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#いやあああでも高校生組は高校卒業しても高校生組だと呼んでもいいかな・・・
koch-snowflake-blog · 3 months
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中井 りかは、日本のタレント、女優、YouTuberで、アイドルグループ・NGT48の元メンバー。愛称は、りか姫、りかちゃん。富山県富山市出身。太田プロダクション所属。 ウィキペディア
出生地: 富山県 富山市
生年月日: 1997年8月23日 (年齢 26歳)
音楽グループ: NGT48 (2015年から)
テレビ番組: 青春高校3年C組、 ふわり愛、 今日から友達になれますか?、 さらに表示
身長: 156 cm
事務所: 太田プロダクション
活動期間: 2015年 -
富山県の立山連峰が見える郊外の住宅地で育った。幼稚園の頃は人前に立つのが好きな「何をしても目立つ子」であったが、小学生になると、周囲となじめなかったことから、なるべく地味にしていようと心に決めていた。そのような環境の中で慰めてくれたのが、AKB48などのアイドルたちであり、自分もアイドルになりたいと思うようになったが、高校では保育士を目指し勉強していた。しかし、アイドルの夢を捨てきれず、2014年 AKB48 Team8 全国一斉オーディション富山県代表に応募。最後の2人まで残ったとの連絡は受けたが、その後の電話連絡に出られず次点となり落選。
翌年、高校3年生の時にNGT48第1期生オーディションに応募。 最終審査に残った場合、次回の48グループのオーディションは最終審査まで免除になるが、それを忘れ書類審査から参加。 2015年7月25日、NGT48第1期生オーディション最終審査に合格し、同年8月21日に新潟市歴史博物館(みなとぴあ)でお披露目された。
2016年1月10日、『NGT48劇場グランドオープン初日公演』に出演。同時に他の15名とともにチームNIIIを結成。同年11月16日発売のAKB48の46thシングル「ハイテンション」で初めてAKB48のシングルの選抜メンバーに抜擢。同年12月、ライブストリーミングプラットフォームSHOWROOM上で2016年に視聴者から多くの支持を得たパフォーマー(SHOWROOMER)を表彰する『SHOWROOM AWARD 2016』における「BEST AKB PERFORMER」を松井珠理奈(SKE48)、野村奈央(当時AKB48)とともに受賞した。同年12月31日、第67回NHK紅白歌合戦に投票企画「AKB48 夢の紅白選抜」で33位に選ばれ、AKB48として出演。
2017年4月12日発売のNGT48のデビューシングル「青春時計」ではセンターポジションを務めた。同年5月30日から6月16日にかけて投票が実施された『AKB48 49thシングル選抜総選挙』において23位になり、アンダーガールズに選出される。同年11月17日にAKSから太田プロダクションへの所属事務所移籍を自身のSHOWROOMにおいて発表し、同年12月、太田プロダクションの公式ホームページに掲載された。
2018年1月15日に自身初のソロコンサート『中井りかソロコンサート〜中井りかキャンペーン中〜』をTOKYO DOME CITY HALLにおいて開催した。
2018年4月2日から「青春高校3年C組」の副担任(サブMC)としてレギュラーで出演(月~金、2020年3月27日まで)。番組内で出演者からは、りか先生と呼ばれていた。その後も様々なバラエティ番組のMCとして出演。
2018年6月16日に発表された『AKB48 53rdシングル 世界選抜総選挙』では37位となり、ネクストガールズに選出された。
2022年6月29日発売のNGT48 1stアルバム「未完成の未来」に収録のリード曲「しそうでしないキス」では、小越春花とダブルセンターを務めた。
2023年4月12日、デビューシングル『青春時計』リリース6周年記念イベントにて、グループ卒業を発表。卒業時期は同年夏ごろを予定しているとした。 同年8月2日発売のNGT48 9thシングル「あのさ、いや別に...」では、2度目のシングル曲センターポジションを務めた。
同年8月5日、「中井りか卒業コンサート〜推し変禁止は絶対命令〜」を新潟県民会館大ホールにて開催。 同月31日、NGT48劇場での卒業公演をもってNGT48から卒業
幼稚園のころからアイドルが好きであったが、小学生の時いじめられていた時期とも重なり、AKB48が出てきたころは自分は「アイドルになんてなれない」という思いや嫉妬心から「AKBなんて嫌いだし」と思っていた。しかし、心を動かされていることは自分でもわかり、ファンになっていった。
AKB48グループでは板野友美、小嶋陽菜を応援していたが、渡辺美優紀が「絶滅黒髪少女」のセンターで踊る姿に惹かれて以来、渡辺一本になったという。中井は渡辺を彷彿とさせるといわれ、NGT48に加入した当初は「釣り師」と呼ばれていた。性格はネガティブであり「豆腐メンタル」である。
  
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kennak · 4 months
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政策を充実させ、移民・難民も寛容に受け入れた結果、スウェーデンでは凶悪犯罪が急増した。2022年9月の総選挙では、難民受け入れに積極的な姿勢の左派政権が敗れている。「理想の福祉国家」とも言われたスウェーデンはどこで道を間違えたのか? 問題だらけのスウェーデンの移民政策について、博覧強記の郵便学者・内藤陽介氏が詳しく解説します。 ◇移民・難民の不正が問題となったスウェーデン スウェーデンは、第二次大戦後の急速な経済成長に伴って移民労働力を積極的に受け入れ、難民にも寛容な政策をとってきました。しかし冷戦の終結以降、そうした外国人に寛容なイメージがあだとなり、「とにかくスウェーデンに行けばなんとかなる」と各地の紛争で生まれた難民たち(および“福祉のタダ乗り”目当ての外国人たち)がスウェーデンに庇護を求めて押し寄せます。 それに加えて、この頃になるとスウェーデン経済の成長も鈍化していたことから、それまで安定していたスウェーデン社会と移民・難民のバランスが一気に崩れてしまいました。 当時、特に問題になっていたのがトンデモ移民・難民の不正です。 どういう不正かと言うと、まずアフリカなど(特にアフリカが多かった)から何もわからない幼い子どもだけを飛行機などに乗せて、先にスウェーデンに送り込みます(極端な例としては、生後10カ月の乳児が一人で飛行機に乗せられていたケースもありました)。 そして、その子どもがスウェーデン政府の手で保護されて、スウェーデンの市民権を得たあとで「あの子は私の子どもなんです」と“親”が名乗り出てきます。つまり、自分も親権を理由にスウェーデンの定住権を得ようとするわけです。 この手の不正が年間2000件にも及んだため、1994年には、スウェーデン移民庁と外国人委員会は、難民の家族呼び寄せに関する規程を一部変更します。前述のような悪質なケースに対しては、あとから名乗り出た親ともども問答無用で強制退去処分にするなどの対策を講じました。 しかし、それも結局は焼け石に水でした。それほど「スウェーデンに行けばなんとかなる」と思われていたのです。 一方、当時スウェーデン国内では左派・リベラル系の移民寛容勢力が強く、“現場”の混乱を無視して「スウェーデンは移民・難民に寛容な国であるべきだ。もっと彼らを受け入れるべきだ」などと訴えていました。 1995年1月のEU加盟時にも、スウェーデンの移民・難民政策が英仏など欧州諸国の移民政策に合わせて制限されることへの反発が少なからずあったそうです。当時はEU加盟反対派にも、いろいろな意見があったのですが、左派・リベラル系の人たちは「EUは移民・難民の受け入れに厳しすぎる。あんな偏狭な連中とスウェーデンは一緒になるべきではない。EU諸国をもっと移民・難民に開放しろ」と言っていました。 本当に困っている難民や、スウェーデンで一生懸命に働いて社会に適応しようとしている移民ならともかく、単に福祉のタダ乗り目当ての外国人がこれ以上増えるのは、一般国民からするとたまったものではありません。 そうした背景もあって2006年9月の総選挙では、当時の連立与党であった社会民主労働党が、福祉国家路線への政策転換や年金資金の運用改革に大失敗したことから支持率が急落し、保守系の穏健党が97議席を獲得。社会民主労働党の130議席には及ばなかったものの、中道右派各党の合計では左派連合を凌駕しました。 穏健党党首のフレドリック・ラインフェルトが首相に選出され、約12年ぶりに保守政権が発足しました(スウェーデンでは1党だけで政権をとるのが難しいため左派・リベラル系政党と右派・保守系政党がそれぞれ連合して政権の座を争う形になっています)。 ◇銃による殺傷事件発生率は欧州最悪レベル ラインフェルト政権は、従来の福祉政策の一部を見直し、スウェーデン人の雇用拡大を目指して、減税や規制緩和・失業保険の削減・国営企業の民営化などに取り組みました。 しかし、移民・難民の流入制限については抜本的な改革を行えないまま、2014年9月14日の議会選挙で、ステファン・ロベーン率いる社会民主労働党主導の野党3党(中道左派連合)に比較第一党の座を奪われ敗北。退陣を余儀なくされました。 こうして保守派から政権を奪い返した左派政権は、あらためて難民受け入れに積極的な姿勢を示し、2015年には、シリア・イラク・アフガニスタンなどの難民16万3000人の受け入れを決定したのです。これらの地域からの難民は、識字率が極端に低く、またイスラム原理主義的な思想の持ち主もたくさんいました。 そのため、国民にはこれを不安視する人も少なくありませんでした。それに対して、ロベーンらは「強い国は(国外の問題にも)対処する」「私の知るヨーロッパは難民を受け入れる」「私のヨーロッパは国境に壁を建てない」などとうそぶき、「難民受け入れに否定的なヤツは差別主義者だ!」と言わんばかりの態度をとっていました。 しかし、当たり前の話ですが、スウェーデン語を習得しようとせず、スウェーデン社会の習慣・ルールになじもうとしないまま、スウェーデン政府の福祉に依存するだけの外国人が、スウェーデン社会に適応できるはずもありません。当然の帰結として、スウェーデンでは、ドロップアウトした移民・難民とその子孫による犯罪が急増します。 ドロップアウトした親を見て「俺はこんなふうにはならないぞ!」と努力して立身出世する人もゼロではないでしょうが、やはりドロップアウトした親から“犯罪者予備軍”が再生産されるケースのほうが圧倒的に多いわけです。 スウェーデンでは、銃による殺傷事件の発生率は、2000年頃には欧州最低レベルでしたが、積極的に難民を受け入れるようになってから急増し、イタリアや東欧を軽く追い抜いてしまいました。 現在では欧州最悪レベルになったうえに、北アフリカからの移民二世を中心メンバーとしたギャング団による麻薬や銃の密輸も横行しています。クルド系経済学者ティノ・サナンダジは著書で「長期服役者の53%、失業者の58%が外国生まれで、国家の福祉予算の65%を受給しているのも外国生まれの人々」「スウェーデンの子どもの貧困の77%は外国にルーツを持つ世帯に起因し、公共の場での銃撃事件の容疑者の90%は移民系」だと指摘しています。 このため、さすがに近年では、スウェーデン国内でも、移民・難民の受け入れに対して消極的な世論が支配的になってきました。 2021年11月30日に首相に就任したマグダレナ・アンデションは、新党首としての演説で、左派の“お作法”通り、新自由主義に対する福祉国家スウェーデンの勝利を祝いながらも、国内の200万人強の難民・移民に対して「あなた方が若いなら、高校卒業資格を得て就職するか、進学しなさい」「(国から経済的支援を受けている人は)スウェーデン語を学んで週何時間かでも働いてほしい」「この国では男女ともに働いて社会に貢献している」と訴えています。 ようするに「みんなちゃんと働いているんだから、あなたたちだけが福祉にタダ乗りするのは勘弁してください」というメッセージをマイルドに伝えたわけです。 しかし、銃器による死者は翌2022年9月のはじめまでに50人近くにのぼり、すでに前年1年間の犠牲者数を上回ってしまいます。アンデションは「犯罪の根源に対し総攻撃を行う」と宣言して対策を急ぐも、まったく成果が上げられませんでした。 2022年9月の総選挙は、そういう状況下で行われたわけですから、左派連合が負けるのも当然だったのかもしれません。 内藤 陽介
福祉国家の敗北!?「移民政��」によって急増したスウェーデンの犯罪率(WANI BOOKS NewsCrunch) - Yahoo!ニュース
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parkhabiomaster · 1 year
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ザ・パークハビオ
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江戸川区の最大の特徴は、区民の平均年齢が41.4歳と23区の中で最も若いことです。 これは、特に子どもの数が数字に反映されるためで、平成24年1月1日時点の東京都の市区町村別年齢別人口統計によると、0歳~14歳の人口比率は約17%を占めています。 私はここにいます。 国勢調査のデータによると、28.3%が既婚子持ち世帯、19.0%が4人以上の世帯、3.35%が3人世帯で、いずれも23区の中で最も高い。 合計特殊出生率は 1.45 で、23 区平均の 1.16 を大きく上回っています。 江戸川区といえば、東京東部臨海部の繁華街を代表する区の一つですが、太平洋戦争では大型台風の直撃や家屋倒壊など大きな被害を受けました。 . 海抜が低い地域と揶揄され、津波や洪水の危険性が高いことが懸念されています。ザ・パークハビオ
臨海部の住宅開発により、子育てしやすい区として多くの若者の流入に成功しています。 ディズニーランドに行きやすいところも、子育てファミリーの魅力の一つかもしれません。 支援制度は子育て世帯だけでなく、中高年向けの「家賃補助制度」や高齢者向けの配食サービスなども充実。 区内のスポーツセンターも温水プールなど設備が充実しています。 やはり海抜の高い地域が多く、自然災害のリスクが高いからです。 しかし、家賃が安いので外国人も多く住んでおり、国際色豊かな街です。 492haの広大な敷地を持つ葛西臨海公園は緑豊かで砂浜もあり、日本の渚百選にも選ばれています。 動物園併設の公園もあり、区内の公園面積は756haと23区の中で最大です。 水族館では魚も見ることができます。 区内を流れる江戸川や那珂川でも自由に遊べます。 荒川沿いには2003年に小松川千本桜、2013年には新川千本桜が完成し、多くの市民に人気の花見スポットとなっています。 江戸川区は若者の流入が活発ですが、江戸時代から庶民の街として栄えた長い歴史を持つエリアです。 江戸川区には伝統工芸品や特産品もあります。
江戸切子は東京都の伝統工芸品の一つで、主に江東区、江戸川区、墨田区などで作られています。 ガラスの表面に金の板や砥石を使って様々な模様を刻む技法です。 18世紀初頭頃から鏡、眼鏡、風鈴などの製造が始まり、明治時代に入るとヨーロッパの技術が導入・近代化され、東京の地場産業となりました。 2002年には東京都の伝統的工芸品に、2014年には経済産業省より国の伝統的工芸品に指定されました。 もうひとつ、江戸川区を代表する商品が小松菜です。 江戸時代の将軍が江戸川区の小松川村に鷹狩りに訪れ、小松菜の入った澄んだ汁を好んだことから村名がついたと言われています。 江戸川区は今でも作付面積第1位。 カルシウムや鉄分を多く含み、今や全国どこでも一年中食べられる野菜になりました。 現在、江戸川区がこの小松菜のブランド化に取り組んでおり、生で食べられる新しいサラダ小松菜が誕生しています。 近年、急激な人口増加により若い世代に人気の江戸川区ですが、治安面で不安の声も多くあります。 子供が多く、ディスカウントスーパーもあり、都心へのアクセスも便利という利点から、空き巣や強盗などの犯罪が多発しています。 長い間、江戸川区は北側を鉄道しか通っていない交通アクセスの悪さから「孤島」と呼ばれていました。 1969 年の東西線開通、1983 年から 1986 年の都営新宿線開通以降、この問題は徐々に改善されてきた。
現在、都心と千葉エリアを結ぶ東西線は完成していますが、区の南北を結ぶ鉄道路線はなく、交通手段はバスのみ。 バスの路線数を増やすなどの対策がとられていますが、1世帯あたりのマイカー保有率は23区内で5位であることからもわかるように、クルマは生活の必需品です。 杉並区は23区の西部に位置しています。 区名は青梅街道沿いに杉の木が植えられたことに由来するが、現在はそのような木はない。 杉並区は、関東大震災後、多くの人が杉並区に移り住み、郊外住宅地として発展してきました。 緑被率は23区で3位、人口密度は11位というデータを見ると、広々とした住宅が立ち並ぶ街であることが想像できます。 震災後に杉並区に転居した者のうち、富裕層は防災のため都心部には戻らず、杉並区にとどまり、広々とした邸宅を建てて優雅な生活を送った。 戦前から文人や画家など多くの文化人が暮らしてきた。 杉並区は、専業主婦の就業率23位、専業主婦率1位、シングルマザー率1位、離婚率23位、高卒大学進学率が高い区です。 . 東京の山腹を代表する住宅地の多いエリアです。 そして杉並区の魅力はそれだけではありません。 沿線には若者が多く住むエリアがあり、安くて魅力的なお店が並んでいます。
意外にもレジャーマダムだけでなく、若い人も多いです。 杉並区は専業主婦が多く、広々とした家で優雅に暮らすだけではありません。 杉並区に住む年齢層別の住民比率を見ると、18~29歳の若者の割合は男性4位、女性2位、全体では3位です。 中央線沿線の吉祥寺、荻窪、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺エリアに多くの若者が住んでいます。 個性豊かな雑貨店や古着屋、古本屋、ジャズ喫茶、ライブハウスなどが軒を連ねるエリアです。 生活しやすい大きな商店街もあり、乗り換えなしで移動できる新宿へのアクセスも非常に便利です。 昭和の高度経済成長期に生まれ育った人にとっては、広大な土地を持つ一戸建てが杉並の生活かもしれませんが、20代の若者にとっては、音楽や古き良き文化、 、 バラエティショップに囲まれ、毎日刺激を受けながら生活を楽しめるのが杉並の魅力です。 この2つの特徴が、杉並区が住みたい街として人気の理由です。この2つの文化がうまく受け継がれ、融合し、独自の杉並文化が生まれています。 現在、杉並区では音楽を通じたまちづくりに積極的に取り組んでいます。 設備の整った公会堂や毎年恒例の音楽祭など、音楽の街としての地位を築いてきた杉並区。
アニメも地場産業の一つと捉え、その発展支援にも取り組んでいます。 荻窪音楽祭は杉並区を代表する音楽活動の一つです。 21世紀荻窪考える会が主催し、クラシックコンサートを通じて荻窪のイメージアップに貢献してきました。 荻窪駅周辺の銀行、協会、音楽スタジオ、喫茶店など様々な場所で期間限定で音楽フェスが開催されます。 運営スタッフを募集し、ボランティアで開催しています。 無給のスタッフに加え、街のバリアフリー化や音楽祭開催のスポンサーを募り、音楽祭の資金を募っています。 区民が運営側と出演者に分かれて開催する荻窪音楽祭は、2016年で28回目を迎え、町おこしの一大イベントに成長しました。荻窪音楽祭の他にも、 もう一つの有名な音楽イベントは阿佐ヶ谷ジャズストリートです。 1995年のスタート時は、小学校の体育館や企業ロビー、ライブ会場など13会場で開催されていましたが、現在では60会場以上に規模を拡大。 音楽の力で街を元気にするために始まったこのイベントも、地元の有志によって運営されています。 全国に600のアニメスタジオがあると言われ、そのうち70以上がここ杉並区にあります。 杉並区にアニメ関連の企業が多く設立されたのは、自社の住居を確保したことと、交通の便がよかったからです。
杉並区は都心へのアクセスが便利なだけでなく、静かで広々とした緑豊かな環境で仕事に没頭しやすい環境です。 杉並区は、日本で初めてアニメを地場産業として位置づけ、その発展を後押ししています。 2014年3月には、線路下にアニメ関連のショップが集まった施設「阿佐ヶ谷アニメストリート」をオープン。 日本のアニメーションの歴史を紹介するアニメーションミュージアムも開館し、展示のほか、ワークショップやアニメーションの上映会など、さまざまなプログラムが用意されています。 アニメウォークという街歩きイベントも。 アニメーション制作者と視聴者が交流する場として、アニメーション産業の発展をサポートするイベントです。 練馬区は、1947年8月に22区制であった板橋区から分離して設置されました。 練馬区は、東京都の北西部に位置し、23 区の中で最も標高が高く、面積は 23 区で 5 番目、人口は 2 番目です。 まだまだ畑が多いことから「緑豊かな区」というイメージを持たれている方も多いと思いますが、区は農地だけでなく公園もたくさんあります。 緑の多い練馬では、農業が主要産業の一つです。 2013 年 1 月現在、農地面積は 240ha で、23 区の中で第 1 位です。 農家数も372戸と1位ですが、33%の農家が農地面積0.3ha以下、約4割が農家収入0~49万円、500万円未満です。 9割のデータを見��と、大規模な農業をしている人は少ないことがわかります。 1975 年に 746 ヘクタールの農地と 1,342 戸の農家があったことを考えると、農業が衰退していることは明らかです。 農業以外にも、練馬の知名度を上げたアニメがあります。
練馬区には、90 を超えるアニメ関連企業、大学の芸術学部、音楽大学もあります。 都心へのアクセスの良さ、緑豊かな環境、家賃の安さは漫画家志望者の求める条件であり、日本を代表する漫画家が次々と誕生しました。 農業では地元の特産品をブランド化することが多いですが、かつて練馬には練馬を代表する野菜である大根がありました。 練馬大根は江戸時代から盛んに生産され、明治時代になると日清戦争や日露戦争により需要が高まり、その名は国内外に知られるようになりました。 大正時代になると、首都東京に人口が集中し始めます。 この頃から、練馬地区は都心部の農産物の供給拠点となり、その役割は年々強くなっています。 最近では大根の生産も盛んです。 練馬の農業は、鉄道の開通により流通が活発化し、拡大期を迎えました。 練馬大根の最盛期は、明治末から昭和初期の約25年と言われています。 昭和の終戦とともに、それまで大根漬けの一大供給地であった軍部の解体により、大根の生産は衰退し始めます。
大根の収穫は大変だったので、農家は大根からキャベツに主力生産を移しました。 現在、大根は練馬ではほとんど生産されていません。 農地面積は、1975 年の 745.6ha から 239.8ha へと減少し、2012 年度には 3 分の 1 以下となった。 練馬区内の農家・農家数は、1975 年の 1,342 世帯・7,232 人から 2012 年には 498 世帯・1,075 人に減少している。 、ブルーベリーとブドウ、およびその他の植物の 3,549 ヘクタール。 平成23年度東京都土地利用面積データによると、練馬区の農地利用率は区総面積の5.1%で第1位。 23区で最も農業が盛んな地域ですが、全体として農業の規模は縮小傾向にあります。 農産物の出荷量や作付面積は減少していますが、練馬区ではこれまで培ってきた農業のノウハウや既存の人材を活かし、農業を観光資源として活用しています。 大都市東京に近いという利便性を活かし、練馬区には現在約30のブルーベリー農園があります。 農業を観光資源化し、他地域から多くの観光客を呼び込む練馬の生き残り策の一つとして注目されています。 また、小学校での総合学習の一環として、区内の田んぼや果樹園を積極的に小学校に開放し、次世代への農業振興を積極的に行っています。 小中学校での田植え、カキやキウイの選別、受粉・収穫、野菜くず・残飯などの体験を通じて、子どもたちの農業への関心を高める活動。 肥料にリサイクルされています。 日本のアニメーションは、その技術とソフトウェアの両面で海外から高く評価されるようになりました。
練馬区は、日本一のアニメタウンとしてアニメ発展の歴史に深く関わってきました。 区内のアニメーションスタジオが日本初のアニメーションを制作し、1963年にはテレビでアニメの放送が始まりました。 当時の漫画家や後に有名になった漫画家のほとんどが練馬区で働いていました。 現在でも90社以上の関連会社が練馬に集まっています。 練馬区では、区が主体となってアニメ産業を戦略的に強化するための政策を策定するとともに、多数のアニメ関連産業を誘致することで区内産業全体の活性化に向けた活動を行っています。 国勢調査によると、2000年から2005年までの中央区の人口変化率は135.7%、2005年から2010年までは124.8%でした。 どちらのデータも、日本で最も高い人口増加率を示しています。 これを見ただけでも、中央区がますます人で賑やかになっていることが想像できます。 また、2020年のオリンピックに向けて、晴海に選手村が建設され、敷地内に約6,000戸の住宅が建設されます。 江戸時代から現在に至るまで、日本の文化・商業・情報の中心地として発展してきた中央区は、今後も人口が増加し続ける日本最大級のメガシティとして君臨しそうです。 順調そうに見える中央区ですが、紆余曲折がありました。 現在増加傾向にある人口は、1960 年から 1980 年までの 20 年間で 16 万 1000 人から 8 万 3000 人に減少しました。失われた人口を補うために、区は住宅建設を促進するためのさまざまな政策を導入しました。 中央区は区内定住者数の増加に成功したものの、その生活を支えるスーパーマーケットなどの商業施設や、子育て世帯が望む大規模な公園が不足しています。 便利で住みよい街を目指した地域づくりが今後の課題と言えます。 中央区だけでなく、現在の千代田区や港区などトップクラスの23区でも入居者が減少。ザ・パークハビオ
この時期は「都市のドーナッツ化現象」と呼ばれた。 高度経済成長期と呼ばれる1954(昭和29)年から1973(昭和48)年は、急速な都市化の時代でした。 石炭から石油へとエネルギーが変化する中、東京湾沿岸には次々と工場が建設され、産業が発展していきました。 都市部の工業化が進み、所得が増加した結果、裕福な人々はより良い生活を求めて広々とした家に住みたいと思うようになり、郊外に一戸建てを購入するようになりました。 私はそうでした。 この時期、都心部の大企業のオフィスや工場が集中する地域から、快適な住環境を求めて人々が離れていった。中央区では1957年から人口が減少に転じた。 バブル期に入り、中央区の地価が上昇したことで人口はさらに減少し、2000年1月1日現在、69,695人にまで落ち込んでいた。 バブル期の終焉後、都心部の不動産が大量に解放され、比較的安価な住宅が大量に供給されるようになり、都心部に住む人が増え始めました。 これがアーバンリターン現象の始まりです。 中央区は1981年に定住人口10万人を宣言し、1988年には定住人口回復の年を宣言した。 続々と紹介されています。 これらの施策により、長年減少傾向にあった中央区の人口は1998年から増加に転じました。 隅田川流域の住宅開発により、30~44歳の子育て世代の割合は33.9%を超えています。 これは、23 区の平均である 26.0% を大幅に上回っています。 2005 年から 2010 年までの 6 歳未満の子供の人口増加率は 56.0% と、23 区の平均である 5.7% をはるかに上回っています。 2020年東京オリンピックを控え、全国から注目を集めるエリアとなる中央区。 人口が増加の一途をたどる一方で、生活関連施設の整備が遅れています。 前述のように、日常の買い物ができる店舗はまだまだ不足しています。 大型スーパーはなく、食品スーパーも少ない。 ミニスーパーも増え、買い物の悩みも少しずつ解消されつつあります。 また、緑被率が23区内で最も低いことからもわかるように、緑のある公園の数は非常に少ないです。
浜離宮公園を除く公園面積率は23区中20位。 小さいお子さんがいるご家庭にとっては、外で遊べる場所がないというのは深刻な問題です。 現在、中央区内にはオリンピック選手村跡地や築地市場跡地など、いくつかの再開発候補地があります。 これらの広大な敷地を今後も住居専用にするのか、それとも緑の広場を追加するのかについては、議論の余地があります。 東京都が作成した東京都の人口によると、千代田区の人口は昭和35年以降減少傾向にある。 都心復帰の影響。 2016 年 1 月 1 日現在、千代田区の人口は 55,131 人です。 東京23区の中でも大きな役割を担う千代田区は、一言で言えば昼と夜の人口差が最も大きい区です。 昼間は人口が多く、夜間と夜間の差は20倍。 日本一にぎわうオフィス街には家がほとんどなく、夜もほとんど人がいません。 千代田区は23区の中で最も人口が少ない区です。 居住者が非常に少ない地域です。 夜間の人口が少なく、昼間の人口が多いということは、この区は昼間に多くの人が働きに来る場所です。 千代田区は業種別に分類しやすいです。 丸の内や大手町は大企業が集積するビジネス街であり、日比谷や有楽町は銀座の繁華街に近いため商業施設や娯楽施設が充実しています。
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tanakadntt · 11 months
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唐澤さんオタオメ〜
シリアス
大人のする未来の話
一 未来の話
「三輪くんは幹部候補じゃないよね」
問われた三輪秀次は何とも言えずに無表情で彼を見返した。
実際、何も言えない。わからない。わかるわけもない。
いや、どうだろう。遠征選抜試験の直前である。
隊員である自分には全容は明かされてはいないが、伺い知ることのできる内容を鑑みるにわかっておかないといけないことのようだ。
ボーダー内での自分の立ち位置、自分の能力、自分の意志をはっきりと認識しておく。
ロジカルにもフィジカルにもメンタルにも厳しい試験だ。三輪隊では、古寺の一次試験からの参加が既に決まっている。古寺頑張れ。古寺偉い。お前ならできる。
黙っているのをどう受け取ったか、
「そんなに警戒しないでも」
同じ城戸派だろと唐沢克己はニコリと顔に屈託のない笑みを乗せた。
まだ、誰もいない会議室だ。出張から今朝帰ってきて時間が中途半端に余っちゃってね、早めにきたのだと言う。三輪は会釈をして壁際に立った。
あまり唐沢と話したことはない。苦手ではない。話すことがないだけだ。忙しい人であるし、接点も少ない。この人のおかげでボーダーがまわっていると皆が口を揃えて言う。三輪もそう思う。ボーダーがボーダーたり得る体裁を保っていられるのはこの人の働きによるものだ。
そして、今回の選抜試験の最終的な決定権を持つ一人でもある。A級部隊は��式には戦闘試験からの参加となるが。
この質問は、試験の一環なのだろうかと三輪は考えた。参考程度の。
「上層部の決めることです」
「自信があるんだね」
そう返されて、戸惑う。挑発的とも取れる言葉と裏腹に唐沢からは敵意は感じられない。むしろ、彼は不思議そうに首を傾けた。
「君はここについて知らないことが多いだろうに」
「……」
ボーダーには、旧ボーダー時代に繋がる秘密がある。古参隊員と言われる自分でも触れられない部分だ。
上層部と、さらに昔から在籍する者たちがその秘密を共有している。
その僅かな人間同士は、化かしあい、足を引っ張り合っているのを三輪は知っている。だから、深く知らないほうがいいと思っていた。
あの人たちが仲がいいのか悪いのか、いつも判断に苦しむ。真剣ではあるが、彼らの化かし合いは時として楽しそうにも見えるのだ。
現に目の前の唐沢など生き生きとしている。三輪は唐沢が自分との会話の時間を取りたくてわざと早く来たのだとようやく悟った。
「隊員ですから」
知る必要がないと判断されたら、知らないままでよい。
言外に伝えると、
「殊勝だねえ」
と笑われた。
「期待してるんだよ、頑張ってよ城戸派筆頭」
城戸派閥最大の人物はあなたではないかと言いかけて、三輪は黙った。
「未来の話だよ」
急に唐沢の体が大きくなってその影に入った気がした。
「ねえ、君、幹部候補じゃなかったら何だと思ってる?」
ニ 大人の話
唐沢克己は林藤匠を待っていた。
本部地下の駐車場へ続く廊下である。会議は遅くまでかかった。この時間は歩くものはいない。
「唐沢さん、何か…?」
「長期遠征選抜試験の前にね、ちょっと」
唐沢は話をしませんかと誘った。
駅前のコーヒーショップは酒類も出すから遅くまでやっていて、しかも喫煙席がある。年々、愛煙家は肩身が狭くなる一方だから、貴重な場所だ。唐沢は根付に苦い顔をされながらも本部建物内喫煙を死守している。林藤玉狛支部長は貴重な煙吸いの同士であった。
コーヒーを飲みながら煙草を吸う、という一見器用な真似を
しながら、唐沢は口を開いた。
「今回はお金を遣いますよ」
「ああ、まあねえ」
メディアの前で大々的に打ち出した長期遠征のことである。
のんびりと林藤は煙を吐き出す。
元々、ボーダーはお金を浪費するばかりの組織だ。近界の技術や情報を小出しに売ってもこちら側には役に立たないことも多い。玄界は役に立つことが金になる世界なのだ。
遠征の予算を計上した結果、はじき出された莫大な金額を思い浮かべた。
「でも、唐沢さんなら大丈夫でしょ」
林藤が続けると、私が何もしなくてもお金は入ってきますと唐沢は肩をすくめた。
「遠征とは随分魅力的な言葉らしくてね。
目ぼしいところはみんな我先に出してくれます。乗り遅れたくないんでしょうね」
支援者は国内だけではない。企業だけでもないことを唐沢は告げた。
思いのほか、でかい話になったと林藤は思う。
近界は、もはや得体のしれない異世界ではなく、利益を生み出す可能性を秘めた新天地であった。利権争いはもう始まっている。玄界は役に立つことが金になる世界なのだから。
拉致被害者の救出を掲げた遠征がどのような結果で終わろうとも、一度出来た道は閉じない。近界もこちら側も今までと同じではいられないだろう。トリオン研究も金があれば、さらに進む。
この遠征をきっかけとして、二つの世界は大きく変わっていくはずだ。
「この流れを作ったのが、わずか十五歳の少年とは、」
「随分、三雲を買って頂いているようですが」
林藤は唐沢の言葉を遮った。が、彼は構わず続けた。
「あの年齢であの胆力、気に入っていますよ。いやはや、先が楽しみだ」
唐沢は本当に楽しそうに最後まで言ったあと、不意に話題を変えた。
「遠征試験は幹部候補の人選も兼ねていますけど」
「そうですね」
唐沢は少し声を小さくした。
「僕も卒業の準備かなと思うわけです」
「ご冗談を」
林藤は二本目の煙草に火を点ける。唐沢との密談はたまにある。一方的に彼が誘い、本部側の情報を伝えて終わる。その情報に見合うだけのものを彼が欲しいときだ。
「外務部長のお仕事がさらに忙しくなるのはこれからでしょう」
「だからこそですよ。何事も準備がものを言います」
唐沢の言い分にも一理ある。支部長は気楽でいいと林藤は思ったが、心のうちに留めておいた。
そして唐沢は意外なことを言った。
「今度の遠征試験で見つけられたらと思ってますよ、僕の後継者を」
「後継者ですか」
五年近く前に城戸に請われて来た仕事請負人だ。請け負った仕事が終われば、いつかいなくなるかもしれないと思っていたが、後継者とは。
「唐沢派の誕生ですか?」
揶揄すると、動揺もせずにニコリと笑った。
「とんでもない。ボーダーに拾われて五年、城戸さんの元にいて考えを改めることもあってね、僕なんぞでも若者たちに残せるものがあればと思いまして」
若者たちの将来にね、と唐沢は言う。
若者のためと言いながら、辞めていく隊員の記憶操作をし、三雲を利用しようとする。二枚舌も甚だしい。林藤は本部の、城戸のやり口が嫌いだ。
わずかに眉を寄せて不快感を示した林藤にお構いなしに、唐沢は続けた。
「それで、城戸さんは誰を後継者に考えてるんでしょうね」
「先ほどね、会議前にちょっと三輪くんと話したんです」
話題転換が多い男だ。三輪秀次もまた利用されている子どものひとりだ。あれよあれよと言うに城戸派筆頭などというものに祭り上げられている。
「僕たち、こんなに先のことを考えてるのに今日、三輪くんと話したら、先のことを考えてないって言うんですよ。ただ、高校卒業後はボーダーに専念したいと」
参ったなあ、と煙草を持った手で形のいい眉毛をなぞる。そんな仕草が似合う。唐沢は伊達男だった。
「若者の特権ですよ」
「木ばかり見て森を見ない」
「それも特権です」
恐らく二つの未来があるんです、と唐沢は続ける。
「交流が始まっても、いや始まるからこそ、紛争が多発するのはどこの世界でもそうでしょう」
政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であると言ったのは誰だったか。
「ポストボーダーの未来の一つは現ボーダーをさらに拡充し、あちら側からの防衛を全世界に広げた機関」
地球防衛隊ですね、と呟く。その言葉はひどく滑稽に聞こえた。
「そして、もうひとつ。現在とまったく違うボーダー。
僕がここに呼ばれたのは、元々、民間組織として独立するためです。
ボーダーが民間組織である必要性を常々考えているんですよ。
国家に所属しない何か。こちら側にもあちら側にも与しない。
それはもう第三勢力と考えてもいいんじゃないですか」
「実は、僕は城戸さんは防衛機関をさっさと誰かに譲って、そちら側に行ってしまいたいんじゃないかと思ってる」
「旧ボーダー、現ボーダー、ポストボーダー」
歌うように唐沢は単語を並べた。
夢のような話だ。林藤は釘を刺しておくことにした。
「後継者を三輪とお考えのようですが、彼は選択外でしょう。未熟ですよ。もっと向いている人材はたくさんいる。幹部の中からさらに選ぶという選択肢が現実的ではないですか?」
「今のところ、城戸さんに一番考え方に近いと周りに認識されているのは三輪くんでしょう。あの通り、素直で真面目な子だ。城戸さんのやり方をそのまま残せる。近界民への敵意が難点でしたが、それも最近は落ち着いてきたようだ。
なに、若者はいくらでも伸びしろがありますよ。それに、貧乏クジを引いてくれそうな人物を考えていくと…」
「貧乏クジですか」
「貧乏クジでしょう」
唐沢はニコリと笑う。
他をあげるとすると、と続ける。
「唯我くんも候補にあがっていると言う話がありましたが」
「知っています」
林藤は固い声で答えた。
唯我尊がボーダーに入隊するにあたり、検討された事項である。
「ご実家の意向ですね。尊くん自身の適性というより利権の話になる。ここまで話が大きくなると、ボーダーを支えるのが唯我グループだけでは弱い。それに、組織が一企業に下るのは、林藤さん、あなたが許さないでしょう」
「…もう、事実上そうなっているでしょう」
そうおっしゃる? 私の力不足ですね、と営業部長は頭を下げた。
「ね、だから、貧乏クジなんです」
「あなた方はずっと喧嘩をしていらっしゃる」
「……」
誰と、とは聞くまでもない。林藤は否定はしなかった。
「あなたには、迅くんがいる。
それだけでも大きなアドバンテージを持っていらっしゃるのに、まだまだ満足されない。あの可愛らしい殿下のことは別としても、最近では、ヒュースを手に入れた。本部が排除できないように非常に巧妙に。
何より、空閑です。黒トリガーを持っている。最上氏の忘れ形見だ。実動部隊に影響力の大きい忍田さんは必ず空閑の味方になる。
そして、あの近界民が言うことを聞くのは三雲くんだけじゃないですか」
「あなたが三雲を評価するのはそのためですか?」
「普通の子ではできませんよ」
唐沢は悪びれもせずに言った。
「それだけじゃない。
風間くんは三雲くんに好意的だ。太刀川隊の、出水くん、唯我くんの弟子になったのは大きい。雨取くんのことで、東くんとも縁ができた。
鬼怒田さんは技術者だ。自分の能力が存分に振るえる場があれば満足する。そうだ、あなたにはもうひとり近界民がいましたね。根付さんも三雲くんを認めている。もちろん、僕も。
彼には大いに期待してるんですよ」
「大の大人が中学生に何を期待するのです?」
「ポストボーダーですよ」
ねえ、林藤さん。唐沢は肩をすくめた。
「子どもを利用するのはおたがいさまではないですか」
「…一緒にしていただいても困りますね」
「…喧嘩でもないんですよ。主義主張の違いという奴でね」
目指すものが違いすぎるのだ。
「喧嘩ですよ。あなた��は歩みよろうとしない。お互いに優位を競い合っている。林藤さん、また隠し玉を増やしているでしょう」
「何のことでしょう?」
ガロプラとの同盟の件は迅の予知も使って、慎重に行なった。
これは唐沢のブラフだろうと林藤は踏んだ。恐らく、本部で三雲と話して何かあると感じただけだ。
「結局のところ」
あっさり唐沢は引き下がったが、注意深くこちらを伺っている。
「鍵を握るのはあなた方二人の喧嘩の行方だ」
林藤は、腕時計を見た。
「もう、こんな時間だ。唐沢さんは明日も早いでしょう」
唐沢も客の少なくなった店内を見渡した。伝票を持ちながら、立ちあがる。それでも、なお言葉を紡いだ。
「迅くんにはどう視えているんでしょうね」
けれど、僕達にも見えますよね、未来。
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kanglo · 1 year
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「なぜ、ビジネスにアート思考が必要なのか?/世界の見方を変えるアート思考」第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ講演者:森夕花氏 〔2022年12月9日(金)20時~〕
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「なぜ、ビジネスにアート思考が必要なのか?/世界の見方を変えるアート思考」第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ講演者:森夕花氏 〔2022年12月9日(金)20時~〕 チケット:https://scic20221209.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/576877384242593 ■日時:2022年12月9日(金)20時~22時(オンライン開催) ■講演概要:アーティストは見えないものを見るようにする役割を担い、その時代や社会の中で、「問い」を私たちに問いかけながら常識を揺さぶり、今までにない価値や意味を提示してきました。近年、ビジネスの舵取りは非常に難しくなってきています。企業は従来の古い価値観、世界観から抜け出し、直観的、感性的な創造性が求められ、ますます「アート思考」の必要性が高まっています。 アートには「唯一正しい答え」はありません。観察者が自由に解釈することが可能であるため、考えたことを、それぞれの独創的視点で物語化し、語り合うことで、互いの深い部分で共感がおこり、創造的無意識が自然に開かれていきます。このプロセスを通じて、新しい価値や未来が創造される「安心安全な創造の場」が作られ、クリエイティブな組織へと発展を遂げることが可能となるのです。 ■講師:森夕花(もりゆうか)氏 プロフィール: カングロ株式会社 取締役 執行役員COO/マスターライフコーチ・PXファシリテイタ・フィロアーツ研究会主宰 ●神奈川県横浜市出身。音楽学校のピアノ科卒業後、銀行系信販会社に入社。三井住友カードに転職した後、ドイツのフライブルクに留学。フライブルグ市の行政と市民による持続可能な世界を目指す社会システムと、ユーゴスラビア紛争で、ドイツに逃れた難民の方々との出会いを通じて、平和で精神的な豊かさを基本とした「サステナブルな社会作り」に興味を抱く。帰国後、三井住友カードに再び戻り、お客様対応や、クレジット決済端末機の管理システム“TACシステム”の開発に携わる。 ●帰国して5年が過ぎたころ、戦争や内乱に巻き込まれ傷ついた子供達を救済するためのNGOドイツ国際平和村の存在を知り、世界の平和と心の癒しに携わることが自分自身の使命と感じ、ヒーリングセンターアルケミストでカウンセラー、セラピスト、講師を務め、2008年に独立。2015年1月、カングロ株式会社 執行役員に就任。現役ライフコーチとして、ベンチャーから大手企業の多くのビジネスリーダーを受け持ち、個々の潜在意識にアプローチし、ビジネス ・プライベート両面における、変化、成長をサポートしている。 ●2021年より京都芸術大学芸術学部芸術教養学科に在籍。創造的思考によって「モノの見方、感じ方」を変え、仕事と暮らしをより良く変化させる「アート思考講座」を開催している。 ●自らの内面の探求のため、インドに十数回訪れ、心理学、禅、認知行動学、ジョーティッシュ(インド占星術)、手相、メディカルハーブ、中医学(中医食療士)などにも深い知識がある。 ●趣味は声楽(オペラ)・読書・映画鑑賞・美術鑑賞・ぶらり旅・歴史探訪・日記を書くこと。最近はウェルビーイングを軸とした、地域コミュニティー・組織つくりに関心をもつ。 ■Zoomオンライン:URLは、Peatix経由によるチケット購入者に自動送信されます ■タイムスケジュール:基調講演(約90分 Q&A含)後に、講師を囲み、対話を行います。 ■オープン・ダイアログ参加対象: ※どなたもご参加頂けます ・SCIC正会員 ・SCBC修了生&SCBC受講生 ※SCIC未会員 ・一般参加(社会人) ※SCIC非会員 ・特別ご優待枠 ・学生(中学~大学院生) ■参加料: 一般参加者(社会人)※SCIC非会員\5,000 SCBC修了生&受講生 ※SCIC非会員\3,000 SCIC正会員 無料 特別ご優待枠 \3,000 学生(中学~大学院生)\1,000 ■SCICとは: SCIC(Shock Coherent Innovation Club)は、ショック・コヒーレント基礎講座(SCBC)修了生をベースとした会員制クラブです(ご入会頂くためには、SCBCを受講し修了証明が必要となります)。 https://scic2023.peatix.com/view ●目的:SCBC修了生同士の交流と創発の加速。私たち自身が動き、世界に奇跡を起こす ●概要:  ①月例会の開催  ②会員同士のコラボ醸成   ③SCC訪問視察ツアーの企画   ④会員の生業のサポート  ⑤その他創発事 ※いずれも参加できる時に参加  ⑥基礎講座の復習フォロー(基礎講座への復習参加は原則全回無料)↓  https://scbc2023r.peatix.com/view ●SCICに関する問合せ: [email protected] -------------------------------- ■『Shock Coherent(ショック・コヒーレント)』とは: 現代社会は今、破壊的な人間活動によって、エントロピー(無秩序・乱雑さの度合い)を加速度的に増大させています。故に、地球環境の悪化による気候変動や自然災害、絶え間ない疫病の発生、人心荒廃による貧富の格差拡大、資源収奪、世界各地で紛争や戦争が頻発化し、世界の指導者たちが核兵器の使用をほのめかす事態となり、もはや地球生命全体の未曾有の危機に陥っています。これを人々は、VUCAワールドと呼び、行先不透明な生き難い時代の合言葉となってしまっています。 このような時代において、「私は、これからどう生きれば良いのか?」と、多くの人々が、自問自答を繰り返し、五里霧中の状態に陥っています。このままでは、時代に翻弄され、本来あるべき使命を全うすることなく人生を終えてしまうことになるやも知れません。そうならないために、私たちに何が出来るのか。当講座は、そうした社会の強い要請により、30年に及ぶ研究の集大成により創発的に完成した稀有なプログラムです。 当講座では、様々な立場の仲間と共に、自分自身の「存在意義(パーパス)」を見つける5ヵ月間の不思議な旅に出て頂くこととなります。即ち、この「存在意義(パーパス)」が、自己変革への道標となるのです。そして、感性を刺激し、心を揺さぶる独自のアプローチフレームを活用し、固定観念の融解を起こし、事例や課題から自己変革へのヒントを得、仲間やファシリテイタとの多くの対話や繋がりから閃きをもらい、自身でも予期せぬ“創発”を起こしていきます。 このワークショップは、個人が真の意識変革を興すことを目的として、カングロ株式会社によって開発されたプログラムです。私たちは、この講座を多くの方々にお届けすることを使命とし、日々事業を営んでおります。そのことを通じて、真の道を啓く方が増え、社会そのものの変革を成し遂げられたら本望であります。ぜひ、講座で会いましょう。 (プログラム開発者:藤井啓人) ■ショック・コヒーレント基礎講座 第5期生絶賛募集中! ■第5期『ショック・コヒーレント基礎講座』VUCA世界を突き破り、己の道を啓け~パーパス(存在意義)によるシン変革ワークショップ:2022年9月13日~2023年1月24日全10回講座 チケット: https://scbc05r.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/323129486509872 ■第1~5期「ショック・コヒーレント基礎講座」全アーカイブ・オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/shockcoherent ----------------- ★特別提供映像: 【ダイジェスト版動画⑮】「VUCAワールドに効く個人と組織の視点の再構築~自己や地者、そして世界への認識の見直し」第15回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:楠徳生氏 (2022年11月11日) https://youtu.be/-wIwXLX4ZUQ 【ダイジェスト版動画⑭】「破壊と創造~壊れると、新しく生まれる/コロナ禍で悪者だった飲食店はどう変化していくのか」第14回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福本浩幸氏(2022年10月7日) https://youtu.be/ygxXywmvQ1w 【ダイジェスト版動画⑬】大企業病への挑戦 第2章~認知科学の実践における人間性と抽象度の壁/自分を変え、常識を変え、世界を変えていく/第13回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:内藤礼志氏 〔2022年9月9日) https://youtu.be/qBNlFTor9hw 【ダイジェスト版動画⑫】新しい『構造』がうつ病から復活させ組織も前進させる~うつ病経験者が語る、ストレスとつき合い未来をつくる方法/第12回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:堀北祐司氏(2022年8月5日) https://youtu.be/HudMdpphjEI 【ダイジェスト版動画⑪】The 事業承継~当社流、バトンの受け方、渡し方/第11回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:大島右京氏/2022年7月8日【ダイジェスト版】 https://youtu.be/dWnOtXQAmqw 【ダイジェスト版動画⑩】心理的安全性のリーダーシップを身に付ける方法~組織パフォーマンス最大化の処方箋/第10回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:倉持茂通氏(2022年6月8日)https://youtu.be/DuUvRzcqJD0 【ダイジェスト版動画⑨】100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと/第9回Shock Coherent Innovation Clubオープンダイアログ/講演者:小山貴子氏(2022年5月13日) https://youtu.be/0juftCrZ1mQ 【ダイジェスト版動画⑧】人事制度のミライを探求する~ノーレイティングを超え給与を自己申告する人事制度への挑戦/第8回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福留幸輔氏(2022年4月15日) https://youtu.be/XEm-OdMYwMY 【ダイジェスト版動画⑦】「パーパスと共に生きる時代/パーパスとはいったい何なのか?宇宙の営みから壮大なタペストリーを読み解く」第7回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:森夕花氏(2022年3月11日) https://youtu.be/vNaK4qH94fA 【ダイジェスト版動画⑥】「部署なし管理無し評価無し、VUCA時代に挑む選択できる組織作りへの挑戦」第6回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/金光広樹氏(2022年2月18日) https://youtu.be/33DyPirlM7c 【ダイジェスト版動画⑤】「新規事業における企業の在り方」第5回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/長島壮洋氏(2022年1月13日) https://youtu.be/eM3sRZDo0Ng 【ダイジェスト版動画④】「ティール組織の作り方“レシピ”」第4回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/嶋田崇孝氏(2021年12月10日) https://youtu.be/JDp0srEGxGE 【ダイジェスト版動画③】「こころの病との上手な付き合い方~仕組みがわかれば予防ができる」第3回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/中田健士氏(2021年11月5日) https://youtu.be/_OW88883t7o 【ダイジェスト版動画②】「混ざると、新しい事業価値が生まれる。」第2回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/星野良太氏(2021年10月8日) https://youtu.be/fZJWaFmhAD4 【ダイジェスト版動画①】「大企業病への挑戦~認知科学の理論と実践」第1回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/内藤礼志氏(2021年9月3日) https://youtu.be/aV8ux6Ha-9M ■「Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ」アーカイブ・全オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/scic ■主催:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp 協力:サステナ塾/SDGs超実践者委員会/イノベーションサロンZ/システムD研究会/フィロアーツ研究会
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nemosynth · 1 year
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Season 2, episode 2 - E-mu
「これは、内蔵姿勢制御装置のずれを無くし、過剰なジャイロ宇宙的相対理論化を防ぐ機能です。
注意深く画面を観察いただき、重力による空間歪曲や明らかな時間の加速・遅延、鏡に映る物体が実際より近く見えるなどといった不安定化兆候が起きていないか、ご確認ください。数秒後にEmaxがモジュール識別表示へ戻ってきたのであれば、すべては順調です。
注意: 安定化スキャン処理が進行している間、時として小さなエミュー鳥がEmax内部に閉じ込められ画面上を走り回ることがあります。これはEmaxの通常機能に影響はありません。
 (Emax取扱説明書から超絶nemo版和訳)」
「This function aligns Emax’s internal stabilizers and prevents excessive gyrocosmic relativation.
Carefully observe the display for any signs of destabilization (eg. Gravitational warps, apparent speeding up or slowing down of time, objects in mirrors appearing closer than they really are). If Emax returns to the Module Identifier after a few seconds, all is well.
Note: Occasionally a small emu will get trapped within Emax and run across the screen during the stabilization scan process. This does not affect Emax’s normal functions. (原文)」
もうね、原文にある「gyrocosmic relativation」とかってバック・ロジャースのネタだし。「objects in mirrors appearing closer than they really are」って向こうの車のドアミラーに書いた~る警告文パロってる し。どこにも「自己診断処理」って書いてないから。それが自己診断機能だということは、生産完了後だいぶたっ てからネットかなんかで知った。だから現役当時とにかくLCDの中をエミュー鳥が走り回るだけなので、こっちは 訳が分からず呆然とするばかり。
この面倒くさそうなふざけたノリの取説を出したのはE-MUことE-MU SYSTEMS。その創業者は、ぶっちぎり 天才エンジニアであるデイヴ・ロッサム。デイヴと言っても、名機プロフェットを生み出したSEQUENTIALを創業 せしデイヴ・スミスとは別人。
史上初のサンプラーは、FAIRLIGHT CMIなのか初代Emulatorなのか? 今ならエミュレータと呼ばれてしまう のであろうかEmulator。それを生み出したのがデイヴ・ロッサム率いる E-MU SYSTEMS。
今回はそのデイヴ・ロッサムと彼が興したE-MUを見てみたい。彼こそは電子楽器業界における縁の下の力持ち、 いや縁の下の馬鹿力、もうアトラスのごとく世界を支えてきた巨人ですらあり、彼なくしてSEQUENTIALも OBERHEIMも電子楽器業界すべてがかくも発展しえなかったであろう偉大な功労者なのである。
♬     ♬     ♬
「創世神話」
デイヴ・ロッサム(Dave Rossum)は、アメリカ西海岸サンフランシスコ界隈で育ち、SEQUENTIALより先、1971年にE-MUを創業する。
彼の父親は科学者なのだが、音楽がお嫌い。というのもデイヴ・ロッサムの祖父がミュージシャンで呑んべぇで 父が幼いころ祖父は家におらず、それゆえ父は音楽が嫌いに。ところが祖父が家に不在だったのは音楽どーのこー の以前にそもそも浮気しててほかの女との間に3人も子供を作っていたからだと、後年に判明!
父の愛に飢えつつも禁じられた音楽へのあこがれとを両立すべく、幼い坊やは自宅に誰もいないときを見計らっ て家にあった母のピアノなどを弾いていたのである。
彼には絶対音感があった。 リズム感も大変良かった。
でも彼は音楽のレッスンも受けず、趣味として適当に弾くだけ。センスあるのに独学なあたり、既に後々ぶっと んだ天才肌っぷりを発揮する、その序曲だったのかもしれない。
それでいて彼は、全く音楽の道なんぞ考えもしない科学少年であった。ただやたらとリーダーシップだけはあっ たらしく、5、6歳年上の子供たちを引き連れて登山もしたという。しかも子供のときからなんでも作っては売る という、起業家精神すらあった。
何よりも彼を貫いていたのは、まぶしい自由とぶっちぎりの先取の精神がみなぎるカリフォルニアらしいカウン ター・カルチャーであった。大人社会に対する異議申し立て、大人たちへの反抗、ベトナム戦争反対、ラブ&ピー ス、いぇ~い♬ そんなとんがった空気が充満する西海岸の陽光。不屈の反骨精神こそが、いつまでも若きデイ ヴ・ロッサムをして数々の発明を実現せしめ音楽に変革を引き起こすドライブ力であったのかもしれない。
彼はカリフォルニア工科大学にて生物学を専攻するも、その動機はなんと当時の原始的なコンピューターを生物 学に応用したいという、その時代には誰も考えなかったぶっとんだ新しい発想からであった。だからもちろん彼は大学で生物学とともにコンピューターサイエンスも会得。
���んなある日、彼はカリフォルニア大学サンタクルーズ校にてMOOGモジュラーシンセをセッティングしてくれ と頼まれる。シンセ?なにそれ? それはMOOG System 12。有名なMOOG System 15ですらないその前の黎 明期の機種、その現物を目の当たりにした彼は、そしてそれを人が弾いている音を聴いた彼は、永遠に人生を変え ることになる啓示のごとき衝撃を受けたのである。
MOOG Model 12の広告より そうだ、そうじゃないか、当たり前だよこんなの、当然じゃないか、至極まっとうなことだよ、そうだよ、そうなんだよ!!!とかなんとかそんな感じだったらしく。
シンセというものに運命的邂逅をはたしたデイヴ・ロッサム。突如として無性にシンセを作りたくなったデイ ヴ・ロッサム!
え、生物学と電子音楽の共通点? ネガティブフィードバックさ!
だがコンピューター・プログラミングは分かるのに、逆に電子工学は分からない。恐らく彼は時代に先駆けてソ フトウェアエンジニアだったのであろう。そこで友人にハードウェアを教えてもらうこととなった。時に1970年秋 から冬にかけてのことである。
翌1971年春、サンディエゴの高校生たちに音楽を親しんでもらうべくシンセを作ってほしいと頼まれた彼は Black Mariah(ブラック・マライア)という名のプロトタイプをでっち上げ大学の購買部へ披露、あわよくば雇っ てもらえないかともくろむも、出来のひどさにカリフォルニア工科大の学生寮にて窓から外へ投げ捨て廃棄さる!!!
同年夏、めげずに大学を卒業した彼は仲間や3人の大学生と共同生活を開始。その家の表にかかっていた文言とは、
「Starships and Synthesizers, since 1984 (宇宙船とシンセサイザー 1984年設立)」
 ......1984 年設立って、このときまだ1971年ちごたっけ?
そこで彼らはARP 2600のエッセンスをパクった(本人談)シンセ、その名もEμ 25(イーミュー25)を制作。 その機種名は、もちろん電子工学がお好きならお分かりであろう、電子を意味するelectronの頭文字と、μ(ミュ ー)すなわち電気の単位でありマイクロの意味も持つギリシャ文字とを組み合せてEμ。
そして実はEμ 25とは、なんのことはない愛用してたドラッグの名前だったのである。
これが、イーミューの名が歴史に登場した最初であった。一発キメられる音色、いいね(!?)。
2台作るも、1台は個人宅で使われ行方不明に。もう1台は1970年代にサンフランシスコのコンセプチュアルア ート美術館の展示にての目撃を最後に、行方不明に。ひょっとしてまた窓から投げ捨てられたのであろうか?
そして、その暑い夏が終わると3人の学生たちはカリフォルニア工科大へと帰り、残ったデイヴ・ロッサムは高 校時代の旧友スコット・ウェッジと再会。自身のガールフレンドと合わせて3人でEμ SYSTEMSを立ち上げた。 Eμ SYSTEMSの名を使うことは、3人の学生たちからも同意を得てあった。そしてEμは性懲りもなく次世代モジュ ラーシンセEμ Modularの開発に着手する。
しかしのっけからモジュラーの開発に着手したのにはわけがあった。天才デイヴ・ロッサムは、MOOGやARPよ りも優れた回路にたどり着いていたのである。揺るぎなきこと山の如く安定せるVCO、実にクリーミィな効き具合 が味わい深いVCF、これはほかのどのメーカーにもないEμだけの秘密兵器であった。
そのEμ Modularの完成とともにEμ SYSTEMSは法的にも会社となった。時にEμ創業から1年ほどたった後の 1972年11月27日。日本でいえばローランドの創業から半年ちょい後くらい。
当初「Eμ」と表記していたが、1979年になって実はカリフォルニア州法により登記にはローマ字しか許されない ことが分かりE-MUと英語表記へ変えた経緯もある。かくしてE-mu Modularは1980年代初頭まで生産され続け、 モジュラー界における個性派な名機となった。
あんまし儲けを考えずただただ楽しいことをやっているだけなのに何故か連戦連勝してしまうE-MU SYSTEMS の快進撃、ここに始まる!
♬     ♬     ♬
「いきなりデジタル」
ビンテージ・アナログシンセ時代においてデジタルに強いどころかデジタルの天才デイヴ・ロッサム、E-MUが会社になってから初めて開発したるはデジタルスキャニング・キーボード4050。
これは鍵盤楽器ではなく、それに使われるためのキーボード部品。打鍵状況をデジタル論理回路でスキャンする ことで、最大10音ポリの演奏が可能。
「だぁってMOOGが低音優先とかARPは違うんだとか皆あーだこーだ言うけどさぁ、つまり皆さんポリフォニック で演奏したいんだろ?」
E-mu Modularを作っていたデイヴ・ロッサムはそう実感し、E-mu Modular用に4050キーボードを開発。こ れにより彼は後世「ポリシンセの父」と呼ばれることとなった。縁の下の力持ち初号機、見参!
そのデジタルスキャニング・キーボード4050のプロトタイプを開発中だった1974年9月、デイヴ・ロッサムは AESショウにてトム・オーバーハイムと出会う。天才同士たちまちにして親友となりお互いアイディアを披露し合っているうちに、トム・オーバーハイムいわく彼が作ったフェイズシフターに問題があるとのこと。聞けば3080トランスコンダクタンス・アンプを使えば解決できるはずなのだが、実際どうすればいいのか分からんのだと。 それを聞いた天才デイヴ・ロッサム、やにわに傍らにあった紙ナプキンにさらさらっと回路図を描き、
 「こうしたら良いよ」
紙ナプキンに描かれた回路図をじぃっと凝視するトム・オーバーハイム、
「なにこれ、たった今あんたが発明したってぇの?」 「そう」 「この回路、特許取れるんじゃねぇの?」 「絶対に特許取れるね」 「連名で特許取って権利を2人でシェアするってぇの、どう?」 「グレイト・アイディア!」
さらにトム・オーバーハイムはE-MUを訪問、4050キーボードのプロトタイプを目の当たりに。
「これも、特許もんなんじゃねぇの?」
トム・オーバーハイムはぜひこれを自分の製品に使わせてくれとデイヴ・ロッサムに要望。かくしてOBERHEIM は E-MUからデジタルスキャニング・キーボードを提供してもらい、それを自前のSEM音源モジュールと組み合わせることで2 Voice、4 Voice、8 Voiceといった黎明期のポリシンセ名機たちを実現。それらはクロスオーヴァー を初めとするさまざまなジャンルにて使われ大ヒット作となった。
かくの如くして他社からライセンス料をもらうことでE-MUは潤うこととなったのである。
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「影の支配者ビジネスモデル」
1976年7月になるとZILOG(ザイログ)が8ビットCPUの名機Z80をリリース。人気者CPUの登場は電子工学における画期的なメルクマールとなった。
同じころデイヴ・ロッサムはもう一人のエンジニアとともに二人でシンセ用ICを設計。これらはVCO、VCF、 VCA、EGなどを個別にチップ化したものでSSMが生産することとなった。銘石となったSSMによるICチップの誕生である。
翌1977年、Z80の恩恵を受けたE-MU新型デジタルスキャニング・キーボード4060を開発。従来よりもさらに 多い16音ポリを実現、さらに6,000音のデジタルシーケンサーまで内蔵。
・CPU Z80 ・SSMの音源IC ・デジタルスキャニング・キーボード4060
さぁ役者はそろった。後は指揮者とヒット商品ならではの数をさばける量産設備とを待つだけ。
そしてその指揮者とは、SEQUENTIALのデイヴことデイヴ・スミス。デイヴ・スミスは、だが当初「こんだけ材 料がそろってんだから絶対ボク以外の誰でも思いつくはず」ってんで何もせず。でも半年放置プレイしても誰も何 も動かないのを見て、なら自分で、と史上初のプログラマブル・ポリシンセ開発に着手。そしてそれを横で眺めな がらあーだこーだアドバイスしていたのが、なんとここにもデイヴ・ロッサムその人だったのである。
デイヴ・ロッサムは全体制御とアナログ回路の設計を、デイヴ・スミスはユーザーインターフェイス設計とエデ ィット機能の開発を担当、半年間突貫工事。デイヴ・ロッサムが開発にかかわったSSMチップとデイヴ・ロッサム が開発した4060型デジタルスキャニング・キーボードとデイヴ・ロッサムからさまざまにあーだこーだアドバイス もらってデイヴ・スミスはProphet-5という機種へとまとめあげた。
材料がそろっていながらデイヴ・ロッサムがリリースしなかったのは、絶対に売れると確信するもそれに見合う大量生産設備を準備できなかったからとも言われる。彼はあくまで影に潜み、影で電子楽器世界を牛耳ってはピースサインする、機動力に富んだ謎のテクノロジカル小僧だったのである。果たして1978年、無名の新参者SEQUENTIALから彗星の如く現れたるProphet-5、世界を震撼せしめたるその武勇伝は、もう読者お歴々の皆さまご存じの通り。
そしてE-MUには尚一層どんどんロイヤリティが入ることとなった。
笑いが止まらない天才デイヴ・ロッサム、相前後してロジャー・リン初号機PCMリズムマシンLM-1のバグ出しとデザインレビューも実施。デジタルを熟知しているがためにサンプリングも楽勝で理解。LINNのリズムマシンは マイケル・ジャクソン『スリラー』をはじめ80'sポップスにてめったやたらとアイコニックに聴かれ、ここでも歴史的名機を支えるデイヴ・ロッサムは影の功労者として快進撃!
1979年いよいよ法人にするというのでコインを投げたところ、負けた共同創業者スコット・ウェッジが社長とな り、勝ったデイヴ・ロッサムは副社長兼チーフエンジニアとなった。
彼が設計にたずさわったSSMチップはその後も多くのシンセに採用され、例えばKORG PolysixがProphet-5と 同じ音がするなどと言われたのもVCFとしてSSMフィルターを搭載していたからにほかならない。単純な音であれ ばそこはかとなく似るので、PolysixはプアマンズProphetなどとも言われる。
無論やぼなサツみたいなこと言ってしまうなら 
・フィルター SSM 2044:Polysix SSM 2040:prophet-5
・オシレーター VCO1基+サブオシ:Polysix VCO2基+ポリモジュレーション:prophet-5
当然ちょっとでも込み入ったことをすれば音は違う。逆にその伝で言うならKORG Mono/Polyも同じSSMの系 譜。いずれにせよSSMは良い音がするICの銘柄であった。
かくのごとくSSMチップもバカ売れし、他社からデジタルスキャニングキーボードのライセンス料をいただき、 影の帝王デイヴ・ロッサムは安定のニコニコ経営。「ボクこそが真の勝者♬」と安泰に思っていた。
事実、E-MUが作っていた商品はたった1機種だけ、E-mu Modularのみ。それも総数100とか150セットとか言 われる。派手派手しい宣伝広告もマーケティングもしなかったから、ただ口コミで広がるのみ。本人たちもそれく らい秘匿されているほうがお気楽だったらしい。それゆえ収入の多くはコンサルやライセンス料だったのである。
ことほど左様にE-MUはメーカーとしてはちっぽけな存在であり、それでいて電子楽器のすべてを支えるインフラ を築き上げてきたという、表舞台ではほとんど知られていなくとも水面下では巨人アトラスが全世界を支えるが如 き影のメーカーだったのである。
それでもなお商売になるというのは、すなわちスポットを浴びて話題となるスーパー人気シンセや「なんちゃらテクノロジー」みたいなセンセーショナルな応用技術だけでなく、地味な基礎技術にも理解が深くてちゃんと対価を支払うアメリカの懐の深さを物語るものであろう。
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「ビジネスモデル破綻」
ところで1980年代に入ると軽薄短小デジタル時代になり、唯一の商品たる重厚長大アナログモジュラー売れず。 さりとてデジタルシンセシスを開発するも、いまいち良い音せず。さすがに唯一の商品の売れ行きが傾くのはゆゆしき問題。ならばアナログシンセをデジタルで制御しよう!と思いついて開発をはじめたのが、幻の名機Audity。
既にProphet-5の開発を経験済み、それは言わばAudityの赤ちゃん版。Audityはその3倍から4倍も大規模かつ 複雑なアーキテクチャーであり、CPUも高度に進化したものを採用。なんせ今までE-mu Modularは、天才がこだ わりまくって凝り倒して作ったわけで。それに取って代わる次世代の看板商品にふさわしく、これまたこだわりま くりの単体アナログシンセとしてAudityを作らんとしていた。して、その莫大な開発費用にはデジタルスキャニン グ・キーボードのロイヤリティを当て込んでいた。
しかしSSMの歩留まりの悪さにSEQUENTIALはProphet-5の設計を全面改訂。すべて音源チップをCURTISの ICへと置き換えた。ほかCURTISのICを採用していたメーカーにはOBERHEIMやROLANDなどがあり、 SEQUENTIALと言えどさすがに音色も以前とはまるで違うものとなった。これがProphet-5 Rev3の誕生である。 そしてそれでもってSEQUENTIALはもはやRev3を別機種とみなし、デジタルスキャニング・キーボードのライセ ンス料を支払停止してしまったのである。
E-MUにしてみれば看板商品の売上に日影がさしてきたところへ、虎の子の収入源が強制終了、そのせいで次の看 板商品も作れない。思わぬ八方塞がりに慌てたデイヴ・ロッサム、対SEQUENTIAL訴訟のことは社長スコット・ウ ェッジに託し、ぱぱっと作れてなおかつ革命的なネタを求めて1980年5月AESショウへ。そこでFAIRLIGHT CMI を見て天才ひらめく。デジタルシンセを作るのは時期尚早だが、デジタルサンプラーを作るのは簡単! CMIみた いな音楽コンピューターでなく単体サンプリングキーボードを作ればいい! なんせ先述の通りロジャー・リンの LM-1も手伝っていたからサンプリングも楽勝理解済。
CMIは1,200万円もしたのだが、サンプラーというよりコンピューター・ベースの統合ワークステーションだった のだから無理もない。このため当然ながらマルチパート音源を搭載し、それゆえボイスごとにCPUからメモリーか らDAコンバーターに至るまで一切合切を装備するも、そんなものデイヴ・ロッサムに言わせれば「ばかじゃねー の、マルチティンバーなんかよりもシンプルにポリフォニックで鳴るサンプリングキーボードのほうが絶対に売れ るに決まってる。冗長性を排し、CPUはZ80を1つだけ、メモリーも1つだけにして全ボイスで共有させたら安価 にできる」
果たしてコストダウン成功。Audity用に開発したディスクOSベースの楽器とする仕様も流用。最初に彼がサンプ リングしたのはエジソンが蓄音機を発明したときの故事にならって自分の妻が歌った「メリーさんのひつじ」(Mary had a little lamb)、しかも途中で1単語だけルー プさせてみたら「Mary had a little, little, little lamb」となってミクロ羊が誕生。その次は妻が居ないときを見計らって開発室の隣にあるトイレでサンプリング、再生してみたら人類最大の膀胱を持った男のような音。
して、その仮称「サンプラー」を開発中、メンバーの一人が「いい機種名を思いついた」ってんで「Emulator」。当時で言うイーミュレーター。今で言うエミュレータ。すなわち模倣者、競合者、ライバル、そんな感じで名付けることに。
かくして史上初のサンプリングキーボード1万ドルにてEmulator、E-MUからついに爆誕! そしてもはやE- MUは影の功労者ではなく、やにわに表舞台に躍り出て売れっ子メーカーとなったのである!
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「インフラからインフラへ飛び移るとき」
初代 Emulator は大ヒット作となった。1981年発売、8ビット/27kHzサンプリング、RAM 128KB、8音ポリ版と4音ポリ版とがあり、ループはできるがエンベロープすらない。
それでもまだYAMAHA DX7が出る前だった当時、一足先にデジタルを標榜したのはサンプラーたちであった。サ ンプラーという名称すら普及せず、サンプリングキーボードとかサンプリングマシンとか言われた。そしてまだデ ジタルシンセが無いままに、デジタルサンプラーとアナログシンセが入り乱れて織りなすのが当時のテクノポップ の特徴。YMOですらデジタルシンセ以前だったのであり、ついぞDX7を使うこともなければMIDIも無い代わりにで かいアナログモジュラーをライブに使っているイメージまで演出していた古典芸能なわけですよ。
しかもサンプラーは「模倣する楽器」という、それまでに存在しえなかった異次元楽器、ミュータントであっ た。それゆえ、著作権を侵害しているのか否かというぎりぎりきわきわの議論やモロどんぴしゃな裁判すらをも踏 み越え、あらゆる森羅万象サウンドをもとの文脈から切り離しあらたな文脈の中にコラージュするという、脱構築 と再構築のための社会学的記号学的なツールという意味合いすら帯び、コピーとオリジナルへの哲学的考察すらはらむ、ソシュールも天を仰ぐが如きスリリングな知的玩具としてポップカルチャーはもちろんシリアスなアカデミ ズムにおいても話題となり、あまたの論文に登場した。
サンプルライブラリー市場もまた人類が初めて経験するマーケット。今で言うコンテンツビジネスの誕生である。ただ、本当に電子楽器業界へコンテンツビジネスが広範囲に到来するのは、これもまた民生機レベルで実現し たDX7の出現まで待たねばならない。そして評判だったEmulator用サンプルライブラリーのみならず、DX7用の坂本龍一ROMや向谷実ROM、生福ROMといったシグネチャーパッチに夢中になった人たちは、言ってみれば今日の Spliceユーザーの先駆者みたいなもの。
すなわち音色を作るセンスから選ぶセンスへと時代は変わったわけで、どっちも個性を出す創造性であるに違い はなく、プロがキュレートしたネタを目利きなアーティストが選ぶことで作品となす点ではAIが提案するものを選択する未来人類の先駆けなのであろう。
長らく土木工事屋さんの如くインフラを作り続けてきたE-MU。それを支えた次なるインフラこそが、これら良質 なサンプルライブラリーによる多種多様な未来コンテンツビジネスなのであった。コンテンツが楽器の次世代イン フラとなり、コンテンツが経営を支えることを、デイヴ・ロッサムは発見したのである。
しかし同時にデイヴ・ロッサムは自分たちがもはや小さなやんちゃ坊主ではなくなったことを思い知る。かつて 工科大の寮の部屋がE-MUだった時代以来、カウンターカルチャーによってドライブされ遊撃活動を繰り広げる愉快 なパルチザンみたいなもののはずが、いつのまにやら成功して大きな企業となり、ついには弁護士まで雇って SEQUENTIALとロイヤリティめぐって争う。
何よりも世の中が進化し、作るものも難解になった。Emulatorは、画期的なサンプリングデバイスでありさえす ればよかった。Emulator IIは、画期的なサンプリング楽器でなければならなかった。それゆえ Emulator II の開発は難航し、先にEmulatorが生産完了になってしまったあともEmulator IIは難産で発売できず、売れるものを失った E-MUは従業員をレイオフせねばならず、会社は今までの天真爛漫さを失うことになった。
音源モジュール版も無かった。MIDI以前からの古い設計思想がアダになり、あくまで楽器を作ることが開発の前 提になっていた。デイヴ・ロッサムにとって音源モジュールは楽器ではない。E-mu Modularと言えどデジタルスキャニング・キーボードを添えて楽器としていたE-MU。よってEmulator IIから鍵盤を省いても、大してコストダ ウンできない。音源モジュールを作るためには別途それに合わせた回路なりを設計しなければならない。そこまで 開発にコストをかけてまでしてモジュール版が売れるという自信もない。痛快だったはずのE-MU、だがいつのまに やら大人になっていたのだ。
悪戦苦闘の末ようやく1984年に生まれたEmulator IIは再びのE-MUヒット商品となり、もはや「イーミュレー ター」の名はサンプラーの代名詞にすらなった。特徴的なその音はFAIRLIGHTとともにひとたび分かればそこらじ ゅうで聴けてびっくりする。エンベロープはもちろん、マルチサンプリングというアイディアもこのときに初めて考案され、E-MUはサンプラーの標準機どころかメルセデスみたいに業界に君臨することとなった。だいたいマルチサンプリングなんて今では当たり前過ぎて誰も問わないけど、当たり前のものが無かったところから思いついたなんて、やっぱゼロから1を生み出す、独創性あふれる天才ですね。
さらにE-MUから出たのはPCMリズムマシンDrumulator。翌年その後継機種としてサンプリング機能も追加し たSP-12、そして3年後サンプリングメモリーを拡大したSP-1200は、AKAI PROFESSIONAL MPC60に先立ち 新しいジャンルたるヒップホップを切り拓いたレジェンドとなった。短かったサンプリングタイムを稼ぐべくヒッ プホッププロデューサーたちが33回転バイナルを45回転にして再生、それをサンプリング後にピッチを下げることで元の音程と長さに戻すと音質が荒れるのだが、それがかえってローファイな味となったことはあまりにも有名。 そのダーティなサウンドがグルーブ界の記号となったため、あとからMPC が出たときなぞ音質が良すぎて線が細い というのでわざわざ汚して太くするテクが流行したこともまた有名。
だが翌1985年、同じアメリカのENSONIQから出たるは、価格破壊サンプラーMirage。1万ドルもした Emulatorに比べ、たった1,600ドルでMirageはローンチ。61鍵版のほかに音源モジュール版まである。しかも価格破壊のみならず凶悪なまでにひどい音質こそ驚愕であったが、それでもミュージシャンにとっては全く問題なかった。ここまで音が変わってしまうと元がなんだったのかわからんとか、もはやこれは音を加工するシンセであるなどとギャグ・ネタにされようが、もろともせずにパンキッシュに売れまくるMirage。こだわりのE-MUは、だがそれゆえオーバークオリティだったのであり、どん底スペックのはずが軽快に営業成績かっとばして赤丸急上昇する番 狂わせチャレンジャーENSONIQは、だがそれゆえ正統派のAKAI PROFESSIONALなんかよりもずっと深くE-MU にとって考えさせられる商売敵となった。自由な発想が売りのアメリカ人のライバルは、同じく自由なアメリカ人であった。
影の功労者から一転、表舞台に立つ大手電子楽器メーカーとなったE-MU、その看板商品を育て守る戦いがここに 始まる。
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「私が愛したノンリアルタイム演算、皆が愛したEmax」
ダークホースとして姿を現した中型高速打撃空母ENSONIQ Mirage。これを迎撃し、最初から音源モジュールも考えて対決する。その回答として出したのがE-MU初の「廉価版」サンプラーEmax(イーマックス)。お値段は2,995ドルということはDX7 とかと同じ感覚、メルセデスのA Class みたいなもん? 1つしか売るものが無かったガリバー商品依存型モノカ ルチャーとも言うのであろうかE-MUにとって、2つめの柱となった名機シリーズの始まりである。
Emaxを設計するにあたり、かつてのSSMチップ開発の経験をもとにデイヴ・ロッサムは初めて独自チップを開 発。結果できあがったE-ChipはデジタルオシレーターにProphet-5のSSMのフィルターとアンプとを加えて全部ひ とまとめにしたようなものであった。またストレージをEmulator IIの5インチ・フロッピーディスクからEmaxでは 3.5インチへと変えるにあたり、Emulator IIを開発しているときに編み出していた12ビットデータを8ビットにまで 圧縮保存するメソッドを移植。3.5インチ・フロッピー720KBの中に鬼のようにサンプルを保存できるようになっ た。
ポップなカラーリングとテンキーすらもが斜めってるおちゃめな外観はMax Yoshimotoなるデザイナーの手にな るもの。もちろん音源モジュール版も最初からあり、しかもそいつまで同じデザイン、テンキーも斜めの音源モジ ュールなんてEmaxくらいなもの♬
E-MU 謹製ライブラリーに支えられた「廉価版」ともなるとやはり魅力。圧縮保存して多少音がローファイに荒 れようが、アナログのVCF/VCAの効き具合はやはりSSMゆずりっぽさもあって独特なキャラが楽しい。宣伝で「2 音色レイヤーしても発音数が減りません!」とかって魔法みたいに言ってたがなんのことはない、1ボイスあたり オシレーターが2基あるだけのこと(笑)。そして前編冒頭にかかげたみょーな説明がついているBird Runという 機能。文字通り LCD の中をエミューが走り回るだけなのだが、実は自己診断機能であった。
Emaxには後追いでEmax SEという機能追加版があった。SEとはSynthesis Enhanced、フロッピーでバージョ ンアップ。これには24サイン波倍音加算合成による24ステップ・ウェーブテーブル自作機能ことSpectrum Synthesisと、もう一つTransform Multiplication Synthesis、とらんすふぉーむまるちぷりけいしょんしんせし す、あまりにも名前が難解すぎてアメリカ人ですら噛み噛み、こっちから発音してさしあげたら早口で復唱してき たのちに「thank you」と言われてしまう壮絶なシンセシス機能が追加搭載された。後者は恐らく2つのサンプル をフーリエ解析し、共通の周波数を持った倍音を抽出し、それらの振幅を乗算させたのちリシンセシスしているも のと思われる。結果例えばバイオリンが言葉をしゃべったりするが、多くの場合予測不可能。強烈な金属倍音が激 しく流出したりして、たいへんな結果に陥ることも多い。
しかも演算がノンリアルタイムであるばかりか、しばしば演算に半時間以上もかかる! 最大40分くらいかかるらしい。なんでもスパコンに相当する演算を32ビットCPUと8ビットコプロとちーちゃなメモリーでやりくりしな がら実行しているかららしいが、とにかく「Synthesize!」とノーテンキなメッセージに促されるままに実行キー を押すやいなや「○○分お待ちください」などとLCDに出てきた日には失神しそうになる。既になりふりかまわず Emax SEは演算に没頭。どえらい波形レンダリングをしている間なんぴとたりとも止められない。英文取説では 「ま、ちょっと休憩でもどうぞ」なんてぐあいに開き直っている! おまけに最低 32KBのRAM領域が必要とか で、これを割り込むと「足りん! サンプル減らせ!」と怒られる。キロバイトでも貴重なリソース。
これら強力シンセシスを駆使して作成した音は、サンプル同様2基のオシレーターにアサインすることでレイヤ ーできる。サンプルとのレイヤーも可能。そしてこれらは実は現場のエンジニアが仕事の合間に自主的にちゃちゃ っと開発したスカンクワークであった。だから結局おちゃめで楽しい!
EmaxにはSE版のほかに40MBのハードディスクを搭載したEmax HDなどがあり、当時のデペッシュ・モードが メンバーのうち3人がおのおのEmax HDのみ1台ずつをセッティングして弾き、さらにカスタムメイドのパーカッ ションパッドでEmax HDを鳴らし、あとは何にも無いという、いかに80'sテクノにふさわしくすっきりシンプルで ハイテクなステージを披露。ライブ映像作品『101』で勇姿が拝める。
天才デイヴ・ロッサムにとってはどうもEmaxは物足りないらしいのだが、それでもこの価格帯はEmax II、ESI- 32、ESI-4000、ESI-2000、E64、E6400というふうにずーっと引き継がれて最後まで新製品が投入されること となった。
このうちEmax IIは、実は中身ほとんど三IIIことEIIIことEmulator IIIなのだが、Emaxのハコに入ってしまったが ために過小評価されてしまったちょっとかわいそうな機種でもあった。にもかかわらずEmax初代と2代目とで合わ せて9年間も売れ続けたというのは電子楽器の世界ではロングセラー。思い出深く振り返るユーザーも実は全地球的に多い。またESI-32からは2U音源モジュールのみとなり、時代にもマッチしたばかりでなく2Uは運びやすいサ イズでもあったので合理的であった。3Uって重くてでかくて現場へ運ぶのつらいよね。4U以上はもう無理。
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「黄金時代」
この後、1990年代にかけてE-MUは数世代にわたり独自チップを開発、それらをもとに数々の名機を送り出す。 今なおアナログフィルターが懐古的人気を呼ぶEIII(Emulator III)、それをデジタル化した新世代EIIIXP、最後の 巨星EIV(Emulator IV)に至るまで、E-MUはAKAI PROFESSIONALと双璧をなす大規模ハードウェアサンプラ ーの名門となった。そのあとはソフトウェアサンプラーEmulator Xを出すことで、当時台頭していたNEMESYS Giga Samplerの好敵手にもなっている。
またコンテンツビジネスを応用、潤沢なサウンドライブラリーからエッセンスを凝縮させた比較的に安価かつコ ンパクトな1Uラックサイズ廉価版シンセ音源モジュールをたくさん出した。具体的にはProteusシリーズ、 VintageKeyシリーズ、Morpheusなる変態フィルター搭載シンセ音源モジュール、OrbitやMo’Phattなどとい ったジャンル別シリーズなどなど。これが同じPCMシンセかと思うくらい太くて明るい舶来サウンドに魅了された 日本のユーザーも多い。さらにはそれらをベースにしたグルーブボックスのXL-7、MP-7、PK-7なるコマンドステ ーション・シリーズもあり、E-MUはかつてなく多くの機種かつ多彩なラインナップを売り出す人気楽器メーカーと なった。これらはすべて、名だたるE-MUサウンドが欲しい少年少女たちへの福音だったのであり、みなぎるコンテ ンツパワーに立脚した1990年代こだわりのステータスシンボルたちでもあった。やはり、楽器は音である。
EIVはE-MU最後の名機かつ集大成と言ってよく、1990年代から2000年代にかけてAKAI PROFESSIONALへの オルタナとしてプロの定番であった。シリーズ大半が3Uラック・モジュール。128音ポリ。後から76鍵のキーボー ド版も出たなんて覚えてる? 鍵盤のそばにさりげなく“EMULATOR”って書いてあったよね? EOS(Emulator OS)なる独自OSで駆動されアイコンを多用したユーザーインターフェースは、もはやサンプリング専用コンピュ ーターのよう。前述のMorpheusでお披露目された変態フィルターことZ-Planeフィルターも搭載。これはZ平面 の名の通りスペアナ上で3次元的に周波数特性が変化する多彩なデジタルフィルターであり、これを知ってしまう と普通のLPF/BPF/BRF/HPFといったものが凡庸に思えて仕方がない。
最後の大物にふさわしくEIVには派生機種もあり、プリセット音色を充実させたE-Synthや、もはや外観だけが同 じで中身は派生とは言えないハードディスクレコーダーDarwinなどある。また前述のE64、そしてE6400は同時発 音数を半分の64音にとどめた廉価版であった。
そして時はAKAI PROFESSIOANL S6000やYAMAHA A5000といった末期的な巨大恐竜のように肥大化したハ ードウェア・サンプラーのファイナルステージでもあった。そして時代の要請により、それらはすべて音源モジュ ールであった。それら最終進化型サンプラーの世において、その最後に登場した哺乳類型爬虫類の如きミュータン トが新時代の朝を告げる6音ポリ・マシンROLAND VP-9000でありVarPhrase技術だったとも言えよう。
ラインナップの大半が音源モジュールという珍しい楽器メーカーE-MU。豊かなコンテンツパワーの果実たち。そ れでもデイヴ・ロッサムは「楽器」を作りたいという思いからキーボードへの夢が忘れられず、かつて SEQUENTIAL Prophet-T8などの鍵盤も製造したPRATT READから鍵盤製造マシンを手に入れたり、今ではスマ ホやタブレットに使われている静電容量センサーをキーボードに応用し、厳密にベロシティや鍵盤の沈み込み位置 を���測しつつも安い価格で���盤楽器を商品化できないか追究。しかし極上のキータッチを備えた絶品かつ安価なキ ーボード・コントローラーという彼の夢は、1990年代のうちに消えたのであった。
そして八面六臂の活躍をした彼の会社もまた SoundBlasterを作ったシンガポールのCREATIVEに吸収され、E- MUの名は今はなぜかヘッドフォン2機種に付与されているのみ。だが実は買収後のデイヴ・ロッサムはCREATIVE 自身の機種開発に忙殺されていたらしい。そしてその後、彼は表舞台から姿を消した。
MIDIは電子楽器を役割別に要素分解し、おのおのの目的に特化したコンポーネントへと分化せしめた。結果、キ ーボードやドラムパッドのようなコントローラーも出れば、音源モジュールも誕生。そしてEIVのような音源モジュ ールは、DAWプラグインとなってパソコンに吸収される時が来た。
それでもなお楽器が生き残るためには、精緻なDAWとは違う道を、つまりソフトウェアに最適なハードウェアを身にまとう道を、フィジカルな躍動感と人間の出番の多さとを楽器に求めることになった。AKAI PROFESSIONAL MPCはそうやって成功を積み重ねた今日的なサンプラーであり、ENSONIQ ASR-Xはあまりにも惜しい対抗馬、 BOSS SP-202 Dr. Sampleはうまく下をくぐって庶民の味方SP-404シリーズに至る血統の開祖となる。
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「総括と旅立ち」
E-MUとは、なんだったのであろう。
世界の創造神MOOGとARP。 それら創造神を倒した英雄OBERHEIMとSEQUENTIAL。
ポリシンセの盟主であるとともにネットワークの先駆者だったOBERHEIMとSEQUENTIAL。パラレルかシリア ルかの違いこそあれ、この2社は楽器をネットワークでつなげたのであり、そのノードにわくわくするポリシンセ の名機たちを置いた。
そのポリシンセを支える技術インフラを構築したE-MU。OBERHEIMとSEQUENTIALが安価な日本勢とのハー ドウェア競争に破れて倒産したときも、E-MUだけはコンテンツパワーでもって生き延びたのであった。ハードウェ アによるインフラからソフトウェアによるインフラへと時代に合わせて飛び移ったアタマの柔らかい天才E-MU。か くしてE-MUは価格競争に巻き込まれること無く、高いプロファイルでもって付加価値をつけ長く電子楽器業界のプ ロフェッショナルとして君臨。してその最後は日本勢に敗北するのではなく、コンピューターという究極のコンテンツ端末によって静かに吸収されることとなった。楽器であることにこだわったデイヴ・ロッサムの姿がステージから消えたとき、それは楽器の難しさを示すものとなった。
すっかりDAW時代になった2016年、突如としてデイヴ・ロッサムはE-MUとは違うところからカムバック宣言。 ROSSUM ELECTRO-MUSICを名乗り、以来、今日に至るまで強烈にヲタな仕様のユーロラックモジュールをたくさん送り出している。
やり過ぎ感たまらん3次元Z-Plane FilterモジュールことMorpheusは、前述のEIVなどに搭載されたものをさら にやり過ぎにした満腹フィルター。やり過ぎ感たまらん8chサンプラーモジュールAssimili8or。複雑怪奇なCVジ ェネレーターControl Forgeなどなど、もはや鬼才とも言えるデジタルモジュールたちが綺羅星のごとく舞い踊る はさすがデイヴ・ロッサム。
一方で自身が発明した最愛まろやかアナログフィルターことE-mu Modularから2100 LPF Module、それを元に 開発したラダー型VCFモジュールEvolution、0.1Hz~25kHzまで安定したレゾナンスが得られるのだというこれも また鬼っぷり。これらはさしずめ21世紀版E-mu Modularとも言うべきものであろう。
同社からはサンプリング・リズムマシンの名機SP-1200もリバイバル、なんとプレミアム価格4,000ドルにて再 登場。さらに2020年からはSP-1200 35th Anniversary Renovationとして驚天動地7,500ドルで販売中。
どうがんばっても75万円以上するサンプリング・リズムマシンをポチりたい勇者は、こちら。
https://shop.rossum-electro.com/products/sp-1200-35th-anniversary-renovation
そして実は新生SEQUENTIALのサンプリングシンセProphet-Xにも、デイヴ・ロッサムが設計したVCFが搭載 される。かつてVCFの銘機とうたわれKORG Polysix に採用された SSM 2044、その復刻改良版SSI 2144。どち らのIC開発にも噛んでいるはここにもやはりデイヴ・ロッサム。二人のデイヴの合作Prophet Xでは、そのSSI 2144でサンプルを加工できるので試していただきたい。同じフィルターICはUDO Super-6にも搭載され、やはり天才デイヴ・ロッサムは再びの影の功労者として、影に潜み、影で暗躍する謎のテクノロジカル小僧に戻った部分 もあるのかもしれない。
デイヴ・ロッサムには電子楽器の基礎技術開発に軸足を置いた前半と、コンテンツでもってビジネスをけん引するモデルとなった後半とがあった。そして両者に共通するのはインフラへの理解。 昨今、とかくコスト重視、大学ですら経済効率、科学誌『Nature』ですらセンセーショナルな話題性を求められすぎて、功に焦ってしまったのがちょっと前にあったほにゃらら細胞事件の深層。それくらいちょっち前の話だけどオバマも言ってたよね、 「不景気な今だからこそ将来への先行投資として、応用研究ではなく基礎研究への予算を倍増する」 って。何でもかんでも分かりやすくてセンセーショナルな話題ばっか探し求めない、地道な基礎技術への理解、さすがです。山というものは裾野が広いからこそ高く成長できるわけで、厚い基礎技術の底力、これ大事。
そしてその影の革命家として天才遊撃隊長デイヴ・ロッサムが夢想するもの。それはツウな逸品やツウなテクノ ロジーを音の宇宙に送り出すこと、電子楽器のツウなる仕出し屋さんとなることなのか。 次回はその彼をして驚かしめたもう一つのメーカー、そう、E-MUとくりゃもう一つのEについても語らないとね。
(2022年8月1日Sound&Recording公式サイト初出)
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katsuyukihama · 1 year
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 軍事衛星は脳波を利用して監視している。特許あり。
 MRI技術(生体信号を電磁波で取る)によって回収できる脳波から思考の解読ができたり目の映像が再現できるのは何度も報道されている。
 MRIについては思考の解読記事が多く確認できる(思考 MRI などで検索していただければ分かる)。2022年10月27日の翻訳記事などでは16時間のAI学習によって人間の思考がかなり正確に解読できたというものもある。
 現在、医療で用いられる技術に生体信号計測があるが、これらはマイクロ波レーダー(軍事レーダー)技術の応用とされている。(マイクロ波は電磁波の一種) ところで軍事技術として合成開口レーダーというマイクロ波レーダーがあり、これは生体信号のおかげで室内に人がいても監視できるのでこのレーダーで世界は監視されている。(軍事衛星から)(格納機内の航空機なども見える。成田悠輔の著書22世紀の民主主義でも米軍は世界の戦車航空機全てリアルタイムで監視していると。人間も生体信号があるので全員監視は容易だ。)
 この応用技術として米軍特許3951134号が出ており、脳波の解読に米軍は50年以上前成功している。中国も実用化しており、国民の思考は監視下にあると中国の警察が2019年に漏らしてしまった。(24時間、人の声が聞こえる 中国当局によるエレクトロニックハラスメントの恐怖 エキサイトニュース 2020年9月11日)
 世界は、脳波により、目の映像や、思考などが軍事衛星からのマイクロ波レーダーで監視下にある。東京大学卒イノイリ大学院卒の小池誠弁理士もこの事実を告発している。 これらの応用技術として、マイクロ波で生体信号に介入できる。CIA、MI5からはこれらの内部告発が出ている(エレクトロニックハラスメントのウィキペディア内参照)。中国の人民解放軍も脳波をジャックして人ごと操るという目標を掲げている。池上彰などもテレビでこれらを紹介し中国は欧米の後追いの研究をしているのだとした(防衛省の機関 防衛研究所資料 NIDSコメンタリー177号 4ページ目など参照)。この点、どうやって個人をピンポイントで狙えるかという疑問もあろうがスター・ウォーズ計画と称して音速で飛翔するミサイルを捕捉追尾しレーダーで撃ち落とす試みをしていたのは40年も前の話である。地表の個人はもっと容易い。
 マイクロ波は閾値を超えると音声になる(マイクロ波聴覚効果として知られ1960年代に幻聴の特許が出ている)。これらの技術は幻聴、幻覚兵器として応用されている。内部告発者たちは、精神病院をゴールにした暗殺を資本主義社会は繰り広げているとしている。
 この世界は、人工衛星とマイクロ波レーダー技術による、監視と暗殺のシステムが確立している 軍事技術は民間技術の数十年先を行くとされる。ミサイルはマッハ20などで飛び宇宙に無数の衛星が飛ぶ。携帯電話は1940年代の軍事技術。インターネットは1960年代アメリカ国防省軍事用ネットワークが起源だ。pcもアラン・チューリングが戦前にナチスの暗号解読に作ったものが前身である。我々は軍事技術で脳波を回収されて一生を送る。中国もアメリカも回収した信号を破棄しない。 テロ対策を口実に反体制派を狩る監視システムとして親米政権にばら撒かれたエックスキースコア(スノーデンが内部告発)の上のシステムに脳波の監視システム暗殺システムが存在する。人は信じたくないものは信じない。しかし、技術も、漏れ出たニュースもある。それでは、納得できるように、この技術が用いられ隠される思想的背景について論じよう。
 MIT教授チョムスキーは1970年代から支配者層の敵は自国民であって外敵などではないと主張。1991年にイタリア大統領がグラディオ作戦という名称で自国で共産主義者のふりをしてテロなどすれば支持率が上がるとしてCIAとNATOがテロを自演してきたと告発し辞任。代表は1980年のボローニャ駅爆破テロで85人の死者を出した。日本でも菅生事件など公安警察が自演でダイナマイトテロを起こし共産党員を冤罪で逮捕した。世界中に偽旗作戦と呼ばれる自演テロが歴史上存在する。バレてしまったものだけが歴史に刻まれてる。
 未来の予言書とまで評された1949年出版のジョージオーウェル1984には、現代の戦争は外敵と戦うのではなく自国民が敵になり支配者が支配構造維持のために自国民の感情をコントロールするものになると。(落選する事が一番怖い人には当然の事だろう。選挙権を与えた日から自国民が支配者層の敵だ)
 現代社会は学校で思考体系をコントロールされ、メディアを通じ情報をコントロールされて成立している。オペレーションモッキンバードという英語版ウィキペディアでCIAの記者買収作戦が。官房機密費問題で日本の記者とコメンテーター買収が確認できる。
 学校については米国では保護者が子供が国に都合のいい人間になるように洗脳されていると社会運動が(自民党の杉田水脈が教育機関は洗脳機関。麻生太郎が学校はライン工を作る為に作ったと発言し2022年11月2人で炎上している。20世紀最高の哲学者の一人とされるフーコーも学校は自発的服従する人間の製造機関と)。英国では記者が買収される世界の情報など信じられないとメディア信頼度は10%台だ。欧米ではメディアも政府も信頼度が低い(オーウェルはソ連批判の書、動物農場の序文でメディアが支配者層に牛耳られている英国もソ連と大差はないと書いていたが検閲で削除されていた。30年後に発見され一部の本には載っている)。
 世界中の諜報機関はペガサスというスパイウェアなどで、野党、買収に応じない記者、活動家を見張っている。これらは昔から存在し、アメリカはコインテルプロという名称で自国民の反体制派の監視と暗殺を行ってきた。 テロを自演してでも支持率に繋げたかった政府がテロ対策で監視システムを作るのだろうか。麻生太郎は北朝鮮のお陰(軍事挑発)で選挙に勝てたと発言して炎上し、ただの本音で失言とは言わないと池上彰に一蹴された。
 現在の日本にも脳波の監視と暗殺のシステムが存在する。エックスキースコア同様にこれらのシステムも渡されている。親米政権の存続維持のために。反米政権はそれがどんな体制だろうが大国の援護がない場合は全て言いがかりで滅ぼされている(チョムスキーなどもこの反米政権の末��を指摘している)。反米政権には軍隊を、親米政権には体制維持の監視と暗殺を。
 エックスキースコアとは通話、検索履歴、チャット、メール、ワード文書など大企業全てに情報提供させ、全てを一元管理、保存した監視網である。 安倍総理と暴力団関連報道(祖父の岸信介はアイク歓迎実行委員会と称して暴力団員に左翼を襲撃させていた)などでもわかるように、こういった組織相手には使わない謎の監視網。マル暴の警官は本気で暴力団と戦っているだろうが。。。世界ではマフィアと政治家は仲良しである。世界中で監視されるのは、何者か。暗殺兵器の内部告発者たちは何を殺すと言っているのだろう。反体制派を狩るコインテルプロが答えだろう。全体像が見えない場合、本気で戦っている下部組織があれば目眩ましになる。
 何度も繰り返すが、この世界は脳波すら支配下にして暗殺と監視がある。中国では既に報道が。何でも危険なら禁止条約を結んだこの世界で脳波関連だけが黙殺されている。答えは世界中の悪用だろう。プーチンもブッシュファミリーも北の将軍も安倍一族も、自国民の動向一つで無職のおじさんだ。外国より自国民を監視したい。
 エックスキースコアの方は近年使われた疑いが濃厚なニュースがある。モリカケ問題で内部告発した官僚前川喜平は、告発記事が文春に掲載される直前に読売新聞に出会い系バーに通った過去があると報道された。弁護士など有識者は読売の情報源はどこだと読売を徹底批判した。ところで読売新聞はCIAのエージェント正力が創業したメディアとして有名であり、正力はCIAから多額の資金を受け取っていた。チョムスキーは国は暗殺する機関だがいろんなケースがあると。例えば、マサチューセッツ工科大学教授の僕が本当のこと話して殺したら逆効果でしょと。前川喜平は下半身を記事にして消された。
 テロ対策を口実に作った監視網で内調は与党のライバル政治家のゴシップやアラ探しをしていたと小谷賢氏が語っている。
投稿者 濱崎克幸 浜崎克幸
禁止条約を作る社会運動をしたいです
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池上彰は記憶から思考を取り出すステージだとそして中国は世界の真似だろうと。早急な法規制 禁止条約が必要であるPDFは防衛省機関
特開2007-195779
 サイトは特許庁一例 東芝 脳波から映像思考の解読企業から多数出願 軍事レベルのAIならもっと上だ
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moshimobokuga · 1 year
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突然春は跳ねる #02
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 桜の花が満開に咲く中、新入生とその保護者でお屋敷みたいな立派な校門の周囲はごった返している。私は人にぶつからないように校舎に続く桜並木を真っ直ぐ歩いていた。  あと数十分で入学式が始まる。まるで実感がない。中学の卒業式だってまだ残っている気がする。高校生かぁ。しっくりこない気持ちのまま桜並木を抜けた時だった。 「イワイさん!!!」  雑踏から私を呼ぶ声が飛んできた。驚いて振り返ると女の子が倒れてくる。 「え!?」 「わあ!!!」  思わず受け止めた。自分の反射神経にびっくりだ。巻き添えを食らって倒れなくて良かった。新品の制服をこんな早くに汚したくない。 「…大丈夫?」 「ごめん!こけちゃった!助けてくれてありがとう!」 「えっと」  名前が思い出せない。同じ高校に進むって言ってた同じ中学の子。今日もきれいに髪の毛を二つに結んでいる。胸には新一年生の紺色の、美術科のクロスタイを付けていた。 「イワイさん!もう教室に行くの?」 「そのつもり」 「写真撮らない?おうちの人は一緒?」 「いや、両親忙しくて入学式来れないんだ」 「そうなの!?あたしも!だからね──あ!二人とも!こっちこっち!」  人混みからスーツの男の人たちが慌ててこちらへやってきた。人の年齢ってよくわからないけど両方とも二十から三十歳くらいに見える。 「お前なんで先に行っちゃうんだよ!」 「高校生になってまで迷子か」 「ごめん~!知ってる子発見したから!この子!同じ中学のイワイさん!体育科!」  紹介されてつい会釈をした。 「イワイさんも写真撮らない?」 「ほら、あっちの桜!人少ないし二人並んで!」 「はーい!」  三人の勢いに飲まれて少し奥まったところに立っている桜の木の前まで来た。 「もうちょいイワイさんこっちに寄って!そう!ぴったり!位置最高!撮るよー!」  ちらっと横を見ると女の子がピースをしていたので私も真似して写真を撮ってもらった。 「それじゃあ二人とも入学式頑張って!ちゃんと起きてるんだよ!」 「イワイさん、この子のことよろしくね!」  男性たちは保護者待機所へ向かっていった。 「あの人たちお兄さん?」 「おじさん!一人がお母さんの弟で、もう一人がお父さんの弟。今日はお仕事ない日だから来てくれたんだ~」 「そうなんだ…」
 この学校には普通科と体育科、美術科、音楽科があって渡り廊下で繋がっているけど校舎はそれぞれ分かれている。 「じゃあ、私はこっちなんで」 「イワイさん!」  体育科の校舎に向かおうとするとこの子はまた私を呼んだ。 「入学おめでとう!」 「え?」  その瞬間、風がぶわっと吹いた。すぐに目をつぶったけど自分のスカートと彼女の二つ結びの髪が大きく揺れたのがわかった。  目を開けると女の子は髪を抑えて笑っている。その顔を見てなぜだか胸がすっとした。部屋の隅に少し溜まった細かい埃が掃き出されたような。 「はぁ。びっくりしたね!ふぅ…本当はね、卒業式の時にも卒業おめでとうって言いたかったんだ。でも一組の子に聞いたらもうイワイさん帰っちゃったって」 「そっか…えっと…」  このままごまかそうと思ったけどやめた。 「ごめんね。何さんだっけ?人の名前覚えるの苦手で…」 「あたしは長山!ロングマウンテン!永遠じゃなくて長野県のナガ!」  覚えてないの?って言われるかと思った。長山、長山、長山…。 「長山さんも入学おめでとう」 「わー!ありがとう!」  長山さんは嬉しそうに笑っている。 「イワイさん、これから部活とかで忙しいと思うけど予定が合ったら一緒に帰ろうよ!最寄り駅同じだし寄り道とかしたい!」 「…うん」  私がそう答えるとブンブン手を振りながら長山さんは美術科の校舎へ歩いて行った。前を向いた方がいい。また転んじゃいそうだって思ったけど言��なかった。
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spring-is-yours · 22 days
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早くも更新を忘れる。言い訳としては今週の週末にライブがなかったので曜日感覚が極端になかった。てかこんなもん誰に頼まれてやってる訳でもないので言い訳する必要も本当はない。けど、ごめんねって感じ。その感じ、多分大事。
3.18 月
普通にバイト、珍しく男ばっかのむさ苦しいメンツでウケた。家族と軽く会って、帰ってきてコインランドリーに行って飯を食いながら映像の世紀を見る。ロシアってずっとクソやばいんだなー。明日は名古屋。かーーーー。23時に寝て、1時にまた起きる。カスすぎる。なんとかしてーーーー
3.19 火
ガッツリ寝坊したので全てが嫌になり、名古屋に向かう。車内で基本的にDJやるんだけど、気分的にイヤホンしてたらやじまがベイマックスだのアナ雪だの流してて、もはや音楽も聞かないって感じでウケた。おれ音楽聴いてない時間バイト以外ほぼないけど、案外そっちがキチガイなのかも。てか名古屋遠すぎる。車内でコレを書いてる。明日はオーディションらしい。おれが苦手なもの一位が長距離移動で二位がオーディションなんだけど、どっちも網羅。最悪。そんなハンデがあっても良い曲と良いライブ見せられるので、こんなん書いてもお客さんに失礼なんてこたーない。名古屋着いた。寝れるかなーーー。あーあ。高崎帰りてーマジで。
3.20 水
ネカフェで3時間寝て名古屋でライブ、一月来た時も思ったけど、名古屋、毎回アウェイだなとか思うし実際アウェイなのにお客さんからめっちゃブチ上がっててくれて嬉しい、今日はオーディション形式のライブで、コレが世に出る頃には発表されてるだろうけど普通にダメだった、オーディションとは言っても来た人の投票の数で決まるアレで、名古屋やその近辺のバンド達は片っ端から友達なり家族なりを呼びまくって数の暴力で圧倒していて、こんなん書いたら怒られるだろうが、ライブや曲の良さなんか1ミリも関係ねーじゃんとか思ったり思わなかったりした。まあでも名古屋でやるフェスの出演権だし、名古屋での集客を求められて当たり前で、何組か知ってる関東在住のバンドもいて、その中にはわりとバズってるバンド達もいたけど総落ちしてた。投票制ってわかった瞬間コレ無理だろとはなったけど負けるとやっぱり腑煮えくりかえるとかでは済まない程悔しいしハッキリ言ってクソ死にてぇ。今機材車の後部座席でイヤホンしてメンバーとの会話も放棄してコレを書いてる。けどまあ嬉しいことも確かにあって、前述の通りみんながブチ上がってくれたしおれらの集客は情けない話一桁だったんだけど30票近く入っててそれがクソ嬉しくてヤバかった。20人近くがおれら目当てじゃないのに投票してくれてるのは、何にせよ一旦手放しで喜んでもバチは当たらない気がする。去年くらい前まではバンドなんか辞めちまおうかと思ったけど、それでもこうして頑張ってるぜー!!みたいなMCしてる先輩達を見ながら、おれバンド辞めようと思ったことないけど???とか冷めた目で見てたけど今なら正直全然気持ちわかる。まあ流石に金払っておれらのライブ見に来手くれた人達の前でそんなMCしようとはマジで思えないが、大変だよなって、来月、4月から同級生達は就職する、中学高校の友達は卒業旅行で忙しいらしい、そんな中、名古屋まで行って負けて帰ってくるおれ…。こんなん誰だって真っ当に就職してそれなりに大好きな人と付き合って結婚して家族を安心させたい…とか思うだろ。でもなーーー、今日のライブの時のみんなの顔思い出すと、流石にそんなこと言ってられなくてウケる。この地獄を続けるしかなくてウケる。おれを地獄に閉じ込めてるのはあなた達です、本当にありがとう。GEZANのあのちの最後の曲が終わったのでここら辺でおれも目を閉じる。寝れないだろうけど。群馬に着くのは流石に朝だけど、出来るだけ寝てバイト行きたい。クソーーーーーー!!!!!!!!
3.21 名古屋から朝帰ってきて、大体こういう時は気絶のようにめちゃくちゃ寝ちゃうのになかなか眠れなくてドン引きした。その後軽く気絶して軽くバイトして軽くノアでバキ漢きじまドラム30時間の打ち合わせ。何を言ってるのかわからないと思うけど友達兼高崎仲間のバキ漢きじまが30時間ドラムを叩き続ける。し、ノリノリなのも怖い。どう考えてもアホ。そこが良い。おれはこういう奴に力貸したい。当日ギター弾いて歌うの楽しみだなー。
3.22 めちゃくちゃ寝て働いて電話して壁殴って寝た。クソ寒い。カスの1日。麻婆豆腐とか作った。
3.23 2時間で起きてしまったので4時起きで朝からバイトに行く。花粉と不眠で辛かった。隣の席が面白社員さんじゃなきゃ死んでた。めっちゃ疲れた。その後のスタジオも濃すぎたのでめちゃ疲れた。おす。麻婆豆腐の残り食べる。
3.24 舐めんな!を駆使してバイト。夜はバキ漢と仲間たちと30時間前夜祭。やるのみ。家系ラーメン食う。食欲バグった。お腹痛くて起きたりした。
写真解説
左上から時計回りに
ウチの近くのコインランドリーの壁。言わずもがな、イキりすぎである。
ノアビルにあった餃子の残骸。どう生きてたらこうなるんだ?
名古屋のヤバいドーム。色変わっててやばかった。
雪降った高崎。かなりの豪雪だったのに正午にクソ晴れて��はやなかったことになってた。
車に敷き詰められるバキ漢。
ねこちゃん。よく会う。
グラフィティ煮連発。おれは街のグラフィティが好き。普通に違法だし逮捕の可能性まで孕んでんのに街に自分を残してやろうという気概。動機やそこに至るまでの過程はどうでもいい、気概1発にシンパシーを感じる。
名古屋の赤い椅子。しばらく立ち止まり、どうやって高崎まで運ぶか考えたが、別に運ばなくて良いことに気付いた。
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real-sail · 1 month
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果たしてわたしが送ってきたのは「挫折のない人生」だったのか
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人より少し長くかかった学生時代を終えようとしている。しかし文系博士課程としては長くも短くもない平凡な修業年数だと思う。幼い頃より「20代いっぱいは好きなだけ勉強に費やしたらいい」と言ってくれる両親の存在があり、自分の人生に博士課程進学という選択肢が浮かんだときもわたしの中では特に違和感も驚きもなかった。
これがどれだけ特権性を孕んだ考えであろう。博士課程に駒を進めるまで「学問の自由を阻まれること」がなかったのだ。わたしは地方公立中学校から国立大附属高校(藝大附属音楽高校、以下藝高)、第一志望単願で国立大学(国立大附属高校にはエスカレーター進学がない)、そしてロンドン大学(英国王立音楽院)の修士に博士とストレートで来た。人はこれを「挫折のない人生」と呼ぶ。
でも果たしてわたしが送ってきたのは「挫折のない人生」だったのか。
特権性の無自覚、当事者の視点。このあたりを手がかりに、わたしが大学院進学を夢見てから博士論文を完成させるまでの道のりを振り返りたい。前編後編に分けて、まず前半に当たる本稿では「大学院進学」を明確に意識した高校時代から修士課程終了までを綴る。記事の切り口の特性上、わたしが「特権性に無自覚」であったり「ナチュラルにほかの人を見下す」シーンが出てくることを先にアナウンスしておく。
――
幼い頃よりヴァイオリンに勤しんだわたしは、小学生のうちから「藝高合格」を目標としていた。中学生になると生活のほとんど全てを藝高受験のために懸けた。それだけの情熱と労力をかけた目標が報われたとき、わたしはぼんやりと考えた。次の目標がいるな、と。
目下のミッションとして3年後の藝大受験はあれど、もっと未来を見据えた目標が必要だと思った。そんな折、藝高に教育実習生がやってくる。藝高卒業生でもある大学4年生の先輩たちの中には、大学院進学をすると言う人がいた。なるほど音大にも大学院があるのか。もし演奏家として論文を書くことができたらどんなにおもしろいだろうと思った。
ところが強く憧れたはずの藝高生活はわたしにとってとてもしんどかった。特に最初の半年は“次の春に地元の普通科の県立高校に入り直すこと”が実現可能か検討したほどだ。ただ毎日が苦しかった。中学時代に成績でブイブイ言わせていた自分が音楽高校の“甘め”の一般教科を受けることの敗北感、演奏以外のことに興味がない級友たちの授業態度への苛立ち。その反面、音楽科目の授業は内容が一流のそれでとても勉強になったが、しかし入学時に学年トップ群の成績だったソルフェージュで上級生とのレベルの差に愕然として自分に失望した。そして何より実技。普段授業中にふざけている人たちが、自分よりずっとうまく演奏する。自分も自分なりに技術の向上を試みるが思うようにいかない。
これらの感情をトータルで見たときに「自分はこの学校に向いていないのかもしれない」と思った。実技が一級でない上に、授業に集中できなくてキレ散らかしてるなら、勉強が落ち着いてできる環境に身を置いたほうが幸せじゃない? ― あとから振り返れば、中学時代のわたしは自分のアイデンティティを「学業成績が優秀」「ヴァイオリンを弾ける」という2点で認識していたとわかる。そのアイデンティティで身を立てることが叶わなくなったことに戸惑った。
もう一点、東京の音楽学校を辞めてしまいたいと思った理由に田舎ものゆえのコンプレックスもある。田舎というのは栃木のことだが、出身をいじりの材料にされることが少なくなかった。栃木ってめっちゃ遠いよね。その話って栃木ならウケるの? そういう自由な振る舞い、田舎でのびのびと育ったって感じ。今ならマイクロアグレッションと呼んだであろう、田舎から出た人はみんな知っているあのザラザラとした感触。
そうした混沌として悶々とした気持ちがすぱっと晴れることはなかったが、1年生を終える頃にはここで高校生活を全うしようという気持ちが固まる。そこまで勉強したいなら自分で学べば良いと思い直したし、ヴァイオリンがもっとうまくなりたいという気持ちは確かにあった。2年生になっても、音楽を志す学生が多数受ける全日本学生音楽コンクールにおいて日本一と言われる学校名を背負いながら華麗に予選落ちをかますなど相変わらず振るわないものの、実技の先生の丁寧な指導に触れる中で、先生のかけてくれる愛情に応えたいと思うようになった。
3年生の夏には「公開実技試験」という一般公開の一大イベントがある。その成績は良くも悪くもなかったが、身内の酷評を喰らってその後数か月に渡って家庭内冷戦に突入した。藝大受験は諦めろ、受けても落ちるだけ、頭脳のほうを生かせる進路を選択したほうがいいんじゃない、とネガティヴキャンペーンが続く日々を掻い潜って、受験を認める条件として出されたのが日本音楽コンクール1次予選突破。時すでに本番2か月前で、通常の準備期間より遥かに短い。実技の先生たちの反対を押し切って出場する羽目になり、そしてあっけなく散った。結果を告げる電話の自動音声を、校舎の立ち入り禁止の屋上で聞いた。
もうここまでか。気力が底を突きそうになったギリギリのところで、周囲の助けがあって結局藝大受験は認めてもらえる運びになった。“機会を与えられることの幸運”を感じながら無欲に受けたのが秋の大阪国際音楽コンクール、わたしが人生で初めての優勝を果たした。知らせを聞いた瞬間、わたしは浮遊感と同時に恐怖も覚えた。この結果のあとで藝大落ちたら笑われるだろうな。
その後わたしはプレッシャーに打ち克って藝大に合格し入学するに至る。当時のわたしにとっては苦労の末にたどり着いた希望のように感じられたが、本当の意味でその合格の重さや恵まれた幸運について知るのは大人になってからだったように思う。この段階で、わたしはまだ不合格を抱えて生きていく道を知らない。
藝大生活は思いがけず肌に合った。自分の好きなように時間割を組み立てられることが楽しく、心ゆくまで知的好奇心を満たせる。大学4年間のあいだには本当にいろいろなことがあったが、それは「いろいろな選択肢がある」こととニアリーイコールであった。
西洋音楽を学ぶ学校という特性上、大学に入ると「次の目標」として海外留学を考える声も聞こえてきた。わたしも例に漏れずいつか海外で勉強してみたいという気持ちは持っていたので、まだ具体的なプランはなかったが、親の勧めで大学1年時から週一で英会話教室に通い始めた。夏休みには自分の師匠の勧めを受けて海外の講習会というものに参加した。初の海外は英国に2週間。申し込みからして英語で、埋めても埋めても終わらない申し込みフォームに泣きながら格闘した。
1年次に現代音楽のコンクールに出場した縁で、日本人の作品を弾くことに興味を持った。学内で作曲科の学生から初演の依頼をもらうようになった。あのときは気づかなかった、わたしはそれ以前に“女性作曲家”の作品を演奏したことがなかったことに。依頼者には申し訳ないが、わたしは実技の実力にイマイチ自信を持ち切れないままで、「人がやっていないこと」をすればアイデンティティが確立できると思っていた。その点、日本人作曲家の作品は同期が弾いていない曲の宝庫である。テレビで偶然「幸田露伴の妹で音楽家の幸田延」のドキュメンタリーに遭遇したときは自分のアンテナに引っかかった。
2年次の履修を組もうとシラバスを読み返していたら、大学3年次に指揮科に編入できる制度があると知った。幼稚園生の頃の夢:指揮者になりたいを久々に思い出してしまった。実技の先生にちらっと尋ねると、指揮もなさるわたしの先生ご自身も転科を検討して、しなかったことを教えてくれた。まずは目の前のヴァイオリンを突き詰めることで「音楽」の学びを深めるべしというのが先生の先生の考え方だったそうだ。そのとき目的は音楽でヴァイオリンは手段だと思った。心の灯火が消える前に、挑戦のつもりで学外の指揮講習会に参加した。主催で講師のマエストロは打ち上げの席で言った。「楽器の人が大人になってから指揮をするのはすばらしいこと。でも指揮にも技術はいる。楽器を始めたときと同じくらい素直にゼロから学ぶ必要がある」。先生の言葉は大人になってから新しいことを学ぶことの難しさを見事に言語化していた。
スマホが多くの人の手に普及して、さらにネットが身近になった頃だった。同級生から「いつか一緒にYouTubeやりたくない?」と言われて、おもしろそうだと思った。あのとき実現していたら先駆けになっていたかもしれないが、当時は一般の学生がYouTubeチャンネルを持つことはあまりに勇気が必要だった。
ご縁をもらって大学2年次からネットで書き物をするようになった。初めは無償で寄稿のような形だったが、そのとき知った「己の書き物へのモチベーション」を元手に、ライティングの仕事を始めた。遠距離通学の時間を稼ぎに換えたのは我ながら賢い方法であった。時はオウンドメディア・キュレーションメディア乱立時代。いくつかの媒体にお世話になって、Webライティングのやり方を覚え、人に伝わる文章の書き方も学んだ。でも一方で、自分が単なる駒のように使い捨てられる感覚も知った。
大学3年生になる頃には学内外でたくさんの本番をさせてもらえて、忙しいことは楽しいことでもあったけれど、小耳に挟んだ「英国王立音楽院との交換留学制度」に惹かれた。今取り組んでいることと自分の希望がどこかかけ離れていく感覚もあり、この状況から逃げたいと思った。結局それを留学のモチベーションに昇華するには至らず、そこまで積み重ねた教職課程の単位を手放すことも惜しくなり、機会は見送った。教育実習をすることも夢のひとつだったのだ、あのときの実習生たちのように。留学は大学院に入ってから休学して行くのが良いかもしれないと思って、いよいよ本格的に大学院受験を意識した。
とはいえ、このときわたしは研究したいテーマがまだなかった。しかし入試では面接がないのでそこを問われる機会はない。反対にこの有り余る研究へのモチベーションを伝える術もなく、実技試験の出来次第である。かつては学年の一部の人しか出願しなかった大学院入試、気がついたら半数以上の人が受けるようになっていて、自分の学年の人も結局ほとんどが受験した。そしてわたしは落ちた。青天の霹靂だった気もするし、あるあたりから覚悟していた気もする。
わたしの頃は多数の人が受験するわりに、その意思を公言するのが憚られた。ほとんど受けるということは半分落ちるからだ。最近は受験することを公表したり、落ちたことをもSNSで明かす人がいて、隔世の感がある。でも今考えると隠す必要も特になかったと思う。ただわたしにとって「大学院に落ちた」ことは、長いこと表で言えないほど深い深い傷だった。数年の間は、誰かの「院試受かった」の文言にズキズキさせられた。
誰より早くから大学院を志していたのに。「院生はティーチングアシスタントも求められるから仕事ができる人が有利」なんて言い出したの、誰? その噂ゆえに、はらだの合格は堅いだろうと目されていたのに。逆に初めからわたしは落ちると踏んで、顔を合わせればわたしの自信を奪うようなことを言う大人もいた。そういった大人の中には、わたしを指導する立場にある人もいた。あいつは絶対受かると言われることも、あんたは絶対落ちると言われ続けることも、どちらもわたしを揺さぶった。院試準備期間は、なんだか周囲の言うことに対して過敏になっていた気がする。わたしにとって院試が深いトラウマであるのは、受験に落ちたこと自体よりも、受験の前後の周囲の反応に振り回されてしまったことに起因している。
落ちたとき家族に言われた。「真帆ちゃんの初めての挫折だね」。わたしはそれは違うと思った。発表された数字の群れの中に自分の番号がないことは、コンクールで経験があった。この気持ちの因子は知っている、サイズが違うだけで。
実を言うと、「自信」に自信がなかったわたしは院試に備えてありとあらゆる対策を講じ、人生の中で一番心穏やかに、冷静に演奏することができたのが院試の当日だった。あの日のベートーヴェンの協奏曲は、自分のベートーヴェン史上一番良い演奏をしたと思った。もっと実を言えば、バッハを弾いている最中に指がもつれた。でも全体的にはまとめたとも思うので、あの日あれ以上の演奏をするのは無理だった。だから院試本体には“気が済んだ”という感覚がある。審査する立場を想像すればそのミス1点を理由に落とすことはないと思うので総合的に力不足だったと見るのが自然だが、審査の仕組み上演奏に点数をつけるため、ただでさえ僅差の戦いの中で数字化したときにそのミスが尾を引いた可能性はあったと思う。
落ちたとわかってからは不思議と開放感もあって、環境を変える理由ができたと思った。そこにしがみつくように受験したくせに、不思議な話である。いや、可能な限りこの学府にしがみつくことが「正解」だと思っていたわたしは、「正解を外れる理由」を不合格でしか自分に用意できなかった。
院試の結果を受けて、そのあと目まぐるしい時間を過ごした。家族から何度目かわからない「音楽なんて辞めれば」を喰らった。それまでの人生ごと否定されるような感覚になるその言葉は、21歳で聞くと17歳のときよりも重く響くようでもあったし、藝大生に向かってよくも言えるなと思う冷静な自分もいた。後者の自分がうまく立ち回って、結局留学の可能性を探ることになった。この時点では複数の行き先を検討して、いずれにしても音楽学校の入学には語学試験の成績が必要とわかったから、語学学校を調べ相談会や体験入校まで行った。その上で自分の師匠ともじっくり話して、英国王立音楽院の受験を決めた。入試は11月、出願は10月いっぱい。それらは全て、10月中旬の教育実習と同時進行だった。英語での出願は楽ではなかったが、システムがかの日の講習会の「何ページもある終わらない申し込みフォーム」に激似だったことが幸いした。
教育実習自体もそれなりにしんどかったが、授業をすること自体は楽しかったし、嫌いではなかった。ここで実習指導担当からパワハラまがいの態度を取られたことは深く語らないが、ダメージであったことは記しておく。そんな中でよく入試の演奏の準備をしたなと思う。
入試のオーディションから2か月近くたって合格通知を受けとって、改めて学校のパンフレットを読み返したら、行こうと思う大学院には論文を書くコースと書かないコースがあると知った。しかし前者はこのあと提出する語学試験(IELTS)の点数が少し高い。音楽高校進学後英語の筆記の勉強がそこそこだったわたしは、後者の点数に到達させるのがせいぜいだと自覚していたので、それは見て見ぬふりをした ― そもそもは論文を書きたくて大学院を志したはずだった、でもそのときは居場所を確実に確保することが優先だった。
卒業試験はもはや捨て身の感もあって気負わずに弾いたら、成績上位者として受賞できることになった。このときの録音を使っていろいろな奨学金に応募したがことごとく落ちた。本当にことごとく落ちた。藝大で成績上位になった演奏なのに! やっぱり学年一位レベルじゃない自分はダメなんだ! またはそもそも応募できないものも多数あって、それらは「留学時に日本の学校に学籍があること」という条件があった。学部を終えたら、わたしは日本国内に所属がない。こうした場面で院試落ちというスティグマが疼いた。このスティグマから逃れるのは実に困難で、誰に言われたわけでもないのに、人前に立てば「どうせわたしは院試落ち」という意識がついて回る。
奨学金の応募先は音楽学生専用のものに限らず、時には申し込み用紙を埋めるのに苦戦した。いかんせん“論文を書かないコース”に進学予定なので“研究テーマ”を問われると抽象的で歯切れが悪くなる。栃木から東京へ、卒業後は新幹線定期がなくなったので鈍行列車に揺られながら“研究テーマ”を考えていたら、不意に「もしかして近代ヴァイオリン奏法って男性優位なんじゃない?」と思いついて、これは研究テーマになり得る! と興奮した。帰宅して家族に話したら「興味深いけれど、奨学金の審査をするのがおじさんたちだとしたら採用されなそう」と言われた。もっともだと思って忘れることにした。ちなみにフェミニズムという言葉は2014年のエマ・ワトソンの国連でのスピーチのおかげでこのときすでに知っていたが、このテーマがそれに当たるとはわかっていなかった。
最終的になりふり構わずあちこちに泣きついて、進学先が授業料を減額という形の奨学金を出してくれることとなった。そうは言ってもとても高い授業料は親が負担してくれた。5月にその一部を支払うと、本当の入学許可証が届く。そこから9月の入学までは強いて言えば人生で唯一のギャップイヤーのような時間で、音楽用語の英語レッスンを受けたり、英語のホームページやSNSのアカウントを開設して整えた。ほとんど自宅にいたはずなのに何故か胃腸炎を拾って寝込んで痩せたりもした。
いざイギリス・ロンドンでの生活が始まると、時間のゆとりができたことに驚いた。通学時間がぐっと減った上に、院生は学部生より授業も少ない。現地にほとんど知り合いがいないところからのまっさらなスタートだったので、東京にいた頃のような演奏の仕事もない。そして不思議と時間の流れがゆったりして感じられた。これをロンドナーやヨーロッパのほかの都市の人に言うと「ロンドンって忙しなくない?」と驚かれるが、東京と比べてほしい。
修士1年目は中学時代に戻ったような純粋さで時間の限りヴァイオリンを弾いた。それまでは週に1回のレッスンにあっぷあっぷして準備不足を恥じながら通っていたのに、こうなると次のレッスンが待ち遠しい。そして良い時代だった、ついた先生がまだ若くて持っている生徒が少なかったので、ばこばこレッスンを入れてくれた。修士の2年間で先生の技をありったけ盗むべく、これまでのものを捨ててでも一旦どっぷり浸かろうと思った。自分流はそのあとで良い。この心意気が功を奏して、ほんの2年間でもとても濃い勉強をした。先生はわたしが日本でことごとく弾き逃した曲を狙ったかのように与えてくる。人生の忘れ物の回収に来たのだと思った。
イギリスの学校は、日本の学校とまるで違った。授業の内容はよりプラクティカルで、演奏家として生活をしていくための実践的な内容が多かった。広報用の個人ホームページやSNSの運用を促され、それが学年末の課題として採点された。留学直前の自分のおかげで少し楽をした。その課題の採点者は、わたしだったらInstagramにバッハの演奏でも毎日投稿したら良いだろうと言った。時は2016年、まだ今のようにInstagramに演奏を投稿する人は多くなかったが、わたしはその後2年ほどかけてバッハの無伴奏ヴァイオリン曲を全て投稿しきった。
自分に発破をかけるつもりで、2年しか時間がないという覚悟で臨んだ留学だったが、いざ1年過ぎてみるとあと1年で去るのが惜しい。厳しいようでどこか甘い家族は、2年で帰ってきてもあなたにまだ強みがなさそう、せめてもう1年くらいいられる道を模索すればと言う。イギリスに外国人が居座るのにはビザがいる。就労ビザなども調べたが、結局学生ビザが一番確実である。同じ学校の修士の先のコースを調べると演奏ディプロマと博士課程があることに気づく。そういえばわたしの夢って、演奏家として論文を書くことではなかったか。わたしはイギリスで人生の忘れ物を回収していたのではなかったか。
イギリスの学校がよくできている���は、大学生にも“担任���先生”のような存在がいることだ。チューターにのこのこ会いに行って、進路相談に乗ってもらった。企業家ビザか博士課程を検討していると言えば、ところで研究したいテーマはあるのと問われた。わたしは、クラシック音楽をもっと社会に広める方法か、ヴァイオリン・メソッドにおける男性優位について調べることに興味があると答えた。前者はテーマとして弱いけれど、後者だったら、この学校にジェンダースタディを専門にしているピアニストがいるから会って話を聞いてきたら良い ― そう言って紹介されたのが、のちの指導教官だった。
わたしは正直、あの日宇都宮線でうつらうつらしながら思いついたテーマが研究になり得るのか不安があった。でも紹介された先生に会いに行って話をしてみたら、先生はわたしの言うことに共感を示してくれて、先生の研究について紹介してくれた。もし進学するなら指導ができると言われた。英語での小論文には自信がなかったが、先生と話したときの知的興奮が忘れられずに、わたしは受験を決めた。
しかし恥ずかしながら、自分の英語能力に向き合うことが怖くてしばらく受験の書類を寝かせてしまった。寝かせているうちに時は立って、今度は締め切りを過ぎていたらと思うと怖くて直視できない。そんなときに住んでいた家が大家都合でとんでもない大工事にまきこまれて、寝食が脅かされる状況に陥った。目の前のアクシデントに対応していたら年が明けていて、歩いて40分のコインランドリーに向かう道すがら、1輪の寒桜に出会った。わたし桜咲かせられるかもしれないと予感して、伏せていた出願書類に向き合う決心をする。
幸い期限までひと月あった。そこから起きている時間のうちヴァイオリンと授業と家事以外を小論文に注ぎ込んだ。すべての単語で辞書を引く勢いで臨めば書けるはずだ、人より時間はかかるがやるんだ。パソコンを抱えながら寝て、起きたらまたタイピングを続けるような日々。しかも容赦なくソロやオーケストラの本番が入っている。この30日間があまりに苦しくて、そののち博士論文を執筆したときにも思い出しては「あのときよりマシ」と思うほどだった。
テーマが明確だったことが幸いして、面接審査に進んだ。4人もの教員を前にしてのディスカッションには震えたが、蓋を開けるとどちらかと言えば先生たちの中で議論が盛り上がっている。自分としては苦し紛れで入れたつもりの「自分の映像の分析」が、オリジナリティがあって良いとコンテンツの中で一番評価された。英語が心もとなくとも、この小論文を書いてきたのなら先の執筆に耐え得るでしょうと言われたときに、言語力以上に段落などを構成する力が生きたなと思った。春休みに合格通知を受け取ったとき、初めて自分で道を見つけた気がした。藝高も藝大も王立音楽院の修士も、人に教えてもらった道だった。
でも実はこの博士課程の受験プロセスの最中にも翌年を見据えて奨学金に応募して、日本まで飛んで受けた最終審査で��ちた。トンボ帰りして博士の面接、その翌週には修士2年の二大イベントのひとつ、コンチェルト試験、春休み明けすぐには卒業リサイタルも控えていた忙しさの中で、同じように卒業後の居場所の模索をする友人たちに自分の進路を伝えることはためらってしまった。それは院試に落ちたときに受かった人の振る舞いに傷ついたことがあったからかもしれない。いずれにしろ夏になれば別れのときは来るけれど、進路を告げることで別れを意識する瞬間を生むことに躊躇があった。
――
置かれた環境を最大限に生かすこと、そこでの最善を尽くすことをいつも考えてきた。少しがんばれば手が届きそうなことには挑戦を厭わなかったし、ゆえに「少しがんばる」の単位は人よりバグっていたかもしれない。そうであるから自分は努力で人生を勝ち取ってきたと思っている節があった。ただその「がんばる」の初期値がそもそも恵まれていたことを、どこまで自覚していたか。自分で貪欲に掴んできたものは多数ある、でも掴める場所にいたのは特権的だ。
わたしの視点から見ると、この道のりに「挫折がない」と言われることは耐え難いが、絶望の深度がまだ浅いと言われたら何も返せない。多かれ少なかれ、音楽家だったら、留学生だったら、大学院を出た人だったら似たような苦労はしているだろうし、繰り返すが、そもそもこの苦労に遭遇することすら特権階級的であることは否めない。全てのことは、わたしが“ヴァイオリンを弾ける環境になかったら”起こっていないことだ。だからといって、苦労が美徳とも思わない。
後編では、本稿で太字にしたフラグを回収しながら、博士課程の6年半を振り返る。
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kennak · 11 months
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https://anond.hatelabo.jp/20230503204955この増田も言及しているが、富山から若い女性が流出しているというニュースで地元が炎上している。ネット上で憶測が憶測を呼びとんでもないことになってやがるので、当事者として事実を書こうと思う。以下、大変不名誉なことに例の記事で「問題のある層」として紹介されてしまった「富山から出た20代女」として書きます。とりあえず、自分の実体験を踏まえて誤解は誤解、合っている部分は合っていると説明する。0歳から18歳になるまで富山の中心地富山市で見聞きしたことですが、地域によって違いはあると思う。富山を出た理由はい、まずこれですね。ご期待に沿った回答でなくて申し訳ないが、私の場合は「都会の企業より待遇・条件のいい企業がないから」です。私は大学進学で富山を出て、そこから新卒で就職した。国内外でそれなりに知名度のある大企業の専門職で働いており、ハッキリ言って内定が出た都会の企業以上の待遇が期待できる会社は富山にはなかった。海外赴任したいし。仮に私が男性でも、それは変わらなかったと思う。「女はお洒落でキラキラした都会に憧れるから」とか「いい男を捕まえるために都会で遊びたいんだろ」とか的外れな女性蔑視考察をしていた方々!超地味〜な理由で申し訳ない!と私の場合はそうなんですが、実際に皆様が指摘されている「若い女性の扱いが酷いから」「陰湿な県民性だから」というのも正直富山を出る理由の一つにはなると思います。それについてこれから書きますね。男尊女卑についてこれは間違いなくある。あちこちで言われている「富山は共働き率が高いが家事・育児は全て女負担」「専業主婦は遊んでいると言われる」は残念ながら私の周りでは事実です。冬は雪かきもあるけど、それも女の仕事。【捕捉】私の周りでは女が雪かきしていたが、冒頭にも書いたように地域によって違いはあると思う。あと、富山市の場合は、余程狭い道じゃない限り除雪車がまとめて雪をどけて道を作っていた。うちの家庭の話をする。私の母は富山では珍しく管理職で社会的地位が高い。収入も父より上だ。しかし家庭内での家事や育児は、ほぼ全て母か私が負担していた。私は小学生の頃から事あるごとに父から家事労働や弟の面倒を見ること、祖母(父の母)の介護をすることを求められてきた。理由を聞くと毎回「女の子なんだから」「長女として」という言葉が出てきた。今問題視されている「ヤングケアラー」扱いされてきた。そして母より稼ぎが少なく家事・育児をしない父は、仕事以外では家でゴロゴロしているか遊び歩くかしていた。それでも一族の扱いは「一家の大黒柱」。このように、女性であることを理由に理不尽に家庭内労働を押し付けられる文化は今でも根強くある。でも男性は男性で、一人立ち後や結婚後も仕送りして親や兄弟を養って当然という空気もあるため、問題は「男尊女卑」というより「性差別的な価値観」「性的役割の押し付け」な気もする。県民性について県民性をまとめるなら下記の3つだと思う。年齢や性別、職業に関係なく、富山では下記が「普通の人」として扱われていた。無論まともな富山県民もいるが、あくまでも富山のマジョリティは下記なのだと思う。⚫︎差別意識が強い⚫︎集団で束になり個人を虐げる⚫︎嘘をつく⚫︎差別意識が強い地方だから…と一括りにするつもりはないが、全体的に差別意識が強い。また、息をするように人権侵害レベルのことをする人がかなり多い。陰湿な村社会のようなコミュニティがあちこちにある感じ。これは性差別だけでない。県外から来た人や外国人等、周りとは違う人に対する差別が本当にひどい。実際、国外や県外から来た人が口を揃えてそれを指摘し「富山にはもう2度と住みたくない」「陰湿な人が多すぎて暮らせない」と言っている。⚫︎集団で束になり個人を虐げる学校や会社で束になり村ぐるみで追い込んで組織から追い出した、という話は頻繁に聞く。また驚くことに、ほとんどの人がそれを酷い事、恥ずかしい事だと思っていないため、加害者側の人たちが笑いながら話しているのをよく見る。「集団とは違う存在を皆で一致団結して追い出す。」彼らはそれこそが「正義」だと疑ってない空気すらある。法律や倫理観なんぞより、自分たちの村の平穏を維持することが大事なのだ。⚫︎嘘をつく「嘘も方便」のような嘘ではなく、自分の利益のため息をするように人を騙す詐欺師タイプの人が当たり前にいた。というより、富山ではそういう人が「普通の大人」だった。医者・歯科医が患者に「ここを治す必要がある」と嘘をつき多額の金を巻き上げる。営業や店員が商品の説明の際に「こんな機能がある(実際にはない)」と客を騙して買わせる。中学や高校の教職員が生徒に「個人スマホからのネットの閲覧履歴や書き込み履歴は全て学校側が把握しているから余計なことをすれば分かる」等の嘘を教え従わせる。全て身近で目にしたことだ。富山市の進学校付近でこれなので、自分の周りが特別治安が悪かったわけではないと思う。都会に出てみると、自分にメリットがあろうがなかろうが関係なく嘘をつかず誠実に対応するのが当たり前という人ばかりで本当に驚いた。個人的には一番富山とのギャップがあり驚いたことである。【余談】「少子化対策のため未婚化を阻止」のグロさスルーしてる人が多いのだが、個人的にこのニュースで一番問題だと思ったのはここ。つい最近、国連が下記の提言をしたにもかかわらず、真逆のことを当然のように行っていて頭を抱えた。富山県民はあまりにも人権意識が低すぎると言われても、私は反論できない。「出生率押し上げより男女平等を」 国連人口基金が提言国連人口基金(UNFPA)は19日、2023年の世界人口白書を公表した。人口が減少に転じる国もあるなか、出生率を政策で操作しようとする国が増えており、女性に悪影響が及ぶと懸念を示した。出生率にこだわらず、男女平等で社会や経済の発展を目指すべきだと提言した。(2023年4月19日 日本経済新聞の記事より)●少子化対策まず、富山県民に限らずこれを言う人は「健康で生活保護等を受ける事なく働いて納税し社会を支える人がほしい」という意味で言ってるんだと思う。逆に言えば、その「増やすべき人間」に中に納税奴隷にならない人や障害者年金を得て暮らす障害者、生活保護を受けなければ生きられない人は入っていない。また、病気や性的指向等で子供を作れない、またはなから作る気のない人たちもその中には入らない。つまるところ、「少子化対策」とは優生思想に基づいて、人間を生産性だけで見ているからこそ出る言葉だと思う。そもそも、妊娠・出産は女性の体や脳にとんでもない負荷をかけ、最悪後遺症が残ったり死ぬこともある重大事項だ。それをやる・やらないを決める権利は本人にしかない。「妊娠から出産後に至るまで死ぬほど苦しむし、マミーブレインで頭悪くなるし、結構な確率で後遺症残ったり死ぬけど子供産んでくれない?」と他人が推奨できる類のものではない。子作りを推奨する側は、男女問わず子供さえ作ってくれれば相手の体なんぞどうでも良いと言わんばかりにそのマイナスな医学的事実を伏せたまま妊娠・出産は「幸福なこと」だと喧伝する。また、Twitterで散々言われていたように子供を本人の同意をなくこの世に生み出し、義務だからと強制的に労働させるのは倫理的に考えても利己的でグロテスクだと反出生主義的な指摘をされても仕方ないだろう。●未婚化を阻止はい、言うまでもなく人権侵害の極みですね。男女を結婚させ出生率を上げるという発想自体、女性を産む機械、男性を産ませる機械として見ている。人間には結婚する・しない、子供を作る・作らないを決める権利��ある。また、結婚するにしてもその性別は当然異性である必要はない。長々と批判ばかりしてないで富山のいいところも言え・魚が美味い!・米が美味い!・家賃が安い!以上、今絶賛問題児扱いされてる富山を出た20代女でした!
富山を出た20代女だけど、地元の炎上について言いたいことがある
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douraku420 · 2 months
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世界一気持ちの良い風を探す旅 
麻色道楽
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※この物語はフィクションです。 
実際の人物・団体・事件・薬物・組織とは一切関係がありません。 
犯罪行為を肯定・助長するものではありません。
またこの物語に登場する人物はすべて20歳以上です。
また実在の人物・出来事・物質とのいかなる類似あるいは一致も、全くの偶然であり作者の意図しないものです。
一章目 死にたがりと雑草 1
pi pi pi pi pi pi…………
乱暴な機械音が、部屋に鳴り響き
スマホのアラームを止めて、天井を見つめる
この瞬間が、唯一なにも考えずに
現実から逃れられる
だが、少しすれば
様々な思考が勝手にわいてくる
仕事やお金や将来のこと
勝手に悩みがわいてきて
それを、整理し終えるころには
また、1日が始まることが憂鬱になってくる。
なんとか、布団から抜け出して
テレビをつけて
椅子に座り
スマホを眺める
イン○タを見て、朝からキラキラとした
他人の日常をみて
勝手に自分と比較してしまう
散らかったテーブルの上の
昨日の、残りの水だけを飲み
準備をして部屋の扉を開ける
あまり、人には会いたくないので
俯きながら早歩きで
エレベーターまで向かい
1階の裏口から
駐輪場にでて
最寄りの駅まで自転車で向かい
駅の近くの駐輪場で
ラックに、自転車をいれる
清算機で、お金をいれようとするが
なかなか、小銭が見つからず
手間取っていると
スーツを着た
おじさんに舌打ちをされて
嫌な気持ちになりながら
改札にむかった
最近は、自転車を止めるだけでも
お金を取られる
この世界は、お金がないと
ほとんどの、権利が奪われる
毎日が、同じ繰り返し
朝の6時には起床して
8時から仕事が始まり
残業が続き23時頃家につく
そんなに、多くの時間を働いていても
少ない給料から
健康保険 税金 所得税 年金 住民税
など、様々な理由をつけて
お金が奪われていき
そこから
家賃や生活費なんかを引いたら
ほとんど手元には残らない……
休みの日も疲れ切ってしまい
なにもやる気が起きず
1日が過ぎていく
最近は、長年いっしょにいる彼女ですら 
会う時間も余裕もなくなっていた
こんな日々が、ずっと続くのかと思うと
だんだん生きることの意味が
わからなくなってくる………。
ホームに降りて
電車を待っている間
このまま、飛び込んでしまったら  
楽になるかなんて考えるが
結局、勇気が出ず
今日も、同じように
電車に乗り込み職場に向かう。
席に座り
なにも考えたくないので
ツ○○ターで、どうでもいい情報に触れて
ほとんどの呟きを、ただ眺めスクロールしていく
すると
たまたま、あるツイートをタッチしてしまったようで
画面には、若者の間で処方薬の
過剰摂取(OD)が急増中
というニュース記事のリンクに
大量の処方薬の写真と
日本終わってんなwwという
ツイートした人のメッセージも添えられていた。
オーバードーズか……
なんとなく気になって
記事を読んでみると
どうやら
処方薬をSNSを通して、大量に購入して
一度に過剰摂取することで
合法的に多幸感を得ている
10代や20代の若者が急増しているようだ。
処方薬ではあるが
大量に摂取すると
気を失ってしまったり
嘔吐などが止まらなくなり
病院に搬送され
最悪の場合、死んでしまうようなことも
あるらしく
社会問題になっているようだ。
とても暗いニュースだが
もともと、自殺願望があった人からしたら
自殺方法の紹介にも捉えられ
さらに、ニュース記事ではご丁寧に買い方や 
薬の名称まで伏せ字ではあるが公開していた
世間に、やめてほしいのか
宣伝しているのかはわからないが
ツ○○ターを使い
売っている人探してみると
すぐに、売買している人たちが見つかり
家の近所でも売人はいたので
本当に死にたくなったら
この人に、頼もうと思いスマホをしまった。
職場の最寄り駅につき
駅から徒歩15分の距離にある
ファミレスに向かう
ここが俺の職場だ。
高校を卒業して
元々の高校の近くだった
バイト先のファミレスで
そのまま働くことになり
気がつくと
もう、5年ほど働いていた。
ある日のこと店長から呼び出され
副店長にならないかという誘いを受けた
給料があがることや
生活がより安定することなど
様々なメリットを挙げられ
始めてみたものの
今までの、立場とは違うからなのか
副店長になった瞬間
店長からの当たりは強くなり
業務は、倍以上に増えて
それを、完璧にこなさないと
怒鳴られ罵倒され続けた。
給料も、大して上がるわけでもないのだが
お金の発生しない業務は増え続け
店長は、ほとんどお店に顔を出すことは無くなった。
8時には、まだ誰もいない職場に出勤して
事務作業を終わらせ
9時から、出勤してくる
パートさんと一緒に仕込みを始める。
仕込みが終わると
ホールと店舗回りの掃除をして
11時のオープンに間に合うように
準備を進める
11時前から
すでに、人が並んでいて
オープンすると同時に
お店は満席になり
注文が殺到する
ホールとキッチンの両方を手伝い
バックレたバイトの穴を埋めるために   
休憩もまともにとれず
閉店まで働き
学生バイトの人達と片付けを終わらせ
バイトの人が帰宅した時間に合わせ
タイムカードを切り
俺だけしかいないお店で
売上報告などの作業を続ける。
時刻は23時をまわり
やっとの思いで電車に乗り込むと
今日に限って電車が止まり
一駅前から歩いて帰ることに
駅をでて
フラフラになりながら
ゆっくりと歩いていると
遠くに、彼女らしき人の後ろ姿が見えた
今は、彼女ですら
話す余裕も気力も残っていないので
距離���取りながら歩いていると
知らない男と合流し
手を繋ぎ
2人は、そのまま楽しそうに歩いていった
え……
見たことの無い服だったので
一瞬、他人かと思ったが
歩き方や話す仕草で
彼女だと、確信した。
頭が真っ白になった……
その場に立ち止まり
ただ、呆然としていたのだが
だんだんと、腹が立ってきて
気がつくと
彼女のもとに向かい
彼女の腕をつかんでいた。
「え……!! ○○君!?
なんでここにいるの!?」
「誰だよ!! そいつ!!」
「だれって……」
彼女がなにも言わないのが
答えだった
もう、嘘もついてくれないのか……
手を離し
なにも言わずに、早足で家にもどった。
部屋につき
ドアを開けて
荷物を投げて
ツイ○○ーを開き
秘匿性の高いメッセージアプリを通して
連絡を取った。
[こんばんわ。
初めまして
○○15シート
手押しでお願いできますか?]
[明日でよければいけますよ。
交通費含めて
18,000円になります。]
[今日は厳しいですか?]
[今日は、出先なので厳しいです。
明日の朝でよろしければ対応できます]
[わかりました。それでお願いします。]
[ありがとうございます
9時頃に指定の場所にお願いします]
メッセージのやり取りがおわり
そのまま、布団に倒れこみ
ほとんど、一睡もできぬまま
絶望的な気分で
朝を迎えた。
約束の時間に近づいてきたので
指定された、近くの大型スーパーの
駐車場へ向かい
予定していた時間の5分前にはついて
待っていると
約束の時間から15分ほど遅れて
電話がきて
こちらの服装などを聞かれ
最後に、車の特徴を伝えられた。
車をみつけ
フロントガラス越しに中をみると
短髪で目つきがするどく
和彫りの刺青が首と腕にはいった
男性が座っていた
そして、こちらに気付くと
鼻の下を親指でこすった
おそらく合図だと思い
会釈をすると
助手席の方に回るように合図されたので
助手席側の方にまわると
音を立てて鍵があいた。
かなり緊張していたが
ドアを開けて中にはいり
椅子に座ると同時に
ロックをかけられ
ガチャッという音だけが車内に響いた。
「どうも
ネタは、そこの箱にはいっているので
確認してください。」
と落ち着いた声で
お菓子の箱を指しながら彼は言った。
見慣れたお菓子の
未開封の箱を手に取り
ペリペリと外側に開けると
お菓子が入っているであろう
白い袋が見えた
その、袋も開けてみると
大量のシートの薬がつまっていた
驚きつつも
一応15シートあることを確認して
「大丈夫です」
と伝えお金を渡した。
元のスーパーに戻るか
家まで送るか聞かれたが
少し怖かったので
そのまま、スーパーでおろしてもらうことに
スーパーにつき
すぐにでも、家に戻ろうと
ドアに手を伸ばすと
「死のうとしてるんすか?」
と、彼がたばこに火をつけながらいった。
いきなりのことだったんで
戸惑い言葉を濁していると
「○○15シート一気にいっても
死ぬほど辛いだけで死ねないっすよ
どうせ死ぬなら、1本吸ってからでも
いいじゃないすか?」
そういって、彼はカーオーディオを外し隙間から
巻き煙草のようなもの取り出して
俺に、渡してくれた
「たばこ……?ですか?」
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play-movie0308 · 2 months
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完成披露試写会 イベントレポート
この度、本作の公開を記念し、2月8日(木)にニッショーホールにてW主演の奥平大兼さん(郡司翔太役)と鈴鹿央士さん(田中達郎役)、小倉史也さん(小西亘役)が登壇し、完成披露舞台挨拶を実施いたしました!
キャスト陣は本作の役衣装である学生服を着用して登場!奥平さんも鈴鹿さんも普段からゲーム好きということで、本作を通してeスポーツの魅力や作品への熱い想い、学生時代の思い出などを語り尽くしました!
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映画上映前、大勢の観客で埋まった会場内に、劇中の制服に身を包んだ3人が集まると、会場は大歓声。昨年の撮影からおよそ1年ぶりということもあり、とても和気あいあいとした様子の3人。まずは小倉さんの制服姿を見ながら、奥平さんが「若返ったなと思いますね。小倉君は6個上なんですけど、すごく若く感じます」と笑ってみせると、小倉さんも「(奥平さんは)撮影が終わってから、俺のことをオイッと呼ぶようになったんですよ(笑)。親目線みたいな、反抗期の息子みたいに言うみたいに」と説明。その言葉を受けた奥平さんが「それくらい仲がよかったということですね」と笑顔でコメント。そして話題が鈴鹿さんの制服姿に及ぶと、小倉さんが「おうたん(鈴鹿)の制服姿は、いつ見てもみても目の保養じゃないですか?」と呼びかけると、会場からは大きな拍手が。「まだいけてます?もうだめかなと思ってたけど」と照れくさそうな様子の鈴鹿さんだったが、「いけてますよ。だってこの人(小倉)がいけているんだから」という声に、小倉さんからは「おい!」というツッコミが入り会場は笑いに包まれる。さらに奥平さんの制服姿について、「劇中では金髪だったのでまた印象が変わりますよね。なんか、すごいカッコいいです」と感心した様子の鈴鹿さんに、「ありがとうございます!」と奥平さん。3人で「今日は褒め合いですか?」とコメントして笑い合うなど、気心知れた様子がうかがい知れた。
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本作のメガホンをとった古厩監督は残念ながらこの日は仕事の都合で欠席となったが、その代わりに3人に向けたメッセージが送られた。まず「奥平くんは何本かの映画で見ていて、とても“映画っぽい”俳優さんだな、と思っていました。よけいなことはやらない。説明はしない。ただ立っているだけで風が吹いてくるような感じがします」という監督のメッセージが読まれると、奥平さんも「めっちゃ恥ずかしいですね」と照れ笑い。そこで小倉さんが「めちゃくちゃその通りだなと。好奇心が旺盛で。少年心をありのままに出ている方」と評すると、鈴鹿さんも「それは僕も思っていました。そこに立っているだけで絵になる人だなと。それは徳島で撮影していた時もずっと思っていたことなので」とコメントし、すかさず「楽しかったね」と笑いながら付け加えた。そして次に「達郎はひねくれてる。人を人とも思ってない。でもそういう人が演じたら最悪だ。じゃあ、すごく華があって優しい正反対の鈴鹿くんがやったらどうなるだろう? それでお願いしました。ハマるだろうかとハラハラしていました」という監督のメッセージに、小倉さんが「プライベートでめちゃめちゃ優しいんですよ。本当に優しくて。だからこそ繊細に、ちょっと狂気じみた達郎をやっているなと思って。そこはどハマりだと思っています」とコメント。奥平さんも「僕も一緒にいるシーンがとても多かったので。もちろん映画で共演する前も央士くんのことは存じあげていたので。どういう俳優さんなのかなと気になっていたんですけど、実際に演じてみると、僕と正反対というか、お芝居のアプローチが違う方だなというのが最初の印象で。でもそういうやり方をする(鈴鹿)央士くんだからこそ、幅が広がったなと。それは央士くんにしかできないことだなと思いました」と振り返った。さらに小倉さんについて「俳優から芸人、たくさん会ったけど亘がいなかった。小倉くんは、心も体もよく動く。でもって役のことをすごく考え、自分でこうだ、と決めていた。でもそれ以上に家の話とかプライベートのおしゃべりが楽しかった」という監督からのメッセージが読み上げられると、鈴鹿さんも「本当に役にピッタリで。小倉君も自由にお芝居をする方なので。撮影も楽しかったですね」とコメント。さらに奥平さんが「この3人だからこそ、バランスがとれているなと思うんです。本当に居心地がよかった。この亘という役も、普通なら不自然なところも出てしまうと思うけど、小倉君だからこそ面白くできたというところがあったので。それは僕にはできないことだと思いますし、すごいなと思います」とコメント。その言葉を聞いた小倉さんも「めちゃくちゃうれしいですね、そこの2人に褒められて」と笑ってみせた。
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 本作は「<青春× eスポーツ>」という絶妙なコラボレーションが魅力だが、3人の青春時代において、eスポーツに代わるものはなんだったのか?それぞれが事前にフリップに書いて発表。まずは「恋」という小倉さんから、「青春といえば恋。高校の頃に片思いの女性がいたんですけど、卒業アルバムに寄せ書きをしてくれて。写真も撮ってくれた。それは家宝ですよね。恋愛はドキドキで大きかったものだなと思います」と高校時代の思い出を述懐。続く鈴鹿さんは「アリアナ・グランデ」。その理由として「彼女は日本が好きだと言っていたので。いつか日本に来たときにしゃべれるようになりたいと思って。学生時代に英語を勉強したきっかけになった人ですし、好きな音楽を聴いたりした人なので。僕の青春ですね」とコメント。残念ながらまだアリアナ・グランデには会えていないという鈴鹿さんだが、その言葉を聞いていた奥平さんが突如思いついたように「俺も会いたいかも」。だが「でも何のつてもないし、自分は歌えないから、音楽番組も出ないし」と残念そうに語ると、「じゃ、一緒に英語を勉強しよう!」と提案した奥平さん。その様子からも、3人の仲の良さを感じさせた。そして奥平さんの「<青春× ○○>」は「ゲーム」。その理由について「小さい頃からゲームが身近にある生活をしていたんですけど、中学は部活で、高校からはお仕事をしていたので、がっつりではなかったけど。でもあいている時間には友だちとゲームをけっこうしていたので、パッと出てきたのがゲームでした。でも本当は恋とか書きたかったな」と笑ってみせた。
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いよいよ舞台挨拶も終了に近づき、それぞれ観客に向けてメッセージで締めくくる。小倉さんが「日本初のeスポーツ映画というのはめちゃめちゃチャレンジングなことだと思うんですが、本当に青春と相まって、とてもいい映画になっています。観ている方の青春のひとかけら、ワンピースになることを願っています」と語ると、続けて鈴鹿さんが「eスポーツの映画というのもありますし、青春映画としての完成度がすごく高いかなと思います。僕らの仲間の物語や、恋模様もあって。徳島の美しい景色の中、とてもいい映画になったなと思います。(サブタイトルの)”勝つとか負けるとかは、どーでも良くて”、ということで。勝負事も大事だけど、それ以上に得られるものも描かれている映画なので。さわやかな気持ちで、ワクワクしながら帰っていただけたら」とメッセージ。そして最後に奥平さんが「日本初のeスポーツ映画ということで。僕自身、ひとりのゲーム好きとしてeスポーツの魅力を、映画を通して見せられるというのは本当にうれしいことだなと思っていて。劇中の3人って、普通に生きていたら関わることがなかったんだろうなという人たちだと思うんですけど、ゲームを通してこうやって仲良くなることができた。それはちょっと新しい世界だなと思いますし、その魅力を、映画を通して感じていただけたらなと思うのと、青春映画としても、本当にさわやかなものなので。さっき央士くんが言っていた通り、このサブタイトルがすごく今っぽいなと思っていて。とにかく映画を楽しんでいただけたら」とその熱い思いを会場の観客に向けて語った。
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20kitan · 2 months
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CoC「ヤゼル」秀才 追記に詳細設定 ※シナリオのネタバレが含まれます
◆橘星蘭身上調査書
芸名:橘星蘭(たちばな せいらん) 本名:雪庭嵐(ゆきにわ らん) 愛称:ランちゃん 年齢:23歳 性別:女 血液��:B型 誕生日:4月4日 星座:おひつじ座 身長:158cm 体重:46kg 髪色:暗い紫、黄色のインナー 瞳の色:ヘーゼル 視力:左右1.0 きき腕:右 声の質:芯の通った澄んだ声 舞台の端まで声が通る icv.キルラキル皐月のときの柚木涼香 手術経験や虫歯、病気:子供の頃は食が細く病弱で、ガリガリで発育が悪かった 身体の傷、アザ、刺青:なし その他の身体的特徴(鼻や目の形、姿勢、乳房、足、ホクロなど):締まった細身 肉も筋肉もつきにくい セックス体験、恋愛、結婚観:恋愛に本気になったことがなく、基本的に自分の仕事を優先するため続かない  尊敬する人:ヒース・レジャー、トム・ハンクス、オードリー・ヘップバーン、ジョニー・デップ 恨んでる人:特になし 出身:富山県の田舎 職業:舞台女優 将来の夢:自分の劇団を持って脚本・監督も担当すること 恐怖:舞台の公演中止 癖:腕組み 酒癖:酒鬼強い ワク
*交流向け 一人称:私 二人称:あなた、君 呼び方:苗字+さん 仲良くなれば下の名前で呼び捨て
*概要
「劇団フルーツタルト」のトップスター。老若男女問わず人気があり、将来を期待される女優。ファンからの愛称は「ランちゃん」。
*性格
 おおらかで魅力的、情熱と行動力ですぐ人気者になるタイプ。仲間内では気さくだが、時にずけずけ物を言いすぎることも。ストイックな努力の信奉者だが、すべての人がこれほど人生や生活を捧げる必要はないとも考えているため、好きでやっているものを他人に求める気はない。才能を信じず自ら獲得したもののみを信じる女。細身で小柄な体に飢えた獣のようなパワーを秘めている。  幼い頃は小さくガリガリの自分に自信が持てなかったが、思春期からいくつかのコンプレックスを自力で克服してきた。悲しみで涙は滅多に人に見せないが、苦しみの最中にいる人に同情しやすく涙もろい。  好きなもの(特に演劇)に関しては無邪気な愛情を感じており、それゆえに他人には理解しがたいほどの執着で勉学や修練に励む。贅沢が好きで度が過ぎた浪費をしてしまうこともしばしば。
*人間関係
 舞台関係者には礼儀正しく、真正面からぶつかるコミュニケーションをする。劇団員との仲は良好で、組織のなかの政治を嫌うため誰とでも平等に接し、対等な友人のような関係を築いている。監督や脚本と意見がぶつかることはしばしばあるが、不思議と険悪になることはない。ファンには気前よくサービスする。  恋愛に関しては恋人にしたいと思った相手は狙って手に入れるタイプ。芸の肥やしのためにのめり込んで燃えるような恋愛をしたいと思っているが、芸の肥やしだと思っているためあまり長続きしない。そのわりに自分の容姿や肩書きだけを見る人間は嫌う。わがまま。
*家族関係、幼少期体験  父母と兄が健在。学生時代は非常に品行方正な優等生。  中学の頃たまたま観に行った「椿姫」の舞台に憧れて高校は演劇部に所属。短期大学を卒業してすぐ「劇団フルーツタルト」に入り、一気に演技の才能を開花させた。  しかし母方の祖父が演劇の道を目指し一時は売れたがその後落ち目になり失踪した件で家族が振り回された過去があり、母親は演劇と自分の父親を恥ずかしいものだと思っているため、嵐が演劇をやることに忌避感を覚えている。  だが同時に彼女の激しい気性も知っているため自分たちの言うことは聞かないだろうと思いつつ、母親は演劇を応援していないのが現状。多少気にしてはいるが、足枷には思っていない。
*能力
 華やかな演劇の才能の持ち主。舞台上にいるとつい目で追ってしまうほど目立つ。小さな頃やっていた剣道と日本舞踊のおかげでタフで肺活量が高く、舞台上でまったく息を乱さず長時間セリフやダンス、アクションをこなすことができる。スマートな体型と中性的な声を活かした少年役も人気。  歳の割に老成した考えの持ち主であり、あらゆる女性の味方。健康的な美しさのために日々トレーニングなどの努力を続け、理論を学んで実践しては劇団内やSNSで共有している。食べてもあまり太れない体質で風邪を引きやすいため、体調管理が欠かせない。  あらゆる演劇や映像作品については、不朽の名作から最新作まで寝る時間を惜しんでもチェックしている演劇オタク。幅広いジャンルを愛する。
*劇団フルーツタルト  東京の小さな劇団でありながら粒揃いの才能の持ち主が集まり、ここ最近急激に成長する劇団。少数精鋭の脚本家、演出家、劇団員が集まり、大手の劇場ともたびたび契約する実力派。  「フルーツタルト野山劇場」とも言われる脚本家野山三郷の古典的な舞台の本筋を壊さず骨太なストーリーと仰々しいセリフ回し、それでいてケレン味たっぷりでポップさのある演者たちの軽妙な会話がエンターテイメント性の高い劇団。近年は美麗な衣装と橘星蘭の人気もあいまって数々の演劇賞を受賞し、演劇界を超えてメディアに露出しつつある。
【出演作品】 バニラ(娘B) 親孝行な娘たち��マルガリータ) アルルカン(王子) 若草物語(ジョー) いばらの冠(マグダラのマリア) オリエント急行の殺人(メアリー・デブナム) 完璧な息子(新庄清人) オズワルト(オズワルト) だれがコマドリを殺したか?(カメリア) 吸血鬼カーミラ(カーミラ)
*好きなもの 食べ物:握り寿司(特にブリとハマチ)、おでん(特にタコ)、釜飯、ホタルイカ、フルーツタルト、ブルボンのお菓子 得意料理:ちらし寿司、いなり寿司、煮付けなどの和食 里芋の唐揚げが絶品 小料理屋の父直伝のため美味しい 飲み物:カフェラテ、芋焼酎、ハイボール 季節:春 色:鮮やかでポップなカラー、シルバー 香り:ロクシタンのエルバヴェール 書籍:小説、あまり分野を問わず本屋を巡る よくお風呂で読む 動物:サモエド ファッション:少し変形のきいたクラシックな服が好き 場所:舞台の上、鑑賞席 愛用:シルバーのイヤリング、キャンディ(低血糖対策) 趣味:映画鑑賞、舞台鑑賞、台本読み
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