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#宮沢賢治と「修羅」 :『春と修羅』第一集における幻想からの一考察
oki-haru · 3 years
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宮沢賢治と「修羅」 :『春と修羅』第一集における幻想からの一考察
序論 第1節 問い
 詩人・童話作家として有名な宮沢賢治は、著作『春と修羅』に収められている「春と修羅(mental sketch modified)」において、自らは「修羅」であると表明している。
四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ
その後、「修羅」は幻想的な自然、神話や伝説上の生き物などに託され、『春と修羅』の中で躍動する。「修羅」という自己規定が意味することとは何だろうか。
 一般に修羅とは、天竜八部衆の一つである阿修羅のことを指す。天竜八部衆とは、仏教における真理、仏法を守護する存在で、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦を含む。これらは鬼や竜などの類であり、インド神話に起源を持っている。中でも阿修羅は、高貴な光の神であったともされる。仏教に取り込まれた阿修羅は、帝釈天(インドラ天)の治める天界、三十三天に属していたが、帝釈天に戦いを挑み破れてしまう。堕天した阿修羅は、海底や地底に住む鬼神・悪神として扱われるようになる。六道輪廻では、天界、人間界に続き修羅界が定められ、人間よりも下等であるとみなされる。
 文学者の小野隆祥(1979, p119)は、「なぜ修羅と称したのが、歴史的に賢治だけであったか」が解明されない限り、賢治=修羅論は終わらない」とその特異性に注目し、賢治の「修羅」を論じるには①「修羅」の意味(定義)、②「修羅」という自己規定が生まれた経緯、③「修羅」を選んだ賢治の特異な主体性の解明、の三つ論点が核となることを示した。そして、特に①と③はこれまでの研究で問われてきたが、②のいつ何からどのような影響を受けて「修羅」の意識が生まれたのか、について具体的な考察が必要であると指摘した。
参考文献 小野隆祥『宮沢賢治の思索と信仰』(泰流社、1979年)。
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kinu-kakimoto · 5 years
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「他者」がいなくなる時、
たった独りの私
「──〈自己であるような他者〉 ──。意識においてそうであるまえに、非意識において、つまり身体においてそうなのだ。」
(見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』〔1984〕岩波書店 同時代ライブラリー77、74頁)
 他者を考えることは自分自身を考えることであり、自分自身を考えることは他者を考えることだ。このことを、色々な場面で考えることが多かった。また、作品を制作する中でも根幹的な大きなテーマとして、常に取り上げていきたいと考えている。しかし、世界との繋がりや、関係を考える糸口になっていた、その「他者」の存在が揺らぐことがある。あゝ彼処に土との一体化を明確に始めようとする木、そこにぽつりと生える木の子を認めた。あの木の子の笠の陰にはほんとうに、何も存在しないのだ。量子物理学に関心を持っているときでも、そう感じる経験はあった。五月の心地よくぬるい風と躑躅の花は番いであるだろうが、満開になった密集をかき分けて奥の枝を覗くと、また此処には、ほんとうに何もないと思ってしまうのだ。何もない、何もみえない、何もきこえない、何も捉えることが出来ない。そんな、普段あたしが考えようとしていた繋がりだとかと矛盾したようなことに立ち会う度、妙にドキリとする。
 昨年の九月の下旬に宮城県に一人で演劇を鑑賞しに行った。その旅の中で、前述したような「何もない」を自分と離れたところに見るのではなく、自分自身の中に認め、それ以外にも何もかも、存在という言葉さえないように思われる体験をした。このことはテキストを冊子に纏めた自身の作品、《手記》に《晩夏の日》という手記として書いた。
「あたしはあの海を探していた。二十時、「海岸」の文字が入る駅で降りる。うすい緑色の風が吹いていた。近くに海岸公園があるらしいから向かうことにした。公園はすぐそこにあって、着いてから暫く歩いてみる。けれども全く海は見当たらずに、ほんとうに、なまぬるいのに透き通ったように何もみえなかった。貝殻や砂粒の一つ一つの慄えは聴こえない。巨きな金属の響きがごんごん聞こえるだけだ。海岸を探すけれどとうとう見つける前になんだか怖くなってしまった。
元来た駅のあかりを認めたとき、星々すらをも見れずにいたのを思い出した。ぽつぽつと立つ松の木だってちっとも美しくなくて、化石なんかも埋められ、全く隠されてしまったようだった。
怯えたような独りのあたしと 不慣れな祈り
自分の感覚が人間で飽和していることがひどく悲しかった。あたしの祈りはまだ不慣れなものだと痛感した。悲しみが痛い。」
(柿本絹『手記』〔2019〕、晩夏の日)
 真っ暗な公園を一人で歩いた。何も見えなくて、何も存在しなかったあの時、何故だか本当に怖くて仕方がなかった。だが、海岸公園から駅に戻り、電灯の明るさに安心しながらこの《晩夏の日》の元となる殴り書きをしている時に、リズムのイメージが浮かび上がり思い出されてきた。よく分からない恐怖感の中で海岸を探すが、全く見つけることが出来ない。しかし、ゴンゴンという、19年と短いながら人生の中できいたことのない巨きな金属の鳴る音が公園中に響いていたのだ。これは決してあたしの妄想や虚言の物語ではない。海特有の、"炭酸水が沸騰して蒸発するような波の音"が聞こえない代わりに、本当に巨きな金属が響くのを、あたしは確かに聞いたのだ。
 間 –世界論(誰のものでもないゆえに、他者と自分たちのことにもなる共通世界論)。敬愛する先生による講義を思い出す。海岸公園での巨きな金属の音をきいた体験が、講義内で紹介された「共通世界」や「間(あいだ)」と同義であるものかは、まだ考えきれていない。しかし、あの正体不明な金属の響き、リズムは確かに、人間であるあたしと、全く分離したようであった世界とを結合させた。
*正常な世界の虚構 *真ん中は空洞
(メディア概論Ⅱ第3回「間 –世界論(誰のものでもないゆえに、他者と自分たちのことにもなる共通世界論)」での絹のメモ)
 正直にいうと、その講義を受けるまでは共通世界論に通ずることとして、「リズム」であったり「音」などの視点からは自覚的に注目したことがなかった。当たり前のことだが、耳は目と異なって常に開かれている。自分の意思で機能をon/offと切り替えたり出来ない。だから、無意識的に音/リズムを流しながら捉えていたということもある。しかしながら、改めて考えると、脳のニューロンの電子回路を通ることなく、実は身体に感覚されているもの、それこそあたしの言っていた「他者」との繋がりを考える中で重要になるものではないか。
 あたしの使う「他者」とは人間は勿論のこと、人間ならざる他者も含む。それは動物や植物など凡ゆる生物であり、無機物さえもそうで、自然現象なども含むものとして考えている。
 では、自身の作品において「他者」との繋がりを考える為の共通物質、共通世界へ通ずる糸口はどうであるかと考える。先に書いた先生の講義、第8回目において、「ギブソンの生態光学(Ecological Optics)」では、James Gibsonを主軸に、「光」について、光源からの放射光や媒質の中の包囲光などの紹介があった。他にも、光の集合体であったり、人間に限定されない視覚のあり方など、とても印象に残っている。
 講義内でみたルイス・カーンのキンベル美術館の映像や写真では、建物の周りに広葉樹が密集しているところが強く印象にある。それは建築物と天空が決して分離しているわけではない、と思われたからだ。大学に入ってから、今まで記録以外にはほとんど扱ったことのなかった、写真を学んだ。ピンホール現象というものを知り、密生した木の作り出した葉の集まりは、葉の重なりと隙間が天空と太陽、光を繋ぐ窓/交通路としてあるのではないか、などと思ってしまった。葉を通り抜ければ、太陽が地に写されている。
 また、バングラデシュの国会議事堂の映像も印象的であった。会議場を見上げた時に広がるのは、照明の導線とライトの美しい網目、その向こう側に幾何学的な形と光がある。講義中、行ったことのない国の、しかし確実にそこにはまた「網」が広がっていることに、どうしてか安心したような気持ちになった。国民の多くがイスラム教徒であるため、国会議事堂でありながら、祈りの空間であることもそうだ。彼処には人々の祈りの声、響き、リズム、光があるのだ。
 丁度、学部一年生の成果展に向けて制作していた、空間に浮遊する網とそれに編み込まれた停車場としてのビーズ(ガラスの粒)とイメージが繋がる部分が多かった。《連続無窮の網》と名付けた網は、網状の帯が空間に浮遊する中でお互いに交差し、編まれて、空間に大きな網を出現させるものである。ガラスは動的な物質が冷やされたり、また高温で熱されたりして、可変するところを生け捕りにされているように思われる。そんな小さなガラスの粒は、光を受けて煌めく。しかし、その生け捕りされた小さな粒を観察すると「色」というものが、いかに不確実であるかを、改めて考えさせられたりもした���
 「光」や「色」を他者との共通項として用いるには、自ら光の網目に入っていかなくてはな���ない。そう考えていたら、眼が光を発している、なんて一見オカルト的なことも実はあり得るのだと思い出した。眼球の網膜に射し込んだ光は、網膜にぶつかった後眼球を飛び出す。動物で言えば、例えばイヌやシカなどでは、網膜の奥にタペタムというらしい反射板を持っている。フラッシュを焚いて彼らの写真を撮ると、そのまなこが光って写るのは、それによることらしい。人間の眼がフラッシュで赤目になって写るのは、反射板を持たないために網膜の赤を捉えているのだ。自らが発光しているわけではなくとも、あたしたちの発光に抱く定義より微量であっても、まなこは光を外部に放つ。
 日が落ちてから、動物の眼が光って森の中を浮遊している。太陽の強さで感覚し辛くとも、無数の眼差しは交差しあう。
 夜に光が浮遊するというのも面白い。一番初めに書いた海岸公園では、あたしはちいさな光さえ認めることができなかった。でも、あの漆黒に包まれたような公園は暗闇の中ではなかっただろう。あたしの器官では、感覚しきれない光の粒子群が浮遊していただろう。
・暗闇ではない黒色に揺蕩うスペクトル 
・余剰次元にも連なる自己であるような凡ゆる他者の複合体
・あたしのまなこでは捉えきれないミクロな貴方と
・あたしの器官では感覚しきれないリズムと
・無窮の宇宙で粒子の愛すべき事物と交わったり 
・みえない黒の可変的な極微のそれと浮遊して泳いだり
・極微な共通物質
(柿本絹『手記』[2019]、詩からの抜き出し)
 自分の認識を支える「感覚」が確かなものだと、どうして言えよう。また、認識された感覚だけによって世界は構成されているのだと、どうして言えよう。まだ見知らぬ「貴方(他者)」の存在に気が付いたときに、ひどく安心して涙が溢れる。何だかとても救われたような気持ちになる。
 しかし、やはりたった独りきりであると、人間的な感覚に飽和した自我に悲しくなったり、絶望感のような気持ちを抱く時がある。どうしても、「愛すべきあの他者たち」が感覚できなくなったりする。しかし、それはネガティブなことだ、というだけでもないだろう。途轍もない緊張感を持って美しく潜んでいる「他者」の姿の可能性に、まだ気がついていないのかもしれないとも思うのだ。
 見田宗介は《宮沢賢治 存在の祭りの中へ》で、*自我の羞恥*焼身幻想*存在の祭り*地上の実践、という環をあげる。地上の実践として、たった独りのあたしであっても、自分自身である他者を思うということ、他者を思考し愛するということをやめたくない。作品制作という実践を通して、コモンウェルスとしての社会を考え続けたい。だからあたしは今日も、集合体としての他者を彫刻し、共通世界・間世界に繋がる糸口を見つけていきたいのだ。
◯参考文献、資料
・見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』〔1984〕岩波書店 同時代ライブラリー77
・吉本隆明『宮沢賢治』〔1996〕ちくま学芸文庫
・『志樹逸馬 詩集』若松英輔 編〔2019〕亜紀書房
・若松英輔『詩集 燃える水滴』〔2019〕亜紀書房
・Felix Guattari『三つのエコロジー』〔1997〕平凡社ライブラリー
・中沢新一『レンマ学』〔2019〕講談社
・酒井潔『ライプニッツのモナド論とその射程』〔2013〕知泉書館
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』『インドラの網』『青森晩夏』『マリヴロンと少女』『おきなぐさ』『春と修羅』
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oki-haru · 3 years
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序論 第2節 問いの重要性(※抜粋)
 文学者の秋枝美保は、主著『宮沢賢治 北方への志向』(朝文社、1996年)の中で、『春と修羅』における「最大の謎は、「修羅」と規定されている心的な体験の実態が明確でないこと」だと指摘する。その上で秋枝は、「修羅」が成立するきっかけとなった体験を特定する一つの論を試みた。結論から述べれば、その体験とは亡妹トシの死後の行方を捜しに向かった樺太への旅行である。賢治は 1922(大正 11)年11月、最愛の妹トシの死に接する。その後行った 1923(大正 12)年8月の樺太旅行を「自らの信仰のあり方を窮極まで問い詰める行為」と捉え、「それまでの自己の捉え直しがなされた結果、「修羅」としての自己のあり方が明確に見えてきた」と考察する。樺太旅行以前の賢治は、信仰の迷いの中にある一方、当時の進化論、発掘ブームもあいまって、山岳信仰やインド神話など古代と人類の起源への関心が強く、それらのイメージを幻視するほどであった。ゆえに賢治は、岩手県内や樺太における古代的な聖地を巡って信仰を究めようとしたのであり、その聖地行を第一集に記したのである。しかし樺太旅行では古代志向の限界に突き当たり、これまでの自分の状態は「修羅」であったのだと認め、それを否定し方向転換を図ったという。
 けれども、本当に賢治は「修羅」としての過去を否定したのであろうか。第二集を読んでみると、インド神話や仏教に基づく語りが増え、鬼神とその周辺の神々の登場回数も多い。むしろ賢治の修羅性や古代志向は強まっていると言えまいか。本研究は、秋枝美保による『春と修羅』研究の成果を受け継ぎつつ、樺太旅行における「修羅」確立の様子を、その前後の過程も踏まえて再検討する。そして小野隆祥の提示する「修羅」の三つの論点を問い直し、 それらを総合することでより具体的な「修羅」像への肉薄を試みる。
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(撮影 2017年4月2日14時前)
2017年4月2日~3日:岩手県花巻市への卒論旅行
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oki-haru · 3 years
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序論 第3節 先行研究 3 『春と修羅』研究
 「修羅」論は『春と修羅』研究に含まれるが、作品論だけでなく作家論の切り口からも論じられる。『春と修羅』 研究を分類すると、「修羅」「心象スケッチ」といった中心概念を論じるものと、個々の心象スケッチ、章、全体の構成など様々な単位で論じられる作品論とに分けることができる。『春と修羅』研究も細分���されているため、ここでは二点に絞って先行研究を振り返りたい。一つ目は「修羅」論、もう一つは、樺太旅行を記録した詩章「オホー ツク挽歌」についての研究である。
3-1 「修羅」論
 「修羅」については、既に述べた三つの論点①「修羅」の意味、②「修羅」という自己規定が生まれた経緯、③「修羅」を選んだ賢治の特異な主体性、に沿って今まで注目されてきた先行研究をまとめる。
 最も研究が重ねられているのは、①「修羅」の意味である。
 一つ目は、仏教の側面からの考察である。梅原(1977, p100)によれば、「修羅」とは、食べて生命を維持するためとはいえ、殺し合いという悪を避けられない存在である。つまり賢治は食物連鎖の現実を「殺し合いの世界」すなわち修羅界と捉えたがために、賢治以外の他の生物もみな「修羅」であったという。そして「殺し合いの世界」から解放されるには自己犠牲という菩薩行が唯一の道であり、利他行為のための自死は賢治にとって価値あるものであったと主張する。
 二つ目の「修羅」は、関係性を示すものである。天沢退二郎(1986)は、賢治が「修羅」という自己を発見したことを「世界との関係」あるいは自分の位置の発見であると述べた。これに似た構造をした「修羅」の定義に、恩田逸夫(1991, p316, p326)の 「まこと」を求めるからこそ意識せざるを得ない「まこと」から外れてしまう自己、というものがある。その結果「真実なるものは宗教的な当為性であって、この純粋性を守るために、感性的唯美的傾向を抑圧している」と考察する。ここで「まこと」とは仏教が導く真理であり、「感性的唯美的傾向」とは恋愛や性愛のことである。 
 一つ目の梅原による「修羅」が絶対的な悪とされていたのに対し、二つ目の「修羅」は相対的な悪である。しかし、どちらも悪であり否定されるべき存在である点で共通している。
 三つ目は「修羅」を肯定的に理解するものである。小野隆祥は、先行研究が示してきた「修羅」の定義は「生命の構造」と「生命のエネルギー」の二つに大別できるとした。「生命の構造」 とは仏教の枠組みで「修羅」を捉え、「修羅」を否定し克服すべき存在であるとみなす、上記の二つの「修羅」の意味である。他方「生命のエネルギー」は「修羅」をエネルギーの発露とみなし、その力を肯定し賞賛するという。小野はこれらの立場を融合した「自己否定・自己克服のエネルギーあるいは意志」が「修羅」であると考え、賢治の「修羅」という自己規定に賛同の意を示している(p118)。
 ②「修羅」という自己規定が生まれた経緯には、「修羅」の出典は何か、賢治が自身の「修羅」を意識するように なった出来事は何か、という二つのポイントがある。
 出典について重要な研究を残したのが小野隆祥であり、その出典に書かれている「修羅」の意味から③賢治の特異な主体性までを論じた。小野によると、中学を卒業して浪人時代を過ごしている時に出会った島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』の「法華義疏」が解説した「修羅」の起源が、賢治の「修羅」理解の核にある。賢治は「修羅」が元神であったのに鬼神に堕とされたことを知り、不条理に屈している自分の現状と重ね合わせたのだという。そして「修羅」は賢治に主体性を獲得しようとする力を与えたのである(p134, p138)。
 具体的な出来事については、恋や教員時代における同僚や生徒との人間関係の軋轢という理解が広く受け入れられていた(小野, 1979;天沢, 1986)。問いの重要性で取り上げた、秋枝美保の考察はこれらの研究に連なるものである。
 最後の③「修羅」を選んだ特異な主体性については、社会学者の見田宗介の論考が挙げられる。見田(2001)は、賢治は視線に敏感で、それゆえ外・遠方から聞こえてくるはずの客観的な声が自らの内部の声に変換されてしまう資質を持っていたと推測する。その結果、「自己をくりかえし矛盾として客観化すると同時に、この矛盾を痛みとして主体化する」修羅の倫理を自我に宿したのである。
参考文献 栗原敦「『春と修羅』第一集」『国文学 解釈と教材の研究』第34巻第14号(1989年12月)。 梅原猛「修羅の世界を超えて」『地獄の思想』(中公新書、1967年)『文芸読本宮澤賢治』(河出書房新書、1977年12月)。 天沢退二郎『《宮澤賢治》鑑』(筑摩書房、1986年)。 恩田逸夫「宮沢賢治と川・橋・らんかん:「川」を契機とする「修羅」意識の系列」『宮沢賢治論2 詩研究』新装版(東京書籍、 1991年)。 見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店、2001年)。
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oki-haru · 3 years
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序論 第4節 研究方法
 文学者の境忠一(1975, p144, p147)は、賢治には幻想を「信仰の確証として体験」する「信仰の幻覚性」があったと分析している。確証を得ようとする態度は、科学的手法をとった姿勢と一貫していると考えられる。
 したがって本研究は、第一集に登場する三つの幻想①〈巨きな白く光る素足の生物〉(以下、〈素足の生物〉)、②〈天人〉、③〈鬼神〉 に着目し、「修羅」の有り様を探っていく。〈素足の生物〉は賢治の修羅性とも関わる幻想の原体験であり、それは〈天人〉との深いつながりがうかがわれる。また〈鬼神〉は「修羅」の別の呼び方である。
第5節 各章の概要
 本論文は三章構成であり、各章は次のような内容となっている。
 第1章では、「まことの道」という信仰を軸に〈素足の生物〉と〈天人〉の関係性を分析し、〈素足の生物〉には 「修羅」の聖性を引き出し、賢治を天に導く役割があったことを指摘する。
 第2章では、樺太旅行中に書かれた心象スケッチを分析し、「修羅」成立を論じる。トシの死に関して〈素足の生物〉はどのような意味を持っていたのか、〈素足の生物〉はどのようにして失われたのか。そして〈素足の生物〉 への思いを断ち切るまでの過程を追う。
 第3章では、これまで〈素足の生物〉を中心に天上の明るく華やかな空間が描かれていたとされる天の幻想が、 樺太旅行を経て暗転し、幻想が〈鬼神〉すなわち「修羅」を表すものになっていく様子を明らかにしたい。
参考文献 境忠一『宮澤賢治論』(桜楓社、1975年)。
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oki-haru · 3 years
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本論 第1章 「まことの道」と天の幻想 第1節 幻想に導かれた信仰:〈巨きな白く光る素足の生物〉の系譜
 1923 年までの詩や童話には、幻想の〈素足の生物〉が登場する。〈素足の生物〉は宗教意識との関連が指摘されており、例えば、童話『ひかりの素足』では如来を表しているとされるが、何者であるか未だ明確な答えは出ていない。〈素足の生物〉という幻想は、賢治の信仰にとってどのように存在だったのだろうか。
1〈巨きな白く光る素足の生物〉との出会い
 賢治が初めて〈素足の生物〉を書き記したのは、1919(大正8)年に盛岡高等農林学校時代の親友、保阪嘉内へ宛てた書簡[153]だと思われる。
石丸さんが死にました。あの人は先生のうちでは一番すきな人でした。ある日の午后私は倚子によりました。ふと心が高い方へ行きました。銀色の虚空のなかに巨きな人が横はってゐます。その人のからだは親切と静な愛とでできてゐました。私は非常にきもちがよく眼をひらいて考えて見ましたが寝てゐた人は誰かどうかもわかりませんでした。次の日の新聞に石丸さんが死んだと書いてありました。
 「石丸さん」とは、盛岡高等農林学校の教授石丸文雄(1871-1919)である。敬愛していた教授の死に際し、眠りに落ちる瞬間もしくは幽体離脱のような状態で、「親切と静な愛とででき」た「巨きな人」を幻視している。気持ち良く幻想に身を預けている様子からは、安心感が感じられる。
 この書簡に記されている不思議な光景は単なる空想や創作ではなく、賢治が自身の頭や心の外部に実在するなにものかを感受したからこそ生じた幻想だと信じているものである。賢治の感覚の鋭さや激しさ、幻覚をみる性質を示すもう一つの資料がある。1920 年に書かれた同じく、保阪嘉内宛[165]の書簡である。
いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤もです。私は殆んど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。本当にしっかりやりませうよ。
 賢治は「人間界の修羅の成仏」という興味深い事柄を説明する。彼は当時怒りっぽくなっており、怒りの感情が湧くと、視界に赤い光が差し込んだようになるらしい。そして怒りが烈しくなると光も強くなり、辺りの風景は蜃気楼のように歪み、ついには青色に変化するということだろう。賢治にとってその状態は気持ちの悪いことではないが、狂人になりそうではある。そんな「発作」を治めるため、「本当の名称で呼び出し手を合わせ」、「頁を操」 る。これは『法華経』の経本をめくっている様子であり、誦経することで怒りに狂う「修羅」を「成仏」させようとしているのだと思われる。
 第一集における〈素足の生物〉��初出は、補遺「手簡」(1922.5.12)である。
あなたは今どこに居られますか。  (略) いま私は廊下へ出ようと思ひます。 どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい。  その白びかりの巨きなすあしで あすこのつめたい板を 私と一緒にふんで下さい。
 賢治は、「白びかりの巨きなすあし」の存在に「あなた」と呼びかけ、ともに廊下を十往復してほしいと頼む。その行為の意味はわからないが、心を寄せている様子が窺える。
 この詩は、「ひのきの髪はのびすぎました」という一文で始まる。賢治はよく「修羅」を檜や樺に例える(大塚, 1999, p41; 秋枝, 1996, p140)。「原体剣舞連(mental sketch modified)」((1922.8.31))では、「気圏の戦士わが朋たち」である「原体村の舞手たち」に 「ひのきの髪をうちゆすり/まるめろの匂のそらに/あたらしい星雲を燃せ」、と呼びかける。賢治における「修羅」は「春と修羅(mental sketch modified)」((1922.4.8))で、「まばゆい気圏の海そこ」を彷徨し、戦う性質をもつ。「気圏の戦士」は「修羅」以外の何者であろうか。戦士であり舞手の「ひのきの髪」は、そのまま「修羅」の髪である。「手簡」では修羅意識のもとに〈素足の生物〉との交流を図っているのである。
 第一集には登場しないものの、賢治は〈素足の生物〉以外にも「青びと」という幻想を体験しており、1918 年の「青びとのながれ」という歌稿となっている。進路に苦悩する 22 歳の賢治の危機的な精神状態が反映されている幻覚で、北上川と思しき川の流れの中に青色の死人がひしめき流されていく、阿鼻叫喚の地獄絵巻である。彼らは互いの体をむしり、喰らい合う。そして怒りを吐き出し、怒りは「青黒き霧」を作る。この幻想は晩年の文語詩「流れたり」という作品にもなるほど、忘れられないイメージであった。「春と修羅(mental sketch modified)」((1922.4.8))における、「修羅」の怒りの色も青であり、青色は「修羅」の象徴であると考えられる。
 萩原昌好(1994, p197)は、「巨きな人」や「青びと」の幻想は、「賢治の内なるデモーニッシュな何か(略)賢治の内なるウル「修羅」とでも言うべき賢治固有の体験」であると述べる。それぞれ「巨きな人」は〈素足の生物〉の、「青びと」 は「修羅」の萌芽と捉えることができるのではないだろうか。
参考文献 萩原昌好『宮沢賢治 「修羅」への旅』(朝文社、1994年)。
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oki-haru · 3 years
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第1章「まことの道」と天の幻想 2 童子 2-1 幻想の童子
 第一集において〈素足の生物〉の姿がもっとも克明に描かれるのは、長篇「小岩井農場」(1922.5.21)である。 特筆すべきは童子たちの登場である。彼らは「巨きなまつ白なすあし」をしており、賢治から親愛の情を注がれている。
 「小岩井農場」には、発表された定稿の他に下書稿が残っている。まず定稿について考察する。定稿において童子らは瓔珞を身につけており、「これらはあるいは天の鼓手 緊那羅のこどもら」との理解が示される。「緊那羅」 は阿修羅と同じ天竜八部衆であり、帝釈天に仕える〈鬼神〉である。「天の鼓手」といわれるのは、緊那羅が音楽の神だからであろう。彼らは天上界の幻想なのである。
 次に賢治は、彼らを「ユリア」、「ペムペル」という名前で呼ぶ。この名前は、ジュラ紀、ペルム紀からそれぞれつけられていると推察されている(小野, p223)。そして童子らを「わたくしの遠いともだち」とみなし、かつ「どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう」と、彼らが現実にも存在することを熱望している。 これとよく似た描写が第一集の「序」(1924.1.20)に存在する。「新進の大学士たちは(略)白堊紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません」、という一節である。これは「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画」(森佐一宛書簡[200])したものの具体例であろう。幻想の童子たちは賢治の志す新しい宗教に関わると考えられる。
 さて「小岩井農場」において重要なのは、これら幻想の評価である。境忠一が指摘したように、幻想は信仰の内容に影響を与え、信心を強める機能を持っていた。しかし定稿では最終的に、
((幻想が向ふから迫つてくるときは もうにんげんの壊れるときだ)) ((そんなことでだまされてはいけない ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる それにだいいちさつきからの考へやうが まるで銅板のやうなのに気がつかないか)) もう決定した そつちへ行くな いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から 発散して酸えたひかりの澱だ
として退けられてしまう。童子たちとの戯れに心躍らせていた賢治だが、いつの間にか彼らを「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と述べ、「緊那羅のこどもら」という当初の認識を翻している。そして「銅板」のように鈍く硬い、生きていないもの、あるいは腐敗した信心の残り滓とけなすのである。幻想の存在意義を認めるとしても孤独や寂寥を慰めるものとしてである。
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは ひとはみんなきつと斯ういふことになる きみたちとけふあふことができたので わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから 血みどろになつて遁げなくで もいいのです
 「血みどろ」という表現から賢治のさびしさがどれほど厳しいものかが想像される。 定稿では、幻想と幻想に惑わされた信仰を否定した後、然るべき信仰を宣言する。
もしも正しいねがひに燃えて じぶんとひとと万象いつしよに 至上福祉にいたらうとする それをある宗教情操とするならば そのねがひから砕けまたは疲れ じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと 完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする この変態を恋愛といふ そしてどこまでもその方向では決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を むりにもごまかし求め得ようとする この傾向を性慾といふ
 特別なたった一人の幸福を祈ることは恋愛であり、それは間違った願いであるが、万人の幸福の祈願は正しい信仰の形である、という宗教的倫理の表明である。
 次に下書稿を見てみよう。下書稿における童子らは全部で三人である。ユリア、ペムペルに加えてツィーゲルが登場し、「透明な/光の子供らの一列」「透明な魂の一列」と括られる。第一集「序」の「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」に通じるかもしれない。 繰り返すようだが、童子たちの「足はまっ白で光る。介殻のやう」である。
 下書稿における幻想の童子たちの評価は、定稿と真逆である。幻と自覚しながらも幻想こそが真実であり、「尊い」のである。むしろ幻想を感じられない人々が「まちがひ」であり「わるい」、「月並過ぎる」とまで述べる。下書稿における幻想の価値は高いのである。
 文学者の杉浦静(1993)は、定稿に至るまでに使用されている原稿用紙の状況から、1922 年までに〈下書稿〉と〈清書後手入稿〉の二回、1923 年秋から 1924 年 1 月頃までの〈詩集原稿〉、と計三回の差し替えが行われていると分析した(p44)。この三段階の差し替えは第一集全体に及び、かつそれは信仰にまつわる部分に集中的に行われているという(入沢, p114)。これが意味するのは、1922 年 5 月〜1924 年 1 月の間に賢治の信仰に重大な変化が起こったということである、と秋枝(p183)はまとめる。因みに「小岩井農場」には、童子とは異なる次のような幻想も登場する。
おゝ何といふあなた方はきつい顔をしてゐるのです 光って凛として怖いくらゐです。 羅は透きうすく、そのひだはまっすぐに垂れ鈍い金いろ、 瓔珞もかけてゐられる。あなた方はガンダラ風ですね。 タクラマカン砂漠の中の古い壁画に私はあなたに 似た人を見ました。  おいおい。幻想にだまされてはいけない。 幻想だと、幻想ならおれが感ずるといふことが実在だ。
 それは壁画から飛び出してきたような、羅と瓔珞を身につけた「ガンダラ風」の、おそらく成人である。金子民雄(1988, p14)は、賢治にとっての西域は「仏教への憧れ、憧憬の地」であると述べる。しかしながらここでも、憧れの幻想は否定されてしまう。以上が、「小岩井農場」において〈素足の生物〉の関連する部分である。
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oki-haru · 3 years
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第1章「まことの道」と天の幻想 2 童子 2-2 天の童子
 賢治は『春と修羅』を執筆していた時期に並行して、西域をテーマにした童話も創作していた。彼が「西域異聞三部作」とまとめる童話群として、『雁の童子』、『インドラの網』、『マグノリアの木』が該当すると推定されている(金子, p26)。どれも成立は 1922(大正 11)年とされる(杉浦, 1988, p95)。これらの童話では、幻想の童子と同一と思われる子供らが天の童子として描かれる。
 『雁の童子』の主人公は、罰として雁の姿に変えられていた天の眷属の子供「天童子」であり、作中で「雁の童子」と呼ばれる。雁の童子は、調理された魚や売られる仔馬へ同情して涙を流したり、自分のきれいな手と養母の荒れた手を比較して引け目を感じたりする。これらの姿は賢治の分身と捉えることができる。賢治は『歎異抄』の輪廻転生観をもっており、衆生は繰り返される前世で親子兄弟であったと信じていた(松岡, 2015, p197)。1918 年の保阪宛書簡[63] では、「私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません」と述べ、魚への同情を示している。なおこの物語は、雁の童子に似た「三人の天の童子たち」が描かれた古い壁が登場して終わる。
 他の二作における天の童子は脇役的扱いである。『インドラの網』を見てみよう。この物語では、主人公の男性がツェラ高原を夢想し、さらにそのツェラ高原から「天の空間」に「紛れ込み」、そこで「天の子供ら」に出会う。 彼らは「于闐大寺の廃趾から発掘された壁画の中の三人」で、「霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をは」いた 「ガンダーラ系統」の装いをしている。
 もう一つ取り上げるべき、天の童子が登場するテクストがある。タイトルがないため、一行目をとって『〔みあげた〕』と呼ばれる童話・散文の断片である。「西域異聞三部作」より少し前に書かれたとされる(杉浦, 1988, p95)。
そしてもう私の青白い火は燃え尽きてゐた。けれどもおれはあの壁のあの子供らに天から魂の下ったことを疑はなかった。私の壁の子供らよ。出て来い。おゝ天の子供らよ。(略)おれは今日は霜の羅を織る。鋼玉の瓔珞をつらねる。黄水晶の浄瓶を刻まう。ガラスの沓をやるぞ。(略)壁はとうにとうにくづれた。砂はちらばった。そしてお前らはそれからどこに行ったのだ。いまどこに居るのだ。
 ここにおいて、賢治は天の童子を見失ってしまったようである。この後書かれた「西域異聞三部作」や「小岩井農場」は、天の童子を復刻しようとして制作されたのではないだろうか。けれども最終的に、彼らはその存在価値を奪われ、賢治の意識や思想の中心から外縁へ、手の届かない場所へと遠ざかっていくのである。
参考文献 杉浦静「『雁の童子』序説:天人・壁画の中の子供らの系譜」『国文学 解釈と鑑賞』第53巻2号(1988年2月)。 松岡幹夫『宮沢賢治と法華経日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会、2015年)。
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oki-haru · 3 years
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第1章「まことの道」と天の幻想 第2節 〈天人〉 1 天人
 「小岩井農場」と同じ日にスケッチされた補遺「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」(1922.5.21)には、瓔珞を身につけた「生物」が登場し、それは「天人」であると明記されている。賢治は読み手である「あなた」に語りかける。
堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます 実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。 まことにこれら天人たちの水素よりもっと透明な悲しみの叫びをいつかどこかであなたは聞きはしませんでしたか。
 仏教における天人は、六道輪廻の最上位にある天上界・天道に生まれ変わった衆生のことである。天人は解脱までには至っていないものの最も煩悩が少なく、神通力を身につけており、快楽のみを味���って生きていけるとされる。その天上界・天道には、仏法の守護神や神の眷属も住んでいる。
 『インドラの網』の「天の空間」では、「けむりのやうにうす」い衣と瓔珞をつけた「天人」が夜空を翔けている。 しかし微動だにせず、衣もなびかない。まるで壁画を見ているようである。なおインドラはインド神話における雷神であり、仏教に取り込まれると帝釈天と呼ばれ、三十三天(忉利天)という天上界・天道を与えられる。
 童話『ひかりの素足』では、〈巨きな白く光る素足〉の人が『法華経』の「如来寿量品第十六」という言葉とともに現れ、主人公らを死後の苦しみから救済する。ただしこの〈素足〉の人は、仏教の用語で定義されていない。〈素足〉の人には、空中を舞う〈天人〉が付き添っている。以下の部分に現れている。
もっともっと愕いたことはあんまり立派な人たちのそこにもこゝにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやう に空中を翔けてゐましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。 (略)金と紅宝石を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧や黄金のはなびらを落して行きました。
 1918(大正 7)年 3 月の保阪宛書簡[49]でもわずかに「天人」に触れられている。
あたりへ御目にかける様な心持が少しでも自分の心に閃いたときは古の聖者は愕然として林の中に逃げ込み一人で静に天人恭敬すれども以て喜びと為さずと云ふ様な態度に入ったものなさうです。誠に私共は逃れて静に自己内界の摩訶不可思議な作用、又同じく内界の月や林や星や水やを楽しむ事ができたらこんな好い事はありません。これはけれども唯今は行ふべき道ではありません。
 「古の聖者」が幻想の〈天人〉に拝礼するように、自分も不思議な幻想に浸ることができれば幸せだが、今はそれが許されないということだろう。この頃の賢治は、幻想に肯定的であったことが窺われる。
 けれども、天はいつも心地よく美しいものをもたらしてくれるものではなく、苦しみや痛みももたらすものであった。
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oki-haru · 3 years
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第1章「まことの道」と天の幻想 第2節〈天人〉 2 堕天
 心象スケッチ「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」において、〈天人〉は堕天する。彼らは湖に堕ち、「溺れながらその苦い鹹水を/一心に呑みほさうとする」。「それは全く熱いくらゐまで冷たく/味のないくらゐまで苦く /青黒さがすきとほるまでかなしい」ことだという。色の変化、無色化によってかなしさを強調する独特な言葉遣いである。
 「小岩井農場」において〈素足の生物〉は、時に透明な童子や魂であり、「すべてさびしさと悲哀とを焚いて/ひとは透明な軌道をすすむ」という。「青黒さ」が「修羅」の、透明さが天の印であるとするならば、この色の変化は「修羅」の罪が報われ天に回帰できると解釈できなくはない。しかし天上へ行くことが「修羅」賢治の望むことであるなら、それを「かなしい」と感じるのはなぜであろう。
 童話『雁の���子』においてはどうだろうか。『雁の童子』にて、雁の姿に変えられた天の眷属は堕天した存在である。鉄砲で撃たれた雁は、炎に包まれて悶え苦しみ「世にも悲しく叫びながら」人の姿に変わる。彼らは地に落ちると、一人が「私共は天の眷属でございます。罪があってただいままで雁の形を受けておりました。只今報いを果しました。私共は天に帰ります。」と言い、燃え尽き消えていく。この場面で天へ回帰できることに喜ぶ様子は描かれていない。罰のために受けてきた苦痛が凄まじいものであったであろうことが、読者に示されるだけである。苦痛に満ちた処罰が悲しいことで、その悲しみが天への回帰の喜びよりも勝ったのであろうか。
 「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」の堕天した天人は、湖で苦痛を受けることで罪の報いを果たし、天へ回帰できるのだろうか。賢治は続けて「あなた」にこう伝える。このような堕天した人々の話を聞いて想像するだけでは、彼らの苦しみや悲しみを理解できないでしょう、と。そして、彼はこのように続ける。
こんなことを今あなたに云ったのは あなたが堕ちないためにでなく 堕ちるために又泳ぎ切るためにです。 (略) いちばん強い人たちは願ひによって堕ち 次いで人人と一緒に飛騰しますから
 「飛騰」とは「〈菩薩〉の理念の形象化」(杉浦, 1988, p93)とされる。菩薩とは仏教で悟りを求めて修行する人のことで、大乗仏教では自利・利他を求めて修行する人を指す。
 山内修(1991, p117)は、定稿「小岩井農場」 における、万人の幸福を祈願する宗教的倫理の表出をもって、「修羅」は菩薩であると主張し、「自己を煩悩という生の欲望を体現する《修羅》と規定し、その煩悩という存在の悪にからめとられた現存在を汚濁にまみれて生きつつ、なおかつすべての生とともに無上道に至ろうとする存在、これを菩薩といわずして、いったい何を菩薩といい得るだろうか」と断言する。
 1917 年の歌稿 A[435]「わるひのき まひるみだれし わるひのき 雪をかぶればぼさつ姿に」でも、「わるひのき」は「修羅」と目され、「菩薩と修羅との対立、相互転換」(小野, 1979, p141)が歌われていると読まれてきた。ここにおいて、天人と「修羅」は菩薩を介して重なるのである。
 そもそも「修羅」と天は、菩薩を介さずとも近接していた。小野隆祥は、賢治が自身の「修羅」像を形作る上で、 彼の座右の書である島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』中の聖徳太子の解説した「法華義疏」が重要な役割を果たしたと考察する。
聖徳太子による修羅の語釈は、鬼趣摂(鬼の系列、特性に属させること)と説くかのようであるが、実は天趣摂(天に属せしめる)を本来のものと説いたと見てよい。「もともとは鬼ではなく、貶されて鬼とされたのだ」との太子の語釈は、つねに自己卑小感に悩み、限りない反撥心を感じていた賢治を、精神的に救い、解放する作用を発揮する。(p144)
と「修羅」の天の属性に注目する。そして「小岩井農場」には、人間界を拒絶する激情すなわち天へ昇ることを誓願する「ウル修羅」の感情が記されていると分析する(p152, p224)。
 一方大塚常樹(1999, p31)は、賢治は「魔界と仏界の近似性、類同性」に惑っていたと指摘する。例えば、1918(大正 7)年の保阪嘉内宛書簡[63]には、
けれども一寸油断すると魔に入られます。唯摩経にある菩薩の修行をして居る所へ帝釈が万二千の天女を従へて法をきゝに来てその菩薩が法を説いてゐると唯摩が来てこれは魔王で帝釈でないと教へた事がありました。魔の説く事と仏の説くこととは私共には一寸分かりませんでせう。世尊が道場に座したとき魔王の波旬が来てこれを防害し語巧に世尊の魔と闘ふことの悪いことを説きました。
とある。天と魔を区別することの難しさは、「修羅」が天の聖性と〈鬼神〉としての魔性を併存させる「アンビヴァレントな存在」であることにつながるという。さらに大塚(1999)も「修羅」賢治は「捨身布施への投企によって天上世界への回帰」 試みたと述べ、1919 年に書かれた短篇『手紙一』にはそれが表わされているという(p102, p140)。『手紙一』は、自分の体を猟師や虫に分け与えることによって「まことの道」を進んだ竜が天上に生まれ変わり、「世界でいちばんえらい人、 お釈迦様になってみんなに一番のしあわせを与え」る物語である。利他行為によって「修羅」も天に昇ることができるという考えを読み取ることができる。したがって、苦痛に悶えるかなしみの〈天人〉とは「まことの道」を進む者であり、同時に天への回帰を目指す「ウル修羅」といえるのではないだろうか。
 では一体なぜ、賢治は自身のアイデンティティに〈天人〉ではなく「修羅」を選んだのか。〈素足の生物〉の幻想を描いていた頃の賢治は、まだ「まことの道」とその先の天を目指していたと考えられる。
 『ひかりの素足』でも「ほんたうの道」つまり「まことの道」を歩むよう促されるが、そのためには「〔硬い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」の〈天人〉同様、罪の有無に関わらず苦痛に耐えられる人にならなければならない。以下の部分である。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘の野原で弟を棄てなかっ た。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れ るな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ。」
 しかし自己犠牲的・利他的な「まことの道」の修行についていけず、「あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれて」「青ぐらい修羅」(「無声慟哭」)の道を歩んでしまう。
 賢治は、弱く不甲斐ない信心と幻覚を見る特異な体質から、天の属性や性質、聖性の強い「ウル修羅」を自分の中に見出していたと考えられる。彼が「まことの道」から外れてしまった理由の一つは、自己犠牲・利他主義が苦痛と悲哀に満ちているからではないだろうか。菜食主義者でもあった賢治は、人間に命を捧げる動物たちの犠牲に涙を流したという。加えて困窮極まる東北の農村で、賢治の実家は質屋という農民たちに犠牲を強いる商売をしており、彼はその家業を酷く憎んでいた。
 1923 年に書かれたとされる『学者アラムハラドの見た着物』は、西域が舞台の未完の童話である。主人公のアラムハラドは、彼の弟子たちに「人が何としてもさうしないでゐられないことは一体どういふ事だらう」、と問いかける。いくつかの問答から「すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。」という答えが出たところで、アラムハラドが一人の愛弟子に意見を求めると、彼は「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられない」と答えた。それを聞いたアラムハラドの瞼の裏には「軽い黄金いろの着物を着た人が四人」浮かぶ。これは〈天人〉であろう。 彼は「人は善を愛し道を求めないでゐられない」とまとめ、授業を終える。
 「善」は利他行為、「道」は真理のことであり、両者は並列の関係である。つまり自分が善や正しさを好むということと、誰かが善や正しさを必要としていることは独立した事象である。利他行為と真理は簡単に一致しない。けれども賢治は、利他行為と真理を等号で結んだものを「まことの道」と捉えたのではないだろうか。自分の好みのための利他行為は自分にとって喜ばしいことかもしれないが、結局は利己的であり、エゴイズムに陥る可能性がある。
 ゆえに賢治は、自分の利益を完全に度外視した上で得られる利他行為の本質的な喜びと痛みを矛盾なく受け入れられないか思案した末に、むしろ痛みの中に喜びを保存しようとしたと考えられる。苦痛がエゴイズムに向かう心を抑え、深いかなしみが自己犠牲を受け入れさせる。利他行為と真理が一致する地点を「まことの道」と定め、かなしみと痛みが人々を「まことの道」へ導いてくれると結論するのである。
 単なる「いゝこと」ではなく「ほんたうのいゝこと」を追求しなければならないのは、人間の利己的な部分を排さなければ納得できない思いが賢治にあったからである。
 文学者の続橋達雄(1992, p717)は、次のように論じる。
彼は自分の修羅性をごまかそうとはしない。ごまかさずに凝視し、戦慄する。孤独な状態に置かれたこの苦しいいとなみにおいて、凍るようなさびしさを感じていたたまれない。「巨きなまつ白なすあし」を仰ぎみるのはこの時だ。彼が好んで用いる「底」の世界から立直り得るのは、この時である。自己の修羅性を徹底的に見究める苦しい戦いに耐えしめ、その修羅性を否定することによって正しく生きる希望を投げかける力こそ、「まこと」の光にほかならない。
 「まことの道」を進むためには、悲痛に耐え、悲痛を噛み締めなければならないゆえに、遂行が非常に難しかった。菩薩行や罪報の苦痛の場面に〈素足の生物〉が登場するのは、「ウル修羅」を抱えていた賢治にとって〈素足の生物〉 の幻想が「まことの道」の信仰の重要なモチベーションとなっていたからだと考えられる。
参考文献 山内修『宮澤賢治研究ノート』(河出書房新社、1991年)。 続橋達雄「修羅から菩薩へ:宮沢賢治の法華信仰」大島宏之編『宮沢賢治の宗教世界』(北辰堂、1992年)。 大塚常樹『宮沢賢治 心象の記号論』(朝文社、1999年)。
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oki-haru · 3 years
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第1章「まことの道」と天の幻想 第3節 異空間の様相 1 天上界
 『インドラの網』において、主人公が「天の空間」を訪れた時間帯は夜から明け方である。辺りにマルメロの香りが漂い、夜空にはめ込まれた宝石と溶けた黄金の眩い朝日が世界を照らす。「天の空間」の移りゆく空や光��筆致は、探検家スヴェン・ヘディンの『トランス・ヒマラヤ』(1909)に類似している(金子, 1988, p176)。
 夜が明けると空には「インドラ の網」がかかり、そのさらに上空で「風の天鼓」と「蒼い孔雀」が鳴っている。しかし賢治はこう語る。
誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。(略)その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。た��かに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。
 このことから天鼓も孔雀も幻想であり、「天の空間」そのものが幻覚であると意識していることは明らかである。けれども幻想だから、五感で感じられないからといって、実在しないとは賢治は考えていなかった。
2 死後の世界
 『ひかりの素足』は、吹雪に遭難し死にかけた兄弟が、死後の世界にて〈素足の生物〉の特徴を持つ人に救済される物語である。使用されている原稿用紙は三種類あり、二回の差し替えが行われていることがわかっている。まず 1922 年前半に第1次稿が書かれ、1923 年以降、幾枚かの原稿用紙が差し替えられているが、〈素足の生物〉の登場場面は 1922 年当初のままとされている(千葉, 2012, pp82-83)。これは妹トシが亡くなる前の賢治の死生観が描かれていることを示すだろう。
 この童話において死後の世界は「うすあかりの国」と呼ばれ、次のように描写される。
地面はまっ赤でした。(略)まったく野原のその辺は小さな瑪瑙のかけらのやうなものでできてゐて行くものの足を切るのでした。
 実は「小岩井農場」の定稿では、賢治が童子たちに向けて
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも その貝殻のやうに白くひかり 底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
という言葉をかける。『ひかりの素足』と「小岩井農場」の瑪瑙の野原は同一のものであり、したがって〈素足〉の救済者と幻想の童子も重なる。
 『ひかりの素足』では、主人公の兄弟が瑪瑙の野原を泣きながら歩く。すると突然、「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」という言葉が「風のやうに又匂のやうに」「感じ」られ、「まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあし」の人が歩いてくる。
 先行研究では、「うすあかりの国」を地獄界、飢餓界、中有などであると捉え(工藤, 1995)、〈素足の生物〉の特徴を持つ〈素足〉の人を、地蔵菩薩(千葉, 2012, p84)、如来(杉浦, 1988, p93)、釈尊(松岡, 2015, p70)などの絶対者的存在であると解釈してきた。
 〈素足〉の人は、「その柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。地面の棘さへ又折れませんでした。」といわれるように、世界と物理的に干渉しあわない。ここには、賢治の唯心論の考え方が反映されているかもしれない。さらに〈素足〉の人は、「こゝは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」という台詞とともに、瑪瑙の野原を「湖水」のように見え、硬く、冷たく、滑らかな「青い宝石の板」の地面に変貌させる。辺りには立派な建物や橋廊、塔、宝石細工の木が並び、楽音が空から聞こえ、光に満ち、「夏の明け方のやうないゝ匂で一杯」になる。
 分銅惇作(1984, p78)は『法華経』「寿量品自我偈」や『日蓮上人御遺文集』に依って、悟りを得た仏・菩薩の住む浄土を描いたと述べている。ただ〈素足の生物〉が天の童子の場合もあることから、「青い宝石の板」の地面の世界が天上界である可能性も残しておきたい。
 詩章「無声慟哭」における「風林」(1923.6.3)には、以下のような一節がある。
とし子とし子野原へ来れば また風の中に立てば きつとおまへをおもひだす おまへはその巨きな木星のうへに居るのか 鋼青壮麗のそらのむかう(ああけれどもそのどこかも知れない空間で 光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか (略) ただひときれのおまへからの通信が いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ) とし子 わたくしは高く呼んでみようか
 賢治は、死んだトシの向かった「どこかも知れない空間」に「光の紐やオーケストラ」があるかどうか問うている。〈素足の生物〉に導かれる浄土・天上界であるかどうかを気にしているのである。そして賢治の問いかけに答えてくれるトシからの「通信」を信じ、待っている。
 1923 年8月、ついに賢治は「通信」を巡って樺太を旅行する。その旅行中の心象の記録が亡妹トシに捧げる挽歌群となり、第一集の詩章「オホーツク挽歌」を構成する。
 序論で述べたように秋枝美保は、賢治は樺太旅行を機に「自らの信仰のあり方」を「修羅」として自覚し、否定したと考察する。これが「小岩井農場」における幻想の価値の反転をもたらした、賢治の信仰を大きく変える出来事であると考えられられている。
 本研究は「修羅」の自覚という点を参考にしながらも、否定した「自らの信仰のあり方」とは〈素足の生物〉に支えられた「まことの道」であると考えてみたい。そして第2章では、樺太旅行で賢治に「修羅」が根づいていった過程を分析する。
参考文献 金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』(白水社、1988年)。 千葉一幹「「ひかりの素足」から「青森挽歌」へ:信仰の危機としてのトシの死」『人文・自然・人間科学研究』第27巻(2012年3月)。 工藤哲夫「中有と追善:宮澤賢治「ひかりの素足」論」『研究紀要』第8巻(1995年3月)、1-8頁。 杉浦静「『雁の童子』序説:天人・壁画の中の子供らの系譜」『国文学 解釈と鑑賞』第53巻 2号(1988年2月)、92-97頁。 松岡幹夫『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会、2015年)。 分銅惇作「「ひかりの素足」:浄土のイメージについて」『国文学 解釈と鑑賞』第49巻第13号(1984年11月)。
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oki-haru · 3 years
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XIV
第2章 天の幻想の試練
 樺太旅行は 1923 年 8 月 1 日〜12 日に行われた。表向きの目的は花巻農学校教師としての出張である。生徒の就職依頼のため樺太にある王子製紙を訪問し、他にも鉄道に乗ったり標本の採集をしたりする楽しみがあったとされる。しかしその裏には、トシの魂の転生先を見極めるという重大な課題が隠されていた。挽歌と銘打たれているように、詩章「オホーツク挽歌」には一貫して、愛する人を亡くした悲哀が通奏低音として流れている。
 キーワードとなるのは「通信」、「異空間」、〈素足の生物〉の三つである。賢治はトシの死を浄土・天上界・地獄 などの「異空間」への旅立ちと捉え、かつ亡トシから〈素足の生物〉にまつわる幻想の「通信」を執拗に求めた。
第1節 亡妹トシの行方 1 トシの臨終と幻想
 心象スケッチは樺太旅行の初日から始まる。花巻から青森へ向かう夜行列車の中で、賢治は「青森挽歌」 (1923.8.1)を記した。『銀河鉄道の夜』の原型とも言われる長篇である。彼の乗る汽車は「銀河系の玲瓏レンズ」、 線路の走る夜の野原は「巨きな水素のりんごのなか」に見立てられる。車室のまどろみの中、賢治はせわしく悲壮な「心意の明滅」に溺れる。あちこちに飛躍する思考を整理することなくそのままに記録し、その想念や視点、意識の層の移り変わりが、字下げをしたり括弧で括ったりといった表現方法につながっている(秋枝, 2004, pp67-68)。
 賢治の妹、宮沢トシは1922(大正11)年11月27日、24歳の若さで肺結核により亡くなる。賢治より二歳年下であった。「無声慟哭」(1922.11.27)で伝えられるように、トシは信仰の同志であり最愛の妹であった。貞淑な才女であったといわれるが、彼女の書き残したわずかな資料からは、死への関心と葛藤、人々のためいかに生きるかという問いへの真摯な姿勢が窺われ、「厳しく強靭な意志と近代的自我をもった女性」(菅原, 1998, p53)であったと指摘されている。信仰に生きる決意、利他主義といった賢治の特徴はトシにも共通しており、それはむしろ彼女の方が先行していた(山根, 2003, p126)。 賢治が「まことの道」を諦めず進もうとするのは、「まことの道」あるいは菩薩行に取り組むトシの姿に触発されていたから、という推論は大きく外れてはいないだろう。
 賢治はこれまで何度もトシの転生先について答えを出そうとしてきたが、心労のため挫けてしまっていた。汽車の中で、賢治はトシが鳥に転生したと想像してみる。しかし「わたくしはどうしてもさう思はない」とその想像を否定し、続いて「なぜ通信が許されないのか」と問う。答えの出ない賢治は、臨終場面を回想する。
とし子はみんなが死ぬとなづける そのやりかたを通つて行き それからさきどこへ行つたかわからない それはおれたちの空間の方向ではかられない 感ぜられない方向を感じようとするときは たれだつてみんなぐるぐるする ((耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい)) さう甘えるやうに言つてから たしかにあいつはじぶんのまはりの 眼にははつきりみえてゐる なつかしいひとたちの声をきかなかつた にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり それからわたくしがはしつて行つたとき あのきれいな眼が なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた それからあとであいつはなにを感じたらう それはまだおれたちの世界の幻視をみ おれたちのせかいの幻聴をきいたらう (略) ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち あらたにどんなからだを得 どんな感官をかんじただらう なんべんこれをかんがへたことか
 賢治の回想は、ある仕組みに則っている。「わたくしたちの空間」に属する肉体は死んでしまっても、死者は「おれたちの空間」を感受する新しい感覚器官を手に入れる。その感覚器官で、ものを見たり聞いたりすることは「幻視」 や「幻聴」と言われる。新しい感官を得たトシなら賢治の幻想の世界を感受することができたのではないか、という論理を構築しようとしている。つまり「わたくしたちの空間」は家族なども共有する現実、「おれたちの空間」は賢治とトシ二人だけの幻想であり、人称代名詞の使い分けによって区別しているのである。
 したがって「おれたちの空間」といわれた幻想世界はまさしく、賢治がこれまで繰り返し描いてきた浄土・天上界と思しき〈素足の生物〉の「異空間」である。これこそ賢治の望む結末である。ゆえに「青森挽歌」にも、トシの転生先の一つとして以下のように、〈素足の生物〉の幻想空間が描かれる。
われらが上方とよぶその不可思議���方角へ それがそのようであることにおどろきながら 大循環の風より もさはやかにのぼつて行つた (略) そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ あまりにもそのたひらかさとかがきと 未知な全反射の方法と さめざめとひかりゆすれる樹の列を ただうつすことをあやしみ やがてはそれがおのずから研かれた 天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき 紐になってながれるそらの楽音 また瓔珞やあやしいうすものをつけ 移らずしかもしづかにゆききする 巨きなすあしの生物たち
 しかしいくら望んでもトシは〈素足の生物〉にまつわる「通信」を送ってこない。そのことが、賢治の「妹を失ったことによる賢治の信仰の揺れがどこにあったかという、『春と修羅』第一集中、最も重要な問題」を顕にしている次の場面を書かせた。賢治は、死の淵にあるトシの耳にある「生物」の名前を吹き込む。
参考文献 秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想 透明な幽霊の複合体 開かれた自己「孤立系」からの開放』(朝文社、2004 年)。 菅原千恵子「トシの「自称録」を通して見えてきたもの」「宮沢賢治」第15巻(1998年)。 山根知子『宮沢賢治妹トシの拓いた道「銀河鉄道の夜」へむかって』(朝文社、2003年)。
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oki-haru · 3 years
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XV
第2章 天の幻想の試練 第1節 亡妹トシの行方 2 幻想世界の証明
わたくしがその耳もとで 遠いところから声をとつてきて そらや愛や苹果や風 すべての勢力のたのしい根源 万象同帰のそのいみじい生物の名を ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき あいつは二へんうなづくやうに息をした (略) けれどもたしかにうなづいた     ((ヘツケル博士!      わたくしがそのありがたい証明の      任にあたつてもよろしうございます)) 仮睡硅酸の雲のなかから 凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は......  (宗谷海峡を越える晩は   わたくしは夜どほし甲板に立ち   あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり   からだはけがれたねがひにみたし   そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)
 賢治は、トシは「万象同帰のそのいみじい生物の名」を聞き取ったからうなずいてみせたのだと述べる。その結果、トシは〈素足の生物〉のいる「異空間」に転生できるのである。彼の死生観では、このやりとりこそが死後世界での無事を保証する根拠となっている。
 これまで「万象同帰のそのいみじい生物」の解釈には、小野隆祥の題目説、見田宗介の「モネラ」説、浅野晃(1982, p158)の釈迦説、渡部芳紀(1996, p168)の日蓮説、空・愛・林檎・風の固有名詞そのままであるとする藤原定の説(1972)などがあったが、題目説がほぼ定説となっていた。小野(1976, p25)は、言葉を音声にて発すると言葉が顕現・表象するという「声常住論」から、題目を常住させよう としたと論じた。他方見田(1984)は、ドイツの動物学者エンルスト・ヘッケルの提唱した、すべての生物の発生の起源を辿ると「モネラ」という生物に至るという一元的な生物進化の理解から「万象同帰」という言葉を解釈した。賢治は、盛岡高等農林学校時代にヘッケルの『生命の不可思議』を読み、少なからず大きな影響を受けたと考えられていることによる(大塚, 1993, p137)。
 しかし本研究ではどの仮説も取らず、「万象同帰のそのいみじい生物」は〈素足の生物〉ではないか、と仮定し考察する。根拠は三つある。第一に、第一集において「生物」という語が出てくるのは〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕、「小岩井農場」、「青森挽歌」だけである。賢治が「生物」という語を用いる時、何を想定していたかは絞られる。また、この三篇は〈素足の生物〉が登場するという点でも共通する。第二に、「万象同帰のそのいみじい生物」の名前を聞いたか否か証明しなければならないほど固執するのは、その名前を聞くことの意味・効果が非常に重要だったということである。『ひかりの素足』で、〈素足〉の人は死んだ人々を浄土・天上へ導く。秋枝(1996, p194)はこれが「死者を看取る際の一つの理想的なモデル」ではないかと述べる。同じ役割を「万象同帰のいみじい生物」が果たすのではないだろうか。すなわちトシに「生物の名前」を聞かせたかったのは、『ひかりの素足』で〈素足〉の人が登場する直前に「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」と聞こえたように、死後世界にいるトシを導いてくれるよう祈る呼びかけていたのではなかろうか。すると「生物の名前」は「如来寿量品第十六」である可能性も考えられるが、本研究の論点は名前ではなくあくまで「生物」の内実である。第三は、「青森挽歌」において想像する死後世界 が〈素足の生物〉の「異空間」と酷似しているからである。声を持ってくる「遠いところ」とは、遥かな天上だったのではないだろうか。
 ところが、「万象同帰のそのいみじい生物」という幻想に基づいた回想は、ヘッケル博士に誓って証明する必要があるという「卑怯な叫び声」で妨害される。その「ありがたい証明」とは、トシが「生物の名前」を聞き取ったゆえに頷いたか否か、ひいてはトシが兄の祈りを受け取った結果〈素足の生物〉の幻想世界に到達したか否か、の証明である。賢治は、トシが〈素足の生物〉の幻想世界に行く結末を欲しているが、どうにも自信がなく不安に駆られている。ついには地獄を彷彿とさせる暗く不気味な世界に頼りなく立ち尽くすトシを想像してしまうほど、「通信」を切望している。対してもう一人の「わたくし」賢治は、翌日の宗谷海峡にて「卑怯な叫び声」に挑戦することを決意する。その挑戦は補遺「宗谷挽歌」(1923.8.2)に記録されている。
 先行研究では、賢治がヘッケル博士の立場を支持すると読むか、支持しないと読むかで意見が割れていた。一重括弧に括られた宗谷海峡における挑戦を、ヘッケル博士への反発と捉えるか、それとも追随の表明と捉えるか、という二つの解釈である。さらにヘッケルが霊魂死滅説をとっていることに着目し、賢治は霊魂死滅説と霊魂不滅説のどちらを信じたのかという議論に問題が集約されてきた。先行研究の議論に沿うと、本論考は実際に「宗谷挽歌」 で挑戦を決行した「わたくし」の“声”を尊重し、霊魂不滅説の意見を取る。「証明」の要請と「挑戦」の決意は、括弧の種類や字下げの数といった表記の違いからも、異なる意識レベルの“声”であり対立する立場であると言えるからである。
 この部分では、まだ問うべきことがある。なぜ証明が必要という考えが賢治の中に浮かんだのか、という疑問で ある。加えて証明の方法の問題である。それに答えられるかもしれない書簡の一節がある。1921 年に書かれた保阪嘉内宛書簡[181]である。
何をしようがどうならうがそれが一番お思召に叶ふのならばそれこそ誠の幸福です。私の進む道です。(略)若しも万一道を求める人がそれを求め得てどうにか自分の為にせうと思ふなればその人は求めようと努める程頭が破れる様に痛みます。(略)もうすぐ私共一同の前に、鋭い感覚を持った生物が、数万度の高熱の中に封ぜられ一日に八万四千回悶きながら叫び乍ら生まれ、死に、生まれ死にしなければならないといふはっきりした事があるのです。「何だ地獄か。」といふ人は先づ静にお前さんの頭がどんなに痛みどんなに忙しく灼けた鉄板の上をはねまはってゐるかを観察するがいゝのです。/保阪さん。もし、あなたに「信じたい」といふ心があるならそれは実に実に大聖人の御威神力があなたに下ってゐるのです。それに烈しく烈しく逆らふ心、仮令ば「証明があやふやだ」「それより仕方はあるまいが何とか外に仕方はないか」「とにかく厭だな、逃げたいな」など、これらは第六天の大魔王、曾って釈迦如来迦耶成道を現じ給うた前に美はしい幾人の女を遣はし恐るべく悲しむべき黒夜の中の虚空に充てる怪性の兵衆を送り自ら菩薩の前に立って剣を抜き悪気を吐いたあの魔王があなたに現はれてゐるのです。この時あなたの為すべき様は(略) 南無妙法蓮華経と唱へる事です。
 賢治によれば、「まことの道」の信仰に証明が必要だと思ってしまうのは「第六天の大魔王」にそそのかされているためであり、そのような時は題目を唱えて解決せよという。「第六天の大魔王」とは仏道修行を妨げる天魔であり、書簡[63]に出てきた「魔王の波旬」でもあろう。この天魔に関して日蓮は、強く『法華経』を祈れば逆に味方につけることができると説く。宗谷海峡での挑戦とはこの天魔との戦いであり、信心の強さを示すことで天魔を折伏しようとしたのではないだろうか。この挑戦の方法や内容がどのようなものであったかについて、大塚常樹(1993, p153)は当時の心霊学との関連から「交霊術まがいの通信」を行ったのではないか、あるいは文学者の鈴木健司(1992, p52)は樺太に住む少数民族ギリヤークのシャーマニズムを参考にした「《ギリヤークの犬神》に関わる《幻想体験》」を行ったのではないかと述べる。どちらも呪術的な行為であったと考察している。すなわち、挑戦は賢治の「信仰の幻覚性」に頼る行為といえ、「信仰の幻覚性」の正当性、「ウル修羅」の天への近さや聖性、そして〈素足の生物〉の働きと実在、の三つが試されることになる。
 さて、トシの救済を信じられず彼女が頷いた証拠を要求するのは、天魔にそそのかされて『法華経』を証明しなければならない気持ちになるのと同じことである。だから賢治は挑戦する。しかし何をもって天魔に打ち勝ったと言えるのか記していない。考えられる状況は、賢治にとって全てはトシからの「通信」で決着がつくというものである。つまり賢治が証明への執着を克服しようとする理由は、天魔に勝ち、「まことの道」が認められた証拠にトシからの「通信」が手に入ると信じているからである。だが、そもそも「通信」は証明そのものである。彼は完全な矛盾を抱えている。賢治の信仰態度は、〈素足の生物〉 の幻想という証明に支えられた修羅意識であり、既に天魔に与する立場に立っているという「信仰の幻覚性」の抱える矛盾である。にもかかわらず、なぜ天魔に対抗するのか。それは修羅性による堕天、もっといえば罰が、まだ生きている賢治ではなく転生するトシに降りかかるからである。「ありがたい証明」が卑怯なのは、二重の意味を含むからである。信心だけに頼って不安が解消し、信仰が成り立つなら「ありがたい」は皮肉であろう。しかし、トシを巻き込ん��幻想的な「まことの道」の実在または確立に寄与するものであれば「ありがたい証明」は実際に「ウル修羅」賢治の修羅性を強め、ついには「修羅」に堕ちる賢治を赦してしまうと考えられる。
 天魔への挑戦後に予想される二つのシナリオから、詳しく考えてみる。まず天魔の折伏が成功した場合、賢治の信心は認められ、天への道はつながる。「まことの道」も〈素足の生物〉に形象される確固たる信仰になることができる。信仰を共有したトシも救われていることであろう。けれどもその後、トシからの「通信」は得られるだろうか。否、信仰に証明を求める天魔に打ち勝つことは修羅性を克服することを意味し、「信仰の幻覚性」を手放すことをも意味するはずである。トシからの幻想の「通信」は受信できなくなる。実は、樺太旅行後も賢治は幻想を見ている。ゆえに、賢治にトシからの「通信」も含めて何らかの幻覚があるとするなら、それは「ウル修羅」の聖性が認められたのではなく、賢治が完全な「修羅」になったということなのではないだろうか。他方、天魔の折伏に失敗した場合、「ウル修羅」の聖性は否定され、「まことの道」も〈素足の生物〉も認められず亡トシの安否の不安は消えない。けれども「信仰の幻覚性」は保持していられる。
 まとめると、トシが〈素足の生物〉の異空間にいると信じられない原因は二つある。一つは天魔の仕業で、一応の解決策が既に教えられている。問題を孕んでいるのはもう一つ〈素足の生物〉である。これに頼らなければならない独自性が「信仰の揺れ」を生み出しているのである。天魔に挑戦する賢治の身体は「けがれたねがひ」に満たされている。「けがれたねがひ」とは幻想の証明を求める「修羅」の願いである。彼はこの矛盾を承知した上で、それでもなおトシの死後を問わずにはいられず、自らの業を深めていくのである。
参考文献 浅野晃「青森挽歌論」『国文学解釈と鑑賞』第47巻第13号(1982年12月)。 渡部芳紀「『青森挽歌』」『国文学 解釈と鑑賞』第61巻第11号(1996年11月)。 藤原定『詩の宇宙重吉・暮鳥・元吉・賢治』(皆美社、1972年)、230頁。 小野隆祥「青森挽歌とヘッケル博士」『啄木と賢治』第5・6合併号(1976年1月)。 見田宗介『宮沢賢治存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年)。 秋枝美保『宮沢賢治北方への志向』(朝文社、1996年)。 大塚常樹『宮沢賢治心象の宇宙論』(朝文社、1993年)。 鈴木健司「「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」:とし子からの通信」『国語と国文学』第69巻第9号(1992年9月)。
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XVI
第2章 天の幻想の試練 第1節 亡妹トシの行方 3「通信」とその内容:〈鬼神〉への挑戦
 出版された第一集では「青森挽歌」(1923.8.1)の次に「オホーツク挽歌」(1923.8.4)が続く。挑戦が描かれた 「宗谷挽歌」(1923.8.2)は補遺に回され、発表されていないが、「青森挽歌」には「宗谷挽歌」を経て得られた結論が含まれているはずである。ゆえに「青森挽歌」を論じる前に、「宗谷挽歌」とその前日譚である補遺「津軽海峡」(1923.8.1)を考察する。
 「津軽海峡」は、夜行列車で到着した青森を出て北海道に向かう船の上で記録された心象スケッチである。音もなく日光が注がれる甲板で、賢治は「信号」を受け取る。「通信」と同じ種類のものであると思われる。
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。 どこで鳴る呼子の声だ、私はいま心象の気圏の底、 津軽海峡を渡って行く。 (略) 私が眼をとぢるときは にせもののピンクの通信が新しく空から来る。
 しかしそれは賢治が欲している「信号」ではなかった。それはどこからともなく聞こえる「呼子の声」であったらしい。ここで、津軽海峡は「心象の気圏の底」と説明されている。「春と修羅(mental sketch modified)」((1922.4.8)) において、修羅意識に囚われた賢治は「まばゆい気圏の海の底」にいる。津軽海峡において、彼はすでに「修羅」である。
 翌日、いよいよ挑戦の日がやってきた。「宗谷挽歌」の舞台は北海道と樺太を隔てる真夜中の宗谷海峡である。連絡船の甲板の上で、賢治は濃い霧に濡れながら暗い海を見つめている。不意に、「津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。」「津軽海峡」で聞いた「呼子」、「ほかの方処系統からの信号」が下りてきたのであろう。賢治の心象は幻想の世界にチューニングされていく。
 ここで、賢治が「通信」によって知りたいことが明らかになる。
とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな そんなしあはせがなくて 従って私たちの行かうとするみちが ほんたうのものでないならば (略)  われわれが信じわれわれの行かうとするみちが もしまちがひであったなら 究竟の幸福にいたらないなら いままっすぐにやって来て 私にそれを知らせて呉れ。 みんなのほんたうの幸福を求めてなら 私たちはこのまゝこのまっくらな 海に封ぜられても悔いてはいけない。   (おまへがこゝに来ないのは    タンタジールの扉のためか、     それは私とおまへを嘲笑するだらう。)
 「通信」で知りたいのは、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのもの」であるか否かである。私たちの歩みが 「まことの道」に沿えているか否か、あるいは私たちの歩みそのものである「まことの道」の真価・是非である。 けれどもこの時点で賢治の中で唯一明らかなのは、「みんなのほんたうの幸福」だけは何があっても捨ててはいけない、という信念だけである。万人の真の幸福のためなら「海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟は、「まことの道」のためなら海底に堕とされた「修羅」になっても構わないということである。
 「タンタジールの扉」は、詩人・劇作家のモーリス・メーテルリンク(1862-1949)の戯曲『タンタジールの死』(1894)に由来する。劇の中で、王子タンタジールが鍵のかけられた部屋に連れ去られ息絶える時、彼の姉は爪が剥がれるまでその部屋の扉に泣きすがった。亡きトシを求める賢治の激しい思いが重ねられていよう。
 「宗谷挽歌」ではこの後、船や街の灯りの情景、乗組員との会話が続くが、その途中で原稿用紙が数枚欠如している。「まことの道」の可否は宙吊りにされ、最後に残っているのは〈鬼神〉への宣戦布告である。
永久におまへたちは地を這ふがいい。  さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち 私は試みを受けよう。
 先の考察によるならば、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」は「第六天の大魔王」や天魔のことである。注目すべきは、一行目の「永久におまへたちは地を這ふがいい。」である。本論考はこの一文を、「おまへたち」の天へ回帰する見込みがなくなってしまった、と読む。「おまへたち」が何者であるかは推測に留ま���が、賢治を含めた罪を背負った者あるいは自己を犠牲にしなければならない者たちであり、〈鬼神〉である「修羅」を指すのではないだろうか。
 結局トシからの「通信」は来なかったのである。幻想の〈素足の生物〉に天の聖性を託し、天を目指した賢治であったが、宗谷海峡にてその幻想は認められず挫折した。すなわち、トシの死後の行方を確かめる旅は「まことの道」の中で賢治は完全に堕天し、「修羅」となった。望む幻想を得るという「奇跡を起こすに足る力はないという自らの限界に突き当た」(秋枝, 1996, p250)り、自らの天の属性、聖性を否定した、あるいはそれらが失われたと感じた瞬間である。
 しかし裏を返せば「まことの道」を捨てないという覚悟が、賢治を戦う「修羅」にした。「道」を貶めるのではなく、自分が堕ちることで「みんなのほんたうの幸福」を願う心を守ったのである。「修羅」という自己規定は「まことの道」の実践としての相対的な悪の設定、自己否定だと考えられる。
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oki-haru · 3 years
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XVII
第2章 天の幻想の試練 第2節 〈巨きな白く光る素足の生物〉との決別 1 「青森挽歌」結論
「青森挽歌」における結論に戻ろう。
むかしからの多数の実験から 倶舎がさつきのやうに云ふのだ 二度とこれをくり返してはいけない
賢治は天台宗の経典『倶舎論』に則って、自らに「これ」を禁止した。「これ」とは、〈鬼神〉への再挑戦または〈素足の生物〉の証明であると思われるが、結局はトシとの「通信」を諦めたということである。『倶舎論』は霊魂死滅説を掲げる。また「実験」という科学的な語からは、霊魂死滅説を主張したヘッケルの立場に寄っている印象を受ける。
「青森挽歌」ではこの後、賢治の心象に、前日の回想や車窓の風景、再び心象世界に食い込んできた意地の悪い “声”が入り乱れ、クライマックスになだれ込む。その“声”はトシの顔色の悪さを指摘し、「万象同帰のいみじい生物」の名をトシは聞き損ねている、という不安を煽る。対して賢治は、もうトシは「無上道」に属している、と 激しく反論する。しかし次の“声”でやり取りの調子は一変し、賢治は諦めたように、脈絡もなくある宗教的倫理を吐露して、唐突にスケッチを締めくくる。
        ((みんなむかしからのきやうだいなのだから          けつしてひとりをいのつてはいけない)) ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがいなくなつてからあとのひるよる わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます
 一人だけを祈願してはいけないという思想は、既に述べたように定稿「小岩井農場」の最後に語られていたものである。樺太旅行を経て「小岩井農場」も書き直されたと考えられる。
 賢治は、特別な一人のための祈りを戒める“声”に従い、トシのことも大勢の中の一人として祈るし、これまでもそうしてきたはずだと過去を振り返る。今までためらいもなくただトシのための挽歌を書いてきただけに、トシをその他大勢に含め直す行為は、亡トシのために挑戦・格闘したことまでも否定するような、抑圧的な印象を受ける。注目したいのは過去を断言していない点である。むしろ賢治はトシだけを祈ってしまったことを懺悔している。ここで彼は、トシの救済の確証である「通信」を得られなかった原因と自分が「修羅」に堕ちた原因を、 「まことの道」の信仰が間違っているからでもなく、自らの悪魔的な「信仰の幻覚性」のせいでもなく、自身の妹への思いの強さゆえであると結論づけるのである。つまり「けがれたねがひ」は、幻想の「通信」を求める願いから亡妹の救済・幸福を求める願いにすり替えられる。そして賢治は自らの「けがれたねがひ」を悪因とし、トシの転生の問題から切り離すことでトシが天へ行けないリスクを取り除こうとした。その結果、賢治はもうトシ(だけ)の救済という願いに関与できなくなった。トシの死後を問うことはできなくなり、彼女は天や浄土に転生したと祈るばかりである。しかし本来、それが残された生者のあるべき姿かもしれない。「青森挽歌」を境に、〈素足の生物〉は賢治作品から姿を消す。「まことの道」は「みんなのほんたうの幸福」を願う利他の信念と〈素足の生物〉の幻想に空中分解し、幻想の方は破棄されたのである。
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