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交差
遅刻ですがぎょにく(グロスケ)さんの誕生日祝い、第四話です。 第一話 第二話 第三話 【お借りしたよその子】 ・緒方くん、南条くん:@gyoniku_kure ・拓斗くん、潮くん、洋くん:@todo_sae
さて、一旦時計を戻そう。 その日の朝、蔵未孝一は黒のタンクトップにインディゴのジーンズ、それから黒のギターケースという出で立ちで、馴染みの楽器店へ向かっていた。自分の肌に合う色が白ではなく黒であることを蔵未はよくよく知っていたが、一方で黒が太陽光をよく吸収することも分かっていた。真夏の熱射を容赦なく孕むその色に悪態をつきつつ、長い脚を堂々と開き、歩く。車道沿いの一本道を悠々歩いていた彼は、前方に見えてきていた楽器店の入り口から、誰かが何かを抱えたまま、飛び出してこちらへ駆けてくるのを捉えた。 「オイ、待て!」 直後に響いた少年の声が耳慣れたものであったため、蔵未は脇をすり抜けようとした「誰か」の襟に指をかけた。Tシャツの襟ぐりに思い切り首を絞められた「誰か」は、ぐえ、と一声あげ、そのままバランスを崩す。そいつが仰向けに倒れたところで、楽器店のエプロンをつけた少年が追いつく。 「……ども」 「よ、拓斗。これ何」 「あー……多分、万引き、っすね」 言われて、見下ろす。ギターケースを抱え、悔しげにこちらを睨めあげているのは、拓斗と呼ばれた少年とおそらくは同年代、十代後半の少年だ。二人とも黒髪で短髪、もっと言えば自分だってそうなので、蔵未は愉快になって笑う。笑みの意味が分からない路上の彼は睨みを一層利かせた。ああ、と呟き、また襟を引っ張る。 「んだよ、」 「立て。名前は?」 「……」 「名前」 「……とりま、店来てくれる」と言ったのは拓斗だ。 「だってよ。ほら、お店行こーぜ」 黙ったままの少年の襟を首輪のように引きながら、鼻歌交じりに蔵未は店へと進み始めた。ややあって拓斗が続く。蔵未の口から気楽にこぼれる洋楽はだが伸びやかに響き、心地良く、耳に残る。襟を引かれる少年がほんの少しだけ目元を緩める。 「はい、」店に着いた蔵未は少年を奥へ放った。「拓斗、椅子は?」 あー、と軽く頷いた拓斗が店の奥から丸椅子を三脚、そのうち一つはレジ裏の、自分が座っていたものだろう、入り口側に二つ、少年の前に一つ、と置いた。蔵未はギターケースを下ろすと入り口側に置かれた椅子の一つに座って、前屈みになる。身長の高い彼には簡素な椅子は座りにくい。 それは拓斗にも同様だった。長い脚を落ち着かなげに前へ投げ、目の前の少年を眺める。二人の雰囲気はよく似ている。高い身長、整った顔、基本何にも動じない態度。 「何盗ったの?」歌詞の合間のように彼は言う。「どのギター?」 少年が答えないので、拓斗が答えた。「入ってすぐんとこにあったやつです。あのアコギ」 拓斗が指を差す先を見る。空のギタースタンドがある。 「なんだっけ」しばらく視��を据えたまま、蔵未は記憶を辿った。やがて目を戻す。「あれか」笑う。「お前センスねえな」 「……知るかよ。ギターの種類なんて」 ようやく少年は口を開いた。それでも、胸の前のギターをぎゅっと強く、抱きしめている。 「ふぅん」蔵未はその様子を観察していた。「なんでギター欲しいの?」 「……」 「お前、弾かないんだろ」 「……」 「売るつもりだったんじゃ?」と、拓斗は蔵未に向かって言った。 「いやあ、」蔵未は薄く笑む。端整な顔に浮かぶ微笑は実際以上に酷薄に映る。 「違うね。何でもいいから、“ギター”が欲しかったんだ。そうだろ?」 少年は、より一層強くギターを抱きしめて応えた。蔵未は姿勢を正し、今度は少し反り気味になる。 「アコギならもっといいのがあるぜ。な、拓斗」 「は? まあ、ありますけど」 「売ってやれ。俺が立て替えてやる」 「え、」声を上げたのは少年だった。「……なんで、お前が」 「立て替えだっつってんだろ。最終的に払うのお前だぜ」 「だって、なんで。得もねえのに」 「得はねーけど……そうだな、」 蔵未は自分の直感に何か理由はあるかと首をひねり、数秒考えたのち、ざっくり、答えた。 「お前に恩を売っとくと、あとでいいことあるって、勘?」 全く根拠のない言葉には、反論の余地もないのだった。蔵未一人が納得し、椅子を立ってレジへと向かう。 「二階の、右の壁にあるやつ。いくらだっけ」 「はあ……二、三本あるんすけど」 蔵未は著名なギターブランドを口にした。拓斗はそれで頷いたが、少年はそわそわと視線をうろつかせている。 「誰のため?」 拓斗が階段を上っていくと、蔵未は少年にそう尋ねた。 少年はまた彼を睨んで、それから低く呟く。「真白」 「は?」 「オレの名前。二度は言わねえぞ」 「答える気ないわけね。いーけど」くっくっと喉を鳴らす。「真白ね……」 階上から物音がする。ギターを取り外しているのだろう。 「真白。お前、明日から十時に来いよ」 「、は?」 「ここに」 「来れるかよ。学校あんだぜ」 「行ってんの?」 沈黙。「……別に、お前に関係ない」 蔵未は薄笑いのまま頷いた。「全然、関係ない。関係ないから、お前の都合を俺は聞かない」 降りてきた拓斗に、「コイツも働く」と告げる。拓斗は予期していたようで、軽く返事をするだけだった。 「……この店、」 素朴な疑問を投げる。蔵未が真白に目を向ける。 「お前の?……勝手に、雇うとか働くとか、決めて」 「俺のじゃない」答える口調は軽やかだ。「けど似たようなもん。ここは俺のお袋が俺を連れて再婚して、割とすぐ別れた夫の店。お袋は頭がイカれてて、俺にも後から生まれた弟にもハサミ振り上げて殴ったりしたから、賢明なこの店の主人はコイツぁマズイと思って別れて、お袋ん家から養育費と慰謝料をもらってる。それで建ったのがこの店だから、まあ俺ん家の金で建ったようなモンで、おまけに、心優しいご主人は離婚するとき俺を引き取らなかったことを悔やんで、俺がなんか言うと引き受ける。なのでお前は明日からここで働けるわけだ。ま、しばらく無給だが」 拓斗が後を引き取った。「ギター代に届くまで、お前の給料はこの人に渡す」 口をひき結んでいた真白は、ややあって何か言い返そうと口を開き、結局のところ、何も言えずに口を閉じた。その間に会計を済ませた蔵未はケースを掴み、棒立ちのままの真白へ突き出す。 「はい、ドーゾ。んで、それ返せ」 おずおずと、真白は差し出されたケースを受け取り、引き換えに、自らが抱えていた小ぶりのケースを渡した。蔵未はそれをレジに置いて、自分のケースを担ぎに行き、そのまま店を出る。 「拓斗、言付けよろしく」 「蔵未さん」 「うん?」 「用があってきたんじゃないんすか。弦きれたとか。ピック無いとか」 払うように手を振る。「や。お前にちょっかい出しにきただけ」 満足げに去っていく後ろ姿を呆然と見送り、真白は立ち尽くしていた。こんなに意味の分からない人間には出会ったことがない。 「無駄だぜ」拓斗が短く告げる。「蔵未さんのやることなすこと、いちいち考えてもしょーがねえ。ほとんど、理由とかねえから。あの人」 「それで、ヘーキなの」 「慣れる。俺も慣れた」 「……変な人」 「ほんとにな。っつか、ヒマなら働いてく? このあと」 真白は思わずまじまじと、拓斗の顔を凝視した。コイツもコイツで気にしなさすぎだ。フツーのやつはいねえのか、ココ。 「いや、マジさあ、お前の気まぐれに付き合うこっちの身にもなってほしいんだけど」 そのセリフに場にいた者のほとんどが内心、同意した。渦中の彼はファミレスの一ブースを占領した席の、中央に座ってコーラを飲んでいる。 「嫌なら来なきゃいいじゃん」ストローから口を放す。「嫌って言わなかったぜ。誰も」 「嫌って言うヒマもなかったんだけど? お前説明しなさすぎなんだよ」 現在。そんなこんなで機嫌のよかった蔵未は思いつきで出会った人間を呼び、後輩を巻き込み、そうした事情を同じバンドのギターに全く説明しないままファミレスへ来ていた。蔵未が言うところの「嫌って言わなかった」面子は、それぞれに言わなかった、あるいは言えなかった理由を抱えつつ、やはり気持ちとしては不平を呟く青年——沢霧のほうに頷いている。 「知らないやついちゃダメなワケ」蔵未は相変わらずの薄笑いでストローを噛む。「人見知りじゃねーだろ?」 沢霧は眉をひそめ、口を半ば開けて蔵未をにらんだあと、鋭く息を吐いた。その仕草が伝えているのはおおよそ以下のようなことである。何を言っても無駄。 「はいはい、もー結構。ところで、」彼はふと俊に目を移した。「佑は?」 「多分もうすぐ来る……はずですけど。俺もてっきり、俺らが着くころには来てるものと……」 「ふぅん。アイツがいねーと場が回んねえよ、名前も分かんねえのいるしさあ」 「すみません……」 謝ったのは緒方だ。隣の南条も、少し口を尖らせながら「すんません」と小さく呟く。謝らせたことへの弁解はないまま、沢霧はメロンソーダの入ったグラスを傾けた。俊がポケットから端末を取り出し、何かを確認して、またしまう。 「既読つかないや。珍しい」 「連絡ないんすか?」潮がポテトを摘みながら尋ねた。 「うん。……何もないといいけど。すごく丈夫だし、平気かな」 それはもしかして、車にはねられた前提で言ってます? と潮は思ったが、声にはしないでおく。 「そういや」突然、蔵未が口を開いた。「坂川洋ってお前の兄貴?」 予期していなかった。 あまりに唐突に投げられた言葉は、急すぎて、ショックを受ける間も無く体を貫通していく。いっそ笑えてきた。ただでさえ気乗りのしない席で、そんなことまで突かれるとは。いま口の中にあるポテトが永遠になくならなければいいのに。 「この前大学でさ」蔵未は確信してるのか、返事なんぞはどうでもいいのか、話を続ける。 「音楽室無断使用してたら、へらへらしたヤツが入ってきて、お前ここ、使ってんの、とか聞くワケ。これから使うけど何、っつったら、許可とってるかって。取ってるワケねえから取ってねえけどって答えたら、俺も取ってねーけど使っていい? って、クラリネット出してきた」 「坂川洋って……」緒方が口を挟む。「有名な、演奏家ですよね」 「あ、やっぱそうなの? なんで知ってんの?」 緒方ははにかんだ。「母さんがファンで……家にいくつかCDが」 「へえ」気の無い返事。「そう、なんか、有名なヤツらしい。でも俺クラシックとかさほど聞かねえから知らねえし。で、お前誰? って聞いたら、そいつが答える前に分かってさ」 「説明が足りねえ。何?」 「今から言うから待てよ。あのな、」思い出し笑いが漏れる。「そいつが立ってる入り口の、真横の壁にポスター貼ってあんの。そこにでっかく『坂川洋』って。おんなじ顔が二つ並んでさ」 要するに。その日、洋は蔵未の大学で近々開くコンサートの打ち合わせにきていた。機材の確認がてら、空き時間に少し吹くかと音楽室を訪れて、たまたま蔵未と出くわしたらしい。貼ってあったポスターはコンサートの告知用のもので、事情を知った蔵未はウケにウケたそうだ。彼の笑いのツボがわかる人間はそう多くない。 「んでちょっと喋ったら、弟が二中にいるとか言うから。あー、お前か? って」 とっくにポテトを飲み込んでいた潮は素っ気なく返す。「アイツ、本名ヒロシですよ」 「え。……ぶは、ヒロシってツラかよ」喉を鳴らしながら、蔵未はコーラを飲んだ。 潮は隣の俊の顔を見ないようにしていた。���まずそうな、あるいは「気の毒そうな」顔をしてるのが窺えたからだ。恐らく俊はクラシックの造詣もかなり深いのだろう。兄が「誰」なのか知っている。その上でそんな表情をされては、逆恨みしない自信がない。 「今度飲み行く約束したわ。章吾も来る?」 「何一瞬で意気投合してんの? 行くけど。坂川洋ってあれだろ? なんかスイスのコンクールでこの前優勝した」 「他にもたくさん賞とってますよ。出るたび持ってくって感じで」 「へー」蔵未は解説を加えた緒方の顔を見る。「Spotifyに曲ある?」 Spotifyが分からなかった緒方の代わりに、南条が答えた。 「あるっぽいっす。いま、検索���たら」 これ以上を、問われるだろうか。その先に話は及ぶだろうか。いつの間にかポテトの皿は空になっていて、仕方なく、フォークを手に取り唐揚げに突き刺す。宙に浮かせ、持て余してしまう。 興味深げな沢霧の目がこちらを向くのに気づいた。彼が、かすかに身を乗り出す、—— 「お待たせ!」 そこで陽気な声が聞こえて、逃げるように視線を移した潮は、思わず、フォークを取り落とした。 「佑さん、」 「大丈夫!? ですか!?」 慌てて立ち上がったのは、面識がないはずの緒方で、彼は腰を浮かせたあと、泡を食ってリュックを漁っている。顔見知りの面々は、完全に言葉を失っていた。……いや蔵未は少し違う。ただほんの少し目を丸くして、おやまあ、と呟いただけだ。 「佑、」震える声が響いた。俊のものだ。「どうしたの?……どうして?」 「いやあ」頭に包帯を巻いた彼は笑みを崩さない。うっすらと、血が滲んでいる。 「通りすがりの暴漢に殴られちゃってさ。びっくりしたよ! 完全に油断してたからけっこうマトモに食らっちゃってねえ。鉄パイプ程度で助かった」 平然と、テーブルの端、俊の隣に腰を下ろす。遅れてすみません、と謝られ、固まっていた沢霧が息をついた。 「や、いいけどさあ。病院行かなくて平気?」 「薬局寄って、手当てしてもらいました。病院いけって言われましたけど、そんなにデカい傷じゃないし。浅く切れたってだけですから」 「あ、あの、」 緒方がリュックから小さなポーチを取り出し、さらにその中の絆創膏を差し出していた。 「おや、ありがとう! いやでも大丈夫、ご覧の通り処置済みだし。しまっといて」 「あ、絆創膏じゃ、間に合いませんよね、……すみません」 「君が蔵未さんの行きつけのラーメン屋で働いてる子? じゃあ隣の君がそのお友達?」 「あ、はい。俺、緒方って言います。緒方竹晴……」 「……南条、っす。……ども……」 「僕は鷹見佑! よろしくね」ハキハキと返した彼は、南条を見て少し目を細めた。 「あれ。どこかで、会ったかな」 南条の肩が跳ねた。息を呑み、それから姿勢を丸く屈めて、覗き上げるように、佑を見る。 「……いえ。……おれ、知らねえっす」 「そう」しばらく細めた目のままでいて、やがて佑はまたにこやかになった。「気のせいか! うっかり、口説いちゃった」 南条が緒方の袖を引っ張り、何やら合図した。端末を、テーブルの下に差し入れている。真向かいに座る潮は、物を落としたそぶりで机の下に潜り、そっと画面を見た。逆さではあるがなんとか読める。『オレ、この人、知ってる』。 『ヤバい』。 「お腹すいたー! 奢ってもらえますよね?」 「は? ワリカンに決まってっから」 「えーっ章吾さん甲斐性なしー」 「ヒモに甲斐性があるワケねえな」 「それ、先輩もじゃん。やだなあ今月厳しいのに」 何食わぬ顔で頭を上げ、さっき取り落としたフォークを握る。手が震えないよう注意した。それでも、心臓が音高く打つのはどうしようもない。声が揺れそうで、迂闊には口を開けない。 ヤバい。って、なんだろう。 相変わらずの軽快な喋りが耳に届いてくる。内容は頭に入らず抜ける。黙っている理由が欲しくて、潮は冷めた唐揚げを頬張り、ゆっくりと、咀嚼し始めた。
19/10/20:ソヨゴ
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星を目指す
れーじくん(@reyji_1096)のスパイパロ設定をお借りして第4話。前回はこちら お借りしたよその子:シド・レスポールくん(@chhh_M)、東堂紫音さん(@hixirari)
20XX/01/24 XXX°-XX'.XX’N、XXX°-XX'.XX’E
[作戦概要] 【開示不可】率いる武装集団『青い鳥』の拠点が判明。****連合軍からなる特殊部隊・【開示不可】が襲撃を行い、対象の完全な無効化を達成した。『青い鳥』の中心人物【開示不可】は拠点襲撃時には存在を確認したが、その後の行方は依然として不明。その他構成員については未就学児を含む児童の集団であったことから、人道的理由により、不断の監視を条件に施設への入居を認め、現在に至るまで保護を続けている。作戦に参加した隊員その他の氏名を含む一切の詳細は開示不可とし、情報漏洩が発覚した際には刑法XXX条第X項に基づいて厳正なる対処を行うものとする。――
呼吸(いき)さえ凍る北国の山岳。R国とB国の境を跨ぐこの山脈に、ぼくらはいた。羽を震わせ、身を寄せ合って巣に潜みながら、春を待っていた。永く来ない春を。 いちいちニュースには乗らないけれど、R国は“常に”周辺諸国に対する侵略行為を続けている。あんな大きな国土を持ちながら、と、四季に恵まれた極東の人間は思うかもしれないが、大地の殆どが不毛の凍土であるあの国が、住処を求めて南下するのは無理からぬことなのだ。彼らの望みは国家というものの興った頃から変わりない。春。春が欲しい。一年を通じて、草木の枯れない土地が、欲しい。 だからといってぼくらが住処を追われる謂れも、無論ない。ここはぼくらの土地だ。決して豊かな土ではないが、ここはれっきとしたぼくらの故郷。だけど、我が国はぼくらを見捨てた。エネルギー供給を隣の大国に依存している我が国は、再三に渡る要求と圧力に対する妥協点としてぼくらを差し出したのだ。正確を期すと、ぼくらの暮らす地域一帯を、XXX人が、実効支配することを黙認した。 無力なぼくらは徒党を組んだ。裏切った祖国と侵略者を相手取り、“主張”を始めた。出て行け。ここはぼくらの故郷。共存を望むなら、先に態度を示すがいい。奪うつもりなら、容赦はしない。 ぼくらの“主張”が民間人――“同郷の”民間人――を犠牲にしたことはただの一度もなかったが、国際世論というものは如何様にでも操作が可能だ。ぼくらは正体不明で神出鬼没の、それも“子供を使う”、極めて悪質で過激なテロ組織、……ということになっていった。心あるジャーナリストはR国の振る舞いも必ず批判したが、ぼくらを擁護することは決してなかった。それは至極真っ当で、当然のことだと思う。ぼくらの“主張”が罪のない市民を巻き添えにしていたことに変わりはない。死んだっていいと思っていた。憎まれるのが筋だ。 やがて、国連が動いた。連合軍を���集し、各国から選りすぐりの兵を集めて特殊部隊を結成した。1月24日、彼らはぼくらがアジトを構える冬山を急襲し、約45分で無力化した。一人も、殺さずに。 あっという間だった。 換気口から突然現れた雪山迷彩の隊員は、一瞬で通路にいる配下の子供たちを制圧した。何が起こった? 全員が床に倒れているが、誰一人血を流していない。スタンガン? いや、それではあの速さの説明がつかない。呆気にとられそうになりながらそれでも慌てて構えたライフルの、銃口を難なく逸らされ体勢を崩す。手が首元に伸びてきて、思い切り壁に叩きつけられた。宙に揚げられた状態で、藻掻く。ソイツは片手でぼくを完全に抑え込んだままフェイスカバーを外し、素顔を見せた。……東洋人? 「手荒な真似をしてごめん」流暢なキングス・イングリッシュ。「君が****・*******か?」 歯軋りした。この野郎、この状況でぼくに“謝りやがった”。暗赤色の目を睨め付ける。彼はいささかも力を緩めず、ただ、微笑(わら)った。 「察しはついてると思うけど、俺は連合軍の兵士だ。普段は英国陸軍にいる。選抜されてこの特別任務に就いたのだけど、時間もないし、簡潔に話すね。俺には個人的な目的がある。俺の目当ては、君だ」 思考が取り残されそうになる。必死に頭をフル回転させ、食らいついた。全く急にも程があるけど、コイツは今、交渉しようとしてる。ぼくに何を? 何をくれる? そしてこんな瀬戸際に追い詰められて足をバタつかせているぼくに、一体何を、差し出せと? 英国陸軍所属の、完璧な英語を操りながら祖国は別であると思しきこの青年が何を企んでいるのか、ぼくには見当もつかなかった。手がかりが無さすぎだ。 「君のことは前から知っている。ニュースを見ていた。斬新な手口にも感心したけど、子供ばかりの隊を率いていると知ってますます驚嘆した、君の統率力は尋常じゃない。素人のガキばっか集めて、一から訓練してこれだけの成果を出せるとは、どんな根性の腐った野郎だと思っていた。ところが、びっくり。なんと子供じゃないか? 作戦概要を聞かされた時、こんなに都合の好い話はないと思った。分かるだろ?」 『……何。全ッ然、分かんないんだけど』 『君が子供なら、』これ見よがしに使った母国語に、あっさりと、返答される。『軍は確実に君を持て余すからだ。持て余すってことは、俺が、利用する隙が生まれるわけだ』 『……利用?』 『そう。有難いことに、君という存在に利用価値を見いだしているのは俺だけだ。そして、だというのに君は、政府(おえらいさん)にとって極めて“始末”のつけにくい存在なんだ。今までてっきり腸(はらわた)のドス黒い大人が子供を使ってテロリズムに及んでいるとばかり思ってたのが、残念なことに、首謀者もまた子供だった。今まで世論が君らを《除くべき悪》と見なしてきたのは、「大人が無垢な子供たちを犠牲にしている」という筋書があったがためだ。とどのつまり政府は話の組み立て方を失敗(まず)ったのさ』 流れに、ある程度の見当がついた。ぼくは尋ねる。 『簡潔に話す、っつったよね』 『うん』 『だったら要点だけをどうぞ。お前は、何が欲しい? そして、何をくれる?』 彼が、笑う。途端周囲の気圧が、急激に上昇しぼくは思わず息を詰める。肺腑に残った微かな息が逃れるように吐かれ、その後は、最早新たに吸う余地はない。柔和な態度に隠れていた、獰猛さが目の奥に透ける。上昇志向。征服欲。ギラギラと、煮え滾る焔。 「いいか。俺はいつまでも、“使われる”立場でいるつもりは無い」 彼の口から吐き出されたのは、彼自身の母国語だった。ぼくが知るはずもない言語。だが熱が全てを悟らせてくる、何を言われているかが分かる、ぼくは否応無く火口に立たされ、熱風に身を嬲られたようなものだった。そして同時に、ぼくは見惚れている。その岩漿に。渦を巻く火焔に。 「私兵が欲しい。俺だけの弾丸(たま)が。他の誰も持っていない俺だけの武器、武力、手段を、あるだけ揃えたい。“使う”のは俺だ。俺が欲しいのは一個の完全な兵士。それは自立していなければならず、そして俺だけが自由に、いつでも、扱うことのできる駒でなければならない。いくら良い臓器良い手脚を揃えたって頭がポンコツじゃお話にならない、まずは頭脳だ。頭が望む手脚を揃え、臓器を揃える。そいつが一番イイ」 ああ熱い。熱い。灼けそうだ。全身が熱され、舞い飛ぶ火の粉に、肌が、髪が、チリチリと焦げて、きな臭さが鼻を突く。身体ごと融かされそうな予感にぼくの背は竦む。けどその脅威に、不思議と、惹かれる。 「何を遣るか? お前の欲しいもの全て。安全な巣を用意しよう。誰にも奪われない故郷(ホーム)で、お前とお前の同胞たちが暮らす未来を担保してやるよ。お前の欲しいモノをくれてやる。お前の戦争(たたかい)の目的を俺が達成させてやる。だから、」 顔が迫る。一瞬、喉元に、喰らい付かれる錯覚が過ぎる。爛々と赤い眼光は闇の底に閉ざされたまま、それでもその閃きが、どうしようもなくぼくの目を、――射る。
「俺の、武器になれ。《革命家(イレギュラー)》」
ぼくは悟った。きっとぼくのことを、ぼく自身以上にうまく扱えるのだ、この人は。……いや、というより彼は、ぼく自身には決して用意できない船を組み立てられる人。ぼくが自ら拵えた船はあまりにも脆すぎて、向こうの島へさえ行けなかった、だけどこの人が用意する船を繰ればぼくは地の果てだって見れる、……ぼくの今までの自負とプライドを、この人に賭けてみても、いい。青い小鳥の羽じゃあなくて、鋼鉄の翼をくれるなら。 飛んでやる。行きたかった場所まで。 「乗った。……貴方の賭けに、賭けよう」 お名前は? 尋ねた僕を、壁に磔にしたままで彼はまた微笑した。顔を離しつつ、ほっとしたふうな、柔らかな笑みを浮かべてみせる。実際、ほんとにほっとして、心からの表情を浮かべたのかもしれない、分からないんだ。彼の挙動はぜんぶがぜんぶ演技なわけではなく、そしてまた、ぜんぶがぜんぶ本当でもない。常にそういうグレーゾーンに身を置いていて判断がつかない。けれどそう、……僕が見惚れた、あの岩漿は本物だった。彼の内奥に煮え滾る溶岩。あれが彼の星。見たことがあるのは、広い世界でも僕だけのはずだ。彼の恋人だって沢霧さんだって、彼の野望の熱を素肌に感じたことはないだろう、以降彼は軍服を脱いでテーラードのスーツを羽織り、文官の世界に生きるようになる。僕は『安否不明』となり、別の名前と籍をもらって彼と共に英国へ渡った。その後のことは、ご想像にお任せ。 「俺の名前は、蔵未孝一」僕の“上司”となる人は、そうシンプルに答えた。「よろしく、【青い鳥】」
申し遅れました。僕こそは、秘密諜報機関《H.O.U.N.D.》のリーダーにして、庶民院議員・蔵未孝一の秘蔵っ子、――東堂紫音。あ、戸籍上の繋がりはないけど、姪ってことになってるらしいよ?
「血縁関係は無理がある。第一、髪色が全く違う」 二丁の愛銃を慎重に組み上げながらそう彼女、――彼、は言った。すっきりとした顔立ちに控えめな化粧を施し、ロングヘアのウィッグを被って青いドレスを纏った彼は、どこからどう見ても“彼女”であるが、まだ隠していない喉仏から発される声は男のそれだ。彼の背後でデスクに座るアンバランスな前髪の少年(かれ)は、その赤い髪を指で摘む。 「エー、そう? 黒染めすりゃイケる?」 「イケない。髪色だけでなく目も骨格も、俺とお前が赤の他人であることを雄弁に語っている。それから大前提としてお前は潜入に向いてない、お前といると確実に予想もしなかったトラブルが起こり非常に混乱した現場となる、他の任務ならまあいいが潜入で一緒になりたくはない」 「オレのせいでトラブルになるわけじゃないじゃん!? トラブルのほうからこっち来んだって」 「結果的には同じことだ。縁起が悪いのでご遠慮願う」 「チェー」 ボスから告げられた最重要案件、——〈愉快な友人(シド)〉流に言えば“デカいヤマ”——とは別の、先にこなしておかねばならない任務があり、カーティスは準備のために技術課を訪れていた。ちょうど研究員はみな別棟の研究室(地下を経由しなければ辿り着けない仕組みとなっており、来訪の際は無線で一つ連絡を入れ、《女王》の了承を得る必要がある。《女王》とはすなわち彼の弟、アーネスト・シザーフィールドである)に呼び出されて出払っており、なぜか《女王》に毛嫌いされている赤い髪の少年が留守を預かっているのだった。元より申請済みの装備を取りに来ただけだった彼は、技術課の留守を同じ諜報課の蠍(ピピリ)が預かっている事実に首を傾げはしたものの、特に気にはせず準備を始めて、今に至る。 「あ、あ!」と、彼がはしゃいだ声をあげた。 「じゃあさ、恋人役ってのはどう? ノミの夫婦になっちゃうけどさあ、エスコートくらい身につけたぜ?」 カーティスは脛に仕込んだバンドにナイフを三本収納していた、その手を止めて、彼を見る。整った顔には愛嬌がなく、黙って見つめているだけで十分「冷ややか」に映るのだった。彼の顔には次第に焦りと誤魔化し笑いが滲み始め、その機を見計らったかのようにカーティスは言った。 「なら、聞くが」 ピピリの肩がヒョッと上がる。カーティスはカツカツとヒールを鳴らしまっすぐに彼の前までやって来ると、その傍らへ片膝を載せて、覆い被さるような形で彼の顎に白い手を添えた。キスでもするように持ち上げる。弧を描く唇。意地悪い、笑み。 『坊や。私があなたみたいな“チェリー”の相手、すると思う?』 耳朶を打ったのは、凛と涼やかな女性の声だ。そのまま顎を撫で、パッと“彼女”は身を引いてまた作業台へ戻っていく。チョーカーをつけ、喉元を隠す。 「わざわざ目立つ組み合わせにして何になる? 無駄なあがきはよせ」 触れられた顎に手を遣りながら、ピピリはへへ、とゆるく笑った。 「でもデスクワーク飽きちゃったんだよ。何とかして外勤できない?」 「書類を持って向かいのスタバにでも行ったらどうだ」 「ジョーダン。機密書類」 「ま、VRでも使って気を紛らわすんだな。行ってくる」 実に小さなハンドバッグの細いチェーンを肩にかけ、カーティスはゆらゆらと後ろ手を振った。去ってゆく背中に、不満げな視線を投げつつピピリもまた手を振り返す。VRかあ。《女王様》が最近持ち込んだ試作機(プロトタイプ)の中にその手のが何かしらあった気はするが、勝手に作動させたりしたらどんな目に遭うか知れたものではない。ところで、みんなはいつ戻るんだろう。もしかしてオレずっとお留守番? 溜息が、鼻を抜ける。彼の退屈な1日は、まだあと九時間も残っている。
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大遅刻ですがグロスケさんの誕生日祝い、第三話です。 第一話 第二話
【お借りしたよその子】 ・緒方くん、南条くん:@gusuke3 ・潮くん:@todo_sae
藻搔く声が聞こえる。叶わぬ呼吸が水中に吐かれ、濁った音を立てている。必死に顔を上げようとするその動きを靴底に感じながら俺は考えている、俺は、悪人か? 答えは出ない。 狭い便所だ。身体のそこそこ育った男二人が収まるスペースはなく、俺はドアを開け放ったまま彼の後頭部を踏みつけている。汚物のそれとも少し違う、水の、饐えた臭い。俺は悪人か? フロアから漏れ聞こえてくるEDMの残骸とヒットチャートを照合(つきあわ)せ、耳朶に蘇らせる裏で秒数のカウントを続ける。そろそろ、揚げないと死ぬな。 「さあて、」普段の声音を模って足を退かすと、彼は肺から咳き込み崩れ落ちた。その前髪に手を遣り、ぐいと引く。咽が反り、絞られる。 「水泳ご苦労さま。気分はどう?」 「お前、」と、喘ぎ喘ぎ彼は言う。「こんなことして、ただで済むと……」 「あは。やっと息したと思ったらそれかよ、判ってねえな」 自分の腕ごと彼の頭を便器に突き入れた。再び、少し先程よりも激しい、物音。ああ面倒くさい。僕は自らの膝に頬杖を突きため息を洩らす。ああ、面倒くさい。どう黙らせようかな。人を黙らせるにあたって、一番確実な方法を取ることは今の僕にはできない。——めんどくせえなァ、——結局は勘定なのだ。彼の中で僕への憤りより、恐怖や怯えが強くなればそれでいいのだ。いいの、だけど。喉元過ぎればってヤツ。人は簡単に危機を忘れる。僕には全く、信じられないことだが。 「僕は別に、君が黙っててくれればそれで満足なんだけれど……“こういうの”って加減が難しいな。君は、やったことある?」聞こえているやらいないやら、分からないけどとにかく僕は話しかけてみることにした。「僕は何度かやったことがある。今まで一応、ぜんぶ成功していて、たまに確かめにも行ってるし、だからそう割と経験はあるほう��んだけど、どうしようか。例えば君が絶対にここであったことを言いたくなくなるような、そう、僕に掘られたとかね、そういう事実を作っちゃうのも手っちゃ手だけどちょっと大仰すぎてね、遠慮したいなあ、君はさあ、黙っていてくれる? つまり僕にここでされたことを理由に復讐に走ってさ、あることないこと吹聴したりしないでくれる? どうかなあ。いやまあ勝手な言い分なのは分かっているよでも君だって僕を軽く脅すような言い方をしたから、あ、」腕を引き揚げる。「漬けすぎたかも? ごめんごめん」 合わせた目には恐怖があった。耳は水の上にあったみたいだ。 「だいじょうぶ? 息できるかな。一応秒数はかぞえてるんだよさっきはうっかりしていたが、君くらいの体躯の人間なら何秒くらい平気かっていうの、僕だいたいは知っているんだ。だいたい、だけどね」 水音混じりの潜もった呼吸を、ぜえぜえと彼は繰り返し、僕を睨もうとするが上手くいかない。前髪を軽く握り直すとびくりと背筋が跳ねた。うん。平気かな? どうだろう。加減が難しいよ、本当に。こんな事態には最初からならないのが一番いいのになあ。 「……君は、賢い?」僕は聞いてみる。「過ぎ去った脅威を簡単に忘れたりはしないかい? どうかな。忘れずにいられる? どうだろう。忘れられると困っちゃうんだ、何度もやるのは疲れるしさ。何より面倒だよ。マジで。面倒くさい」 彼は答えない。その目をしっかり覗き込んで続ける。 「でも僕の生きてる世界では『舐められる』のって死活問題でね。舐められると死ぬんだ。餌食にされるから。相手にしたら厄介だ、敵にしたらヤバイ、って思ってもらうことが重要で、だから、やられたことにはいつも二倍か三倍かで応答しないとさ、駄目なんだよ。分かるかな。だから僕も君に何かされたら、二倍か三倍で、あるいは、君は一般人だから四倍か五倍で、返さないと。舐められちゃうからね。舐められると死ぬんだ。分かってもらえるかな? 僕の置かれてる立場ってヤツ。分かってもらえる? そういうことなんだ。僕らの行動理念っていうのは、大方、そういうことなんだよ」 ジーンズのポケットで、携帯が震えていた。僕はなおも数秒、しっかりと、彼の瞳を見据えてからやがて立ち上がりそれを取り出す。ライムグリーンのサークルをタップして通話を拾い、そのまま立ち去った。ブーツの踵が、コンクリの、床を叩く。それは長く響く。 ああ、今(今)聴いてしまったら、いちばん心の(騒めく、)揺らぐ声なのに、どうしてこういう時に限って、君は人生に現れるんだ?(俺の人生に。俺の、現実に) 「ってか、なんでお前ガッコ来ねえの?」 割り箸の先を向けられて、少年はもうこれ以上ないというくらい眉尻を下げた。青い前髪の分け目にのぞく青い眉は山を模り、さしづめ眉間は谷といったところか。一方、カウンターの向こう側から箸を突きつけた少年は、ラーメン屋の高い椅子に腰掛け、届かぬ足を遊ばせている。二人は同級生らしく、小柄なほうの少年は制服を着ていた。学校帰りのようだ。 「ええと……それは、その。忙しくて」 「忙しいってお前……コーコーセーは高校行くのが最優先事項だろ。なんで他のこと優先すんだよ」 「それは……俺んち、片親だから。金無くて……」 「だからって始終バイ���すんなや。困ってんの俺は! お前がガッコーこねえせいでほぼ毎日連絡係任されてさあ……」 「悪かったって。来たってことにして、プリントとかは捨ててもいいよ」 「それはそれで心痛むだろが! どういう神経してんだ? マジで」 「……そう言われたって……」 青い髪をした少年は、さらに眉を八の字にする(まだ可動域に余裕があったとは驚くばかりである)。小柄で茶髪の少年は勢いよく麺を啜って、それからレンゲで乳白色のスープをすくった。蛍光灯に、油が照りはえる。 と、黒い、長身の影。 それはいつかと同じく磨りガラスに映り、徐々に大きさと濃さを増す。バイトの少年が思わず居住まいを正したのと戸が開くのとはまたも同時で、物音に何気なく振り返った茶髪の少年は、そのままレンゲごと固まってしまった。 「醤油バリカタ」よく響く低音で、青年は告げる。「親父、寝てんの?」 「あ、ハイ。多分。起こしてきます」 「へえ。まあいいけど」 ギターケースを空いた椅子に立てふと傍らを見た彼は、少年の冗談のような固まり様にやや片眉をあげて、しばらく、じっと見た。目が細まる。 「誰、お前」 問われた当人は口をあんぐりと開けたまま、不動である。代わりに青い髪の少年が、つっかえつっかえ答えた。 「彼は、……えと、南条っていって……同じ学校で。同じクラスの……」 「へえ。んじゃ、コイツ高校生? ちっさ」 「あの、」ようやっと金縛りが解けたのか南条は尋ねた。「あの、もしかして」 「ん」 「オ、オ、オ、……オクカンの、……クラミさん、っすか?」 「そうだけど」答える彼の態度は、少年とまるで対照的だ。「知ってんの?」 「知って、知ってるも何も! 今朝も曲聴いて通学しましたよ、俺」 「変わってんな。俺らインディーズだぜ、ドマイナーもいいトコだろ」 「でもSpotifyに曲あるし……近所のタワレコも新譜置いてるし! 知ってる人は知ってますって、」 「成る程な。お前はその“知ってる人”ってワケ」 一瞬、また動きを止めた少年は、彼の表情をうかがってから続きを話した。「や、別にあの、俺すげー詳しいとかじゃないっすけど……だってオクカンてデカいハコのトリもやるじゃないですか。この前もあの、……ってか、あの、ココよく来るんすか。クラミさん」 「あー……あーね。ハコ近えから。そーいやお前、」と、ここで彼はカウンターを向き、「来た?」 「あ、あ! はい!」 「えっ。え、なに。なんかあったの緒方」 「へ? あ、うん。この前その……クラミさん? が来たとき、チケットくれて……」 「ハァ〜〜なんだよそれ!? なんでお前が、」 「お前にもやろっか」不意に、遮るようにして彼は言った。「母校の学園祭出るから」 決して威圧的な口調でも、声音でもなかった。なかったのに、なぜか二人は言葉を失って静まり、そして青年はその沈黙を、恐らく、気に留めもしなかった。彼にとって自らの振る舞いが場を制するのは、意識のレベルに上がることすらない事象だった。それは、「当たり前」だ。 「お前さ。ライブ行くほどじゃねえと思ってんだろ」 「、へ」 「俺らのこと」 彼は南条を見下ろして、言うと、ギターケースの背中側についたポケットのジッパーを開けて中から紙切れを取り出した。学園祭のチケットらしい。雑な折り目に沿って印刷が白く剥がれてしまっているが、学園と、制服を着た生徒たちが描かれている。南条の着ている制服とは、デザインが違う。 「凌星中……」 「そ。あーでも高校のほうね、俺らが出んの」 「いいんすか、もらって」 「うん。当日会場入れるかは知らねーけど。聴きに来いよ、聴いたらお前、金払ってでも来たくなるよ」 「え、あの、」 「俺達のライブ」 ズイと差し出されたそれを、座ったまま、両手で受け取る。間近に青年の手を見た彼は内心ひどく驚いた。恵まれた体格に釣り合う大きさでありながら、なめらかで、優美な手——ギターを弾く指であるはずなのに、胼胝がないのが不思議だ。 「あ、りがとう、ございます」 「イーエ」青年はその繊細な手をうなじに当てて、肌を掻く。「どうすっかな。メシ……」 「クラミさん……って、凌星出身なんですか」と、尋ねたのは緒方だ。 「あ? うん。バンド自体、二中で組んだし」 「あ、へええ……」と唸ったのは南条。「え、でもオクカンってベースとドラム、何度か変わってますよね」 「よく知ってんね。変わってるっつか決まってねえ。いいベースが居ねえんだよ、俺らどっちもギターだし」 俺ら。——緒方はふと思い出す。先日、貰ったチケットを手に観に行ったライブで、蔵未の隣に、ギターを構えていた別の青年。目の覚めるような銀髪の、ぞっとするほど美しい男だった。「美しい」としか、言い様のない顔をしていた。 「ライブの時はじゃあ、呼んでんすか」 「そ。この前のライブに呼んだのなんか俺の後輩。まだコーコーセー」 「へええ……高校生だけど、他の人より上手いってことすか」 「いや」言いながら彼はスマートフォンを取り出す。「技術だけならそりゃ、アイツより上なのわんさかいるけど。センスがいい。センス良くて技もあんのがいない。技はあるけどセンスがねえのと、センスはいいけど技は並なのと、だったら、後者だろ。使うの」 分からないなりに頷いて見せる南条をよそに青年は、アプリを立ち上げて通話し始める。特徴的な呼び出し音が数回続き、やがて繋がる。 「章吾。イマドコ?」 「ショーゴ!?」 南条は椅子から落ちそうになった。 「え? ああうん、俺らのこと知ってるやついて。ラーメン屋。は? ああだからロッツの……うん。で、寝てんだけど親父。うんまた。まだ駅なんだろお前。場所変えよ」 通話の相手が誰だか知らぬのは、どうやらこの場で緒方だけのようだ。画面をタップして通話を切った蔵未に彼は話しかける。ショーゴさん、って? 「ギター」蔵未は端的に答えた。「俺のバンドの、銀髪」 ああ、と得心する彼に、蔵未はギターケースを担ぎ直しながら訊く。お前、このあと暇? 「えと……シフトがまだ」 「抜けてもバレねえだろ。寝てんだし」 「まあ、確かに……」その通りだった。緒方は毎度シフトの終わりに店主に毛布を掛けて出る。 「じゃあ着いてくれば。このチビと一緒に」 「へ、えっ!? えっあのどこ行くんすか」 「メシ食いに行く。場所変える。お前ら暇だろ? 人呼んでやるよ」 ファミレスでいいよな。言葉に反して、特に同意を求める様子も見受けられない彼のセリフに、少年二人はただただ揃って何度か首を縦に振った。 苦手だ。入部した頃からずっと。俺たちとは別の世界を見ているような目をしてて、なのにこちらのことまでどこか見透かしてくるような、そういう視線を感じる。苦手だ。あるいは、嫌い、なのかもしれない。羨ましいから。“愛されている”のが。 「潮」そんな彼は夕闇の中で、灯りをつけぬままに、尋ねた。「珍しいね。自主練?」 下校時刻をとうに過ぎても、夏の日は長い。そろそろ夕飯にありつく生徒もいるだろう時分、ようやっと青く染まった空は、しかしまだまだ夜闇には遠い明るさを保っている。窓から入る空の明かりが、音楽室の戸口に立つ、先輩の立ち姿を照らす。 「いや、……まあ。なんとなく、っす」 歯切れ悪く答える。潮は一年先輩の彼、三青俊が苦手だった。彼がどれだけ特別な人間であるか潮には一目で、——というより一聴きで、——分かってしまったから。入部から数日、彼は当たり前に部室に現れ、当たり前にギターを手にとって、何気なく歌った。指鳴らしを兼ねた軽い演奏。最悪だった。最悪だったのは、無論彼の歌声ではなくそれを聞いた潮の心中のほうだ。彼は明らかに選ばれた者の声をしていた。音楽に。自分が選ばれなかった、それに。 「先輩こそ珍しくないすか。もう閉門時間過ぎてますよね」 「うん。私物のギター、取りに来ただけ。使う用ができたから」 潮にとって救いだったのは、俊が演奏者としては秀才の域に留まる存在だったことだ。同世代の中、まして、有名校とはいえ音楽で名を馳せるでもない一高校の軽音部においては、ずば抜けた存在であることは間違いない。だが、それだけなら潮も同様だった。俊にあって潮にないもの、すなわち音楽からの“寵愛”が、表れていたのは歌唱と作曲だった。かろうじて、潮が諦めたその道ではなかった。 「使う用? 自宅にないんすか」 「自宅に置いてあるのだと、微妙に、たぶん、違う気がして。蔵未先輩のライブ手伝うから。うちにあるやつは、あの人の曲に合わないと思う」 喉奥に苦みが走る。蔵未、孝一。 三年前に卒業した先輩。現在は大学生だが、既に一部の音楽好きには自らの率いるバンドと共にその名を知られている。The October Country。略称はオクカン、だったか。確かにあのバンドにはベースが居なくて、大抵よそから人を呼んでいた。だが、俊はギターのはずだ。なのになぜ? 「ベースを演るのは佑で、」彼は戸口から中へ立ち入り、潮のいるドラムセットのすぐそば、ギター置き場まで歩み寄る。 「俺は、ついでだって。OAで一曲、お前の曲演らせてやるから、その代わりライブの最中俺にラクさせろ、って。この前言われた」 つまり蔵未の代わりに数曲、リズムギターを演れとのお達し。如何にも蔵未らしいオーダーである。彼は“天才”と呼ぶに相応しい音楽センスを持っていながら演奏にさほど興味がなく、本当は兼任(ギターボーカル)をやめてボーカルに専念していたい、なんなら歌うのもたまに面倒くさいと、誰憚らず宣っていた。また、苦いものが胸を駆ける。思わず首を振った。 「? どうかした?」 「ああ、いえ、……別に。先輩と蔵未サンって、やけに、仲いいっすね」 「そうだね。可愛がってくれてる。俺にも、なんでかよくわかんないけど」 潮にはよくわかっていた。それは蔵未孝一が本来、選ばれる側ではないからだ。彼は、圧倒的に、選ぶ側だ。 “天才”を表す「gifted」は、その才能が天賦のもの、神から与えられた贈り物(gift)であることを示す言葉である。神から選ばれて、与えられた(gifted)者たち。だが天才とは寵愛に浴する者のみを指すのではない。自ら選び、掴み取り、あるいは奪い取る者もいる。蔵未孝一は後者である。彼は音楽に選ばれたのではなく、音楽を“選んだ”。そして当たり前のように従わせた。自身の才気や能力の捌け口をたまたま音楽に定めただけだ。実際、彼は在学当時、演劇部にも所属していて、類い稀な才を見せていたという。そして、あっさり、それを棄てた。 「学園祭の準備あるから、忙しいって言ったのにな」 「準備、ですか」 「うん。新曲、まだ仕上がってないし。劇部のほうも、詰めの季節だし」 ……そう。この先輩もまた、演劇部と軽音部を掛け持ちしていて、その両方で、“選ばれた”才を見せている。彼の進退について語るとき、人は皆「どちらへ行くのか」を問う。どちらかへ行くだろうことは、周囲にとって自明だ。本人の意思はさておくとして。 「先輩は、」思わず、聞いていた。「どっち、行くんすか」 「?」 「音楽と演劇。……どっち、行くんですか」 「ああ、」 ふっと顔を上げ、なにか簡単に受け答えをしようと開きかけた口が、途中で止まり、ゆっくりと閉じる。そうして俺の目をじっと見る。真っ青な、真っ青な、怖いくらいの青色が、自他を隔つ殻に浸みてくるようで。内側を、覗かれるようで。 (——それは一種の侵略でしょう。) 「潮」と、彼は名を呼んだ。「“選ばれる”って、どういうことだと思う?」 「、え?」 「“選ばれてしまった”側に、“選ぶ”自由があると、思う?」 考えたこともなかった。選ぶ自由? 選ばれて“しまった”? 反感を覚えてもいいような口ぶりなのに、困惑が先に来た。反応に迷う間にも、彼の青い目が刺さる。 「僕は、蔵未先輩とは違う。どちらを棄てる自由もない。僕に、どちらかを“選ぶ”権利が、あると思う? 二つあるんじゃない。二つの道があって、どっちへ曲がってもいいわけじゃない。二つ鎖があるだけだ。どっちからも、壊れるまで、引っ張られる。あるいは壁が二つ。どちらからも、追いやられて、いつか潰れる。僕は、」 一つ、息を吐く。目が虚空へと逸れた。 「駄目になるまでやること以外、許されてない。音楽からも劇からも、逃げることなんて許されて、いない」 沈黙。微かな身動きの衣擦れが、やけに響く。鼓動が酷く強く摶たれるのを感じながら、ようやく、口を開いた。精一杯の抵抗だった。 「……嫌なら、辞めたらいいじゃないですか」 再びこちらを見た彼は、笑っていた。
「それは、君もでしょう?」
苦しい。 ズン、と胸に重く、何かが、打ち込まれて息が詰まる。彼の薄い笑いはきれいで、途方もなく残酷に映る。 「嫌なら、辞めたらいいじゃない。出来ないんなら辞めたらいい。やってもやってもしょうがないって、思うんだったら、辞めたらいい。苦しいだけだもの。意味が、ないじゃない」 手のひらが湿る。喉が狭まる。息が出来ない、鼓動が、バクバクと胸を圧迫して内側から潰されるようだ。脈拍が、指先まで届いている。痛いくらい、感じる。 「でも、」すうっと、笑みが消えた。目元が、微かに顰められ、揺れる。 「やるしかないんだろ。……何が違うの」 何も言えなかった。 目を合わせていられず、俯くのと、彼が立ち上がろうとするのとが、ほぼ同時で、彼はギターを手に取りながらぼそりと言った。ごめんね。君にとって、嫌な言葉になるだろうとは、思っていたんだ、ぜんぶ。 「けど、君を誤魔化してはいけないと思った。……もう、帰るよ」 その時。先輩の制服から、シンプルな電子音が響き、ブレザーの胸ポケットに仕舞っていたらしいスマートフォンを彼は片手で取り出した。画面を確認し、少し首を傾げる。一度、ギターをスタンドに戻し、俯いたままの俺のほうを見た。 「潮。ご飯食べる?」 「、へ?」 「蔵未先輩がね。沢霧先輩と、あとその辺で会った子と、ご飯行くんだって。それで、その場に誰かいんなら誘えって言われた。から……一応」 「……なんすかその面子」 「わかんない。……あ、あと、佑も来る。はず。これから誘うけど。佑とは、仲がいいんだろ? 君」 どういう神経で誘ってるんだと思った。今の今まであんな会話をしてた自分と、ほとんど俺と関わりのない俺の苦手なOB二人と、どこの誰ともわかんねえヤツとが連なる席で、晩飯食おうって? 佑さんとだって最近になって少し話をしただけで、決して気安い仲ではない。楽しめるわけは微塵もなかった。だけど、これを断ったところでどうせ“自傷”をするだけだ。同じ“自傷”ならこっちのほうがまだマシなのかもしれない、……結局、流れに任せるような気持ちで曖昧に、頷いた。 「ん、」それを見て彼は、返事を打ち込む。「三城駅のファミレスだって。一緒に行こ」 「……はい」 「ねえ、潮」 「……なんすか」 「他の生き方は出来ないんだよ。僕たち、きっと、……どちらもね」 レイク・プラシッド・ブルーのギターを、ケースに収めようと寝かせる。俺はスティックを袋に入れて、鞄に仕舞う。逃げるように言った。 「それで納得できるんなら、——こんなところに今、いません」 返事を待たず歩き出す。数秒ののちに、ジッパーを、ギュッと閉める音が聞こえた。
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「馬鹿と悪魔はなんとやら」
れーじくん(@reyji_1096)のスパイパロ設定をお借りして第3話。前回はこちら。 お借りしたよその子:シド・レスポールくん(@chhh_M)、花表はやてくん(@tnyak28)、東堂紫音さん(@hixirari)
最悪だ。この職に就いてから、かれこれ185回目くらいの“最悪”だ――シドは目許にかかる銀髪を、フウッと息で吹き除ける。同じ職に就く友人から『無茶振り』をされた16時間後、彼は本部へ向かう途中で何者かによる襲撃を食らい、携帯と時計を殺(こわ)された。おかげで時刻は分からないし本部と連絡も取れないし、シャトルバスには乗り遅れるしこちらの銃は当たらないし、どうやら相手は5人ほどいるし良いことなしなのである。もひとつおまけに、マガジンにはあと7発ほどしか残っていない。換えのマガジンはいま身を潜めて銃弾をやり過ごしている塀の向こう、道路に投げた鞄の中。5人のうちの一人はどうやらアサルトライフルを携えていて、たまに、塀に穴が開く。どうしたもんか。 「援軍が無ェと厳しいぜ」思わず独りごちる。「っつっても、……今回は単独だし」 死んで遣る気は毛頭無いが、策が浮かばない。こんな時、あの友人ならどうするだろうと少し考えてみたものの、脳裏の彼は「7発あれば全員殺(と)れる」と言うだけだった。「銃弾を無駄にするな」、とも。 参考にならねェ。吐き捨てて、シドは銃を一回転させる。落ち着け、機会はあるはずだ。なんとかこの場を逃れる機会が。そりゃあ、天から降ってくる福音なんぞは、期待できないにしても、―― 「シドさーん、目と耳塞いでくださーい」 突然、声が響く。“頭上から”。驚いて見上げるのと、ビルの4階ほどの窓から身を乗り出した“見知った顔”が何かカタマリを落としたのとはほぼ同時で、シドは咄嗟にその意味を悟り耳を塞いで目を閉じる。口を開けて待機していると、すぐに背後に強烈な光源が生まれ、爆音が鳴った。それらが去った瞬間に素早く鞄を取り、ビルの中へ逃げ込む。足を止めずに駆け上がれば、とっくに部屋から出ていたらしい“見知った顔”と目が合った。其奴は相変わらず緊張感のない笑みを浮かべ、エレベーターを指す。 「屋上いきましょう。ヘリがくるんで」 「……おう、……お前、なんでいるんだ?」 「さあ? 僕も『なんで』かは分かんないんですよね。ここで待ってろって言われたからその通りにしたら、下で銃声がし出して」 「し出して?……ってこたァお前、しばらく様子見てたってことかよ」 「あ。バレました?」 「このヤロウ、」 「まあまあ。助けたんだからいいじゃないですか、シド・レスポールさん」 ミルクティー・ブラウンの髪が、首を傾げた拍子に揺れる。仔猫のようにイタズラな気配を帯びたナイルブルーの瞳は、愉快を底に閃かせつつシドを見ていた。短く、深い嘆息ののち、シドは皮肉交じりに告げる。 「……“借りは返す”ぜ、トリイハヤテ」 「ええ。3倍返し、期待してます」 チン、と間抜けな音が響いた。エレベーターが着いたらしい。消化し難いモヤモヤを胸に抱きつつシドは乗り込む。トリイがなぜ? 誰の差し金で、―― 「ふん。そんなことも分かんないの」 黒縁の眼鏡越しに紫音を見遣ったアーネストは、そのままふいと目を戻し、部下に対する返答を続けた。 「チップの仕組みは説明したでしょ。応用くらいこなしてよね」 「まあまあ、女王陛下。そのへんにしたげて」 仮にも上司の立場ながら、諌めるような口ぶりになる。この兄弟は揃いも揃って、非常に優秀だが、優秀ゆえに、そうでない者の気持ちがてんで分かっていない節がある。兄のほうは後進の育成に関わらないのでそれも良いが、弟のほうにはその技術とセンスをぜひ次世代にも受け継いでいただきたいので、困った話だ。 「シオンまで、そんな呼び方」技術課の『女王様』は、拗ねた風な口を利く。「君は俺の上司なんだから、そんな呼び方する必要ないでしょ」 「僕は敬意を表しているだけ。拗ねないで、アーニー」 「ふん、」再びツンと顎を反らして彼は言う。 「シオンだから信じてあげるけど、他の人なら、ずっと拗ねてるからね」 技術課の最高責任者アーネスト・シザーフィールドは、諜報課のカーティスの実弟、シザーフィールド家の第三子であり、また、稀代の《天才》である。コミュニケーション能力以外のありとあらゆる頭脳労働が他者より飛び抜けて良く出来た彼は、齢10にして博士論文を書き上げ一躍名を知られることとなった。分野を問わずその才を見せつけていた彼であるが、環境のせいもあってか徐々に“家業”に興味を持ち始め、割とすんなり今に至る。現在、紫音率いる秘密組織《H.O.U.N.D.》は、兵器開発のほとんどを彼に頼っている次第で、まだまだ彼は若いとはいえ何があるかも分からないので(と、いうような話をすると実兄は顔をしかめるのだが)、後進育成にも力を入れている。……しかしまあ前述の通り、彼が唯一恵まれなかった『コミュニケーション能力』が多く求められるこの業務において、彼はなかなか成果を出せずにいる。無理もない。彼には「分からない」という状態が、全くもって“解らない”のだから。 「それで、今日は何しにきたの」 アーネストはラボからガ���ス戸と通路を隔てた技術長室に入り、備え付けの冷蔵庫を開く。中には技術課を訪れる者が彼に献上した“貢ぎ物”、もとい甘味が並べられていて、彼は細長いグラスに入ったパフェのようなケーキのようなものを選ぶと、冷蔵庫を閉めた。 「急用? 思いつき? 相談しに来たワケじゃないでしょ? お菓子も忘れてくるくらいだから」 「あははー、うん、そう。後者かな。エージェント・シザーフィールドの様子が変でさ」 「え。兄貴の?」 「うん、」――今日は彼を『兄』と称しても良い日だったようだ――「やけに機嫌いいんだ、口笛吹いちゃってさ。なんでかなって」 「ふぅん、……あのひと家だと、割かしそんなんだけどね。職場でってのは珍しいね」 「口笛吹くの彼」 「吹くよ。上手いよ」 「上手かった」 「なに吹いてた?」 「讃美歌。98番」 「あー。となると……」 弟は同じ旋律を、同じくらいに巧みに奏で、それから冷蔵庫の横の引き出しを開けスプーンを取った。グラスの中身へ、躊躇なく差し込む。 「エディさんに会ってきたと見た。なにかそんなこと言ってなかった?」 「あ、」紫音の脳裏には過るものがあった。「そういえば今日、本部を出る時、『兵を集めてくる』と」 「ビンゴ。エディさんと久々に仕事できるから、嬉しかったんじゃない?」 紫音は彼に今回の件を依頼した日のことを思い出す。『君がメンバーを選んでいい』と言った際、彼のあの、不気味なほど青い瞳の奥にほんの少し喜色が差したのを紫音は見逃していなかった。成る程。 「エドワード、ねえ。僕からすると、胡散臭くて調子いい営業マンって感じなんだけど」 薬を売り込みに来るときの、貼り付いた笑みが思い出される。エドワードは普段製薬会社の営業として働いていて、しばしば新薬を提供したり、以前売り込んだ薬品の使い心地を聞きに来たりする。《H.O.U.N.D.》全体の責任者である紫音はそちらの顔の彼としかほとんど関わったことがなく、彼個人が裏で傭兵として依頼を受けていることを知ってはいても、その仕事ぶりの、詳しいところまでは分からない。 「まあ、アレ、100%(ひゃくパー)体面だから」 アーニーはデスクに腰掛けて言った。 「昔のエディさんってなんか、今と印象真逆だったよ」 「あれ。アーニーは知ってるの?」 「知ってる、一応。兄貴の幼馴染だし」 「え!? エドワードってそうなの!?」 「そうだよ? なんだと思ってたのさ」 「カートの軍時代の同僚……」 「それも事実だけど。元々は、同じ学校に通ってた幼馴染だよ。家も近かった」 絶句した。所属する諜報員の、経歴、過去の作戦と成績、面識のある上司部下まで漏れ無く把握していても、プライヴェートに関してはこんな初歩的なことさえ知らない――とはいえ、今回の件については少々迂闊すぎたかもしれない。もうちょっとしっかり目を配らねば。 「つまりカーティスにしてみれば……気心の知れた相手なのか、彼は」 「会うだけで機嫌良くなるくらいね。ほぼ唯一の親友なんじゃない?」 「唯一? シドは違うの?」 「シドさんは、……友人でもあるけど、兄貴にとって玩具(オモチャ)でもあるじゃん」 「ああ……」 「うん。だからカテゴリが別」 自らとさほど変わらぬ背丈の銀髪を、思い浮かべる。同情を覚え手を合わせた。 「そうか、ふんふん。把握した。さすがアーニーはカーティスのことよく知ってるね」 「まあね」彼は心なしか得意げに胸を反らした。「一応、兄弟だから」 彼がカートとの兄弟関係を自慢してくるか疎ましがるかは、残念ながら日によって異なる。気分屋な彼の心情は山の天気が如くであり、日ごとに歩く山道を変えなければ、無事には登れない。紫音は安全なコースを見極める目が育っている、というよりは、「今日はどの道が危険か」というのを試験するのがうまかった。小石をひょいと投げてみて、反応を伺うのである。小石がすんなり土に埋まって動かぬようならその道は安全。衝撃に斜面の土がパラパラ落ちるようなら危険。ちなみに、こうした見極めが致命的に下手クソなのが、―― 「ア!! 誰かオレのこと褒めてる気がする!?」 「そうか。気のせいだな」 ――閑話休題。まあ、近いうちに出てくる。 「今日は“忌々しい赤髪(ピピリ)”もいないし、シオンは来たし。気分いいね」 アーニーはくるりとチェアを回して、背後の巨きな丸窓から英京(ロンドン)の街を見渡した。透明なガラスには水滴がいくつか吹きかかっている。まだ降り出したばかりのようだ。 「ホント、いつ見ても曇ってるなあ、ココ」 「そうだね。でも、それがシオンの街」 「……僕の?」 「そ。ココは君の街。君と俺たちが、守っている街」 アーニーはグラスを置いて、席を立った。窓辺に佇む。紫音も自然と後を追い、並ぶように立った。 「ご覧よ、」彼は半身を振り向け、その手で眼下を示す。「四六時中薄曇り。いつ何時も雨の匂いがする、どんより暗くて古めかしくて口を開けば自虐か皮肉の、そのくせ気位ばっかり高い、なんとも面倒くさいこの街は、……君が守ってるんだよ。4年前から、ずっと」 紫音はもう一歩窓辺へ寄って、両の手と額をガラスにつけて、まじまじと、街並みを見つめた。勿忘草色の大きな瞳を瞬かせる。これが、ボクの街。 「ううん、違う」やがて紫音は、その体勢のまま首を振った。 「? 違う?」 「うん。ボクの街じゃあないんだ。ココは、」 それは5年前。北国の山岳。 「ロンドンは、——蔵未さんの、街だ」 (いいか。俺はいつまでも、“使われる”立場でいるつもりは無い。) (私兵が欲しい。俺だけの弾丸(たま)が。) (お前の欲しいモノをくれてやる。お前の戦争(たたかい)の目的を俺が達成させてやる。だから、)
「俺の、武器になれ。《革命家(イレギュラー》」
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「ちょっと長話、僕と彼とのハナシ」
れーじくん(@reyji_1096)のスパイパロ設定をお借りして第2話。前回はこちら。 お借りしたよその子:東堂紫音さん(@hixirari)、ヴァルツァくん(@reyji_1096)
ヒュウ、と高らかに口笛を吹き彼は車のキーを取り出す。家の鍵なども束ねてある大ぶりのキーリングを人差し指で一回転させ、目当てのそれを掴み取るとドアの取っ手に軽くあてがう。触れさせるだけで解錠可能なチップ内蔵の最新機種。片手でそのまま取っ手を引くと、もう片方の手に提げていたブリーフケースを助手席へ放る。長身を折り曲げるように運転席へと滑り込み(その車は十二分に大きな造りをしている。要するに、彼があまりにも規格外なのだ)、電源へ再びキーを当てようと腕を伸ばしたところで彼は異変に気づいた。背後、誰かが笑う。 「暑いな、外は。冷やしておいたぞ」 ルームミラーにて後部座席を確認。一瞬警戒を宿した瞳はすぐに和らぎ——あるいは、和らいだ“かのように”繕い——すぐに表情を戻す。ハンドルに手を置きながら、鏡越しに彼は尋ねた。 「気が利くねカート、久しぶり。ところで君って連絡とって待ち合わせするって芸当はできない?」 「サプライズってヤツだ、嬉しいだろ? 少しは驚けよ、隠れた甲斐がない」 「やだなあこれでも度肝抜かれて膝ガクガクになったんですけど! 見えない? ほら。怯えた子鹿のよう」 「微動だにせずによくもまあ。……相変わらずだな、エドワード」 普段用いる愛称を敢えて避けた様子の青年は、黒に近いネイビーのスラックスに包まれた、長い脚をそっと組み替えた。運転席に座る彼、——先程【エドワード】と呼ばれた金髪の男——は見慣れている筈のその青い瞳の青さに改めて息をつく。《ホントいつ見ても嘘くせェ。食紅かなんかで染めてんじゃねえの?》 「それで、今回はどんな用? もしかして我が社の新製品を導入したくなったとか! ちょうど近ごろ麻酔薬の開発中でね試作品を是非とも君らに、」 「営業は結構。その辺りの用事なら俺ではなくて弟が来るよ、わざわざ俺が訪ねてきたのはもう少し“込み入った”話だからだ。察しはつくな?」 「僕そういう言外のコミュニケーションって苦手なんだよねえ。ハッキリ言ってくれないかな、『善良な一般市民の僕をクソ厄介な国家機密に巻き込みに来た』って」 「ほら、分かってるじゃないか。話が早くて助かるね」 「全く良心の呵責とかないの? 製薬会社の一営業マンを銃撃戦に晒すだなんて、プロとしてどうなんですかねえ。畜生にも悖る!」 「呵責? どうして。俺がお前に」 カーティスは身を乗り出すと唇をやんわりと撓め、背凭れ越しに【彼】の身体を抱きしめる如く手を這わせる。【彼】の耳元に口を寄せ、鼻にかかった声で、ささやく。 「嬉しいくせに。“僕”と一緒に、命懸けのお遊びするの、好きでしょう?」 依然としてミラー越しに視線を投げつつ《彼》もまた、僅かにその表情を変えた。両の碧眼に光が射して緑が一層強くなる。微かに上がった眉と唇は、同じだけ微かに歪んでもいる。返す言葉の底が笑っている。 「いったい全体お前は《俺》に何させたいんだ、ゴシュジンサマ」 「詳細はあとで。まずは車を走らせて、何処でもいいから、誰もいないとこまで」 「そんなとこ行ってどうすんだよ」 「“言わせないでよ恥ずかしい”。僕は息抜きも兼ねて来たんだ、旧友に会いにね、後は分かるね?」 「……息抜き、ねえ……」 呆れた風に溜め息を吐くがまんざらでもない様子である。レバーをDに入れアクセルを踏むと、既にエンジンのかかっていた車両はスムーズに動き出した。青年は後部座席へ戻り、しっかりとシートベルトを締める。 「慎重に運んでくれよ。お前の運転は荒すぎる」 「ハイハイ。名家の御子息を乗せて暴走運転はしませんよ、これでも仕事中は制限速度守る主義なので!」 「何を偉そうに。基本的にはいつでも守れ」 窘める口調に反し実に楽しげに青年は応えた。窓外を見遣る。燃えるような緑。何とも快い夏の午後—— 彼の唇から調子よく奏でられる旋律に、上司は些か驚いたらしい。カーティス・シザーフィールドは上機嫌にしろ不機嫌にしろ他人とそれと分かるような態度を滅多に取らぬ男で、ゆえに紫音も浮かんだ疑問をついつい口に出してしまった。 「どうしたの? 随分機嫌がいいね」 「これはこれは、我らが頭領。失敬、少し息抜きをしてきたもので、気分が良くて」 「別に謝ることじゃないけどさ。息抜き? いったい何してきたの」 「旧友と遊んできたんです。ちょっと、公園でね」 「公園でェ?」 「ええ公園で」 「公園で何して?」 「十代の子どもでもやるようなことですよ。まあ、褒められたものじゃないでしょうけど」 「……よく分かんないや、……構わないけどさ。たまにはもう少し分かりやすい話し方をし���くれよ、エージェント・シザーフィールド」 「承りました。善処いたします」 普段は使わぬ丁寧語で以って終始機嫌よく答える彼に紫音は若干の不気味さを覚える。カーティスが此処で働き始めてかれこれ三年近くが経つがこんな様子は初めて見た、体温の存在が危ぶまれる程の無表情で涼しく仕事をこなすのが彼で、腹を開いたら電子基板が覗くんじゃないかと疑っていたのに、——まあ、その表現は単なる比喩とも言い切れないところがあって——というのも彼の脳には実際、電子基板が組み込まれている。 カーティス・シザーフィールドの実家は代々伯爵の称号を戴く、れっきとした貴族である。現当主は彼の父親で英国空軍中将、スティーブ・シザーフィールド。かつて騎士の位に就きながら武器商人として財を成した一家は、現在、主に株式の売買やファンドの運営、不動産業などで莫大な資産を維持している、……ことに、なっている。「表舞台」に置くにはどうもきな臭い“家業”を「舞台裏」へ移し、兵器開発による軍事協力を今も密かに行うシザーフィールド家は、長女と母を除いて家族全員が国家の防衛あるいは諜報の職に就いている奇妙な一家だ。自然、物騒な人脈も多く、稀に蔵未が彼のツテを頼りに来ることもある。 そんな一家の第二子、もとい跡取り息子として生まれたカーティスは、幼少期に誘拐に遭いその際使われた薬品によって脳の一部を損傷した。一命は取り留めたものの意識の戻らない愛息子を前に、父はどうにかして彼を取り戻そうと頭をひねった、そうして藁をも掴む思いで縋ったのが“家業”で当時開発中だった生体融合基板——有り体に言えば、脳の一部をコンピュータへと置き換える技術である。 ある種の賭けだったその選択は、結果的には正解だった。何なら『大正解』だったと言ってよいほどに正解だった。移植手術から三日後、突然目を覚ましたカーティスは喜びに湧く父親の腕をゆさゆさ揺すってこう訴えた、「すごいよ、パパ! “ぜんぶみえる”! “ぜんぶみえちゃう”よ! ねえ、どうして?」……その時、彼の脳裏には病院中の監視カメラの映像が同時に流れ込み、またそれら全てが彼の裡で、違和感なく把握されていた。 父はその後、実用化を目指した人体実験の幾つかの失敗を経て、息子の手術の成功が奇跡であったことを知る。大抵の人間はそもそも基板に適合できず、運良くそれが叶ったとしても基板が脳へ流し込むデータの制御も感知も理解もできなかった。だが彼の愛息子は、殆ど完璧にデータを解析し管理し必要に応じて消去し、通信技術の扱い方を誰に学ぶでもなく習得してあらゆる電子機器を“ハッキング”するようになった。よほど複雑なシステムでない限り呼吸と同じレベルで、とはいかずとも指を鳴らすくらいの感覚で、およそ回路と呼ばれるものを内蔵するすべての機器を掌握することができたのだ。文句無しの成功例。この世界にまだ、彼しかいない。 彼しかいないので、そして本人もまんざら嫌ではないらしいので、仕方なく父は基板の改良を彼に頼って行うことにし、現在彼の大脳は無線の類いも搭載している(軍仕様に高度な暗号化を済ませてあるため、こちらの通信が傍受される恐れはほぼないが、逆はままあるようで、他人のおしゃべりやら音楽鑑賞やらを時たま拾ってしまっては重い息を吐くのが常だ。「憂鬱な事務仕事をさあ片付けようという時に『ご陽気な若年層向けポップソング(アニソン)』なんぞ流されると、つい、殺意が湧くね」)。こうした彼の特殊な事情と彼の適性とが合わさった結果、彼の将来が諜報員へと行き着いたことは、さして意外でもあるまい。息子想いの“親御さん”は、危険を伴う職務に彼を放り投げたくはなかったらしいが、上昇志向の強かった彼はむしろ望んでこの職に就き、就いたからには、最善を尽くすという性分ゆえ日々激務に追われている次第。 何にせよ、常とは違う事柄というのはそれがどのような類いのものでも管理者にとって不安の種だ。未だに人と為りの掴めぬ、優秀だが極めて厄介なエージェントを分析するために紫音は彼の“親類”を訪ねてみることにした。無線で一つ、連絡を入れ、地下へと至るエレベーターに乗る。 「あ、そうだ。お菓子」 献上品を忘れたと、ドアが閉まってから気が付いた。まあ、あの“女王様”はボクに甘いから、見逃してくれることだろう、……多分。 「いやあ、それはどうかなあ。危険な賭けだと思うけど、僕は!」 『そうかい? だけどオッズ1位の賭けなんてスリルが無いよ、トベない。だろう?』 まだ日も高い真っ昼間、ユニフォームに身を包む客にあふれたスポーツバーの隅。エドワードは片手に携帯を持ち、片手でジョッキを掴みながらカウンターの上方へ目を遣る。掲げられた小型テレビにはサッカーの地元リーグの試合が映し出されていて、通話相手との話題もどうやらこの試合に関するものらしい。 「さあねェ、僕には分からないな。ハラハラとかドキドキとか、僕は人生に求めてないからね」 『嘘つけよ!』通話相手はエドワードより、幾らか年若い少年のようだ。『だったらどうして、金に不自由する身分でもなしにこんな危うい仕事を受ける? スリルのスの字もない日々じゃどうにも渇いてしょうがないから、こうして“道を踏み外す”んだろ。違うか?』 エドワードは彼の言葉遣いを気にするでもなく、しかしまた、別の理由で表情を消す。誰一人として自身の存在に注目していないと判断した時、彼はしばしば自らの表情の保持を中断する。裏を返せば彼の薄ら笑いは意図的に保持されたもので、つまり性質としてはかの政治家、——蔵未孝一が用いる微笑と、非常に近しいものだと言える。暫時、仮面を外した彼は、また元どおりに口元に笑みを浮かべて返答した。 「僕はね、保険の“効く”人生をこの上なく愛してるのさ。安定、安寧、平穏無事。これが僕の欲するもの全て。生存が恙無く終わりまで続く以上のことを欲する気なんか毛頭無い」 『へえ? なかなか、説得力に欠けるね』 「ではなぜカートに手を貸すか?……単純に、合わないのさ」 『合わない?』 「そう。平穏無事で安定した生活は、欲してるけど、肌に合わない」 ジョッキを置き、ナッツを頬張る。あらかた砕き終えてから、続ける。 「ゲームみたいにさ、人生には日々選択肢があって、それを選びながら僕ら生きてるでしょう? たたかう、にげる、アイテムを使う、……あるいは『おはよう』と言う、『前髪切った?』と言う、『素敵なお洋服だね』と言う……エトセトラ」 『ふむ、まあ』 「そんな中で僕が真っ先に選んでしまう項目っていうのは、どうやら毎度毎度、物騒なんだ。時には他の人の眼前には表示されてない選択肢が僕の目にだけ見えていて、また至極当然にそれを選ぼうとしちゃう、なんてこともある。平穏無事な生活を営むためには、僕は僕の初期設定(デフォルト)に幾らか手を加えなきゃいけない。“常に”」 『……』 「ハハ。ヴァルツァ、君にも分かるだろう?」 『さあね。僕は元より手を加える気なぞさらさらないから』 「うむ、そりゃそうだ。けど僕みたいに無理に平穏を掴もうとするとね、こういう目に遭う」 『……それで?』 「そう。まあだから、疲れてくるわけだ。平和を愛する僕だけど、平和のほうは僕を好んでいないからね、四六時中僕があっちに合わせていかなきゃいけないワケ、だいぶ息苦しい。……すると、初期設定のまんまでいられる“昔の男”と寝たくなる。いい加減手を切りたいんだがやっぱりホッとするトコもあってね、しばらく一緒にいるうちにどうせすぐイヤになるんだけど。銃声とか火薬とか大怪我とか、もうこりごり! ってさ」 『……成る程』 「ハラハラもドキドキも、真っ平御免だ。僕は安全圏で生きてたい。ただ安全圏で生きる“滞在(ビザ)申請”をし続けることに、そうだなあ、……嫌気がさす日も、あるのさ。時には」 『分かるような、分からないような』ヴァルツァと呼ばれた少年は、首をひねるような間のあとに、『まあ要するに。君は妻のゴキゲン伺いに疲れて昔の男と寝たりする、道徳に欠けた不倫野郎ってコトかい?』 「あはは! いやいや、言い得て妙だね。ところで、」 『ん、なに』 「点が入ったねえ。君が賭けた通りの結果になりそうじゃないか、よかったね?」 『えっ、——って何だよ、真逆じゃん! 君ってホントそーいうとこだぜ』 「失敬失敬! そろそろ切るよ、“カミさん”がお家に帰ってきてってねだるもんだから」 『ハイハイ。じゃ、夜に』 「夜にね。バイバーイ」 さて通話を切り、そのまま彼はしばし画面を見つめていた。先程と違い口元に湛えた笑みは変わらなかったが、夏の色をした碧眼がゆっくりと夜へ冷えていく。青みを増した瞳を、やがて、少し細めて彼は画面を消した。ポケットへ仕舞い、ジョッキを掴み直す。半分以上残っていた中身をグイと一気に干して、机を鳴らせば酔客がこちらを向いて囃し立てた。 「よう、兄ちゃん。イイ飲みっぷりだな」 「お褒めに与りまして」彼は、勘定を整え鞄を手に取る。「試合、勝てるといいですね」 店を出る。ドアの向こうから、まだ喧騒が聞こえてくる。空いた手でジャケットを肩に掛けつつ石段を降りると、エドワードはふと空を仰いだ。日に雲が被る。陰が差し、裏側で輝く光が雲の縁を眩しく照らす。不意に、涼やかな風。微かな夜の気配。 頭の裡に閃いた幼馴染(かれ)の黒髪を捕えるように、エディは一瞬、瞳を閉じた。
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「そういう訳で、状況開始だ。」
れーじくん(@reyji_1096)が作ってくれたスパイパロ設定で小話。 とりあえず書きたいとこだけ書いた、きっと続きも書く(はず……)。 お借りしたよその子:東堂紫音さん(@hixirari)、シド・レスポールくん(@chhh_gn)。
男はCAとすれ違い、ベルトが彼女の腰に当たったのを短く詫びた。ネクタイに手をやり、表示を見ながら自身の予約した席を探す。A12、B12、C12、……アルファベットを7つほど数えた先に目的地はあり、奥には見知らぬ男が座っている。覆いを上げた窓に凭れ、地平線に佇む夕陽をその横顔に浴びる青年は、ささやかな寝息を立てていた。男は青年の顔と、銀髪を、窺ってから席に座る。まもなくベルトの表示が点き、出発の近いことを告げるアナウンスが流れ出す。 男はカフスを直すそぶりで、金属製のボタンをいじり、何かを取り出す。それは針に似ている。続いてバッグのポケットを探り、エピペンに近い形状のものを取り出した。再び青年の様子を窺う。まだ、眠っている。 旅客機が動き出す。男は針を連結する。滑走路に着いた旅客機は加速し、エンジンの轟音が機内を包む。機体が上向く。男が、青年の首元へ、その注射器を差し向けて、―― 「あのさ」 気づいた時には男の手首はがっしりと彼に掴まれていた。狸寝入りだったのか? いや違う、この瞬間に起きたのだ。瞼に隠れて見えなかった深緑の瞳が、今は愉快げに、男の動揺を捉えている。旅客機が離陸する。周りの誰も、彼らを見ていない。 「俺の寝顔に見惚れちった? そんなアプローチモテないよ」 そこで男の意識は途切れた。次の瞬間の一撃を、視認することも叶わなかった。 スーツに身を包み、背筋を伸ばし、口許には常に微笑みを。侮辱、無礼の類は大抵、政治の場では他(た)の意図を持った揺さぶりとして現れる。仮面として笑顔ほど堅牢な表情はなく、ゆえに蔵未は如何なる場合でも唇に浮かべる化粧を落とすことはないのであるが、難しいのは攻撃の自覚を持たぬ非礼を受けた時、――則ち、非礼としての非礼を被った際の対応だ。その日、彼は珍しく頬周辺の皮膚の引きつりを堪える努力を強いられた。詳細は省くが、欧米型の時代遅れな優生思想家に遭遇したとさえ伝えれば、事足りるだろう。 彼は軍属の昔から銃器が大の苦手である。照準を合わせる才能がない。脅迫と警告以外の用途で銃器を��ることはほぼ無く、彼が命を刈る武器は専ら一振りの刃であった。が、彼の射撃の腕が冴え渡る例外が一つ。それはこういう瞬間である。つまり、具体的に思い描ける“的”がある時。 「えらく調子がいいですね、今日は」 全弾、狂いなく人型の頭部に叩き込んだ彼を見て、射撃場の主人は口笛を吹いた。その理由をよくよく了解している当の本人はただ苦笑い、新たなマガジンを装填する。と、同時に彼の胸元からシンプルな電子音が響く。安全装置をかけてから携帯を取り出し、電話に出れば、声より先に空港特有のアナウンスが漏れ聞こえてきた。 「やっほ。元気してる?」 「章吾か。まあ元気だよ、そこどこだ?」 「Heathrow. 蔵未はいまドコ?」 「相も変わらず薄曇りの倫敦、空の下、ってところだ。どうした、英国で仕事か? なんか用でもあるのか」 「いや、まあ、仕事は仕事なんだけど。用があるのは俺じゃなくてさあ、」 受話器越しに伝わる、アルファベット三文字。その意味の分かる人間が住める世界は、限られている。 「さっきココのヤツにナンパされちゃって? でも俺ココとバトッた覚えないし」 「……なるほど。確かに“俺宛て”だな、とばっちり食わせて悪かった」 「別にぃ。俺は“食わせた”ほうだし。そいつが持ってたIDやらなんやら一式、要るならやるよ?」 「そうだな。取りに行かせるよ、サンキュー」 「ええーっ会いに来てくんないの」 「遠恋中のカノジョかお前は。ホワイトカラーもそれなりに忙しいんだよ、拗ねるな」 「ちぇっちぇっ。まーいいや、そのうち会いにいくし。んじゃそろそろ小銭切れそうだから」 「はい、はい。またな」 「ん。バイバーイ」 さて。通話の途切れた携帯を片手に、蔵未はしばらく画面を見つめた。やがて彼の親指が独りでに動き、慣れた様子で番号を打ち込む。たったの1コールで回線は繋がり、その事実に自然と頬を緩ませて彼は口を開いた。や、久しぶり。 うきうきと弾んだ声音が返る。袖口から腕時計を覗かせ、時刻を確認する。PM 6:22. 紫音の私用携帯を唐突に鳴らした相手は、訝しげに画面を覗いた彼の表情の劇的な変化で誰にでも察しがついた。休日にしか会えない父を玄関まで走って出迎えに行く、そんな娘のような顔をして紫音は素早く通話に出る。その間、僅か0.5秒。 「蔵未さん! どうしたの?……うん、うん! 元気! 蔵未さんは? 僕は絶好調だよ、ほんと申し分なく!」 ついさっきまで事務作業の多さに不満を垂れ通しだった者とはとても思えぬ返答だ。とは言え、真実彼は今まさに“絶好調”なのだろう、電話に気づいて出るまでの間に状況が一変しただけのこと。はしゃぐ自分を隠そうともせず笑顔を見せるその姿に、彼が年下であることをふと思い出したりしつつカートはネクタイを締め直す。電話の相手、――蔵未孝一が他愛のない雑談のためにわざわざ携帯を鳴らすとは思えない。どうせ何かしらの“用”があり、またそれに駆り出されるのは十中八九自分であると、カーティスは重々承知していた。 「うん、分かった。僕に任せて、……うん、またね。終わったら連絡します」 通話が終わり、案の定、彼の目が己を探し始める。紫音の常駐する執務室は全面にガラスが張られ、秘匿の必要のある場合のみマジックミラーに切り替わる。本来不要なはずの機能を経費をかけて搭載してまでなぜ彼がガラス張りの部屋にこだわったのか知る由もないが、恐らく彼は「透明性」の表象としてそれを用いたのだろう。命の保証のない任務を他者に負わせる立場ゆえ、彼は一定の信頼を俺達(エージェント)から得る必要がある。くだらない策略や私欲にまみれた謀略によって君たちの命を無駄に費やすつもりはない、ということを、不断に発信する為の透明な囲い、……しかしまあ、いかほどの効果があるやら。 「エージェント・シザーフィールド、ちょっと頼まれてほしいのだけど」 スピーカーに呼び出される頃には、カートは既に階上へ向かうエスカレーターに乗っていた。なにせ紫音(ボス)にしてみれば最重要人物から直々に申しつけられた依頼だ、確実に完遂できる優秀な諜報員を選んで派遣するに違いない。休みなく続く激務に対し多少の愚痴はあるにせよ、呼ばれなかったら呼ばれなかったでどうせ不満に思うのだから大人しく受けたほうが良い。我ながら、なかなか難儀な性格をしているな、とカートは思い、そんな自分以上に厄介な面子を多数抱えながらも器用に組織を運営してみせる彼を改めて尊敬したりした。そうこうするうちにエスカレーターは上がり、彼を執務室の目の前へ運ぶ。 三度、丁寧なノックをすると、紫音は少々驚いた様子でドアを開いた。 「随分早いね。たまたま近くに?」 「いいや。会話から予想した」 「会話?……まさか、この中に盗聴器でも」 「君は自分がどういう壁に四方を囲まれているか忘れたのか?」 何かにつけて回りくどく勿体ぶった言い方をしてしまうのは英国人、それも上流階級(アッパークラス)の人間には有りがちな悪癖である。ご多聞に漏れず皮肉屋の彼が辿った迂回路をなぞるのに、紫音は幾らか時間を要した。やがて、呆れを呼気に込めて短く吐き出す。 「読唇か。つくづく性格悪いな」 「今更だろう? で、何をすれば」 「簡単に言うと資産の強奪」彼は何処へと回線を繋ぎながら答える。「あるいは、護送車の襲撃」 「……さすがに、俺一人では荷が重いが」 「ご心配なく。君がメンバーを選んでいい、必要なメンツを揃えてくれ。あ、ただスナイパーは必要ならこちらで賄う、って蔵未さんが」 「沢霧か。――割と大ごとだな」 「ちょうど英国に来てるからついでに使ってやるだけだー、なんて言ってたけどね。ほんとのとこはどうだか」 さほど有りえない話でもない。“もののついで”に依頼を受けることもあるだろう、と思える程度には、沢霧は蔵未を特別扱いしている。軽佻浮薄な銀髪の美人、軍隊上がりの天才狙撃手――蔵未とは同じ隊に属していたそうだが、しかし、それだけの縁とも思えない。 「シドは生きてるか?」彼もまた、腕時計を模したデバイスを操作しつつ紫音に尋ねる。 「まだ死んでなけりゃ使いたいんだが」 「だいじょーぶじゃない? 君と似たり寄ったりの社畜性能だもの、ちなみに今ペルー」 「半日で帰れるな。連絡する」 「たぶん今日で80連勤。君ならイケる?」 「寝れてれば。第一俺たちに完全なオフなど無いよ、そうだろう? ボス」 ごもっとも、と紫音は頷き、繋がった通話の相手に挨拶をする。Guten Tag! ボスに背を向けて執務室を出たカートの耳元に流れてきたのは同僚の声だった。オイ、なんだよカート、オレは仕事中だぞ。 「更なる仕事のお誘いだよ、残念ながら。受けるだろ? 今すぐ片付けて帰ってこい、派手な任務になりそうだ」 「ったく好き勝手言いやがる。派手って?」 「そうだな。お前流に言うなら“ドンパチ”ってところか」 「ヒュウ! そりゃあいい、秒で済ませて帰ってやるぜ」 「半日で来い。じゃあな」 無茶言うなよ! と聞こえた文句を途中で切ってカーティスはブルートゥースのイヤホンを外す。残りのメンバーを見繕わねばなるまい。資料は既に紫音から送られていることだろう、計画を練り、手続きをし、さてどのように事を進めるか…… 好きで着いた仕事とはいえ、と、カートは独りごちた。やはり仲々に面倒だ。3日くらい何も考えず、ひたすらハワイで、寝ていたいな。
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夏、それぞれ。
遠子さん(@tohko_aoi)宅の葵ちゃん、 にぱさん(@28nipapa)宅の潮くん、 グロスケさん(@gusuke3)宅の緒方くんをお借りしました。 学パロです、シンメトリックの続き。そしてまたもやグロスケさんのお誕生日祝いだったり。
「夏の庭には雨がふる、雨のしずくがゆれている——」 爽やかに吹く風に長い黒髪をなびかせながら、少女は傍の少年へ笑んだ。傍の少年、俊は、小さな冊子を片手に開き詩(うた)をよんでいる。薄紙を布に挟んで紐でくくったその冊子は、どうやら少女の作らしい。紙面をなぞる彼の瞳は隣の彼女の微笑みに気づかず、微笑む彼女自身もまた、自らの表情に気づいていないのかもしれなかった。自然と花の開く様に似た、答えを必要としない笑み。 「ありがとう」 少年が詩(うた)を読み終わると、少女は冊子に手を伸ばした。グラウンドから金属バットの高らかな音が聞こえてくる。一部の高校生に取り、夏休みとは平時以上に忙しいものだ。 「いい詩だね」 北側の正門に向かって凸の字に鎮座する校舎は、東側がクラス室で西側がその他の教室といった具合に区分けされており、中央に階段と渡り廊下が設置されている。校舎から飛び出た部分には渡り廊下から直接出れるバルコニーが用意されていて、しばしば生徒らがここに集い、立ち話をしたり、弁当を食べたり、教師の目を忍んでこっそり喫煙をしたりするのである。今この場にいる優等生二人はタバコとは縁もゆかりもないが、憩いの場としてのバルコニーはよく利用している。 「この詩(うた)ね、できたときからずっと俊くんに読んでほしかったの。もし俊くんの声で聴けたらとっても素敵になると思って」 「誰が読んだって素敵な詩だと思うけど、そう言ってもらえるのは嬉しい」 「詩はね、みんな俊くんのことが好きなんだよ。私の詩が、じゃなくて、詩っていうもの、ぜんぶが」 少年は銀色の手すりの、熱さを手のひらで確かめてから、ゆっくりとそれにもたれかかる。抜けるような青空の頂点に陽が燦々と照る。ふと自らの頭が手すりと同じくらい熱くなっていると気づいた彼は、あとで飲み物を買い足すことにする。 「そっか。詩に好かれてる自覚はなかったな」 「あ、いまちょっとバカにしたでしょう」 「そんなことないって」 「詩は声にのせるものだから、うたわれたい声をもってるの。俊くんは演じるひとだけど、歌うひとでもあるでしょう? だから詩に、選ばれやすいんだよ」 拗ねた風に口を尖らせる彼女を見つめ、唇をほんのり緩ませる。それは年下の身内を見つめる兄の顔つきであり実際、彼は家庭において一人の弟を持つ兄であるのだった。少女の黒髪が、大きく風に膨らんで太陽の光を弾く。不意に瞬きが彼を射て彼は自ずと目を細めた。 「まだ疑ってる」 「信じた、信じた」 「うそつき。ときどき、俊くんはひどい」 「ほんとだって。葵のいうことだから、そうなんだろうなって、思うよ」 同い年の彼からなだめるようなセリフを聞かされ不満げな彼女は、未だ納得のいかぬ様子で手すりに両の腕を乗せ、その瞬間にあつ、とないた。からりとした笑い声が立つ。少女はいよいよ膨れ面となる。 「ちゃんと確かめないから」 「だって、俊くんは平気な顔して触ってるから、大丈夫と思って」 「葵の皮膚が俺の皮膚と、同じだけ丈夫な保証はないだろ?」 なるほど、少年の澄んだ肌はそれでいて“透けるよう”でなく、どちらかといえば頼もしく日差しを撥ね返している。対して自身の肌はといえば、血管の青さの覗く、薄く頼りない肌である。少女は彼の白い肌にじっと目を凝らしいぶかしんだ。これも、男女の違いなのか? 「なんかくやしい」 「そう言われてもな」 「俊くんは、夏って、好き?」 少年はやや面食らった。しかし問いかけの唐突なのは、この少女に関してはまったくいつものことであるのですぐに落ち着きを取り戻し、答える。うん、どちらかというと、好きかな。 「でも、なんで?」 「ううん、あのね。さっき俊くんによんでもらった詩(うた)、あるでしょ」 「うん」 「あれは夏の詩(うた)だけど、俊くんは春の声をしてるでしょ?」 「春の声?」 「そう。春の匂いのするひとが、夏の詩(うた)をうたうのは、少し、不思議な感じ」 少年は物思うそぶりで口元に指を当て、その仕草は彼が何か考える際にときたま見せるものなのだが、ともかくいくらかの間を置いたあと少女へ向けて問い返した。 「もし俺がどうしたって春の匂いのするやつなんだとしたら、俺は夏の匂いのするひとを演じられないってことにならない?」 「え、」 「べつに夏に限らないけど。秋っぽいひととか、冬っぽいひととか」 「え、え、ちがうよ! だって舞台にいるときの俊くんは、もっと、こう、」 彼女の両手があわあわと上下左右にさまよった。先ほどと同様に愛おしげな笑みを浮かべて少年は頬杖をつき、彼女の動揺を眺めている。地平線には、入道雲。 「葵は、夏が似合うね」 「そうかな? 似合うかはわからないけれど、私夏が好きだよ」 「そっか」 「強い太陽も、白い雲も、青空もひまわりも花火も、ラムネの瓶もかき氷も、蝉の声も、海も。みんな好き」 少女の言葉が少年のうちにイメージを瞬かせる。肌の焼ける感覚、目を焼くような青、踏切の先に立つ陽炎、メロン色のソーダフロート、炭酸の音色、溶け落ちるバニラアイスクリーム、そのむっとこもるような甘さ。すべてが鮮やかで過剰な季節。だから、と少年は思う。だから俺は夏が好きなのか。身の回りにある何もかもの輪郭がくっきりとする、その只中にいる、俺も。 「そろそろ戻るよ」 少年は手すりから離れ、自然と少女に向き直る。ふわり香った日焼け止めはおそらく彼女のものだろう。少女は長く引き留めたことを詫びてから、改めて礼を言う。 「また作ったら、よんでもらってもいい?」 少年は頷いて、アルミ製の桟をまたぐ。苛烈に目映い日向を去って渡り廊下の日陰へと消える。少女は彼の背を見送って、髪をひとふさ耳にかけた。階下のグラウンドではそのときキィン、と金属音が伸び、白球が遠い入道雲へ飛び込むように抜けていった。
「ウリする相手待ってたの?」 未成年の身の上でマティーニを傾けながら、彼はあっけらかんとそう言った。軽さにつられてつい首を縦に振ってしまえば、彼は笑ってグラスを置く。暗い店内に飛び交うレーザーが彼の体を時たま横切る。 「うっしーってヘテロでしょ。なんで男と寝るの? イヤじゃない?」 「なんで、……ですかね」 「そんなにお金に困ってるの? 君んちお金持ちじゃなかったっけ」 わざわざ的を外してる、そのように聞こえる口ぶりだった。クラブに大音量で流れるEDMは俺の好みでも、おそらく彼の好みでもなくて、ただこの場には申し分なくふさわしい代物なのだろう。ダンスフロアを囲む形で作られたロフト部分の、奥まった一角にバーカウンターはあり、喧騒を背後に酒を飲む俺たちの周りにはいくつかテーブル席もある。俺はカクテルグラスの台座の円周を徒然となぞって、水滴に指先を濡らす。 「先輩こそ。なんでこんな遅くに」 「僕? 僕はねえ養子なのだけど養家とそりが合わないんだな、どいつもこいつも虫唾が走るからなるべく顔合わせたくないんだよ、あっちもそうだろうしウィンウィンでしょ?」 ためらいもなく発せられた言葉の意外なほどの烈しさに、俺はそのまま閉口する。特別の好感も嫌悪も抱かぬ類の人なのだと、そう、勝手に思い込んでいた。彼は“虫唾が走る”人間の前でどんな表情をするのだろう。少なくとも壇上で見せる快活でうさんくさい笑顔とは、似ても似つかぬに違いない。 「先輩、バイって言ってましたけど。先輩も男と寝るんすか」 「うん寝るよ。かわいい子ならね」 「ってことは、先輩はタチ?」 「そうそう」 「まあ、そんな感じっすよね」 「それどーいうイミぃ? でも確かにね、ネコっぽいとは言われないかなあ」 DJが変わったらしい。流れる曲調の変化に合わせ踊る人々が入れ替わり、二階席もざわめいてくる。下から人が上がってきたことで彼へ向けられる視線も増えて、しかし彼は認めるそぶりも見せず平然と話を続けている。俺はといえば今日逃した客を新たに見繕うべきか数分前から悩んでいて、なれない場所で手を出すリスクを測りかねていた。一人、やたらと目の合うひとがいて、声をかけるなら彼かな、と思う。 「セックスってさ」と、唐突に、彼が口を開いた。 「自分と他人の境界を、ちょっと破ることだと思うんだよね」 「……なるほど」 「でさ。それが双方向なら理想だけど、実際そうはならないじゃない、なかなか」 「……上下がある、ってことっすか」 「そうだね」彼は一瞬、言葉を切った。「うっしー、ウリやるときはネコでしょ」 「——はい」 「僕はタチで、だから一方的に、相手の殻を破ってるワケ。それは一種の侵略でしょう、相手の境界を侵してる。合意の上であってもさ」 露骨なハンドサインを形作って茶化してみせる。近くでまじまじ見てみれば、壮健でいっそ粗野にも感じる手であることに、俺は今更気がつく。 「まあつまり僕は受け入れるひとの気持ちってのがよくわかんないんだな。異物の侵入を許すなんてよっぽど勇気のいることと思うよ。たまに、こっちが食われてるように感じる相手もいるけど、……稀だよ。なんというか相手を受け入れるって本来とても覚悟と親愛の必要なことだと思うんだよね、現実は体と精神は違うし、キライなヤツでも顔が良ければヤれちゃったりとかするんだろうけど」 「そう、ですね」 「なんだか偉そうで気が引けるが。多少なりとも愛のある相手を選んだほうがいいんじゃないかな、なんてね。リスカの代わりに寝るなんてさ、ちょっと寂しいじゃない。ねえ」 ハーブの香りが鼻を抜ける。隣の彼のグラスからそれは漂ってきて、後を追うようにアルコールが匂った。俺は遠くでビートを刻む重低音を耳でとらえ、その僅かな崩れに眉をひそめる。 「佑さんが今ここにいるのは、リスカの代わりじゃ、ないんですか」 少々面食らった気配が体の右側に感じられる。いくらかの間をおいて、先輩は軽く笑みをこぼし、それは先ほどまで浮かべていたものと毛色が異なるように思えた。飲み干しつつあるグラスからオリーブの実をつまみ上げ、彼はパクリと、串ごとくわえる。 「してやられたなあ。うん、確かに。僕も人のこと言えないよねえ」 「なんか、すみません。生意気に」 「いいさ、生意気なのは僕もだし。たかだか君より一、二年しか長く生きてないってのにね」 ほら、お酒なんて飲んじゃってるし。おどけた仕草で縁をなぞって、彼の指もまた水滴に濡れる。ガラスを爪で弾くと彼は言葉を続けた。 「飲酒も一種の自傷だとか言うよね。曰く小さな自己崩壊であると。まあぼく全然酔わないから、あてはまるかはビミョーなトコだが」 「ザルですか。ぽいっすね」 「えっそう? 僕って色々イメージ通りな感じ? 恥ずかしい」 「ココにいるのは、意外でしたよ」 「そうでしょうとも。いそうな人間に見えてたら困るよ、生徒会長ですしね」 「……タバコとかも、吸うんですか」 「吸うねえ。あは、僕ほんとに人のこと言えないじゃない? だめだなあ」 「いえ、」 「僕は、別段現状に不満があるでもないけれど、そうだな。逃げているのは確かだろうね、現実に対処する努力を行なう代わりに、さ」 先輩の肩を叩くひとがいる。振り返りざま彼は驚いた調子で一つ名を呼んで、上手く聞き取れなかったのだがどうやら二人は知り合いらしい。ちょっと抜けるよ、と断りを入れると、彼はスツールを滑り降りフロアの人混みに紛れていく。空いた隣に誰かが座る。きっと何度か目配せを送ってきていた彼だろう。 逃げている、という先輩の言葉が、妙に鼓膜の底に残って、隣の男に話しかけるまで何音かベースを聞いてしまった。
店の奥までぎゅうぎゅうに詰めてもせいぜい五人座れるか否か、そういう狭さのラーメン屋だ。道路に面したカウンター席に丸椅子が三つ並べられ、L字に折れた奥行きに同じものが二つある。厨房は客席より一段高い造りとなっていて、青い髪の少年が厨房側で頬杖をつき、磨りガラス越しの外を眺めていた。 と、黒い人影が、ふらり姿を現してそれはだんだん迫ってくる。少年が慌てて背筋を伸ばすのと引き戸が開くのとはほぼ同時で、ギターケースを背負った男は大胆にあくびをかましたあと、後ろ手に戸を閉める。 「醤油バリカタ」 「かしこまりました! 並盛りで大丈夫ですか」 「……あー、並でいいわ。別に」 少年の挨拶に青年は片眉を上げる。短く整えた黒髪と、浅黒い肌、天井に近い背。上品な一方で荒々しくもあるその顔は、美貌と称して差し支えない。威圧感と気怠さを同時に与える見目をした彼は低い椅子に腰掛けて、ギターケースを躊躇なく、空いた二つの席に渡す。 「あんたバイト?」 「え、あ、俺ですか?」 「お前以外に誰がいんだよ今」 「あ、そうですね、はい、バイトです」 「最近来たワケ」 「えと、はい、まだ一週間くらいで」 「ラーメン屋で『かしこまりました』はねーだろ。カタすぎ」 少年は目を泳がせて、すみません、と小さく返す。大きな瞳を伏せたために、その表情は必要以上に気弱に映り、どことなく大型犬を思わせた。とは言え普通にしていれば、なかなか整った顔立ちである。戸外では何匹かの蝉がうるさく鳴き交わしており、少年の声はどうやらほとんどかき消されてしまったが、男は少年の返事を聞いているやらいないやら、スマートフォンを手にとって、フリップ操作でメッセージを送り、顔色も変えずに舌を打った。 「どうせ寝坊だろクソ」 「えと、……待ち合わせですか」 「は? ああうん、後から一人来る」 「了解です」 「……別のバイト先、探しとけば?」 少年はちらと男の表情を伺ったがそこに手がかりはなく、男はと言えばおしぼりを広げては巻き、巻いては広げ、やがて飽きると今度は卓上の種々の瓶を回し始める。全ての瓶の向きを合わせると、テープに印字された言葉をひとつひとつ読み上げる。醤油、ラー油、ニンニク、七味。 「そんなに、向いてませんかね、俺」 「じゃなくて。ココいつ来てもガラ空きだから」 「あー……確かに……」 「むしろ潰れてねえのが不思議。メシが出て来るまでもクソ遅えし」 じゃあなぜあなたはここに来るのかと、聞こうとしてやめる。実際店主は今、店の奥でおそらく昼寝していてまだ麺をお湯に入れてもいない。本当は声を張り上げて注文を復唱し、ついでに店主を叩き起こさねばならないのだが、少年はついそのタイミングを逸し続けているのだった。意味もなく伝票をめくり、息をつく。 「名前なんつーの」 「はい? あ、俺ですか」 「他に誰がいんだよ」 「あ、はい、……緒方です。緒方竹晴」 「あそ。お前、ロックとか聞く?」 視界の端に黒いケースがある。曖昧に、ひとつ頷く。 「へえ」 気の無い返事をすると彼はカウンターから腕を伸ばし、少年の手にあった伝票を奪い去る。そこに何やらポケットから取り出した紙切れを挟むと、立ち上がりつつ元の通りに戻した。見れば、一枚のチケット。青い長方形の厚紙。 「暇なら来いよ。今日俺ら演るから」 ギターケースを担ぐ様を眺める。ガラス戸を開ける背に今更ながら声をかける。 「お帰りですか」 「ラーメンはいいわ。どうせあの親父寝てんだろ」 「えと、はい」 「じゃ。またご縁があれば、ってことで」 未練なく戸は閉まり、少年はやや途方にくれる。無駄になった伝票を捨てるために板から取り外し、ついでにチケットをあらためた。日付と、場所。参加バンド名。あるグループに丸がついている。
07/XX:ヘッドライナー・The October Country
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短文 - #0728 エディとカート
玄関に腰を下ろしてヨレヨレの靴ヒモを結んでいると背後から、声変わりを済ませた彼の低音が響いてくる。スニーカーはとにかくズタボロで底が剥がれかけていて、爪先んところなんかは生地が薄れて破れつつあり、元は真っ白だったんだけど今じゃベージュで売り出したほうがしっくりくるくらいの色合い。こんな状態の買うヤツ一人もいないだろうけど。 「どっか行くの」 「ちょっと買い出し。ってか今起きたの」 「ん、まあ」 「遅くね」 「ほっとけ、育ち盛りなんだよ」 コイツはエディ。あたしのカレシ、……って言えたらサイコーなんだけど、残念ながらただのセフレ。まあでもヤれてるだけラッキーでしょ、見てよこの顔、クソみたいなスラム街には似つかわしくない美青年。完璧な金髪碧眼、ちょい厚めのセクシーな唇、垂れ気味なのにどこか鋭い目、マジたっかい鼻、スキージャンプできそう。っつっても似つかわしくないのは見目だけで、コイツも着てる服は洗濯しすぎのボロッボロなタンクトップだし、履いてきた靴もあたしのそれと似たり寄ったりのスニーカー(ただしサイズは馬鹿でかい)。うなじのあたりを掻きながら近寄ってきた彼は、天井の梁に手をかけて覗き込むように見下ろしてくる。屋根が低めの我が家では彼の頭はつっかえるらしく、ひょいと首をすくめるさまをしばしば見かける、ここ数年でえらく伸びたけどまだ伸びてんのかな、伸びてんだろうな。“育ち盛り”ですし。 「親父さんは?」 「帰ってこないと思うけど、もしきたら窓から逃げてよ。男連れこんだとかバレたら半殺しにされる」 「りょーかい。まあ気をつけとく」 「そうして。昼メシ食う?」 「あー……どっちでもいい。カート来っかもだし」 「ああハイハイ、あのおぼっちゃま仲間」 「っせえな俺をソコに入れんな」 「ってかお前金もらってないの? その服ヤバくない、買い換えろよ」 エディは元々コッチの生まれ、どころかココよりもっとヤバい裏地区の生まれらしーんだけど、どういうわけだか貴族に拾われて一応今はソコの養子。っつってもやっぱ上流階級(アッパークラス)にはなかなか馴染めないようでコッチのツレとばっかつるんでる。カートってのは生まれも育ちも上流階級なおぼっちゃまで、たまたまウマが合ったのかエディに会いによくコッチ来てる子、派手なタイプじゃないけどなかなかキレーなお顔してんだよね、顔まで上品かよ。みたいな。 「俺はいいんだよこれで」と、答えて彼はあくびした。「じゃあな」 「この靴でスケボー蹴ってきたワケ?」 「るっせーなマジ、さっさと行けよ」 気が済んだので家を出る。去り際に手を振ると、おざなりにだが振り返してくれた。こーいうトコが好きなんだよね、雑なんだけど構ってはくれんの、カレシだったらサイコーなのにな。でもエディは二股三股ヘーキでかけるので有名で、そんなスペアみたいな扱いされんなら最初から本命になんかしないに限る、多分アイツにはスペアって意識ないんだろーけど。今んトコアイツ、どうしてもモノにしたいってほど好きになったヤツいないんだと思う。エディにとってはセフレもカノジョも大差なくて、お互い相手を誰か一人に絞らなきゃいけないって感覚がそもそもないっぽい、つまり、相手のほうもエディ以外にカレシがいても構わないってワケ。それはそれで一貫してるよね。どうかと思うけど。 「あ、」 チャリにまたがって坂くだって、食堂へ向かう最中にばったりカートと出くわした。カートはボールをリフティングしながら携帯を凝視してその状態で歩いてて、器用っつかーなんつーか、事故るんじゃねえのいつか。声をかけると立ち止まり、爪先でボールを固定してみせた。サッカー部なんだっけ、お貴族サマのクセしてさ。 「何してんの」 「エディ探してる。お前アイツ見た?」 「見たってか、今ウチにいる。ウチわかるっけ」 「あー多分。ってかなんでアイツメール返さねえんだ、理由分かる?」 「電源落ちてんじゃね。アラームも鳴らねえし」 「ったく、」 小さな舌打ち。ご覧の通り、彼はコッチの雰囲気に馴染むためなのか単に憧れてなのかウチらの言葉遣いをあれこれ真似してんだけどなんか妙に丁寧な感じが抜けなくって、まあ、かわいいよね。人によっちゃあ癪に触るんだろーけどあたしはいいわ全然、顔もキレーだし、健気っつーの? 特に女に『お前』ってゆーのめっちゃ苦手らしい、いっつも一瞬躊躇してんのがわかるワケ、ね、ウケるっしょ。 「じゃあこれ通信料のムダか」 「そーなんじゃない? っつかカートってさ、なんでエディのこと好きなの」 「は? え、別に、……気が合うから」 「ふぅん」 「なんだよ」 「別にぃ」 「なんだよ?」 しかめてみせた眉の具合やら、突き出た喉ボトケやらはもうすっかり男の子だけど、まだまだ普通にしてるとたまに女の子に見えることがある。エディは昔からそんな瞬間なかったからね、今ではますますだし、カートはまず線も細くて華奢、最近壮健になってきたけど元の骨格が違うっつーの? まあだから、エディに憧れてんのかなあとか思ったりすんの、あたしとしては。あたしはカートみたいのも好きだけどカート本人がどう思うかとは関係ないワケだし。そんなの。 「じゃ、あたしメシ食いに行くから」 再びチャリにまたがると彼もリフティングを再開しながら手を振ってくれた。その振り方! かーわいい、雑にしようとはしてるんだろうな、努力の跡が見えるってもんよ。まあ、器用な子なのは間違いないし今後どんどん上手くなるっしょ、板についたら実生活で問題あんじゃね? ってのはさておき。アイツ学校でもああなのかなあ、周りの上流階級ちゃんと仲良くできてるんだろか、あたしの知ったことじゃあないか、今日なに食おう、まあアソコでなに頼んだってどうせ全部まずいんだけどさ。 ブレーキをかけずにいたらちょっとスピードがですぎて、焦る。グリップを強めに握ったときに、エディの腕の弾力を思い出して笑った、——アイツ、このグリップより硬いんだけど。鋼鉄でも目指してるワケ?
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生産性のない真昼、あるいは取るに足らない昼下がり。
「飲みモン取ってくるわ」 言うと蔵未は席を立ち、そのままドリンクバーへ向かった。おーよろしく、などとおざなりに礼をし俺はスマートフォンを弄る。何かとルーズな面子にしては珍しく部室に集まりはしたが楽器を担いでスタジオまで移動となると腰が上がらず、結局近場のファミレスへ避難し窓際のテーブルを陣取ったのがついさっき。存外早く彼は戻ってきて、見れば彼の手にあったのはコーラの注がれたグラス一つだけ。数秒それを見つめた後、真っ先に章吾が口を開く。 「は!? お前自分の分だけ持ってきたのかよ」 「は? 何? 普通そうだろ、別に」 「マジ無いわお前にしちゃ気が利くと思ったらこのザマ」 「飲みたきゃ取ってこいよ」 「ったく、」 チッと舌打ち、それから大げさにため息。そうして章吾も席を立ったが、当然蔵未は奥の座席の彼のために道を空けはせず、ソファに座したまま適当に身を引き、章吾は退くくらいしろと毒づきながらすり抜けた。やれやれ、……このまま放っておけば、恐らく彼は当てつけるためにその他全員の分の飲み物を取ってくるに違いなく、種類の指定のできないのだけが残念だが自ら立って行く手間を考えれば果たしてどちらが得か自ずと分かってくるというものだ。章吾が気を利かせて炭酸水を持ってきてくれる可能性に賭け、俺はメニューの吟味に勤しむ。 「ハイハイ、適当に取ってってー」 案の定、章吾は三つのグラスを抱えて帰ってきた。その中身はそれぞれコーラ、ウーロン茶、炭酸水。賭けに勝ったことにほくそ笑みつつ俺は炭酸水を取る。章吾は我先にコーラを選び、佑も文句なくウーロン茶をとった。蔵未はすでに飲み始めている。 「っつかさ、頼むモン決まった?」コーラを一口飲み下してから章吾が尋ねた。 「僕は決めたよ。俊は?」 隣の佑が問いかけてくる。ボロネーゼかジェノベーゼか、まあどちらでもいいか。 「ああ、俺も決まった」 「あそ。じゃあボタン押していい?」 「いいよー」 「あ、待って俺まだ」 「は? んだよ早く決めろよ蔵未」 「いや金ねえからどーすっかなと」 「カモ引っ掛けたとか言ってなかったか」 「諭吉もらったワケじゃねえしさあ、焼肉行って奢らせただけだし」 「生活費ほとんど出させてるくせになんで金欠になるんだよ」 章吾の疑問は全く尤もで、蔵未孝一という男は基本自分の財布を開くことのない男である。そのルックスと才能に惹かれ寄ってきた女性を片っ端から利用しては食いつなぐ様はさながら誘蛾灯のよう、しかも本人は悪どいこと��してる自覚がないらしく、目が覚めた一部の女性に罵られてもどこ吹く風で、まあここまで太く生きれたら逆に大したものかもしれない。被害女性曰く、ふとした拍子にたまにさらっと優しいことをするんだそうだ。よく考えるとそれは彼自身が何かを犠牲に差し出したものでは全くないにも関わらず、つい喜んでしまい泥沼にハマる、と。一連の行動は恐らく彼にとって打算ですらなく、本能に近い振る舞いなのだろう、畢竟蔵未はクズだとか、だらしないだとかヒモだとかろくでなしだとかいう言葉で形容するよりもむしろ、寄ってきた餌を捕食する類の生き物なのだと考えたほうがすんなり腑に落ちる。とは言え前述の形容詞も否定しがたい事実とは思うが。 「あー。なんでだろ、この前ギター買ったから?」 「それこそギターなんかファンに買わせときゃよくね?」 「確かに。ブログでこれ欲しいって書いときゃよかった」 「後の祭りだな」 「俊はそうしてる?」 「は?」 「欲しいのあったら」 「まあたまには。だが指定するとおんなじモンが何個も来るから売り捌くのが面倒で困るな」 「なーる。それは考えてなかった」 「やっぱ紙幣最強」 「だいたい何とでも交換できるしな」 「それが貨幣制度というものさ。しかし君たち心痛まないの?」 「稼いだカネ何に使おうがアイツラの自由だし」 「貢ぐのだって選択じゃん?」 「こちらから強制した覚えは一度もないぞ」 「あは、クズばっか」 呆れとも嘲りとも取れる短い笑いを溢し、佑はウーロン茶を飲み干した。コイツはバンドのベーシストで俺とは長い付き合いだ、俺にギターを教えたのもそもそもは彼だったりする。蔵未と章吾は出会った時から随分と親しかったからてっきり彼らも中高が同じだったりするのだろうと思っていた��どっこい実は大学で初めて知り合ったそうで、まあ同類ゆえなのか、急速に気が合ったとかなんとか。一応、蔵未と章吾とではクズの方向性が違うのだがどうせ双方クズなことには変わりない。佑は席を立ちドリンクバーへ赴く。なるほど、ウーロン茶はお気に召さなかったわけだ。 「ドリアにしよ」蔵未の一言で、すぐさま章吾がボタンを押した。 「そんなんで保つのか?」 「まあ腹減ったら誰か呼ぶし」 「ってか今呼べば良くない? ついでに俺らの分も奢らせてよ」 「四人分? 頼むのめんどい」 「イケメンの友達紹介するとか言えばなんとかなるんじゃね?」 「章吾はその手法よく使うよな」 「うん。そーいうと大体あっちもカモ2、3匹連れてくっから」 「カモなら2、3羽」 「ハイハイうっせーな。俊ってそゆとこマジめんどくない?」 「わかるわかる、俊ってそゆとこあるよねえ。融通きかないっていうか」 佑はコーヒーを注いで帰ってきた。ミルクとガムシロを混ぜながら、隣の俺に視線を寄越す。 「そうか? 文法が気になるだけだ」 「いや言葉だけじゃねえって細かいの、大体カモが匹でも羽でも別に誰も困んなくない?」 「言葉だけじゃないというなら言葉だけじゃない例を示せ」 「ほらそういうめっちゃめんどい、今ぱっと思いつかないしさあ」 「思いつかないなら言うべきじゃない、論が成り立たないだろう」 「めんどすぎて逆にウケてきた」 「真面目なんだかクズなんだかわっかんないよね、俊はさあ」 「クズ? コイツらに比べりゃマシだろう」 「マシなだけでクズではあるでしょ」 確かに。今の言い方だと、俺は俺が多少はクズであることを認めることになる。佑の言い分は実に正しい。しかし俺がどんな悪事をしたと? 食べ物奢らせたりしないしな。要らないプレゼントは売るけども捨てるよりはいいだろう、家に置く場所ないんだし。欲しいものがある時は自分で買う前に一旦ブログに書きはするが買えと言ってるわけじゃなし結果的に送られてくる可能性が高いと分かっているだけだ。責められる謂れはない気がするが? 「僕には他人にカネを出させて平気でいられる神経がわっかんないなー、君ら変わってるよ」 「俺に貢いで感謝されたらうれしーんでしょ? あっちだって。Win-Winじゃんね」 「ホストみたいなもんだろ」 「相手に少しも利益がないならこんな営みは続かないはずだ」 「そういう話してんじゃねーんだよ僕はさ、まったくよ」 と突然、俺たちの席から幾らか離れたしかし同じく窓際の、隅の席から罵声が響き、眉を顰めて窺えば男子高生が携帯の通話口へ向けて何やら怒鳴っている。男子高生と断定したのはソファに乱雑に置かれた鞄が近隣高校のそれだったからで、ほどなくいきり立っていた彼は向かいの席の少年に諌められて落ち着いた。と言っても怒りが収まったかというとそれはまた別の話のようだが、……彼らを観察しているうちに店員がやって来て、俺らは思い思いの品名を述べる。確認をとったあと彼女は奥へ下がっていって、その後ろ姿を眺めつつふと、章吾が言う。あの子大学にいない? 「いたっけ」 「いたって。ほらあのさ、ヒゲ教授の講義最前列で受けてる」 「あー待って僕も見たことあるかも」 「ヒゲ教授の講義とってねえし俺」 「いたような気もするな。よくもまああんな講義を真面目に受ける気になるものだ」 「ってか聴力の問題じゃない? 前のほういねえと聞こえねえじゃん」 「え、章吾も前のほう座んの?」 「座るわけねーし。後ろ聞こえねえの」 「それはあり得る。聞こえなくても別段支障はないけどな」 「あのひとプリント配るしね」 「テスト前に見りゃ余裕っしょ」 そういえば彼らはクズな一方で要領が非常によろしいので、単位等々で困ったことは別段ないらしい、出席を厳しく見られる講義はことごとく落とす模様だが。とは言え代理を立てれば誤魔化せる仕組みならさして支障はないし、ノートもおびき寄せられた哀れな蛾及び蝶の皆様にコピーなどしてもらっているらしい、俺か? 俺は単純に勉強したくて入ったんでね、普通に勉強してるよ。佑もな。やはりコイツらと俺を比べるのは些か無礼が過ぎるのではないか。 佑の頼んだパエリアと、俺の頼んだパスタが来た。お先にと断りフォークを取る。佑にスプーンを渡してから、ふと窓の外を見るとそこには見覚えのある影が一つ。 「あれって、お前の連れじゃなかったか」 「へ? ああもう来た?」 ひょい、と長身を傾けて蔵未も窓の外を見る。その手にあったスマートフォンの画面は薄水色の背景で、……合点がいった。 「呼んでたのか」 「うん。近いなら来てっつったんだけどマジに早いね、暇なのかな」 「お前が人様を暇と称すか」 「みんなの分も奢るってよ。やったね」 「えええー僕はいいよお別に」 「計算めんどいし奢られとけよ」 「俊は? 君も甘んじるわけ?」 選んだ表現からも佑の期待やら意図は察しがつく。甘んじる、ときたものだ、返答如何ではこの場で俺をクズ認定すると言わんばかり、しかしなあ、奢ってもらったほうが得なのは事実、どうしたものか? 第一そんな、男の意地だのプライドだのを意識するほうが前時代的ではないのだろうかいや佑がそういう意識の下で選択をしたわけではないのは承知してるとも要するに俺が考えてるのは果たしてどちらの選択がより「俺にとって」理に適っているか、それだけだ。——で、出した結論は、 「……俺は自分で払う」 「だよね!」 彼の笑みを見て安堵する。俺には懐を痛めることより、お前に失望されて心を痛めることのほうが辛い。我ながら正しい選択をしたな。 「それじゃあクズのお二人は、ご遠慮なくどうぞ」佑はなんとも澄ました顔だ。 「そういうことだ。清廉潔白な俺たちは他人の金をせびらないからな」 「佑はともかく俊はよく言うよね」 「あ、そう? ならいいや。俺と沢霧の分ね」 相変わらず一片の罪悪感も見出せない、章吾はまだしも蔵未孝一、作る曲と声と顔だけはいいこの男、これから先もコイツはこうやって生きていくのだろう、それはそれで営みだ。俺がどこまで一緒に行くかはわからんが、案外ずっと、死ぬまで同じバンドだったりして。
出入り口の側から、明るい声が響く。犠牲者もとい被害者の彼女は、不思議と楽しげな表情で俺らに向かって手を振っていた。
ファミレスで駄弁るだけの話を書こう、という企画。クズ大学生パロの時空で書きました、楽しかったです。
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無題 #413
えせ方言注意(標準語が混ざっています)。まあどこにもない言葉だくらいに思っていただければ。
ええ、鍵も何もついとりません単なる箱でございます。丁度両の手で抱えると具合のよろしい大きさで、とは言え私(あたし)はあの箱が床から持ち上げられるところを終ぞ見たことがございませんが、ええ、竹編みの箱でございます、薄茶けて古びた箱ですよ。中身、ですか、いえ存じません、旦さん以外開けんもんですから、いえ、命じられた訳でなく、皆んな何とのう気味悪がって近寄らんのでございます、また旦さんもそれを望んどる様でした、ええ、確かに。 けども旦さんは別段箱を私ら女中から隠すでもなく、精々客人のある時は箱の有る部屋の襖を閉めて開けんようにはしてましたけどええ隠すと言ってもその程度で、不気味に思いはすれどあの箱は私ら女中の生活にもすっかり馴染んでおりました。旦さんは朝、昼、晩と日に三度蓋をぱこんと開けて、お加減どうですか、変わりないですか、と大層優しくお声をかけて、また丁寧に蓋をお閉めになるんです、ええ、ええ、はい、旦さんは平時から私ら女中にも何とも優しい穏やかな方でございますがあの箱にお声をかけられる時の得も言われん、ええ、この上なく慈しみ深い顔をなさるんでございます、羨ましゅうなることもありまして、いえ旦さんに対して私は私らの主人さんという以上の情は抱いておりませんがあんなに愛の深い表情を向けられたことがないもんですから、ええ、ええ、旦さんに限った話でなく、誰かにあんな顔をされてみたいとその程度の話でございます。人からああも愛されりゃあ本望というものでありましょう。 私は西のほうの生まれでして訛りがどうも抜けきらんで、混ざってしまうんですが、ええ、元はと言えば旦さんのお父上に附いておりましたので、東へ上って驚いたんはここらは風が強いんですな、言葉のほうははあ訛り言うても意味が通じんほどじゃありませんどうとでもあいなりましたが嵐の頃でもないのにびゅうびゅう凄まじく吹き下ろすのには神経が参ってしまいまして、若い娘の時分には苦労もしました、ええまあそういう次第ですので旦さんのことはちいちゃい頃からよう知っとります。しかしまあちいちゃい頃からよう分からん御仁でもありました博学な方で私なんかでは御相手がまるで務まりませんで、込み入った話は専らお父上や兄上と交わされていた様でした、それでも覚えてますのんは旦さんは気に入ったものは何でも箱に仕舞うんですな、やれ庭の葉の形が綺麗だの拾った石の色がよろしいだの言うてはいちいちぜぇんぶ仕舞う、どこで見繕ったのか知らんがめいめいぴったりの箱を持ってきて大事に仕舞ってはるんです、そんで一度収めてしまうとそ���で納得いくんでしょうかけして取り出しはしないんですな、時折箱の蓋を外して中を覗いて頷いている、一度旦さんが大層可愛がっていた猫が死んでしもうて死骸を箱に入れようとなさった時は坊ちゃんそれはよろしくない庭に埋めてあげなさい言うて止めましたけどもええ、ええ、一事が万事、そんな調子でありました。変わったお人や思います。 して、箱の中身ですな。いいえ私は知らんのです、先も言うた通り見たことがないんで、ええ、ええ、はあそうですね、大事なもんなんでしょうとは、でなきゃ箱には仕舞わんでしょう。人ですか。いえそりゃないでしょう、何の匂いも致しませんし蹲って入るにしたってああも動かんことありますか、声をおかけには、ええ、なっとりましたが、そりゃあ先生、勘ぐりすぎってもんで——箱の現れた時期、ですか。嗚呼ゝゝ、それはよう覚えてます、——五年程前の春ですよ。そん年は兄上がお亡くなりになりましたから、ええ、ちゃあんと骨になって、旦さんと兄上はまあよう似てはるお二人で顔から背から癖から何から、仲も睦まじく、ええ、——はい? 嗚呼兄上のほうはご結婚はなさっとりました、は、奥様ですか、いえねえ今はどうしてはるやら故郷へ帰る言うてそのままですけど、旦さんと奥様? はあどうやら気が合うようで仲ようしとりましたよ、ええ。あ、また勘ぐってはるな? 作家先生って皆んなそう? 嫌やわ、意地悪い。世の中そうそう面白い話ないですよ、だからあんさんらが書かはるんやろ。 そんなに、気になります? はあ、確かに旦さんはもうしばらくは帰ってこん思いますけど、まあ、気にならん言うたら、ねえ、でもなんや気が咎める言うか、はあ、はあもう分かりました分かりました、見たら満足? 開けましょう、開けます、どうせ面白いもんちゃいますよ、分からんままのが楽しかろうにいけずやわ、はい、開けたります。こっちの襖の奥にね、あるんです、ほれこれが箱、ただの箱でしょう? なんや人が隠しとるもん暴くみたいで気ぃ悪い、嫌にならんの先生、嗚呼、嗚呼はいはい開けますから、ちと待って、——じゃ、行きますよ。
嗚呼、これ、なんでしょうね? 先生、——いえ、私には皆目、——でも、——なんや、随分、お可哀想に。
「箱の中に大事なものを飼っている人」とお題を頂いて。
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Baked Birthday Cakes.
ダイニングのテーブルに置かれていた小包の上の、白いメッセージカードを指でそっと掬うと兄は青い目にそのささやかな英文を映す。カードの右下と左上にはノルウェーパインの葉が描かれ、差出人不明のプレゼントが誰から贈られたものなのか言葉少なに語っていた。やおら微笑むと兄は首をほんの少しだけ振り向けて、キッチンで卵を手に取る俺に呼びかけるようにそれを読む。 「Happy birthday my dear, hope your special day is as sweet as you.」 「誰から?」 「差出人の欄は空だが、まあケインだろうな。相変わらず趣味の悪い、」 続きを態とらしい溜め息で補うと兄はカードを置いた。ノルウェーパイン、――Norwegian wood。ケインは兄が16の時の同窓でビートルマニア、彼らをアイドルグループとしてしか認めていない兄は一貫して級友の趣味を見下しており、また相手もそれを分かっていて『ノルウェイの森』を添えてきたわけで、俺は時々自らも含め“イングリッシュ”というやつの性質(たち)に嫌気が差したりするんだけれどそれは大抵こんな瞬間である。とはいえそいつが心地よく感じることも当然あって、畢竟“イングリッシュ”にとっての“イングリッシュ”とは我らが島国の頭上に常に重くたれ込める灰色のグラデーション、のようなものだろう。鬱陶しいが愛しくもある。 「兄貴、冷蔵庫」 「うん?」 「冷蔵庫の中にまだあるよ。今朝届いた」 油を落としたフライパンに卵を割り入れながら俺は、背後の銀色の直方体を指す。兄はキッチンへ足を踏み入れ、冷蔵庫の扉を開くと中から発泡スチロール製の大きな箱を取り出した。それは今朝チルド便で届いたもうひとつの贈り物で、同じく差出人は不明だったが品名だけは記されている。黒のボールペンによって走り書かれた“Cake”の文字。 「これは?」 「誰からかは知らない。かなり早くに届いたの、朝の5時くらいかな」 「へえ、」 兄は箱をカウンターへ運びその筆跡を指で撫ぜ、それから蓋をぱこんと外した。中身を確かめると兄は、ああ、と得心がいった様子で、声を漏らし再び封をする。元の通りに箱を収める兄の姿を背に感じながら俺は尋ねた、中身、なんだった? 「今日のブランチ」彼は答える。「アーニー、何か言うことは?」 しばし口を噤んでから俺も応える。「Happy Birthday, Curt」 よろしい。呟いて、兄は肩越しに俺の耳朶(みみたぶ)へキスをする。硬い歯が柔い肉を食み、彼の吐息の熱さが俺の小さな肌を火照らせる。知らず、唾(つばき)を飲みこむと兄の爪が追いかけるみたく喉仏の上を辿って、鎖骨の境をひとつ、叩く。 兄の体温が去ったあと、俺はフライパンを見つめている。ぱちぱちと油の弾ける音が、森に包まれた静寂のうちに密やかに、響いている。
「ストレスを与えると、質が悪くなるからね」 俺が書斎に入ったとき彼は何やら書き物をしていた。目つきで促されるまま向かいの椅子へ腰を降ろすと、万年筆を便箋に走らせているのが見える。彼は顔を俯けたまま用を尋ねた。“仕入れ”のことだと答えれば、その薄い唇の端が仄かに愉悦めいて上がる。 「質?」 「肉の質だよ、ダーリン」彼はふざけた調子で、「魚だってそうだろ?」 曰く。日本では釣り上げた魚が暴れぬよう、細い針を魚の脊髄に通し神経を潰すのだそうだ。そうすれば苦悶にのたうち回り肉の質の落ちることが無くなる。この行為は神経締め、若しくは活け締めと呼ばれていて、死後硬直を遅らせる効果もあるらしいが、いずれにせよあくまでも魚をより良く賞味するただそれだけの為に人間はそこまでする訳だ。して、目の前の男も然り。“肉”達の脊髄を切れとでも命じるつもりか、などと訝しんでいるとカートは書き上げた手紙を丁寧に二つに折り畳み封筒へ収め、宛名をさらさらと書いて寄越した。受け取って、検める。差出人の名前が無い。 「ついでに出しておいてくれ。礼の品も適当に選んで」 「品、ねえ。ワインか?」 「そうだね。赤ワインがいい」 「了解」 「それで。今日の肉のことだけど、」 キャップを締めた万年筆の先で唇を弄りつつ、彼は視線を横へ流した。考えを巡らす間があって、ほどなく、話し始める。 「ジュリーの具合は?」 「健康だ。異常ない」 「そこは心配していない、君の管理だもの」 「仕上がりか。まずまずだな、俺には味はさっぱりだが」 「弾力があって肌艶がよければ大抵は美味しいよ。他にお勧めは?」 「さあなあ、エイプリルなんかいいんじゃないか。活きがよく見えるぞ」 「そりゃあ活きはいいだろう? まだ生きてはいるんだから」 何とはなしに嘆息する。俺は続けて、 「どんくらい持ってくりゃあいい」 「そうだな。なんせ誕生日だから、」 珍しく声が弾んでいる。とはいえそれは跳ね上がるボールを直前で押し留めたような控えめなものに過ぎなかったが、なんせ、付き合いが長いんでね。 「いつもよりは奮発して。豪勢な食事にしよう」 「そうだな」 「とはいえ、200gもあれば胃は落ち着くから、まあ、そのくらいかな」 聞きたいことは聞けた。そのまま席を立てば彼は、少し手をあげて俺を制し、自らもまた席を立って俺の傍までやってくる。書斎の窓からはすぐ裏に生えている常緑樹が見える。春の陽射しは茂る葉叢を透き通ったセロファンに変え、緑に、黄に、色をなびかせる。気をとられている間に彼の女のような滑らかな手が俺のネクタイをするりと咥え、次の瞬間、引き寄せられた。鼻先に彼の顔がある。彼はゆっくりと頭を傾げ、同じ速度で口づけをする。一度、触れて、刹那離れて、今度はやや長く音を立て、三たび交われば舌がぬるりと隙間を割って挿し込まれる、俺はその赤を知っている。蜜を舐めとる蜂の仕草で、艶かしく縺れ俺を啜る。 これは咀嚼だ。彼の、食事。 「甘い、」ふと、零してまた塞ぐ。 「君の唇は、――舌は、――歯は、――唾は、――肌は、全て。甘いね」 酔った温度で紡がれる彼の睦言が鼓膜を揺らした。俺の味蕾には彼の味など分からないが黒髪から香る花の匂いだけは鼻腔を擽り、それも離れれば消えていく。食っているのか食われているのか、あるいは双方が正解か、物心ついた時分からこの化け物と一緒にいるが俺には未だ判然としない。狩っているつもりで、飼われているのか。飼われているつもりで、狩っているのか? 「ああほんとう、」恍惚として彼は笑う、「丸ごと、食べてしまえたらいいのに」 でも、寂しいから。続けて彼は、俺の幼馴染は背中に腕を回して頸筋を舐めた。いなくなったら寂しいから、君のことは、絶対、食べないよ。エディ。 薄い体を抱き締めて、俺は沈黙に耳を澄ます。窓の外に吹く風の音が、微かに耳を撫でていく。
私はどこへ連れてこられたのか、どうしてここなのか、なぜ私なのか、何一つはっきりしないまま時を過ごしてしまっている。外へ出られないという点以外は(それも定義次第では当てはまらない。この施設には庭があり、定期的に私たちはそこで草木を感じることができる。脱走を企てようにも敷地はあまりに広すぎて、限りなく続く芝生の平野を渡っていく気はとても起きない。何人かそれでも、看守の制止を振り切って走り出した者がいる、彼らの行方を誰も知らない)不自由なく生活できていて、それもまた脱走者の少ない理由でもありそうだった。人によっては、ここに来る前の暮らしと比べ格段に快適だと感謝さえ述べることもある、私もどちらかといえば、ここへきてからの生活のほうが質は良い、出される食事や飲料は申し分なく洗練されており、娯楽も好きに注文できる、映画にしろ音楽にしろ漫画にしろ本にしろ、望めば大体数日中に手元に届く。何の作業も義務も強いられず、せいぜい体を清潔に健康に保つこと、それくらいしか強制力の働く機会はない。 一ヶ月に一度ほど、金髪の随分背の高い青年が訪ねてくる。看守によればここの管理者だそうだがそれ以上の詳細は知らない。彼はどうやらこの施設を建てた者ではないらしく、つまり管理者たる彼の他にきちんとオーナーがいるようだ。ここは何なのか、なぜ私なのか、尋ねてみたことはあるが芳しい返事は得られなかった。無口な彼は短く息を吐き、さあね、と独り言つだけだった。 たまに、同居人たちのうちの一人の体が削げる。処置は完璧に施されているが痛みは無論じくじくと残る。肉を切り取るように傷は増え、見えている肌の面積よりも覆う包帯の面積のほうが多くなってきた頃に彼らは姿を消してしまう。理由や、目的を、みんなそれとなく察していて口に出さない。恐ろしくて、言葉にはできない。 「エイプリル」 端的に名を呼ぶ声がして、私は与えられた部屋の��から応答した。間もなく扉がすっと開いて金髪の彼が現れる。健康診断だろうか? つい先月やったばかりなのに。 「調子はどうだ」彼はすでに初夏の服装である。ここ数日はやけに暖かい。 「上々。多少痛むけど、文句なし」 私は彼の左の耳朶(じだ)に開けられている穴を見ている。正確にはその穴に嵌まったピアスを。彼の瞳の色によく似たエメラルドグリーンの石。 「そりゃよかった」ためらうようなそぶりを一瞬見せた後、彼は続けた。「ちょっと、時間いいか」 「いいわよ。他にやることもないし」 ベッドの上で体勢を戻し読んでいた本を閉じてから、立って、服を直す。頭によぎるものがあって私は口を開いた。 「エディ、」 「なんだ」 「私、四月生まれだからエイプリルなの。安直でしょう」 「まあ珍しい名付けではないな」彼は、ネクタイを締め直す。 「来月まで、私、生きているかしら?」 返事は、なかった。それが答えだった。さだめをそっと飲み込んで、私は部屋を出る彼の後に続く。
ケーキバースパロです。カートはフォーク、アーニーとエディはケーキ。 本日3/30はカーティスの誕生日でもあります。おめでとう!
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無題 #0320
無人のレストルーム。煌煌と白い蛍光灯が磨き上げられた大理石を照らし、両脇に設えられた横長の鏡には互いの姿が映し出されて延々と視界の端まで対称形を成している。建物内の喧騒は此処には届かないようで、種々の無機物が息を潜める張り詰めた静寂だけがある。やがて、遠くから音が一つ。沈黙を破り近づいてくる。 男は小太りで、芥子色のスーツを着ている。首の後ろと背の間にだぶついた肉が段を作り、毛穴の一つ一つからじわじわと汗が滲んでいる。彼は自身のすぐ後に、黒いスーツを纏った男が入ってきたことには気付かない。長身の男は小太りの男の歩調にぴったり靴音を重ね、一番奥の個室のドアを彼がせかせかと開けた時その身をするりと滑り込ませる。錠が下りる。 水音。 微かに、呻き声。 無音。 水が流れ切ったのち、黒いスーツの男だけが個室から出てくる。何か糸状の物を巻き付けるような仕草をしながら鏡まで歩き、透明で鋭利に細いそれを胸ポケットへと仕舞ってから手を洗い始める。純白の琺瑯に、赤が渦を巻いて流れる。 パパ、と入口で少女の声がする。 スーツの彼は少女に目を向ける。人形めいた顔をした男だ。艶のある黒髪が揺れて、涼やかな青い瞳に少女の金髪が反射する。少女は左右を確認し、おずおずと中へ入ってきた。男は依然水を流したまま、少女が近付いてくるに従い視線を落とす。 「パパ、見なかった?」と少女は尋ねた。 「パパ?」 「うん。あのね、おにいさんよりちょっと小さくて、おにいさんよりうんとまるいの。見なかった?」 「丸い? さあ、僕は見てないな」 「おかしいなあ。こっちのほうにあるいていくのを見たのよ、たしかに」 少女は爪先立ちをして台に指をかけ、覗き込む。少女の鼻は男が使ったハンドソープの香りだけを捉える。 「あら、まっ赤!」少女は笑った。「おにいさん、えのぐあそびしたの?」 「うん」男も笑う。「だけど、なかなか落ちなくて」 男はミントグリーンのソープを赤く赤く泡立てて、爪の間まで丹念に洗った。少女は流されていく泡に見とれ、男が蛇口を捻り、ハンカチで水気を完全に拭き取るまでの仕草を逐一凝視した。 「お嬢さん」彼は畳んだハンカチを収める。 「君のパパを捜そうか。きっとどこかにはいるよ、大丈夫」 「おにいさん、手つだってくれるの?」少女の瞳が輝く。「ほんとう?」 「ああ。それで、どんなお父さん?」 「あのね、とってもはでなスーツをきてる。マスタードみたいな!」 「はは、そりゃ目立つな。すぐに見つかりそうだ」 「うごきものんびりしているの。おいつくのだってかんたんなはずよ」 少女は勢い込んで小走りにレストルームを出て行った。男はその背を微笑んで眺め、そうして静かに胸ポケットを叩いてから、後を追う。
無人のレストルームが残る。言葉を持たぬ物達の、張りつめた呼吸だけが、ある。
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一瞬のハロー、永遠にサヨナラ
TLで夢小説が盛り上がった時に書いてみたものを再収録。エディとモブ女性のお話です。 二次創作ではモブが登場する小説は全部夢に分類できるそうですね。オリジナルでやってる以上夢も何もないのかも……
アア、嗚呼アンタ男前だよ男前だね部屋に入って来たときからずっとアタシそう思ってたよでもアンタはアタシに指一本触れやしなかったコンチキショウ、今アタシは泡吹きながらベッドにだらだら涎垂らしてアンタを見てる、アンタは見られてることにも気付いちゃいないねアア嗚呼ホント腹たつくらい男前だ朝陽がブラインドから射してアンタの顔に縞を作る、クソッ、アンタどうしてそう綺麗なんだ、アタシのxxxに少しくらい突っ込んでくれてもよかったじゃないか。他の男のxxxなんてお呼びじゃなかったんだよアタシアンタが部屋に入って来たときから、でも見向きもしなかった、知らねえオトコとキスするくらいでさ。 アンタはブラインドを指で押さえて眩しそうに外を覗くと不意にタンスを降りて歩いて、アタシと同じトんじまって倒れてるオンナやオトコを跨いで越してガラステーブルの前に座った。いい胸だねえ固そうであったかそうで広い胸、アタシ抱かれてみたかったよどんな風に抱くんだよアンタは、長く整った指でテーブルの上に乗ったマリファナを摘み、口に銜える。マッチで火を点ける。 「そこの女、」おや、アタシのことかい? 「ブッ飛んでねえか?」 すっとベッドに座った別の男が、コイツはパウロって言ってセコいヤローだこんなクソ汚ねえ部屋に女も男も無尽蔵に呼んでコカ炊いてさ、そんでヤるんだ、使いモンになんなくなったら適当なとこに売ってさ、クソだ、でもコイツんちに来ればタダでヤク打てっからさみんな来んだよそいえばアンタは何にも手ぇ出さなかったね、頭イーね。パウロはアタシの髪を掴んで顔を擡げさせたアタシは白目剥いてたよ多分ね。多分。 「アーこりゃイッちまってんな」 「助かんの? それ。何ヤらせたんだ」 「Sだったかね」 「……趣味悪ィ」 形のいい唇と唇の隙間に重たい白い煙が溜まってんのが分かるアアそれ吸いたいなあ吸わせてほしいなァ、横顔がたいそうキレイで王子様だねアンタ王子様の顔してんだねなんでこんなとこいるんだい、アンタの裸の胸に金色の十字架が下がっててそれがアタシの目を射る。眩しいッ、眩しい。 「お前だぁれも抱かなかったな、イーグル」 「次その名前で呼びやがったらテメェのケツに草詰めんぞ」 「へーへー。しかしなんでだ? 好みじゃなかったか?」 「クスリでヤられて俺の顔も体も見えなくなってるよーなオンナじゃグッと来ねえな」 「草吸いながら言うなよ」 「どうせ効かねえからいいんだよ。俺は」 そうだよねえそうだよアンタは草なんか吸ったってどうにもなりゃしねえだろうよ好きだなァ好きだ抱いてほしいなァ、アタシ確かにラリッてたけどアンタが綺麗なことはわかるよホントだよわかるよすごく綺麗だ、よく鍛えてあるカラダ、嗚呼、そのカラダに組み敷かれて貫かれたらどんな気分? アンタの腹や背や胸の筋肉をなぞって臍に舌入れたいなァきっとアンタのカラダは全部固くて強いんだろ? 好きだなァ。パウロのアレなんか緩くてたまんないよ勘弁してくれ、ラリッてなきゃ耐えらんないよ。 「シャワー浴びて帰るぜ」アンタは、そう言って喫いかけの草を放り投げると立ち上がった。 「悪ィが今壊れててなァ、冷水しか出ねェ」 「ハァ?……稼いでんだろ? 別の部屋借りろよ」 「いやァ稼ぎなんざ微々たるもんさね、まあいいだろ? 眠気覚ましにゃうってつけだ」 「そのオンナどうすんだ」 「気になんのか? お前にやるぜ?」 「病院連れてけよ」 「ジョーダン。どーせマトモに戻りゃしねー、このままハメる用に置いとくさ」 アンタはアタシの目の前を興味なさげに通り過ぎて、でもふと、一歩だけ戻ってきた、そんでアタシの髪を掴んでアタシの顔を見た。いやだ、アタシ今酷い顔だよねえ、これでも昔はパパやママからかわいいかわいいって言われてさ中坊の頃は告白だって二度や三度はされたんだよアタシ結構イケてたんだホントだよそりゃあアンタには遠く及ばないだろうけどせめてもっとイケてたときにアンタに会いたかったな、王子様。 アンタは指でアタシの口を、拭ってくれた。涎と泡とをさ。どうせ拭ってもらったってまた止め処なく垂れてくるんだ、でも���ンタの指優しかった、xxxじゃなかったけどアタシのカラダのどっかをそれで撫でてくれたならもうイイよ、もうイイ、ね、
ドアが閉まる音がして、そんでアタシの人生も終わり。
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無題 #1117
カートとモブ女性の話。雰囲気小説です 高層ビルの上方にある三面ガラス張りの部屋。女は黒い下着姿で薄曇りの街を眺めている。程よく肉のついた肢体と金髪がうっすら窓に反射し、女の眼は地上の車列と自身の下腹部のうちのどちらを捉えているやら判然としない。不意に、首だけで振り返り、視線の先にベッドがある、乱れたシーツとターコイズの毛布の間に青年が一人。 「寝てくの?」 女が問うと青年は唸り、鼻先まで毛布をたぐる。 「いいや、起きるよ」 「裏腹ね。これから仕事?」 「そう。でも遅番」 「何してるんだっけ」 「俺? ケーサツ」 「私は何でしょう」 「……編集長?」 「あら覚えてたの」 「一応ね」 観念したように毛布を剥ぐと、彼は起き上がり目を開く。女のそれより鮮やかな青がまばゆさを厭いすぐに細まる。半身は裸だ。残りの半身は、毛布に包まれ確認できない。首が左右に振れる。シャツを探している。 「それじゃ私の名前は?」 「アメリア」 「聞いてたの? 呼んでくれたらよかったのに」 「姉と同じなんだ」 「お姉さんがいるの?」 「俺の名前は?」 「カーティス」 「正解。君だって呼ばなかっただろ」 「叔父さんと同じなんだもの」 「そう。どこにでもいるんだな、俺は」 床の紺色と同化していたそれを見つけて拾い上げる。鷲掴んだ指の隙間からブランドタグが覗く、Burberry。シャツを羽織ると青年は瞼をくしくしと擦って、女もまた、ソファの背にかけてあったブラウスを手に取り近づいてくる。下着と同じ色をしたシフォンのブラウス。羽織りつつ彼女は言う。 「ほんとはウソ。叔父さんはデイヴ、けど職場の同僚にはカーティスっていたかもしれない」 「ふうん。そっちのカーティスと俺とどっちが巧い?」 「何が?」 「セックス」 くすくすと笑う。青年はあくまで空惚けた顔をしている。楽しげに笑んだまま彼女はベッドへ転がりこむ。 「知らないわ。あっちのカートとは寝てないの」 「じゃあ寝てみてよ。それで結果教えて」 「どんな風に?」 「俺の勝ちって」 「負けだったら?」 「じゃあ人事部風に。厳正なる審査の結果、残念ながら不採用と——」 言い切る前に女は青年へ飛びかかり、彼も逆らわず倒れる。ひとつふたつ口づけを交わし、ふと見つめ合う、褪めた蒼と群青。ブラウスの裾が彼の脇腹を撫ぜ、彼の手が女の背骨をなぞるように滑る。指先は、驚くほど��たい。 「そんな誰彼構わず、寝ないわ」 「俺とは寝たのに?」 「構うから寝たのよ」 彼の喉がくぐもった音を鳴らす、 「ねえ。ボタン留めて」 女はさらに笑う。馬乗りになって、乞われた通りにする素振りで両の襟を掴むとそのまま、中を覗き込むようにして彼の身体へキスを落とす、鍛えられた筋をたどって真っ直ぐに臍まで。彼はくすぐったげに身をよじり、一方で彼女の髪に手を置く。女が面を上げる瞬間彼もまたその手を逃した。 「留めてってば」 「子供みたい。あなた歳はいくつ?」 「今年22」 「やだそんな若いの?」 「なに、老けて見えた?」 「そうじゃないけど随分と大人っぽいのね。遊び人でしょう」 「数は多くない、巧い人と寝たんだ」 「私いくつに見える?」 「いくつでも美人」 「うまく逃げたわね」 「そんなんじゃないって」 生成りとレモンの縞模様のランプシェードがひとつ、傍らにイヤリングが一対。白い石にマンダリンオレンジのタッセルが飾られたデザイン、彼女が着ていた細身のドレスに、それは合う。左側のサイドテーブルへ彼は右の腕を伸ばす。金具の部分を摘んで、揺らす。 「ピアスじゃないんだ」 「穴開けるのヤで。あなた付けてみる?」 「え、なんで」 「いいからちょっと、付けてみなさいよ」 青年はしばらく女を無心に(そこからはいかなる嫌悪も侮蔑も窺うことはできなかったが好意的な表情が突如として無へ帰ったので傍目にぞっとしないものがないでもなかった)眺めたあと、そっと姿勢を正し壁へ軽く凭れて、イヤリングを嵌める。もう片方は女の左の耳朶へ飾った。彼女の耳にあるときは大ぶりに見えた長い房も彼の体躯と比べると華奢で、派手なオレンジは彼の素肌の血色の悪さを際立たせ、しかしそうした不調和が何か得体の知れない妖しさとなって女の胸を突いたらしかった。口走る、といった具合に、彼女は呟く。きれいな人。 「そうかな」 「ウソ。言われ慣れてるはずよ」 「そうでもないよ」 「バレバレだわ」 「君だってよく言われるだろ?」 「女は世辞でも言われるもの。男はそうはいかないでしょ」 それ、あげる。 囁いて、女は身を引く。「あなた似合うわ」 「帰るの?」 「ええ。会議始まっちゃう」 「そっか。あのさ、」 「なあに」 「さっき、22だって言ったろ、歳」 「言ったわね」 「あれはウソ。俺本当は24なんだ」 ドレスのホックを留めていた彼女は一度手を止め、振り向く。 「なぜ? 22も24も、さほど変わらないじゃない」 「……だよね。なんでウソついたんだろ」 「知るわけないわ。変なひと」 「バイバイ、ミリー」 「ねえカート、どっちが巧いの? セックス」 「は?」 「私と、あなたのお姉さん。……冗談」 さよなら、カート。 ドアの閉まる快い音が部屋に響き、そして消えてからも、青年は瞳を丸くしていた、だが表情はじき元に戻る。毛布を除けばボトムスを履いたままの両脚が現れ、彼はその長い脚を振り回し気味に床へ降ろすと間断なく立ち上がる、カフスを留めつつ窓辺へと歩いていく、北側の窓へ、やがて今にも触れそうな位置で足を止めた。地上を見下ろす横顔がガラスに映る。伏せた瞼の隙間で、はっとするほど青い目の中を何かの影が通っていく、あるいは光が、それは過り続け、また過る影や光のどれひとつとして彼は注視していないようだった。柔く閉じられた唇と弓なりの睫毛。いくつか、間をおいてまばたきをして、それから彼は窓辺を離れた。シャツの前を閉めながらバスルームへ向かう。姿が消える。 ややあって、水が流れ出す。その音はずっと聞こえ続ける。実に、長く、あまりに長く、ほんの少しだけ、長すぎるくらいに。 2016/11/17:ソヨゴ
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シンメトリック。
グロちゃんお誕生日おめでとう! 学パロです。 よその子お借りしました。 ・ユージンさん:グロスケ(@gusuke3)さん宅 ・潮くん:にぱ(@nipa_nanoze)さん宅
青年は狭いリビングの中央、ゴミ袋や服やその他雑然としたもの——またその内のどれ一つとして清潔とは言い難い――の隙間に嵌まり込むように、下着姿で横たわる少年を無心で見下ろしていた。窮屈に長身を折り曲げ首を傾けている彼は、それでいて安らかな寝顔で、傍らに立つ彼の存在に気づく様子もなく昏昏と眠り続けている。日が、橙色のカーテンを透過してこっくりと染まり、まるで夕暮れのごとき景色だが実際はまだ早朝も甚だしいといった時間帯だ。青年はやがて眺むのをやめて少年を跨ぎ越し、その向こうのベッドで大の字に転がっている同居人を危うく踏みつけそうな位置に片足を掛けると、カーテンを一息に開いた。生の光が部屋を射る。少年の眉が激しく歪む。 「んー……」 不満げな唸り声のあと、少年はおもむろに瞼を開けた。碧眼が、鮮やかな緑に照って一つ二つ慌ただしく瞬く。それからさっと身を起こすと凝り固まった節々にいささか驚いた様子でおっかなびっくり肩をほぐしつつ、ようやっと彼を見た。一種の典型的美貌が人懐っこく緩む。 「ユージンさん? が、帰ってるってことは、朝だ」 「そーだよお。ガッコ行かなくていーの?」 「行かなきゃまずいなあ。今何時?」 「六時くらいかな」 「なら余裕。お風呂借りてもいーい? ごめんね」 了承を得る前から了承が受け取れると知っている語調でそう言い、立ち上がる。きょろきょろ辺りを探ってじきにハンガーにかけられたままの制服を見つけ手に取った。風呂場へと去る後ろ姿に、 「佑くん、下着は?」 「大丈夫! 持ってる」 ユージンと呼ばれた青年は少年が活動を始めてもなお目覚めない同居人の脇腹を軽くつま先で突いた。しかしその動きは彼の体が揺れるという物理的反応以外の何物ももたらすことはなく、知らずため息をつくと浴室から少年の半ば芝居がかった笑い声が聞こえてくる。 「たぶん起きないよ、しこたま飲んでたもの」 「ほんとう? いつもごめんねえ」 「いえいえ、奢ってもらったから。チャラ」 しばらくしてシャワーの音と、少年が壁のあちこちに衝突する鈍い音色とが青年の鼓膜を揺らした。ひときわ狭い浴室にひときわ背の高い彼である、さぞや苦労していることだろう。少年の悪戦苦闘を思い青年は自ずと破顔���る。戸外へ目を遣れば向かいの家の独居老人が子犬を連れて散歩へ出かけるところだった。くすんだ紺のジャージの上下、くたびれたスニーカー。靴紐は所々ちぎれそうだし底も剥がれかけているが老人の歩みは健康である。道路は夜中の雨で濡れていて、子犬がそこを通らぬように気を使っているのがわかる。ちゅん、とスズメが一つ鳴いて、青年は目を細めた。今シャワーを浴びている彼も含め世の少年たちは、遅かれ早かれ、夏休みだ。 「さて、休暇中の諸注意だよ。プリントの7ページを見てね、休みで浮かれた僕たちを狙って悪い大人が寄ってきたりするから重々気をつけるようといった旨のことが長々書かれているけどぶっちゃけこんなの耳タコでしょ? 各自適当に読んどいて。あ、でも上から五つ目のこれ、親御さんに会う相手と場所とだいたい何時頃帰ってくるか伝えなさいってこの項目はすこぶる大事! 僕らの鬱陶しく口うるさく情け深い父さん母さんは常に僕らの身を案じやきもきしているものだからさ、第一晩御飯を愛情込めて作ったあとで今日は要らないとか言われたら誰だって泣きたくなっちゃうものでしょう大事に想ってくれている人をないがしろにするのは良くないな、では次に8ページだけれど身だしなみのことが書いてある、いくら先生にばれないからってピアス開けたり髪染めたりネイル塗ったりしちゃダメだよというか花の盛りの君たちはそんなことに手を出さなくたって十二分に魅力的さ、あとは飲酒喫煙その他我が国の法に背く行いは控えるように、では以上! 充実した夏休みをね!」 秒数の割に字数の多い怒涛にも似た伝達が終わり我らが生徒会長は軽妙に場を後にする。西欧の血を思わせる彼の長身(といっても彼は英国人で、背の高い民族でもないので彼の母国にとっても彼はまさしく“規格外”だったようなのだが)は壇上を去るとむしろ一層際立ちつい目で追ってしまう。彼、鷹見佑は俺と同じ軽音部所属の先輩で、俺は二年彼は三年、街で出会ったら何言かくらいは交わすだろうけどこれといって突っ込んだ話をするでもなければ積極的に関わろうとも別にしないそんな間柄だ。なんというか人生の王道をまっすぐ胸張って進む人に見えて案外渋いバンドを聞くし割とサボリ魔だしベース担当だし、腹黒ってわけじゃなさそうにしろ腹の底で何考えてるのかよく分かんなかったりもする。ケッコー俺と同類なのかな、とか、思うこともある。 「潮」 と、俺なりに物思いに耽っていると隣から、自分の名を呼ぶ声がして俺はクラスの“うーやん”へ戻る。なになに、どったの? 「いや大した用じゃねーけど潮お前式終わったら直帰?」 「へ? 違うけどなんで」 「いやミキとかとさ、カラオケいかね? って話してて」 「あー……ワリ、俺今日バイトあんの」 「マジかー、ってかなんのバイト? 前からしてたっけ、バイト禁止じゃん」 「え、飲食? 夏休みだけね」 「いいなー、飲食とか言ってプロっぽい」 「だろだろ? 働くオニーサンになっから」 なんか奢れよ、とのからかいに拒否を示して戯れていると、号令がかかる。起立、礼。解散の一言とともに俺たち若者の夏が始まる。恐らくさほど代わり映えしない、新しい夏が。 ぱちん。 少年の指先が、ジッポーの蓋を繰り返し、開いては閉じ、閉じては開き、そのたびに四角い表面が眩しく光りを弾いた。ぱちん。少年は一定のテンポを保って鳴らす。ぱちん。ぱちん、ぱちん。薄く唇を弛ませ、その端にタバコを載せて、柵の外へと垂らした両手のその先を見つめる。ぱちん。碧の瞳はジッポーそのものをしっかり捉えているにしてはどこか遠い目つきだった。ぱちん、――しつこいほどの反復のあとに、異質なノイズ。背後でドアが開く。 「おー、」 現れたのは、程よく焼けた肌をした、精悍に整った顔立ちの青年で、その人となりはわからないにせよどうやら未成年の喫煙を咎めるたちの男ではないことだけは確からしい。実際彼は特に苦言を呈すでもなく少年の横に並んで、一本寄越せ、と左手を差し出す。少年は姿勢を崩したままで胸ポケットから黒い箱を抜く。 「蔵未先輩? 珍しいですね」 「近く来たからついでにな。なあおいレベル下がってねえか?」 「うわあ、もしかして部室覗きました? 明日は槍ですね」 「沢霧も来てんぞ」 「わあ怖。いっそ隕石降るかも」 タバコを受け取ると青年は、断りも入れず少年の手に握られていたジッポーを奪い、慣れ様子で火をつける。それから紫煙を細く吐きつつそれを片手で弄び、「高ぇだろこれ。貰いモン?」 「そうでーす。セフレのおにーさんから」 「ちゃっかり貢がせてやがるな。ってかJPSなんか吸ってんのかよ生意気」 「先輩と一緒にしないでくださいよやだなー。貢がせてなんかないですよ、できる範囲でお返ししてるし」 眼下に広がるグラウンドから運動部の掛け声が響く。またその中を時折、妙に野太い芯の通った声が貫いていくことがあり、それは明らかに掛け声のように“他の目的のため”に発された声ではなくて、例えばそう、窓辺に直立し声を出すためだけに出しているといった類の謂わば“純粋発声”なのだった。それを聞き取って、本来の用事を思い出したらしく蔵未は少年を見下ろす。 「そうだ。なあ今日って俊いる?」 「いますよー。俊を待ってるんですもん、僕」 「練習もしねーで屋上でタバコ吸ってんのはそのせいか。どーせ残んなら部室行きゃいいじゃん」 「だって他のメンバー誰もいないですし。ご存知の通り俊は劇部行っちゃってますから」 「まあな。っつか今年の学園祭アイツ主役だろ?」 「主役ではないと言ってましたけど主役級なのは確かですね」 「バンドのほうは? 演んの? 今年」 「どうなんですかね? 俊は新曲作ったって言ってたよーな」 「いいね。お前らの曲好きだよ、俺」 少年はやや眉を上げ青年を仰いだ。その点以外は無表情に近い顔つきで何秒か見つめ、また何事もなかったように正面を向き直る。 「僕も好きですよ。先輩たちの曲」 青年は数秒前の少年と同じ顔をして、しかし即座に無表情へ戻ると少年の頭を一、二度叩いた。まだ半分以上も残っているタバコを急ぎ気味に(だがたっぷりと)吸って、煙を吐きながら地へ落とす。雑な火消しをしたあとで青年はくるりと背を向けた。後ろ手を振る、「劇部見てくるわ」 「いってらっしゃーい、先輩」 扉が閉まる。びゅうと風が吹き、舞い戻ってきた紫煙で軽く少年は咳き込んだ。灰が散って随分タバコの短くなったことに気づいたのか少年もやおら火を消す。先輩の分と自らの分と、二つの吸い殻を拾い胸ポケットへ仕舞い込んでしまうと、ジッポーをその隙間に詰めて柵の段差から飛び降りた。校庭では野球部の新入生がエラーしたらしく、叱り飛ばすコーチの声が、去る少年の背を追った。 両耳にイヤホンを嵌め、銀軸のシャーペンの蓋で唇を時たまつつきながら、A4サイズの台本へじっと目を落としていた俊は、突然片耳に流れ込んでいたドラムのビートが途切れたことで反射的に顔を上げた。そちらへ首を向ければ犯人の鎖骨の辺りが窺えて、それでおおよその見当はついたが一応視線をさらに引き上げると、相変わらずぞっとするくらい、輝かしい相貌が映る。 「沢霧先輩」 「やっほ。蔵未探してんだけど、来た?」 「いえ、……後で行くってラインは来ましたけど」 沢霧章吾は俊の“軽音の”先輩で、つまり今この場にいる彼、“劇部の”三青俊の先輩ではない。しかし蔵未、――今さっき会話に出た名前――は俊同様、軽音部と演劇部とを掛け持ちしていた男であり、よって、というか普通「よって」ではないのだろうが沢霧も蔵未にくっついて演劇部の部室を訪ねることが多かったので、少なくとも彼らの在学当時既に部に属していた面々は存在を認知しているのであった。二人が部室前の廊下で立ち話している現在も、何人かの生徒が沢霧に挨拶をしている。彼はそれらに片手間に応え、「何聞いてたの? マイブラ?」 「あー、……NINを」 「またしっぶいの聞いてんね。高校生が聴く音楽じゃないよ」 「俺がサブカルクソ野郎だって言いたいんですか」 「人の悪意を疑りすぎじゃない? それ言うなら俺だって同じ歳んとき聴いてましたし」 曲を停止させる最中、俊は察した。蔵未先輩がここ来るまで俺多分練習できないな。 「先輩が練習見に来るなんて珍しいですね」そう言って、もう片方のイヤホンも取り外す。沢霧は、 「あーね。なんか、気まぐれ? 近くに寄る用事あってさ、暇だから行ってみようぜって」 「用事?」 「うん。ホントは日雇いのバイトあったんだけど、駅ついてからめんどくなってブッチした」 「……相変わらずっすね」 「まあ二人くらいいなくったってなんとかなるっしょ。着ぐるみ着てチラシ配るだけだし」 「いやむしろ、」 続く言葉を咄嗟に飲み込む。(あなたたち以外にその仕事、する人いなかったんじゃねえかな、) 「? むしろなに?」 「なんでもないです。それより先輩、今の時期って就活とか大丈夫なんすか」 その単語を出した途端、苦虫を噛み潰したがごとく、 「ウワそれ言う? マジでお前ってさぁ、」 「すんません。でもヒマあんですか?」 「いや、まあ、イケるイケる、お前こそどーなの? 受験シーズンっしょ」 俊の表情は沢霧と違い別段歪むことはなかったが、代わりに彼は視線を逸らし再びそっと台本を見つめた。俊にとってそれは半ば答えの出つつある問題だったが、以前として真逆の方向へ転ぶ可能性も十二分にある、要するにまだまだ目下検討中の悩みなのであって、けれども詳細を相談する相手として沢霧章吾以上に不適格な人材もそういるまい。つまり俊の沈黙は、発語不可能状態あるいは対策の算出に伴う休止もしくは待機でしかなかった。誰かの視界に入るたび呼吸を奪ってしまう程、世にも美しい青年は、不思議そうに首を傾げて俊の沈黙を窺っていたが、やがて大した思慮も感じない、それでいてなぜか無責任でない台詞を継いだ。俺ね、お前劇団行ってもいいと思う。 「だってお前、天才だもん」 イヤホンを外された時と同じ仕草で、ただしゆっくりと、俊は沢霧を見上げる。彼は変わらぬ調子で、 「音楽やってもいーと思うけど。どっちもお前筋がいいし、あとあれじゃん、よしんば売れなくったって適当に女引っ掛けてヒモやって生きていけそう。俊くんモテるっしょ?」 「そんなことして心痛まないのあんたたちみたいな人だけですよ」 「あっそ。んで結局俊は、何になりたいの? 役者? 歌手?」 俊の指が台本の、隅、ホチキスで止められた右の端へと自然に伸びて、束ねられた一枚一枚を確かめるように弾く。しばらく上の空でその動作を続けてから、続けたまま、俊は口を開いた。別に、 「“何”になれなくても、いいんですけど」 「うん」 「ただ、……愛情深くなりたい、です」 沢霧は驚いた風に、――発言そのものに、というより、彼が自身にそれを告げたことに、――ぱちりぱちりと瞬いて、不意に笑った。「いいねえ、なんか。なんかしんないけど、それイケそーじゃん?」返答に俊も笑って、そのとき彼のスマートフォンへ通知が届く、幼馴染からだ。一緒に帰る約束をしていたが、用を思い出したから先に帰っても良いか、と言う。 了承を示す絵文字だけ送って、俊は画面を切った。 劈く、って裂くとか破るとか、そういう意味だったと思うんだけど、そうとしか言いようのない爆音が俺の傍を、騒々しく通り抜けて今ようやっと遠くなる。改造された白いバイクには青のランプが積まれていて、趣味悪ィなあ、とだけ思った。ウソ、もうちょい余計なことも考えた。うるっせえよバカ、とかなんとか。 夏の長い日もとっぷり暮れて、駅前にごった返す人混みもだんだんその質が変わってきてる。俺はかれこれ一時間近く待ちぼうけを食らってんだけどこりゃドタキャンかなと思い始めた、こういうことは少なくない、おおかた直前になって怖気付いたりなんかしたんだろう。責める気はない。警察沙汰になったとき、被害が大きいのは断然あっちのほうだから、そりゃ足踏みもする。 にしたって連絡の一つや二つ入れるのが筋じゃないですかね。俺はジーンズのポケットを探って、タバコを忘れたことに気がついた。思わずチッと舌を打つと、次の瞬間俺は我が身を疑うことになる。背後から、覚えのある声がした。 「あれぇ、怖い顔してんね? “うーやん”」 弾かれたように振り向くと、おちゃらけた笑みを浮かべる彼。頭を反らし目線を合わせつつ、恐る恐る、返す。 「……鷹見さん?」 「やあ、奇遇だね! ここで何してるの?」 「鷹見、さんこそ、……なんでこんなとこに」 知りたくて聞いた問いじゃなかった。とにかく焦りでいっぱいで、息が苦しい。心臓が痛い。どうしよう、なんて言えばいい? よりにもよってこの人に、どうしたって誤魔化せそうにない、――俺が、どうして、ここにいるか、 「家にいたくないから」 「――え?」 「ん? 僕が、ここにいる理由」 変わらぬ笑みで彼は答え、俺は一瞬、余計に混乱し、そのうち次第に落ち着いていった、多分、俺が一瞬のうちに想像したあらゆる最悪のケースの、どれにも行き着きそうにないと、理解したから。 「待ち合わせしてたの?」 「はい。……でも、すっぽかし食らったみたいで」 「じゃあ、僕と一緒に来る? 君も暇なんで���ょ」 「いいですけど。どこ行くんすか?」 「ゲイバー」 「え、」 「だって僕バイだもの」 ヤじゃなきゃ行こう、手を掴まれて、振り払う勇気は俺になかった。それに、……話を聞きたい気もした。この広い街で、こんな風に、迷っているのが俺独りじゃないなら。 近づいて、初めて知った。彼の綺麗な金髪からは、タバコの匂いが、してるって、こと。
16/10/18:ソヨゴ
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月の恋人
なんて冷たい唇なんでしょう! 貴方の薄付きの桜色をした、少女のような唇、けれど、触れ合う途端にいつも思うの、あなた石膏でできた人形みたい、あるいは世にも美しい死人、——この世で一等美しい死体は何か昔語り合った。花と溺死したオフィーリア、十字架から降下するイエス、私はあの時言わなかったけど嗚呼きっとあなただと思うあなたがその息を止めた時にはどんなにか美しいでしょう、恋人の骸を夢見るなんてろくな彼女ではないわね、ええそう、でもわたしがろくな人間だったらあなたわたしに惹かれなかったわ。 「……余所見している」 「うそ。あなたを見てるわ」 「分かっててそう、云うんだものな、君は」 拗ねたような口ぶりも、わたしへのサーヴィスなのでしょう。あなたは意味のない行動なんてとったことがある? ふとした瞬間に、物憂く閉じるその瞼、溢れる吐息、振り向く仕草、何もかもが完璧に演出された一舞台、やめて、違うの、責めてなんかない、わたし以外にその演劇にはきっとだぁれも気がつかなくて、そうと知ってて、見抜くわたしを、あなた選んだ。酷い人ね。 「くちづけをしただけなのに、」と、あなたは云う。「随分遠くまで行ってしまうね」 「遠く?」 「遠く。頭の中の俺じゃあなくて、此処にいる俺を見てよ、ニコール」 煩い。あなただって見ているくせに、——あなたにそう言ってほしいわたしを、——どうして? 目の前に在るものさえわたし、わたしたち、見詰められないのかしら? この距離はなんの距離なのでしょう、ただあなたに触れるだけのことが、どうしてこんなにも難しいの、日に日にあなたを失っていく、知れば知るほど欠けていくよう。 一度、跡形も無くあなたが、闇に溶けてしまったら、再び出会えるかしら? ダーリン。 ------ 16/10/16:ソヨゴ 夜のお供に、(私個人の感覚で言えば)自動筆記的短文。
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昼過ぎ、晩夏。
兄が罹つたのは夏の初め頃から流行りだした病いで何でも細菌が原因だとか、中には重篤に至る人も在るとのことだが大抵は一週間か其処らでけろりと治つてしまふものださうで醫者もまあ心配には及ばぬと云つた若し十五夜を過ぎても工合の優れぬ樣なら其の折改めて顏を出して呉れとのことだ。僕は兄を連れて屋敷へ戻り以來斯うして看病してゐる。兄は昔から病弱で流行病が有ると必ず罹る對して僕は一向丈夫で四年に一度熱を出すか出さないか程度であるまるで僕が罹る分まで兄が一身に負つてゐる樣で咳する兄の背を見る度に僕は何だか後めたい。然し兄は僕が氷囊やら粥やらを持つて行く毎、何だか惡い樣だねと云ふ。 「僕のことは放つておいて、外へ出掛けても善いのだよ」 「然うもいくまい。僕は家族だ」 「と言つても、女中も丁稚も在るのに」 「家族の世話くらゐ手前でやるさ。そら、口を開けて」 僕と兄とは良く似てゐる。兄の面のが上等だがふとした拍子に何方が己だか曖昧に成る事が有る。今粥を蓮華に盛つて手ずから食べさせてゐるのは果たして僕と兄の何方なのか、幼子の樣に温順しく口を開(あ)いて待つてゐるのは僕の方ではなからうか。そんな交錯は大概刹那に過ぎて仕舞ふのだが時に尾を引く。すると僕は暫く固まつて仕舞ふ。 「如何かしたかい」 「噫、……いや」 僕は次の一口を掬ひ取り乍ら呟く。 「兄さんと僕とで半々に出來たら好いのに。咳も熱も」 「氣にする事はない。足して割るより、二つ有る方が好いでせう」 「二つ?」意を掴み兼ねて尋ねる。兄は微笑み、 「人は平生、ひとり分の生き方しか出來ないけれど、僕らは二通りを遊べる。章吾は僕の代りに外へ出、人と關はり、日の色を知る。僕は章吾の代りに篭り、書を讀み、深淵に觸れる。普通の人は何方かしか生きれないが僕らは違ふ。僕は章吾が然う生きるなら、其れで充分」 成る程兄は其の樣に考へてゐたのか、と、納得すると同時如何にもし切れぬ氣持も否めずに、結果拗ねた風に口を尖らす。兄はまた愉快げに笑ふ。 「けれども、偶には入れ替わつてみても良ささうなものだ」 「さうかい。章吾は優しいね」 同い年の兄に襃められても、嬉しさよりは恥かしさが勝る。澁面を作る他ない。 「然し章吾、入れ替わつたとて、君にこんな書が讀めるかい」 「……無茶だね。兄さんも、出版社の連中と押し問答などした日にや直きに熱出して倒れちまふよ」 「然うとも。僕は章吾以外と深く關はると調子を崩して仕舞ふのさ」 ——二通りの生き方、とは言へ、極端過ぎやしなひだらうか。僕の身に何か有つたら此の兄は如何する積りなのか。第一、孰れ僕も嫁を娶り、家を出る日も來るだらうに。全く實に呑氣なお人だ。 粥を食べさせ終へてから時計を見ると二時を過ぎてゐた。然う云へば、と半に藏未に呼び出されてゐた事を漸く思ひ出し、僕は慌てて席を立つ。部屋を出る際、行つてらつしやい、と兄が聲を掛けて呉れた。 「ん。行つて來ます」 襖を閉め乍らふと思ふ。此の國には、歸りを約束しない侭旅立つ言葉はないのだな、と。
—— 2016/09/18 沢霧双子で短文。近代パロ。 歴史的仮名遣い変換時に利用させて頂きました。↓ http://hp.vector.co.jp/authors/VA022533/tate/komono/Maruyaruma.html#pos
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