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masako-hayashi · 4 years
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新人の主張:女流建築家の弁 - 山田 雅子
出典:「芸術新潮」1955.6 
 T子さん、私達女性の建築家の集りが生まれてからもう一年半になり、会員も五十人を超えるようになりました。そしてあなたはこの集りに対する疑問をお寄せになりました。お手紙に述べられている、さまざまな疑問の核心は「共通の研究目的がないのに、ただ女であるから、という理由だけで集まることの無意味さ」と更に建築の仕事が創ることであるのに触れられて「個人のものであり、個人の作家的な修業による世界に、グループ活動をすることの無意味さ」との二つにあるようです。あなたのご意見はここに集っている人達が多かれ少なかれ、一度は抱いた、あるいは今も持っているかもしれない疑問を率直に表明して下さった点で貴重なものと思います。けれどもそれはこの集りの社会的な、少くとももう一つの本質的なレゾン・デートルをお認めになっていない点で考え直す必要がありはしないでしょうか。
 たしかに「男流建築家の集まり」なぞというものが、この世に存在しない以上、女だけが集るというのはオカシな話ですし、一応もっともな疑問だと思います。私達の集りが生まれた時、周りからうるさく非難されたのもこの点でした。しかし建築の世界に女であるからしなくてはならない研究であるとか、男でなければ解明できない問題というものがない限り、女だけに共通な研究目的で私達が集ったのでないのだけは、はっきりいえることではないでしょうか。とすると私達の集まりがつくられたというよりは二、三の人のハガキ一枚の呼びかけに二十数人が集って、ほとんど自然発生的に生まれた動機は、もっとほかのところにあるはずです。
 恐らく私達の中で、次のような種類の質問をうけたことのない人は一人もいないでしょうし、それも一度や二度ではないと思います。
―どうして又、女ダテラに建築なんぞやりはしめたのですか?
―お父様が建築家ででも?
 私も勿論そうなのですが、見わたしたところ私達の中には、この質問を発した人の好奇心を満足させてあげられるような特別な事情を持ち合せている人はなさそうです。私の場合と言えば特に秀れた造型的才能に恵まれているわけでもなければ、特異な個性を持っているわけでもなく建築家的環境に育ったわけでもありません。ただ何かあるとすれば、一生続けて行く仕事がほしかった。女であることだけをただ一つのよりどころに、妻や母の座にすがって生きて行くのに耐えられなかったと言うことでしよう。
 女が奥様稼業以外の職業をもつととが、何か特別の、あたりまえではないことに思われる古い根強い因習、そして建築に限らず、「男流何~」などという言葉の生まれる余地もないほど仕事への道が男にだけ限られている社会の特殊性、そこに私達の集まりの生まれた必然性があったのではないでしようか。
 封建的な社会から否応なしに押しつけられる今のような女性の隷属的な地位が、私達の周りにもう見あたらないのならば、いわゆる女の集まりはあなたの仰言るように無意味だと思いますし、生れようもないと思うのです。
 良い建築であるかどうかが問題にされるより以前に、それを創ったのが女であることの方が重要な話題になったり、私達の力でもそれに甘えて仕事の評価を割引してもらったり、こんなオカシな現象をなくする為に、逆説的な言い方をすれば、私達の集まりを成立させたところのものを消滅させることの為に、過渡的な状態としてこの集まりが生まれたのだと思えるのです。男女共学前の困難な環境に学んだ私達の実力や、職場での地位の低さ、仕事と家庭の両立の難しさなど、遅れた社社会事情の中にポツンとひとりで置かれていた、私達みんなにつながる共通の問題が、そしてひとりでは、どうにもならない問題が何と多いことでしょう。
 「T子さん、先日の集まりの時に、みんなから出されたお話を聞いて下さいますか。たとえばA子さんの事務所の話。それは中小企業の商店や住宅建築を手がけてきたのですが、デフレの影響でバッタリ仕事がなくなって、小さな資本の事務所はたちまち経営困難に陥って解散、彼女は失業してしまいました。 やや大きな事務所のB子さんのところでは、 保安隊や米軍の下請仕事でやや息をついている状態なのです。それでも仕事をとる為に設計料をダンピンクせざるを得なく、そのしわよせで夜業が続いているB子さんは建築家の社会的な地位の低さを嘆いていました。
 近代建築は人間の尊重をかけて出発したが、しかしそれを実現する為の手段や方法が資本主義の機構と結びつかざるを得ない結果 つまりは資本家の利潤追求に役立っているだけで、近代建築から忘れられた人間、そのささやかな幸福に役立つにはどうしたらよいのか、機能主義の建築が「人間」を概念的にしかとらえていなかったことに起因する行き詰りは、国民性や伝統への再評価という形で出て来たが、それが単に過去への復帰や輸出国のジャポニカになりさがらない為にはどうしなければならないのか、と訴えるC子さん。事務所の前時代的な徒弟制度に苦しんでいるD子さんは、公共の為にあるべき建築デザインの方法が一人のチーフの個人的な興味や芸術的意欲を満足させることに止まっていていいのだろうかということから、更に社会の要求を理解し、対等な立場に立って自由に発言出来る数人の技術者の共同設計こそ正しい方向ではないかという積極的な提案をしていました。まだまだ種々ありましたが、現象的には全く違って見えるこれらの問題が、私達にはどうしても別々のこととは思えなかったのです。それは私達が仕事を持ち続けて行くのを困難にしている多くの事情とも結びついているのではないでしようか。
 毎日の仕事を通して、どんな風にこれからの問題を解決して行ったらいのか、どんな風に新しい時代と建築家のあり方を追求して行ったらいいのか。みんなで考え話し合う必要があると思うのです。
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masako-hayashi · 4 years
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コンクリート住宅の問題:2つのコンクリート住宅を設計して - 山田 雅��
出典:「文化」1958.3
 東京や大阪の、ひしめき合ってびっしり建ち並んだ木造の住宅や商店のひろがりは驚くばかりです。その家々の間の曲りくねった路上で、1日に2人か3人が自動車とぶつかって死に、またいつでもどこかの道路上では消防自動車がヤジ馬をかきわけているという東京の街の圧倒的なひろがりは、それだけで人を感動させるに足る何物かをもっているほどですが、その家並の90%が木造の平家か2階建で、その一軒一軒の木造が、節だらけの細い柱と、薄くて粗末な板材とをなめるようにつやつやしく削り、家具のような 細い巧みな仕口を組合わせ、軒桁の丸太や隅角の扇棰などには飽くことを知らない高い技術の蓄積がふんだんに使いこなされていることを想像するならば、さらに深い感動にうたれることでしょう。
 わたくしたちがコンクリートの住宅を作ってゆくことは、この圧倒的な木造住宅のひろがりに挑戦することを意味しています。木造で家を造る時には、極端な場 合には、8畳・6 畳・4 畳半に台所といった間取図を大工さんに渡すだけでも家は建ってしまいます。
 何10代かの「たくみ」たちの技術の蓄積と、その低賃金と、普及した木材と建具の市場品という背景が、坪当り4万円ほどの値段と、1~2ヵ月の工期とで、容易に家を手に入れることを約束しています。ところが コンクリートの場合はそうはゆきません。コンクリート住宅についての蓄積は、わたくしたちの周囲には全 くないといってよい位ですべては第一歩から自分の 足でふみ出さなければなりません。しかし、それだけ に洋々たる可能性が開かれているともいえます。木造 の場合、市場寸法や伝統的な工法と全く絶縁した形では建築家の仕事もなかなか現実の手がかりができませんが、コンクリートなら大きな可能性があります。
 わたくしたちの教えられた鉄筋コンクリートの知識は、すべてビルディングを造るためのものでした。今日大ていの建築に使われている「柱と梁とでラーメンを組み、要所に耐震壁を配置する」といったやり方は、コ ンクリートビルディングの極めて限定された可能性にしか過ぎず、これでは、20 階、30 階といった高層 ビルも不可能ですが、住宅にも極めて不適当です。壁構造の技術も貧困という他はなく、住宅に適したコン クリートの構法は、ラーメンでも既成の壁構造でもない新しい可能性がいくらでもあるように思えますが、やってみなければ何ともいえず、まだ手さぐりの域を出ません。H邸「平らな屋根のすまい」では、米国式ブロックを壁に、簡単なリブのついたスラブを屋根に使ってあります。この屋根版は、7cm 厚さのスラブ+梁というより、34 cm の厚さのスラブの不要部分をくり抜いたものと考えた方が適当かも知れません。また、Y邸「三角屋根のすまい」では、将来2階を増築する可能性がないほど十分な床面積をもっているので、南北方向 に配置した3枚のコンクリート壁に折面のスラブをの せたものです。柱・梁から脱け出すという点では、H邸と同じ考えから出発していますが、結果的には全く異なる形態をとっています。しかしこのような構造をとって、多少鉄筋量やコンクリート量を減らすことと同時に、小規模な一軒家のコンクリート工事では、仮設工事を合理化することがよほど考えられなければならないのは当然のことです。住宅の場合には回転のきかない型枠の使い方の合理化 も難しく、H邸ではボロボロのパネルを何とか使いこなすこと、Y邸ではメタルフォームを取入れることを試みていますが、問題の多いところです。
 外部は人造石か洗い出し、内部はブラスターといった仕上の方法も、コンクリートには当然のことのように教えられたところですが、幸い大都市では生��ンクリートが容易に手に入るようになり、大分仮設も楽になりましたが、それでも、タワーや動力など住宅には大げさな費用を削ろうとすると、アジテーターカーで運ばれてきた生コンを、どうして運び上げるかが問題になります。H邸では人夫の肩で担ぎあげ、Y邸の場合には、小型ディーゼルエンジンを使って上げました。全くお寒い限りで、これではどうにもなりません。
 この2軒のすまいでは、コンクリート部分は木製バネルもメタルフォームも打放しのままあらわしていて、これは人間の生活とコンクリートとをぶつけようという設定を直訳した形になっていますが、わたくしたちはコンクリートは打放しに限ると考えているわけではなく、予算の点でやや余裕のあったY邸では、壁に取外し可能の布貼りパネルをガイドレールに取付ける方法を試みたのもその一例ですが、もっと表現のあらゆる可能性を豊かにとり入れてゆきたいとのぞんでいます。しかし、妙に打放しに抵抗を感じるのは一部の専門家だけのようで、打放し面を見て、板を張ったにしてはなぜ灰色なのか質問する訪客の方が、よほど素直にものを見ているように思われます。もっともH邸のスラブのように、柄の継目や節や、更には杉板2等1枚入などという型枠材のスタンプが転写されたところなどを見ると、まるで灰色の板のようなのでしょうが、銭造物の性質は流し込む材質とともに鋳型の材質によって決定される部分が大きいので、木造型枠のコンクリートには、木材の性質が相当程度に転写されているわけでしょう。精度についても同様のことがいえそうで、木製型枠のコンクリートには木製サッシュが(H邸)、金属型枠の場合には金属サッシュが(Y邸) ぴったりするような感じがします。
 コンクリート住宅の居住性もまた、手さぐりの状態にあります。戦後沢山のコンクリートのアパートが建て られましたが、その多くは非常にコンクリート壁量の多い設計で、仕上げもビル建築流ですから、わたくしたちの設計とは大分条件が違って、防湿や通風の点では、わたくしたちの方はいささか自信をもてます。しかしコンクリートの巨大な熱容量をどう扱うかというコンクリート住宅特有の問題は、アパートでは目立たないでしょうが、単独住居では非常に影響が大きく、この熱容量をいい加減に扱うと、夏は暖房、冬は冷房完備といった相貌を呈することになる筈です。
 H邸では居間の部分のスラブをコンクリート露出のまま寝室には断熱材貼上げとなっていて、2~3年かけてその比較をしてみたいと考えています。居間の天井仕上はその結果を見て何を貼るか決定するつもりで、このように数年がかりで仕上げをしてもおかしくないのがコンクリート住宅の利点でもあります。Y邸では、半分に断熱材、半分に板材を貼上げて試みています。
 コンクリートの住宅は、以上のように構造、施工、居住性などにわたってまだまだ問題が沢山あります。ここではふれませんでしたが、もともとコンクリートで単独住居を造るということには、都市像を考えてゆく上でも、住み手の将来の生活を想像してみても、容易に肯定できることではないように思います。コンクリートの単独住居はそのままの形では伸びてゆく余地が少いように考えられます。しかしコンクリートの住宅では、コンクリート建築の条件が自然に対しても人為に対しても、最も厳しい形で現われてくる点に、大変興味がもたれるのです。更に機会を得てコンクリート住宅にとりくんでみたいと思っています。
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masako-hayashi · 4 years
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建築と生活 - 山田 雅子
出典:「画報」1953.9
 私が建築といくらかつながりを持つようになったのは、五年程前の事です。
 終戦の翌年、女学校を放り出された私は殆どその惰性で目白の女子大に入ったのです。初めはそんな風で何をしようというはっきりした意識を持っていなかったのが、次第にそうした自分自身の生活、女である事を唯一のよりどころにしている女の生き方に反発を感じるようになったのです。
 そして兎も角「男が夫であり父であると同時に、科学者であり或いは芸術家である様に、女にも本来、妻であり母であると共に自分の才能を生かし実現していく“場”があるはずだ」と真剣に考え始めました。丁度その頃、新設された生活芸術科の住居専攻に、非常に興味を持った私は、やっと生き甲斐のある自分の“場”を見出した思いで転科しました。何故なら建築、殊に住居には積極的にそれを創る側からは、殆ど女の手が入っていなかったのです。
 けれども学校での勉強はあくまで与えられたものを使う側からの家政学の域を出ない、せいぜいが“台所改善程度”のものでした。ですから、私の得たものは、現在、建築や家具、室内装飾のデザイナーとして活躍している多くのクラスメートを除いては、極く僅なものだったのです。それが卒業論文の指導を清家先生に御願いした大きな原因でもありました。この研究室の人々に啓発されて、私の建築に対する情熱は地についた動かし難いものとなって行きました。出来るだけのものを吸収しようと、卒業後もそのまま研究室に置いていただいて、もう三年になります。此の頃どうにか仕事らしいものが出来るようになったのも、この研究室の良き師、良き友の力にほかなりません。私の建築への道がここで開かれた事の大きな幸を感じないではいられません。良き師を中心に、同じ年頃の同じ確信を持っている人と共にした仕事と生活は私の生涯を通じて得難いものと思っております。
 この三年間の私の主な仕事といえば、住宅のデザイン研究です。その殆どが金融公庫の融資をうけた貧しいものですが、それは定規と鉛筆だけでは、どうにも出来ない問題を含んでいます。例えば公庫で貸してくれる坪二万円余の工費では、耐久年限の少ない、いわゆる吹けば飛ぶような家は建っても、憲法で保障されている“健康で文化的な生活”を営む人間の住居を造る事は不可能に近いということです。ところがそういう融資をうけられる人というのは数万の月収をもつ、まだしも恵まれた少数の人々なのです。本当にその生存を脅やかされて住宅難にあえいでいる人々は、家を建てようにも融資をうける資格がなく、都営アパートにすら入られないという事です。しかもこうした人々の生活こそ、人間の生活に深く根を下ろした新しい住居を造ろうと努力している建築家が協力しなければならないものなのではないでしょうか。それなのに、一方では坪数十万というビルがどんどん建って行きます。
 こういうチグハグな一切の社会情勢の中で私達が建築家として誠実に生きようとするのは、非常に困難なもの��� あります。殊に女性にとって未開拓の、それだけ女性を必要としているこの道が、どんなに困難であろうともその努万を続けて行きたい、と良き師、良き友にはげまされながら、私はそう思っています。 
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masako-hayashi · 4 years
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末広がりの家 1964
長野・中軽井沢
 東京のマンションに住む家族が、1年を通して使う別荘というよりは<いなか>の家である。
敷地は南入りの袋路の突き当りで、20mの高低差をもつ北東下りの傾斜地である。 不揃いな地形をカバーするのに充分な広さはあるが、幅の狭くなった南は、三方に小割の分譲地を控え、北東だけに眺望が開けている。 このような環境から、2枚の屋根版を末広がりにたてかけ、山の傾斜とは逆に傾けて北東面だけを開放し、他は閉じるというこの家の形が生まれた。
高さも広さも最もすぼまった入口へは、道から地面へもぐり込むような形で導かれるが、食堂・居間へと進むに従って、広がりは大きくなり、階下にサービススペースと3つの寝室を容することになる。
いろいろな機会に試みを続けて来た混構造をここでは自然から身を守る外の覆いは木造で、生活を支える床はコンクリートという方法で行なっている。 きびしい自然の中で、胸汰されて来た木材は自ら身を守るすべを備えているのでもあろうか、寒冷地の暖房をもつすまいでは、凍害·結露・断熱などコンクリートよりも意外に高い性能を示す。 暖房方式は、温風暖房を採用した。
ー《新建築》6511より
敷地面積:2,208㎡
建築面積:145㎡
1階床面積:81㎡  2階床面積:44㎡
延床面積:125㎡
構造:RC造+木造2階
作品掲載:
《建築》 1965年7月号
《新建築》 1965年11月号
《現代日本の住宅》彰国社
《建築文化》 1966年5月号
《現代日本建築家全集22》 三一書房
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masako-hayashi · 4 years
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末広がりの家
"出典:建築家林雅子 - 新建築社"
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masako-hayashi · 4 years
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草崎クラブ 1963
静岡・伊東
伊豆の東海岸、半島状にひょこりと海に突き出した土地で、三方は海、残る一方は山を控えた要害の地で、敷地の中央部を、東伊豆有料道路がトンネルでくぐり抜けている。
都会に住む仲間が、集まり、語り、考えるための場所を共同で持とう、というのがこの家の目的である。寝室は閉鎖的な扱い、平らなところから眺めるのは、海の水平線だけという、岬の岩場に建つ共同の別荘であるが、この岩場をどう使うかということから計画をはじめた。
生活の日常性、白い壁や金属性などから離れたいこともあり、現実には潮風や台風に耐える必要もあり、このようなデザインになった。 屋根は骨太の単純な合掌が、基調になっている。 しかし、床の方は、なにぶん手を加えることが容易でない岩石がごろごろしているところで、岩石の状態に応じて床の高さと扱いをかえることとし、ここから変化のある空間が導き出された。
人の住んだことのない土地に家を建てるのは, よほどの物好きでなければかなわぬこと。 しかし露天に近いトイレや浴室まわりなど、人間を人間からでなく、自然からだけ守ればよいというのは気持のよいことである。
敷地面積:6,612㎡
建築面積:107㎡
1階床面積:83㎡
2階床面積:76㎡
3階床面積:33㎡
延床面積:192㎡
構造:木造3階
作品掲載:
《新建築》1963年8月号、1964年7月号
《モダンリビング》 47号
《ジャパンインテリア》1965年4月号
《建築》1965年7月号
《現代日本建築家全集22》 三一書房
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masako-hayashi · 4 years
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草崎クラブ
"出典:建築家林雅子 - 新建築社"
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masako-hayashi · 4 years
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三つの床 1967
東京·世田谷
 この住まいの床は3種類の高さ、3種類の材質から成り立っている。 床のレベルの違いは、それだけで空間の質を変えてしまい、床の材料についても同じことが言える。 床のレベルと材料を総合的に変えることによって、平面的にはワンルームの住まいの中に、どのように変化に富んだ空間と生活とを作りだせるかということが、この住まいでの私の問題であった。
中央の最も低い床は, じゅうたんを敷きつめた柔らかな床で住むという漠然とした行為のための家具である。 その周囲に展開するやや高いレベルの床は、元来、土間に等しいもので、中央の生活圏に奉仕する役割を持ち材質的には最も堅い床である。
3番目の床は、中2階の床で、材質は木製で堅さは中間に位し、何かをのせておく棚の役割を果たす。
このようにみてくると、3つの床は、ただ単に高さや材質が異なるばかりでなくその本質的な性格を異にしていることがわかる。だから、それぞれ1枚ずつの床の内部では、その用途に互換性があるが、3枚の床の間にはほとんど共通点はなく、この3種類の床に互換性をもたすことは不可能である。 すなわち、床は住み手の生活を介して、空間の性格を決定的に意味づけているといえる。 複数のレベルの床が有機的なつながりをもつ家では、構造は単純なものであることを求められる。
この住まいでは、4隅に配置したL型の壁と、中央の大黒柱とによって、食違いに構成された方形の屋根を支える構造をとっている。 このため、住まいの内部は2階を含めて連続した一体のものとなっており、プライバシーをつくるために適当な補助的な手段が設けられているにすぎない。
ー 《建築文化》6805より
 建築面積:55㎡
1階床面積:55㎡
2階床面積:24㎡
延床面積:79㎡
構造:木造 2階
作品掲載:
《建築文化》 1968年5月号
《モダンリビング》 62号
《現代日本建築家全集22》三一書房
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masako-hayashi · 4 years
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三つの床
"出典:建築家林雅子 - 新建築社"
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masako-hayashi · 4 years
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魏晋杜工房 1964
東京・町田
敷地は南東下りの丘の中腹で、半分は平らだが残りは5m下の道路までほぼ20度の勾配をもつ斜面。 丘の傾斜なりの片流れの屋根でおおわれたこの家は、画家と美容家夫妻の仕事場と住まいである。 敷地の平坦部分にのった家の西半分は戸外に直接つながるアトリエ、斜面にまたがる残り半分には屋根が低くなった分だけ床も下げて居住部分が設けられている。
中央の台所・浴室部分は天井高をおさえて階を重ね、アトリエ側から数段上った寝室として使われている。 展望を得るため南東面はほとんど開放された中で、三方を壁で囲まれたこの寝室には、屋根に突き出してトップライトが設けられている。 建物の中央通りの登り梁は、下弦材に鉄筋を使ったトラスを組んで、上弦材は外周の登り梁と同断面にしている。
居住部分の床はコンクリートの柱で中空に持ち上げられ、周囲にめぐらしたテラスによって戸外との縁をつないでいる。 テラスは、対角線状に伸びたコンクリート梁に架けた木造根太のはね出しである。 床下に次期工事として美容室を予定しているが、当分はS氏のための彫刻など荒仕事の場所にあてられる。
《建築文化》6504より 敷地面積:218㎡ 建築面積:62㎡2 1階床面積:56㎡ 2階床面積:15㎡ 床面積:71㎡ 構造:木造、一部RC造
作品掲載: 《建築文化》1965年4月号 《建築》1965年7月号 《モダンリビング》57号 《L architecture d'aujourd'hui》1966年9月号 《現代日本建築家全集22》 三一書房
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masako-hayashi · 4 years
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魏晋杜工房
上2枚 "出典:建築家林雅子 - 新建築社"
下2枚 2019年に撮影
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masako-hayashi · 5 years
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インドアガーデンのある家 (House with an Indoor Garden)1977
東京・日野
東京の郊外とはいえ、南は大手家電メーカーの工場と変電所に接し、高圧線と鉄塔が迫る、北側は30mの露地状部分で道に接するという、建物の平面形や配置なぞ考慮の余地のないまさに進退きわまった敷地である。
夫婦はそれぞれ夜の不規則な勤めと仕事、それに車をもち、お互の生活時間にもずれがある以上、庭があっても滅多に明るいうちには眺められないと云う生活である。        
家族は家事を担当する老母と1人娘の4人ではあるが、時に従業員を宿泊させる必要や仕事上の客もあって予備の客室は欠かせない。
敷地も生活も到底一般解の成立しない状況が家の中に光と緑に溢れた庭、このインドアガーデンを作る理由となった。
広いスペースの必要なカーポートとリビングダイニングは、入口アプローチにつぐ西側に階を重ねて置き、小さく間仕切らなければならない寝室群は、3つ重ねて東側に位させすべての居室は、中央のインドアーガーデンに開かれて、陽光と縁を得ている。
1階、2階ともこれらの庭は、各室を結びつなげるための機能をもち、3つのフロアーともに水廻りのサービス部分が含まれている。
 敷地面積:264㎡ 建築面積:103㎡ 地階床面積:55㎡ 1階床面積:99㎡ 2階床面積:41㎡ 延床面積:195㎡ 担当:林・山田・中原設計同人 加々美明 構造設計:温品鳳治 設備設計:荻設備設計事務所 構造:RC造 地下1階 地上2階 施工:須山建設 設計期間:1976年1月-1976年9月 竣工:1977年5月
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masako-hayashi · 5 years
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インドアガーデンのある家
"出典:建築家林雅子 - 新建築社"
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masako-hayashi · 5 years
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ルーフテラスをもつ家(House with a Roof Terrace) 1979
愛知・半田
遠くにを望む知多半島の丘の上に、育ち盛りの3人の子を持つ30代の夫婦のためにつくられた住まいである。 子たちの教育やこれからの自分たちの生活に、独得で明快なビジョンを持つ家族のために、そして、もう大都市では全く望めなくなってしまった健康な空気と先に溢れたこの環境の中で、のびやかな家を作る機会をえたのは久し振りの幸せであった。
建物は3つの部分から構成されている。上下に階をわかつ夫婦それぞれの寝室を、吹抜けでつなぐ西のウィング、それぞれ戸外の遊び場をもつ3つの子供部屋に、車、ラジコン、、モーターボートと多趣味な主人のためのホビールームと車庫を含む東のウィング、この両翼を金属の折板屋根を葺き下ろしてつないだ中央の居間食堂の3つである。
東のウィングは敷地と道路の落差を利用して、庭からは地下に埋まった形とし、その屋上をルーフテラスとして庭を広げることができた。 パブリックスベースとの立体交差部分に入口をとり、空に抜けるガラス屋根の下に食堂のベンチが張り出されている。
敷地面積:419m 建築面積:215m 地階床面積:82㎡ 1階床面積:195m 2階床面積:23㎡ 延床面積:200㎡ 担当:林·山田・中原設計同人 諸角敬 構造設計:温品鳳治 設備設計:荻設備設計事務所 構造:RC造 地下1階 地上2階 施工:石黑建設 設計期間:1978年5月—1978年12月 竣工:1979年12月 
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masako-hayashi · 5 years
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ルーフテラスをもつ家
引用元 -  建築家林雅子(新建築社)
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masako-hayashi · 5 years
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内部に外部をもつ家 1980
東京・世田谷
戦前の住宅地の広い一区画のままの敷地に、建てかえたこの家の場合、中央につくられた外部は庭としてではなく、南北ふたつの横にわけられたパブリックソーンとプライベートゾーンを、透明につなぐためのスペースとして扱われている。
この外部は、構成の論理においても階段や入口を介して道につながる外部であり、リビングとダイニングをつなぐアウトドアーの生活スペースでもある。
すべての居室は、それぞれ直接南の庭に向かって開かれているため、空と外へ吹き抜けるこのギャラリーへは出入のドアをもつだけで、「インドアガーデンのある家」の庭にくらべれば、居室との関係は稀薄なものとなる。
一歩部屋を離れれば外部ということは、個室の独立性を意味する。
これは3人の子供たちが、そろそろ独立の生活をはじめられる年齢に達し、ごく近い将来に個室の使い方の変化が予想されるためである。
ギャラリーに面したホールは, 子供たちとその友だちのための共有のスペースとして用意されている。
家の内部に、居ながらにして空を見通す外部をもつのは、目黒通りに面した南隣地におそらく建つことになるであろうマンションへの自衛手段でもある。撮影の段階では造園は未定であった。
敷地面積:826㎡ 建築面積:167㎡ 2階床面積:54㎡ 延床面積:212㎡ 担当:林·山田・中原設計同人 諸角敬 構造:温品鳳治 設備:荻設備設計事務所 構造:RC造 一部木造地上2階 施工:尾身工務店 設計期間:1978年10月—1979年5月 竣工;1980年4月
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masako-hayashi · 5 years
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内部に外部をもつ家
"出典:建築家林雅子 - 新建築社"
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