Tumgik
modeqs · 2 months
Text
低害化 harm reduction で持続可能な依存症対策をする
私はインターネット依存症というか、デジタルデバイス依存症を患っている。近年ではYouTubeの長時間視聴が私にとっての問題だ。直近でも正常な生活のリズムに影響を与え始める一歩手前まで状態が悪化してしまい、危機感を強めた。
そこで次の対策をとった。すなわち(1)三ヶ月に一度、短い期間にわたってYouTubeの視聴を許容する、(2)YouTube Music は利用を許容する、(3)YouTubeを視聴しないためなら他の何をしてもよい。
(3)は本来すべきことを放置してでも、YouTubeを視聴しないためなら読者やら運動やらをしてもよいという意味だ。時間だけでなくお金も浪費してしまうため今のところ代替手段として漫画の購入は実行していないが、いよいよ「禁断症状」がきつくなったらそれもやるつもりだ。
依存症との戦いは「ある特定のアクションをしたい、という気持ちから心の焦点をずらし続ける」ことが肝なのだと最近気がついた。そしてそれは、私の場合、「依存症に打ち克つ」という奮起(興奮)を前提とした行為や習慣・マインドセットは有効ではないと感じ始めた。そうではなく、私にとっては、「もしかしたら、またすぐに依存症の状態に戻ってしまうかも」(だから今日もそうならなような行動をしなくちゃ)という恐れを背景にしていた方が良い行動をとりやすい、ような気がする。
そしてより害の少ない行動を従来の行動代わりに実行することは、この発想と相性がいい。油断すればまたYouTubeで貴重な時間を潰す日々に逆戻りしてしまう、だからYouTubeは視聴したくない。でも気晴らしはしたい。YouTubeは見ちゃ駄目だけど、YouTube Musicでアニソン聴くのも手っ取り早い憂さ晴らしにはなるから、ひとまずこれを使っておこう。といった具合である。
強硬な立場からすれば、私が本来やりたい生産的なこと以外に時間を浪費しうるあらゆるデジタルデバイスの使用は禁じられるべきだ。一度ならず私もそれを試みたが持続させられなかった。少しの期間(と呼ぶことも出来ない短い日々の場合も多い)はかなり良く機能しているように思えるのだが、それが慢心を招いて最終的には施策全体を駄目にしてしまう。
そこでこの方法を試している。持続させられるかは分からない。今のところ1ヶ月くらいはうまくいっている。
あとはYouTubeのアプリを開いて動画のサムネを閲覧することは許容しているのだが、登録しているチャンネルの動画サムネを見ているだけでも結構満足してしまう部分がある。もちろん楽しく、かつ刹那的な動画を視聴したいという欲求自体が満たされるわけではないが、なんとか踏みとどまれる。
ひとたび依存症になってしまえば、一見うまくいっているような気がする日常のなかでも常にその背後には依存症の落とし穴が待ち構えている。だからそのことを意識している方が、つまり緩やかな緊張が常にある方が、いっときの興奮の下にそれを征服しようとするよりも対策としては効果的かもしれない。
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(7)
前回よりつづき
2024年の目標
習慣
引き続きBullet Jornalを使って生活の構造化に努める
妄想に飲み込まれない。その結果として感情は穏やかに、脳は冷静さを保てるようにする
睡眠を大切にする。特にストレスへの対処法(とりわけ休日の前夜)として入浴と睡眠を活用できるように工夫する
娯楽におけるスマホの使用を抑制する。スマホと節度ある付き合い方をする
とにかく節制をする。お金を使わないというよりは脳を堕落した消費主義に浸らせないこと
職業生活
2024年上期中に現在構想している業務を遂行する。これにより新たな仕事の経験を得る
転職する
今の職場で新たな経験をするため、また新たな雇用を得るため、Excelや管理会計の技能を深める
意識していつもお世話になっている同僚以外と交流して、コミュニケーションが特定の人々に偏っている状態を矯正する
数学
先に述べた数学の挑戦について、ともかくも一年分をやり通す
それとは別にVelleman教授のCalculusの積分法およびその応用の章を終える
Eugenia Cheng教授の"The Joy of Abstraction"を読み終える(圏論の入門書の入門書)
その他
女性と交際する
車の運転をできるようにする
「ファスト・アンド・フロー」「ノイズ」「超予測力」の3冊の主張をまとめて、良い思考をするためのヒント集を作る
Voicepeak(AHS社の合成音声ソフト)で遊ぶ
関連記事:
2022年を振り返る
2021年を振り返る
2020年を振り返る
2019年を振り返る
こうまとめると結構振り返っていたな。この振り返りの記事を書くのは結構楽しいものだ。2024年は冬季休暇を潰さないように、12月の始めには書き始めるようにしよう。
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(6)
前回よりつづき
2023年に読んだ良かった本
どれもAmazon Audibleで聴いただけで、まだ本格的に活字では読んでいない。
『NOISE──組織はなぜ判断を誤るのか?』(早川書房)
「ファスト・アンド・フロー」のダニエル・カーネマンが共著者に名を連ねる、集合的な意思決定におけるノイズについて議論した本。ノイズはバイアス(偏り)とはまた異なるもので、私の理解だと判断のブレということでよいと思う。あるときはAと判断するが、似た状況で十分な根拠もなくBと判断するというような。
専門家の判断にはノイズが含まれることを例に引いたうえで、簡単なアルゴリズム(予測モデル)でさえもそのノイズを強力に修正しうることを示している。私が知的興奮を覚えたのもそこで、著者らの主張するところを自分のキャリアでも真似(実行)できそうだと思ったからだ。
本文中に引用される「権威ある職業専門人の判断には、実はノイズが多い」事例に類する事象は、探せばおそらく私の職場でも見つかる。また判断をデータ化して簡単な予測モデルでもノイズの是正に貢献するというのも、できそうではないか。数学の確率論やら統計学やらの理屈は無視して「ある意思決定の際にある数学的道具を使ったらうまくいったので、その道具の理屈はまあ正しいのだろう」という緩い立場からすれば、使ってみて役に立つならそれでいい。つまり何が言いたいかというと、Excelで回帰分析(統計分析の初歩)をするノウハウはいまや無数にネットでアクセスできるため、各自の職場で「意思決定にアルゴリズムを持ち込む」ことの真似事が比較的低コストでできるわけだ。無論、ほかのツールが使えればもっと効率よく分析できる。
『超予測力──不確実な時代の先を読む10カ条』(早川書房)
なんだか浮薄なタイトルだが中身はすごく面白かった。原書は若干古く2015年刊行とのことだ。政治学者と心理学者の兼任みたいな人が書いた「市井で生きているものの諜報機関のエージェントよりも政治的問題の予測について精度が高い人々」(超予測者)に焦点をあて、なぜ彼らはそうした予測ができるのかを議論した本。
まずリテラシーとして次の点に私は注意したい。本文によれば超予測者はCIAのエージェントよりも高い精度で予測ができたという。これが非常にキャッチーだから本文に書いてある以上のことを妄想したくなる。だが著者らが実験した環境と、CIAのエージェントが日々予測のレポートを送らなくてはならない環境とかは異なる可能性があり、その意味で実験環境で超予測者がCIAに勝ったという刺激的な一文ほどには、実際の仕事においてCIAは超予測者には負けないのかも知れない。そもそも予測の成績であるブライアースコアにも文句がつけられるだろう。
なお著者らは十分こうした測定誤差には自覚的であって、彼らは決して超予測者の優越性を誇示するような書き方はしていない。ただ内容があまりにも興奮を催すために、ケチをつけながらでないと議論に批判的になれない。
予測とは未来の事象についての何かしらの言明だ。思考力を鍛えたいとおもったとき「予測」という「ジャンル」は思考全般には関わってこないように思える。それは一つのマイナージャンルのように思われる。
だが詳述される超予測者が予測を行う過程についてみていくと、まさに彼らが予測する過程とは慎重な思考そのものだと思う。超予測者は予測を行う前に、めっちゃ調べるのである。そしてその調べるも、あたかも他の惑星からきて地球の国際政治について調べている宇宙人のようにドライに行う。例えば日本と中国の対立について、両国民の感情(ナショナリズム)の点から説明しようとすることは、少なくとも積極的には行わない。
また情報の調べ方と検討の仕方についても系統的な方法論があり、闇雲に行っているわけではないようだ(当たり前か)。そういうわけで思考能力を高めより思慮深くなりたいと思う人にとって、超予測者の予測について解説した本書は非常に役に立つ。
超予測者はすごいかっこいい。真似したいと思った。本を読んでいて「憧れ」の気持ちを抱いたのってかなり久々のように思う。そんなすごい人達を「真似したい」って馬鹿みたいに聞こえるかも知れないけど、本書で予測のガイドラインは示されているわけで、自分のお頭の使い方一つの話なのだからトライする価値はある。
『限りある時間の使い方』(かんき出版)
よくあるビジネス書の一冊のような感じだが、私にとっては良かった。時間の有限性についての、エッセイ豪華版みたいな本。著者はジャーナリストだってさ。
どんなに時間を効率的に使っても己が望む全ての行動はできない。時間は共有財の一種で、一人で過ごせる時間がいくら多くともそれは幸福ではない。なんでもかんでもやろうとするな、どうせできない、本当にしたいことを数点に絞れ。あらゆることをできない以上、取捨選択の結果としてネガティブなことが起きることもやむを得ない。ある行動をするというのは別のことをしない決定であると同時に、自分がその行動をする人生を選び取ったということだ。私達の人生は何に注意を向けたかで決まる、というよりも何に注意を向けるのかということがまさに人生そのものにほかならない。
雑に列挙したが心に残った記述はこんなところ。どれも当たり前のことからも知れないが、時間の使い方が下手な私には役に立った。
自分のキャリアについて考えさせられた。一度しかない人生、文系サラリーマンとしてありがちで実際有用だけど自分は苦手な勉強に励むよりは、自分ができることのなかで企業に貢献しようと意識を変えるきっかけとなった。また選択の結果、誰かをがっかりさせることもまたやむを得ないという記述は私を勇気づけた。そうなんだよな、自分にとってのステークホルダー全員を満足させることなどできない。だからそうしたことは織り込み済みとして、くよくよする必要はないんだ。
余談
中途半端な読み方をしている本が多い。来年は一度に読む本を絞ってちゃんと最後まで読まなくては。教養を深めて人生を豊かにしなくてはな。
つづく
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(5)
前回よりつづき
数学
微分法の項目を紛いなりにも終わらせた
昨年の振り返りの記事を読むと、2023年の目標は微分法を終わらせるとか書いてあったわ。驚くべきことに、なんとこの目標はいちおう達せられた。
微分法…といっても一番初歩のやつで、極限操作および連続性の議論のあとに一連の微分法則として紹介されるやつら、の証明と練習が終わったということだ。
Daniel J. Velleman先生の"Calculus: A First Rigorous Course"をやっている。そのChapter 3を終えた。Chap. 4が微分法の応用となっているため本当はこちらも終わらせたかった。
しかしそれでも、ともかくも一番簡単な微分は習得できたわけだ。それも単に計算の規則の習得ではなく、なぜその定理が成り立つのか証明まで含めて学ぶことができた。
昨年も同じことを書いた。全く馬鹿みたいに遅い歩みだ。しかし、そうであっても、この進歩は私にとって素晴らしい。微分法なんて一生かかっても私には絶対に手に入らない技能の一つだと思っていたからだ。それがいまや、入門レベルの教科書に書いてある練習問題なら何とか解けるレベルにまでなった。数年前の私に「あなたはそのうち微分法則を当たり前のように使って教科書の練習問題を解くようになるよ」といっても信じないだろう。そんなこと私にはできっこないと思っていたからだ。
なお数学に詳しくない人のために書いておくと、理系の大学生だと、たぶんこれは入学して遅くとも2ヶ月以内には勉強することと思われる。私はそれを1年かけて(まあいろいろあって「実働」は6ヶ月くらいか)勉強したということだ。
数学的進歩は?
微分法の初歩を終わらせたことは数学的進歩だ。これは誇りに思い、同時に教科書を書いてくれたVelleman教授に感謝しなくてはならない。
一方で数学的進歩…特に数学の学習を進める上での「スタディスキル」についてはまだまだ、積極的な言い方をすればもっと改善していきたい部分がある。
最も問題なのは学習が行き詰まったときの振る舞いだ。私は定理の証明でも練習問題を解くにしても、理解できない部分があるとど~してもそこが気になって、時間をかけてしまう。計算ミスや論理の誤謬が無ければ「一度うまくいかなかったことが確かめられたアプローチ」は何度試しても無駄である(RPGゲームでモブキャラに何度話しかけてもゲーム展開に全く変化が起きない、みたいな)。でも、私は残念なことにそれに近いことをやってしまう。
つまりある方法を試してみて、それがうまくいかなかったら次、さらに次…と問題解決の試行錯誤が素早く出来ない。全く出来ていないわけではないが、とてもそのサイクルが遅い。これを自覚しつつも、なかなか目立った改善ができなかった。
それと関連して自力での解決が「行き詰まった」というレベルでなかったとしても、ある程度(15分とか)時間を使ってしまったら、大人しく模範解答なりネットで調べるなりすべきである。のだが、とにかく時間を使って自力で解こうとしてしまった。これも改善を要する。これも自覚できていたのだが、なかなか解けるかも知れない問題を放棄することはできなかった。
要するに私のレベルにおいては、数学との触れ合いは「質より量」ということだ。とにかくたくさんの練習問題、数学の証明に触れて、教科書から「数学を実践するときの常識」を吸収しなくてはいけない。もちろん取りこぼしてしまう要素も少なくないだろうけど、それはある程度のレベルを達せられた後に改めて再学習すればいい。やはり通り一遍のことができるというのは大事だ。試験とか学位もそれを社会的に視覚化したものではないか。
ここらへんのメタスキルが向上しないと学習の効率が悪いままだ。今年は時間をかけることで効率の悪さを補ってしまったが、来年は効率自体を改善しなくては。
もっと数学をやらなくては
なるべく数学を勉強しようと努力したつもりだったが、それでも不徹底だと言わざるを得ない。もっと寸暇を捉えて数学の学習をしたり、あるいは数学についての本を読まなくてはいけない。
いま思いついた口からのでまかせだが、日々の余暇で特定の事柄に注意を向けたかったら、たとえ数学の勉強とかし得ないような状況でもスマホを弄ったりしないほうがいいのかなあ。暇な時間にYouTube触ることを常態化すると学習とか生産的なことに注意が向けられなくなったり、あるいは単に集中する能力が落ちたりしないかなあ。気が散りやすくなるというか。
簿記の勉強を諦めてからスマホの使用にはあまり自己規制をかけてこなかった。しかし今一度、子供のスマホ使用を監督するような気持ちで自分のスマホとの付き合い方を規制しなくてはならないかもしれない。少なくともしばらく試してみる価値はある。
大きな決断
この年末に数学の学習について大きな意思決定をした。うまくいくか分からないし「いいことを始めました!」と宣言するだけで終わらせたくないので、いまその詳細を記すことはしない。
だが私の人生で最も大きな決定のように思う。お金にしても、時間にしてもそうだ。先人はたくさんいるが、もちろん私の周囲にはモデルケースはいない。利用できるあらゆる資源を活用して目標に向かっていかなくては、たぶん挫折する。一方で柔軟さも必要で、このように当初の興奮だけで猪突猛進しようとしても、おそらく挫折するだろう。長期戦なので一時の興奮だけではどうにもならない。
数学は私の人生で欠けていた大きなピースだ。私は愚かにも、義務教育や高校においてセルフネグレクトをするような格好で、自ら数学の学習機会を抛棄した。そのため私は一度も学校教育からドロップアウトするようなことはなかったけれども、自分は数学の体系的な教育を受けたことがなかったようなものだと思っている。この挑戦はそれを補完し、私の人生をより良いものにするものだ。
客観的にみれば失敗する可能性のほうが大きいと思う。働きながらの挑戦だし、上記したように別に私は数学が得意ではないので。むしろ学生の頃は落伍者だったし。それでもやってみたい。人生で一度はしっかり数学と向き合ってみたいと思ったのだ。
失敗しても構わない。早々に失敗して公的に主張できるなんらの資格も得られずに終わったとしてもいい。挑戦してみたいのだ。そのための、これまでの数年間だったと思っている。この数年間は働いていない時間はどう過ごしたらいいか分からず、確固たる目標もなく生きてきた。あてどない日々だったが、代わりにお金は貯めることができた。このお金はこれからの私の挑戦の原資となる。そのためにこの間頑張ってきたのだと今は思う。
こちらについても生殖や育児との関係で私のプランなど吹き飛ぶ可能性が大いにある。だがそれでもいい。中断を挟んでもいいし、結果としてフェードアウトしてもいい。そのつもりはないけど。この挑戦はこれまでの私の人生で一度も検討したことがなかった、いわば異常な、見方によっては馬鹿げた提案である。それでもこの挑戦をしなければ、もしかしたら生涯手に入らなかったかも知れない技能を手に入れることができるかも知れない。それがたとえ部分的なものであったとしても、私は数学の正式な教育からは完全にドロップアウトした身であるから、とても意味があるのだ。挑戦する過程で数学以外にも様々な経験を得られるだろう。
いまはこれくらいにしておこう。今は黙して作業すべきことをただやるべきだ。
つづく
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(4)
前回よりつづき
職業生活(2)
簿記の勉強をやめた
簿記一級の勉強をしていたが難しすぎてやめた。簿記は基本原則が多すぎてそれらを覚えることが私にはできなかった。
とはいえ、正直私でも過去問を解きまくればどうにかなりそうと、ほんの少しだけ思ったことも事実だ。つまり私は簿記の勉強に付随するイライラを我慢できず、勉強=努力を継続できないことから、簿記の勉強をあきらめるということだ。
数学とは異なり基本原則が多いというのは、法律の勉強と似ている。法律(いわゆる士業)の勉強もたくさんの基本原則を諳記が求められ、どちらかといえばその組み合わせが勉強で問われることは少ないのではないかと思う。まあそんなに経験ないけど…。
だからその意味で日本の会計基準(日本基準)での会計処理の学習も形式的には(つまり勉強するうえで求められる知的努力としては)法律論と同じなのだと結論づけた。
講師は諳記しなくてよい方法を考えるのが受講者の仕事と言っていた。実際簿記の試験に受かるためにはその通りだ。だが私にはできなかったよ…。
国際会計基準(IFRS)はもう少し「公理主義的」な「運用のされ方」というがどうなのだろう。でもそうはいっても、IFRSの日本語訳版がやっぱり辞書みたいな文献だから、結局はそこまで演繹的なシステムというわけでもないのかも。
簿記一級はよい試験
なお付言しておくと私は諦めたが簿記一級は素晴らしい試験です。得られる会計の知識もとても実用的だし、その合格のために努力できる人材は間違いなく文系会社員として見込みがある人でしょう。
そして私は勉強をあきらめたが、内容もそこまでゲキムズかと言われれればそうではないと思う。理不尽な難易度ではないというか、平均的な人物でもめちゃくちゃ頑張れば普通に合格できる、みたいな感じ。私はそれだけの努力ができなかった。
法律論でのキャリアアップは断念した
会計の勉強も結局ある種の法律論であると上に述べた。そしていわゆる士業の勉強はもちろん紛うことなき法律の学習だ。
今回の簿記の学習を通じて、本当に私は、この手の勉強が苦手だと痛感した。そこで会計(財務会計)を含めた法律論を通じてのキャリアップは断念することにした。
これは文系人材としては大きな決断といえる。なぜなら文系の人間でかつ出世できる人というのは数学や工業技術のことが分からない代わりに、法律や会計を使って仕事ができる人たちというのが一つの社会での合意だろう。
だから法律論の習得を諦めるというのは自らその出世というかキャリアを閉ざすことだ。でもそれでいい。私にとってあまりにも法律論の学習はつらいからだ。
前回の記事で私は偉そうに事務員も再学習しろと主張した。それと、いかにも「上級事務員」的な法律論の習得を諦めることとの整合性はどうとるのだと読者に問われるかもしれない。結論としては私は法律論以外で企業に貢献するつもりだ。そのためには時間をかけて自分の仕事の範疇を「事務員」のそれから逸脱させていく必要がある。
それはまだほとんど進行していないためここに記すことが憚れれる要素X(私がこれから学習を本格化させていくコト)と、管理会計とを使って、経営者の経営判断を補佐するみたいな業務により実現したいと思っている。けっこうたいへんだと思う。今の私はただの事務員なので。能力を獲得し、経営者に信頼して私の言葉を聞いてもらえるようにしなくては。
転職活動できなかったよ
昨年時点での2023年の抱負をみると転職活動したいとあった。できなかった。一つにはExcelによる業務改善のノウハウを実地で開発していくのがまだ途上であったことと、普段はないイレギュラーなプロジェクトに時間を割かねばならなかったからだ。そしてそのようなイレギュラーな仕事を経験しておくのもよいかも知れないと思って、2022年末時点で在籍していた企業に今もいる。
来年は転職活動を本格化させ転職できたらしたい。今の企業では経験できる業務が非常に限られているからだ。また親会社の成長性に疑問を感じている。事務方なので親会社の管理体制についてもいろいろ知れるのだが、会社の経営規模に対し管理体制が旧時代的というかカスであるというのが私の結論だ。有名企業、大企業の仮面を被ってその程度の管理体制しか構築できない企業(というか企業集団)に未来はないと考え、はやく転職しなければと思っている。
まあ、この私の主張も人によっては眉唾と感じるだろうがね。つまり私が嘘をついているわけではないにしても、私が観測できている範囲がその企業の主流ではないために私の主張は誤っているという可能性がある。私にそれを否定する手段はない。
転職先は子育てしやすい環境がよいと思っているが、生殖について特に考えず数年間仕事をしていた結果、良いタイミングで(仮にそのような企業に転職できるとして)転職できるかどうか分からず、不安になっている側面がある。
というのは仮に育児休暇をとれる企業であっても流石に転職後数ヶ月で育児休暇はとれないだろう。転職先で定年まで働くつもりはなくとも、新しい同僚との信頼関係は無論大切だ。だからそうしたタイミングについても考慮しなくてはならない。
家族計画なんて考えたことなかったけど、大切なんだな。
あとは…大企業に就職するわけではないので、そもそも育児休暇をとれる企業に就職できない可能性もかなりある。
具体的に考えていくと生殖・子育てと労働の調整って大変なんだな。転職活動ではよく考えなくては。
なお上記が私にとってギャグなのはガールフレンドがいないってこと。
つづく
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(3)
前回よりつづき
職業生活(1)
Excel仕事
日々の業務のなかで能力開発ができた一年だった。
私は事務職(いわゆる事務員)として働いている。だから基本は一ヶ月で同じ仕事をずっと繰り返しているだけなのだが、今年はイレギュラーなイベントがあって新しいソフトウエアの使い方を覚えるといった普段はやらないことがそこそこあって、大変だった(まあ定時退社が基本の事務員基準では、ってことで)。
しかしそれらのイベントのおかげで扱える電子データが増えたおかげで、それを使ってExcel仕事の改善(工数削減)に取り組んだ。
具体的には Power Query M とPower Pivot for Excelを使って集計作業とかを楽にしようとトライした一年だった。全然使い方が分からないところから始め、そこそこ業務で応用できるようになった。とはいえ学びを止めるつもりはない。
Excelなどというと人によっては軽んじる向きがあるかもしれない。それには様々な理由があると思うが、しかし現実として、我が職場で親会社の情報システム部様から御許可を頂戴している唯一の「情報処理のためのソフトウエア」がExcelなのだ。だからその使い方に習熟し業務を改善しようというのは全く自然なことだ。
というよりExcelを無視して工数削減(事務作業の負担軽減)をやろうとすると、あとは形骸化している事務処理の見直しだとか、事務員基準では大きな労力をかけて別途費用の発生するソフトウエアなりサービスなりを導入する以外にできることがない。(大きな労力~というのはこちらのことをムシケラのように思し召しの情報システム部様をご説得申し上げる必要があるからだ)
自分の環境で使えるUIやらの制限も絡んでくるのだが、私の環境ではDAX(Power Pivot for Excel)よりも Power Query Mのほうが研究しがいがあるかな?と思っている。Power Query自体が、M式が全く書けなくてもかなり便利に使えるために自分のなかで若干低くみていたところがあったのだが、M式が書けると格段に複雑な処理ができるようになるようだ。
Power Query MとDAXについてはもっと詳しくなって、人間性を貶めるワークシート上での単純集計作業を能う限り減らしていきたいと思っている。「もっと強くなりたい」だ。
Power Query
それにしてもPower Queryはすごい。ワークシートを操作するExcelマクロを完全に過去のものにしたといっていい。Excelをプログラミング言語として活用する場合(と書くのは恥ずかしいくらいトンチンカンな事かもしれないけど)ファイルの操作などVBAではできてPower Queryには出来ないことはたくさんある。
しかしワークシートにおけるデータの操作という点ではPower QueryはVBAの完全上位互換だ。まあ集計は Power Pivot for Excelに任せたほうが良い部分もあるけど…。
上位互換というのはつまり、同じことをより低い学習コストで実現できるということだ。学習コストが低いということは業務共有化もしやすい。事務員がVBAをできなくともよい理由の一つは、事務員にはVBAは求められる知的レベルが高すぎるというものだったが最早Power Queryではそれは通用しない。クリックだけでも使うことができるので。
事務員と再学習
Power QueryとPower Pivot for Excelを弄っていて思ったことは、いまや事務員の仕事にまで「理系っぽい要素」が一部に入り込んできているのだ、ということだ。
ここでの「理系っぽい要素」とは計算式を書いて自分のやりたいことを実現するという営みだ。Power Queryなら Power Query M、Power Pivot for ExcelならDAXだ。従来のワークシート上だけで情報を扱おうというパラダイムのなかでは、いうなれば計算式は視覚的な要素があった。何を計算の対象とするのか、目で見て確認することができた。少なくともそうした使い方をすることがかなり多いのではないか、中小企業の事務員では。
それがPower Query M等では論理に基づいてデータを処理していくという側面が強くなる。Power Query Mに限れば、これは簡易データベース機能とのことなのでデータベースという直接に理系的な(情報技術的な)要素が登場する。これは情報処理の過程を目で見て把握できないという意味で、その抽象性が一段上がっている。これが理系っぽいというか、技術者っぽいということだ。
つまり事務員は頭を使わない仕事の筆頭かも知れないが、にもかかわらず頭を使わなければ(データ処理の理屈を追っていかなくては)作業の正しさを検証できないという要素が、事務員の作業領域にも忍び寄りつつある。
本当の技術者、理系の職種の人からすればこれは笑われてしまうだろう。私はそれをわかっている。そのような専門職の人からすれば上記したExcelの難しさなどたかが知れており、少し難しくなったからといって専門職で求められる知的水準には遥か及ばない。
要するに事務員といえども働きながら再学習し続けなくてはならない時代になってきているのではないか、と思ったわけよ。それが事務員たちの、働くことの誇りを守ってくれるというか。
どういうことか。VBAは事務員には難しいので勉強しません、というのはまあ一理ある。しかしPower QueryとPower Pivot for ExcelはVBAよりも遥かに簡単で、おまけに得られる便利さはVBA以上だと私は思っている。それらはワークシート関数の延長で(それらと同じ感覚で)学ぶことができる。まあ考え方を変えないと結構難しいけど。
だから事務員がPower Query等を学ばない「体のいい」理由はないのだ。私には、それらを学ばないことは仕事をしませんと開き直っているように思える。
これまでExcelを使った業務効率化はしたくとも難しすぎてできないという状態だった(VBA)。しかし今はより良い機能が追加されたからこれを使うことは当然の流れだ。
というのが私の感覚で、ここでそのより良い機能を使わないことを選択すると、これはもう「私は事務員だから一切新しいことをやるつもりはありません」と宣言するに等しい。これは仕事における進歩を自ら抛棄するという点で、労働の価値を毀損するものだ。
そしてまた事務員といえどもデータのクレンジング(整形)だとか、単純な集計だとか、データの並び替えだとか、そんな単純作業はやりたくないわけで、これらを新しいツールを使い自動化することは、やりたくない仕事、おまけに管理者から評価もされない仕事を低コストで終わらせられるようにするという点で、自身の仕事の価値を高める。つまらない仕事を自動化することは自分の尊厳を守ることだと私は思っている。ハームリダクションってやつ。
そういうわけで労働者として、つまり人生の少なくない時間を注ぐ領域における自身の誇りを守るべく、事務員にもそのキャリアにおいて当たり前のように再学習が必要になってきていると私は思う。
まあ~Excelを多少使えたところで管理者からの評価はそうそう上がらないと思うけどね。つまり別にPower Query等を使えても給料は上がらない。作業を自動化できるというのはワークシート関数の使い方が上手です、というのとはまた一段効率化のレベルが異なると思う。それでも、結局事務員って組織のなかで一番給料が低い人たちなので、その範疇(事務員というカテゴリ)に収まっている限り���給料は劇的には上がらないのだよな。
でもまあ仕事が楽になるんだからいいじゃん。おまけに大変つまらない事務員の仕事のなかに、いくばくかの知的満足をもたらす作業を加えられるなのだから、やっぱそれはいいこと。
管理者からすれば給料は大して変わらないのに仕事の効率はそこそこアップできる(とっても都合のよい)人材ということになるが、そういうことを考えると血圧が上がるのでやめよう。
さらにいうと、Power Query等をとりあえず使えるようになるための再学習など、世にいう「リスキリング」で求められる学習量からすれば、たぶんだけど、ごくささやかなものだと思う。そもそもそれらはExcelユーザが使いやすいように設計さrているので。私だってほとんどは業務時間内に試行錯誤して使い方を覚えた。VBAを業務で応用できるようにしたときは休日もコード書く練習をしていた。
つまり事務員といえども静的な職業観は捨てなくてはなりつつあるのではないか、と思った一年であったということ。あるいは事務員であっても静的な職業観を捨てることによって、作業上の苦しみを減らせる世の中になりつつある(種々の、素人でも作業の自動化を可能にするようなツール、アプリの普及によって)。
そう、だから、誰かのためではなく、自分が楽をするために事務員であっても変わり続けること(再学習)が必要だ。
つづく
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(2)
前回よりつづき
習慣(2)
『反応しない練習』
数年前に流行った『反応しない練習』(KADOKAWA)を読み、ここに書いてあることを一つの理想として実践しようと努力した一年だった。
これはタイトルからして、軽い内容の、出版されては忘れられていく流行本の一つのように、読者には感じられるかもしれない。実際そのような趣がないではない。
だが得るところも多かった。内容はブッダ(=原始仏教)の教義を大衆向けに解説したもので、著者の言によれば、ブッダのそもそもの教えと、現代日本で生きる我々が直感的に思う「仏教」は全然異なる代物であるとのことだ。ブッダの教えとは本来宗教的なものではなく人生をより良く生きるための指南であったという。
著者には申し訳ないが、著者の主張(記述)がブッダの教えを正しく解説していると全面的に受け入れることは私には出来ない。それは著者の言葉が信用できないという意味ではなく、私は仏教について何も知らないため著者の議論を検証できないからだ。
それにもかかわらず学びがあったというのは、その主張が正論であったからだ。この本で最も重要なメッセージは「自分の行為によって何らかの影響を及ぼすことができない事象については、アレコレ考えても全く無駄だからやめろ」というものだと私は思っている。これを著者は「ブッダのクールな姿勢」みたいに表現している。
そのように割り切って「無駄な思考」(これを仏教用語では妄想というそうだ)をやめるというのは、自分の経験を顧みると常軌を逸した考えに思える。というのは我々は常にそのような思考に振り回されていると、私は思っているからだ。もちろん私自身も。我々現代人は、いま、自分がある事柄について思考したとしても、その状況について何も影響を及ぼせない事柄について、アレコレ考え、感情を高ぶらせ疲弊している。
だから著者のいうブッダのクールな姿勢を、私はかっこいいと思った。余計なことに心を奪われず、いま自分ができることに思考を集中させるというのはとてもストイックだと私には感じられたからだ。
妄想との戦い
なぜその本の主張に学びを得たかといえば、それは私がまさに妄想に振り回されて生活をしているからだ。
私は(1)今の自分ではどうしようもない取越苦労や、(2)相手に対して実際には決して表明することのできない怒りやその表現としての攻撃的な言葉や、(3)ネットで見聞きするゴシップに触発されて「催す」、実際には存在するかどうかも分からない「愚かな行為や人」に対する嘲笑する気持ちや懲罰したいと思う感情といった妄想に、日々の多くの時間を使ってしまっている。(1)と(2)は仕事に関することがメインで、(3)は余暇の過ごし方の悪影響だな。
文章化するとなんと明白に愚かなのだろう!その本のなかで使われる「妄想」は仏教用語とのことだ。しかし有りもしない架空の現象に心奪われている様はまさに日常語の「妄想」にもぴたりと当てはまる。
私はこのような妄想に使う時間を短くしたいと思っている。理由はそのような妄想に振り回されるのは、時間そして認知資源の使い方からいって不経済であるからだ。さらに妄想に囚われているとき、私はすごく惨めである。その時点で私がどんな心痛を経験しようとも改善の見込みがない事象についてあれこれ悩むため、虚しさが強い(=自分の苦労によって状況が改善しないので惨めである)。そしてその悩みがほとんど「架空の悩み」といえるレベルで現実と接点を持たないこと、またその妄想をしたせいでオフの貴重な時間が失われたり質が低下するという点でも私は惨めを感じる。
妄想から脱するために、私は具体的には妄想をするたびに深呼吸やら脳内の独り言で「それは妄想だ」と明言することで、妄想から注意を逸らそうとしている。
しかし意識して妄想に囚われないようにしようという努力は日常化しつつあるのだが、今のところ、妄想を首尾よくかわせるようになったわけではない。むしろ従前どおり妄想に飲み込まれてしまうことも、かなりしばしばある。妄想への対応改善を図る前と比較すれば、幾分か私の「心の習慣」はマシになっているはずだ。けれどもまだ目を瞠るほどの成果はない。これもその本に書いてあったことだが「時の蓄積」が必要だ。前回の記事でも述べたように、ただ毎日妄想をかわし続けることを続ける必要がある。
私が強いストレスを感じたときよくやってしまうのが、スマホで長時間YouTubeを視る、だ。私にとってはストレスを回復する唯一の手段は、栄養のある食事を食べ、湯船に浸かり、早い時間に就寝かつ十分な時間だけ寝て翌朝早く起床すること、しかないと思っている。YouTube視聴は睡眠と競合するため、これはストレスをよくいなすためには良くない。今年はいま述べた自分にとって最適なストレス対処法の存在は理解できたものの、その対処法を実際にストレスに晒されたあと使えるようにするためにはどうしたらよいのか、といった課題には取り組めなかった。
正気で人生を送りたい
習慣について全般的には良い方向に向かっている。改善の速度が遅いのはいつものことなので、私にとっては騒ぐことではない。来年も黙々と良い習慣を実践し続ける必要がある。
良い習慣をテコとして私は正気に戻らなくてはならない。それが仕事についてのものであれ、ネット上のゴシップに関するものであれ、妄想に囚われているときの私は完全に狂気のなかにいる。
私は正気を取り戻し、自分の人生を楽しみたいのだ。世界中のどこにも存在しない架空のナニカではなく、実際に自分が影響を及ぼせることに私は注力したい。
つづく
0 notes
modeqs · 4 months
Text
2023年を振り返る(1)
習慣(1)
The Bullet Journal
昨年から引き続き習慣を軸とした生活の改善を試みた。良いなにかを習慣化する、などという言葉を例外なく胡散臭く感じていた私だったが、習慣の二文字が身近になった一年だった。
良い習慣を形成するための具体策としてバレットジャーナル(Bullet Journal)に一年間取り組んだ。恥ずかしながら私は計画を立てるのが苦手だ。仕事をカレンダー上に配置し、場合によっては時間の経過に伴ってその再配置をするのが苦手だ。BJによって特定の仕事をある一日に割当て、「とにかくやらなきゃいけないことがいっぱいある!!!」という業務量を過大に認識しパニック状態に陥らないようにできるのではないか、と考えた次第だ。
道は遠い。1月から最初の3ヶ月は「書きすぎ」というレベルだった。手書きで考えたことを記していくのが楽しく、時には睡眠時間を削ってまで日記を書いた(BJは「そこそこ日記も書くことができる手製のシステム手帳」みたいな感じだ)。しかし4月に入るとその熱意は破綻し、6月以降はそれより前の水準からいえばBJによる生活の管理は全く機能しなかった。
振り返れば、BJの運用について自分に課したルールが多すぎた。例えばダイヤモンド社から邦訳版が出ている公式解説本には、たしか、「一日のはじめに、その月の、昨日までのすべてのページに目を通して残っているタスクがないか確認する」という行動が解説されていた。最初の頃はこれをやっていた。これが月後半になるとそこそきつかった。たしか朝、15分くらい時間をとって振り返ろう的なことが解説されていたと思うのだが、その時間をとるのができなかったし、感情からいってひたすらその月の過去の予定を見返す作業が苦痛だった。
このような自分に課した、BJの運用ルールが守れなくなった結果、BJそのものの運用も抛棄したというわけだ。仕事が忙しくなってくると、朝晩それぞれのたった15分でも支出することができなかった。書く面倒くささが、自分の思考と作業を整理できるという利点を遥かに上回ってしまった。10月はじめくらいまではノートは買うがほぼ活用できていなかった。これでは駄目だと思い、10月、最後の四半期でもう少しマシな運用をしようと思って、ルールをかなり緩めてBJを使うようになった。
その結果、今年のはじめ、熱をもってBJを使っていた頃よりは業務の計画性というか、業務の進め方の整然さは低まった。だけれどもその間、なんとかBJによる仕事と私生活の構造化は実践することができた。
以上のようにBJを一年間試し、試行錯誤できたのは良かった。私は試行錯誤が苦手なので、とてもよい経験ができたと思う(試行錯誤が苦手というのは「己の行為の後にただちに良い結果が表れないと、その状況の不確定性に我慢ができず努力を抛棄してしまう」からだ)。
一方で、試行錯誤のサイクルはもっと早めることができた。私はもっと早期にBJの運用が破綻していると自覚し、BJの運用ルールを緩める代わりに(自分が求める「最高度にBJを活用する方法」を諦め)生活の構造化の試みが全面的に破綻することを回避する行動をとるべきであった。
数学の学習でもそうだが、私は自分が思考の袋小路に陥っていると自覚しそこから抜け出すためにそれまでとは全く異なったなにかをしなくてはいけない(=従前と同じことをしていては状況は論理的にいって何も変化しない)と考えることが苦手だ。このような俯瞰の視点を欠いてしまい、試行錯誤が非効率になったことは今後の課題だ。
蛇足である。朝の15分が忙しくてとれないというのは、今にしてみれば、それ自体が、時間の使い方・仕事の進め方が下手くそな証拠であると思う。つまり私はそんなに時間に追われるような業務は担当していないし、業務への没入が求められるような専門的あるいは知的な業務もやっていない。いま現在発生している業務と、各業務にかけられる残り時間とを正しく把握していないがゆえに、頭の中で思いつくすべての作業を最優先で終わらせなくてはならないと感じられ、そのために幻の焦燥感に襲われていたというのが実際だ。
習慣は長い道のりだ
BJや、また後述する「心の習慣」を形成しようと挑戦するなかで痛感したのは、良い習慣を身に着けるというのは、とても長期にわたる実践であるということだ。端的にいってそれは、短くとも数年はかかるし十年超かかることはごく当たり前のことのように思う。
そして今この記事を書きながら思ったことだが、そうして何らかの良い習慣を形成しようと何十年にもわたって取り組み続け、その道中に死ぬというのが人間のありようなのではないか。つまり希求してやまない良い習慣が、なにかのモノを手に取るようにして満足に身についた感じられることはない。常に己の実践のうちに理想からの距離が感じられ、その距離を埋めるべくしてまた行動する。これを繰り返すことでどんどんその人のある習慣は磨かれていく。だが本人の主観としては己の行動が理想そのものになることはなく、幸運にも老年まで生きられたとしてもそれは変わらない。我々にはこのような実践しか出来ないのではないのだろうか。この観点にたてば理想どおりに行動できない自分を責める必要はない。理想の「習慣像」に向かって行動し続ける限りはヨシ!とすべきだ。
話がそれた。まあそれてないけど。そういうわけで良い習慣を形成するためには、私のような凡愚にとっては(1)とにかく続ける、(2)頑迷に続けるのではなくやり方を変える柔軟さをもつことが重要であると感じた。
(1)について。上記した精神に基づき、そして私のような大人になって初めて「そういえば世に聞く『習慣』とやらは人生にとって有益なのではないか」と気がついたアホは、身につけたいと思った習慣は少なくとも(ごく当たり前のように)数年は意識して続けるべきだ。
これは私にとって異常な主張に聞こえる。というのは私はこれまでの人生で数年にわたる努力など考えたことがないし、まして試してみたこともないからだ。だがこの一年意識して習慣の形成にトライして思ったのは、良い習慣の形成にとって数週間や数ヶ月の努力は期間が短すぎるということだ。もちろんそのような努力は望ましいが、生活全体に大きな改善をもたらすには些細がすぎる。
中長期にわたって習慣形成のために同じ努力を続けるためには、とにかく慢心を避ける必要があると、私は思う。つまり良い習慣をモノにする自分の努力は軌道に乗りつつあるという気持ちを起こさないことが重要であると思う。なぜなら、私のような凡下の徒は、そのような認知をするとそれで満足してしまい、また「習慣形成の手綱」を緩めてしまうからだ。習慣形成の努力、あるいは実践をするときはいつでも、愚直にその習慣に関する基本をなぞり続ける必要があると、私は思っている。
以上の議論の帰結として、それまでの人生に欠けていた良い習慣を形成しようと思ったら(ア)短くとも数年にわたり、おそらく実際には十年超にもわたって、(イ)その習慣に関する基本を慢心することなく実践し続ける必要があるということになる。まるで修行僧のようだ。このように己を変えようと行動することは、まさしく一つの生き方にほかならない……と私は思うのだが、あなたはどう思うだろうか。
(2)について。(1)と反するようだが基本は大事にしつつ、具体的な行動の内容は適宜変更していくべきだ。そもそも継続が困難な内容であると習慣形成そのものが破綻してしまうし、それだと意味がない。逆に考えればある習慣の枠内であれば具体な方法はなんでもよいわけだ。なので当初思いついた行動そのものに頑固にこだわることはせず、ある行動を通じて獲得したい当初の理想像はなんであったか、そしてその理想像に近づくためにはどのような行動をとればよいか、さらにはその行動のうち無理なく持続できるものはなにか、といったことを考え(紙とペンや、あるいはスマホで箇条書きにしてみるなどして)別の手段を講じていくべきなのだろう。
つまり特定の抽象的な生き方の目標としての習慣と、それを身に着けるべく毎日実践する具体的な行動(場合によっては複数ある)という区別だ。この記事では両者を混同して「習慣」と記してしまっているけども。
我々の体調とかも含めて、我々を取り巻く環境は常に変わるのだから、そのような実践における柔軟さというのは、長い習慣形成の道のり(もしかしたら終わらない習慣形成の道のり)にとって必要不可欠なことなのかもしれない。
ちょっとおかしな生き方
さて、上記のように考えていくと、特定の目標のために日々努力を重ねていくというのは、ちょっとおかしな生き方のように感じる。少なくとも消費主義に脳を侵食された、ステロタイプとしての知能が低下した現代人のイメージからすれば、ずいぶんまともな市民のように感じられる。
そうではないか。現代はテクノロジーの光が未来を照らすと共に、大衆はスマホによって脳や思考をドロドロに溶かし、本来有効活用できるはずの能力を低めてしまっている。文明は大きく前進している一方で、人々の世界観は戯画化し、本来自分にとっては架空であるはずの存在に対し感情を先鋭化させている。これが私の現代社会観だ。
これを前提にすると、自分の人生を変えるために中長期にわたって習慣形成の努力をし、場合によっては意識して思考するというのはとてもストイックに思えませんか。私には、現代社会においてそれは、すごくまとも、「正気の沙汰」に思える。
こう書いたからといって私は習慣形成の努力にある種のエリート主義を感じているわけではない。
ただ、ひたすら親指を上下させて自分の注意(時間)を浪費し続けるよりかは、そのような習慣形成の試みは、あるいは惨めな自分の生活を改善するキッカケを与えてくれるのではないかと思うわけですよ。そのキッカケとは、手に入れようと自分で努力しなければ生涯得られなかったかもしれないナニカであることに注意してほしい。
つづく
0 notes
modeqs · 7 months
Text
【Excel DAX】メジャーの中で数値のグルーピングを行う
Power PivotとPower Queryは使えるがDAXクエリは使えない(記事投稿時点で、空の、あるいはダミーのテーブルを使用してDAXクエリを記述しようとするとバグでエラーになる)環境であると仮定する。
このとき、元データのある列の値をExcel DAXのメジャーのなかでグルーピング(カテゴリー化)することを考えよう。
重要なのはまずピボットテーブル上の行ごとに一意な値(集計値)を計算しておき、それを使ってグルーピングするという点だ。なぜならDAXのメジャーではピボットテーブル上のセルごとに、元データの列に基づいて、必ず一つの値が計算されるように計算式を書いてある必要があるからだ。
さて、このグルーピングはピボットテーブル上の、行ごとに、一つのメジャーで異なる計算を実行したいときに便利だ。 例えばある行(変数X)が1,2,3,4と分類されていて、A,B,Cをそれぞれある計算と仮定して、(1,A),(2,C),(3,B),(4,A)などと計算を割り当てたいとしよう。
まずある行に対し「結果として変数Xの各値それ自体が返される」ような計算をする。ピボットテーブル上の集計値を層化する変数がXだけならmax()とかmin()だけでいい。変数が2個以上になったらcalculate(max(変数X), all(層化している全ての変数))みたいにフィルター解除して計算する必要がある。またsum()を使ってもよいし、必要な状況が思いつけないが、もっと複雑な計算にしてもよい。要するに変数Xに対しその操作が恒等関数になっていればいい。
そしてその結果に基づき、switch()でグループ(カテゴリ)を割り当てる。このグループに基づき個別に計算を割り当てるのだ。
DAX式は以下のようになる。
VAR 一意な値 = max(変数X) VAR グループ = switch(                         一意な値,                         1, ア,                         2, ウ,                         3, イ,                         ア                         ) VAR 計算A = (計算Aの定義) VAR 計算B = (計算Bの定義) VAR 計算C = (計算Cの定義)
RETURN switch(       グループ,       ア, A,       イ, B,       ウ, C       )
※なおswicth()の計算方法には2パターンあることに注意しよう。詳しくはレファレンスをみてほしい。
「DAXのメジャーではピボットテーブル上のセルごとにただ一つの値が定まる計算のみを許容する」というルールがなかなか理解できず、ずいぶん時間を使ってしまった。データベースの操作(想定している環境では普通のDAXクエリを使えないため、PowerQueryがそれを担う)とそれに基づいた計算(DAXメジャー)とを混同してしまっていた、あるいは区別がつけられていなかった。Excelのワークシート上では両者の操作全てをワークシート関数一つの枠組みで行うため、それに慣れきっていたのだな。
1 note · View note
modeqs · 7 months
Text
Tumblr media
Tumblrを始めてから7周年を迎えました 🥳
上の一文はTumblrのシステムによって自動入力されたものだ。
このブログを始めてから7年経って、投稿頻度は学生の頃よりも非常に低くなっている。これは忙しいからではなく、ブログに書くべきことがなくなったからだ。どういうことか。
学生の頃は抱えている人生の問題について、多くの場合、私は対処する術を知らなかった。私にとってストレスへの唯一の対処法が「そのストレッサーが人生から去るのを待つ」であったのだ。
だが実際にストレッサーが居なくなってくれるまでの間はストレスが溜まり続けるわけで、その不如意が、私がブログを書く原動力だった。この傾向は社会人になってからも暫くは続いた。
いまも、これを読んでくれているあなた同様に、私は数々のストレスにさらされている。だが昔と違うのは、私はその一部には積極的な対処ができるようになった点だ。だからその意味で私は昔よりはストレスへの対応能力が上がった。これにより日常的に、文章にしないと気持ちを鎮められないくらい怒りに駆られることがなくなり、ブログを書かなくなった結果、強い感情を引き起こされてブログを書くという手段に頼ることが少なくなった。
また上記によりブログを書かなくなったというのは、人生への不満から湧き上がってくる情動の迸り(ほとばしり)以外に私にはブログに書くべき事柄が無い(無かった)ことを意味する。
というのは、加齢による心の成熟と共により強く意識していたのは、このブログにはなにか読者にとって有益なことを書こうというものだ。読者が、ほかでもないこのブログを読んだことにより得られる何らかの価値がある記事を書こうと、ここ数年、意識していた。
だが、地方の中小企業で働く事務員にそんな独自性のある記事は、そう多くは書けるはずもなかった。だから「有益基準」に己の書き得る記事を照らせば、冷静に考えて、私が書くべき、書ける記事はあまりないのだった。
これに関連し、お頭が成熟し安易な記事を書くことにブレーキがかけられるようになった。たしか昨年あたり依存症と習慣についての記事を書いた気がする。なにか本を読んだり新しい試みを始めたらなにか記事を書きたくなるわけだが、そうした事柄は改善に時間を要する。従って自身の実体験に基づいて頻繁に書かれた、そうした話題を扱った記事は価値が低い。これを理解し、回避できるようになった。なお依存症と良い習慣をめぐる私の個人的な企てはいまも続いている。
結論を後ろに書く格好になってしまった。要するに私は私の基準に照らし、他人に共有すべきアイデアの少ない人間になったということだ。だからアイデアを共有する具体的な手段たる記事の投稿頻度も少なくなったのだった。
これは卑下ではなく事実の率直な記述だ。私はいま、中身のある人間になるべく努力している。だから将来的には他人に共有すべく価値ある何かが私の中に醸成されるかも知れない。そのときは記事を書くだろう。その努力は世間一般の通年からすれば「あまりにも遅い」(もっと早く挑戦すべきだった)ものかも知れない。だがそうしたことを理解しつつも、なお足掻こうとする点がすでに努力していると言える。またそれ故に、未来ではそこに何かが生じると期待することは根拠の無いことではない。無能なまま学生時代を終えた、大人になった人間がどう能力開発できるのか(し続けられるのか)というのは、私自身が能力を高めることで挑戦しているテーマだ。
ともあれ、このブログは今後も低頻度で更新される。このブログを始めた頃から随分遠いところにきたものだが、このブログのデザイン(Tumblrのシステムの関係でもはや私自身あまり目にしないが)やブログタイトルは当時の気持ちを象徴的に表している。インターネットで情報発信するというアクションに誇大妄想気味の気負いを感じ、当時購読していたブログから借用したのだった。またModeQSのQSは当時専攻していた(というとなんと立派に聞こえるのだろう!)分野から拝借した。その分野に思い入れがある(あった)わけではなく、いちおうある程度の情熱をもって研究の真似事をしていたという人生の記録としてブログタイトルに冠したのだ。
遅くなってしまった。早く寝なくてはならないのでここらへんでやめよう。睡眠の重視は学生時代から大きく変わった点の一つだ。生産的であるためには心と体の両方を、よく調整してやらねばな。
0 notes
modeqs · 11 months
Text
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」
遅ればせながら視聴した。まさしく21世紀のエヴァンゲリオンって感じだったな。旧劇場版を「本歌取り」しつつも、単なるリメイクではなくエヴァの世界観を補完し拡げるものだった。
視聴しながら思い続けずにはいられなかったのは、これはTV版からずっとついてきたオッサン連中への鎮魂歌であるのだ、ということだ。WikipediaによればTV版は1995年放送だと。本作の公開が2021年だから、TV版当時に20歳だった人はこの完結編公開時には46歳ということになる。
私は「エヴァ世代」からは1、2世代あとの世代なので、今のオッサン当時のファンがどの程度この作品に狂っていた(クレイジーだった)か実感はない。ただ「伝説」(私が書籍やネットの出所不明情報より伝聞したところ)によれば、みんな「けっこう拗らせていた」らしい。
(蛇足。「伝説」」によれば当時、エヴァに狂っていたのは中高生がメインではなく[中高生でそうした人もいただろうけど]大学生や大人だったらしい)
美しいことだ。人生のエネルギーをフィクションに拗らせることは、まさに少年のような純粋さであり、それは作品を心から楽しめばこそだ。人生にそうした時間があった、瞬間があったというのはとても美しいことだ。オッサン、あんたらは輝いていたんだよ。そして四半世紀後にこの作品を映画館で視聴していたあんたらもまた輝いていた。
同時に「元凶」である庵野秀明にも(視聴しながら)思いを馳せずにはいられなかった。「マジでやりたい放題だな~」と。
従って「エヴァリアルタイム世代」ではなく「エヴァって作品は昔はなんか凄かったらしい」と伝聞して育った世代の私にとって、この作品は、「私のなかの『新世紀エヴァンゲリオン』」を終幕するものであると同時に、それと並行して、「『エヴァリアルタイム世代』が感じているであろうノスタルジー、人生でそう何度も味わうことができない『時の蓄積』がある故の最大級のカタルシス」を想像し、「オッサンたち、エヴァという作品が庵野のやりたい放題の結果ではあるけどともかくも終わって良かったね」とオッサン達への共感を呼び起こすものであった。作品を通じて見知らぬ(私はエヴァリアルタイム世代のオッサンと実際の交際があるわけではなかったので)オッサンたちの人生を勝手に想像し私は心がぽかぽかした。見知らぬオッサンの人生を勝手に想像して心がぽかぽかする作品というのもそうは無いと思われるゆえ、この感動もまた新世紀エヴァンゲリオンという作品でなくては得ることができなかったであろう。
いろいろ書きたいことはあるが、結局それは作品内のある描写が良かったと蛇足を連ねることになるだけだろうし、そうした情動のほとばしりは、上記したようなオッサンたちがとっくに書きまくっているであろう。だから私がこれよりさらに書いて意味のあることはないのだ。
ありがとう、新世紀エヴァンゲリオン! ありがとう、庵野秀明! 私はエヴァリアルタイム世代ではなかったが、本シリーズは私の青春の大切な思い出の一幕となってくれた。 本当にありがとう!
1 note · View note
modeqs · 11 months
Text
内向的な人物ほど意識して他人との関わりを持とう
長野県で市民2名が刺殺、警察官2名が射殺される事件があった。この記事の投稿時点で事件発生から日が浅いため、事件の動機として確かなことは殆ど報道されていない。しかし第一報によれば襲撃者が被害者市民2名に名誉を傷つけられたとする妄想に基づく犯行とのことだ。Wikipediaで殺人事件について読み漁ると、この手の、全くの被害妄想に基づく悲しい事件が日本社会で(も)時折ある(あった)ことがわかる。
そこで一つの結論は内向的な人物ほど意識して他人との関わりを持とうというものだ。大多数の日本人にとってそれは賃労働を意味するだろうが、ブルジョアで働かなくてよいという特別な人は地域への奉仕��動であったり地域行政の監視といったジャーナリズム風味の活動でもよいだろう。とにかく他人とコミュニケーションして自分の考え、妄想を修正する機会を日常的に持とう、というのが私の提案だ。
これは「そうすれば人生を豊かに生きられるよ」という「積極的な提案」ではない。現状の生活がどうあれ、(1)自分は将来にわたって生存することを望み、(2)それぞれの境遇のなかで尊厳ある、普通の(decent な)社会的な暮らしをしたいと欲するならば、それは最低限のアクションだ。つまり交通事故に直面したら救急・消防と警察に連絡する、風邪をひいたら市販薬を飲むか医者に行くといったような、異常事態に際してのまず採るべき応急の対処なのだ。
(以上の主張は内向的な人物が一定期間超にわたり他人と当たり前にコミュニケートする状態から切り離されている状況自体が、異常で修正されるべきであると仮定している)
というのは私の実体験、そして上記したような悲しい事件を鑑みるに、内向的な人物が他人から隔絶されてしまうと、どんどん妄想を深めていってしまうように、私は思っているからだ。だから逆説的だがそうした人物ほど意識的に他人との交際を保ち、妄想の連鎖に歯止めをかける必要がある。
他人は少なくとも2つの点で妄想を修正してくれる。
第1に他人は自分とは異なる視点で意見してくれるので、自分の意見と比較することで自分の意見の「相対的な何か」(正しさであったり、あるいは感情的な激しさだったり、または表現の極端さであったり…)を認識できる。認識できればその相対的な何かを修正し得る。
第2に、これは取り分け賃労働においてそうだと思うのだが、日々他人とコミュニケートするのに忙しいと、「名前も知らない赤の他人から何らかの手段で攻撃されている」といったような、陰謀論めいた荒唐無稽な妄想に認知資源を割く余裕がなくなる。結果として異常な妄想をしにくくなる。これは他人が妄想を修正してくれるというよりは社会生活の副産物だが。ありがたい話だ。
私達は他人と関わることで正気でいられる。世の中の大多数を構成する常識人には社会的孤立、それも引きこもりのような極端な孤立は到底神経が耐えられるものではない。だからそうした状態が続くと狂ってしまい、なかには悲惨な殺人事件を起こす人も出てくるのだと私は思っている。
私もかつては他人はみな敵だと思っていた。だが他人がいることで正気を保っていられるという観点に立てば、他人は感謝すべき存在だ。なぜなら気が狂うと娯楽や食事を楽しむことも出来なくなるだろうからだ。正気でいられればこそ人生に楽しみがある。そう考えれば正気でいることの対価として日々労働することも悪い話ではない。
(他人と関わりを断ち妄想を専らにしたことがない人がこうした文章を読んでも冗談のように思えるだろう。だが、実際そうなのだ。私などは元来被害妄想の傾向が強く、他人との交際を断てば容易に妄想の世界の住人となることが予想できるし、学生時代、実際にその狂気の片鱗を覗いたこともある。我ながら振り返ってみると恐ろしいことだ)
私達の認知、考え、心に長さや重さのような絶対の尺度はない。どれだけ考えが偏っているかを定規をあてるようにして測ることはできない。だから他人が必要だ。私達は互いにメジャーなのだ。
もちろん他人とコミュニケートしていると、それはそれでストレスが溜まるし妄想もしてしまう。だがそれはまた別問題だ。他人との交際を全般的に絶ち妄想を募らせる方が、多くの状況において、ずっと問題は悪質であると私は思う。
しかし、まさか私が他人の存在一般を肯定できる日がくるとはな。「他人を関わること」なんて「必要悪」だと思っていたよ、私はずっと。それを積極的に肯定することなど絶対にできないと思っていた。
2 notes · View notes
modeqs · 1 year
Text
愛あらば自制すべし
最近、ある漫画とそれを原作としたアニメにはまった。このはまり具合は数年来のヒットであり、フィクションの世界についていろいろ空想を重ねてしまう作品に今なお出会えていることに感謝である。
明日(この記事が投稿されている時点では今日)、このアニメ作品の大規模イベントがある。あんまりこのようには思いたくないのだが、この作品にとっては最初で最後の「大規模フェス」ではないかと悲観している。
とても参加したい。私はその作品に出会ってまだ数ヶ月しない新参者だが作品を通じた熱狂に加わりたい。前述の予想があるため、なお一層この機会に参加せねばならないという思いが募っている。
だが参加できないのだ。簿記試験のためのクダラヌ勉強をせねばならないからだ。今年のゴールデンウィークはそのお勉強に捧げようと決めたのだ。
私はかなり悲しい。(本当に楽しげなイベントであるようなのだ)しかしこれもよい習慣形成のためのいち機会と思っている。つまり、
娯楽も「鑑賞する」という水準で味わうことができれば、刹那的な消費よりも格段に深い満足を得られるだろう
また時間のない大人にとっては、いろいろな作品あるいはコンテンツを湯水のように、かつ皮相に消費するよりは、その方が望ましいと私は思う
私はまさに漫画家、アニメーターの素晴らしい仕事を瞬間的な楽しみのために大量に消費してきたクチであった
そのため、たとえある作品(XX universe、というイメージ)に関連したコンテンツであったとしても、それが公表されたからという一事をもって飛びついてはならず、またそのための訓練が必要である
それゆえ今回のイベントの我慢は、娯楽について自制するための練習の機会といえるのだ。
今回のイベントはその作品にとって、とても特別なようだ。これは原作者には大変失礼なことだが、漫画の初期を読み返すと(作者コメントも含めて)原作者もここまでコンテンツが成長することは予期も期待もしていなかったのではないかと思う。アニメ化自体がきっと「出世」の一つであったろうが、今回のイベントは作品が成功していることを祝うお祭りのような感じなのではないかと新参者ながら想像している。
だからファンとしてはその特別なお祭りに参加することは自分で設けた制限の埒外だと思いたくなるわけだが、それではだめなのだ。これはある習慣の例外だ、と思いたくなるようなことはありふれている。虫のようにただ刺激に反応するという次元から脱するためには、ここで他人に向ける目を自分に向けなくてはならない。
自分を落ち着かせるための理論は以上である。どうか物販の少なくとも一部は後日、再販なりKindle本化してほしいものだ。
4 notes · View notes
modeqs · 1 year
Text
「習慣ってなんだか嘘くせーな」
ここのところ習慣について本を読んだり聴いたりして、理解を深めたり行動変容を試みたりしている。ここまで習慣についてしっかり考えたことは、私はこれまでの人生で一度もなかった。
偶然、ジェームズ・クリアーの "Atomic Habits"の邦訳版を読むまでは私にとって習慣とは「実利のない道徳律」の一種のようなものだった。お年寄りには優しくしよう、みたいな(いや優しくすべきだが)。実際にそのとおり行動出来れば素晴らしいが、普通の人ならまず絶対にできないこと、それが私にとっての「習慣」の認識だった。
だから、特に学生時代(というか小中高生の頃…って期間として長すぎだろまじで)に勉強習慣についての話題を耳にするたびに、私は強いアレルギー反応を示していたように思う。当時は言語化できなかったが私はきっとイライラしながら「習慣的に勉強するなんて、そんな不可能ごとが出来れば苦労しない」と言いたかったのだろう。
学校の教師は、きっと、生徒であった私にも良い習慣形成についてのメッセージを発信してくれたはずである。明確に覚えているのは小2だかのときに教師から配布されたプリントで、それは「宿題をするときのルール」みたいな文書だった。そこには宿題をするときにはおやつを食べないとかお喋りしないみたいなことが書いてあったように思う。いま思い出せば、これは明らかに児童らの生活の一部に、集中して勉強する時間を設ける習慣の形成を意図した指導であった。あとは中学のときの担任教師はクラス全体に「習慣は第二の天性」という言葉を、英語の表現と共に教えてくれ、しかもその文句を印刷して黒板横に掲示してくれていた。
(しかしそうしたありがたい教師の訓戒も全て聞いた側から忘却していったというのがこのエピソードのオチである)
そうそう、こう書けば伝わるか。私にとって習慣とは人類にとっての「恒久平和」であったのだ。公に議論すること自体が意味をなさないといったところだ。比較的最近までの私にとって、少なくとも言語化して私が意識できる範疇では、習慣という語が日本語として存在することは知っていても、それは実在はしない架空の何かを指す言葉であったのだった。
さて、そういうわけで、ある意味惰性で生きてきた私にとって、習慣の視点から自身の生活を捉え直し、あるいはその変化を試みるのが、(1)新鮮で、(2)試行錯誤の効果を即座に実感できないという意味で苦しいものであるのは、当然のことであった。初めてのことがうまくできないのは当たり前のことだ。
1 note · View note
modeqs · 1 year
Text
忘却は救済である
多くの人がそうであろうように、私も過去の記憶に散々苦しめられてきた。それは被害の場合もあるし、被害妄想の場合もあるし、また加害の場合もある。これから楽になれたらと思っていたのだが、最近よいアイデアを得た。
それは、私が過去に関わってきた人間は、生涯私のことを思い出すことは無いだろうというアイデアである。私は非社交的であって、旧友その他の、過去において時間と空間を共有していた人々と連絡先を一切交換していない。彼らにとっては私は音信不通状態だ。そして何より、私は過去において属していた如何なる集団・組織でも一切目立つことがない存在、「モブ」であった。たしかに私は世界観をこじらせており、ほかでもない私にとっては私が彼らに与えた加害、彼らから私が受けたと思っている被害は重大事として私の生活史に記憶されている。だが、まともに、それぞれに年齢に相応な友人関係、部活、異性関係、勉学に取り組んでいた人々にとっては(「加害」と書いておいて開き直るようだが)私の存在、やったことなど、実に些細なものであったろう、と思うようになったのだ。私にとっては、私を苦しめる記憶に登場する人々は「私の記憶を構成しているという意味で大切な存在」だが、その逆は全く、絶対に成り立たない。
彼らが私のことを生涯思い出さないのだから、過去における私の加害・被害の記憶はもはや私しか有していない。それらのエピソードを記憶し、理解している人間は私ただ一人である。どう表現すればいいか分からないため変な書き方になってしまうが、私はこのアイデアによって過去の鉄鎖から解放されたと思った。私を苦しめる記憶を、私しか記憶していないのであれば、それは言い換えれば、その記憶について拘泥してい���人間がこの社会で私ただ一人だということだ。そうであれば、その記憶についてこだわるのはナンセンスだと見做せると思った。それはなぜだろうか……発展性がないからか。私しか理解していないトラウマについて何度フラッシュバックして、どれだけ妄想を重ねたとしても、その議論について他人と共有することはほとんど望めず、従ってそこから何かの知見が得られる可能性もほぼゼロだろう。だったら、そんな話題、対象には時間を割かなくてもよいだろう。
また私を思い出す人間が一人もいないということは、私はある意味で、いま社会に生まれ落ちたといえる。私は過去に交際があった人々のネットワークから完全に独立して(そのネットワークの影響の外で)社会生活を営んでいるからだ。つまり私はこれから出会う人々といちいち全くのゼロから関係を構築していく(していかねばならない)のだから、これから私が関わっていく社会(の成員たる人々)にとって私は何ら前情報のない履歴が空白の存在ということだ。
ネットワーク論の啓蒙書に私達は仕事も性のパートナーもネットワーク上から得るのだと書いてあった。そうであればネットワークから孤立しているという事態は人生にとってそこそこ大きな影響があるはずだ。だけどそれも過去から自由になれるという利益があれば、それだけのデメリットを支払う価値はあるかもしれない。別に新たなネットワークを築いてはならないというわけではないのだし。「あるかもしれない」と書いたが、実際、私にとってはそれだけの価値があるのだ。過去の加害・被害から私は一切自由だとの考えは私をとても安からしめた。
0 notes
modeqs · 1 year
Text
長文を書こう、論述しよう
「ファスト教養」の語を提唱した新書の著者がネット記事で「ツイッターってのは限られた字数でどれだけ耳目を引く表現をできるかのゲームだ」といっていて、私の思っていたことはこれだと膝を打った。バキューン!ググっても検索上位にヒットしなかったのでその記事は読者が探してください。
私はツイッターも投稿しないし(イラストの閲覧専用)各種サービスのコメント欄も書き込まないが、時折そのテキスト投稿は閲覧することがある。そのたびに煙を吸い込んでしまったような嫌な気分になっていたのだが、その原因は知見も深みもない表現だけが皮相に先鋭化したコメント(短文)にあったのだな。
インタフェースは人間の思考の深さに制約するというのが私の持論だ。といってもごく常識的な主張だが…。つまり手書きとキーボードによる入力とでは、十分に習熟した場合、明らかに後者の方が知的に高度な文章が書けるだろう。短文による表現 vs 長文による表現でも同じことがいえると思う。すなわちツイッターやYouTubeのコメント欄でよく受け容れられている長さの文章(短文)によって自己の思考を表現することに慣れてしまうと、思考の深みがその文字数や文化によって表現され得る範疇に限定されてしまうだろう、といのが私の主張だ。
思考の深みとは何も高尚なことをシンキングしようということではなく、その人が思考したい各領域におけるという意味だ。効率のよい家事の遂行方法でもよいし、好きな漫画についてのファンタジックな妄想でもよい。
またアテンションエコノミーに完全に毒されている世の大部分の人にとって、「コメントする=思考するとは、短い言葉でもって他人の注意を引く表現をすることだ」と意識的にしろ無意識的にしろなってしまうくらいなら、いっそ一切そうした短文を投稿しない、読まないとした方がかえって知的営為としては害がないのではないかと思う。
よって長文を書く、自身の考えや主張について論述しようというのが、この記事で私が共有したいアイデアである。楽しかったことをダラダラと文章にしよう。結果として空疎な内容になったとしても、日常の考えをできるだけ言語化しよう。もちろんより深い思考をしたいところだが、それには長文が書けることが(長文によって自己の思考を明晰に述べられることが)前提条件だと私は思っている。よってまずはまとまった分量の文章を書けることが目標だ。
長文とはどれくらいの分量を指すのか。ツイッターの140字より多く、日常における「思考の文章による表現」たる「業務メール」をひとまずの基準とし「業務メールで突然送られてきたらぎょっとするような長さの文面」を目標にするのはいかがか。この記事の上記までの分量を業務メールで頻繁に送りつけたり送りつけられたりすることは、一般事務職のワタシにはあまりないので、これは私にとっては長文である。
長文を書くことは、人によってはなんだか大仰で気恥ずかしく感じるかも知れない。それは直に慣れるからだいじょうぶ。
0 notes
modeqs · 1 year
Text
信じがたいポジティブな傾向
最近、つまらない仕事の勉強がとてもうまくいっている。なにがうまくいっているかというと、勉強するというルーチンを維持できている。現在の資格の勉強をはじめてから恐らく(数ヶ月の「放置期」を幾度か挟み)1年6ヶ月ほどは経過しているはずだ。最初期の「新しいことを学習している興奮」によるごく短い「ブースト期」を除けば、現在が最も勉強に真面目に取り組めている。
素晴らしいの一語に尽きる。私にこんなことが可能だとは思っていなかった。私がかつて有していた世界観では、私はひとたびある勉強に飽きてしまったらそこから状況を立て直すことはできないと思っていた。それが世界の理だと思っていたのだ。
しかし私はいま、その仕事に着手し、少なくとも6週間にわたって休日に一定量の勉強を集中して行えている。この週末などは、当該の詰まらない勉強については、この1年内の勉強量の自己記録を更新できたはずだ。
私はここ数ヶ月で、信じがたいポジティブな傾向が己の生活に生じていると認めざるを得ない。ネットの利用を制限し、「新しいエンタメ的あるいは知的な刺激がほしい」という己の際限ない「刺激を求める欲求」を工夫によりコントロールし、ポルノグラフィの収集を抑制し、上記の勉強を生活のルーチンに組み込みつつある。工夫の副産物として読書を一日ほんの少しでもやるようになった。
「勉強を継続できている」といっても、休日であっても朝から晩までずっと机に向かっているわけではない。むしろある程度学校教育で成功していた人にとっては「え、その程度?!」と思われてしまうような時間しか、実際のところ私は勉強していないのだと思う。
だが、かつての私はそれすらもできなかった。1日にたった10分すらも勉強できずに自己嫌悪に陥ったことが何度あったかしれない。
さらにいうとネットの利用規制やポルノグラフィの収集抑制も、日々なんとかしなければならないと思い、工夫をしてみる一方で、心の奥底では絶対にできないと思っていた。ネットに触れるようになってから長らく(本当に長らく)それらは完全に生活の一部であったからだ。
そう、こう書けばよかったのだな。私はいま自分の生活をコントロールできていると日々感じている。工夫がうまくいかないことも、もちろん多々ある。しかし私はその失敗に対し本質主義的批判(「私は昔からこうだった」「これだから私はだめなんだ」等々)を己に加えるのではなく、今回の失敗の原因はなにか?次になにができるか?試せることはほかに何があるか?などと、次のアクションに繋がる建設的な思考を「することもある」ように「なりつつある」。
正直に申し上げれば、もっと若い頃にこのような……「常識」を身に着けられなかったこと、このような積極的な世界観を身に着けられなかったことを悔やむ気持ちが無いとはいえない。人によっては恐るべきことだが小学校低学年にしてすでにこれは身に着けているのだろう。
だが、それにもまして今の私にあるのは生活に対する気力の充実と前途に対する「強く悲観的ではないという意味での緩やかな楽観さ」である。このような気持ちになる日々が訪れたことに、感謝しなくてはならない。わたくしが、こんな前向きな気持をもって日々を過ごせているという事実は、「私は無能力で、しかも『可能性がある時間』たる学生時代も終えてしまったから、残された死ぬまでの日々は無為な『死んでないだけの時間』にすぎない」といった人生や日々の生活に対する私のかつての見方が誤っていたことを示す証拠だ。
この人生の「種火」を大切に育てなくてはな。
0 notes