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#それは変化し続けるそれはあらゆるものと関係を結ぶそれは永遠に続く
cozy1118 · 2 years
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#それは変化し続けるそれはあらゆるものと関係を結ぶそれは永遠に続く #keepchangingconnectwitheverythingcontinueforever #宮島達男 #tatsuomiyajima #東京現代美術館 #museumofcontemporaryarttokyo (東京都現代美術館) https://www.instagram.com/p/ClJE-1oPZyE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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elle-p · 3 months
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All voice actor comments from the P3 Movies blu-ray
石田 彰 (結城理 役)
「ペルソナ3」が劇場版になって主人公に結城理という名前がついたことで、自分の中で主人公というキャラクターがより具体性を増してきました。
劇場公開当時、各地で舞台挨拶をさせていただいたときにも「今回、ようやく結城理という名前がつきました」という発言はしたのですが、会場に詰め掛けて下さったゲーム版からのファンの皆さんには、今一つピンと来ていないようでした。ここら辺はプレイヤーキャラクターであることの限界かと思っています。
他のキャラクターについては、皆さんおなじみのあのキャラクターが、スクリーン上を縦横無尽に駆け回り、見覚えのあるあのシーン、このシーンが繰り広げられることで「待ってました!」「これが見たかったんだよ~」というある種の達成感というか満足感があるのでしょう。
だから、主人公というキャラクターに対して、やっと結城理という肉付けができたという満足感が得られるのは、主人公を演じ続けてきた僕の特権といえるでしょう。今回、パッケージに結城理とクレジットされていることに日本で一番喜んでいるのが僕です。
豊口めぐみ (岳羽ゆかり 役)
完成した劇場版アニメを見て、まるで誰かがプレイしているゲームを見ているかのような気分になりました。それくらい原作ゲームを大事にされているなぁと思ったのです。
ゆかりの声を初めて収録した日、ゲーム冒頭のチュートリアルシーンもあったかと思いますが、なんだかとにかく凄い量のセリフを、プレイヤーさんにご理解いただけるようにするのに格闘した記憶があります。
あれから数年の時を経ての劇場化。
今回は時間との闘いでした。
年齢との (笑) ということもありますけど、単純に数年前に戻るだけではなく、関係性も0へ戻す。今は知ってしまっていることを、いかに知らないように演じるか。
しかし、ペルソナ3のメンバーは凄いです。
みんなの声を聞いて、あっという間に昔に戻った気がしました。またこの方たちと物語を紡げること、本当に嬉しく思います。
初めて見る方も、ゲームをプレイしてくださった方にも楽しんでいただける作品になっております! いろんなとこにニヤリなものが散りばめられているようです。
劇場で見つけられなかったもの、見つけてみてくださいね。
鳥海浩輔 (伊織順平 役)
祝・劇場版・アニメ化! このお話を最初に聞いた時は本当にうれしかったですね。ゲームの収録からは、もう片手じゃ足りない年月がたっていましたし、ドラマCDやゲームの続編なんかは収録してましたけど、アニメ化はもうP4がやっちゃってたし (笑)。流石にないだろと思っていた、いや、そんな事も思わなくなっていた時に、ですから。この作品は個人的に非常に思い入れのある作品です。もちろん伊織順平というキャラクターも。そんな作品がアニメ化、しかも劇場版ということですからね。「やっちゃうよー俺!」ってなカンジで収録前からワクワクしてました、珍しく。実際の収録も皆さんが一言セリフを言う度に、「ああ、そうそう」みたいな。
なんかとても楽しかったなあ。うれしい事に、劇場版も一本で終わりではないので、観てくださる方達にもたっぷり楽しんで頂けるのではと思います。我々も力一杯演じていきます! まずは、この第1章を堪能して下さいませ。
能登麻美子 (山岸風花 役)
元々ペルソナの世界観にとても魅力を感じていました。ストーリー、映像、作品全体に漂う雰囲気、作品を包む空気感。ありそうでない。ペルソナという作品だけが持つ独特の “何か”⋯。うまく言葉では表現出来ませんが、人を惹きつける力を強く持っている作品だと思いました。
そして、それらの全ては劇場版でも素晴らしい形で表現されていて、初めて映像を見た時、心がとても震えたのを今でも強く覚えています。キャラクターを再び演じることが出来たのも大きな喜びでした。ゲームと同じように、この劇場版も皆様に永く愛されることを願っています。
田中理恵 (桐条美鶴 役)
第3章の公開を目前に控え、第2章のパッケージが発売ですね。勿論、第1章も劇場で見て Blu-ray/DVDでも何度も見ましたが今回の第2章はなんと言っても美鶴のペルソナ召喚ですね。
劇場でも見て、ゲームでプレイして美鶴のペルソナ召喚の時以来の感動でした。第3章の劇場公開を見に行く前にぜひ! また第1章 第2章を何度も見て貰えたらなと思っています。
学園生活をまた主人公と共にもう一度 「ペルソナ3」の世界でやり直す気持ちで演じています。アルカナ・女帝に負けじと今後も第3章でも頑張って参ります。
劇場で見られずに今回から初めて見られるかたも、劇場で見てくださってもう1度、何度も見てくださるかたに感謝の気持ちと今後とも「ペルソナ3」をよろしく! という気持ちと、愛を込めて⋯!
緑川 光 (真田明彦 役)
Blu-ray/DVDお買い上げありがとうございます。
やはり、ゲームから引き続き応援して下さってる方が多いのでしょうか? 長い事この作品を愛して下さって本当にありがとうございます。
正直、「ペルソナ3」 のアニメ化は諦めていたのですが、まさかの劇場映画化と言うことで、めちゃめちゃ驚きましたよ (笑)。
テレビアニメ化だとクオリティが微妙な場合もありますが、劇場アニメなら高水準のクオリティは約束されたも同然ですからね (笑)。
しかも、毎回監督さんが変わるシステムという事で、その都度、見せ方が異なっているのは、とても面白く感じます♪
この辺は劇場で1回見ただけじゃわからないでしょうから、シリーズ通して、Blu-ray/DVDで繰り返し何度も見て頂けると幸いです (^-^)
緒方恵美 (天田乾 役)
「ペルソナ3」 劇場アニメ化を喜びつつ、第1章は映画館でお客さんとして観ていたので、やっと来たか! と嬉しかったです (笑)。
映画の天田はゲームより素直に描かれていて⋯だからこそテストでは逆にスルッと演れてしまったんですが、そんな自分自身にココロのどこかに潜んでいた「天田のカケラ」が違和感を唱え (笑)。
監督や音響監督と相談し、少しだけゲームの雰囲気に近づけることになりました。結果、素直だけどちょっぴり大人びた、思慮深さのある少年になれた気がします。魅力的な原作の中から、時間の関係でエピソードを絞られてしまったのは残念ですが (スタッフの皆様も苦渋の決断かと⋯!)、その中でも必要な静寂や、逆にたたみかけるような部分、更にコミカル・シリアスも絶妙なバランスで配置されていて、変な言い方ですが本当に「映画的」な、素晴らしい作品に。
田口監督以下、皆様のお力で⋯参加させて頂けたことを本当に嬉しく思います。
連作の途中ではありますが、渾身の1本。愉しんで頂けたら幸いです。
中井和哉 (荒垣真次郎 役)
荒垣君とはゲームの収録で出会いました。よもやこんな長い付き合いになるとは思わずに。もちろんそこでも彼は物語の半ばで散っていく訳ですが、別に寂しさはありませんでした。
なにぶんその日に出会って、別れたものですが1回限りのキャラクターとの関係って大体そんなものです。
ところがその後、私は数々のドラマCDで再び彼と出会い、彼の色々な面を知ることになります。今にして思うとそれはまさに劇場版「ペルソナ3」第2章、夏休みのワチャワチャとした雰囲気に似て、多少羽目を外しても許される空間。こういう企画に多くはゲーム本編のムードから外れたお遊びで、楽しくはあっても意味などないのが常なんですが、私と彼にとっては重要な時期になったようです。
やがて絶対に訪れる別れをどこかで意識しつつも、楽しい日々を過ごしていました。
そして時は流れ、ブランクがあって。彼を心の奥にしまっていたところへの劇場版。そのシビアな舞台で決定的な別れを経験した今、私は今度こそ、心底寂しいと思っています。
神奈延年 (タカヤ 役)
「タカヤ」というキャラクターに出会って、もう何年たったのか? 基本は悪役なのでしょうが、彼の生き方は大まかなところでなぜか共感できるところもあるのです。この物語で「終わり」に対しての向き合い方、全てを受け入れ、今を生きる。しかし⋯その生き方に、光ある明日を見出していないところが、この物語での彼の役割たる所以でしょうね。僕はやっぱりこの状況なら、理たちのように抗うとおもいます! タカヤを演じる上に於いて、気をつけたところは、彼の風貌を損なわないように、柔らかく話すようにし、その中に刹那的な思考、そこから生ずる恐ろしさも混ぜてみました。
沢城みゆき (エリザベス / チドリ 役)
この「ペルソナ3」という作品では、私はエリザベスとチドリという二役を演じさせていただいてきました。前者は「発言されているわけではありませんが)いわゆる “永遠の命”、後者は “刹那の時を生きた命”、という対照的な印象があります。この第3章は正にチドリの命の花がパッと咲いた大切な映画となりました。⋯彼女がむかえたエンディングを思うと、散った、と言うべきかもしれませんが側にいた私には不思議と、美しくきらきらとした温かい花を抱いたままの体感が残っています。皆様にも優しく見届けていただけたら幸いです。⋯さて、第4章ではエリザベスさんの⋯いつもとは少し違った? 面が見られるかも?? お楽しみに!
小野坂昌也 (ジン 役)
ジンはおわかり頂けるように大阪弁のキャラクターなのですが、他作品などで演じさせて頂く大阪弁のキャラクターは、だいたいツッコミ役だったりおちゃらけているパターンが多いので、そういった意味で言うと、ジンはなんとなく大人しいキャラクターで珍しいな、と思いました。ただ、大人しいとは言えキャラクター性を出さなければいけないので、性格を作りつつ、他のキャラクターとのバランスをとるのが難しかったです。特にジンは無口というか、あまり話さないキャラクターなので性格が掴みづらかったというのもありました。ゲーム収録時は基本的にキャラクター作りは任されていて自分主導でキャラを作っていけるのですが、アニメとなると全員のポジションとのつり合いをとらなければいけないので、音響監督と微修正を重ねていったのを覚えています。
石田 彰 (結城 理 役)
劇場版「ペルソナ3」にまつわる妄想
結城理にとって劇場版「ペルソナ3」の全4章はデスをその身に封印され、心が虚ろになってしまった彼が、特別課外活動部の仲間達とのふれあいを経て、その中身を満たし直していくまで の過程をたどる物語でした。
理の記憶の甦りという物語構成の妙として、時間軸とそれが公開されるタイミングがズラされていたりしたので、ゲーム版に触れたことがない観客の皆さんは初登場時の理の立ち位置に一種の不気味さを感じたのではないかと思います。そのうえ各章で起こる事件は、例えばゆかりの父親に対する誤解や順平とチドリの一件、荒垣先輩と天田くんの関係など暗くて重いものが多い印象です。しかしそういった明るくてハッピーなものばかりではない、人が内側に抱え込んでいる傷の部分をきちんと描いたからこそ、彼らに出会ってそれを見つめることになる理も、章が進むにつれて、本来、人として持っているべき大切なものを、欠けることなく獲得していけたのだと思います。
劇場版 「ペルソナ3」の全4章が観客の皆さんに受け入れて頂けたのも、ゲームで体験したストーリーを映像で見てみたいという興味の他に、そんな理の見る景色に影響され同調することで、その先の展開が気になったからという部分もあったのではないでしょうか。このように人の心を構成する様々な経験の起伏を描いた劇場版「ペルソナ3」ですが、そもそもペルソナという単語は僕の理解では心理学周辺で出てくるものですよね。
一番初めのゲーム収録でこのタイトルと内容を知ったときに、バトルをするための自分の化身をペルソナと呼ぶなんて、何でシャ レてるんだと思ったものでした。人が対外的に自分を表すためにかぶる仮面。それが敵、自分に向かってくるモノと戦うための武器になる。これは日常のコミュニケーションそのものに見えます。だから、そういうペルソナを本来の意味を考えると、理だけが一つのペルソナの進化という形ではなく、初めから複数のベルソナを使い分けられるというところにも自分なりに納得のいく理屈をつけることができそうです。心の中が空っぽの理には端から対外的にどう見られたいという願望がありません。そんなことは彼にとってはそれこそ「どうでもいい」ことであって、どう見られても構わないからこそ、かぶる仮面を一つに限定する理由がないのです。どうでしょう。自分としてはこの理由付けの仕方、なかなか気に入っています。理が空の器であったと捉えることで、映画の登場人物として物語を展開させていく大きな必然性を持たせることにもなるのです。結城 理の物語はゲームの枠にとどまらず、映画化という展開にも充分耐えうるポテンシャルを持っていた、だから映画化されるのは必然だったというのはちょっと暴走し過ぎでしょうか。暴走ついでに、第4章『Winter of Rebirth』のクライマックスシーン。これまでの経験を経て、一度無くした人間性を取り戻し、中身を満たすことができた理は、かつて母親が自分にしてくれたように、仲間を生かすために自分の命を投げ出すという境地にまで達します。そこには第1章『Spring of Birth』の頃の己の死の恐怖に対するどうでもよさから来る蛮勇はありません。自分たちが存在した証を守り残すという全員の目標を果たすために、理は自分を満たしてくれた、自分を再構成するためのエレメンツをくれた仲間と彼らが生きていく世界を、今度は自分が数おうとしました。そしてそれが自己犠牲的発想に基づく行動だったのは皆さんも感じられた通りです。そのために数多くのペルソナという仮面をかぶることができる理が、ことごとくそのペルソナを打ち砕かれ、最後はその仮面をかぶらずに先へ進む。これはなかなか象徴的なシーンだとは思いませんか。
「生きろ」と自分に伝えてくれた母親と同じ言葉を仲間に託していく。母親が我が子を思う母性愛が、究極、無上のものであるならば、仲間たちとの間にその無償の愛情を注げるまでの絆を楽いた理の内面は、完全に人間としての形を取り戻したと言えるでしょう。それに加えて、ペルソナという仮面をかぶらない形でしか最後のステージに上がれないという仕掛けが用意されているわけです。これはニュクスという究極の敵、環境、世間に立ち向かえる力を宿す場所はその人の本質的な部分にしかない、虚飾の仮面を被った姿では無理なんだというメッセージにも見えるわけです。また、敵を倒すときにはペルソナという仮面をまとい、大切な人を守るときには自分の素の姿をさらけ出すことが必要だったという構図も暗示釣です。自分なんかはとてもじゃないけれど素の自分をさらけ出したところで強さに結びつくとは到意思えないと言いたいところですが、一度リセットされ、新たに経験を積み直した理は、人より先に一つ上のステージ、命の答えに到達しているのです。もはや凡人ではありません。フィクションとはいえ、影時間でシャドウと戦う使命を与えられたのが理達で良かったとつくづく思います。もしも僕だったとしたら、命の答えにたどり着くのはまだまだ先のことでしょうから、世界は予定通り1月31日に終わっていたでしょうし、そうなったらこの妄想が世に出ることもなかったでしょう。そう考えるとそれもアリだったかもしれませんけどね。
坂本真綾 (アイギス 役)
アイギスというキャラクターに出会ったのは、もう10年も前のこと。まさかこんなに長い年月を一緒に過ごすことになるとは、当初は思っていませんでした。多くのペルソナファンの皆さんに愛されて、このたび映画という形でもう一度みなさんに再会することができました。大きなスクリーンでアイギスや、大好きなキャラクターたちが活き活きと動きまわる姿を見ることができ、とても嬉しかったです。彼らが絆を築き上げていく過程、真正面からお互いにぶつかっていこうとする姿勢に何度も胸打たれました。
アフレコの度に感じたことですが、この作品に関わっているスタッフさんや、キャストの皆さん、本当に作品への愛情が深くて、とても喜びに満ちた表情で収録に臨んでいらっしゃいました。その雰囲気は、完成したフィルムにもきっと滲み出ているのではないかと思います。
ついに完結となり、寂しさもありますが、達成感のほうが大きいです。アイギスと出会えたことに改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
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kaoriof · 4 months
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(昔の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いの��、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題 
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おま���についこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと最近思う。自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分たちは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあげたほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが���なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいかなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速す���だけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。ただ自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速さ��る理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわた��はほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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monthly-ambigram · 19 days
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2024-9月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「くりかえし」です◆
今月は参加者の皆様に「くりかえし」のお題でアンビグラムを制作していただいております。今月もバリエーション豊富なアンビグラムが集まっておりますので、ごゆるりとご鑑賞ください。
今号も失礼ながら簡易的なコメントとさせていただいております。皆様のコメントがいただけますと幸いです。
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「人間関係RESET症候群」 鏡像型:かさかささぎ氏
何度も繰り返し人間関係をリセットするような行動・心理状態のこと。 長い言葉をうまく配置して対称形に落とし込んでいますね。「RESET」部分が難しいと思いますが矢印を含んだ図案的な解決方法がステキです。
 
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「別れの幸せは誰のものでもない」 回転型:結七氏
谷川俊太郎「くりかえす」の一節。 ドット表現が可読性を高める良い効果を出していそうです。行頭に可読性のアクセントがあると解読しやすくなりますね。
 
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「この広告ばかりだ」 回転型:T.A.氏
ターゲッティング広告の仕組みにより同じ広告が繰り返し表示される事はよくありますね。 殴り書きのような書体のおかげで読みやすくなっているようです。文字送り方向の工夫も申し分ないですね。
 
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「同じ過ち」 図地反転型:ヨウヘイ氏
繰り返すものの代表格。 塗りつぶしても問題なところをうまく処理すると「同/過」がぴったり図地反転の関係になることに驚きです。
 
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「4サイクルエンジン」 図地反転回転型: いとうさとし氏
吸入・圧縮・爆発・排気の4工程を繰り返す内燃機関。 濃度が滑らかに変化しているように見えるデザインのせいか図地反転の切り替わりが見えにくく、アンビグラムと分かりにくいですね。
 
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「RECYCLING/りさいくりんぐ」 振動型:kawahar氏
資源を回収して再利用すること。 氏得意のバイリンガルアンビグラム。複数の言語でそのまま読めるアンビグラムは実用性が高いです。
 
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「不老不死」 回転型:ラティエ氏
いつまでも老いもせず、死なないこと。 かすれ表現が言葉の雰囲気に合っており、字画の余り部分の処理としてもマッチしています。
 
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「反復記号」 回転型:Jinanbou氏
楽譜で使用される、リピート、ヴィーデ、ダルセーニョなどの記号。 繰り返し記号のほか音符も使用して文字を表現した楽しい作品。記号もヒントとして読み解くタイプですね。
 
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「雪片曲線」  回転型:lszk氏
コッホ曲線を三つ繋げたものをコッホ雪片・雪片曲線と言ったりします。 コッホ曲線になっている線分の箇所が直線と曲線で振動するため、脳が自動的に読みたい方で読んでくれます。
 
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「敷詰回転」 敷詰回転型:ちくわああ氏
自己言及的な作品。 回転も含んだ二次元敷詰は設計が難しいのですが、少し離れたところから文字を拾うときれいに敷詰できるのが面白いところです。
 
 
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「不敗神話」 回転型:.38氏
とある選手に関わる特定の事象が発生すると試合に負けない、という結果が繰り返されることで言われることになります。 氏らしい楽しい書体で4文字とも絶妙な調整で読めるのがさすがです。「∞」のような部分はいつまでも続いてほしい祈りのようにも見えます。
 
 
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「個体発生/系統発生」 回転共存型:うら紙氏
「生物発生原則」を簡単に「個体発生は系統発生を繰り返す」と言うところから。 言葉のチョイスが面白いですね。ドット表現に加え文字の変形の工夫も見所です。
 
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「100万回生きたねこ/佐野洋子」 回転共存型:兼吉共心堂氏
輪廻転生を繰り返す猫が主人公の絵本。 「100万」がかわいらしいです。「生きた/野」のハマり具合が自然ですね。
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「頻繁」 図地反転回転型: いとうさとし氏
物事がとぎれずに重ねて起こる様子。 読みやすくて素晴らしいですね。「糸」部分がかわいいです。
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「循環小数」 敷詰回転型:繋氏
小数点以下のある桁から先で同じ数字の列が無限に繰り返される小数のこと。 どの文字も読めるのに作字的に面白い形状になっていますね。この対応を設計するのがすごいです。
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「反復試行」 鏡像型:オルドビス紀氏
同じ条件のもとで同じ試行を繰り返すことで、確率論で出てきます。 「復/試」は一目斜め対応は無理そうに見えますがストロークの長さの調整でしっかり読めるようになっていますね。
  
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「急速充電器」 図地反転回転型: いとうさとし氏
充電器はとにかく繰り返し使われますね。 こちらも読みやすいですね。「器」のような特徴的な文字は「口」を塗りつぶしてしまっても読みやすさは変わりませんね。  
 
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「ことばのおばけがまどからみている」 回転重畳型:つーさま!氏
フロクロ氏の楽曲より。左右のコーラスが入れ替わって繰り返されるところからの連想でしょうか。 これだけ長いと流れで読ませることになることが多いですが、一文字ずつ見てもほとんど読めてしまうのが驚異的です。
 
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「永劫回帰」  回転型:lszk氏
ニーチェの思想で、この世界は全てのものが全く同じように永遠にくり返されるとする考え方。 読める字にするための文字の大きさのバランスのとり方が巧みです。  
 
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「禍福は糾える縄の如し」 回転型:douse氏
災いと幸せとは表裏一体であり、ぐるぐると交互にやってくるもの、という意味。 偏と旁のずらし具合も計算されていて、絶妙に読めるバランスになっています。糸偏の入れ替わりが楽しいです。
 
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「単純作業」 旋回型:螺旋氏
流れが決まっている作業で、多くはルーチンワークでしょうか。 字形の統一感が素晴らしいです。「単」の字形に驚きました。
 
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「もしかして:盥回し」 回転型:超階乗氏
「たらい回し」で検索して表示されるものを想定。結局たらいまわしされているというやつですね。 ゲシュタルトの統一がされていてよいですね。この文字列で回せることが素晴らしいと思います。  
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「ニュートンの揺籃」 回転型:Σ氏
運動量保存則と力学的エネルギー保存の法則の実演のために作られた装置。衝突球とかカチカチ玉と言ったりします。 姫森ルーナ型できれいに対応付けされていますね。カチカチ玉を彷彿させる円形のモチーフがデザインに生きています。
 
 
 
最後に私の作品を。
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「堂々巡り」 敷詰鏡像型:igatoxin
逆さになったり裏返しになったり堂々巡り。 縦書き0度と180度を適切に並べて斜めに裏返すと同じ敷詰図形になります。
 
 
 
お題 くりかえし のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は「読書」です。読書の秋、小説、文学少年、芥川賞、積読、感想文、速読、擬似体験、知識、読書離れ など 参加者が自由に読書というワードから発想 連想してアンビグラムを作ります。
締切は9/30、発行は10/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー}   2月{TV}        3月{クイズ}        4月{健康}   5月{回文}    6月{本}               7月{神話}   8月{ジャングル} 9月{日本史}     10月{ヒーロー}     11月{ゲーム}         12月{時事}
2024年 1月{フリー}        2月{レトロ}   3月{うた}         4月{アニメ}   5月{遊園地}     6月{中華}          7月{猫}     8月{夢} 9月{くりかえし}   
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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ari0921 · 1 year
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我が国の未来を見通す(77)
『強靭な国家』を造る(14)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その4)
宗像久男(元陸将)
─────────────────────
□はじめに
 前回、字数の関係で先送りした“論点”を先に紹
介しておきます。先日、都内某駅前の道路を歩いて
いた時、ある建物の入り口いっぱいに「軍拡より生
活 平和な未来を」と2行にわたる大きなポスター
のような看板が目に入ってきました。確かにそのよ
うな主張する政党などもありますので、政党か何か
の建物かと思って注意深くみてみますと、何と、立
派な“病院”でした(細部はあえて省略します)。
しばらくの間、「病気やけがを治し、人の命を救う
病院の玄関にふさわしいのだろうか」との疑問が頭
から離れませんでした。
最近、沖縄の与那国島では「自衛隊が来たからミサ
イル攻撃の目標になるのが怖い」と発言する住民の
声があたかも島民の大多数の考えのように報道され
たり、石垣島では「自衛隊を人口に含めるな」との
某地元紙の社説も波紋を呼びました(さすがに後日、
謝罪記事を掲載したようですが)。
現役時代から、何度もこのような主張を耳にしてき
ましたが、立場上表立った反論はできませんでした。
今はもう“失うものはない”ので、あくまで個人的
な率直な印象のみを述べておきたいと思います。
病院の看板は、「軍拡、つまり防衛力を増強すれば、
生活が苦しくなり、平和も壊れる」と言いたげなフ
レーズですが、逆に「軍拡さえしなければ、生活が
豊かになり、平和も続く」と信じ込んでいるのでし
ょうか。
言うまでなく、防衛力を増強し、自衛隊を国土の隅
々まで配置する目的は、現在の国民の生活や我が国
の平和が永遠に続くよう万全を尽くすとともに、万
が一にもそれが侵されそうな事態になった時には、
まさに“病院が病人やけが人を治す”ように、被害
を最小限にするための処置です。つまり、上記のフ
レーズは、言葉を代えれば、「病院があるから、病
人やけが人が出る」と言っていることと同じなので
す。優秀な医者の先生方の集まりである病院がなぜ
そのことに気がつかないのか、不思議でなりません。
残念なのは、このような方々は、「普段の生活や平
和がどうやって維持されているのか」などには全く
考えが及ばず、それどころか、「何も抵抗せずにし
て外国に占領されても、普段の生活や平和が維持で
きる」と勝手に思い込んでいる節があることです。
古くは欧米列国の植民地、現在でも中国の占領下に
あるチベットや新疆ウイグルで何が行なわれている
かを知れば、そのような考えは一挙に吹っ飛ぶはず
です。
関係しているマスコミ人も同様の認識なのでしょう。
「表現の自由」を盾に、「自衛隊がいなくなれば、
簡単に占領されてしまう可能性がある」ことなどに
は全く思いが至らず、“思慮が至らない”街中の声
をあたかも真っ当な意見のように報道するのだと思
います。
我が国は、戦後70年余りの間に、どうしてこのよ
うな“能天気な大人たち”を大量に輩出してしまっ
ているのでしょうか。それでも、一般の国民の皆様
には正確な情報が届かず、学校でも教えられず(た
ぶん、逆のことを教えられ)、国の防衛などについ
て考える機会も余裕もなかったと言い訳ができるこ
とでしょう。
しかし、一部のマスコミや政治家、そしてその道で
は優れた知見をお持ちの高名な有識者の中にも同じ
ような思想を持っている人がかなりおられるのはシ
ョックです。一例を挙げましょう。最近、手に取っ
て読ませていただいた1冊に『主権者を疑う』(駒
村圭吾著)があり、「主権者とは何か」を考えさせ
てくれる、私に取りましてはとても興味深い1冊で
した。
しかし、その「はしがき」には、「改憲と言う重大
なプロジェクトの前提となるような、“今そこにあ
る危機”や“忍び寄る危機”がどうしても見当たら
ない。少なくともそれらが“国民に共有される”よ
うなかたちで議論が展開されていない」として、著
者は、「憲法改正を否定しているわけではないが、
私が否定的なのは、意味不明な政治状況で改憲が提
案され、議論されることに対してである」との立場
を述べていました。
ことさら批判する気はありませんが、正直、「これ
ほど優秀な方が、またこれほど勉強しているのに、
もったいないな」との印象を持たざるを得ませんで
した。書籍を発刊するような有識者は、少なくとも
国民を誤って誘導するような言動は厳に慎むべきと
思いますが、現時点においても我が国には様々な課
題が山積しており、近未来も、遠い将来も、国内外
の情勢がますます厳しくなる可能性が大と考えます。
一方、これほどの「危機」が差し迫っていても、
“眼をふさぎ、耳を閉じ、関心を持たなければ”何
も見えません。そして、そのような自分自身を、不
勉強とも、偏っているとも、恥とも思っていないこ
とでしょう。
私が「もったいない」と考えたのは、少しでもそれ
らに気がつけば、また違った視点で「主権者」につ
いて解説できたのではないか、と考えたからでした。
このような認識の方々から導かれる結論は、せいぜ
い「今のままで何が悪いのか」でしょう。かなり多
くの政治家、マスコミ人、有識者、そして我が国の
未来などに関心もなければ考えたこともない、大多
数の国民はこのような認識で留まっているものと想
像します。そして、そのような“現実”を知ってい
るから、小室氏のような方でも“歩き出す”で止ま
ってしまったではないでしょうか。
我が国の最大の課題・問題点は、小室氏が「アノミ
ー」と表現した社会現象に代表され、かつ「権利の
み主張し、義務を果たさない国民」とか「3メート
ル以内しか関心がない若者」と揶揄されるような、
多くの日本人の「行動原理」にあると考えます。そ
れが「政局と選挙しか考えない政治家」とか、自己
主張に固守し「目立つことしか考えない言論人」な
どを生み出し、それが巡り巡って、このような現状
を“矯正”できない主要因となっていると考えます。
よって、少数の先見者が様々な形で警鐘を鳴らして
も、あるいはウクライナ戦争のような具体例をもっ
て注意喚起してもほとんど届かないのでしょう。
我が国が少なくとも現状程度の「国力」を保持し、
国際社会で「名誉する地位」を保ちながら、後世に
この日本を残すために、私たちの世代がやらなけれ
ばならないことは、「国力」の要素のどれ一つとし
て簡単なものはないと思います。どうしても「ソフ
ト・パワー」として、個々の要素を束ねて向かうべ
き方向を定める「国家戦略」のようなものが必要と
考えていた矢先でした。
偶然にも「戦略は統治を超えられない」という言葉
を見つけ(『軍事と政治 日本の選択』(細谷雄一
編)より)、再び立ち止まりました。歴史を振り返
ると、大正時代の政治家や有識者たちも当時の内外
情勢の変化などに無頓着で、主に大日本帝国憲法に
謳われている我が国の「統治機構」がこのままでよ
いのか、などには露ほども思いが至らなかったよう
ですが、それが「激動の昭和」を迎える大きな要因
にもなりました。
見方によっては、大正時代と現在は“よく似てい
る”と考えますが、最大の違いは「主権が国民にあ
る」ことでしょう。つまり、最終的には、どうして
も“統治”の主役である「主権者」の「行動原理」、
その基となる「国民の精神」に行き着くのです。
「戦略は統治を超えられない」は、改めて、「現憲
法下で我が国は未来へ立ち向かうことができるのか」
を私達に突き付けているような“重い言葉”となっ
て響いてきます。そしてその先に、大方の“能天気
な国民の精神”を、戦争や天変地異や外圧に委ねる
ことなく、“内側からの改革”として、どのように
変えていけばよいのだろうか、という命題に突き当
たるのです。
細部はいずれまた触れることにしますが、またして
も「任重く道遠し」の感を一層強くしながらも、気
を取り直して、今回以降、再定義した「国力」のそ
れぞれの要素を分解しつつ、我が国が向かうべき方
向、私たちの世代があらゆるものに優先してやるべ
きこと、やらなければならないことを微力ながら導
き出そうと思います。
▼「人口」が「国力」に及ぼす影響
「はじめに」が長くなりました。さっそく 前回取
り上げたように、「国力」の柱となる「ハード・パ
ワー」のそれぞれの要素から考えてみましょう。そ
の筆頭は「人口」です。
これについては、本メルマガの第1編で18回にわ
たり、様々な角度から割と詳しく分析し、書き綴り
ました。興味ある方は、バックナンバーをお読みい
ただきたいと思います。それにしても、最近、「少
子化対策」などを取り上げる記事や解説が目立つよ
うになりました。「少子化」などの文字自体が多く
の国民の目に触れることはとても良いことと思いま
す。
私はすでに、「少子化対策」として「“3人産んだ
ら家が建つ”くらいの超異次元の政策が必要」と主
張しましたが、マクロ経済学の専門家・小黒一正氏
も「第3子以降、1時金1000万円に」と抜本的
な対策を提案していました(産経新聞6面(7月9
日朝刊))。小黒氏は、「“既婚者にさらに一人で
も多く産んでもらう”『有配偶出生数』を引き上げ
ことに資源を集中すべき」として、そちらの方が婚
姻率などを高めることなどより“近道”としていま
す。
最近、マスコミでは「500万円の壁」が話題にな
っています。内閣府の資料では、男性の有配偶者の
年収「500万円」が“子供を持つかどうかを分け
る最低ラインになっている”とのことです。一方、
既婚男性の年収は400万���台が最多で、不足分は
共稼ぎによって「500万円の壁」を突破している
ようですが、そうなると、出産・子育てを機に仕事
を辞めざるを得ないケースも珍しくありません。
すでに、パパ育休制度の推進とか児童手当の増額な
ども「こども未来戦略方針」に盛り込まれています
が、「月額数万円を増額したことで結婚や出産に踏
み切る人は少数派だろう」と分析されていることも
事実です。その対策として、公務員やサラリーマン
など社会全体で、“子育てが終了した世代の賃上げ
は抑制してでも、若者世代の賃上げを優先する”よ
うな、思い切った給与制度の改善なども必要なので
しょう。
イマイチ盛り上がりに欠けることに危機意識を持っ
たのでしょうか、岸田首相は、「政策を気兼ねなく
活用してもらうために社会が変わらなければならな
い」として、「少子化対策国民運動」をスタートす
ることを決意したようです。
しかし、今後、この国民運動が盛り上がるかどうか
は疑問でしょう。「どうやって社会自体をかえてい
くか」の提示もなければ、「最近の支持率低下を防
止するためのその場凌ぎ」などと揶揄されているよ
うでは、首相の“発信力(本気度)”が国民に届く
可能性が低いように思えてなりません(読む限り、
関連記事も1回のみでした)。
メルマガですでに取り上げましたが、我が国は、非
嫡出子が2.3%と50%を超えるフランスや北欧
諸国などと比較してとても低いことを例示しながら、
「日本の『少子化』の原因は、『直系家族病の病』」
だ」とするような意見(『老人支配国家日本の危機』
(エマニエル・トッド著))もあります。
トッドは、「核家族」化が進んできたとはいえ、
「日本に依然として強く残っている『家族』の過剰
な重視が『非婚化』や『少子化』を生み、逆に『家
族』を消滅させてしまっている」というのです。そ
の対策として、欧米のように、子育ても老人介護も
公的扶助によって「家族」の負担を軽減させる(ほ
ぼゼロにする)必要があると提言します。
これは、後に述べる日本の「文化」の問題でもある
のですが、「人口」は「経済力」と正比例の関係に
あることから、「国力」維持の“一丁目一番地”と
も言えるでしょう。その「人口」を確保するために
は、我が国の伝統的な「文化」の領域にまで踏み込
んで考える必要があるという点には私も同意です。
さて、「人口」の中の要素の「人的資源」について
これまでほとんど触れませんでした。世界に誇れる
「ものづくり」の精神や技術、及び(すでに紹介し
ましたような)無形の価値としての「インタンジブ
ルス」のようなものはすべてこの「人的資源」に包
含されると考えます。
一方で、後に詳しく述べる「教育」の実態や最近の
若い世代の価値観、そして「働き方改革」などによ
って大きな曲がり角にある雇用環境など考える時、
「将来の『人的資源』は大丈夫だろうか」との懸念
を払しょくできないことも事実です。
「少子化」になればなるほど、一人ひとりの「真の
力」が試される機会が増えることは間違いないでし
ょう。幸い、AIをはじめデジタル化やロボットの
活用など、人的資源を補完する資源が増える傾向に
ありますが、それらを有効かつ適切に使いこなすの
は何と言っても「人間」でしょうから、「人口」の
質的側面の尺度としての「人的資源」は、“その時
代時代に適合する人材をいかに多く抱えるか”に集
約されると考えます。そのような視点に立った教育
や人材育成が求められてきていますが、それぞれの
“現場”はどうなっているのでしょうか。この続き
は、「教育」のところで触れたいと思います。
「高齢化」の問題点については第1編で詳しく取り
上げましたので省略しますが、焦点は、“「少子化」
がさらに加速すれば、国が滅ぶ”との「危機意識」
を全国民が共有できるかどうか、そしてどのように
して共有するか、にかかっていると考えます。
このような発言をすると“袋叩き”に遭うような気
もしますが、かつての日本には「産めよ、増やせよ」
という時代があったのです。この後に「地に満ちよ」
と続くフレーズは旧約聖書の言葉ですが、大東亜戦
争最中の昭和16(1941)年1月22日に閣議
決定されました。いわゆる“敵国”のフレーズをそ
のまま引用して人口増加を目論んだ当時の為政者た
ちは相当先の日本まで思い描いていたことでしょう。
今では、「軍国主義の象徴的な人口政策で、個人の
権利を侵害する決定であった」旨の批判もあります
が、翌日の「朝日新聞」1面は、「日本民族悠久の
発展へ」の大見出しで本閣議決定がトップ記事で紹
介されていました。敗戦はしましたが、この「唱導」
(当時は、このように呼んでいました)のもとの国
民精神が全国津々浦々に行き渡り、終戦時の約7千
2百万人から、終戦直後のベビーブームを含めて、
現在の1億人を超える大国になるまで成長させたの
でした。
ちなみに昭和26年生まれの私は、7人兄弟の末っ
子ですが、私たちの親の世代は、終戦後の食料事情
が極端に悪い中でも、我が国の未来のために子孫を
残してきたのです。「時代が違う」と言えばそれま
でですが、戦争を体験した世代のご苦労に比べれば、
「500万円の壁」などはさほどの障壁ではないと
思ってしまいます。要は、国民がこぞって「危機意
識」を持つかどうかにあると私は考えます。
そのためには、目先の「少子化対策」とか、言葉だ
けが先行している「こども未来戦略方針」などの内
容では何とも不十分で、冒頭に述べたような、「国
の形」を問う「国家戦略」の範疇に及ぶものと考え
ます。それについてはのちほど取り上げましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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ロンドン・ブリッジ・ブルー
ブログ開設から10年(と2か月)経った。10年よくも続いた、というのがわたしの感想である。直近5年は年に3,4回しか投稿していないものの、本数が減るにつれ長文化して作文に時間もかけているので、これはこれであり、と思っている。
10年の間に、“初めての挫折”、学部卒業を経て、渡英し修士課程・博士課程と進んで20代丸々たっぷりと学生をさせてもらったが、わたしはこの前の7月、ついに学生生活を終えた。
博士課程の終わりはちょこっとややこしい。論文を提出し、口頭試問を受ける。人によってはそのままの合格が認められるが、大抵は論文の修正というものが言い渡される。わたしも例に漏れず修正期間を与えられて、試問中に議題に上がった箇所の精度を上げることに勤しんだ。
わたしが修正の合格、すなわち卒業見込みのキューを出してもらえたのが実は3月のこと。その後印刷・製本そして納本を経て学位確定したのが卒業式の10日前、6月末だった。ただこのタイミングは人による。
なぜわたしが3月にキューを得たかと言うとビザの兼ね合いだ。学生ビザの期限が3月の28日であったため、なんならここに間に合うように調整した。本来であればわたしの修正の期限は5月であったが、ビザありきで修正を急いだし、関係各所をせっついた。試験官を急かして審査の結果を左右したらいけないと、試験官との間に入る世話人を学校からあてがわれたりもした。
卒業生ビザを得て留まるか、ここで本帰国をするか、本当は腹が決まりきっていなかった。卒業生ビザを申請できる要件を自分は偶然にも満たせる立場にいて、あのときの気持ちを正確に言い表すなら「その選択肢を捨てる勇気を持てない」というのが近い。この2年くらい悩んできた「卒業生ビザか完全帰国か」の天秤はこの期に及んで揺らぐばかりであったが、最終的な決め手は「今こちらで慎ましく暮らす程度の収入源は見込める」ことと「一度学生でない立場でロンドンに身を置いてみたい」という理由だった。これまでは学生ビザが足枷になって、大手を奮って演奏活動をできたわけではなかった。
5月締め切りのほうを生かして学生ビザを延長するという方法もないわけではなかったが、それには申請料がかさむ。イギリスのビザは申請するビザの年数に限らず申し込み1件につき一定の申請料がかかる。3年間有効の卒業生ビザを見越して用意していた高額な申請料を、たった2か月の学生ビザ(延長)に充てることは考えたくなかった。そうしたら、その先で卒業生ビザを申請する資金はない。
とはいえ、延長しか選択肢がないならそれもそれで運命か、と思った。そちらで申請料を使う羽目になったら、これを完全帰国の機会と受け止めよう。そう思って、3月初めに修正した論文を提出した。結果を待つ間あまり生きた心地はしなかったが、3月末に人生初の学会参加を控えていたので、そちらの準備で気を紛らわせた。そしてもし審査に合格した場合 ー 卒業生ビザを申請できる状態になった場合に備えて、できる限りの準備をしていた。
3月18日夕方に、修正が認められたと知らせが届いた。そこからは事前のシュミレーションに則って卒業生ビザの申請を進める。まずは学校から移民局に申請作業があり、移民局からの返事を待って、本人の申請作業に入る。
移民局からの返事は21日に来た。本人による申請プロセスのほとんどは前年に行った学生ビザの延長手続きに酷似していたので難なくこなしたが、ひとつ大きな想定外があった。
イギリスは2018年ごろからビザをプラスチックのカード(BRP)で発行していた。しかしBRPカードは2024年末の廃止が決定したため、2023年分のビザ申請から徐々にカードが発行されなくなりeVISAに移行していた。わたしは2023年の学生ビザ申請時にその数%のeVISAにヒット、ゆえに2024年の卒業生ビザ申請時には“手元にBRPカードがない”状態になってしまった。
これが厄介で、なんとわたしは新たにBRPカードを作る必要があり、そのために指紋と顔写真の提出に“行かなくてはならない”と申請画面に言われてしまったのだ。そして、指紋と顔写真のためには別途(ほぼ行政みたいな)民間企業の施設に赴く必要があり、そのセンターはスロットの予約が必要であった。わたしはその予約に翻弄されることとなる。
わたしの場合、まず自分が“センター予約が必要な人間”の条件に当てはまると気づいたのが電子申請画面の本当に最後の最後であった。前年に延長して“カードなし=最新の状態”になっていることに過信があった。最新すぎて、申請時に“eVISAの人間が新たなeVISAを得ること”があまり想定されてなかったのだと思う。
申請フォームの最後で、申請料を払い、国民保険料を払って、なんならクライマックスを終えたくらいの気持ちになっていた。前年にはこの支払い画面の挙動に振り回されて、というのは外国のクレジットカードが使えなかったせいで入力した前情報がクリアされてふりだしからやり直しというのを数回おこなったので、まずそのトラップを避けて通れたことにやや優越感すらあり、そして何とか工面した高額の申請料・保険料を支払えたことへの安堵と達成感でいっぱいになった。
そんなときだ、センターに行けと言われたのは。このとき3月22日金曜日。手持ちのビザの期限28日までに申請が完了すれば良いらしいし、払うものは払ったし、大丈夫でしょう、行政関係の申請が週末に動くことはないしね ー そう思って週末の学会に気持ちを切り替えた、ビザのことは週明けで良いでしょう、と。ちらっと確認した限りでは、指紋センターの無料枠は毎日朝8時に解放されるらしいと理解して、月曜8時にスタンバイすることにした。
月曜日、25日。8時をそわそわと待って指紋センターの予約表をのぞくと、信じがたい景色が広がっていた。わたしの理解が甘かった。予約枠には無料のものと有料のものがある。日付が近いところは有料ばかり、何より有料でも空いてない。無料スロットが毎日ちょこっとずつ解放されるのかと思ったら、解放されるのは毎日28日後の分で、今日明日のスロットが直前に無料になることはないのだ。
さっと目を走らせたところ、自宅から足を伸ばせる範囲での直近の空きは1週間後のようだとわかった。ビザの支払いから75日以内(だったと思うがもはや忘れた)に指紋などを提出することと書いてある。ひとまず1枠確保して、画面を閉じる。ー もうこれで今できることは全部やったはず、いいんだよね?
しかし翌朝になって不意にひらめいたのだ。もう一度申請画面を確認する。申請は指紋と顔写真の提出を持って完了とする。待てよ、支払いと指紋の間には最大75日くらい空いても良いとして、それとは別に、わたしの置かれた状況《学生ビザが切れる日までに申請を完了させる必要がある》ではやはり3月28日までに指紋も出さなくてはいけないのではないか…?
先述の通りカレンダーに今日明日の空きはない。しかしわたしも伊達にビザ申請を重ねてきたわけではなく、過去3回の経験がものを言った。この国のビザ申請は、何かと課金コースがある ー そしてそれは指紋センターにも通じるルールだった。VIPサービスのカレンダーが別にある。先に予約したスロットの5倍くらいの値段で、今日3月26日午後のスロットがあった。むしろほかにはいくら積もうとも空きがない。
この瞬間、走馬灯の如く一瞬でいろいろなことがよぎった。この数万円の申請料をケチった場合に失うのは目の前の3年ビザだけではなかった。これまで在英した7年半とその3年を累計すれば届くかもしれない永住権申請の要件がチラつく。この申請に失敗すればもちろん完全帰国よりほかない。この卒業生ビザを申請できるかどうかは、その先の人生をガラッと変えてしまう。
ほんの一瞬ののち、涙を呑んで支払った。目の前のスロットを逃して、この数万円より大きな額の申請料が無駄になることも怖かった。そして急いで支度をして、ビザのカードに載るのに耐えうる身なりを整えた。あまり食欲もなかったが、食べないと途中でブっ倒れるとも思った。でもなんだか冷蔵庫にろくなものもなくて、残りものを適当に調理してかっこんだ。
指紋センターでは笑ってしまうくらい丁重に扱われた。そりゃあVIP枠だからね。ところが写真を撮る段になって、前髪は全部上げてくれと言う。前回は前髪あっても大丈夫だったんだけどな…と思いながら、家で小綺麗にセットしたはずの前髪を雑にかきあげて写る羽目になった。もはや提出できるなら何でも良かった。VIP価格を支払っただけあって、オプションには「指紋と顔写真が確かに移民局に届けられました証明書」が含まれていて、センターをあとにして程なくメールで届いた。ご丁寧な装丁だったが、もし申請が却下されたときにこれがどれだけの力を持つものだろうかと考えると茶番にも思えた。とは言えどうにかなるだろうと楽観視する気持ちもあれば、申請がだめになってしまうかもしれないという心配に押し潰されそうになる自分もいた。
3月も末だというのに春の気配が遠く、わたしはやや小雨が吹き荒ぶイーストの街に放り出されて、半端にかきあげられた前髪がもっと荒れた。その足で数時間後には生徒さん宅に向かわねばならず、街で時間を潰す必要があった。東京はこんなとき、ターミナル駅に行けば駅ビルに本屋やブティックがあるものだが、ロンドンでは夕方の時間の微妙な暇つぶしに困る。カフェや商店は17時を過ぎるとバタバタと閉まるからだ。こんなふうに東京を恋しく思うならなぜビザを取ろうとしている?? あてどなく歩くうち、そこからテートモダン(美術館)なら閉館前にたどり着けるかもしれないと思い立ちロンドン・ブリッジに足をかけるが、風があまりに強く冷たくて気持ちが荒んだ。
そして思った。ビザを申請できる立場自体がそもそもとてもラッキーで幸運なことなのに、どうしてこうもどんよりとしているのか、と。その段階では機会を不意にしかねない恐怖が大きかったのが1番の理由であろうが、ではいざこの申請がうまくいったとして、橋の上だけでもこんなに人間がいるこの大都会で、わたしは一体何者として生きていくんだろうと思ったらどんどん不安が増した。
でもそれは“未来に対する恐れ“である。世界のどこにいようとも、どんな立場にあろうとも抱くものであるから、ビザ申請の途中のロンドン橋の上でそれを問うことに特別の意味はないが、テムズ川と同じくらい濁った色をした空はどうしてもわたしの心象風景をシネマティックにさせた。
結局、美術館を歩き回る元気もないと悟ったところで、自分がその日あまり食べていないことに気づく。8年近いロンドン生活で自分の“コツ”は掴んでいた。極端なメランコリーは空腹と寒さを埋めてから向き合うべし。指紋センターに課金したあとで財布は寂しかったが、今日ばかりは致し方ない。テートの真下のチェーンのレストランで、早めの夕飯にシーザーサラダを頼んだ。なかなか注文が来なくて時間が心配になったところで、ななめのきれいな焼き色が入ったチキンの乗ったサラダが届く。わたしのために誰かが丁寧にグリルしてくれたんだなと思ったら、それが無性に嬉しかった。それほどまでに近頃まともな料理をできていなかったんだなと気づいた。
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翌27日朝。移民局からビザ申請が完了した旨連絡が届いた。実に期限の1日前である。何か月も前から心配してあーだこーだとあえて大袈裟に騒ぎ立てたのに、どうして最後にこうも走る羽目になったんだろう、と一度落胆の気持ちが差してくるが、入念な計算があったからこそぎりぎり滑り込んだのだと思い直した。
前回BRPカードを作った時は受け取りに苦労したのでその心配も頭を掠めたが、申請完了から約10日後に無事ビザが下りたのち、万全の体制で呼び鈴を待ち構えたわたしとは裏腹に、郵便受けにペラっと投函されたBRPカードを受け取った。なおeVISAにシステム移管のため、このカードは年内で無効となる。
手にしてしまったカードは、誰もが羨むものかもしれない。そうであるのに、わたしがこれを手に入れてわーいでもヨッシャーでもなかったのは、畏れが大きいからだ。これまでに数えきれないほど見送ってきた、この地を去った人々の背中と、ビザ+シーザーサラダ分さみしくなった財布と、卒業後の行く先への不安を思うと、素直な感想としては「どうしてわたしがまだイギリスに残っているのだろう」というところになる。
それとて自分が獲得したもので、恐縮するものでもない。でも、ビザを獲得できるかできないかは本当に紙一重のことで、努力だけでどうにかなる話でもない。自分がただただ恵まれていたということを痛感しては、茫然とする。この気持ちは畏れというのが一番近い。
どうせならもっと夢のある言い方をして、人の希望になるような見せ方をすべきかもしれない。論文が審査を通ってすぐに国際学会で発表しました、とか。卒業後もビザを獲得してロンドンで生活しています、とか。卒業の翌月から音楽の仕事100%で家賃と生活費を払えました(これがフリーランス音楽家にとってはひとつの大きな関門)、とか。
それらも事実ではあるけれど、わたしにとってのリアリティは、ロンドン・ブリッジの上で頬に感じた冷たい風だ。あのとき強い風に吹かれて足を踏ん張ったように、これから先もぐっと耐える場面はあるだろう。わたしはあの風を忘れたくない。
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31.無鳴クモ「花夜の便箋」
「初めまして。私は担当医の××です。貴方のお名前をお伺いしてもよろしいですか」
「……は、初めまして」
「はい」
「……わ、私は、絶望と、申します」
「絶望さん、ですね」
「……地球創世記に生まれて以来、神様からの命令により、人間の心で、息をしています」
「絶望、さんですね。それでは絶望さん、本日はどうされましたか?完璧でなくても構いません。貴方の言葉が流れるままに、心の内をお話してみてください」
「……はい」
「ご緊張されていますか」
「……す、少し。このような場所に来るのも、”希望”に言われて、初めてでして」
「それは緊張されても当然です、無理もございません。ゆっくりで構いませんから、時間の許す限りお話しましょう」
「…………」
「三日月の紅茶をお出ししましょうか」
「……い、いえ、お構いなく。……これは私が生まれた頃から抱いていた苦悩なのですが、最近ようやく気付いたことがあって……どうも私は、『彼ら』の生命活動にとって障害なのではないか、と思うようになりまして」
「彼ら、とは?」
「人間……です」
「それは大変ですね。誰かにとって自分が不必要であると感じることほど不幸なことはありません」
「私は、彼らを、人間たちを愛しています。けれど、愛すれば愛するほど、私のこの苦しみは募ります。彼らも私と同じように悲愴な顔をして、笑顔を見せなくなっていくのです」
「貴方が愛すれば、愛するほど?」
「私が愛すれば、愛するほど」
「……絶望さん、生き物は誰しも感情を持ち、また常に何らかの外部要因、内部要因の影響を受けて過ごしています。その影響というのは、地球には数えきれないほど存在します。現在という時間軸だけではありません。過去の記憶も、未来の軌跡も、全ての影響を受けて生きているのです。恋人、友人、仕草、学校。貴方がそのように思っていても、彼らが苦しむのは単に生物の基本機能であると考えることはできませんか?この考えは浅薄でしょうか?」
「い、いえ、いえ、それは、絶対に違うと思うのです。私は長年生きてきました、おそらく貴方よりも長く生きてきました。神様から『人間を助けなさい』と仰せを受けたあの暗い暗い夜から、一日たりとも眠ることなく。それだけのあいだ彼らのことを見ていれば、私が原因で体調や心を崩したりしているのは明白なのです」
「……なるほど。自分のせいではない、とはあくまで考えないのですね。貴方のことはよく分かりました。では、これからゆっくり時間をかけて治療していきましょうね」
「ま、待ってください!私のことがよく分かった、とは?まだ私と貴方は出会って数分の──何もお互いのことを知らない霧のような関係ではありませんか!そんな薄っぺらさで私のことを理解したとでも!?」
「浅い関係ではありません。言葉をよく考えてみましょうか。例えば樹海を覆いつくす霧の中で、彷徨うことなく歩くことのできる人間などいないでしょう?霧の中を歩くには、その霧のことを知り尽くしていなければなりません」
「それは、」
「いいですか、絶望さん。私は精神科医です。そして貴方はクライアント、つまり患者様です。私の仕事は心の病を治し、再び元通りの生活ができるよう支援すること。それは分かりますね?」
「……はい、しかし」
「分かります。貴方の言いたいことは分かります。確かに普通なら信じられないでしょう。私がもう貴方のことを理解した、などと。……とはいえ、確かに軽はずみな言動でした。失礼いたしました」
「そんな、わ、分かっているのなら」
「いま私は『普通なら』と申し上げました。つまり、私は普通の医者ではないのです。異端の、それも心の闇を数分の会話で見抜くことのできる能力が、私にはあるのです。人ならざる異端を相手にする限られた精神科医の中でも、特に限られた能力を」
「……私は、異端なのですか?」
「……結論から言えば、そうなります。しかし貴方は我々が普段カウンセリングしている異端の方々ともだいぶ違うようです。大抵の異端は利己的で頭の回転も遅いため、会話を成り立たせるのさえ難しいですから」
「……私は異端の中でも異端、と、そう言いたいのですね?貴方と、同じように」
「仰る通りです。それゆえ貴方は私にとって、彼らの数倍理解がしやすい。全ては貴方が聡明だから──そう理解しては頂けませんか」
「……分かりました。そういうことにしておきましょう。取り乱して、すみません……」
「いえ、お気になさらず。それでは話を戻しましょう。貴方は、いつからそのように苦しむようになったのですか?」
「ごく最近です。いえ、最近というのは人間の時間で言うならば数日くらいですね……ええと、ここ十年ぐらいでしょうか。見るからに人間が衰弱している、と突然思ったのです。特に、この国において」
「この国、日ノ本ですか」
「はい。彼らをずっと愛し続けていたのに、気づけなかった。衰弱はおそらくずっと前、もう人間が生まれた時から始まっていたと思うのです。けれど私は数千年が経った今になってようやく気づいた。全ては私のせいだったのだと」
「先程と同じ話を仰るのですね。貴方は自分を責めすぎています。私が考えるのは、貴方は何も悪くないということです。貴方は人類を愛した、いや、愛しているのですよ」
「けれど、そんな私の愛が、取り返しのつかない事態を生んでいる。それは一体愛だと呼べるのでしょうか」
「取り返しのつかない事態?」
「彼らにとって絶望という概念は……苦痛でしかないらしいのです。それによって精神病がこの国に蔓延していて、虚ろな自殺が、仮想的にも現実的にも行われている」
「……絶望さん、一ついいですか。人類には人それぞれ正義という概念があります。それは、敵味方誰であっても激しい対立を生むことさえもある罪深い概念です。しかしそれは同時に美しくもある、なぜなら守りたいものがあってこそ成り立つ概念だからです」
「……」
「愛を持つ者が果たして善性愛しか持つことはない、と、一体なぜそう言い切れるでしょうか」
「……難しい話は、私には分かりません」
「貴方には正義があります。美徳があります。希死念慮を持つほどに、ご自身の職務に責任感を持っている。それだけのことです」
「せ、っ先生、貴方は無責任だ!それが世界の破滅を生むことになっても、正義の一言で片付けられるとでも言うのですか!」
「……失礼、少々言葉が過ぎましたね。しかし世界の破滅というのは極端です。妄想じみていて、あまりにも現実的ではありません。……世界よりも貴方の破滅の方が早いのではないか、と私は憂慮しています」
「な、なぜです」
「ご自分の体をよく見てください」
「……っ!」
「……心臓が半分欠けています。そして貴方は地球上の概念から判断すると女性と男性の両方の面を併せ持つ中性の存在。ですが腹部に穴が空いているせいで、子宮がおおかた重症ですね。これでは次の代を残せずに貴方という概念が人間の中から消えてしまうでしょう……それから、たちどころに傷が」
「私のことなどどうでも良いのです!ただ人間を……愛しい我が子たちを……!た、助けたくて……!自分のせいだとしても!……どうして。今までこんなに苦しかったことはなかった……私は狂ってしまったのでしょうか……」
「……少し落ち着きましょう。さあ、ゆっくり深呼吸して」
「……すう、はあ、すう、はあ……」
「……絶望さん、一つお伝えしたいことがあります」
「……はい?」
「傷を癒やすためには、新しい病が必要です。それは全生物にも同じこと……代償を払わずに快を得るのは、到底不可能なことなのです」
「や、病……?ですって?」
「人間は無臭社会を手に入れた代わりに、嗅覚の鋭敏さを失いました。例えば、こんな話があります。現代を生きている高齢者のうち正常な嗅覚を失った人々による病気の致死率は、正常な嗅覚を持つ人々より数倍も高いそうです。人間は当初、あらゆるものに恐怖を抱いていました。しかし進化を経て、生き残るためにあらゆる障壁を破壊した。つまり死に慣れ、同時に死のにおいを嗅ぎ分けられなくなったのです」
「……そ、そんな話を、されても……」
「理解できずとも構いません、私はただの喩え話をしているだけですから……死への恐怖によって生きることが難しくなるのは、すなわち傷。あらゆるものに鈍感になることはつまり病。傷を治すというのは、つまりはそういうことなのです」
「つまりって……」
「人間の自業自得ということです」
「そんな……嘘だ、そんな、そんなのあんまりじゃありませんか。そんなの永遠の苦しみです、地獄です、一体どうやって耐えるというのですか……!?ああ神様、神様お赦しください……私の精神は不浄になってしまった。だからこのように思い悩んでしまう……あああ、あああ……!!」
「…………好きな景色はありますか。もし何かあるのなら、今この部屋をその景色に変えて心を鎮めましょう」
「あ、あああ…………」
「……どうか心を痛めないで」
「……え、と……海の、深海の、痛切な沈黙は、居心地が良かったのを覚えています」
「ではそれにしましょうか。この空白の空間は貴方には息が詰まるでしょう」
��……確かに、虚無は苦手です。空っぽなのは苦しくて」
「おや、”絶望”なのに」
「いいえ、”虚無”と私の関係はあまり……良いものではありません。虚無はいま私と同じように闇に支配されて病と薬に拘束されているので、最近では顔を合わせることはありませんが」
「”絶望”と”虚無”とは全く違う、と」
「……はい、そうです。何らかの感情を持っている時と、全く何も持っていない時とは全然違うのです……それが健康的であるとは必ずしも言いませんが……ああ、ありがとうございます。幾分か、安らぎますね」
「海の静寂が好きだと語る患者様は少なくありません。生命の故郷だからでしょうか」
「──先生、さっき私の身体について仰ったとき、次の代を残せない、と」
「はい。確かにそう申し上げましたね」
「私には寿命はありません。あえて言うのならば、人間が死に絶えるとき──あるいは、彼らが私を愛し始めたときだけ、私は死にます」
「なるほど、そうだったのですね。それは大変な道のりでしょう。心を病んでしまうのもおかしくない話です。……しかし、貴方を愛し始めたときだけ、とはどういう事でしょうか?随分と詩的ですね」
「……私は我が子たちに、人間たちに愛されてはいけないのです。私が愛しい彼らを愛することはあっても、私が彼らの愛を受け取っては絶対にいけないのです」
「その理由とは?」
「……私が、”絶望”だからです」
「……失礼、少々土足で踏み込んでしまいましたね。謝罪します」
「いえ……」
「……さて、絶望さん。この空間は比喩でも何でもなく果てしない深海だと思ってください。私以外に貴方の話を聞く者はいません。どうか包み隠さず貴方の心の中をもう一度、深く見せてください」
「……はい、それで私の苦痛が終わるのなら」
「ありがとうございます。それでは次に、貴方が今まで生きてきた中で一番美しいと思った出来事を教えてください」
「う……美しい、ですか?楽しい、ではなく?」
「そうです、答えたくなければ答えなくても構いませんよ」
「そ、そうですね……今のような深海の風景も好きですし、神様が私をお創りになったとき初めて見た海辺の夕陽と揺れる木々……それから……最初の人間が産まれたときの産声…」
「……つまり、誕生の瞬間を美しいと思った、ということですね?」
「は……はい、そうとでも言うのでしょうか…はい、そうなのだと思います」
「唐突な質問ばかりで恐縮ですが、貴方は記憶力は優れている方だとご自分で思われますか?」
「……え?ええ、人の心の機微には敏感で、それを無意識に記憶し続けているので、多少は……」
「そうですよね、では忘れるという経験をしたことは?」
「ありません……私は、記憶を忘れてはいけないですから」
「忘れてはいけない?そんな制約が?」
「……忘れるということは、その事実自体を自分の心から抹消させるということです。それは最も、やってはいけない。私は人間の心がどういう時に動いたかを全て記憶しなければならない。それを分かった上で、愛という概念を加速させるのです。彼らの生命活動のために」
「分かりました。それにしても貴方……随分と生きづらいでしょう」
「……不便は感じます。とりわけ最近は」
「絶望さん、貴方は先ほど人間が自分のことを愛してはいけないと言いましたね。それが分かっているのであれば、もう貴方は苦しむ必要はないかと思われます。この言葉が他人事のように聞こえるのは承知で申し上げますが」
「……え」
「貴方は自分が不必要な存在だと考えていますね?」
「はい……はい、私は、私の愛は、彼らの生命活動にとって邪魔な存在なのではと……苦しくて……今の彼らは他人との関係に自分の心の弱さに社会的価値に、とにかく色々なものに囚われすぎていて、ああ、もう、先生。やっぱり私は産まれるべきではなかったのですか……」
「貴方は聡明です。ご自分で感情の整理がおおかた出来ている。最初に貴方は、人間を愛すれば愛するほど切ないと仰いました」
「……それは封じ込めねばならないのでしょうか」
「確かに……貴方のその愛によって苦しみ、死ぬ人間も多いことは事実でしょうね」
「なんだ……全然、簡単な話だったのですね。つまり私が消えれば、全て解決するのでしょう。絶望というもの自体が消滅すれば、もう私はこんな靄のような思いを抱くこともなく、彼らは悲愴な顔をする必要もない……大丈夫です、自分の殺し方ぐらい分かります」
「いえ、それは違います。貴方が居なくなれば間違いなく人間は人間としての生命を失うでしょう」
「……慰めは結構です。先生は、答えを最初から知っていますよね」
「慰めではありません。私は患者様に優しくするようには出来ておりませんから……例えば想像してみてください。荒廃した世界で食糧もなく道もなく、周囲には自分と縁のない数少ない人間しかいない。もちろん貴方はヒーローではありません。ただのしがない一般人だとします。最先端の技術が施された機械は壊れ、天災に遭い、巨大な怪物がもし目の前に現れたとき、一番最初に人間が感じるのは何ですか?」
「……絶望、でしょう」
「そうです。ではもし絶望がなかったとしたら?」
「立ち向かうはずです。絶望感を抱かなければ、何だってできるのですから」
「そうですね。立ち向かうか逃げるかの二択でしょうね。しかし、立ち向かっても勝てはしません。自分以外の人間はどんどん死んでいきます」
「……思いの強さだけでは希望は生まれませんからね。希望というのは最強の切り札を持っている場合にのみ許される、手の届かない存在です」
「……希望と自信は別物ですね。話を戻しますが、通常は仲間を失った人間は自然な感情の働きによって絶望感を抱きますよね。しかしそれが一切ないために、もし立ち向かうという選択肢を最初に選んだのならばもはやロボットのように立ち向かい続けるしかなくなります。逃げる、というのは一切考えなくなるのです。なぜならば、喪失感が存在しないからです」
「つ、都合が良すぎます。絶望感と喪失感とは別物でしょう」
「いえ、同じです。そしてその時何が起こるか。自分も同じように怪物に立ち向かいます。そしてあえなく死んで、終わりです。では逆に、そこに絶望があったとしたら?仲間が殺されていく時点で顔は青くなり、ここで逃げるという選択をしますね」
「待ってください!先生の言うことには穴がありすぎます。そんな状況、足がすくんで動けないに決まってますよ」
「私はあくまで可能性の話をしているだけです。絶対などということは自然の摂理上有り得ませんから。……感情は生き物の持つ性質の中で最も高度なものと言われています。絶望さん、貴方がもし居なくなれば同時に彼らは人間ではなくただの人形になってしまうのです。貴方は、切ない死から逃れるための唯一の防御線なのですよ」
「…………」
「貴方が愛するから人間は悲愴になる。けれど愛は人間には必要不可欠。感情が一つでも欠けたら、貴方がいることによって救える命も救えないのですよ。貴方の愛する子供たちは、文字通り貴方のせいで死にます」
「……なんだか話が複雑ですね、頭が混乱してきました……」
「少し休みましょうか。紅茶でも?」
「ええ……ありがとうございます。……ああ、甘い。とても落ち着きます……地球の母乳もこんな味だった」
「……絶望さん、一つ言っておきますが自殺することは悪いことではありません。私は肯定も否定もいたしません。いずれにしろ貴方は、これから先も愛し続けたいのなら、彼らを信じるしかないのです」
「分かっています……愛した私が悪い。そういうことなのですね……もう、分かりました。やはり私が害悪だということですね。納得させてくれて、ありがとうございました」
「…………今日は、ここまでにしましょうか。次の患者様を待たせていますので」
「……はい、じゃあ、失礼します」
「はい、お気をつけて……また明日、必ずお会いしましょう」
無鳴クモ「花夜の便箋」 Produced / Written by 無鳴クモ(https://x.com/mikadukiame)
2024.9.18 G.Slope & Hill's Planet
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shinayakani · 1 month
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人生どうでも飯田橋の袋小路
 おいおい、春の不穏さに心騒いで云々から、ずいぶん久しぶりじゃないか。すっかり季節は変わっている――人間がものを考えることを一切できなくさせる季節でお馴染みの、夏。四月から七月までの間、日を追うごとに情緒が不安定になっていた。そんな時は、書くことはおろか読むことさえ一切する気になれない。もちろん私のナチュラルボーン怠惰もすべての原因としてあるが、振り返ってみると自分でも驚くほどの荒みようだった。今月に入ってからも、危機から抜け出す兆しを見つけるには全然至ってないわけなのだが、誤魔化しながらやり過ごしていこうとする正気はいくらか取り戻したのだろう(他人事)、だからこうして書いている。といって、この数ヶ月の自身の退廃っぷりを書き出してしまったら、内面の牢獄へと向かわせる悪循環に再び囚われそうになるので、気が進まない。だから相変わらず私には書くことがない。
(240818)
 ――やっぱり自分はまともな人間じゃないんだよな。
 不意に人に向かってそう呟いてしまった夜があった。よくもまあこう恥ずかしげもなくみっともない言葉が口をついて出てきたものだ。先月はそれだけ不調がピークに達していた。いい迷惑だろうに、その言葉を聞かされた人は一瞬心配そうな顔になりはしたが、すぐ「なに下らないこと言ってるの」とだけ言って笑った。ずっと前から自分でも分かりきっていたはずではないか、改めて言い出しても仕方がない。「当たり前じゃん、私たちマトモだったためしある?」なんて過去の自分や知人たちなら笑い飛ばしていたろう。だが自分がこうして失墜しているときに限って、そう言っていた人たちが皆、よっぽどまともな人間に見えてくる。少なくともこんなことをいちいち言葉にする(ましてや他者に向かって発する)人間は、どうであれ正気ではない。そもそもが具体的に何を指しているのか不明瞭で、粗雑な常套句。しかし世間一般的に見ると、いま私はまともな生き方をしていない。
 ……外部から規定されたにすぎないある種の「マイノリティ」の立場に、自身が置かれていることに改めて気づいたとき、そんなに動揺し慌て出すなんて、いったいきみは今まで何を学んできたというのか?
(240819)
 手癖で引用を、と思いながらも、そういえばほとんど本に触れてさえいなかったので、他者の言葉を手繰り寄せられない。ただ先月の今頃、なぜか夏目漱石の「思い出す事など」だけは読んだ記憶がある。人生イヤイヤ期には漱石の随筆や小品がやけに滲みる。とはいえ人生論的なものに傾く文章(誰が書き手かを問わず)に対して、私には昔から強い忌避感がある。たとえばこの随筆であっても、思想的な意味合いというよりは、漱石の言葉の運びそのものに感銘を受ける。生死の境が不明瞭になるほどの大病からかろうじて生き延びた後、病いを潜り抜けたゆえに得た奇妙に寛いだ眼差しで、過去や事物を描写する。その文体の瑞々しさが、捨てばちになっていた私に平静さをもたらしてくれたのかもしれない。
《今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、悉く「自我の主張」を根本義にしている。それ程世の中は切り詰められたのである。それ程世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」を敢てして憚かる所なきまでに押し詰めたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。又孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくの如く叫んだのである。》
 いま文庫本を開いて確認すると、ところがよりによって、付箋が貼られているのはこの段落だけだった。漱石にしては大して面白味のない文章ではないか。彼の言葉にというよりは、何よりもここに印を付けていた先月の私に対して、ずいぶんな甘ったれじゃないの、と苦笑したくなる。声高に「自我の主張」ができるならまだしも、とうに自己の中身は空っぽになっている。それともこの空虚は、内省を突き詰めていった先で、ますますペシミズムにとり憑かれたことによって生じたものなのか。しかし私の現状は、心理的な問題というよりは、もっと実際的な習慣の問題に関係しているにすぎない……経験の貧困。嗚呼、こんなことなら辻潤でも読めば良かった。
 ところで末尾のニーチェについて。そんな単純化されては困ります、と大家である漱石に向かっていくらでも反発を示すこともできよう。だが、いわゆる「人生論」の観点からしたらこんな風に呆気なく語られてしまうものかもな、と妙に納得もする。しかしニーチェが残した著作の意義は、全く別の次元にある。「自我」という枠をあらかじめ想定して生を矮小化する先入観を、彼は何よりも軽蔑するはずだ。
(240821)
 ここまで書いてきたことは、自己と向き合うことの苦痛によって生まれた言葉だろうか。しかし自身と向き合うことは、個人の内面の問題を捉えるというよりも、すでに取り返しのつかないものになってしまった過去という時間全体と対峙することだ。過去のふるまいがどれほど軽薄なものに見えるとしても、その意味合いはひとりで担いきれないほどに重い。時が経つほど重みを増して迫って来る。
 過去とは、すでに取り返しのつかなくなった経験のすべてだ――だがそれでいて、つねに自身へ影響を与え続けるという意味で、決して過ぎ去ろうとしない。
 過去の取り返しのつかなさから、手当たり次第に糺すようにかつての甲斐性のなさを後悔したり、はては自身の行いを否認したりし始めると、これから先の生きていくあてがなくなる。内部をいくら掘り起こしてみたところで、行き着く先には空っぽになった頭だけが残る。置かれている事態が慌ただしくなればなるほど、わが身を、つまりは過去を掘り尽くそうとする悪循環に、なぜ向かってしまうのだろう。過去への悔いだけが必然のように残り、結局いま生きられる場からは逃避することになるのに。
 それにしても、何の気なしに「空っぽ、空虚」という言葉を使っていたが、人間が文字通りの意味でそんな状態にあることはほとんどない。ここには誇張というか嘘くささというか、言葉の詐術がある。そもそも空虚であるならば、こうして言葉を費やそうとすら思えないだろう。
 外部からの刺激に対して身体が受動的になりすぎると、その代わりに精神が騒がしさでいっぱいになって方向が効かなくなる。そしてそのまま疲弊する――状況に対して能動的に振る舞うことができず、身体の受動性が窮まったすえの無気力といったらいいのか、精神的な不安定さの要因は所詮そんなもので、その状態をさし当り「空虚」と名指したまでだ。個人的な問題に対しては、とにかく目の前にあることを片付けて、少しずつ体験を積み上げていくほかない。いつもきっと、そんな凡庸な結論に達する。しかしその当然のことが、私には難しかった。
(240822)
 ふと、いま読んでいる小説からこんなフレーズが眼に入る。ここでは「後悔」という言葉が、謎めいたものとして示されているようなのだ。
《「車に乗って高速で走っていると、ときどきちらっと視野をかすめて消える美を発見しますからね」とジョナス・メカスは映画で語った。「ところで美しさとは何でしょうか?」形式的な挨拶もなく、ウルが尋ねた。「美しさとは後悔することです」と彼が答えた。形式的な挨拶はなかった。彼らは死ぬ日まで一度も会ったことがなく、知り合いでもなかった。偉大なる今日、》  ――ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』
 作品冒頭、女性は目を覚ますと自身の記憶をすべて失っていることに気づく。メカスの訃報が載った新聞から、いまが 2019 年 1 月だというおおよその日付だけは確認できる。しかし、三つに分かれたそれぞれの章では時制や場所、人称が混成していくため、現在時の具体的な日付はあまり重要ではなくなる。不明瞭になった境界で、彼女(たち)は書く。流れ続ける言葉のなかで舞踏する、声とイメージ。
《いつの間にかウルの手はひとりでに文を書きはじめた。自分の手から出てくる文章を、ウルは見知らぬ、驚異的なもののように眺めた。頭の中はほとんど空っぽだが止める方法はほとんどなく、ウルは書きつづけた。(…)その日、ウルが書いた最初の文章は、彼女があるとき受け取ったはがきに書いてあったものだ。美しさとは後悔することです。意見、方向、希望、意志、意図、信念、主義を持たずウルは書きはじめた。(…)おお、私は何になるのか? その日の夜ウルは存在せず、ウルが書く文章だけがあった。(…)その夜ウルは書きはじめ、書きはじめることを永遠に止めなかった。生きるために書くという言葉は事実だ。言葉は生に先立って歩み、そうやって生を発明してゆくのだから。そうでなければもうこの先には空っぽの時間という形式が残るだけだろう。(…)ただ遠くにだけ、ウルはいた。もしもいつかこの文が完成するなら、ウルはこれを遠くで書いたといえるだろう。遠くで、自分自身をも先取りして。》
 言葉は逸脱していく。このまま危うく「自分と向き合う」つまらない文章を書き続けるところだったよ。立たされている情況に対して「空虚」という言葉を粗雑に使うことを許しながら、それを克服するために何を「すべきか」を、何を「してはいけない」のかを、書き出してしまいそうだったよ。言葉は逸脱していく――書くことの次元においては、「〜すべき」という義務や「~するな」という禁止、そしてもしかしたら「〜したい」という願望からも無関係に。
 自身を省みるように書くのではない、さらにまた書くことを単なる経験の代替として行うのでもない。現実に対して強度を持ちながらも軽やかに動く言葉は、そのどちらからも生まれえないはずだ。ある意味では「空っぽ」になれないから、こうして書いている、しかし空っぽにならなければ、書くことはできない。
 どこへ行くか分からない言葉に導かれることの、苦痛と愉しみ。
(240824)
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kozuemori · 2 months
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関東地方も梅雨が明けました。既に十分暑いですが、いよいよ夏本番です。こんな気候でも我が家のバラはどんどん蕾を増やしていて、メダカの赤ちゃんもグリーンウォーターの中でスイスイ泳いでいますし、親メダカの産卵も活発です。残念なのは暑すぎてその様子をベランダでじっくりと観察できないこと。猛暑すぎるのか、蚊もいつの間にか見かけなくなりました。水分や睡眠を十分に摂りながら、お元気でお過ごしくださいね。
夏学期クラスがすベて終了しました。3ヶ月間たくさんの方々と一緒に学び、お互いの光や笑顔を分かち合い、共に楽しい時間を過ごすことができましたことに、心より感謝いたします。
先日お問合せをいただいたので、秋学期のベーシッククラスについて追記をしたいと思います。秋学期のベーシック前期クラスは土曜日の19時から21時までの開催となり、ベーシック後期クラス(2025年春学期開催)も同じ土曜日の19時から21時までの開催となります。また、ベーシック通信(メール)クラスは1学期(6回の課題)で完結となり、試験に合格した方は次学期よりオールレベルクラスへご進級いただけます。参加する方々のご都合により、適宜Zoomクラスの曜日や時間帯を変更する場合もありますので、曜日や時間のご希望がありましたらご遠慮なくお問い合わせください。
夏学期クラスで行った誘導瞑想の中から『Six Senses』をYouTubeにアップいたしました。中世ヨーロッパの至宝である6枚のタペストリー(大型の織物)の秘密に触れながら、自分自身の6つの感覚に出会ってゆく瞑想で、実在する謎に包まれたタペストリー『貴婦人と一角獣』からヒントを得ました。8月後半に開催するワークショップ『Spirit of Wonder 〜シックスセンスと六大要素〜』の序章ともいえる内容となっていますので、ご興味がある方はぜひ夏休み中にやってみてくださいね!
また、新たに6つの誘導瞑想の音源ファイルを販売中です。夏学期クラスで行った中から選び、一部は長さを調整しています。
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誘導瞑想「ヒーリングプール」 31:00
イルカたちに誘われながら、太平洋の楽園ハワイへ旅します。夏の明るい日差しと澄み切った青い海の輝きに導かれながら到達した美しい島で、森羅万象に宿る絶えることのないエネルギーに触れてみましょう。また、神聖な癒しをもたらす潮溜まりであるヒーリングプールを訪れて自らをその浄化のエネルギーに浸しながら、その清浄さと一体となってください。
・・・・・
誘導瞑想「ピュタゴリアン」 31:15
この誘導瞑想では地中海に浮かぶ古代ギリシャの島を訪れ、その神域で共同生活を営んでいる輪廻思想を持つ人々『ピュタゴリアン』たちに出会います。霊魂の不滅を信じ、日常生活を通じて魂の浄化と魂の救済を目指し、平和で平等な生活を送る彼らとの出会いを通して、神聖なる数や厳格な食生活を通した霊性開花の学びへのヒントを受け取ってください。
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誘導瞑想「天空の村」 33:30
神秘な光を放ちながら蒼空にそびえる霊峰、ヒマラヤ山脈に見守られながら、手付かずの自然の中に突如現れる幻のような聖地『天空の祈りの村』へと誘われます。古来からの教えに従って熱心に修行に励んでいる人々と共に祈りを捧げながら、その心地の良い平和に満ちた聖音を通して自らの内にある小宇宙と出会い、指導霊のメッセージを受け取ってください。
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誘導瞑想「ドリーミング」 31:30
夢の世界は日常と霊界を結ぶ架け橋のような場所です。古来からさまざまな文化圏で人々は『夢見』を通して聖なるメッセージを受け取ってきました。この誘導瞑想ではシャーマンと出会い、その導きで古代エジプトを旅しながら眠りの寺院を訪れます。そこで催眠療法の語源となった神や世界最初のヒーラーと呼ばれる神と出会い、夢見を通した学びを深めましょう。
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誘導瞑想「アートマンの馬車」 33:50
アートマンの馬車と呼ばれる『ラタ・カルパナ』は肉体と魂の関係性を表しています。古代インドの教典『カタ・ウパニシャッド』によると、本当の自分と呼ばれるアートマンは馬車に乗る人です。どうすればスムーズに思ったように馬車を目的地へ走らせることことができるのか、その制御法を学びながら、より平和で幸せな道へと自らの馬車を進ませてゆきましょう。
・・・・・
誘導瞑想「見えるもの、その先に」 31:30
この誘導瞑想では光の列車に乗って同乗者である画家と共に北欧の街を訪れます。画家がもたらす聖なるエネルギーに触発され、高次の意識の存在とトランス状態になって交信しながら、人間の内面と外界との関係、信仰と探究心、私たち人間が自分で考えているのとは違うものであり、目に見えない世界や説明できない精神世界への探究を深めてゆきましょう。
全て動画ではなく音声ファイルです。サイトまたは直接ショップからご購入いただけます。
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Spirit of Wonder 〜シックスセンスと六大要素〜
8月24日(土)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
8月26日(月)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
料金:1回 8,000円(アイイス会員・税込)・10,000円(非会員・税込)
どなたでもご参加いただけます
最少催行人数:3名
私たちの周りにある五大要素ともう一つの元素、そしてそれらと自分自身の中にある五感と直感との関連について学びます。あなたの外側と内側にあるエネルギーについて理解を深め、その学びを日常生活において実践し、継続しながら、さらなる霊性開花を目指す6時間ワークショップです。レクチャーやゲーム感覚で楽しめる実習やカルマの法や輪廻思想などの哲学を通した内観を通して、ご自身の中にある光をさらに見出していただきたいと思います。
あなたの中に潜在する能力を探り、知り、育み、五感や直感の中で特化した感覚をさらに伸ばして磨き上げましょう。そして同時に自分の苦手分野を知り、それを伸ばす方法も試してみましょう。
私たち全員が生まれついた時点で履修する、人生においてずっと学び続けることのできる共通のカリキュラムが霊性開花です。それは私たちが永遠の可能性を秘めていること、大いなる存在に近づき、さらに明るい光になること教えてくれます。けれど、霊性開花は1人だけでは学べません。あなたの霊性を導いているスピリットの介在、その指導や協力があってこそ、あなたの魂は磨かれ、輝くことができます。スピリットとのコミュニケーションに欠かせないのが自分の感覚を伸ばし、育むことです。このワークショップでは五感や直感���インスピレーションやアイデアのアンテナをさらに伸ばしながら、霊であり光である本来の自分に出会っていただくお手伝いをしたいと思います。
レクチャー内容
 ・五大要素と最初の元素
 ・シックスセンスと直感
 ・大宇宙と小宇宙
 ・チャクラとオーラ
 ・聖なるマトリックス
 ・ミディアムシップにおける六大要素 
実習
 ・シッティング・イン・ザ・パワー 
 ・六大要素を感じ、活かす
 ・マトリックス内観
 ・直感と指導霊により深く繋がるための各実習
 このワークショップは以下のような方に向いてい���す
 ・六大要素への理解を深めたい
 ・直感の練習、経験をしてみたい
 ・人体とオーラ、チャクラ、元素、世界との関連を知りたい
 ・指導霊との繋がりを深めたい
 ・本当の自分の人生の目的を探りたい
 ・自分自身の可能性や能力を探りたい
 ・霊性開花を通して人の役に立ちたい、社会に貢献したい
このワークショップは、2019年夏イベントで開催した同タイトルのワークショップを一部変更し、内容を加えたりアレンジしてアップデートしています。
詳細・お申し込みはこちらからどうぞ。
ショップからも直接お申し込みいただけます。
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秋学期クラスへのお申し込みを受付中です。クラスの詳細とラインナップはサイトとショップからご覧いただけます。(アイイスのサイトでも告知されています)
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秋学期は春に種を蒔き、夏に大切に育てた果実を収穫する季節です。十分に栄養が行き渡った今年の霊性開花の学びの成果を皆で味わいながら共に分かち合いましょう。皆さまのご参加をお待ちしています!
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アウェアネス・ベーシック前期 Zoomクラス 
土曜日:19:00~21:00 (後期も土曜日・同じ時間に開催) 日程:9/7、9/21、10/5、10/19、11/2
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アウェアネス・ベーシック後期 Zoomクラス   
火曜日:10:00~12:00 日程:9/3、9/17、10/1、10/15、10/29
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アウェアネス・ベーシック通信クラス
開催日程:全6回 お申し込み締め切り:9/15
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アウェアネス・オールレベルZoomクラス
火曜日:19:00~21:00  日程:9/10、9/24、10/8、10/22、11/5
木曜日:10:00〜12:00 日程:9/5、9/19、10/3、10/17、10/31
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アウェアネス・マスターZoom クラス
火曜日:19:00〜21:00 日程:9/3、9/17、10/1、10/15、10/29
金曜日:19:00〜21:00 日程:9/13、9/27、10/11、10/25、11/8
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サイキックアートZoomクラス
日曜日:17:00~19:00  日程:9/8、9/22、10/6、10/20、11/3 水曜日:16:00~18:00  日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
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インナージャーニー 〜瞑想と内観〜 Zoomクラス  
月曜日:16:00~17:00   日程:9/16、9/30、10/14、10/28、11/11
土曜日:10:00~11:00 日程:9/7、9/21、10/5、10/19、11/2
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マントラ入門 Zoomクラス  
土曜日:13:00~15:00 日程:9/14、9/28、10/12、10/26、11/9
・・・
トランスZoomクラス
水曜日:10:00~12:00  日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
土曜日:19:00~21:00  日程:9/14、9/28、10/12、10/26、11/9
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サンスクリット・般若心経 Zoomクラス 
月曜日:13:00~15:00   日程:9/16、9/30、10/14、10/28、11/11
水曜日:19:00~21:00    日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
クラスの詳細はサイトのこちらのページをご覧ください。
継続受講の方は直接ショップからお申し込みください。
・・・・・
サマーフェスティバル&ヒーリングサマーフェスティバル2024
8月11日(日)13:00~16:30
今年のアイイスの夏祭りはタイトルのとおり、「サマーフェスティバル」と「ヒーリングサマーフェスティバル」を同時開催します!皆様は上記2つのフェスティバルに参加でき、この間を行ったり来たりしていただけます。この日は夏の暑い日差しを避けて、アイイスの光の祭典に参加しませんか?私たちが集まると、光の世界の仲間も集まってきます。光は、集まれば集まるほど大きくなり、光の世界も無視できなくなります。私たちの光を大きくして世界中に広げませんか?今、世界は私たちの光を必要としています。アイイスから光を発信しましょう。「サマーフェスティバル」では光の世界から送られる愛と光を受け取り、「ヒーリングサマーフェスティバル」ではたくさんの癒しを受け取り、この夏を乗り切りましょう。ぜひお知り合いやお友達をお誘いの上、ご参加ください。
プログラム、参加ミディアム・ヒーラなどの詳細はこちらから。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
サマーフェスティバル用URL
ヒーリングサマーフェスティバル用URL
・・・・・
サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
9月29日  担当ミディアム:惠子・森
11月17日 担当ミディアム:松山:森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
・・・・・
ドロップイン・ナイト 
10月17日(木)19:00〜20:00 会員限定・参加費2,500円
指導霊(スピリット・ガイド)のサイキックアート
詳細とお申し込みはこちらからどうぞ。
過去の開催の様子はこちらからご覧ください。
・・・・・
モーニングワーシップ&コミュニオン(目覚めと祈りと瞑想)
10/27(日)9:00〜10:30  担当ミディアム:開堂・森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
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takahashicleaning · 2 months
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TEDにて
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
聖書の時代から現在まで暴力が減少してきていることをスティーブン・ピンカーは図示して説明します。
イラクやダルフールの非論理的で腹立たしい現実もありますが、それでも人類史上もっとも平和な時代を我々は生きていると語ります。
20世紀には数々の残虐行為が見られました。スターリン、ヒトラー、毛沢東、戦前の日本、ポルポト、ルワンダやその他の集団的な戦争。
21世紀に突入して、まだ7年しか経過していませんが、既に、ダルフール紛争や酷い状況を目にしてきました。
こうしてある共通の理解に至りました。現代社会は、暴力にあふれ調和のとれた原始の時代から離れてしまったから今の危険がある?というのです。そうではなく暴力は減少しているのです。暴力の減少は、フラクタルな現象です。
これは数千年、数百年、数十年。そして、数年のスケールで観測できます。
16世紀の産業革命、理性の時代の始まりが、転換点だったようです。一様ではなくとも世界中に見られます。
啓蒙運動の時代。
イギリスやオランダで始まり、特に、西洋では顕著です。一万年前まで人間は、狩猟採集型の生活をして永住地や政府はありませんでした。
次には、聖書から古代文明における社会の風習を見ることができます。やがて社会的な刑罰という形で、どんな社会でも手足の切断やそれ以上の拷問は容認されてきました。
では、一桁分ズームインして世紀のスケールで見てみましょう。
中世から現代に至る期間の戦争の統計はありませんが、歴史をたどれば、社会的に容認された暴力が減少してきたのははっきりとしています。
例えば、どんな社会でも、手足の切断や拷問は刑罰として規定された形式でした。
現在、違反行為に課せられるのは罰金ですが、当時は舌や耳を切られたり、目をつぶされたり、手を切断されたりしたのです。死刑も火あぶりや解体刑、車裂きの刑、八つ裂きの刑など、残酷なものは多々ありました。
君主制では、王様の批判やパン泥棒など暴力とは関係のない罪にも死刑は適用され、労働力を確保するために奴隷制が多用されていました。
娯楽も残酷で一番強烈なのは、猫の火あぶりです。吊るされた猫が、火の中に入れられ痛みで鳴き声を上げ、焼死する姿を見て観客はギャーッと声をあげながら笑っていたのです。
殺人に関しては、多くの行政機関が、死因を記録しているので統計データが出されています。
犯罪学者のマヌエル・アイズナーは、ヨーロッパ全域で見つけた殺人の全記録を研究し、そのデータを、国家の統計と継ぎ合わせました。
対数スケールでプロットすると、年間に10万人あたり100件の殺人という中世の代表的な値から始まりますが、その数字はどんどん低下してヨーロッパ諸国では、年間に10万人あたり1件以下まで減ります。
そして、1960年に少し上昇が見られます。ロックンロールが道徳的価値観を下げるという指摘は、あながち間違いとも言えないようです。
ともかく殺人件数は現代に至るまで16世紀初頭を境に、少なくとも二桁の減少を遂げました。10年単位で見てみましょう。
非政府組織の統計によれば、ヨーロッパと南北アメリカでは1945年以来、戦争や犠牲者を出す民族暴動、虐殺や軍事クーデターは減少しています。
世界的にも戦争による犠牲者は激減しています。黄色の棒線は1950年から現在に至るまでの一つの戦争の年間犠牲者を示しています。
50年代には一つの戦争の年間犠牲者数が、6万5千人でしたが、2000年以降は酷い状況とは言え年間犠牲者数は2千人以下まで減少しています。
一年スケールで見ても銃の暴力の減少がわかります。
冷戦終結の後、内戦や集団虐殺は減りました。第二次世界大戦後、90%の減少です。殺人や銃の暴力犯罪における60年代の上昇分も取り返しました。
これは、FBIがまとめた他殺の統計です。50年代と60年代は銃の暴力が抑えられていましたが、その後、何十年か高めの数字を経て1990年代に激減し始め、ほぼ60年代のレベルへと戻りました。
銃規制?クリントン大統領ありがとう。さて、これだけ大切な事実に対し誤解が生じる理由は多々あると思います。
報道が充実したということも理由の一つです。
AP通信は16世紀の修道士よりも戦争に関して上をいく年代史家です。認知的錯覚によって、ある具体的な事例を思い出すのが簡単になるほど先入観が強くなるというのが、認知心理学の知見です。
新聞で目にする銃の残虐な写真やニュースは、老衰で亡くなるお年寄りよりも記憶に焼きつきやすいのです。
世論や政策提言における力学の問題として状況は改善し続けていると訴え、注目をあびて支持や支援を集めることはできません。
アメリカでは先住民に対して罪悪感があるため、現代の知識人たちは西洋文化の特長を素直に認めようとはしません。道徳の変化が行動の変化を追い抜くこともあるでしょう。
銃の暴力が減少した理由の一つは、人々が当時の大虐殺や残酷な行為に嫌気がさしたからです。
今もそうですが、道徳が行動を追い越して変化してしまうと当時の歴史的な基準に照らした場合以上に野蛮であったと見なされます。
よって、15年の司法手続を経た殺人犯たちが、薬殺刑で死刑になることが気にかかるのも無理はありません。
数百年前であれば王様を批判したことで10分程度の裁判にかけられ火あぶりの刑に処せられたかもしれません。
むしろ幾度となく繰り返されたことだったでしょう。今日、死刑制度は野蛮な行為として捉えられています。
基準の向上とは見なされません。なぜ銃の暴力が減少したのか誰もわかりませんが、私が知っている4つの説明はどれもある程度うなずけるものです。
現代になると、さらに減少していきます。つまり、トマス・ホッブズが正しいというものです。
ホッブズによると人間の自然状態とは「孤独で貧しく、不機嫌で残酷、しかも短命」血の渇望や、攻撃的な本能や縄張り争いが原因なのではなく、無政府状態のロジックが原因なのだそうです。
また、ホッブスの解決策である「リヴァイアサン」では、ある種の状況下で、非暴力を含む協力は、双方に利益があるとも指摘しています。
過剰な物資の貿易を行い両者が争いをしないこと。又は、戦時編制を解き、いわゆる平和の配当を分配することでいかなる時でも戦う必要がなくなることにつながると言っています。
ゲーム理論で言うところの「ポジティブサムゲーム」です。
ホッブスの解決策である「リヴァイアサン」を詳しく説明すると、銃の暴力の公使における正統性をリヴァイアサンという民主的機関だけに帰属させた状態なら攻撃の企てが減るというものでした。
なぜなら、いかなる攻撃も罰せられ、そこから得られるものは無いので自分が襲われる恐怖からの先制攻撃を抑止するのです。
抑止力では、本気だと示すために一触即発で復讐する必要があったのが、不要となり、こうして平和へと至るのです。
先ほどお見せ出来なかった殺人件数の割合をグラフにしたアイズナーは、ヨーロッパで殺人が減少した時期は、中央集権国家の勃興と期を同じくすると指摘しています。
リヴァイアサン理論のちょっとした裏付けです。
今日、無政府状態の地域で銃の暴力が吹き荒れることも理論を裏付けます。
他の例では、破たん国家や崩壊した帝国、辺境地帯、マフィアやストリートギャング等があります。
ポールローマーやクルーグマンなどが理論的に数値で解明した戦争よりも貿易で解決した方が善いかもしれない?ということにも通じます。
一千年単位のスパンでは、男性や女性の若死にが、普通であった昔。
女性や子供など、他人に危害を加えることに抵抗は感じませんでした。
テクノロジーやマクロ的な経済効率が、人間の限界を遥かに超えていき、ドラッカーの言うように、人間の寿命を伸ばして人生をより長く楽���くさせるにつれて、人間は、一般的に人生への価値を高めるようになります。
これは、政治学者のジェームズペインの議論です。
また、人が関わるポジティブサムゲームの件数が、コンピューターの登場とインターネットの登場によって、爆発的に増えたと言います。
人間の限界を遥かに超えていくテクノロジーが、物資やサービスやアイデアの交換を、より遠方と。より大人数で大規模に行えるようにしたからです。
その結果、皮肉にも死者よりも生きている他者の価値が高まり、自己中心的な理由での暴力は減るのです!!
哲学者であるピーターシンガー。彼は、長い進化の過程によって、人間は共感できるようになったと論じています。原因は何にせよ。
銃の暴力の減少には、深い意味があるため「なぜ戦争をするのか?」と問わずに「なぜ平和があるのか?」と問うべきです。
ピーターシンガーが書いた内容ですが、あの広がりとは、テクノロジーや目に見える他者の増加が、引き起こしたと感じる人も多いと思います。
そして、それゆえに世界が、小さくなっているという感覚。
これも真実なのでしょうか?はい、どちらもライト氏の理論にあてはまります。
ずっと大きなネットワークの人間関係の輪の中での協力は、メリットが大きいのです。インターネットが最大の貢献です。
また、他人の立場に思いを馳せることの手助けにもなっています。
中世の恐ろしい拷問の話を読んだら、なぜそんなことが出来たのか?
犠牲者をかわいそうだと思わなかったのか?
と思うでしょうが、彼らにとっては、自分と似た存在だとは思いようもない!ただのよそ者に過ぎなかったのです(ミルグラム、スタンフォードの監獄実験など)
他人と立場を入れ替える想像を容易にするものは・・・
何でも他人への配慮、おもいやりを高めるのです(テーラワーダ仏教でもブッダが同じ事を言っています)
大切なことなので近いうちに報道機関にも聴いてもらいたいですね。
どうもありがとう。
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
児童虐待?女性差別?男女関係のトラブル?
極端な場合は保護が必要ということを前提にしても問題がある。
男女平等が社会システム内では功利主義的には有効?
混乱を産み出し憎しみの連鎖を起動させてるだけで果たしてそうなのか?
国の歴史によっても異なるし、上記の事例に関しては、法の下の平等は万能ではない!道理に反するということでもあります。
太古からの厳しい自然淘汰を生き抜く上で多少の児童虐待?女性差別?男女関係のトラブル?が良い作用を与えていたのも事実であって
数万年かけて培われた本能的な児童虐待?女性差別?男女関係のトラブル?は、犯罪者扱いするんじゃなくて隔離して教育してもいいし、国家が対策マニュアルをオープンソースで公開して男女の特性子供の特性として共有すれば?
極端な男女平等思想が憎しみの連鎖の原因かもしれない?
それを社会システム内で最適化させて一千年単位のスパンで少しずつ改善するほうがいいし、マスメディアも慎重に吟味してセンセーショナルな報道をしないことだ。
本当に殺しては社会システム内ではダメだからテレビ的にはタレント生命、テレビ、ラジオ出演者生命や広告代理店関係者、芸人芸能人生命、俳優生命など。
是非、不幸をあおるやつらをテレビ的に殺してほしい。
続いて
政治家は、理不尽な銃暴力等への対抗のみ正当化される。
その証拠に超厳格な規制のある自衛隊や警察保有をしてる。シビリアンコントロールとも言われる。
日本では、古代日本の刀狩りのお陰もあるので銃の暴力は当然ダメ。
暴力的な公式スポーツはなぜOK?なら暴力はルール内でのみ正当化される?
矛盾してる?暴力もスポーツみたいにルール化して決着したらどうなるか?社会実験したら?
説明しないTV局や事件に便乗する警察の権力悪用を最初に取り締まれ。
大谷翔平も?一神教には無い破壊神の概念!!多神教的に解釈すると・・・
トランプ銃撃など。スティーブジョブズ、イーロンマスク含めたIT覇者は・・・
非中国系の乱世の奸雄(古代戦国の中国で言われる概念。曹操が有名)と呼ばれる破壊神が・・・
アメリカ社会システム規制内で究極の透明性で競争し、お金の形で数値化してるように多神教視点からは私には写って見える!!
だから、私は、乱世の奸雄と見ているプーチン(曹操の出生地に近いし、時空のサイクルからも可能性は高い)などは規制外だから害悪が増幅してるだけかもしれない。
さらに・・・
勝手に警察が拡大解釈してしまうと・・・
こんな恐ろしいことが・・・
日本の警察は、2020年3月から防犯カメラやSNSの画像を顔認証システムで本人の許可なく照合していた!
憲法に完全違反!即刻停止措置をみんなで要求せよ。
日本の警察の悪用が酷いので、EUに合わせてストーカーアルゴリズムを規制しろ!
2021年に、EU、警察への初のAI規制案!公共空間の顔認証「原則禁止」
EUのAI規制は、リスクを四段階に分類制限!
禁止項目は、行動や人格的特性に基づき警察や政府が弱者個人の信頼性をスコア化や法執行を目的とする公共空間での顔認識を含む生体認証。
人間の行動、意思決定、または意見を有害な方向へ操るために設計されたAIシステム(ダークパターン設計のUIなど)も禁止対象にしている。
禁止対象の根拠は「人工知能が、特別に有害な新たな操作的、中毒的、社会統制的、および、無差別な監視プラクティスを生みかねないことは、一般に認知されるべきことである」
「これらのプラクティスは、人間の尊厳、自由、民主主義、法の支配、そして、基本的人権の尊重を重視する基準と矛盾しており、禁止されるべきである」
具体的には、人とやり取りをする目的で使用されるAIシステム(ボイスAI、チャットボットなど)
さらには、画像、オーディオ、または動画コンテンツを生成または操作する目的で使用されるAIシステム(ディープフェイク)について「透明性確保のための調和的な規定」を提案している。
高リスク項目は、法人の採用活動での利用など違反は刑事罰の罰金を売上高にかける。
など。他、多数で警察の規制を強化しています。
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日��国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術
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nemosynth · 5 months
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NHKスペシャル 山口一郎 “うつ”と生きる~サカナクション 復活への日々~
以下、わたくしごとです。過去の経験談
息をするのも辛い 呼吸しているだけで無限の徒労 毎秒毎秒が25mプール、泳ぎきれない
筋力ない、マッスル使えない 波の浮き沈みとともに浮かぶブイみたいに息遣いとともに上下しながら、筋肉の力ではなく自然な自重の重たさとややもすると沈みかかる自然の浮力だけでのこぎりの歯を上下させてなんとか少しずつ木材を切っていくような、仕事として切るように定められた木材を切っていくような
ただただ息をしているだけ
昔から呂宋助左衛門ごっこというのがあって、激務で疲労困憊してる月曜日の朝、波打ち際に横たわりながら、上陸するでもない海に流されて溺れてしまうでもない、どっちともつかないところを疲れ果てて力もなく寄せては返すひねもす波とともに腕の先っちょとか上下しながら、それでも口開けて半眼で「ぁあぁあぁああああぁあぁぁぁぁぁ」と力無く漂うような漂着したまんまの漂流者気分で居続ける
それがもっと永遠に近い長さで、ずっと息しているだけでも辛くてそれでも惰性でずっと倒れているような生き様というのか、そんな時間、いつ終わるともしれない
極度に強い予期不安もあった 親しい人であろうと来訪者があったり、とにかく予定を組まれるともうダメ、本番恐怖症、予定を万全で果たさなきゃという期待に勝手に自分で押しつぶされてえずいて吐き倒して予定をキャンセルして脱走する、まさに本番恐怖・症 飛び込み出来てくれたほうがまだ火事場の馬鹿力で対処できる、ただし30分くらいまで、それも1日にせいぜいひとつだけ
嬉しいことも辛いことも、プラスマイナス関係なく感情の振れ幅の絶対値に応じてしんどい。再婚できた嬉しさでかえって調子悪くなってしまって、妻が自分のせいなのかと悲しげに怒ってきたこともあった
他にもさまざまにままならない強い拒否に突き動かされること多数
きっかけはパワハラ
もともとカミソリみたいな男だった。触るな危険。やばいやつ
そんな僕だったからこそ記者発表から何からエースプレゼンテーターとして任されていたし、難しい商品とかになると世に出るか出ないか存亡が私の双肩にかかっていたから、僕がなんとかしなければ文字通り世界が変わらないから、これが刺さる人々が僕を僕が発する声を待ってくれていたから、全宇宙が僕を待っていたから、そう思ってた
でもダブルクリックしたら安定してプレゼンを再生してくれる、みたいな扱いでどんどん「え、それやるんですか?」とエスカレートする職務。無理ですと言うと出来る出来ないじゃない、やれ、という話になり、自分もその通りだそれがプロだと思っているからそれに応じて疑問も抱かず、どんなに疑問があってもプロなんだからと自分を鎮圧軍の戦車みたいに圧殺して頭から特攻
だから予期不安、極度の本番恐怖症
ある日、足元が崩落 まさにプレゼンせんとすという瞬間、足元が崩落、必死で椅子を引っ掴んでそこに尻もち、奈落へと引き摺り込まれかかるのを椅子にしがみついてプレゼン開始、それがまさに氷山がごろんとひっくり返った瞬間、まったく裏返ってしまう自分のキャラ、見たこともない知らない自分が顔を出す。 帰宅途上、音楽という音楽が大嫌いに。なんという傲慢、なんと言う自己顕示欲、なんというマウンティング、その塊にしか聞こえない。
医者からもカウンセラーからも不治の病という診断、一生治りません
そもそも最初はきっと物理的な病気に違いないと思って神経科へ受診したけど先生の表情がどんどん怪訝になっていくので「これって精神科ですか?」って聞いたら「そりゃそうでしょう、だって原因が明らかなんだから」と。
で、行った精神科は予約不要だったけど薬を処方するばかり。とはいえ薬で結構楽になったからまだまだ仕事できると思って服用しながらエースプレゼンテーター続行。自分もそうしたかったし、自分がやるしかないんだ自分しかやれるやつがいないんだ、でもなんで結局いっつも俺一人で世界を牽引してんだよなんで俺一人しかいないんだよ
でも2年たってもある一定の線からどうしても浮上せず頭打ち。埒あかないのでセカンドオピニオンを聴きにいったら、薬とカウンセラーとを併用したほうがいいという診察になり、そっちに鞍替え
仕事もいきなり外される、それがまた衝撃。だから職場の給湯室の隅っこでよく目を両手で覆って頭を抱える。息をするのも辛い日々が始まる。
不安障害
行きつ戻りつ、揺り戻しの日々。生きていくのはなんと辛いことかと
一生治らないって言われたのに、結局16年半で治った
せいぜい還暦のころ寛解できてたらいいね、だったのに、寛解どころかもっと手前の年齢で16年半で本当に治った。治った原因は誰にも分からない。人事担当者によると、あれはネモさんだから治ったんだと言う。なんやそれ
徐々に治ったのでもない 最後の1年位かけて急速に浮上してった
そもそもの最初は2、3年かけて急速に悪化。そこから底を這う深海魚みたいに横ばい。時に真っ暗な海溝がぱっくり口を開けてさらに引き摺り込まれてぐんぐん沈没。揺り戻し。あらがいたいけど、あらがうこともできない。電池切れ。生きていくための電池切れ
リハビリがてら地道な仕事していると、仕事を覚えないというので先輩に怒られてさらに沈没 でも私にとって優秀になるということは再び経営陣に叩かれるという恐怖なので、優秀になることを否定しなければ生きていけない
ままならぬ、わがこころをかかえつつ しなやか、したたか、生きてゆきたき
十年近くたったころ、DAWを学んでなんやしらん作品をつくりはじめた。気分を落ち着かせるために写経するみたいな気分。でもそれは静かな生きた証でもあった。なによりもかつてensoniq VFX-SDとRoland VS-1680とで作品を作って以来、すんごく久しぶり。録音してみよう、そのためには今のメソッドとしてDAWを学ぼう、という気になったことそのものが、そもそもの進歩
そのうち経営がおかしくなり、外部からコンサルが来て社員インタビューしたいというので真っ先に僕が選ばれた。おびえて突き動かされながら言いたい放題言ったら「心が不安定かもしれませんが、おっしゃっていることは正しいです」と言われた
その数年後、1年かかって少しずつ力がもどってくるとともに同時に不安も強くなりつつも、徐々に薬を間引き、飲む間隔を伸ばし、最後に飲むのをやめたら、数日のちに坂道を転がり落ちるみたいに調子悪化。それを世間では離脱症状と呼ぶのだと後追いで知った。 やっぱダメかまた薬漬けに戻るのか結局一生これかとがっくりしたが2ヶ月かかってまた良くなってきたので、もっぺん減薬して最後にやめてみたら、今度は本当に治った
治り始めると逆の不安もあった。それまで薬という杖をついて生きてきたわけで、それが突如としてぱぁ〜ん!と取っ払われた気分。おろおろする。で、用心しながら足を踏み締めて歩く
ほんとうに治ってくると、さらに今度は妻が私に追いつけなくなってきた 弱ってる私しか知らなかった妻に対し、私はだんだん口ごたえするようにもなってきたわけだ。妻が知らない私が顔を出そうとしていて、妻は私の変化に追いつけなくなっていた
そんな難しさも逆にあった
ひたすら会話を、対話を続けるしかなかった ここまで来れたのは、妻のおかげなのだから
未だに治ったのが嘘じゃないかと思える あんなしんどかったのに。心もままならなかったのに
元のヤバいやつに戻るのではない。一部それを期待してる向きもあったけど、あっさり降りた。新しい自分になる。ドタキャンもできるようになった。セイフティネットが先。無駄な我慢もしなくなった笑。明鏡止水なことが増えた。 そして何よりも妻に感謝して何度も話して何度も食事にも連れてった
自分に必死すぎて16年半の記憶がほぼない。でもそれはそういうもんなんでしょう
もし職場にて「あやつは深淵から生きてかえってきよった」そう思われてるならどうぞ。仕返しはしない。でも、言わんとあかんことは今度こそはっきり言うから
LA在住カナディアン上司に笑顔で言ったことがある 「Like "Heaven gave me the second chance"(天は二度目の機会を与えたもうた、みたいな)」 したら笑顔で 「Yeah, and I'm happy to see your phoenix moment.(せやな、ほいであんたの不死鳥モーメントに立ち会えて嬉しいワ)」
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『クラユカバ』『クラメルカガリ』
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『クラメルカガリ』『クラユカバ』を公開初日に続けて観てきた。面白かった。以下ネタバレがある。上の写真は3月末に閉館してしまった地元の映画館で撮った。二度と足を運ぶことのできないクラガリになってしまったが、たくさんの名画に出逢わせてもらった。
 まずクラガリが「亜炭堀りの坑道」を広げる途上で発見された正体不明の地下世界である、という設定がめちゃめちゃ良い。亜炭は我々の世界でさかんに用いられていたのは昭和40年代ごろまでだったそうだが、『クラユカバ』『クラメルカガリ』の人々にとっては過去の話ではない。地下世界発見の経緯や箱庭の成り立ち、懐かしいようで見覚えのない奇妙な街並みを舞台に生き生きと描かれる人々の暮らしぶりを観て我々が抱くのは、亜炭が「現在」の彼らの生活を支える身近な資源であるという実感だ。しかしそもそも亜炭とは、かつて地上に生息していた木々や植物が腐敗する前に土の下に埋もれ、そのまま地中で何十何百何千万年という永い時間をかけて変質していった結果できあがる代物だ。あの人々の生活から匂い立つ(亜炭は燃焼すると甘酸っぱいような独特の匂いを発したらしい)亜炭の存在感は身近かもしれないが、亜炭のもとになった木々は人類がまだ生まれてもいない数千万年前から地上にいた、と考えると途端に途方もなさが際立つ。  亜炭とは人間の文明以前からそこに在り、亜炭が埋もれている深部の地層もまたそれだけ古い時代からそこに存在し続けてきた。つまり亜炭が眠り続けていた深さの地下世界とは、人知も神秘も及ばぬ遙か遠くの「過去」の世界、ということだ。  木々のように腐敗もせず水のように流転もせずただただ地中に横たわり続けた「過去」が、永い時のなかで亜炭のごとき変容を果たし「過去」ではない何か、暗がりではではない何かに変容してしまったのだとしたら。それが亜炭堀りたちの見つけてしまった世界のきざはし、見世物一座が「くらゆかば」と消え去った暗渠の向こう、あるいは虫喰いを辿った先にある未踏の暗がり────「クラガリ」の始まりとするならば。タンネやトメオミの装束が博物館を司る機関の制服に似ていること、クラガリに「曳かれた」人間が過去にまつわる譫言を吐くばかりになっていたこと、「クラガリの端にしてほとりのクラブチ」で荘太郎が過去の幻影に囚われかけたこと。これらの理由を想像するのが個人的に楽しくなってくる。
 クラガリに「惹かれるな」ではなく「曳かれるな」、なのはクラガリがすすんで誰かを呼んでいるわけではないという意味かもと思う。過去を求めた人間が地下へ、あるいは自分の内側へ深く深く潜っていった結果クラガリに接触してしまう。クラガリが「せり上がってきている」時ですらクラガリに何かを惹きつける意志はなく、何かを曳いたところでクラガリが変わることはない。暗がりで道を選ばされるのはつねに曳かれたほうだ。  加えて暗がりで人が観るものといえば夢、映画、幻灯の類いだろう。荘太郎も大幻灯を浴びて人形劇や紙芝居やメリエスの無声映画のごとき幻影を彷徨ううち、父と母と平穏に暮らしていた幼い頃の「過去」へと歩き去ってしまいそうになる。父の帰りを待ちながら老いて亡くなった荘太郎の母は人形劇の世界で身体の色が金から白に変わっていったし、過去の幼い姿でどこかへ歩いていこうとする荘太郎の世界は色がなく、その背後に並びはためく幟も白い。金とか灯りは生きてる人間の色、白はクラガリに行ってしまったひとの色なのかもな、と思う。そこに見世物一座の「千里眼」の少女によく似た、白い髪の幼いタンネがやってきて、「これ、忘れ物」と掌を差し出す。  色々あってサキを福面党から取り戻すことはできたものの、見世物一座は「くらゆかば」と去り、父は帰らないままだ。それでも荘太郎が思い出したように探偵事務所の引き出しを開けると、そこには幼いタンネが届けてくれたあの金色の巻き鍵がある。それは事務所の壁にかけられた時計の巻き鍵だ。荘太郎が子どもの頃クラガリに行ったことがある記憶をちょっとしゃべる冒頭のシーンで、荘太郎の後ろの暗がりが映り込む演出があったけど、あの事務所は荘太郎の過去が留まり続けたクラガリでもあったと思う。だから巻き鍵によって再び動き始めた時計が時を刻む音の響くラストは、過去は取り戻せないままなれど、止まっていた時間をようやく進めることのできた荘太郎にとって明るいものだった気がするのだ。
 クラガリに曳かれながらもクラガリから抜け出でて自分の道を進む人間たちの話が『クラユカバ』であるならば、クラガリの真上で変わり続ける街とともに変わりながら生きる人間たちの話が『クラメルカガリ』なのだろう。物語の序盤で「箱庭紡ぎ」は街の「点と点を繋いで紡いでいく」仕事だと飴屋が言うが、それは『クラメルカガリ』という物語の構造そのものでもある。クラガリに曳かれる人間、曳かれた人間、街の変化を愛する人間、街を日々変えていく人間、変わっていく人間。それらひとりひとりの足取りが繋がり合いクラガリの上にひとつの物語が編まれていく。その変容を地図に、あるいは自分の内側に留めていく少女カガリの足取りは日々に翻弄されながらもまっすぐで迷いがない。作中でははっきりと描かれないが、虫食いの話になるたびカガリの顔が曇ったりなにか言いたげな顔をするのは彼女の両親の死んだ理由が虫食いに関係あるからではと思うのだが、それでも紡ぎの仕事は「嫌いではない」と彼女は言う。ユウヤの地図をすごいと評したカガリの、虫食いのことは書いてあったけど鉱泉の川に通じてるあの道のことは書いてなかった、との指摘も彼女なら至りうる。  というか『クラユカバ』でクラガリの端にふれると『クラメルカガリ』で地下の「虫食い」に潜ってまで地図を作りしかもその生き方を楽しんでいるカガリの生き様がちょっと異様であることが分かる。亜炭の鉱脈の上に成り立つ「泰平さん」と「箱庭」、そのさらに地中深くから時折湧いて出る虫食いを辿ればおそらくクラガリに行き着くのだし、特に映画の時系列は伊勢屋曰く「今は時期が悪すぎる クラガリがせりあがってきている」のだ。「箱庭」は日々様相が変わる街だから地図が必要なのだと飴屋は語るが、街がどれだけ変わろうとクラガリは変わらないのだろう。変わっていくのは地上にせり上がるクラガリに「曳かれ」る街のほうでしかない。  そういう街で箱庭紡ぎの仕事を担うふたりの街に対する思いが対比になっているのが面白い。ユウヤが日の当たる場所に行くまでの繋ぎに過ぎないと思っていた「紡」の仕事がカガリにとっては人生の楽しみであるというすれ違いは、カガリが記憶していた地下の脇道を「こんな細い道 俺だったらいちど地図にしたら忘れてる」と呟くユウヤの台詞にも表れている。ただしカガリがその道を覚えていたのは紡の仕事を気に入っているからだけではない。「もったいない、一緒に歩いたの大事な思い出だよ」と笑ったカガリにとって、ユウヤはこの街の記憶ごと大事にしたい存在なのだろう。この台詞にはカガリの街への思い入れと日々紡いでいるものへの意味が宿る。日の当たる場所に行きたかったユウヤが街を一時去るとき、「わたしユウヤくんの地図、好きだから!」と橋の上から笑顔で手を振るカガリには昇り始めた陽の光が当たっている。カガリとは地中のクラガリを行くための篝火であり、ユウヤにとっても日の当たらない場所=箱庭=クラガリを照らす篝火だったのではなかろうか。
 ところで『クラユカバ』で荘太郎を福面党の一員と勘違いしてしょっぴこうとしたおっさんと『クラメルカガリ』でシィナ総長に声をかけていたおっさんが同一人物なのでこの二作はそんなに時間が離れてないんだろうな。『クラユカバ』で福面党にまぎれていたムジナの男が『クラメルカガリ』では髪が伸びた風体で石猿一家をけしかけていたあたりほぼ同時期というわけではなさそう。にしても福面党のボスが「御多福」なのは洒落がきいてる。ムジナと福面党の関係も気になるところだ。  演出面では、『クラユカバ』で車両から逃げる荘太郎が「じょうぶ~!!」て叫んでたシーンを『クラメルカガリ』のカガリがアブラムシから逃亡するときセルフオマージュしてたのが楽しかった。それと『クラユカバ』では荘太郎のお父さんが荘太郎になぜ探偵をやっているのか聞かれて「ここがむかし川だったことは知っているか?」、そんなふうに世の中に隠れている謎が好きで父さんは探偵をしているんだと答えたり、クラガリの入口を探していた荘太郎が街のじいさんに「トンネルを掘るときは一旦土地を開けてから埋める だから地図を見ればトンネルがどこを通ってるか分かる」と教えてもらったりと、『クラメルカガリ』ほどではないけど地図や土の記憶が大事なモチーフとして取り上げられてたのが良かった。荘太郎の降り立った橋のあたりとカガリが坑道から抜け出て川に流れ出たあたりはぱっと見近いかなって思ったけど実際はまったく関係ない景色なのかな。観直したさがある。  にしても『クラユカバ』を観るとこの深い深い世界のどの要素から『クラメルカガリ』が構築されたのか分かって楽しいし、『クラメルカガリ』を観てこの世界をもっと深く知りたいとおもった人に『クラユカバ』は当然充分応えてくれる。『クラユカバ』の停留所には「成田亭良悟」の名前が書かれたポスターが貼られているのだけれど、栄和島と伊勢屋とおなじく「まったくの別人」ながらもこの世界に成田良悟先生の言葉もまた息づいているのだなと思えて嬉しかった。伊勢屋に自分の留守を任せていく栄和島と任された伊勢屋の反応、原作を知ってても知ってなくても激アツだったな……  そういえば自分が映画館でこれを観ていたとき、伊勢屋の店が画面に映った瞬間後方の席から「カストリ…!?笑」て困惑した男性のデカめの声が聞こえてきて面白かった。かくいう自分は自律機関が出てきた瞬間「蒸気王じゃん!?」て叫ぶところだった。閑話休題。
 ムジナの男がタンネ達と出くわす前に「ナマズとご対面だ」て言ってたのが気になってる。ナマズ=鬼(鬼灯色の瞳のタンネ)の由来がちょっと思いつかないし、地下を這う車両をシンプルに喩えた可能性はあるけれど、ナマズは地震を起こすと信じられてきた生き物だからムジナにとっては地下をわずらわすめんどくさい勢力としてナマズと呼んだのかな。だとしたらムジナたちって亜炭堀りに発見されるよりずっと昔からクラガリに潜んでる勢力なのかも。石猿一家が失敗したときも地下に帰る的なこと言ってとんずらこいてたし、新聞には浮世絵じみた絵で紹介されてるし。今後続編が制作されてムジナの行動理念が明らかになったら楽しそうだ。  ちなみに『クラメルカガリ』では蛙を鳥と云って出す屋台について「あれむしろナマズっぽいよね」とコメントしてた。箱庭はナマズ食が珍しくない文化なのか…?あとカガリとユウヤがごはん食べてた屋台の壁のお品書きに「目玉の甘」てあったけどあれなに?目玉の甘煮?  『クラユカバ』で荘太郎と稲荷坂が呑んでたお店もちょっと不思議で、荘太郎が生の中を追加したら新しいジョッキが来るんじゃなくて瓶から次いでくれるんだよね。「お兄さん!」て呼ばれた荘太郎が「ああもうそんくらいで」って止めたあと何かを継ぎ足して飲んでるあたり量でお代が決まるのか?と知りたくなった。というかあれ多分ビールじゃないよな(泡の載った金色だった覚えがない。自分が覚えてないだけかも)。テーブルにあった瓶のラベルにはホッペルと書かれてた。  『クラメルカガリ』のシィナが通信傍受機と同じ鞄に箱キャラメル入れてるのもめちゃいいし、シィナと飴屋の射的のシーンもなんてことないのに良さしかなかったな。ところでシィナさんと情報屋の伊勢屋はなんで知り合いなの?気になりすぎる。
 管使いのタンネが管(たぶん管狐)のことを今いる地下より「ちょっと深いところ」の生き物だって言ってたけど、カガリも「ちょっと深いところ」の話してたんだよね~どこだったかな。管の色が金色なのも荘太郎が陥りかけたクラガリの過去の幻影に関係ありそう。そもそも見世物一座の人間たちがみんな白狐の面を被ってたからな……探訪記者の名前は稲荷坂でクラガリに近い人間の名前ぽさがある。  どちらの作品もいろんな生き物の名前や意匠が取り入れられてるの面白いよね。荘太郎に情報提供した男は兎の面つけてたし、朽縄博士(くちなわは蛇と書いてもくちなわと読む)の子どもたちは牛蛙だったり虫の姿だったり公園にはザリガニがいたり。ササラちゃんはササラ電車からの命名だったりするんかな。あとアブラムシよける機械のデザインが電動の蚊遣りぽかったなと思ってそこだけパンフ見たら名前が「ムシヨケ」だったしよく見たらデザインも蚊遣り豚だったので笑った。朽縄おじいちゃんが朽縄博士だと明らかになるシーンの真打登場感も良い。  真打といえば荘太郎を演じた六代目 神田伯山さんは講談師の方なんだよね。『クラユカバ』『クラメルカガリ』はどちらも台詞回しがきもちよいけど荘太郎の語り口は抑揚の良さも相まってなおさら好きだった。あと活弁士と稲荷坂と石猿親分を演じてる坂本頼光さんは本職の活弁士の方だし、女性声優さんたちが演じるタンネやトメオミやカガリといったクラガリを探る少女たちのまっすぐに発せられる声と、クラガリとともに生きてきた男性キャラクターたちの物語ることを宿命付けられたような声が双璧を成す、両作品のキャスティングも外せない良さだと思う。寺田農さん演じる朽縄が、老兵は去らず此処にある的な台詞を最後にクラガリじみた研究所へ帰っていくのも印象的だった。  もし今後続編が制作されるのなら「僕にもわからないんだ 自分が何者でどこへ行くのか」と語っていたタンネの来た道や行く道のこと、トメオミが珍妙な慣用句を引用するたび添えていた「その道に曰く」の「その道」の意味(クラガリに繋がってる余所の道だと思う)、「轍」や見世物一座の正体が語られたらいいなと思うし、「泰平さん」の「テリヤス工業」時代の話やこのあとの箱庭の姿もまだまだ観たい。パンフに載っていたインタビューでは、監督は『クラユカバ』『クラメルカガリ』の両作品で「まだ語られていないこと、解かれていない謎」について「世界を閉じたくない」「モヤっとしたものを残すことで観た方の記憶に残したい」から謎を残していると述べているし、成田良悟先生との対談では「ちゃんと考えてはいるんですけど」「もっと面白い設定を思いつくかもしれない」から「前もってテキストに書き起こさない」とも話している。だからここまで自分が書いた感想はあくまでも現時点で得られる情報からの推察に過ぎないし、正解は監督の頭の中にしかない。いつか続編で明かされるクラガリとその周辺の世界の正体が、今回の自分の想像よりも遙かに深く面白く最高であることを楽しみにしている。『クラユカバ』『クラメルカガリ』を観たあの日の映画館の暗がりは、それでようやく自分にとっての美しき「クラガリ」になるのだから。
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abeya38 · 1 year
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私たちはどう生きるか?
宮崎駿の監督作品を劇場で鑑賞するのは、ナウシカ以来であらうか。当時、ナウシカを見たのは私が小学生になるかならないかの頃であり、映画館もない田舎の事なので通常の劇場ではなく、訣も分からぬまま母に連れられて行つた市民会館での上映を鑑賞したのであるから、全うに劇場公開中に見たのは、本日、小学生の我が子を連れて鑑賞した本作「君たちはどう生きるか」が最初であり、その最初の本作がスタジオジブリ(トップクラフト含む)乃至は宮崎駿の(内容的に)遺作だといふのはなんとも皮肉めいてゐる気がする。 素人の感想なので的外れかも知れないのだが、本作はスタジオジブリ乃至は宮崎駿監督の葬儀、いや正確には生前葬?に参列した弔問客である観客が、故人自身が監督した生前を偲ぶドキュメンタリーといふか、遺産目録といふか、故人の作品群の走馬灯を見せられてゐる気分であつた。 どう生きるか?とはどう死ぬか?といふ事と思ふ。 私たちはジブリ亡き後、どう生きるか? 主人公が私たち観客であるなら、大叔父(←大伯父でなく大叔父といふ記載がネット上であつたので)である宮崎駿がアニメーションといふ石の力で作り出したいくつのも世界を塔を軸にして見せられて来た訣だ。それは古いゲームで例へるなら「魔界塔士Sa・Ga」のやうでもあり、SFやファンタジーでよくある設定を下地にしてゐるようでもある。 また、それらの世界に親しみ、その後、現実に生まれ戻るといふのは「ミスティックアーク」のやうでもあるし、近い例であれば「シン・エヴァンゲリオン」から感じた現実回帰、作品世界からの卒業といふ感じが近いやうにも思ふ。 更にいへば、印象的な糸杉はゴッホの絵画を連想させ、それは黒澤明監督の「夢」といふ作品を想起させる。 だが、いかに巨匠と称へられてもいずれは忘れ去られてゆくし、その才能は血統により継承される訣でもないし、継承したところで相続人は相続人としての独自の世界を作る訣だから、故人の取り巻きや世論といふ周囲の批判を受け子孫への重荷にしかならないといふ悲観的といふか独善的な暗さが本作に反映されてゐるやうにも感じた。 作中で主人公やその母や叔母が神隠しにあふのは、いはゆる死後の世界、幽世といふよりは創作された作品世界に取り憑かれる事、キモオタ化を暗喩してゐるやうでもあるが、そちらの世界で養分を十分に取る事が出来たなら、宮崎駿作品に影響されて自身でも作品を作る人達が生まれてきてゐるとも取れる。生存競争は過酷である。 新たに生まれ出てくる芽を摘み取る役はペリカンであるが、彼らはここは地獄だといふ。ダンテの神曲なら地獄の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とあつたが、なるほど創作活動は煉獄山を登る如しといふ事だらうか。 ダンテの「神曲」に擬へるなら、主人公はダンテであり、母はベアトリーチェか。青鷺はウェルギリウスでモデルは鈴木敏夫?さうならば宮崎駿はコキュートスで氷漬けにされてゐる魔王サタンか?いや大叔父として薔薇を落としたならあれは「天上の薔薇」?至高天? いくつものモチーフがあるだらうけれど、神曲の内容なんて既に忘れてゐるので、wikiで確認してきたのだが、気になる部分をいくつか挙げてをく。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよの銘」「アケローン川が流れており、冥府の渡し守カロンの舟で渡る」「洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす」 「異端者の地獄 - あらゆる宗派の異端の教主と門徒が、火焔の墓孔に葬られてゐる」「第三の環 神と自然と技術に対する暴力 - 神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる」「第八圏 悪意者の地獄 - 悪意を以て罪を犯した者が、それぞれ十の「マーレボルジェ」(悪の嚢)に振り分けられる」「第二の嚢 阿諛者 - 阿諛追従の過ぎた者が、糞尿の海に漬けられる」「第九の嚢 離間者 - 不和・分裂の種を蒔いた者が、体を裂き切られ内臓を露出する」「第六冠 暴食者 - 暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。」「第七冠 愛欲者 - 不純な色欲に耽つた者が互いに走りきたり、抱擁を交はして罪を悔い改める」など。 神曲に地獄篇があるが、宮崎駿と息子・宮崎吾朗の関係を見ると芥川龍之介の地獄変とも取れる。 そして、神曲のやうでありながらそこにあるのは磐座であり、産屋であり、産屋に火を放つといへば一般に邇邇藝命(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命)と石長比売・木花之佐久夜毘売の姉妹を想起させる。 石長比売は永遠性を表すとされ、永遠の淑女を表すベアトリーチェと対応してゐる。 邇邇藝命の第一子が火照命(ホデリ=海幸彦)、第二子が火須勢理命(ホスセリ)、第三子が火遠理命(ホオリ=山幸彦)である。 主人公が弓矢を扱ふのは山幸彦、即ち神武天皇の祖父とも取れるのだが、主人公の母は石長比売なので??? いや、そもそも邇邇藝命と石長比売の間に子はゐないし、本作ではその子に位置する主人公は大叔父様(主人公から見た大叔父だつたか?大伯父ではなく曽祖父の弟?)の跡を継ぐ事なく戻つてしまふ。 なぜ木花之佐久夜毘売は産屋に火を放たせたのかといふ経緯も含めて、この辺りに意味はあるのか。基本的には神曲を下地にしてゐるのだと思ひたいものだ。 ◇----------------------------
7/25 追記 自分としては当然だと感じてゐた部分、ここまでいへば分かるだらう事でも、他者からすると異なる感想を持つやうなので、補足。 本作の大きなモチーフの一つとしてギリシア神話のオイディプス王、並びに彼を由来としたオイディプス(エディプス)コンプレックスを挙げてをく。 ・・・さういへばインコについて言及してゐなかつたのだが、オイディプスでいへば母と交はる禁忌を犯させない役割のスピンクス(スフィンクス)だらうか。神曲なら「第六冠 暴食者 - 暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。」といふ作品の浪費者だらうか。 母と叔母は先日述べた通り石長比売と木花之佐久夜毘売であるともいへるが、同一視されるやうにも感じられる。創作でよくあるらしいが、一人の人物の内面を複数の人物に分けて描写してゐるといふ事だらうか。その意味ではスピンクスを送つたヘーラーも同一視するべきなのかも知れない。 そのやうに考へると(「第七冠 愛欲者 - 不純な色欲に耽つた者が)互いに走りきたり、抱擁を交はして罪を悔い改める」といふその儘の演出と、産屋に立ち入る禁忌といふものが、胎中の子の父は誰なのかといふ意味にしか取れないのではないか。 さうであれば主人公の父、声を演じたのは木村拓哉ださうだが、立ち位置として、古事記的には瓊瓊藝命、ギリシア神話的にはオイディプス王の実父であるラーイオス王(余談だがラーイオスの父ラブダコスが死んだ時、ラーイオスの「曽祖父の弟(曾祖叔父)」が王位を簒奪したともいはれる)は、本作でもどうにも不遇な扱ひである。 繰り返しになるがモチーフは他にも挙げられるだらうし、そこは教養ある宮崎駿監督であるから、それこそ切りがないだらう。 しかし、膨大な知識を以てしても、それを活かす思想的背骨が歪であれば、それは作者或いは視聴者の狭量さや傲慢さ、猜疑心、理性主義や個人主義といふ範疇でしか組み立てられず、本質にある空虚さを「難解さ」や「演出の妙」といふオブラートで包む事でしか答へを出せないといふ哲学詐欺の一種にしかならないのではないかといふ気がする。 綺麗事で誤魔化しつつ、結果として大叔父の世界は継承せず、己自身も父からではなく己自身の才覚により生まれたのだ。父と子との紐帯などないのだから、ただ能力のみ評価されるのだ。といふ呪詛のやうに私には感じられる。 遺作でもここが限界なのだとすれば、それまでの事であつたのだ。 テーマに対して作者の力量不足といつたところか。 私の解釈・感想が全てではないし、門外漢の的外れな意見なのかも知れないが、このやうな絵空事をあれこれと解釈して遊ぶのも暇潰しにはなるだらうけれど、それよりは現実と向き合ひ「國體護持総論」や「祭祀の道」を学ぶべきだらう。 それでこそ本懐を遂げる事ができる。 ■ 國體護持總論 http://kokutaigoji.com/books/menu_kokutaigojisouron.html ■ 祭祀の道 http://kokutaigoji.com/suggest.html
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tommimi1125 · 1 year
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宮島達男《それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く》 東京都現代美術館
2023/05/13
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kozuemori · 1 year
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相変わらず猛暑が続きますね。青空に浮かぶ入道雲はとてもダイナミックですが、しばらくは窓から眺めた方がよさそうです。予報では10月になっても最高気温が30度程度と高くなる日が続く可能性があるのことですから、熱中症の注意はもうしばらく必要のようです。
先日、『ミセス・ハリス、パリへ行く』という映画を観ました。私が子どもの頃大好きで何度も読んだ、ポール・ギャリコ著『ハリスおばさん パリへ行く』の映画化です。エンディングも含めて原作と内容が違う場面が結構ありましたが、ワクワクしながら文字を追ったり、巻頭の写真ページや挿画を飽きることなく眺めていた懐かしい少女時代にタイムスリップすることができました。
この物語の最大のテーマは、『夢や憧れ』です。(ここからはネタバレを含みますので、映画をご覧になりたい方はご注意ください。)
舞台は1950年代のイギリス・ロンドン。戦争で夫を失ったハリスおばさんは、家政婦として何軒かの得意先で働きながら慎ましい生活を送っていました。ある日、裕福な得意先の家でディオールのオートクチュールドレスを見つけてその美しさに圧倒され、やがて自分も手に入れたいと願うようになります。
ハリスおばさんの夢や憧れにどれだけ共感できるかが、このお話を楽しめるかどうかの鍵になるでしょう。私がこの本に出会ったのは小学生の頃でしたから、遠い国に住む年の離れた主人公の夢や憧れを、何の抵抗もなく自分のもののように感じたのを覚えています。でもその当時は主人公に共感するばかりで、友人たちやパリで出会ったディオールの関係者たちが何故主人公の現実離れした夢や憧れを笑わずに応援し、助け、協力するのかまでにはあまり想像を巡らせなかったように思います。また、ドレスを手に入れるまで何度も幸運に恵まれる過程に、少しご都合主義を感じました。けれど、年齢を重ねてスピリチュアリズムに出会った今の視点で改めてストーリーを追うと、以前とは違うものが見えてきました。
それは、夢や憧れはその人だけのものではないということです。周りの人もその人を助け、応援し、実現に向けて協力することで、同じ夢や憧れを共有することができること、その夢や憧れを実現するために現れる幸運というものには、カルマや指導霊たちが関与しているということです。
遂に夢が叶い、完成した唯一無二のドレスを手にして意気揚々とロンドンに戻ったハリスおばさんは、家政婦としての日常に戻ります。すると、得意先の売れない新米女優が悲観しながら、パーティに来ていくドレスがないと訴えてくるのです。その夢や憧れに共感したのか、ハリスおばさんは出来上がったばかりのディオールのドレスを貸してしまいますが、彼女の元に戻ってきたのは大部分が燃えてしまい、見る影もないドレスの姿でした。結局、ハリスおばさんは完成したドレスを一度も着ることができなかったのです。原作にはないシーンで、映画ではハリスおばさんが燃えてしまったドレスをテームズ川に投げ捨ててしまう場面がありますが、その気持ちや行動に共感する人、しない人がいるでしょう。でも、ハリスおばさんが持ち、追い続けた夢や憧れ、それを手に入るまでの惜しみない努力、それを追う過程での失敗を含む経験や感情、そしてさまざまな人々との出会いがドレス以上の価値をもつ永遠に残る財産だということを否定する人は、きっと少ないでしょう。
もうすぐ秋学期が始まります。今年1年間のアウェアネス、霊性開花の総まとめです。どの生徒さんにも夢や憧れがあり、その目標を追い続ける真摯な姿は、映画の中のハリスおばさんの姿とピッタリ重なります。私も講師として参加してはいますが、クラスの中で皆さまの夢や憧れを共有させてもらいながら、更なる気づきや学びと癒しのエネルギーを受け取っています。3ヶ月間、一緒に今年1年を振り返りながら更なる光の道を進み、来年への道筋へと繋げてゆきましょう!
秋学期��マントラ入門クラスは、生徒さんからのリクエストを含め、次のカリキュラムを予定しています。参加者の方々の経験やレベル、既に習ったマントラがあれば、それも考慮します。初心者の方でも無理なく唱えられるように、ゆっくり取り組んでいただけるクラスです。古代インドのヴェーダの叡智と出会い、美しい言霊のエネルギーに触れ、癒されてください。
・全ての障害を取り払うマントラ ・学習能力、表現能力、知力を伸ばすマントラ ・師を敬い、光の知識を与えてもらうマントラ ・死や病を克服するマントラ(2種類) ・世界平和を願うマントラ ・1日の始まりに女神たちと繋がるマントラ ・マントラの発音の違いなどの間違いを許してもらうマントラ
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秋学期クラスへのお申込受付を開始いたしました。実りの秋、1年の霊性開花の締めくくりを共に体験してみませんか?皆さまのご参加をお待ちしています!
お申し込みはこちらからどうぞ。
継続の方は直接ショップからお申し込みください。
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今後のイベント・ワークショップ 詳細はこちらから
ドロップイン・ナイト 各回とも木曜日 19:00〜20:00
・8月31日(木)指導霊のサイキックアート
・9月14日(木)過去世のサイキックアート 
・11月9日(木)指導霊のサイキックアート 
お申し込みはアイイスまでどうぞ! 
下の写真は、過去に開催したドロップイン・ナイトで行った指導霊と過去世のサイキックアートから抜粋したものです。
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takahashicleaning · 4 months
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TEDにて
ショーン・ゴーリー:戦争の数理学と解決方法
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
始めにマスメディアのあらゆるニュースから集めたデータをもとにして物理学者のショーン・ゴーリーのチームが照らし出すのは、現代の戦争が持つ驚愕の構造と法則である。
k?もしかすると、それは、戦争を解きほぐす鍵かもしれない。wave?マスメディアが情報操作?
はじめに横に流れてゆくニュース字幕に着目し、データが隠れていたのを見つけました。身の回りのこんなノイズにも実は情報が隠れているのです。
そこで私は、ここにはオープンソースの知とでも呼べるものがあると捉え始めました。ここから十分なデータが集まれば 戦争を理解する最初の鍵が得られるかもしれないと。
まず、経済学や数学などの分野から学問領域を越え、科学者を呼びました。すると数学的に一貫した分布がコンピューターから導きだせるのです。驚愕でした。戦争に法則などあるものなんでしょうか?
他のデータでも、まったくの同じパターンを描きます。まさか、こんなことがあり得るのか?全く別々の戦争なわけだし、宗派や 政党、社会経済的な問題まで全く違うはずです。
にもかかわらず、そこには一貫したある基礎パターンが存在します。では、戦争はどうしたら終わらせることが出来るか?に関してもある傾向があるそうです。
もう一歩進んでみましょう。どうしたらこれを変えられるか?イラクのような戦争は、どうしたら終わらせることが出来るか?そのときグラフはどう見えるだろうか?αこそが構造でした。
この数値がある値をを保つ。その数値が戦争が続く時を示します。それを変えればいい。
数値を上げれば、勢力は分裂し始め 数は増えるが、弱体化する。もしくは、数値を下げれば、強固にはなるが、規模が縮小する。腰を据えた対話ができるレベルかもしれない。
そこで、これからお見せするグラフは、誰の目にもまだ触れていない、文字通り出来立てほやほやのものです。ここに数値αの変遷をみることが出来ます。最初の段階で、数値が安定状態へと近づいてゆきます。
世界中の戦争が共通してもつ数値へと。ファルージャ侵攻においても、数値α周辺をさまよい続けます。
その数値は2006年イラク選挙中のサマラ爆撃にいたるまで続きます。そこで数値が乱れ始め、より高い値になってゆき、分裂状態へと向かいます。
それはまさに、戦況が激化したときでした。意見は分かれるところですが、当時、さらに激化が進むだろうと予期されていました。しかし、全く逆の結果となります。集団はより強大となり堅調なものとなります。
ここで、よし、このまま数値が下がってくれればと思うわけです。対話し解決へと向かうことができると。
しかし、また、逆の結果が起きます。数値は上昇し、集団はより分散し始めます。この二側面に争いを終わらせる一つの鍵を見出すことが出来ます。
紛争が始まったばかりの頃のように、武装勢力がなんの影響力も持たない状況に戻るか。もしくは、分断化され、立ち退くことができるレベルに落ち着くか。
戦争を終わらせるための明確な答えは分かりません。ただ、その答えを出すためには、どうやら戦争、マスメディアの構造に着目する必要がありそうです。
歴史が示すところによれば、警察が、ひとたび大量のデータを保有し、無実の人々の追尾するようになると暴走し、拡大解釈をし続け、脅し、威嚇、特権意識の乱用や政治的な優位を得る行為、時には、法令を無視した同意や許可申請のない単なる覗き見行為へと濫用されがちです。
幸いにも、我々にも取るべき手段があります。市議会は、地方警察を統制できるので、条例を制定することによって無実の人々の情報を破棄し、保存期間も短期間にすることで、このような技術の合法的な使用のみを認可するのです。
オウム真理教の集団テロ事象の原因は開発独裁特有の当時、自民党55年体制の特権意識による負の遺産とインターネット黎明期にまだ周波数を独占的した民放テレビ局の暴走が談合を産み出し、警察機関が職権乱用して談合に便乗。監視も悪用し権力を思うままにふるまわせたことによる出来事にすぎない。
みなさん。考えてみてください!オウム真理教の集団テロ事象の後の警察権力は拡大してます!防衛庁は防衛省になりましたよね。拡大してます!スピード早くないですか?歴史的に見ると危険です。権力を思うままにふるまわせたことによる証拠です。憎しみの連鎖の起点の一つ。
テレビ潰れろ!なくせ!警察の職権乱用。警察が悪さしないようにまず監視カメラを警察内部につけろ!防衛省を防衛庁に格下げ、警察予算を削減してベーシックインカムの原資にすること。
それから
警告として・・・
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
警察予算削減や軍事費(防衛費)削減などは
スタグフレーションも予防できます!
これは、1970年以降、先進国で生産が停滞し、失業率が増大する停滞期にもかかわらず、物価は好況期に引続き高騰してしまう現象。
スタグフレーションの原因は、景気停滞期において軍事費を主として、消費的な財政支出が拡大していること。
次に、労働組合の圧力によって名目賃金が、マイルドではなく、急上昇を続けていること。
三つ目は、企業の管理価格が強化され、賃金コストの上昇が、価格上昇に比較的容易に転嫁されていること。
などにあるとされている。
本質的に法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構!
この定義以外は、戦前の治安維持法の権力濫用やディストピアという過ちを繰り返す可能性大。
その証拠に、優先ワクチンを口実にして優越的地位をふりまき権力濫用してる警察関係者。
米国では2020から2021年。個人給付を実施して結果が出た!
日本では、現状は、数回の一律皆給付を行い足りないGDPギャップを解消が最善。
バイデン大統領は2021年、財務長官にイエレン就任した際の経済対策の一環
「世界が相互に結びついたことのもう一つの結果が30年に及ぶ法人税率の引き下げ競争だった」
というマクロ経済学の結果を明示した前提で各国の多年の法人税引き下げ競争を終わらせ、20カ国・地域(G20)で協力して共通の最低税率を設ける国際的な取り組み
法人税に世界的な「最低税率」を設定することで合意するよう調整していると言います。
実現が遠い世界的なデジタル課税よりも現行法の範囲での現実的な提案をしたかもしれない!
2018年くらいから、GAFAMなどに対して、再分配に関するベーシックインカムや国民皆給付金。中央銀行のデジタル貨幣。
新型コロナウイルスのパンデミックで日本ではクリーニング師を含めたエッセンシャルサービスの重要性が再認識される。
GAFAMなどが基盤にしているストーカーアルゴリズムが問題になる。
規制を強化する方向に進んでます。
これはひどい人権侵害の法律!法律改正して再修正かな。
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和の��めに」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。
要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
日本の戦前の警察。
ベーシックインカムの原資を警察予算から徴収すること!
傲慢な警察機構の集中解体を可能にする権利の法的な選択肢を低収入者に与えること。
NHKや民法テレビ局の放送周波数の短時間停止させる権利を集団訴訟可能にする法的な選択肢を低収入者に与えること
が戦争への抑止力と戦前からの教訓です。
<おすすめサイト>
マイケル・サンデル:メリトクラシー(能力主義)の横暴
ブライアン・A・パヴラーク:セイラム魔女裁判で何が起こっていたのか?
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
データ配当金の概念から閃いた個人的なアイデア2019
フューリー (字幕版)
セバスチャン・ユンガー:なぜ?退役軍人は戦争が恋しくなるのか!
ジャン = ポール・マリ:戦争で死と遭遇した後に残される恐ろしい余波
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念
<提供>
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