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#太陽の元で見た世界と眩い月灯りで見た世界
poetohno · 5 months
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詩集2-7 返答詩集2-7 日記詩集2-7 おまけトーク(世界と調和しながら頑張る)
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詩集 「聴くということ」
耳を澄ませるということ
言葉より声に 声より思いに 思いの溢れた 心という場所に
両手で受け入れるように
手を伸ばして 触れたものを知る
大切にしたいから 傍にいるということ
返答詩集 「花は光を灯して」
傷つけられて 痛みを感じたことに戸惑い 信じていた世界に罅が入る
信じられるものが 信じられなくなっていく日々は 紡いできた糸が解れて 消えてしまうようで
朧月のようにぼやけて 苦しみは夜のよう 月さえも雲に隠れて闇に消える
縋らなければ生きていけないと思ったのは 自分を信じられなくて 離れてしまうのが恐かったから
足元で咲く花さえも 闇の中では意味を為さない
雲の隙間から月の光 果てに星が瞬く
夜に架かる虹が 太陽よりも眩しく
心に春の風が吹いた 安らぎに目を閉じる
風が奏でる 草原が爪弾く子守歌 目覚めれば傍に 闇に探した花を見つけた
温かな風は香りを歌う 枕のように寄り添う花に微笑みが灯る 光はどこまでも眩い雨のように
日記詩集 「出会うために」
山に登る(ここにはない) 海の底を覗く(ここにもない)
どこかにあるはずなのに どこにあるのか解らない
野原に咲く花が大事に守っていたもの 辺に転がる石が内側に湛えていたもの
胸の内に言葉にして 世界に放した輝きを目にして
祈りのように この胸に響くなら 言葉は生きているのかもしれない
どんな感情もかけがえのないもの どれか一つの感情だけがよいものであって 他のものは駄目ということにはならない
大切な想いは到るまでに 沢山の感情を経てきたから存在している
想いが消えていった大地に 散ってしまった欠片達が
塵となった流れ星に願うように 想い続けている
失ったものすらも 心の中で出会えるだろうか
紡いできたものか いつか未来を描くだろうか
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年6月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
山焼きの煙り静かに天昇る 喜代子 盛り上がる土ものの芽の兆しあり 由季子 古雛や女三代つゝましく 都 青き踏む館の跡や武者の影 同 日輪の底まで光り水温む 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
桃の日のSt.Luke’s Hospital 光子 パイプオルガン天上の春連れませり 順子 指を向け宙に阿弥陀の春の夢 いづみ 春の川大東京を揺蕩ひぬ 美紀 聖路加の窓ごとにある春愁 眞理子 雛菊もナースキャップも真白くて 順子 聖ルカを標としたる鳥帰る 三郎 印度へと屋根とんがりて鳥雲に 佑天 鳥雲に雛僧の足す小さき灯 千種 学僧は余寒の隅に立つてをり きみよ
岡田順子選 特選句
春陽に沈められたる石の寺 美紀 春空に放られしごと十字架も 同 春潮の嫋やかな水脈聖ルカへ 三郎 鳥雲に雛僧の足す小さき灯 千種 涅槃西風吹きだまりては魚市場 いづみ 聖路加の鐘鳴る東風の天使へと 俊樹 皆春日眩しみ堂を出で来たり 千種 桃の日のSt.Luke’s Hospital 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
春愁の揺れてをるなりだらり帯 愛 立子忌や飯とおさいにネモフィラ猪口 勝利 春眠し指に転がす砂時計 かおり ゆらめいて見えぬ心と蜃気楼 孝子 春潮のかをり朱碗の貝ひらく 朝子 ファシズムの国とも知らず鳥帰る たかし 立子忌の卓に煙草と眼鏡かな 睦子 毛糸玉ころがりゆけば妣の影 同 わが名にもひとつTあり立子忌よ たかし 波の綺羅とほく眺めて立子の忌 かおり 灯を消してふと命惜し雛の闇 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月6日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
この空のどの方向も春日燦 和子 思ひ出はいろいろ雛の女どち 同 うららかや卒寿に恋の話など 清女 鳥帽子の小紐手をやく京雛 希 耳よりの話聞きゐる春の猫 啓子 地虫出づ空の青さに誘はれて 雪 意地を張ることもなくなり涅槃西風 泰俊
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月10日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
裏路地の古屋に見ゆる雛祭 実加 子等笑ふお国訛りの雛の客 登美子 彼岸会の約束交はし帰る僧 あけみ 筆に乗り春の子が画く富士の山 登美子 うららかな帰り道なり合唱歌 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
春夕焼浜の民宿染めてをり すみ子 青粲粲空と湖面と犬ふぐり 都 水車朽ちながらも春の水音して 和子 朝東風や徒人の笛は海渡る 益恵 枝垂梅御幣の揺れの連鎖して 宇太郎 春の婚オルガン春の風踏んで 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
啓蟄やボール蹴る子は声がはり 恭子 海近き山の椿の傾きて 和代 啓蟄の光を帯びし雲流る ゆう子 鳥鳴いて辛夷の甘き香降る 白陶 一人言増えたる夕べ落椿 恭子 小気味よき剪定の音小半日 多美女 一端の鋏響かせ剪定す 百合子 ふる里の椿巡りや島日和 多美女 剪定や句碑古りて景甦る 文英 剪定や高枝仰ぐ褪せデニム ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
雪吊の縄の解かれて睡り覚む 世詩明 家康公腰掛け松や地虫出づ ただし 捨鉢な女草矢を放ちけり 昭子 屋号の名一字継ぎし子入学す みす枝 花冷や耳のうしろといふ白さ 昭子 坐りゐて炬燵の膝のつつましく 世詩明 対座したき時もあるらん内裏雛 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) …………………………………��…………………………
令和5年3月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
摘草のさそひ届きぬ山の友 ことこ 蒼天に光の礫初燕 三無 陽炎のけんけんぱあの子をつつむ あき子 朝戸風見上げる軒に初つばめ 同 摘み草や孫を忘れるひとしきり 和魚 かぎろへる海原円く足湯かな 聰 陽炎や古里に建つ祖母の家 ことこ 我家選り叉来てくれし初つばめ あき子 陽炎ひて後続ランナー足乱る のりこ 新聞を足してつみ草ひろげたり あき子 つみ草や遠くの鉄橋渡る音 史空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月14日 萩花鳥会
熔岩の島生き長らへし藪椿 祐子 寝静まり雛の酒盛り夢の間に 健雄 田楽や子らの顔にも味噌のあと 恒雄 雑草も私も元気春日向 俊文 猫抱いてぬくぬく温し春炬燵 ゆかり 子自慢の如く語るや苗売よ 明子 雲梯を進む子揺らす春の風 美惠子
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令和5年3月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
雪吊りのほどけて古木悠然と 笑子 落椿きのふの雨を零しけり 希子 夜半の軒忍び歩きの猫の恋 同 立雛の袴の折り目正しくて 昭子 桃の花雛たちにそと添はせたく 同 口笛を吹いて北窓開きけり 泰俊 手のひらを少し溢るる雛あられ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
雪吊の縄のゆるみに遊ぶ風 雪 奥津城の踏まねば行けぬ落椿 同 まんさくに一乗川の瀬音かな 同 よき言葉探し続ける蜷の道 すみ枝 春眠の赤児そのまま掌から手へ 同 足裏に土のぬくもり鍬を打つ 真喜栄 強東風の結界石や光照寺 ただし 裸木に降りかかる雨黒かりし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月17日 さきたま花鳥句会
春雨に黙し古刹の花頭窓 月惑 震災の地に鎮魂の東風よ吹け 一馬 春昼や女房のうつす生あくび 八草 ととのへし畝に足跡朝雲雀 裕章 路地裏の暗きにありて花ミモザ ふゆ子 薄氷や経過観察てふ不安 とし江 拾ひよむ碑文のかすれ桜東風 ふじ穂 水温む雑魚の水輪の目まぐるし 孝江 薄氷の息づき一縷の水流る 康子 二月尽パンダ見送る人の波 恵美子 ほろ苦き野草の多き春の膳 みのり 梅園に苔むし読めぬ虚子の句碑 彩香 強東風老いてペダルの重くなり 静子 鉛筆はBがほどよき春半ば 良江
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令和5年3月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
一族の閼伽桶さげて彼岸寺 芙佐子 隠沼に蝌蚪のかたまり蠢きぬ 幸風 セスナ機の音高くして地虫出づ 月惑 この山の確と菫の一処 炳子 石仏に散華あまねく藪椿 要 年尾とはやはらかき音すみれ草 圭魚 茎立の一隅暗き室の墓 千種 春塵の襞嫋やかに観世音 三無
栗林圭魚選 特選句
ビル影の遠く退く桜東風 秋尚 古巣かけメタセコイアの歪みなし 千種 寄せ墓の天明亨保花あけび 同 色を詰め葉の艶重ね紅椿 秋尚 ひとつづつよぢれ戻して芽吹きけり 同 信号の変り目走る木の芽風 眞理子 助六の弁当買うて花人に 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
元三大師夢のお告げの二日灸 雪 新しき雪夜の恋に雪女 同 恋てふも一夜限りを雪女 同 懐手もつともらしく頷けり 昭子 石庭に音立て椿落ちにけり 同 雛簞笥何を隠すや鍵かけて 同 貸杖の竹の軽さや涅槃西風 ただし 石どれも仏に見えて草陽炎 同 泰澄の霊山楚々と入彼岸 一涓 制服も夢も大なり入学児 すみ枝 露天湯に女三人木の葉髪 世詩明 歩きつつ散る現世の花吹雪 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
門出祝ぐ花の雨とてももいろに はるか 花色の着物纏ひて卒業す 慶月 街の雨花の愁ひの透き通り 千種 蹄の音木霊となりて散る桜 政江 フランス語のやうにうなじへ花の雨 緋路 大屋根をすべりて花の雨となる 要 花屑へまた一片の加はりぬ 緋路 永き日のながき雨垂れ見て眠し 光子 宮裏は桜の老いてゆくところ 要
岡田順子選 特選句
金色の錠花冷えのライオン舎 緋路 漆黒の幹より出づる花白し 俊樹 白々と老桜濡るる車寄せ 要 花揺らし雨のつらぬく九段坂 はるか 漆黒の合羽のなかに桜守 光子 花の夜へ琴並べある神楽殿 はるか 春雨や無色無音の神の池 月惑
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
今昔の小川にしのぶ蜆かな 成子 薔薇の芽の赤きは女王の予兆 ひとみ 潮こぼしながら蜆の量らるる 朝子 餌もらふ鯉をやつかみ亀の鳴く 勝利 突きあげし拳の中も春の土 かおり 持つ傘をささぬ少年花菜雨 ひとみ 涅槃西風母も真砂女も西方へ 孝子 亀の鳴く湖畔のふたり不貞だと 勝利 口紅は使はれぬまま蝶の昼 喜和 長靴の子はまつすぐに春泥へ ひとみ パグ犬と内緒のはなし菫草 愛 息詰めて桜吹雪を抜けにけり 孝子 ふと涙こぼれてきたる桜かな 光子 健やかな地球の匂ひ春の草 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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bingata-nawachou · 6 years
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友人より 新しいスカーフの纏い方を教えていただいたのでシェアを ・ 紅型プリントシルクスカーフの第一弾のときにはなかった54cm×54cmのサイズのスカーフを2枚使用しての纏い方です ・ ・ 紅型と藍型は 沖縄の昼と夜 太陽と月…と思っているのですが、まさにこの纏い方はその両方を手にするものだと思いました ・ その日の気分で表にする方をチョイスできるのも楽しいと思います ・ そしてなんと! この纏い方だと帯揚げにもなるとのご提案もいただき(写真4枚目参照)、わたしもぜひ帯揚げに!っと思います ・ ・ #紅型 #紅型ナワチョウ #縄トモコ #びんがた #びんがたナワチョウ #なわともこ #恵 #megumi #シルクスカーフ #紅型プリント #textile #沖縄 #東京 #表参道ヒルズ #gallerykowa #表参道ヒルズ合同展 #刻の華 #新しいスカーフの��き方の提案 #紅型と藍型 #太陽の元で見た世界と眩い月灯りで見た世界 #素晴らしい提案を齎してくれた友に感謝を込めて https://www.instagram.com/p/Bpo26wkHo67/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=q6ijbeuj72n9
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fushigilabyrinth · 2 years
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囚われた竜がいる街
昔々、あるところに囚われの竜がおりました。海の底のような紺碧の瞳を持った、とても大きな黒い竜でした。その竜は城壁に囲われた街の真下にある陽の光も届かぬ地下空洞で、鎖に繋がれて囚われておりました。 どうして囚われているのか、その街の人々にはわかりませんでした。なぜならその竜が囚われてからすでに何千年もの時が過ぎてしまって、誰もが竜を捕らえた理由を忘れてしまったからです。でも一つだけ伝わっていることがありました。それは「この竜を逃がしてはいけない」という言い伝えでした。どうしてなのか、どういう経緯なのか、何一つわからないけれど、この竜を逃すな。それが竜が囚われた街に住む人々の決まり事でした。 ある日、一人の子供が竜に供物を捧げに来ました。竜に供物を捧げることは、この街においては神さまに祈りを捧げることと同義でした。 やって来たその子供は菫色の髪を帽子に押し込めた、黄金の瞳を持った少年でした。見るものすべてを暖かく照らし出すように、少年の瞳は太陽の輝きを内側に宿していました。少年はその瞳で竜を見ると少しだけ悲しそうな顔をして大切に抱えていた一輪の薔薇を、そっと冷たい地下の地面に置いて竜に捧げました。竜はその様子を青い瞳で眺めていましたが、それだけです。もう何千年と松明と蝋燭の灯りだけで照らされる暗くて狭い地下空洞にいるのですから、竜はほとんど眠ったようになっていて反応らしい反応を示すことはなかったのです。少年はそのままじっと竜を見つめていましたが、半刻ほど経つともと来た道を名残り惜しそうに帰っていきました。 竜の前には、ありとあらゆる供物が捧げられていました。世界中から集められた珍しい絹の織物や不可思議な香料に、華美な装飾が施された箱いっぱいに収められた眩い宝物の数々。角と体格が立派な雄々しい闘牛に、どの馬よりも速く戦場を駆ける駿馬。天国に一番近いと謳われる南方の島々から取り寄せた極彩色の鳥と花々。そして極めつけは艶やかに着飾った見目麗しい生きた人間。 竜に捧げるものの価値が高ければ高いほど、願いが叶うと言われていたため竜の前には本当に色々なものが折り重なっておりました。けれど、どれも竜の瞳に映ることはありません。竜は遥か昔からずっと、重い鎖に蝕まれた微睡みの中で何も見ず何も感じず、ただ長い時をこの地下で生きているだけでした。死んだような生。だからこそ、竜の瞳に何かが映ることはなかったのです。 数日後、再びあの少年がやって来ました。今日も胸元に一輪の薔薇を抱え、それをそっと竜の前に置きます。祈ることもなければ、願いを語ることもなく、少年はただただその黄金の瞳で竜を見つめて、そしてまた名残り惜し気に帰っていきました。 そんなことが何度か繰り返されたある日、少年はいつものように薔薇と共に竜のもとへとやって来ました。薔薇を地面に置き、竜を見つめる。それはこれまでと何ら変わりない行動でした。けれど、今日はそのあとに続きがありました。 少年は一歩、踏み出しました。いつもはまるで見えない壁でもあるかのように捧げた薔薇より向こう側には行かなかった少年が、その壁を越えて竜のもとへと歩みます。目も眩むような財宝と、かつてそれはそれは誉れ高い栄誉に浴したであろう何かの死骸の合間を、誘われることもなければ臆することもなく突き進んで少年は竜のそばへと向かいました。そうして、ようやく供物の山々を越えて辿り着いた先で少年は竜に触れました。 触れた掌から、竜のぬくもりが伝わってきました。それはとても低い温度でしたが、確かに生きている温かさでした。滑らかな黒い鱗から伝わる、人間の体温よりも低いそれ。けれど、少年を安心させるには充分なぬくもりでした。 少年は何度も竜の鱗を撫でては、愛おしそうに眼を細めました。そうしていつもよりもずっと長い時間、そうやって竜を撫でて過ごしました。まるで壊れ物に触れるように少年は竜に触れていました。触れるうちに少年の指先は冷たくなってゆきます。少年よりも竜の体が冷たいせいでした。冷え切った鉄に触れると体温が奪われてしまうのと同じ原理です。しかし少年は、自分の体温が冷たい竜の体に奪われて馴染んでゆくことがとても喜ばしく思えました。自分の一部が、それがたとえ体温だとしてもこの美しく雄大な生き物の一部になっている。そう思うと、少年は嬉しくて仕方ありませんでした。 その日以降、少年は薔薇を捧げた後は時間が許す限り竜を撫でました。鱗は黒く艶やかで、けれど透かして見ると限りなく透明な不思議な色合いを持っていました。そんな鱗に覆われた竜の巨体に時には頬を寄せ、時には両手で抱きしめて少年は竜に触れ続けました。 そうして月日は流れ、少年は一人の立派な青年へと成長しました。帽子に押し込めていた菫色の髪は獅子の鬣のように豊かに長く伸び、風に靡くと紫炎が揺れ燃えている様を彷彿とさせます。か細い苗木のようだった体は逞しく育ち、まるで昔の神々を刻んだ彫刻がそのまま生きて歩き出したようでした。顔立ちには幼かったころの面影がありましたが、やはり随分と大人の男の顔になって、所々に酸いも甘いも知った荒々しさが垣間見えます。けれど両の眼窩に納まった黄金の瞳はあのころと同じ太陽の輝きを宿し、優しく暖かにその瞳に映るすべてを包み込んでいました。 少年だった青年は、かつてと同じように一輪の薔薇を胸元に携え竜のもとへとやって来ました。少年だった昔と何一つ変わらずに、青年はずっと竜のもとへ通い続けていたのです。薔薇の花を捧げた数は、もうわかりません。とにかく、たくさんの薔薇を青年は竜のもとへ来るたびに捧げ、そうして愛おしげに竜を撫でては名残り惜し気に去る。その繰り返しを続けてきました。ずっと微睡みのなかで揺蕩っている竜は青年に対して何かしらの反応を示すことは一度もありませんでしたが、それでも青年は構いませんでした。 青年は自分が竜へと向ける感情が愛であることを、このころには理解していました。大人になってようやく自分の感情に名前を付けて整理することを覚えたからです。初めて竜へと供物を捧げたあの日、青年はこの竜に恋をしました。地下へと続く長い長い階段を下りた先、松明と蝋燭の灯りだけで浮かび上がる巨大な何か。重々しい鎖に繋がれ囚われた黒い竜。薄っすらと開いた瞼の合間から海の底の色をした瞳で地下を眺めているのに何も見ていないことがわかるほど微睡みの中にいるその姿に、青年は子供ながらに胸を掻き毟られるような激しい感情を覚えました。 荒れ狂う大波に襲われて溺れてしまう。けれど、怖くもなければ辛くもない。むしろ、その波にのまれて溺れてしまいたい。その感覚が恋だと気づくのはもっとあとになってからでしたが、確かに青年はあのとき竜に恋をしたのでした。 今日も青年は竜のその体を愛おしげに撫で、慈しむように瞳を見つめ、いつまでも飽きることなく竜のそばにいました。一方的だったとしても青年は竜を愛していました。何も返ってこなくてもそれで構わない。愛し続けることさえできるのなら、他のものは何もいらない。そう思えるほどでした。  けれど、もしも何かを願うなら、そう他の人々が竜に供物を捧げて祈り、願うように自分もそのようにするのなら、青年はこの竜に愛を伝えたいと思ました。眠った竜にではなく、目覚めた竜に自分の想いを伝えたいと強く感じました。青年はこれまで竜に供物を捧げても何かを願ったり祈ったりしようという気持ちが起こったことはありませんでした。竜に会って触れることができる。それだけで青年の願いも祈りも満たされていました。 しかし、青年は自分の願いに気づいてしまいました。この竜に愛しているのだと伝えたい。この溢れんばかりの愛で包み込んでやりたいと、そう思いました。だから青年は初めて祈り、初めて願いました。この竜を、この美しい生き物を心の底から愛している。眠り続ける愛おしい命に、自分の愛がどうか届くように。そう願いを込めて、青年は初めて竜に口付けました。 するとどうしたことか、竜の瞳が見開かれて深い海の底をした瞳に鮮やかな光が宿り始めました。青年は驚きながらもその瞳を見つめました。竜も青年を見つめます。竜の意識が、そこに確かにありました。死のような眠りの底に横たわっていた竜が、まるで泡粒が海面を目指すかのように現実へと浮上してくる様子が青年には感じ取れました。 「きみを、愛している」 そう囁いて青年はもう一度、竜に口付けました。それは、世界で一番優しい口付けでした。青年が口付けた場所を発端に、竜の体からまるで花吹雪が舞うように鱗が弾けてゆきます。美しい竜の鱗がまるで雪の結晶のようにも、舞い散る花びらのようにも、そして恵の雨のようにも見えながら青年の視界を覆いつくしてゆきます。 すべてをかき消すように竜の鱗が青年の視界を奪ったのち、霧が晴れたようになるとそこにいたはずの竜の姿が消え、代わりに青年と同じ年頃ほどの男が裸で蹲っておりました。青年は供物の山から適当な織物を見繕って、その男の体にかけてやりました。そうしてまだ覚醒しきっていないのか、ぼんやりと項垂れる男の顔を覗き込みました。美しいつくりの顔の中に、深い海の色がありました。間違いなく、竜の瞳の色でした。この男は、青年が愛した竜でした。 青年は竜が人の姿になったことにも驚きましたが、その姿が竜のときと同様にとても美しいことに感動もしていました。青年が愛した黒い竜。その美しさが人の姿に宿るなど、ありえることなのか。しかし事実、目の前にその人はいる。深い肌の色は上質なチョコレートのそれに似て、しかし手触りは鞣革のように柔らかで張りがありました。黒い髪は艶やかに光り、耳にかけてやると流れるようにするりとした感触で指の合間をすり抜けます。四肢は長く伸びやかで立てばきっと青年よりも大きいのでしょうが、今はまだ小さく折り畳まれたままです。竜の姿の名残りがそこかしこにありながら、それは紛れもなく人の姿でした。ただ異様なほどに美しいだけです。 「竜が、逃げる」 誰かの声でした。きっと竜が人に変わる様子を見ていたのでしょう。竜が眠る地下空洞はいつ何時でも祈り、願えるように開け放たれていました。だから青年以外の人間がいても不思議ではないのです。その誰かの声を皮切りに、その場に居合わせた人々の疑念や不安が声になって表れ始めました。この街は囚われた竜がいる街。どうして囚われているのか理由は知らずとも、竜を逃すことが許されない街。人々の感情の行き着く先は、決まっていました。 「竜を逃すな!」 また誰かの声でした。もう誰が何を語り、何を悲しみ、何を叫んでいるのかわかりません。青年にわかることは、このままにしておけば人の姿に変わった竜は再び重い鎖に繋がれて地下に囚われることだけでした。竜はもう充分に長い時間この地下に囚われ、他者の祈りと願いを聞き続けてきました。そんな竜を再び捕ら��て暗いこの場所に押し込めることが、青年にはできませんでした。たとえそれがこの街の決まり事だとしても、愛しい竜をそんな場所に置き去りにはできません。 青年は竜を抱えて立ち上がりました。竜はお世辞にも軽いとは言えませんでしたが、家業の牧畜を手伝っている青年には重いわけでもありませんでした。牛や羊に比べれば軽く、山羊や鶏に比べれば重い。その程度のことでした。そのまま騒ぎ立てる人々の間を全速力で走り抜けます。青年はこの竜を連れて逃げることをすっかりと心に決めていました。そして竜のために何もかもすべてを打ちやる覚悟もしていました。竜のためになら自らの人生を捧げてしまえる。竜に捧げる供物は自分なのだと、青年はそう思いました。 後ろから人々が追ってきます。罵声が飛び、恐怖に震える嘆きが聞こえ、青年を恨む言葉も聞こえます。憎まれても呪われても構わない。街の人々すべてを敵に回してでも、青年は竜をこの地下から救い出したかった。腕に抱いたぬくもりがあるかぎり青年は追われ続ける道を自ら、選びました。 青年は走り続けました。街は広く、また高く堅牢な城壁に囲まれています。ここから出るには東西南北それぞれに作られた門のどれかをくぐるしかありません。しかし青年が門をくぐるのが早いのか、それとも竜を連れ出して逃げたことが知れ渡り門が閉じられてしまうほうが早いのか、誰にもわかりません。だから青年は走り続けました。竜を抱えて走りました。そして一番近い門に辿り着いたとき、それは閉じられる間際でした。門番たちは皆、一様に興奮していました。竜が逃げ出すという一大事に誰もが浮足立ち、またその事実が本当なのかそれとも嘘なのか、それよりも竜が逃げだすと何が起こるのか、そんな混乱に振り回されていました。 青年は門番たちを薙ぎ払うようにして体ごと、門が閉まるぎりぎりの隙間に体をねじ込みました。失敗すれば青年も竜も門に挟まれて死んでしまいます。それでもその一瞬に賭けました。そしてその賭けに、青年は勝ちました。門番たちは青年の姿が門の向こう側に消えてゆくのを眺めているしかありませんでした。門は、二人を城壁の外へと逃して固く閉ざされてしまいました。壁に作られた見張り塔の上から街の外を監視していた門番だけが、竜を抱えた青年がそのまま広い平野のその先へと駆けてゆくのを見ましたがその姿も地平線の彼方へと消えてゆきました。 それ以来、二人の姿を見た者は誰一人としておりません。また街がどうなったのかも、わからないままです。
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toubi-zekkai · 4 years
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 月の見えない暗い夜が明けると太陽の見えない白い朝が訪れた。  二つの瞳は夢から半ば覚めていなかった。白い蛍光灯が縦一列に並んでいる天井が酷く眩しく見える。熱を感じさせない観念的なその光は吊り革の丸いプラスチック製の輪、中吊り広告紙の表面、ステンレス製の網棚や手摺り、エナメル質の白い床、シート座席の前に投げ出されている革靴といった列車内の物質に硬い光沢を纏わせ、橙色のシート座席に座っている乗客たちの顔を一つ一つ鮮明に照らし出していた。毎朝見掛けているその顔たちは皆一様に寡黙でモノレールの列車が線路の上を滑る音だけが車内に響いている。その音も地上を走る普通の電車に比べると非常に大人しく、意識していないと忘れてしまう程で、むしろ耳にする頻度が一番多い大きな音は列車が駅に到着する毎に開閉する自動ドアの作動音だった。その音が聞こえて来る度に微睡みの淵へと沈みかけていた意識が再び現実へと戻され、ぼやけた双眼に見慣れた駅名板と開いたドアから入って来る見慣れた乗客たちの姿が朧げに映り込んだ。一日の汚れや垢の臭いに未だ汚染されていない清潔な始発運行列車の中に乗客たちは少しずつ生活の腐臭を運び込んで来た。しかし昼間のましては夕方の列車内におけるあの耐え難い生活の腐敗臭と比較するとやはりそれは遥かに清潔な車内と言うことが出来た。
 列車と列車間の連結部には仕切りのドアが設置されておらず、座席に座っていても右や左に視線を遣れば先頭から最後尾に至るまで列車内部の全景を見渡すことが出来た。清潔と静謐の中で蛍光灯に照らされている白い床と両脇の細長い座席に座っている人間の俯いた横顔が真っ直ぐに延びている様子は病院の長い一本の待合い廊下を思わせた。しかし暗鬱な表情をして彼らを待っているものは病気の診断結果ではなくてこれから始まる膨大な一日の耐え難い重圧であり、そういう意味では懲役刑の執行を待つ囚人を乗せて走る護送列車と言い直した方が適切であった。受刑者たちの数は音を立ててドアが開く毎に黙々と増えて、同時に刑の執行される時間も確実に迫っていった。それは夜と朝の狭間を走る列車であり、車内の清潔さや静けさが作り出している安全と秩序の雰囲気がかえってこれから先乗客たちに降り掛かる太陽の暴力と未だ生々しく夜が残る彼ら自身の内に渦巻く闇の暴力を鮮明に際立たせているのだった。  直線的に延びた白い廊下と両脇の長椅子に座り込む人間たち、それは一枚の陰惨な静止画の様に永久に動きを見せないかの様に思われたが、列車が線路のカーブに差し掛かると先頭の車両から順番に右や左にずれていった。顔や身体は依然として微動だにしないままに、今までは見えていなかった一番奥の車両の人間の顔が見え始め、同時に今まで見えていた中腹の車両の人間の顔が消えていく、或いは逆の現象が起こった。手前に見える横顔だけは如何なる時も動かなかった。  それよりも更に注意を引くものがあって、それは列車がその細長い車体を曲げた時に露見する列車と列車を繋ぐ連結部の蛇腹であった。あらゆる構造物がステンレスやガラス、プラスチックといった硬い物質で構成されている鋼鉄の列車内において柔らかそうな灰色のビニールで作られている蛇腹がうねうねと曲がりくねっている��の様子はそこだけが異様に生々しく有機的で不吉にさえ映った。それは戦士の全身を完璧に包み込んでいると思っていた鉄の鎧兜に隙間とそこから覗く肉の肌を見つけてしまった時のように、熱中して読んでいた難解な哲学書のページの上に小さな虫が動いている姿を発見した時のように、完全無欠であると思い込んでいた鋼鉄の観念が不意に裂けて生の現実が顔を現す瞬間だった。傷付けられた人体の皮膚と同様にして一度引き裂かれたた観念が回復するには長い時間を必要とし、その間、鎧の戦士は唯の脆弱な肉の塊へと堕落し、哲学書は無意味な文字記号が黒いインクで染み込んでいる唯の紙へと堕落する。それは普段人間によって意識の地下室へと巧妙に且つ厳重に隠蔽監禁されている生の現実が人間に対して復讐する瞬間であり、こういう時に私はいつも生の現実の甲高い笑い声を聞いているような気がする。時にはその顔姿までが心にはっきりと浮かんで来ることもあって、それは挑発的で豊満な肉体を真っ黒なドレスに包んでいる魔女だった。優雅に伸びた両腕の先に細い指の一本一本が独立した生き物の様に蠢き、鋭く尖った鉤爪が空中に赤い軌跡を描いている。気品ある白く細い首元には逆さの十字架に絡まっている髑髏のネックレスをぶら提げ、嘲弄と侮蔑に歪んだ笑窪と蠱惑的な赤い唇からはありとあらゆる下品で下劣な罵りが最も高貴な言葉で語られる。高慢さの象徴である高い鼻、救いや同情の声などには一切反応しない冷酷に尖った両の耳、やはり嘲弄と侮蔑に歪んでいる細長い眉の付け根、長い睫毛の下に隠されがちな暗い夜そのものを映し込んでいる虚ろな瞳……全ての物を飲み込んでしまう相対性の黒い魔女。  唸る様な囁く様な声を響かせて巨大な蛇に変身した魔女が今もその艶めかしい蛇腹を右に左にくねらせている。不安や不快感が心に押し寄せて私は列車の連結部から目を逸らす。しかし気が付くと直ぐ蠢く蛇腹の襞に見入っている。見たくないのにどうしても見てしまう。それは自分の肌に出来た裂傷を絆創膏を捲って何度も何度も見てしまう、更に重症化すると傷口に指先を這わせてその苦痛を味わおうとする、あの感覚に酷似していた。  普段から意識の散漫な私は道端で転んだり硬い机の角に脚をぶつけたりするなどして腕や脚に怪我を負うことが少なくはなかった。そうして怪我をする度に肌の表面に造られる傷跡や青痣は酷く私を高揚させた。更にもっと酷い傷を負い、鮮血が流れ出した場合などは尚の事私の興奮は音楽の様に高まった。  偶然の怪我は自分を包み込んでいると頑なに信じていた肉体という観念の鎧を容易に破壊した。肌の裂傷、青痣、赤い血は私内部の露出した生の現実であると同時に刻みつけられた外の世界の生の現実だった。傷跡は私の内と外の現実を一つに繋ぐ結合地点、私の肌に刻まれた世界そのものの爪痕だった。傷跡が自分の身体に出来たその夜は恋人につけられた首筋の噛み跡を愛でる様に新しい傷跡を撫でてながら安心してベッドの上で眠った。  しかし私は自分で自身の肌を傷付けようとは思わなかった。或いは或る種のマゾヒストたちの様に誰かの指に握られた薔薇鞭に尻を打たせようとも思わなかった。自分の意志が僅かでも混入していたらそれは純粋に外の世界の生の現実が付けた傷跡ではなくなり、私の内側と外側を一つに繋ぐ聖痕としての資格を失うからであった。完全に偶然、つまりは不意に訪れる運命の一撃だけが唯一正統な傷跡を創成することが出来るのであり、更にはこうして傷を受けることを望み意識している状態で傷を受けることさえも傷跡の純粋さを著しく傷付けるものだった。だから自暴自棄の人間に聖痕が刻まれることは永久にないのであって、その点、私は或る程度合格点に達しているようだった。それが擦り傷であれ青痣であれ出血であれ、普段日常の私は自分の身体が傷付けられる事を他の何よりも恐れ且つ拒否していた。  しかし、繰り返し連結部の蛇腹に目を遣ったり逸らしたりしているうちに段々と私は軽い吐き気を伴う眩暈を感じ始めて完全に視線を前方へと固定した。このままその暗い淵に意識を向けていては度々私を襲う狂気の発作が発動するという予感がしたからであった。  視界の向かい側には幾何学模様がプリントされている橙色のシート座席に乗客たちが並んで静かに座っていた。その顔の殆どは俯いていて、例外的に俯いていない顔の大抵は口を開いて眠り込んで居る顔だった。寝顔は間抜けでもあり無邪気にも見えた。それは人間から人間性の全てを剥ぎ取った顔、つまりは一動物の顔であって、間抜けさや無邪気さといった印象はそこから来るものであったが、一動物の顔には危険さも醜悪さも皆無で、永遠に目覚めなければ私はこの顔を愛することさえも出来たかもしれなかった。しかし一方で目覚め始めている顔というのはとても直視出来るものではなかった。それは醜悪さから目を背けるというよりもそうした顔が私に恐怖や不安を呼び起こすからだった。  より厳密に言い表わすならば��れは顔というよりは形成される過程の顔だった。長い夜の間にばらばらに分裂して夜の体液に溶け切った顔は良く晴れた朝ならば朝陽を浴びて迅速且つ順調に形を作っていくのだが、曇って朝の光が乏しい今朝のような条件下では顔の制作工程が著しく停滞するらしかった。中途半端で脆弱な構造しか持っていない顔はその中にある膨大な夜を覆うことが出来ずに、目玉は真っ赤に充血し、顔全体が吹き出物の様に腫れて、毛穴という毛穴から夜が絶えず漏洩している様に見えた。それは無限の夜を圧縮して閉じ込めている爆弾であり、爆弾が周囲に暴力を撒き散らすものならば爆弾そのものと言うことも出来た。  列車の橙色のシート座席の上に爆弾が所狭しと並べられいる。爆弾自身も自らが爆弾であることは十分に自覚しており、瞳を閉じたり俯いているのは爆弾を刺激して暴発することを防ぐ為であった。爆弾が爆発して最初に破壊されるのは作り始めている自分の顔であり、それは自分自身が破壊されるのと同義語であることを爆弾自身が一番認識していた。  しかしこうして動物の顔や爆弾の顔を眺めていると、普段昼間太陽の下で見ている顔が如何に作り物なのかが良く理解出来る。結局、顔というのは衣装と同じで本当の中身を隠すものに過ぎないのだろう。その本当の中身というのは夜であり暴力、更に突き詰めれば虚無であって、ただその虚無を覆い隠す方法の差異が顔貌の差異として表出し見えているに過ぎないのだろう。  それならば一体私は今何を見ているのか?顔ではない。夜と溢れ出ようとする夜を見ているのだ。しかしそういう私自身も目玉が真っ赤に充血し、顔全体が吹き出物の様に腫れて、毛穴という毛穴から夜が漏洩している、今にも爆発しそうな夜の爆弾だった。つまりは夜が夜を眺めているのであった。しかし視線の先に見える夜の傍らに見える窓からは歴然とした朝に包まれている外界が映っていた。私の視線は重苦しい夜の顔たちから逃避する様に窓の外の景色へと吸いこまれた。  窓の外から見える空は遍く白い雲に覆われていた。しかし限りなく密集して飽和状態にある雲はもはや雲としての意味を失い、そこにあるのはただの白い空だった。その白い空の遥か下界には住宅の屋根や自動車が列を作っている道路、時折広大な畑や野原も見えた。走馬灯の様に窓枠の中に現れては瞬く間に消えていく下界の風景は視線の先にどこまでも続いていくかの様に思われた。しかし、彼方の地平線に厳然と聳え立つ蒼黒い山脈が広がっていこうとする風景をその豊かな下半身を盾に堰き止めていた。狂暴な竜の下顎に並んでいる鋭い歯を思わせる山脈の稜線は視線の端から端まで途切れることなく続き、その雄大な体躯は列車がどんなに移動しても微動だにしなかった。  天上は白い空に塞がれて、視界の奥行きは蒼黒い山脈に遮られ、それは無情な観念の世界に逃げ場なく閉じ込められているのだという感覚を強くさせる窓の景色だった。しかし、良く見ると白い空と蒼黒い山脈の間には青い空が垣間見えていて、白い空、青い空、蒼黒い山脈という縦並びの一枚絵が視界の奥に完成していた。白い空と蒼黒い山脈の間になぜ青い空が見えるのか最初解らなかったが、暫くして、この近辺一帯の空は白い雲に覆われているが蒼黒い山脈の上方に限ってのみ晴れ渡っているのだということを理解した。同時にその垣間見えている青空に私の意識は強く惹き付けられた。なぜなら真っ直ぐに引き裂かれたその青い一本線が白い天井と蒼黒い壁に包囲されている密閉空間に唯一開かれた脱出口の様に映ったからであった。  それはドアや窓が無く完全な密室状態だと思われていた部屋の白い壁に小さな穴を発見したようなものだった。穴にぴったりと張り付いた瞳にとってそこから見える青い空は狭い部屋に対する広い世界の、有限に対する無限の象徴として映り込むだろう。やがて小さな穴は狭い部屋に閉じ込められている彼にとって広大無辺の世界に通じている唯一の脱出口として輝き始めるのだ。  しかし、もし仮にだが部屋にドアや窓が付いていた場合はどうだろう。白い壁に空いている小さな穴は脱出口としての意味や条件を失い、脱出という行為そのものが不可能になる。脱出を可能にするためには密室が必要であり、脱出口の輝きが出現するためには完全に部屋を塞いでいる白い天井や白い壁が必要なのだ。  今、街の上を走るモノレールの長椅子に座って窓の外に眺めている彼方の青い空がこの狭い車内及びこの小さな街からの脱出口として急速に輝き始めているのは私の頭上を白い空が覆い隠し、更には視界の行く手に厳然と巨大な蒼黒い山脈が立ち塞がっているからだった。脱出口が完成するためには、つまり密室が完成するためには白い雲に覆われた空だけでは不完全であり、晴れた空と蒼黒い山脈だけでも不完全で、今朝の様に白い雲に覆われた空と蒼黒い山脈が現れることが絶対的な条件なのだ。  しかし、この密室も私にとって完全な密室ではないことは、瞳こそ夢から覚め切ってやや熱くなり始めたものの身体の方は依然として柔らかい長椅子に深く沈まったままである姿勢からも明白であった。何度も何度も窓硝子にぶつかり最後には力尽きて窓の縁で死んでしまう蠅や黄金虫にとっての部屋や窓硝子程の意味にまではあの白い空や蒼黒い山脈も青い空も私の中で到達していないのだろう。  結局は、精神的にであれ肉体的にであれ自己の存在を圧し潰す様な恐ろしい危機だけが脱出を可能にするのだろう。つまりはこう言い換えることも出来る。自己の死に瀕している絶望的な瞬間にのみ彼は本当に自己を生きようとすることが出来るのだ。  しかし私が今こうして通勤の車内に揺られて仕事場へと向かっているのも、仕事に行かなければ肉体的精神的危機を迎えるからであった。とはいってもさほど大した危機などではないことは通勤する私の緩慢な態度からも伺える。本当に危機で本当に脱出口がその先にあるのならばこうして脇目を振って窓の外など見てはいられない筈だ。完全な危機に瀕している人間は脱出口以外に注意を向けることはないし、自分の中にあるありとあらゆる力を動員してそこに向かっていくだろう。  そうした推測からは逆説的な事実が導き出される。それは恐ろしく精力的で活発に動き回る人間、つまり本当に生きている様に見える人間の内側は絶えず精神的肉体的崩壊の危機に瀕していているということである。彼は絶えず彼自身を襲う破滅の危機から逃れるために絶えず活発に動いているのである。  しかし、それならば生きているとはただ単純に死から逃避しているだけなのかもしれない。その死とは肉体的な死というよりも自分自身の死である。  自殺者の瞳に世界は刻々と自分自身を圧し潰す完全な密室の様に映り、だから必死に脱出口探し続けるが、最終的にやっと見つけた壁の小さな穴こそ死そのものなのだ。小さく丸い穴は彼の中で徐々に膨張を開始し、やがて視界の全てを覆う巨大な太陽へと成長する。それは客観的に第三者の瞳から見れば黒い虚無のブラックホールなのだが、究極に追い詰められた人間の瞳には燦燦と輝く光と生そのものである太陽の如く映る。永遠で普遍的な神とほぼ同義語であるその太陽の光や熱に自分自身を同化させることが自分自身を普遍化し永遠に生かし続ける唯一の方法だと考えて、彼は夏の虫たちの様に太陽に向かって飛んで行くのだ。  と考えたとき、突然私の心に日の丸が浮かんだ。同時にあの国旗は密室の白い部屋に空いている丸い脱出口なのではないだろうかと考えた。しかしその穴から見えるのは青い空でも黄色い月でもなくやはり太陽なのだった。それも白い空に赤く燃えている太陽であって、同時にそれは白い観念が引き裂かれて顔を見せた赤い現実であり、白い死に装束を身に纏って果てた人間の打ち落とされた首に浮かぶ赤く丸い傷跡だった。
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acchali · 6 years
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200Miles
群馬県を中心に活動するサイクリングコミュニティCycleClub.jp(ccjp)は、関東圏から多くの参加者を集めるクラブライドを活動の中心に、前橋シクロクロスをはじめとしたイベントを何度も成功させ、自転車のまちを標榜する前橋市との信頼関係を築くなど、地元の自転車仲間という枠組みを超えた存在感を示している。そんな彼らが過去2年で2度クローズドで開催した200miles、320km/4300mUPというビッグライドのことは友人であり同じくRaphaアンバサダーを務めるccjpの中心人物の1人、Tkeyから話は聞いていた。僕は自身の最高距離も平坦基調で260km程度が一度あるぐらいで長距離走にも別段興味はなく、半笑いで彼に「自転車好っきゃな〜」と賛辞を送るに過ぎなかったのだけど。聞くところによると、満を持してということかはわからないが、その200milesをオープンなイベントとして開催するという。4人を1チームとして群馬県は前橋からスタートし、平坦を東へ栃木県小山市まで進んだところで北上、日光いろは坂・中禅寺湖を経て、国道日本3位の標高である金精峠の2024mをピークとし、群馬の沼田へ下り、中之条・東吾妻とアップダウンを繰り返し前橋へと戻ってくる320km、獲得標高4300mの道のり。朝3:30のスタートで、完走が認められるのは夜22:00まで。という話を聞いた頃には、なぜか僕も走る流れになっていた。長距離走が自分の関心外だったこともあり、特に走りたかった訳でも無いけど、なりゆきでそうなったら走らない理由は無い。運命が選んだんだ、と静かに受け入れた。走ることが決まったら、それはそれで楽しみだと感じていた。結局は「自転車好っきゃな〜」ということである。 そうこうして決まったチームは、Rapha Japanのヒロ、Onyourmark MAGAZINEのユフタ(もちろんこのライドも記事にしている)、RaphaCyclingClub(RCC)の東京チャプ���ーを牽引する落合さん、そして僕という4人で、ヒロとユフタはCANYON Japanから新作のグラベルバイクGRAILを借り受けていて、オンロードでのインプレッションするという事になっていた。落合さんもまたCANYONライダーだという。チーム3人がCANYONで参加するのなら僕もということで、CANYON Japanのご厚意でハイエンドのカーボンディスクロードUltimate CF SLXを借り受けた。彼らが持つテストバイクのパーツを利用して市販のアッセンブルより軽く仕上げてもらったこのディスクロードは、油圧ディスクにeTapとまさに最先端の装備。僕のクロモリバイクとは対極の価値観で生まれたスーパースポーツは、ディスクブレーキで驚きの7kgちょうどという軽さで、このビッグライドを少しは楽にしてくれそうだった。結果として、このバイクは僕を強く支えてくれることになる。そうしてチーム全員がCANYONにまたがり、Raphaの新作カーゴビブショーツとテクニカルTシャツをチームキットとして身にまとい、プロモーション臭をそこはかとなく漂わせつつ、我らがCANYON//シャカヶ岳チームは準備万端で5月4日午前3時35分にスタートしたのだった。この時には知る由もないが、この日、北関東圏の一部を襲った異常気象は、ちょうどそこを走っていた僕たちを雨、雷、霰、雹、吹雪、氷点下の気温と、気まぐれに様々なカード(もちろん晴れも)でもって翻弄した。最初の試練はスタートしてたったの30分後に天気予報で伝えなかった雨として現れる。未だ明けぬ宵闇の中で弱まることのない雨脚は���徐々に僕たちを削っていくが、とにかく前へ前へとペダルを回していく。ジャケットを雨予報ではなかったけど2000mからのダウンヒルの防寒と万が一の雨に備えてお守り的にRaphaのClassic Rain Jacket IIをチョイスしたのは幸いだった。これもこの日、僕を強く支えてくれることになる。 別のチームと出会って抜いたり抜かれたり、トレインを組んだりして走り続けると、やがて空は白み始めるが、雨雲は厚くなり雷を呼び込み、真夏の夕立のように様相を変えた。最初の平坦路で長い休憩を取る予定は無かったが、雨宿りに入ったコンビニで足留めをくらってしまう。既に全身は水浴びをしたようにぐっしょりと濡れていて、靴にも水が溜まっているような状態だが、ジャケットのおかげで胴がドライなのはありがたい。しかしまだ平坦を70km程度しか走っていない。先はまだまだ長く、ダウンヒル向けの装備が既に濡れていて、窓の外はさながらスコール。これからの旅の困難さに眩暈を覚えていた僕の横で、仲間たちはインスタントラーメンを食べながら晴れたらすぐ乾くだろうと笑っていた。 雨脚が弱まってきたところでリスタート。小雨になったとはいえ雨が降っている状態で自転車を漕ぎ出すなんて、税金を支払いに金融機関に行くぐらいに完全なる億劫でしかないが、日光方面に向かうにつれ、雨は止み雲はちぎれ、太陽が控えめに顔を出してきた。しかし先程のスコールは相当な雨量を広範囲にもたらしたようで、どこまでも路面はウェット。水捌けの良くない路肩は浅い川のような状態。前走者や自身の跳ね上げる飛沫で、体感としては雨の中を走っているのと変わらず、タフな状況はまったく変わらない。既に僕の意識と身体は切り離され、ただペダルを回し続ける機械としての自己を認識することで、かろうじてこのストレスフルな状態に耐え、歩みを進めていたのだが、北へと進路をとる頃には徐々に登り勾配を感じることになる。前半の100kmに及ぶ平坦区間が終わろうとしていた。 日光のコンビニで休憩していた他チームの友人と談笑すると疲れも少しは和らぐが、135km地点のここからピークの金精峠まで50kmほど登り続けることになる。いよいよ山岳コースか、と静かに気合を入れて走り出したのだが、見上げると、僕たちの進む道の先には黒々とした雲がかかっている。山頂は全く見えない。誰も何も言わないが、あれはどうみても雨雲、むしろ今日これまで雨を降らせてきた雲よりもどす黒く、嫌な予感しかしないが、雨が降っていないとそこそこ暖かく、このあたりは例のスコールが降っていなかったようで路面も乾いており、久しぶりにストレスを感じずにペダルを回すことができるので、僕は意識的に無意識を操作して前方の暗雲を消し去ることにした。そうして淡々と登り続けると、すぐに日光東照宮を超え、いろは坂へとさしかかる。チームメイトは皆ジャケットを脱ぎTシャツ姿だ。思えば、この日ここだけがチーム4人が揃ってチームキットを見せることができたタイミングだった。とても短い時間だったが、かっこいいと思った。本当はずっとTシャツ姿でいるつもりだったんだけど。 連休中ということもあり、車もとても多いが、いろは坂は2車線の一方通行で交通量が多くても比較的登りやすい。とにかく負荷をかけずに淡々と。それなりにヒルクライム的な気持ちよさを感じていたところ、ふと顔に水滴がかかると、僕が操作した無意識はあるべき場所へと立ち戻り、残された意識はすぐさま状況を判断する。気づけば周りは真っ暗だ。見上げていたあの悪意すら感じる色の雲に飛び込んだ格好だ。すぐに雨脚は強くなる。せっかくなんとなく乾いてきたウェアやシューズがまた濡れるのかとうんざりしていると、早々に本降りになりそうで慌ててレインジャケットを着る。チームキットのTシャツはまたおあずけだ。 15分後、山頂あたりで雨脚は弱まった。他チームも山頂に設けられた駐車場で休憩をしている。苦しそうな顔、色んな感情が混ざった無表情、伏し目がちで立つ姿、様々に入り交じっているが、そこに笑顔はない。そりゃそうだ。気まぐれに降った、たった15分程度の強い雨でまた濡れ鼠にされ、残りは150km以上ある。あんな短時間に強く降るならせめて僕たちが居ないタイミングでやってくれという話で、ここでヘラヘラしてるヤツなんてネジが一本飛んだと表現されるような人間だ。幸い、チームメイトもそれなりに渋い表情をしているし、僕もそうだ。思いっきり渋い顔をしてやった。皆無言だが、その表情から様々な感情を吐露している。誰も口を開かない。ここで弱音を吐く意味が無いことは皆理解していたし、何を言おうが今ここにいるのは自分の判断で、天候なんて誰の所為でもない。誰も何も言えないから、一様に無言で、吐息で毒を吐き、表情で文句をたれる。それぐらいは許してくれ。 ここは頂上に見えるのだか、ここから下るわけではなく、標高1,250mあたりの中禅寺湖を横目に少しばかりの平坦を走り、いよいよ本日のピーク金精峠へと向かう。この後はコンビニ的なものはしばらくないと言うので、中禅寺湖のほとりにあった小さな商店で補給をすることにした。気まぐれな天気はここで晴れ間を見せ、雨の中でカップラーメンやおにぎりを食べるなんてバカバカしいことにはならなかったが、身体は冷えている。僕は身体の中から暖めるイメージでカップヌードルのカレーと豚キムチ丼を選択した。少しでも暖かいところへと日が当たるところで皆で座って食事をするが、弱音のようなものは出てこない。僕たちにとって暖かい食事と太陽というのは太古の昔からいつだってそういうものだ。 腹が満たされ、太陽に暖められると、なんとなく走り出そうという気持ちになるのだから不思議なものだ。さっきまで努めて渋い顔をしていたというのに、冗談なんか言って笑い合えるようにもなったりする。ここはちょうど半分ぐらいの地点。思ったよりも身体に疲労はなく、このまま天気が良ければと空を見上げるが、太陽は厚い雲の切れ目から顔を出しているだけであり、山岳というのもあってどうにも楽観的ではいられない。むしろ厚く複雑な形をした雲が浮かぶ空はもう一雨ぐらい持ってきそうに見えてしまう。それはまるで、お気に入りのシャツにいつの間にか付けてしまった染みのように、僕の心には気づいたら不安がこびり付いていて、指でなぞっては、もう取れないことを確認するような作業だ。そんなネガティブな気持ちと休憩明けの重い脚で中禅寺湖のほとりを進むのだが、路面は乾いておりストレスなくペダルを回すことができる。そうそう、これこれ。このまま後半戦を進めていこうよ、と心の染みに向かってつぶやいてみるが返事は聞こえない。高地の気温は低く、乾ききらず湿ったままの靴は足先を冷やす。香辛料をもってしても足先までは温まらないし、むしろ体温もいまいち上がらないが、いよいよ本日の最高点の金精峠へのヒルクライムがスタートする。分かれ道を右へ進路をとると、すぐに勾配が強くなった。ゴールを探し空を仰ぐように見上げるとただ真っ白な雲の中へと道は続いていくのだった。 ところで、さきほどから小さくヘルメットやカーボンフレームを叩く音がしていて、それは金精峠を登るにつれて降ってくる雹とも霰ともつかないものが僕を打ち付ける音だ。マイペースで登ろうと序盤でチームからあえて遅れたが、この天候に心はバキバキに折られている。サイコンが示すパワーの表示は150W程度だ。軽量級の僕とは言え、こんな省エネルギーで登れるわけはなく、その歩みは亀のように遅い。僕はふたたびペダルを回し続ける機械と成り果て、一切の感情を持たずに登り続ける。そうだ、僕がいま、こんな天候でこの峠を超えていることに意味なんてないし、ただWahooのサイクルコンピュータが塗ったルートをトレースしているだけで、むしろ僕はサイクルコンピュータの一部で、パワーメーターが示す値の通りに僕の脚が回っている。それは僕の脚が150Wの出力をしているのではない。パワーメーターが150Wと僕に指定しているのだ。電子機器に支配されたサイクリストはいつのまにかパワーメーターに乗っ取られ主従関係が逆転していることに気づかず、今日もこうしてディスプレイに示された値を視覚から入力し、それを自らの脚で出力しているだけに過ぎない。 という状況に至るまで感情を身体から切り離したところで、ピークの金精トンネルが見えてきた。チームメイトが雹とも霰ともつかないものから逃れるようにトンネルの入り口にいるのが見えると、感情が一気に戻ってくる。待たせてごめん。さっきまでパワーメーターに乗っ取られていたんだ、とは言わなかったが、お互いにこの苦しいヒルクライムをクリアしたことを称え合い顔が綻ぶ。やはり孤独はだめだ。仲間がいればパワーメーターに乗っ取られることなんてなかった。さぁ、このトンネルをくぐればあとは30kmにも及ぶダウンヒルで、ご褒美的に一気に210km地点まで気持ちよくワープできるのだ。この下りこそディスクロードの本領を発揮するところ。いつもより安全に気持ちよくダウンヒルを楽しめるだろう。そう思いリスタートした。前方のトンネルの出口が近づくにつれ、僕たちは違和感を覚えだす。色がおかしい、あまりにも白いのだ。その色に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」なんて昭和初期の小説の冒頭が思い浮かぶが、彼は列車に乗っていたはずで、僕たちは自転車だ。このトンネルを抜けた先に美しい物語の始まりはなく、地獄のダウンヒルが待ち受けているだけだった。 トンネルの出口からその雪国とやらにつっこむと、完全に吹雪で気温はマイナス2度を指している。ニーウォーマーもなく、ペラペラのグローブはすぐに氷結した。少しでも体温が上がるかとペダルを回すが、膝に電気のような痺れが走ったので止めておいた。ここで選択を誤ると、とんでもない故障をしてしまいそうな気がする。指先も足先も痺れるような痛みがあるが、油圧ブレーキはこの極限状態でも優秀で、安全なスピードをキープすることができる。すぐに山小屋が見えてきたので退避する。もう限界だ、これ以上どうして下ればいいというのか。まだ山頂から3kmしか下っていない。時間にしても5分も経っていないと思う。ずぶ濡れの身体がガタガタと震え、手足の痺れと痛みが取れることがない。チームメイトが暖かいコーヒーを買ってきてくれ、山小屋の方がストーブを付けてくれたので、なんとか震えは収まってくる。 寒さ耐性というのは個人差があり、僕は昔から冬に痩せて夏に太る体質が示すように、寒さが苦手で暑さが得意である。こういう極限状態を経験するまでは寒さも暑さも趣味嗜好かと思っていたが、低体温症になった経験もあり、どうやらそういうことのようだ。以前にシクロクロスのレース会場で低体温症になり救護された時と比べると、レインジャケットを着ていることによって胴が濡れていないことで相当に冷えは軽減できているように思えた。先が見えない状況だが、いつまでもここに居るわけにはいかない。吹雪は収まりそうになく、標高が100m変わるごとに気温は0.6度変わるというので、今が1番辛いんだと言い聞かせ、山小屋のお土産物として売られていた群馬県のゆるキャラ、ぐんまちゃんが描かれた手袋を買い、チームメイトと吹雪の中に飛び出して凍りついた自転車にまたがり重力に任せて下り始めた。サバイバルの鉄則は現地調達だ。新しいグローブをゲットして少しは楽になるだろう。 山小屋で取った暖は一瞬で消え去り、地獄のようなダウンヒルが続く。子どもの頃に読んだ絵本のようなもので、様々な地獄出てくるお話があったのを覚えていて、その中に灼熱地獄はあったが、逆のものはなかった。これからは極寒地獄も追加するべきで、なぜならここは地獄のようだからだ。すでに知覚が鈍っていて痛みのディティールを感じることは出来ないが、身体のあらゆるところが痛い気がする。手足は先程まであった痺れを伴う痛みを感じなくなったが、それは感覚が無くなったということだろう。得意の無意識を発揮して、何も感じずに下るだけの機械になることが出来ればいいのだが、あまりにも僕はそこで人間だった。ここでパンクしたら死ぬだろうなと思った。ましてや落車なんか。5月の装備でマイナス2度の吹雪で走行不能になったら死ぬに決まっている。チームメイトの命だって危険に晒してしまう可能性もある。そんな人間的な考えばかり溢れてくるが、そのぶん意識は冴えてくる。感覚がなくても油圧ブレーキはしっかりと仕事をしてくれるので、危険を感じることはなく、パンクのリスクがありそうなところを避けたラインを取ることができた。自転車を借りて本当によかったと心の底から思った。心の底というのはこの深さにあるのかと自覚したほどに。これまでディスクロードに対して特に必要性を感じていなかったけど、とにかく安全でいるということに関しては圧倒的だった。5月に氷点下で吹雪のダウンヒルなんてあまりに極限状態であることは確かだが、それでも油圧ディスクブレーキがもたらす安全マージンはかなりのものだ。しかし身体は冷え切っている。もう限界だと何度も思ったが休めるところはなければ話にならない。ふと先にリフトが見えた。どうやらスキー場があって休憩できそうだ。ここまで10kmで約15分。永遠のように長かった。 ガタガタと震えて建物に逃げ込む。5月ということもあり暖房はあまり効いておらず、灯油のストーブみたいな暖を取るものもない。激しく震える身体と、おぼつかない手元で凍結したグローブと靴と靴下を脱ぎすてた。全身びしょ濡れだが、スキー場の食堂だけあって気兼ねなく座れる感じの椅子なのは助かった。暖かい飲み物や蕎麦をかきこむ。空腹ではなく、温度に飢えていた。なかなか回復しないが、それでもここにいれば大丈夫だと実感する。実際にここに入ってきた時よりも震えは小刻みになっているし、なんとなく、これから先のことを考えたりもする。今は約190km地点。残りは2,000mほどの獲得標高となるアップダウンを130kmほどとなる。そして、僕はふと「次、雨が降ったらもう帰るから」と口にした。何度も心は折れそうになったし、パワーメーターに意識を乗っ取られるなど実際に折れたこともあったかもしれないが、諦めた訳ではない。だけど固執はしていない。こんな連休の遊びのライド、いつでもリタイアすればいいと思っていたし、退路をつくるのも役割かなと、くらくらする頭で考えたはずだけど、チームメイトはそれでも果てしなくポジティブで、その時、僕たちは完走するんだなと思った。ほうぼうの体で吹雪から逃げ、低体温に震え、手も足も感覚なんて全くなくて、それでも僕はここでそう確信したんだった。この苦痛の先になにがあるかはわからないし、栄光なんて確実にない。だけど、こいつらと、このクソみたいな状況で前しか向かない連中と、やりきってみたくなったんだ。今日やろうとしたことすべて、ひとつのこらずだ。 ようやく回復したと感じる頃には1時間も経っていた。その頃には吹雪も止んでいて、なんて運のない日なんだろうと苦笑いする。なんとなく暖かくなった気がする下りを進むと、ほどなく雲は予めそうであったかと思わせるほどに、一片も残らずに消え去り、このライドではじめて見る晴天となる。さっきまで震えていたのが嘘のようだし、馬鹿みたいだ。いつも、いつだって意味のあるように見えるものは、あっけなく消え去って、結局は何も僕たちにもたらすことはない。でも、だけど僕たちはこんなにも青い空の下で、行き先なんてどうでも良くなるのかもしれないし、なるようにしかならないのかもしれないが、つまり自由だということなんだ。 群馬県の沼田まで降りきって久しぶりのコンビニで補給すると、参加者の連絡用のメッセンジャーにリタイアの連絡が飛び交い始める。そうか、そうだよな。だってあんな地獄で、そこに何を見出せるというのだろうか。いや、無い。そこにあったのは、ただ、この青空のように底抜けに明るいチームメイトのことばだけだった。もし君のチームにそれが無かったなら、残念だがそのリタイアは決まっていたことだったんだ。それは僕たちが生まれた年月日で、運命が予め決められているように語るほどに、なんら意味のあることではないし、そんなものは道化師か占い師に任せるしかないのだから。 コンビニの駐車場で大の字に横たわって感じる。太陽の暖かさを、その恵みを。僕の細胞に葉緑素があったとしたら、きっと光合成はこんな気分だろう。僕の肌を焼く陽光を、こんなに全身で待ち望んだことはなかった。靴下を雑巾のようにしぼり、レインジャケットを脱ぎ、僕は今日ここにまた生まれる。残りは110kmだ。もうなんの迷いもない。あの時に交わしたことばのとおりだ。だから、ここから先の全てを僕が引き受けよう。この先で何が起きても、その事実に誰の心が折れたとしても、僕の真実で、その事実を捻じ曲げよう。もう僕は無意識を操作したりはしない。さぁ共に進み登ろうぜ。リタイアした彼らを指差す腰抜けどもに、勇敢な彼らの証人となる為に、じき訪れる宵闇に向かって走りだそう。登りきった先に何も見えなくたっていい。 そうして僕たちは進みだした。それから、いくつもの苦しい登り坂があり、同じだけ下り坂があった。気づけばもう真っ暗だ。太陽が登る前に走り出し、果たしてその太陽は再び地平線に沈んだ。ひたすらに前を引くヒロの背中に僕たちのライトが光を落とす。彼が着るジレは、まるではためく旗のようで、そこにはあのロゴが見える。あぁ、そうだった。いつだってサドルの上で僕たちに多くのもの、それは、発見であり、学びであるし、多くの気づき、または苛立ち、諦め、哀しみ、喜び、畏れ、感動、妬み、あるいは愛情かもしれないし、おそらくこの世界のあらゆる感情だった。そして、僕にとってそれはいつだってRaphaという文字列の延長線上だった。光を追い抜いて消えてしまいそうなヒロの背中を追い続ける。やがて僕たちは街に降りていく。22時の制限時間に間に合うのかと考えたりもするのだが、僕にとってそんなことはもはや些細な事象に過ぎない。ただ太陽が動き、時間が過ぎただけで、それ以上でも、それ以下でもない。 見覚えのある前橋の街並みを走っていた。やっとここに帰ってきて、それは長い長い旅路の終わりだった。幸福を求めた少年が世界の素晴らしさに気づいたその時にスプーンの油をこぼしてしまったように、果たして僕たちはゴールした時に何かを見出すのだろうか。スタートして最初に曲がった交差点を逆に曲がる。みんなが待っていた。それもそのはずだ、僕たちは21時58分にゴールしたのだから。走行時間は18時間24分。チームメイトと肩を組み、皆で破顔する。ありがとう、ありがとう、こんなにもクソみたいな1日は人生で初めてだ。バカヤロウ、ファック!本当に最高だし、同時に最低でもあって、やはり全ての感情がここにはある。それを言語化なんて到底出来そうにもないし、チャレンジすることも愚かなことかもしれない。でも、こうして書き残そうと思ったんだった。もし君がスタートする時のために。どこか遠くへと乗り出すその日のために。その時、僕たちがどこにいるのかは、まだわからない。 10日ほど経って、未だに痺れが残る指先でこの文章を書いている。あれ以来、自転車には乗っていない。いま振り返ってもやはりこのライドの核心は氷点下の金精峠のダウンヒルだ。あまりにも不安定な天気はおそらく1時間早かったら、または遅かったら表情を変えていただろう。しかしあの日、多くのチームが地獄の時間にそこを下っていた。スキー場で会った他チームの友人もみな憔悴しきっていたのを覚えている。あらためていま、参加者の連絡用のメッセンジャーを見て、リタイアの文字が飛び交う様を見て、涙が出そうになった。わかる。ここでリタイアを決意する気持ちは痛いほどわかる。人の想いは良し悪しを問わずに伝播する。もし僕があの時、次に雨が降ったら、と言わずに、今すぐ帰る、と言っていたら。誰かひとりのその判断は諦めではないし、弱音でもない。あの日、あの時、あの場所であの状況なら至極真っ当なものだ。僕もそう言われると否定せず、もう辞めようか、と思ったかもしれない。だからこそ僕は、底なしにポジティブなチームメイトたちに本当に感謝し、尊敬する。僕はこの過酷な環境で、それでもここに立つことになった運命を信じ、その輪を回し続けるために、次に雨が降ったら、と話したとき、こう返してくれたことを。「じゃあ、もう雨が降らなかったら?」 結局、雨は降らなかったし、その光はいつだって眩しかった。
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tausendglueck · 4 years
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sleep to dream / 20201206
本番の芝居が大失敗する夢を久しぶりに見た。 いや、本当の本当に自分のせいで全てを破壊してしまった夢というのは初めてかもしれなかった。いつもは台本も何もない、台詞を何一つ覚えていない状態で舞台袖に立っていて、どうしよう、と、迫りつつある開演の時刻、自分が舞台に出て行くその時に怯えながらもそこで目が覚めていたので、そのあとに起こり得るであろう舞台の破壊を見ることはなかった。 けれど今朝の夢は完膚なきまでに私のせいで、私のミスで、私の手際の悪さで、舞台は破壊された。ここまでの失敗を犯せるのかと、感心してしまうほどの。
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結局、起き上がる頃には9時である。寝起きの目に蛍光灯の光が少し眩しすぎるように感じるようになったのはいつ頃からだっただろう。私は午前中のあいだは、ほとんど電気を点けない。薄明かりだけで本を読む。白湯で漢方を飲んで、インスタントのポタージュスープを飲んだ。
所用があって今日は出かけた。部屋は寒く凍え、ひとりで寒い寒いと文句を言いながら支度をしてマンションを出��みると、日向にある陽光の暖かさに少し、気持ちが緩んだ。思っていたよりも暖かい、穏やかな冬の昼間だった。
忘れてしまう。部屋にいるとすべてを忘れてしまう。暖かく穏やかな冬の日があることを、冬の太陽のことを、忘れてしまう。冬にも太陽は存在し、その陽光はわずかながらもきちんとここまで、この肌にまで届くことを、忘れてしまう。それは私が雪国生まれの身であるからか。冬の太陽を信じられないのは、あの、果てしなく続く曇天とみぞれ交じりの冷たい雪と靴を壊す水たまりの中でおよそ20年弱を生きていたからなのか。冬は美しく晴れる季節であるということを知ったのは10年前のこと。私の冬は、未だ更新されないままなのか。
所用を終えて帰宅して、また眠る。眠るのが好きで好きでどうしようもない。すぐに部屋着に着替えてもぞもぞとベッドに潜り込んでしまう。そうしてまた昼間を終えてしまう。休日はいつもそうだ。眠りたい、とにかく眠りたい。起きている時間は常に眠気に引っ張られていて、何にも頭に入ってこない。
それなのにやることは多い。書くことは多い。小説の続きを進めないといけないのに、この泥のような眠りが執筆のための時間を持って行ってしまう。私はどうしたら休日を、眠ることなく、自分のやりたいことを全てこなして、過ごすことができるのだろう。小説が常に頭の端にあって、それに手をつけていないことがまるで髪を引っ張られるかのように、鬱陶しくも後ろめたい。限りある時間、決して多くはない時間、それを寝て過ごしてしまう私。放り出されてしまう私の小説。
どうせ誰にも読まれることはないのだから、というのは言い訳にはならない。
おそらく、明日か明後日にはまたテレワークの日々になる。部屋で仕事をすること、音楽をかけながら、誰の声にも邪魔されることなくひとりで仕事ができること、それは別に構わない。けれどそれ以前に、今この時間を生きることに疲れている。逼迫していく医療現場のニュースや突如立たされたレッドステージという舞台、そんな何もかもの、外から聞こえる何もかもの、焦燥と窮状と矛盾と諦念と無関心が一緒くたになった怪物が幾多にも闊歩している世界で、ほとほと、滅入ってしまう。怪物たちが日々、私の気力を削いでいく。人の気力を削いで、それを食べて、怪物たちは日毎元気になっていく。
『燃ゆる女の肖像』をもう一度観たいけれど、映画館へとたどり着くには果たして何人とすれ違わなくてはならないのか、どれほどの人混みと時間を過ごさなくてはならないのか、考えだすと何もできなくなる。本当はもう随分と、外が怖い。
母と年末年始の予定について少し話した。今年は暦が悪い。いっそ帰省もせずにこの部屋でひとり丸くなって正月を迎えるのが、案外一番いい選択なのかもしれない。寂しさが募る。悲しみも募る。どうしたらいいんだろう。カレンダーを見て呟く。そういえば、来年の手帳と仕事用の卓上カレンダーを買わなくてはならない。もうそんな時期なのだ。12月。私の足は止まったままなのに日々だけが駆け抜けていく、足の速い12月。私は置き去りにされたまま、また眠る。丸くなって、渾々と眠る。
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abcboiler · 4 years
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【黒バス】やさしい国で待ちあわせ
2014/02/11発行オフ本web再録
■1■
リアカーを壊した。緑間と二人で壊した。
それもまあ仕方のないことで、この三年間、毎日使い続け���いたそれは大分傷んでいて、何処かに寄付するにはぼろぼろ過ぎた。木目は至るところが節くれだって、慣れていないと服を引っ掛けて怪我してしまうし、車輪は少し歪んで、気を付けないといつも進行方向から左にずれてしまった。チェーンも錆びて、ぎいぎい音がしていたし、サドルの布はちょっと破けていた。 俺たちの愛車は満身創痍で、真ちゃんはいつも、リアカーの左角の節くれと、登ってすぐの歪んだ板に触れないようにそうっと乗っていた。俺はいつもハンドルを右側に傾けて運転していた。直した先からパンクするし、毎日油をさしても固まった錆は取れなくなって、着実に増えていた。 だから、壊したのだ。俺と真ちゃんで、卒業式の日に。いつも停めていた、学校の駐輪場の隅で。胸に花を刺して、卒業証書が入って歪んだ鞄を地面に置いて、砂に膝をついて、季節はずれの汗をかきながら、俺たちは黙って作業をした。真っ赤な夕暮れの中、二人で、ネジを外してボルトを取って、板を分解して、壊したのだ。俺たちのリアカーを。思い出を、鉄と銅と板に分解して粗大ゴミのシールを貼って捨てた。次の日の朝には回収される予定だった。駐輪場からは体育館の屋根だけが見えた。そうしてそこまでやってから、俺たちは歩いて駅まで向かって電車で帰った。 だって、まあ、仕方がないことなのだ。 俺も真ちゃんも、行く大学が違って、その方向も違って、お互いに別のアパートを借りて、四月から新しい生活を始めようとしていたのだから。俺が真ちゃんを迎えに行ったってどうしようもない。行き先の違うバスに乗ったって目的地には着かないのだ。そうなってしまうと、リアカーなんて場所を取って邪魔なだけだった。誰かに讓るにしても修理代金が高くついて新しく買った方がマシなレベルだったし、そもそも何処に寄付すればいいのかもわからなかった。 いいや、本当は、俺たち以外の誰かがこれを使うのが嫌だったのかもしれない。
「真ちゃん家だったら置いとけるんじゃねえの」 「置いてはおけるかもしれないが、俺もお前もいなくなる以上、誰も手入れをしなくなる。そうしたら後は本当に朽ち果てるだけなのだよ。修理もきかなくなるだろう」 「そうだよなあ」 「ああ」 「じゃ、壊そっか」 「ああ」
解体するとも、分解するとも、捨てるとも言えなかった。壊すという乱暴な言葉が最もふさわしいと思った。毎日毎日油をさして、毎日毎日真ちゃんが「今日もよろしく頼む」と声をかけて、パンクしたら直して、板が割れたら直して、雨が降ったらビニールシートでくるんで、落書きされたらペンキで塗って、そうやって三年間過ごしてきたこいつを、俺たちは壊す。 だって、仕方がないだろう。俺たちは大人になってしまったんだから。 こうして俺は真ちゃんを迎えに行く口実を失って、真ちゃんは俺に会う口実を失ったのだった。いいや、会う口実なんてのはいくらでもある。映画を見たい、新しい甘味が食べたい、なんだっていい。なんだっていいけれど、それは一般人の話であって、こと緑間真太郎にとって、それは必ずしも誰かが必要なものではないのだった。そして必ずしも必要でない場合、あいつは決して声をかけない。例え内心で寂しいと思っていたとしても、あいつは一人で祭りに出かけるだろう。 意地っ張りで我が儘で、懐に入れた人間には存外甘いあいつは、理由が無ければ他人に頼ろうとはしないのだ。人は一人でも、案外生きていけるものである。そもそも中学の頃は、あんな奇妙な乗り物が無くても一人で何処にでも行ってなんでも手に入れていた男だ。リアカーが無くなった今、あいつは俺を呼びつけないだろう。あれは、緑間真太郎なりのサインだった。不器用なあいつの、唯一の、俺を呼んでいい理由。 だから、俺たちには新しい口実が必要だった。いいや、俺たちだなんてずるい言い方はよそう。俺には口実が必要だった。 何せ、俺は、この緑間真太郎のことが好きだったので。 真ちゃんが俺のことを好きかどうかは知らない。多分好きだろう。俺の好きと同じ形をしているかどうかは知ったこっちゃないが、まあ、ほぼ同じ形で好きだろう。 でもそんなことよりも大切なことは、俺たちはそれを一つも口に出さなかったということなのだ。あれを壊している間中、ずっと。思い出を壊している間、ずっと。 だから俺も黙り続けている。黙ったまま、探している。まだ。
■2■
「真ちゃんホント忙しそうだね」 「まあな。取れるだけの講義を取った。ほぼ毎日一限から五限まであるのだよ」 「うっわ、信じらんねえ。勉強の鬼かよ。鬼真ちゃん。オニシン」 「全く語呂が良くないし何も洒落になっていないと思うが」
そう言いながらサラダを口に運ぶ真ちゃんの頬は、入学式から一ヶ月、少しこけたような気もするけれど、顔色は悪くない。心配していたが、きちんと食事は取っているらしい。今だって、サラダにスープ、ステーキを頼んで黙々と食べている。
「体調管理にも人事を尽くすのだよってか?」 「当たり前だ。自分で入れた講義を自分の不調で欠席するなど愚かしいだろう。初めの週に、きちんと栄養バランスを考えた献立を作った。後はそれ通りに食べれば問題ない」 「すげえ。そんな食事管理SF映画の中でしか見たこと無かったわ」
窓の外は真っ暗で、車が路面を走るザアアという音がする。なんだか雨の音に似ているような気もするが気のせいだろう。時計の針は八時を指していて、夕飯を食べるには、まあ、少し遅いくらいの時間。
「仕方がないだろう、講義があるのだから」 「ですよね」 「それでも今日は早い方なのだよ」
一ヶ月ぶりに再会する真ちゃんはいつもと同じ調子で、ひと月前と何も変わらないように見える。だけど実際は、俺の知らない所で俺の知らない講義を受けて、知識を吸収して、誰かと会話して、段々と新しく生まれ変わっているのだ。
「真ちゃん、友達できた?」 「……挨拶をする程度の顔見知りなら」 「多分それもう相手は友達だと思ってるって」 「そんなものなのか」 「そんなものですね」
飯に誘われたりしないの? と聞けば、真ちゃんは黙って頷く。俺の聞き方も悪かったが、これで頷かれても、誘われているんだか誘われていないんだかわからない。多分、誘われているんだろう。ゆっくりと口の中の肉を咀嚼して飲み込んで、水を一口飲んで真ちゃんは答えた。
「講義の終わりに、飯でも行かないかと言われたことはあるが、俺はその後も講義があったからな。最終講義が終わった後はさっさと帰っているし」 「じゃあ真ちゃん一ヶ月ぼっち飯?」 「昼は一緒に食べている奴もいる」
そんな当たり前の返事にちょっと傷つくくらいなら聞かなきゃいいのに、愚かな高尾和成くん。いやいや、マジで一ヶ月独りで飯食ってる方が心配だろ。健全な社会的人間性を持ち合わせていてくれて何よりだ。何よりなんだけれど、俺はこいつの母ちゃんでは無いのに、こんな心配をしてどうする。何にもならない。
「かわいい女の子はいた?」 「どうだろうな。いつも一番後ろの席に座るから顔は見えん」
心配すべきは、こいつが誰かと結ばれること。なんて、別に、付き合ってる訳でも無いのに、こんな心配してどうすんの。どうにもならない。何にもならない。���の中はそんなことばっかりだ。何をどう心配したって、それは全部見当違い。俺は母ちゃんでも無ければかわいい恋人でもなく、ひとりの友達。ひとりの相棒。
「お前の方はどうなんだ」 「俺? ううーん、俺んとこも女子の割合すくねえからなんともなあ。あ、でも若干みゆみゆ似の子いた」 「宮地先輩に紹介したらどうだ」 「え、真ちゃんがそんなこと言うなんてどうしたの」 「先輩の大学の教授が客員講師として来ているんだが、学部的に先輩が講義を取っている可能性がある。話でも聞けないかと」 「真ちゃんって、案外目的のためなら手段を選ばないよなあ」
真ちゃんはしっかり焼いてもらった肉を口に運ぶ。俺も自分の肉にフォークをぶすり。レアなそれからしたたる赤い肉汁。口の中で思いっきり噛み切ってごくりと飲み込む。生きている味がする。
「真ちゃん、次いつ会えんのさ」 「……そうだな、一通り落ち着いたし、来週の木曜なら問題ないのだよ」 「木曜な。オッケー。六時とか平気?」 「ああ」 「んー、どうすっかな。久々にストバスでもやる?」 「そうだな」
ぶすり。刺さったフォーク。それを持つ左手に、もうテーピングは存在しない。目を細めてみれば、そこに白い幻影が見えるような気もする。真ちゃんはバス��をやめた。悪いことじゃない。俺たちのバスケは、あの日の粗大ゴミの一つとしてどこか遠くで燃やされたのだろう。悪いことじゃない。ちゃんと、俺たち自身が選んだのだから。全てを失ったと悲壮感に浸るほど子供ではなかった。
     ◇
「いや、お前、ホント、ねえわ、マジで……」 「お前は少し鈍ったんじゃないか」 「そりゃ鈍るわ! 昔みてえな練習してねえんだから! お前はなんでそんなキレッキレなんだよ! 人事尽くして自主練しまくってんのかよもしかして!」 「いや、多少の筋トレはしていたが俺もここまでちゃんと動くのは久しぶりだ。元々の地力の差じゃないのか。単純に」 「単純にズバッとひでえこと言うよなお前」
コートに寝そべれば街灯に邪魔されて少し暗く星が見える。たかだか一時間くらい動いただけなのに、荒い呼吸がなかなか止まらなくて俺は苦笑した。一ヶ月でここまで衰えるとは、いやはや時間の流れとは無情だ。これを元に戻すには三ヶ月はかかるだろう。いつだって、壊す方が簡単なのだ。
「そんなこと言って、真ちゃんもまだ息整ってない癖に」 「……お前もだろう」 「ははっ、俺たち二人ともこうやっておっさんになってくんかな!」 「俺は絶対にお前よりも格好良いおっさんになってみせるのだよ」 「ええ、なんだそれ」
たるんだ腹など許さないからな、と俺に指を指してきたって、そんなの俺の知ったこっちゃない。許さないも何もお前の話だし、多分お前は太るよりはやせ細っていくタイプだから筋肉落ちないように気をつけろよ、と言おうと思って面倒になって取り敢えず笑った。母ちゃんじゃ、ねえんだから。うん? はいはい、きっとお前は、なかなかにダンディでイカしたナイスミドルになるに決まってるよ。
「あー! でも真ちゃんが練習してねえなら、俺が真ちゃん抜ける可能性も出てきたな! ぜってー次は抜く。めっちゃ練習する」 「ぐ、人が講義を受けている間に成長しようというのか」 「ふふん、ずるいってか? ずるくないよなあ、俺は人事を尽くすだけだからなあ。ずるいなんて言えねえよなあ。どうだ真ちゃん、自分の信念に邪魔されて文句言えない気持ちは。うん?」 「お前……底意地が悪い、いやそれは前からだったか」 「あん? お前に尽くし続けた高尾ちゃんのどこが底意地が悪いって?」 「どこの誰が尽くし続けたというのだよ。なんだかんだ自分の意見は押し通してきた癖に。俺の我が儘の影に隠れてやりたい放題していただろう」 「おお? それこそ聞き捨てならねえな? 我が儘の影に隠れてたんじゃねえよ、お前の我が儘がでかすぎて俺のが霞んでただけだっつの。お前の自己責任。オッケー?」 「我が儘を言っていたことは認めるんだな」 「いやいや、滅相もございません」 「どっちなのだよ!」
夜のコートで、体ばっかりでかくなった男が二人、真剣に言い争っている。あまりにも馬鹿馬鹿しくて子供みたいな内容を、わざと真剣な調子で言い合う。ああ、なんだか視界が眩しいのは、星のせいか、街灯のせいか、自販機の明かりだろうか。なんだか酷く目にしみて瞼を閉じた。おい、寝るな! なんて真ちゃんの怒った声。寝るわけねえだろ。お前がいるのに。お前がいたら俺はいつだって目かっぴらいて起きてるよ。今は閉じてるけど。はは、閉じちゃってるけど。
「おい、高尾、……高尾? なんだ、死んだのか」 「お亡くなりになった高尾くんに一言」 「高尾……、実は俺はお前のことを……」 「高尾くんのことを?」 「超ド級の変人がいると言って、大学の奴との話の繋ぎに、適当にあることないこと喋ったのだよ……」 「いや、待って待って待って真ちゃん! 何それ! ちょっと待ておい!」
流石に聞き捨てならなくて飛び起きたら、真ちゃんは真顔で俺の顔を見て頷いた。いや、その頷きは何なわけ。何を示してるわけ。全然わかんねえから。
「死人に口無し、バレなくてなによりだ」 「最低じゃねえか!」
叫ぶだけ叫んで、やりとりのあまりの下らなさに溜息をついた。何よりも下らないのは、真ちゃんが大学でも俺の話題を出してることに喜んでる俺自身である。滑稽な独占欲に苦笑いを零していたら、真ちゃんからボールが飛んできてギリギリのところで俺はそれを受け取る。びりびりと、手のひらがしびれる感触。こいつ、本気でぶん投げてきやがった。赤くなった俺の手はまだまめだらけで、皮も分厚くなっているけれど、これも後数ヶ月もしたら普通の手になっているのかもしれない。
「というか、お前は何故そこまで鈍っているのだよ。お前の方が暇なら、今日の時点でここまでへばっていないんじゃないか」 「暇とか言うなって! まあそりゃお前とはちげえけど、俺だってバイトとかめっちゃ入ってんだって。家賃は親に払ってもらってっから、生活費は自分で稼がねえと」 「ああ、なるほど、そうか、それがあったな」 「お前は? それこそ講義で忙しくてバイトなんかしてる暇ねえんじゃねえの?」 「親の脛をかじっている」 「めっちゃ堂々と言ったなおい!」
笑いながら全力で投げたボールは、俺の希望通りこいつの手のひらの中に収まって、そのままゴールリングへ向けて発射された。俺の知っている、俺の憧れたままの高度と軌道。それが変わらないことに安堵しつつ、ボールは勢いよくネットを揺らして落ちる。地面がごうんごうんと跳ねる音。このシュートだって、いつかは終わる。
「事実なのだから仕方がないだろう。家賃光熱費水道代食費学費その他もろもろ全て親持ちだ。そもそも、ラッキーアイテムであれだけ金を使わせていた俺が今更この程度のことで罪悪感を覚えると思うのか?」 「やべえ、どうしよう、言ってることはどこまでも格好悪いのにここまで堂々とされるとそんなことないように聞こえ……聞こえねえな」 「やはり駄目か」 「駄目だったなあ」
少し笑いながら真ちゃんはボールを拾う。かがんだ時に僅かに揺れた上半身と、グレーのセーターが何故か目に焼き付いた。その服の下の筋肉も、段々と衰えていくし、二度とあの派手なユニフォームを着ることもない。そんな当たり前のことを、俺はゆっくりゆっくり飲み込んでいく。別に、悲しいわけではないのだ。少し寂しくはあるけれど。そうだ、寂しいのだ。大人になっていくことが。俺たちが、大学生になって、卒業して、就職して、もしかしたら結婚したりして、子供ができたりとか、して。そういう変化をこれからも続けていく。
「うちの大学は成績優秀者になれば賞金がもらえるのだよ。一年間にかかる金額と比べれば雀の涙のようなものだがな。それは親に渡すつもりだ」 「もう取れることは確定なのね」 「当たり前だ。人事を尽くしているのだから。」
例えば、一人暮らしをするようになって、洗濯だとか料理だとかを少しずつ覚え始めた。電気をつけっぱなしにしたり、蛇口をしっかり締めないで母さんに怒られた理由がようやくわかるようになった。お金のこととか、現実とか、ちゃんと見始めた。悪くないなあ、と思う。あの駆け抜けた日々に比べると少しばかり穏やかすぎて、太陽の光もあまり眩しくないけれど、変わりに柔らかくなったように思うのだ。
「成長してから恩返しということで先行投資してもらうしかないからな、金額の問題ではなく担保のようなものなのだよ。将来性の保証だ」 「お前さ、なんか照れ隠しが生々しくなってねえ?」
パスされたボールを投げ返す。真ちゃんはそれをシュートせずにもう一度俺にパスしてきた。別に俺はシュートなんか撃たねえのに。もう一回真ちゃんにパスしたらまた返ってきて、奇妙なキャッチボールが延々と続く。ぼんやり数えて十二回目で俺はでかいくしゃみをした。背筋からぞわぞわと、這い登るような冷気。
「うあー、さぶ。汗ひくとめっちゃ寒いな。つか、五月ってこんな寒かったっけか」 「五月は寒いだろう」 「五月は寒いか」
寒いっけ、と首を傾げる俺の顔面めがけてジャージが飛んでくる。真ちゃんのではなく、俺のだ。勝手に鞄から出されたらしいが腹も立たない。帰り支度を始めるこいつもジャージを羽織る。お前だって寒かった癖に、先に俺に渡しちゃうんだからなあ、そういうとこ、好きなんだよなあ。好きなんです。あーあ、好きなんだよ、ほんと。
「おい、聞いてるのか」 「へ? あー、ごめんごめん、何?」 「全く聞いていなかったのか。ボケすぎだ」 「ごめんって。で?」 「風邪を引かれても困るから、俺の家に寄っていけ」 「あ?」
耳に届いた言葉が信じられなくて俺は思わず自分の頭を殴りつけそうになった。そこまで驚くことでも無いのにこんだけ動揺が隠せないのは、やっぱり、俺がコイツのことを好きだからなんだろう。好きな奴の、一人暮らしの家に上がり込む、なんてのは、どうしたってそういう意味にしか取れないのだ。勿論真ちゃんにその気が無いことはわかっているけれど。だけど、わかるだろうか、一人暮らしの家だぞ、生活の何もかもが部屋に閉じ込められた、まず間違いなくこいつの匂いで満ちている部屋。
「お前、何回聞き逃せば気が済むんだ」 「いや、聞こえてた聞こえてた! 聞こえてたけどさ! え、いいの」 「構わん。ここから俺の家は近い」
そりゃ、お前の家に近いストバスのコート探したからな。俺のアパートからは遠いのだ。お前の家。俺が三年間迎えに行った、あのだだっ広い門扉がある豪邸とは別の、お前が一人で暮らしてる家。
「おい、どうした、来ないのか」 「いつ誰がそんなこと言ったよ。行く。超行く。真ちゃんのお部屋大訪問」 「そうか。エロ本はまだ買ってないから探しても無いぞ」 「……真ちゃんもなかなかに、俺が言うことわかってきたよね」
     ◇
「……おい、ちょっと待て、待ちなさい、親の脛かじり太郎」 「なんだ、さっき宣言しただろう」 「限度があるだろ! 何だよこの部屋! 部屋じゃねえよ家だよ! どう見ても一人暮らしには広すぎるだろ! 普通六畳一間だろうが! なんだこれ!」 「俺の家だが」
入口がオートロックの門だった時点で嫌な予感はしていたが、大的中も大的中、ドアを開けたら玄関と靴箱があり、そこから廊下が伸びていた。バス、トイレ別だ。というか、部屋までの通路に台所が無い時点で戦慄した。大学に入ってから他の奴の家にも幾度かお邪魔したが、部屋までの短い通路の片側に風呂トイレ、片側に狭い台所と洗濯機置き場、ドアを開ければ六畳間、この鉄則を外れる奴なんていなかったのだ。
「いやー、これはない、マジでない、かじるどころじゃねえ。しゃぶってやがる」 「まあ、富裕層だからな」 「やめろ……聞きたくない……こんな露骨な格差はやめろ……」
風呂に入れと投げ渡されたバスタオル。真っ白で、まだほとんど使われていないそれに遠慮する気にもなれなかった。保温機能で自動で沸かしてくれるバスタブでも俺はもう驚かない。腹いせに、シャンプーとリンスの位置を逆にしたことくらいは許されてもいいだろう。思い切り鼻歌を歌っても近所に文句は言われないんだし。 風呂を上がってみれば、真ちゃんが真剣な顔で洗濯機を回していた。説明書が壁に貼られている。若干首を傾げてセーターのタグを見ていたこいつは、マークの意味がわからなかったらしく携帯電話で調べ始めた。堅実な奴である。
「ちょっとくらいならソフトサイクルで問題ねえと思うけど」 「馬鹿なことを言うな��これだけ細かくラベル分けされているのだから消費者はそれに従うべきなのだよ。ふむ、これは手洗い不可」 「いちいちクリーニング出すわけ? 金がもったいな……いや、俺は何も言わねえ。言ったら言っただけ傷つきそうな気がする。何も言わねえ」 「ドライヤーを使うならそこの引き出しだ。暇ならリビングにいろ。茶は勝手に出せ」 「へいへい」
短い俺の髪は、水気を取れば自然に乾く。面倒くさいからとリビングに向かえばきちんと整理整頓された部屋。プリントも教科書も整然と並び、出しっぱなしの衣類なんて物は無い。思いのほか完璧な一人暮らしをしているこいつに少し驚く。生活力なんて皆無かと思っていたのだが、壁に貼られた手書きのメモを見て納得した。こいつ、毎朝のルーティンワーク完璧に決めてやがる。月曜日、五時、起床、ストレッチ、五時五十分、着替え(引き出し下段)、六時、テレビ兼朝食(チャンネルは六)……目眩がしてくる。多分、中学の時も高校の時も、こうやって自分の動きを決めて行ったんだろう。所々に訂正の箇所があるのは、それじゃうまくいかなかったからか。そういえばあいつはこの前会った時、「一通り落ち着いた」とか言っていた。それはこういうことだったのか。
「何を間抜けな顔を晒している」 「うお、真ちゃん終わったの。いやー、これすげえな。機械かよ」 「人事を尽くすためには必要なことだ」 「いやー、お前の人事に対する執念こんな形で見ることになるとは思わなかったわ。隣に貼ってあんの食事の献立?」 「そうだが」 「……真ちゃん、これってさ、今日の、食事の献立?」 「そうだな」 「……明日の食事の献立は?」 「これだな」 「…………明後日の食事の献立は?」 「これだな」 「まさかとは思うけど、真ちゃん、毎日これ食ってんの……?」 「完璧なバランスだろう」 「お前は! 融通きかなさすぎだろ!」
思わず怒鳴りつければ、何故俺が叱られなければならないのだよという顔で見られる。いや、おかしいのはお前。絶対にお前。誰かこいつに常識を教えてやってくれ。 俺の目の前にある紙には、朝から晩まで、食べ物とどこでそれを売っているかの表がある。ほぼ調理が入っていないのは、自分じゃ作れないと判断したからだろうか。数えてみれば三十品目丁度。それぞれの栄養素もきっちり取れている。それにしたっておかしいだろう、朝、煮干(松の家)、白米、漬物(西武スーパー)、牛乳(二五〇ミリリットル)って、いや、栄養は取れるかもしれねえけど、こいつは三百六十五日同じもんを食べ続けるつもりなのか。嘘だろ。絶対に楽しくない。
「この前お前と食事をした時は計算が面倒だったのだよ。翌日に足りない分は全て追加したからなんとかなったが」 「なんともなってねえからそれ。なんで翌日繰越制度になってんだよ。一ヶ月間焼肉しか食わなかったから次の一ヶ月は野菜しか食いませんってことじゃねえか」 「そうだな、それではカルシウムもタンパク質も足りない」 「ちげえよ! 何にも伝わってねえよ!」
誰か、この超ド級の馬鹿をどうにかしてほしい。お前は頭が良いはずじゃなかったのか。俺にはこいつの思考が手に取るようにわかる。わかってしまう。大学生になったからには勉学に励まねばならない、そのためには心身ともに健康でなくてはいけない、健康な体は健康な食事から、完璧な献立を作らねば。完璧な献立なのだから毎日それで完璧だ。終了。殴りたい。
「そうは言ってもな、毎日別の献立を考えるのは流石に負担が大きすぎるのだよ。できなくは無いが、俺は料理が苦手だから作れるメニューも限られる。その中でどうにかしようとすれば、今度は学業の妨げになるだろう。本末転倒だ」 「なんで俺が説得されてんだろうな。お前の発言だけ聞いてるとお前が正しく聞こえるから不思議だわ。あのな真ちゃん、アウト」
頭が痛いのは長風呂をしてしまったせいだろうか。久々にちゃんと広い風呂入って、ちょっとテンション上がっちゃったもんな、確かに。俺のアパートの風呂は狭くてろくに入れたもんじゃないし。ああ、それとも髪を乾かさなかったせいだろうか。風邪ひいたかな。いいや、違う、この目の前の男が全てである。
「っつーか、真ちゃん、今日はどうするつもりだったわけ。俺、お前と夕飯まで食うつもりだったし、まともな夕飯出てくると思ってなかったから外行く気満々だった」 「さりげなく人を馬鹿にするのはやめろ。俺だって外に出るつもりではいた」 「で、それで足りなかった分は明日に追加されるわけ」 「まあ、そうだな」
壁にかかったカレンダーを見る。先週の木曜と、今週の木曜にだけそっけなく印がついている。俺と会ったからだ。俺と会う日だからだ。そしてこいつは金曜日、俺との食事で足りなかった分を一人で追加して食ってるんだろう。どうせこいつのことだから、カルシウムが足りなければ牛乳を必要なだけ追加、タンパク質が足りなければ豆腐を足りないだけ追加、とかそんな大雑把なことをしているに違いないのだ。それはなんだか、酷く腹がたった。一人でそんな素っ気ない、機械みたいな食事をしているこいつにも、それの負担になっているのであろう俺のことも。
「……真ちゃん、来週どっか空いてる?」 「……木曜日なら」 「また?」 「木曜だけは授業が三限で終わるのだよ」 「ああ、なるほど」
さて、俺のこの感情のどこまでが純粋なもので、どこまでが邪なものだったのかは俺にもわからない。俺はもしかしたら母ちゃんのようにこいつのことを心配していたのかもしれないし、恋人気取りでこいつのことを独占したかったのかもしれない。両方かもしれないし、もしかしたら全然関係なくて、俺はただ、何にも考えていない馬鹿野郎だったのかもしれない。
「じゃあ、俺毎週木曜は夕飯作りに来るから」 「はあ?」 「栄養バランス完璧な献立だったら良いんだろ? 任せろって、少なくともお前よりは作れるから」 「いや、別にだからといって何故お前が」 「良いじゃん。お前木曜以外空いてないんなら俺どうせしょっちゅう遊びに誘うし。そのたんびにお前が飯の計算しなおすのも面倒くさいだろ。 だったら俺が作っちゃうのが手っ取り早くね。別にお前が他の用事入れる時はこねえからさ」 畳み掛けるように言う俺の勢いに押されたのか、真ちゃんは、いや、だとか、それは、だとかもごもごと言っている。きっぱりさっぱりしているこいつには珍しい狼狽具合だ。自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はある。だけど俺は全然引く気が無い。多分真ちゃんも、そのことに気がついたのだろう。
「……お前が、いいなら」
渋々と頷いたこいつに俺は笑った。自分があまりに馬鹿らしすぎて笑ったのだ。だけど、俺は、何度も訂正された跡がある木曜日のルーティンワークを見て、何もせずになんていられなかった。そうだよなあ、二週連続でお前の予定変わったら、それは別の何かを考えるよな。来週も俺が誘うかもしれないし、誘わないかもしれないし、そしたらお前はきっと、別の日課を組み立てなくちゃいけなかった。 最終的にクエスチョンマークだけが残されて、『保留』とそっけなく書いてあるそれは、俺がお前の毎日に組み込まれるためのスペースだった。お前は自分じゃ言わないけれど、ちゃんと俺はわかっているのだ。お前からの、新しいサインに。 そうやって、形の無い不安に脅かされていた俺は、入学して一ヶ月と一週目に、驚く程スムーズに、新しい口実を手に入れたのだった。
     ◇
「真ちゃん、最近とみに忙しそうね」 「試験が近いからな。お前だってそうだろう」
七月の頭、室内には既に冷房がかかっている。俺の部屋にもついてはいるが、効きが恐ろしく悪く音だけうるさく、よっぽど扇風機の方が役立っているのが現状だ。大学生の試験期間というのは講義を取っていれば取っているほど過酷になるもので、楽できる奴はいくらでも楽ができる。真ちゃんの忙しさといったらない。試験だけで二十個近いと聞いて頭を抱えた。国立受験だって十科目だっていうのに。
「お前んとこほど過酷じゃねえわ。レポートも多いし」 「レポートの方がかかる時間は多くないか?」 「俺んとこでね、レポートってのは、『なんでもいいから取り敢えず出せば単位はくれてやるから文字数埋めて出せ馬鹿野郎』って意味なわけ」 「凄い意味の込め方だな」
俺が作ったキャベツのホタテ煮を、眼鏡を薄く曇らせながら食べている真ちゃんの顔は呆れている。大根は鷹の爪を入れて煮たから少し辛い味付けだが、これくらいならどうということはないらしい。まあ、こいつは甘党であるというだけで、辛いのが滅茶苦茶苦手というわけではないからあまり心配はしていなかったが。
「生姜焼きはあんま漬けれなかったからよう改良だなー、これは」 「別に、普通にうまいが」 「お前ってすげーおぼっちゃまなんだか庶民舌なんだかよくわかんねえな」 「味の違いはわかるが、どれがうまくてどれがまずいのかはよくわからん」 「おしるこにはメーカーから何からこだわるくせに……」 「おしるこは食事ではないからな」 「じゃあなんなんだよ。飲み物っていうオチだったら来週の夕飯納豆入れる」
生命の源なのだよ、と嘯くこいつの冷蔵庫にはお気に入りのおしるこが大量に常備されている。おしるこばっかだ。あれだけ食事の管理をきっちりやっていた癖に、最も糖分が高く体に悪そうなおしるこに関して、こいつは一切の制限を設けていなかった。ちゃっかりしすぎだ。俺は人一倍脳みそを使うから糖分はいくらあっても足りないのだよ、と堂々とのたまった時は流石に腹が立ってこいつのおしるこを全部捨てた。いや、捨てるのでは勿体無いので俺が全部飲んだわけだが、俺は甘ったるいものがあまり好きではないのでまあ捨てたのと同じようなものだろう。お陰様でその日は胃もたれに悩まされるわ、真ちゃんは落ち込むわで双方ともに撃沈だ。
「……で、今日も泊まっていくのか」 「おー、真ちゃんさえよければ」 「構わん」 「明日の朝ごはん、卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグと温泉卵どれがいい」 「卵以外の選択肢は無いんだな」
こいつは静かに箸を置いて、両手を合わせて御馳走様でした、と頭を下げた。こういうところが、お育ちが良いというのだ。初めてこれを見た時に爆笑したら、お前は「お粗末さまでした」と言わなければならないだろうと激怒された。凄く理不尽な気がする。気がするけれど、まあ別に嫌なわけではないので、俺も今では笑いながらお粗末さまでした、と言う。先に風呂入ってよ、俺片付けてるから、と言えばこいつはたいした抵抗も無く頷いてリビングから消えた。
うーん、どうしてこうなったんだろう。
リビングは相変わらず綺麗に整理整頓されている。けれど、よく見ればラックの中には真ちゃんが全く興味が無いであろう雑誌やCDが並んでいるし、洗面所には歯ブラシが二つある。真ちゃんが翌日着るものを入れていた箪笥は今じゃ俺の着替え置き場だ。そういえばこいつは、洗濯は出来ても畳むのが苦手だったらしく全て広げたまましまわれていた。そのせいで余分なスペースを取りすぎていたから、畳んでしまえば俺の服が入るスペースが出来上がったわけだけれど。ガチャガチャと音をたてて皿を流しに運ぶ。これだって全部、二つ組み。 スポンジでガシガシと皿を洗う。俺が毎週木曜日に飯を作りに来るようになってすぐに判明したのは、飯を食べた後、俺の家まで戻るのがとてもとても面倒くさいということだった。そもそも俺も真ちゃんも、毎日通うのは厳しいくらいの距離に大学があるから大学に近いところに一人暮らしを始めたのであって、その方向は全く違うのであって、何が言いたいかと言うと、真ちゃんの家から俺のアパートまではゆうに二時間はかかる。飯食った後に少し喋って帰ったのでは、簡単に日付をまたぐ。まあ仕方無いと思っていたのだが、それに気がついた真ちゃんが泊まっていけと言ってから、その好意に甘えて、ずるずる。今では木曜は必ず泊まって、金曜の朝飯まで作って帰っていくのが常である。金曜が三限からでよかった、ほんと。真ちゃんは一限からあるので一緒に家を出れば遅刻することもない。そして洗剤が足りなくなってきている。今度来るときに買ってこよう。 皿を洗う時に、思いっきり泡立てるのが好きだ。真っ白な泡がぶくぶくと膨れ上がって皿を飲み込んでいく姿が好きだ。それをざあっと熱いお湯で流す瞬間が好きだ。黙って黙々と洗っていると、言わなくていい、だけどつい言いそうになる余計な言葉が全て一緒に流れていくような気がする。 ええい、消えてしまえ、消えてしまえ。幸福の間にうもれてしまえ。
     ◇
「はー、いいお湯でした! やっぱ浴槽広いといいなー! 俺のアパートと段違い」 「そんなに狭いのか」 「俺が体���座りしてぎっちりって感じだから、真ちゃんは多分はみ出ちゃうんじゃねえかな。はみだしんちゃん」 「語呂は良いが、ご当地キャラクターのように言うのはやめろ」
そんなにご当地キャラっぽくもねえと思うけど、まあなんてことない軽口の一つだと俺は特に返事もしない。テレビをつければよくわからないバラエティ番組で、アイドルが笑顔を振りまいていた。これ、もしかして宮地さんに見ておけって言われたやつじゃなかったっけ、と思えば録画ボタンが点滅しているので安心する。
「……しまった、撮り忘れたのだよ、これ」 「え? 今録画ボタン点滅してんじゃん」 「それは別の番組だ。UFOの謎を追え、古代人が遺す壁画と星の導きという……」 「なんでそんなの撮ってんだよ! どうせナスカの地上絵オチとかだよそんなん!」 「わからないだろう! お前は撮っていないのか!」 「俺の家にHDDなんて高級なモンありません!」 「お前の家、か」
興味があるな、と真ちゃんは笑った。そう、俺は真ちゃんの部屋に入り浸っているが、真ちゃんが俺の家にきたことは一度も無いのだ。そりゃあそうだろう。快適さが段違いだし、そもそも。
「俺の家来てもどうしようもねえからなあ。お前毎日一限あるし、俺ん家からお前の大学まで多分二時間、下手したら三時間かかるだろ。昼間に来るっつっても毎日五限まであるんじゃな」 「木曜は三限までなのだよ」 「知ってますー。木曜だけっておかしいだろ。はーあ、俺もよりによって木曜は四限まであるしな」 「そうなのか?」 「あれ、知らなかったっけ」
俺は土曜日曜月曜の週休三日体制で、金曜以外は一限から入れて三限終わりという楽々な時間割を組んであるのだが、木曜だけは四限まであるのだ。そのせいで、唯一真ちゃんとしっかり会える曜日なのに若干のタイムロスが生じてしまう結果になっている。確かに、いつも俺が真ちゃんの家に授業が終わり次第突撃しているから、俺の時間割なんて真ちゃんは知ったこっちゃないのだった。そんなに驚くことでも無いと思うが、真ちゃんはぽかんとした顔で俺のことを見つめている。それよりも、テレビに写ってるアイドル見て宮地さんへの言い訳考えといた方が良いと思うんだけど。
「じゃあ、一時間半、お前は俺を待たせているんだな」 「え、ええ? そういうことになっちゃうわけ? いやまあ確かに言いようによってはそうかもしんねえけど、そもそも木曜以外空いてねえのお前の都合だからね」 「だが実際そうだろう」 「んー、えー、んー、俺が頑張って大学から遠い遠い真ちゃん家まで移動してることとかへの考慮は」 「移動時間を考慮しないで一時間半だろう。講義一つ分なのだから」 「あー、そりゃ、おっしゃる通りです、絶対おかしいけど」 そうだろう、と真ちゃんが満足げに笑うので俺はもうそれでいいか、という気になる。はいはい、俺が一時間半も待たせてますよ真ちゃんのこと。一時間半も俺のこと待ってくれるなんて、真ちゃんもよっぽど俺のことが好きなんだね。マジで。 なんて言えるはずもなく、俺は空中で目に見えない皿を洗う。新しい踊りか? とか聞いてくるお前は何もわかっちゃいない。
■3■
『今から向かうわ』
夏休みは長かったがあっという間だった。多分これから先、色んなことにこういう感想を抱くんだろうなあと思う。大学生活は長かったがあっという間だった。人生は長かったがあっという間だった。そんな風に。 いつも通り真ちゃんに連絡をして、携帯をズボンのポケットに滑り込ませた数分後、低い振動が伝わってくる。取り出して画面を見てみたら、浮かび上がっている名前はたった今俺が連絡したその人で、はてと首を傾げた。今まで電話がかかってきたことなんて無かったのに。
「おー、真ちゃんどったの。今日はやめとく?」 『制限時間は二時間だ』 「はあ? え? 真ちゃん? どうしたの」
俺はアメリカの諜報機関でもないのに、何故いきなりこんな勝負をしかけられているのかさっぱりわからない。しかも相手は真ちゃんで、まずもって何の制限時間なのかもわからないのだ。わからないことづくしで立ち止まる俺に、真ちゃんは一方的に話し続ける。その声が若干楽しそうな気がするのは気のせいだろうか。
『俺のことを一時間半も待たせているのだから、お前の方もそれ相応の時間でもってして探すべきだ。質問には答えてやる』 「いやいやいや、わけわかんねえから。ちょ、どういうこと」 『毎週俺はお前を一時間半待っているのだろう? 腹立たしいからお前も一時間半かけて俺を探せ』 「いや、それお前さっきと言ってることほとんど変わらねえから。ぜんっぜんその理論理解できねえから、え、ちょ、どうしたのマジで」 『質問は終わりか?』 「いや、んなわけねえだろ! 始まったばっかだよ! お前どこにいんの!」 『その質問に答えられる筈が無いだろう』 「あー、めんどくせえなあ!」
ちょっと待って欲しい。状況を整理させて欲しい。どうやら俺は真ちゃんに何がしかの勝負……勝負と言っていいのかこれは? まあいい、何かを挑まれているらしい。制限時間は二時間で、俺はその間に真ちゃんを見つけなくてはいけない、らしい。ダメだ全く訳がわからない。
「制限時間二時間ってなんなんだよ」 『ずっと待っているわけにもずっと探すわけにもいかないだろう』 「一時間半じゃねえんだ」 『移動時間があるからな』
確実に楽しんでいる。そのことを確信して俺は無意識に苦笑いを浮かべた。そういえば、移動時間はお前が俺を待っている時間には含めない、そんな話しましたね。ってことは、つまり、どういうことだ? 俺は真ちゃんを探さないといけない。まず、真ちゃんが講義終わってから出発してるんだから、真ちゃんの大学から一時間半圏内なことは間違いない。そんでもって、俺の移動時間が三十分確保されてるってのはつまりどういうことだ? 一時間半は探す時間だっつってたんだから、三十分が移動時間で別枠なわけだ。でも探すのも移動すんのも結局は同じようなもんだよな? 探しながら移動してんだから、そういうことになるよな? ってことは単純に、一時間半じゃ間に合わない位置に真ちゃんがいるってことか。取り敢えず俺の大学から一時間半以上二時間圏内、真ちゃんの大学から一時間半圏内。合ってるか? 合ってんのか、これ。いやもう合ってなかったら仕方無い。それにしたって範囲広すぎだろ。
「どこにいんのか聞いちゃ駄目って、何なら聞いていいんだよ。近くにあるものは?」 『ふむ、まあそれは良しとしよう。デパートがある。駅の真ん前だな』 「その駅って何線が入ってんの」 『それは答えられないな。だがメトロ含めて八本乗り入れがある』 「あー、そこそこでかい駅なんだな……」
こうなった真ちゃんを俺が止めることなんて不可能だ。別に真ちゃん家を知ってるんだからそこで待ってりゃいい話なんだが、そんなことしたらこいつは暫く口をきいてくれないだろう。下手したら年単位、一生とかにもなりかねない。仕方がない、お前が見つけて欲しいってんなら探してやろう。見つけて欲しくないと言われるより百倍マシだ。我ながら無理やりなポジティブ思考に涙が出そう。
「で、真ちゃんはそこの駅にいるの?」 『いや、外はまだ暑いから駅近くの喫茶店で大福を食べている』 「満喫しすぎだ馬鹿野郎!」
とは言っても腹が立つものは腹が立つので思わず通話をぶった切った。満足げに沈黙する携帯を操作しつつ、取り敢えず駅に向かう。良い子は歩きながら携帯いじっちゃいけません。悪い子でごめんね。恨むならあの奇想天外馬鹿野郎を恨んでくれ。あまり時間も無いので、真ちゃんがいる範囲内でそこそこでかい駅を適当にピックアップする。実はあんまり無い。その中で路線が八本入っている駅は一つしか無かった。駅の東口に和菓子屋と大きなデパートがある。俺の大学から一時間四十五分。まず間違いなくここだろう。これで違ったらもう知らん。 案外あっさりわかるものだと拍子抜けしながら、そういえば路線の合計数を教えてきたのは真ちゃんだったと思い出した。なるほど、やっぱり、見つけて欲しくないわけでは無いらしい。なんでこんなことをやり始めたのかさっぱりわからないが、俺との木曜日が嫌になったわけではない、ということだけでも良かったと思おう。そしてもしも、この真ちゃんの気まぐれが来週からも続くのだったら、それはどんどん難易度を増していくのだろうということも容易に想像できた。嘘だろ。
     ◇
「いや、マジ真ちゃん、今回ばかりは駄目かと思ったぜ……」 「実際駄目だったのだがな。二十七秒遅刻だ」 「二十七秒で済んだのがすげえよ! 駅まではともかく、そっからのヒントが『信号が沢山ある所を左にまっすぐ』って、知るか!」 「他に言い様が無かったのだから仕方ないだろう」 「お前、まさかとは思うけど、俺を待ってる間暇だからってふらふら歩いてたらよくわかんないとこ出て迷子になってただけじゃねえだろうな」 「迷子��はない。携帯で調べれば帰り道はすぐにわかったからな。ただ現在地がわからなくなっただけだ」 「人はそれを迷子って言うかな!」
俺の真ちゃん探しの回数も片手を優に超えた頃から難易度を増してきた。駅前集合だった初回が懐かしい。最終的に猛ダッシュをしてたどり着いた公園で、真ちゃんは優雅におしるこをすすっていた。住宅地の隙間に無理やり作られた狭い公園内には子供の影すらなく、どこかから飛ばされてきたらしい花の種が芽を出して好き勝手咲いている。入口で荒い息を吐きながら緑間の名前を呼ぶ俺に、真ちゃんは少し驚いたような顔をしていた。わからないだろうと思う場所に呼び寄せるんじゃない、全く。 真ちゃんは俺の恨めしい顔にもどこふく風で、ブランコの板に脚をかける。頭をぶつけるんじゃないかと思ったが、案外大きめに作られていたらしく、真ちゃんを乗せてブランコはぎいぎいと揺れ始めた。すぐに息が整った俺も、なんとなくそれにならってブランコに乗る。ぎいぎいと、鎖と板が軋む音がする。
「あー、なんか懐かしいな」 「そうだな」 「ブランコなんて何年ぶりだろ。はは、めっちゃ軋む音してるけど大丈夫かこれ」 「大丈夫だろう」 「大丈夫か」 「リアカーだって、大丈夫だったのだから」
まさか今ここでその話をされるとは思っていなかった俺は、驚いて真ちゃんの方へ振り返る。夕日に照らされて目も頬も髪も真っ赤だ。ぎいぎいと、ブランコが鳴る。鉄と木の音。俺たちのリアカーの音。俺たちが壊して捨てたもの。
「懐かしいな」 「……そーだな」
それ以外、何も言えずに黙る俺に真ちゃんは笑った。仕方がなく笑ったというよりは、楽しそうに笑った。そのまましばらくぎいぎいと、懐かしい音を鳴らす。
「来週は、三限が休講なのだよ」
真ちゃんがそう言い出したのは、その日、俺が真ちゃんの家に行って夕飯を作って風呂に入って布団を敷いて寝る間際だった。俺のためにいつの間にか買われていた布団はまだまだ新しかったけれど、ところどころに小さな毛玉が見えた。俺はその言葉の意味を、もうちょっと深く考えても良かったかもしれない。
     ◇
『制限時間は三時間だ』 「マジかよ……」
毎週木曜に恒例になった電話をかければ、少しひび割れた真ちゃんの声が俺の耳に届く。三時間、今までで最長記録だ。休講になったって、あれはつまりそういう宣言だったのか。俺はあの時に気がついても良かった。迂闊だったとしか言えない。あいつが二限終わりになるということは、一コマ分多く待たせるのと一緒だ。ということは、その分あいつの移動時間も追加される。
「ちょっと真ちゃん、多めにヒント頂戴……」 『ヒントは無しだ』 「はあ?! いや、馬鹿言うなよ、無理だって!」 『俺が行きたい場所にいる』
それ以上何か言う前に通話が切られた。いくらなんでも理不尽すぎる。制限時間は三時間、真ちゃんの大学から三時間以内、俺の大学からも三時間以内。範囲が広すぎる。今時、三時間もあればたいていの場所には行けてしまうというのに。 真ちゃんは、もう俺に、見つけて欲しく無いのだろうか。 過ぎったその考えに背筋が震えた。理不尽なことを言われた怒りよりも、恐怖の方が先に立った。慌ててリダイヤルする。電源を切られていたらおしまいだと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしく、十五コール目で真ちゃんは出た。
『なんだ高尾。これ以上のヒントは無しだぞ』 「真ちゃん、真ちゃんはさ、もう俺に会いたくないわけ」 『誰がそんなことを言った』 「いや、あんな無茶ぶりされたら誰だってそう思うだろ」 『ヒントはもう言ってやっただろう。あとは自分で考え���』
ぶちりと切れた二回目の通話。どうやら嫌われたわけではないらしく、かと言ってこれ以上の情報をくれる様子もない。嘆いていても何も変わらないなら、しらみつぶしに探す以外方法は無さそうだった。
「ヒントはもう言ったって……真ちゃんが行きたい場所?」
いや、知るかよ、と思う。素直に思う。あの気まぐれ大魔神の考えが完璧に読めたことなんて一度も無い。あいつが今どこに行きたいかなんてわからない。宇宙とか言い出したっておかしくない奴だ。宇宙に行ってUFOがいるかどうか確かめるのだよ、とか言い出しかねない奴である。三時間じゃ宇宙に行けないけど。行けないけどな。 思わず調べてみたら、宇宙の謎展とかいうのが近くでやっていた。可能性はゼロじゃない。そういえば、この前テレビを見ていた時に見かけた甘味屋に目を輝かせていた。あれはどこだったか。木村さんのとこの野菜が久々に食べたいとも言っていた。久しぶりにラッキーアイテムを探すか、とか言っていたのはなんでだっけ。 ああ、本当に、知るかよ、わっかんねえよ、お前が行きたい場所なんて、思いつきすぎてどうしようもない。
     ◇
「あー、ここもハズレ、か……」
どこに行っても姿が見えず、最後の望みを託して来たのは、懐かしの母校、秀徳高校だ。体育館からは、まだボールが跳ねる音がする。俺たちの一つ下の代は、それなりに癖があるけれど良い奴らだった。IH優勝は逃したが、WCはきっと優勝する。優勝できる。そう信じられるだけの奴らだ。そこに、俺と真ちゃんはもういないけれど。真ちゃんは朝から晩まで勉強三昧だし、俺はそんな真ちゃんを追いかけてこんな不毛な鬼ごっこをしてる。情けないと、去年の俺は呆れるだろうか。そんなことをする暇があるなら練習しろ、走りこめ、一分一秒も無駄にするな、そんなことを、言うかもしれない。今の俺は三限終わりでそっからバイトをして、サークルに顔を出したりして、週に一回真ちゃんを追いかける生活だ。悪くない。全然、悪くない。 駐輪場の方まで足を伸ばしてみたけれど、やっぱりそこに俺の求める緑の影はいなかった。そうだよなあ。だってここは、もう過去の場所だ。いつだって全力で走り抜けるお前が、今更ここに戻ろうなんて、言うはずがなかった。俺じゃあるまいし。
「秀徳―――――っ、ファイッファイッファイッ……」
遠くから聞こえてくる運動部の声出し。俺は今、あんな声が出るだろうか。出ないかもしれない。わからない。 だけど俺は、少しだけわかるようになったのだ。俺たちが練習をしている間、職員室では先生たちが必死になって俺たちの将来とか進路を考えていて、馬鹿にしてた鈍臭い先生だって俺たちが体育館使えるようにいつだって申請書作ってくれてて、スポーツ用品店じゃおっちゃんがいつも営業時間少し過ぎても店を開けてくれてた。家に帰ったらあったかいごはんがあった。俺が帰る丁度のタイミングで妹ちゃんは風呂からあがってて、俺はいつだってすぐに風呂に入れた。風呂から出たその瞬間に肉が焼けてた。あったかい食べ物は全部あったかいままだった。朝おきて引き出し開けたら、そこには絶対に選択済みの下着とTシャツと靴下があった。何にもしなくても部屋の床に埃なんて溜まってなかった。俺が今必死になってやってること、真ちゃんが必死になって作ってるルーティンワーク、そんなものが当たり前に俺たちの周りにあった。
「タイムアップ、かー……」
携帯を開けば、電話をしてから三時間と十五分。俺は初めて、真ちゃんを見つけられなかった。けれど、見つけられなかったと電話をするのもためらわれて、「悪い、無理だった」と一言メールをしたためて送信する。冷静に考えれば俺が悪いことなんて一つもないような気がするけれど、まあ、気持ちの問題だ。見つけられなかったのは、確かなんだし。
「帰るか、ね」
今から真ちゃんの家に向かうこともできたけれど、それはきっとルール違反だろう。俺は自分のアパートへ帰るべく、駅へと向かう。夕日はもう沈んでしまった。背中から、まだ、後輩たちの叫び声が聞こえてくる。 悪くない、全然悪くない。 大人になるのは寂しいことだと、あの時の俺は信じていた。リアカーを壊して、思い出を捨てて、バスケをやめて、学校の友達ともほとんど連絡を取らなくなって、生きるのに必要なことだけ手に入れていくのはとても寂しいことだと思っていた。だから未練がましく、あの日、ポケットを膨らませていたのだ。 ただ、そう、実際生活してみれば、案外そんなこともない。沢山のものを捨てて見つけた世界は、思っていたより優しかった。沢山のものを捨てたから、それまで俺がいた世界が、とても優しいものだったのだと気がつけたのかもしれないけれど、もしそうなのだとしたら、それは本当、悪いもんじゃなかった。真ちゃんは、いないけど。
     ◇
「遅かったな」 「……へ? うそ、真ちゃん?」 「待たせすぎだ。六時間だぞ」
玄関、いや、玄関なんて大層なもんじゃない、アパートの狭い門に寄り掛かるようにして真ちゃんは立っていた。錆びついて低い門は、もうとっくに鍵が馬鹿になっていて、ろくに閉まりもしない。郵便受けだって錆びているからぎこぎこと音がする。 まあ、今時、どうでもいいチラシくらいしか郵便受けには入らないのだからあまり不自由はしていないのだけれど。って、違う、違う、そんなことを考えている場合じゃない。意味がわからない。真ちゃんがいる。
「なん、で、こんなところにいるの……」 「なんでも何も、俺が行きたい場所に行くと言っただろう」
まさか六時間待たされるとは思わなかったがな、と真ちゃんは呆れたような溜息をつく。六時間って、お前、まさか六時間ここに立ちっぱなしだったわけ。不審者として通報されててもおかしくない。いや、そんな通報してくれるような甲斐性のある住人は多分この近辺にはいないのだけれど。っていうか、そうじゃない、そうじゃないだろ。きりがないからって制限時間作ったのお前だろ。なんでずっと待ってんだよ。
「お前、一体全体どこまで行っていたのだよ。もう来ないかと思ったぞ」 「いや、それはこっちの台詞っていうか、まさか俺の家とは思わないじゃん……」 「何故。俺はずっと言っていたはずだが。むしろお前はどこを探していたのだよ」 「そりゃ、いっぱいだよ」 「いっぱいか」 「うん、いっぱいあった」 「そうか」
いっぱいあったなら仕方がない、許してやろう、とふんぞり返る姿勢があまりにも偉そうなので俺は笑ってしまう。別に何が面白いというわけでもないのだけれど笑ってしまう。真ちゃんと一緒にいると、とてもどうでもいいことでだって笑ってしまうのだから仕方がない。そんな俺を見て、真ちゃんも小さく笑う。
「それで?」 「へ? それでって、なに?」 「時間に間に合わなかったのだから罰ゲームを受ける覚悟はできてるんだろうな」 「それで、にどんだけ意味がこめられてんだよ」
どうぞどうぞ、なんなりと。やっぱり俺はそんなに悪くないと思うのだが、六時間外で待っていてくれた相手に対してそんなこと言えるはずもないし思わない。おしるこ何百本おごりでも許そうと思って諦めた。惚れた弱みというやつです。投げやりになった俺の様子に、真ちゃんはにやりと楽しそうに笑って一言。
「お前の家に泊めろ」
     ◇
「狭いな」 「ずっとそう宣言してんじゃん」 「風呂場も狭い、台所も狭い、部屋も狭い、のに物は多い」 「わりーかよ」 「悪くない」
ただでさえでかい部屋に規格外のサイズの奴が入ってきたら、それはもう狭いなんてもんじゃなかった。極小だ。人形の部屋だ。座る場所を探した真ちゃんは見つけられなかったのか、勝手に俺のベッドの上に陣取った。わざとなのかなんなのか、いいけどね、いいですけど。一日中閉じきっていた部屋はもう夏を過ぎても蒸していて、堪えきれずに窓を開け放した。がらがらと、網戸が今にも外れそうになりながら開いていく。車輪が錆びついているのかそもそも設計的に立てつけが悪いのか、三回に一回は外れて俺を悩ませるこいつは、今回は綺麗に開いてくれた。
「ま、別に景色もよくねえけど」 「道路が見えるな」 「道路しかねえだろ」 「向かいの家も見える」 「道路沿いだからな」 「……あそこに」
俺につられて窓から身を乗り出した真ちゃんが下を指さす。そこには庭というのもおこがましい、アパートの僅かな隙間に雑草が茂っている。誰も手入れをしないから、好き放題に伸びきって、今じゃススキが揺れている。
「あそこにあるのは、お前の自転車か」 「そうだよ」
そう、そこは庭というのもおこがましい、アパートの共同駐輪場だ。駐輪場というにもおこがましいのだが、しかし実際駐輪場として機能している以上それ以外の言いようはないだろう。引っ越しをするにあたって、新しく買い替えても良かったのだけれど、ついそのまま持ってきてしまった俺の愛車。
「懐かしいな」
そう言って真ちゃんは笑う。真ちゃんは、いつからこんなに笑うようになったのだろう。そこに俺が関係していると思うのは自惚れかもしれないが、関係ないと言い切るのもまた自惚れだ。きっと、俺は関係があった。だけど、それだけじゃなくて、俺の知らない真ちゃんの生活の色んなものがきっと関係あるんだろう。
「お前、あれ、今でも乗っているのか」 「そりゃ乗りますよ。普通に乗りますよ。なんならあれで大学に行くし、スーパーだって行きますよ。お前の晩飯の材料買ってますよ」 「ああ、そうだ、夕飯、お前こんな狭い家で作れるのか」 「それは流石に馬鹿にしすぎだろ! 言っとくけど週の六日間はここで過ごしてんだからな! 俺!」 「そうだった」
お前が働いて、家賃も光熱費も水道代も食費も払って住んでいる部屋だった、と真ちゃんは笑う。何故だか誇らしそうに笑うので、家賃は親持ちだけどな、という俺の声はなんだか拗ねたように響いてしまった。それでもこいつは、立派なものだと繰り返す。俺よりももっと大変な奴なんて沢山いるから居心地が悪いことこの上ない。
「で、エロ本はどこにあるんだ」 「お前ほんっと楽しそうね」 「当たり前だ。ずっと来たかったんだから」
楽しそうに引き出しを開けるが、残念、そこには俺の下着があるだけだ。母さん直伝の下着の畳み方は、なかなか皺になりにくくてこれが主婦の知恵かと俺は感心している。まあ、真ちゃんの家の服の畳み方も、今じゃこれなんだけど。俺が教えたから。 見当違いな引き出しを次々に開けていくこいつは遠慮を知らないのかなんなのか、もっともポピュラーなベッド下にもないことを悟って残念そうな顔をした。甘い真ちゃん、一人暮らしでエロ本を隠す必要がどこにある。普通に本棚にほかの雑誌と一緒に並んでいるのだがこいつは気が付く様子がない。教えるつもりもない。
「真ちゃん、諦めろって」 「諦めろ、ということは、ないわけではないのだろう? ならば人事を尽くすのだよ」 「へいへい、人事を尽くしたいのはわかったけど、後でな」 「む」 「夕飯にしよう」
飯にしよう。完璧な食事をしよう。お前がいればそれだけで俺は腹いっぱいに幸せだけれど、腹が空かないわけじゃないんだから。
     ◇
「狭かった」
風呂上がりの真ちゃんの第一声がそれだった。そう文句を言っている割に顔は満足げなのだから腹立たしい。洗濯しすぎてくったくたになったタオルで髪を拭くこいつに、ドライヤーなんてねえからな、と声をかければ構わないと返事が返ってきた。嘘つけ。お前髪の毛乾かさねえと次の日めちゃくちゃ絡まるくせに。このねこッ毛野郎。
「真ちゃんさー、なんでこんなことしたわけ」 「別に」 「しんちゃーん」 「……お前の家に行く口実を、探していただけなのだよ」
不機嫌そうに顔をしかめながら真ちゃんは、俺にタオルを投げつける。ぼふりと顔に湿ったタオルの感触。俺の家に来る、口実。俺の家に。真ちゃんがずっと探していたもの。それは、多分、俺が探していたものと、そっくり一緒だった。
「……別に、いつ来ても良かったのに」 「お前は、嫌そうだったじゃないか」 「ああ、それは、お前がここまで来るの面倒だろうって思ってたんだって、それに」 「それに?」 「あれ見つかんの恥ずかしかったから」
俺が指さした先の戸棚には錆びたボルト。あの日の俺の膨らんだポケットの中身。しばらく首をかしげていた真ちゃんは思い当たったのか驚いた顔を向けた。
「リ��カーのか」 「リアカーと、自転車の連結部分の、かな」
女々しいったらありゃしない。だけど俺はどうしても、全部捨てることができなくて、こんなものを大事に抱え込んでいる。あの日こっそり、一つだけポケットに忍ばせたそれをまだ大切にしている。
「笑う?」 「笑わない、が」 「が?」 「ずるくないか」 「へ?」 「俺だって欲しかったのだよ」
ふて腐れたような顔で文句を言う真ちゃんの、内容があまりにも予想外すぎて俺は間抜けな顔をしてしまう。何それ、真ちゃん、欲しかったの。そんなの欲しがってんの、俺だけかと思ってたのに。そんなの大切にしたいの、俺だけかと思ってたのに。
「……そういえば、今日、お前探して秀徳まで行ったんだけど」 「はあ?! お前抜け駆けばかりか。そこまでお前がずるい奴だとは思わなかった。何故俺を連れて行かないのだよ。後輩どもはどうしてた。相変わらず生意気だったか」
いや、いきなり行っても邪魔かと思って話はしてねえけど、ていうかお前探すのに必死でその余裕はなかったけど、なんだよお前。なんだよそれ。お前、そんなそぶり全然見せなかったくせに。毎日毎日忙しくて、前だけ向くのに必死ですって顔してやがったのに、そんなの、お前こそずるくねえか。
「真ちゃんってさ」 「なんだ」 「案外あまちゃんだよなあ」
俺の言葉に一気に不機嫌になった真ちゃんの機嫌を取るのは大変だった。どうせ俺は親の脛をかじった世間知らずのお坊ちゃんなのだよと愚痴愚痴ぶーたれるので、どうやら大学でも言われたらしい。まあ否定はできないがそこが真ちゃんの良い所というかチャームポイントなのだから俺としてはそのままで一向に構わないのだが。
「お前のことも言ったら馬鹿にされた」 「へ? 俺のこと?」 「お前が家に来て飯を作っていく話をしたら、通い妻かなんかかよ、そいつもかわいそうだなとかなんとか、他にも色々」 「あー、うん、まあ、そんなもんだろーな……」
むしろ気持ち悪がられなかっただけ僥倖だと思うのだが、その回答はお気に召さなかったらしい。別に俺が通えと言ったわけじゃないのに、というのはその通り。
「だから俺も通うのだよ」 「いやその発想はおかしい」
堂々と告げた内容はあまりにも頓珍漢だ。っていうかこの狭い家には何もない。テレビだってろくに映らないし録画はできないし、クーラーは効かないし多分暖房だって効かないだろう。布団だって敷けないし、風呂だって手足を伸ばせない。
「それがどうした」 「真ちゃん、衣食住の充実って言葉があってな」 「どうでもいい。ここにはお前がいるんだろう」
だったらそれでいい、とこいつは言う。その言葉の意味をわかっているんだろうか。どうせ、わかっちゃいないくせに、馬鹿な奴。本当に、馬鹿な、大馬鹿野郎。
「お前がいればいい」
わかっちゃ、いないのは、俺の方だったんだろうか。
「すっげー熱烈なプロポーズね」 「本当のことなんだから仕方がないだろう。諦めろ高尾、お前のために俺の木曜は全て空けてあるのだよ。言っておくが、他の奴にここまでする気はない」
知っている。知っているとも。お前が、必要な時にしか人に頼らないことくらい。必要がなければ、誰かに連絡なんてしないことくらい。お前の毎日のルーティンに組み込まれることの意味くらい、俺はとっくにわかっていたのだ。
「それなんだけどさ、真ちゃん」
良かったら、金曜の午前も空けてほしいなと、そう告げたら真ちゃんは首を傾げた。後期授業は考慮しよう、とわからないまま頷く真ちゃんを抱きしめて、そのままベッドに倒れこむ。あたたかい。ごつい。でかい。好きだ。あーあ、好きなんです。さっき食った夕飯の食器は、まだ流しに放置したままだ。だけど今日くらい、いいだろう。
「真ちゃん、ちょー好き、残念ながら、マジで好き」 「残念ながら俺もだな」
笑っちまう。俺の家は本当に狭いから、くっつく口実なんていくらでもあるんだ。
     ◇
「おーい、真ちゃん、十時だぜ。起きねえと、三限間に合わねえんじゃねえの」 「腰が痛い……」 「真ちゃんが魅力的だったからつい」 「お隣さんが凄い壁を殴っていたような気がするのだよ……もうしばらくお前の家には来ない……、というかお前、俺が金曜三限からにして以来調子に乗ってるだろう」 「ごめん」 「否定しないのか!」 「事実は否定できねえから……」
朝食を差し出せば、真ちゃんは億劫そうにベッドの上でそれを受け取ってそのまま食べる。まあ随分だらしなくなったことで。まあ、相変わらず栄養バランスにはうるさいのだけれど。一日二日乱れるくらいは何も言わなくなった。俺の腹がたるんだらお前のせいだからなと、せっせと俺の飯を食っている。いいことだ。
「あー、また一週間真ちゃんに会えねえのかよー、ちくしょー」 「仕方ないだろう。学業をおろそかにするわけにはいかん。日々の予習復習、自主学習もろもろ、他のことを加えれば遊んでいる暇などないのだよ。 「そりゃそうかもしれねえけど! 土曜にも講義入ってて日曜が実験で潰れてってホントねえから! お前それ部活ぐらい拘束時間なげえだろ!」 「やりがいがあるな」 「その顔滅茶苦茶腹立つわ」
俺の部屋の引き出しから、こいつの服を取り出してぶん投げる。ベッドの上に散ったそれを適当に身に着け始めるこいつは余裕の表情だ。本当に、腹立たしい。
「へいへい、その間に俺はバイトにサークルにバスケに忙しくさせていただきます。へへ、この前ついに真ちゃんのこと抜きましたし? エース様の座が俺に渡る日も近いんじゃねえの? エース高尾の誕生だぜ」 「まだ一回だろう。調子に乗るなよ」 「悔しいなら悔しいって言っても良いんだぜ、真ちゃん」 「次はぶちのめす」
おっかねえなあと肩をすくめる間に真ちゃんは支度を終える。俺も支度が終わって戸締りをする。火の元、水道、窓。完璧だ。真ちゃんと一緒に家を出て、チャリで駅まで送っていく。俺の大学へは遠回りだけど構わない。最近真ちゃんは、二人乗りを覚えた。滅多にやろうとしないけど。俺も真ちゃんも寝坊した時、ダメもとで提案したら了承したのだ。あの緑間真太郎が、悪くなったものである。それは多分俺のせいで、そして俺以外のせいでもある。そんなもんだ。悪くない。
「で? 俺の家にはしばらく来ないわけ? じゃあ次はどこ行くの?」 「そうだな」
変わることが怖かった。失うことが怖かった。だけど案外世界はそのままで、真ちゃんは変わらずに俺の隣を悠々と歩く。リアカーにひかれていた時と変わらずに、堂々と、傲岸不遜に、楽しそうに歩く。俺はゆっくり自転車をこいでいる。
「お前がいれば、どこでもいい」
色んなことを捨てました。沢山の粗大ごみを出しました。大切なものも捨てました。だけど実は、こっそりちょっと、取っておきました。悪い大人でごめんなさい。だけど世界は、案外こんな俺たちを許してくれたりしてるのだ。お前がいればそれでいい。お前がいるからここでいい。お前がいるからここがいい。次はどこでお前に会おう。どこでもいい、この寂しくて厳しくて優しい世界。次はどこでお前に会おう。
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yuatari · 4 years
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水の底から私を引き上げて
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こんな意識がずっとあった。
『私はどこかで生まれ変わらないといけない』
 今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
 弱く価値のない自分の殻を脱ぎ捨て、もっと素晴らしい自分を想像しながら今日も眠りにつく。次に目を開けたとき、まるで違う自分へと羽化することを願って。
 そんな希望のような自死。
 でも翌朝になってもそこにいるのは紛れもない私。
 朝日に苛まれない日はなかった。
 だから私は決意した。
私の半身から自立することを。
私の人生の半分を占めるものから離れてしまえば、 きっと生まれ変わる他ない。
そうすることが一番良いのだ。
私にとっても、私の半身にとっても。
 だけど。
  今日も誰も来ない塔の中で二人きり。
 じっとりとした感触。
 手に汗をかいていたのはいつからだろう。
 今日ここの扉に手をかけた瞬間だろうか。
 いつものように向かい合わせで座った瞬間だろうか。
 それとも、あの日の決断からずっとかもしれない。
「ヒカリ」
 声をかけ、勉強していた彼女の手を奪う。
 その手の中から零れ落ちていったもの。塗装が剥げ、白色が見え隠れした紺のシャーペンがノートの上を転がるのを見て、浮かされた熱が少しだけ冷めていった。
中学一年生の誕生日に私があげたもの。今でも使っているのかという呆れと、そんなことを覚えている自分に嫌気が差す。
 ヒカリが私を見る。
 どうしたのと、声は出さず私の瞳を覗いてくる。
 昔からの癖。
困ったことがあると何も言わずに私を見つめる。
 魚みたい。
顔がとかではなくて。
 呼吸をしていないんじゃないかと思うくらい喋らない。
 昔はそれが心地良かった。
 言葉を使わなくていいことに安心した。
 言葉を用いなくても通じ合えることが嬉しかった。
 傷つかないで済むから。
 でも今はただ息苦しい。
 そこはまるで水の底のよう。
 息が詰まって、なにかにつかまりたくなる。
「……少しだけ、手握っていてもいい?」
 幼い頃から胸に巣食う重いかたまり。
それが彼女の手に触れるとさらさらと少し軽くなる。
 ……ああ、私は弱い。
 昔と寸分変わらぬ弱さでここにいる。
 そして目の前の彼女もまた、昔と変わらず決してノーとは言わない。
  2
  ◆
   人混みのない都心の駅を歩きたい。
 広い横断歩道を一人で渡りたい。
 車のない高速道路を一人で散歩したい。
 真夏の学校のプールを一人で泳ぎたい。
 これは仮に私が将来とてつもない金持ちになり、広い家を持ったり、ヒカリ駅を建てたり、ヒカリ専用の高速道路を作ったり、自宅に広いプールを設置したとしても得られるものではない。
 見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
 その快感に酔いしれたいのだ。
 冷たい石の床が夏の陽射しで沸騰した身体によく効く。
まだ時間があるからと寝ころんで何分経つだろう。既に遅れてしまっている可能性は高い。でも少し遅れるぶんにはいい。そこまできっちりした約束ではないから。
 それよりもこの場を見られる方が問題だ。
 スイはこういったことを嫌うから。
『汚いよ』
 無数の生徒の上履きで踏みつぶされた廊下で寝ころぶなんて行為は。
 でも今は夏休み。生徒はほとんどいない。
清掃業者が定期的に入っているのだからスイの想像よりは綺麗だろう。たぶん、私の想像よりは汚いだろうけれど。
 爽快だった。
 こういう時に使う言葉だったっけとも思うけれど直感的に浮かんだ言葉はこれで。なにかを達成するでもなく、何もないことで爽快になるとは。
 本当になにもない。
誰もいない。
床に耳を当てると建物の鼓動が聞こえる。
本当は私の心臓の反響だとしても。
音が床に沈んでいく。
広い廊下で寝ても文句を言う人間がいない。
一度は想像したことがある非日常の憧憬。
人の溢れる商店街、交差点、駅、電車、学校から自分以外の人が消えること。
あまりにクリアな自己完結した世界。
 誰に左右されるでもなく、始まりも終わりも私が決めていい。
音を作り出すのは私で、それを消すのも私だけ。
静かで、本当に静かで。
  ―物静かだね
 私は口で呼吸をしない。
 私は特別に言葉を持たない。
 うまく表現ができないから。
 それに喋らないことが息苦しくない。
 三人で集まって、私以外の二人が楽しく喋っているのを見ているだけで十分楽しい。
 他人が嫌いなんじゃない。
 むしろ好き。
 だから誰かに誘われれば賑やかな場所にも行く。
 だけど喋らないから「つまんない子」だって最後にはグループから外されてしまう。
 悲しいとは思わない。
 ほんとうにね。
 そういうものだし、群れに馴染めなくて一人になるのは自然の摂理のようで納得感がある。
 やっぱりそうだよねで大体済んできた。
 でも悲しくないのは、唯一の例外を知っていたからかもしれない。
 小さい頃はずっと不思議だった。なんで他の子とはうまくいかないんだろうって。反対に、
『なんでスイちゃんとは仲良くできてるんだろう』
 ……ああ、そうだったね。
スイのところへ行かなくてはいけないんだった。
立ち上がるも足元がフラついた。立ちくらみだ。
身体を冷やし過ぎたか、急に立ち上がったせいか、どちらでもいいけど視界に白い靄がかかり―小さな手がこちらに伸びてくる幻想を見た。
幼い誰かの手。小さい頃はその手に引かれ、助けられてきた。
昨日のことを思い出して、手のひらを見つめる。
『……少しだけ、手握っていてもいい?』
 そこはいつも通りの自分の手があった。
 痕なんて付いていないのに。
 しんとしたスイの指の感触が骨の芯まで残っている。
  ◆
   ヒカリという名前はどうなのだろう。
漢字にすると『え、そこ?』みたいな当て字だし、その意味するところもマイペースでぼんやりした私からはかけ離れている。
 対照的にスイという名前があまりに似合ってしまっている子もいる。
夏でも陽に焼けず、白い腕から覗く薄青い静脈はぞくりとさせるくらい綺麗に透き通っている。
抑えたような低い声は耳に馴染む。容姿だって綺麗で温度が低い。少し近づき難いほどに。
三階の化学準備室の扉を開けると、おおよそ涼しいとは言い切れず、しかし無いよりはマシといった程度の風が流れ込んでくる。
スイが先に着いているようだ。もっとも私がスイより先に着いていた試しはない。
 時間に律儀。
準備だって万端で。
化学室の黄ばんだ長机にチェック柄のテーブルクロスがかけられ、その上にはノートに参考書、筆記用具と小さい花柄のポットが置かれている。ポットの中身はいつもの、スイが持参したアールグレイだろう。
準備室という粗雑な場所のはずがスイの趣味と美意識により随分と優雅だ。
ここまで快適な空間にしてくれたのであれば、もう少し空調を効かせてくれてもいいのだけど。
かつては二十八度。スイがいない間に温度を下げるという無言の抗議を何度か繰り返した結果、今は二十七度に落ち着いている。
スイの言い分は。
『だって冷えるじゃない』
嫌いな食べ物はアイス。
徹底ぶりは昔から変わってない。
 本当に小さい頃から。同じ日に同じ病院で生まれたらしい。母親同士が入院中に仲良くなり、家も近かったから退院後も家族ぐるみで親しくなった。
 しっかり者のスイにいつも世話を焼かれてきた。
私は昔からずっとマイペースで大きな決断など一度もしたことがない。いつだって、ぼんやりと気ままだ。
「おはよう、ヒカリ」
 準備室の入り口でボーっと立っている私にスイが声をかけてくる。
 うんと頷く。
既に席についているスイに倣って私も席につくと鞄から勉強道具を取り出す。外は良い天気で、室内にいる私たちをさんさんとした太陽が嘲笑うようだ。
 机を挟んで向き合うものの私たちの空間に言葉はない。
 ノートの上を走るペンの音だけが響く。
 かりかりと。
 さらさらと。
 それもフル回転させた脳の前では無に等しい。
 それよりも時折、意識を乱すのは視界に入ってくる彼女の姿。
 いつだって氷のように憂鬱そうで。
 それなのに触れてしまえば簡単に砕けてしまいそうな線の細さ。
 ペンを弄ぶ細長く白い指先の温度を私は知っている。
 八月の夏休み。
 プールにも旅行にも花火大会にも目もくれず、学校へと通う。
登校の義務はもちろんない。
にも関わらず電車を乗り継ぎ、ローカル線の駅を降り、バスで畑をいくつか通り過ぎたところにある学校にまで来ている。
普通であればそれなりの理由を必要とする。
『夏休みは学校で受験勉強をするわ』
 それだけ。
 スイのその一言だけで夏休みも毎日登校している。
 朝���くに起きて炎天下を歩いていく。
 進学校の中でも特に部活に力を入れていない高校だ。定期を更新してまで学校に来ているのは私たちくらいだろう。
 スイの家も遠くない。ただ勉強をするのであれば互いの家に行く方が効率は良い。
 それでも。
 そういう非効率な選択肢を私たちは選んだ。
 二人の方が集中できるとか、勉強が捗るとか、お互いに見張り合ってサボらなくなるとか、そういう理由付けは一切なかった。
ただ選んだんだ。
 他に生徒はいない。
 周囲も山と畑ばかりで音はない。
 音を作り出すのは私とスイだけ。
 水のように澄んでいる、私とスイの世界。
 延々と時間が消費され、時間が積もり重なっていく。
 幼い頃からのスイとの時間は途方もなく、当たり前になっている。これ以上の積み重ねがなにを生むのかは私にもわからない。
 だけど。
 帰りのバスを待っていると心地の良い感触につい目を向けてしまう。
スイが私の右手を握っていた。
 日が暮れても夕陽が私たちを熱くし、それだけに右手の冷たい肌触りが目立って仕方なく、彼女が昔から今の今まで確かに隣にいることを実感する。
 音なんかなくても。
 声なんかなくても。
 呼吸なんかなくても。
 言葉なんかなくても。
  私はここにいる。
           3
  ◆
   朝日が昇る頃。
 またダメでしたと呟いた。
  朝八時を迎える前。
 足元が幽霊のようにおぼつかない。
 自分がどこに立っているのかわからなくなる。
 不安と迷いから生まれる私の揺らぎ。
それは価値観や思考の揺らぎに等しく、個人の存在が不安定なことに等しい。
 だから階段を登っている瞬間だけは足取りが確かで私という存在がどこにも埋もれない。
 三本の円形の塔があった。
それが三角形の点となり建ち並ぶ姿は三年間通い続けても慣れはしなかった。
白色の石造りの塔。
煩わしい装飾がない私たちの高校。
まわりが畑と山だらけなので非常に浮いている。どこかファンタジーで学び舎としての趣味が良いとは言えず、石造りの床もデザインだけ見れば素敵でも冬には馬鹿らしいほどに冷え込むから好きになれない。
 唯一好きになれたのは螺旋階段。全ての塔は中央が吹き抜けで巨大な螺旋状の階段になっている。
 一階から五階の特殊教室に向かう際は生徒たちも不満をこぼす。景色が変わらず、延々と登っているような錯覚に陥るからだ。
 でもそれは余計な情報が少ないということで考え事にはうってつけ。
見上げれば透き通る青空が私を見ている。高さというのは平面に比べて一歩一歩の実感が大きいもの。
だから一段登るごとに私の中の揺らぎが薄れていく。
 この螺旋階段が空まで続いていればどんなに良かっただろうか―そんな永遠を願うほどに。
 朝八時ちょうど。
 三階の化学準備室に到着すると荷物を置き、窓を開けて掃除に取りかかる。
 最初こそ埃と雑然さしかなかったこの場所も不要な段ボールの処分や備品の整理をして随分とマシになった。
 夏休み半ばにしてほぼ理想形となった。
 それも夏休みが終わってしまえば水泡となる。この準備室の使用だって許可もなにもあったものではない。
 登校にしたってそうだ。義務がないということは  「やる必要がない」ことで余計なことになる。
 良いか悪いかで言うと灰色。
 私物のお茶まで持ち込んで、勝手に火器も使用して、灰色どころか黒と言っても差し支えない。
 そんなリスクと期限のある空間でも私は理想を求めた。
 昔からの癖。
 私の理想の場所を作り上げる。
 凝り性だとかそういう可愛いものではない。
 私の思い描く理想を作り上げられる実行力は、しかし私の思い描く理想が他人の理想ではないという点で明確な悪癖となる。
 それでも私は我を通してきた。
 そうやって理想を作り続けてきた。
 昔から、ずっと。
 
 朝十時前。
一向に現れないヒカリを探しに行ったわけではないけれど、気晴らしに螺旋階段を登っていたら落し物を発見した。
 五階まで上がった時だった。
廊下で倒れる人の姿があったので近づいてみるとヒカリが仰向けで目を閉じていた。
 屈みこんでヒカリを観察する。
 外傷なし。
 衣服の乱れなし。
 呼吸よし。
 結果、事件性なし。
『ヒカリちゃん、なにしてるの?』
 駐車場のアスファルトの上。
 幼い頃、少し目を離したらヒカリが地面に横になっていることが何度かあった。
 私の問いに答えることはなく、ヒカリは注意されても止めなかった。ただ、こちらを見て微笑むだけで。
 その時に見せる笑みはいつも可愛かった。
 五階でやっていた理由はなんだろう。
今日はたまたま五階だったのか、あるいは私に見つからないためか。
 馬鹿ね。好きにすればいいのに。
  ―そうさせているのは誰?
  久しぶりに、戯れたくなった。
 乱れた前髪に触れると懐かしい匂いがした。
 温かくて甘い、ソープの香り。
 触発され、頬に指が触れる。
 一本から二本へと触れる指が増える。
 添える手はやがて片手から両手へ。
 長いまつ毛を見つめる。五秒、十秒と時を止めて、深呼吸をすると額に口づけをした。柔らかい肌の感触が唇をビリビリと伝わり、身体と脳が震える。
 今この一時だけは全てを忘れられる。
 それでもヒカリは起きない。
 いつからここにいるのだろう。
 私は時間に対して余裕を持つ。
 ヒカリは余裕を持って時間を使う。
とてもヒカリらしい。
 私はいち早く準備室に行ってしまうから。
 少しでも多くの時間を理想の場所でヒカリと一緒に過ごしたいから。
 そんな気持ちに応えないヒカリのマイペースさに沈んだりはしない。
 ……わかっている。
ヒカリにはヒカリの時間がもっと必要なことを。
 それでも側にいたくて。
 意味のない問いかけだと知りながら。
「……ヒカリ、いいよね?」
 貴女は決してノーとは言わない。
 寝ていても、覚めていても。
 今も、昔も、これからも。
 ヒカリの隣に寝そべった。
 逆さまの視界。
重力が反転し、私とヒカリが天井を歩くところを想像する。二人して地上を目指して螺旋階段を登っていくところを。
なかなかに愉快な光景で、想像していくうちに意識は遠い彼方へと運ばれていった。
 それは床の冷たさと相まって水面に浮かぶようで。
 夢に落ちる間際、溺れてしまわぬよう私はその手をつかんだ。
  ◆
   夢を見た。
 急に世界の重力が反転して私とスイは逆さまになる。二人で天井に座りこんで窓の外を見ると空へと吸い込まれていく無数の人の姿を見る。それは残酷なようで、でも流星のような瞬きで美しかった。
 それから二人で螺旋階段を登る。しかし地上に出るも逆さまなので家に帰るのが困難だった。
 私は家に帰りたかった。それは怖いからとか、家が心配だからとかではなく、見たいテレビがあったのだ。夢だし、まぁそんなものだと思う。
 やがてスイが言う。
「この塔で暮らしましょう」
 いつもの化学準備室も逆さまで中はぐちゃぐちゃで、それもすぐにスイが綺麗にしてくれる。気がつけば景色だけ逆さまにいつもの机が、筆記用具と参考書が、スイが淹れてくれた紅茶が。
「時間はいくらでもあるし勉強しましょう」
 なんだか悪くないなと思った。
 本当にここで暮らしていくことも。
 スイと一緒にいることは。
 夢のようで―しかし本当に夢で。
  目を開けると橙の光が眩しかった。
 時刻は体感、十六時くらいだろう。
 まだ夢の中だとも思った。
 隣でスイが寝ていたから。
 でも夢ではなかった。
 確かに繋がれた手の感触は現実のものだった。
 それがまた夢のようでもあった。
 身体を起こして、廊下で寝てしまったことも思い出す。ただその時はスイがいなかったはずだ。今日はまだ会話もしていない。つまりスイがこの状況にしたわけで―
 ぼりぼりと、わざとらしく頭をかく。
あたりを見回す、誰も来ないのを知っているのに。
 ……さて、どうしよう。
 めずらしく私に主導権がある。
 普段、主導権を握っているスイが寝ているのだから当然なのだけど、それだけスイが無防備になることがない証拠でもある。
 本当に無防備。
 つい寝顔を覗き込んでしまう。
 スイ、起きて。
 そう声が出かかったけれど―人差し指の第二関節でスイの頬に触れる。
  目にクマできてるね。
 意識して見ないから気づかなかったよ。
 スイと一緒に居るのが当たり前で。
 こんな間近で顔見ることもないからさ。
 顔も青白いし、手も冷たいよ。
 息してる?
 スイ、疲れてる?
 最近のスイ、少し変だよね。
 よく手繋いできたりさ。
 小さい頃みたいで嬉しくなるけど、不安にもなる。
 こんな廊下で寝っころがるのもそう。
 前なら……ううん。
 小さい頃からずっと、こんなことしなかったよ。
 スイはいつだって凛々しくて、綺麗で、私とは正反対。
 …………ええと。
 お腹すかない?
 私はすいちゃったよ。
 お昼食べてないからね。
 起きて欲しいけど、このまま寝てても欲しい。
 うん、寝てて欲しい。
ゆっくり、そのままで。
 ……なんか、ずっと一緒にいるね。
 でも、ずっと一緒にいるからこそ。
 気づかないこともあるんだね。
 スイは昔のままじゃない。
 私は昔のままの気しかしないよ。
 だから。
 ……だからなのかな。
 スイはさ―
 
 それらを何一つ、声に乗せて言葉にはしなかった。
 急に自分がとてつもなく酷い奴のように感じた。
 こんなにも言葉を抱えておきながら口にしない、相手に伝えようともしない。
 実際、私は「つまんない子」とかそういうレベルではなく、普通に酷い奴なんだろう。
 対話を致命的に放棄し、決定権は相手に委ねる。
 だから、スイにも言われたんじゃないか。
 小さい頃からスイのお世話になって十六年が経つ。
 並みの恋人どころか夫婦よりもずっと付き合いが長い。
 ずっ���親にも言われてきた。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
 小さい頃はそれにいつも同じ返答をしたものだけど。
 もう長くは一緒にいられない。
 私は大きな決断など一度もしたことがない。
 ……全てスイに決めてもらっていたから。
 遊びに行く場所、趣味に、高校の進路。
 そして大学も。
 夏の始めにスイに言われたこと。
『大学は別々のところに行こう』
 それに対して私は、声を出して「うん、わかった」と頷くだけだった。
  ……でも。
 だけどね。
          4
  ◆
  『ヒカリのこと、よろしく頼むわね』
 みんなが褒めてくれる。
 ヒカリの面倒を見るだけで「頼りになる」「しっかりしている」と褒めたたえた。それを見てお母さんが誇らしげに笑みをこぼしたのを覚えている。
 ヒカリのことだって好きだった。
 ちょっとボンヤリしてて手はかかる。
 それでも私の後ろを健気について来る姿は愛おしく―ある日、気づいてしまった。
 私の意見を聞くこと。
 私と対立する人が現れたら私に付くこと。
いつだって貴女は私の言いなりだった。
彼女の性格や本質なんて二の次で私がヒカリを好きな理由は私に従順なところだった。
 小さい頃から面倒を見るという名目で彼女をコントロールしてきたことに自覚がないとは言えない。
 私の承認欲求のために、理想のために、ずっと騙されていること。
 そして貴女がいないともうダメになってしまう自分を見つけてしまったこと。
 私は一人で生きていくのが不安だ。
 私を必要としてくれる人がヒカリ以外にいるのか。
 いつまでも必要として欲しい。
 でも、それではいけない。いいわけがない。
 だから。
  この一ヵ月は、なんのための一ヵ月だったのだろう。
  夏休みも残り一週間を切った。
 相変わらずの受験勉強の日々の中でも変化があった。
 ヒカリの視線を感じることが増えた。
 気のせいではない頻度で目が合う。
 どうしたのと聞いても、ううんなんでもと言うように首を振るだけ。
 朝も九時前にヒカリがここに着くようになった。
 朝の支度まで一緒に手伝ってくれる。
 ヒカリが掃除をし、その間に私がお茶の準備をする。
嬉しかった。
幸せだった。
 二人で過ごす最後の夏だから。
 高校卒業を期に離れ離れになる。
 私は遠い大学へ、一人暮らしを決めていた。
 ……ヒカリ。
 人生の半分を占めていると言っても過言ではない私の愛おしい半身。
 貴女の人生をことごとく私に合わせてもらってきた。
 遊びに行く場所、趣味に、高校の進路だって。
 貴女に決断させないでここまで来てしまった。
 それももう終わり。
 離れ離れになるのは寂しい。
 でも、これは必要なことだから。
「スイちゃん」
久しぶりに聞いた声。
 ヒカリの甘くか細い声が耳を触る。
 愛らしくて、他の子には聞かせたくなかった。
 夕陽を背に帰りのバスを待っているとヒカリが私の手を握っていた。恥ずかしそうに、不安そうに、私を見る姿に予感が走る。私の手にも力が入って。
 そしてヒカリが言う。
 
「やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな」
  ずっと冷えていた胸の中が熱くなる。
 それはずっと求めていた言葉だった。
 私だって本当は離れ離れになる決断なんてしたくない。
 ヒカリのことが好きだから、ずっと一緒にいたいと 思っている。
 だからヒカリさえ心の底から望んでくれればよかった。
 あの決断できないヒカリが、ここ一番の決断で私の側にいることを選ぶというのは。
 この夏の集大成に相応しく、感動的で。
   ―吐き気がするほどに私の思い通りだった。
 こんな意識がずっとあった。
『私はどこかで生まれ変わらないといけない』
 今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
 ……ついにここまで来てしまった。
 期待していなかったと、予感していなかったとは言わせない。
 離れ離れになることを告げながらも、邪魔の入らない場所で夏休み毎日一緒に会うようにし、手を繋いで私の存在を否応なしに意識させる。
そうやって情を植え付けて、私から離れがたくする。
離れたくないと私からは言わず、ヒカリに言わせる。
そうすることでヒカリはより私へ傾倒する。
私はヒカリと一緒に居ることを正当化できる。
『ヒカリが望むのだから仕方ない』
 これをコントロールしていないと誰に言えるのか。
 卑劣で、あまりに弱い。
 私はこんなことを望んでいなかったと思う心と裏腹に、『本当に起こってしまった』と恐怖した。
 これが私の本当は望んでいた光景。
 都合の良い、理想の光景。
 それを証明する一ヵ月だった。
             5
  ◆
   大した問題ではないのだ。
 人ひとりが心の中で抱えたものなんて。
  エアコンの二十八度とか二十七度とかって意味あったんだなって。無いよりマシなんてものじゃない、失ってから気づく涼しさ。真夏の室内のこもった空気がこんなにも最悪だったとは。
 うだるような暑さに萎える前に窓を開けて換気をし、準備室の掃除もほどほどに、我慢していた空調に手を伸ばす。遠慮なく二十五度に。
 涼しくなるまでは休憩だ。
 ギィと椅子を引いて座る。
 天井を見ると蛍光灯がぱちぱちと点滅していた。
 こういうのも取り替えていたんだろうか。取り替えていたんだろう、スイなら。
 雑然とした化学準備室。
 テーブルクロスがかけられた机はなくて、紅茶の香りもなくて、なにより彼女の姿がない。
全てが嘘だったように。
 なにもない。
 静かで、本当に静かで。
 本当に寂しい場所だった。
 それでも私はここにいた。
 別段、思い出らしい思い出もない。
 スイと過ごしたという場所でしかない。
 ただ宿題が終わっていなかっただけ。
 もう夏休み最終日だというのに。
 文章を書くだけなんだし、数日どころか数時間もあれば終わるだろうと思っていたそれは、いざ手をつけると想像以上に手強い代物だった。
 自分の気持ちを正確に文にする。
  頭の中にあるうちはあんなにも明白な形をしているのに現実に落とし込むと途端にズレが生じ、稚拙さが浮き彫りになる。
 それに嫌気が差してなにもしない時間も多くあった。
もう紙ヒコーキにして窓から飛ばしてしまおうかと思ったのも一度ではない。
 苦しくて、楽しくなくて、しんどくて、自分が嫌に  なって、それでも書く理由は―それでもなお、私にしかない伝えたいことがあるから。
  ……散々時間をかけた挙句、これかという気持ちはある。それでもこれが最善だと思うから、あとは自分を信じるだけ。
 終わった。
 これで本当に終わり。
 本当はもっと早く終わらせるはずだったけど、今と なってはどうでもいい。
 同時に夏の終わりだった。
 休みが明け、明日からは他の生徒もやって来ると思えば寂しくもなってくる。
 やれるだけのことはやろうと最後に廊下に寝っころがってみると相変わらず冷えた石の床は心地よく、両腕を広げて力を抜けば水面に浮かぶようだ。
でもかつてほどの爽快さはなかった。
見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
ただ、それだけ。
それもそうだ。誰かが見つけてくれる可能性がないそれは虚しいものでしかない。本当の孤独だ。
 だから幼い頃はどこだって良かった。
 どんな場所でも、どんな時間でも、貴女は。
『ヒカリちゃん、汚いよ、そんなところで』
 ……私はそれが嬉しかったんだ。
 そうやって私を見つけてくれて、手を差し伸べてくれる。私がどうしても起きない時は額に口づけをして優しく微笑んでくれる。
それだけで私は幸せだった。寂しくなくて、嬉しくて、他の子とうまく混ざり合えなくても平気だった。
 ほんとうに。
 ほんとうにね。
 貴女さえ、居てくれれば私はそれで―
  ◆
   帰り道。
 スイの家のポストに手紙を入れた。
 やってやった。
                                  6
  ◆
   ヒカリのことがどうしても嫌な時期がなかったわけではない。そんな時は他の子と遊ぶこともあった。
 それでもヒカリが校門で私を待っている姿を見ると。
『ごめん、先約があるから』
 ヒカリは私を見つけると子犬のように小さく駆け寄ってくる。
高校生にもなって校門で待つなんてやめてよ。
そう思わないでもない。 
足の遅いヒカリ。
走って置いていったらどうなるんだろう。
 その場で立ち尽くすのか、必死で追いかけるのか。
 ……でも私はそれを言いもしないし、やりもしない。
 きっと結果が見えてしまうから。
 内心では鬱陶しいと思いながらも本当に校門で待つことをやめたら、走って追いかけてくれなかったところを想像するだけで怖い。
 見たいけど見たくないもの。
 知りたいけど知りたくないもの。
 ヒカリはどこまで本気だろうって。
どこまで私に付いてきてくれるのだろうって。
どれほど私のことが好きなんだろうって。
貴女の本気を試してきた。
 『大学は別々のところに行こう』
 うんと頷かれたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
 『やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな』
 そう言われたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
 
―その答えは全てヒカリの手紙に書いてあった。
 
正直、手紙を発見したときは嬉しさよりも恐ろしさが勝っていた。
 ヒカリは何を書いたのだろう。
 罵倒の言葉だろうか。
 決別の言葉だろうか。
 蔑みの言葉だろうか。
 おそるおそる開いた先に書いてあったものは。
 たったの一言だった。
 『私に本気になってください』
  明日、ヒカリに言う言葉が決まった。
                           7
  ◆
   溜まった水が溢れ出る。
 それぞれが思い思いの場所へと流れていく。
 水かさは減っていき、私が最後の一人になった。
 水の底が渇いた大地へと変わり、私自身の姿が世界から浮彫りなる。
 ……ちっぽけだ、広い世界から見た私なんて。
 だからこそ私は私のままでいいんだと思う。
 校門で人を待つ気分はこういうものなのか。手持ちぶさたで、かといって携帯を弄ったり、本を読んでいたりするのも「なんでわざわざそんなところで?」と自分で思ってしまう。
 人目が気になるのでヒカリはよくやっていたなと思う。
 いつも通る場所なのに放課後の校門からぞろぞろと溢れ出て行く生徒の姿は新鮮で、学校が一つの閉鎖空間だということを改めて認識する。
 ヒカリは職員室にいるらしい。
 進路のことで先生に相談だとか。
 夏休みが明けての進路変更。
 先生からすれば怪訝なことだろう。
 でもヒカリは気にしない。本気だからそんな小さいことには気にならないのだろう。
 私の言うことを聞くとか、聞かないとか。
 人をコントロールするだの、しないだの。
 そういう小さい話には。
「ヒカリ」
 つい見逃すところだった。校門を通り過ぎようとしたヒカリが私の声に気づいて戻ってくる。
 いつものぼんやりとした態度にも見える。
 全てを悟った超然とした姿にも見える。
 そういう子だった、昔から。
 言いたいことは私からも一言だけ。
 私としてはさらりと告げたつもりだったけど。
「……この先もずっと私の側にいて」
 ヒカリはふっと笑って言った。
「年貢の納め時だね」
「……生意気いうな」
 そうして彼女の背中をはたくと笑い声が漏れた。
 いっぱい話したいことがある。
 他愛のない話から大事な話まで。
 ヒカリの名前が好きなこと。
 貴女に合っていること。
 そのことを今日は話そう。
 
 ◆
   全ての人が幸せになる解答は難しい。
 表を選べば裏を選べなくなるように、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。そういったシステムの上に成り立っている。
 そうした時に譲り合うのか、我を通すのか。
私は『気にしない』でいいんじゃないかと思う。
 どちらを選ぶにせよ、本気で選んだ以上は人の気持ちを介入させないでいい。本気が揺らいでしまうから。
私は十六年前から本気だった。
だから貴女が離れて欲しいと思えば離れるし、離れて欲しくないのを感じ取れば私は貴女から離れない。
それでも時折、振り回されるのは感じる。
だからこそ私がスイちゃんに望むことは一つ。
 結局はスイちゃんと同じ大学を目指してよくなったし、こうして仲直りもできた。
 でも一番大事なのは、あの一言。
『……この先もずっと私の側にいて』
 恥ずかしいからスイちゃんに完全な確認を取ったわけではないけれど、たぶん、いいんだよね。
 ……責任を、取ってくれるってことで。
 私の人生とスイちゃんの人生が今後も交わっていく。
 私が一番欲しかったもの。
幼い頃、そして昨日もお母さんに聞かれたこと。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
 私はいつものようにこう答えた。
『そしたらスイちゃんと結婚する』
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mashiroyami · 4 years
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Page 115 : 月影を追いつめて
 上空はネイティオ率いる鳥ポケモン達が隊列を組む。元々の群れを成して飛ぶ習性に加え、日々重ねてきたレースの訓練の成果が如実に表れ、整然と飛んでいる。  地上から追いかけるアラン達は歓楽街にほど近かった教会から離れ、湖の方角へと向かう道を走っていた。人が集中しているのは町の中心地から湖畔の自然公園へかけた大通りを中心としており、そこからは距離を置いている現在地においては人通りは未だ少ない。ポッポレースも既に始まっている。郊外で営む店も今日は朝からし��って、祭に精を出しているのだろう。閑散とした住宅地、家を出ていない住民もいるだろうが、人気のない道はゴーストタウンすら彷彿させる。  強くなりつつある日光を反射して、キリの町を象徴する白壁はますます輝きを増し、影は小さく濃くなっていく。  乾燥した石畳を駆けながら、ネイティオが右に曲がる。それを追って、アラン達は細い路地に入った。昨晩の雨の影響で湿り気が漂うが、とうに水溜まりは蒸発していた。  エーフィを先頭に縦に列が伸びる。間をアランが保ち、しんがりでエクトルが走る。短い路地を突き当たりまでやってきたところで、鳥ポケモン達は左へ舵を取った。 「こんなに大勢で向かって、ブラッキーは気付かないでしょうか」  道がまた広くなり併走に切り替えたエクトルに、息を切らしながらアランは横から声をかける。 「布石は打ってあります」 「布石?」 「ええ。それより、覚悟はできていますか」  アランは息を静かに荒げながら、沈黙し、頷く。  大人しくボールに収まってくれればいい。しかし、悪く転がれば、戦闘に縺れ込む可能性がある。エーフィの表情も、いつもの朗らかさは潜み、硬いものになっていた。そのエーフィの主要な攻撃技はサイコキネシス、悪タイプであるブラッキーに直接ダメージを与えられない。実質、現在の手持ちの一体として名を連ねているアメモースも本来であれば十分に渡り合えるだけの能力を持っているが、今戦闘の場に出したところで、自在に動けなければ満足に力を発揮できない。何より、アラン自身、バトルの経験が殆ど無い。 「戦闘になったら」アランは力強い眼差しを前に向けながら言う。「その時は……お願いします」  他に選択肢がない。エクトルが以前はポケモンバトルを生業としていたことを、アランは既に知っている。言質を取ったエクトルは首肯する。 「元よりそのつもりです」  可能ならば、穏便に済むに越したことはないが。  人前での戦闘には正直なところエクトルは躊躇いを抱いている。しかし、背に腹は代えられない。  行き違う人々の視線を無視して走るうち、ネイティオの速度が明らかに落ちる。  恐らく、近い。  やがて鳥ポケモンの群れが分散し、各々屋根や旗の紐に止まる。一部は大きく右に曲がっていき、建物の向こうへ姿を消した。  白色の住宅が並び花が微風に揺れるその場所の、建物の間を抜けていく道路。  ネイティオは地面に下りて、翼を広げる。目的地への到着を示しているのだろう。  アラン達は減速し、ネイティオに追いつくと、ゆっくりと立ち止まる。肩を上下させて息を切らしたアランは、熱い顔に滴る汗を手で拭った。  影が差した道には、誰一人、獣一匹とて、見えない。  道の途中や、向こう側に、ぽつんぽつんとマメパトやピジョンが点在し、待機している。挟み込んでいるのだ。  ヒノヤコマだけは道のまんなかに降り立ち、その背に乗ったフカマルも慎重に降りる。そして、彼は、誰かに声をかけるように、聞き慣れた親しげな温度の声をあげて、右手を挙げた。  現れる、どころではない。ネイティオはブラッキーの居場所を予知した。  エクトルがアランに目配せする。アランは深く頷き、鞄から真新しくなった空のモンスターボール――ブラッキーの入っていたもの――を握り、緊張するエーフィを傍に引き連れ、強張った足取りで歩みを進めた。  ブラックボックスに、手を入れる。  音を立てないようにして、アランは角を曲がり開けた道路に入った。  フカマルはそれ以上歩もうとはせず、アランを見やった。見上げた先のアランの表情は影になっている。ドラゴンの弱々しい鳴き声が虚しく落ちる。  半分は日光が差し込み、半分は建物の影となった道路の先、影になった方へ栗色の視線が向いた。 「……ブラッキー」  白い住居の間は元々あった建物を壊したのかぽっかりとした空き地となっていて、雑然と整えられた敷地内で黄色い輪が光っている。身体をもたげている奥は柵が設置されており、行き止まりとなっていた。気怠げな様子とは裏腹に、赤い瞳は鋭利に光っている。  フカマルの呼びかけに応えなかったブラッキーは、ラーナー達の来訪に気が付くと、おもむろに立ち上がる。  エーフィがか細く声をかけるが、返答しなかった。朱い眼の細い瞳孔が陽炎のようにふらふらと揺れながら、彼は体勢を低くした。明確な威嚇行為にフカマルも足を竦ませ、アランの背後に隠れ様子を覗う。  獣の小さな主は張り詰めた空気を吸い込んだ。表情に湛えるのは哀しみでも戸惑いでもなく、アランは静かにブラッキーと対峙した。この地点は分かれ道だろう。手元に握ったボールに戻るか否か。戦闘に踏み込むか否か。 「ブラッキー」もう一度呼びかけた。「ずっと苦しかったんだよね」  距離は三メートル弱。電光石火で瞬時に詰められる間合いである。エーフィにとっても、ブラッキーにとっても。その気になれば、一瞬で喉元に牙は届くだろう。 「体調が悪いことは知ってた。でも、どうしたらいいか解らなかった。私が、未熟だから……。……きっかけは、首都で、守るを使ったから?」  問いかけられたブラッキーは動かない。アランの言葉に耳を傾けているかも判断できない。  堅く握りしめているその手は、死を渇望する少年の命を此の世に縫い止めるために突き放し、そして反動をそのままに彼女は高層ビルの屋上から身を投げた。あの瞬間瞬間のうちに、自ら判断したことだった。ブラッキーは壁を伝って電光石火を繰り返し、あわや地上に激突する寸前で守るを発動し、全ての衝撃を相殺し、文字通り命を懸けて彼女を護り抜いた。  生き残った彼女は、そしてまた自分で選択し、首都から離れ、旅を共にしてきた仲間と袂を分けた。ブラッキーは、あの頃を境に、息も絶え絶え生きている主人に同調するように崩れていった。  アランは瞬きも殆どせずに暫く待った後、続ける。 「ブラッキーの考えていること、全部は、解ってあげられないけど」  零れる言葉もどれほど獣に届いているか。  アメモースをちゃんと見ろと、言葉が通じずとも理解しあえると、トレーナーの迷いはポケモンに伝わると、ザナトアは繰り返し説いてきた。今、アランの表情には怯えも惑いも無い。ブラッキーから目を逸らさない。ブラッキーの鋭い眼光をものともしていないように、受け止め、対話を試みる。 「ヤミカラスを殺したのはブラッキーの意志? でも、ブラッキーはそんなことをしない……普通だったら。もし、ブラッキーの望みでないなら、一緒に考えるよ、これからどうしていくべきか。……どうしてこうなったのか、わからないけど。お母さん達や、黒の団が関わっているのなら……今度こそ向き合う。一生懸命、考えるから」  す、と息を吸って、ボールを持たない左手を差し出した。  「きみを、守るから」  握手を求めるように、無防備な掌が開かれる。 「帰ってきて」  誰もが息を詰め、対話を見届ける。  この場にはエクトルやエーフィを含め、多くの生き物が集合している。しかし、今はアランとブラッキー、ただこの二つの存在のみが呼吸をしているかのようだった。たった一人と一匹だけの世界。町を彩る花も、清廉な白い風景も、眩くも儚い秋の青空も、どこかで沸き上がる歓喜も、静かなる祈りも、力強い羽ばたきも、波の弾ける音も、鳴き声も、泣き声も、何も干渉することはない。あるのは静寂である。強く引き合う糸が視線の間に結ばれ、たゆむことなく繋ぎ止める。緊張を解いた方が屈服する。互いに譲らず、時間ばかりが過ぎていく。  やがて、動いたのはブラッキーだった。  強い唸り声が返答となり、アランは唇を噛んだ。  すぐにエーフィがブラッキーとアランの間を切断するように前に出る。  黒き体躯がその場を弾いた。エーフィは身構え自らも電光石火で応対しようとしたが、紫紺の瞳はブラッキーの行く先が自分ではないと見切った。ブラッキーは黒い影から飛び出し、太陽の照る反対側の壁へ足を突いた。すぐにまた壁を蹴り上げ、身軽にも上へと向かう。地上を封鎖されたがため屋根を伝って逃げるつもりだ。上空に待機していた鳥ポケモン達は咄嗟に反応できず、あっさりと逃亡を許そうとした。  しかし、ブラッキーは逃げられなかった。  彼の後ろ足を何者かの手が握る。灰色の巨大な手が影から伸びるように現れ、ブラッキーの跳ぶ勢いを殺し、力尽くで引き戻したと思えば整地された地面へと叩き付けんとした。  最中、ブラッキーは空中でバランスを整え、地面に足をめり込ませながらも着地した。邪魔をされ苛立ちに満ちた瞳が空を捉えた。陽光に照らされて、影に身を潜めていた存在が明らかになる。赤い、炎のような一つ目がブラッキーを見下ろす。二メートルにも達する巨躯にはもう一つの顔を模した模様が描かれ、先ほど足を引き下ろした大きな掌をブラッキーに向け、おどろおどろしく空に漂う。 「下がっていてください」 「エクトルさん」  力の抜けたアランの隣に歩み出て、エクトルはブラッキーを睨む。  大人しく戻ってこなければ、恐らく戦闘に入る。それはアランも承知していたことであり、だからこそ対話は最後の可能性だった。かすかな願いが散ってしまえば、力尽くで引き戻す必要がある。ボールに無理矢理閉じ込めたところで、自力で脱出する術を得ているブラッキーには効果的な意味を成さない。捕獲の鉄則と同様、弱らせる必要がある。 「既に黒い眼差しを仕込んでいます」 「黒い眼差し……?」 「ヨノワールの技です。これでブラッキーは逃げられませんが、ボールに戻すこともできません。ブラッキーとヨノワールのどちらかが倒れるまでは」  突如影の中から姿を現したヨノワールも、彼のポケモンの一匹であった。エクトル達よりも先にブラッキーの元に向かわせ、とうに黒い眼差しを発動させてブラッキーが逃げないように監視させていた。  エクトルは右の人差し指を立て、小さく関節を曲げた。その仕草に吸い寄せられるように、鳥の形をした大きな影が彼等の真上を通り過ぎる。 「シャドーボール。ネイティオ、電磁波!」  指示を受けた霊獣、ヨノワールは素早く両手を合わせ、瞬時に禍々しい漆黒を掌の間に形成する。黒は深くなり、あっという間に球を成すと、ブラッキーに向けて放たれた。ブラッキーは素早い身のこなしで跳び上がり避けたが、その先を待ち構えていたようにネイティオは電撃を念力で作り上げ、空中で自在に避けようもないブラッキーを襲った。未来を視るネイティオには造作も無い予測である。狙いは的を射る。  シャドーボールが地面を抉り散った砂を含んだ風が巻き上がる最中、ばちんと痛烈な音を立てて火花が散り、月の獣は電撃を纏う。 「ブラッキー!」 「麻痺させただけです」  背中から地に落ちたブラッキーを見て思わず声をあげたアランの横で、エクトルは淡泊に言う。  シャドーボールの影響で薄い土煙が漂い微風に払われてゆく中、ブラッキーがよろめきながら立ち上がる様子をエクトルは観察する。  電磁波を受け、明らかに動きが鈍くなった。身体の筋肉が電気を浴びて痙攣し、動くにも痛みを伴っていることだろう。これで機動力��抑えられる。  エクトルの背後で、ネイティオの動きが鈍り、堪らず地上に降り立つ。おっかなびっくり見つめるフカマル同様、アランは目を瞬かせた。鳥獣の身体は、反射されたように電撃が迸っている。が、嘴が上下に動き、仕込んでいた小さな木の実を呑み込む。シンクロは想定範囲内、道連れは許さない。同調した麻痺はすぐに癒えていくだろう。  いくら祭で人が出ているとはいえ、住宅街で騒ぎを起こせば目立つ。ある程度戦闘で道を破壊しても適当に話を付ければどうとでも補修は効くが、住宅に及べば少々厄介なことになる。狭い立地では、ブラッキーやエーフィのような身軽なポケモンの方が有利な上、タイプ相性としても二匹ともブラッキーに対しては分が悪い。時間をかけるのは得策ではない。さっさと片を付けなければならない。 「気合い球!」  電磁波が強力な足枷となっている隙を狙う。  ヨノワールは再び両手を合わせ、今度は先程の黒く混沌としたシャドーボールとは裏腹に、白く輝く光球を造り出した。光は留まることなく輝きを増す。抱え込むような大きさまで膨らんだと同時に、赤い瞳が妖しく光り、ヨノワールの叫びと共に渾身の力で投球、黒い標的へと一直線に走る。ブラッキーは咄嗟に黒い衝撃波を自らの周囲に形成、発射した。悪の波動。黒白のエネルギーがぶつかったが、相殺とはならず、気合い球が波を切り裂いた。止まらぬ勢いに朱い眼は見開かれ、本能的に回避を試みた。が、身体に電気が迸り、地を滑る。筋肉は痙攣、黒い足が折れた。見守るアランは息を呑んだ。  剛速球はブラッキーに直撃し、先程より派手な音が路地を抜けて周囲へ及んでいく。  頭の高さを遙か超えて粉塵が舞い、アランは咄嗟に翳した腕をどけて、煙が晴れるのを待つ。エクトルも時を待つ。瀕死でなければ、すぐに追撃を指示するつもりでいた。しかし、当たってさえいれば効果的な一撃である。幾度の修羅場を乗り越えてきたブラッキーといえど、まともに喰らえばそれなりの深手を負わせられる。  が、風に煙が払われていくその中に、硝子のような煌めきが混ざっていることにエクトルは気付く。  煙が晴れる。  ブラッキーは地に伏しているどころか、四つ足でしっかりと立っていた。表情は険しいが、それは攻撃に対する純粋な嫌悪に過ぎない。ダメージを受けた形跡は無い。細かな輝きはアラン達の横を通り過ぎ、風に消えていった。 「……守る」  アランは呆然と呟いた。  エクトルは眉間を歪めた。  型破りな防御技は、生成に時間がかかる。連続すれば失敗しやすくなるとされるのは、いかに緻密で、巨大なエネルギーを消費する技であるかを物語る。ブラッキーは、気合い球を避けるつもりであったはずだ。それは彼の僅かな挙動が示し、そして電磁波による麻痺で阻害された。加えて悪の波動を放った直後で隙も出来ていた。そこまではエクトルの目は追えていた。あの瞬間、既に気合い球は彼の目前まで迫っていたはずだ。距離を置いているならまだしも、肉薄しようとしていた至近距離で、後出しの守るで防ぎきるか。  確かに訓練次第で技の精密性は上がるだろう。それにしても発動が速過ぎる。  エクトルが無意識に抱いていた油断を自覚したとも露知らず、ブラッキーは唸り声をあげる。細かく並んだ牙が顔を出した。月輪が輝きを増し、短い体毛を割って威嚇の毒が滲み出す。瞬く間に変容していき、禍々しい気配が彼の空気を支配した。  ブラッキーは完全にエクトル達を敵と見なした。  後方から見守っていたアランは表情を僅かに歪める。  僅かな動揺が隙となり、ブラッキーは瞬時に間を詰めた。電光石火で空に浮かぶヨノワールに襲いかかる。  しかし、その体当たりはヨノワールの身体を弾くことなく、そのまま何にも触れず通り抜けていった。充血した瞳が見開く。  電光石火はゴーストタイプには無効だ。トレーナーにとっては常識でも、ブラッキーには解らなかったか。判断力が低下しているのならばエクトルにとっては好都合である。 「もう一度気合い球! ネイティオ、怪しい風で援護しろ!」  戦闘の勘が鈍っていようと、相手のミスを逃す愚かな真似はしない。  二匹は通り抜けたブラッキーを振り返る。ネイティオは翼を大きく羽ばたかせ、紫紺に輝く突風を巻き起こした。強力だが、同じゴーストタイプのヨノワールにその風が影響することはない。またも空中で体勢を崩されたブラッキーに向け、ヨノワールは再び光球を育てる。  ブラッキーは音が聞こえてきそうなほどに歯を食い縛り、その足が向かい側の壁を捉えると、痺れる筋肉を酷使する。垂直落下する前に、足先に力を籠めた。再度、電光石火。ヨノワールに襲いかかる。  何故、とはエクトル、そしてアランも恐らくは考えただろう。まだ僅かしか形成していない気合い球に肉薄したところで然程威力を発揮しないが、それ以前にヨノワールに一撃を喰らわせるには電光石火では意味が無い。つい先程身を以て理解したはず。単調な攻撃。判断力が鈍っているのか。目にも止まらぬ速度でヨノワールに近付く。  直後、鈍い、破裂音のような奇怪な音が、ヨノワールから発された。  獣であり同時に霊体でもある奇怪な霊獣は、血の代わりに黒い靄を嘔吐して、低い呻き声を漏らした。  やはり擦り抜けてきたブラッキーに、ヨノワールの発する黒い靄と、それとは別種の黒い火花のような残滓を身体に迸らせて、着地した。  生まれて間もない気合い球は空に収束し、浮かび上がっていた巨体は力無く落下し、地に臥した。  冷たい沈黙が訪れ、やがて彼等は漸く呼吸を思い出した。  悪の波動はヨノワールに効果抜群。ブラッキーが悪タイプの技を持ち合わせている可能性は考慮していたが、ブラッキーは元来攻撃面に恵まれていない。対するヨノワールも自惚れではなく十分に鍛えてある。たった一発効果覿面な技を喰らったところで、耐えられる自信はあった。しかし、ヨノワールは倒れた。その理由の理解に至り、エクトルは顔色を変え、落下したヨノワールに駆け寄る。  ただの気絶に留まらない一撃であった恐れがあった。エクトルはすぐにヨノワールの顔を覗き確認する。意識を失っているものの、僅かに開いたヨノワールの瞳の最奥は赤い灯を失っていなかった。しかし、風が吹けば消えてしまいそうな蝋燭の火��ながら、あまりにも弱々しい。  電光石火は���ノワールを擦り抜ける。しかし、それを裏手にとり、彼は擦り抜けようとしたその瞬間、つまりはヨノワールの体内にあたる地点で、悪の波動を発した。  あらゆる外傷から守るために生物は身体の外側を皮膚などで覆い、その内側に張り巡らされた筋肉、血管や神経、更には内臓、繊細な器官を守る。が、守りとは外側に向けられたもの。鎧の奥、内部、守られるべきものに直接内側へ手を下せば、それは則ち急所である。  相性の不利は承知の上だったが、加えて、無防備な内側への直接攻撃。相性以前の問題である。ブラッキーに一切の躊躇は無かった。ヤミカラスを殺した事実、ポッポを殺したという可能性が急速に現実味を増し、エクトルの脳の芯は急速に冷えていく。  彼は的確に敵を殺そうとした。  逆立った体毛は更に刺々しく荒さを増し、ブラッキーは吠え、再び悪の波動を放とうと黒いエネルギー波を溜め込んだ。 「スピードスター!」 「エアスラッシュ!」  攻撃される前に、攻撃を打ち込む。考えたことは同じだったのだろう。観客に回っていたアランが堪えきれずエーフィに指示したのと、エクトルがネイティオに向け指示したのはほぼ同時。  躍り出たエーフィの額が赤く光り、輝く五芳星が素早く地上を走りブラッキーへ向かう。ネイティオも、力強く羽ばたきを繰り返し、見えぬ風の刃が無造作に地上へ叩き込まれた。  波形状の漆黒の波動は相殺される。しかし、全てを防ぐことは叶わない。波動は全域に渡り、周囲の壁や柵に炸裂した。破壊音が響く一方、衝撃を潜り抜けて五芒星が軽やかに滑空した。スピードスターは必中技。大きな威力こそ無いが、ブラッキーの体力を削る。その身に遂に打ち込まれた攻撃。が、ブラッキーは易々と耐え抜き、常時の彼とはあまりにかけ離れた劈いた声をあげた。  そして、赤い目は正面で険しく対峙したエーフィを捉え、すぐさま飛翔するネイティオに目標を切り替える。  強靱な脚力は、痺れていても衰えない。一直線にネイティオに飛びかかる。咄嗟にネイティオは風を起こし対応したが、ブラッキーが競り勝つ。  ブラッキーの前足がネイティオの身体を掴み取る。噴出する毒の汗が立てた爪を介してやわらかな鳥獣への侵入を試みる。小さく不安定な足場で、更に、その牙が露わになった。 「ブラッキー!!」  止まれ、と、制止を促すようにアランは叫んだが、ネイティオの胴体、翼の根元めがけてその牙が落とされようとした瞬間。 「振り落とせ! 電磁波!」  俊敏にエクトルの指示が入り、ネイティオはアクロバティックに頭から落ちるように急降下、ブラッキーの体勢が瞬時に崩れ、地上すれすれの位置で超至近距離で電撃が再び弾けた。無論、ブラッキーは既に麻痺している。が、強力な静電気で反射的に指先が仰け反る様と同様、ブラッキーの身体は強制的に弾かれ、地面に激しく打ち付けられた。  その地点、アラン達から僅か一メートルすら無い。あまりに近い場所でアランとブラッキーの視線が堅く交差する。一瞬の衝突である。  ヨノワールが倒れたことで、黒い眼差しによるしがらみから彼は解放された。自由となった足で蹴り出すと、アラン達の来た道を辿る。丁字路を右へ曲がっていき、逃亡を許した。 「追いかけますよ」  立ち竦むアランの腕を無理矢理掴み、走るように促す。息絶え絶えであったヨノワールは既にダークボールに戻していた。我を取り戻したアランは、流されるままに頷いた。  鳥ポケモン達は既にその場を飛び立ち、ネイティオも羽ばたき、先行してブラッキーを追っている。最も足が鈍いフカマルは、エーフィがサイコキネシスで運び、一同はブラッキーの後を辿った。 「広い場所へ誘導しましょう」  エクトルの提案に、アランは目をやった。 「こうも狭い場所では満足に戦えません。逃げ場所が増えるリスクはありますが、見通しが良ければ追うのも簡単です」 「広い場所って、どこに?」 「湖畔に向かわせます」  言いながら、エクトルはスーツの下で手首に巻いているポケギアを操作した。 「でも、今は祭が!」 「祭は自然公園と大通り沿いが中心です。湖畔の領域全てが使われるわけではありません。通行規制して、人が入らないようにします。このまままっすぐの方角へ向かえばいずれ湖畔に着きますが、できるだけ東の方へ……」  ポケギアのスピーカーから、通話音が入る。簡単に言ってのけるが、クヴルールの権力を振りかざしている。が、この際職権乱用と刺されても構わないだろう。錯乱状態に陥っているブラッキーを放置しておく方が余程危険だ。緊急事態だと適当に御託を並べて人員を用意させた。祭を滞り無く終わらせることが本日の最重要事項であるのだから、秋季祭に良からぬ影響を与える可能性があるとご託を並べればひとまずは動くはずだ。  走りながら通話し始め準備を進めるエクトルの横で、アランは暫し考え、速度を落とし、後方で浮かんでいるフカマルと目を合わせた。 「フカマル」  真剣な眼差しに、フカマルは目を丸くした。 「ヒノヤコマ達に伝えてきてほしいことがある。……お願いできる?」  まだ幼い彼にどこまで人語が理解できるか。しかし、話しながら、首を傾げていると、エーフィが通訳をするように彼等の間に挟まった。 「いける?」  なにも難しい指示ではない。フカマルは頷き、エーフィはサイコキネシスで一気に彼を上昇させる。  サイコキネシスによる浮遊も当初こそ慣れぬ様子であったが、今はなんの抵抗も無く受け入れている。無為に身体を動かすことなくエーフィに委ね、彼はヒノヤコマ達に声をかけ、その背中に乗った。その先で、アランの指示を伝えているのだろう。直後、彼等は左右に分かれ、速度を上げた。  エクトルはポケギアの通話を切った。 「何を指示されたんですか」 「逃げる場所を一つに絞らせます。湖畔に誘導するために」  キリの町は縦横無尽に路が張り巡らされている。逃げようと思えばいくらでも路地を曲がり行方を眩ませられるだろう。しかし、曲がろうとする場所に、先んじて鳥ポケモン達を配置し、それを繰り返す。背後からはアラン達が追いかける。誘導したい先を敢えて空けておく。  今のブラッキーの状態では、野生でまともに育てられても居ない鳥ポケモンなど驚異でもなく、阻んだところで躊躇無く突破される可能性もある。成功するかは別だが、打つべき手は打っておくに越したことはない。エクトルは納得したように頷き、上空を仰いだ。 「ネイティオ、シンクロでサポートを」  端的な指示を受けて、ネイティオは加速する。未来を予測する眼と、他者に同調する特性、そして元来持ち合わせている念力。司令塔としての役割である。目に見えぬ力が空を伝い鳥獣の間でネットワークを形成し、ブラッキーに対する包囲網を強化する。  アランは、ただ前を見て、直走る。  以前、彼女はこの策に捕まったことがある。  あの時、無垢な少女は今のブラッキーの立ち位���にいた。迫る殺意から逃げるために、暗い水の町の路地を、混乱を整理しきれずにただ逃げるために走っていた。その先が行き止まりとも知らずに。  果たして、この逃亡劇の先に何があるのか。  まだ遠くの視界には黒い月影が見える。曲がっても、鳥ポケモン達を信じ同じ道を辿り、湖畔の方へ向けば、またその尾が見える。真昼に輝く白の中で、黒い姿はよく映えた。結果的に、ネイティオの放った電磁波がブラッキーに与えた技の内最大の功績と言えるだろう。明らかに動きは鈍くなっている。  花や旗で彩られた華やかな白い道を疾駆する。道程で秋季祭の中心地から逸れた、或いは向かう途中である人間と擦れ違い、そのたび何事かと怪訝な表情が向けられるが、構っている暇などない。  エクトルは腰のベルトに付けたボールのことを考える。再起不能であるヨノワールは言うまでも無くもう使えない。ネイティオは健在だが決定的な攻撃を浴びせるには役不足だ。彼が携えているボールは、全部で三つ。残りは一匹。 「ブラッキーの技は、守ると、悪の波動、電光石火、他には?」  走りながら尋ねる。息を切らしながら、アランは足がもつれないように答える。 「月の光です」 「回復技ですか」  長期戦は不利になる。瞬時に発動できる守るが最も厄介だ。  ブラッキーに会うまでの顔つきより、ずっと冷たく、鋭利なものになっているエクトルを、アランはじっと、洞の広がったような瞳で見つめていた。
 長く白い路地を抜けて、先にブラッキーにとっての視界が一挙に開ける。  僅かな雲すら見えぬ、一面の青。夏空に彩度は及ばずとも、まるで穢れを知らぬ高みは、地上の生き物たちの目を奪う。  彼の背後からはすぐに追っ手が迫っている。上空は鳥ポケモン達が、地上は彼のよく知る人間と相棒が来る。  道路を跨いだ無効の湖畔を沿う堤防へ、その場所はなだらかな坂となっており、コンクリートの道路と地続きの芝生が敷かれた僅かな坂を上れば、中央の自然公園からずっと伸びている柵が湖と地上を分かつ小高い空間となっている。  迅速な通行規制が間に合ったのか、道路を車が走ってくる気配は無く、人払いが成されている。先だってはこの場所にも人が並び、ポッポレースで湖畔に散ったチェックポイントを渡りゆく鳥ポケモン達を応援していたものだった。レースは終盤へ移ろうとしているのか、縦に伸びた様々な翼が遠景でそれぞれ堂々と羽ばたいていた。彼方で行われている楽しい祭の軌跡である。通過点として既に役割を果たした地点を人々は後にし、エクトルの根回しで此の場所には他に入れないようになっている。  広い場所は、しかし隠れるところが無い。姿形が全て太陽のもとに晒され、ブラッキーは歯を食いしばった。  道路の中央部に立ち尽くしたブラッキーに、汗を散らして走ってきたアラン達が追いつく。遂に動きを止めたブラッキーを見て、エクトルは最後の一匹を閉じ込めたハイパーボールに一言呟くと、躊躇わずに投擲した。  吉日に相応しい雲一つ無い晴れやかな空に向け高々と上がった一擲。真っ二つに割れた中から、白い光が飛び出し、ブラッキーの前にその姿を瞬時に形成する。  咄嗟に間合いをとり警戒するブラッキーと、アラン達の間に降り立った獣。青く光る鱗に覆われた身体に朱色の腹を抱き、両手の先には鋭利な牙のような立派な爪を生やしている。二つ足で立つ様は細くしなやかな印象を抱かせるが、身体を支える太股や巨大な尾は強靱な肉体を主張する。  濃紺のドラゴンは、柔い羽がその場に落ちるように静かな立ち居振る舞いで姿を現した。 「ガブリアス……」  激しい息づかいをしながら、呆然とアランは呟いた。  上空で、ヒノヤコマに乗ったフカマルが、ぱかんと口を開けてガブリアスを見下ろす。  チルタリスとガブリアスの間に生まれた子供だと、小さなドラゴンの父親が永眠する墓前でザナトアは語った。  母親は子供には気付いていない。最終進化形まで逞しく育てられた勇ましいドラゴンは、一点のみ、目の前で威嚇するブラッキーのみを揺るがずに捉える。数多の群を抜いて気高く生きる種族に相応しい、清閑で、どこまでも冷たい眼差しで。  相手から視線を逸らさず、耳だけは彼女がこの世で唯一認める主人の声を待つ。  息を整え、堅く結んでいたエクトルの唇が動く。 「行け」  ごく短い指示が、氷のような温度で伝わり、ガブリアスの枷が外された。  スレンダーな巨躯が沈黙を叩き割り、直線上に立つブラッキーに接近した。身体に合わぬ速度は、ブラッキー達の電光石火の瞬発力にこそ劣っても、虚を突くには充分な効果を果たす。  振り上げられた爪の軌道を読んで、ブラッキーはその場を跳んだ。ブラッキーの居た地点めがけて叩き付けられた爪の一撃が、まるでいとも簡単にコンクリートの舗装を抉って、アランは目を見開き、額に汗が滲んだ。あれは果たして技か、ガブリアスの筋力がものを言わせたか。いずれにせよ、あの爪がブラッキーに突き刺されば只で済むはずがない。  空中でブラッキーは歯を食いしばり、崩れた体勢のまま悪の波動を放つ。禍々しい波及攻撃が至近距離のガブリアスを攻撃するが、硬い鱗に覆われたドラゴンは狼狽える様子すら見せない。羽虫でも当たったように何事も無く跳ね返し、直後にはブラッキーの傍まで跳び上がっていた。  横一直線に蒼き一閃。硬質な翼が黒い体躯を襲う。  同時に、咄嗟の判断だったのだろう、ブラッキーはすぐさま守るを発動。まばたきと同じリズムで、両者の間に煌めく壁を瞬時に形成した。切り裂くガブリアスの攻撃は阻まれたが、まさしく煌めくエネルギーの硝子が木っ端微塵に粉砕される音と共に、絶対守備のエネルギーは瓦解した。  ブラッキーは激しく後方へ転がりながら、形勢を立て直す。防御の反動で揺らいだドラゴンの隙を逃すまいと、顔を上げた。硬質な竜の鱗は全身を覆う。しかし、ガブリアスにも急所は存在する。狙うは首元。渾身の電光石火を叩き込んだ。  顎へ急接近した一撃は脳を震わせる。ドラゴンの頭は堪らず仰け反ったが、頑丈な足は揺れない。脳天への衝撃を押し殺す。紺の影が回転、長い尾が襲い掛かり、接近したブラッキーに脇から一撃喰らわせた。骨を切らせて肉を断つとでも言わんばかりに。重い一打。ブラッキーのやわらかな身体が空を舞った。 「剣の舞。ネイティオ、追い風を起こせ」  激しい転倒の最中、エクトルから技の指示が下される。  麻痺の残る身体を震えながら起こした頃には、飛翔を続け静閑していたネイティオが激しい風を巻き起こす。ブラッキーは目を細めた。強い風が正面から彼の動きを阻む。逆に援護されたガブリアスは自身で編んだ剣の波動を呑み込んでいた。次いで、鱗の下で筋肉が盛り上がり、地面を蹴り抜いた。  その足元から、亀裂を模した光が地面を這う。  周囲が揺れた、と思うと、突き上げるような激しい縦揺れの激動が大地を伝った。広範囲の攻撃はアラン達にも影響、とても立っていられず倒れ込んだ。  地を伝う衝撃はブラッキーを逃さない。裂いた地面に足下を呑み込まれる。 「逆鱗!」  冷めた瞳に、激しい炎が点火した。  それまで僅かな声も漏らさなかったガブリアスの、全てを声で薙ぎ倒すような鋭い咆哮が劈いた。風が、空気が震え、コンクリートの向こう側にある青々とした穏やかな草原が仰け反った。罅の入った道をガブリアスは疾駆する。蹴り上げた先から一気に加速。背後から追い風を受けたその速度はブラッキーの電光石火にすら迫る。地震で足場を崩されたブラッキーは防戦に持ち込む他無かった。またも、彼の目前で透いた壁が輝く。彼の身体に巡る獣の力を空に編んで、激情するドラゴンの頭から突進を受け止めた。二匹の間が弾けたが、凶暴化したガブリアスは隙を見せず地を蹴る。接近、右腕が振り上げられた。再度守るを発動、中心を穿たれ、空に放たれる破裂音。ガブリアスは、止まらない。三度目、反対側の爪がすぐさま繰り出される。それも、守る壁が跳ね返した。  五回分は超えている、とエクトルは静かに思う。  あのブラッキーがどれほど守るを使い続けられるかは不明だ。しかし、いずれ技を編み出す力は必ず底を突く。精密かつ強力であるほど、集中力も尋常でなく削られる。自我を失っているように見えて、ブラッキーの行動は的確だ。だが思考がぶれれば隙は必ず生まれる。電磁波による麻痺は確実にブラッキーを蝕み、ガブリアスは追い風を受けてますます加速する。剣の舞の効果は後に引くほど効くだろう。とめどなく攻撃を続けていれば必ず折れる。そうなれば後はドミノ倒しの如く落とせる。確実に。  振り落とした二対の爪を、今度は突き上げる。黒獣の腹へ入れ込む衝撃。竜の業火は跡形も無く燃やし尽くさんと肥大化していく。加熱してゆく威力そのまま、ブラッキーは遂に攻撃を許した。黒い影が、空へ放り上げられた、その過程に血が踊った。  アランは、歯を食い縛った。隣でエーフィが、彼女を見た。戸惑いの視線であった。  血の色をした双眸いっぱいに、ガブリアスの姿が容赦無く映り込んだ。鬼の形相の竜に、ブラッキーの顔が強張った。  縦に回転。  止まらぬ激昂をそのまま体現した、硬質な尾がブラッキーの身体を捉えた。  次瞬、地面に再び衝撃。一瞬で直下していったブラッキーを中心に、先程の地震で傷ついた道路が窪んで、高い噴煙が上がる。しかし、ガブリアスには煙など目眩ましにもならない。すぐに追いかけ、直下に飛ぶ翼が煙をその過程で払っていって、中心に倒れる無防備にブラッキーに向け、上空からの加速をそのまま爪に乗せるような、攻撃が突き刺さった。躊躇なく、突き刺さって、彼のしなやかな体躯を抉った。串刺しになったブラッキーが悲鳴を上げる間もなく、すぐに引き抜かれると同時に月の獣の身体が浮き、固い翼を持つ腕がすぐに追随する。横に殴った勢いでぼろきれのようにブラッキーはなすすべもなく荒れた芝生に叩き付けられた。真っ赤な飛沫をアランは見た。エーフィも見て、そしてその場にいる全てのポケモン達が圧倒されて硬直していた。つい数日前まで、育て屋で戯れていた獣が瀕死に追いやられていく過程に誰もが震え、怯えた。ただ一人、それを指示するエクトルを除いて。  とどめだと、トレーナーは声にこそしなかったが、冷酷な視線はガブリアスに制止をかけなかった。  駆け上がる逆鱗。  止まらない激情。  意識が果たして残されているかすら危ういブラッキーに、ガブリアスが肉薄した。熱い返り血を浴びて刺激されたドラゴンの目は狂気に支配されたまま。捉えるは動かない的となった獲物ただ一つ。赤い、ブラッキーの血肉に濡れた爪が振り上げられた。 「サイコキネシス!!」  静観していたエクトルが、叫んだアランを見た。  エスパー技は直接ブラッキーには通じない。彼女の指示の意図は、詳細を伝えずとも、隣のエーフィにぴったりと通じていた。指差した先、まっすぐにドラゴンを射貫く。  黒い土煙の中心で、ガブリアスが硬直した。強力なサイコキネシスがドラゴンの動きを封じている。  しかし、卓越した念力を操るエーフィでも、ガブリアスの動きを完全に止めるには強い集中力を要した。逆鱗で我を失いかけている竜を抑えるのは容易ではない。激しい抵抗を無理矢理抑え込んでいるのだろう、普段は涼やかなエーフィの表情が険しく歪む。 「……何故?」  エクトルは素直に疑問を投げかけた。  アランは、苦虫を噛んだような表情を浮かべていた。 「戦闘になれば任せると言ったのは貴方でしょう。貴方は何もしなくていい」  烈火の如き戦闘を前にしてもエクトルは何も感じていないかのようだった。何も感じず、何の疑いもなく、制御すべき義務を放棄し、ただ���見ている。ブラッキーが刻まれていく様を。 「ブラッキーを、殺すつもりですか」  予感ではなく確信であろう。氷のような沈黙が両者の間に流れた。  エクトルに動揺は一切無い。冷え切った表情が、彼の抱えた意志を物語る。 「何を仰いますか。ブラッキーを弱らせる必要があるのは、貴方も解っていたでしょう」 「弱らせるなんてレベルでは、ないです」 「貴方が気にされることではありません」 「誤魔化さないでください……お願いですから」  アランは苦く懇願する。震える肌。恐怖を浮かべながら、必死の抵抗を見せていた。  暫しの沈黙を挟み、諦めたように、エクトルは長い溜息を吐いた。 「あのブラッキーは、貴方の手に負えるものじゃありません」 「……」 「理性を失い、衝動のままに周囲を破壊する……ヤミカラスはその片鱗に過ぎません。ヨノワールも運が悪ければ即死でした。あの獣を手元に戻して、制御できるとお思いですか。未熟な貴方には到底無理です」 「だから」絞り出すようにアランは抵抗した。「だから……殺すと」 「時に、その方が彼等にとっても安楽です。大きすぎる力はポケモンもトレーナーも滅ぼします。これは貴方のためでもあります。どういった経緯かは存じませんが、あの異常な力の捻出、自我の喪失、戦闘への執着……あそこまでいけば、元のようには戻れない」 「どうして、エクトルさんがそう言い切れるんですか」  問いながらも、すぐに言葉を変えた。 「いえ……エクトルさんも、知っているんですね」  何を、とは言わなかった。  エクトルは幾度も重ねた思考をまた浮かべた。果たして、こんな子供だっただろうか。こんなにも疑い、真実を見抜こうとする目をしていただろうか。このキリの町に戻ってきて、彼女は変化し続けている。それとも、元々そういう人間だったのか。 「貴方も、見たことがあると?」  エクトルは、努めて冷静に返す。  彼女が内包している、純粋な怒りが眩しい。  きっと嘗ては自分もこんな怒りを心に秘めていた。ポケモンに自ら手を下すなど、考えもしなかった。いや、下しているのは正しく言えばガブリアス達だった。望郷の地に残してきた者達は知らぬ間にみな死んだ。この手は直接命の重さを知らない。 「あります。よく似た、ザングースを」  アランは僅かに震えた声で応えた。  エクトルは沈黙し、この奇怪な引き合わせを呪いのように思った。二人が抱く、決して交わらないはずの記憶が、遠からぬ場所でよく似た色を帯びる。 「ブラッキーは」深い洞を抱えた黒い瞳は、栗色の中に燃える魂を見た。「数多死んでいったネイティオと酷似しています」 「ネイティオ……」 「噺人の不在を埋めるために、代わりとなるネイティオは能力を極限まで引き上げる必要がありました。その過程、耐えられない個体は数知れなかった。ブラッキーはそれによく似ている。いずれ己の力に潰され自滅します」  アランは刹那、絶句する。 「……でも、だからって、ブラッキーを殺していいとは繋がりません」 「そうですね。貴方は正しい」  エクトルはすんなりと静かに頷く。 「しかし、貴方の正しさが、他にとっての正しさでもあるとは限りません。貴方の甘さはブラッキーに余計な苦しみを与えます」諭すように言う。「それでいいのですか?」  エクトルの脳裏に、自我を持たぬうちに死んでゆくネイティの姿が浮かんでは消え、自らの力に溺れ脳が停止したネイティオ達の姿が浮かんでは消えた。黙って見つめている自分がいた。  アランは首を横に振る。 「死が救いなんて、そんな悲しいこと、あるべきじゃないです」  耐え抜くように両の拳を握った。掌で爪が深く食い込み、その痛みを支えにして、顔を上げる。 「もう誰も失いたくないんです。私は、確かに甘くて、未熟です……だからこうなってしまったけど、だったら! 強くなります。トレーナーとして強くなって、ブラッキーを救う方法を探します! だから……もっと、こんなことじゃなくて、もっと違う方法があるはずです……!」 「甘いです」  断言し、聞く耳を持たないエクトルはガブリアスとブラッキーを見やった。  良くも悪くも、未来を信じている者の言葉。まだ、未来がずっと先まで続いていくと信じている子供の言葉。眩くて、空疎で、無力で、自らに未来を突き動かす力があると過信する傲慢を抱いている。  恨まれるだろう。そんなことは今更だ。既に失うものなど何も無い。 「ガブリアス、躊躇うな!」  エクトルが叫ぶと、ガブリアスの鋭い咆哮が拮抗を叩き割った。  周囲にいる誰もがドラゴンを凝視した。遂にサイコキネシスによる束縛を無理矢理解いた。根負けしたエーフィが、アランの隣で足を折り、か細い声で鳴いた。まるで、ブラッキーを切実に呼ぶように。  アランは、本来であれば切ることのないカードに手を出した。アランに、エーフィに呼応するように揺れていたモンスターボールを乱暴に掴み、願うように、祈るように、戦場に向け投擲した。太陽の下、翅を失ったアメモースが躍り出た。アランは叫んだ。アメモースも叫んだ。戸惑わず、躊躇わず、嘗てフラネの町でがむしゃらに放った銀色の風を、やはりがむしゃらに三枚の翅で巻き起こした。明確な意志をもって、抗うために。乱れた風はアメモース自身が空でバランスを失い地に落ちるまで続いた。だが、所詮、不完全な技はガブリアスを止めるには遠く及ばない。悪あがきにガブリアスはびくともしなかった。アメモースは自身の無力を呪っただろう。それでもまた立ち上がろうとして、しかし覚束ない動きしかできなかった。  逆鱗で直情的になったガブリアスは、怒りを、エーフィでもアメモースでもなく、すぐ傍で倒れ込んで動かないブラッキーに向けた。既に月の獣は虫の息だった。広がる血溜りの温もりと太陽の温もりの混ざった場所で、細くなった赤い瞳は振り下ろされようとする鋭い爪の軌道をぼんやりと見つめていた。  止められない。  アランが悲鳴をあげようとした瞬間、上空から、鋭くも幼い叫び声が跳び込んできた。  ガブリアスめがけて、ヒノヤコマが一気に下降する。その背に乗るフカマルが、叫び声をあげながら、ふと声に引き寄せられたように目線を動かしたガブリアスに向け、跳び込んだ。  小さなドラゴンの渾身の頭突きが、ガブリアスの頭にクリーンヒットし、頭蓋が激突した形にへこんだと錯覚するような、鈍い音がした。  小柄な体躯にその衝撃は足先まで響いただろう。ぶつかりにいった小さい獣は目を回し頭を抱えたが、ふらついた足取りで立ち上がった。ガブリアスの方といえば、幼稚な頭突き程度で倒れるほど柔ではない。鋭い視線がフカマルに推移した。  睨み付けられたフカマルは、一瞬硬直したが、めげずに今一度体当たりを仕掛ける。同時に、ヒノヤコマが遅れて、翼をガブリアスに鋭く見舞う。  ガブリアスと比較してしまえば取るに足らない、鍛えられてもいない野生ポケモン達が、一斉にガブリアスに向けて攻撃を始めた。上空に残るピジョン達が殆ど同時に翼を激しく羽ばたかせ、大きな風を起こした。  その風はガブリアス周辺に留まらず、後方に下がっているアラン達も激しく揺らす。  しかし、激しい砂嵐の中でも自由自在に動き回るというガブリアスは、すぐにその激しい風起こしに順応する。苛立ちが勝ったのか、上空に視線が動いた。ブラッキーをいとも簡単にねじ伏せたドラゴンの強さを目の当たりにし恐怖に竦んでいたポケモン達だが、怯まない。ガブリアスが跳躍しようとしたところを、すかさずフカマルがその左脚に必死にしがみついた。少しでも縫い留めようと。凶暴な金の瞳がフカマルを射貫き、左の翼が太陽を反射して鋭く鱗が光る。 「止まれ!!」  暴風を突き抜ける、遂にかけられた制止の指示に、ガブリアスの動きが止まった。  爪がフカマルに、あとほんの少しで突き刺さるという、その寸前。すぐ傍まで迫った脅威にフカマルは腰を抜かし、座りこんだ。  アランは咄嗟にエクトルを見た。男の顔に、狼狽が窺えた。  ガブリアスを止めて再び生じた沈黙。ブラッキーが力を振り絞るように起き上がると、すぐに硬直したガブリアスのみぞおちめがけて体当たりを仕掛けた。意識は既に朦朧としているだろう。爪の立てられた場所から絶えない流血を抱いたまま放った一撃。僅かに揺らいだドラゴンの足下。その隙を縫って、ブラッキーは逃げようとした。不安定な走りで、方向感覚も失われながら、アランやエーフィからは離れるように、つまりは湖面へ。  ゆるやかな坂を駆け上がるその瞬間は、電光石火でそのまま止まれないかのように一気に上がる。鮮血が芝生に落ちて道筋を作る。  誰もが、ブラッキーの行動に目を奪われた。  高くなった柵の向こうに、黒い身体が消えて、激しい水飛沫の音が代わりに響いた。  声をあげる間も無く、彼等は走った。すぐに柵までやってくると、穏やかな湖に小さな飛沫が上がっている。赤い染みが穏やかな青に混ざり、抵抗もできずにブラッキーは必死に空気を吸い込まんと頭だけは出そうと藻掻いているが、瞬く間にその気力も失われていく。  溺れる。そう思ったエクトルの傍。  鞄をかなぐり捨てて、躊躇無く柵を跳び越えた、アランの姿が、はっきりと、エクトルの視界に焼き付いた。  栗色の瞳はただ一点、ブラッキーだけを見ていた。手を柵にかけて軽やかに越えると、脚からそのまま湖面へと吸い込まれていく。  二度目の激しい飛沫が高く突き上がる。 「な」  驚愕するエクトルを余所に、青に沈んだアランはすぐに浮上し、藻掻くブラッキーに向かって、みるみるうちに重くなっていく身体を引き摺るように泳いでいった。 「ブラッキー!」  獣に向けて手を伸ばす。ブラッキーの前脚に彼女の腕が掴まると、一気に引き寄せる。再び触れることは待望であった。その黒獣の身体は水に溶けながらも厭な臭いを放ち、微かな滑りけを含んでいた。傷から溢れる血液も、体外に放出された毒も止まらない。 「大丈夫――大丈夫!」  打ち付けるような水が口内に入ってきながらも、アランはブラッキーに呼びかける。しかし、ブラッキーは劈く叫び声をあげた。 「大丈夫! ブラッキー、落ち着いて!」  猛る黒獣をアランは強く抱き寄せた。その身体に、隠された爪が立ち、彼女の耳元でブラッキーは奇声をあげた。掴まりながらも、息も絶え絶えであったはずの身体のどこにその力が眠っているというのか。これではモンスターボールに戻したとて繰り返すだけだ。必死に宥めるアランを突き放そうとするように暴れ回る。激しい飛沫が一心不乱に暴れ回る。 「ブラッキー!!」  抑え込み自我を蘇らせようともう一度叫んだ、その瞬間、肩越しにブラッキーの口が大きく開き並ぶ牙が外に露わとなった。彼の視界が、アランの首元を捉えていた。その瞬間を、アランもほんの目と鼻の先で直視した。  エーフィの悲鳴が湖畔を劈いた。 < index >
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kachoushi · 3 years
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各地句会報
花鳥誌 令和4年3月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和3年12月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
しとしとと雨しとしとと冬近し 喜代子 護りうけ思ひ絡まる毛糸編む さとみ 冬河や網打つ人は何を漁る 都 冬怒濤雄島は人を寄せ付けず 同 寂聴の過去は激しく榾燃える 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月2日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
秋風や消えゆく物にますほ貝 雪 蓑虫の纏へる物の哀れさよ 同 亡き友の顔をかぞへて師走かな 匠 裘かくしに去年の映画の券 同 なんとなく交はす言葉にある師走 かづを こころして願掛けをせむ神還り 数幸 恋多き尼の死悼む歳の暮れ 清女 仲よしの三人の婆おでん酒 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
枯葉積む蝶のむくろを嵩として はるか 乃木将軍の墓ひとりぼち冬の蠅 佑天 枯葉舞ふ異人の墓は仰向けに 伊豫 赤信号ぬるき懐炉は胸の奥 ゆう子 冬霞あふひの墓の見つからず 佑天 黄落にころんと転び笑ひをり 久 坊城雀冬晴を祓ひに来 順子 十字墓影を寝かせて冬ぬくし 秋尚 冬の日に白装束の透きとほる きみよ
岡田順子選 特選句
百度石在らば祈らむ冬空に 炳子 墓一つ極月一つあるごとし 伊豫 冬晴や絵画館やや浮かみたり 佑天 塋域は枯野とならむ魂の黙 ゆう子 元勲の墓冬帝の貌をして 俊樹 極月の指墓碑銘を愛しみ 千種 冬晴や虚子の見守る墓一基 三郎 懐旧の情とは極月の男 千種 抱擁すマリアは寒き手を拡げ 俊樹 蝶も無き冬の墓標となりしかな 同 けふあたり上へと魂の日向ぼこ 慶月
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
面影山に半襟掛けて時雨虹 美智子 冬ぬくし赤子を丸く抱いてをり 栄子 冬ざれや修築の碑は沖を見て すみ子 ざらざらの風紋壁画冬日吸ふ 悦子 色鳥の木戸を飾りて飛び去りぬ 宇太郎 黄落の色に染まりて町の風 和子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月11日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
冬日落つ老いのひと日の終りけり 独舟 ペーチカやレコード針の飛ぶところ 晶子 君知るや時空を超える除夜の鐘 同 悴みて錠剤一つ転がりぬ 寛子 樽前山を背負ひ堂々たる雄鹿 のりこ 魔女の口笛かも知れぬ虎落笛 岬月 天空の乱れし夜の虎落笛 同 クロークに寒さ預けて席に着く 同 恋心捨てしを叱咤虎落笛 同 五稜郭兵を鎮める雪しきり 雅春 冬虹を翔け上らんと鳥一羽 同 榾爆ぜる音にも温みありにけり 慧子 故郷は遠し一夜の雪二尺 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月11日 ますかた句会 栗林圭魚選 特選句
みちしるべなき分かれ径枇杷の花 秋尚 中子師と歩みし坂ぞ枇杷の花 三無 杉樽に醤油の香り枇杷の花 ゆう子 新聞の折り目ずれなく漱石忌 同 枇杷の花不穏なること無き日々よ 同 布団干す母手作りの重さかな 多美女 立ち止まり見る人もなく枇杷の花 白陶 いぶかりつ人恋ふ猫や漱石忌 百合子 烏瓜色仕上りて句碑頭上 三無 日を回しながらゆつくり紅葉散る 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月13日 武生花鳥俳句会(十二月十三日) 坊城俊樹選 特選句
色鳥の風と光に遊びをり 中山昭子 色足袋をはいていよいよ籠りけり 上嶋昭子 落つるもの大地に還し山眠る みす枝 一灯のともる社や神の留守 英美子 極月にして捨つるべきもの何もなし 世詩明 冬麗やこの郷土にて生かさるる 信子 吾町に煙突のなきクリスマス ただし 時雨るるや振子時計の重き音 信子 天界の星座の見ゆる大枯木 みす枝 妻が留守する小春日でありにけり 世詩明 天帝の光射す庭冬の蝶 錦子 誰かれと言はず着ぶくれ句座にあり 英美子 身籠りてふくらむ夢や毛糸編む 同 街路灯夜霧のうるむ一直線 一枝 外套の襟立て警邏街の辻 三四郎 外海も内海も凪石蕗の花 中山昭子 何処見るでなき見つめゐる日向ぼこ 英美子 鴨一羽急に羽搏き黙破る みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
金色の曙杉や冬日向 美貴 お喋りは徐々に大声冬日向 あき子 松籟に静けさつのる炭手前 同 冬日向旧姓残る裁縫箱 美貴 山寺の燃える紅葉に冬日差し 迪子 ひと畝の冬菜を残し寺の畑 秋尚 彩りに冬菜を入れて中華粥 迪子 尉もまたかぐはしきもの桜炭 三無 晴れし日は富士仰ぎ見ゆ冬菜畑 貴薫 黒糖の飴舐め冬菜畑入る 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
乾きたる白杖の音や枯木道 登美子 初めての柚子湯子の手に一つづつ 裕子 冬タイヤ着け替へる音響く町 紀子 根深持ち友わが家を探し来る 令子 母と娘のふところ温め根深汁 同 甥つ子の来福めがけ霰降る 紀子 冬夜空指輪のやうな月蝕を 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月14日 萩花鳥句会
リハビリの迎へ待つ間や著ぶくれて 祐子 月蝕や三代並び膝毛布 美恵子 姿変へ伏兵地球を凍らせる 健雄 交差点スマホの生徒息白し 吉之 句仲間の声懐かしや忘年会 陽子 けたけたと笑ふみどり児日向ぼこ ゆかり まつしろな書類重ぬる年の暮 明子 彼の宿の達磨火鉢を懐かしむ 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
竜胆の花がこんなに似合ふ墓 雪 考へのあるとも見えぬ懐手 同 木犀の香にほころびの見えそめし 同 機嫌よく水の軽さや紙漉女 眞喜栄 音のなき竹百幹の霜の声 同 枯菊をくべ足し仕舞ふ畑仕事 同 マスクして美人の顔を半分に 清女 丸太棒の如き大根もて余す 同 嘗つて僧と梅見の宿の河豚料理 ただし 渡来仏残る若狭に牡蠣筏 千代子 越に棲み訛は二つ石蕗の花 同 青空に別れに来たか赤とんぼ 輝子 冬帝の足音もなく来る越路 かづを 黒手帳終へし師走の赤手帳 高畑和子 ふぐと汁喰べて睡むたくなりにけり ただし 鴨浮寝何れか父やら母子やら 玲子 酔漢の愚痴の繰り言忘年会 みす枝 大根を抜きて土の香漂へり 富子 虎落笛白きもの皆吹き飛ばす 山田和子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
重力の強くなりたる冬至前 久 遥か行く貉の怪や枯野径 三無 裸木の一木領す群れ鴉 菟生 寒鴉鳴くまだ釣果なき釣人に 佑天 神鈴を鳴らす冬帝鎮むまで 慶月 冬木立天は奪へるもの奪ふ 慶月 冬ざれの谷戸田貫く風太し 三無 径を問ふ人にやさしき頰被 亜栄子 むじな池人惑はせて氷りけり 久 焚火の香まさをな空へ消えゆけり 眞理子 古鏡なす日輪弾く冬の沼 菟生 燃えつきの悪き焚火やむじな池 千種
栗林圭魚選 特選句
痛きほどの青空尖る冬芽かな 斉 初霜の葉脈白く浮き立たせ 貴薫 霜枯の行く手阻みし杭一つ 炳子 女坂とても険しき水仙花 芙佐子 朝霜を畦の日蔭に消し忘れ 秋尚 田の氷罪あるごとく割られけり 千種 径を問ふ人にやさしき頰被 亜栄子 むじな池人惑はせて氷りけり 久 烏瓜空眩しみて破れけり 久子 霜光る崩るるままの藁ぼつち 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月21日 鯖江花鳥俳句会
新米を上り框にどさと置く 上嶋昭子 難儀やなあと呟きて懐手 同 真砂女の句厨に貼れば時雨くる 同 実印を押して腕組む冬座敷 同 寒雀あやとりの子に近づきぬ 同 秋霜や左近の陣に残る石 同 床の間の螺鈿煌めき冬座敷 中山昭子 暖炉燃ゆ三重奏の楽豊か 同 蓑虫の蓑の衰へ如何にせん 雪 炉話や若き日の恋爆ぜてをり みす枝 船頭の笑はせ上手冬日焼 洋子 奈落とも思ふ夜更けの雪起し 一涓
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月22日 第四十四回近松忌記念俳句大会 坊城俊樹選 特選句
お歯黒をつけし女の近松忌 世詩明 男云ふ今際の言葉近松忌 雪 心中はむかしがたりや近松忌 遊子 近松忌雨の鳥語を供華として かづを 忍び泣くお初時雨や近松忌 ただし 近松忌盗人被りの成駒屋 道夫 南座の木戸に盛塩近松忌 同 あでやかな傘をすぼめて近松忌 上嶋昭子 しぐるるや胸のほのほは消えもせず 同 近松忌今も名残の七曲り 節子 許されぬ恋の道行き雪深し 同 近松忌皆口紅の濃かりけり 匠 日野山の晴れて時雨れて近松忌 同 手枕の味を忘れて近松忌 千代子 恋に燃えし寂聴逝けり近松忌 みす枝 人情の深まる里や近松忌 同 近松忌お初の恋はありのまま 千加江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
棘の威の死して残れる枯茨 洋子 クリスマス会果てまこと神の闇 古賀睦子 山の端にしたたる銀河神楽宿 佐和 独り三味線せめて一手間熱燗に 勝利 熱燗に火宅を忘れおほほほほ 美穂 棋士決めの王手の響き冬座敷 吉田睦子 スイミング二秒縮めて聖夜の灯 桂 北窓を塞ぎて画布の静かな絵 朝子 お尻立て鳰はするりと異次元へ 勝利 胴長と漁網干しゐる舟小春 由紀子 熱燗や三巡目なるあの話 成子 音楽会敢へて師走を忘れたく さえこ かりそめに置く一本の冬の薔薇 由紀子 凍星や阿修羅は泪とどめたり 久恵
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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40yotb · 7 years
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誰がこの地上絵を描いたのか
11月7日 ペルー ナスカ
 ――せっかくペルーに来たのだからナスカの地上絵はマストだろう。地上絵の全貌を地上から眺めるのは無理だから、現地の旅行会社がアレンジしているというセスナ機でのフライト・ツアーがベストだ。それしかあるまい――たいていの日本人はまずこう考えるだろう。そして、ナスカまで来た日本人旅行者の多くは実際にセスナ機のツアーに参加するだろう。
 ところが、同ツアーを体験した少なからぬ旅行者たちの言では、このツアーの評価はすこぶる悪い。曰く、――フライト時間は短く(30~60分)、それぞれの地上絵を眺められる時間はとても短く(せいぜい30秒)、じっくり観賞するというより、テレビなどで見たことがあるとおりの画を流れ作業的に確認する、といった感覚に近い。天候によっては何時間も待たされるし、どんなに天候が良くてもセスナ機は揺れるし頻繁に旋回するので非常に乗り物酔いしやすい。酔ってしまったら地上絵を眺めるどころではない――。古代人の描いた地上絵、というロマンティシズムを肌に感じたくて遥々やってきた旅行者にとっては、たしかにそれはいささか興の覚めるところがあるかもしれない。そのうえツアー料金は当然ながらそれなりに高額(80ドル~)であり、はじめからナスカを素通りするバックパッカーも多いと聞く。
 僕はといえば、ちょっとの間だけ逡巡し、決めた。やっぱり乗ろう。地上絵の全貌を見よう。どうしてもこの目で地上絵の全貌を目撃したい、遺跡好きとして。流れ作業かもしれない、乗り物酔いに苦しむかもしれない、しかしここで見なかったらきっとこの先、後悔するときが来る――”15ピクチャーズ、40分、窓際席、空港送迎付き。どうだい?” ホテルに出入りする商魂逞しいツアー会社の親父は、ここに泊まってる客向けの値段だから誰にも言うなよ、と当初300ソレスを提示した。245まで値切りきって(≒8,900円)シェイクハンド。ところで僕らの世代でナスカの地上絵と云えばゼビウスを思い出すよねー。それでは壮大な聖地巡礼の開始。
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 天気は快晴にして風弱し。搭乗するソルバルウ...じゃなかったセスナ機を前に否応にもテンションが上がる。”M=サン! ニホンゴでleftはヒダリ、rightはミギだよね? OK!” 機長、副機長、地上スタッフは皆冗談好きで和やかなムードだ。
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機内は狭い。横2列7人乗り機体の、3列目右側席に通される。下手に格安のツアーを選ぶと横3列シート機の中央席になってしまう。
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離陸。街から地上絵までは30kmほどあるのでしばらく直線飛行。常時、飛行機の着席ランプ点灯時くらいの揺れがある。
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そしてついに地上絵が描かれているエリアへ到着。セスナは各地上絵の上空を、左右に一回ずつ機体を傾けながら旋回し、副機長が英語とスペイン語で簡単に解説してくれる。上は逆サイドの窓から撮った『うずまき』。セスナからはこんな感じで地上絵を見ることになる。
 そもそもナスカの地上絵(Nasca Lines)とは何なのか。大きさは絵によって異なるが、主なものは40mから、大きなもので300m近い。もっとも、明確な絵でないものもある。英名が示すとおり、大部分は直線であり、矢印のような幾何学図形も含まれる。明確なモチーフを持つと思われる絵に、抽象的な直線が接続されていることも多い。土中に打ち込まれていた木の杭の年代測定や周辺遺跡の土器収集から、BC200-AD800頃のナスカ文化時代に描かれたものとほぼ特定されている。研究によれば、この年代の技術でも地表に巨大な絵を描くことは十分可能であるそうだ。
 では、彼らが地上絵を描いた目的は何か。これまで暦法関連説、雨乞い説、公共事業説、宇宙人飛行場説(��笑)など、多数の説が提出されたが未だ解明に至ってはいないという。近年では王族の空葬説――王族の葬儀では、遺体を気球に乗せて空へ飛ばし、太陽へと還す。地上絵は上空から見下ろす死者に見せるもの――が有力といわれているらしい。同研究によると、ナスカ文化の技術で熱気球を製造し飛ばすことは十分可能であり、墓地から出土する布には気球にできる素材が含まれているということだが、引き続き傍証が待たれるところである。
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 さて、では僕が実際にセスナ機に乗って見ることができた(かつカメラに収めることができた)地上絵を、順不同にご紹介しよう。上はご存知、『クモ』。ナスカ文化におけるクモは雨を象徴するとされることから地上絵雨乞い説を裏付けるとされることもあった(しかし地上絵にはクモ以外のモチーフが多数描かれている)。その一方で、”これはアマゾンに生息する珍しいクモがモチーフで、右後脚の横に伸びた線は顕微鏡でしか見れない生殖器を表している!超古代テクノロジー!”と主張するひともいるそうですが...
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これは『イヌ』。主な地上絵の中では小さい方なので、写真が若干不明瞭。4本の脚と尻尾のほか、もう一対の直線が一回折れながら写真右方向に伸びている。クモに倣って、これも何かの説明がつくといえるのかな?
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『サル』。グルグル巻の尻尾も気になるが、これに至っては、手足尻尾以外の一対の直線が何度も折れ曲がり、一筆書きの要領で非常に巨大かつ複雑な幾何学図形を形成している。ここまで来ると、何らかの意図があって絵に図形を付随させているのだろうな、という推論ができるだろう。いずれにしても未だ解けない謎なんだろうけど。
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『オウム』。くちばしの曲がり具合がオウム!ということだろうか。下方向のバナナのようなのが胴体?だとすると後頭部にトンボ型の幾何学図形が付いていることになる。それともトンボのほうが胴体?じゃはバナナは...もしかして上下が逆で、トサカ??うーん... 見れば見るほど命名に説得力があるのかないのかわからなくなってくる。
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”もっとも有名な地上絵のひとつ、『宇宙飛行士』が見えるよ”と解説してくれる副機長氏。えっ?どこ?どこ?全然わからない!(泣) 結局わからず仕舞いで旋回が終わってしまう。
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(写真編集時)いたーーーーーッ!!! これも命名が謎である。地上絵が好きな人はやっぱりそっち方面が好きってことかな。『フクロウ人間』という渾名もあるが、こっちのほうがまだ現実味がある。ちなみに、『ガチャピン』という命名もある。謎の説得力。
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 ハイウェイ沿いに、『トカゲ』、『木』、『手』の絵が並んでいるところ。この手、指が4本しかない!何なの?描いた人もしかして宇宙人!?...と驚異的な論理を展開させる人もいるそうですが、まずは手であるかどうかを疑う、というアプローチもあるかと思います。
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『クジラ』。...イ級かな?描いたひと未来人の提督!
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『コンドル』。さあ来た...。全長135mという巨大さ、いかにも地上絵、という威風堂々たる佇まいに感動を覚える。こういうのを見るためにここまで来たんだよ! ゼビウスに登場したのはコレだけど、もう巡礼とかそういう要素なしに格好いい。
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そして真打ち、『ハチドリ』。ここまで洗練されたデザインになると、もう元のモチーフがハチドリでも何でも、ある意味でどうでもよくなってくる。一筆書きの直線が櫛型に展開して、羽や脚、尾を表しているように解釈できてしまうのだからね。クチバシと胴体の長さの比とか、もうひたすら格好いい。
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これが地上絵で一番大きい『フラミンゴ』(285m)なんだけど、大きすぎて、写真を縮小したら何だかわからなくなってしまいました。ゴメンナサイ。本来の絵は、首とクチバシが異様に長くて、首はジグザグに折れ曲がっている、という神デザイン。
 実際の飛行時間は45分ほどだったか。短いと云われていたけど、大満足。ほんとうに見てよかった。むしろ見る前に考えていたよりずっと満足度は高い。だって、実際の地上絵ってすごく格好いいんだもの。テレビや書籍やネットで散々見てきたものばかりだけど、実際に見ることで視点が変わった。”地上絵はデザイン”、ですよ。ナスカ文化のみなさんのセンス、キレッキレですわ(一部はそうでもないのもあるけど・笑)。
 その一方で、ものの見事に酔いましたねー。なんとか最後まで耐えましたが、セスナを降りたら目眩でまっすぐ歩けませんでした。でも全然後悔していない。”M=サン、飛行機酔いにはピスコ・サワーがベストだ!” 最後まで冗談交じりに気遣ってくれた機長。感謝の気持ちでチップを渡しながら、固く握手を交わした。
 
 次の日の夕暮れ時、僕は隣街のパルパへ向かう二等バスを途中下車し、地上絵エリアの真ん中に降り立った。
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 ミラドール(監視塔)。地上絵の研究と保存作業に生涯を投じたマリア・ライヒェが地上絵荒らしを監視するために建てた塔が、現在は地上絵を眺める施設として活躍している。ここからハイウェイ沿いの3つの地上絵――トカゲ、木、手――を眺めることができる。
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 トカゲはちょっと遠くてよく見えなかったが、木と手はその全貌がかなり明確に、至近距離で観察できる。これで地上絵の線の描かれ方がよくわかった。ナスカの地面は白い砂地の上に赤土色の薄い小石の層が乗っており、線は小石の層を幅数十センチに渡って取り除き、砂地を露出させることで描かれていた。おそらく絵によっては線をもっと幅広く作っているだろう。かなりきれいに描かれているが、これは保存活動のおかげかもしれない。
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 しかし、この地上絵が描かれた当時はもちろんこのような塔などない。いくつかの地上絵は丘の上から眺めることも可能だが、位置関係的にすべての地上絵をそうして眺めることはできないはずだ。見えない絵を描くための技術が当時でも存在しえたことはわかった。では果たして、当のこの絵をデザインした、絵の起案者はどういう気持ちだったろうか。起案者に相当のモチベーションが働かなければあれほどまでの洗練されたデザインは産まれ得ないと思うが、自分が実物を見れないとわかっていてもそれは可能だろうか。そもそも、誰があの絵をデザインしたのだろう。――そう考えていて、ふとある仮説に辿り着いた。いや、ここはむしろ、起案者はあの絵を見ることができた、すくなくとも、見ることができると信じていた、と仮定するべきだろう。起案者は自分が見るために絵をデザインした。つまりこういうことではないか。仮に僕を当時の王族としたら...
 
 僕「おーい(大臣を呼ぶ)」
 大臣「(登場)は、ここに」
 僕「この前言ってた事業のことなんだけどさ、僕なりに考えてみたよ」
 大臣「は、やんごとなき事にございます」
 僕「うん、それでデザインなんだけど、これで行きたいと思う(サラサラ...)」
 大臣「これは...魚類にございますか」
 僕「う~ん、まぁそうかな?いつもやっている遊戯から採った。獲物を飾るようなものさ。僕の、まぁ、そういう時が来たらさ、思い出にこれを空から見たいと思う。偉大なる父上や、歴代すべての王と同じように、この世界に未練のないように...(絵をしばし見つめ、感じ入る)...だからこれを、忠実に...」
 大臣「『拡大法』、でございますな」
 僕「そう、それ。時間はたっぷりあると思うけど(笑)、まぁ、宜しく頼むよ」
 大臣「御意にございます(辞する)」    大臣(...)    大臣(...先代のほうが巧うございましたな)
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skf14 · 5 years
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01190015
スマートフォンの中で笑顔を見せる君を見つめていた。今までの思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。この日の為に沢山準備をして、話し合って、最高の1日にしようと考えてきた。長かったようで、短かったようで、今こうして振り返ってみるとやっぱりあっという間だったような気がする。
鏡を見て、ネクタイを整えて。馬子にも衣装だな、なんて苦笑して。
後で見返せるように、動画を残しておこうと思い立った。会場のスタッフに尋ねると、後10分ほどは猶予があるらしい。スマートフォンのインカメラを見つめて、心の中を片付ける。
「今日は、1月18日。大安の日を選んだ。今から、結婚式だ。」
事実の羅列だけになってしまう様子に、案外緊張してるのか、なんてまた苦笑いして。
「今まで色んなことがあった。...結婚に対して、何の魅力も抱けなかった時期もあった。紙一枚を交わすことに、着飾った姿を人前に晒すことに、意味を、見出せない時間が長かった。でも、こうして今日を迎えて思うのは、やっぱり大事な人と添い遂げる姿を残して、皆に見てもらうことの大切さ。...いや、こんな格好つけた話、やめとこう。単純に、君の綺麗な姿をみんなに見せたい。愛しい君と添い遂げて、世界で一番幸せだって姿を見せたい。結婚って、多分自分が幸せになることだけじゃなくて、誰かを幸せにするために、するものだと思う。じゃあ、行ってきます。」
スマートフォンを閉じて、目を閉じて、緊張を解くように深く息を吐いた。よし、行こう。幸せの元へ。
厳かな雰囲気の中、牧師の言葉に導かれバージンロードを歩いていく。参列している人々の視線を感じる。大学時代の友達。会社の同僚、先輩、上司。従兄弟。妹。叔母、叔父、父、母。彼女の親族も友人も、期待に満ちた目で俺を見つめている。やっぱり緊張してしまう自分を律して、ただじっと君が出てくる扉を見つめた。
音もなく開いた扉。差し込む光が眩しくて、思わず目を細める。純白の、マーメイドラインのウェディングドレスのシルエット。ヴェールで顔を覆った、美しい、俺の大切な人。
目の前がゆらりと歪んで、鼻の奥が熱くなる。君のウェディングドレス姿は何度か見ていたはずなのに、こうして、君のお父さんに連れられて歩く姿を見ると、もう、幸せで胸がいっぱいになって、何も言えなくなってしまう。幸せになろう、幸せにするから。
バージンロードを歩く君が俺をちらりと見て、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。きっとからかわれるんだろうな、暫く。途中で君のお母さんに何か話しかけている。皆に祝福され、ゆっくり歩く姿。お父さんは唇を震わせて、緊張の面持ちで俺を見ている。
隣に来た君は小さな声で、「ほら、泣かないで。」と言って、ハンカチを手渡してくれた。列席から笑いが漏れて、恥ずかしさを感じながらも涙を拭った。何百回も思ってきたけどやっぱり俺は、こういう時君と一緒になってよかったと、強く思う。愛してる。
指輪の交換をした後、少し話させて欲しいと牧師にはお願いをしていた。君の細くて白い薬指に、ダイヤの指輪をはめて手を握る。列席から、何が始まるのかという期待のこもった目が向けられる。
「これからの人生において、君を、世界で一番、大事にすると��う。世界で一番、幸せにすると誓う。この手を取ってくれたこと、絶対に後悔させない。愛してる。これからも共に、歩んでください。」
ひざまづいて手の甲にキスした瞬間、列席からは親族の泣く声と温かな拍手が沸き起こった。君は目に涙をいっぱい溜めて、それを零さないようにきゅっと口角を上げて、「はい。」と一言、嬉しそうに言った。
一生、誓いのキスの感触は忘れないだろう。君を守り、君と共に進むと決めた日のキスだ。
君の手を取り教会の外へ出ると、列席者からのフラワーシャワーが降り注いだ。青空に映える数多の花びらが風に舞って、君をより一層彩る。自然と二人見つめあって、笑って、また見つめあって、幸せを噛みしめる。降り注ぐのは、幸せの香りをまとったバラの花たち。君の笑顔が太陽と重なって、きっと俺はこの景色を見るために生まれてきたんだろうとすら思わせた。
列席を見送り、式の片付けも終わり、身支度を済ませた君を見た。着飾ってる姿に感涙したけど、普通の服を着ていたって君は誰よりも美しく、大切な俺の宝物だ。綺麗だ。何だか気恥ずかしくなって、他人行儀になってしまう。
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。幸せになろうね。」
踏みしめたバージンロードも、光の中のシルエットも、君の涙も笑顔も、絶対に忘れないでおこうと心に誓った。幸せなんて、具現化できないと思っていた俺の目の前に、確かに幸せは存在した。たった80万弱で渋っていた俺はタダのバカだ。
いただいた写真には、色んな人の笑顔や泣き顔が映っていて、幸せだ、幸せだなあと、そればかりが浮かんでは空に消えていく。
幸せになろう。いや、この幸せを、無くさずずっと持っておこう。そう誓って、一歩踏み出した。
ビデオを何度も見返して、決心がついた。丁度、金銭的にも余裕がある。時間の余裕もある。やっぱり、幸せはできるだけ、目に見える形で手の中に残しておきたい。よし。
「あ、もしもし。先日はお世話になりました。すみません、披露宴も執り行いたいと思っておりまして。ええ。また代理出席、お願いできますでしょうか?」
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abo-collapse · 5 years
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人生初の不眠症と躁状態
記念に感想とか書いとこうと思います。
特にうつとか仕事がきついとかは全く無く、 7月の上旬から少しずつ夜眠れなくなり、 9月には貫徹や遅刻をはさみながら だいたい平均4,5時間睡眠という感じになっていました。
特にここ数日は2時間しか寝てないのに妙に元気な日がちらほらあったり。
本来今までは逆の眠いけど寝たくないということは頻繁にあり、 寝ようと思えば一日中でも寝てられるほど過眠型だったので 人生初の展開でした。
心療内科で相談して眠剤はもらってましたが、 最初の睡眠導入剤はミジンコほどの効果も無く、
マイスリー&中途覚醒対策でリスペリドンももらいましたが こちらもほとんど効果はありませんでした。
7月頃はとにかく気持ちが不安定で、
8月頃から少しずつ狂気の階段登っていったように思います。
徹夜明けっていつも色々楽しくなって多弁になるタイプなのですが、 いつの間にかそういう深夜テンションが止まらなくなっており、 正常に戻らないままどんどん悪化していきました。
特に先週がピークで、
思えばこの1,2週間は明らかに”躁状態”と言っても良いヤバさだったので、詳細を書き留めておこうと思います。
まず人への”愛”がとめどなく溢れるようになります。
ヤバげな葉っぱをキメたヒッピーばりに人類に愛と平和を感じるようになり、
心無い人に傷つけられる尊い人々の苦しみと不条理に胸が締め付けられ、
“推しピ”(千代に八千代に存在して欲しい君)への愛に胸が押しつぶされ、
この自分の存在を許してくる通行人の優しさに胸を震わせました。
睡眠不足による悪心(おしん)もあったのかな…?
目に映るもの全てが全く美しく素晴らしいものに思え、
駅の構内すら何人もの人が携わった結果生まれた奇跡と感じました。
良い人だなあと思っていた人にはガチ恋レベルの尊さが腹の底から溢れ出し、
そこそこの人にも人としての輝きと素晴らしさと愛で全身が打ち震え、
苦手な人や軽蔑していた人間にも「ならば、これを愛そう。」と思いました。
パッと思いつくだけで少なくとも10人にかなりご迷惑をおかけしました。
とても申し訳ない
具体的な行動としては、
普段未読無視既読スルーがデフォで誘われるとたまに出るわたしが リア友グループLINEで突如として飲み会を企画しだし、
複数人に自分からLINEを送り、
一緒に遊び、
SNS上の"推しピ"の一人に自発的にDMを送った挙げ句意味不明な話をしたり、(本当にすみません)
3ヶ月に一度するかしないかの通話を毎日誰かしらとするようになり
職場の”推しピ”に100回は「可愛い」を連呼しました。(ほんとすみません)
職場で所属している部署が元々珍獣保育園状態なのですが、
その中でも浮くほど多弁になり、
この声が枯れるくらいに君が好きと言い、
会いたくて会いたくて震え、
極めつけに”推しピ”の変顔見切れ写真(意図せず映り込む写真)を
7個あるデスクトップの1個の壁紙に設定し、丸一日笑ってました。
“推しピ”の笑顔や一挙一動が太陽のように眩しく、あまりに可愛すぎて
こんなに可愛い生物がこの世に存在するなんて世界はなんて素晴らしいんだろうと本気で思えました。
普段から少し大げさな物言いをすることが多いのですが、 「こういうのはちょっと大げさなくらいが丁度いい」からであって、 この時は一点の曇りもなく本気で言ってましたし、 「この人は生ける宝石だ」 「自然が生み出した最も尊い金の一滴だ」 と感じ、それどころかこんな言葉では足りないと身悶えしてさえいました。
あとSNSで繋がってる”推しピ“の1人の「今日食べたご飯」を死ぬほど可愛いと本気で思い込み、別の場所で3時間くらい「チョコクロワッサンとか超可愛くない!?!??!??」の話をしました。えっ…頭がおかしい…
そんなシャブ色エブリデーだったのですが、
職場の”推しピ“の
「あぼさん元々頭おかしいと思ってましたけど、そんなでしたっけ」
「そういう性格じゃないと思ってたんですけど」
という言葉で唐突にここ数日の記憶が走馬灯のように蘇り、 改めて通話中の”推しピ”の反応のちょっとした違和感や 自分の行動のおかしさに気が付き、
穴の空いた風船が萎むようにみるみる正常が見えだしました。
ちなみにこの職場の”推しピ“は入社1ヶ月目で先輩二人に乳首当てゲームをした人です。
ちょうど定時間際だったので、 帰り道を歩きながら精神がギュンギュン戻ってきてることが自覚できたわけですが、
道や町や人が輝いていないことに天地がひっくり返るほどびっくりしました。
「道だ…」
「普通の……道だ…………………」
「普通だ……………」
後にも先にも町並みの普通さにここまで驚くことはきっと無いと思います。
特に気分の落ち込みとかもなく、楽しいので良いやと放置してましたが、
躁状態のほうが周囲への迷惑度が高いことも多いので思い当たる節ある人は注意です。
芸能人がやらかして躁うつ病だったとか時折聞きますが、もしわたしのこの一連の精神状態が”躁状態”で、かつ元々他人にそんなに興味ない性質のわたしと違って普段からバイタリティあふれる人情家だったら本当に大変なことになってると思います。
それほどまでに精神の無駄な高揚感は凄まじく、 明らかに異常ですし問題です。
おそらく会う人間全員にメンヘラソング等身大クソデカフィーリング感じてるはずです。 あと某緑色のアーティストの歌詞とのシンクロ率がヤバい。 なんていうか常に感情と思考がドバドバ溢れ出てる感じで、 喜びも悲しみも感謝も愛も憤りも思考も 常に目まぐるしくパンパンになったペットボトルみたいに振り切れてました。 ”根拠のない自信”というのは自分をすごい人間だと信じる、というよりも 圧倒的な”なんとかなる””なんとかできる”で塗りつぶされた感じです。 素面に戻った日の夜、 生まれてはじめて「感情が静か」という感覚を覚えたことは衝撃です。 仕事もほとんど手につかず、 常に感情や関心が洗濯乾燥機のように回転しており 精神は元気なのに実際はほとんど進んでなかったです。
今の所人生一度くらい躁状態体験する人多いと思うので慢性的な問題になるとは思ってませんが、念の為心療内科で相談しようと思っています。 ロヒプノールは一度眠るとぐっすりなのですが、入眠が難しく、飲んでも一時間以上布団の中でぐるぐるしてるので困っています。
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yu-katsumata · 5 years
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バスルームトラベル
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NORMの「月の屋台」のMVが公開されました。 曲自体は1年くらい前からあり、その時にホジからMVの話があって ずっと考えていた一曲。 まず曲が良い。 ライブで聞いた時にぱあーっと目の前の視界が開けたのを覚えている。
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綺麗に撮ることは正直誰でも容易になった時代。 もうこんな時代だからこそ、 「何を撮るか」、そして「なぜ撮るのか」という 姿勢の強さが浮き彫りになる。 自分もまだまだ勉強中の身。刺激的な毎日だ。 ホジが近年追求しているアナログの良さもすごく同感できるし、 逆行してこそ、先進が眩く見えるという発見もある。
このMVはとてもとても気に入っているし、手応えがある。 あの日の真鶴の景色と、地元の祭りの景色。 鮮やかな海面が映し出す橙色の太陽と、夜が照らす祭典の灯火。 絡まるノスタルジーを「月の屋台」という曲に乗せて感じ取っていただけたら嬉しいです。 そしてこのMVを自分に任せてくれたNORMのホジとカギちゃんには 本当に感謝しています。ありがとう!
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連休はあっという間に過ぎる。 毎年なぜか5月の連休は撮影ラッシュでここ何年か、撮影尽くし。 今回も4日までパンパンスケジュールで、5日にようやく帰省。 地元の神輿会を撮ってきた。 この祭りにはおなじみボスUENOさんをはじめとして、 角刈りMAKABEさん、DJ CHAKAさんなど 地元の仲間たちが多数参加していることもあり、楽しみな祭り。 ちなみにUSA近江さんは引っ越しで多忙のため不参加。
なかでもこの「北条稲荷」は自分の中でとても大切な神輿会であります。 男気100%のその姿を見るだけで、気合を入れ直してもらう。 思い出すと熱いものがこみ上げてくる。 本当にかっこいいと思う。 なので撮影や稽古の際など、自分にとって勝負の時は この「北条稲荷」の木札をつけるようにしている。
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↑ この方がボスUENOさんです。 なぜか高校に四年通っていたような気がしますが、 今は立派な大人であります。
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夜はボスUENOさんと飲もうと話していると、 引っ越しがひと段落したUSA近江さんが合流。 キャップをかぶるといじられると思ったのが、M字ハゲ全開で登場。 こっちはこっちでまた問題があるような気がします。 そして、「腰が痛い」などと言っていましたが、やがてくる新生活に心躍らせているようでした。 しかし僕らは37歳です。新生活に心躍らせる年齢ではないと思いました。 そして会うなり「引っ越しで60万かかる」と半泣きになっていました。 最近のUSA近江さんは口を開けば「引っ越し」と「60万」しか言いません。
そして僕らは待っていました、、、 ボスUENOさんのあのパワーワード「俺は本気だから」を、、、
しかし!今夜のボスUENOさんは一味も二味も違いました! 終始、馬鹿話に奔走し、一向に「本気」というワードが出ません。 おかしいな〜と思い、 自分とUSA近江さんで「本気」を気づかせるような雰囲気に持って行きますが、 うんともすんとも言いません。
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そして気がつけば朝に。 なんと僕らは男三人で居酒屋で朝を迎えました。 ガールズトークのように話題が尽きず、腹筋が痙攣するくらい笑いました。 この三人で飲んで史上初のような気がします。
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そんな伝説的な夜。小田原駅にある二宮尊徳の銅像の前で一枚。 USA近江さんもこの二宮尊徳のように勤勉になってほしいものです。 ちなみにUSA近江さんが持っているのはボスUENOさんのカバンです。 ついにボスUENOさんのカバン持ちとして頑張るみたいです。 しかも噂によるとボスUENOさんの会社の社員旅行の幹事をUSA近江さんが務めるらしいです。 商談に参加した次は社員旅行ですよ。 ここまでくると完全に社員ですね。
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帰りの電車内でもUSA近江さんはずっと引っ越しの話をしていました。 しかし正直、引っ越しにそこまで興味のない人間からすると苦行でしかありません。 しまいには、小田急線の窓越しに見える家を指差して「ここが俺の新居だ」と豪語していました。
近いうちにボスUENOさんとぱぁ〜と新居祝いしようと心に決めました。
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次の日は、角刈りMAKABEさんの家族と平塚ららぽーとへ。 この写真の後ろ姿だけでも角刈りとわかるくらい、角刈りです。 なぜこのご時世にこの髪型なのか永遠に謎ですが、 娘さんがとても真面目で頑張り屋なので、 欲しいものをなんでも買い与えるという大盤振る舞いしてあげました。 この読者のみなさん、勘違いしているかもしれませんが、平塚という街は 工場地帯と海に挟まれたとても素敵な街であります。 飲み屋しかないわけではありません! 湘南地域で一番でかいんじゃないかっていうららぽーともあります。
自分のような田舎民はららぽーとで1日つぶせます。何でも揃う。 欲しいものはいつもららぽーとにある。 いや、欲しいものはいつも平塚にある。
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そして、短い帰省を経てすぐに編集ラッシュ。 合間に映画や演劇、CMなどで毎度お世話になっている作曲家の田中マコトさんと 作戦会議兼ラーメン食べ歩きの会。 まじで10キロくらい歩く。そして二人で観覧車に乗る。 酒飲んでラーメン食って、歩きまくってたら、ショッピングモールのベンチで爆睡。 田中さん、すいませんでした。
夏が来る前のあるわくわく感に包まれる街。 道路を照らす光が、初夏に靡いている。この時期が一年で一番好きだ。
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数日後。 連休中にたまっていた仕事を片付けていると ボスUENOさんから着信。
「今日平塚に20時でどう?」
きました! 「本気」としかとれないような決意の声でした。 もしかしたら、ボスUENOさんもこの前の居酒屋で 「本気」でなかったことを悔いているのかもしれない、、 今夜は荒れるぞ〜と思いながら、自分は仕事を終わらせ平塚へダッシュ!
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平塚に到着し、 例のラグジュアリーの店から徒歩1分くらいという露骨な場所にある居酒屋で ボスUENOさんとUSA近江さんと合流。 またしてもUSA近江さんは引っ越しの話ばかりしています。 「今日は1日ベットとソファーを組み立てていた」と自慢げに言っていましたが、 たいした自慢になっていない気がします。 なんでそこをそんなに自慢するんでしょうか。 そしてこの人の人生は、一体どれだけ引っ越しに翻弄されるのでしょうか。
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USA近江さんは性懲りも無く、また「BROOKLYN」と書かれたキャップをかぶっていました。 本当に懲りない人です。 店内のお客さんから二度見の嵐です。 「え!BROOKLYN!?」という声があちこちで聞こえました。
そして時刻は12時をすぎ、宴もたけなわ。 店内が静寂に包まれ、お客さんたちがボスUENOさんを見つめています。 そうです、平塚の人間たちがボスUENOさんのあの言葉を待っています。 そして、ボスUENOさんがようやくそっと口を開きます。
「俺は本気だから」
さぁ!出ました! この合図でなぜか居酒屋はすぐシャッターを閉め、閉店。 お客さんも全員ダッシュで帰り、 僕らもすぐ外へ。 なにせ徒歩1分です。あまりに露骨すぎると思います。
ボスUENOさんが外に出ると、待ってましたと言わんばかりに黒服登場。 あまりのタイミングの良さにボスUENOさんにGPSでもついているんじゃないかと疑念を抱きます。 そしてその位置情報が平塚中の店で共有されているんじゃないかと。
黒服たちに深く挨拶されるボスUENOさん。いつもの光景です。 ラグシュアリーなお店へ入ると、またUSA近江さんが引っ越しの話を始めようとしたので、完全無視。
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そうこうしていると、始まりました! USA近江さんのワンマンショーです! 最近自分とボスUENOさんとの間で 「最近のUSA近江さんの『USA』が雑すぎる」と議題にあがっており、 大変困惑しておりました。 「高音がきつい」との理由で、高音のほとんどをなあなあにして歌う姿は プロじゃありません。 USA近江さんといえば、職業が「幹事」なので、そこんとこはきちっとしてもらいたいです。 ちなみにこの日はなぜかラルクアンシェルを歌っていましたが USA近江さんのその風貌でラルクはあまりにきついと思いました。 写真のマイクの持ち方からわかるように、 この日のUSA近江さんはあまりパッとしませんでした。 漂よう悲壮感をどうぞご確認くださいませ。
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そして店を出ると朝。 今年に入って何度平塚で朝を迎えたことでしょうか。 胸の奥がツンとざわつく感じは毎度のこと。 なぜか店前にタクシーが止まっており、颯爽とボスUENOさんが乗り込みました。 一体全体この方はどこまでVIP待遇なのでしょうか。
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残った僕とUSA近江さんで聖地「なか卯」へ行くも、 USA近江さんがまたもわがまま放題! 自分で蕎麦とご飯セットを頼んだにも関わらず、 「泥酔に米は重いって言ってんだろ!」とか 「眠すぎて食えない」とか 「眠気が10段階で9」とか、ペラペラ喋っていました。 自分が「10段階で9ってことは、まだ1あるんだよな?」と聞くと 「うるせえ!」と店内で暴れ始めました!
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そしてなか卯を出て僕らはJR東海道線へ乗り込みます。 最後の最後まで「俺をブログに書くな」と言っていたような気がしますのが もはや僕の近辺ではボスUENOさんとUSA近江さんはスターなので、 書かないわけにはいきません。待っている人がいるんです。 しかしほぼ全員が独身男性です。つまり独身男性の希望の星なんです。
そんなわけで連休から駆け抜けました。 明らかにボスUENOさんとUSA近江さんと頻繁に会うようになって アルコール接種率が異常にあがりました。 しかし楽しければOK。 おっさんはおっさんなりにはしゃぎ倒そうと思います。
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ボスUENOさんから送られてきた画像。 これはUSA近江さんにプレゼントするしかない。 しかし売り切れって、このキャップを買う人がいるのが不思議です。 今日の一曲は欅坂46 の「バスルームトラベル」。
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聞けば聞くほど深い歌詞。 何気ない日常描写のなかに、繊細な乙女心が隠されている。(と思っている) しかし男性諸君。 この曲を好きだと言うと女子に100%キモがられるので注意しましょう!
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negipo-ss · 7 years
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ケイ
 四月の頭ごろに書いていて、だめになってしまったかなふみの草稿です。全体の分量の30%ぐらいです。  ここに埋葬させて下さい。
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 ローファーに桃色がぴたぴたと貼り付いてうざったかった。太陽は明るくまっすぐな光を打ち下ろしていて、だからこそ私の心に強く固い影を落とす。やわらかな春のあたたかさが桜の枝から砂のように花びらを振り落としていて、私は顔の前で手を二、三回払った。  バス停に辿り着いて、谷崎潤一郎をスクールバッグから取り出した。好きな曲のイントロがスマートフォンから私の鼓膜にやってきて、やっと少しだけ呼吸ができる気持ちになる。数行も読み進めると、とん、と肩を叩かれた。私は気づかれないくらい薄く眉をひそめて、イヤホンを片方外して、相手の話すことを聞いているふりをする。 「速水さん、おはよう。今日は早いね」 (さみしいかみさま あたしのこといってんの) 「……そうね、たまたま起きられたの」 (さみしくなんかない さみしいとか考えない)  彼女と話す間、片耳から流れ続ける音楽にずっと意識を向けていた。彼女の反対側にもう一人クラスメイトがやってきて、会話とも言えない会話は一瞬で終わった。私はそのまま文庫本と歌だけの世界に戻る。なぜか少しだけ涙が滲んでいて、視界が膜がかかったように曇っていた。  私の目の前には膜か幕がいつもあって、私はそのこちら側にいた。あちら側には自由に生きる人たちがいて、私と彼らは永遠に交わることはない。早くかみさまが降りてきて、この世界が作り直されればいいのにと思った。  やがてバスがやってきて、私は文庫本を閉じて定期券を取り出した。くるくるとひっくり返して、そこからお金が引き出されてバスや電車の会社にお金が支払われていくのを想像し奇妙なことだと思った。そうやって私は学校に運ばれて、授業が終わると、今度はアイドルになるために事務所に運ばれる。手を取ってやたら熱心に私のことを褒めそやす男の顔を思い出して、ふ、と薄く笑い、一歩踏み出した。  シャッフルに設定されたスマートフォンが、こんどは幽霊について歌う。
 * * *
「ケイ……もうちょっとだけ、待って下さい」  戸棚の缶から猫のためのごはんを取り出して、ケイ専用の茶碗にそれをもくもくと詰めた。少しも残さずにきちんと盛られたのを確認して、そっと地面に置く。ナアナアと鳴いて私に擦り寄っていた彼女が椀に頭を突っ込むのを見て、ほうと息をついた。そして、特徴的な低いエンジン音が換気のために少しだけ開けていた窓からしているのに気づいて「ああ」と低く悲鳴をあげた。時計を確認すると、果たして私が乗るはずのバスが出てしまった所だった。  私はいろいろなことを諦めて、わざとのろのろと支度をする。本棚から今日の友人に春琴抄を選ぶことにして、少しうれしくなった。なにせ今日は春らしいあたたかさだ。頭のなかで、たかだかとした鶯の声がする。 「いってきます……おとなしくしていてくださいね」  私はくろぐろとしたかたまりがナアとまた鳴くのに微笑みかけて外に出た。
 いつもより十分以上遅いバスから大学に降りたつ。その瞬間春の風が文庫のスピンをふわ、と持ち上げて、私は愉快な気分になった。普段は文章と共に歩く道を、ゆっくりと顔を上げて歩く。風は心地よく木々を撫でて、落とされた桜の花びらはやさしく息づく赤ん坊の前に置かれたかのようにふわふわと地面で揺れていた。私はその赤ん坊と共に大きく息を吸い込む。  とん、と肩を叩く人がいた。 「おはよう、文香」 「……ああ……アヤさん。今日は、早いのですね」 「なにそれ、皮肉?」  もう一限は遅刻だって。あはは。二人で笑いあった。 「今日からあれか。レッスンだよね、アイドル」 「はい」 「いやあ、楽しみだねえ」  ふふ、とアヤさんは笑って、とんとんと肩を叩いた。 「文香がアイドルになるの、楽しみにしてるよ。頑張って」 「……はい、精一杯、努力します」  私の手を取って、興奮気味にアイドルについて話す、プロデューサーと名乗る男性の姿が頭に浮かんで、くすくす笑った。 「……とても、楽しみです」 「ん、あたしも!」  私はアヤさんと、期待でいっぱいの目を合わせた。春は、始まりの季節なのだと思った。
 * * *
「や、すごいね、奏さんは」プロデューサーは目を輝かせて、私のことをなにか、かみさまのように見た。少なくとも、駆け出しのアイドルに向ける視線では無いと思った。 「ボイストレーナーさんが新人をあんなに褒めてるの、初めて見たよ」 「……私には、ただ無口なだけに見えたけど」 「何もしゃべらないってのがすごいんだよ」男はしゃべり続ける。「初回でそもそもレッスンらしきものが成立する時点ですごい。うちはスパルタで有名なんだ。何か経験がある人でも、まずめちゃくちゃに叩きのめされる。そうやってゼロからスタートさせるんだ」そして、急に不安になったかのように私を見た。「未経験って、ことだったけど。アイドルの経験があるわけじゃ……」 「ないわ、もちろん」私は半分だけうそをついて、彼の瞳を素直な高校生の目でじっと覗き込む。「そういうふうに見える?」 「ぜんぜん」男は笑っていった。 「そういう子はね、やっぱりわかるんだよ」 「そういう子って?」 「誰かのために、歌ったことがある子。そういう子は、ほんの少しだけど、世の中との関わり方をわかっている感じがするんだ」  私は少しだけいらついて彼を見つめた。彼は何も分かっていなかったし、その彼になにかについて理解が足りていないと言われているのは、どんな内容でもいらいらした。 「……で、次は何をすればいいのかしら」 「えーとね、ダンスレッスン、兼顔合わせ」  彼がにこりと笑ってスタジオのドアを開き、言葉を継ごうとして、内側から聞こえてきた怒声に遮られる。 「おいおい、頼むよ! これは本当に、マジの基本なんだ。ここでへばられると、すごく困る」  そこには、トレーナーに手を叩かれて、リズムに合わせて基本のステップを延々と踏まされている女性がいた。印象的なのはその前髪の長さで、顔の半分を隠しているように見えて、それできちんと前が見えるのかと言いたくなってしまう。長いうしろ髪はきちんとまとめられて、動きやすい服は汗で重々しく濡れていた。  プロデューサーが渋い顔のトレーナーをむこうに引っ張っていって、様子を聞いている。 「……だめそうですか」 「リズム感ゼロ。体力ゼロ。今わかるのはそれだけ」  密やかな声が漏れ聞こえたその間にも、彼女は誰も見ていないレッスン室の端でステップを踏んでいる。そのひたむきさには少しだけ心を打たれたが、私は輝きの無いものに対する憐れみを彼女に向けていた。 「奏さん」  私はプロデューサーに声をかけられて、真剣な表情の彼の元に歩く。 「文香さん、ちょっと中断して、こちらへ」  文香と呼ばれた彼女も私達の元へ来た。はあはあと、荒い息をついている。 「……おつかれさま、です」  やっとのことでそれだけ言った彼女の、息が整うのを待って、プロデューサーはにこやかに笑った。 「奏さん、文香さん。本当はこういうのは本決まりする直前に共有するものなんだけど、必要だと僕が思うから、今言います」  私たちは、続きを待つ。微かな期待が、仄かな光として私たちの胸にあった。 「あなたたち二人に、僕はユニットを組んでほしいと思ってるんだ。ユニット名は、まだなし。今後の活動も未定。だけど、きっと、ふたりはぴったり合うと僕は思ってる。だからできれば、今から特別になかよくして欲しいな」  私たちは顔を見合わせて、初めて顔を合わせるものたち特有の、不安を込めた笑顔をお互いに投げかけた。 「速水奏です。よろしくお願いします」  私がはっきりとそう言うと。彼女は手の汗を腰で、さす、と拭いて、差し出した。私がその手を取ると、意外に強い力で握られて、私もしっかりそれを握り返した。その手を離さないように握っていることが、いま私に許されている唯一の線路だと思った。彼女は消え入りそうな声で言う。 「……鷺沢、文香です。こちらこそ、その……よろしくお願いします」
 * * *
 苦しいレッスンはしかし楽しかった。私は昔から前に進むこと、新しく何かを獲得することが好きだった。それを確かな形として書籍に求めていた私が(何しろそれは気づかぬうちに年金のように増えていった)、アイドルというぼんやりとした世界に飛び込むと、人々は騒がしく波のように私の周りでさんざめいて、押したり引いたりした。いくつかのちょっとしたイベントの手伝いに駆り出され、少しずつ同業者の知り合いが増え、覚えたステップもまた増えた。 「まるで、除雪車だね」  プロデューサーさんは私に冗談めかして言った。 「文香さんは、とにかく弱きに逃げないんだ。力強い。それでいて、どこか自由に道を選び取っている感じもする。僕はそこがいいと思ったんだよな」 「……私を見て五秒もしないうちに、声をかけてきたのにですか……?」 「あはは、ごめん。今のは後付け」  プロデューサーさんは誤魔化したように言う。そして、取ってつける。「最初に声をかけたのは、文香さんがすごく美しいと思ったからだよ。それは、本当にそう思った」  私はそういう褒められ方にいつまでも慣れなくて、顔が火照って俯いてしまう。前髪でうまく、醜い私を隠せることができていたらいいなと思う。  だって、本当に美しい少女は、隣で黙って紅茶を飲んでいる。
「ケイ……?」  その日は大学から帰って、すぐに事務所に出るつもりだった。レッスン、レッスンの黒黒とした予定が、今日もカレンダーに黒星をつけている。ケイは、私が帰るとナアと鳴いて玄関にかならずカチカチつめを鳴らして滑り込む、長野の郷里を離れてひと月ふた月の、さみしい猫なのだ。そのケイの気配がなかった。  私は、はっとして窓を見た。閉めたはずの窓が、開いていた。そこから不安がごうごうと押し寄せて、目の前がまっくらになる。私はレッスンのことなどわすれてしまって、そのままドアを開けて外に走り出た。  やがて、夜になる。あたりを走り回った私の心は金切り声を上げてまっくらにあたりを照らしていた。じじ、と街灯が鳴った気がして、ぼうっと空中を見上げた私に「文香」と奏さんが声をかけた。 「……奏さん、どうして」 「あなた今日、レッスンを連絡なしに休んだでしょう。電話も出ないし、心配で住所を聞いたのよ」  私はそれでやっと予定のことを思い出して、しかし何の気力もなく俯いた。 「何があったの?」  近寄った奏さんが、私を見つめている気配がした。額に手を当てられて、やっと少し顔を上げることができる。 「……ケイが……」 「ケイ?」  奏さんが少し大きな声を出した。私は驚いて、彼女を見る。 「……猫の名前です。私が、飼っている。大学から帰ったら、いなくなっていたんです」 「……なるほどね」  奏さんはさっと頭を巡らせて、私に質問をした。 「行きそうな場所に心当たりは?」  私は首を振る。「彼女は室内飼いの家猫です。外には出ないんです。だからしらみつぶしに、探していて」 「生まれてからずっと室内だったのかしら」 「……いえ、実家では外に出ることが……」  私ははっとした。「よく、月を見上げていました。家の近くに公園があって、滑り台は、彼女の縄張りでした」  私と奏さんは、満月を見上げる。そして、奏さんが言った。 「行きましょう。心当たりがあるわ」
 数分ほど歩いた場所にあった公園で、私はケイを見つけた。彼女は公園の滑り台の上で、好奇心でいっぱいの目で月を見上げていた。「ケイ!」と私が叫ぶと、彼女はニャアと鳴いて滑り台から私の胸に飛び降りた。安堵の涙がぽたりと落ちて、私は短い嗚咽を漏らす。しっかりと彼女を抱くと、彼女の心臓がとくとく鳴っているのが分かって、熱かった。背中に添えられている奏さんの手は、ほんのりと暖かい。 「とりあえず、あなたの家に帰りましょう」  奏さんが言った。「あたたかいものでもゆっくり飲むといいわ」  家まで私を送ると奏さんは帰ろうとしたが、私はもう少しだけ彼女と一緒にいたくて、家に招き入れた。天井まで届く巨大な本棚と、その周辺に散らばっている大量の文庫に、彼女はあっけにとられている。 「分かってはいたけど、こんなレベルの病気だったのね」  私はすこし恥ずかしくなって、何も言わずにお茶をことりとテーブルに置いた。すぐにするべき質問を思い出す。 「奏さんは、なぜあの公園をすぐに思いついたのですか」 「単純よ」奏さんは言う。「私の家、ここから歩いて十五分くらいなの。私たち、家が近いことも知らなかったのね」  私はそれで、なかよくして欲しいというプロデューサーさんの言葉をやっと思い出した。 「……すみません、私、人と話をするのが、うまくなくて……」 「文香だけのせいじゃないわ」  奏さんは、一冊の本を手に取って、私に問いかけた。 「私も聞いていいかしら」  私はその口調に、なにか非難めいたものを感じて、たじろいでしまう。落ち着くために、ソファに座ってから「どうぞ」と言った。 「なぜ猫に、ケイ、なんて名前をつけたの」  私は、彼女の質問についてしばらく考えた。そして、彼女が私に手渡した本に目をやって、やっと合点がいく。  それは、夏目漱石の『こころ���だった。私は思わず吹き出してしまう。 「なぜ笑うの、文香」 「……いえ、その……���ふふ、ケイと聞いた時に、『こころ』のKが思い浮かぶのは、よほどの病気ですよ、奏さん」  奏さんは、さっと顔を赤くして、「じゃあ、一体どういう意味?」と聞いた。 「そうですね、ケイ、と言ったら、恵む、継ぐ、など色々当てられる字はあるでしょう……。それらでも私は十分詩的だと感じますが……ケイについて言えば、もっと実務的ですよ」  はあ、私は息をついて、彼女を見た。 「ケイは、アルファベットの十一番目のKです。……彼女は彼女の母親の、十一番目の子供なんですよ。寂寞の中で死んだ、浄土門のKではありません」  私がそういうと、彼女は全てを理解して、糸が切れたようにふら、とよろめいた。そして私の隣りに座ると、真っ赤になっていた顔を覆って、ごめんなさいと言った。 「勘違いをしたわ。私、文香をとても冷たい人だと、一瞬だけ思ってしまったの」  そして、私を涙でいっぱいの目で見て「ごめんなさい」と繰り返して言った。 「なぜ、泣くのですか」と私がびっくりして言うと、彼女は口元だけで笑って答える。 「多分、恥ずかしいのが半分」  そして続ける。 「どうしてかしら。救われた気がしたの。ケイという名前に、あなたが意味を見出していなかったことが、何故か嬉しくて」  そう言って、彼女は私の手を取って、親指で少し撫ぜた。 「だから、ありがとう。それがもう半分」
 落ち着いてからお茶を飲んでいると「そう言えば、私達の名前にもケイが入っているわね」と彼女が何気なく言った。 「……本当ですね、ふみか、かなで」 「ユニット名の候補に使えそうね」 「ケイを、ですか」 「まさか」奏さんは笑う。「猫に悪いわ。もうちょっとひねらないと、そうね……」 「つなげてしまって、ふみかなで、とかでしょうか」 「悪くはないけど、もう少し短く……文頭に持ってきて『かなふみ』とかはどうかしら」  かなふみ。私は口の中で言葉を転がして、中々だ、と思う。 「……大変柔らかい音で、私は好きです。きっとひらがなで表記するのですね」 「そうね」  かなふみ。奏さんも発話した。ふふ、と笑う。 「今度、プロデューサーさんに伝えてみましょう。気に入ってくれるといいわね」
 * * *
「ごめんなさい、少し遅れてしまったわ」  私が謝ると、文香は頭を振って、顔を綻ばせた。 「私も、いま来たところです」  そんな定番のやり取りすら嬉しくて、私たちは顔を見合わせてふふふと笑う。  先日のおれいがしたいのですが、土曜日のごごはあいていますか、確か文面はそんな内容だったと思う。私たちは少しずつお互いのことを知っていって、私は文香があまりに機械に疎いのでびっくりしたのだった。幾つかの、定番の連絡用アプリケーションを彼女のスマートフォンに入れてやって、その全てで私は彼女の最初の友だちになった。彼女は満面の笑みで眩しく私に笑いかけ、そしてその場で辿々しく、私をデートに誘った。私はくらりとして、もちろん、と返信をした。  彼女のそういった拙さは、私の目にはのびのびとした自由さに映った。彼女はあらゆる世俗的なことがらから自由で、自分がやりたいように本を読み、自分がやりたいようにステップを覚え、自分がやりたいようにうつくしい言葉を大事そうに手渡してくれた。文香は信じられないような速さで、私と並ぶように走っていて、そしてもちろん、彼女は漱石を知っていた。私よりも、数段詳しく。  「おれい」の内容は自由に決めていいということだったので、私は彼女を自由に飾り付けてしまうことにした。代官山をぐるりと周り、渋谷にも歩いていって、あらゆる服飾を彼女に着せてみた。文香は信じられないくらいスタイルが良く、それを信じられないくらい野暮ったい服で隠してしまっていた。今年流行りの帽子と眼鏡を被せて、初夏を思わせる青々とした色のブラウスとダークブラウンのガウチョパンツを合わせ、少しヒールのあるショートブーツを履かせると、彼女は見違えるぐらい美しくなった。あれもこれもと着せてしまった私自身がちょっとはっとするくらいの生命力が彼女から溢れ出していて、周囲の人間が見とれているのにいらいらしてしまうくらいだった。文香はそれくらい、素敵だった。
 ちょっと落ち着こうと入ったカフェで、私は彼女と再会した。  彼女は、そのカフェでディスプレイの中にいた。正確には彼女の姿が映っている訳ではなく、彼女の曲がさらさらと流れていたのだ。そこに彼女のクレジットが流れてはいなかったが、私には一発でそれは彼女のトラックだということがわかった。彼女と私のつながりが、そうさせてしまったのだと思った。  それは手触りの良いポップスで、画面の中で踊る有名なアイドルユニットのために書かれていた。ぱっときいた印象としては聞きやすいが、最新のトレンドを多様なジャンルから拝借していた。ときどき王道から外れる微妙な展開があり、それが私の心に心地よく波紋を投げかけていた。私は、文香が「奏さん?」と声をかけるまでうっとりとそれを聞いていた。 「ごめんなさい、なんでもないの」 「あのアイドルが、どうかしたのですか」  文香は買ったばかりの眼鏡越しに、じっと私を見た。 「……本当に、なんでもないわ。気にしないで」  文香にはそう言ったが、私の心には、投げ入れられた音楽によって立てられた波紋が固い波となっていた。それは一年前の記憶と合わさって、やがて耐えられないような大きな波となる。私が乗った帆船の舷から真っ暗な水がばしゃばしゃと入ってきて、私は転覆してしまいそうになった。私の目に、はっきりと涙が滲んだ。私は助けを求めて文香を見る。  そのとき、文香の静かな碧い瞳が私を貫いて、私の舟は文香に全てが委ねられた気がした。びり、と電流が走ったようになって、私のてのひらに、汗が吹き出した。そうして、音が戻ってくる。私のための音が戻ってくる。それは心の内側の、船室とドアと、カーテンの向こう側から聞こえてきて、やがてそれは周囲のざわめきとなった。 「……奏さん? その……本当に、大丈夫でしょうか」  文香が心配そうに、私の震える手を取ったので、私は頷く。 「ごめんね、文香。今日は私のそばにいて」  文香は頷いて、もちろん、と言う。 「私の家に来て、文香」私は縋るように文香に言った。 「お願い」
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