Tumgik
wr16 · 1 month
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24-3-14
ふと思い出した出来事から派生してどこまでも広がっていく不安と羞恥を伴った思考から、「疲れた」「しんどい」「もうやめたい」という言葉を口に出して言う行為によって抜け出す、という無意識の習慣を指摘され、せめてもう少しましな言葉に置き換えようと思った。「大丈夫」とか。「よし」とか。
どういう方向性で生きていくのか、何をしてこの先の生をいきていくのか。自らの怠惰さゆえに「息を続けさせるための」「快を感じるための」以上の意味合いをどう見出だしていけばよいのか、迷っている。かつての私はそれについてどう考えていたのだろう。もっと、確かで熱のある何かが、そこにあったような気がしたのだけれど、思い出せない。
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wr16 · 2 months
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24-3-7
慌ただしかったり、体調を崩したりするうちに途切れてしまった日記をつける習慣を取り戻すために、とりあえずここに書きつけてみることにする。3月、と入力してその響きに驚いた。2024年をむかえてから、まだ何もはじまっていないのに、あとひとつきもないうちにその1/4が過ぎ去ってしまう。
定期通院。前回抗うつ薬の量が少し増えたのが功を奏したのか、体調や感情のコントロールがここ何日かうまくいっているような気がしていて、活動量をすこしづつ増やしていこうという話になった。カイロと鏡のくもりどめを買って帰宅。
面倒で昼食をとらないままドラマシリーズをみていたところ手足の力が抜けてきて、トーストを一枚食べる。
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wr16 · 7 months
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23-9-14
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体調をまた崩し、喉の痛みと強い倦怠感で数日寝込んだ。今日起き上がったものの、のど飴が手放せず、家のなかでも常にマスクをしている。
体調が悪いと気持ちもふさぎがちで、この先に生き続けていくための手段が何もないような、何もしたいことが無い���うな、意欲も気力も何もかもなくなって、家事も出来ず、生きていることが申し訳なくなるのを通り越して、それすらも感じないようにする物体に成り果てていた。
もうすぐまたひとつ、歳をとる。
昨年の今頃は新しい仕事についたばかりで、忙しく、それでもそれなりに充実はしていた日々だった。(その後体調を崩し年内に退職した)
あの頃の、何かにむけて頑張れていた、自分を取り戻したいと願いながら、そのスタートラインにすら、たどり着けるほどの状況まで自身を立て直すことがずっとできないで、抜け殻のままの身体だけがどうしようもなくここにある。
空っぽな自分ばかりをみつめて綴っていても仕方がない。空虚だと、繰り返し、うたったところでしかたがない。内省ばかり、それすらもする体力も、年齢とともに失われているような気がする。
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wr16 · 8 months
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8月の日記をながいひる様へ納品してきました。
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wr16 · 8 months
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岡山の書店ながいひる様に7月の日記を置いてもらっています。
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wr16 · 9 months
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23-8-8
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昨夜寝たのが一時頃だったにもかかわらず5時前に目が覚めて、河川敷に歩きにいく。ここ数日はまた、起き上がれない日が多かった。昨日は夕方になって少し調子が良くなって、表町書店に本を補充しに出かける。店番をしていた土の古書店の方と少し話すことができ嬉しかった。「ハルムスの世界」を購入。
就労移行支援はおやすみを続けているが、そろそろ再開しなければと思いながら、なにか、心が折れてしまったような、足がどうにもそちらに向かわないような、この年になってまた、登校拒否のような心持ちになってしまっている、とはいえ、普通に明日、面談にいって今後の通所日の予定について話すのだけれど。自身の判断力について信用がどんどん失なわれていて、すべてここまでの選択は間違いだったのかしらと、本名の自分に立ち返ったとき、ぼんやりと考える。障害を開示して就職するために動きはじめてもうすぐ2年が経とうとしていて、ずっと、「選ばれる」ことばかり、そのために、社会にでるために、「自分を矯正する」事ばかり続けて2年、良いこともあったし、成長と呼ばれるような変化もあったのだろうが、その反面、宙ぶらりんな状態のまま収入はなくみづからを律し続ける日々は、それはそれでずっと続けられるわけでもないのだろう。
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wr16 · 9 months
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23-8-4
主治医から療養するよう言われ、予定のない毎日、あまりに暑いので空調を効かせた部屋の中で過ごすのも飽きてきた。「泳ぎにいきたい」と昨年末のあたりから考えていて水着なども一式揃えていたものの、それっきりになっていた。のを、「今日、行ってしまおう」と思い立った。幼い頃に行ったことがある、サウナやジャグジーが併設された良い感じの雰囲気の室内プールに行くことにして、炎天下のなか小一時間原付を走らせた。10年ぶり位に泳いだものの、身体は泳ぐことを覚えていて、100mくらい平泳ぎをしては少し休むのを4、5回繰り返し、二の腕のあたりが痛くなってきたのを感じたあたりで水から上がる。外のテラスで自販機で買った紙コップのミルクセーキを飲みながら、吹いてくる風が気持ちよかった。30号線沿いを走らせながら途中途中、家族で訪れたことがあるような懐かしいチェーン店の数々を通りすぎて自室に帰る。7月の日記と書いた詩を、冊子の形にまとめていて、毎月そういったzineを作ってみようかしらと思ったりしている。定期的に外に出すための文章を書くこと、そしてそれが形を取って自分のもとから離れて行くものであること(すなわち、ネット上にあげるものではないこと)は自分に課す課題として、有益なものであるような気もするけれどそもそもそれを読みたい人などいるのかしらという疑問は根本的にあって、どのような形をとるべきか悩んでいる。そもそも私が文章を書くようになったきっかけは日記に対する関心によるところが多い。哲学者や文人の日記を読むことは、もちろんその生活を覗き見るような後ろめたい楽しみがあることを否定しない。しかし、その日記を読むうちに、「書いている主体が、ただ自己を顧みて書く、自身と会話する、というその行為のなかにおいて、書いている主体の思考、思想がが意図しないところで発生し練られ深化する場」としての所に関心が移っていった。哲学書や小説、詩といった「作品」が表舞台であるとするならば、日記はバックステージに位置するものであって、そうであるとしたならば本来は私達の目に触れるものではないはずだろう。しかし、例えばキルケゴールは生涯その日記を、後世に読まれるという前提で改訂や注釈を加える作業を続けた。リルケにしても、サロメという女性に宛てた書簡でありながら、日記という形式をとり、その内容としてもしっかりとした構成をもった「フィレンツェだより」や、ほとんど彼自身の独白であるような「マルテの手記」がある。そういった性質の手記について、完全にノンフィクションだということは言いきれないし、かといって全てがフィクションだというわけではない。純粋な日記と比べるのであれば、そこに手をいれる「なにか」の意図があるはずで、その意図は「単に自分を良く見せたい」といった動機などではないはずだ。自らの書いたものをここまで名前が出た偉大な思想家、詩人と同列に並べるようなつもりはない。ただ、私自身が当事者として、彼らのその背を追いかけて、少しでも近いような目的をもって生きようとするとき、見えてくるものがあるはずだ、と思っている。とりとめがなく、着地点を見失ってしまったけれど、それでも許されるのが日記という形式の優れた点だろう。
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wr16 · 9 months
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23-7-24
比較的順調な日々、するべきことも明確で、方針を立てて建設的に準備して、忙しいながらも充実していたと思っていたはずが突然落とし穴に落ちたように、突発的な行為によって、周囲に非常な迷惑をかけ、一週間動けなくなってしまった。どうしてそうなったのか、どうしてまた、ああなってしまったのか、いくら考えてもわからずに、あのときの気持ちもわからない。とにかく同じことを繰り返した事が情けなく恥ずかしく何よりも申し訳なく困惑して、目の前の現実からひたすらに目を反らして眠り続けていた。起きている時には大量の白米を胃袋に詰め込んで、何か別の世界の物語のなかに逃げ込むうちにまた眠り、夢の中でだけ、あちこちの人と会い散々話し合って議論して、懐かしい人々と再会をして、そうした眠りから昨日になって少し起き上がり、何とか建て直さなければと思いながらもどこから手を着けようかと少し途方に暮れて、各所に連絡をして溜まっていた洗い物を片付け、5日ぶりの外に出て、ご飯を食べに行った。
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wr16 · 9 months
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23-7-14
詳しく知る訳でもない好感を持っていた訳でもない芸能人の死についての報道にどうしようもなく影響は受けてしまう。誰であったとしても自死という言葉の前に色々な感情が湧き上がってこざる負えない。昨日就職活動関連のイベントに参加した。チラシで用いられているフレーズなどに嫌な予感はしていたし、特に対して何も収穫はないだろうと思っていたものの、支援者の2度目の誘いに首肯して岡山駅から一駅の会場に向かった。自己紹介シートとして記入するように手渡されたB6判の紙には既に、私の名前と、その横に、性別が大きな太い文字で印刷されていて、それを各ブースで提示して円滑に自己紹介ができるように、との事。性別を記入するとき、ささやかな抵抗としてあえて空欄にすることが多いが、こうして逃れられない形で必要性もないのに、それを本当に何の悪意もなく「無意識で」行われている(それも税金が投下されているだろう組織が)事に苛立たずにはいられなかった。人があまりにも多く、疲れる前に退散した。是枝監督の最新作をみたときのざわざわとした感情を思い出す。あれはかつて確かに私のいた学校で行われていたことだ。今もどこかで行われてあることだろう。当人たちにその自覚も何もないままに。だけれど、それを、作品としてわざわざスクリーンに映し出す必要を感じなかった。ただ、あのふたりを祝福するものであってほしかった。というのはただの一鑑賞者としての感想にも満たない願いだ。翻って自分の書いたもののことを考える。それは私の一部であるから、向うへ行ってしまう事を希求する感情がそこにあってしまうだろう。それはそれとして、その先に生き続けることを描きたいと思っている。美しいものにふれること、そこへ向かうプロセスとして傷を傷として認める事が必要だったかもしれないが、今の私はそことは関係のない美しさを描いてみたい。ウェルテルを読んで死んだ若者が多くいたらしいが、彼らは自死するのではなく自らのバージョンの「若きウェルテルの苦悩」を著すべきだったのだ。正しくあの作品に影響をうけるなら。それで出来上がった小説が傑作であろうが拙くあろうが、あまりにも痛ましい喪失の前で、それを書き残すべきだったのだ。
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wr16 · 10 months
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23-7-13
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様々の事が徒労に終わったような日でため息すらも出ない。とても疲れてしまった。夕方に雨が降り始める直前に家に帰ってシャワーを浴びて音楽を流して床に横になって部屋が暗くなっていくのをみつめていた。一昨日購入したゆずりはさんの詩集の新装版がstembooksから届いた。タイムラインに流れてきた芸能人の死とその事象に際して発せられた言葉を目にしてしまいざわざわした気持ちになった。一歩外側に出るとなにも伝わらないんだと思ってしまった。あまりにも私とは違う考え方や話し方や言葉の使い方をする人たちが世界には溢れそれはあたりまえの事だろう。お前は特別ではない痛みだと嘆くのならそれはあまりに繊細すぎる、と切り捨てたい私もいる。ありふれている、としたらそれもそれでおかしなことだ。罪のないものだけが石を投げなさい、と、主が語ったときその場を去った人々の懸命さすら私たちは持てないのかもしれない。何もかもやめてしまうべきなのではないかと考える。この時間のままずっとここにいたいと思う。もしくはあの日、あの時の美しい時間に戻りたいと思ってしまう。星野源のラジオに出演した細野晴臣が、人生を下山しているところだと言っていた。なるほど、と思った。
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wr16 · 10 months
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23-7-11
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読んでいる本について1000字ほど書いていたのがまるまる消えてしまって失意のうちに書いている。本についてはまた今度改めて書く。スーツを着て面接練習に行く。とても暑かった。明日は休みで、何をしようかしらと今から考えている。何か誰かと新しい楽しい事をしたい。と考えてみるだけ。
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wr16 · 10 months
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23-7-7
休日。二度寝して昼前に宅急便を受け取り、洗濯機を二回回している間にパソコンに向かって散文を書く。
日記と詩の間のようなものを書いている時がいちばん楽しい。オートマティスム、とも何か違うような気はするけれど書いているリズムのままにどこにゆくのかわからないまま一息で書き上げる行為そのものもそうして書きあがったものも割合好きだ。意図して書くことに自覚的になってきた分だけ腰が重くなっている部分は大きいのであまり考えすぎないでもよいのだと思う、続ける上では。
昨日、通所後にながいひるにいってトーベ・ヤンソンの挿し絵の『不思議の国のアリス』を購入した。パラパラと挿し絵をみるうちに雨が降りそうな雲行きで、洗濯物を部屋干しして、ホームページのヘッダー画像を切り替える。一昨日に古いデジカメで撮った写真を気に入っていて、各種snsのヘッダーも徐々に切り替えていきたい。
SNSといえばTwitterの騒ぎ、個人的には「不具合なんてあるものでしょ」とTumblrユーザーとしてはそれほど心配もしていないしどうせしばらくは使えなくなることもないだろうと静観しているつもりだったけれど、投稿を楽しみにしている人々がthreadsのアカウントを次々と作っている様子をみるに気になって、とりあえず自分でも使ってみることにはした。UIのシンプルさは嫌いではなく、ごたごたしているタイムラインもそのうちに落ち着くだろうから使えないことはないだろうが、今の自分が新たにそこで何かすることがあるのか、といえば、TumblrやInstagramで事足りそうだ、というのが正直なところで、改めてTumblr以外のSNSにさほど思い入れも愛着もなくツールだと思ってるんだな、と思った。
どのSNSにしても交流も稀にしかなく、自分としてはもっと気軽にコメントなどつけてくれれば良いのに、と思わない訳でもないが、かといって、なにか気のきいた応答ができるわけでもなく、双方向のコミュニケーションを望むよりお互いの作品や言葉や日常をただひっそりと見ている場があればそれで良いと思う。
そのメディアがたとえネットである必要もなく、本��あれzineであれフリーペーパーであれ、そういう楽しみ(という言葉は少し違うかもしれない)に触れながら実体のある生活が私がいるこの場所にあればよいと思うのです。あちこちで冬雨という名前を名乗ってはいるけれど、どれも同じ私なので、好きな場所でみてくださればよいのではと思います。
昼過ぎ、髪を切りにいった後、藤井さんと定例のお茶をしてあれこれ話す。
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wr16 · 10 months
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23-7-6
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自主隔離生活から日常生活に戻って、後遺症としては少し咳が出るくらいなのと、消耗した体力が回復しないのでいつもよりも力を抜いて過ごしている。夢の中でやたらと急かされる事が増えた。次の季節に移行しようとしている。日の光が眩しい。緑色の日傘を買った。水出しの緑茶がおいしい。寂しくなっていた水槽に魚を数匹連れてきた。今朝、そのうちの一匹が水面に浮いていた。水合わせがうまくいかなかったのだろうか。それとも外出中に室温が上がり過ぎたのか。生き物を飼育することは、こういう罪悪感といつも隣り合わせで、取り返しがつかない命をもてあそぶことに近い行為��と思いながら、繰り返す死に触れるうちに少しずつその感覚も麻痺してきている、というよりも人間はそういう罪深いものなのだと思っている。ミニバラに虫がついてしまって、気づくのが遅れてしまったので、ハダニは退治したものの、変色した葉が多く、このまま枯れてしまわないかしらと心配をしている。色の変わった葉を取り除いて、新しい葉がでてくるのを待つしかない。
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wr16 · 10 months
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23-6-19
夜暑く、眠りが浅いのか、夢見が悪く、うなされて暴れて目が覚めることが増えた。夢の中であった経験が、記憶に紐づくものだとしても、実際にそういった出来事があったというその事実は遠い時間の向こうにあやふやになっていて、状況的にそういったことがあってもおかしくないだろうと曖昧な確信に至らない結論が、一日中頭の中から離れなかった。意志として生きていたいというそれ自体とは無関係なのか関係しているのか向う側への誘惑は手を変え品を変え定期的にやってくる。無かったことにはならないし、かといって、今更こだわりたい訳でもない、事実は事実として認めていたいだけだ。「いっしょにしのう」という言葉を考える。実際に発せられたのかどうかわからないけれど、確かに、正面から今朝の私が受け取ってしまった言葉。嫌、と答えた幼い私に凄まじい罪悪感があって、嫌、といったことが、正しくはあるはずだと理性では分かっていながら、どうして嫌だといってしまったんだろうという罪悪感が無性にここにある。
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wr16 · 10 months
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23-6-15
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art-schoolの新譜、友人との話題に上るときには心配だとしか言葉になっていなかったのが申し訳なくなるようないい曲が多くって行き帰りの移動中に聞いている。CDも注文した。floraのようなギターの積み重ねが美しく、浸っていたくなる。昔メインで使っていたデジタルカメラの充電器を購入して、充電したところ無事に動いた。10代の終わりに表現としての写真を撮りはじめた時に使用していたカメラで、持ち歩くのに丁度良い大きさ、青が特徴的にでる、ものの本当になんでもないような普通の少しだけ古いコンパクトデジタルカメラで、当時はそのことを引け目に思っていた部分もあったけれど、今となってみると写真を撮ることの楽しさはこのカメラだったからこそ知ることができたと思う。「何でも出来てしまう」一眼レフではなくて、できることの限られているコンデジで自分らしい・自分が好きと思える写真を撮るための試行錯誤の楽しさ。2003年のカメラなのでもう20年ものだとすると、「レトロ」等と言ってみてもよいのかしら。インスタグラムに投稿する写真はgizmon half-dで撮ったものを中心にするつもりで、今日の画像もそうなのだけど、このOLYMPUSの古いコンデジで撮った写真も少しずつ上げてゆきたい、となった時にフィードの統一感をどう保とうか、という悩みも生じてくる。解像度の違い。元々統一感なんて有って無いようなものではあったから気にする必要は無いのかもしれないが良い方法があればよいと思う。夜が暑くなってきて寝苦しい。夜中に何度か目が醒めてしまう。
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wr16 · 11 months
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23-6-4
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11時過ぎまでうとうとする。深夜に激辛の袋麺を食べてしまったので胃腸の調子が悪い。典型的な自業自得。クローゼットから着たままになって放りっぱなしになっていたスーツを取り出してクリーニングに持っていく。クリーニング店の店員さんは、接客のエキスパート、という感じがして、それが何か気持ちが良いという以上に、ちゃんと生きなければという背筋の伸びる思いがする。トイレットペーパーとほうじ茶のパックを買って帰宅。少し蒸し暑いが良い感じの風が入ってくるので窓を全開にする。身体の中から直ぐ水分がなくなっていくような感じがして、手元に常に飲み物を置いて、何か書きはじめおうとして何も書けずに日記を書きはじめたところ。聞きたい音楽がなかなか決まらなく、grouperを流している。最近spotifyの共有プレイリストの機能を使って、不特定多数のフォロワーとプレイリストをつくる遊びが楽しい。「眠れない夜のための」と「it's rainny」。自分で選んで聴く曲はある程度固定化されてしまっていて、新たな音楽を求める、ということが中々ないので、こうして(フォローしている・されているからにはどこか感性に通づるところがあるだあろう)人々の選んだ音楽をランダムに聞くことはとても楽しい。「眠れない夜のための」は入眠にとても役立っている。AIでもなくランダムでもなく「選んだ誰か」の存在を感じられることは不思議で嬉しいことのような気がする。これからどこかに出かけてもいいのだけれど最近の体調を鑑みれば体力を回復する方向で過ごしたほうが良いのだろう。
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wr16 · 11 months
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23-5-31
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天候が崩れて、それと同時に体調も崩れ、今月の後半に割合動いていた反動もあるのか何をするのにも億劫で、動いていない訳でもないが動き出すために消費するエネルギーがとても多く、ずっと、「一日でいいからなにもせず眠っていたい」と心のなかで呟きながら過ごす。今日は通所はできず、在宅訓練で家で簿記の勉強をしていた。午後から保健センターへ行く。誰かがしてくれる訳ではないから、役所の手続きや、洗濯や二人分の食事を用意することや、洗い物や、お金のやりくりや、そういったあれこれに追われて休む間がなく。一昨日話した心理士に「でも、、忙しくしている方が、話し方もしっかりしていて、元気そうに見えますけどね」と言われて、確かに日々のあれこれに追われて複数のタスクを平行している状況のほうが余計な事を考えずにすむ部分はあるのだろう、とすると、気候や湿度、寒暖差からくる不調をどうにかできれば、と思う。どうにかできる、という発想がそもそも違うのかもしれない。やり過ごすしかないのか。おなじ日に心理士とNHKで放送されたらしい「短歌ブーム」を取り上げた番組から話が広がったのが面白かった。先日も普段詩歌やいわゆる文学には触れることのない恋人と一緒に詩を読む時間があった。彼女の詩の読みが、その感情をダイレクトに受けとるような読み方で本当に息苦しくなったり切なくなったりころころと表情を変えながら読んでいて、それがとてもうらやましく思った。どうしても私は文面の言葉上の意味や解釈をしてしまうから。
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