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#聖ルカ礼拝堂
juriwoh · 2 years
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聖ルカ礼拝堂、夕の祈り。久しぶりに覆いの取れたチャペルの天辺。 オルガンは佐藤雅枝さんによるJ.S.バッハ。透明感に満ちていた。透明とは、悲喜や生死、赦しも罪も併せ持ったものなのだと感じました。三原色が被さると光になるように。 #stlukes #organ (聖ルカ礼拝堂) https://www.instagram.com/p/CjVPhyLvyZj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yuyurigi · 10 months
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キリエのうた 感想
別の映画みたときに『キリエのうた』の予告を見て、リリイ・シュシュみたいな歌が流れててそれにガンときて見に行った。キリエ(アイナ・ジ・エンド)がとても魅力的でずっと彼女を見てた。Bishのメンバーだったとか全然知らなくて、知らないこそ純粋に物語の中のキリエとして惹き込まれた。かわいかった。
物語はそこまで面白くなかったんだよね。でも良いシーンがいくつかあった。喋ることができない小学生のルカが教会に行ってごはん貰ったり、聖歌隊が歌ってる礼拝堂に行くシーンなんかは光やボケの感じも相まって岩井俊二の映画を見てる感覚がとてもあって懐かしくなった。子供時代のルカの話はどれも好き。小学生の男の子がルカのことを「あいつ全然喋らんけど、ザリガニ釣るのめっちゃうまい」と話してるとこも微笑ましい。
逆に夏彦のエピソードはどれも嫌だったが。容姿がイケメンすぎるのが気に食わないし、中高のときギターやってたんだよねとギター鳴らしながら歌うところがかっこよすぎるのも腹立つし、顔の良さに反して中身は頼りないし、医学部志望なのに彼女を妊娠させてるとこもダメだし。妊娠発覚後、物憂げに夏彦とキリエがベッドに横たわる絵、嫌だ……。あと、キリエ(姉)とルカ(妹)が二人一役のせいで、ルカがぐいぐいイケメンに迫ってる感じがして怖かった。喋りもただたどしいせいで地雷にしか見えない。そのせいで、そのあとのロマンスや悲劇を冷めた目で見てしまった。ルカがキリエと名乗るほどの特別な姉にも見えなかったし。
夏彦は頼りないし、まおりは結婚詐欺師だったし、音楽を通して知り合った人は主催イベントで警察ともめるし、ルカのまわりにいる人々あまり良い人いなくない……?
ルカだけが魅力的に感じたから、ルカが出てないエピソードがノイズに感じられた。ルカの歌をずっと聴いてたかった。そういや、ルカが歌うオフコースの「さよなら」、「♪抱きしめたくなる」の部分がリリイ・シュシュの曲っぽく聞こえて「おっ」となった。リリイ・シュシュの曲とかCharaの曲とかも歌ってほしかったなー。
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reallypaleninja · 2 years
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あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
エフェソ4・32-5・8
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
皆さん、4・32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5・1あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。2キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。3あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。4卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。5すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
6むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。7だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
答唱詩編
詩編1・1ac+2、3
流れのほとりの木のように、神に従う人は実を結ぶ。
詩編1
1・1acしあわせな人、 罪びとの道を歩むことなく、 2神のおきてを喜びとし、 昼も夜も教えを心に留める人。
3流れのほとりに植えられた木が、 季節になると豊かに実り、 葉もしおれることのないように、 この人の行いも実を結ぶ。
福音朗読
ルカ13・10-17
アレルヤ、アレルヤ。主よ、あなたのことばは真理。わたしたちを真理のうちに聖なる者にしてください。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
13・10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
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snoopymaniamidori · 2 years
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聖ルカ礼拝堂『夕の祈り』 ポシティフオルガン奏楽は浅井寛子さん。バッハのパルティータ6番のトッカータとジーグの間に、聖歌の旋律をモティーフにした対位法的な変奏曲を挟むという興味深いプログラム。 神さまと繋がって生きていく、目に見えない何かを心に実感するという点がとても近しいことから、教会で音楽という芸術が大切にされてきた、と上田先生。 音楽は流れて消えてしまうけど、聴いた前と後では心のありようが決定的に違ってるでしょう、と問われるとなるほどなぁと頷く。 終わった後はお友達と銀座までとてとてお散歩。楽しく話しながら歩くとくたびれないし、今日はいつもよりたくさん歩けて良かった! …改装中の大きい礼拝堂のオルガンもまた聴きたいな。 #聖路加国際大学 #聖ルカ礼拝堂 #オルガン #お散歩 #古楽の楽しみ https://www.instagram.com/p/CiNMfoHp_R5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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doriparis1 · 3 years
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#築地で用事があり、 朝少し余裕があったので#聖ルカ礼拝堂 でお祈りを。✨✨🕊 静かな時間😌☁️✨ (聖ルカ礼拝堂) https://www.instagram.com/p/CQv2TXFD2tv/?utm_medium=tumblr
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yu-ho · 4 years
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rolfsplads · 7 years
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聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂で、星空が見えるようなオルガンの曲を聴く。
促され、聖路加病院に入院している患者やそのご家族に思いを馳せる。
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july-cross · 4 years
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独り聖餐の意味 / 無忘聖餐 ~ルカ14:17に捧ぐ~
我らは忍ぶ この世の停止した中(ルール)に添って―― 我らは耐える 会堂の扉が開かれるまで―― けれども 恐れてはならぬと 主は言われる 我らは何を信じている? この世か、天の御国か―― 暖かいマイホームの絨毯の上か、 固い木の会堂椅子か―― 肉を満たす白米と茶か、 霊を充たすパンと葡萄酒か―― 主イエスは 招いておられる 聖餐の食卓へ―― もし 礼拝への扉が閉ざされている間 我らが聖餐のことを 忘れ去ってしまっているのなら 我らは もう一度 新生されなければならないほど 重病かもしれない 我らが恐れるべきことは 肉が滅ぶことではない 御霊の報酬減を恐れよう 主イエスの招きを拒むような、 肉の安住のために忘れるような 冷たい心を悪魔に返上しよう 深く祈りつつ 強く祈りつつ 恐れず祈りつつ 私は今日も真の聖餐の場に想いを寄せて 独り 主の聖餐の擬似に与かる ――宴会の時刻になったので、 僕を送り、招いておいた人々に、 『もう準備ができましたので、 お出でください』と言わせた。――
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charis-meg · 4 years
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3月に聖書読んでいたら、
"さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」"
ルカの福音書 24章49節
"彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
いつも宮にいて神をほめたたえていた。
ルカの福音書 24章52~53節
と聖書から語りかけを受けて、
「あなたは再び教会で神をほめたたえるようになる」
と語られました。
今日毎日礼拝に行くために
久しぶりに会堂に行く日だったのですが、
今日のデボーション箇所が同じ箇所だったので、
とてもびっくりしました!
この示されたみことばにはもう一つ意味があって、
子どもたちがCSに慣れて過ごせるようになって
私は会堂で礼拝できるようになると語られたのですが、
子どもたちはまだ私から離れられない感じです。
だけど必ず神のことばはそうなります。
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shiro-absence · 6 years
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〈11〉パン種のたとえ ★聖書 また他のたとえを彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って、三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。マタイ13:33  ★「このたとえ話は教会史の観点からみると、決して表面的、一面的解釈で片付けられない内容を含んでいます。」と更新前は書きましたが、「聖書は聖書によって解釈する」のが聖書解釈の大原則であって、教会史からさかのぼって解釈するのは、大原則に対する違反だと考え、このページを修正し更新することにしました。 このたとえの意味  ★このたとえの中のカギになる言葉はもちろん「パン種」です。「パン種」は聖書の中では常に悪い意味で使われています。むかし、放置されたパンの生地がたまたま自然発酵して(すなわち腐敗して)ふくらんで来たのを見た人がパン作りに応用してから、パン種入りのパンが作られ始めた(多分古代エジプトで)と言われています。従って、「パン種」という言葉は、聖書の中では、霊的腐敗(悪意と邪悪)の象徴として用いられています(1コリント5:6~8)。   A.パン種を天国そのものの持つ影響力と取る場合の解釈  ★女は教会を表し、三斗の練り粉はこの世を象徴することになります。新改訳では3サトンと原語の単位で表しています。1サトンは13リットルとありますから、3サトンの麦粉は39リットルになります。石油缶2缶以上になります。この量の粉に少量のパン種を加えて練ると練り粉全体が大きくふくらみ、大量のパンが焼き上がります。  ★練り粉がパン種によって、さらに火の中で焼かれて、大きくふくらむように、初代のキリスト教会は激しい迫害の炎をくぐりながら短い期間の内に、当時の世界帝国であったローマ帝国全体に広がりを見せ、キリスト紀元380年にはローマ皇帝デオドシウスは、その勅令によって、ついにキリスト教をローマ帝国の国教にしてしまいました。  ★そして、その時から、すなわち教会と国家権力とが結びついた時からキリスト教会の腐敗が始まりました。16世紀にマルチン・ルッターが宗教改革ののろしを上げるまで、教会の腐敗した状態は続いていました。しかし、そのような腐敗した環境の中にも主を畏(おそ)れる敬虔な聖徒も綿々と存在していたのです。 この解釈に従った教え  ★キリスト者は地の塩であり、世の光です(マタイ5:13,14)から、自分の置かれた立場状況の中で最善の影響力を発揮することを主は期待しておられます。アブラハムがソドムの町に���む甥のロト一家のためにとりなしの祈りを捧げた時、彼は、ロトの一家には少なくとも10人の正しい人々がいると思い、神が「10人の正しい人々がソドムの町にいればその町は滅ぼさない」と言われたのを聞いて安心していました(創世記18:32)。しかし、残念ながら、ロトの家にはロト以外に正しい人は一人もいませんでした。この時のアブラハムの祈りで明らかになったことは、一つの町に10人の正しい人たちがいれば、神はその町を滅ぼさないということです。すなわち、信仰による義人(真のキリスト者)の存在は、それほどの価値と意義があるのです。  ★また、一人一人のキリスト者に主は天国(神の支配)がその心と言葉と行いの全面にわたって影響力が浸透することを求めておられます。口だけ、行いだけの外面的信仰者(マタイ5:20)ではなく、外面も内面も共にきよめられた幼子のように純真な信仰者を求めておられます(ルカ18:17)。  ★しかし、現実の世の中を観察するとき、初代キリスト教会の時代のように、キリスト教会が破竹の勢い、また日の出の勢いで大きく成長することはあまり見られません。  ★それに反して、新興宗教などの偶像礼拝宗教はアッというまに大会堂を有するまでに成長しているのを見ます。  ★サタンの宗教は、罪の性質をもった世の人々に歓迎されるのです。  ★ですから、このたとえのパン種のたとえは次の教会腐敗の預言と取るのが順当でしょう。 B.パン種のたとえを教会腐敗の預言と取る解釈  ★上記のようにキリスト教会の歴史を見てくると、パン種を文字通りに新約聖書の本流の中での腐敗の意味に取ることも可能であることが分かって来ます。  しかし、この解釈は、主イエスの「天国は、パン種のようなものである」という御言葉としっくり行かないように思えます。「天国(神の王国)が(腐敗の象徴そのものとしての)パン種のようである」と解釈するのは無理なように見えます。「聖なるものが汚れたもののようである」という論理的にも矛盾する文言のようです。  ★けれども、聖書には「キリストは再臨の時、盗人が夜中に不意に来るようにやってくる」という言葉があります(ルカ12:39,40)。これは、夜中に不意にドロボーに入られるように、世の大多数の人々にとってキリスの再臨の日は不意の出来事であり、裁きの日、災いの日となるということを表しています。  ★また、「神は私たちの罪のために罪を知らない方(キリスト)を罪とされた」というみことばがあります(2コリント5:21)。このみことばは「悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者は共に主に憎まれる」(箴言7:15)という御言葉と矛盾するように見えます。しかし、このあり得ないことが、神の愛とキリストの恵みによって、十字架のあがないにおいて事実となったことを私たちキリスト者は知り、そして信じています。  ★従って、聖(きよ)い天国(神の国・地上の教会)が汚れたパン種によってほぼ全面的に腐敗させられているのを、神がご自身の深慮と忍耐によって黙認されていた時代が長く続いたという歴史的事実を私たちは認めざるを得ないと共に、このパン種のたとえが歴史を見通しておられる主による預言であると見ることは決して無理なことではないことが分かります。  この解釈に立つと、女はサタンを表し、パン粉が教会を表すことになります。 この解釈に従った教え  ★主イエスは地上の天国(教会)が中世のキリスト教会のように全面的に腐敗堕落したかに見えるその中にも「神の国はその中に隠れた形ではあっても存在するのであり、神は地上にあってあなた方の中におられるのだ」と言おうとしておられるのです。  ★旧約聖書列王上18~19章にイスラエルの預言者エリヤの話が出ています。エリヤはイスラエルの悪王アハブに「カルメル山に偶像バールやアシェラの預言者たち総勢850人を集めよ。バールか天地の主か、どちらが神か、天から火を下して答える神を神としよう。」と勝負を申し込みました。その一大勝負に大勝利して、国民に「主こそ神だ。主こそ神だ」と叫ばせ、主の前にひれ伏させ、さらにバールの預言者たちを処刑させました。  ★そこでアハブ王の邪悪な后イゼベルの不興にあい「明日の今頃までにお前の命を取る」と言われ、エリヤは彼女を恐れて荒野に逃げて行きました。荒野にいるエリヤに主が「あなたはここで何をしているのか」と問いかけると、エリヤは言いました。「私は一人で熱心に主に仕えてきました。しかし、彼らは私の命を狙っています。主よ、もう十分です。私の命を取ってください」。この時、主はエリヤに言われました。「私は、イスラエルに7千人のバールにひざをかがめなかった者たちを残している」。エリヤが自分ひとりの孤独な戦いだと思っていたその苦しい状況の中で、実は、神は着々とご自身の御業を進めておられたのです。  ★事態が最悪とみられる状況の中でも神は私たちの味方(ローマ8:31~39)として着々と事を進めておられるのであり、万事は最善になるように(ローマ8:28、{益}と訳されている原語の意味は{善})運ばれているのですから、私たちキリスト者は「いつも喜び、すべてのことを感謝」することができる(1テサロニケ5:18)のです。  キリストの十字架の苦しみの後に、栄光の復活が来た様に、キリスト者にとって最悪・絶望と見える状況の中にも主は共におられ、その後には必ず栄光と祝福の時が来るのです。  ★話の泉14新世界秩序とキリストの再臨に書きましたようにキリスト再臨直前の時代はこの世もその中にあるキリスト教会もパン種のたとえそのままに全面的に腐敗したかに見える時代となりますが、再臨のキリストはハルマゲドンの戦いで全面的に勝利なさって古い世界を焼��滅ぼして正義を平和の主が支配なさる新天新地を再創造してくださるのです。
http://www.rock.sannet.ne.jp/hg31cc/parable.html/para11.html
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asa6fuji · 3 years
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レビ人は律法の書を意味を明らかにしながら読み上げた。
ネヘミヤ記
その日、8・2祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
4書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。5エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
次いで、レビ人が8神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
答唱詩編
詩編19・8、9、10
主よ、あなたは永遠のいのちのことば。
詩編19
19・8神の教えは完全で、魂を生き返らせ、 そのさとしは変わらず、心に知恵をもたらす。
9神の定めは、正しく、心の喜びであり、 そのみ旨は清く、目を開く。
10神のことばは正しく、代々に及び、 そのさばきは真実ですべて正しい。
第二朗読
①コリント12・12-30
あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分である。
使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、12・12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
福音朗読
ルカ1・1-4、4・14-21
アレルヤ、アレルヤ。貧しい人に福音を、捕らわれ人に開放を告げるため、神はわたしを送られた。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
1・1‐2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。3そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
さて、4・14イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 18「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 19主の恵みの年を告げるためである。」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
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juriwoh · 2 years
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オルガンビルダーのマチューガルニエ氏がやっている神楽坂のバー、フーガ。オルガンの演奏が聴ける小さな珍しいお店です。 11/10(木)の夜、聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂のオルガニスト・岩崎良子さんが演奏します。僕も少しばかり吹く予定ですので、よろしければ飲みにいらしてください。 #神楽坂 #bar #fuga #organ #wine https://www.instagram.com/p/CkdWuyfuFbW/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kusuyama1975 · 3 years
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oonekonarisa · 3 years
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回復と解放
昨夜は二週間に一度の、聖書を読む会だった。通称、Bamboo Bible会。この会に出会ったのはほんのつい最近で、オンラインで知り合った大学の教授夫婦に紹介されておずおず参加してみたのが二週間前。今回が二度目の参加だった。
私はこの会のことをすごく気に入っている。まず、この世界状況になってからというもののどこに注意を向けても否応なしに入ってくる情報の渦に飲み込まれてしまいそうで、というかたぶん身体のほとんどを情報の湖にどっぷり浸したまま一日を過ごすような身重感であったので、このような日々に祈りの時間をつくるなど到底むりなことだった。私には特定の宗教はないけれど、キリスト教の礼拝が特に気に入っている。中高6年間は毎日学校で礼拝を受けていたし、昨年のクリスマスもICUの礼拝堂で賛美しながら時を過ごした。だから、祈る時間の豊かさは身をもってわかる。祈りたいとも思う。でも、自粛要請とかBLMとか国とか政治とか人種とか差別とか不平等とか不公平とかを考えざるを得ないなかで祈れない息苦しさを生きていた。
話がすこし逸れるかもしれないけれど、祈る時間はどうして豊かなのだろう。ひとつは自意識からの解放にあると思う。私たちは社会で生きるなか、家の一歩外に出たら自意識から逃れられない。どう思われているだろうか、今の発言だいじょうぶだろうか。トイレの個室でも他者からみた自分のことがきになって仕方ない。前髪の向きひとつを四六時中気にしていた高校生の時のじぶんは、今も心の中に棲み付いている。祈る時間は、そんな自分が解放される気がする。自分と神さまとか、自分と聖句とか、自分と祈りそのものとか(その対象は人それぞれでいい)の一対一の関係になって、ようやくストンと地に立てる気がする。ようやく自分を見ていない自分に出会える気がする。他者を支点にして生きるしかない私たちに、一日のうちの数分でも、自分自身にintoする時間、立ち返る時間があることはどこまでも救いだと思う。
今回のBamboo Bible会で取り上げた箇所はルカによる福音書15章11ー32節、放蕩息子とその父とその兄の話だ。聖句を朗読して、いくつかの設問について言葉を交わしていく。放蕩息子についての話はあまりに有名だからここでは端折るけれど、この話が99匹の羊と1匹の羊の話や、9枚の銀貨と1枚の銀貨の話や、もっと視野を広くすると律法学者と取税人の話、さらにはこの世のルールに生きる人と失われた人々の分断の話にまで繋がっていて、まさに今の世界情勢を捉えた箇所のように思えて震え上がってしまった。私はきっとこの世のルールに生きる人の側に生かされているけれど、例えば性差別の文脈では失われた人々の側に立つこともままある。両方の性質を時と場合によって併せ持つと認識している人はどれほどいるだろう。認識していないとどのようになるのだろう。今の世界情勢がその答えを教えてくれている気がしてならない。
Bamboo Bible会をおえて、最近の自分のテーマは回復と解放なのだなとふと気づいた。私の恋人は気づく人だ。いろいろなことをつぶさに見ていて、気づく。私は恋人に、呼吸が浅くなっていることや手のひらに汗をかいていることを教えてもらってはじめて自分の心模様に気づくことが多々ある。今の恋人といっしょになってから、呼吸に気を配ることがぐんと増え、だんだんとそれが習慣にまでなりはじめた。呼吸はいろいろなことを教えてくれる。焦っているときは浅くなり、急いでいるときは早くなり、怒っているときは小さくなり、落ち着いているときは深くなる。祈るときに呼吸を早める人は少ないんじゃないかな。だから、呼吸に意識を集中して落ち着くことには、祈りと近い効用があるように思う。最近はヨガに心を惹かれているのだけど、ヨガもまた呼吸で、呼吸を通じて自分と地面、自分と地球の一対一になれるものだと思う。ヨガがおわったとき、祈りがおわったような気持ちになって、すっかり自分のことを気に入るようになっているから不思議だ。
あ、解放についてはまた今度書いてみようかな。
昨夜はちょっとおもしろくて、 Bamboo Bible会のあとに食べた晩御飯がおなかいっぱいになりすぎて、 そのままベットに倒れこみ、昼寝ならぬ夜寝をしてしまった。 25時半ごろのっそり起きてシャワーをあび、ぜんぜん起きない恋人をああだこうだいいながら起こして歯磨きをして、気持ちのいい二度寝。たっぷり寝たからか朝は7時半くらいにパッと目がさめた。けどまた寝たりしたのであれは三度寝だったのか。いくらでも眠れるようなこの頃。
さて今日もたのしくいくぞ!
p.s. Bamboo Bible会の最初に紹介された言葉。 『あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよ』 ま��二週間後も楽しみ。
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snoopymaniamidori · 4 years
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昨日は月に一度の聖路加「夕の祈り」新山恵理さんのオルガンを聴きました。 救い主を待つ旋律から始まり、アヴェヴェルムコルプスで終える、心温まる時間でした。 帰りにお友達と寄った久々のお蕎麦屋さんでも、温かいお蕎麦であったまりました。 そうそう、この3月コロナの影響で中止になってしまった、大好きな大塚直哉さんの演奏、2022年3月の夕の祈り予定に記されていてとても嬉しい。これを楽しみに日々を生きられます♪ さて今日のランチは、根菜と鶏団子の味噌スープなど。 #聖ルカ礼拝堂 #オルガン #お弁当 #スープジャー弁当 https://www.instagram.com/p/CIT-RaWptKa/?igshid=jyo1oa9o6o6z
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thetaizuru · 3 years
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 四角い画面を見ている。四角い本を読んで、四角いテーブルで食事する。秩序は「4」にある。いや、三脚の方がぐらつかないし、三次元空間に存在するものしか見えない。「3」こそが安定だ。いや、「2」だ。垂直と水平に秩序や安定を見出しているに過ぎないし、見えるものだけではなく見えないものもある。  そんなようなことを考えながら、ホントは「これさえあれば」というものを探しているし、「すべての始まり」や「すべての終わり」のような究極的なものとか、宇宙の全体みたいなことを考え出すと頭おかしくなりそうになってなぜか怖くなって、「2」だ、「3」だ、「4」だという話に逃げる。しかしそれらの中には、何もわからない領域に迷い込んだ人が、辛うじてつかみ取ってきたものもある。
 ある時誰かが「パース」というものを見つけた。  誰かが、奥行きがあるように見える絵を描いた。  人はなぜか、平面に書かれたものにも奥行きや立体感を感じる。平面に書かれたすぼまっていく2本の直線を平行だと感じ、奥行きがあるように感じる。それが「透視図法」と呼ばれるようになり、だんだん体系化され、理論化されていき、「遠近法」となった。  交わることのない平行な2つの直線が、人の目には、限りなく遠くにある点(無限遠点)に収束するように映る。無限遠点という仮想的な概念は、透視図法においては消失点と呼ばれる。  人のパースペクティブ(ものの見方)には、なぜか仮想的概念がもともと存在する。人は仮説を通してものを見ている。
 遠近法は幾何学的、数学的に理論化され、ユークリッド幾何学を用いて投影面への座標を算出することが出来ることも示された。  フランチェスカという画家が、遠近法や比例を表現に使い、1474年頃の著作で視野内の全ての物体に遠近法を適用する手法を示した。  1482年、ペルジーノという画家が透視図法を用いて『聖ペテロへの天国の鍵の授与』を描き上げた。これがローマにルネサンスをもたらす助けとなった。
 1495年から1498年にかけてミラノで描かれたレオナルド ダ ヴィンチの『最後の晩餐』では、遠近法、明暗法、解剖学が駆使され、それまでとはまったく違う新しい美術が生み出された。中央のキリストは正三角形の構図で配置され、その右のこめかみあたりに消失点がある。12人の弟子が3人一組で描かれ、4つのグループがほぼ等しい幅で左右に配置されている。 光背が描かれない代わりに、キリストの背後に明るい外部の景色とリュネット(窓の上の半月型の装飾)が描かれたことで、キリストを中心とした円と四角の構図が見る人の目に浮かび上がる。弟子の中の一人が裏切ることをキリストが予言した時の混乱の場面が描かれているにもかかわらず、調和が画面を覆う。  使われた絵画技法や主題の神学的な解釈方法などに分割して見ると、すべてにおいて誤りともいえる点があり、なかでも、壁画に通常用いられるフレスコではなくテンペラで描かれたことで、壁画完成から20年足らずで目に見えるほど顔料の剥離が進んでしまったという。しかし、それらの誤りともいえる点は何かの暗号なんじゃないかなどと現在に至っても語られるほど、顔料が剥離してもなお、作品全体からはなぜか完璧さを感じる。  遠近法によって、それまでバラバラな要素の組み合わせだった絵画が、一つの統一された場面を表現することができるものになった。『最後の晩餐』によってそれが一つの到達点に至った。  ダ ヴィンチは1496年に、ルカ パチョーリとミラノで出会う。このとき、建築家のブラマンテとの交流もあったといわれる。パチョーリは1494年に『スムマ (算術、幾何、比および比例に関する全集)』という著作を出版した。当時の数学知識を集めた最初の印刷物であり、複式簿記を最初に体系化、理論化した出版物としても知られる。遠近法などの技法を通して数学に興味をもっていたダ ヴィンチは、パチョーリと出会う前の1495年に『スムマ』を購入している。パチョーリは少年時代に画家のフランチェスカから数学を学んだ。『最後の晩餐』にはパチョーリが教えた遠近法の影響が見られるという説もある。
 ダ ヴィンチがミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期を盛期ルネサンスというが、ルネサンス芸術の頂点は、絵画においては、ミケランジェロやラファエロがバチカンに描いた絵画とされ、 ミケランジェロは彫刻においても頂点と���れる。建築では、1502年にブラマンテが建てたテンピエット(殉教者記念礼拝堂) が、盛期ルネサンス建築の最高傑作と言われている。  作品数の少ないダ ヴィンチに対し、多作なミケランジェロとラファエロが圧倒的に大きな影響力を持った。  圧倒的な仕事量で独自の作風を追求したミケランジェロの作品は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。  若いころペルジーノの弟子だったラファエロは、あらゆる技法を習得し完璧な様式美とバランス感覚によってまとめ上げ、異例なほどに大規模な工房経営にも成功した。ラファエロの作品構成は新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価、模倣され、後世の芸術アカデミーにおける教育の礎となった。
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 サンピエトロ(聖ペトロ)大聖堂の主任建築家に任命されたブラマンテが1514年に亡くなり、ラファエロがその後任を命じられたが、ラファエロもサンピエトロ大聖堂建設中の1520年に亡くなった。最終的にはミケランジェロが設計とドームの基本的なデザインをした。ミケランジェロはドームの完成を待たずして1564年に亡くなった。
 1515年に教皇レオ10世がサンピエトロ大聖堂建設資金のために贖宥状(俗に言う「免罪符」)の販売を認め、ローマ教会の影響下にある地域全体で大々的に発売された。1517年にドイツのルターがこれに抗議し「95か条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが宗教改革の発端になった。
 1515年にフランス王フランソワ1世がミラノ公国を占領し、ダ ヴィンチはボローニャで開催されたフランソワ1世と教皇レオ10世との和平会談に招かれた。1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くの邸宅を与えられ、 ダ ヴィンチは死去するまでの最晩年の3年間をフランスのその邸宅で過ごした。
 ルネサンス人文主義では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。ダ ヴィンチは芸術を、数学にもとづき科学的根拠を持つ学問だと考えた。観察を重視し、ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返した。ただし、実験や理論は重視していなかったため、後世の科学者たちの研究とは別種のものだった。それが遅筆だったことの原因とも言われるが、膨大な数の手稿を残した。
 ルネサンスという言葉も範囲が曖昧だが、盛期ルネサンスにつながるイタリアのルネサンス芸術は、メディチ家がパトロンとしてだけではなく思想においても決定的に大きな役割を果たした。  1431年のバーゼル公会議において、教皇派と公会議派が分裂し、教皇派はイタリアに移転し、公会議派はスイスのバーゼルに留まった。イタリアのフェラーラで1438年に公会議が開催されたが、フェラーラでは財政的な困難と疫病の流行に見舞われ、教皇庁の金融を担当していたメディチ家の申し出により1439年に公会議はフィレンツェに移転した。フィレンツェ公会議の開催により、メディチ家のフィレンツェや教皇庁での地位は強化された。フィレンツェ公会議を契機に東ローマ帝国の学者などを介してプラトンをはじめ多くのギリシア語文献が伝わった。  このギリシア語の文献をラテン語に翻訳したのがこの時期のルネサンスの最大の特徴であり、この翻訳作業をしたのがメディチ家の保護を受けたフィチーノという人物だった。フィチーノを中心としてフィレンツェのメディチ家の周辺に集まった人文主義者らによる私的なサークルである「プラトンアカデミー」が作られた。ダ ヴィンチもこのプラトンアカデミーに出入りしたと言われ、また、研究団体などに「アカデミー」という語が付けられるようになったのはこのプラトンアカデミーに由来するという説もある。ただし、プラトンアカデミーについては後世に理想化された話が多く混ざっているという。1492年のロレンツォ デ メディチの死去に伴い、プラトンアカデミーは事実上なくなったとされる。  フィチーノによるプラトン全集の翻訳はルネサンス期の新プラトン主義の隆盛の元になった。  盛期ルネサンス芸術が、後世に整理された技術論などに照らすと誤りとも言える点があるのになぜか完璧さのようなものを感じるのは、プラトン的な美学を表現しているためだという解釈もある。プラトン的な美学というのは、「精神力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握すること」みたいなわけのわからないやつだが、これは、美しいと感じたのはなぜなのかを掘り下げて考える術とか、わけのわからない領域から何かをつかみ取ってくる術をがんばって見つけろみたいなニュアンスで捉えられた。そしてまたプラトンの言葉から、その術を見つける手掛かりは幾何学と数学の研究で得られるのではないかと考えられた。この考えに同調したフランチェスカなどが遠近法や比例を絵画表現に取り入れることに成功したことも後押しとなって、新プラトン主義が受け入れられていったと言われる。  フィチーノはヘルメス文書もラテン語に翻訳した。フィチーノらプラトンアカデミーでは、プラトン哲学やヘルメス思想はキリスト教に反するものではないと考えていたが、 教会の価値観からすると異教的であり魔術的だった。メディチ家の保護下であったために研究が可能だった。  当時は異端や民間信仰による占いやゲーム、まじないの類の魔術も流行しており、現存する最古のタロットカードもこの時期の北イタリアで製作されたものだという。人の不安につけこんで何かを売りつけるような行為や、誤った二分法の片側に経済を置くというペテンも古代からあり、現在に至ってもある。修道士でもあったパチョーリは、几帳面に帳簿をつけることを善行だと説いた。人文主義が、言語の修得が単に読み書きができるようになること以上の何かをもたらすことを見つけたように、自分で数えるとか、自分で記録をとるとか、自分で見るということが、それ自体を超えた何かをもたらした。  それとは別の、まだ科学化されていない未分化の領域の研究にも新プラトン主義やヘルメス思想は取り入れられ、これは後に自然魔術とかルネサンス魔術などと呼ばれる。自然魔術とは、自然の諸物の間の対立と調和、反感と共感、分離と結合を明らかにするもの、と説明される。
 1600年、宇宙の無限性を唱えたジョルダーノ ブルーノが異端として火刑に処され、イタリアにおいては自由な科学研究も困難であることが示されたことでイタリアにおけるルネサンスは終焉し、文化の中心地はダ ヴィンチの『モナ リザ』と大量の手稿が残されていたフランスへ移った。
2021年6月 愚者と魔術師
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