私は狂ってしまうのだと思う。
帰宅してから燐一小説の続きの書写をやろうかと思ったが、なぜか爪を塗り始めてしまう。黄色のポリッシュを頂いたので、今回もそれを主役にして、下地にsopoのミカヅキイエローを塗り、rihkaのcelosiaを塗り、osajiの横顔と文通をそれぞれ根元と爪先に塗った。トップコートは二度塗った。
ノートにとにかく感情を書きつける。いつのまにか毎日の生活のタイムテーブルをどうするかという話になっていて、どうやら22時に寝て6時に起き、朝からウォーキング、筋トレ、そして朝ごはんとする、というサイクルにしたいようである。早速今は0:38なので22時に就寝できていないのだが、ともかく毎日の行事として設定した「湯船につかる」は達成できた。汗もかけた。朝より体重が0.5kg、体脂肪率が2%減っており、もしやスタバでの事件が関係しているのであろうか、と思った。(風呂の前にも測定しており、結果は同じだった。)早くジムのちゃんとした測定器で体脂肪率が実際どうなっているのか確かめたい。次の予約は4日土曜日だ。
10月中に願書を印刷すると言っていたが、ふつ��に出来なかった。普通にできろよ、そこは。と思うが、まあ、生理痛が悪いよね。今日まではできなくて仕方ないと思う。明日に期待します。明日の体調がよいことに期待します。朝昼晩の寒暖差、これはみんなひとたまりもないと思うけれど、私はどこまで煽りを受けるのか、やや戦々恐々。11/8(水)必着なので、とにかく土日に速達で出せばなんとかなる。それまでに印刷して必要書類を集めることができるのか。そこが問題です。主に試験のための費用を払い込み、その証明を得ることなど。
風呂の後納豆を生卵に入れて食べ、ソイプロテインを飲んだので、胃がいきなりの高負荷な栄養価にひとたまりもなくやられている。横になったらましになったが、かなりの胃痛だった。冷たいものをいきなりたくさん食べるんじゃあない。
明日も朝から晴れるといい。ウォーキングの道すじは決まっていないが、とりあえず明日はルート決めになると思う。音楽を聴きながら歩くのは好きで、楽しみである。基本的にその時書いている話のプレイリストを聞いて歩くと、その話が頭の中で書かれてゆくので、昔は歩かないと書くことができなかった。最近は書写しているあいだに書けるようになった。でも基本的には体を動かしている時に考えたり頭の中で書いたほうがいい。そのほうが文に酸素が入る。
昨晩、9月と10月の支出についてのスペースを録音したのだが、恥ずかしすぎてリンク先の載ったツイートを消した。これはさすがに公開するものではないな、と、朝になって冷静になった。ただ、オタクの支出が気になると言っていた友人にはLINEでスペースのリンクを送った。かなり呆れられるというか失望されること請け合いだ。送ってから取り消そうかと葛藤したが、まあ、いいか、となり、かき捨てられない恥を友人に押し付けてしまった。喋っている声もかなりいい加減な発声で、まじで人に聞かせるものじゃないなと思った。後悔先に立たず。覆水盆に返らず。もういい。忘れよう。私なんてどうせその辺のヘドロです。生活態度がね。頭の中身は頑張って作ってきたのでヘドロではないが、とにかく生活態度や人生に向き合う姿勢というものは自己評価でいくと地を這っている。

2023.11.1
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