Tumgik
#くれたけ心理相談室事務局長
tanakaeri · 1 year
Text
11月12日安城ルーム開設の柴田桃子カウンセラー
心理カウンセリングルーム開設 この度、11月12日(予定)くれたけ心理相談室事務局長でもあり、安城支部のカウンセラーである柴田桃子カウンセラーがカウンセリングルームを開設されることになりました。 事務局長としてのご活動 柴田桃子カウンセラーはくれたけ心理相談室カウンセラーとしての活動を長年様々なご相談内容を承り、クライエント様へ真摯に向き合われ、この度念願のカウンセリングルーム開設となられました。 私達、くれたけ心理相談室のカウンセラーは、事務局長を務めてくださっている桃子カウンセラーにどれほどのアドバイスや安心感を与えていただいたか分かりません。 これまでのご経験された中でのお気持ちは、私達には一部でしか計り知れません。ですが、これまでくれたけ心理相談室カウンセラー一同を支えて下さっている桃子カウンセラーが日々綴られるブログの中からは深く揺るぎない強さ、暖かい感情や心が落ち着…
Tumblr media
View On WordPress
1 note · View note
kennak · 2 months
Quote
今から数年前に1万円で家を売った。 5月のある朝、突然携帯電話が鳴り、誰かと思ったら母からだった。 今、A県(亡き父の実家のある県)の警察から電話があって、伯父(父の兄)が遺体で発見されたと連絡が来たとのこと。家の中を捜索していたら、母の名前と電話番号があり電話してきたと言われた。しかし、持病もあるので息子と話してみると伝えたと。 簡単に言えば、遺体の引き取りの件で連絡が来たということだ。 父は今から30年ほど前にすでに他界してる。そして父方の実家には父の兄である伯父が単身で住んでいた。年にして80歳ぐらいだっただろうか。 その連絡が来る、1~2週間前にふと気になり、母に父方の実家の名義は誰になっているか尋ねたところ、私だと言う。 祖父が昭和30年代に建てたらしいが、その祖父が亡くなり、祖母の名義になり伯父は独身で祖母と伯父の二人暮らしだった。そして祖母も亡くなり、伯父の名義になっているかと思っていたが、弟、次男である父の名義であると以前聞かされていた。 そして、父はがんで今の私の年齢のぐらいで30年ほど前に亡くなった。そこで長男である私が自動的に相続していたようだ。 その後、父方とは音信が途絶え、関わりもなくなり、まさかと思い尋ねたら私名義だったと言うことだ。 これはまずいと思い、ネットで調べてみたら名義変更の相談は最寄りの法務局でとあったので、法務局の連絡先などを調べていたところ、伯父が急死した。 警察に電話をしたところ、死後3日ほど経っているが、検死の結果、事件性もないと判断した。よって遺体の引き取りをお願いできるかと言うことだった。 ふと、考え込んでしまった。あの家の名義は私ではあるが、音信不通になっていた期間は数十年。なぜ私が?と。 そこで私が迎えに行かなかった場合どうなるのかと担当刑事に尋ねたら、無縁仏に入ることになりますと。ああ、菩提寺あったなと思い出した。しかもそこのお寺のご住職は同級生でよく遊んでいたと父からも聞いていた。 仕方ない。迎えに行きますと答えた。そこからとりあえずで準備して、そのまま新幹線に乗り、レンタカーを借り、夜中の10時過ぎに警察署についた。 当直の職員に名乗ると、ああ、とすでに理解しているようで担当の者を呼んできますといい、取調室のような、応接室へ通された。他の刑事さんがお茶を持ってきてくれた。遠いところお疲れ様でしたと言うような挨拶はしたと思う。 担当の刑事さんともう一人の刑事さんがやってきて名刺を渡され、状況の説明と見つかった所持品の説明を受けた。 庭で発見され、全く外傷はなく、さらに雨風もなかったので全く汚れなどもない状態で発見され、検死をお願いしている大学病院でも、CTなどを撮ったが内臓からの出血もなく、外傷もなく、事件性はかなり低く、さらに病気も見つからなかったと言う。よって自然死としか言いようがないとのことだった。いわゆるぽっくり逝ったようだ。庭で作業していて心臓が止まり、そのまま亡くなったらしい。 発見は新聞配達の方が新聞が溜まっているのを見て、地元の民生員さんに連絡してくれて、110番して、警察が発見したとのこと。ありがたい話だ。 そして遺体安置所へ案内され、遺体と対面した。冷凍で安置されていたためか少し霜柱が鼻などについていたが間違いなく伯父であった。 再度、応接室に戻り、今後どうされますかとのことだったのでできれば、明日には荼毘と納骨は済ませて帰るつもりだと伝えると、遺体を一晩預かってくれる葬儀屋を紹介してくれた。葬儀屋さんが来ると手際よく、ワゴン車に棺を乗せた。刑事さんたちにおせわになりましたと挨拶をし、葬儀屋さんへ向かった。 一晩預かってもらうことができ、明日に運良く火葬場で荼毘ができるとのことだった。明日の朝再びこの葬儀屋で待ち合わせとなった。 料金は一晩で25万円とのこと。後払いで結構ですのでと気を遣ってもらった(?)振り込み用紙を折りたたみ財布に入れた。 とりあえず遺体は置いておけるが問題は自分だ。0時も回って今から泊まれるところはありますかねと相談したところ、葬儀屋さんが探してくださり、駅前の東横インに泊まれると。そのままレンタカーのナビに目的地を入れて向かう。 ホテルにつき、カウンターで支払いをする。一晩朝食付きで1.2万円ほど。 部屋へ行き、スマホの充電を繋ぎ、シャワーだけ浴びて、そのままベッドへ。はー、来てよかったと思った。 朝、ホテルで朝食を食べ、再度葬儀屋へ。途中コンビニにより、ATMで3万ほど下ろした。 葬儀屋さんの案内で火葬場へ。そのまま荼毘へ。焼き上がるまでお茶を飲んで待つ。荼毘を待つのはいつ以来だ?母方の祖母か?あれ?どっちが先だったか? そして、骨を広い骨壷に収めてもらい。挨拶をして、骨壷を助手席に乗せて菩提寺へ向かった。着いてから気づいたのだが、事前に連絡できなかったなと。 しかし、ご住職に会うと、事情は知っておりますとのことで話は早かった。このまま納骨させてくださいと伝えるとわかりましたと。その場で埋葬許可証を渡し、父方のお墓まで行き、納骨を済ませたところで、大変少なくて失礼ですが、こちらをと先ほどのコンビニでおろした3万円を包んだ封筒を渡した。ご住職はいえいえと恐縮されていたが、こちらとしても始末をつけねばならない。 そして、帰り際にこちらから、これにてこちらの家系は終わり、最後の納骨になりましたので、ひいては年度末に墓じまいもお願いしたくと申し出た。 では、年度末ごろに改めてご連絡しますとのことになった。よろしくお願い致しますと挨拶をした。 そのあとは実家周辺のお宅全てにご挨拶に行った。私は〜家の親族のものです。この度は大変ご迷惑をおかけしましたと、決まり文句を続けた。 全ての方が、まさか私が来るとは思ってもみなかったようで、どちらにお住まいの方?と尋ねられ、伯父の��の息子で、B県に住んでいる。警察から電話が来て昨日の夜ついて、無事納骨までできたとこれも決まり文句で話し続けた。 皆一様に驚いていたが無事解決してよかったと。 その日は陽が暮れる頃に帰途に着いた。 そして、帰宅してからは「家」をどうするかと言う点だけが気になった。 無人の家に放火、居座られる(これを一番不動産屋が心配していた)、災害による周辺宅への被害は過失になる可能性があるが火災保険には入っていない。 名義は私だが何にも関係はない。住むこともない。なぜ私の名義になったのかはわかる。そして次男である父に名義が行ったのも以前から聞いていた。事情があった。その事情で伯父は孤立無縁だった。ちなみにこの時は血縁関係者は一人も現れなかった。事情は知っているが来なかったと言うことだ。 早く私としても終わりにしたいので、このご時世だ。県名を入れて、不動産売買のサイトで5社ほどに買取の件で一斉送信した。 すると買取不可が3社���仲介販売が1社。建物をこちらで解体したら土地のみを引き取りたいと言う会社が1社返答があった。 ちなみに地域的には限界集落である。バスもない、駅もない。人気もない。 仲介販売は200万円で売りに出しましょうと言う非現実的な提案だったのでお断りした。 引き取りたいと言ってきた会社に連絡をしたところ、いつ現場でお会いできますかと言う話になり、7月ならと。電気もガスも電話も固定資産税なども事情により父、母が支払っていたので、物が腐っても解体するのならいいと思った。冷蔵庫のものは知らんと。 ガスと電話、そして新聞を止めた。特に新聞は支店にも電話して丁重に挨拶をした。支店では事情を皆が知っているようで電話口の女性も同情してくださった。電話も遠くの地だと知るとさらに同情してくれた。 7月。不動産会社の方と現地で待ち合わせした。スーツを着た男性で30代半ばぐらいの方だろうか。お話を聞くと、東京で大手不動産屋さんに勤めていて、出身のこちらに戻ってきて不動産屋を開店したばかりだと言うことだった。 早速、解体についてお話を家の前で立ち話でした。おおよそ200万ぐらいはかかると思うと。家の前の道が狭いのでダンプなどが入れないため、余計に費用がかかるはずとの説明だった。 さらにこちらに来る前に登記簿を取ったが、複雑な登記になっており、道から家の間にお隣の方の土地があると。 お隣の方も出てきていらして、そうそうと。登記の確認の書類を持っていた。ああ、あんた、ここの持ち主さんかい?と。わかる、わかるよと。こちらは幼い頃に遊んでもらったことぐらいしかわからないのだが。 確認書には平成一桁代、つまり父が亡くなり私が自動的に相続した時に、ついでだからどこからどこまでがどうなっているのか確認しようとなり、お隣さん主導で確認し、ビス?を地面に打ってもらったと。そして、その確認のサインがあると言う。 紙をピラっと出してきた。そこには紛れもなく、私の筆跡の名前があった。私はこんな重要な書類にサインしていたのかと。驚いた。全く記憶にない。 ではということで、解体したら引き取りということで良いですかと確認したところ、不動産屋さんが、額に手を置いてしばらく考え込んでいた。 何かと思っていたら、すみません、1万円で引き取らせてくださいと言う。 え?無料でもいいんですが?と返すも、いいえ、それが無料だと色々税金やら何やらと面倒なのでと言うことだった。 売買ではなく贈与ということになるのか?まぁともかく1万円だ。これでおさらばだ・・・と思ったが、200万円の赤字だ。プラス新幹線代、葬儀場代etc...プラス100万になりそう。 話がまとまったところで、後ほど郵送で書類などお送りしますと。そして室内に入ることにした。誰もない父の実家。懐かしい。夏休みにはこちらにきていたが、祖母と父は駅前にマンションを購入し、そこで二人暮らしをしていた。 父は私が小学5年生の時に単身赴任でこちらにきていたが、それから10何年経っても、戻ることなく癌で死んだ。のちに知ったが上司と喧嘩して左遷されたそうだ。 事情により、伯父と祖母と父の3人で住むことなく、父と祖母は家を出たようだ。それも当時は祖母の通院のためと聞かされていたが・・・。今回、死亡して色々わかった。伯父は一族から絶縁されていた。絶縁に法的根拠はないが、一切関わらないということだと思う。 ちなみに村八分は火事と葬儀は協力するが他の8割は協力しないということ。絶縁ももっとすごいと思った。 まさに独居老人だなと思っていたが、生活保護を受けて、元気に自転車を乗り回していたらしい。全くの無病で、慎ましやかに生活されていたと役所の担当ケースワーカーから聞いた。 ところで、25万と火葬費用がかかったので葬祭扶助くださいと申し出たのだが断られた。生活保護は死んだら支給停止なのでと。 は?おかしいでしょ?と言ってもダメだった。 こちらで再度調べたが、やっぱり支給されるようだが・・・。 無知なケースワーカーに当たるとめんどくさい。縁を早く切りたかったので再度役所に出向いたりするのも嫌なので、連絡を取るのはやめた。 室内は死んだ時の状態そのままかなと思えた。布団は万年床になっている感じ。 小さなブラウン管のテレビがあるところに布団が敷かれていた。 電話は薄緑色の回転式の電話。これ。 NTTに解約の電話をしたところ、最後のお支払いで「買取」をしてくれればそのまま捨てても良いとのことだった。数百円だったと思う。で、そのままにしておいた。 問題はこれから真夏の7月に電気を切るので、冷蔵庫の中身だった。 物は独居老人だったので少なかったが、腐り始めているのもあって面倒だったがコンビニで買ったゴミ袋に全て突っ込んで捨てた。 ちなみに靴は脱がなかった。足の怪我が怖かったし、もう思い入れもない。 以前からあった場所に仏壇があった。そこには父からの手紙もあった。どうやら色々と揉めていたらしい。90年代の手紙だった。~の親族には挨拶に行けなど指示的な内容が多かった。 差し出しの住所は父が癌で入院していた病院だった。そして、仏壇の引き出しからは、若い頃の祖母と父、伯父、見知らぬ女の子が写っている写真が出てきた。 その女性は戦前食糧難の時に青梅を食べて食中毒を起こして亡くなったらしいと聞いている。 伯父は結婚したものの、一人娘を交通事故で亡くしており、その後離婚。相手方を見た記憶は私にはない。 さらっと家の中を片付けて、このまま全て処分してくださいとお願いした。 あ、あとケースワーカーから聞いていた、保護費が振り込まれる口座のある銀行にお金が少しは入っているのでそれを葬儀代に当てて欲しいと言われていたので、印鑑と通帳を見つけた。すぐに見つけられるところにあるのは、男一人って感じ。 ではと解体をお願いし、その足で銀行へ行ったところ、受けてくださった行員さんは大変困惑し、私は一体何者なのかという点と、すでに死亡しているので相続の問題があるとのことだった。 何者かを証明するには戸籍謄本などが必要だが・・・と。しかも相続の対象になるかどうか、ここの口座から引き出すことも閉じることも、事実上不可能だと。 相続の対象者は過去に離婚した奥様、そのお子さんなど全てで、私が現金を手にするには、その全員から印鑑をもらわないととダメだという。すると不可能なことになる。これが億などの大金なら、弁護士や何やら雇って解決する方法もおすすめできるが、おそらくそんなに多くはないはずで、他の多くの方もそれで諦めてしまうことが多いと。そのお金はどこへ?と聞くと、不明金として一旦本社に行き・・・おそらく国庫かとという回答だった。 しかし、そこで行員さんが少々お待ち下さいと、上席の方に相談してくださり、支店長まで来てくださり、今回は支店長決済ということで、私の身分証明書、伯父の印鑑、通帳があれば、引き出しと解約をさせていただきますとのことだった。大変助かった。 引き出せた金額は一桁万円。しかも年金だった。保護費は残っていなかった。つまりこの金額だから、支店長決済で対応もらえたのだと思った。 年金が振り込まれているが・・・。これはどうすればいいのかと銀行の方に尋ねるも、これは年金事務所へ行っていただかないと分かりませんということだった。 車で数十分、最寄りの年金事務所へ行った。事情を話したところ、全くどうなるか、わからない、本体の年金機構に尋ねるので時間が欲しいと。どれぐらいかかりますか?と尋ねると。わからないという。 では、年金機構の対応部署を教えて欲しいと尋ねるも、わからないという。どうやって尋ねるのですか?と聞くと、わからないですという。じゃあ、とりあえずどこに尋ねるかわからないけれど、相談は受けるということか。 じゃあ連絡待ってますと伝え年金事務所を後にした。 その後、半年経っても何も連絡が来ないので、年金事務所に連絡したが、わからないという。年金機構のどこに連絡したのかと聞いてもわからないという。 もう流石に話にならないので年金機構の問い合わせに電話したところ、そのような事情はわからないと。担当部署が対応していると思うので年金事務所がそう言っているのなら、連絡を待って欲しいと。え、担当部署はどこですか?と尋ねると、年金機構でもわからないという。あの、仕事していますか? その後、今に至るまで連絡なし。私は葬儀代として考えている。これから返せと来ても一生かけて争ってやる。 さて、家のその後だが、7月に解体のお願いをして、8月に永田町の司法書士事務所にて1万円で売買した。その時に司法書士の立ち会いのもと行われましたという旨が書かれた書類をもらい、名義変更も終わった。これで何があっても私の責任は無くなった。 これで終わりだと思った。一応不動産屋からは解体が終わったらご連絡しますと言われていて、9月とか10月には来るのかなと思っていたら、次の年の2月に連絡が来て、メールには解体されて更地になった土地の写真が添付されていた。土には雪が積もっていた。 今、ストリートビューで見てみたが、まだ家が残ってる。とても嫌な気分だ。 追記、その年度末には一通の手紙が税務署から届いた。何か不動産の取引をしましたよね?納税はありませんか?と。ない、むしろマイナスであると書き込み返信した。すごいよ、税務署の仕事ぶりは。年金機構も見習って欲しい。
1万円で家を売った - カメラが欲しい、レンズが欲しい、あれもこれも欲しい
6 notes · View notes
elle-p · 1 year
Text
P3 Club Book Aigis short story scan and transcription.
Tumblr media Tumblr media
人の心、アイギスの心
わたしは、人型戦術兵器アイギス。桐条グループ のラボで開発された、対シャドウ決戦兵器であります。現代の軍事技術の最先端であり、長年に渡るシャドウ研究の結晶。機械の身でありながら、人間と同様の精神性をも併せ持ち、世界で最も火力の充実したペルソナ使い。とくに頑強さにおいては定評があり、わたしの名前のもととなったギリシャ神 話---イージスの盾の逸話どおり、まさに不敗、鉄壁、無敵の存在。
そう。無敵のはずでした。
ですが、現在わたしが身を置いている月光館学園、その学生生活において、この優れた兵器としてのスペックはいっかな発揮する場を得られず、ゆかりさんを始めとする性別女性のクラスメイトの方々の口調を借りて言うなら、ちょっとブルー?なんかウツ入ってる?といった感じなのであります。
「······それじゃあ、今日は4日だから······ひの ふのみで、えっとアイギスさんか。このときの “私” の気持ちを要約して言ってちょうだい」
あ、そういえば、いまは授業中なのでありました。鳥海先生がわたしに回答の発言を要求しているであります。先ほどまで思考作業を行なっていたわたしですが、最先端の人型戦術兵器たるわたしの中枢は、並列処理が可能なので質問も聞き逃すことはありません。ありませんが······。
「どうしたの?やっぱ帰国子女には現代文は難しい?そんな深く考えなくていーのよ?」
現在のテキストは、夏目漱石という人物の創作による『こころ』という小説。わたしには、この “こころ” というものに対する理解が、まだまだ足りないようなのです。32秒あまりの沈黙ののち、鳥海先生はわたしに正解への手がかりを与えようというつもりでしょうか、やや演技過剰と認識される様子で話しかけてきます。
「自分が親友Kを差し置いてプロポーズした結果、その友達は何と自殺してしまう······さあ、そんなときアイギスさんなら、どう思う!?」
「わたしなら······友達が自殺してしまったなあと、思うであります」
「······まんまじゃないの。もちょっと捻りなさいよ!捻りなさい!」
「もしや······自殺に見せかけた殺人?」
「なんでよっ!これは漱石なのっ!純文の名作を江戸川乱歩ミステリにしないでっ!」
「動機の面では “お嬢さん” がもっとも疑わしくありますが······現場不在証明を確認する必要が······」
「聞いてよっ!私の話を聞いてっ!!」
いつものように鳥海先生がはじけてしまい、間を置かずに終業のチャイムが鳴りました。これがもし “私” が “お嬢さん” を親友Kから奪うための、要人略取作戦の立案であれば容易なのでありますが······。ペルソナさえ召喚できる精神を持つわたしでも、この “こころ” というものへの理解は、一筋縄ではいかないのであります。
「まあ、オレらは生身の人間だけどさ、それでもなかなか人の気持ちなんてわかんねえもんさ。そこまで悩まなくていいんでないの?」
順平さんの言葉に、わたしの大切なあの方もこくこくとうなずいてくださいました。いまは昼休み、屋上であります。現在、わたしが直面する問題を解決する参考意見を聴取するため、おふたりにご足労願ったのであります。
「しかし······現実問題として、わたしの学園生活には “人間らしさ” は必須のスキルであります。民間人の方々とのコミュニケーションが何らかの原因で阻害されれば、それはすなわち、わたしの任務も阻害されるということであります」
「でもよ、けっこうクラスの連中ともうまくやってるみたいじゃん」
「いえ、いわゆる “ジョシコウセイ” という集団において、わたしはひどく浮いているように思えます。携帯メールによる情報伝達すら、満足に理解できないありさまで······」 「へ?どーゆーこと?」
例えば、とわたしは前置きして携帯を取り出し、先日ゆかりさんから受け取ったメールをおふたりに見せました。そこには「桐条SP に遅くなるって伝えて (^_^)」と書いてあります。
「これが?」
「通常、SPといえば要人の身辺警護を行なう、いわゆるボディガードを指します。ですので、わたしは桐条グループの警備部に、その日のゆかりさんの帰宅が遅くなる旨を伝えました」
「い?そ、そりゃあ······」
「なぜか、変な顔をされたであります」
「だろうな」
「その夜、ゆかりさんからSPとは先輩の略だと聞き、 わたしは大きく落ち込みました。それだけではありません。別のメールで “H/K” という記述があり、それが “話は変わって” の略だと理解するまでに、3日を要しました。もしこれが “H&K” ならば、ドイツの銃器メーカー ヘッケラー&コッホの略だとわかるのですが」
「それこそ一般人にゃわかんねえよ······」
「だいたい、ギャル文字というのも何でありますか。“†ご” で “た” と読ませたり、“(十” で “さ” と読ませたり、1バイトで済む情報量をわざわざ2バイトに増加させるなど、理不尽であります。非効率的であります」
「まあまあまあ。それがジョシコーセーってもんだよ。つか、そんな形にとらわれなくたって、アイちゃん十分人間らし······あ、そーだ」
突然、順平さんが何かを思いついたように立ち上がりました。
「どうなさったのでありますか?」
「とりあえず、そういう相談ならさ、やっぱ本職に教えてもらうのが一番だと思うわけよ」
そう言って、順平さんは嬉しそうに笑顔を見せます。こういう人間らしい笑顔は、人間のジョシコウセイという擬装に必須で、それでいてわたしに足りないもの。こんな笑顔を、私も身につけることができるのでしょうか······?
「という訳で、特別講師の岳羽です」
「じょ、助手の山岸です」
「つかさ、順平。あんた結局さ、アイギスの相談ごとをダシに、自分が遊びたかっただけなんじゃないの?」
状況が理解不能であります。
その後、わたしたちはゆかりさん風花さんと合流し、なぜかポロニアンモールのカラオケマンドラゴラ店内にいるであります。
「ま、ま、ま、細かいことは気にしない!学校帰りに友達とカラオケなんて、女子高生の定番じゃん?やっぱ形から入るのも重要だと思うわけよオレは」
「そうなのでありますか?ジョシコウセイは下校途中にカラオケ······了解であります。あ、ですがそうなると、美鶴さんもお誘いすべきではないでしょうか?」
「き、桐条先輩は一般的女子高生の見本にするには······その、ちょっと違うかな、と」
「······?」
詳細は不明ですが、奥が深いであります。
「よっし、んじゃ早速アイちゃんからな。何歌う?何でもいいぜ」
「歌、でありますか?初めての経験でありますが······奮励努力するであります」
「よっしゃ、頑張れー!」
「想定外の事態でありました」
「ま、まだ頭がクラクラするわよ······」
「私は······鼓膜が破れるかと······」
「ま、まあしゃあねえや、な?」
不幸な事故でありました。わたしが敵おうとマイクのスイッチをオンにした瞬間、すさまじい不協和音が発生したのであります。わたしの駆動機関が発する電磁波とスピーカーとが共鳴を起こす。いわゆるハウリングという現象。それは、音響爆弾もかくやという威力でありました。ドリンクのグラスはすべて破壊され、隣室のカラオケ機器にも影響が出たということであります。
「中枢部の電磁波シールは完璧だったはずでありますが、各関節部の駆動モーターまでは考えが回りませんでした······」
これは、落胆という感情なのでしょうか?やはり兵器であるわたしには、普通のジョシコウセイとしての能力を身につけることは無理なのでしょうか?そんなわたしの思考を断ち切るように、順平さんが相変わらず明るく言います。
「んじゃ、気を取り直して女子校生の定番、その2!プリクラ行ってみようぜ!」
「ぶり······くら······でありますか?」
メモリにない言葉に、わたしは少し警戒心を呼び起こされます。ですが、せっかくの順平さんの立案です。わたしははっきりと肯定しました。
「行ってみる······あります!」
「よっし!んじゃゲームパニックにゴー!」
「で······ぷりくらとは、何でありますか?」
順平さんが盛大に転倒しました。
「これが、ぷりくら······プリント倶楽部でありますか。なるほどなー」
順平さんによると、数人で撮った写真をシール状に加工するための機器ということでありました。これで友人同士で写真を撮り、そのシールを分け合うというのが、ジョシコウセイの基本だとか。その意図はよく理解できませんが、この行動が作戦に必要ならば、わたしは逃げられません。敵前逃亡は銃殺刑でありますから。
「では、行きます」
「よし、ゆかりッチと風花も一緒にな。えっと、背景はコレ······フレームはコレでと······おし、スタートボタン押すぜ」
「ほらアイギス、ポーズとって」
「ポーズ、でありますか?」
「そうそう、笑顔笑顔」
「え、 笑顔······?」
状況を認識する間もなく、バシャというカメラのシャッター音に似た効果音が響き、さほど時間を置かずに下の受け取り口からシールが排出されました。それを見るや、順平さんが。
「う······ちょ、ちょっと笑顔が堅い、かな?」
「つかさ、笑ってないじゃん」
ゆかりさんの言うとおり、シールになったわたしの表情は、いわゆる無表情というものでした。兵器としてのわたしには、感情に応じて表情を変えるという仕様はありません。
「も、もう一度やってみようぜ?」
「その試みは無駄かと思われます。笑顔や泣き顔を表現できないということは、わたしの仕様ですからしょうがないのであります」
と、わたしのその言葉に、皆さんが一様に顔を見合わせたかと思うと、一斉に爆笑されました。
「何ごとでありますか?」
わたしの疑問に答えることもなく。否、答える余裕がないように、皆さんは笑い続けています。
「な、何ごとって······くっくっく······あ、アイちゃん、さすがあの幾月さんにメンテ受けているだけはあるな。ぶふっ」
「く、苦しい······何よ今のダジャレ。“しようだからしょうがない” って。あははっ」
「幾月さんが言うとアレだけど、アイギスが言うと愛嬌があっていいよね」
「あ······」
理解しました。意図したことではありませんが、わたしの発言がいわゆる洒落、似た音の言葉で一連の文章を作る、もじり言葉あるいは掛け言葉といわれるものになっていたようです。少々、困惑してしまいつつも、皆さんが喜んでくださったことは、わたしにとっても喜びであります。
「あれ?できるじゃん、笑顔」
「え?」
突然の順平さんの指摘に、わたしは驚きました。
「笑って、いましたか?」
「うん、私も見たよ」
風花さんも、順平さんに同意します。そうですか、わたしは笑っていましたか。
「そうそう。そこの無愛想な現場リーダーよりも、いい笑顔だったよ」
「······」
ゆかりさんの指摘に、あの方は別にどうでもいい、といった風にそっぽを向きました。そういえば、この方はあまり気持ちを表情には出さない方です。それでも、立派にリーダーとしての役割をこなしていますし、友人の方々ともうまくやっていらっしゃるようです。わたしは、ふと、ひとつのことに思い至り、発言しました。
「わたしは、お役に立てていますか?」
「へ?どうしたんだよ突然」
「わたしは、いわゆるジョシコウセイの方々のように振舞うことができません。カラオケもプリクラもうまくできません。人間の方の、“心” というものが理解できません。それでも、皆さんの仲間として、特別課外活動部所属の一員として、この場所にいてもいいのでしょうか?」
「あ------ったりまえじゃん!!」
順平さんが、大声で答えました。
「何、アイギスそんなこと悩んでたの?」
ゆかりさんも呆れたような口調で言います。それに続いて風花さんも言いました。
「アイギス、不安だったんだね?」
「不安······そう、そうかもしれません」
わたしのなすべきことは、皆さんとともにシャドウを倒すこと。そしてあの方を守ること。ジョシコウセイらしくできないわたしは、その任務に不適格なのではないか、皆さんの期待に応えられていないのではないか?そういう想いが、わたしの処理を不安定にしていたことに、いまようやく自分でも気づいたようでした。
ポロニアンモールからの帰り道、風花さんがわたしのそばに寄ってきて言いました。
「あのね、私思うんだけど、周りの人が自分をどう思ってるかわからなくて不安になる、それって立派に心があるってことじゃないかな?」
「そうなのでしょうか?」
もしそうなら、わたしは嬉しく思います。心を理解できないことで悩んでいたわたしが、理解しがたいことで悩むのが心なのだと、逆説的なことを知って安心しています。
「人の心とは、摩訶不思議でありますね」
「みんな一緒、そう思ってるよ」
みんな一緒······それは何だか嬉しいことであります。わたしはふと、ポケットから携帯を取り出して、そこに貼られた先ほどのプリクラを眺めます。
「おそろいであります」
わたしがそう言ったとき、前を歩いていた順平さんとあの方が、少し驚いた顔をしました。
今度はわたしも自覚していました。こういうときに、人間は笑うのであります。
わたしは人型戦術兵器アイギス。人間の心が理解できずにときどき悩んだりもするけれど、それでも大切にしてくださる人がいる、幸せな对シャドウ決戦兵器なのであります。
27 notes · View notes
ari0921 · 1 year
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023) 6月21日(水曜日)
    通巻第7804号
中国が密輸するフェンタニルでアメリカ人7万人が死亡
  これは中国がしかける対米アヘン戦争ではないのか
************************
 ブリンケン国務長官の訪中は『歓迎』されなかった。赤絨毯の出迎えも花束贈呈もなかった。マクロン仏大統領訪中では赤絨毯、大歓迎の厚遇ぶりで習近平は上海にも付き合った。同時に北京にいたEUのファンデアライエン委員長を送り出すときに一般ゲートで扱った。
 米中の冷たい空気をほぐすなどと最初から無理な話だったが、コミュニケーションの維持だけが目的だったとすれば、ブリンケン訪中はとりあえずの時間稼ぎをしたことになるか。
 中国の対米関係における五つのNOとは
(1) 新冷戦をのぞまない 
(2) 体制転覆を求めない
(3) 中国に反対する同盟強化をのぞまない
(4) 台湾独立に断固反対する
(5) 中国と衝突する意思がないことを明確に
 ブリンケンは秦剛外相、王毅政治局員、そして習近平主席と面談した。双方はお互いの主張を繰り返しただけ、事実上の成果はない。次は九月のインドにおけるG20,11月の米国におけるAPECで首脳会議が開催されるときに、おそらく米中首脳会談となるだろう。
 
 最大の懸案は台湾防衛である。在台湾アメリカ人はおよそ8万人とされ、有事の際の待避計画が用意されている。王毅は「台湾問題ではまったく妥協の余地はない。悪いのは米国で制裁や脅威論が両国関係を悪化させたのだ。中国脅威論を言いふらすのをやめろ」と言い放った。
 さてブリンケンが習近平と面談のおり、人民大会堂の会議室の真ん中に蓮が飾られていたことを記憶しておきたい。
 蓮は「清心、神聖、離愛」を象徴する。仏陀は蓮の台座に座って瞑想した。習近平は蓮を飾ることによって、何を言外に語ろうとしたのか? 清心からほど遠く、人民大会堂は神���な場所ではないから残るのは「愛が離れていく」ことしかない。
 
 ブリンケンは中国を離れる前に記者会見を行い、次のことを言っている。 
 「人権、異常気象、環境対策、ウクライナなど幅広く議論した。米国は経済的に中国を追い込むことはない。中国の経済発展は米国の利益である。デカップリングではなくデリスキングに基づくのである」。
 そしてブリンケンは、「フェンタニル問題で話し合ったこと」と言及したのである。
 ▼フェンタニル密輸でアメリカ人7万人が死亡。これぞ「アヘン戦争だ」
 「アメリカ人18~45歳の死因のトップが、心臓疾患や癌、自動車事故、新型コロナなどではなく、フェンタニルだと知ったら驚く人もいるだろう」と米国メディアは報じた。
 フェンタニルは米国で「チャイナガール」と呼ばれる。
だれもが知っている。中国��らの密輸であることを!
米国に���通する違法フェンタニルの90%以上が中国から来ている。中国がアメリカに「アヘン戦争」を仕掛けていることになる。
5月30日、米国は「麻薬フェンタニルの密造に関与した」として、中国やメキシコを拠点とする8企業・団体と9個人を制裁対象に指定した。中国企業はフェンタニルの錠剤を製造できる機器を供給していた。
 以前は国際郵便などで直接購入して捌くような売人が幅をきかせていた。
輸入管理強化や中国人に対する制裁措置などの対策を米国が講じるようになると、今度はメキシコの麻薬カルテルなどを経由してアメリカに違法フェンタニルなどが届くようになった。
結局、中国が違法薬物の輸出規制への協力を強化しないため、いつまでもアメリカに違法薬物が流れ続けている。
これをブリンケン国務長官は公式の場で中国に抗議したのである。
フェンタニルは患者の苦痛緩和鎮痛薬。中国起源の化学物質がメキシコで合成され、米国に大量密輸されている。モルヒネの50~100倍の効果がある。フェンタニルは合成オピオイドのことだが、オピオイドは、罌粟(けし)の実からから採取される有機化合物とそこから生成される化合物の総称。
さて日本の報道のあり方に一言。米中外相会談ならびにブリンケン習近経会談が一面トップだったが、その下に天皇陛下のインドネシア訪問でジョコ大統領と会談したニュースである。
順番が間違っていないか。日本の新聞はどこの国の新聞なのか。
3 notes · View notes
meyou-s · 1 year
Text
サラリーマン新藤剛
1.
 男は立ち止まり、目の前にそびえるオフィスビルを見上げた。周囲には真新しいガラス張りの高層ビルがいくつも建っている。それらと比べると背も低く古びたこのビルが、しかし男にとっては一番恐ろしく、雨だれで汚れた外壁に威厳すら感じていた。
 新藤剛は墨田商事営業部の部長である。二十五年前に入社して以来営業一筋で、数年前に部署をまとめる立場になってからも、時折こうして自ら取引先に出向くことがあった。
 ミネラルウォーターを一口飲み、中身が半分ほどに減ったペットボトルを鞄にしまう。呼吸を整えるように深く息を吐いたタイミングで、後ろから部下が声をかけた。
「部長、大丈夫ですか?体調でも悪いんじゃ……」
 いつも闊達で堂々としている新藤の緊張したような様子は、若い部下には見慣れないものだった。急に暑くなり始めたここ数日を思うと、体調を崩したのではないかと想像するのも無理はない。
 だが振り向いた新藤は、意外にも普段通りの声色でそれを否定し、にやりと笑って見せた。
「いや、問題ない。……まあ、武者震いというやつかな」
「はあ……」
 新藤はそれだけ返すとビルに向き直る。部下もそれ以上何も聞かず、二人は連れ立って自動ドアをくぐった。
2.
 受付を済ませるとすぐに応接室へ案内された。新藤にとっては何度も訪れたことのある部屋だが、この場所はいつも新鮮な緊張感を彼に与える。
 年季の入った黒い革張りのソファに腰掛けると、わずかに軋む音がした。新藤は案内係が出ていった扉を目の端に入れる。
 ここ丸岡社は、墨田商事と付き合いの深い取引先のひとつである。今日は契約の更新と内容確認のため商談の場が設けられていた。新規の契約をとるという訳ではない。しかし新藤は、この商談を重要なものと捉えていた。ある意味では、会社の今後を左右するほどの。こんなとき、新藤はいつも心にある人物の姿を思い浮かべていた。
 それは人気ドラマの主人公、高橋真太郎。平凡なサラリーマンでありながら、不正をはたらき私腹を肥やす上司や、理不尽な要求をする取引先と臆せず闘う、熱い男だ。新藤はシリーズを通してこのドラマのファンであることを日頃から公言しており、高橋真太郎は彼の憧れだった。その姿を胸に、新藤は大事な局面を幾度となく乗り切っている。
 まるで自分が主人公になったような気分で、この後現れるであろう丸岡社の担当者・戸坂の顔を思い浮かべた。あの食わせ者にしてやられないようにしなければ、と気合いを入れる。
「失礼します」
 ノックの音に身を固くしたが、続いて聞こえたのは来客担当であろう事務員の若い声だったので少し肩の力を緩めた。事務員が手に持っている盆から、コーヒーの香りが漂ってくる。
「お待たせして申し訳ありません。戸坂はすぐ参りますので……」
「……いえ、こちらが早めに着きましたので」
 実際、約束の時間まではまだ少しあった。新藤は元来せっかちな質で、さらに今日の商談への気合いからかなりゆとりを持って到着していた。待ち時間が生まれるのは想定内だが、こちらがじりじりと時間まで待ってから向こうが現れるとなると、どうも「余裕」を見せつけられているように感じる。しかしそこで動揺しては戸坂の思うつぼだ。新藤はそう思い直し、心を落ち着けて待つべくコーヒーをありがたく頂戴した。
 結局、約束の数分前に戸坂が応接室の扉を開くまでに、新藤はコーヒーをほとんど飲み干してしまった。待たせた謝罪を口にしながら戸坂が歩み寄ってくる。彼の後ろに付いて、また事務員も入室した。先ほどとは別の盆を持っている。テーブル上を一瞥して空になったコーヒーカップを引き上げ、代わりに冷水の入ったグラスを置くと、一礼して部屋を出ていった。
「今日は暑い中、ご足労いただきまして」
「いえ、こちらこそ、貴重なお時間をいただいて……」
 戸坂が近づくのに合わせて新藤と部下は立ち上がり、三人は互いに挨拶の言葉を口にした。しかし形式ばったやり取りもそこまでで、戸坂は新藤の向かいのソファに腰掛けると、始めましょうか、とやや気軽な調子で新藤を見た。
 対して新藤は、目力を緩めぬまま戸坂を見返し頷く。ここで気を抜いて油断を見せてはならない。戸坂は穏やかだが切れ者だ。巧みな話術でそれと気づかぬうちに主導権を握られてしまう。新藤はそう考えていた。
 だが逆に、緊張を悟られるのもよくない。冷静に臨むため、新藤はグラスの水を一口飲んだ。
3.
 それぞれ手元の資料に目を落としながら、契約内容を確認していく。はじめの二、三ページについて説明している間、新藤は資料をめくる毎にグラスに口をつけた。外の暑さのせいか自身の気持ちの問題か、やたらと喉が渇いたのだ。
 途中、増税の影響や原料費の高騰など周辺の話題に寄り道しながらも、話は順調に進んだ。金額が絡む内容になると新藤は身構えたが、戸坂から何か指摘が入ることもない。自身が普段の落ち着きを取り戻しているのがわかる。ひと息つくように口にした水は、先ほどより少しうまく感じた。
「……ところで、前に来てくれた彼、佐々木くんでしたかね?」
「あ、ええ。佐々木がどうかしましたか?」
「いえ、実はこの間、こちらの都合で少し迷惑をかけてしまいまして。しかし彼に対応してもらって非常に助かったんです」
 改めて一言お礼をと思っていて、と戸坂は手元のグラスを手に取る。そして休憩の合図とばかりに、脇に寄せられていた菓子盆を引き新藤たちに勧めた。
 一見何気ない話題だが、新藤は戸坂の口元に浮かぶ意味ありげな笑みを見逃さなかった。戸坂が特定の部下について発言するのは珍しい。そもそもいつもきっちり仕事をこなす戸坂が、迷惑をかけたなどという状況にほとんど覚えがなかった。
 この話題には何らかの意味があるのではないか。戸坂にとってメリットのある、何かが。
 落ち着いていた心臓の音がまた煩くなってくる。新藤はそれを隠すようにグラスの水をゴクリと飲み、平静を装って勧められた菓子に手を伸ばした。
 取引相手である戸坂から佐々木の名前を出され、礼を伝えたいと言われたことで、新藤としては佐々木にそれを伝言せねばならないだろう。それが戸坂の目的だとしたら。実は佐々木はスパイで、彼のほうから戸坂へ連絡しても不自然でない状況を作るとか、もしくはこの伝言自体が合図で、佐々木は戸坂と共に何か画策しているとか。
 いや、佐々木は墨田商社に長く勤めている真面目な男だ。よく気がつく彼に、新藤も助けられてきた。あの佐々木がこんな裏切るような真似をするはずがない。しかし、そういう人物だからこそ疑われにくいとも考えられる……。
 気取られずに戸坂の意図を探るには何と返せばよいか。グラスを持つ新藤の手に無意識に力が入る。中身が少なくなったグラスの内で、解けかけの氷がカランと音を立てた。
「そうそう、先ほどのコーヒーはいかがでしたか?」
 新藤が探りを入れるより早く、戸坂は話題を変えてしまった。思考を巡らしていたせいで一瞬何のことかと思ったが、待ち時間に出されたコーヒーを思い出す。
「コーヒー、ですか。美味しくいただきましたが……」
「ああ、それならよかった」
 満足気に頷いた戸坂と対称的に、新藤は内心の動揺を悟られないよう必死だった。コーヒーが一体何だというのだ。普通、あえて感想を求めるようなことはしないだろう。何���変哲もない美味いコーヒーだったと思うが。
「あれは実は社員が海外で買ってきたものでして。ぜひ味わっていただきたかったんです」
「はあ……」
 そう説明されても、新藤は疑いを拭えない。言葉の裏の意味を汲み取る、自分の経験と実力を信じるがゆえだった。まさかとは思うが、薬の類を盛られた可能性はないか。変わった風味には気がつかなかったが、薬の味が分かってしまった場合に備え、ごまかすために海外土産という言い訳を準備していたのではないか。その考えに至ると、緊張感のせいと思っていた動悸も、薬のせいだったのではと思えてくる。
 自覚すると、心音はより大きく新藤の身体に響いた。部下はなんともないのだろうか。ちらりと隣に視線を向けると、部下は平気そうな表情で座り戸坂の話に相槌を打っている。手元の水は、新藤ほどではないが減っていた。
 それを見て、新藤にある考えがひらめく。そうだ、水だ。薬を飲んでしまったのなら、水で薄めるのは効果的なはずだ。二人ともそこそこ水を飲んでいるから、まだあまり変化がないのではないか。だからこそ焦った戸坂は、コーヒーをちゃんと飲んだか確認してきたのだ。
 思うが早いか、新藤はグラスを口元へ運ぶ。しかし冷たい氷が口元へ触れただけで、喉を通る水分はわずかだ。しまった、水はもうほとんど残っていない。こうしている間にさらに薬が回ってしまうのではないかと新藤は焦る。どうする。いや落ち着け、こんなとき高橋真太郎なら……。
「失礼します」
 見計らったかのようなタイミングで事務員が扉をノックする。静かに三人の元へ寄ると、グラスへ減った分の水を追加した。まだたっぷり水と氷の入ったデキャンタを机に残し、一礼してまた静かに退室した。
 ありがたい。新藤は早速、補充された水を飲み下す。ちょうどいいときに来てくれて助かった。
 いや、だがタイミングが良過ぎはしないだろうか。新藤の脳内に新たな疑惑が浮かんでくる。もしかして、この部屋は外から監視されていたのか。もしくは、戸坂が外へ何らかの合図を送ったのではないか。
 新藤ははっとして、持ったままのグラスに目をやった。むしろ水のほうに仕掛けがあったらどうする。コーヒーに意識を向けることで、安全なものと思い込ませた水を大量に摂らせる策であったとしたら。戸坂ならば、それくらいの誘導は難なくやってのけるかもしれない。
 だがそのとき戸坂自身がグラスから水を飲んだのを見て、新藤は冷静さを取り戻した。そうだ、この水は目の前で同じデキャンタから全員のグラスに注がれていたのだ。そしてそれを戸坂も口にしている。つまり水に薬は入っていない。あるとしたらやはりコーヒーだ。
 思い通りになるものかと、新藤はさらに水を飲む。まさかばれているとは思っていないのだろう、怪訝さを隠せていない戸坂の苦笑が可笑しかった。
 やがて残っていた書類の確認が済み、商談は終了した。話を終えるまでに新藤は二杯目の水を飲み干し、デキャンタから再度注いでそれも飲んでしまった。
「それでは、本日はありがとうございました」
「こちらこそ。今後ともよろしくお願いいたします」
 新藤は部下とともに、丸岡社をあとにした。体調も変化なく、勝ち誇った表情を浮かべ歩く。戸坂は薬でこちらの判断力を鈍らせ、商談を有利に進めようとでも思っていたのだろうか。その企てに勘付き逃れることができたのだ。巨悪に立ち向かう、あの主人公高橋真太郎みたいじゃないか。大仕事をやり遂げた達成感を胸に、来たときよりも堂々とした足取りで新藤は帰っていった。
4.
「失礼します。墨田商社様、お帰りになりました」
「ああ、君もありがとう。すまないがグラスの片付けも頼むよ」
 新藤たちを会社の入口まで見送り、来客対応の事務員が応接室に戻った。戸坂は疲れを滲ませた顔で書類を揃えている。
「お疲れさまでした。ところで新藤様、随分険しい表情をされていましたが……商談中に何かありました?」
 事務員に尋ねられ、戸坂はため息を吐いて肩をすくめた。
「……何も。なんてことない、ただの定例の商談だ。まったくあの人は、ドラマの見すぎなんだよ」
.
5 notes · View notes
kokoronote · 1 month
Text
新たな看板と共に…
おはようございます。 ちょっと長めのお盆休みだった方もいらっしゃるかもしれませんね。 また今日から、日常の始まり。 わが家も、娘の新学期がスタートしたので朝からお弁当作りの再開です。   そして昨日、この春開設した白石ルームのお祝いも兼ねて、 くれたけ心理相談室の竹内社長から 白石ルームの看板をプレゼントしてもらいました(^-^)!     とりあえず、玄関すぐ横に置いてみました。 設置場所は、もう少し検討してみます。   風にも倒れないしっかりしたアイアン脚の、 そしてナチュラルなウッドボードの組み合わせのものを選びました。   大きさも小さ過ぎず、ちょうど良い感じです。 これからは、この看板を目印に当ルームにお越しくださいませ。   こうして立派な看板を見ていると、 改めて心が引き締まる思いです。 竹内社長や事務局の皆さんにはいつも本当にお世話になっており、 自分が今いるこの場所に…
0 notes
hegotthesun · 1 month
Text
『ドギーアンドバニー:中篇』
<前篇|中篇:新古生代/新中生代|後篇>
新原生代('90年代)
小学生低学年の頃、父が会社の事務室から不要なワープロやPC(ブラウン管のWindows 95)を持ち帰りました。
当初はネット環境がなく『Klik & Play』でゲームを作り、富士通主催のコンテスト入賞作を収録した『Klik & Play Game Collection』をプレイ。この頃に三歳年上の兄が作ったタイピングゲームでタッチタイピングを会得しました。
Tumblr media
新古生代('00年代)
新カンブリア紀:西暦2000年問題
youtube
『FF10』をクリアした13歳の頃、ようやく実家のインターネットが開通しました。
ストーリーの考察&攻略サイト(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』『アーマードコア2』など)や、イラストサイトの常連になり、お絵描きBBSやチャットの利用を開始。今のDiscordの先駆けとなるMSNメッセンジャーやYahooメッセンジャーで同世代のフレンドと交流。
当時使用したノートPC(OSはWindows 2000)のメモリは256MB。 メモリを倍に増設したら起動が爆速になって驚いた思い出があります。
その頃に記念紙幣の二千円札が発行され、報道番組で「IT革命」「文部科学省が愛国心教育を開始」「ゆとり教育」などが報じられていました。
そうして実家のネット開通と同時に「新カンブリア爆発」が引き起きたのでした。
新オルドビス紀:OVAの視聴
ケーブルTVでキッズステーションやアニマックスを視聴。
まだ深夜アニメという言葉ができる以前のOVA作品(『南海奇皇(ネオランガ)』『円盤皇女ワるきゅーレ』『HAND MAID メイ』『ヴァンドレッド』『BLUE GENDER』『サクラ大戦』等など古生物学者垂涎ものの一群)を拝見。
当時は女性ユーザー層も少なく、ロボットものやご都合主義のハーレムものが数多とありツンデレという概念も希薄でした。
イラストサイトのBBS経由で、ゲーム制作サークルに広報として参加。連日チャットに入りびたり、絵師のお姉さんに可愛がられました。
なぜかYahooメッセンジャーで見知らぬアニメーターの女性から個別チャットがあり、その流れで「口パクを描くのはそんなに難しくないよ」と教わるなど日夜勉強をかさねたのでした。
youtube
新カンブリア爆発から新オルドビス紀までに「ドジっ子メイド」や「おさげの眼鏡っ子」さらに「褐色肌キャラ」及び「前髪目隠しキャラ」、そして「ふくよかなキャラ」と「ボーイッシュキャラ」などの多種多様な属性が次々と出現し、環境の変化から次第に自然淘汰が始まった。
これが後の新ペルム紀末に起きた大量絶滅に次ぐ大きな絶滅事変とされる。
一方の「ツンデレ」「ロリキャラ」及び、どの作風にも馴染む「黒髪ロングキャラ」は地球上における繁栄の粋を極め、今もなおその数は計り知れない。
新シルル紀:HTMLによるHP作成
攻略サイトやお絵描きBBS関係のフレンド間でHP制作が流行し始め、ご多分に漏れずHTMLとtextファイルによるHP作成を開始。
こうして新シルル紀より生物の陸上進出が始まりました。
BBSの人脈から相互リンクを着実に増やすも、軒並みHPがフェードアウトして閉鎖。当時のWeb上のメインコンテンツは読み物とイラスト、あとはFLASHアニメーションくらいしかありませんでした。
その頃に、人類にはまだ早過ぎたエロゲ声優ネットラジオ番組「アケミとマリカのがっちゅみりみり放送局」を愛聴。
00年代前半の著名なテキストサイトに「侍魂」「ちゆ12歳」等があります。しかし、個人的によく読んでいたのは『FF11』のSS投稿スレをまとめた「涙たちの物語」のような某大型匿名掲示板に投稿された読み物でした。
今にして思えば、この同人小説と検索機能のお陰で読みにくい漢字を虱潰しにある程度は削減できたように思います。
その頃はまだYouTubeは疎か、pixivや小説家になろう等の各分野ごとの専用SNSがなかったので、創作物を公開するためには自分でHPを作成する必要がありました。
しかし今では個人サイトのBBSや絵チャット、及び某大型匿名掲示板は淘汰されてX(旧Twitter)に替わり、Yahooメッセンジャーの類はDiscordに推移。手作り感のある連絡媒体は不要になりました。
新デボン紀:和声理論
youtube
個人サイトの馴れ合いから離脱した後、RPGツクール界隈のmidi素材配布サイトや、FFシリーズの耳コピmidiから、midiシーケンサーの存在を知りました。楽典などで楽譜の読み方を覚え、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の楽譜をmidiシーケンサーに打ち込み始めました。
次にRPGツクール向けのBGMを作るために音楽理論について学び、同時に耳コピや作曲をひそかに開始。
この「魚類の時代」とも呼ばれる新デボン紀後期に両生類、つまりオタマジャクシの祖先が誕生したのであります。
新石炭紀:薬指と小指の動作的分離
「楽器が弾けると作曲が捗る」という某大型掲示板の情報をもとに、14歳の頃より押し入れに保管されていたエレキギターの練習を開始。その影響もあり指版に依存するコードヴォイシングに傾倒。この長く続いた氷河時代から開放弦を利用したテンションコードの和声を構築し始めました。
丁度この頃に、今は学習院大4年生になり卒業論文『中世の和歌』を提出した愛���さまがご生誕されました。愛子さまは大学で平安時代から明治時代の古典や文学、和歌などをお学びになられました。また、幼い頃から情操教育として絵本を読み聞かされておられました。3歳は絵本のゴールデンエイジと呼ばれ、絵本の世界に入り内容を楽しむことができる時期です。絵本で感じたことを、自分が実際に経験した出来事や、感情と結びつけることができるようになります。
2001年の同時多発テロを契機に「イラク戦争」勃発。アメリカ合衆国が主体となり2003年からイギリス、オーストラリア、ポーランドなどの有志連合が結束。戦後初めて日本が戦争に参加し、自衛隊派遣を行い、イラク南部でインフラ整備や治安維持任務を実施。
米軍とイラクの正規軍同士の戦闘は2003年内に終了。"ジョージ・W・ブッシュ"米大統領により大規模戦闘終結宣言が出された。しかし、アメリカ側の目的だった大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり戦闘は続行。
2010年8月31日に"オバマ"米大統領により戦闘終了が宣言され、米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた作戦が開始。2011年12月14日の米軍完全撤収によってオバマ大統領が「イラク戦争の終結」を正式に宣言した。
アメリカでは2003年のイラク侵攻と実戦を「2003年イラク侵攻」と呼び、それから2011年の米軍完全撤退までをまとめて「イラク戦争」と呼ぶケースが多い。
落語家"立川志らく"氏は「去年はビンラディン、金正日、立川談志が亡くなりました。いわば世界的独裁者が相次いで亡くなった年でした」と寄席で哀悼の意を表しました。
ロックロックこんにちは
『FF10』クリア後の翌年にラスボス戦の曲がヘヴィメタルというジャンルだとネットの検索でようやく知りました。また、音楽専門チャンネルのMTVやSSTVで00年代前半の邦楽インディー系ロック(この時代のクランチでテンションコードを鳴らすギター演奏やドラムのタム回しは"ブルートレイン"や"ロケットサイダー"など今の邦ロックに継承)や00年代の洋楽ロックのMVを視聴。しかし、その頃の世間はモーニング娘。(代表曲「LOVEマシーン」のMVで繰り広げられる熟女の腹踊りに圧巻)など芸能人の歌唱が人気を博していました。
某大型匿名掲示板でメタリカやメガデスなどの所謂80年代スラッシュメタル四天王を知り、お年玉貯金でCDを購入。ちなみに14歳の頃に初めて試聴目的(それ以前は『モンスターファーム』用に購入)で買ったCDは、ギターソロが巧いと評判の80年代正統派メタルを継承したインペリテリと、奇才ギタリストスティーヴ・ヴァイ。00年代前半を牽引したリンキンパークが結成前にライブを観て影響を受けたというアンスラックスも愛聴。
まだ深夜アニメの主題歌も普及していなかった時代は、芸能界やJ-POPを忌避する者の間でメタルやテクノ、ゲーム音楽などがもてはやされていました。ようするに他に聴く音楽がなかったのでしょう。ちなみにSMAPのキムタク氏はイングランド出身のヘヴィメタルバンドアイアン・メイデンのファン。
youtube
音楽専門チャンネルSSTVで邦ロックを堪能。その中にはフジファブリックやナンバーガール、レキシやスネオヘアー、後に代表曲「粉雪」をリリースすることになるレミオロメンなども。
NANANINEのリードギター大野氏の講義でグランジを認知。大野氏のギターはカート・コバーンに敬意を表してドロップDチューニングにセッティングし、スタジオレコーディングでもライブ感を出すためにオーバーダビング禁止縛り。日本の商業音楽はギターにピアノにストリングスにと出来る限り楽器を重ねるので、それが不利になったのかも知れませんね。ギターボーカルはJ-POPファンで二人は雀荘で出会いNANANINEを結成したとのこと。
ところでピアノの調律もできるキーボード演奏家であり、レキシのボーカルの池田氏曰く「思春期の頃に口下手な友人がトーク術を鍛えるために、毎日テーマを決めて5分間喋って録音するという鍛錬をおこなっていた」とのこと。これはあくまでも友人の話。
00年代前半に初めてプレイしたオンラインゲームは、SEGAの発売したゲームキューブ版『PSOエピソード1&2』。まだネットが普及してない時代でしたが、BBSやチャットと同じく運良く同世代の中高生フレンドに恵まれました。人脈の広い中心核の男子や、改造PKの多い外国人プレイヤーが苦手な女子中学生など個性派ぞろいでした。
しばらく連日のように遊びましたが、任天堂ゲーム機として初のディスクシステムが仇となり、読み込みに耐えかねてゲーム機本体が壊れたのを契機に引退。やはり任天堂ゲーム機はカセットROMが理想的でしょう。
その数年後『PSOエピソード1&2』のボス戦部分を抽出したようなカプコン社の人気作『モンスターハンター』が発売されました。
新石炭紀の末期には「『ハッピー☆マテリアル』をオリコンチャート入りさせよう」とする未曾有の購買運動《ハピマテ祭り》が勃発。
その数年後には、各地の学園祭で「ハレ晴レユカイ」が踊られるなど、少し前までアンダーグラウンドの文化だったとは思えない広がりを見せ始めました。
原作まで購入した『ローゼンメイデン』や『涼宮ハルヒの憂鬱』以降から新作はあまり追わなくなったけども。
映画『時をかける少女』『君の名は。』などでさらに市民権を獲得し、ゲームも海外シェアを増やし続け、PS5やニンテンドースイッチ以降の人気作は数百万本~数千万本の売上げを記録するようになりました。
一方の媒体としてCDは衰退をたどり、2020年頃には二千枚ほど売れるだけでもオリコン上位に入り、ジャニーズでも一枚30万枚ほどしか売れなくなってしまいました。
90年代~00年代前半の売上げと比較すると10分の1以下にまで落ちましたが、それが正常とも解釈できるでしょう。
しかしながら、全盛期に宇多田ヒカルが海外進出しようとして頓挫してからのJ-POPはアニメの主題歌として需要が生まれました。
youtube
アジアのポップスの中でK-POPは、2018年にアジア圏出身者として初めてビルボード200で1位を獲得。K-POPは欧米でも正式な音楽ジャンルとして認知され、ビルボードには専用ページも作成されました。オリコンチャートの原案は、この米国のビルボードチャートに他なりません。
宇多田ヒカル海外進出時から識者の間では「欧米の音楽ファンに宇多田ヒカルのような曲を聴かせても『まあ、こういう曲、よくあるよね……』というしらけた反応が返ってくる」と言われ、他にも「海外のライブハウスでは、よくある売れ線の曲を演奏するよりも、個性的で変な曲を演奏する方が反応がいい」などの意見がありました。近年の日本もインディーロックやニコ動音楽などの自主制作音楽が普及してからは、独創的な音楽も受け入れられるようになったと思います。
一方でJ-RPGは古典的なRPGの代名詞としてSteamにカテゴライズされました。理由は一概には言えませんが、そっとしておくことにしましょう。
僭越ながら筆者は敢然と考えます。自由気儘に回遊する姿こそ、本来の同人作品だと。
新ペルム紀:大量絶滅
ネット開通当初の2000年代前半は、ゲーム音楽の耳コピmidiや楽譜などがウェブ上に沢山ありましたが、それもJASRACの規制により一斉に淘汰されました。
今も使用料を支払えば二次創作も配布できますが、収益が支出に満たない場合は続ける道理が見出せないでしょう。
また、手作り感のある個人サイトや、RPGツクール関連サイトも管理人の就職などに伴い次々と閉鎖されました。
これが新ペルム紀末に起きた観測史上最大規模の大量絶滅です。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
◇No. 0 愚者《The Fool》
Tumblr media
▼正位置 ・自由、楽天的、天真爛漫、旅の始まり、我が道を行く
▼逆位置 ・無知、悲観的、軽率、無計画、無配慮、鈍感、空回り
愚者のタロットカードに描かれるのは旅人らしき少年と犬。22枚の大アルカナの中で唯一移動している人物が描かれており特別視されるカード。彼は、ほんの少しの荷物しか持っていない。荷物はこれまでに蓄えてきた知識や経験の象徴。身軽な方が新たな旅を始めやすくなるのだ。過去のしがらみから解放された旅は、自由で自分らしく生きることが出来るだろう。
しかし、旅は決して楽しいことばかりではない。きっと多くの困難が待ち受けているだろう。足元の断崖絶壁は乗り越えなければならない壁を暗示する。少年の足元には犬がいる。犬は誠実で忠実な動物。カードに描かれた犬は、崖へ向かう愚者に危険を知らせている。直感に従えば危険を回避できるという暗示だ。そのまま進むことも、引き返すことも、自分自身で決めることが出来るだろう。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
▼新中生代:ポピュラー音楽の成り立ち
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
2006年:新生代
17歳の頃に4日間ほど絶食したところ意外と空腹間を感じず、このまま何も食べなければ簡単に命を断てることを覚った。
逡巡の中で「あと10年間だけ生きて『生きる理由』を何も見出せなかったら命を断とう」と決意を新たにしたのだった。
タイムリミットは――27歳の誕生日。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
18歳より幼馴染の祖父が経営する会社で勤続開始。
音楽制作に必要な機材を買い集め始めた。
youtube
▲2007年(19歳)に作曲したオーケストラ曲
midi素材ブログの運営
2007年3月4日。13歳~19歳までに作ったmidiの供養のためにRPGツクール用midi素材ブログ『レオナル堂』を開設。
翌月に素材提供したRPGツクール製ゲームが『週刊ファミ通』でお馴染みのエンターブレイン主催デジタル作品コンテストで入賞。二ヶ月ほどで2万アクセスを突破。
そうこうして作曲を始めた13歳頃の目標だった「兄の作るゲームのBGMを作りたい」という念願を間接的に達成できました。
さらに秋の就職を以てブログの更新を停止しました。
-------
レオナルド・ダ・ヴィンチにおけるウィトルウィウス的人体図における黄金比とは、r = (1 + 51/2) / 2 = 1.6180...または(1 / r) = (51/2 − 1) / 2 = 0.6180...という数値で表される比率。
-------
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
江戸時代後期
江戸時代の幕末維新は1853(嘉永6)年の黒船来航から始まりました。幕末の日本に影響を与えた欧米列強は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5ヶ国です。
《産業革命》~第二次産業の幕開け~
産業革命は18世紀のイギリスから始まり、その後は西ヨーロッパ諸国、アメリカ、ロシアなどに拡大し、欧米諸国は農業文明(第一次産業)から工業文明(第二次産業)社会に移行しました。産業革命は綿工業から始まり、その発展は鉄工業、石炭業、機械工業などの諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を到来させました。
1830年以降になると、機械による大量生産体制が確立。産業革命の技術革新の総仕上げとして鉄道が出現。さらに帆船から蒸気船に転換し、それが自国内だけでなく、世界に進出する足掛かりとなりました。産業革命によって大量生産された製品は、まずは自国内で消費されましたが、すぐに飽和状態となりました。産業革命の進展は原材料の高騰や枯渇をもたらし、労働力の確保も課題となりました。その補給先も、自国外で確保しなければならない循環に陥ってしまったのです。
初めに産業革命を果たした英国は、ヨーロッパ大陸に市場を求め、さらには米国、そしてその矛先はアフリカやアジア諸国に向かいました。原材料の確保も同時に企図されるが、これも欧米以外に依存しました。英国以外でもフランス、ドイツ、アメリカ、ロシアなどが順次に産業革命を進展させ、資本主義国家群を形成し、欧米全体がアジア市場を求めて進出しました。その際には製品だけでなく軍隊も派遣し、武力を伴った支配化、つまり発展途上国の植民地支配を実行しました。これが帝国主義の時代の幕開けです。
当初の英国は東インド会社を国策会社として設立し、アジアに対する貿易と植民地経営を積極化させました。英国の植民地化を阻止すべく1857年にインドの反乱が起こりましたが、軍事力の差により鎮圧されました。翌1858年にムガル帝国が滅亡し、英国がインド全土の支配を開始しました。
19世紀に入ると英国の自由商人活動は活性化し、清にインド産のアヘンを密輸し始めました。アヘンの流入を阻止したい清国と、密輸を継続しようとする英国との間にアヘン戦争が1840年に勃発。清は英国の近代兵器に圧倒され、その後は欧米の侵略拠点となりました。そして中国の先にある日本に対し、いよいよ欧米列強が開国を求めることになりました。
江戸時代後半の日本は長崎などの例外はありながらも鎖国体制でしたが、18世紀後半からロシアが北方から南下を始めたので、それに対する危機意識が高まっていました。江戸幕府は鎖国を貫こうとしましたが、アヘン戦争による清の大敗は衝撃を伴い、戦争回避を前提に外交が展開されました。
幕府は外国船打払令(外国船とみれば躊躇なく追い払う令)とした政策から対外的な展開を図りました。それを契機にロシア、イギリス、フランス、アメリカが日本に接近して和親と通商を求め始めました。しかしながら、幕府は依然として鎖国を盾にその要求を拒否し続けました。そこに中国の政策に専念する英国を出し抜いて、嘉永6年にアメリカからペリー提督が開国要求の使者として来航したのです。
日露戦争
1905(明治38)年、日露戦争後半の大規模な陸上戦「奉天会戦」の戦力はロシア軍36万、日本軍24万。兵士の数ではロシアが優勢。しかし、機関銃の数は日本が上回っており、兵力的には互角と見込まれました。
戦場で日本は西側から回り込み、ロシア軍の退路を経つ包囲作戦に出ましたが、ロシアがそれを察知して全軍撤退を始めました。本来ならロシア軍を追撃すべきだったものの、兵士の数と弾薬が足りず掃討作戦を断念。拠点になる奉天の制圧に成功しましたが、新たな作戦を立てる余力もなく、もはや陸上戦は継続不能の状態でした。ロシア陸軍は撤退したと言っても、残りの兵力は約200万人。その数は日本陸軍の約10倍で、ロシア側も戦争続行の意向でした。
そうして対馬海域にロシア海軍のバルチック艦隊が到着。陸上戦に続き、次は日露海軍による日本海海戦が開幕しました。天候は『天気晴朗なれど波高し』で日本に有利な状況。ロシア艦隊は、前方で突然大きく旋回した日本艦隊に総砲撃しましたが、日本海の高波や長い航海による疲弊もあり砲撃の精度は低く、砲撃を免れた日本艦隊が横に並び、一斉砲撃を加えて壊滅的なダメージを与えました。ロシア戦艦6隻、巡洋艦4隻など計15隻を撃沈。これによりロシア艦隊をほぼ全滅に追い込みました。
こうして長期にわたる摩耗戦が続き満身創痍だったものの、海戦史上かつてない勝利を治め、アメリカの仲介のもとで講和条約を結ぶ運びになりました。
しかしながら、日本政府が日露戦争に費やした経費は15億2,000万円。これは当時の国家予算5年分にあたる金額。日露戦争の出征者は130万人。10年前の戦争は13万人だったので、その数の多さが分かります。さらに9万人(陸軍兵士の戦没率は8.7%)が死亡し、44万人が負傷。日本の目的はロシアの南下を防ぐことにありました。ロシアも日本に戦争の持続力がないことを知りながら戦略的撤退を行いました。ところがマスコミの誇大報道により国民は日本の大勝だと信じました。
この時期は、国民の識字率の上昇に加え、新聞は各紙とも急激に部数を伸ばしており、大きな影響力を持つようになっていました。
しかも戦勝の誇大ニュースを乗せると部数が増えるので、毎回ロシア軍に大勝しているように書き立てられていたのです。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽ * * * * * * * ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
『ワルツ』 終局特異点 A.D.2007
※本稿は虚構《フィクション》であり、実在する人物・団体とは一切関係ありません。
――2007年10月17日。今日はケミカルシューズ関連業の面接日。
これまで18歳から2年間ほど務めた印刷製本の仕事を、会社側の事情で唐突に解雇され、転職を余儀なくされたのだった。
そうこうして、会社2階の事務室に入室した。事務室の扉をノックし、「失礼します」と幾分か緊張しつつも開いた。
狭い事務室には、茶髪の長い髪をアップに結んだ女性が着席しており、ずいぶんと驚いた様子でこちらを凝視していた。
席を外すように促され、女性は事務室から退室し、すぐに僕の面接が始まった。
そうして数日後、採用の連絡があった。
どうやら茶髪の女性は事務員として入社し、僕は作業員として同期入社する運びになったようだ。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
2007年10月19日。小雨の降る緊張の初出勤の日。
延々と続く変わり映えのしない道を猪突猛進に歩き続け、勢いあまって会社の目前を通り過ぎ、咄嗟に踵を返したところ、今度は足を滑らせて転倒しかけてしまった。
この先、無事にやって行けるのか不安になりながら気を取り直して社内に入ったが、まだ誰も来ていないようだった。
不意に後ろから声を掛けられたので振り向くと、一人の女性が立っていた。
軽く挨拶と自己紹介を終えると、いきなり好きな音楽は何かと訊ねられた。
どうやら彼女が好む音楽はThee Michelle Gun Elephant、Number Girl、Syrup16g、Bump Of Chicken等の下北系のロックバンドらしくすぐに意気投合した。
そうして同じ持ち場の彼女から直々に仕事を教わることになった。
ちなみに会社の前で足を滑らせた情けない後ろ姿はしっかりと見られていたらしい。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
翌日、彼女に何かお勧めのCDを持って来るように頼まれたので、彼女の気に入りそうなCDを何枚か持ち出して聴かせたところ、フジファブリックの『茜色の夕日』を甚く気に入ったようで何度も繰り返し聴いていた。
後日そのCDは彼女に渡すことになった。
それから���女に手取り足取り作業を教わる日々が続き、「繊細そうな手」「東京の人みたいで面白い」と辛辣なことを言われて困惑した。
さらには「彼女はいるの?」「どうして彼女を作らないの?」「女の子が嫌いなの?」と受け答えに困る冷酷な質問をされ、「音楽に専念したいから」と意味不明な言い訳をしてしまった。
同時に「貯金が貯まったら宅録環境を整えて曲を収録したい」と密かな夢まで語ってしまった。
まるで馬鹿みたいだ。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
──ある日の昼休みのこと。東京に引越して結婚すと彼女に告げられた。
要約すると、月末に寿退社する彼女と入れ替わりに、僕は補填として会社に採用されたのだった。
その後は、なぜか人生相談に乗ることになったが、どこか上の空で曖昧な答えしか返せなかった。
相談は人間関係や子供時分の思い出話にまで及んだ。
どうやら彼女は長い間、自分は変人なのだと思い込んでいたが、最近になって普通なのだと潔く覚ったらしい。
東京では友人を作った方がいいのか聞かれたが、「子供ができたらママ友ができる」とは流石にその時は言えなかった。
「どんな人が来るのかと思ってたけど、いい子でよかった」
なんだか褒めるにしても頼りないことを言われながら、意外と子供の頃の共通点が多くて驚いたが、横から割って入ってきた事務員に「結婚は結局のところお金」と断言されてしまった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
翌週に執り行われた「歓迎会兼送別会」と銘打たれて催された飲み会は、僕にとって歓迎会だったが、彼女にとっては送別会だった。
僕は地元の神戸で働き、彼女は東京に行き嫁ぐ道を選んだ。
彼女は結婚を修行のようなものだと思って頑張ると言ったが、僕にとっては就職して働くことが修行のようなものだった。
「もし私が三ヶ月後に離婚して神戸に帰って来たら、また一緒に働こうね」と冗談を言ってくれたが、たとえお互い違う道を歩んでも彼女が元気に過ごして居てくれたらそれだけで僕は一向に構わない。
「定年退職まで頑張ってね」
そんな約束を彼女と交わしたのだった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
「この飲み屋にいる中で誰が一番好みや?」
ふいに上司から不躾な質問をされたので、真剣に周囲を見渡しながら悩んだ。
「このお姉さんが眩し過ぎて他の人は見えないよね?」
お座敷で僕と向かい合わせに座っていた彼女が、隣に座る"ふくよかなおばちゃん"を指さしながらとその場を上手く誤魔化してくれたのだった。
「お前は返事が遅いから指示を理解したのか分からへんのや」
「適当に『はい、はい』と答えてればいいと思う」
上司の小言に対して、彼女が貴重な助言をくれた。
話の流れで上司には11歳年下の妻が居ると発覚して、社員一同に「犯罪や!」と褒め称えらていた。
また、その上司の息子は毎週ポケモンを観ているらしく、その場でポッチャマの絵を描き上げたが、年甲斐もなく中々上手だったので少々驚いた次第だ。
当時はまだ飲酒をしたことがなかったので飲みやすい酒は何かと彼女に聞いたら「カクテルは飲みやすい」と薦められたので、とりあえず"カシスオレンジ"を注文することにした。
カクテルを持ってきた店員に戸惑いながら年齢確認された後、初めて飲んだカクテルの味はジュースと大差ないとしか言えなかった。
「私も飲んでいい?」
物思いに耽っている内に飲みかけのカシスオレンジは彼女に横取りされてしまった。
ブルーベリーソースの添えられたサイコロ状のチーズを黙々と食べる僕の様子を、彼女は母のごとく微笑ましそうに見つめていたが、事務員が執拗に乾杯を要求してくるので仕方なく注文した生ビールで乾杯に応じた。
「へえ、乾杯するんだ?」
彼女に軽蔑の目で一瞥されたが、めげずにビールを口に含んだ。
そうして思わず渋い顔をしてしまった。
「ビールは舌で転がすもんやなくて、のどごしを堪能するもんや!」
「彼はソムリエですから」
上司の助言に、すかさず彼女が合いの手を入れてくれたのだった。
それから酔いが回り、事務員と横になって休んでいたら、いきなり足裏マッサージで彼女に叩き起こされた。
「痛い?」
そう言いながら、彼女は少しご立腹の様子だった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
事務員がお座敷に連れて来た二人の子供を見て、彼女は「かわいい!」と率直に嬉しそうな反応を示していた。
たぶん彼女の幸せは温かな家庭の中にあるのだとその時に直感した。
円満な家庭を築いたら、彼女はきっと幸せになれるだろう。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
「俺は外国人には優しいからな」
唐突に上司が語り始めた。
「俺は在日韓国人やけど見た目は日本人やから、韓国で韓国語を話すと周囲とびっくりされるんや!」
そんなどうでもいい話を語り出し、ついにはパキスタン人も雇ったことがあるという話題まで飛び出したので、なんだか己の所在地が判らなくなりながら話に聞き入っていたら、突然その上司に胸を揉みしだかれて身じろぎをした。
「嫌がってる……」
目前の彼女はぽつりとと呟き、微笑ましそうにそのあるまじき光景を観察していた。
「なんでうちの会社の女はみんな胸がないんやろうか?」
それに乗じて無駄口の多い初老の同僚が本心からの愚痴をこぼし、女性達から顰蹙《ひんしゅく》を買っていたのだった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
上司の武勇伝が続くお座敷のテーブルの下で、彼女に無理やり靴下を脱がされたかと思うと、今度は僕の太ももの上に足を乗せてきた。
たぶん黒いストッキングを脱がしてほしいという意思表示だったのだろうけど、流石にそんな勇気は当時の僕にはなかった。
案の定アルコールを摂取し過ぎてトイレで盛大に吐いてしまった直後、彼女が扉を開けて入って来た。
「大丈夫?」
心配そうに声を掛けてくれたが、もし僕が用を足していたら大変な事態になっていたような気がしないでもない。
とにかく、自分は夢でも見ているのではないのだろうかと思うほど幸せなひと時だった。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
帰り道、彼女の方から手を繋いできた。
「今日は手が冷たいね。手が冷たい人は心が温かい」
恋人繋ぎのまま手を引っ張られたので腕が少し痛んだが、彼女の左腕にあるリストカットの痕を思うとたいした痛みじゃなかった。
しばらく歩いているとタクシーの前で別れ際に抱擁する〝中年の男女〟が居て、それを真似るような形で彼女に抱きつかれた。
「私の部屋に来ますか?」
そう聞かれたので躊躇わずに一度だけ頷くと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
生まれて初めて自分という忌み嫌われた存在のすべてを胸に抱きとめられて全肯定されたような心持ちになった。
どこか諦めて迷いながら選んだ道だったが、彼女と出逢ったことにより、��なずに生きる道を選んだことが間違��ではなかったと素直に思えたし、生きる価値や意味を見出すことが出来た。
少なくとも僕にも人を愛する権利と心が僅かでもあることを知れたのだった。
そうして、これまでに起きたすべての出来事は彼女と出逢い、意思疎通し、そこから人生の意義を学ぶためにあったのだと覚り、果てには自分はこの日のために生まれたのだと直感した。
同時に人と心を深く通わせるのはこれが最初で最後になるのだろうと予感した。
だから僕にとって彼女は最初で最後の最愛の人になるだろう。
喩え世界中に忌み嫌われ、その存在を無視して否定されようとも、彼女が僕という存在を抱きしめて全肯定してくれた出来事は、僕の人生において最も大切な記憶に他ならない。
この先どんな困難が待ち受けていようと、僕の記憶には彼女と過ごした僅かで確かな日々が今も息吹いている。
それが一過性に過ぎない勘違いだろうが何だろうが、もう二度と困難を前に絶対屈しないと心の底から誓う次第だ。
繋いだ手はいつか必ず放さなければならない。
それでも彼女と伴に同じ道を歩いた記憶と温もりは決して失われはしない。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚MADE IN JAPAN.。.:*·゚ ✽
Tumblr media Tumblr media
当時製作に携わった商品は神戸ハーバーランド「モザイク」の婦人靴屋にて販売されました。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
youtube
▼Pokémon Special MV「GOTCHA!」
youtube
ポケモン & BUMP OF CHICKEN 公式スペシャルMV「GOTCHA!」〈2020年〉 === 音楽:BUMP OF CHICKEN「アカシア」(TOY’S FACTORY) 監督:松本理恵 キャラクターデザイン:林祐己 アニメーション制作:株式会社ボンズ 企画・プロデュース:川村元気、畑中雅美 ===
<前篇|中篇:新古生代/新中生代|後篇>
1 note · View note
yotchan-blog · 3 months
Text
2024/6/18 19:01:17現在のニュース
北朝鮮が「反統一」工事加速か 韓国軍、北朝鮮兵士の作業写真公開(毎日新聞, 2024/6/18 18:59:32) タイ、同性婚法案を可決 東南アジア初の合法化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/18 18:58:24) 北が核物質を増産か、1月時点で核弾頭90発製造可能な量…ウラン濃縮施設拡大も確認([B!]読売新聞, 2024/6/18 18:54:44) ふるさと納税巡る官製談合事件 元コンサル代表に有罪判決 佐賀地裁(毎日新聞, 2024/6/18 18:51:47) [社説]外国人材の意欲と安心高める育成就労を - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/18 18:51:27) 外国人の技能実習生、新設の介護事業所でも勤務可能に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/18 18:51:27) 日本橋の老舗すし店5代目逮捕、路上で不同意性交の疑い 被害の20代女性「声かけられ無理やり…」(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/18 18:45:12) 能登半島地震の関連死、新たに22人認定 計52人と大幅に増加(毎日新聞, 2024/6/18 18:44:11) プレサンス国賠訴訟で証人尋問 主任検事「無罪真摯に受け止める」(毎日新聞, 2024/6/18 18:44:11) ゴルフクラブで殴り夫殺害の疑い 「殴り返した」52歳女逮捕 練馬(朝日新聞, 2024/6/18 18:44:00) 国保や高齢者の社会保険料、確定申告の有無で年6万円超の差 厚労省(朝日新聞, 2024/6/18 18:44:00) 立憲幹事長「安倍派幹部にもう1回話聞かねば」事務局長の法廷発言で(朝日新聞, 2024/6/18 18:44:00) 豊田会長ら10人再任も不正続出に「大丈夫か?」 トヨタ株主総会(朝日新聞, 2024/6/18 18:44:00) 国内の「食品ロス」半減、政府目標を8年前倒しで達成していた…家庭の食べ残しや未開封廃棄は課題([B!]読売新聞, 2024/6/18 18:43:46) 天皇皇后両陛下、22日からイギリス訪問 王室と絆深める News Forecast - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/18 18:39:45) 酒酔いトラブルや不適切投稿、セクハラ 群馬県職員の非公表不祥事 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/6/18 18:39:32) 知名度アップは供託金以上の効果? 都知事選、50人以上が出馬か | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/6/18 18:39:32) セルティックス、史上最多18度目の優勝 16季ぶりNBA王者に(毎日新聞, 2024/6/18 18:36:00) タイ検察、タクシン元首相を不敬罪で起訴 与党に揺さぶりか(毎日新聞, 2024/6/18 18:36:00) 立憲、水俣病新法案を提出 救済策再開や健康調査 マイクオフ問題で(毎日新聞, 2024/6/18 18:36:00) タクシン元首相を不敬罪で起訴 恩赦後に目立ちすぎ、保守派が圧力?(朝日新聞, 2024/6/18 18:35:15) 経済同友会新浪氏、選択的夫婦別姓に意欲「経済界が声を上げていく」(朝日新聞, 2024/6/18 18:35:15)
0 notes
momoko-shibata · 7 months
Text
繋がり ~くれたけ総会 2024年~
ご縁と繋がりを感じる時間でした。 柴田桃子
年に一度本部のある名古屋市にてくれたけ心理相談室の総会が開催されます 事務局長として講師として同じくれたけ心理相談室のカウンセラーの一人として デビュー準備トレーニング勉強会やミーティング等 デビュー前のカウンセラーの方から現在、全国の各支部で活躍されているカウンセラーの方と関わらせていただくのですが、基本はオンラインが多く 「いつか直接会えるといいな」「いつかはリアルにお話したいな」と思いが膨らみます その願いを叶えてくれるのがまさに、この総会ですお会いできることがとても嬉しいです オンラインで同志としてお話することでもエネルギーをいただきますが 直接お会いできた時は更に大きなエネルギーをいただいているように感じます 大切に大切にしていきたい繋がりです
Tumblr media
View On WordPress
1 note · View note
shintani24 · 8 months
Text
2024年2月12日
Tumblr media
ラジオは滅びゆく? 浜村淳さん「十分可能性がありますよ」(毎日新聞)
Tumblr media
インタビューに答えるタレントの浜村淳さん=大阪市北区で2023年11月10日、川平愛撮影
「ついに来たか、と。あと50年、せめて100歳まで続けたかった」
御年89歳。ラジオパーソナリティーの浜村淳さんは、半世紀続く冠番組の節目を局側から打診された時をちゃめっけたっぷりに振り返る。
MBSラジオの長寿番組「ありがとう浜村淳です」が3月末、平日の放送を終了し、土曜のみとなる。深い知識とユーモアに裏打ちされた語りで、関西のリスナーに愛されてきた。浜村さんはラジオに、音だけで勝負する媒体ならではの可能性を感じてきたという。
番組は1974年4月にスタート。現在は月~土曜の午前8時から平日は2時間、土曜は3時間半、新聞や週刊誌情報、ラジオドラマなどを生放送で紹介する。平日の放送終了は、同局側が50周年を一区切りとして打診し、本人も「長時間の生放送でどんな事故が発生するか分からない」と了承した。
親しみやすく、なるべく楽しく
「さて皆さん」で始まる柔らかい関西弁の語りは、浜村節とも称され、親しまれてきた。信条は「難しい言葉は使わず、分かりやすく話すこと」だ。朝刊各紙をめくりながら時事問題を解説するコーナーでは「親しみやすく、なるべく楽しく、聴いて良かった」をモットーに、記事をそのまま読み上げず、言葉をかみ砕いて紹介する。
「例えば、政治の話題で『可及的速やかに』とあれば『なるべく速く』と言い換えます。事件を扱う時も朝の番組なので、陰惨になりすぎないように、ほんの少しだけポップに」
映画評論家としても知られる。登場人物の衣装や景色を細かく描写しながら、見どころやあらすじを講談調で語り、ファンから「本編よりも面白い」と評されることも。
例えば、最近はどんな映画を? 水を向けると、特攻隊をテーマにした「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」について名調子が始まった。「現代の女子高生がタイムスリップして昭和20年に行ってしまうん���すね。そこで出会うのが初恋の相手、彰さん。これ特攻隊員なんですよ。いよいよ出撃命令が下ります。小型の飛行機に乗って、腹に針金で爆弾巻いて、片道だけの燃料で飛び立っていく……」
数年前、鹿児島の鹿屋航空基地史料館を訪ねたこともあり、周辺の情景も加える。「絵空事でなく、実感を持ってしゃべりたい」。これまでの取材経験が語りに深みを持たせている。
「今ほど悪事がはびこる時代はない」
「ありがとう~」が始まった当時は、既に大衆の人気がラジオからテレビへと取って代わられていた時代。当初はテレビに対抗心を燃やしていたが、放送を重ねるうちにラジオの強みを実感するようになったという。
音声だけだからこそ、一人一人が頭に思い浮かべるイメージは多様で広がりがある。「ラジオは説得のメディアやと思います」と、浜村さんは表現する。「映像で見えない部分を言葉で補う。そのために、しつこくしつこく説得し続ける。だからラジオに出る人間は、相当な勉強や修業が必要になってきます」
関西ローカルの番組はインターネットラジオの登場で全国で聴けるようになり、取り巻く状況は大きく変わった。「滅びゆくメディアと悪口を言う人もいますが、『まあ皆さん聴いてください』と聴き手が興味を持つように語りかけると、(リスナーは)必ず引き込まれるんです。だからこそ、愛してくれる人はこれからも居続けるはずです。ラジオには十分可能性がありますよ」
まだまだ「心身ともに健康」と胸を張る。4月以降は土曜の放送のみとなるが、「政治も事件も、今ほど悪事がはびこる時代はないと思います。それらをどのように伝えるのか課題です」と浜村さん。「聴いて役に立ったと思わせる部分が少しでもあるように、迷いながらもやっていくだけですね」。穏やかにほほ笑んだ。
番組50周年を記念したイベントを4月15日、「SkyシアターMBS」(大阪市北区)で開催する。問い合わせは06・6676・8466。【谷口豪】
川内原発延長認可後、初の県原子力防災訓練の実効性は 専門家「能登地震ふまえ最悪シナリオ組み込む必要ある」[02/12 19:22]
シェア
Video Player
00:00Use Left/Right Arrow keys to advance one second, Up/Down arrows to advance ten seconds.07:06
川内原発は、ことし7月に1号機の運転延長を控えています。また、元日には志賀原発が立地する石川県で能登半島地震が発生し、鹿児島でも不安の声が聞かれます。
道路の寸断や建物の倒壊、生き埋めなどが発生した場合、本当に避難はできるのか?今月10日に行われた県の原子力防災訓練で見えた課題を検証します。
10日午前6時半、川内原発が立地する鹿児島県の薩摩川内市役所です。幹部職員の参集から原子力防災訓練が始まりました。
(田中良二市長)「能登半島地震のこともあり、市民の大きな注目を集めている。強い緊張感をもってやりたい」
川内原発30キロ圏の9市町と県が行う原子力防災訓練。今回は去年、川内原発の運転延長が原子力規制委員会に認可されて初の訓練ともなりました。
住民600人も含め4000人が参加し、薩摩半島西方沖を震源地とする最大震度7の地震で外部電源を喪失したとする川内原発では、2号機が非常用電源も失われて炉心損傷に至るとのプロセスで訓練が進みました。
また被ばくした職員を病院に搬送し、手当てする手順も確認しました。
川内原発から2.5キロ南の薩摩川内市寄田地区です。重大事故が起きた場合、原発5キロ圏内はただちに避難することになります。能登半島地震を受け、倒壊した建物から住人を救助する訓練もあり、住民12人は鹿児島市までバスで避難しました。
同じく、原発5キロ圏にある高江こども園です。避難指示を受け、園児6人をバスに乗せ、避難場所に向かいました。
(高江こども園・成松まつみ園長)「(能登半島地震は)かなりショックだった。実際にああいう状況になったときに、子どもたちが孤立するのが一番心配。(備えを)見直さなければならないと感じた」
住民たちが懸念するのが、ことし1月1日に起きた能登半島地震です。見過ごせないのが地震の規模。マグニチュード7.6は27年前、薩摩川内市で震度6弱を観測した県北西部地震の30倍、直接死5500人余りの阪神・淡路大震災を3倍も上回るすさまじいものでした。
石川県の災害危機管理アドバイザーも務める専門家は…
(神戸大学・室崎益輝名誉教授)「前例のない地震が起きた。質が違くというか、ことごとく壊れている。過疎地だったので230人~という犠牲者ですんだ。人口密度当たりの犠牲者の比率は阪神・淡路大震災より多い」 ※室崎名誉教授の「崎」は、たつさき
薩摩川内市によりますと、5キロ圏内の住民が避難し、被ばく者を病院に搬送する県道43号などは、いずれも土砂災害警戒区域にひっかかります。また、オフサイトセンターを始め、県や市の拠点自体が川を埋め立てた軟弱地盤の上にあり、液状化の危険性もぬぐえません。
そもそも市や県の職員を集められるのか…能登半島地震で最悪の被害となった石川県輪島市では、職員280人のうち、初日に40人しか登庁できませんでした。
神戸大学 室崎益輝名誉教授 「情報網や道路網が寸断されて、家がたくさんつぶれて、その下に閉じ込められた人たちが相当数いる。(石川県の事前想定は)最悪の事態をみるという姿勢にはなかった」
「能登半島地震の事態で気に留めておかないといけないのは、いつまでたっても奥能登から抜け出せないということは、放射能が漏えいするとみんな汚染されてしまうということ。本当に緊急に一斉に人が避難できるか?最悪のシナリオのうちのひとつには組み込まないといけない」
訓練の実効性をさらに高める必要はないのか?塩田知事は…
塩田知事 「基本的な動作をしっかりと住民含め、手順を確認するということが一番大きな役割。そういう過酷な状況も引き続き検討はしていきたい」
一方の薩摩川内市 田中市長は…
田中良二 市長 「能登半島地震が行政の防災対応に与えている影響も翻って議論をすべき。見直し改善、次回の防災訓練に生かしていきたい」
川内原発の30キロ圏に住む住民は19万5400人。原発5キロ圏の高江こども園の成松園長は、住民側の温度差に危機感も感じています。
高江こども園 成松まつみ園長 「放射線が漏れてしまった際は5キロ圏内だけに止まらない。温度差というか、緊迫感がないなと、危機を感じる」
訓練を終えた子どもたち 「(地震は)いやだ。逃げる」「身を守ります!(毎月)避難訓練をやっています!」
能登半島地震で改めて浮き彫りになった地震災害のすさまじさ。川内原発の運転延長を7月に控え、私たち一人ひとりが問われています。
0 notes
kennak · 3 months
Quote
巨額横領事件で逮捕・起訴され、その後無罪が確定した大手不動産会社の元社長・山岸忍さんが国を訴えた裁判で、検察特捜部の取り調べ映像が史上初めて公開された。 そこには見立てにあった証言を強引に引き出す、特捜部の実態が映し出されていた。 11日裁判所の法廷で流れたのは、大阪地検特捜部が行った取り調べの一部を記録したおよそ48分間の映像。 弁護団によると特捜部の取り調べ映像が公開されるのは、司法の歴史上初めてのことだ。 ■「私が『なるほど』って思える話が出てこないとおかしい」と検察官 取り調べ記録した48分の映像 関西テレビはその映像を独自入手。 映像には、特捜部の検事が巨額横領事件の捜査で大手不動産会社プレサンスコーポレーションの関係者に対し、厳しく自白を迫る様子が記録されていた。 【山岸さんの元部下K氏】「正直に全部ちゃんと話そうという姿勢で臨んでいます」 【田渕大輔 検事】「だとしたら私が欲しい話でなく、私が『なるほど』って思える話が出てこないとおかしいですよね。でも、今の少なくとも山岸さんに関する話って全然なるほどじゃないよ。本当に真実の話をしたら、なるほどって思う話になるはずなんです」 【山岸さんの元部下K氏】「そこは嘘は本当に言うつもりないので。正直に全部、その時のことをしゃべっているんで」 【田渕大輔 検事】「でもね、もうあえてぼくの今の心証を申し上げると、あなたが今回の事件で果たした役割って『僕は共犯になるんですか?』なんていうかわいいもんじゃないと思っていますよ。お金もらってなくても共犯になるんですか、なんてかわいいものじゃないと思っている」 ■元部下の証言が決め手で逮捕されたプレサンス元社長 裁判で「無罪判決」 この取り調べで得た証言が決め手となり、プレサンスコーポレーション社長(当時)・山岸忍さんは逮捕された。 しかし、その後の刑事裁判で「関係者の供述は信用できない」として、山岸さんには無罪判決が下される。 この取り調べに一体、どのような問題があったのか。なぜ冤罪は生まれたのか。 ■学校法人の土地取引 経営に関心のO氏が18億円借り入れ 理事長就任後 学校の土地売却し18億円の返済に充てる 明浄学院事件の構図 事件は5年前、学校法人・明浄学院の土地取引を巡って起きた。 まず、学校経営に関心を示していたO氏が18億円もの大金を借り入れ、その金を使って理事長に就任。 その後、学校の土地を売却して、借り入れていた18億円の返済に充てた。 ■山岸さんから18億円を借りたO氏 特捜部は山岸さんが『マンション建設の土地欲しさに金を貸した』と見立てをつけ捜査 O氏は、理事長就任に必要だった個人の借金を、学校の財産である土地を売った金で返済したことになるため、業務上横領罪が成立する。 では、18億円もの大金をどこから借りたのか。その出所が山岸さんだった。 特捜部は、山岸さんがこの横領計画を知っていながら『マンション建設の土地欲しさに金を貸した』という見立てをもとに捜査を進めた。 ■横領計画を知りながら取引進めた山岸さんの元部下K氏 特捜部は「山岸さんが横領計画を知っていた」という証言をK氏から引き出すべく強引な取り調べを実施 山岸さんの関与を示す客観的な証拠も乏しい中で特捜部がこだわったのが事件関係者から「山岸さんは横領計画を知っていた」という証言を引き出すこと。 そこで重点的に取り調べを受けたのが、この土地取引の実務を担っていた山岸さんの部下K氏(逮捕、起訴の後、裁判で有罪判決)だった。 K氏自身は横領計画を知りながら取引を進めていたが、「山岸さんには伝えていなかった」と、取り調べに対して答えていた。 ■「山岸さんには(横領計画を)伝えていなかった」と話すK氏に検事が強引な取り調べ 【田渕大輔 検事】「あなたは逮捕されてからきょうで5日目ですかね。根本的に何か発想が変わってなくないですか。自分のしたことは悪いことじゃないんだと。そう思ってないですかね」 【山岸さんの元部下K氏】「いや悪いことです」 K氏は逮捕前から密室で連日、任意での取り調べを受け、精神的にも肉体的にも疲弊していた。 そして、11日に公開された映像の前日には、大きな問題がある取り調べがあったことが、これまでの取材で明らかになっている。実際の映像を見た弁護団によると以下のような取り調べが行われていたのだ。 ■K氏のデスクから押収のメモ「山岸さんは関与していない」と社内で口裏合わせした際の証拠だと検察官が主張 K氏のデスクから押収したメモを「山岸さんは関与していない」と社内で口裏合わせした際の証拠だと主張 【田渕大輔 検事】「なんでこんなもの(K氏のデスクに残されていたメモ)があるの?いや知ってるでしょ。なんでこんなものがあるの?なんであるんですか?」 【山岸さんの元部下K氏】「社内の同僚に相談をしたからですね」 【田渕大輔 検事】「さっきしてないって言ったじゃん」 【山岸さんの元部下K氏】「はい」 【田渕大輔 検事】「で、なんであるの?なんで嘘ついたの?」 【K氏】「嘘っていうか同僚…」 K氏が言葉に詰まると、検事は右手を自分の顔のあたりまで振り上げ、振り下ろし手の平で机を1回たたき、言い放った。 【田渕大輔 検事】「嘘だろ!今のが嘘じゃなかったら何が嘘なんですか!」 検事は家宅捜索でK氏のデスクから押収したメモを「山岸さんは関与していない」と社内で口裏合わせした際の証拠だと主張。 ■「検察なめんなよ!命かけてるんだよ」「かけてる天秤の重さが違うんだ」 【田渕大輔 検事】「もうさ、あなた詰んでるんだから。もう起訴ですよ、あなた。っていうか有罪ですよ、確実に」「命かけてるんだよ!検察なめんなよ!命かけてるんだよ、私は」「かけてる天秤の重さが違うんだ、こっちは」 検察が立てた「山岸さん関与ありき」の見立て。 それに合わない話をするK氏を検事はおよそ50分間、一方的に攻め立て、15分間は大声で怒鳴り続けた。 そして、その翌日。公開された映像にKさんが追い詰められていく様子が記録されている。 ■「横領計画」を山岸さんに伝えていないとしたら「大罪人」だとK氏に迫る 【田渕大輔 検事】「あなたの場合、いきなり学校法人の貸付だっていう前提で話しているように聞こえるのね。それって普通の人がとる行為としておかしいでしょう。端からあなたは社長をだましにかかっていったってことになるんだけど、そんなことする?普通」 【山岸さんの元部下K氏】「しないですよね、普通は」 【田渕大輔 検事】「なんで、そんなことしたの。それ何か理由があります?それはもう自分の手柄が欲しいあまりですか。そうだとしたらあなたは、プレサンスの評判を貶めた大罪人ですよ」 検事は、仮に山岸さんに計画を伝えていないとしたら、事件を主導した「大罪人」だと迫る。 ■「会社の損害背負う覚悟はできてるのか」見立てに合わない話は徹底的に潰す 【田渕大輔 検事】「これ例えば会社から今回の風評被害とか受けて、会社が非常な営業損害を受けたとか、株価が下がったとかいうことを受けたとしたら、あなたはその損害を賠償できます?10億、20億じゃすまないですよね。それを背負う覚悟で今、話をしていますか」 【山岸さんの元部下K氏】「まぁ、背負えないですよね。それは」 【田渕大輔 検事】「背負えっこないよね。そんな話して大丈夫?だから、あなたの顔が穏やかになりきっていないって見えるんですよ。見えるんですよ。見てわかるんですよ」 事件でプレサンス社が被った損害をひとりで賠償できるのかと脅し、見立てに合わない話は徹底的に否定にかかる。 ■「悪い顔になってきているよ」 最終的に「山岸さんは横領計画を知っていた」と証言を変えたK氏 【田渕大輔 検事】「だんだん悪い顔になってきているよ」 【山岸さんの元部下K氏】「いや悪い顔じゃないです。本当に悪い顔で説明するつもりないです」 【田渕大輔 検事】「いやいやだって、おかしいじゃない。普通に考えて」 【山岸さんの元部下K氏】「じゃあ、もしかしたら私の勘違いだとしたら、すみません。ぼくはそういう風に自分では説明したと思い込んでいるのか」 【田渕大輔 検事】「どういうふうに」 【山岸さんの元部下K氏】「いや、その移転、移設するために学校に出してくれっていう話を自分がしたと思っているんで」 【田渕大輔 検事】「それはね、後からそういう形で説明したということにしようとしていただけなんじゃないの、みなさんが。山岸さんに対する説明はそういう体でやっていたんだってことにしていただけじゃないの」 【山岸さんの元部下K氏】「そこは本当に」 【田渕大輔 検事】「だって、スタートがやっぱりおかしいじゃない。どう考えてもおかしいですよ」 結局この後、Kさんは「山岸さんは横領計画を知っていた」と証言を変え、それが山岸さん逮捕の決め手になった。 ■無罪判決で強く非難された「検察の取り調べ」 まさにこの部分は無罪判決の中でこう指摘されている。 【大阪地裁 坂口裕俊 裁判長(当時)】「必要以上に強く責任を感じさせ、その責任を逃れようと真実とは異なる内容の供述に及ぶ強い動機を生じさせかねない」 検察の取り調べは、厳しく非難された。 ■「自白をとらないと評価されないというのが透けて見える。組織の構造的な問題」と弁護士 【山岸さんの主任弁護士・中村和洋 弁護士】「彼がなぜあそこまで尋常ではない取り調べをしたのか。何かこう焦って自白をとらないといけない。それがそうしないと評価されないというものが全体的に透けて見える。あれは個人の資質の問題ではなく、やっぱり組織の構造的な問題だと考えるのが自然」 ■「使った言葉に不穏当な言葉はあった」「(同じような取り調べは)まずしないと思う」と検事 11日、取り調べの映像が法廷で公開された後、実際に取り調べを行った田渕検事が法廷に呼ばれ、尋問を受けた。 【代理人弁護士】「K氏が真摯に向き合っていないから、そういう取り調べ(机をたたく、大声で怒鳴る)をしたんですか?」 【田渕大輔 検事】「言葉だけでは進まないと思い、挙動も混ぜたほうが誠実に向き合っていることが伝わると思ったので」 【代理人弁護士】「取り調べに反省すべきところはありましたか?」 【田渕大輔 検事】「使った言葉に不穏当な言葉はありました」 【代理人弁護士】「また同じような取り調べをしますか?」 【田渕大輔 検事】「まずしないと思う」 当時の取り調べに関して、「K氏が真摯に取り調べに向き合わなかったこと」を繰り返し理由にあげた一方で、一定の問題があったことを自ら認めた田渕検事。 また尋問を行った弁護士に対し、こんな発言も… 【田渕大輔 検事】「そんな怖い顔で聞かれても…」 【代理人弁護士】「怖い顔をしてないし、私とは距離もあるし、机もたたきませんよ」 ■無罪判決について「残念な判決」と検事 この発言の後、法廷に立った山岸さんは田渕検事に「K氏はあなたの取り調べを怖いと感じていたと思うか?」と聞いた。 【田渕大輔 検事】「K氏に聞かないと分からないが、私は少なくとも腹の座った方だと思っていました」 そして、一連の取り調べで得たK氏の供述は「信用できない」として山岸さんが無罪となったことについて田渕検事は「残念な判決。有罪維持に十分だと思っていた。K氏の信用性も否定されたので」と語った。 尋問は11日を含めて3日間に分けて行われ、当時捜査を主導していた主任検事も法廷に立つ予定だ。 ■「無罪を勝ち取ったとしても、その時点で人生が終わっちゃう。だから冤罪はダメ」 原告の山岸さんは、プレサンスコーポレーションの社長も辞任せざるを得なくなったが、今はまた新しい不動産会社を立ち上げ、新しい人生を前向きに歩んでいる。 山岸さんは、この裁判にかける思いについて「私は元気で、毎日幸せに仕事もしている、趣味もやって生きている。でもそんな人って珍しい。無罪を勝ち取ったとしても、その時点で人生終わっちゃう。だから冤罪ってだめなんですよ。私みたいな立場の人しかこんな活動はできないんではないかと思っています」と語った。 2度と冤罪を生まないために、検察はどうこの問題に向き合うのか。 その姿勢が試されている。 (関西テレビ記者 赤穂雄大)
【独自】「検察ナメんなよ!」見立てに合う『証言』強引に引き出す特捜部の実態 『取り調べ映像』入手 冤罪で会社を奪われた元社長「無罪を勝ち取っても、その時点で人生が終わっちゃう。冤罪はダメ」(関西テレビ) - Yahoo!ニュース
4 notes · View notes
ari0921 · 4 months
Text
今も心して読め、前駐豪大使の「遺言」
 
 櫻井よしこ
『週刊新潮』 2024年5月16日号
日本ルネッサンス 第1097回
前駐豪大使の山上信吾氏が『日本外交の劣化』(文藝春秋)を上梓した。「本書は、外交官としての私の遺言である」と後書きにある。気骨ある外交官が40年にわたる外務省勤務を経て、��を括って書いた「遺言」はまさに本音で貫かれている。
実名を挙げての外務省批判であるからには、同僚、先輩らの厳しい批判を受けるだろう。だとしても、山上氏の声には真摯に耳を傾けるべきだ。なぜなら、氏の本音から生まれた本書には日本外交を担う外務省の根本的欠陥が明確に示されており、そこを理解することが日本外交再生に欠かせないからだ。
外務省の役割は日本を代表し、外交を通して国益を守り増進することだ。だが山上氏が豪州に赴任する前、大使としての心構えについて、歴史問題で日本の立場を訴えるときは「プロパガンダ」と受けとられないよう注意すべきだと再三講義されたという。
安倍晋三氏の総理在任中にこんな講義が外務省で行われていたとは驚きだ。なぜなら安倍氏は、外交官は歴史戦の前線に立つべきだと考えており、大使赴任に当たっては国益を体現すべく果敢に論じ、反論せよと訓話していたからだ。
外務省が本質的に歴史戦に弱く、戦おうとしない役所であることは山上氏の指摘を待つまでもない。慰安婦や徴用工の「強制連行」「南京大虐殺」など、日本国にとっての濡れ衣事件を中国や韓国から言い立てられたとき、最も大事なことはわが国の歴史や政策を頭に入れて、事実を特定して、説明し、わが国の名誉を守り通すことだ。しかし外務省のエリートたちにはその気概が、少なくともかつては、著しく欠けていた。
山上氏は外務省が歴史戦において、度々村山談話に逃げ込むと指摘する。戦後50年の節目に当時の村山富市首相が日本の植民地支配と侵略を認めて「痛切な反省と心からのお詫び」を表明したあの談話である。同談話の下ごしらえをしたのは主として谷野作太郎内閣外政審議室長や古川貞二郎官房副長官だった。
「まっ白いサラのキャンバス」
社会党委員長時代、村山氏は自衛隊を憲法違反だと非難していたが、首相に就任するや合憲説に立場を変え、自衛隊の観閲式にはモーニングにシルクハットで臨んだ。氏はしかし、首相を辞めるとまたもや自衛隊違憲論に立ち戻った。
この人物に官僚たちは戦後50年談話を出させた。歴史問題が問われる度、外務省は日本はもう謝ったとして談話に逃げ込む。山上氏はそのような姿勢を、眼前の追及を躱(かわ)すためとしている。しかし、さらにこう考えられないか。外務官僚らは自分たちの歴史観に基づいた日本外交を、自民党と社会党が手を結んだ異常な政局下でたまたま首相となった村山富市氏という社会党議員に振りつけた、と。
当時首相秘書官を務めた外務省のチャイナスクール、槙田邦彦氏に取材したときのことだ。氏が村山氏を高く評価したために、私は理由を尋ねた。氏は以下のように答えた。
「キャンバスにたとえれば村山氏はまっ白いサラのキャンバスです。我々はそこに自由に絵を描ける」
無知蒙昧ゆえに使い易いと言っているのだ。ちなみに、槙田氏は村山談話に「お詫びという言葉を入れるかどうか」が議論されたとき、「世界が注目している。入れるべきだ」と進言した(論文「戦後70年の『安倍談話』について・発表に至る政治過程・」丹羽文生・拓殖大学海外事情研究所准教授)。
 戦争した日本がおよそ全て悪いと言うような外務省の「国を想わない」精神はどこから来るのか。山上氏は、多くの外務官僚が「負ける戦をした当時の日本の為政者と軍人が悪いのだ。負け戦をしておいて外交の場で反論しろと言われても、土台無理」という認識だと書いた。だが、負け戦はどの国にもある。敗れても祖国の国柄を大事にして再び立ち上がるのが普通の国の精神構造だ。
 外務省のエリートたちは、歴史と自分をどこかで切り離しているのではないか。朝日新聞が主導して慰安婦問題に火がついたとき、本書にも登場する齋木昭隆氏(元外務次官)がこう語ったのを記憶している。
「米欧とは慰安婦問題では到底、議論できない。どんな説明も聞き入れられない。絶望的になる」
 たしかにどれほど親日的な人でも、慰安婦問題になると、日本の主張を聞こうとはしなかった。事実について説明しようとすると、偏見で凝り固まった右翼のように見られた。私にも苦い経験がある。しかし、普通の日本人はこう考えるのではないか。
「自分の父や祖父はとり立てて優れた人ではなかったかもしれないが、基本的に正直で誠実だった。そんな日本人達が戦地に赴いたら、人間が変わったように女性達を強制連行し、乱暴し、あげくの果てに終戦間際に30万人も殺したと中国などは言う。そんなことはあり得ない」
歴史戦を戦い抜く底力
慰安婦強制連行、性奴隷説への私の疑問はまさにここから始まっている。不器用ではあっても凶暴ではない。貧しくとも盗みはしない。むしろ人が好く、心根は基本的に寛容で優しい人々だ。それは祖父や父たちだけでなく、祖母や母たちも全く同じだった。そんな人たちが一挙に変身するとは、到底、思えなかった。
日本国の歴史を、自分及び家族の生きてきた姿と重ねることで、日本人は日本民族の一員になる。歴史と個々人、個々の家族が重なっていく。歴史問題について外務省エリートたちが絶望を抱いたのは、日本人一人一人の歴史との重なり、この感覚の欠落ゆえではないか。
慰安婦問題の嵐が吹いていた頃、国家基本問題研究所の企画委員、島田洋一氏らが訪米し、政治学者のマイケル・グリーン氏に会った。知日派で知られるグリーン氏も慰安婦問題については厳しく、日本は主張しない方がよいとの考えを示した。そのときに島田氏が言った。
「貴方の父上が同じように非難されたとする。子息として貴方は父上を信じていても、沈黙を守るのか。自分の父の不名誉を晴らすために、事実を示して誰が何を言おうと、反論するのではないか」
グリーン氏の返答はなかった。
こうした一人一人の想いや信念、発言が大事だ。外務省はほとんど協力してくれたとは思わないが、それでも何十年もかけて私たちは慰安婦の強制連行はなかった、朝日新聞の罪は限りなく重いという事実を明らかにすることができた。
歴史戦を戦い抜く底力は歴史を自身のこととして受けとめることから生まれる。それは自身と祖国の深いつながり、祖国を築き守って下さった先人たちへの感謝と愛国の想いそのものだ。そうした心情が外務省エリートには、少なくともかつて、決定的に欠けていたのだろう。
駐豪大使として目覚ましい活躍をした山上氏の警告を真摯に受けとめることが外務省に問われている
1 note · View note
takeuchiyoshihiro · 1 year
Text
くれたけ心理相談室(長野県)飯田ルーム 訪問
事務局の皆さんと、くれたけ心理相談室 飯田ルーム(長野県飯田市)に行ってまいりました。 長野県の心理カウンセラー訪問ということで、渡辺恭代カウンセラー主宰の、くれたけ心理相談室 飯田ルームにお邪魔してまいりました。(渡辺カウンセラー公式サイト くれたけ心理相談室 飯田ルーム ) とってもわかり易い場所で、お部屋も日差しが明るく、くつろげる環境でした。 渡辺カウンセラーは中国、台湾での生活を経て、心理カウンセラーになるため日本に戻り、念願であったカウンセリングルームを持たれました。 長い間思い続けていた夢が叶いました。 関東圏からの長野県飯田市に移られて数ヶ月ですが、認知も早く徐々に皆様からルーム予約をいただいております。 せっかく長野県に来たので楽しまなければと、観光もさせていただきました。   ありがたき一日でした。こうして人や街とのご縁をいただけたことに感謝です。
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
kokoronote · 3 months
Text
特別な時間
6/24~26の3日間、くれたけ心理相談室の竹内社長と事務局の皆さんが、 札幌支部の応援と視察の為に北海道にいらしてくださいました。   同じく札幌支部の榊原一樹カウンセラーと一緒に、 6人で色々な所へ行きました。 画面越しでしかお会いしていなかった皆さんとも直接お会いして、 3日間同じ景色を見て美味しいものを食べ、 何度も笑い楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいました。   北海道が初めての方もいたので、「せっかくだから…」と、何度言ったでしょうか(笑) せっかく来てくださったので、 札幌だけでなく北海道を肌で感じてもらえたらと。   食べたいものリクエストを事前にお聞きして、全部食べてもらいたい!と、 一樹さんと一緒に、巡るルートを考えるのも楽しかったです。   実際、皆さんが1つ食べるごとに「今までで1番美味しい」と言ってくださって、 私が作ったわけでもないのに、その度に嬉しくな…
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
hegotthesun · 4 years
Text
『ワルツ』 終局特異点 A.D.2007
※本稿は虚構《フィクション》であり、実在する人物・団体とは一切関係ありません。
youtube
この曲は「ズッ友」はさておき、2009年12月24日に収録しました。 動画で使用させていただいたイラストはsime様画です。 もちろんのこと、メールでの連絡にて使用許諾を得ております。 ◇◇◇ ――2010年2月上旬。
謎の美少女"ttt5959"様に当曲を歌ってもらえました!
■https://nico.ms/sm9620846
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
=====
――2007年10月17日。今日はケミカルシューズ関連業の面接日だ。
 これまで18歳から2年間ほど務めた印刷製本の仕事を、会社側の事情で唐突に解雇され、転職を余儀なくされたのだった。
 そうこうして、会社2階の事務室に入室した。
 事務室の扉をノックし、「失礼します」と幾分か緊張しつつも開いた。
 狭い事務室には、茶髪の長い髪をアップに結んだ女性が着席しており、ずいぶんと驚いた様子でこちらを凝視していた。
 席を外すように促され、女性は事務室から退室し、すぐに僕の面接が始まった。
 数日後、採用の連絡があった。
 そうして茶髪の女性は事務員として入社し、僕は作業員として同期入社する運びとなった。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
――2007年10月19日。小雨の降る緊張の初出勤の日。
 延々と続く変わり映えのしない道を猪突猛進に歩き続け、勢いあまって会社の目前を通り過ぎ、咄嗟に踵を返したところ、今度は足を滑らせて転倒しかけてしまった。
 この先、無事にやって行けるのか不安になりながら気を取り直して社内に入ったが、まだ誰も来ていないようだった。
 不意に後ろから声を掛けられたので振り向くと、一人の女性が立っていた。
 軽く挨拶と自己紹介を終えると、いきなり好きな音楽は何かと訊ねられた。
 どうやら彼女が好む音楽はThee Michelle Gun Elephant、Number Girl、Syrup16g、Bump Of Chicken等の下北系のロックバンドらしくすぐに意気投合した。
 そうして同じ持ち場の彼女から直々に仕事を教わることになった。
 ちなみに会社の前で足を滑らせた情けない後ろ姿はしっかりと見られていたらしい。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
 翌日、彼女に何かお勧めのCDを持って来るように頼まれたので、彼女の気に入りそうなCDを何枚か持ち出して聴かせたところ、フジファブリックの『茜色の夕日』を甚く気に入ったようで何度も繰り返し聴いていた。
 後日そのCDは彼女に渡すことになった。
 それから彼女に手取り足取り作業を教わる日々が続き、「繊細そうな手」「東京の人みたいで面白い」と辛辣なことを言われて困惑した。
 さらには「彼女はいるの?」「どうして彼女を作らないの?」「女の子が嫌いなの?」と受け答えに困る冷酷な質問をされ、「音楽に専念したいから」と意味不明な言い訳をしてしまった。
 同時に「貯金が貯まったら宅録環境を整えて曲を収録したい」と密かな夢まで語ってしまった。
 まるで馬鹿みたいだ。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
──ある日の昼休みのこと。東京に引越して結婚すと彼女に告げられた。
 要約すると、月末に寿退社する彼女と入れ替わりに、僕は補填として会社に採用されたのだった。
 その後は、なぜか人生相談に乗ることになったが、どこか上の空で曖昧な答えしか返せなかった。
 相談は人間関係や子供時分の思い出話にまで及んだ。
 どうやら彼女は長い間、自分は変人なのだと思い込んでいたが、最近になって普通なのだと潔く覚ったらしい。
 東京では友人を作った方がいいのか聞かれたが、「子供ができたらママ友ができる」とは流石にその時は言えなかった。
「どんな人が来るのかと思ってたけど、いい子でよかった」
 なんだか褒めるにしても頼りないことを言われながら、意外と子供の頃の共通点が多くて驚いたが、横から割って入ってきた事務員に「結婚は結局のところお金」と断言されてしまった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
 翌週に執り行われた「歓迎会兼送別会」と銘打たれて催された飲み会は、僕にとって歓迎会だったが、彼女にとっては送別会だった。
 僕は地元の神戸で働き、彼女は東京に行き嫁ぐ道を選んだ。
 彼女は結婚を修行のようなものだと思って頑張ると言ったが、僕にとっては就職して働くことが修行のようなものだった。
「もし私が三ヶ月後に離婚して神戸に帰って来たら、また一緒に働こうね」と冗談を言ってくれたが、たとえお互い違う道を歩んでも彼女が元気に過ごして居てくれたらそれだけで僕は一向に構わない。
「定年退職まで頑張ってね」
 そんな約束を彼女と交わしたのだった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
「この飲み屋にいる中で誰が一番好みや?」
 ふいに上司から不躾な質問をされたので、真剣に周囲を見渡しながら悩んだ。
「このお姉さんが眩し過ぎて他の人は見えないよね?」
 お座敷で僕と向かい合わせに座っていた彼女が、隣に座る"ふくよかなおばちゃん"を指さしながらとその場を上手く誤魔化してくれたのだった。
「お前は返事が遅いから指示を理解したのか分からへんのや」
「適当に『はい、はい』と答えてればいいと思う」
 上司の小言に対して、彼女が貴重な助言をくれた。
 話の流れで上司には11歳年下の妻が居ると発覚して、社員一同に「犯罪や!」と褒め称えらていた。
 また、その上司の息子は毎週ポケモンを観ているらしく、その場でポッチャマの絵を描き上げたが、年甲斐もなく中々上手だったので少々驚いた次第だ。
 当時はまだ飲酒をしたことがなかったので飲みやすい酒は何かと彼女に聞いたら「カクテルは飲みやすい」と薦められたので、とりあえず"カシスオレンジ"を注文することにした。
 カクテルを持ってきた店員に戸惑いながら年齢確認された後、初めて飲んだカクテルの味はジュースと大差ないとしか言えなかった。
「私も飲んでいい?」
 物思いに耽っている内に飲みかけのカシスオレンジは彼女に横取りされてしまった。
 ブルーベリーソースの添えられたサイコロ状のチーズを黙々と食べる僕の様子を、彼女は母のごとく微笑ましそうに見つめていたが、事務員が執拗に乾杯を要求してくるので仕方なく注文した生ビールで乾杯に応じた。
「へえ、乾杯するんだ?」
 彼女に軽蔑の目で一瞥されたが、めげずにビールを口に含んだ。
 そうして思わず渋い顔をしてしまった。
「ビールは舌で転がすもんやなくて、のどごしを堪能するもんや!」
「彼はソムリエですから」
 上司の助言に、すかさず彼女が合いの手を入れてくれたのだった。
 それから酔いが回り、事務員と横になって休んでいたら、いきなり足裏マッサージで彼女に叩き起こされた。
「痛い?」
 そう言いながら、彼女は少しご立腹の様子だった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
 事務員がお座敷に連れて来た二人の子供を見て、彼女は「かわいい!」と率直に嬉しそうな反応を示していた。
 たぶん彼女の幸せは温かな家庭の中にあるのだとその時に直感した。
 円満な家庭を築いたら、彼女はきっと幸せになれるだろう。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
「俺は外国人には優しいからな」
 唐突に上司が語り始めた。
「俺は在日韓国人やけど見た目は日本人やから、韓国で韓国語を話すと周囲とびっくりされるんや!」
 そんなどうでもいい話を語り出し、ついにはパキスタン人も雇ったことがあるという話題まで飛び出したので、なんだか己の所在地が判らなくなりながら話に聞き入っていたら、突然その上司に胸を揉みしだかれて身じろぎをした。
「嫌がってる……」
 目前の彼女はぽつりとと呟き、微笑ましそうにそのあるまじき光景を観察していた。
「なんでうちの会社の女はみんな胸がないんやろうか?」
 それに乗じて無駄口の多い初老の同僚が本心からの愚痴をこぼし、女性達から顰蹙《ひんしゅく》を買っていたのだった。
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
 上司の武勇伝が続くお座敷のテーブルの下で、彼女に無理やり靴下を脱がされたかと思うと、今度は僕の太ももの上に足を乗せてきた。
 たぶん黒いストッキングを脱がしてほしいという意思表示だったのだろうけど、流石にそんな勇気は当時の僕にはなかった。
 案の定アルコールを摂取し過ぎてトイレで盛大に吐いてしまった直後、彼女が扉を開けて入って来た。
「大丈夫?」
 心配そうに声を掛けてくれたが、もし僕が用を足していたら大変な事態になっていたような気がしないでもない。
 とにかく、自分は夢でも見ているのではないのだろうかと思うほど幸せなひと時だった。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
 帰り道、彼女の方から手を繋いできた。
「今日は手が冷たいね。手が冷たい人は心が温かい」
 恋人繋ぎのまま手を引っ張られたので腕が少し痛んだが、彼女の左腕にあるリストカットの痕を思うとたいした痛みじゃなかった。
 しばらく歩いているとタクシーの前で別れ際に抱擁する〝中年の男女〟が居て、それを真似るような形で彼女に抱きつかれた。
「私の部屋に来ますか?」
 そう聞かれたので躊躇わずに一度だけ頷くと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
 生まれて初めて自分という忌み嫌われた存在のすべてを胸に抱きとめられて全肯定されたような心持ちになった。
 どこか諦めて迷いながら選んだ道だったが、彼女と出逢ったことにより、死なずに生きる道を選んだことが間違いではなかったと素直に思えたし、生きる価値や意味を見出すことが出来た。
 少なくとも僕にも人を愛する権利と心が僅かでもあることを知れたのだった。
 そうして、これまでに起きたすべての出来事は彼女と出逢い、意思疎通し、そこから人生の意義を学ぶためにあったのだと覚り、果てには自分はこの日のために生まれたのだと直感した。
 同時に人と心を深く通わせるのはこれ��最初で最後になるのだろうと���感した。
 だから僕にとって彼女は最初で最後の最愛の人になるだろう。
 喩え世界中に忌み嫌われ、その存在を無視して否定されようとも、彼女が僕という存在を抱きしめて全肯定してくれた出来事は、僕の人生において最も大切な記憶に他ならない。
 この先どんな困難が待ち受けていようと、僕の記憶には彼女と過ごした僅かで確かな日々が今も息吹いている。
 それが一過性に過ぎない勘違いだろうが何だろうが、もう二度と困難を前に絶対屈しないと心の底から誓う次第だ。
 繋いだ手はいつか必ず放さなければならない。
 それでも彼女と伴に同じ道を歩いた記憶と温もりは決して失われはしない。
✽.。.:*·゚MADE IN JAPAN.。.:*·゚ ✽
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
■2007年。神戸ケミカルシューズ関連業に就職
 当時製作に携わった商品は神戸ハーバーランド「モザイク」の婦人靴屋にて販売されました。
江戸時代後期
 江戸時代の幕末維新は1853(嘉永6)年の黒船来航から始まりました。幕末の日本に影響を与えた欧米列強は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5ヶ国です。
《産業革命》~第二次産業の幕開け~
 産業革命は18世紀のイギリスから始まり、その後は西ヨーロッパ諸国、アメリカ、ロシアなどに拡大し、欧米諸国は農業文明(第一次産業)から工業文明(第二次産業)社会に移行しました。産業革命は綿工業から始まり、その発展は鉄工業、石炭業、機械工業などの諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を到来させました。
 1830年以降になると、機械による大量生産体制が確立。産業革命の技術革新の総仕上げとして鉄道が出現。さらに帆船から蒸気船に転換し、それが自国内だけでなく、世界に進出する足掛かりとなりました。産業革命によって大量生産された製品は、まずは自国内で消費されましたが、すぐに飽和状態となりました。産業革命の進展は原材料の高騰や枯渇をもたらし、労働力の確保も課題となりました。その補給先も、自国外で確保しなければならない循環に陥ってしまったのです。
 初めに産業革命を果たした英国は、ヨーロッパ大陸に市場を求め、さらには米国、そしてその矛先はアフリカやアジア諸国に向かいました。原材料の確保も同時に企図されるが、これも欧米以外に依存しました。英国以外でもフランス、ドイツ、アメリカ、ロシアなどが順次に産業革命を進展させ、資本主義国家群を形成し、欧米全体がアジア市場を求めて進出しました。その際には製品だけでなく軍隊も派遣し、武力を伴った支配化、つまり発展途上国の植民地支配を実行しました。これが帝国主義の時代の幕開けです。
 当初の英国は東インド会社を国策会社として設立し、アジアに対する貿易と植民地経営を積極化させました。英国の植民地化を阻止すべく1857年にインドの反乱が起こりましたが、軍事力の差により鎮圧されました。翌1858年にムガル帝国が滅亡し、英国がインド全土の支配を開始しました。
 19世紀に入ると英国の自由商人活動は活性化し、清にインド産のアヘンを密輸し始めました。アヘンの流入を阻止したい清国と、密輸を継続しようとする英国との間にアヘン戦争が1840年に勃発。清は英国の近代兵器に圧倒され、その後は欧米の侵略拠点となりました。そして中国の先にある日本に対し、いよいよ欧米列強が開国を求めることになりました。
 江戸時代後半の日本は長崎などの例外はありながらも鎖国体制でしたが、18世紀後半からロシアが北方から南下を始めたので、それに対する危機意識が高まっていました。江戸幕府は鎖国を貫こうとしましたが、アヘン戦争による清の大敗は衝撃を伴い、戦争回避を前提に外交が展開されました。
 幕府は外国船打払令(外国船とみれば躊躇なく追い払う令)とした政策から対外的な展開を図りました。それを契機にロシア、イギリス、フランス、アメリカが日本に接近して和親と通商を求め始めました。しかしながら、幕府は依然として鎖国を盾にその要求を拒否し続けました。そこに中国の政策に専念する英国を出し抜いて、嘉永6年にアメリカからペリー提督が開国要求の使者として来航したのです。
日露戦争
 1905(明治38)年、日露戦争後半の大規模な陸上戦「奉天会戦」の戦力はロシア軍36万、日本軍24万。兵士の数ではロシアが優勢。しかし、機関銃の数は日本が上回っており、兵力的には互角と見込まれました。
 戦場で日本は西側から回り込み、ロシア軍の退路を経つ包囲作戦に出ましたが、ロシアがそれを察知して全軍撤退を始めました。本来ならロシア軍を追撃すべきだったものの、兵士の数と弾薬が足りず掃討作戦を断念。拠点になる奉天の制圧に成功しましたが、新たな作戦を立てる余力もなく、もはや陸上戦は継続不能の状態でした。ロシア陸軍は撤退したと言っても、残りの兵力は約200万人。その数は日本陸軍の約10倍で、ロシア側も戦争続行の意向でした。
 そうして対馬海域にロシア海軍のバルチック艦隊が到着。陸上戦に続き、次は日露海軍による日本海海戦が開幕しました。天候は『天気晴朗なれど波高し』で日本に有利な状況。ロシア艦隊は、前方で突然大きく旋回した日本艦隊に総砲撃しましたが、日本海の高波や長い航海による疲弊もあり砲撃の精度は低く、砲撃を免れた日本艦隊が横に並び、一斉砲撃を加えて壊滅的なダメージを与えました。ロシア戦艦6隻、巡洋艦4隻など計15隻を撃沈。これによりロシア艦隊をほぼ全滅に追い込みました。
 こうして長期にわたる摩耗戦が続き満身創痍だったものの、海戦史上かつてない勝利を治め、アメリカの仲介のもとで講和条約を結ぶ運びになりました。
 しかしながら、日本政府が日露戦争に費やした経費は15億2,000万円。これは当時の国家予算5年分にあたる金額。日露戦争の出征者は130万人。10年前の戦争は13万人だったので、その数の多さが分かります。さらに9万人(陸軍兵士の戦没率は8.7%)が死亡し、44万人が負傷。日本の目的はロシアの南下を防ぐことにありました。ロシアも日本に戦争の持続力がないことを知りながら戦略的撤退を行いました。ところがマスコミの誇大報道により国民は日本の大勝だと信じました。
 この時期は、国民の識字率の上昇に加え、新聞は各紙とも急激に部数を伸ばしており、大きな影響力を持つようになっていました。
 しかも戦勝の誇大ニュースを乗せると部数が増えるので、毎回ロシア軍に大勝しているように書き立てられていたのです。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽ * * * * * * * ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
《阿呆化学篇:2007年~2009年迄》 『事務員と携帯メール』
youtube
「彼女がいなくなって、さびしそうだから」  数日後、休憩時間に一人で座っていると、同期の事務員"野川さくら"から携帯アドレスの書かれた紙を渡されました。  そうしてメール交換を始めて最初にもらったメールの内容は「何か悩みがあったら相談してね」という無難な内容に、姉の飼っている白い犬の写真を添えたものだったと記憶しています。
 野川さんは、かなりのメール好きらしく毎日欠かさず送られてくるメールの量に畏怖し、「三日に一回くらいにしてくれ」と直接言ったら、「二日に一回じゃだめ?」と言い返してくるほどの筆自慢でした。
 何が目的で僕なんかとメール交換しようと思ったのか尋ねてみたところ、「それは〇〇君と仲良くなりたいからです!」とシンプルな返事を返されたのでした。  ある日、野川さんとメールで人物のあだ名について意見交換したら、「専務に『100回以上ミスしたらクビにする』と言われたけど、本当に100回ミスしてしまった翌日に出勤したら『野川ゾンビ』って呼ばれた」という感慨深いエピソードを教えてもらえました。  最初の頃は昼休みに野川さんと一緒にお弁当を食べたり、女性同僚達に匿《かくま》われて過ごしましたが、僕としては世間話よりも読書がしたいので次第に距離を置くようになりました。  仕事に慣れない内は定時直前まで仕事に追われましたが、そんな時は上司や先輩の同僚が作業を手伝ってくれました。
「お前は男には優しいな。お前、実は男が好きなんじゃないのか。実は俺も男が好きなんや!」と、上司はいつも同僚に意気揚々と語りかけていたし、《禿げ頭で帽子を被り眼鏡を掛けた飲んだくれの喋くり爺さん"間寛平"》に至っては「おっさんとホテルに行こうか?」と気さくに話しかけてくる毎日でした。  なんでもこの会社は数多の独自技術があるらしく、上司は「お前、実は産業スパイやないやろうな?」「これはうちの企業秘密や!」というような冗談をよく言っていました。
「今まで女を5人も孕ませたった」「小学生の頃に刺青を入れたら、親に煙草の火を押し付けられて消されてもうた」と、職場の所在地である朝鮮部落付近にある被差別部落出身の初老同僚"間寛平"は語っており、仕事中に他の同僚と世間話を始め、輪ゴムを飛ばし合って遊び出し、しまいには上司の目を盗んではビールを飲むという素行の悪さが目立ちましたが、後輩の僕が口出しをすると面倒なことになりそうなので放置していました。
 しかしながら小学生に刺青を彫る彫師や、それを煙草の火で揉み消そうとする親御さんは、一体全体これまでどのような教育を施されてきたのか皆目見当もつかない次第でした。 ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽  勤め始めた頃に、ひと際目立つ金髪の若い従業員が僕の作業を手伝ってくれた時に、さゆり(前述の東京に嫁いだ同僚)は「あの子はベトナム人だから……」と、一見すると不良タイプと相性の悪そうな僕を気遣ってくれましたが、実を言うと初めて髪を染めたのは15歳の頃ですし、古いロックも聴く影響で髪の色や肌の色はあまり気にしません。
 そのベトナム従業員は難易度の高く給与の安い機械作業に見切りをつけて、身内の仕事を手伝うために転職してしまうまで優しい兄貴分のような存在でした。 ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽  さゆりが居た頃、相撲取りのように丸々肥えた"ふくよかなおばちゃん"と初めて作業した時に、内心で何気なく「この人は大体40代くらいのおばちゃんかな?」と取り留めもなく考えていたら、隣りの"さゆり"が「頼りになるお姉さんですからね」と、それをフォローするかのように紹介してくれましたが、どうやら当時の"ふくよかなおばちゃん"はまだ三十代前半だったようでした。  なぜかその力士のような"ふくよかなおばちゃん"は、頻繁に「"ふみえ"なー」と固有名詞を連呼するので、最初は「誰のことだろうか?」と疑問に思っていましたが、どうやら一人称が自分の名前だと後で知りました。
 そのことから"ふみえちゃん"と従業員一同に呼ばれて親しまれていたのでした。 ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽  上司の話では、事務員の野川さんは中々の焼き餅焼きらしく、取引先の若い女性が事務室に来るだけで不機嫌になるようでした。
 確かに僕とのメールのやり取りでも「さゆりとは運命を感じる」「新人のビビアン・スー似の中国人従業員●●ちゃん(以下、ビビアン・スーちゃん)の着けているピンクのエプロンは新妻みたいで可愛いな」とメールを送ったら、すぐに不機嫌になるので困惑したのでした。  しばらく彼女と一緒に居ると、彼女は噂話を好み、被害妄想の激しい性格だと分かったので、メールの内容をいつか周囲に吹聴しそうだなと一抹の不安を感じながらも「ビビアンスーちゃんのようにピンクのエプロンを着けたら皆が喜ぶかも知れない」というメールを送ったら、次の日から淡いピンク色のエプロンを着けて働き始めたので若干の動揺を隠せなかったのでした。  そう言えば、上司に「素材を500個用意しろ」と指示されたビビアン・スーちゃんは素材を丁寧に1個ずつ数え始めました。そうして上司に「仕上げながら数えればいいだろ」と注意されて少し不機嫌そうに「……ばか上司ぃ!」と小声でひとりごちていたのがなんだか可愛らしく感じました。  上司の指示でビビアン・スーちゃんの作業を手伝わされた際に質疑応答すれば「ふぇ?」と別次元の反応を示し、僕が木の板いっぱいに素材を並べて持ち上げたら「すごい!」と驚いていましたが、非力な僕が持ち上げられる重さも、どうやらビビアン・スーちゃんには持ち上げることが困難だと気付かされました。  またある日に、僕の作業補佐をしたビビアン・スーちゃんは、不良品を出しそうになると逐一「これ、大丈夫?」と一生懸命に片言の日本語で聞いてくるので、僕もビビアン・スーちゃんに解りやすいように片言で「うん、大丈夫!」と答えましたが、今にして思えば発声と聞き取りは別の技能だから、僕までもがビビアン・スーちゃんと同じ言葉遣いになる必要はなかったと反省する今日この頃です。  ビビアン・スーちゃんが初めてザグリの機械作業を行った際は、上司に「この機械に指を巻き込まれたら指が潰れるからな」と注意喚起されて「えー!」と笑いながら感嘆の念を隠し切れないようでした。  昼休みにビビアン・スーちゃんが他の女性同僚達と「平仮名《ひらがな》と片仮名《カタカナ》の『り』『リ』『ソ』『ン』の違いがよく判らない」と紙に書きながら談笑する微笑ましい光景を目撃した日もありましたが、その他にも道端で自転車に乗るビビアン・スーちゃんと出くわして「どこに行くの?」と尋ねたら、目的地を指さしながら「あっちー!」と天真爛漫な返事をされたのでとても和んだ次第でした。  誤ってビビアン・スーちゃんが素材を壁と作業台の間に落としてしまった時には、わざわざ僕を呼びに来て「あれ、取ってほしい!」と、おねだりするので代わりに箒を駆使して落ちた素材を取ってあげたり、ビビアン・スーちゃんが忙しなく仕事に追われた日は上司に指示されてない分の作業も少々過保護過ぎるほど手伝いましたが、僕が一人になった隙に野川さんが来て「はっきり断らないと、彼女に利用されるだけだよ?」と注意されたのでした。  それからまた月日の経ったある日、ビビアン・スーちゃんが仕上げた製品を梱包台の上に荒々しく置いた時に野川さんがビビアン・スーちゃんを眼光鋭く睨んでいましたが、なぜその一時だけ不仲になったのか当時の僕としては理解に及びませんでした。  僕は仕事における効率性の追求や、それに伴う刃や砥石の摩耗速度(品質と量産の両立)に頭を悩ませましたが、彼女は人間関係に悩んでいるようでした。  常日頃から上司は「お前の担当するうちの漉《す》き加工(機械作業)は日本一や!」と語っており、関西随一の業績を誇る同業者からも仕事の代行が回って来るほどの評判だったのはさておき、僕の前任だったベトナム人従業員が8時間で600枚仕上げた作業(頻繁に不良品を出してしまい返品が頻発)も、僕は数ヶ月で1時間につき600~1,000枚のペースで仕上げられるようになって上司に大変驚かれましたが、次第に被差別部落出身の中高年従業員からは「新入りの癖に生意気だ」と噂されるようになっていました。  上司に相談したら、「何十年も加工業を続けてきた職人のプライドもあるから先輩の顔を立ててやってくれ」と言われました。
 確かに、これまで数十年間も職人として勤めたのにもかかわらず、僅か勤続数ヶ月の若造が「メソポタミア文明」や「インダス川文明」を凌駕する先進国の編み出した精密な機械作業に配属され、仕事を教える立場の上司を上回る能率を発揮するのは驚きだったのかも知れませんが、大体「マニュアル化」「機械操作」「小学四年生で習う小数点の付く足し算」は若い方が適正のあることが多いから一任されてしまったのでしょう。
 尤も、危険な上に割に合わない報酬からして今後は若人が好き好んでこのような仕事は選ばなくなるのかも知れません。
 会社によく来る取引先に手を加圧式プレスに挟まれて指を三本ほど失くした者がおりましたが、野川さんと"ふくよかなおばちゃん"はその人を嫌いだと見下していました。
 しかしながら、そういう自分たちも同じく見るも無残な惨状にしか見えないのではとふしぎに思う次第でした。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
AC4 - レイヴン《アナトリアの傭兵》
 政府が統治能力を徐々に失い、それに伴い各地でテロ行為や暴動が頻発していた。それらを鎮圧し、秩序の回復を図るため、軍隊はより強力かつ高度に機械化され、軍に様々な兵器を供給する軍産企業もまた、数社の企業から成る強固な軍産複合体を形成し、その影響力を強めていった。
 加速する世界の破綻により、ついには経済システムが存亡の危機に陥るに至り、新たな統治体制の確立を目指し、実質的最高権力組織となっていた6つの企業組織が、政府に対し全面戦争を開始した。
 後に国家解体戦争と呼ばれるこの戦争は、企業側が投入した最新鋭兵器、特に[コジマ技術]などの最新技術を盛り込んだわずか30機にも満たない新兵器ネクストACによって、数多くの国家軍隊はなす術もなく壊滅し、勃発からわずか一ヶ月程度で、企業側の圧倒的勝利で終結。これにより、企業による統治が開始された。
 企業による新たな統治が開始されてから5年後、世界は様々な問題を内包しつつも表面上での安定を保っていた。
 そんな最中、国家解体戦争で負傷し、ネクスト技術の研究を産業としていたコロニー・アナトリアで療養を受けていたあるレイヴン(旧世代ACパイロット)が、同コロニー内にて保管されていた研究用のネクストを用いた傭兵となったことから物語は始まる――
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚《閑話休題》.。.:*·゚ ✽  正直に言うと仕事中に缶ビールを飲み始める《禿げ頭で帽子を被り眼鏡を掛けた飲んだくれの喋くり爺さん"間寛平"》や、低賃金のためにモチベーションが低くやる気のない様子で作業しつつも専務に「給料を上げてくれ」と直談判する元土木作業員《きれいなジャイアン"野獣先輩"》のルサンチマンを起因とする不平不満はどうでもいいのですが、もし素材を通す際に機械のローラーに手を巻き込まれたら指をズタズタに切断され兼ねないと上司に相談しても「この20年間で一度も手を切断した者はおらんし、労災も下りる!」と斜め上を行く返答で一蹴されるだけでしたので、以前から2tトラック運転手の父が常々言っていたように社会保険の完備された企業に転職するべきではないかと考え始めるようになりました。
Tumblr media Tumblr media
▲2tトラック運転手のイメージ画像
 バブル経済の頃に三十路で結婚した当時の父は、基本給だけでも年収600万円以上でした。当時は20万円のステレオ機器もそれほど高価とされず皆一様に購入していたようです。
 筆者が幼い頃に、父がDeep Purpleの代表曲"Black Night"のレコードを木製スピーカーで聴いていました。
 それを耳にした時に「好き嫌いはおいといて、これが本場のロックか」と衝撃を受けるとともに、日本のテレビ番組に出演するロックバンドが紛い物だと気付きました。
-------
 昭和20年代末。父は長崎市内で代々続く資産家の家庭に誕生しました。しかし、両親が親友だった親戚に騙され、土地・財産を失い離婚してしまいました。
 それから父は祖母の家に預けられて育ちました。
 祖母は貧困生活から、父を連れて死に場を求めましたが「家に帰りたい」と泣きじゃくる父の姿を見て心中を思い留まったのだとか。
 その後、父は長男だったのを理由に、弟と妹の大学までの学費を稼ぐ為に学業を終えると単身長崎から神戸まで出稼ぎに向かいました。
 青年の頃に一度だけ、件の親戚と会って進路について直談判したら「養子になるなら大学までの学費は出す」と交渉を持ちかけられたものの断り、自力で働く道を選んだのだとか。
 フェリーで渡った先に住む件の親戚・先祖の住む島については「唯々、海が青くて美しかった」とのこと。
 一族の仇が、自身の地方固有苗字とかさなるのは皮肉でしょう。
youtube
「ティーダ」とは、沖縄方言で「太陽」を意味します。
-------
 仕事終わりに今後について何度か上司と相談する中で、「つい最近まで仲の良かった在日韓国人の友達グループと喧嘩別れをしたんや」と語られ、おまけに所有する船やクルージングの話をされながら「仕事も趣味も精一杯せいや!」と叱咤激励されたのでした。
 そうして、親戚だという在日韓国人の17歳女子を所有する船に乗せた際に撮影した写真を見せてくれたりもしました。  逡巡の中で、僕がもう少しこの仕事で貢献できたなら、収益が増えて従業員一同の不平不満の種である給与も上がるかも知れないと考え、心を無にして仕事に徹することをその時に覚悟したのでした。
 2008年に催された忘年会のカラオケにて、同僚の"ふくよかなおばちゃん"に誘われて「バンプオブチキン」や「ブルーハーツ」をデュエットしたら、向かい側に座る"野川さくら"が頬をぷくっとふくらませながらこちらを見ていました。
 そうして歌い終えた僕の隣にいきなりやって来たかと思うと、「古い方が好き? それとも新しい方が好き?」と密着されながら問い質されましたが、当たり障りがなく広く一般的に普及するような流行歌には疎いですし、ギターは朧気に弾けても音痴なので注文したジンジャーエールを生まれて初めて飲みながら、今一つその場でも上の空だったように覚えています。  入社当初、野川さんとメール交換してすぐに返信が面倒になり放置した翌日、「こらー! 返信しなさい!」と怒られながらも渋々「三日に一回くらいにしてくれ」とメールを断ってから、数ヶ月ぶりに心が折れそうな時にメールを送信したら「少なからず"〇〇"君にも味方はいるよ」と励ましてもらえました。
 しかしながら、他の同僚に気付かれないようにメールのやり取りを再開してから、野川さんは「ビビアン・スーちゃんは食事の後に爪楊枝を使うからおじさんみたい」と妙に鬱屈とした態度になり、不穏な空気が立ち込め始めたのでした。  そもそも僕にとって飲み屋で無為に酒を飲むことが楽しかったわけではなく、さゆりと一緒に居た時間が幸せだったのだと思い至り、渇いた心がより空虚になってしまいました。  僕より7歳年上の事務員の野川さん(当時27歳)はシングルマザーで、ポケモン好きの子供が二人おり、仕事終わりにメールでポケモンの放送時間を教えてくれたりもしたが、忘年会の席にまで連れて来た子供達に向かって泥酔しながら「うるさい」と言い放つ姿を見て幻滅してしまいました。
 さらに色気付く母親の姿を見てショックを受けたのか、長男に至っては半べそ状態になってしまいました。
 以前に野川さんが「まだ女として楽しみたい」というメールを送ってきたこともありましたが、もう少し母親としての自覚を持って子供達のことを考えてあげてほしいと願うばかりでした。  またある日の朝、いつものように野川さんに挨拶しても不機嫌そうにしていたので、その夜に理由をなんとなくメールで尋ねたら「そういう気分の時もある。もうほっといて!」と返信があったので、言われた通りその日から僕は仕事の話以外はしないことにしました。 「私は普通じゃないからねー!」と毎日メールをくれた野川さんでしたが、当時から自分の独自ルールだった「相手が送ってきた文章量と同じ文字数を返信する習慣」に疲れ果ててしまったのも相成り、わだかまりから「さゆりやビビアン・スーちゃんレベルなら、たとえストーカーと勘違いされても許されるけど」と少し飛躍した喩え話に添えて、彼女が最も気にしている容姿について言及した上で着信拒否にした翌日、彼女は仕事中にもかかわらず泣き出してしまいました。  不真面目な家庭環境に育ち、不勉強な学校生活を送ったブラック人材の集まるブラック企業にありがちな話ですが、管理不行き届きでモラルの欠如した職場の人間関係は更に悪化し続け、彼女は仕事中も怨念のような表情を湛えながら「私のことだけ無視する」「もう好きじゃない……!」「私のことが好きなくせに……私じゃなくて専務……専務のことが好きなの……?」と呪詛を呟き、僕に振られたという噂を社内中に吹聴し、着信拒否にしても別のアドレスからメールを送ってきました。  前述の通り、仕事中に突然泣き出すほど情緒不安定になったかと思いきや、事務室で二人きりになると嬉しそうに話しかけてくるので、女性の心理というものがよく解らなくなり不気味に感じるようになってしまったのでした。
 それから従業員たちによる「凡ミスの連発」と「無断欠勤」が相次いだ影響で、会社独自のルールが徐々に厳しくなり、「一日でも欠勤したら給料1万円引き」などの労働基準法を無視した規則が徹底され始めました。  ある日に野川さんが、"禿げ頭で眼鏡を掛けた40代独身同僚"と口論になり、「すぐに怒ったり笑ったり、ほんま"〇〇"とそっくりやな……子供は不細工やし、チ〇ポは起っとうし……!」と、まったくもってさっぱりよく分からん小言を言われ続けた"野川さくら"もそれに負けじと「"〇〇"君のチ〇ポが大きいのは最初からなのに、自分のが小さいからって人のチ〇ポの大きさをとやかく言うな……!」とまるで僕と以前に何かしらあったような口ぶりで独り言の応酬をしていましたが、それでも僕としては伝票に0.1mm単位で記された通りの厚さに素材をスライスする為に機械を適宜セッティング(刃の位置と水量を調節しつつも素材の固さに合わせて、バネの反発やローラーの高さを調整した上で、定期的にダイヤの原石が埋め込まれた用具(一個5,000円)で砥石を水平に研ぎ、上下にある砥石を刃に当てる際の強さを研磨の音と火花の量で加減し、手に持つ素材の端とゲージの位置が丁度5mm幅になるように指先の感覚を頼りに持って素材を機械に通し、型番ごとに異なる数百種類はあるゲージの保管場所にそれぞれ番号を振った上で全てノートに書き留め、型番の種類と数字の大きさ順にゲージを並び替えて即座に取り出せるように徹底管理し、前任のベトナム人従業員にはできなかった火花の飛ぶ刃の研ぎを行った際は粉塵を放っておくと発火するのでこまめに左右のローラーや配管に詰まった砥石の粉を除去)を行わなければならず忙しなかったものの、それでもさゆりと別れてから心に空いた空洞を埋めるように自暴自棄になりながら取り組んだ指を潰したり切断し兼ねない危険な作業に見切りをつけて他の仕事を探す決意を固めました。
 勿論、社会保険完備が理想でしょう。
■"禿げ頭で眼鏡を掛けた40代独身同僚"のイメージ図("坂本ちゃん")|出典:朝日新聞 AERA dot.
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
「あなたは結局どこに行っても同じ……」
 退職する前に、そんなことを彼女に言われました。  しばらくすると事務員の野川さんや、その恋路を邪魔するべく嫌がらせを繰り返した《禿げ頭で帽子を被り眼鏡を掛けた飲んだくれの喋くり爺さん"間寛平"》も結局は退職し、更には会社が1億1,000万円の所得隠しと脱税で摘発され、新聞の紙面を飾ってしまいました。  今にして思えば僕も彼女も、さびしんぼうだったのでしょう。
0 notes
hiromiaoyagi · 1 year
Text
長野訪問① 飯田ルーム
長野県ルーム訪問①
先日、事務局として、長野県の2つのルームを訪問させていただきました。(青柳裕美は、くれたけ心理相談室の本部事務局としても活動しています) 一つ目の飯田ルームは、くれたけ心理相談室 南信州支部の渡辺恭代カウンセラーのルームになります。 渡辺恭代カウンセラーは、埼玉県から長野県飯田市に活動の拠点を移され、今年、カウンセリングルームを開室されました。 日当たりも良く、落ち着いた雰囲気で、ゆっくりお話していただける空間でした。 周辺の観光もさせていただき、長野県の自然の力を感じました。周囲を山々に囲まれて、山の神に守られている土地のように感じました。 実際にその土地を訪れ、足を運んでみてわかる空気感がありますね。ありがとうございました。 飯田ルームのアクセスはこちらから
Tumblr media
View On WordPress
1 note · View note