JAFIC(日本アパレル・ファッション産業協会)の活動について、学生視点で情報を発信します。 主にJAFIC PLATFORMに所属するクリエイターと会員企業のインタビュー記事を公開中。
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Companies interview:006
株式会社 ファッション須賀
株式会社 ハッカ
代表取締役 須賀次雄氏

—会社設立の経緯を教えてください。
僕は文化服装学院でデザインを4年間勉強していました。
パートナーである葉山啓子、現在の子供服の責���者など、当時デザインを勉強していた同期4人が集まり、パリから帰国後、「白花」メーカーを始めました。
マンションメーカーというものが流行った時代に、ただ物を作る発想で会社はスタートしました。
僕以外は全員女性のため力仕事は全て僕が担当しましたが、メーカー勤務の経験が無かった為、ものを作るといくらになるか、どう利益を出すのか、伝票の書き方すら分かりませんでした。
婦人服から始まり、子供服は雑誌社から頼まれてコマーシャル用に作り始めました。
現在は婦人服、子供服、食器などのテーブルウエアを扱うブランドがあります。更に飲食事業も展開しています。店舗は全部で約100店舗、パリに一箇所事務所があります。
婦人服では「SUPER HAKKA」が一番長いブランドです。
当社はデザイナーがあまり変わらず、深い関係性で長年続いています。葉山と私は商品一つ一つに目を通し、全体的なデザインのディレクションをしています。
—子供服や食器など、取り扱う分野を広げたきっかけを教えてください。
子供服をスタートした40年ほど前の時代では、子供服はこうあるべきというテーマが一般的に決まっており、それが自分達としては面白く感じませんでした。
ある雑誌の依頼で「子供服実験室」という企画に取り組んだのが始まりで、徐々に話題になっていきました。
物作りの面では婦人服とあまり変わりません。
デザインは売れる為にある物と、こうあるべきだという物があり、企業は年を取るにつれて、売れる為の仕組みが段々と必要になっていきます。
生活の中で、色々なデザインがありおしゃれ感がある事は、人間にとってとても楽しい事だと思っています。
なので、ドキドキワクワクする物を作らなければいけない。それは洋服も食器も同じ事なので、そういったコンセプトで展開しています。
テーブルウェアを始めたきっかけは、プロヴァンスの鮮やかな発色に、和風の絵が妙にマッチした食器を見つけたことです。
作ったフランス人は来日した影響でそのような物作りを始めたそうで、日本でも紹介する事になりました。ただ売るだけでは面白くないと思い、経営していたカフェで使い始め、徐々に海外からから輸入するようになりました。
―当時海外での製造や輸出入は珍しかったと思いますが、苦労した点はありました���。
最初はタイの工場から要請があり、タイでの製造を始めました。
ただ、僕らの作るジャンパー一枚をあちらで作ろうとすると、現地の給料一ヵ月相当になってしまいます。それでも何年か運営をしていました。
数年後、タイの既製服メーカーさんと一緒にヨーロッパ販売旅行のような旅をさせて貰いました。
その中で日本のデザインとタイの製造技術をヨーロッパに持っていこうと思い、パリの展示会に参加することになりました。
しかしタイは、技術力は付くけれど素材力がカバーできない。やはり日本の素材はレベルが高いです。コストと品質のバランスがうまく取れず、結局タイでの製造は途中で辞退しました。
パリに事務所を設けたことで、広範囲な輸出入をしようと、ブランケットやおもちゃなど生活雑貨の仕入れを始めました。
「Ribbon hakka kids」という店舗では、洋服にプラスして生活雑貨の色々なアイテムを取り扱っています。メイン店は現在六本木ヒルズにあります。
子供服は単価設定や内容など、最初はビジネス的な部分で苦しみました。子供のアイテムは扱いに特に気を遣います。お皿一つでも、日本は特に規制や検査の安全基準のレベルが高いです。


―ライフスタイルを重視することについて、どう思われていますか。
生活をより良くしようとか、楽しもうとすると、色々なアイテムが必要になってきます。タオル一つでも色や肌触りにこだわったり。
ある意味、洋服以外の部分でもファッション性は出しやすく、重要だと思っています。
ヘルシーで美味しい食べ物、可愛いテーブルクロスにこだわることなども、文化的に豊かかなと思います。
―会社としての今後の展望を教えてください。
一つ一つのブランドがもっと光り輝くようになればと思います。
先述したように、量を望まないとなると、生産問題などを含めた仕事の精度を増さなければなりません。
好きな事をして利益が出れば一番の幸せなので、どれだけ精度を増しつつ儲けるかというのが、考えるべきことです。
― JAFICに期待する事業を教えてください。
当社はスタートしてからほとんど同じメンバーなので、今までは若い人材が入ってくる余地がありませんでした。最近になって若返らせなければと思っています。
メーカーさんは若い人材が欲しいけれど、中々見つからないことが多いです。
若い人は私たちと同じように、独立に興味のある方が多いのではないのでしょうか。
決められた仕事でない事の楽しさというものもありますから、何とも言えないですね。
-ご自身のキャリアを振り返って、学生のうちにやっておくべき事などアドバイスをお願いしま��。
僕の先輩には、文化服装学院出身の優秀なデザイナーや経営者がたくさんいます。
彼らを見て、僕らも学生を集めて会社を立ち上げました。
興味が多岐に渡ること、怖いもの知らずであることから、何でもできるのが学生の良い条件です。そういう意味では、色々な経験をしておいた方が良いと思います。
それと、強気を崩さない事。大人になって年をとっていくと、守りに入りがちなので(笑)
― この業界に必要な人材はどんな人材だと思いますか。
この業界は色々な職種があり、結構良い加減な部分もあって、それが面白いところですね。
日々新しい事に気がついたり、昨日まで最高だったものが今日になって違うものが最高になったりとか。それを平気で言い通さなければいけません。
ポリシーがあれば変化に気付くけれど、それが無いと曖昧なものになってしまう。
ただその曖昧な中でも、新しいものを見つけようとする意欲があれば、認めさせる事ができると思っています。そういう気持ちの人が沢山活躍してくれたらと思います。
スタートが簡単とは思わないけれど、時代の変化というのは凄く大きい。
ただ、日本人が培ってきたものづくりの精神力は、世界水準で言えば大変高いです。これは特徴的に優位なところであり、世界でビジネスに繋げる事ができれば、もっとメリットがあるかなと思います。
ファッション産業としては、まだまだ持っていく方法が広範囲にあると思っています。

一企業の社長でありながら、文化卒という異色の経歴をお持ちの須賀社長のお話は大変貴重で新鮮でした。
ドキドキワクワクするもの作りをしなければいけないという、もの作りに対する熱い想いと、社長や社員さんのお人柄から伝わる社内のアットホームな印象に惹かれました。
ご本人も仰っていた、心の豊かさについて考える機会となりました。
お忙しい中ありがとうございました。
編集:橋爪彩夏(実践女子大学 生活科学部)
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Creator's interview:005

Enlee.
デザイナー En Lee
―デザイナーを志したきっかけは何でしたか。
普通みなさんファッションが好きでデザイナーになられるじゃないですか。私の場合全然違いました。
家系がビジネスマン、学者系というか、すごくストイックな家で。
でも私はアートが好きでずっとやりたかったんですけれど、両親にそれじゃ自立できないからやめてくれ、多方面方で考えてくれと。
それで落ち込んでいた時に、父にビジネスとアートの間を取れないかと言われて、それで高校卒業後、芸大に行き、デザインの中のファッションという領域に進みました。
でもその当時ファッションはあまり好きではなかったです(笑)
キラキラした人に興味がなくて。ただ小さい時からパリコレ等の総合的は芸術性や、ランウェイがすごく好きでした。
これだったら仕事として割り切ってやれるかなと。それが最初のきっかけです。
ーブランドコンセプトはどのようなところから生まれたのでしょうか。
クリエイティビティに特化した世界最強な集団を作りたいです。
そのような組織をつくりたい。組織=会社になりますが、大きくなくてもモノづくりに貢献出来る組織にしたいと思っています。
理由は、日本の文化含めアジアの文化は着物など、素晴らしい色彩感覚があり、モノづくりの技術があります。
アジア人ってヨーロッパのトレンドは受け入れますが、自分たちのアジア本来のテキスタイルとか文化は現代ではオシャレではないと感じています。
それがアートに興味を持った10代の頃から感じはじめました。
そして、「なんでだろう」と社会に対して疑問があり、海外生活していた時より明確に思うようになりました。
そういった自分たちのいいものを勝負できないのは面白くないなと。
だから、自分がブランドをつくる時は大好きな文化、中東からアジア全般のコンセプトでにしようと。素敵なモノづくりをアジアから発信し世界に広がるブランドにしたいと思いました。
また、ヨーロッパやアメリカに行きよく思うことは、デザイナーやモノを生み出せる人って欧米ではすごく評価されるんですよ。
私も「君はこんなことできるんだね、すごいね。」って言われて��それだけで評価されるんです。
でもアジアって、一番発展していると言われる日本でもクリエイターの評価がすごく低い。私も日本企業で働いていましたが、営業の方とかお金を動かす方が強くて。もちろんそれは大切な事ですけれど、同等になったらいいなと思います。
また、クリエイティビティに対しての感謝の気持ちが欧米に比べてすごく低いと感じます。それが嫌だなと。それが理由で、自分がブランドをつくるときは、アジア最小で最強なクリエイティブ集団をつくりたいと思いました。
今はまだ1人でやっていますが、クリエイティブを特化したビジネスモデルを作り世界に持っていけるようになればいいなと。
モノづくりに対しての社会的な疑問からEnlee.のブランドコンセプトが出来上がったかもしれません。

ー活動の拠点はなぜ東京にしたのでしょうか。
そうですね、NYや上海にも仕事で住みましたが、まずは日本で育ったという事と、アジアでは日本は世界のショールームだと言われています。
ヨーロッパから人からのバイヤーも多く、一番いい環境だなと。また、モノづくりの環境が整っていて、一番いい拠点環境だと。
でもビジネスは国内だけでは考えていなくて、中国やアメリカ、ヨーロッパの方でビジネスをしたいなと思っています。
ーNYでデザイナーを経験されて、どういったことを学びましたか。
主にNYではファッションビジネスやデザインを学びました。
私の目的はビジネスのやり方、一年間できゅっと学んで、賞をとれたら、と。日本とアメリカでも学生時に賞をとりましたが、何よりも家がすごくストイックで、ファッションに対しても否定的だったので、両親にちゃんと結果を出すのが目的でした。
とても大変でしたけど、ずっとモノを作っていて、すごく楽しかったです。
そして痛感した事は、海外でクリエイターとしてどう乗り切るかといったらやはり言葉などではなく、作品。周りよりより良いものを見せて驚かそうと思い製作にずっと打ち込んでいました。

ーEn Leeさんがモノづくりにおいて大切にしている点は何でしょうか。
絶対に感謝をするということです。
何故かっていうと、日本企業で働かせて頂いた時、数字によって「売れる商品を作る」っていう事が好きではなかったからです。生地屋さんやパタンナーの方、生産管理の方、あらゆる人達がやり取りの中でピリピリとコスト詰めて笑顔がない、そういう状況を沢山見てきました。
それっておかしいな、と。せっかく素敵なモノをつくったら、「有難う、ここはこうしたいです。」とか、そういうことって大切だなと思います。
愛情がある料理を食べた方って人への思いやりが育つと思いますし、人にもそうできると思うんですよ。そうやって幸せのスパイラルが回って心を届けて、優しい気持ちを人にバトンタッチできて、素敵な環境ができると思っていて。
「これ良かったです、ありがとう、」と言われたらもっといいものをつくろうって思えますし。人と同じで、愛情があればモノももっといいものができると思います。
なので、私は工場の方とのやり取りで、「こうしたい、」うまく出来たら「良かったです。有難うございます、」と、きちんと伝えます。
そうすると相手の方に「もっとがんばります、研究します。」って言ってもらえて。よりいいものができると感じています。それが一番大切だと思っています。
ーファッションデザインの他、テキスタイルデザイン、イラストレーション、CGデザインと幅広くクリエイティブ活動をされていますが、仕事をする上での苦労する点はありますか。
私は小さい頃から絵は良く描けた方で、海外に行っても周りから評価して頂いたと思います。
しかし日本に帰ってきて、自分でも凄く良いと思うポートフォリオを作り企業の面接に持って行きましたが、うますぎる、と。なんでここに来たのと。
いいものを出すのが一番なんじゃないのかなと思っていたので、それがすごくショックでした。
それでまた他の所に行った時も同じことを言われて。その理由がよくわからなくて。うまいに越したことはないはずなのになんでだろうと。今考えれば、其の企業デザイナーには尖ったクリエイティビティを求められていなかったとわかりましたが、当時は凄くショックでした。
ークリエイターの立場としてJPFについてどう思いますか。
正直に言いますね。紹介で参加したのですが、目的が何かわからなかったというのがあります。
良かったことは、機屋さんを紹介して頂いたりとか、いろんな方と知り合うことができたり、イベントがあったりモノづくりの上でとてもお世話になっています。
しかし、マッチングという点はあまり認識がなくて、あるんだというくらいになっています。
ーEn Leeさんの今後の目標を教えて下さい。
近々の目標は、1年後までに何らかの形でコレクションに出すことです。
あとは、生地から仕込み、染めてプリントまで限られた予算で現在一人と外部の仲間メンバーで回していますが、それを持続してドメスティックなものは絶対つくらない。唯一無二のものづくり。
皆が着ないかもしれないけれど、これまでに無いストーリーやデザイン。見て幸せになる色を使い個性があるものをつくって感動を届けたいなと思っています。
Enlee.にしか無い素材、色、デザインを作っていきたい。万人受けはしなくていいので、そういうコアなファンが世界各国に少しずつ増えていけば良いと思ってます。

李さんの様々な経験を通した、クリエイターとしての熱い思いが非常に伝わってくるインタビューでした。
また、社会について冷静に分析したり、あらゆる物事に対してのなぜだろうという意識、それに対するご自身の考えをしっかりと持っていて、かつそれをご自身の活動の軸として持っている点に尊敬しました。
お忙しい中、とても明るく気さくに我々学生を受け入れてくださり、ありがとうございました。
Interviewer: Nagami Hinako
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Creator's interview:004
YASUTOSHI EZUMI
CEO / デザイナー
江角泰俊氏
−デザイナーを志したきっかけを教えてください。
高校生の頃からファッションが好きで、最初はスタイリストになりたいと思っていました。
実家が島根なのですが、大阪の短大に入り18歳からファッションを勉強し始めました。スタイリングというよりも、服を作ったときに物作りの方が面白いと思い、ファッションデザイナーを志しました。
当時全盛だったアレキサンダー・マックイーンが特に好きで、彼を調べていたらセントラルセントマーティンズ美術学校出身ということで、興味が湧いてきて、二十歳でロンドンに留学し、セントラルセントマーティンズ美術学校に行きました。
−コンセプトはどのような経緯で決まったのですか。
ロンドンから日本に帰ってきてから始める前に1年間いろいろ考えていて、
コンセプトが「ロジック」、日本語でいう「理」なのですが、理にかなったものをつくりたいという思いからロジックにしました。
実家が出雲のお寺で小さい頃からそういった心理や物理だといった何かしらの理にかなった、物のことわりや心の理などがバックグラウンドにありました。生産やデザインに関してもなにか理由があるという風に考えました。
そこで、理にかなったものということで「理」がブランドコンセプトになりました。漠然としていると長く続か無いし、しっかり芯がないとぶれるという、自分の背景を見直してそれが出てきました。
日本に帰ってきて、日本での自分の生まれ育った環境であったり、ロンドンに行っていたときの外国人の立場である日本人というものを持ちながらの経験や、日本に帰ってきてから一度京都の方に修業に行った経験を経てこのようなコンセプトに至りました。
−普段の服作りの発想はどのようなところからスタートしますか。
まずはリサーチから入ります。
セントラルセントマーティンズ美術学校時代のやり方が自分に根付いていて、この学校はプロジェクト型でなにか大枠の中で1つサブジェクトを選んでリサーチをしていきます。図書館やギャラリー、マーケットに行ったり写真を撮ったりと、いろんなそのサブジェクトに対するリサーチをし���いく中で、発想を広げていくような方法です。
毎回膨大な資料を集めて、もちろんファッションに関連したサブジェクトであったり、リサーチもしていくのですが、ここ数年は建築/構造という��ブジェクトに興味が強く建築家の友人とコンセプトなどについて話すこともあります。
なぜ建築かというと、ファッションと建築は構造という意味でどういう構造で作るかというコンセプトで今の僕にとって転換しやすいのでそういうところからスタートします。
デザイナーによって癖があり、僕は構築的だったり直線よりなものが性分に会うのでここ数年はそれでやっています。
テーマに関しても試行錯誤していくなかで自分に合ったものを試して好きな物を絞っていくとスタイルになっていくので、そういう意味でも今は建築に集中してやっています。
−仕事をする上でのやりがい、楽しみ、苦労する点を教えてください。
苦労する点は、物作りをする大変さや、経営の事もありますし、ファッション業界の状況が苦しい中でどうやっていくかなど、大変なこともありました。
最初は1人で始めたので毎朝行って夜中まで働き帰宅するのが1時、2時で土曜、日曜もそれが続く状況が2年ほどあったのですが、少しづつ大きくなってきて人が入ってきてくれて回るようになりましたが、最初はお金もなかったですし大変でした。
やりがいや楽しみはすごくあります。
物を作って服が出来てそれがよかった時はもちろん嬉しいです。
特にプロになって嬉しいと思ったのは、出来上がった服を知らない誰かが買って喜んでいたり、お客さんがまた買いにきてくれたり、自分の作ったもので優越感を感じてもらえたり、着て楽しんで貰える事がすごく楽しみですし、やりがいがあります。
ファッションショーも好きなのですが、ファッションショーを開催するまでにかなりの苦労もあります。
ファッションショーが終わった時の出た反応で感触が分かるのですが、いい時は純粋に褒められるのが嬉しいですし、上手く行かなかったときは悔しいです。
そういう事が半年に1回あるというのはすごく浮き沈みもあるけれど平凡ではなくて、半年に1回、自分が作ったものを全部ぶつけて評価されて、僕はデザイナー兼経営者でもあるので、そういった意味でもいろんな角度からの反応があってそれも含めて楽しいですし、やりがいを感じます。
−クリエイターの立場として、JAFIC PLAT FORM(JPF)の存在意義をどう思いますか。
互いに利益がある繋がりという点で、JPFというシステムはすごくいいと思います。企業の人との出会いのきっかけとしてはいいと思っています。
ただ、互いのことを明確に知らないケースが多いと思います。
企業側がどういう物が欲しいか、クリエイター側がどういう物が出来るかとなど、もっと明確に分かることができればもっとマッチングが進むのではないでしょうか。
もっとJPFを通して即座にマッチングできれば良いなと思います。
JPFのホームページで、クリエイター側の情報をSNSと連動するなどして、もっと簡単でかつリアルタイムな情報が見られると思います。
−ご自身のキャリアを振り返って、ファッションに興味のある若者へファッションをより楽しみ、関わっていくためのアドバイスはありますか?
自分が着ているものを褒められたら嬉しいでしょうし、そういった単純な所から着ていると思うのですが、いろんな経験や場面に行くことによってファッションの必要性も出てくるし、東京という場所はすごくファッショナブルな場所なのでそういう意味で感化されていくと、さらに試したくなってそれがまた楽しみになっていくのではないかと思います。
着るという楽しみはもちろんあるのですが、作るという楽しみもあるので、自分で作って服にしてみたら楽しいのではないかと思います。
類似している商品が多い中で、少し変えて個性を出していくのもファッションを楽しむコツなのではと思います。
デザイナーでもあり、経営者である江角さんのお話は、とても興味深かったです。
コンセプトの「LOGIC(ロジック)」のお話では、ご実家がお寺ということや、ロンドン時代のことなど江角さんの経験から成り立ったものであるという経緯が大変印象に残りました。
また、学生に寄り添った目線でお話をして頂きました。アトリエも見学させて頂いたりと、大変貴重な経験となりました。
お忙しい中、お時間を頂きましてありがとうございました。
上村桜子(大妻女子大学 家政学部)
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Companies interview:005
株式会社 レナウン
代表取締役社長 北畑稔氏
株式会社 レナウンアパレル科学研究所
社長 藤吉一隆氏

—会社概要を教えてください。
(以下、北畑社長)
1902年、佐々木八十八がレナウンの前身である繊維雑貨卸売業「佐々木営業部」を大阪に創業しました。
当初はメリヤス製品、香水や帽子、羽布団毛等を取り扱っていました。
ちなみに、今NHKでやっている「べっぴんさん」。ヒロインのモデルは他社さんの創業者ですが、その創業者の方の父親がレナウンの創業者の佐々木八十八です。
太平洋戦争の影響で休眠していた「佐々木営業部」を再発足させたのが二代目社長の尾上清です。
「レナウン」という名前は、大正11年に英国皇太子が訪日した際に乗っていた巡洋艦から取って商標に採用しました。後に「レナウン」は社名となりました。
2016年度でレナウン創業115年目を迎えました。
企業理念は「感性創造企業」、経営ビジョンは「豊かな心になれるコトを提供することで、世界に価値を発信し続けるグループ」です。
「品質のレナウン」「信頼のレナウン」という、これまでの歴史の中で築いてきた財産をベースに、お客様の視点を忘れず、新鮮で心豊かな生活づくりに貢献したいと考えています。
—取扱商品・ブランドを教えてください。
当社は事業領域、提供価値別に組織を作っているのが特徴です。
メンズのターゲットは幅広く、ビジネスからカジュアルまで取り扱っています。
一方、ウィメンズはカジュアル主体で、アダルトからシニアのお客様をターゲットにしています。
その他、ファミリーをターゲットにしたブランドもあります。
—商品を提供するにあたって大切にしている事は何ですか。
どれだけお客様の課題をブランドや提供価値やサービスで解決しているか、という事です。
安心・安全、作り手の想いやこだわりはもちろん大事ですが、他社さんとの差はつきません。
解決したいお客様の課題というのは、商品をご購入いただく際に悩まれること、例えば楽しみにしている旅行や同窓会に何を着たらいいのか分からない、素敵なお洋服も多いので選べない、どこで買えばいいのかも分からない、というようなことです。
そういったお客様の様々な課題を解決していくために、当社は存在しているという考え方です。
−社員さんとの関係で大切にしている事、取り組んでいる事を教えてください。
レナウンでは「人」は何よりも貴重な財産であると考え、人財と表現します。
性別、人種、年齢、障がいの有無は関係なく、スタッフには力を発揮してもらいたいです。
ダイバーシティ、ポジティブアクション(女性活躍の推進)、子育て支援、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)に取り組んでいます。
とにかく、多様性から強みを引き出そうと思っています。
結婚、出産など様々なライフステージで欲張って欲しいですね。イクメンも推奨していますよ。
今年の入社式にはご親族をお招きしました。
90名の新入社員に対し20名ほど来られて、社内の案内や懇親のためのパーティにも参加していただきました。
—会社としての今後の目標を教えてください。
お客様の課題をどれだけ的確に解決しているかを、見極めていかないといけませんね。
当社は今まで、ショップや売り場に足を運んでくださる方をお客様にしていました。
しかし今は、Eコマースという販売チャネルができています。
アパレル・ファッション製品の消費者にも、サイレントマジョリティのような人たちがいると思っています。
忙しい、服よりも大切な事がある、どこで何を買ったら良いか分からない、そういった課題を自身で抱えている方々に、橋を掛けなければいけない。
ここは考え方を変えなければならない点です。
少子高齢化、消費支出の減少、円安といった現代で、こういった方たちとどう繋がっていけるのかを考えないと、ファッション業界の将来の展望は無いと思います。

−JPFの取り組み事例を教えてください。
当社のレディスブランドで、ad addendaというブランドがあります。
50年ほどの歴史のあるブランドです。
ところが去年の売り上げが、前年比で90%に落ちてしまいました。
理由の一つに、デビュー当時は20代後半というターゲットでしたが、お客様を大切にしすぎたが故に、お客様が年を重ねるのと一緒にブランドのターゲット年齢が上がってしまいました。
ふと気がついたら、お客様の平均年齢が70代以上になっていました。
シニアのお客様は豊富にお洋服をお持ちになっており、例えば、コートを持っていないから買うという方はほぼゼロです。お客様はクローゼットに無い、今お持ちの服とは違った商品を求めています。
そんな時、JPFに登録されていた家永健司さんというクリエイターさんからアプローチがありました。
是非お願いしようという事で、2016年からad addendaの企画に関わっていただくことにしました。

社内の人財がどんなに優秀であっても、引き出しから新しいことが出てこない時があります。そして冒険がなかなかできない。
社長は新しい事をやれと言いながら、数字を落として良いとは言いませんから(笑)
しかし、外部の方のクリエイションが入る事によって角度が変わってきます。
改革もしやすい。
実際、結果は出つつあります。京都にあるad addendaの売り場では、ある期間昨年対比で141%と大きな伸びを示すことも出てきました。
当社ではこのように、JPFによって実績が出つつある事例がある事を、強調させていただきたいです。
−業界を目指す学生に求める人物像
主体的な意志を持って、感性・想像力を高める努力をしている、しようとしている人です。
更に、真摯で誠実であろうとしている人ですね。
服に対しての深い知識やアルバイトの経験の有無は特に問いません。
これからゆっくり勉強していけば良いですからね。
ただし内定後の学生さんで希望する方には、当社の直営店でのアルバイトをご紹介しますよ。
−今後のアパレル・ファッション業界について、期待する事はありますか。
現在のファッション業界は、同業者が多く、新規参入も多い環境です。
考えてみてください。ケチャップやマヨネーズで思いつくメーカーはいくつありますか?
かなり少ないですよね。
一方この業界では、市場占有率2%で大企業となります。
アパレル・ファッション業界は同質化していると言われています。
これは百貨店などにも言える事です。
すでに、老若男女が来る場所では無くなってしまったにもかかわらず、来店する客層に支持されるものを作ろうとしてきた結果、限られた客層向けの商品を提供するようになってしまいました。
このような同質化は、小売業とアパレルが一緒になって招いてしまった、お客様を大事にするが故の結果ですね。
ビジネスの将来を見据えたときに、今までと違った、お客様との付き合い方が必要だと考えています。例えば販売をするだけでなく、お貸しする、オフシーズンの服をお預かりしてケアするなどです。
服にこだわりを持たない方も多くいらっしゃいますが、そういった方の中には、先ほど申し上げた課題を抱えている方は必ずいらっしゃるはずです。
そのような課題を解決できる行き届いたサービスを見つけてソリューションしたいと考えています。
—レナウンアパレル科学研究所(略称アパ研)について教えてください。
(以下、藤吉社長)
私たちアパ研は、ISO 9001認証取得し、工業標準化認定試験事業者で公平中立を基本に考えているところで、自社でやっています。
お客様に、一定の品質保証と法律を遵守した商品を提供するため、品質評価をしています。
また、ISO 9001 認証取得した、工業標準化法登録試験業者で公平中立を基本に考えています。
業務内容は幾つかあります。
一つ目は、繊維製品の品質性能を評価する試験及び証明です。
染色堅ろう度、寸法変化率、混用率などの試験や、��果について必要とする報告書の発行をします。
ここには様々な試験に対応するため、普段目にしないような機器が沢山あります。


二つ目は、繊維製品の品質表示など法的表示事項に関する指示および指導です。
例えば昨年の12月に、服などについている取扱い表示記号タグに関する法律が改正・施行されましたよね。
その変更を見据えて、JAFICのコンプライアンス委員会内にある、私が委員長を務める品質管理小委員会で、業界統一のガイドライン作成に向けて様々な議論を重ねてきました。
実際に新しいタグの商品がお客様の手元に届いてから、小さな問題が出てくるかもしれませんが、何事も無くガイドラインが定着して欲しいです。
その他に、クレーム(消費者苦情)の原因調査や品質改善の指導なども行っています。
私たちは、製品を販売する事前と事後に検査を行います。
販売後にお客様からクレームなどがあった場合は改めて検査を行い、原因を特定します。
その結果もの作り上の要因であれば、改善を行い、再発防止や未然防止策を策定します。
だから、次の企画に生かす事ができるのです。
お客様の目には見えないところですが、商品の安心・安全を支えています。
ファッション業界の中でもアパ研は認知度も高く、頼りにされているのはありがたいことです。
今後、品質の管理に加え、お客様のデータ分析にも取り組んでいく予定です。
当社の業務に関心のある学生さんは、是非門をたたいてください。

長い歴史のある企業だからこそ、お客様の大切さ、信頼の重さが伝わってくるインタビューでした。
お客様の課題を解決するというのは、現代人の多様化する趣味・嗜好に寄り添ったご意見で、大変印象深かったです。
また、陰ながら会社と業界を支えるアパ研と研究員の方々の存在は、服が好きな人たちにこそ、広く認知して欲しいと思いました。
終始、北畑社長と藤吉社長の誠実さに惹かれる取材でした。
お忙しい中ありがとうございました。
橋爪彩夏(実践女子大学 生活科学部 4年)
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Companies interview:004
ジャパンスコープ 代表取締役会長CEO
日本アパレル・ファッション産業協会 企業活性化委員会 委員長
黒川洋 氏
ー会社概要と、インターネット事業に力を入れるようになった経緯を教えてください。
当社は6年ほど前に大きな方向転換をし、ODMの会社に切り替えました。
ODMはOEMと違い、小売の希望する企画を作り、生産まで全てをやるという業態です。
現在自社ブランドはありませんが、ネット事業はオリジナルブランドでやっています。小売に卸す中小企業の、今後のビジネススタイルとして企画発信の流れにいち早く危機感を感じたからです。
インターネットは今、非常に大きな課題となっています。
小売のパイは減っていなくても、買う場所が変わってきている。なので自分たちも、そこに販売チャネルを持っていかなければなりません。
ただ、ネットは平均上代がとても低い。値段の叩き合いが凄い中で、いかに高品質なものを届け、値段が高く付く理由を伝えるか、という事が大切です。
ー商品を提供するにあたって大事にしている事は何ですか
定番を作ることです。
ネットは色々な人が参入するので、その分色々なファッションをやらなくちゃいけないと勘違いするけれど、ネットで人気なものは定番なんです。
当社が特に得意にしているのは、入学・卒業のマザーニーズと、フォーマルウエアの喪服。それから、喪服のスリッパが意外にも売れます。
定番を作っておかないと、_流行だけでは流されてしまい、消化率が非常に悪くなる。最終的にいつもセールをやらなければならなくなる。
定番のメリットは、セールをしなくて良い事ですね。
お客様が服に対して興味を持つ大きな理由の一つに、ファッションそのものと、もう一つ大きいのがタレントの力です。
これは物凄い影響力を持っています。それに乗らない手はない。
我々もタレントを起用してブランドを作り、ものを作ることをテストで始めています。
ーJAFIC 企業活性化委員会の会長もされている黒川会長ですが、委員会の特徴を教えてください
企業活性化委員会というのは、主に会員になっている中小企業さんの活性化を図るための委員会です。JAFIC会員の約8割は中小企業です。
ずいぶん前から、この業界は厳しい状況にあります。アパレルの中小企業��、一時は8万社あったのが、今では5万社を切っています。
我々は専門店を中心にビジネスをやっています。企画力を武器にお得意先に商売をしているのが基本のパターンです。
その専門店が減少してきています。今は最盛期の半分も無いのではないでしょうか。
その中でどうやって生き残っていくかを考えないと、この業界は衰退していってしまいます。
登録してくださっている会員企業さんに、どのように活性化に結びつく事をリターンするか。
それを考え、実践していく事がこの組織の役割です。
中でもJAFIC PLATFORM(以下JPF)という事業は、企業がそれぞれクリエイターさんとマッチングしたい時に、今までは出会う場が無かったので、その場を作ろうという事で発足をしました。
なぜそれを始めたか。
今登録しているクリエイターさん達はそれぞれ独立していて、小さい規模でも展示会やファッションショーを行い、ビジネスを自力で頑張っています。
国内には優秀なクリエイターが沢山いるのにその実力を発揮する場が少なすぎます。日本発のファッションを世界に発信する為に必要な資源が眠ったままになっていては、アジアの他国に遅れを取ってしまいます。
その為、優秀なクリエイターを組織して、日本の企業に結びつけ国内市場の活性化につなげ、更に日本のファッションをアジアから世界へ発信事が、発足の原点です。
企画力だけが勝負の中小企業は、時代に乗っている時と合わなくなる時の、浮き沈みがあります。
企業内デザイナーは社員ですから、時代に合わなくなったから辞めてもらうという訳にはいきません。
社外クリエイターを起用して、社内デザイナーを活性化したり、彼らのクリエイション力を借りて新しいブランドを作りたいという、企業のニーズもあります。
ーJPFでの繋がりは、どうビジネスに役立っていますか
当社とJPF登録クリエイターとの結びつきは、今までで6人位です。
これは物凄く便利な機能だけれど、なかなか他の会員企業に伝わっていないのが現状です。
色々な組み方がある中で、基本となるのはクリエイターに企画力を求める契約の形。
デザイナーは色々な引き出しがあります。自分のブランドでその引き出しを使うなら、こちらで別の引き出しを貸してくれませんか、という契約をしています。
彼らにとってはブランドそのものが命なので。
2つ目は嘱託契約です。
3つ目はデザイン画だけ買う契約の形。
お得意先との商談で、クリエイターの企画が欲しい時にプレゼンをしてもらいます。
ここが一番大事なところです。
その分、クリエイターの考え方を知る機会は沢山必要です。
僕もプレゼン前には必ず食事に行って、お互い好きな事を言い合いながら、その人の人柄を知るように努めています。
外部からクリエイターを会社に招待して、そこに会社のアシスタントデザイナーやパタンナー、MDを付けるので、チームとしてできる人柄を持っていないといけないですね。
ーJPFの今後の展望をお聞かせください
懇親パーティーなど、交流して顔を会わせる機会に加えて、商品を見られる機会がもっとあれば良いですね。
例えば合同展示会とか。
企業とのマッチングのためだけではなく、お客さんもそれぞれ呼び、ビジネスができる合同展だとより良いですね。
ーいま業界に必要な人材はどんな人材だと思われますか
本物のMDを学校で育てて欲しい。
デザイナーやパタンナーの教育は上手く成り立っているけれど、MDの教育は中々上手く出来ていないのでは無いでしょうか。もしくは教えられる先生がいないのか。
MDというのは、我々アパレルにとっては会社を支える最も重要な職種です。実践した人でないと教えられない。
なので、学生に向けた企業へのインターン制度はとても良いと思います。
ーこれから社会に出る学生にアドバイスをお願いします
一般論として、特に女子学生に言いたい事は、安全保障のために仕事は必ずしなくてはいけないという事です。
結婚しても_大体三人に一人は離婚をする時代です。結婚をしてキャリアを捨ててしまっては、その後が辛いでしょう。
子供ができても仕事は続けるというのは絶対です。
ファッションの業界では特に、女性の方が圧倒的に能力が高いです。これは確信しています。
ー学生のうちにしておくべき事はありますか
この先アパレルの業界も、日本の景気も、世界の情勢もどうなるかわからない。
10年、20年後の自分を考えた上で、今何をするべきか。それが学生の内に考えるべき事だと思います。
お金の事も考えなければいけません。
できるかできないか分からなくても、夢は考えないといけない。考えたら半歩叶ったと思えば良いですよ。
例えば、その夢が年収800万か2000万かによっても、結果は違ってきます。
どこに住みたいのか、どんな車に乗りたいか、子供は何人欲しくてどんな教育を受けさせたいか。そう考えると、自ずと答えは出てくるのでは無いでしょうか。
もう一つは、平均寿命が伸びていく中で、定年後何をするか考える事です。
好きな事を今のうちから考えて用意しておくとか、する事は沢山ありますよ。
会社の方向転換から、学生に対するアドバイスまで、常に先を見据えてこられた会長らしさが伝わるお話をしていただきました。
特に、女性の仕事に対する取り組み方や、将来像に関する現実的なアドバイスが印象に残っています。学生である私にとって、心にグサッと刺さるお言葉でした。
企業活性化委員会を通じて、今後企業とクリエイターのマッチングが増える事も非常に楽しみです。
貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
(編集:橋爪彩夏 実践女子大学生活科学部4年)
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Companies interview:003

オーロラ株式会社
取締役社長 若林康雄氏
ー会社概要を教えてください。
明治29年(1896年)に創業し、2016年でちょうど120周年になります。
私で4代目です。洋傘と和装のショールで創業し、その後和装から洋装への流れに沿って 首周りはスカーフとかマフラーに移行しました。
傘は雨傘だけでなく日傘も最初のころから取り扱って来ましたが、雨に関連するアイテムとしてレインコートなどが加わりました。主な販路は百貨店ですがOEMなども広げています。
ーオーロラという社名の由来は。
100周年の少し前、平成5年に社名変更をしました。その前は若林株式会社でした。
個人の名前がついているのも悪くはありませんが、パブリックな雰囲気を出していこうと、商標で使っている“オーロラ”を社名にしました。
その経緯ですが、昔ヨーロッパに行くときには北回りのアラスカ経由で ロンドンとかパリに行ったわけですけれど、先代がその道すがらオーロラを見て“オーロラ”っていい名前じゃないかと。そんな話をしたのが昭和30年代くらいだと聞いています。そのころ横文字も流行っていましたので、じゃあ商標に採用しようかと。
そして傘のネームなどに“オーロラ”と付け始めたと聞いています。
ー企業理念について教えてください。
当社には“個性豊かな服飾文化の創造”という企業理念があります。
傘を含めた服飾雑貨というのはファッションの要素からすると、主役が例えばお洋服だとすれば、それに添えて個性を表現する存在でもあります。
小物を使ったファッションを楽しむ、そういった側面を強調してあえて“文化”という言葉を用いて服飾文化と表現しています。
多様化する生活シーンに向けて、様々な素材やデザインの商品を提供していくことが“文化”につながるのではないかと考えています。
ー生産面で苦労していることなどはありますか。
傘生地などは 表からも裏からも見られるので織りや染色のムラなどがあると良くないので、厳しいチェックが必要です。あとは中国など海外でつくると特に納期遅れ等が発生する場合もあり、品質と納期には特に気を使っています。
ーグローバル展開を含めた今後の展望を教えてください。
これは難しいところですね(笑)。やはりファッション産業だけでなくて日本の企業にとって海外展開は一つの夢ですよね。
当社は中国に工場を作る過程で、マーケットにも容易に入れるのではないかと考えていました。
日本はこれからより少子高齢化が進んでマーケットは大きく伸びる要素がありません。百貨店の売り上げも92年がピークで徐々に下降線を辿って来ました。
モノづくりやファッション産業について日本はかなり進んでいる上、アジアは地理的にも近く 体形も似ており経済の発展性もあることから、ヨーロッパなどに売り込むより有望ではないかと考えたのです。
そして日系の小売業者さんを中心に広く展開しようと動いたのですけれども 中国については思った様には進んでいません。
地元企業との競争も激しく、国や地域の内状そして人的なつながりについて 少しでも疎いと上手く行きません 。
香港、シンガポール、台湾などについては大きな伸びはありませんが順調です。ただ、やはり南の方の国では商材的に冬物のカシミア製のマフラーなどを持っていってもあまり売れません。気候風土やその土地の慣習など��要素への対応は大切です。
ただ、傘に関してはNYの傘専門店などからも当社の製品の引き合いがあって 当社を含め日本の傘が置かれていたりして、海外でも日本の傘というのが注目されていると感じます。
将来的に日本の少子高齢化のマーケットでどうやっていくかについては、基本的なことですが一枚、一本、一品、一着を自ら丁寧に作り、丁寧に売っていかなくてはいけないなと思います。
機能性やファッションの要素だけでなく、素材や製品の出来上がる過程やモノ作りのこだわり等が伝わる丁寧なビジネスをやっていかなくてはいけないと。
将来的に数字が増やせるかどうかというのもありますけれど、数字の規模ではなくて中身でやっていくしかないのかなと思っています。
これだけ情報やモノがあふれている時代に、プラスアルファで何をやっていくかについては 今後の継続的課題ですね。
ーJPFに登録した経緯を教えてください。
ライセンスブランドはいま、業界の中でも賛否両論あり見直しがされています。その様な中、オリジナルブランドの強化もしなくてはいけない。
しかし社内だけでモノを考えていても限界があるというか同質化してしまう要素もある。同質化を避け新鮮さを出していく為、新進のデザイナーさんに企画をしてもらおうと思い、JPFでクリエイターさんとコラボレーションしました。
レインコートなど今までと違う雰囲気のモノが出来て新たな売れ筋が生まれました。JPFの活用で当社のモノづくり、デザインの幅が広がりました。
服飾雑貨の単品だけでは特徴などの表現に限界があるので、洋服ともコラボレーションできるといいですね。
クリエイターさんにも次のステップアップにつなげてもらえればと。将来が楽しみです。ぜひ応援していきたいです。
ー業界に求める人材像はどのようなものでしょうか。
たとえ営業関係などの職につくにしてもやはりファッションの勉強は必要ですね。
ファッション業界はバラエティに富んだ仕事で、柔軟性を持つことが大切だと思います。
かたちのあるモノは 目に見えないものによってつくられている。それは作った人の心だ。という言葉に出会い最近私は非常に共感を覚えました。
モノを使うときにはその心に思いを馳せ、モノを創る時には心を研ぎ澄ませて使う人の事を考える、という事を大切にしたいと思っています。
皆さんの参考になればと思います。
長い歴史を持つオーロラ株式会社の創業したころのお話や、傘の歴史、そして今後の展望まで幅広いお話を伺うことができ、非常に興味深かったですし、若林社長の教養の幅広さが垣間見えるインタビューでした。将来的に少子高齢化がさらに進む日本のマーケットでは「一枚、一本、一品、一着を自ら売って、もっと丁寧なビジネスをやっていかなくてはいけない」という言葉が印象的でした。
お忙しい中、非常に丁寧にお話しをしていただきました。ありがとうございました。
Interviewer: Nagami Hinako
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Companies interview:002

株式会社 コムト
代表取締役社長 植田美喜雄氏
ー 会社概要を教えてください。
会社の設立は1972年、今年で44年目になります。
昔からニットを一生懸命作り続けている会社です。ニットといってもセーターではありません。
全国500件ほどのブティックさんに卸しており、百貨店や路面に自社の直営店舗も持っています。
売り上げは11億、従業員は全国に45名程度です。
お洋服の会社なので、従業員の格好は特に何も言いません。良くも悪くも金髪の社員がいたりとか。ファッションを楽しむというのが我々の社風です。
ニットでお洋服を作るというのが当社の一番の特徴で、ニットファッションを高めて洋服の主役にしたいというのが一番の目的であり、お客様に一番に楽しんでいただきたい所です。
まだ世に無いお洋服を作ることは、私たちの使命であり伝統芸能みたいなものなので、一生懸命守っていかないといけませんね。
ー ニットを生産するにあたって、面白いことや苦労することはありますか。
何が大変かというと、産地が限られてくるという事。
国内でニットを作れるところが、少なくなってきているというのが現実問題です。
ただ、僕たちがお取引している福島、新潟、山形の産地のニッターさんはしっかり設備投資をした将来性のある企業で、今後も長きにわたってお取引できると思っています。
ニットを作る上で面白いのは、無限大に何でも作れる事。
自分たちで糸を作り、色を染め、編み地も作ります。可能性が広がり、探究心が尽きる事が無いです。
だから僕らはニッターさんに物凄く難しい事を要求しますし、デザイナーにもレベルの高い事を要求します。
工場さんが、今回はこんな編み地を作ったけどどうだ!と言う時もあるし、こちらが工場さんに対してまだまだですね、と言う時もある。
互いに切磋琢磨して良いモノを作り上げる、こんな良いパートナーはいないと思っています。
ー お客様が喜んでくださる瞬間はどんな時ですか。
僕も売り場に立つ時がありますが一番分かりやすいのは、友達に褒められた、どこで買ったのと言われた、細く見えると言われた、とか。気やすさも大事ですが一番は綺麗にお似合いになった時。
ブランドタグを見なくても、選んだらいつもあなたのところの商品よ、と言われると堪らなく嬉しいですね。
東北の震災のあと、卸先のブティックさんで、浪江町から来たお客様が久しぶりにお買い物をされたそうで。フィッティングルームから出てきた時の笑顔が忘れられないと仰っていました。
だからお洋服の仕事というのは、人を幸せにする何かがあるのかな、と思います。
ー ブティックとの繋がりが強いんですね。
全国のブティックさんに多く卸していますが、そこで購入いただくお客さんは本当に大切です。ミセスがターゲットのお店とは言え、40代から70代のお客様まで本当に幅広い客層がいます。いつも綺麗な格好でおしゃれを楽しんでいますね。
店員さんとお客さんの信頼関係は凄く深くて、店員さんが「あなたはこれ」と言うだけで、お客さんはそれを信じて5万、10万の洋服を買っていかれます。全く押し付けではなく、似合うの一言で決まってしまうのは本当に凄いといつも思います。
そういう方たちが支えてくれているから、良いものを一生懸命作ると受け入れてもらえる。値段だけで評価されないものがあります。
今の時代アパレルは売れないと言われますけど、若い方が普段入らない小さな店の売り上げは結構良いんですよ。
これからミセス層はどんどん増えてくる訳で、ある一定の感度を持ち、クオリティをちゃんと維持し、待ち構えていればお客さんはどんどん増えていきます。

ー 会社としての今後の展望を教えてください。
ニットに対しての追求は、とことんしていきます。ファッションの中でニットの世界を高めていきたい。
1型で10枚や20枚程度のものでも製品化する時もあります。普通は無駄と思われる事ですが、必要であればその無駄も良しとしています。そこからネクストに対しての新しい技術だったり、感覚が生まれると思うんですよね。
僕らでも、こんなニットを作っている会社は無いと思う時があります。なので、いつかの夢として海外でコレクションをしたいです。海外で認めさせたい。
営業政策面で言うと、自前のお店を増やして行くこと。僕たちの世界観を広げ、ニットの面白さを知ってもらう場所が必要だと思っています。
ブティックとの繋がりもしっかり続けていきたい。営業自身が売り場に立ったり、フェアを開催してもらったりと、売りっぱなしではなく、売った買ったの関係からもう一歩踏み込んだ関係づくりをしていけば、厳しい時代も大丈夫ではないかと思います。
ー JAFICに登録するまでの経緯と決め手を教えてください。
ニットのテクニックやノウハウを共有できるところが出てきたら良いな、というのが一番の決め手です。
40年以上やっているので、ノウハウの蓄積は山ほどあります。
当社には現在2つブランドがありますが、アイデアに悩んだ時のカンフル剤として、また新ブランド立ち上げの際にクリエイターと組んだり、当社のデザイナーとは違う感覚がエッセンスとして欲しい時に、一緒にものづくりができたらと思っています。
当社のものづくりに合いそうな、いい人がいたらやっぱり組んでみたいですし、いい人が見つかるように常にアンテナは張って情報は集めています。

ー 次世代に求める、会社としての人材像
ー言で言うと、真剣な人。ファッションに対しても仕事に対しても、真剣な人と仕事がしたいですね。
今うちの会社にいる人は皆、一生懸命で真剣で時にはくだらない話もしたり。その中で白けた人がいたら、会社の調和が取れなくなってしまいます。僕らと同じくらいの熱量を出してきて欲しい。
洋服が好きな子は沢山いますけれど、在庫整理でも何でも真剣にできる子は将来伸びると思います。
知識もキャリアも多少無くても、自分の意欲次第で取り入れられますし。
ー学生のうちにしておくべきこと
いっぱい遊ぶことです。色んな見識を広げて、色んな人と出会っておいた方が良い。勉強ばっかりしていても、社会には適合しないですからね。
特にアパレルの仕事はそうですね。洋服屋のノリってそんなものです(笑)僕はそういうキャラを求めます。
植田社長の、ものづくりに対しての熱意や人に対する愛情が終始伝わるインタビューでした。
その熱意が社内だけでなく、工場やブティック、更にお客さんまでも巻き込んでおり、社長率いる会社のチームワークに圧倒されました。
価格競争に入るなら、その労力や時間をものづくりに費やしたいという社長のお言葉通り、工場に設備投資をしたり、地方のブティックに頻繁に足を運んだりと、糸を作るところからお客さんの手に渡るまでの全段階に、手を抜く事なく取り組んでいらっしゃいました。
このような企業がある事は、MADE IN JAPANの誇りだと思いました。
お忙しい中、ありがとうございました。
橋爪彩夏(実践女子大学 生活科学部)
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Companies Interview: 001

マツオインターナショナル株式会社
代表取締役社長 松尾憲久氏
ー はじめに、会社概要を教えてください。
1958年に私の父が、大阪に松尾産業というテキスタイルの会社を創業しました。
その後、私が1984年に入社し、1985年の12月に、渋谷区を本社としてセンソユニコを起こしました。
センソユニコというのは、道路交通標識のイタリア語で一方通行と言う意味ですので、提案型で行こう、独立独歩でいこう。そしてセンスユニークな商品を提供し、コピーはしない。そのような思いで続けてきました。
ただ、南イタリアにセンソユニコという名前で会社を登録しているところがあったため、ホームページアドレスが取れず、グローバルに通じるという事もあり、海外出店を機にマツオインターナショナルに社名を変更しました。
センスユニークさというのは何かというと、3つあります。
1つ目はファブリック(素材)にオリジナル性があるという事。
テクスチャー、織り柄が面白かったり、素材加工の技術で秀でたものを作っていこうということ。 それに付随して、ファブリックブロッキング(他産地コーディネート)と言って、例えば尾州のウールと浜松の綿を1枚の布の中でドッキングさせたり、接ぎ合わせたり。素材そのもののテクスチャーにもこだわり、産地を越えたものを持ってきてドッキングするという事を、早い段階から始めていきました。
2つ目のこだわりは体型のカバー力。
大きめの婦人服という意味ではなく、いろいろな意味で年を重ねた方の体型をカバーし、美しい部分が見えるような、お洋服を作っていきたいという事です。
それから着心地が良かったり、自分の欠点を隠してくれたりするお洋服を作っていこうと思っています。それは、我々がミセスの服をターゲットにしたからだと思います。
よく、若い人の服は作らないんですかと聞かれます。 昨年度、53年間勤めた学卒第一号の社員が定年を迎え、70歳で退職しました。スタッフを終身雇用していこうと考えたら、若いターゲットのブランドでは対応できません。50歳や60歳になっても働いていただけるような会社に、そのための商品にしたいという思いもあります。
それから素材の良さを分かっていただこうと思うと、素材の個性が強いと若い人に似合わないんです。おばあちゃんのお着物を若い人が着たら、重すぎて似合わないのと同じですね。
我々が差別化したものを売っていこうと思うと、着こなしてきた歴史のある方でないと、似合わないなというのもありました。
3つ目がスーパーインポジション。レイヤードを重視した、ジーンズにTシャツというファッションでもないし、アイテム専業という訳でもなくて、いろんな意味で重ね着をして、一つのスタイリングができるような、そういうブランドを作っていきたい。 この3つですね。
ー 今後の会社としての展望をお聞かせください。
いろいろな意味で、今一番展望が見えない時代に入っています。 やっぱり、一番大きく効いてきているのが少子高齢化。
買い手も少なくなっているし、売り手も少なくなっている。そういう人口減少にどう対応していくかが大きな課題だと思います。
もう一つの課題は建物ですね。人口は減っていくのに、古いものを壊して新しいものを建てていますよね。
一度建てば50年は潰れないけれど、70年経つと危ない。日本の場合は地震が沢山起こるので、各百貨店は次々と耐震補強に追われています。
そういう建物はこれからどんどん出てくると思います。
地方で商店街がシャッター街になってしまった所があるように、今度は廃墟のようなビルが出てくるのではないでしょうか。ゴーストタウンならぬ、ゴーストSCですね。
私は地方好きなので、地方の百貨店さんやそこの人たちと再生ビジネスに取り組んでいる事が多いです。 各々地方都市の有り様が問われている時代の中で、単に商品を提供する場ではなくその土地の人たちが働く場所も提供しながら、ファッションを通じてそこの土地の方のお役に立てたらと思っております。

ー 企業として、またファッション業界において求める人材像は、どのような学生ですか?
ものを作る段階から深く考えてくれる人は良いなと思います。
うちの場合は特に何かをオリジナル化しようというのがあるので特にそう思います。
当社は原則、新卒のデザイナーを採用していません。うちのお洋服を作ろうと思ったら、10年やそこらでは絶対と言っても良い程無理だと思います。
それは、1人のデザイナーがデザインを描くだけで無く、織柄と使う機械を考え、ニットならどのような糸をどうかけるか、という知識が必要だからです。逆にいうと、それだけ先が長いから辞めないんだと思います。
どうすればデザイナーを長く続けられるか。 たどり着いた結論は、「ブランドコンセプトを決めない」事でした。
コンセプトを決めて、長い間同じものをこだわって作っていく事は素晴らしいけれど、時代と共に幾らか変わらなきゃいけない。
その時に何が変わるかというと、デザイナー本人です。本人がどうなりたいか、来年何を着たいかです。コンセプトを次のコンセプトに読み替えていってあげたら、デザイナーのクリエイションの方法が次に向かい、より広く深く活動できるようになっていく。
そして本人が変わっていく事を、周りは妨げないとしました。
もう一つは、次のゴールを繰り返し作っていく事。
プリントができるようになったら次は先染めにいこうか、靴に挑戦してみようか、というように。ブランドが大きくなるに従って次の課題を出せば、研究テーマが大きくなって行きます。
あとは、チャレンジングではあるけれども、人から学ぶ事に対しても謙虚で、生涯いろいろな事に興味を持って学び、実践し、自分の付加価値を高め、企業に貢献していける事が大切だと思います。
ー 展示会を見学させていただきました。
今日の展示会は、商品の展示会と言うよりもショッププレゼンテーションのための展示会で、マツオインターナショナルは今後このようなショップをご提案していきます、という展示会です。


ユニークなものを作りたい、素材にこだわりたいという企業の強い信念が伝わりました。 デザイナーが変わっていくことを周りは受け入れるという社風は、私にとって新しい概念でしたが、常に変化し存在し続けられるブランドはこのようにして生まれるのだと思いました。
またオフィスにお邪魔した際、皆さんが温かく迎えてくださった事が印象的でした。
普段から松尾社長が物だけでなく、人も大切にされている事がとても感じられる瞬間でした。
大変貴重で素敵なお時間をありがとうございました。
編集 : 橋爪彩夏 (実践女子大学 生活環境学科所属)
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Companies Interview: Special edition 2nd part
(株)オンワードホールディングス会長 日本アパレル・ファッション産業協会理事長 廣内武氏
― 既存の会員企業、登録クリエーターに向けてエールをお願いいたします。
消費の実態が低価格に下振れしているため、中間領域の衣料品の売れ行きが悪く、我々の業界は非常に苦しんでいます。 これは、長引くデフレと消費増税を行った影響です。
このような環境の中で育った皆さんは、ファッションに興味がありお洒落はしたいけど、今はちょっと我慢しようという買い控えムードになってしまっているのです。
ただそのような状況でも、女性は食べ物と化粧品にはお金を使っています。
雰囲気のいいお店で美味しいものを食べたい、昨日よりももっと綺麗な自分でい��いというのが、女性の消費に対する永遠の動機付けではないでしょうか。
しかし本当におしゃれ好きな人は、デザインとか、色とか、もう少しレベルアップした服に挑戦してみたいと思っているのです。
春だから花柄を着ようとか、そういった遊び心をもったお客さまがどんどん増えていって欲しいと、ファッション業界全体として望んでいます。
一方で、ファッションビジネスは必ずしも規模が大きくなれば良いとは思っていません。 サクセスに繋がるかどうかは、いろいろな構成要素がエスタブリッシュされているかどうかに関わってきます。
モノ作りにおいて、仕事が分業化されるという事は単能工的ということであり、この業界にとっては、多能工か単能工かという事が今後非常に大事な切り口になっていくと、私は考えています。
去年パリで、ラグジュアリーブランドの工房を二ヶ所見学しましたが、一つ目の工房では女性がバッグの全行程を一人で作っていました。
これはまさしく多能工です。 ものづくりの原点である、手作りという伝統的な技術を、常にレベルをキープしながら新しい時代に伝承し、さらに上質なものへいかに進化させていくかという考え方が根付いているのです。
もう一つの工房は、世界に唯一の自分だけの特注品を受注生産していました。 例えば自分のパソコンケースを、この柄とこの素材で作って欲しいという要望を聞いて作るのです。
その代わり凄い時間がかかるんです。3ヶ月や半年はざらだと思います。
その分高価ですが、世界に一点しかない自分だけのモノなのです。 こういう特注品は、熟練工が一つの商品を作り上げる時間と単価を掛け算したものが値段の基本になっています。
私は元来、ファッションというものは楽しいものだと思っています。
世の中のほとんどのモノやコトがファッションなのです。
ところで皆さんは、サミットや映画祭などで見かける各国首脳や映画スターなど世界の要人やセレブリティ―を見て、どこか雰囲気が違うなと思うことがありませんか。
着こなしやファッションの違いが分かるか分からないか、これが大事だと思うのです。
一概には言えませんが、世界のラグジュアリーブランドに日本のアパレルファッションはなかなか追いつけない、このギャップは簡単には埋まらないと思うのです。
もちろん日本にも、世界水準を超えた素材や製品を作る人たちはいますが、まだまだスタンダードとはいえません。
一方でイタリア製の素材とかファッション、モノ作りは、スタンダードとして世界で認められています。
また、デザインやスタイル、モードの発信で言えば、パリコレには一日の長があると思います。 何百年もかけてグローバルスタンダードを作り上げた歴史があるのです。
欧米のファッションスタンダードに対して、日本のファッションビジネスがいかに追いつき追い越すかが大きなテーマなのです。
私は、何としても東京を5大ファッション都市の一つにすることがとても重要なことだと思っています。 パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、ここに東京が加わって初めて世界に向けて日本のモードを発信できるのです。
若いクリエーターたちも個々に発信をしていますが、一つの大きなうねりとか規模感として世界的で認知されていないのが現状であり、業界団体として責任を痛感しています。
しかしながら、一アパレル団体ができることには限りがありますから、2020年の東京オリンピック、パラリンピック開催という追い風が吹く今こそ、世論も巻き込んで東京都と協力し、五大都市構想の実現に邁進していきたいと思います。
ファッションはモードです。 モードが発信されてファッションとなり、やがてスタイルとして確立されていきます。 世界のクリエーターはモードを発信します。 それが一般化され、ファッションになります。
人はTPOに応じて洋服やバッグ、靴を探し求めます。そして商品をよく吟味し、惚れ込んで買うのです。その一点一点を作っているのがメーカーです。 ですから、消費者が求める最終製品を作るアパレルファッション企業が生き残る為には、メーカー機能を飽くなく追求して進化し続けることが極めて大切なことです。
そのための仕組みや手法はIT化に伴い急速に進化していますが、最終的に形として残る証が「いい商品」なのです。 すなわち、お客様から「いい商品」と言っていただけるモノを永続的に提供することがメーカーとして一番大事なのです。
日本人のみならず、世界中の人々の琴線に触れるモノ作りを大切にすることはいつの時代も不変だと思います。

この業界について、私の知らない頃から現在までに起きた、様々なお話をしてくださりました。 また廣内会長ご自身の考える、今後の業界の展望をお聞きする事ができ、大変貴重な機会となりました。 その中でも特に、東京コレクションを世界5大コレクションの中に入れるという業界における展望や、やりがいがあり楽しい業界と若者に認知してもらいたいといった将来像は、大変心に響き、エネルギーのあるエールでした。 お忙しい中、ありがとうございました。
橋爪彩夏 1994年生まれ。実践女子大学 生活科学部所属。
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Companies Interview: Special edition 1st part

(株)オンワードホールディングス会長
日本アパレル・ファッション産業協会理事長
廣内武氏
― はじめに、オンワードホールディングスの会社概要・企業理念、
さらに今後の展望について教えてください。
オンワードという会社は、1927年に創業者である樫山純三氏が設立しました。 現在は、オンワード樫山を中核企業とする国内外104社を有するオンワードホールディングスに成長しました。私は3代目の社長としてグループ経営に携わってきて、今は会長を務めています。
日本は、第2次世界大戦で生活のほとんど全てが失われてしまいました。1945年の終戦後は、貧困の時代でした。 そのような時代の1948年に、オンワードグループの前身である樫山株式会社が設立されました。 人間が生きる上で必要な衣食住の中の「衣」を産業分野とする、 紳士服(スーツ)の会社です。 食べ物も着る物も乏しい時代に、大きな変革として大量生産システムを導入し、たくさんのお客様に服を買っていただくという既製服時代のフロントランナーとなりました。
最初は紳士服からスタートしましたが、マーケットの趨勢は女性が主役です。女性の社会進出と欧米ファッションの浸透による需要の増大に伴い、取り扱いブランドや商材は婦人服が中心となりました。その後、高度経済成長の流れに乗ってビジネスは拡大し現在に至っています。 今では、紳士服は婦人服の三分の一の割合になっています。
どのような会社かとのことですが、オンワードの企業理念は、「ファッションを通して、人々の生活に潤いと彩りを与えるおしゃれな世界を実現することを目指した、総合生活文化企業」なのです。
そして、私たちの存在領域というのは、衣料を中心としたファッション産業です。 国内においては、モデレート分野からベター分野のアフォーダブルな中間ゾーンで展開し、海外においては、ラグジュアリー分野でのブランド展開を行っております。 服種ということになると、紳士服、婦人服、子供服などにとらわれることなく、生活シーンで求められる「ビジネス」、「スポーツ」、「ファミリー」など様々なものを取り入れます。 また、総合生活文化企業として、バレー・ダンスの総合用品、ペット用ファッション製品等の関連グループ企業に加え、グアムでのホテル、ゴルフ場を経営するリゾート事業も行っています。
経済には好・不況の波がありますが、戦後経済の最大の出来事は、1991年のバブル崩壊です。 経済の流れがインフレからデフレへと180度変わって、物事の価値観が変わってしまったのです。
デフレの中での価値観が本当に幸福感になるのでしょうか。 今、世の中の価値観が多様化してきて、同じ商品を買うのであればエシカルがいいとか、オーガニックが体に優しいとかの購買動機が必要なのです。それに加えて、地球環境を害していないか、価格訴求のため強制労働や児童労働を課して作られた商品であってはならないという、モラルの価値を消費者は見極めます。 このように、非常に成熟された価値観が、世の中に浸透しつつあると思います。 ファッションの場合には、それにプラスアルファとして、”something new”を掛け算してスピーディーに提案して行かなければ競争には勝てないのです。この”something new”という価値を創り出す挑戦を続けて行かないと、時代に置いていかれてしまいます。
そして、これからの時代はAI・人工知能です。 ITがいつのまにかAIまで来てしまって、囲碁で人間の知能が人工知能に勝てなくなってしまいました。 ファッション業界に於いても、デジタルファッションといった技術が、企画・生産・販売の新次元のサプライチェーンを創り出そうとしています。この分野はいわゆる未来挑戦型ですから、仕事そのものの切り口がクリエイティビティを要求されます。 そういった事にチャレンジしてクリエイトしてみようという事が、大切になってくると思います。
― JAFIC理事長として、業界全体に向けた将来の展望は何ですか。
JAFICは業界団体です。 ファッション・アパレルを主軸として、様々な分野の企業が会員として集まった組織です。 ファッション・アパレル業界がいかなる時代背景にあろうとも、国内外に遅れを取らないように、会員企業と価値観を共有して、グローバル時代の環境下での情報共有をし、解決策を見出して、それを会員企業にタイムリーに伝えていかなければなりません。
日本のアパレル産業についてですが、日本には、ウール、綿、合繊、ニットなどの素材産地が沢山あります。世界から認められている確たる歴史、伝統、匠の技を持った職人による織り・編みの技術と、その素材を完全なものに仕上げる染色加工技術が継承されてきています。しかしながら、長引くデフレと円高により、商品調達は海外シフトとなり、国産品比率は3%まで縮小してしまいました。これはたいへん大きな問題です。 日本の高質な消費を支えてきた中間領域の産業分野を復活させないと、日本のモノ作りそのものが消滅しかねない危機的状況に陥ってしまっているのです。 従って、この問題に立向かうためにも、「メイドインジャパン」「クールジャパン」「J∞ QUALITY」という、日本のモノ作り活性化事業の推進が重要となっております。
このことを達成して行くためには、人材の確保・育成が必須です。 若い人たちがこの産業分野に魅力を感じていただき、遣り甲斐のある一生の仕事として積極的に参入していただくことを期待しております。 その為にJAFICという組織が、この産業分野でしっかりと活動して、学生の皆さんに、やりがいと生きがいが持てる魅力ある仕事であることを伝えていくことで、「デザインをやってみたい、パターンをやってみたい、こういったモノ作りをやってみたい、こんな生地を作ってみたい」など、希望と魅力のある産業であることを認知していただかなければなりません。
― アパレル業界への就職目指す学生に求める人物像、その学生に対してエールをお願いいたします。
皆さんは、概ね恵まれた環境に育っているせいか、横並び意識が標準装備されてしまっているように思われます。実際は、社会に出れば弱肉強食の世界で、ボーっとしていたらどんどん置いていかれてしまいます。 会社に入って 「自分はこれでいきたい」という時に、教育水準は高いし、インターネットは駆使できるけど、「じゃあどうするの」って言われた時に、具体的な答えが出せるかどうかが一番大事だと私は思います。
アパレル・ファッション業界は、凄く楽しいし、仕事も遣り甲斐があるし、自分の生甲斐も見つけられる業界なんです。 アパレル・ファッション業界に就職して、各自の天職となるどのような職種を選ぶのかが大切ですが、学生のときにしっかりした仕事への価値観を持っていて欲しいと思います。
ー 2nd partへ続きます
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Creator’s Interview: 003 YOHEI OHNO 2nd part
Name: 大野 陽平
Brand: YOHEI OHNO
–大量生産・大量消費の大売りではないけれど、商売として少量生産でこだわったものを「好き」という人に対して作っていくことの可能性は感じていますか?
僕は、日本人の多くの方々が勘違いしているのは「アパレル」と「ファッション」は全然違うという事だと思っています。
日本って、洋服も洋服屋もいっぱいあって、「アパレル」での規模では他のアジアに比べたらマーケット的には大きいけど、「ファッション」と呼べるものがその中にあるかどうかっていうと、実際にはほとんど無いと思っていて。
例えば世界のファッションで見た時に、いま何が起こっているかというのを日本のアパレルの人たちが理解しているのかというと、あんまり僕は理解しているとは思えない。遅れて噛み砕かれた情報だけを「トレンド」として享受しているだけで。
ただ単に、向こうから遅れて流れてきたものをなんとなくやっているだけだと中身がない。
ファッションに対していかに純度を保てるか、つまりは世の中のファッションで何が起こっているのか、ということをちゃんと把握した上で、自分なりの方法でいかに新鮮で魅力的な提案を打ち出すか、自分自身の声を発するかというのが本来ファッションデザイナーのすべきことだし、洋服も洋服屋もすっかり飽和している今、改めてその力が要求されていると思います。
日本は一見マーケット的に恵まれているので、自分で作ったものを自分の国で売るというのが当たり前になっています。僕も同じように最初の2シーズンは東京だけで展示会を行いましたが、今シーズン初めて、ショールームを通してパリでの展示会に参加しました。同じショールームには中国やタイなどのアジアの若いデザイナーが多くいましたが、そういった今まではファッションとしてはほとんど認知されていない国のデ��イナーのエネルギーやハングリーさを肌に感じました。
彼らは積極的にロンドンやニューヨークの学校でファッションを学びセンスも良くて、かつ生産は自国で安くできるという大きなアドバンテージを持っています。でも日本みたいに自分の国では売れないから、パリやロンドン、ニューヨークで服を発表せざるを得ないんです。もちろんそういったことができるのは桁違いに富裕層の家庭のデザイナーだったりしますが、学ぶべきは彼らの、国境を越えた場所で戦おうとする姿勢やそこで生き残るためのハングリーさだと思います。
日本人はこれまで日本だけで完結できてしまう豊かな環境があったせいか、いつの間にか戦う相手をどんどん小さくしてしまってきたように感じます。だからなんとなく日本のアパレル界で収まってしまう。少しですが海外での経験を通して感じました。
ノッティンガムの大学で貰った最初の資料の頭のページに「今ファッションで何が起こっているのかを知ろう」ということが書いてあるんです。
ノッティンガムって結構田舎で、そこに通っている人達って実は全然お洒落じゃないんですよ。
だいたいの子が田舎のギャルみたいな格好してるし(笑)。
でも、「ファッションといえばこういうものだ」っていうアカデミックな捉え方を彼らはちゃんとしていて、論文なんかも書きますし、「本場パリではこういう事が起きていて、こういう流れになっていて」ということをきちんと勉強しようとしている。
僕はどっちの学校も行ったので、日本の学生は技術は学んでるけどファッションと呼べるものは学んでいないというのがよく分かりました。
また、ファッションメディアを見ていても、「僕ぐらいの新人ブランドでもこんなに沢山あるんだ」と毎シーズンつくづく思いますが、正直僕にはどのブランドも同じように見えるし違いが分かりづらい。元々失敗してリスクを負うほどの規模でないブランドがほとんどだと思うんですけど、「売れなくてもいいから今一番新鮮でイケてることやってやろう!」みたいなデザイナーの気持ちが伝わってくるようなブランドがもう少しあってもいいかなとは思います。

–JPFに求めるものはありますか?
僕はもうちょっと批判や競争があっても良いと思うんです、JPFというよりは東京のファッション自体に。
例えばデザイナーが発表するコレクションに対しても、もっと主観的にその良し悪しについて言及する人や場所が増えてもいいと思うし。僕自身は学生時代からコレクションをやっているので、当時から僕のコレクションを見てきた周りの友人たちは毎シーズン良くも悪くも正直な感想を言ってくれます。傷つくことのほうが多かったりしますが(笑)。お客さまである女性の「着る」という目線、バイヤーさんの「売る」という目線での意見ももちろん大事なのですが、純粋にクリエーションというか、コレクションとしてどうかという彼らの批判も自分にとっては欠かせないものですし、そういった仲間達が今周りにいることに感謝しています。
話を戻すと、先の「日本にファッションを学ぶ場がない」みたいなことと似ているんですが、東京で発表される1つ1つのコレクションに対して、「着る」「売る」目線以外の具体的な評価の基準がほとんどないのだとしたら、デザイナーが作るものも「着れそうで売れそう」に傾倒していくのは当然ですよね。
もちろん売れる、つまりは人に着てもらうことがデザイナーの目標ではありますが、明らかに売ることを目的にした服よりも、「なんだかよく分からないけどかわいいし見たことない」ようなものに心惹かれて着てみたくなったりするのがファッションじゃないかと思います。そういうものが結果売れることは大いにあると思いますし。
だから案外、直接売ることに影響するソリッドな意見と共に、純粋に「かわいいかかわいくないか」「お洒落かださいか」「新鮮かなんか見たことあるか」みたいなぼんやりとした意見や議論の1つ1つってすごく重要だと思うんです。ファッションデザイナー、少なくとも僕にとってはですが、「自分の服ってお洒落なのかな?ださいのかな?あの人はどう思ってるのかな?」みたいに自分の客観的な評価や立ち位置が分からないままブランドを続けることほど怖いものはありませんから。傷つく覚悟でいつも周りに批判を求めています。それを素直に聞き入れないことをよく面倒くさがられますが(笑)。
もう一つは競争の部分ですが、例えば僕が卒業した日本の服飾専門学校は「皆で課題を一生懸命頑張って、一緒に卒業しましょう」っていう感じでした。僕の留学先のノッティンガムの大学もまあそんな感じだったんですけど、他のヨーロッパの学校では違うみたいで、才能のある学生は学校からもプッシュされてその年のスター卒業生としてメディアでも取り上げられるけど、そうでないと判断された学生は何もないまま卒業していくという話を聞きます。
団体の思考がある日本だと不平等ととらえられるかもしれませんが、そうやって評価を下されることで自分を知るきっかけにもなるし、先に言った「自分の客観的な評価が分からない」「なんで売れないのか全然分からない」といったことに陥りにくくなると思います。そういった競争の中で磨かれるものは大きいですし、何よりモチベーションにもなると思います。
それは学校に限らず若手ブランドの中でもそのような競争があるべきなのではと思ったりします。東京にも毎年一定数のデザイナーを選んで支援する、みたいな仕組みもあるのは知っていますが、みんなが競い合ってそれに応募するほど大きな支援では現状ないと思いますし、支援する力もあってファッションの分野に理解のある日本の大企業というのもほとんど聞いたことがありません。そういった何か具体的な支援やそれを得るための競争は必要だと思います。それに期待して甘えていてもだめなんですが。
でもどこかの支援もなしに僕みたいな若いブランドが他の大きなアパレル企業と同じ土俵で同じように勝負をしてまず勝てるわけがないし、「それだけじゃ食っていけないよ」みたいな思考が上から降りてくるっていうのもありますけど、純粋に新しくて魅力的なことに若いブランドこそが挑んでいかないと、ファッションそのものが衰退してしまうと感じます。
–アパレル・ファッション業界において、注目している学生の活動はありますか?
学生の活動ではありませんが、今、現役の若いファッションデザイナーさんが先生を務める学校が増えてきたと聞いています。学生はただパターンや縫製など技術を教わるのではなく、「洋服はプロダクトである」という考え方を、プロダクトとして洋服を作って売っているデザイナーから学ぶことに意味があると考えています。
日本の学生の多くは何か大きなコンテストを目標にしていて、一つの作品にいかに手間暇をかけるか、みたいな努力をする傾向があるんですけど、結局デザイナーになって求められることって、プロダクトの力だと思うんです。
プロダクトの定義って簡単に言えば「同じものを他の人が作れる」ということなんですけど、時間をかけて手を加えた分だけ同じものを作りづらいじゃないですか。つまりそれはプロダクトとしてはデメリットになりますよね。
だから結局自分のデザインに引き算をしていくっていう方向になるんですけど、引き算をしすぎてただの真っさらなTシャツになっちゃったら、今度は他との違いも出せなくなる。それも魅力的なプロダクトとは言えません。
時間や手間暇をかけると二つとないものはできるけど、それをプロダクトにしていくのが難しい。でも逆に全然手間暇かけなくたって良いものはいっぱいあるし、服を買う時って、色がかわいいとか、意外と簡単なことで買っちゃったりするじゃないですか。「これが売れるの?」みたいな時もあるし、デザイナーは少なからずそういう葛藤と向き合っていると思います。
でも例えば僕のいた服飾学校だとそういうプロダクトの教え方はしなくて、とにかく手を動かさせてコンテストで評価されるような渾身の作品を作るのを良しとしているのが、僕は問題だと思います。
学生がデザイナーを志しているのであれば、プロダクトとして魅力的な商品を作るための訓練が必要と思います。でも別に完成されたすぐ商品になるようなもの、「リアルクローズ」を学生が作る必要は全くないんですが、いずれ自分の作品が商品になっていくことがイメージできるような「さなぎ」のような途中経過にあたるものを、試行錯誤しながら作っていくことが大事だと思います。

–ご自身のキャリアを振り返って、現代のファッションに興味がある若者に対して、ファッションとより楽しんで関わっていくためのアドバイスはありますか?
日本の身の回りのものだけじゃなくて、いろんなものを見るべきだと思います。
日本の「アパレル」と、世界全体で起こっている「ファッション」は全然別物だと思っているので。
例えば巷にあふれている、広告費をかけて宣伝されているようなものがファッションかっていうと、それは間違っちゃいけないと思います。
あれは、企業が売るために色々やっている事だと思うので。
たくさんの情報の中からこれがファッションだと思う事を、ちゃんと理解して選び取れるように嗅覚を養うというか、色んなものを見て判断できるようになれると良いんじゃないかと。
僕なんかも、常に自分に言い聞かせています。
四年制大学と専門学校、日本と海外の両方を経験されている大野さんの感性や考え方にはとても説得力と客観性がありました。
近年、ファッションに興味のある若者も、また海外に興味のある若者も増えてきている中、これら二つの興味を掛け合わせて、行き着く先が大野さんのビジョンの中にあるように感じました。
大野さんの服作りの根底にあるラグジュアリーに対する考え方や、世界規模でのファッションの捉え方など、しっかりしたビジョンと、ものづくりへの気持ちがこれ以上ないほど伝わってくるインタビューでした。
お忙しい中ありがとうございました。
篠崎莉奈
1994年生まれ。東京外国語大学言語文化学部所属。
慶應ファッションクリエイター代表・デザイナーを担当。
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Creator’s Interview: 003 YOHEI OHNO 1st part
Name: 大野 陽平
Brand: YOHEI OHNO
–デザイナーとしての大野さんに質問です。デザイナーを志したきっかけは何でしたか?
最初は愛知の進学校から早稲田大学に入って、その頃はものづくりには興味がなく、哲学を勉強しようと思って当時の第一文学部に1年通いました。
大学時代はファッションが好きで、服を着るのも楽しんでいたので、その当時は趣味くらいでいいかなと思っていたんですけど、好きだからどうせなら服を作ってみたいと思って、大学を中退して文化服装学院に入学しました。
親には最初反対されたんですけど、自分がやりたいことがあるならって。
父親も本当は芸術をやりたかったのに、親の強い反対にあって安定した収入のある教員になるしかなかったので、僕には好きなことをさせてあげたいという考えの基でした。
父親は芸大には行かせてもらえず教育学部の美術という道を選び、美術の教師をしていましたが、今はもう定年してもともと趣味でやっていた生花に本腰を入れています。
あとは祖父が生前和菓子の職人をしていたりと、僕が突然もの作りをしたいと思い始めたのも、何かそういった血が流れているのかと親は言っています。

–四年制大学から服飾専門学校へ進路を変えたきっかけは何でしたか?
四年制大学から専門学校に入り直したきっかけは、20歳を過ぎた時に急に活字に興味がなくなり、同時にもの作りがしたい衝動に駆られて。
若気の至りなのか、全然活字が頭に入ってこなくなって(笑)。
文化服装学院では服装科に入りました。
3年間基礎を学んで、その後に文化ファッション大学院大学に2年通いました。
そこで転機があって、神戸のコンテストに選ばれて1年間イギリスのノッティンガム芸術大学で勉強することができたので、留学をしました。
帰ってきて、一旦は就職をしかけたんですけど、自分の服作りを早く世に発表したいという思いが強まり、2014年末にブランドを始めたという流れです。
–イギリスでの生活の様子と、日本に帰ってきたきっかけは何でしたか?
ノッティンガム芸術大学の最終学年に編入し、ロンドンで幾つかの学校と合同で卒業制作ショーをする権利もありました。
ノッティンガムはロンドンから北に離れたところにあるので、ロンドンのブランドで働くというチャンスもなければ、ビザも厳しくなって、卒業してから1〜2ヶ月しか滞在する期間がなかったので、ほとんど何のチャンスもないまま日本に帰ってきました。
日本に帰ってきて、立ち上げというほどちゃんと準備もしないまま、ブランドを始めました。
学生時代からボンディングやレーザーカッターを駆使した服作りを研究していたので、それをうまくプロダクトに落とし込むことでブランドビジネスにつながっていくのではないかと思ったのと、それができる環境がたまたま自分の周りにあったことが大きかったです。
–仕事をする上で、クリエーションをする上でのやりがい、モチベーション、楽しみ、こだわりは何ですか?
もともと素材の質感に興味がありました。
僕はテキスタイルの知識は正直あまりないんですけど、布地というよりはもっと広い範囲の色んな素材、建築に使われる資材とか。素材にとらわれずに、人が袖を通すことができて、かつ物体そのものとしても美しい何かを作りたいといつからか思うようになりました。
「ラグジュアリー」に対して思うこともあって、単純に高級で繊細な素材を使って高度に仕立てるというのが今のラグジュアリーのあり方なのか、という疑問がありました。
僕としてはもっと違ったラグジュアリーのアプローチの方法があるんじゃないかと思います。
例えば少し前の、ニコラ・ゲスキエールのバレンシアガと��って、着にくそうなボンディング素材を使用していたり、「メタルレギンス」と呼ばれる甲冑みたいなタイツを作っていたり、それらはあくまでショーピースかもしれませんが、それまでパリコレのラグジュアリーブランドに対して勝手に抱いていた優美で女性らしいイメージを覆すような、全く新しいものに出会ったような衝撃を受けました。
だから僕も、そういう違った角度からのラグジュアリーへのアプローチをいずれはしたいなと思いました。
仕事をする上のやりがいやモチベーションは、単純にものづくりをしたいという気持ちだけです。
僕は今でもファッションデザイナーという肩書きは少し恥ずかしいしあまりしっくりこなくて、ただの「ものづくりの人間」だと思っています。
ただ何か新しいものを作ってそれを女性に着て欲しい、くらいの気持ちでやっています。
–今後、どのようなブランドにしていきたいですか?
今シーズンと前回の16SSシーズンは正直なところ方向性にブレが生じていましたが、こうして考え直してみると「ラグジュアリー」というのが本来自分の目指している方向です。
僕自身学生時代から勉強のために色々なラグジュアリーブランドの服は手に取ってみましたが、例えば僕の大好きだったニコラ・ゲスキエールのバレンシアガの服って、人が着ているのも美しいけれど、手に取った時の、もの自体から放たれているエネルギーがすごかった。
自分もそのような、物体としてパワーのある服を作りたいと思っています。
だから自然とラグジュアリーという思考になるんだと思います。
素材的にボンディングだったりハリのある素材を使うと、スポーティー・カジュアルなイメージになりがちだとは思うんですけど、例えばラグジュアリーセレクトショップのリステアさんで取り扱っていただけたことなどは、すごく僕にとって自信になりました。
高級な素材を使ったからといって全然安っぽく見える場合もありますし、僕は安いか高いかという問題ではないと思います。「高級感」と「高いもの」は全然違うと思いますし、「安っぽいもの」と「安いもの」も別だと思うし。
素材は使いようで、「創意工夫」という魔法をそこにかけられるかだと思います。
高価な素材ではなくても人が着た時に高揚感を得られたり、何か特別な気持ちになればそれは「ラグジュアリー」と言えるものだと僕は思っています。
Creator’s Interview: 003 YOHEI OHNO 1st part は以上となります。
インタビューは2nd partに続きます。
>> Creator’s Interview: 003 YOHEI OHNO 2nd part
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Creator’s Interview: 002 ATSUHI NAKASHIMA
Name: 中島篤
Brand: ATUSHI NAKASHIMA
- 中島さんがデザイナーを志したきっかけは何でしたか?
曽祖父が水墨画家だったこともあり、絵を描くことが好きで幼少期は画家になりたいと思っていました。
ただ、画家で食べていくことは難しいと中学生の頃に感じ、当時洋服に興味を持ち始めたこともあってファッションデザイナーを目指すようになりました。
洋服に興味を持ったのは、ヤンキーブームからファッションに変わっていく時代の変わり目だったことがきっかけ。僕の時代はヤンキーブームで、龍の刺繍が入ったヤンキー風の服装をしていました。
同時期に、ファッション雑誌のMen’s nonno や Boonが出始め、周りがまだヤンキー風の格好をする中、ファッションに目覚めました。
工業高校に進学してから、デザイナーを目指したいと思いました。ただ、父親の猛反対で普通に就職するよう言われていたので、卒業後はファッションと関係の無い工場に就職しました。
それでも諦めきれず、1年後に辞めて名古屋にあるファッションの専門学校に入学しました。
在学中に影響を受けた先生がいて、自分はデザイン科だったのですが、その方はパターンの先生でした。
洋服は絵じゃないし立体なので、デザイナーでもパターンを理解していなければならないと言われ、就職は縫製工場を勧められました。
新聞で見つけた九州の工場で、2年半程働きました。

- 縫製工場では何をされていたんですか?
朝8時から夜中まで、縫い子さんをしていました。その縫製工場がすごく地獄で…
さらにその後、中国の工場に赴任することになりました。本当に田舎の工場で、そこに暮らしたくなかったので、繁華街から毎日1時間かけて出勤していました。
一番屈辱的なことがあって、僕が暇そうにしていたら”ラインに入れ”と言われ、ラインで現地の人と一緒に作業させられていたんです。
さすがに無理だと思って、上司に言って日本に帰してもらいました。
- 帰国してからの経緯は?
縫製工場で技術を学んだと感じ、次はどうしようかと考えていた時に、オンワードファッション大賞を知り、応募したところたまたまグランプリを受賞しました。
その時審査員だったジャンポール・ゴルチエの目に留まり、そのまま渡仏して彼の下で働く事になりました。
午前中に語学学校へ行き、午後はゴルチエのアトリエで働くという生活でした。
インターンで1年経ったところでお金が無くなってしまい、帰国しようかとゴルチエに挨拶に行ったところ、給料をもらっていなかったことに彼が驚き、それ以降給料をもらえるようになりました。
- 日本に帰るきっかけは何でしたか?
フランスに行って6年程経ってしまい、自分のブランドも立ち上げたいと考えていた。
ブランド立ち上げのために、日本に帰りたいとゴルチエに話しました。それまでバッグのデザインはしていたのですが、洋服はゴルチエ本人が行っていたこともあり、彼から”とても残念だ。洋服のデザインをさせてあげられなくて、後悔している”と言われました。
辞める事になった一週間後に社長から呼ばれ、“新しいラインを作るから、そこでデザイナーをやってくれ”と言われ、結局もう1年残ることになりました。
その後日本に帰ってきて、1年ほど準備したあとに東コレでブランドを発表しました。
- 日本で活動する理由は何ですか?
日本のものづくりを海外に持って行きたいという思いが一番強いですね。
中国の工場で働いていた事や、ゴルチエの下で働いていた経験が大きいです。
向こうの技術も凄いが、自分も工場で学んだ技術とデザインのスキルがあったので、日本人でも(海外で)やれるかな、と。ゴルチエの下にいた時も、職人さんに一目置かれていました。
- 中島さんが今後目標にしていることは?
昔からの夢はパリコレだったので、一生の間に一度は出したいと思っています。
最近のニュースになるのですが、DHLの国際グランプリで受賞して、ミラノコレクションでランウェイを2シーズン発表出来ることになったんです。
繊細さや物づくりのクオリティーといった日本製の良さを、クリエーションを大切にしている海外にアピールしたい。最新技術を使った企業さんとのコラボレーションもしてみたいですね。
- JAFIC PLATFORMについてどう思いますか?
デザイナーも苦しい時代なので、感謝しています。自分も企業とのマッチングや産地とのコラボレーションなど、実際に色々な機会をもらいました。
サンプル工場や生地屋さんなど、紹介してもらえるとデザイナーとして助かります。小ロットだと高かったり、納期も優先してもらえないこともあるので。
生地の展示会等に行っても、自分は沢山いるうちの一人なので、相手にされないこともありますが、そういう部分で繋げて貰えると有り難いです。やっぱり、人の紹介って自分が誰かもきちんと伝わるし、大きいかなと。
また制服のデザインだったり、車の会社だったり、自分もファッション以外の部分でもデザイナーとして活動したいという思いはあります。
- 今の日本のファッション業界に対してどう思いますか?
またデザイナーを目指す学生に対して、どんな人物を求めていますか?
日本のアパレルがビジネス優先になってしまうのは、しょうがないことだと思うんです。でも売れるものだと、どうしても海外の二番煎じであったり、ファストファッションの影響で消費額も下がってきている現状があると思います。
日本のアパレル企業にも、日本らしいものを発信していくような所が増えてくると良いなと感じます。
ただこれから、また良い物が売れる時代に変わってくる気配はあるので、良い物が評価されて売れるような業界に、アパレル業界だからこそ変わっていって欲しいと思います。
色々な物を見て、多様な感性を持っている人は良いなと思います。
情熱を持って、デザインや物づくりを一生懸命勉強して欲しいです。
- 最後に、今後どのようなブランドにしていきたいですか?
日本のものを世界に持っていくというのが目標で、今後も日本で活動していくつもりです。
ただ、以前から海外志向が強かったので海外の展示会には沢山出展しているので、海外で評価されたブランドとして、日本に逆輸入していくというのが理想です。
繊維工場で苦労して働かれた経験や、ゴルチエの下で働かれた経験など、その長い下積み時代が、現在のATSUSHI NAKASHIMAというブランドの確立や、クリエーションに繋がっていることが分かった。
海外に左右されがちな現在の日本のアパレル産業。そこで今一度、ものづくりの良さ・繊細さという、日本の強みを見つめ直す機会が若者にも多くあれば、中島さんも言うように良いものが売れる時代に繋がるのではないかと感じた。
また中島さんの人柄��仕事の仕方が、周囲に理解され愛される要因である事も、インタビューを通して感じる事が出来た。
ミラノコレクションでは、ATSUSHI NAKASHIMAらしい立体的で繊細なアイテムに要チェックだ。
ATSUSHI NAKASHIMA 2016SS “DISCOVERY”をみて


今期のコレクションはスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』からインスパイアされている。テーマの“DISCOVERY”も映画に出てくる宇宙船「ディスカバリー号」にちなんでいるようである。 ランウェイ中央の空間には正八角形のオブジェが5つ並んで浮かんでおり、光が放たれた際にそれらを正面から見ると、まるで宇宙空間に吸い込まれていくようだ。 スペースシャトルや宇宙船などの白・黒を基調とし、差し色としては赤・カーキが取り入れられている。また、ポイントとしてはゴールド・シルバーが取り入れられ、 モダンでメカニックな印象を与えた。 素材にネオプレンを使用することで、独特なハリ感と立体的なシルエットを表現し、モノトーンのスニーカーやメタリックなサンダルと合わせることでスポーティーなルックに仕上がった。 目を引いたのは、モノトーンを基調とする切り替えの構築的で近未来的なデザインで、ソックスやネックウォーマー、アームウォーマー、指先を隠すフィンガーウォーマーや口元のマスクは外界から肌を守るといった機能的な側面と配色等の装飾的側面の両方を兼ね備えている。 映画の世界観をモダンかつスタイリッシュな形でファッションに落とし込んだ今回のコレクションは、ショーの会場にいる人々をATUSHI NAKASHIMAの世界観に引き込むような作品と演出であった。
篠崎莉奈
1994年生まれ。東京外国語大学言語文化学部所属。
慶應ファッションクリエイター デザイナーを担当。
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Creator’s Interview: 001 A DEGREE FAHRENHEIT
Name: 天津 憂
Brand: A Degree Fahrenheit
天津の「A」
血液型の「A」
Aprilの「A」
Asia出身の「A」
かつて拠点としていたAmericaの「A」と
人間の体温を100度とする温度の単位「華氏Fahrenheit」を組み合わせたのがA Degree Fahrenheitの名前の由来である。
天津さんの体温感で物を表現・デザインし、全てのシーズンのテーマは温度を基に想起されている。
- 天津さんがデザイナーを志したきっかけは何でしたか?
元々絵を描いたり、そういった職業に就きたいという思いは子供の頃からあったが、自分を表現する中で一番適していたツールがファッションだった。
自分が着ることで、すぐに表現することが出来たからだ。
それがデザインの勉強をしたいと思うきっかけ。
また、母親が針子であったことにも影響を受けた。

- ブランド立ち上げまでの経緯、きっかけはどのようなものでしたか?
在学中から起業し、衣装デザイナーとして活動を行っていた。
入学当初はブランドを立ち上げる志はあったが、デザインを学ぶ中でパターンの面白さや、人対人の相手の為に服を作ること、台本を読みながらイメージし制作する方が面白いと感じ、衣装デザイナーを目指すようになった。
しかし、日本には衣装デザイナーが少なく、スタイリストがそういった要素を収集した上で衣装屋さんに仕事を振るだけで、そこにはクリエイティブな動きが全く無く、その実態が寂しかった。
卒業後、仕事を受けるためにまずはアメリカに行こうと思った。何のツテも無かったがブロードウェイやハリウッドなどがあるから、という安易な考えだった。
- それからブランドを立ち上げるまで、どういったプロセスでしたか?
自分のデザイナーとしてのテイストを知らしめるものがブランドであるので、まずはブランドを確立させ、有名になる必要があった。
1年目にお金が無くなった時期があり、口座には200ドルしか無かった。
帰りの飛行機のチケットも買えないまま1年が続き、英語も話せない状態でアトリエを周り、自分を売り込む営業活動に奔走していた。
1日10円で生活し、当時75kgほどあった体重が52kgまで減った。
お金も無くどうしようかと考えていた時に、GEN ARTというコンテストの話を聞いた。
今はもう無いコンテストだが、その前年にはアンリアレイジがグランプリを受賞していた。
そのコンテストに学生時代の作品をブラッシュアップして出品したところ、グランプリを受賞した。
そして、賞金を獲得したことでVISAが取りやすくなったこともあり、アトリエから声が掛かった。
2年目には、当時学生だったJen Kaoに、卒業後にブランド立ち上げを一緒にやらないかと誘われ、パタンナーとして参加することになった。Jen Kaoにはその後4年間在籍していた。
- NYでの生活の中で、日本に帰ってくるきっかけ何でしたか?
アメリカで6年を終えようとしていた当時、29歳だった。
30歳までにコレクションを発表したいという漠然とした思いがあり、JFWで行っていた2010年の“SHINMAI Creator's Project”の第二回に選出されたことによって、居心地の良かったアメリカを離れ、再び日本に戻ることになった。
- 渡米を経て、天津さんが感じた日米での違いはありますか?
クリエーションに関しては、大きな違いは無いと思うが、生地などに関しては日本の方が良い。アメリカではカタチから入ることも多かったが、日本では生地からデザインを発想することも多い。
プレゼンテーションに関しては、日本人の能力の弱さを感じる。
アメリカでは、スキルが無くてもプレゼン能力があるので、実現さえすれば評価される。
しかし日本では、スキルをつけてから実現しようと思うので、時間がかかる。
日本人は完璧主義が強いため、一歩行くのが遅いと感じる。
- JAFIC PLATFORMについてどう思いますか?
キックオフイベントの際に行っていた、ビンゴを使ったマッチングは面白かった。
やはり、参加していて楽しさや面白さを感じる機会になると良いかと。
お互いが話せず終わってしまう、というのは勿体無い。
しかしデザイナーから営業することは難しいので、企業が踏み込みやすいカタチだと、関係作りがしやすくなるかも。
ただ、デザイナーに委託しようと考えた際に、最終的には”知っている彼にしよう”と知人から選ぶことも多いので、出会いの場として社交的なパーティーも大事な場だと思う。
- 天津さんは、自分の世界観を語れると思いますが、一方で積極的に自分を押し出せないクリエイターの方についてはどう思いますか?
デザイナーの皆さんには、まずJAFICの催しに参加してみることが、マッチングなどの機会を得るきっかけになると思う。
クリエイターも新しい人を入れていかないと、企業から見て新鮮味や新しい発見が無いし、企業側もアパレル以外の業種もいると面白いと思う。
- 今のファッション業界に対して言いたい事とは? (疲弊している業界とか言われていますが…)
よくある質問ですよね(笑)。
全然無いです。恐れ多いし。
ただ、学校に講演に行っても、みんな消極的。
ブランド立ち上げたいっていう子が殆どいないし、雑誌も見てない、興味が無い子が多い。
飯を削っても服を買う、みたいな学生は少ないんじゃないかと思う。
- 今後やりたいことは何ですか?
もの作り全般ですね。空間全体のデザインや、衣食住などもやってみたい。
服に関してはやはりレディースの方が面白い。
メンズはものが良くなくてもウンチクを語れば買ってくれるが、レディースはトレンドや流行り廃りの中でデザインするということが面白い。
また日本だけでなく、様々なコンテストなどにも出品したり、機会を見て海外には進出するつもり。
NYにはいずれ行くと思っているが、近い将来だと思っている。
そういうのも含めて、ハナエモリのデザイナーを務めているのもある。
A Degree Fahrenheitの由来を知ってから、毎シーズンのコレクションを見返してみると、「温度」という着想がとても面白く、私たち自信の体温を通して得た経験的なイメージと重ね合わせることができ、コレクションをより楽しむことができるのではないでしょうか。
また、服やファッションに傾倒する姿が最近の若者にはあまり見られないとおしゃっていましたが、天津さんの在学中の起業や卒業後の渡米のような大きな決断をする機会は私たちにはやはり少ないような気がしました。
天津さんの自分自信への信頼や積み重ねてきた経験が、6年間に及ぶアメリカでの活動や現在も続く活躍を裏付けているように感じたインタビューでした。
Hnanae Mori manuscrit 2016/ SS を観覧して


「五大湖(Great Lakes)」をインスピレーション源に、そこに広がる雄大な自然、息づく動植物、そして自然と共存する都会に、「発想と想像」の力を拡げたという。
透け感のあるオーガンジー素材を用いた服から始まり、淡いピンク、濃いブルーへと変化していく。静かな湖が連想させられる。全体的にフレアを用いており、優雅さと女性らしさが出ていた。
中盤からは様々なテキスタイルを用いた服が多く見られた。特にハナエモリの代表的なモチーフである「蝶」柄のレース、蝶の形に配置されたビジューが印象的だった。
また、ヘッドホンを付け、片手にはスマートフォンを持つモデルも登場。これは、パナソニックとコラボレーションしたヘッドホンで、2016年1月に発売が予定されているもの。デザイナーの天津さんがデザインを監修したという。
女性らしいディテール・日本らしさを感じる紐のベルトとデジタルの融合で、エレガントさは忘れずにいながらも、個性的な女性を演出するコレクションだった。
橋爪彩夏
1994年生まれ。実践女子大学生活科学部所属。
慶應ファッションクリエイター代表 デザイナー・プレスを担当。
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JAFIC PLATFORM PRESENTATION2015 レポート
今年で4回目になる「JAFIC PLATFORM PRESENTATION2015」が、7月0日(木)13時から、代官山のCARATO71で開催されました。

「JAFIC PLATFORM」は、アパレル企業と新興クリエーション企業の交流を通じて、新たなビジネスモデルを創出することを目的に、両者の「出会いの場」として設立されました。加盟企業は108社、登録クリエーターは104名(2015年4月現在)です。その中から、今回はクリエーター31名がブース展示を行いました。 クリエーターは、それぞれのブースに作品を展示し、資料を揃えて18時までの間、来場者にアピールします。

続いて別室で開かれた、15時からの3部構成のトークセッションは、WWDジャパンの企画でEC事業がテーマ。WWDジャパンの向千鶴編集長の進行で始まりました。 15時からの第一部は、「越境ECの考慮すべき点」で、ファーフェッチジャパン代表の石渡万希子氏が講師です。 海外のデザイナーブランドや新進気鋭のブランドの最新アイテムを世界の300以上の人気セレクトショップから国を超えて直接届けてくれるオンラインプラットフォームの日本代表である石渡氏。国を超えてのビジネスをどうすれば実現できるか、どうすれば成功するかについて具体的にお話しいただきました。
16時からの第二部は「twitter、Facebook、Instagramに踊らされていませんか?本当のSNS活用とは」ドレスイング代表兼サプール・インク代表のナカヤマン。氏 デジタル戦略+クリエイティブエージェンシーの代表ナカヤマン。氏は、開口一番、自分の仕事は、多様化する集客を担う役割だと語ります。今は、複合メディアを一カ所で対応するために取りまとめの場所が必要で、SNSの特徴を理解すること、インフルエンサーがメディア化しているといったことなどについてお話いただきました。
17時からの第三部は、「在庫連携システムが自社ECをもっと強くする」ダイヤモンドヘッドのご担当者お二人です。在庫を、それぞれ違うモールのシステムに合わせて振り分けることができるシステムを運営していると、細かい仕組みの説明がありました。

18時からのレセプションには、JAFICの廣内理事長も参加しました。 廣内理事長からは、「JAFIC PLATFORM」がだいぶ根付いてきて、素材産地との連携が深まってきた。この活動を深め、日本の素晴らしい素材を活かして活動していってほしい。そして、若いクリエーターの皆さんには世界に羽ばたいていっていただきたい。と激励の言葉を投げかれました。 最後にクリエーター全員参加で記念撮影が行われるなど、会は和やかに行われました。 今後もJAFICは、企業とクリエーターが交流できる機会を設け、世界に誇る国内素材産地との情報交流を活発に行ってまいります。それぞれが、それぞれの良さを活かし、互いに切磋琢磨してジャパンブランドが世界に羽ばたくように支援をしてまいります。

廣内理事長とJPF登録クリエイター
*JAFICホームページより転載 http://www.jafic.org/news/news_20150803/
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JAFIC FUTURE INITIATIVE: JAFICと学生のコラボレーションイベント

6月11日「第33期定時社員総会・懇親会」が、ホテルニューオータニで開かれた。
今回は従来と趣向を変え、一般大学生のファッション研究サークルとコラボレーションした新しい試みで催した。
JAFIC PLATFORM参加の「エディグリーファーレンハイト」(天津憂)、「インプロセス」(大原由梨佳とスティーブン・ホール)「アツシナカシマ」(中島篤)の3デザイナーの作品ショーを学生が演出。30人のモデルの内17人を学生が担った。これまで、服飾専門学校とは産学連携など接点はあったが、一般大学との接点は少なかった。 一般大学のファッション研究サークルとコラボレーションしたのも、この若い世代の感性に直接触れ知るとともに、彼らにファッション産業を認識してもらうことも狙いの一つだった。

≪目 的≫次世代を担う若い世代に今後のファッション業界の魅力を感じて貰い、各企業のトップと彼らが直接対話する機会とする。 ≪参加企業の方々の声≫「お洒落なイメージでとても良い」「若者対策としては良い試み」 ≪学生の声≫「企業の方々と今まで交流の機会がなかったのでとても良かった」「就職希望のアパレル企業トップがそろっており、圧倒された」「ファッションが好きでサークルに入ったが、店頭販売、営業でもいいからファッション業界に就職したい」
今回の試みは、ファッション業界と学生とを繋ぐきっかけとなった。
*JAFICホームページより転載
http://www.jafic.org/news/news_20150710/
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