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#トラック島空襲
herbiemikeadamski · 2 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月17日(金) #先負(丙午) 旧暦 1/27 月齢 26.3 年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 今朝は新しいルートの品川廻りで向かっ て居ます🤚到着が34分も早いのです が5時15分発の準急に乗るんです💦 48分も早い電車なんだが34分😅💦 ただ、品川からの下りは空いて居て 良いかも🤣😆🤣時間が早いからな のでしょうけど😅💦これからこの ルートになるのですが、今朝は3時半に 目が覚めて慌ただしっかった⤵️⤵️ 辛いっすよね😓にしても沢山の方が 朝も早よから、ご苦労様ですよね🙏 . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋️はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ガチャの日  日本で初めてカプセル玩具の「#ガチャ」を導入した株式会社#ペニイが制定。 同社では「ガチャ」の自動販売機および商品の販売を行っており、年齢、性別を問わず 幅広い人々に愛されている「#ガチャ」の魅力をさらに多くの人に知ってもらうのが目的。  日付は同社の創立記念日(1965年2月17日)から。  「#ガチャ」は何が出てくるか分からないのが楽しい「手のひら#サイズの#サプライズ」商品。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・センブ・サキマケ、とも言う).  陰陽(おんよう)道で、急用や公事(クジ)に悪いとされる日。  「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。  午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . # 一粒万倍日(イチリュウマンバイビ).  何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。  但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #大明日(ダイミョウニチ). この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #月徳日(ゲツトクビ).  家の建築やリフォーム、土を動かすことが良いとされる吉日です。  その月の徳神様が降りてきている日。  特に家の増改築や土に関することには吉日とされる。   . #不成就日(フジョウジュビ). 何事も成就しない日とされ、結婚・開店・子供の命名・移転・契約・芸事始め・願い事など、事を起こすことが凶とされる。 市販の暦では他にも色々なことが凶となっていて、結局は全てのことが凶ということになる。 . . #トラック島空襲. 太平洋戦争中の1944(昭和19)年2月17日(木)大安.~8日(金)赤口.に かけて、アメリカ軍機動部隊が実施した日本軍の拠点トラック島への攻撃である。 . #ビートル・タイプ1世界一. #天使のささやきの日. #ツタンカーメン王墓発掘の日. #ノアの洪水の日. #千切り大根の日(#切り干し大根の日). #雪の特異日. #電子書籍の日. #中部国際空港開港記念日. . . #国産なす消費拡大の日(毎月17日).#いなりの日(毎月17日) . #減塩の日(毎月17日).#えんぶり(青森県八戸市) - 2月20日 . #コンボ独立記念日. . . ■本日の成句■. #隣の花は赤い(トナリノハナハアカイ). 【解説】 他人のものは何でもよく見えて、うらやましく思う事の例え。 また、他人の持つ珍しいものを直ぐに欲しがる様。 . . 1997(平成9)年2月17日(月)仏滅. #斎藤ちはる (#さいとうちはる) 【アナウンサー、元子役、元アイドル】 〔埼玉県さいたま市〕. . . (戸塚駅) https://www.instagram.com/p/CovSR7bhIOPTLufUJr-7NW1uRLKV4NyCfwKCMA0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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nebris · 2 years
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Operation Hailstone (Japanese: トラック島空襲, romanized: Torakku-tō Kūshū, lit. 'airstrike on Truk Island'), 17–18 February 1944, was a massive United States Navy air and surface attack on Truk Lagoon, conducted as part of the American offensive drive against the Imperial Japanese Navy (IJN) through the Central Pacific Ocean during World War II.
Prior to Hailstone, the IJN had used Truk as an anchorage for its large Combined Fleet. The coral atoll surrounding Truk's islands created a safe harbor, where the few points of ingress and egress had been fortified by the Japanese with shore batteries, antiaircraft guns, and airfields.
American estimates of Truk's defenses and its role as a stronghold of the Japanese Navy led newspapers and military men to call it the "Gibraltar of the Pacific", or to compare it with Pearl Harbor. Truk's location in the Caroline Islands also made it an excellent shipping hub for armaments and aircraft moving from Japan's home islands down through the South Seas Mandate and into the Japanese "Southern Resources Area".
By early 1944, Truk was increasingly unsustainable as a forward base of operations for the Japanese. To the west, American and Australian forces under General Douglas MacArthur had moved up through the Southwest Pacific, isolating or overrunning many Japanese strong points as part of Operation Cartwheel. The U.S. Navy, Marine Corps, and Army, under the command of Admiral Chester W. Nimitz, had overrun the most important islands in the nearby Gilbert Islands and Marshall Islands, and then built numerous air bases there.
As a result, the Japanese Navy had to relocate the Combined Fleet's forward base to the Palau Islands, and eventually to Indonesia, and the fleet had begun clearing its major warships – carriers, battleships, and heavy cruisers – out of Truk before the Hailstone attack struck.
Nevertheless, the Hailstone attack on Truk caught a good number of Japanese auxiliary ships and cargo ships in the harbor, as well as some smaller warships. Between the air attacks and surface-ship attacks over the two days of Hailstone, the worst blow against the Japanese was about 250 warplanes destroyed, with the concurrent loss of irreplaceable experienced pilots, and 17,000 tons of stored fuel.  Also, about 40 ships – two light cruisers, four destroyers, nine auxiliary ships, and about two dozen cargo vessels – were sunk.
Considerable damage was inflicted on the various island bases, including dockyards, communications centers, supply dumps, and its submarine base. Truk remained effectively isolated for the remainder of the war, cut off and surrounded by the American island-hopping campaign in the Central Pacific, which also bypassed important Japanese garrisons and airfields in the Bismarck Archipelago, the Caroline Islands, the Marshalls, and the Palaus. Meanwhile, the Americans built new bases from scratch at places including the Admiralty Islands, Majuro, and Ulithi Atoll, and took over the major port at Guam.
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Hailstone
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akirateranishi · 1 year
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『最強電撃艦隊(2) -電光石火の同時奇襲!-』 (林譲治著/電波社)
架空戦記小説。 先の戦闘でオーストラリアを降伏させることに成功した日本は、ジャイロ爆弾やラムジェットを搭載した新型爆撃機の「九三式陸攻乙」などを用いて快進撃を続けていた。そしてオーストラリア軍残党が抵抗を続けるラバウルへの侵略を開始し、占領することに成功する。その頃、米太平洋艦隊は宣戦布告の遅れなどの政治的要因により、出遅れたものの、撹乱を目的としたトラック島への攻撃を敢行した。その後、日本は来たる真珠湾攻撃に向け、米艦隊の注意を逸らすべくミッドウェー島との両面同時奇襲を画策する。暗号解析により日本の動向を察知した米艦隊の魔の手が迫るなか、熾烈を極める戦いの舞台は太平洋へと移る……!!
2023年8月
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ari0921 · 3 years
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「#宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和四年(2022)2月13日(日曜日)
      通巻7217
(読者の声1) 長崎県・端島の炭鉱や島民の暮らしを記録したドキュメンタリー作品「緑なき島」で、NHKは炭坑内で作業員が褌一丁で、キャップランプのないヘルメット姿で、這いつくばるような低い坑道で作業するなど、事実とまったく異なる映像を使い、信じがたい事実の改ざんを行った。
明々白々な嘘であったことを突きつけられても、「取材に基づき制作・放映されたものと考えております」と主張。つまり「端島でない証拠がないので端島だ」と開き直っている。こうして、NHKの虚偽映像が韓国の「強制労働」の反日宣伝として世界中で活用され続けている。
 日本を貶めるだけの目的で「武装した兵隊と憲兵に護衛され、徴発隊の一員として、島を縦横に駆け巡り、泣き叫ぶ若い朝鮮人女性を狩り立て、片っ端からトラックに積み込んだ。役得として、トラック上で強姦する兵もいた」との大嘘をさも事実であるかのように世界に広めたのも、NHK、朝日、岩波などの反日集団である。
そのたびに日本は貶められ、「平和のための少女像」とされた売春婦の銅像に「1931年から1945年まで日本帝国軍によって奴隷化を強いられた」「数十万人に及ぶと推定」とか、「20世紀の人身売買で知られる最大のケースの一つ」と碑文が付けられた慰安婦像が世界中に建てられた。
 こうした反日捏造報道は1つや2つではなく、様々な番組や記事の行間にも散りばめられている。
NHKは2021年12月10日に放送された「歴史探偵 写真で迫る真珠湾のリアル」では、気高く、尊い海軍航空隊がさも民間人の住宅を平然と爆撃・殺戮したという嘘をばら撒いた。
日本軍の攻撃は敵軍事施設や軍艦への犠牲攻撃であり、無垢の民間人を無差別に殺傷した事実はない。良民を苦しめず、非戦闘員を殺さずというのが皇軍の建軍以来の精神であり、伝統である。
放送された映像は(「緑なき島」のようにまったく別の映像を使ってないとすれば、)真珠湾の軍事基地内の戦闘員居住区であり、民間人の住宅を爆撃したものではない。
 秘書の給与をピンはねして税金を盗んだ辻元は「平和を愛好する北朝鮮が拉致するわけない」と断言し、北朝鮮が拉致疑惑を認めると、これを擁護するため、「日本は、かつて朝鮮半島を植民地にして、そのこととセットにせずに、「9人、10人返せ!」ばかり言ってもフェアじゃないと思います」といってのけた。
拉致被害者がいまでも帰国できない原因の一端は辻元某、NHK、朝日、岩波などの反日集団にあるといえるだろう。
NHKが大東亜戦争の劈頭、日本軍が民間人の住宅を平然と爆撃・殺戮したという嘘をばら撒けば、米軍による東京大空襲や原爆攻撃も正当化されてしまう。
こうした非人道的攻撃で殺害された人々に対して恥ずべき反日集団の態度は改めさせるべきである。
 放送法では報道は事実をまげないですることが定められている。真実を歪め悪意ある編集を行い、放送法を踏みにじる番組を放送したNHKは完全に違反しているというほかはない。
NHKはみなさまの受信料をこのような反日プロパガンダになぜ使うのかも説明すべ��である。NHKが反日宣伝を続ける限り、私は反日を支援するのに使われることになる受信料の支払いを拒否する。
狂った公共放送は不要。善良で常識ある国民なら、私に続いて受信料支払いをやめるべきである。資金源を断つ以外にもはやNHKに違法行為を止めさせる手段はないだろう。反社組織に資金提供してはならないのと同じである。
  (匿名希望)
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liliyaolenyeva666 · 3 years
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🎼 01319 「北の宿」。
闘鶏のやうな賭け事の模様から始まります、とある (口の悪い) しがないタクシー運転手の賭け事な日々と それからを描いた 東映映画 「河内のオッサンの唄」 を観ています。齊藤武市監督作品。河内松原駅前でしごと (メーター無しのタクシー運転手) をしていた 川谷拓三さん似のトクさんは ミヤコ蝶々さん似のオバちゃんが怪我を負ってリアカーで運ばれて来たのを見、仲間を連れて左手を怪我した現場の山村建設に 殴り込みをかけます。大阪府警察松原警察署に連行されたものの、直ぐに出て来た トクさんでしたけれど、原っぱに車を泊めて寝ていたところ、急にバックして来たトラックに追突されてムキーッと激怒します。そんなトクさんの愛車にトラックを ぶつけた青年は とんでもない秘密を抱えていたりして 物語が急展開を迎えることと相成ります。そんなこんなで 「東京はつまらん、東京なんか出て来ても何もオモロイことなんてあらへん」 なんて台詞が飛び出す中で、東京もんが めっちゃ嫌いなミヤコ蝶々さん似のオバちゃんがスクリーン狭しと暴れに暴れて 主役喰いな活躍を見せますこの映画、オバちゃんは 少女マンガふうな キャラクターが描かれたかわゆい水筒の中にお酒を仕込ませていたり (一日六升、本人曰く七升八升はいけるらしい)、三輪車で酔っ払い運転をしたり、終いには身体を張って走る車を停めやうとして ダイナミックに撥ねられたりと 目が離せません。
つづいて
訓練中の兵士たちの訓練風景をそれなりに映したあとの1980年5月、裏磐梯・フーバー米大使山荘で立て篭り事件が発生。人質を救出すべく陸上自衛隊 (特殊工作隊) の中の松方弘樹さん似の隊長率いる部隊が犯人を蹴散らすところから始まります、とある特殊工作隊隊員が 想像を絶する過酷な訓練の最中に訪れた村で出会った少女との日々を描いた 角川映画 「野性の証明」 をいつかのテレビで観たきり、久しぶりに観ています。佐藤純彌監督作品。とある村で起きた大量殺人殺人事件から 一年後の東北・羽代市。"祝 民間航空機就航記念、羽代空港民間機就航おめでとう" といった賑やかな雰囲気の中、高倉健さん似の保険会社の男は 何かを調査しているのですけれど、街の不良に襲われたりして怪我を負います。そんな高倉健さん似の男の家には 薬師丸ひろ子さん似の めだか組の組長が住んでいたりして、偶然に探りを入れていた 夏木勲さんだったころの 夏八木勲さん似の刑事は どうしてそこに 村で起きた大量殺人事件の生き残りな娘さんが住んでいるのだらうと不思議がります。そんな 一年前のとある村で起きた大量殺人殺人事件も未解決なままだったりして、夏木勲さんだったころの 夏八木勲さん似の刑事は、もしかしてもしかしたら 高倉健さん、もしくは デューク・東郷似のあの男性が何か関係しているるのではないかと睨むのですけれど、そんな途端に 捜査本部が解散します。といった感じで 羽代という街が 三國連太郎さん似の政治家の息がかかっていることがどうのとかいうよりも、薬師丸ひろ子さん似の女子高生の持つ予知能力が物凄かったりして いつの間にか サイキック映画と化して 映画も何もを吹き飛ばしますこの映画、物語後半の無駄に凄い戦車の場面は 今観ても気狂い沙汰な感で溢れていて痺れます。
つづけて
ふたりの仮面ライダー (第1号、第2号) が道路とも呼べない道路を 旧サイクロンで駆け抜けるところから始まります、人間の自由のためにショッカーと戦っている正義のバッタ人間、仮面ライダーの勇姿を描いた 東映映画 「仮面ライダー対ショッカー」 を観ています。山田稔監督作品。雷鳴轟く中 "大道寺 地球物理学研究所" では実験が大成功したやうで、彼らが開発したっぽい "人工重力装置GX" を大きくすれば地球の地軸すら変えることが出来るみたいです。まあ どうしてそんなものを作ってしまったのかしら、何て わたしの思いはさておき、そんなところに 「我々ショッカーは オマエの研究をじっと待っていたのだ」 と、きっと研究が成功するまで そこでじっと待っていたのかもしれない ショッカー日本支部の指揮官 死神博士が暗闇からヌッと現れ、そして 「オマエの研究は ショッカーが有り難く頂戴することになる」 と、床から滲み出て来た泡で助手を溶かします。何故か炎を上げて大爆発を起こす研究所。いつものアジトにタッタラーっと戻った死神博士は 「このデータから 直ちに人工重力装置の組み立てに取り掛かれ!地球の地軸を変えて、この日本列島を海の底に沈めてやる!」 と、何らかのデータをショッカーな研究員に手渡します。これで 日本列島は 小松左京さんの作品通りになるわい。ガハハハハッ!と思ったら、データを瞬時に読み取った優秀な研究員から 「お言葉ですが、死神博士!このデータには 最も重要な GXの方程式が載っておりませんが!」 ということで、早速ショッカーのポンコツぶりがブラウン管を飛び出したスクリーンな世界でも遺憾無く発揮されます。という訳で、その方程式をどうのこうのしやうと全力で狙うショッカーの活躍を描いたこの映画、過去に仮面ライダーに敗れた怪人たち (再生怪人軍団) が 数えるのも大変なほどに めっちゃリバイバル登場していてヤバミです。
・そんな正義の改造人間にバッタバッタと倒されちゃった再生怪人軍団たちを物語順にテキトーに書き留めます。
・第2号に倒されちゃった怪人
モグラング と サボテグロン
ハエ男
・第1号に倒されちゃった怪人
アリガバリ
・第1号に (たぶん) 倒されちゃった怪人
地獄サンダー
・ダブルライダーに倒されちゃった怪人
ギルカラス と プラノドン
・ダブルライダーに (何となく) 倒されちゃった怪人
サラセニアン と トリカブト
・ダブルライダーに (たぶん) 倒されちゃった怪人
ドクダリアン と キノコモルグ
・ダブルライダーに倒されちゃった新怪人
新怪人 ザンジオー (人喰い山椒魚)
・仮面ライダーに倒されずに出番を失ってしまった怪人たち
アリキメデス
アルマジロング
イソギンチャック
エイキング
エジプタス
狼男
カニバブラー
ガマギラー
カメストーン
カメレオン (男、死神カメレオン)
蜘蛛男
ゲバコンドル
蝙蝠男
ゴースター
さそり男
ザンブロンゾ
スノーマン
ドクガンダー (成虫と幼虫)
トドギラー
ナメクジラ
ムカデラス
ムササビドール
ヤモゲラス
ユニコルノス
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラット���ームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて��砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集���発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警��反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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pudknocker · 5 years
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火炎瓶を投げつけられた隊員たちは火だるまになってのた打ち回った。火傷を負って倒れ無抵抗となった隊員それぞれに「殺せ!ヤッちまえ!」「生きて帰すな!」などと叫ぶ複数人が寄ってたかり、隊員の衣服を引きちぎり防護装備を外し、(事件後、一部のマスコミは「襲撃を受けた福島小隊員は、装備を外し、一部には靴まで脱いで休憩状態のものもいた」とあたかも部隊が現地で油断をしていたかのように報じた)、さらに手錠をかけるなどして抵抗できない状態にした上で釘を打ち込んだ角材や鉄パイプで滅多打ちにするなど、激しいリンチを加えた。またその場から撤退しようとした隊員らも、土地鑑がない上に付近にあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められる民家もなく、ゲリラに取り囲まれると次々と脇の林や茂みに引きずり込まれてやはり滅多打ちにされ、土下座を強いられたり裸にされ手錠で木の幹に繋がれるなどした。 福島警視は火炎瓶を受けて火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところをゲリラ集団に襲われた。無抵抗の福島警視はヘルメットを剥ぎ取られ、他の隊員から奪った手錠をかけられた上でゲバルト棒や鉄パイプで滅多打ちにされ危篤状態となり、病院に搬送中に死亡した。柏村警部と森井警部補も倒れたところを襲われ、防護装備を奪われ福島警視と同様の暴行を受け、それぞれ搬送先の病院、空港公団事務所の救護室で死亡が確認された。これらの暴行を行った者達の積年の恨みを晴らさんとするかのような容赦ない仕打ちは周囲にいた青年行動隊からも制止が入るほどの激しさであり、事件を目撃した反対派シンパであるとする地元住民も後日マスコミのインタビューでやりすぎだったと語り、東峰十字路周辺に住む反対派の農民ですら「警官を殺してくれとは言っていない。遺族が可哀想だ」と学生の暴走を非難した。 福島小隊の重傷者の多くは事件後の犯人特定や証言を困難にするために顔を集中攻撃されており、若い隊員の中には顎の骨を砕かれ、全ての歯を失った者もいた。襲撃の場に居合わせ、負傷者の搬送に協力したトラックの運転手は竹槍で顎を刺し貫かれた隊員がいたと証言している。 さらには倒れた隊員に濃硫酸をかけ、火炎瓶で放火したとの警察側の主張もある。負傷者が搬送された成田赤十字病院の院長は、かなり固いもので殴られているため、制服の下に防護装備をつけていても胸を骨折した者がいた、と証言している。 その後、血の海に倒れうめく機動隊員らを残し、ゲリラ集団は入り組んだ地形を利用して逃げ去った。
東峰十字路事件 - Wikipedia
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xf-2 · 6 years
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議長、副大統領、議員の皆さん、ファーストレディー、米国民の皆さん、我々は今夜、限りない可能性の瞬間に立ち会っている。新しい議会の始まりにあたり、私は全ての米国民のため、歴史的な大躍進を達成するため皆さんと協力する気持ちでここにいる。
 何百万もの米国民が今、この偉大なる議場に集まった我々を見ており、二つの政党としてではなく、一つの国家として統治することを望んでいる。
 私が今夜示す計画は、共和党の計画でも民主党の計画でもない。米国民の計画だ。
 我々の多くが中核となる同じ約束のために運動してきた。それは、米国の労働者のために米国の雇用を守り、公平な貿易を要求することだ。国のインフラ(社会基盤)を再建し、再活性化させることだ。保健医療と処方薬の価格を引き下げることだ。適法で近代的で安全な移民制度を作り上げることだ。米国の利益を第一にする外交政策を追求することだ。
 米国政治には新たな機会がある。それをつかみとる勇気さえあればいいのだ。勝利とは、自分の政党を勝たせることではない。国民のために勝つことだ。
 今年、米国の使命の荘厳さと米国人の誇りの力を確認する二つの大事な記念日を迎える。
 6月には、アイゼンハワー将軍が大いなる聖戦と呼んだ、連合国軍による欧州解放作戦の開始から75年を迎える。ノルマンディー上陸作戦の決行日の「Dデー」、つまり1944年6月6日、我々の��明を暴政から救うため1万5000人の米国の青年たちが空から、6万人以上が海から強襲した。
 そのときの信じられないほど素晴らしい英雄3人が今夜、我々と共にここにいる。ジョゼフ・レイリー1等兵、アービング・ロッカー2等軍曹、ハーマン・ゼイトチク軍曹だ。敬意を表したい。
 2019年に我々はまた、月面に米国旗を立てるため勇敢な若い飛行士たちが宇宙を約25万マイル飛んで以来50年となることを祝う。半世紀後(の今)、旗を立てたアポロ11号の宇宙飛行士の1人が(ここに)参加している。バズ・オルドリン氏だ。今年、米国の宇宙飛行士は米国のロケットで宇宙に戻る。
 ���国は20世紀、自由を守り、中流階級のありようを一変させた。皆さんが本腰を入れれば、世界の中で米国と競争できるところはない。我々は今、大胆に勇気を持って米国の偉大な冒険の次の章に進まなくてはならない。21世紀にふさわしい新たな生活水準に一新しなければならない。すべての市民が素晴らしい生活の質をもう少しで手に入れられる。
 我々はかつてないほど地域を安全にし、家族を強固にし、文化を豊かにし、信仰を深めるとともに、中流階級をより大きく、より豊かにすることができる。
 そのために我々は復讐(ふくしゅう)や抵抗、報復の政治を拒絶し、協力と妥協、公益の限りない潜在力を追求するべきだ。
 我々は、何十年も続く政治的な行き詰まり状態を共に打開することができる。昔からの分断に橋をかけ、古い傷を癒やし、新しい連立を築き、素晴らしい米国の未来を切り開くことができる。決断は我々にかかっている。
 偉大さか停滞か、成果か抵抗か、未来か復讐か、途方もない進歩か無駄な破壊か、選ばなくてはならない。
 今夜、皆さんに偉大さを選択するよう求める。
 この2年間、私の政権は、何十年にもわたり両党の指導者が放置してきた問題に立ち向かうため、切迫感をもって歴史的なスピードで行動した。大統領選からたった2年余りで、我々は空前の好景気をもたらした。かつてないほどの好景気だ。530万の新規雇用を生み出した。製造業で60万の新規雇用を創ったのは特筆できる。誰もがそんなことはできないと言っていた。事実は、これはまだ始まりということだ。
 賃金はこの何十年で最速のペースで増え、私が身を挺(てい)して支援すると約束したブルーカラー労働者で一番伸びている。500万人近い米国人が低所得者向け食料品購入券「フードスタンプ」の支給対象から外れた。米国経済は私が就任した時に比べ、ほぼ2倍の速さで成長している。米国経済は、世界のどこと比べても圧倒的な差をつけて活況だといわれている。
 失業率は半世紀で最も低い。アフリカ系米国人、ヒスパニック系米国人、アジア系米国人の失業率も、史上最低水準だ。障害を持つ米国人の失業率も史上最も低い。歴史的に最多の1億5700万人が今、就労している。
 我々は就労世帯に大規模な減税を行い、児童扶養控除を倍にした。小規模の企業や牧場、家族経営の農場にかかる不動産税や相続税を実質的に廃止した。
 とても不人気だった医療保険制度オバマケアの加入義務違反に対する罰金を廃止した。重病患者が救命治療を受けられるようにした。未承認薬を使えるようにする法案を通過させた。
 私の政権はほかのどの政権が任期中に達成したよりも多くの規制撤廃を短期間で実現した。歴史的な減税と規制緩和の結果、多数の企業が米国に戻ってきている。
 米国でエネルギー革命を起こした。米国は今、世界一の石油と天然ガスの産出国だ。今や、約65年ぶりにエネルギーの純輸出国となる。
 24か月の急速な発展を経て、我々の経済は世界の羨望の的だ。軍は地球上で最強だ。米国は日々、勝利している。議員の皆さん、米国は強力である。我が国は活気にあふれ、経済はかつてないほど繁栄している。
 1日には、今年1月だけで雇用が30万4000人増えたとの発表があった。予想のほぼ2倍だった。米国で経済の奇跡が起きている。唯一それを止めるものがあるとしたら、おろかな戦争か政治、あるいは、ばかげた党派的な捜査だろう。
 平和と法律があるところには、戦争も捜査もあるはずがない。そんなことにはならないものだ。
 我々は国外の敵を打ち負かすため、国内で団結しなければならない。
 この新たな協力の時代は、連邦機関のポストにふさわしい高い能力を有する300人以上の候補者の指名承認で幕を開けられる。手続きは今も上院で止まっており、中には何年も待たされている者がいる。上院は行動を怠っており、これでは候補者だけでなく国に対して不公正だ。
 今こそ超党派の行動が求められる。信じるか信じないかわからないが、それが可能であることを我々はすでに証明している。
 前の議会で、両党は力を合わせ、鎮痛剤オピオイド乱用問題に対処するため前例のない法案を通過させた。包括的な新農業法案、退役軍人省の改革を通した。さらに40年否決され続けた、退役軍人省の説明責任法案を可決した。これにより、素晴らしい退役軍人に対するひどい扱いをようやくなくせる。
 そしてほんの数週間前、両党は画期的な刑事司法改革に向けて団結した。昨年、私は友人からアリス・ジョンソンの話を聞いた。私は深く心を動かされた。
 1997年、アリスは麻薬を巡る違法行為で終身刑を言い渡された。初犯で暴力に手を染めたわけでもなかったのにだ。
 その後20年以上、彼女は刑務所の牧師となり、他の受刑者により良い道を選ぶよう励ましてきた。刑務所の受刑者に大きな影響を与えた。影響はそこだけにとどまらなかった。
 アリスのケースは、判決の不平等や不公平を明確に示している。この不公正を是正する必要がある。彼女はほぼ22年間受刑し、残りの人生を刑務所で過ごすことになっていた。
 私は6月、アリスを減刑した。彼女は今夜ここにいる。アリス、ありがとう。我々にはいつだって自身の運命を決める力があることを思い出させてくれた。
 アリスのすてきな家族が刑務所の門で彼女を迎え、抱きしめ、キスを交わし、泣き、笑うのを見たとき、私は正しいことをしたと実感した。
 アリスのような話をきっかけに、私の政権はファースト・ステップ法の成立に向けて、両党の議員と緊密に連携した。この法は、アフリカ系米国人の権利を誤ったやり方で過剰に損なってきた刑法を改革するものだ。
 ファースト・ステップ法は、暴力を伴わない犯罪者が生産的で法を順守する市民として社会復帰する機会を与える。今、国中の州が続こうとしている。米国は罪が償えることを信じる国だ。
 今夜、ここにテネシー州からマシュー・チャールズも来ている。1996年、マシューは30歳のとき、違法薬物販売などの罪で35年の刑を言い渡された。その後20年にわたり、30以上の聖書の講義を修了し、法務書記となり、受刑者たちの良き助言者となった。彼は今、ファースト・ステップ法のもとで出所した最初の元受刑者となった。ありがとう、マシュー。
 今、共和党と民主党は、差し迫った国家の危機に立ち向かうために再び力を合わせなければならない。
 国土を守り、南部国境を厳重に警備する予算案を通すために、議会には10日の期間が残っている。
 今こそ、米国が不法移民をなくし、密入国を手引きする冷酷な一味や組織、麻薬密売人や人身売買組織を壊滅するために取り組んでいることを、議会は世界に示すときだ。
 今こう話している最中も、中米からの移民集団の大規模な隊列が米国を目指している。メキシコの複数の市当局が、不法移民を地域から排除するために、バスやトラックに彼らを乗せ、我が国の国境警備が手薄な場所に送り込んでいるそうだ。このとんでもない猛襲に対処するため、南部国境に3750人の部隊派遣を命じたところだ。
 これは倫理問題だ。南部国境の無法状態は、すべての米国民の安全、治安、金銭的安定に対する脅威だ。我々は、国民の暮らしと雇用を守る入国管理体制を作り出す義務がある。
 これには、規則を守り、法令を順守している、今ここに暮らす何百万人もの移民に対する我々の責任も含まれる。合法な移民は、様々な形で我が国を豊かにし、社会を強くする。私は我々の国に、かつてないほど多くの人々に来てほしい。しかし、それは合法的でなければならない。
 不法移民ほど我が国の政治的、階級的な分断を明示する問題はない。豊かな政治家や献金者は、壁と門と警備に守られながら、国境の開放を求めている。一方で、米国の労働者たちは、雇用の減少、低賃金、教育の負担、社会保障の衰退といった大規模な不法移民の代償を払っている。
 不法移民への寛容は思いやりではない。現実は非常にひどいものだ。(米国を目指し)北上する女性の3人に1人が性的暴行を受けている。密売人たちは、我々の法律を悪用し、我々の国に入国するために移民の子供を人質として利用する。
 人身売買業者たちは、何千人もの少女や成人女性を米国に密入国させ、彼女らを売春に従事させるため、我々の通関施設間の広い地域をたくみに利用している。
 何万人もの善良な人々が、我々の暮らす街に国境を越えて流入した覚醒剤、ヘロイン、コカインなどの危険な薬物によって死んでいる。
 悪質なギャング組織「MS―13」が少なくとも20州で活動している。彼らのほとんどは南部国境を越えて入ってくる。ちょうど昨日、メンバーの一人がニューヨークの地下鉄ホームでの射殺容疑で拘束された。我々はこのようなギャングのメンバーを排除しているが、国境の安全が保証されるまで、彼らは逆流し続ける。
 年を追うごとに、犯罪的な不法外国人によって殺害される米国人は数え切れない。
 私は多くの素晴らしい「天使の母たち、父たち、家族ら」を知るようになった。誰も、彼らが耐えなければならなかったようなひどい心痛に苦しむべきではない。
 今夜ここに、デボラ・ビッセルが来ている。3週間前、デボラの両親ジェラルドとシャロンはネバダ州リノの自宅で強盗に入った不法な外国人に撃たれて亡くなった。2人は80歳代で、4人の子供と11人の孫、20人のひ孫がいた。ここには、その孫娘のヘザーとひ孫のマディソンも来ている。
 ほとんどの人はあなたたちの痛みを理解できない。ありがとう、ここにいてくれてありがとう。本当にありがとう。私は決して忘れないし、ジェラルドとシャロンのために、このようなことが二度と起こらないように闘う。
 危険な国境の管理を怠り、もうこれ以上、米国人の生命が奪われることがあってはならない。
 米移民・関税執行局(ICE)は、この2年間で、26万6000人の不法な外国人を拘束した。この中には、性犯罪にかかわった3万人や、殺人事件に関与した4000人が含まれる。
 こうした法執行の英雄の一人がここに来ている。ICE特別捜査官のエルビン・ヘルナンデスだ。エルビンと彼の家族はドミニカ共和国から合法的に米国に移住してきた。8歳の時、エルビンは父親に捜査官になりたいと言った。彼は今、国際的な性的人身売買を取り締まる捜査を指揮している。エルビンは言う。「もしこれらの若い少女たちが確実に正義を得られるならば、私は本当に自分の仕事をしたことになる」。彼と彼の同僚のおかげで、昨年、300人以上の女性らが恐怖から救われ、1500人以上の残虐な人身売買業者らが投獄された。
 我々はいつも、法執行に関わる勇敢な男女を支持する。私は今夜、ICEの英雄を滅ぼすことはないと誓おう。ありがとう。
 我が政権は、南部国境の危機を終わらせるため、良識ある提案を議会にしてきた。それは、人道支援や更なる法執行、入国時の薬物探知、子供の人身売買を可能にする抜け穴を封じること、国境の物理的な壁を含む。過去には、ここにいるほとんどの人が壁に賛成票を投じたが、壁は適切に建設されていない。私はそれを建設する。
 これはスマートで戦略的で向こうが見通せる鋼鉄の障壁であり、ただのコンクリート壁ではない。これは、国境警備隊によって必要性があると確認された場所に設置されるだろう。壁がつくられたところでは不法入国は激減すると国境警備隊は言うはずだ。
 サンディエゴ(カリフォルニア州)は、米国で最も多くの不法入国があった。サンディエ��住民や政治指導者の要求に応じて、頑丈な壁が導入された。この頑丈な壁は不法入国をほぼ完全に収束させた。
 メキシコとの国境都市であるテキサス州エルパソは、かつて、米国内で凶悪犯罪率が最も高い都市の一つで、最も危険な都市の一つと考えられていた。今は強力な壁のおかげで、エルパソは最も安全な都市の一つになっている。端的に言えば、壁は機能し、壁は人命を救う。
 だから、協力し、歩み寄り、真に米国を安全にする取引を成立させよう。
 我々は国民の安全を守るために働いている。経済の回復を速いペースで進めなければならない。
 昨年に創出された新規雇用の58%を占めた女性たちほど、私たちの発展する経済から恩恵を受けた人々はいない。すべての国民は、これまで以上に多くの女性が働けることを誇りに思うだろう。女性に参政権を与える憲法修正が議会で可決されてからちょうど1世紀、これまでで最も多くの女性が議会で活躍している。素晴らしい。おめでとう。
 あらゆる場面で女性の活躍する機会を改善する取り組みの一環として、我々は途上国の女性の経済的自立に焦点を絞った政府初の事業も始める。
 驚異的な経済の成功を築くためには、最優先事項として、数十年にわたる悲惨な貿易政策を転換させることだ。
 我々は中国に対し、長年にわたって米国の産業を狙い、知的財産を盗んできた今、雇用と富を盗み取るのはもう終わりだと明確にしておきたい。
 我が国は最近、約2500億ドル(約27兆4000億円)の中国製品に関税を課した。財務省は今、中国から何十億ドルも受け取っている。しかし、我々を利用したと、中国を非難するつもりはない。私は、この茶番を許した我が国の過去の指導者と議員たちを非難する。私は習シー(近平ジンピン)国家主席をとても尊敬している。
 我々は今、中国との新しい貿易協定に取り組んでいる。しかしその新たな協定には、不公正な貿易慣行を終わらせ、慢性的な貿易赤字を減らし、米国の雇用を守るために、実質的で構造的な改革が含まれなければならない。
 もう一つの歴史的な貿易の大失敗は、北米自由貿易協定(NAFTA)として知られる大惨事だ。
 私はNAFTAによって夢を砕かれたミシガンやオハイオ、ペンシルベニア、インディアナ、ニューハンプシャー、さらに多くの州で男女に会った。何年もの間、政治家はより良い協定を交渉すると公約してきた。しかし、今まで誰も実行を試みなかった。
 我々の新しい「米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」は、NAFTAに取って代わり、米国の労働者のために役割を果たすだろう。それによって、米国の製造業に雇用を取り戻し、米国の農業を拡大させ、知的財産を保護し、より多くの車に「メイド・イン・ザ・USA」の美しい四つの単語を誇らしげに刻印することを保証できる。
 私は今夜、相互貿易法を議会で通過させることを求めたい。他国が不当な関税を米国の製品に課したら、我々も彼らが売りたい同様の製品に全く同じ関税を課せるようにするためだ。
 両党は、米国のボロボロのインフラ再建という偉大な仕事のため団結できるはずだ。
 私は、議会がインフラ整備法案を通すことに意欲を持っているのを知っている。私は、未来の最先端産業のための投資を含めた、新しくて重要なインフラ投資を実行するための法整備で、あなたたちと一緒に働きたくてたまらない。これは選択の問題ではない。必要不可欠なものだ。
 私だけでなく、私たち全員にとって次の大きな優先事項は、医療と処方薬の費用を減らし、既往症のある患者を守ることだ。
 私の政権の努力の結果として、既に薬の価格は2018年に、46年間で最大の下げ幅を経験した。
 しかし、我々はもっとやらなければならない。米国人が、たいてい全く同じ場所で作られている全く同じ薬のために、他国の人より非常に高い金額を支払わされるのを受け入れることはできない。こんなことは間違っており不公平だ。力を合わせ速やかにやめさせたい。
 私は、医薬品開発費の負担が世界的に不公正になっている問題にようやく取り組み、米国の患者にとって公平性と価格の透明性を提供する法律を通すことを求めている。製薬会社や保険会社、病院に対し、競争を促し、価格を下げるために実際の価格を開示することも要求すべきだ。
 歴史上、米国の自由ほどの力を持って、人々の境遇を進歩させたものはほかにない。ここ数年で我々は、HIV(エイズウイルス)との闘いで目を見張る進展を遂げた。科学の飛躍的進歩は、遠い夢を手の届く距離に引き寄せた。私は、10年以内に米国でHIVの流行を確実になくすために必要な予算を民主党と共和党に求めたい。一緒に米国のエイズに打ち勝とう。
 今夜、私は全ての米国人が支持できる別の闘いに参加することも求めている。それは小児がんとの闘いだ。
 観客の中で今晩メラニアと一緒にいるのは、とても勇敢な10歳の女の子、グレイス・イラインだ。やあグレイス。彼女は4歳の時から誕生日のたびに、セントジュード小児研究病院への寄付を友人に呼びかけていた。彼女は自身が、患者になる日が来るとは思わなかった。それが起こった。昨年、グレイスは脳のがんと診断された。すぐに彼女は放射線治療を始めた。同時に地域に呼びかけ、がんとの闘いのために4万ドル以上を集めた。彼女が昨秋、治療を終えた際、「化学療法の最終日」というポスターを掲げると、彼女の医師や看護師が目に涙をためて喜んだ。ありがとうグレイス��あなたはこの部屋にいる全員の励みだ。
 多くの小児がんは新しい治療法が見つかっていない。私は、命を救う重要な研究のため5億ドルの予算を議会に求めている。
 共働きの親を助けるため、米国の子供たちのための公立学校選択制を通す時が来た。私は、有給の家族休暇を全国的に導入する計画を予算案に含める最初の大統領となることを誇りに思う。親がみな、生まれたばかりの子供と親密な絆を結べるようにするためだ。
 母親が幼児を抱く美しい映像と比べ、我々の国で最近流れた身も凍るような映像ほど、大きなコントラストを示すものはない。
 ニューヨークの議員は、生まれる寸前の赤ちゃんを中絶できるようにする法案の通過を喜んだ。こうした赤ちゃんは、生きていて感覚を備える美しい存在なのに、この世の愛も夢も決して触れられない。バージニア州の知事に至っては、その発言で、出産後に赤ちゃんを処刑する意図まで示した。
 全ての人の尊厳を守るため、私は、母親の胎内で子供が痛みを感じることができる妊娠後期の中絶を禁止する法案を通過させるよう求めている。
 無垢(むく)の生命を大事にする文化を共に築こう。根本の真実を再確認しよう。生まれた子もこれから生まれる子も、神の神聖な御姿をかたどったものだ。
 私の計画の最後は米国の安全保障についてだ。
 ここ2年以上、昨年は7000億ドル、今年は7160億ドルをかけて、我々は米軍を全面的に立て直すことに着手してきた。我々は他の国々に対して公平な分担をさせている。やっとだ。長年の間、米国は、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国である友好国から非常に不公平に扱われてきた。しかし、この2、3年でNATOの同盟国による1000億ドルを超える防衛支出の増額を確保した。彼らができないと言っていたものだ。
 軍増強の一環として、米国は最新式のミサイル防衛システムを開発している。
 私の政権下では、米国の利益を促進したことを巡って我々が謝ることは決してない。
 例えば、数十年前、米国はロシアとミサイル能力を制限し、縮小する条約を締結した。我々が合意とルールを誠実に守る一方、ロシアは長年、繰り返し取り決めを破ってきた。それが、私が中距離核戦力(INF)全廃条約から正式に離脱することを発表した理由だ。それ以外に選択肢がない。
 おそらく我々は中国やその他を加えて異なる合意を交渉できる。もしできなければ、我々は、ほかのどの国もはるかにしのぐ費用をかけて技術革新を行い優位に立つ。
 大胆で新しい外交の一環として、我々は朝鮮半島での平和のために歴史的な努力を続けている。我々の人質は帰国した。核実験は止まった。ミサイル発射は15か月間、行われてこなかった。私が米国の大統領に選ばれていなかったら、私の考えでは、今まさに、北朝鮮と大規模戦争になっていただろう。多くの仕事が残っているが、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と私の関係はよいものだ。金委員長と私は2月27、28日にベトナムで再び会う。
 2週間前、米国は正統なベネズエラ政府および新しい大統領、フアン・グアイド氏を正式に承認した。ベネズエラの人々の高貴な自由の追求を支持する。マドゥロ政権の残忍性を非難する。彼らの社会主義政策は、南米で最も裕福だった国を、みじめな貧困と絶望の国に転落させたた。
 ここ米国で、我々の国に社会主義を採用しようという新たな要求を警戒している。米国は、政府の強制でも支配でも統制でもなく、自由と独立の上に築かれた。我々は生まれながらに自由で、自由であり続ける。今夜、米国が決して社会主義国にならないという決意を再確認する。
 我々が長年にわたって直面する試練の中でもとりわけ複雑なものの一つは、中東にある。
 我々の取り組みは、原則にのっとる現実主義に基づいている。何十年も進展がなかった信用できない理論ではない。だからこそ我々の政権は、イスラエルの真の首都を認め、誇りを持ってエルサレムに大使館を開いた。
 我々の勇敢な兵士は今、ほぼ19年間にわたって中東で戦ってきた。アフガニスタンとイラクでは7000人近い米国人の英雄が命をささげた。5万2000人以上の米国人が重傷を負った。我々は7兆ドル以上を中東での戦闘で費やしてきた。
 大統領候補として、私は新しい取り組みを声高に約束した。偉大な国は、終わりなき戦争はしない。
 私が就任した時、イスラム過激派組織「イスラム国」はイラクとシリアの2万平方マイル以上を支配していた。今日、血に飢えた怪物の支配から、我々は実質的に全領土を解放した。
 「イスラム国」の残党を壊滅するため、同盟国と連携して取り組んでいる今、我々のシリアにいる勇敢な戦士に温かい「お帰りなさい」を贈る時だ。
 私はまた、アフガニスタンで政治的解決を、可能なら実現させるための交渉を加速させてきた。敵対勢力もまた、交渉が行われていることをとてもうれしく思っている。我々の軍は比類なき勇猛さで戦ってきた。そして、彼らの勇気のおかげで、我々は今、この長く血を見るような紛争の政治的解決となりうることに取り組むことができる。
 アフガニスタンで私の政権は、(旧支配勢力)タリバンを含む数多くの勢力と建設的な対話を行っている。これらの交渉が進展すれば、我々の軍の駐留部隊を減らし、テロ対策に集中することができるだろう。我々は実際にテロ対策に集中する。(和平)合意を実現できるかどうかはわからない。しかし、20年に及ぶ戦争を経て、少なくとも和平達成に向けて努力する時が来たことを我々はわかっている。相手も同じことをしたいと思っている。その時だ。
 敵味方の区別なく何より重要なのは、国民を守ろうとするこの国の力と意思を疑ってはならないことだ。18年前、テロリストたちは米駆逐艦「コール」を襲撃した。そして先月、米軍はこの襲撃の首謀者の一人を殺害した。
 我々は今夜、トム・ウィバリーが参加してくれたことを光栄に思う。彼の息子で海軍上等兵のクレイグ・ウィバリーは、我々が悲劇的に失った17人の乗組員の1人だった。トム、我々はいつでも、駆逐艦コールの英雄たちを記憶にとどめると誓う。ありがとう、トム。
 私の政権は、世界で有数のテロ支援国家であるイランの急進的な政権に立ち向かうため、断固とした態度で行動してきた。急進的な政権だ。彼らは本当に悪いことをする。
 この邪悪な独裁政権が核兵器を決して保有しないことを確実にするため、私は破滅的なイラン核合意から米国を撤退させた。そして我々は昨年秋、米国が一国に科すものとしては最も厳しい制裁を発動させた。
 我々は、米国に対して死を唱え、ユダヤの人々に対して集団虐殺を行うと脅す政権から目をそらさない。反ユダヤ主義という卑劣な害毒、その悪意に満ちた信念を広める人々を��決して無視してはならない。我々は一致団結し、こうした憎しみがいかなる場所で生じたとしても、立ち向かわなければならない。
 わずか数か月前のことだが、(東部)ピッツバーグのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)「生命の木」で、ユダヤ系米国人11人が反ユダヤ主義の襲撃によって残忍な形で殺害された。SWAT(警察特殊部隊)のティモシー・マットソン隊員は銃撃のさなかに突入し、7回撃たれながらも犯人を追跡した。そして非常に成功した。ティモシーは12回目の手術を受けたばかりで、さらに多くの手術を受ける。しかし、今夜、我々と共にここにいるために駆けつけた。マットソン隊員、ありがとう。我々は、永遠に感謝する。本当にありがとう。
 今夜、ピッツバーグの事件の生存者ジュダ・サメットも参加している。彼は、虐殺が始まった時にシナゴーグに到着した。しかし、彼は昨秋、死を免れただけではない。70年以上前、ナチスの強制収容所でも辛うじて生き残ったのだ。今日はジュダの81歳の誕生日だ(拍手。誕生日を祝う歌が歌われる)。彼らは私のためにそうしてくれないよ、ジュダ。ジュダは、約75年前、強制収容所で10か月間過ごした後、家族と列車に乗せられ、別の収容所に行くと言われたまさにその時を、今でも思い出すことができると言う。突然、列車がキーッと音を立てて止まった。1人の兵士が現れた。ジュダの家族は最悪の事態を覚悟した。そのとき、彼の父親は大きな喜びの声を上げた。「米国人だ、米国人だ」と。
 今夜ここにいる、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を生き抜いた2人目の人物のジョシュア・カウフマンは、ダッハウ強制収容所の捕虜だった。彼は、家畜運搬車の壁の穴をのぞき、米兵が戦車で続々とやって来るのを見たことを覚えている。ジョシュアは「私にとって、米兵は神が存在するという証しであり、彼らは空から下りてきた。彼らは天国から下りてきた」と回想する。
 今晩、私はまず、第2次世界大戦中の「Dデー」(ノルマンディー上陸作戦の決行日)に戦った兵士3人を称賛することから始めた。そのうちの1人がハーマン・ゼイトチクだった。
 だが、ハーマンの物語はもっとある。ハーマンはノルマンディー海岸を急襲した1年後、ダッハウ(強制収容所)の解放を手助けした米兵の1人だった。彼は、この世の地獄からジョシュアの救出を支援した米国人の1人だった。75年近くがたち、ハーマンとジョシュアは今夜、ギャラリーの中に共にいる。米国の自由発祥の地であるこの場に、隣り合って座っている。ハーマンとジョシュア。あなたたちが今晩ここにいることにとても感謝している。
 1944年、Dデーの早い時間帯、英仏海峡の暗い空の下で米兵が作戦に着手した時、彼らは18、19歳のただの若者だった。不安定な上陸用舟艇で、戦争の歴史の中で最も重要な戦闘へと突き進んでいったのだ。
 彼らは、その時を生き残れるのかわからなかった。年を重ねられるのかもわからなかった。しかし彼らは、米国が優勢でなければならないことはわかっていた。この国家、そして、まだ生まれていない世代(のために戦うこと)が彼らの大義だった。
 なぜ彼らはそうしたのか。米国のため、私たちのためにそうしたのだ。
 共産主義への勝利、科学と発見の大いなる飛躍、他の追随を許さない平等と正義への前進――。全てが、先人の血と涙と勇気、先見の明のおかげなのだ。
 この議事堂に思いをはせよう。あなたたちより前に(ここにいた)議員たちが、奴隷制に終止符を打ち、鉄道や高速道路を建設し、ファシズムを打ち倒し、公民権を獲得し、悪の帝国を屈服させるために投票を行った、まさにこの議場に思いをはせよう。
 今夜ここには、この壮大な共和国の各地から来た議員たちがいる。メーン州の岩石の多い海岸やハワイ州の火山の峰々から。ウィスコンシン州の雪深い森やアリゾナ州の赤い砂漠から。ケンタッキー州の青々とした農地やカリフォルニア州の黄金の砂浜から。我々は共に、歴史上最も類いまれな国家の議員を務めている。
 我々はこの瞬間、何をしようとしているのだろうか。我々はどのように記憶に残るのだろうか。私はこの議会の男女に求める。目の前にある機会を見よ! 最も感動させる偉業が、まだこの先にある。最も刺激的な旅が、まだこの先に待ち受けている。我々の最大の勝利はまだ先のことだ。我々の夢はまだ始まっていない。
 我々は、不一致によって規定されてしまうのか、勇気を持って違いを乗り越えていくのか、選ばなくてはならない。
 我々は、受け継いできたものを無駄遣いするつもりなのか、あるいは、米国人だと誇らしげに宣言するつもりなのかを選ばなければならない。我々は信じられないようなことをする。我々は不可能なことに挑む。我々は未知なるものに打ち勝つ。
 今こそ米国の想像力を再び燃え上がらせる時だ。最も高い頂を目指し、何よりも輝く星を目指して目標を設定する時だ。我々を市民として、隣人として、愛国者として結びつける愛と忠誠、そして記憶の絆をよみがえらせる時だ。
 これが我々の未来であり、運命であり、選ぶ道だ。私はあなたたちに偉大さを選ぶよう求めている。
 どんな困難に直面しようと、どんな難問が降りかかってこようと、我々は共に前進しなければならない。
 我々は、心の中に「米国第一」を掲げなければならない。魂の中に自由を息づかせなければならない。そして、神のみもとにある一つの国として世界各国の希望であり、期待であり、光であり、名誉であるべきだ――という米国の運命にいつでも信念を持ち続けなければならない。
 ありがとう。みなさんに、そして米国に神のご加護がありますように。そして、おやすみなさい。
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wmpsyndrome · 6 years
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積み木の太平洋戦争第2版について
コロンビアゲームズからPacific Victory 2nd edition(以下PV2nd、http://columbiagames.com/cgi-bin/query/cfg/zoom.cfg?product_id=3401)がリリースされた。
戦略級太平洋戦争ゲームは多くのタイトルを擁するテーマの一つだが、PV2ndはヒストリカル性、ゲーム性、プレイアビリティなどの点で良くまとまっていると思われる。とくに初版とはゲーム性など大きく異なっており、すごく良くできた面白いゲームなのだが、現時点で賛意を示してくれるのは私の他に2名ほどしか居ないようだ。とても勿体ないので少し長くなるが以下にレビューをまとめる。
本記事ではこのゲームの初版との違いやルールの概要などを紹介していく。
1.初版との違い
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初版の地図と勝利条件を見ると、日本軍プレイヤーは最終ターンに10点を守って引き分けとなっている。本土6点、台湾とトラックで2点なので他に2点保持している必要があり相当厳しい。また20点で即勝利だが南方作戦を完遂した上でインド、豪州の両方を攻める必要がある。得点源も限られており変化の余地に乏しい。
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第2版では中国戦線が追加されている。日本軍の初期領土は橙色と中国沿岸部の4ヶ所5点の計14点だ。13点で引き分けなので本土・朝鮮の7点と中国沿岸部の5点に加えて1点を守れば良い。また25点で即勝利だが初期14点に南方作戦で6点なので残り5点をビルマ、中国内陸部、インド、豪州などで取っていく事になる。
中国戦線の追加でバランスが向上し、日本軍の攻勢主軸が中国、インド、豪州と多角化していることが分かる。
2.ルールの概要(5つの移動とPinning、Blockades)
PV2ndのルールは比較的平易であり、地形効果(特にヘクスサイド)の表現が若干ややこしいものの要点を理解すればプレイは難しくない。
PV2ndには5つの移動方法がある。Operation Movement、Rebase、Strategic Movement(SM)、Sea Invasion、Raidsだ。
Operation Movementは通常移動であり敵基地に対しては陸対陸、海対海で侵入できる。Rebaseは 味方基地間を2倍の距離移動できる。Strategic MovementはHQを活性化して得られるSMsを消費して行う移動で1ユニット当たり1SMsで10ヘクス移動できるが敵性ヘクスには侵入できない。ターン毎に使用できるSMsはHQのステップ数に等しい。例えば1ターン目の日本軍は陸海軍あわせて8SMs使用できる。Sea Invasionは歩兵、機甲、海兵が海を隔てて敵基地ヘクスに侵入する移動で移動先に敵ユニットがいる場合2SMs、いない場合1SMsを消費する。Raidsは特殊な移動であり、ユニット毎に1SMsを消費して2倍の距離を移動し、射撃順位が自分以下の敵ユニットに対して先撃ちで1回射撃して即帰還するというものだ。反撃できるのは射撃された相手ユニットのうち生き残ったもののみである。一撃離脱の行動なので領土的メリットは無く生産コストの高いユニットへの狙い撃ちが主な使い方だ。生産コスト2の潜水艦とコスト4の空母が相討ちになれば御の字、といった感じである。
Pinningは侵入してきた敵ユニットと同じ数の味方ユニットはそのヘクスから脱出できないというものである。特に日本軍は駒が少ない(実際には駒の半分が日本軍なのだが少ないと感じる事が多い)ので攻勢に出るときは周りの敵ユニットをピンで釘付けにして空白地帯を取られないように気を付ける必要がある。
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Blockadesは敵海軍を撃退したものの敵陸軍が健在のまま戦闘が終了した場合、味方海軍を海上封鎖に残しておけるルールだ。blockadeされている陸軍は鉄道輸送以外では補給を受けることができなくなる。島嶼攻略で有効なルールだ。
3.プレイ方針の一例
私は数度のソロプレイと1度の対人プレイをしたのみだが、あくまで現時点での所感を以下に示す。
3-1.日本軍の方針
日本軍にとっての得点源は大スンダ列島、中国、ビルマ、インドに集中している。しかしながらこれのみに集中すると連合軍から抑え込まれがちなのでアリューシャン、ハワイ、豪州方面に圧力をかけて敵ユニットの分散を図るなどブラフとハッタリで間を持たせる事も必要だ。結果論として特に誘導されていないにも関わらずFS作戦やMI/AL作戦をする事になる。1度取った基地はdouble defence(2Hitsで1step loss)で1~2ターンほど稼げるので離島にユニットをばらまいて時間を稼ぐ事も有効だ。連合軍の主力は中部太平洋に集まりやすいのでこれを潜水艦によるRaidで叩いて時間を稼ぎ、虎の子の空母は豪州―インド方面で活用したい。
3-2.連合軍の方針
42年までの連合軍は戦力が不足しがちだ。とくにインド方面のイギリス軍は慢性的に非力であり中部太平洋方面も43年のエセックス級就役までは苦戦を強いられる。序盤の数少ない空母を日本の潜水艦や空母に襲われるのは痛手なので基地の選定は慎重にする必要がある。43年以降は強力な空母を活用し中部・南西太平洋から日本本土を目指す。戦域を跨ぐと指揮系統が変わってしまうが、攻撃後にRegroupingで元の戦域に戻ることもできる。
4.Free Deploymentのすすめ
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現時点で判明しているバグがあるので紹介しておく。写真は第1ターン目ヒストリカルセットアップのフィリピン付近。第1ターン目は日本軍先攻なのでダバオを取られるとフィリピンは補給切れになる。補給切れヘクスのユニットはLogisticsフェイズにステップロスするが、陸軍ユニット(HQを含む)は必ず1step残るため、SWPAのマッカーサーはフィリピンに閉じ込められる事になる。日本軍がこのままフィリピンを放置するとSWPAで作戦できなくなってしまう。このバグを回避するためにfree deploymentの活用を推奨する。すべてのユニットの配置を変えても良いし、例えばダバオのユニットとマッカーサーのみを置き換えるなどでも良いだろう。
5.おわりに
132個のブロック、ヒットダイスシステム、良好なゲームバランス、複雑になりがちな陸海空三軍の立体作戦をシンプルにまとめながら程よいヒストリカル性という太平洋戦争ゲームにしては希有なゲームなので是非ともプレイして頂きたいゲームだ。国内流通ではサンセットゲームズが和訳付き(http://www.sunsetgames.co.jp/col/victory/victory.htm)を扱っているので紹介しておく。
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herbiemikeadamski · 3 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月17日(木) #大安(辛丑) 旧暦 1/17 月齢 15.9 #満月(2時) 年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 眠いよぉ〜😪😪😪😪😪😪💤 今朝も余裕なし⤵️寝ながら駅まで 歩いて来た💦(無念)以前は4時間寝れ ば十分な感じでしたが、この頃は いくらでも寝て居たい心境です🤣 なんだろうね❓ここ前の変な騒動 で、からだバランスが崩れちゃった のでしょうか😅💦イヤイヤ歳なだけw っか🍃寒い😨ですよね🥶ブルブル。 こんなに寒いのに❄️つくばくんだり に行かなきゃならんのかねψ(`∇´)ψ . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋️はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #トラック島空襲. 太平洋戦争中の1944(昭和19)年2月17日(木)8日(金)にかけて、アメリカ軍機動部隊が実施した日本軍の拠点トラック島への攻撃である。  アメリカ軍の作戦名はヘイルストーン作戦で、エニウェトク環礁攻略を目的としたキャッチポール作戦の支作戦であった。 . #大安(ダイアン). 「大安日(にち)」の略。 陰陽(おんよう)道で、旅行・結婚など万事によい日。 一切合切(イッサイガッサイ)が良いとされる日。「大いに安し」の意味。 六曜の中で最も吉の日とされる。 何事においても吉、成功しないことはない日とされる。 六曜は、暦注の一つで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種の曜がある。 . 一粒万倍日(イチリュウマンバイビ).  選日の1つであり、単に万倍とも言われます。   一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になるという意味である。 .  一粒万倍日は何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。  但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。  また同じ意味合いで、借りを作る、失言をする、他人を攻撃する、浪費などもトラブルが倍増するので避けたほうがいいとされている。 . #満月(マンゲツ).  月と太陽の黄経差が180度となること、あるいはその瞬間。これを望ともいう。  またこの時に見られる月の形をも指す。これを望月、盈月ともいう。  月齢は13.8〜15.8であることが多く、平均では14.8である。  月相は14。太陰暦では15日か16日であることが多いので、満月の日の晩を十五夜とも呼んだ。   . #ビートル・タイプ1世界一. . #天使のささやきの日. . #ツタンカーメン王墓発掘の日. . #ノアの洪水の日. . #千切り大根の日(#切り干し大根の日). . #雪の特異日. . #電子書籍の日. . #中部国際空港開港記念日. . #ガチャの日. . #森のたまごの日. . #国産なす消費拡大の日(毎月17日). . #いなりの日(毎月17日) . . #減塩の日(毎月17日). . #えんぶり(青森県八戸市) - 2月20日 . #コンボ独立記念日. . . ■今日のつぶやき■. #果報は寝て待て(カホウハネテマテ) 【意味】 運というものは人の力ではどうにも出来ないものだから、焦らずに時機を待つのが良いと云う事。 「果報」とは、仏語で前世での行いの結果として現世で受ける報いのこと。  転じて、運に恵まれて幸福な事を云う。 . . 1955(昭和30)年2月17日(木) #菅田俊 (#すがたしゅん) 【俳優】 〔山梨県富士吉田市〕 . . (八潮駅) https://www.instagram.com/p/CaDfQ4GhXs0niu8btwqnsFP7_c9xGbrNhIuScg0/?utm_medium=tumblr
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nebris · 3 years
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Operation Hailstone (Japanese: トラック島空襲, romanized: Torakku-tō Kūshū, lit. "the airstrike on Truk Island"), 17–18 February 1944, was a massive United States Navy air and surface attack on Truk Lagoon conducted as part of the American offensive drive against the Imperial Japanese Navy (IJN) through the Central Pacific Ocean during World War II.
Prior to Operation Hailstone, the IJN had used Truk as an anchorage for its large Combined Fleet. The coral atoll surrounding Truk's islands created a safe harbor where the few points of ingress and egress had been fortified by the Japanese with shore batteries, antiaircraft guns, and airfields.
American estimates of Truk's defenses and its role as a stronghold of the Japanese Navy led newspapers and military men to call it the "Gibraltar of the Pacific", or to compare it with Pearl Harbor. Truk's location in the Caroline Islands also made it an excellent shipping hub for armaments and aircraft moving from Japan's home islands down through the South Seas Mandate and into the Japanese "Southern Resources Area".
By early 1944, Truk was increasingly unsustainable as a forward base of operations for the Japanese. To the west, American and Australian forces under General Douglas MacArthur had moved up through the Southwest Pacific, isolating or overrunning many Japanese strong points as part of Operation Cartwheel. The U.S. Navy, Marine Corps, and Army, under the command of Admiral Chester W. Nimitz, had overrun the most important islands in the nearby Gilbert Islands and Marshall Islands, and then built numerous air bases there.
As a result, the Japanese Navy had to relocate the Combined Fleet's forward base to the Palau Islands, and eventually to Indonesia, and the Fleet had begun clearing its major warships - carriers, battleships, and heavy cruisers - out of Truk before the Hailstone attack struck.
Nevertheless, the Hailstone attack on Truk caught a good number of Japanese auxiliary ships and cargo ships in the harbor, as well as some smaller warships. Between the air attacks and surface ship attacks over the two days of Operation Hailstone, the worst blow against the Japanese was about 250 warplanes destroyed, with the concurrent irreplaceable loss of experienced pilots, and 17,000 tons of stored fuel.  Also, about forty ships — two light cruisers, four destroyers, nine auxiliary ships, and about two dozen cargo vessels — were sunk.
Considerable damage was inflicted on the various island bases, including dockyards, communications centers, supply dumps, and its submarine base. Truk remained effectively isolated for the remainder of the war, cut off and surrounded by the American island hopping campaign in the Central Pacific, which also bypassed important Japanese garrisons and airfields in the Bismarck Archipelago, the Caroline Islands, the Marshalls, and the Palaus. Meanwhile, the Americans built new bases from scratch at places like the Admiralty Islands, Majuro, and Ulithi Atoll, and took over the major port at Guam.
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Hailstone
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2022年7月9日(土) 先日行ってきた大阪城です。 何年ぶりでしょうか。地元にいると意外と行かないものですね。 どこまで自転車で行けるのかな?と思いながら進んでみると、なんと天守閣にまでたどり着きました。 途中のスロープでは自転車を降りて押して進まなければならないところもありますが、自転車は徐行でお願いしますという標識にもあるように、基本自転車で入れるみたいです。 あれ?天守閣が記憶にあるときよりも奇麗に見えます。工事したのかな? 最後に天守閣に来たのって、いったいつのことでしょうか。学生時代?そこまでは遡らないか。 3枚目の写真の装備はUV対策完全版です。つばの大きい帽子とはいえ、夕方の低い日差しは顔を襲います。 店主がここまでUV対策に気を遣うのは、少しでも老化現象を食い止めるためです。 ラオスにいた2年間、顔はもう真っ黒になってよく現地のラオ人や隣国のベトナム人に間違われたのですが、足だけは常に長ズボンに登山靴を履いていたんで真っ白だったんです。 2年が経ち、帰国時に同期の女性隊員と足を並べて比べたことがあります。 いや、それはもう店主の方が短いという事実は言わなくてもいいです。 女性はສິ້ນ(シン)と呼ばれる巻きスカートを履き、足元はサンダルを履きます。常に裸足の状態です。 2年経つとね、その違いが明白なんですよ。 彼女には申し訳なかったのですが、店主の足の方が白いし傷もなく奇麗なものでした。 その時思ったのです。2年間でもこれだけ差が出るのか。これからは顔も含めてUV対策をしっかりしないとな。 隣国のベトナム人女性はその点ばっちりです。日本で流行るずっと前から長手袋は常にしていますし、顔もマスクをします。これは、排気ガスなどで空気が悪いからだそうですけど。サングラスももちろんします。ベトナム人女性がバイクに乗っていると、誰だか分かりません。月光仮面が集団で現れたようなものです。どれが友達かは、服装や体形で判断するしかありません。 そんな彼女たちを見習おうと思ったのでした。 こんな格好で自転車に乗る店主を、日本の人たちはどういう風に見ているんでしょうかね。 見た目はともかく、実用性は高いんですよ。 薄手の生地だから呼吸も楽だし。 お薦めです。 5枚目の写真は、2006年7月ラオスの北部の町ຫລວາງນ້ຳທາ(ルアンナムター)にて撮影。遊んでいた子どもたちと仲良くなりました。ところで、これはいったい何に使われるものなんでしょうね。洗濯物を干す竿や遊具ではないはずです。ロケット祭りのときのロケット発射台?トラックの荷を載せるときに使うてこのようなもの?どなたかご存知の方がいらっしゃれば、ご教授ください。 【お知らせ】 アキレス腱縫合手術をしたその後ですが、おかげさまで松葉杖が外れました。しかし、まだゆっくりとしか歩けません。7月中旬を目指していましたが、時期が遅れることになりました。 7月30日(土)開店を目指しております。ご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありません。 【身体のセルフケア】 2022年7月23日(土) 16:30~18:30 上福島コミュニティーにて 詳細、お申込みはメッセージか電話にてご連絡ください。 TEL:0661367474 【テイクアウト アジア飯】 新嘉坡チキンライス ¥500 叉烧饭(チャーシューライス) ¥650あc 新嘉坡チキンライス 【デラックス】 ¥780  サラダ、香港風味唐揚げ、デザート付き 叉烧饭(チャーシューライス) 【デラックス】 ¥930  サラダ、香港風味唐揚げ、デザート付き ベト・オ・レ ¥500 パウンドケーキ(1枚) ¥200 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #パウンドケーキ #ベトナムコーヒー #ラオスの風景 #ルアンナムター #大阪城 #変わろう日本 #大阪城建てたん誰か知ってるか #豊臣秀吉やろー #ちがうわい #大工さんじゃーい https://www.instagram.com/p/Cfymm_Zv6YI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 4 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)1月2日(土曜日)
 「2050年 脱炭素」という時代が本当に来るのか
   日本の政財界は、環境ビジネスに本腰を入れているが。。。。
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 日本は2050年までに「脱二酸化炭素」を宣言した。「カーボン・ゼロ」が新しい日本の目標となったのだ。
 歴史的巨視から見ると、第一次革命となった農業分野の改革改良と飛躍的生産から第二次が蒸気機関の発明による産業革命だった。第三はアルビン・トフラーの『第三の波』に予告されたごとく、IT、通信の大変革による通信革命だった。であるとすれば、カーボン・ゼロは「第四の革命」となる。大袈裟に考えなくとも、地球温暖化の異常現象が目の前にあって、人類はコロナの渦中にあっても、前を見続けることは重要である。
 日本が世界覇権を目指さない平和国家、福祉国家の建設を目指していることは戦後史を振り返れば明瞭だが、このためにパワーの配分が偏在的となって、主要産業は鉄鋼、造船、自動車から、なんと「介護」となった。国家予算107兆円の三割強が福祉医療介護である。防衛予算はGDPの1%以下、とてもまともな国家ではない。
 日本には防衛産業が不在で、宇宙航空産業分野へも、米国の監視網があって、独自に乗り出せば、三菱重工の新型中距離旅客機の頓挫という事態に遭遇する。
つまり日本の産業競争力は偏在している。だから総合力が弱い。
 自動車産業だけは依然として世界のトップにあるものの、次世代EV競争となると、日本の安泰は続かないことになる。たとえ、EVに現時点では多くの欠陥があるにせよ、世界の合意は「2050 脱炭素」である。
 昭和四十年代までに成し遂げた鉄鋼の復活も、造船も新興国に追い抜かれ、さらに脱炭素社会が実現すると仮定すれば、日本で自動車鋼板が生産できなくなる日がくる(環境保護を叫ぶ人たちは鉄鋼産業の廃業を視野に主張しているのだろうか?)。
 
 ともかく敗戦後の日本は臥薪嘗胆を経済力の復活にもとめ、五輪、新幹線、高速道路の配備を達成した。工業の先端を走っている間に、金融改革で独自色を出せずに米欧ばかりか、中国の猛追を受けた。通貨戦争は完敗だった。
 産業のコメといわれた半導体は、日米半導体協議によって、世界一の座から引きずり下ろされた。あの日本のGDP世界第二位という黄金の日々は幻想の闇に消えつつある。
 ▲町から書店も激減し学生が本をよまない時代
 スマホ時代がやって来た。
 同時にスマホは若者の思考力、想像力を奪った。またスマホによって地上波テレビは衰退し、新聞は読まれなくなり、教養の源泉とされてきた活字世界は遠くに去り、辛うじて漫画本で書店経営がほそぼそと成り立つ。
学生街から書店も激減し学生が本をよまない時代がきた。
 次世代通信は5Gを超えて、次々世代の「6G」開発で、ようやく日米英の足並みが揃ったが、総合力では日米独走とはいかず、ファンドリーでは台湾に敗れ、量産では韓国が勢い、中国の半導体自製化プログラムも猛烈な勢いを見せてきた。
 
 いまひとつ。EV(電気自動車)競争では、中国が飛び抜けて首位を走るが、米国は冷ややか、日本は「2050 脱炭素」を念頭に、やや中途半端な取り組みである。
 ところがバイデン政権が出現してパリ協定復帰を公言している以上、アメリカはシェールガス開発が頓挫し、ふたたび原油とガスの輸入国に転落することになる。
 日本が独走していた筈の電池技術もいつしか比較優位というポジションになった。これらは中国が日米から機密情報を盗み、ノウハウを得るために優秀なエンジニアを大量にスカウトしたからだった。
 読売新聞(2021年1月1日)の一面トップは「中国千人計画に日本人が44人」という驚くべき記事である。戦後教育と偏向報道により日本人エンジニアが
中国に協力することが売国的という認識は完全に欠落している。この政治センスの無さ、国際情勢を判断できる情報力の欠如は、致命的とさえ言える。中国の軍民融合に協力することは売国奴である。しかし日本の文科省予算では十分な研究が出来ず、中国の厚遇ぶりと、学生を育てるという使命感が先に立つというのだから、日本への愛国心欠如への後ろめたさが皆無。日本の予算が少ないという不満は論理のすり替えである。
 ところが、EVの欠点が明らかとなった。
北日本から北陸を襲った大雪、豪雪により、高速道路が寸断された。数千台のトラックが動かず物量が中断するという新しい危機を目の前にみた。地球温暖化ではない。EVが各所で燃料切れを起こし、その限界が露呈したことである。
電池技術が未完成のレベルになり、充電スタンドが圧倒的に不足しているという現実は、おそらくガソリン車全廃となっても、ハイブリッド車の優位が続くだろう。
 ▲脱炭素なら原発再活用しか手立てはないのではないのか?
 だが脱炭素の流れは止まらない。
 三井物産は「石炭火力の海外撤退」を前倒しする。海外五ヶ国で三井物産は火力発電事業を展開してきた。ほかに三菱商事、丸紅、伊藤忠、住友などが石炭火力の発電所プロジェクトを展開してきたが、石炭は時代遅れとばかりに、ます三井物産が撤退を表明した。
 火力発電は石炭の他に重油を燃やす発電所もあり、日本の電気はこれらに支えられている。
 福島原発事故によって日本中の原発発電がとまった。
 この十年、奇跡的に水力と火力に加え、風力、太陽光パネルに切り替えてなんとか、電力供給を維持してきた。しかし誰も電力会社に感謝しない。
 EVは電気がないと使い物にならない。電力の安定供給は既存の水力、火力に風力、太陽光、地熱をくわえても不足するのは火を見るよりも明らかだろう。
 「脱炭素は原発を活用するしかない」と中西宏明経団連会長は明言している。「人類の智恵である原発をうまく活用しないとまずい」とし、サステイナブルキャピタリズムの機軸になるとしているが、まさに原発の再稼働がない限り、従来型の経済発展も無理である。こうした重大な基礎用件を、メディアはなぜか伝えない。
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mocomocon · 3 years
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そうして夜は明ける創作雑記
2年前に頓挫していた長編が形になって一区切り、という感じです。まだまだ書きたいものはあるしあれもこれも未完成、ってやつはいっぱいあるんですが、とりわけこれは構想があってかつこの前提をベースに短編も進めていたのでなんというか、あー、ようやっと、色々な縛りから解放されるという気持ちです。以下ネタバレ独り言ふんふふん。
横須賀短編を書いた段階で二人の野分が繋げる第4駆逐隊の物語っていうふわっとしたイメージはできていたんですよ。だからホント、いや野分姉は死んでねぇんすよ、って2年間心のなかで思いつつこの話が完成してないから名前を出さずにちらちら登場するくらいに留まっていました。具体的には機械人形は笑わないのラストでヴァイオリンを演奏しているのは野分姉ちゃんなんです。
後は先に機械人形は笑わないが完成したわけなんですけれども、元々これ、このそうして夜は明けるのスピンオフ話みたいな感じなんです。機械人形は笑わないで初登場の川内ちゃん、本当はこっちで人物像を練っていたんです。そんでもって野分妹ちゃんから財布スるシーン書いてたら存外気に入ってしまい、気づけば短編集でも出張してしまいました。神通ちゃんとの短編も結構気に入っています、はい。
機械人形は笑わないもねぇ、舞風ちゃん同様、周りにすごい人がいて萎縮してしまっている次代の赤城さんっていうのをこっちのお話でさらっと言及するシーンがあったんですよ。あったんですけど気がついたらそれで一本できてたんだどういうこってぃ。まぁあの頃はあー、ひっさびさに史実とかそういうのなしの、なんか恋愛系かっきてぇ、って欲求が来てたのでいい感じに私のニーズにはまってくれたのでしょう。
頓挫していた原因として資料が思うように集まらなかったのと、後は今までのお話と違ってトラック諸島という実在する島を舞台にしたお話ってこともあって、ここを詰めるのに苦戦してしまったんですよね。グーグルマップ開いて参考図書開いてあーでもないこーでもない。しかもなまじ部分的に架空の地名を艦これさんがぶっこんでくるから大混乱ですよ、何回バニラ湾をナチュラルにベラ湾って書いたことか。ただこれを書いているときに面白いこともあって、今まですっかり忘れていたんですが昔チューク諸島ではないんですがミクロネシアのとある島にホームステイしたことがあったのを思い出したんですよね。写真だなんだとごそごそ資料を漁ってもいましたが、すっかり忘れていた記憶が鮮やかに蘇ったのもトラック諸島という舞台で筆が進む一助になりました。
後はあれですね、機械人形は笑わない以降短編集で好き勝手舞鶴だ大湊だと他の鎮守府の掘り下げを進めていたのもよかったのかなと。大湊からは北上さんと新キャラの江風ちゃんに出張してもらいました。ていうか書いているうちに江風ちゃんめっちゃ気に入ってしまいました、なぁ北上さん? 大湊所属(問題児)だしな!って暴れさせまくって途中やべぇ話まとまんねぇって頭抱えたのもいい思い出です、手のかかる子ほどかわいい笑
呉からは球磨型姉妹ですね、意図せずして軽巡は球磨型と川内型に登場が偏ってしまいあっれー?贔屓じゃないんです、いやほら雷巡必要だったし多少はね���?大井姉妹もなんか書きたい���ってふわっとしつつまとまってないし、大井さんと北上さんの関係も書きたいなって思いつつふわっと定まっていません、いつものことです。
後は話の展開上しょうがないんですけど横須賀メンツもっと掘り下げたかったなーって。第6駆逐隊も那珂ちゃんも隼鷹さんもお気に入りなのです。ところで書いているうちに那珂ちゃんがどんどん川内型の一番やべーやつみたいな風格出てきちゃったんですがどうしましょうね、川内型の一番やべーやつです。川内ちゃん達より先輩で血縁関係もないんですが、那珂ちゃんは川内姉妹大好きだし、川内ちゃんも身内以外で唯一心開いている貴重な御仁です。まぁそんなんだから野分妹ちゃんに那珂ちゃん取られて面白くないんですよね川内さん、ね?
とまぁ前置きは長くなったんですが、続きましてメインの四駆ですね。四駆の中ではとりわけ野分ちゃんが好きだったので、主人公にするならこの子だなーっていうのと、今までが割りかし才能に恵まれた主人公が多かったので、それならば今回は落ちこぼれを主人公にして、落ちこぼれゆえにできるお話にしよう、ということで丙適性の野分妹ちゃんが爆誕しました。乙以上が艦艇の縁に振り回されるのならば、いやそんなの知らんし、とどこ吹く風でわが道をゆく丙適性を書いてやろうと。そんな風に書いているうちにめっちゃまっすぐでひたむきな子になりました、はい。あとは裕福な家庭で育ったがゆえの心のゆとり、とでも言うんでしょうか。普段塩対応で外見上は月属性に見せつつその実中身が太陽、みたいな性格に。野分姉ちゃんは外も中身も太陽属性です、お互い全然性格が違うからこその仲良し野分姉妹。そして見た目太陽属性なのにこの二人に振り回されまくってめっちゃ中身月属性な舞風ちゃんという関係性が爆誕致しました、メンタル乱高下させてごめんな←今作の被害者
ハッピーエンド至上主義なんで横須賀短編書いてるときにすぐハッピーしたるさかいな!って思ってたんですが2年間影のある状態で放置しててごめんな←2回目
野分姉ちゃんが甲適性っていう突き抜けた才能の持ち主なのでついつい萎縮していたんですが、まぁ先の大規模作戦の生き残りに弱い人なんて一人もいないんですよ、という。そんでもって自信がないのにフラットな目で尊敬の眼差しを野分妹ちゃんが向けるものだから色々思うところもあったんですが、最後はちょっと吹っ切れたみたいでよかったです、はい。
余談なんですが、今回の主人公である艦艇野分のテーマは‘逃げ足’です。逃げ足って書くとマイナスなイメージになるかと思うんですけど、実際トラック空襲にてさしたる損傷もなく逃げ切ったって相当だと思うんですよ。なので負い目である逃げ足は力である、ていうのを自覚して立ち上がるのが今作のテーマでした。
あとは嵐ですね、嵐は大分オリジナル要素が強くなってしまったんですが今作一のイケメンにかけたと自負しております。誰かのために強くなれる子、ってところは人である嵐ちゃんもしっかりもっていますね、うんさすが嵐。あと短編集では野分姉を出せない都合上萩風ちゃんとセットでの描写が多いんですけど野分姉ちゃんもちゃんと仲良しなんですよ、ハブられてないんです!笑 ただ野分姉ちゃんはベテラン勢なので生き残り組の時雨ちゃんや夕立ちゃんらなんかとも仲良しです。時雨ちゃんや、今回常識人枠としてあらゆる人物に振り回されてしまってすまんな。いつか時雨ちゃんのお話も書きたいっすね〜、なおネタはない。
そんなわけでpixivにもまとめたので一段落です。や〜そろそろpixiv UIきっついな、傍点互換ないのをさっぴいても長編でのページ切り替え設定だなんだがね…イラストサイトだからってのは承知なんですけども。まぁでも育ててもらったご恩もありますよって、ってことで30万字以下ならこっちにも投げ続ける所存です。
なんか他にも長編書いてた気がしたんですけどとりあえず今作で疲労困憊なのでしばらくはゆっくりしようと思います。というか、お勉強しばらく放置してたらサビつき加減がやばいんですよね、ギア切り替えてこ…。
日本語もそうなんですけど、やっぱ使ってないとなまってきちゃいますよねぇ。そんななか、あー、楽しかった、って熱中できる趣味としてお話作りがあってよかったと思うこの頃です。あー、楽しかった。
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muramasa309 · 7 years
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伊勢(いせ)は、日本海軍の戦艦で伊勢型戦艦の1番艦。 当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。 太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。 扶桑型戦艦の改良型として就役した伊勢型は、扶桑型の問題点の装甲防御の弱さを改正し、ようやく世界水準の性能に達したと言われる。 だが本艦と同時期に15インチ砲(38 cm砲)を採用したクイーン・エリザベス級戦艦が出現しており、建造前の1913年時点で、すでに防御力の脆弱さを指摘されている。 また日本軍はクイーン・エリザベス級戦艦の速度を25ノット程度と認識しており、伊勢型の23ノットでは物足りないのが実情だった。 1921年(大正10年)に主砲仰角を拡大する改造工事を行い、1924年(大正13年)に砲戦指揮場を設置するなど艦橋の複雑化が進む。 更に1935年(昭和10年)8月1日から、1937年(昭和12年)3月23日まで近代化改装が行われ、水平防御力や主機の出力向上と煙突の統合、注排水装置を増設、艦尾の7.3 m延長、バルジ装着による水中防御力の強化などの改修が行われた。 これにより、排水量、装甲防御能力、速力、砲撃力等において、1940年(昭和15年)に艦齢25年を迎える老艦ながら、戦艦としての総合能力では太平洋戦争開戦時でも世界標準を保っていた。 反面、空母や巡洋艦などの他の艦艇に速力で劣る上に乗組員を多数必要とし、燃費も悪く、用途が見出せないことから、慢性的に燃料不足に悩んでいた日本海軍は本艦を海戦に投入する機会を見出せなかった。 ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍は、空母の数を揃える必要にせまられた。 軍令部は旧式の扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改造を検討し、日向が砲塔爆発事故を起こして五番砲塔を失っていたことから改装の手間が省けると判断、伊勢と日向の航空戦艦への改装を決定した。 伊勢の工事は呉工廠で1942年(昭和17年)12月に始まり、1943年(昭和18年)9月に完了した。 航空戦艦となった伊勢の最初の任務は、トラック島へ物資を輸送することだった。 1944年(昭和19年)10月、台湾を攻撃したアメリカ軍機動部隊との間に台湾沖航空戦が発生し、伊勢に搭載予定の第六三四航空隊が投入された。 この戦いに勝利したアメリカ軍は、フィリピン攻略を開始した。 一方で、アメリカ空母11隻(実際の米空母損害なし)を撃沈したと誤信した日本軍は、上陸したアメリカ軍を撃退すべく捷号作戦を発動する。 伊勢と日向は機動部隊本隊に所属し、10月20日に日本を出発し、レイテ沖海戦に参加した。だが六三四空が台湾沖航空戦に投入されたため、日本海軍機動部隊最後の海戦でも伊勢が航空機を搭載することはなかった。 10月24日午後3時10分、小沢機動部隊本隊から日向と共に分離してアメリカ軍方向に進出する。 午後7時には前方に閃光を認めたが、これは雷だった。 深夜、前衛艦隊は反転、10月25日午前7時に本隊と合流した。 この時の対空戦では松田司令官の発案した弾幕射撃が効果を挙げ、航空機多数撃墜(30~70機)を報告している。 また巡航速度で航行し、敵艦上爆撃機が降下態勢に入ると同時に急転舵する爆弾回避術も大いに効果をあげた。 この機動は急降下爆撃を行う艦爆側から見れば、目標が後逸していくので見失ってしまう。さらに艦爆は一度降下に入ると大きな目標修正ができず、重量物である爆弾を投下しない限り再び上昇できなかった。 このため艦爆は狙いが逸れたまま爆弾を投下して上昇するしかなかった。 伊勢は空母瑞鶴・瑞鳳の第一群を護衛した。 護衛戦闘機のほとんどない小沢機動部隊はアメリカ軍艦載機の一方的な空襲を受け、瑞鶴、瑞鳳、千歳の3空母は沈没した。 千代田と駆逐艦初月はアメリカ巡洋艦隊に捕捉され、砲撃戦の末に撃沈された。 伊勢と日向はアメリカ軍艦隊を求めて反転・南下��たが、会敵しなかった。 伊勢は戦死7名・重軽傷者80名を出し、至近弾4発によりバルジに浸水約800-900t、傾斜左に1.5度という損傷を受け、主砲徹甲弾全弾、主砲対空弾160発、高角砲通常弾2000発、機銃弾120000発、噴進砲弾480発が残っていた。 対空戦闘でアメリカ軍機撃墜63機、もしくは44機撃墜・不確実12機などを主張しているが、戦闘詳報では『重複スルモノ相当アルモノノ如ク』と評している。 10月29日、伊勢は呉に戻った。 11月1日、射出機を撤去し、伊勢は航空戦艦としての機能を失う。 大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。 そこで伊勢は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。 11月9日、佐世保を出港、南方に向かった。この作戦ではアメリカ潜水艦やアメリカ軍機の襲撃を受け、命中寸前の魚雷を高角砲で迎撃するなど危険な場面が度々あった。 1945年(昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。 この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外・音戸町坪井沖に停泊した。 7月24日、アメリカ軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲により艦橋に直撃弾を受け、伊勢の牟田口艦長はじめ伊勢の主だった指揮官20名ほどが戦死、浸水は5000tに達した。 師岡勇高射長が艦長代理となり呉工廠第四ドックに曳航しようと作業中の7月28日、伊勢は再びアメリカ軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底、戦死者は573名に及んだ。 空襲後、伊勢の二番砲塔は三式弾が装填されたまま最大仰角で停止した。 火災もひどく暴発の恐れもあったため呉市街を向いたまま発射。 発射後は砲塔が仰角を保ったまま艦の正中位置まで旋回したところで伊勢は完全に動力を失い停止した。 このときの主砲発射が奇しくも日本海軍戦艦の最後の大口径砲の発砲となった。 終戦後、伊勢は引き揚げられて一時期住宅として利用された後、解体されスクラップとなりその生涯を終えた。 伊勢の艦名は、戦後海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれた。
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xf-2 · 6 years
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成30年(2018年)6月21日(木曜日)          通巻第5729号  <前日発行> 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  華為技術(ファウエイ)の「スマートシティ」システムに潜む妖怪   ネット監視の都市を中国は「安全都市」と呼ぶらしい ****************************************  日本ではまったく伝わらなかった。いや、中国の主要メディアも報道せず、ネットに流れたストライキのニュースは当局がさっさと削除した。だから中国の国民も大規模なトラック業者のストライキがあったことを知らない。  中国ではトラック運転手が連絡を取り合い、拠点は安徽省の合肥と四川省の成都だったが、全国一斉のストライキとなり、波紋が広がった。 これは6月8日の事件で、原因は「ウーバー」への不満が爆発したからである。  何故か?  ウーバーはタクシーの空車が近くにいれば、スマホで呼び出せる新しいネットシステムで、日本のように空車が多い国では普及しないが、中国で急成長した。その結果、バイク、レンタサイクルにも及び、ついにはトラック業界にも影響が拡がる。  たとえば荷物がある。出入りのトラック輸送業者より、近くに空車のトラックがあれば、簡単に呼び出して輸送を頼める。つまりダンピングも起こり、業界の秩序と取引慣行までが攪乱される。  悲鳴を挙げたトラック運転手たちが、ネットで連絡を取り合って一斉に同盟罷業を提案し。実際に未曾有のストライキが行われた。  ところがネットを監視している全体主義国家の中国においては、「社会の安定」と「経済発展」が優先され、いかなるストライキも禁止されている。 ただちに当局が介入し、弾圧し、指導者を逮捕する。ストライキ参加者も罰金刑か、あるいは解雇という悲運が待ち受けている。中国共産党というビッグブラザーが禁止していることに刃向かったからだ。  こうした弾圧の先兵として、大活躍し、委細漏らさずに、その監視をおこなう装置がファウェイの通信機器と施設なのである。 だから「スマートシティ」だ。「共産党独裁にとって安全な装置」を張り巡らせた功績がある。監視カメラなどでストライキ参加のトラックを特定し、顔面認識システムは、運転手の顔を割り出す。  弾圧から逃れる手だては望み薄だろう。  ▲ウーバー・ビジネスの殆どを中国共産党系企業が抑え込んだ  トラックのウーバー・ビジネスは当初、ふたつの私企業が運営していた。 2017年四月に突如、ファンドが買収し、これら二社を合併させて「ムンバン」という会社に統合された。 つまりこの合併は共産党系列ファンドが表向き実行したことになっているが、自転車のウーバーを買収した手口と同じであり、すべてのネットビジネスも国家の監視下におく措置である。 国民に勝手な行動を取らせ、ストライキなど起これば、そのエネルギーは突然、反政府暴動に発展することになり、中国共産党は不安で仕方がないのである。 独裁システムとは、つねに過剰な監視を行うものであり、嘗ての密告制度と寸毫の変化はない。新兵器を用い、ネットシステムさえも、独裁政治の武器化しておこうという思惑からなされているのである。  かくてネットシステムは、中国においては中国共産党の安全のために酷使されるが、国民の安全のためではないことがわかった。  中国ばかりか、ファウェイの通信機器は「スマートシティ・ソルーション・システム」と銘打たれて、ロシア、アンゴラ、ラオス、ベネズエラに輸出されている。  西側は公務員の無駄を削減し、効率を上げるための「e政府」を謳っており、ドイツなどでは一部試験的にファウエイのシステムを導入しているが、米国とオーストラリアは、厳密にファウエイの通信設備、機器、システムの導入を禁止している。      ◇◎○△み○○○○や△○○○ざ□△◇○き◎▽◇□  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜    敗戦の直前にすべて焼却処分された筈の「秋丸機関報告書」がでてきた 戦前、陸軍は列強の経済比較を研究し、正確な情報分析をしていたのだった   ♪ 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮撰書) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@  副題に「秋丸機関『幻の報告書』の謎を解く」とあって、これが本書の骨格を示唆している。 「秋丸機関」とは日米開戦を前にして、敵側に回りそうな米国、英国、ドイツ、そしてロシア(ソ連)の国力、その資源、人力、産業のインフラ等を精密に事前調査し、分析し、その国力、戦力を経済の視点から分析し、戦争の勝ち負けを大胆に予測した陸軍の『有識者会議』とでも言おうか。 表向き軍傍系シンクタンクといえるかも知れないが、創設を発案し、学者を動員して組織化した中心にいたのは岩畔豪雄である。  もとより秀逸な官僚だった秋丸次朗を満州から呼びよせ、正確な情報にもとづく情勢判断と戦争の予測を集中して研究させたのは岩畔豪雄だった。  かれの率いた岩畔機関とは、あの時代に「藤原機関」「南機関」とかが軍内に存在したように、諜報謀略機関だ。登戸研究所創設、陸軍中野学校創設、偽札技術の導入と青幇を使っての後方攪乱など、あらゆる日本の謀略に岩畔機関が関与した。    しかしこの秋丸機関は岩畔がつくらせた頭脳集団(シンクタンク)であり、ボスが岩畔だったというアドホックな組織である。  しかもメンバーには裁判で保釈中だった有沢広己や中山伊知郎、竹村忠雄など経済学者が多数、加わっており、その研究成果をまとめたペーパーは、日本の敗戦直前にすべて焼却されたとされた。  ところが、そのうちの一冊が有沢の死後に、かれの蔵書の中から見つかった。  幻とされ、焼却処分された筈の「秋丸機関報告書」がでてきたことは、研究者にとっては朗報である。 この発見で戦前の陸軍が列強の経済比較を研究し、正確な情報分析がなされていたことが分かったからだ。    その時代背景を著者はいう。  「多くの資源を輸入に頼る『持たざる国』日本が経済力を超えた軍事費支出を行うことで経済統制が必要となり、それは日中戦争により一層深刻になっていた。そのために資本主義原理そのものを変革し、公益優先の原則の下で『資本と経営の分離』を実行して私益を追求する資本家から企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営する『経済新体制』の実現」が志向されることになる。(42p)  なんだか、この表現、いまの中国みたいである。  日米開戦にいたった場合、資源供給はうまく行くのかというシミュレーションがなされた。  「英米とソ連に対して宣戦を布告し南方を占領した場合の経済国力の推移予測(応急物動計画試案)を策定していたが、その結果は鋼材生産額は三分の二に減少し、民需は殆どの重要物資が五割以下に切り下げされるという悲惨はものだった」(66p)  ならばと秋丸機関で熟慮された提言とは、次のようである。  「対英戦略は英本土攻略により一挙に本拠を覆滅することが正攻法だが、イギリスの弱点である人的・物的資源の消耗を急速化する方略を取り、『空襲による生産力の破壊』『潜水艦戦による海上遮断』を強化徹底する一方で『英国抗戦力の外郭をなす属領・植民地』に戦線を拡大して全面的消耗戦に導き、補給を絶ってイギリス戦争経済の崩壊を目指す」。  そのうえで「アメリカを速やかに対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させて『軍備強化の余裕を与えざる』ようにすると同時に、自由主義体制の脆弱性に乗じて『内部攪乱を企図して生産力の低下及反戦気運の醸成』を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努める」(92p)  なるほど、合理的戦略だが、机上の空論である。ま、学者の研究と提言というのはいつの時代にもそうしたものだろう。  そして秋丸機関の戦争の結果予測だけはやけに正確だった。  すなわち「長期戦になればアメリカの経済動員により日本もドイツも勝利の機会はない」、ただし「独ソ戦が短期で終われば少なくともイギリスに勝つことはできるかもしれない」(102p)。  さて本書の主人公は秋丸次朗だが、評者(宮崎)から見れば、かれは歴史の駒でしかなく、あくまで中心人物は岩畔豪雄なのである。 ところが本書では岩畔のことは数カ所でてくるものの具体的には殆ど触れられていない。そればかりか「日中戦争」とか「太平洋戦争」とか、左翼用語が無造作に使われているので、その認識の怪しさが伴うのだが、そのことは措く。 岩畔豪雄は昭和の裏面史を知り尽くしていたばかりか、ノモンハンからシナ事変、大東亜戦争の背後で獅子奮迅の活躍をなし、「大東亜戦争」の名付け親でもある。日米開戦回避のために渡米して交渉したのも岩畔だった。 戦後も隠然たる影響力を保持したが、特筆すべきは京都産業大学の創始者であること。  知る人ぞ知るが、京都産業大学は設立当初、受験生の人気が薄く、こんにちの就職率ナンバーワンという現実とは乖離がある。岩畔は、京都産業大学に今日出海、岡潔、桶谷繁雄、村松剛、小谷豪二郎、福田恒存ら錚々たる保守系文化人を教授陣に招いて、刷新を図り、その一番の愛弟子が佐藤政権下で、 沖縄返還秘密交渉の密使だった若泉敬だった。  じつはその若泉の関係で評者も何回か、この伝説上の人物と会ったが、三島由紀夫事件の直前、1970年11月22日に忽然と世を去った。  岩畔には戦後に数冊の著作がある。その代表作が『戦争史論』だ。「昭和のクラウゼウィッツ」とも言われ、学生時代に評者も読んだ記憶がある。  戦後の高度成長をささえた日本経済のエンジン「財界四天王」といわれた鹿内信隆、水野成夫なども、岩畔の弟子筋であり、児玉誉士夫なども、岩畔機関に出入りしていた。  この伝説上の謎の人物、昭和史を裏側で支えた岩畔の評伝を、著者に次回作として期待したいものである。      ◎◎◎◎◎ ◎◎◎◎◎ ◎◎◎◎◎ ◎◎◎◎◎  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   ♪ 樋泉克夫のコラム @@@@@@@@ 【知道中国 1748回】                     ――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(4)   中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政?社 大正四年)    △  「滿洲に遊びて政治經濟を談ずる者、必ず我が都督府、南滿鐵道會社、外務省の鼎立」する「三頭政治」を日本の満州進出にとって最大の障害だと批判するが、奉天での批判が最も激しい。それというのも、「三頭政治」の総本山が揃いも揃って奉天に在るからだ。  先ず「滿鐵の外交機關」である満鉄公所は、「多額の交際費、機密費を費して盛んに活動し、外務省筋の總領事館など眼中に置かざる」の勢いだ。 「支那人も亦日本官省」の尊大ぶった対応を嫌って「一切の交渉を擧げて滿鐵公所に持ち込む」。公所に控えるのは早い時期の陸軍支那通の1人で「敏腕の聞え高き陸軍少佐佐藤安之助」で、問題をテキパキと処理するから、愈々以て「支那人をして領事館を輕」んずることになる。  また都督府は「久しく支那通であるは中外の認むる」陸軍大佐守田利遠を擁している。「参謀本部に直屬して、滿鐵を冷笑し、總領事館を愚弄」する守田だが、実際に現地社会に入り込んで「適切なる調査」を重ねる点では彼の右に出る者はいない。 その点、「彼の巡査探偵等の怪しき報告」や「如何はしき新聞の切抜きなどを以て、表面の責任を果さんとする外務省系などゝ比較すべくもあらず」。昔も今も「如何はしき新聞の切抜き」・・・嗚呼。  総領事館は「民間受けの惡しきこと第一」ではあるが、満鉄のように「金錢を使ひ、大旦那然として支那人に接す」るほどの活動資金を持たない。都督府(参謀本部)のように「知識ある将校を處々に配布して、實際の調査をなさしむ」わけでもない。つまり「獨り領事館は滿鐵の金なく、参謀本部の人なく、動もすれば國民嘲笑の標的となりながらも」、なんとか「支那官憲を抱き込」もうとするが、本省は「例により愼重なる審議中とのみありて、何等の斷案を下さしめざるを常とす」。ここでも昔も今も優柔不断・・・嗟噫。  たとえば「南滿洲の利源を擔保として外國の借款を起こすは、我國将來の大陸政策に累を及ぼす事言を竢たず」。そこで「無能なりと稱せらるゝ我總領事」だが、関係各機関に掛け合って日本に有利に事を運んだが成約に至らなかった。外務本省は尽力したが「大蔵省の反對」に遭ってしまって計画は頓挫。閣内不一致なら「其責は直接山本首相にあ」るはずだが、非難されるは外務省であり出先の総領事館だ。金欠症は外務省の業病・・・嗚呼。  結局、鼎立する3機関のなかで総領事館が無能呼ばわりされるのは、「其本元たる参謀本部と、滿鐵と外務省との中に於て、最も外務省が無能なるに因れり」と。そうか、この時代、すでに国益毀損の要因は「最も外務省が無能なる」がゆえだったのか。呆れ果てた外務省の伝統といっては、はたまた言い過ぎか。いつから無能になったのか。  満州における三頭政治とは言うが、「都督府は領事を壓せんとし、領事は都督府に拗ねんとし、而して滿鐵は又都督府と領事とを無視せんと」しているのが実態だ。つまり関係機関相互に「適當なる聯絡なく、各自の計畫互いに齟齬矛盾して、我大陸經營の妨害となる所以のものは、我中央政府に定見なく、各省を統一して、一大方針に向つて進ま」せることが困難になっている。 「無定見、無方針、不統一」ではあるが、一たび政府が根本方針と確立したからには「各省及び其關係機關をして違ふあるを許さゞらしめば」、三頭政治を超越する統一した満州政策が実行できるはずだ。  なにやら、ここにみえる中野の指摘は「我中央政府に定見なく、各省を統一して、一大方針に向つて進ま」ない現在の日本における対外政策にも通じるように思える。だとするなら、これはもう特定の時代にのみ発生した問題というよりも日本政府のみならず、その政府を支えるべき日本人の振る舞いに起因すると考えざるを得ないだろう。  中野は日本政府が「無定見、無方針、不統一」だからだけでなく、「關東州及び滿洲」が「支那の領土にあらず、又日本の領土にあら」ざるから国益を守れないとも訴える。
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