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stoopid-o · 1 month ago
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ベニテスとイラク現代史
この投稿は、2025年6月8日にTwitterで話したスペースの原稿です。元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。
2025/6/27 ファイサル一世の名前と出身部分を訂正しました。
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前回スペースをしてから随分時間がかかってしまいましたが、今回はイラクについて喋ります。前回同様、私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。
 人物名は敬称略で呼び、またアラビア語の冠詞の変化について理解できていないため、人名の冠詞は省略します。人物や地名の発音をうまくできないことがあります、ごめんなさい。
 まずはイスラームの基礎知識を整理しましょう。紀元六一〇年、ムハンマドの前に天使ジブリールが現れ、アッラーの啓示を受けアラビア半島のメッカでイスラーム教を始めます。
 宗派は細かく見ていくといくつもありますが、ここでは二大派閥スンナとシーアをざっくりと説明します。ムスリム人口の約八割以上がスンナとされています。スンナとは「慣行」に由来する言葉であり、三代目カリフ、カリフとはムスリム共同体の支配者、そして預言者ムハンマドの後継者のことです、が暗殺され、四代目のカリフの預言者ムハンマドのいとこアリーと、ウマイヤ家のムアーウィヤの間に対立が発生します。
 預言者ムハンマドの血縁関係にあるアリーとその子孫のみが後継者とするのがシーア、ムアーウィヤのカリフ就任を支持した人々がスンナとなっていきます。
 ちなみに、シーアはシーア・アリーの略であり、意味は「アリーの党派」。なので、シーア「派」では派が被っています。ただ、伝わりやすさを優先してシーア派と言うのも可能でしょう。今回のスペースでは極力シーアで統一します。
 イラクにはナジャフとカルバラーというシーアの聖地があり、一八世紀半ばからシーア人口が増え、現在は人口の約六割がシーアです。もちろん前述したように、ムスリムの約八割がスンナなので、周辺の状況は隣のイランやアゼルバイジャン、バーレーンを除くとシーアが多数派である国はありません。
 ムスリム人口の次に現在のイラクの基礎情報について。イラクは多数の民族や宗派が集まっているため、国の分断を招かないよう政府による公式の民族別人口統計はありません。ただ、CIAなどによるデータからおおよそを把握することができます。
 世界銀行の二〇二三年のデータではイラク共和国の人口はおよそ四五五〇万人。民族比はCIAの一九八七年と古いデータですがアラブ民族が約八割、クルド民族が約一割。その他にトルコマン語を話すトルコマン民族。イラク北部にカルデア教徒やシリア正教徒などのキリスト教諸民族が居住しています。オスマン帝国で行われた虐殺から逃れてきたアルメニア人、同じく弾圧を逃れてきたアッシリア人な様々な民族がイラクには存在します。
 イラク地域の歴史は膨大すぎるため、イギリスの委任統治時代からの話を始めます。一九二四年にイギリスがオスマン帝国支配下にあった湾岸都市のバスラ、中央部のバグダード、北部のモースルの三州を占領下に置きました。ただこの三州は共通の国という意識がなく、イギリスによって強制的に「イラク」としてまとめられてしまいます。一九二〇年の四月にイギリスの委任統治が始まりますが、反英デモから大規模な武装反乱、暴動が各地で起きていました。
 この反乱の鎮圧には多くの戦費がかかり、イギリスは早々にアラブ人ムスリムをトップに据えた独立政府の樹立を目指します。イギリスに協調的なハーシム家のファイサル王子が一九二一年八月にイラク王国初代君主に即位します。この即位はイギリスの要請に応じたものですが、ファイサル政権ではイギリスの委任統治に反対し、イラクの独立を求めます。
 イギリス本国ではイラクからの撤退を視野に入れていました。占領により蜂起は絶えず、鎮圧のために多くのイギリス人兵士が死亡していました。こうして、一九三二年にイラクは独立を迎えます。しかし、当時のイラク王国はイギリスという後ろ盾なしに国を成り立たせることは難しい状況でした。
 イギリスの影響下にあったイラク王国の終わりは一九五八年七月一四日、王国軍部隊がバグダードでクーデタを起こし滅亡します。クーデタを扇動したカーシム准将により、イラク共和国の樹立を宣言されます。
 このクーデタの立役者はアブドゥルカリーム・カーシムと共に、アブドゥッサラーム・アーリフという将校がいました。アーリフはエジプトのナセル大統領に心酔しており、アラブナショナリズム運動のナセル主義に懐疑的なカーシムによって政権から追放されます。権力をひとりで握ったカーシムは単独支配体制を築きます。
 追放されたアーリフ側についていたのが、この後政権を掌握するバアス党でした。
 バアス党の根幹であるバアス主義は、二〇世紀前半にシリアで生まれたアラブナショナリズムに通じる思想です。バアスとはアラビア語で「復活」「復興」を意味し、イギリスやフランスによる委任統治を拒否し、アラブ世界の統一を目標としていました。
 アラブ世界の統一を目標とするため、バアス党は各地に支部を設立していき、一九五二年にイラク支部が始まります。
 一九六三年にアーリフとバアス党は政権を奪います。しかし、恐怖政治を敷き、シリアのバアス党本部が介入するなどの混乱のため、今度はアーリフがバアス党を追放します。ちなみに、私はベニテスの生誕年をこの一九六三年にしています。
 追い出されたバアス党は一九六八年、アフマド・ハサン・バクルを中心にクーデタを起こし政権を握ります。バアス党はクーデタ後、軍への依存を減らすために党内厳粛を行いました。その担い手が当時三〇代の若きサッダーム・フセインです。フセインはバクルの親戚であり、着実にバアス党での地位をあげていきました。一九七九年にバクル大統領を辞任させて、大統領に就任、フセイン政権を始めます。
 ちょうどその頃、隣国イランでは、シーアのルーホッラー・ホメイニーを中心にイラン革命が起きていました。イラン革命は親欧米路線であり世俗主義の皇帝、モハンマド・レザー・パフラヴィーに対し、イランのイスラーム化を目指し革命が勃発。王政は廃止され、シーアの最高指導者ホメイニーによるイラン・イスラーム共和国が成立します。
 先述の通り、イラクの人口の六割はシーアです。しかし、バアス党は社会主義、サッダーム・フセインはスンナであり、イラクの世俗化を目指していました。ちなみに世俗主義とは国家の政策などが特定の宗教に影響を受けないという、政教分離の方針のことをいいます。
 イスラーム主義の広がりを危惧したフセイン政権は、国境を流れるシャットゥルアラブ河の領土問題もあり、一九八〇年九月にイランへ戦争を仕掛け、イラン・イラク戦争を始めます。
 この戦争でレーガン政権下のアメリカはイランへ武器を売って、その売り上げで中米にあるニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助を行っていました。
 若干余談になってしまいますが、イラン・イラク戦争の少し前、ニカラグアでは一九七九年に「ニカラグア革命」が起こり、左翼政権が樹立します。新政権はキューバなどの共産圏とも関係を築き、その動きにアメリカは警戒を強め、コントラの支援へと繋がりました。そしてニカラグアは一九八四年、国際司法裁判所にアメリカを提訴します。判決はアメリカの違法性を認めたものでしたが、アメリカは賠償せず、一九九一年にニカラグアが請求を取り下げて裁判は終わりを迎えます。
 こういったアメリカの行いを、当時はメキシコにいた若いベニテスは見ていたはずです。そして、ベニテスはおそらくアメリカ占領下のイラクへ行き、そこで行われていることも見ました。ベニテスは歴史の目撃者でもあります。
 話をイラン・イラク戦争に戻します。アメリカがイランへ武器を売っていたところ、イランがバグダードまで侵攻する可能性が出てきました。アメリカはイランのイスラーム政権拡大を恐れ、今度はイラクを支援します。
 こうして不利になったイラン最高指導者ホメイニーは、一九八八年七月一八日に国連安保理による停戦決議を受け入れます。こうして翌月の八月にはイラン・イラク戦争は終結。シャットゥルアラブ河の問題は、国境線を河の中心線とするアルジェ合意を基礎とすることを受け入れました。
 八年続いた戦争による死者はイラク側で二五から五〇万人、イラン側は一〇〇万人とみられています。
 イラン・イラク戦争から二年後の一九九〇年八月二日、イラクはクウェートへ侵攻します。侵攻の理由はクウェートはバスラ州の一部なのに、イギリスにより切り取られた。また、クウェートが不当に石油価格を引き下げているとイラクは主張していました。
 イラクによる侵攻でクウェートの政府は倒れ、その後樹立された傀儡政権によりクウェートはイラクの一九番目の県として併合されます。
 このイラクの侵攻に対し、アメリカ、イギリス、フランスから、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、シリアなど三七か国による多国籍軍が一九九一年一月一七日に「砂漠の嵐作戦」を開始。湾岸戦争が始まります。
 空爆と地上作戦によりイラクは撤退し、クウェートは解放されました。四月にクウェートへの賠償、大量破壊兵器の破棄、国境の尊重などの安保理決議をイラクが受け入れて湾岸戦争は終結します。
 イラク軍の死者は二万五〇〇〇から三万五〇〇〇人、イラク市民は一〇万人以上。クウェート市民は一〇〇〇人以上、クウェート軍を除く多国籍軍側の死者は五六九人でした。
 イラクによるクウェート侵攻の一九九〇年八月二日から四日後、国連安全保障会議はイラクへの全面的禁輸措置を採択します。これによりイラクと各国の間のモノの輸出入、ヒトの移動、すべてが止められる経済制裁が始まります。
 経済制裁の当初の目的は、イラク軍をクウェートから撤退させることでした。しかし、湾岸戦争によりクウェートから撤退したイラクへ、戦争終結のため安保理は兵器の廃棄、核開発の停止、クウェート人捕虜の解放、補償金支払いなどを求め、イラクもこれを受け入れます。こうした要求が満たされなければ経済制裁は解除されず、続いていくことになります。
 この経済制裁により困窮するのはイラク国民でした。石油を輸出できなくなり、輸入も激減、為替レートの急落、物価上昇などが起こります。政府は食糧不足に対して一九九〇年九月から食糧配給制度を開始しますが、全く足りていませんでした。市民の生活が困窮する一方で、ヤミ経済にアクセスできる商人や政権幹部だけが得をしていました。
 食糧の他に医療面でも深刻な問題が生じていました。乳幼児の死亡率は増加、伝染病は広がり、医療品は不足します。
 経済制裁の重要な論点である大量破壊兵器は、イラク戦争後の調査で一九九〇年代にすべて破棄されたことが明らかになります。ただ、フセイン大統領は査察団を長年拒み続け、協力姿勢を見せ始めたのは九・一一テロの後、二〇〇二年頃でした。イラクへの軍事攻撃が行われる直前であり、イラク戦争を止めることはできませんでした。
 二〇〇三年のイラク戦争でフセイン政権が倒されるまでの約一三年間、経済制裁が解かれることはありませんでした。
 二〇〇三年三月一九日にアメリカ、イギリス、オーストラリア、スペイン、ポーランドが宣戦布告し、イラク戦争を始めました。完全に制空権を掌握した上での空爆、地上部隊の進行により、各地の部隊は降伏していきます。五月一日にはブッシュ大統領が終戦宣言を行いますが、その時点ではサッダーム・フセインを拘束することができていませんでした。
 湾岸戦争での一方的な停戦宣言を行ったのはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ、イラク戦争を始め、一方的に終戦宣言を行ったのはジョージ・ウォーカー・ブッシュの親子でした。
 イラク戦争は、湾岸戦争の停戦を定めた安保理決議にイラクが従わず、大量破壊兵器の破棄に協力せず、アルカーイダなどのテロ組織とつながりがあり、国内のクルド民族を弾圧しているとの理由で開始しました。しかし前述したように、大量破壊兵器は既に処分されており見つからず、アルカーイダとフセイン政権のつながりもなく、アメリカは戦争の正当性を問われました。
 二〇一一年一二月一四日にオバマ大統領は再び終戦宣言を行い、イラクに駐留していたアメリカ軍は撤退しました。
 二〇〇三年から二〇一一年までの、占領下イラクを詳しく見ていきましょう。
 イラクの民間人死亡率のデータはそれぞれ違いがあり、完全に正確なことはわかっていません。ただ、非政府組織の「イラク・ボディ・カウント」やイラク内務省、アメリカ軍の統計の推計によると、開戦から一二年六月までの間に一一万六四〇九人の民間人が死亡したといいます。
 死者の増加にはいくつかの段階があり、まずイラク戦争が始まった二〇〇三年は突出して人が亡くなりました。その突出した時点を除くと二〇〇三年五月から二〇〇六年二月にかけて増え続けます。ピーク時の二〇〇六年一〇月は一ヶ月の間に二七〇九人が死亡したとされます。アメリカ軍による占領下イラクでなぜ死者数が増えたのか、順を追って説明します。
 政権を倒したアメリカはイラクという国を破壊します。政府が失われたイラクにアメリカはまず、軍を中心とした連合国暫定当局(CPA)を作りました。この組織の目的はイラクの政府を再建することです。
 二〇〇三年五月、CPAはイラクの国軍と治安機関を解体し、約四〇万人を失職させました。CPAは新しいイラク軍を三年以内に設立することを発表しました。新しい軍の兵力は四万人、戦車も火砲もなく、主に国境警備を担うことになる予定でした。とことが反体制暴動が激化し、アメリカ軍の死者が増えると治安要員を増やさねばならなくなります。二〇一二年一月時点で、イラクにおける治安部門の雇用数は約九三万三〇〇〇人。当初の予定の二〇倍以上の数になりました。
 フセイン大統領は自身の独裁体制を強化するために多くの国民を公務員として雇っていました。一九八〇年代には公務員の数は約八二万八〇〇〇人に増やします。この数字は当時の人口の約四.九%を占めていました。
 アメリカはサッダーム・フセインの復権を防ぐため、彼の政党であるバアス党に属する職員を追放します。正確な数字はわかっていませんが、脱バアス党政策により公務員の二万~一二万人が失職しました。フセイン政権により公務員が増加していたため、膨大な数の人間が職を失います。戦争、国軍の解体と脱バアス政策により上昇した失業率は、この後の治安悪化の一因だった可能性があります。
 また、フセイン政権時に弾圧していた反体制派重要人物の帰国なども、要員の一つとされています。この反体制派の最大派閥はイスラーム主義勢力です。イスラーム主義、ここでは特に政治的なイスラーム主義はイスラーム法であるシャリーアの秩序に基づくイスラーム国家・イスラーム社会を目指す活動をいいます。
 話を整理するため再三になりますが、フセイン政権およびバアス党はアラブナショナリズムかつ世俗主義的な部分がありました。イスラームは文化であり、宗教と国家は切り離すべきという姿勢のあるバアス党の姿勢と、イスラーム主義は相容れないものでした。
 イラクのイスラーム主義勢力の中で代表的なのがダアワ党です。一九五〇年代、社会の急激な近代化と世俗化に危機感を抱いたシーアのイスラーム法学者であるウラマーは立ちあがります。
 ウラマーのムハンマド・バーキル・サドルと支持者たちは一九五八年に「イスラーム・ダアワ党」を結成します。イスラーム主義政党であるダアワ党は、思想の根幹であるシャリーアの秩序によるイスラーム国家建設を目標に掲げます。
 しかし、一九六八年に与党となったバアス党政権はダアワ党を弾圧しました。一九七九年にはイランでイスラーム革命が起こり、自国での革命を恐れたフセイン政権はダアワ党の指導者バーキル・サドルを処刑します。弾圧によりイスラーム主義者はイランへ亡命しました。
 亡命、イラン・イラク戦争などによりバラバラになってしまったイスラーム主義勢力は「イラク・イスラーム革命最高評議会」として再統合します。略名はSCIRIです。このSCIRIは大きな組織であり、およそ一万五千人ほど の兵力を持つバドル軍団と呼ばれる軍事部門が存在し、後にイラクで暴力の一端を担います。
 フセイン政権の終わりと共に、弾圧を受けていたダアワ党員、SCIRIなどのイスラーム主義勢力が帰国しました。そして、かなりの厚遇を受けます。脱バアス政策を推し進めたCPAはイラク人による暫定統治のため、イラク統治評議会を組織します。反フセイン体制派 だった二五名のメンバーの中に SCIRI やダアワ党のメンバーが入っていました。
 また、シーアの武装組織マフディー軍も治安悪化に無視できない存在でした。ダアワ党の創始者ムハンマド・バーキル・サドル の親類であるムハンマド・サーディク・サドル は、バーキル・サドルの亡き後シーアのウラマーとしてイラクで活動していました。禁止されていた金曜礼拝を再開させ、イスラームへの信仰心を説いたカリスマ的な指導者サーディク・サドルもバーキル・サドルと同じようにフセイン政権により暗殺されます。この暗殺によりサドルの支持者は地下に潜り、二〇〇三年にフセイン政権が倒されると表舞台へ躍り出ます。それがサーディク・サドルの息子、ムクタダー・サドルです。
 ムクタダー・サドルは特にバグダードのサドル・シティ、死後も尊敬を集める親族の名前を冠した貧民街で活動を始めました。この街の旧名はサダム・シティ、低所得者が集まるサドル・シティで生活必需品の配布や清掃活動を行い、若者たちをリクルートしてマフディー軍を組織します。
 イラク戦争直後、二〇〇三年の暴力、略奪はまだ混乱した個人の範囲でした。ただ、アメリカ軍が完全にイラクを制圧しきっていないと知られ始めると、組織的な暴動に変化するのには時間がかかりませんでした。
 組織的暴力の初期段階はアメリカ軍への抵抗運動です。二〇〇三年に路上爆弾攻撃により死亡したアメリカ兵は一二人を下回っていましたが、次の年の二〇〇四年には一ヶ月に少なくとも二〇人が殺害されました。
 組織的暴力にはこうしたナショナリズム的抵抗運動と、もうひとつ、イスラーム主義勢力に二分することができます。
 先述の通り暴力的な組織はフセイン政権後に帰国するか再起動し、それはSCIRI のバドル軍団、ムクタダー・サドルのマフディー軍、イラク・イスラーム軍、アンサール・スンナ、そしてアルカーイダなどでした。アメリカはフセイン政権とアルカーイダは繋がっていると疑い、戦争を始める理由としました。しかし、結局のところフセイン政権とアルカーイダに繋がりなどありません。バアス党とアルカーイダに共通するのはスンナ派ムスリムの組織といったくらいで、世俗主義な前者とイスラーム主義のアルカーイダとは相容れない存在同士でした。
 イスラーム主義勢力は主に自爆を用い、二〇〇三年から二〇〇六年までの間に五〇〇件以上の自爆テロを仕掛けました。占領に抵抗するため、アメリカ以外に中東諸国の政府機関や国際組織も標的にします。二〇〇三年八月にはヨルダン大使館と国連事務所が爆破され、一〇月には赤十字国際委員会の事務所もテロの被害にあいました。国連事務所や赤十字への攻撃により、人道支援を行っていた非政府組織は撤退せざるを得なくなります。
 個人的に、ベニテスはこうした組織への攻撃後にイラクへ渡ったのではと考えています。外国人宣教師が国外へ避難している状況を知り、ベニテスが自分から名乗り出たのかもしれません。無数の武装組織が活動し、何の解決もしていないものの二〇〇三年七月にコンゴ戦争は一応の終わりを迎えます。性暴力を受けた女性のための病院建設も行い、区切りや導きがあってコンゴからイラクへ移動した、と私は考えています。移動する直前に自身の身体のことを知り、葛藤を抱えながらバグダードへ移動し、闇のなかを生きていたのかもしれません。
 話を自爆テロに戻します。自爆攻撃はシーアの聖地なども標的にし、このテロ行為はイラクの内戦に繋がります。宗派対立の始まりというべき事件は、二〇〇三年八月にSCIRI 議長のムハンマド・バーキル・ハキームが暗殺された事件です。また、二〇〇四年三月にシーアの聖地、カルバラーが攻撃を受けます。この年の五月以降は、イラク人だけでなく外国人労働者の誘拐・殺害事件が発生し始めます。
 そしてアメリカ軍統治下のイラクで必ず語らねばならない場所がファッルージャです。ファッルージャはバグダードから西へ五〇キロメートルへ行ったところにあります。だいたい、この二都市は東京と鎌倉の距離感です。そしてファッルージャは保守的なスンナ住民の多い土地でした。
 二〇〇四年四月、その街でアメリカ軍にデモを行っていた一七人が、アメリカ兵に殺される事件が発生します。これをきっかけに暴動が始まります。二〇〇四年三月にアメリカの民間軍事会社、ブラックウォーター社に務める四人が殺害されると、海兵隊およびアメリカ軍がファッルージャに対する攻撃を開始します。
 ちなみに、アメリカ政府は軍で補いきれない部分を、民間民間軍事会社や民間警備会社に頼っています。これはイラクだけでなく、アフガニスタンに対してもです。こういった企業は時に事件を起こすこともあり、イラクでは二〇〇七年九月にブラックウォーター社 が民間人を一七人殺害し、問題となりました。
 話をファッルージャに戻します。大規模な空爆によりファッルージャの人々の大半が避難民となります。ファッルージャを逃れ、近郊大都市のバグダードへ移動し、スンナの避難民はスンナの多いバグダード西部へ居住しました。この中で過激化した人々がシーアの住民を追い出す事態になります。そして、スンナのテロ組織アルカーイダが自動車爆弾や自爆テロでシーアの居住区域を攻撃。シーアのマフディー軍などがスンナのムスリムを殺害や誘拐を行います。この時期、二〇〇五年の一月から六月までの間に一三〇件の自爆テロが発生し、その大半はアメリカ軍ではなく、他の宗派を狙ったものでした。
 こうして、二〇〇五年五月にはバグダードは内戦状態に陥ります。バグダードの殺人事件発生数は増加、、一日平均一一件から三三件に増えました。
 殺人はアメリカ軍や民間武装組織によるものだけでなく、イラク政府によるものも含まれていました。
 イラク政府の内務省には特別警察突撃隊がありました。当時の内務相はイラク統一同盟のバヤーン・ジャブル。ジャブルはSCIRIの幹部で、かつてバドル軍団を率いていました。そして彼は治安機関にバドル軍団の構成員を可能な限り雇い入れます。
 二〇〇五年以降、特別警察突撃隊は殺人、拷問、宗教浄化を繰り返す集団と化します。二〇〇五年一一月に内務省が設けた施設へアメリカ軍が捜査を行い、劣悪な環境で収監されていた一七〇人を発見しました。この施設では国家機関が拷問、処刑を日常的に行っていた証拠となりました。ただ、このことが発覚してもジャブルは内務相を辞任することなく二〇〇六年までその職に留まっています。
 ただ、こういった市民の誘拐、処刑はイラク政府だけが行っていたものではありません。二〇〇三年にアメリカ軍はアブグレイブ刑務所で収容者へ拷問、男性女性どちらへにも性的虐待を行っていました。 
 イラク人への虐待は二〇〇四年四月にCBSが実態を写した写真を公開し、ようやく世界的に広がります。しかし、このような事件が発生しても、依然として大量破壊兵器が発見されなくても、二〇〇四年一一月二日にブッシュは再選し、イラク占領は続きました。
 元々のバグダードではスンナとシーアが共生していました。トラブルがなかったとは言えません、フセイン政権がシーアを弾圧し、アーシューラーなどの宗教行事を禁じていたのは事実です。ただ、スンナとシーアは真っ二つに分かれていた訳ではなく、異なる宗派同士で結婚もあり、家族の半分がスンナ、半分がシーアという家庭もあります。
 内戦状態に陥ったイラクに対応するため、アメリカは二〇〇七年二月に増派を始めます。増派、英語ではサージ、とはイラクに派遣する兵士を一時的に増やすことです。兵力の増強、開戦以来最大規模の軍事作戦、アメリカ軍は内戦状態のイラクに対応を行いました。
 二〇〇七年一月の民間人の死者数は二五〇〇人だったけれど、六月は一九五〇人、一二月は六〇〇人と減少しました。ただ、死者数の減少がアメリカ軍の軍事作戦によるものなのかは検証が必要であり、効果があったと断言することは難しいことです。
 死者数の減少に関係しそうな大きな要因はいくつかあり、その内のひとつがマフディー軍の活動休止です。おさらいになりますが、マフディー軍はシーアの指導者、ムクタダー・サドルが率いる兵力約六万の武装組織です。
 ムクタダー・サドルの影響力は大きく、マーリキーの首相就任に寄与するほどでした。そのため、アメリカ軍のサドルを標的とした作戦にマーリキー首相は制限を課し、マフディー軍の主要人物の逮捕を禁じます。
 国の中枢に食い込むほど影響力を持っていましたが、マフディー軍は分裂していきます。まず、ムクタダー・サドルは増派が発表されると、イラクを脱出してイランへ逃れました。サドルが国外に脱出後、マフディー軍はバグダードから部隊を引きあげます。シーアのムスリムの中ではマフディー軍を批判する人々も増え、組織内の不良分子を追放し、徐々に活動を縮小せざるを得なくなっていきます。
 それに加えて、マフディー軍とISCIのバドル軍団の間の対立が激化します。ところで、イラク・イスラーム革命最高評議会は二〇〇七年五月に党名を「イラク・イスラーム最高評議会」と改名し、略名もISCIになりました。
 二〇〇七年八月、宗教行事のためシーアの信徒が集まっていた聖地カルバラーでバドル軍団とマフディー軍の銃撃戦が起こりました。この銃撃戦により五二人が死亡します。この事件によりサドルは六ヶ月の休戦を宣言し、その後も休戦を継続させます。
今回のスペースの参考文献は『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』トビー・ドッジ 、『地図で見る アラブ世界ハンドブック』マテュー ・ギデール 、『現代イラクを知るための六〇章』酒井啓子編、『バグダッド・バーニング イラク女性の占領下日記』リバーベンド 、『兵士は戦場で何を見たのか』デイヴィッド・フィンケル です。
6 notes · View notes
stoopid-o · 3 months ago
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年表
ベニテスと関係する国の出来事をざっとまとめました。まだざっとなので、これから加筆していく予定です。間違いなどあればコメントお願いします。ベニテスの年齢については私が勝手に設定したものです、公式ではありません。
1963 (0) ベニテス、誕生 【イラク】ラマダーン革命、1963年11月イラククーデター 1965 (2) 【コンゴ】コンゴ動乱終結 1968 (5) 【メキシコ】トラテロルコ事件、メキシコオリンピック開催 1975 (12) 【メキシコ】全国先住民会議開催 1979 (16) 【イラク】サッダーム・フセイン政権発足 【アフガニスタン】アフガニスタン侵攻 1980 (17) 【イラク】イラン・イラク戦争 1982 (19) 【メキシコ】金融危機 1983 (20) ベニテス神学校へ入学 1985 (22) 【メキシコ】メキシコ地震 1988 (25) 【イラク】イラン・イラク戦争終結 1989 (26) 【アフガニスタン】ソ連軍撤退完��� 1990 (27) 【イラク】クウェート侵攻 1991 (28) 【イラク】湾岸戦争 1992 (29) 【メキシコ】憲法改正 1994 (31) 【メキシコ】サパティスタ民族解放軍武装蜂起 【ルワンダ】ルワンダ虐殺 【アフガニスタン】ターリバーン登場 1996 (33) 【コンゴ】第一次コンゴ戦争 1997 (34) 【コンゴ】第一次コンゴ戦争終結 1998 (35) 【コンゴ】第二次コンゴ戦争 2000 (37) 【メキシコ】政権交代 2001 (38) 【アメリカ】9.11テロ 2003 (40) 【イラク】イラク戦争 【コンゴ】第二次コンゴ戦争終結 2004 (41) 【イラク】ファルージャの戦闘 2005 (42) 【イラク】国民議会選挙、移行政府発足 2006 (43) 【イラク】正式政府発足、サッダーム・フセインの��刑執行 2007 (44) 【イラク】米軍の増派開始、対暴動ドクトリンの適用 2009 (46) 【イラク】米軍の撤退発表 2011 (48) 【イラク】イラク戦争終結、米軍撤退完了 2015 (52) 【アフガニスタン】アフガニスタン地震 2021 (58) 【アフガニスタン】ターリバーン復権 2022 (59) ベニテス、枢機卿に任命される 2023 (60) ベニテス、コンクラーヴェに参加し教皇に任命される
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stoopid-o · 3 months ago
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ベニテスを理解したくて調べた、現代メキシコ編
この投稿は、2025年4月20日にTwitterで話したスペースの原稿です。元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。
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このスペースはベニテスのことを理解してえと思ったオタクが調べたことを発表するだけの場です。私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。 まず、前提として、今回はメキシコとコンゴについて、一時間ほど話します。性暴力に関する内容が含まれるため、お気をつけください。また、非キリスト教徒で、カトリック知識に詳しくない人間が話しています。人物名は敬称略で呼びます。人物や地名の発音をうまくできないことがあります、ごめんなさい。
さて、まずは前提としてベニテスが何歳で何年生まれなのか。ベニテスを演じたカルロス・ディエスは50代ですが、原作では67歳。自分の中だけの設定として、映画本編を2023年だと仮定し、1960年代前半から半ば生まれの60代前半とします。ご了承お願い致します。 そして、ベニテスが生まれたと仮定する1960年代のメキシコはどんな状況だったのでしょうか。当時のメキシコは制度的革命党の支配体制がしかれていました。こちらの政党の名前が長いPRIと呼ばれ、1927年から2000年まで71年もの間、与党に君臨し、その期間をPRI体制と呼びます。現在もこの政党はメキシコにあります。 当時は各州の知事や政府の人間の多くがPRIの党員で、報道機関も政府の統制下にあり、圧倒的にPRI優位な状況でした。もちろん、国民の間では不満がありました。汚職などが蔓延り、ベニテスが子ども時代を過ごしたであろう1968年は、「1968年騒乱」と呼ばれる年でした。 こう呼ばれる所以は「トラテロルコの虐殺」など様々な事件があったからです。この年にメキシコオリンピックが開催されるのですが、オリンピックへの開催反対運動や反政府デモが各地で発生していました。特に首都メキシコシティでの学生主体のデモが活発でした。学生がキャンパスを占領して抗議活動を行い、政府はそれを軍や警察を動かし厳しく弾圧していました。そんな折、10月の2日、キャンパスを追い出された学生たちがメキシコシティのトラテロルコの三文化広場に集まって抗議活動をしていました。 広場にはおよそ1万人の学生が集まり抗議活動を行っていると、軍が包囲し銃撃を開始します。犠牲者の数は公式発表では30人未満でしたが、実数は推測するしかなく300人から400人とも言われています。この虐殺事件はメキシコオリンピックが開催される10日前の出来事でした。 人々が民主化を求めた激動の時代にベニテスは子ども時代を過ごしていました。 そして10代の後半、1982年にメキシコでは金融危機が起こり、物価の値段が4倍になるなど、苦しい時期でした。公開されている教皇選挙のスクリプトには貧しい両親のもとに生まれと書いてあったので、様々な苦労があったのかもしれません。しかも、1985年にはメキシコ地震が起こります。この地震のマグニチュードは8、死者は約1万人でした。メキシコ沖の震源地からは300km以上離れていましたが、メキシコシティでの被害が大きく、もしベニテスがメキシコシティの出身であれば、家族や住んでいた建物が被害に遭ったかもしれません。 ベニテスが何歳で神学校に入学したのかわかりませんが、おそらく一部は参考にされているフランシスコ教皇が20で神学校に入学したので、私はそれくらいの年齢、1980年半ばまでには入学したと考えています。 この時期のカトリック教会は苦境に立たされていました。 カトリック教会とメキシコについては時代を大航海時代まで遡って説明します。1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到着し、スペインはアメリカ大陸を侵略し始めます。スペイン征服後、先住民へのキリスト教布教のためスペイン国王の命でまずフランシスコ会、ドミニコ会、アグスティン会が1520年代頃から派遣されました。 ここで少し余談ですが、メキシコ先住民のことを何と呼ぶか意見が分かれています。ある研究者は「インディオ」という名称を使っており、インドとアメリカ大陸間違えたゆえの言葉ですが、先住民の権利運動で当事者たちがこの語を使っていたため「インディオ」と記す人もいます。ただ、近年は地元民を意味する「ナティーボ」や「オリヒナリオ」など先住民が自分たちのことを指す言葉が変化してきています。ただ、このスペースでは先住民と称させていただきます。 征服戦争、旧大陸からもたらされた天然痘や麻疹により先住民の人口は激減します。推定であり正確な人口はわかりませんが、征服前にはメソアメリカに600から700万人はいたとされています。それが1550年にはわずか300万人になりました。 このような過酷な状況で先住民に選択肢はなく、キリスト教へ改宗していきます。宣教師たちも、先住民の信仰や文化を許容できる範囲でキリスト教と融合させました。かつて祀っていた神と似たキリスト教の聖人や聖母を祀ったり、多神教になじみのある聖人崇拝を推奨するなど、妥協しつつ布教をしました。こうして現在でもメキシコでは人口の8割から9割がカトリック教徒です。 植民地時代はその土地の住人はすべて王の臣民であり、土地を含めカトリック教会の管理下にありました。教会は宣教活動だけでなく、農業経営や高利貸しも行っており、大きな資金を有していました。 しかし、メキシコが19世紀前半に独立を果たすと、国家はカトリック教会が所有している広大な土地を欲しがります。 1857年の改革憲法で教会特権を廃止し、住民はカトリック教会からメキシコ国家の管理下に置かれていきます。そして1859年には教会財産没収法が制定され、宗教行為に必要な最低限の物以外の教会財産はすべて国家のものになりました。 カトリック教会も黙って受け入れていたわけではなく、ミサなどの宗教行為のストライキを起こしたり、信徒が武装蜂起して「クリステーロの乱」と呼ばれる戦いなどをおこしました。 しかし、この厳しい制限はベニテスが神学校で学んでいたであろう1980年代も続いていました。教会財産の没収以外にも、聖職者への公民権の制限があり、選挙権のはく奪、僧衣をまとったまま外出してはならないなど様々な弾圧がありました。 そういった制限が解消されたのが1992年の憲法改正です。この改正により教会は財産取得と所有が認められました。聖職者の公民権も一部認められ、投票権が回復し僧衣を着たままの外出ができるようになります。ただし、被選挙権は与えられていませんでした。 そして神学校を卒業したベニテスはまずメキシコのベラクルースから活動を始めます。ベラクルース州はメキシコ湾に面した場所にあり、メキシコ征服の拠点となった湾岸都市です。かつては先住民の人口が激減したため、アフリカ大陸などから運んできた奴隷集積所や市場もありました。 ベラクルースで具体的にベニテスがどんな活動をしていたのかわかりませんが、あくまで想像の範囲で推測します。あくまで想像です。メキシコの基本的な町の作りは、広場があり90度の角度で市政庁と教会があります。教会のほとんどはは西向きに正面玄関が設置され、東側に祭壇が置いています。朝日がさし込むと聖像は後光に包まれ、夕日は入り口から聖像を照らします。そうした効果を計算し、カトリック教会は原則として西側に正面玄関を設置しています。 「レジデンシア」と呼ばれる教会には司祭が常駐し、「ビシータス」と呼ばれる村などの教会には司祭が住んでいません。神父は村人たちの要請でこのビシータスへ赴き、ミサや洗礼を行います。なので、ベニテスもベラクルースの村々を巡っていた可能性があります。 とりあえずこれでメキシコの話は終わります。 参考にしたのは明石書店の『メキシコを知るための60章』清水透 著『ラテンアメリカ500年 ���史のトルソー』国本伊代 著『メキシコの歴史』などです。
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stoopid-o · 3 years ago
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あの日
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前書き
一九一九年四月一三日のふたりを書きました。 警察の描写は想像部分が多く、正確なものではありません。 直接的な描写はありませんが、虐殺についての話であり、作中に登場する虐殺事件は実際に起こった出来事です。 参考文献『インドの歴史』バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・R・メトカーフ。創土社、二〇〇六年六月三〇日発行。
Rama side
 ――辺りが、急に騒がしくなった。  気配の変化に敏感なラーマが身を構えようとした矢先、警察庁の建物全体に声が響き渡った。 『建物内にいる者は全員中庭に集合。繰り返す、全員即刻中庭に集合すること』  殺人課、麻薬課、風俗課、放送により全ての扉が一斉に開く。何事かと、皆が口々に囁き合い、中庭を目指していた。ラーマも遅れることなく、足早にまっすぐ人波に従った。余程のことらしい、スピーカーからはまだ同じ内容が繰り返されている。  中庭には既に警視総監が待機していた。勤務中の警察官を全て集めるなど、余程のことが起こったのだとラーマは察した。戦争が終わってまだ一年も経っていない。またあの時のように戦争協力させられるのかとラーマは内心不安だった。イギリスに戦争協力したせいで百万人以上徴兵され、フランスや中東の前線で戦い、死んでいった……。  大戦の最中、インド担当国務大臣エドウィン・モンタギューは、インドに自治制度を徐々に導入すると発表した。なのに、改革ではローラット法を可決させ、テロや破壊活動の容疑者に令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を可能にするという裏切りを行ってみせた。  インド人の命など少しも顧みない宗主国の振舞いに限界を感じていたのはラーマだけではない。  警視総監が皆の前に立っているというのに隊列どころではない。急に呼び出された警察官たちは戸惑い、思い思いに自分が並ぶべき場所を探してさまよっている。ラーマは自分の所属する隊に並ぼうと奮闘したが、見つけ出す前に総監が声を張り上げた。 「非常事態だ、儀礼は省略、整列しながら聞くんだ。先ほど、パンジャーブ州のアムリットサルで暴動が起こった」  独立運動の盛り上がりやローラット法の暴挙により、日々、デモは盛んになっていた。制服と同じく顔を真っ赤にさせ警察官たちに伝達する総監を、ラーマは憎しみの目で見る。 「詳細は追って通達されるが、総督命令で戒厳令が下された。デリーに厳戒態勢を敷く。繰り返す、デリーに厳戒態勢を敷く。アムリットサルは軍が対応するため、君たちは総督府の警備を強化し、街のパトロールを増やすんだ。今から自分たちの部署に戻り、それぞれ指示を受けること。以上、解散」  総監の指示により、人々はまた建物の中へ戻る。こんなに雑で急ごしらえな総監の指令など、警察官になってから初めてだった。  ラーマは部署に戻りながら疑念を抱いた。ただの暴動で厳戒態勢を敷くだろうか。しかも、アムリットサルはデリーから三百マイル以上離れている。暴動への警戒は日々高まっており、警察庁だけでなくインド総督の悩みでもある。ガンディーを崇める人々が増加し、サティヤーグラハ運動を始めた頃からはより一層緊張感が増したけれど、あの運動は武力によるものではない。  詰め所に班長である警部が入室する直前にラーマは戻れた。班長たちのブリーフィングに時間がかかりそうであれば、アムリットサルで起こっていることの情報収集がしたかったけれど、まずは指示を受ける必要がある。 「全員揃ったな、うちの班はこの地区の警戒を担当する。出歩く者がいたらすぐに家へ帰るよう警告し、従わなければ逮捕しろ」  班長はデリー市内の地図を貼り出し、色分けされた区画のひとつを指さした。うちの区画は外れだ。ラーマは鉄面皮を保ちながら、心の中だけでで悪態をついた。北部は治安が悪い。南部の高級住宅街の住民と違い、戒厳令を守る人々ばかりではない。  もうすぐ日が沈む。ラーマは今夜を怪我することなく終えられるかわからなかった。 「班をアルファとブラボー、ふたつに分ける。二時間パトロールしたら交代、交代場所はここだ。1700までに全員装備を整え出発すること。質問はあるか?」  なし。この班での戒厳令は初めてではない。定められた時間まであまり余裕がない、弁えたチームメンバーに対し、班長は満足気に頷いた。  班のメンバーだけでない、警察署の全員が何かを抱えて早足で歩き、どこかでは怒声が響き、武器庫や装備室に向かう人々の表情は硬い。今回の戒厳令はデリー警察の全員が動く。小銃の携帯はイギリス人が優先だ。ラーマは警棒と懐中電灯だけで何とかするしかない。  慌ただしく時間が流れ、定められた時刻となった。街へ出る時間だ。  デリーの中心地は夜でも昼のような賑わいだが、今日ばかりは静まり返っていた。店はどこ���閉められ、ちらほらと急いで帰宅する人々を警察官が追い立てている。  ラーマはトラックの荷台から街を眺める。戒厳令により、もはや見慣れたデリーではなくなっていた。北部へ向かう際、総督府の横を通り過ぎたが、数十フィートにひとりの間隔で銃を提げた軍人が立っている。総督のお守よりマシだとラーマは内心でごちた。 「アルファ班は先に、定時報告を忘れず巡回レートは地図で示された通り行け。ブラボー班は通信の開設を始めろ」  面倒な通信の開設を免れたのは助かったが、ラーマのアルファ班にインド人は彼だけ。重い無線機はラーマが持つしかなく、交代も望めなさそうだった。  無線機の通信を確認し、アルファ班の三人は出発する。  北部のスラム街には細い路地が多い。そういった路地では待ち伏せの危険がある。普段は主にスリや強盗の心配をすればいいが、今夜は何が起こるかわからない。ルートは太い道路が主だが、危険性の高い細い路地も含まれている。  四月のデリーは比較的快適な気候で、夜になればかなり涼しく感じるが、ラーマは汗がじっとりと制服に染み込んでいくのを感じた。いつもなら人ごみをうっとおしく思うけれど、人がいない方がずっと不気味だ。先輩格のイギリス人たちもラーマと同じようなことを思っているらしく、緊張が顔ににじみ出ていた。  一巡目では特に何も起こらなかった。つい帰宅が遅くなってしまった人々を警棒で威嚇して帰らせたくらいだった。彼らは高圧的な警察官たちに悪態をつきながらも素直に従ってくれた。  交代だ。肩にずっしりのしかかっていた無線機を人に渡せてラーマは一息つく。軽くなった肩を回す。このまま休憩していたいところだが、別の仕事がある。  無線機から解放されたのに、また無線の番だ。ブラボー班からの定時報告を受け取りながら、ラーマは密かに情報を集めようとしていた。  アムリットサルで起こった暴動くらいで、デリーを厳戒態勢にするだろうかという疑念は解消されていない。そもそも、暴動の詳細がまだ謎に包まれている。  この班の詰め所に選ばれたのは小さな警察署。ラーマの下宿ほどしかなさそうな会議室を、別の班と半分ずつ使用している。頼りない机に何個もの無線機や地図が広げられ、狭い部屋に何人もの男たちが詰めているため蒸し暑くてかなわない。なのに、窓は暴徒対策のため開けることができない。  班長はずっとヘッドホンで無線を聞き、時々手帳にメモしていた。ラーマが担当する無線はパトロール用の無線としか繋がっていないが、班長が陣取っている無線はもっと範囲が広い。デリーで起こっていることはあの無線で聞ける。  最初は班長のメモを盗み見しようとしたが、彼の走り書きは恐ろしいほどの悪筆であり、その酷さは医者のカルテにも勝る。普段の書類はフォントのように完璧な文体で書き上げるためラーマらが困ったことはない。班長がいつも悪筆であれば解読力も養えたはずだが、書類との筆跡が違いすぎて別人が書いたようだった。  それでもある程度は読み取ろうとラーマは努力した。定時報告の合間に紅茶を淹れて差し入れ、班長の机に近づいた。ちらりと盗み見た手帳で解読できたのは三百と千という数字だけ。それだけでは何のことかわからない。  三百と千。その数字に頭を悩ませていると、ブラボー班が戻ってきた。交代の時間だ。  再び、ラーマは無線機を背負う。  今度のパトロールも大きな事件は起こらなかった。戒厳令により静まり返り、真っ暗なデリーは戦時中を思い起こす。今日ばかりは、通りをうろついては喧嘩を繰り返す野犬さえどこかで大人しくしていた。  二時間、きっちり警邏し、また交代。これが朝まで続く。ラーマはうんざりしていた。彼だけではない、小さな警察署に詰め込まれた全員がうんざりしていた。勤務は倍に延長され、慣れない地区を軽装備で歩き回らなければならない。誰もが無事に夜を越すことだけを願っていた。  また二時間後に交代。時間は午前二時になっており、一睡もしていないラーマの眠気は限界だった。  三人一組で警察署を出発する。やはり無線機はラーマが背負う。きっと肩に背負い紐の跡が残っているだろう。数日は肩が痛むに違い���い。小銃を構えたふたりは先を歩く。普段なら余裕でついていけるのに、疲れと眠気でラーマの意識は今にも飛びそうだった。  数十分歩くと、細い路地に辿り着いた。イギリス人の同僚ふたりは三度目の警邏で気が緩んでいるようだった。同じ道を三度目だ。前も大丈夫だったからと緊張感が抜け注意力が低下しているように見えた。  ラーマにはすぐそばの建物の中から足音が聞こえた。ほんの小さな音だ、聞き逃してしまってもおかしくない。考える暇なく叫んだ。 「止まってください!」  ラーマが叫ぶ直前、右手側、二階の窓が開いた。 「人殺しに死を!」  前方を歩いていたふたりに目掛け、火炎瓶が投げられた。  瓶が割れる音と共に炎が広がった。ふたりに直撃はしなかったらしい、炎の向こう側から聞こえてくるのは驚きと怒りの声であり悲鳴ではなかった。 「こちらアルファ班、こちらアルファ班、ポイント十二で火炎瓶により火災発生、こちらの怪我人なし! 至急応援を頼む!」  ほとんど怒鳴るようにラーマは報告する。急がなければ。スラム街は燃えやすい素材で造られた掘っ立て小屋のような建物ばかりだ。ぼやぼやしていると大火災になりかねない。 「俺は犯人を追う! 消火を頼む!」  同僚の返事が聞こえる前にラーマは駆け出した。階段を登るバタバタという足音がする。犯人は屋上へ向かい、屋根を伝って逃げる気に違いない。犯人の人相はわからないが、窓から火炎瓶を投げ捨てた後、急いで背を向けて逃げ出すところは見えた。何の特徴もない白いシャツと刈り上げた短い髪以外の情報はない。今捕まえなければ。  階段を登っている最中にようやく気づく。無線機を同僚に託して置いてくればよかったと後悔した。途中で放置すれば十分以内に盗まれるだろう。しっかりと背負い紐とベルトを締めたはずなのに、走ると背中に二十五ポンドの重みがガンガン当たる。  痛みでやけくそ気味になりながら、ラーマはラーティーをしっかりと握りしめて屋上へ出た。  辺りを見回すと、東の方向に走っていく人影が見えた。発見から間髪入れず、ラーマは走る。逃亡者は屋根と屋根の間隔が狭いところを探しながら逃げているようだ。逃げ道を探しながらということは、計画的な犯行ではないのかとラーマ頭の中で考えながら、崩れそうな脆い屋根から次の屋根へと跳ぶ。  足元の瓦が割れたが、構っている場合ではない。屋根を突き破って誰かの部屋の中に落ちなくてよかったと安堵しつつも脚を止めない。  幸いなことに、満月が近いので街の明かりも懐中電灯を預けてしまっていても、犯人を見失うことなく追うことができた。ちらりと下を見ると、ボヤと屋根を走る人に驚いて人が集まり始めていた。戒厳令だとしても騒ぎを確かめたいという気持ちは抑えられないものだ。ラーマの体はひとつしかない。早く追加の警察官と消防が着くようにと願いながら、逃亡犯を追った。  もうすぐ、追いつく。 「逮捕する!」  白いシャツと刈り上げ頭の男は跳び移れそうな場所を失った。周りの建物は離れすぎており、超人的な跳躍力がなければ難しそうだ。  労なく男の腕をねじり上げ、手錠をかける。 「インド人の面汚し! 人殺したちめ!」  犯人は口汚く罵っていたが、ラーマが手に力を込めると罵りは続けているものの声は小さくはなった。人相は特徴がない。まだたったの二十歳程度。髪は短くてヒゲも綺麗に剃っている。だがそれくらいだ。どこにでもいそうな男だったので、人混みに逃げられる前に捕まえられてよかったと安堵した。  さて、どうしよう。ラーマたちが今いる家の雨樋はか細く、明らかに男ふたりの体重を支えることはできそうにない。無線で応援を呼ぶにもボヤがあったのだから時間がかかりそうだ。  屋根の上で男がふたり走り回っていたのだから、と考えてラーマは犯人が逃亡しないよう注意しながら身を乗り出し、窓をノックした。 「あんたら、ドタバタと何をしてたの!」  家の持ち主らしい女性は睡眠を邪魔され機嫌が悪そうだ。顔は真っ赤で、顔には怒りを滾らせていた。午前三時近くに屋根の上を走り回られたら誰だって怒りたくなる。 「朝早くにすみません。凶悪犯を捕らえたのでこの部屋に降ろしてもよろしいでしょうか?」 「嫌だと言ってもやるんでしょうが。あんたら警察はいつもそうだ……」  家主の了解は取れた。無線機を先に下の階へ降ろし、受け取ってもらう。顔を見るに、彼女はまだまだ文句はあるのだろうが、一応協力はしてくれている。ラーマはもう一つ持っていた手錠で自分と犯人の手首を繋いだ。 「な、何考えてんだあんた」 「お前を下の階に降ろすだけだ」  ラーマは犯人を屋根の端まで追い詰めた。 「頭おかしいぞ、おい、怪我したらどうするんだよ、おい!」 「お前は既に俺たちを殺しかけただろう」  勢いが大切だ。男を思いっきり押す。ラーマは勢いのまま腹ばいになって腕を振り、犯人が窓から部屋の中に転がり込んだのを確認し、自分も屋根から落ちた。 「殺す気かよ! お前ら本当に人殺しだな!」  落ちるに任せず、窓の桟に指をかけてラーマは落下死を免れた。身を引き上げて部屋の中に入ると、恐怖体験をした犯人はわめき、女性は不機嫌そうに扉の方を指差している。 「ご協力ありがとうございました、マダム」 「協力したんだから、早く帰りな」  取り付く島もないため、ラーマは無線機を背負い、犯人を連行しさっさと去ることにした。 「そうだ、この男に見覚えは?」  手がかりは望めないだろうが、退去する前に一応聞いておくことにした。 「ないね。窓から放り込まれてきたのが初対面で、見たこともない」  噓はついていないとラーマは判断した。彼女は寝ているところを起こされて不機嫌なだけで、噓はついていない。それに、犯人もこの家の屋根にはたまたま辿り着いただけのようだった。  戒厳令で苛立っている住人をこれ以上苛立てないよう、ラーマと犯人は今度こそ部屋を出た。  気がつけば、空は明るくなり始めていた。腕時計を確認すると時刻は間もなく午前四時。本来なら四時にはパトロールを終え交代の時間だ.どっと疲れに襲われたがラーマの勤務はまだ終わっていない。  無線で犯人を確保し、これから署に連行する旨を連絡して歩き出した。  逮捕されてからずっとぶつぶつ悪態をついていた犯人も、窓に放り込まれたショックが大きかったのか、不気味なほど静かに連行されている。  大分早いがデリーの朝にしては静かだ。人のいないとまったく違う街に見える。牛が道端の草を食んでいる光景は戒厳令下でなければ和ましい。誰もいない通りを歩き、ラーマはふと、故郷を思い出した。軍事訓練が始まるよりずっと早い時間に起きて、シータや弟と一緒に森や川で遊んだものだ。  いけない。郷愁に浸っている場合ではない。ラーマは気を引き締め直す。 「お前、名前は?」  せっかく署まで時間があるため、この時間で聞き出せることは聞き出すことにした。  しかし、返事はない。だんまりを決め込むらしい。ラーマはまずは軽めにラーティーで彼を小突く。犯人は簡単に転んだ。取り押さえる際にも容易に手錠をかけることができたので、軍隊経験や武術の心得はないようだ。若く、身なりは悪くないので戦時中は学生だったかもしれない。しかし、まだ確定事項ではないと、ラーマは頭の中に一応メモをした。 「痛い目を見る前に話した方が身のためだ」 「わかった、話す! おれはナーナー・サーヒブ……」 「なぜ警察官を狙って火炎瓶を投げた」  ナーナー・サーヒブと名乗る青年を立たせ、歩かせる。のんびりしている暇はない。 「お前らが人殺しの手下だからだ! 報いを受けさせてやる!」  よく吠えるが要領は得ない。ラーマのヒンドゥー語の能力が問題なのではなく、彼が象徴的なことしか言わないせいだ。  ラーマが所属する課はデリーの活動家を見張る役目を担っていたが、ナーナー・サーヒブという名前は聞いたことがない。彼が偽名を名乗っているのか、それとも前科がまったくないのに警察官の殺害を目論んだということだろうか。  本名かわからない名前以外聞き出せず、ラーマたちは警察署に到着した。 「犯人は留置場に置いておけ。私たちは一時間もしたらここから引き上げなくてはならない。しばらくの間はこちらの署に任せる」  班長は必要なことだけ短くラーマに伝達し、忙しそうに会議室へ戻っていった。苦労して犯人を捕まえたとしても労いの言葉などない。わかっていた。功績をあげたとしても横からかすめ取られる。イギリス人の上司、先輩、同僚はインド人を顧みない。  サーヒブを留置場に入れ、どうせ情報は掴めないだろうが一応話を聞くことにした。 「犯行の動機は?」 「復讐」  ぼそりと一言だけ呟いた。話にならない。  痛めつければ何か吐くとしても、今のラーマは一晩中歩き回り、最後に逃亡犯を捕まえるため屋根伝いに走ったせいでくたくただ。もうすぐ交代の時間がくる。しばらくは狭い留置場でゲロを吐きまくっている二日酔いの男たちと一緒にいればいい。引き取りまでには少しくらいは殊勝な態度になるだろう。 「お前の投げた火炎瓶が建物に引火して火事になったら、死ぬのは地元の人間だ」  ラーマも一言吐き捨て留置場から去った。  今回は現行犯で、未遂とはいえイギリス人警察官をふたりも殺しかけた。このままなら、よくて終身刑だろう。この国の法制度が狂っていることくらい、ラーマも知っている。イギリス人であれば罪人でも丁寧に扱われるけれど、インド人なら軽罪でも重大犯罪者扱い。逃げ道も用意していない、突発的な犯行で結果は殺人と放火未遂。あの身なりなら前科もなさそうだ。  だとしても、大英帝国が死刑を求めれば死刑となる。不均衡だ。  警察に潜りこんだのは人々に武器を届けるため、その目的のための仕事でラーマは様々なものを見た。インド人の娼婦を殺し、証拠もあったのに罪に問うことが出来なかったイギリス人。明らかに殺人だが、捜査されることなく打ち捨てられた不可触民の死体。現実が、ラーマの目の前にあった。  目を覚ましたくて、ラーマは洗面所で顔を洗った。悪いことばかり考えるのは、疲れているからだと自分を納得させようとした。清い水は悪いものを流してくれる。悪いことばかり考えるのは疲れているからだ。  会議室の人々はは片づけにかかっている。もし、火災に発展していたら今頃大忙しだ。基本的にラーマを見下し、同じ階級のはずなのに雑用係のように扱うあのふたりはもちろん嫌いだったが、ちゃんと消火できた点は評価に値する。  班の備品やアンテナ、ワイヤーを回収し、時間通りに班は撤退した。放火と殺人未遂のナーナー・サーヒブを置いて。  武器や装備を戻し、班長の指示もそこそこに長い任務は終わりを迎える。誰もが落ちそうになる瞼を必死に押し止め、ヘルメットで潰れた髪をかき上げ無言で解散した。  汗が染み込んだ制服から着換え、ラーマは帰路につく。今まで、疲れ切って気付かなかったが腹が減っている。そういえば夕食を取る暇なくパトロールへ向かわされた。食事といえば、味のしないビスケットを休憩中に紅茶で流し込んだだけ。  戒厳令は解かれたとはいえ、普段のデリーと比べて人通りが格段に少ない。少し歩き、いつも出勤前に寄る軽食や菓子、雑貨を売る屋台が今日も開いているのを発見した。 「チャイとプラタ、それと新聞をくれ」  いつもの無愛想な店主に注文し代金を支払い、湯気が立つチャイのカップを受け取る。忙しい夜を終えて飲むチャイは格別だった。デリーにしては静かな朝。これから仮眠を取ったらまた昼から仕事ということを考えなければいい朝だ。  プラタが焼き上がるまでの暇つぶしに読むため、積んであった新聞を一部取る。  新聞を開くと、思わず、カップを落としてしまった。素焼きの器は軽い音を立てて割れ、こぼれたチャイは靴を汚した。 『アムリットサルで虐殺事件 死者約三百人、負傷者千人以上』  一面の見出しに大きくそう書かれていた。ラーマの頭の中ですべてが組み合わさってゆく。班長が手帳にメモしていた三百と千という数字はアムリットサルでの死者と負傷者の数だった。ナーナー・サーヒブがラーマたちを人殺しとなじり、復讐のためにあの夜火炎瓶を投げた理由がわかった。  昨日、四月一三日の午後、ラーマたちが放送により集められる数時間前、アムリットサルのある広場で住人たちが集まりデモを開いていた。ローラット法によりデモ自体は違法だったが、彼らは民間人で武器は持っていなかった。なのに、イギリス人司令官レジナルド・ダイヤ将軍は彼らを強制的に排除した。住人が集まっていた広場には出入口がひとつしかなく、そこから一斉射撃が行われたという。 「兄さん、焼けたよ兄さん!」  新聞を夢中で読んでいたラーマはしばらくの間、店主の呼び声が聞こえなかった。軽く謝罪し、紙に包まれた温かいプラタを受け取る。  ふらふらと、脚は歩き出したがラーマの頭にあるのは虐殺事件のことだけ。自分は何一つ知らなかった。何も知らされなかった。班長は虐殺のことを知っていたはずなのに、班に、インド人に教える必要はないと判断したということだ。  ラーマは自分を優秀だと自負していた。班では一番の成績でそれは頭脳だけでなく、肉体的にも全てで勝っている。数字��噓をつかない。だが、認めなければ数字は意味をなくす。  十数年前の悪夢が蘇る。アムリットサルでも故郷のような惨状だっただろう。広場に集まっていた住人は一斉射撃により殺された。父だとしても、母だとしても、子どもだとしても、彼らは区別なく暴徒と扱い殺した。夥しい量の血が流れただろう。撃たれた住民は耳をつんざくような悲鳴をあげただろう。ラーマの記憶の中にある光景と同じものが、アムリットサルで起こった。  気がつけば帰宅していた。汚れた服が入っていた袋を落とし、ずるずると床に座り込む。手の中のプラタはすっかり冷えていた。
Bheem side
「今日はよく釣れたぞ!」  ビームは籠に入れた釣果を村人たちに見せる。まだ生きている魚たちはぴちぴちと跳ねた。まるまる肥えた川魚は焼くか煮込むか迷う。 「ビーム! そろそろ戻ると思ってマスタードシードを炒め始めたの、魚を捌いてくれる?」 「もちろん��  ロキの呼びかけで、ビームは魚を捌いた。血を抜き、内臓を取り出し、頭を落とし、皮を剥ぐ。そうして、食べるための肉にしてゆく。  魚の肝を投げるとサリイは上手く口で捕まえた。サリイは村の番犬だ。みんな忘れてしまったほど前、いつの間にかサリイは当たり前かのように村に住み着いた。番犬とはいえ年寄りのため、今はもっぱらマッリの遊び相手だ。  スパイスと野菜を炒めていた鍋にビームが捌いた魚が加わる。村中に香ばしい香りが広がる。 「ねえ、兄さん、ラッチュとジャングはどこ?」  サリイと遊んでいたマッリはナイフを洗っていたビームに質問した。 「婚礼に必要なものを買いに街へ行ってるんだ。二日後には戻るよ」  森で暮らすゴーンド族も時には街へゆく。基本は森からの恵みで生活は完結するが、時に必要なものがあれば少し離れた街へ買い物に行く。ものを買うついでに街で工芸品などを売って金銭を用意していた。  一週間後に村で結婚式が行われる。めでたいことなので、新婦の兄であるラッチュと付き添いのジャングが出かけていった。 「そっか、ラッチュと結婚式用の絵の練習台になるって約束したのに」 「そうだったのか、なら、おれを練習台にすればいい」 「いいの? 兄さん?」 「もちろん。マッリは絵がうまいからな、いくらでも練習台になる」  ビームの言葉にマッリの顔がパッと明るくなった。まだ子どもだが、マッリの絵の才能には目を見張るものがある。結婚式のため張り切る子の練習台になるくらい、ビームは喜んで受け入れる。 「マッリ! ご飯ができたよ!」  ロキの声が響く。夕食の時間だ。  二日後。  ラッチュとジャングは無事に結婚式用の荷物を村に持ち帰った。美しい装飾品に伸郎、荷車から荷物を降ろすビームに言う。 「アムリットサル……それはどこだ?」 「なんでも、パンジャーブ州にある村らしい」 「ずいぶん遠いところの話なのにここまで届いたか。よっぽどのことだな」 「よっぽどのことなんだ! おれとジャングが街に行ったらな、すごい雰囲気だったんだ。みんな苛立っていて、抗議運動とかしててな、おっかない感じだ」  話の雰囲気が不穏な方向に進んだため、ビームはラッチュを連れて村はずれまで向かった。 「それで、何が起こってたんだ?」  ビームが聞くと、ラッチュは気が動転しているらしく、長い髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら話す。 「あ、ああ、馴染みの工芸品店に商品を卸すついでに店主に聞いたんだが、アムリットサルで虐殺事件が起こったらしい」 「虐殺?」 「虐殺だ。村人たちが抗議集会を開いてたところに、ダイヤとかいう将軍が射撃命令を出して、殺したらしい……」 「――むごいな」  川の流れに手指を浸し、ビームはうめいた。  イギリス人たちの暴虐は僻地の村にも時々届く。羊飼いのため、必要がない限り村からはあまり出ないビームにとって、アムリットサルもイギリスも想像できないほど遠い土地だ。それでも、彼は一方的に殺される人々を悼む。殺しを憎み、被害者たちの痛みを感じることができる人間だった。 「なあ、兄貴、おれたちはどうしたらいいだろうか。街は怒りで満ちている。おれたちも加わるべきだろうか?」  ラッチュもラッチュで悩んでいた。イギリス人の暴虐を怒り、抗議する人々を警察官はラーティーで殴り、片っ端から逮捕していた。  彼の中で、人が一方的に殺されることは悪であり、それに抗議するのはいいことのはずだった。なのに、警察官たちは抗議者たちを悪人扱いした。正義がなされない世に、ラッチュは混乱していた。 「待て、ラッチュ」  怒りに震えるラッチュの肩にビームは手を置く。静かだが、威厳のある低い声で制止した。 「今は殺された人々の安寧を祈ろう。彼らの苦しみに寄り添おう。怒りに、呑まれるな」  兄貴分の言葉でラッチュは冷静さを取り戻した。 「今夜、村のみんなで殺された人々のために祈るんだ。生きていた人々のために」  低い声で言葉を重ねるビームにも怒りがないわけではなかった。暴虐は許されざることだ。今の世はダルマ(規範、真理、善などを含む概念)が失われている。しかし、ビームは羊飼いの責務が一番の優先事項だ。村人を守り、村を守護するべき存在だった。理由がなければ村を離れることもできない。 「そうだな、兄貴。その通りだ」  諭されたラッチュの表情はすっきりとしていた。 「婚礼用の花を少しわけてもらおう。亡くなった人々のため、川へ流そう……」  
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