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古武道史つれづれ
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日本の武道史について思うことをつれづれと。基本的に過去のtwitterの投稿を下敷きにしています。
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2016landslide-blog · 7 years ago
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相外飛竜水月さんとの議論への返信
正直なところ、相外さんの主張されたい事がいまいち私にははっきりわからないのですが、以下の通りで良いのでしょうか?
主張1・寺田、白井の逸話は逸話のまま受けとれば良い。当時の歴史的背景を検討する必要は無い。
主張2・寺田や白井の時代も今の剣道も高齢になればみな弱くなる。
主張3・どの武術でも高齢になっても高い技術を保つ人がいる。
上記の三点の理解でよろしいでしようか?
そうしますと、主張3は議論するまでもなく相外さんも私も同じ事を言っていると思います。
主張2に関しては、以下のツイート https://twitter.com/inuchochin/status/1029931976839520257?s=19 にあるとおり競技、優勝試合のような状況では高齢者は勝てないと思います。単純な闘争能力で言えば三十才前後が一番強いのでは?
主張1に関しては、武術修行者だろう相外さんと、当時の文化や逸話の歴史に興味がある私では考え方や論点が違うので、議論する必要は無いと思います。
何か私の勘違いがありましたらご指摘お願いいたします。
議論については以下のurlに確認用にまとめました。
相外飛竜水月さんとの議論
https://togetter.com/li/1257203
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2016landslide-blog · 7 years ago
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袋竹刀と四つ割竹刀についてのメモ
袋竹刀の評価についての資料
熊本地歴研究会,肥後武道史,1974,133-134
 竹刀改良問題,子爵(※神道無念流渡辺昇)の談に「熊本の稽古は一たいに腹の稽古だけは非常に可いが、併し従来袋竹刀であるから技術が進まぬ折角やるなら、モ少し発達する様な事にしてはどうか」(明治二十年代?)
富永堅吾,剣道五百年史,1972 ,p452,
 藤田東湖「しないも堅剛に制すれば木刀に均しき故、いやが上に竹を細かにわる。柔皮又毛皮にていかにも柔脆に制する故、七八分の力を以て打立て疵を蒙らざれども、其しなひ軽き故打出す太刀も心に任せず、とめたる太刀は打こしなどして真剣には似つかはしからず。例えば麻がら弓を矢として弓を学ぶが如し。これ又何の益か有らん」
袋竹刀について
富永堅吾,剣道五百年史,1972,p451,
「固より竹刀といっても今日使用するような四つの割竹に、柄と先革を嵌めて弦で引締め、中結で一か所結んだものと変わらぬ様なものが一足飛びに政策されたものではなく、従来の袋撓から漸次工夫改善され、又流派によって異ったものがあったであろうことは想像に難くない。昔の絵画に割竹幾本も束ね、元も先も同じ太さの竹たばに、柄革を着け、それを中結で数箇所結んだものなども見受けられ、榊原鍵吉の如きは時代は新しいが、色々と竹刀を工夫し、籐などでも拵えたりしたことがあったと伝えられる。」「大体に於いて従来の袋撓が陰を薄うして、これに代って竹刀が重要な位置を占めたことはいう迄もない。」
榎本鐘司,文化文政期の西南地方における剣術他流試合の動向,アカデミア自然科学保健体育編第3巻,1987,
 文政期(1818-1831)に加藤田神陰流で既に長竹刀が使用されている(柳川藩の大石神陰流の影響か?)
他流試合や試合手法について
富永堅吾,剣道五百年史,1972 ,p466,
 天保12年(※1842)、弘道館を興して剣道も北辰一刀流、神道無念流等を採用して「改進の実を挙げ稽古も一変して防具の如きも一新した」。紀州藩では安政二年(※1856)には「更に武術の儀一流に限らず銘々存寄次第相学ぶべき」。「福井藩では嘉永五年(※1852)の夏、神道無念流の斎藤新太郎が長竹刀を以てやって来て以来江戸へも藩士の入門を仰付け」
和田哲也,近世後期における剣術他流試合の活性化と竹刀打込稽古の普及について,日本体育学会大会号第40回,1989,
「天保期(※1831-1845)を境に岩国藩では竹刀打込稽古が主流となり、これを行なう者は他流試合にも積極的に参加していた。」「藩校養老館が設立されると、藩校稽古場では竹刀打込稽古を採用することが決まり、他国の修行者もそこに引き受けて稽古仕合を行なうこととなった。」「旧法を守って(略)もはや流派の維持さえ困難になっていたことによるものということができる。」「竹刀打込剣術は、既にそれ自身が伝統的な流派剣術とは別な方向に一���歩きを始めており、旧来の形あるいはそれによって維持されてきた流派というものの存在意義は次第に薄れていったのである。」
長尾進,試合剣術の発展過程に関する研究―『神道無念流剣術心得書』の分析― ,武道学研究 29 巻 1 号 ,1996
 神道無念流剣術心得書は常陸国の武藤七之介によって天保期頃 (※1831-1845) までに書かれた神道無念流より見た他流対策についての書。流派は一刀流、直真陰流(直心影流)、神教明智流(鏡新明智流)、柳剛流、朝山直伝流(浅山一伝流)、新陰流、義経流。一刀流の突き技に対する対応が多く書かれている一方、他の流派については突きの記載無し。
貫汪館館長,道標,2015年4月15日,http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-2923.html ,
 土佐藩士樋口真吉が肥後藩新陰流の試合について「此家道具撓丸竹四ツ破ニ革ヲキセ、鍔あり、面ハ金面フトンナシ、小手手首キリ、稽古試合口下段突ナシ、因テ余等持参の稽古道具出シテモ都合悪ク、隠シ置事」と記載。
人物の生没年
寺田宗有
1745年 - 1825年 、一刀流再入門は1796年
白井亨
1783年 - 1843年 一刀流入門は1797年
千葉周作
1793年 - 1856年  一刀流入門は1809-1810年頃
※は筆者が注した。
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2016landslide-blog · 8 years ago
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剣術の歴史メモ
簡単な剣術の歴史メモ。
間違っているところもあるとおもいます。独断と偏見でざっくり書いています。
南北朝から室町時代中期(1336頃~1490くらい)
 剣術流派の成立の時代です。源義経や鞍馬の天狗、ふらりとあらわれた神僧などから伝わったとする流派があらわれます。この時代に成立した流派に念流、中條流平法、新當流などがあり、現在の流派も遡ればこれらの流派に繋がります。この時代はまだ竹刀の類いは無く、木刀や木の枝で稽古していました。思いきり打つと危険ですから、寸止めや軽く打つ形で稽古していたと思われます。
 この時代の兵法家に「奥山の念阿弥慈恩」、慈恩の弟子の中條兵庫助と堤宝山、新當流の開祖飯篠長威とその弟子松本備前守などがいます。
室町時代中期から戦国時代(1490頃~1570頃)
塚原卜伝(鹿嶋新當流)、上泉信綱(新陰流)、富田勢源(富田流の小太刀)、有馬大和守(有馬流)、斎藤伝輝坊(天流)、伊藤一刀斎(一刀流)など今でも名の知れた剣豪があらわれます。この時代、まだ木刀で稽古していましたが、上泉信綱が今の剣道の竹刀の原型(撓、読みはシナイ。現代では袋竹刀と言われます)を考案して安全に体を強く打つ事が出来るようになりました。
また、「竹内流小具足腰廻」という柔術柔道の先祖のような武術があらわれました。室町時代中期の中条流に既に同種の技法がありましたが、大成したのは竹内流でしょう。この武道の技術は室内、座敷など刀を持ち込めない場所、脇差のみを腰に指した状況で敵に教われた場合の戦い方や、刀を腰に指した状況、道を歩いている時に突然敵に襲われた場合どうするか、というようなものです。
この流派は現在まで四百数十年ずっと竹内家に伝わっています。
竹内流の演武の動画
(この武術(小具足腰廻)は居合の概念を理解する上で大事ですので、こちらに書きました)
安土桃山から江戸初期(1570~1640)
 上で書いた剣豪たちの弟子や孫弟子が活躍します。新陰流上泉信綱の弟子だと、
 柳生石舟斎やその子供や孫(柳生宗矩や柳生兵庫)、いわゆる柳生新陰流。
 疋田豊五郎とその弟子たち
 丸目蔵人(タイ捨流)
伊藤一刀斎の弟子だと
 小野忠明(将軍指南役)
古藤田勘解由
などが有名です。薩摩の秘剣として有名な示現流もこの時代にあらわれます。
 この時代には撓(袋竹刀)がかなり全国に広まり、いろいろな流派で使われはじめています。前記の疋田豊五郎は1600頃に全国を廻り袋竹刀で他流試合をしています。この時代に各地で新しい流派がうまれ広まっています。宮本武蔵もこの頃に活躍しています。
居合について
 この時代に居合の流派が突然あらわれ広まります。記録に残る初期の居合の使い手は田宮平兵衛、長野無楽斎(田宮平兵衛の弟子)、片山伯耆守です。最初の二人は田宮流、片山伯耆は俗に伯耆流と言われます。
 居合は現代のイメージでは刀を抜いて切りつける技の事ですが、戦国時代や江戸時代初期の文献では座った技という意味で使われています。合は武術では「敵と会う」「武器を合わせる」くらいの意味で使われて、立合なら互いに立って戦う、太刀合なら太刀と戦う、槍合なら槍と戦う、座合や居合なら座って敵と戦うくらいの意味です。相撲の立合もこの意味です。
 先ほど紹介した竹内流小具足腰廻の極意の捕手(現代で言う逮捕術)には居合と立合という技がありますが、居合は互いに向かい合って座った状態から敵を取り押さえる技、立合は互いに立って向かい合った状態から敵を取り押さえる技です。
 古い居合の技は、互いに向かい合って座った状態��敵が脇差を抜き突こうとした所を、こちらが先に太刀や大脇座を抜き、その右腕を刀で切り押さえるような技です。現在、青森県や東京に残る林崎新夢想流(先ほど名前を出した長野無楽斎の流派です)がその技をよく残しています。
林崎新夢想流の動画
 これらの技がどういう状況で使われることを想定したか、この時期の資料には書かれていないので推測するしかありたせんが、
「敵か味方かわからない相手と室内で対座して詰問中、突然短刀を抜こうとしたので、こちらも抜刀して敵の腕を切り止めた」
というイメージではないかと思います。
 もともとは座った技という意味の「居合」でしたが江戸時代の前期にはすでに今のような抜刀術の意味で使われはじめています。
江戸時代中期(1650~1780)
 この時代に防具を着けて竹刀(まだ袋竹刀です)で試合をする事が広まります。流派としては心形刀流、直心影流、神道無念流など幕末に活躍する流派が出てきます。ただ、各地の藩で古くから伝わる流派は武家社会にしっかり根を張っていたので、これらの新流派は受け入れらない事もありました。他流試合は禁止という方がまだまだ普通でした。武家階層以外の剣士が増え、それらの階層から新たな流派が現れるのもこの頃です。また、それらの武家階級以外、庶民の流派は比較的自由に他流試合をおこなっていたようです。
 この時代には流派ごとに多種多様な技や特徴がありました。この時代より少しあとの時代ですが、「上段に構えて素早い足さばきを使う流派、剣道のような中段にかまえ、突きを使う流派、手や足や���どこでも打つ流派、剣術と柔術の両方がある流派は組み付いて投げ技が得意」など他流の得意技について記載した古文書もあります。
この時代の居合
 元々、相手をつけて稽古していた居合ですが、だんだんと一人で稽古する流派が多くなっていきます。いろいろな剣術や柔術の流派に居合の形が含まれるようになります。(例:直心影流、浅山一伝流、神道無念流など)  以下のような居合の特徴、
一人で座って立って抜刀、納刀するだけでかなりの運動量になる。
座敷の中でも稽古できる。
刀剣の扱い方の練習になる。
イザという時に刀が抜けず不名誉とならないため。
という用な形で侍たちに受け入れられていったようです。元々は居合は敵と自分、一対一で座った状態から立ち上がり抜刀する形がほとんどでしたが、この頃から立った状態から抜刀したり、四方八方の複数の敵を切るような形が現れ始め、現在の居合のイメージの原型が完成したようです。
江戸時代後半から維新、明治(1780~1870頃)
 全国的に他流試合が盛んになり、この時代に現在の剣道で使う防具や竹刀が完成します。今の竹刀は真剣よりかなり長いですが、1832年頃に九州の柳川の人、大石進が現在の竹刀と同様の構造の長い竹刀を使い、江戸中の道場で勝ち続けた事件がおきます。これ以降長い竹刀が流行り、いろいろあって今の竹刀の長さになりました。
 幕末から明治にかけ、竹刀での試合が剣術の修行の中心になり、他流試合が普通になって、他流と交流するようになります。するとどこの流派も似たような技を使うようになります。(竹刀での試合で有効な技、となるとやはり限られてくるようです)
明治から昭和10年代(1870~1940)
 武士の世が終り、剣術など武術はどう生き残るか皆工夫しました。撃剣興業など見世物として残っていく方法を考えた人達もいて、この興業は一時期全国的に人気があったようです。西南戦争等で剣術が見直され警視庁等でも盛んに稽古されるようになり、そして明治三十年頃に武徳会という武道家の組織ができます。毎年京都で全国の武道家による試合と演武会が行われるようになりました。(京都大会の名前で現代まで続いています)
 武徳会では実力や実績に応じて練士や教士、範士の称号があたえられ、これはかなり社会的な権威があったようです。各地の道場(なになに流剣術などの道場)でも、流派伝統の形の稽古よりも、武徳会が制定した形(現在の剣道でおこなわれる日本剣道形と同じ物です)の稽古と試合用の稽古が重視されることが多くなりました。道場を継ぐ予定の人(例えば道場主の息子や、才能ある弟子など)も、伝統の流派の稽古よりも、最新の試合技術を武徳会の学校(武術専門学校、京都にありました)に入学したり、武徳会の師範に入門したりして学びました。
 こ��して、各地方に江戸時代から伝わっていた流派はだんだんと消えていきます。これが大正から戦前の昭和くらいまでの話です。これが現在の剣道になります。
 それとは別に、大正や昭和頃から試合中心の競技化した武道は本来の武道では無い、という考えが生まれてきました。そう考える人たちは、江戸時代から伝わる武術流派の形を演武する大会を開催したりして、それら古い伝統のある流派の形などを剣道や柔道とは違う、日本古来の「古武道」と呼んで区別始めます。
 この頃から競技武道では本来の武道武術の技が無くなる、と考えた人たちが剣道や柔道から距離を取り始め、伝統的な形や試合形式で稽古をしたり(剣術で言えば示現流や薬丸自顕流、柳生新陰流などの流派などです。現在、古武道と言われているものはほとんどがこのパターンです。)、そもそも剣道や柔道が存在しない田舎だったので、江戸時代のままの流派が残っていた例(東北などに多いです)などもあります。
居合の復活
 記録を見ると維新後も明治期初期には幕藩時代の流派が各地で行われていたようです。 ところが居合の各流派は明治から大正にかけてかなり衰退します。やはり廃刀令の影響もあったのでしょうか。
  ところが、武士として生きた人達が死に絶えた大正の頃から、日本刀の使い方や切り方をわからない剣道家が増えたためか、「日本刀の扱い方を身に着け、実際に切る方法を見につけるために居合は有効である」と居合が見直され始め、土佐に伝わっていたある居合流派(無双直伝流や夢想神伝流)が剣道家の中で大流行します。これが現代の居合道につながっています。
戦後の話はまた別にまとめます。
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2016landslide-blog · 8 years ago
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渓流詩人の日記「やかましい虫」についてのコメント
前回の記事
  『流派に於ける伝書についての私観』へのコメント
の最後に『渓流詩人の日記』がリンクされていました。内容は以下のとおりで、 『「らっぱすっぱの類-渓流詩人の日記」についての反論  』へのコメントになります。 あまり意味があるような文章とは思えませんが、いくつかコメントします。
まず、
敵の刀を踏む技法があるのなどは織り込み済み。知らぬと思ってるところが何とも読みが浅すぎる。
とありますが、これはつまり「渓流詩人の日記」のこちらの記事にあった、前々回の記事の反論の主対象となった
武家の武士の武技ではないものは武士は否定する。 それだけのことだ。 刀を足蹴にしたりする所作作法、まして剣技などは武家刀法には存在しない。 
それだけのことである。 刀を担ぐことは武技としては武家武士士族の剣法の中にもある。 だが、足蹴にする技法を武家の武技の中に採り入れていることを私は知らない。知らないというだけでなく、まずそれは現実的に存在し無いだろう。
という文章は意図的な嘘だった、という事ですね。「渓流詩人の日記」さんとも意見が一致していたようでよかったです。
次に
とにかく、ネット上のSNSや2ちゃんでごちゃごちゃ言ってないで直接俺に物言いしてこいよ。直接連絡して。メアドは公開してるのだから。
みんみん蝉も文句あるなら本名名乗って俺に直に連絡よこせや。 物言いしたいのならば、話はそれからだ、この卑怯者め。
とあります。
わたしは「渓流詩人の日記」記事に対して批判等を書いているのであって、「渓流詩人の日記」を書かれている人物に第三者に見られないように内々で直接言いたいことはありません。言いたいことは全部書いています。
また実名を言え、と言いますが、その前に私の実名が必要な理由をお教えください。匿名で卑怯だ、という事でしたら、完全匿名と違い、一応ツイッターアカウントが存在する限り私の発言はアカウントに紐つけられているので過去の発言を追うことが出来るので問題ないと判断しています。まぁペンネームみたいなものですね。
以下全文引用です
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/5bfaeb5ead617621fa6920da94552cb6
やかましい虫(期間限定表示)2017年07月17日
私のウェブ日記を逐一チェックして後出し言訳を書いて批判することに生き甲斐を持っているみたいな糞虫のような蝉がいるが、敵の刀を踏む技法があるのなどは織り込み済み。知らぬと思ってるところが何とも読みが浅すぎる。
必ずネットに書いて来て言い訳がましいことを述べると思っていたが、非常に分かり易くて釣りやすい。 本当に兵法を知っている人間とは思えなくて草生えまくる。 人のことを無知と断定して優越感に浸るのはこの虫の得意技だが、これはこの人間の精神世界がそうした睥睨感によってしか支えられていないので致し方ない。 無知は己だということに気付かない愚かな哀れさが溢れていてみじめな限りだ。地中に引きこもっていた時間が長いので、死ぬ間際に出てきた外界でみんみんとわめきたいのだろう。 但し、常に「俺は知っている知識人。他は無知な者」という感性で振る舞うので、非常に無礼非礼な言質を自分が連ねていてもまったく蛙の面に小便ならぬ蝉の小便なのだ。蝉は飛びながら小便をよくするが、そうやって人様たちに小便かけをして喜んでいるのがまさに本人のそれ。 あちこちからネタを集めて来て知識のコレクションを披露するだけで、この虫には「知見」というものも心の芯も無い。 どこどこにこういうのがある、ということをただ羅列列挙するのみで、そういうのは「博学」とは人の世では呼ばない。博学者とは拾い集めたツギハギ知識のコレクターのことではなく、自己解析の視座や切開して所見を持つためのメスを手にしている人の事を云う。 そもそも、どこに何があるかについて既知であるか未知であるかによって無知か否かは決定しないし、価値がある無しが決まる訳ではない。武術IQというものはそうした物がある場所を多く知っているかどうかではなく、頭でっかちの寄せ集め拾い集め知識で膨らんだ脳内によってではなく、真剣勝負に勝てるという実力を完遂するための知見をどのように構成していくか、ということが武術の要であり、それが高度な高次元の領域を心身ともに有している者が達人であり名人なのだ。カスのスカがいくら知識をひけらかしても、「武術的」なこととは一切関係がない。 みん虫はその一番大切な根本がまるで解かっていないのである。 なので、その無理解、理解不能の能力ゆえ、寄せ集め知識を以ってそれが偉いことでもあるかのように誤認して、あるいは達人にでもなったかのように思い込んで、他者を睥睨するという人として下の下の言動を為せるのだろう。たぶん、幼い頃からそういう性格で歳だけとったのではなかろうか。 とにかく、おたく脳内コレクションをひけらかして人を言い負かそうとすることが第一で、それに人生のすべてを賭けているような類のヲタなので、実生活でも本当の友人とかいないのではなかろうか。 第一、そもそもが人物が無礼慮外の極みなのだから、論外なのよね、言ってることすべてが。 なんのために武術をやっているのかと思うが、たぶん、他のことには自分のアイデンティティを見いだせず、武術の知識を餓鬼のように貪欲に拾い集めることでどうにか自分の立ち位置を見つけていられるだけの存在なのだろう。 ある意味自称武術研究家のダンダダN.Sに似ているところがある。 それかice-kの慇懃無礼��とかね(失笑 しかし、分かり易くて面白いなぁ。 予め私が申し副えて言っていた通りの結果で、「やっぱり」と思った人も多いことだろう。 2ちゃんねるに書きまくってるタコもこいつだろうね。 しかし、自称武術家とかいうのは、カスのような人間ばかりだなぁ。 古流武術やってると何か特別な偉い人とでも思ってるのかねぇ。 まあ、その時点で人間としてへっぽこなんだけどさ。 みんみん蝉、お前のことだよ。 なにここに至っても「万一違っては」などと「可能性」を引っ張り出して公正妥当ぶったポーズしてんのか。馬鹿だろ?お前。お前以外にいるわきゃねーじゃん。 俺に対する無礼な言動を名指しでネットで為したことを謝ってから物を書けや、このたわけ。 まずお前のネット書き込みから開始されている。 それをわきまえろ、馬鹿め。
というかさぁ、何かでかいことを書く前には誰かに相談したほうがいいんじゃないの? お前の言そのままブーメランというのが毎度の自信過剰のイタさ全開なんだけどさ。 お前、脳内知識だけの武術のネタ探し以外にやることないの?(苦笑 いつも何か落ちてないかきょろきょろ地面見ながら歩いてるみたいだな。 そういう武芸者って武芸者らしくなくて限りなくスカってるんだけどね、人としても。 とにかく、ネット上のSNSや2ちゃんでごちゃごちゃ言ってないで直接俺に物言いしてこいよ。直接連絡して。メアドは公開してるのだから。 自称古流武術宗家にしても直接はビビリやがって俺の師匠の職場(税理士事務所)にねじ込んで裁判するぞとか恫喝(のつもり)したりとか卑怯者ぶり発揮してたけどよ。本名名乗らず偽名使って。 みんみん蝉も文句あるなら本名名乗って俺に直に連絡よこせや。 物言いしたいのならば、話はそれからだ、この卑怯者め。 まあ、なんというか、直接対峙対決などできなくて、関係のない周辺者に害を及ぼしてどうにかしようというのは、子どもをさらって身代金を要求する誘拐犯や、人を盾にして銃を突きつけて自分の要求を告げる犯罪者のような奴らだな。 まじで卑怯者すぎて虫唾が走るぜ。 文句あるなら直接言って来い、臆病者。(臆病者の卑怯者で心に負い目があるからネットで匿名の陰に隠れたり、リアル社会でも偽名でしか人前に出ないのだろうけどな)
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2016landslide-blog · 8 years ago
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『流派に於ける伝書についての私観』へのコメント
先日の記事
「らっぱすっぱの類-渓流詩人の日記」についての反論
のあと、以下のように町井先生とやりとりしました。
7/17のやりとり
その後、表題の記事が町井先生のブログに投稿されましたので、それに対するコメントです。
結論だけ先に書きますと、記事中で町井先生も
命を賭す現場に於いて、やむなく刀をぞんざいに扱わざるを得ない場面は多々出てくるでしょう 
とおっしゃっているので兵法における基本的な考えは私と相違がないようです。違う部分は、
日頃の稽古の中で、刀の鞘を足蹴にするのはおかしいし
真似をして鞘を壊したり、刀に傷をつけてしまう素人が現れないよう、内々で稽古すべき
とあるように、町井先生は日ごろの稽古でやむなく刀をぞんざいに扱わざるを得ない場面にそなえる稽古はしない、したとしても隠して稽古すべき、という考え方だという事でした。
対する私の反論は後述しますが、そういった稽古や口伝、心得の稽古をどうするか、というのは流派による部分だと考えています。
以下本文です。
流派に於ける伝書についての私観
 天心流兵法なる柳生を名乗る団体(柳生との関連を証明するものは一切ない)による、素人や外国人に間違った武士や日本刀の知識を与えかねない動画に対し、慎むようにと私見を述べたり、他の事柄についても、必ずと言って良いほど他流の伝書を持ち出しては鬼の首獲ったが如く鳴き喚く蝉がいる。
 「必ずと言っていいほど他流の伝書を持ち出して」
という部分ですが、町井先生について私が過去に言及した発言について以下にまとめました。
https://togetter.com/li/1130987
これを見ていただければわかりますが、たまたま最近町井先生が天心流批判(人によっては誹謗ととるでしょう)を繰り返しているので、私が天心流養護しているように見えるのだと思います。
たとえば、2011年には「河野百錬宗家、彼はけっして名人ではない」発言にコメントしています。また、2014年は町井先生の著書「最強のすすめ」にあった「居合の極意は暗殺術」という説を批判しました。
天心流関係では今年2月に町井先生は撃剣叢談(国会図書館デジタルアーカイブで閲覧可能です)すら確認せず批判をしていたので、間違った知識や調査不足を指摘しました。私程度ですぐ突っ込みが入る程度の事なら、しっかり調査すればすぐわかるような事です。他流批判ですから、軽々しく発言するとご自身の評価を下げるのでやめたほうが良いと思います。(というのも、個人的には町井先生の抜刀については私自身リスペクトしております。勝手にそんなこと思うな、とおっしゃられるでしょうが。)
 今回も刀を足蹴にする動画の公開は慎むべき、天心流が士の所作として当たり前であったと主張する杖太刀(刀を杖のように立てて両腕を乗せたりする所作)について私見を述べたところ、案の定他流派の伝書を持ち出してきた。
このときのやり取りについては以下にまとめました。
 天心流の足蹴動画を批判するなら、塀を乗り越えるのに刀の鐔に足をかけて登る所作も批判の対象だろうという揚げ足取りで、これについては「忍者と武士を一緒にするな」的な意見を渓流詩人さんが自身のブログで綴られたが、今度はそれの揚げ足をとるように、高禄の士の家に、刀の鐔に足をかけて登る旨の伝書があり、忍者に限らず(※)武士もそのような刀の使い方をしていたと主張する。以下にその記述の一部を転載します。
※私は「忍者に限らず」などと言っていません。「忍者なんていない、いるのはシノビの技に長けた武士だけ」というのが私の主張です。
 (※ここから先は町井先生の記事における私(みんみんぜみ)の記事の引用です)
さて、先ほどのツイートで見た、刀の鍔に足をかけて塀を登る方法。
これですが、大聖寺藩中条流師範、山崎家から同藩林家に伝授された伝書に書かれています。
(大聖寺藩林家文書 中条流青眼仕形秘書並惣口伝、平法中条流資料集六より)
 原文では
一、へいをこす時は刀のさけをを長くして腰につけて刀のつはをふまえて越すなり
(一、塀を越す時は刀の下緒を長くして腰に付けて刀の鍔を踏まえて越す也)
とあります。
また他には、旅宿で寝る際の要人として
 一、太刀を抜鞘を戸口にたて、身を枕の下にして寝る事也。(身とは抜いた太刀の事)
 また、鞘の使い方としては、
 太刀を抜鞘を違て指してさぐる事なり。又、刀の小尻に火縄をくくり、或提灯などもくくり道中くらき所などにて様子をうかがう事なり
 というものもあります。また同伝書内では鞘を左手に持ち脇指のかわりとして両刀として使え、とも書かれています。
 そもそも、生命のかかった勝負において、鞘や武器の破損がどうとか、武士が考えますかね?(まぁ、平和になった江戸時代の武士なら考えた人もそれなりにいたと思いますが、武術となるとまた話が違うと思います)
(※引用ここまで)
  文書にあればそれが全て是であり、武士も刀が破損してしまうような使い方をした。とするのはいささか早とちりの間違いであると私は断言します。
 私も個人的な興味から、古流派の伝書をいくつか所持していますが、大抵は形の名称を羅列しているだけで、形の詳細な動きを記すようなものではありません。
 日頃から稽古する内容であれば、形の名称を記すだけで事足りるからです。形の指導の中での留意点などが口伝と言われ、文字にしたものとは別に伝えられます。中には筆まめな士も居て、口伝をも文字として遺している例がありますが、それとて読む者によっては様々な解釈ができる確固たる言葉ではありません。
 戦場において、命を賭す現場に於いて、やむなく刀をぞんざいに扱わざるを得ない場面は多々出てくるでしょう。そのような土壇場での話をしているわけではないのに、上記のような伝書の一文を持ち出すのはお門違いも甚だしく、己が持つ知識をひけらかしたいだけのようにしか受け取れません。
 今回の反論の主要部分です。
「戦場において、命を賭す現場に於いて、やむなく刀をぞんざいに扱わざるを得ない場面は多々出てくるでしょう。そのような土壇場での話をしているわけではないのに」
とありますが、武術の技は基本的に土壇場で使用されるものであると思います。ですのでこの反論はおかしいと思われます。
武術というものは、土壇場であわてず対応するために様々な形や組太刀があり、様々な状況への口伝や対処法が存在していると考えます。先ほどの下緒の大事(塀を乗り越える方法)などの教えもそうですね。
普通はさまざまな特殊な状況への対応は、口伝や口伝書でもって伝承され、わざわざ普段稽古されませんが、外物を形化した流派はいろいろあります。居合や柔術・棒術の流派などには特に多いようです。英信流の奥伝の多くは、普通の兵法流派では外物に分類され、形として稽古されないものが多いと思います(例:戸詰・戸脇・棚下・門入・壁添などが典型でしょう。想定を借りてなんらかの鍛錬、稽古として形を作っている場合もあるでしょう。)
天心流が捏造かどうかは別として、(私には)天心流の技の多くが普通は外物、口伝とする技術を形として稽古しているように見えます。
ですので「作法に反した技を稽古したり、演武するのはおかしい」(今回の場合は太刀を蹴るのは論外)という批判は、天心流以外の他流の批判にもつながります。
「真似をして刀が損傷されたらどうする」とおっしゃられていますが、これも正直疑問を感じます。刀が損傷することに配慮しない人なら(また、かっこいいから真似をしている人なら)、他にいくらでもある普通の居合流派や抜刀道、試斬、エクストリームマーシャルアーツの動画(個人的にはこれが一番危ない気がします)の真似をして刀を破損するように感じます。
作法としておかしい、というのでしたら、太刀で逆取をする流派や、鞘で敵を固めて鞘を踏みつけて固める柔術流派の真似をしたら太刀や鞘を損傷する…という話にもなりませんか?
今回、町井先生はかなり悪い印象を見ている人たちに与えてしまったと思います。批判ツイートの前後で「詐欺師」等の言葉をちりばめています。一般的に考えて、天心流の動画を見て真似をするという事は、天心流の好印象を持っている方たちでしょう。とすると、そういった人に真似をしないように勧めるには天心流を誹謗したり悪く言ったりすることは逆効果だと思います。
話がそれましたが、刀を蹴る話。
ご自身がおっしゃっていたように、武術の技と作法は違いますし、実践の土壇場では刀を大事に扱うような事はありません。(これの点は意見が一致しているようで安心いたしました)
町井先生と私の意見相違点は、稽古の定義の差だけのようです。稽古に対する考え方はいろいろですから、特に私から批判する点はありません。
オブラートに包まれ、ぼんやりとしか内容が見えない他の文書と比較すれば、上に掲げた伝書の一文はどのように刀を使うのかが容易く想像できてしまいます。これはつまりどういうことかと言えば、日頃頻繫には稽古されない形や所作であり、いざという場面に遭遇した際にこのような対応の仕方も出来るといった、いわば覚え書きのようなもの。
 おっしゃる通りです。先ほど書いたように、兵法は危急の場、土壇場で慌てず対処するためのものです。例えば私が学んだ流派でも鞘や脇差など何でも持ちあわせているものを投げつける技がありました。これは普段は練習しませんが、一応形がありました。また、敵の鞘を使って投げる技も稽古したことがあります。
私が論点として掲げたのは、日頃の稽古の中で、刀の鞘を足蹴にするのはおかしいし、そのような形があったとしても、真似をして鞘を壊したり、刀に傷をつけてしまう素人が現れないよう、内々で稽古すべきであって、表に出すのは宜しくない。という点です。
 先ほど書いたように、武術の稽古は土壇場での対処、非日常の訓練ですから、その場で日常の礼法や作法の話をするのはちょっと違うと思います。もちろん稽古は江戸時代なら専用にあつらえた居合刀や刃引、現在なら模擬刀、そして木刀やしないをしようするわけです。天心流さんが真剣を使っているようでしたら、町井先生のおっしゃるとおり批判する方も多いでしょう。私も「やめたほうがいいんじゃない?」と言うと思います。ただ演武を表に出すか出さないかはそれぞれの師範や流派の自由であり、あまりそれを他流に要求するのは国同士で言えば内政干渉になると思います。
どうしても仕方ない非常事態の場に於いては、日頃刀を大切に扱う武士たる者でも、無作法な使い方をせざるをえないことがあるのは子供にだって解る話です。
それをさも自身が博学であるかのように
「そもそも、生命のかかった勝負において、鞘や武器の破損がどうとか、武士が考えますかね?」
とのたまう態度には私も呆れるばかりですが、様々な考え・性格の人がいるのが世の中。自身でHNをみんみんぜみと名乗る程ですから、お好きなように鳴かれれば良いのですが、刀を大切にしましょうという文化財保護を目的とした私の提唱に、水を差すような真似はご遠慮いただきたいものです。
明らかに天心流擁護派であるにもかかわらず、現時点では天心流が古流ではないと証明できるものがない以上、あくまでグレーであると中立な立場を気取るが、ならば自ら示す文書に関しても、あくまで文字だけであって、その伝書を所持していた士が、鐔に足をかけて塀を登る姿を見たわけではないのだから、同じくグレーだとすべきではなかろうか。
  天心流擁護派、とおっしゃいますが、どのあたりが擁護派でしょうか。印象論でなく具体的に発言等を引用して指摘していただきたかったです。私の天心流の伝承への印象については以下のリンクの通りです。
 https://twitter.com/inuchochin/status/835158868699160577
極端な例で言えば、アイドルの熱���的なファンが、そのアイドルと恋人関係にあるような妄想日記を書いていたとしよう。それを数百年後の人間がみつけて、このアイドルはこのファンとつきあっていた。ここにそれを示す日記があるじゃないか。と発表しているのとなんらかわらないように私は思う。
再度記述するが、いざと言う時と日頃の稽古は別物であると言う話を私はしてきたのではない。刀を足蹴にする動画は、仮にそのような形が伝わっていたとしても、公に公開すべきではない。という批判をしただけである。
 こちらも前述したとおりです。公にするかどうかは流派と師範の考えでしょう。
 かなり辛辣な表現ではありますが、的を得ていると私も思うので、渓流詩人さんのブログも併せて御紹介致します。
 やかましい虫
 http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/5bfaeb5ead617621fa6920da94552cb6
 こちらの記事についての反論は以下の記事でしています。このブログを的を得ていると町井先生が思われるということは、この内容のない印象論の誹謗を是とされている、という事でよろしいですね。
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2016landslide-blog · 8 years ago
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「らっぱすっぱの類-渓流詩人の日記」についての反論
さて、『渓流詩人の日記』で「自称武術研究家のみんみん虫」に対して書かれている記事がありました。この「みんみん虫」がツイッターのみんみんぜみ(=この記事を書いている私)だとして、以下の反論は書いています。(まんいち違うようでしたらご指摘ください)
以下、全文引用してコメントする形で反論を書かせていただきました。私の性格や能力に対してどう思うかは個人の自由だと思いますのでコメントは差し控えます。
以下、一段下げの部分が引用です。
引用元:らっぱすっぱの類-渓流詩人の日記
ネットで何でも後付け反論理由探しを得意とする自称武術研究家のみんみん虫が、刀を足蹴にすることを批判するのであるのならば忍者が刀に足を掛けたりすることも批判すべきだと大タワケを書き連ねて「論破した」と思い込んでいるようだ。 本当にとことん頭が悪い。 頭の善し悪し以前に、私に対しても無礼な発言をかつてネットでほざいていたので、人格的には相手にはしたくないような論外なカスではあるのだが、武技に関する事なので私見を言っておく。
まず最初に事実関係をはっきりさせておきます。 おそらくこれらのツイートについて言っているのだと思います。 https://twitter.com/inuchochin/status/885072261958574083 みんみんぜみ@inuchochin 7/12 伝書週間なので雑多にいろいろな流派の伝書をみてる。 外物の伝書の中に忍者のヒミツにも載ってた、鍔に足をかけて塀を登る忍者的技術が載ってた。よく考えたらこれ、町井先生が批判する鐺を地面に杖付く事より、ずっと強く鐺に力が掛かるよな。 posted at 18:44:05
https://twitter.com/inuchochin/status/885150923533688833 みんみんぜみ@inuchochin 7/12 町井先生が何を批判してるのかよくわからんかったけど、この動画? https://twitter.com/tenshinryu/status/884704964689383424… 変わった想定ですね。初めて見た。蹴ってるというか払ってる?? しかし、これを批判するなら鍔踏んで塀を登る使い方も批判せんとならんのでは? posted at 23:56:40
ということで、私は「忍者的技術」と書いているけど、「忍者が刀に足を掛けたりすること」とは書いていません。最初の部分からそもそも勘違いされています。
個人的には、江戸時代になる前の「忍者」(そんな言葉はなかったと思いますが、シノビにつかわれるもの)は勇敢で知恵や技術にすぐれる武士だったと思います。そのあたりのことはかなり以前から何度もツイッターでつぶやいてます。 忍者雑感 https://togetter.com/li/1130597
また、こちらのツイートで書いてますが、天心流の用法については私は知りません。 https://twitter.com/inuchochin/status/885118364393259010 みんみんぜみ@inuchochin このあたりの考え方は「流派による」でしょうから、いろいろな考え方があるところだと思います。刀で受けることを避けるべきとしている流派もあれば、刃から強く当たって受けよ、と奨励している流派もあります。まぁいろいろですよね。鞘を蹴る流派はしりませんけど刀を足で支え受ける流派ならあります posted at 21:47:17
私が書いているのは、武士が使った、武術の用法として拵えが破損するような方法、痛むような使い方が普通にある、という事です。
忍者という言葉は昭和時代に小説家が発明した単語であるので歴史上の言語としては使用すべきではないが、忍術使いが刀に足を掛けることをどう捉えるかということについて。 答えは否である。 武士の剣法、作法ではない。 以上。
さて、先ほどのツイートで見た、刀の鍔に足をかけて塀を登る方法。 これですが、大聖寺藩中条流師範、山崎家から同藩林家に伝授された伝書に書かれています。 (大聖寺藩林家文書 中条流青眼仕形秘書並惣口伝、平法中条流資料集六より)
原文では 一、へいをこす時は刀のさけをを長くして腰につけて刀のつはをふまえて越すなり (一、塀を越す時は刀の下緒を長くして腰に付けて刀の鍔を踏まえて越す也) とあります。 また他には、旅宿で寝る際の要人として
一、太刀を抜鞘を戸口にたて、身を枕の下にして寝る事也。(身とは抜いた太刀の事)
また、鞘の使い方としては、
太刀を抜鞘を違て指してさぐる事なり。又、刀の小尻に火縄をくくり、或提灯などもくくり道中くらき所などにて様子をうかがう事なり
というものもあります。また同伝書内では鞘を左手に持ち脇指のかわりとして両刀として使え、とも書かれています。
そもそも、生命のかかった勝負において、鞘や武器の破損がどうとか、武士が考えますかね?(まぁ、平和になった江戸時代の武士なら考えた人もそれなりにいたと思いますが、武術となるとまた話が違うと思います)
考えてもみるがよい。 そういうことを何でも認めていたら、現代式ではあるが「刀礼」も意味無き事であり、人と人の対人関係の中での礼法や礼儀、作法さえも形骸化された意味の無いことになる。 刀を杖のようにするのが武士の所作として流派の中にやり方が残っているなどとキテレツ奇抜なことを創作発表して、無知な人々の猟奇的な好奇心と注意を引こうとしているような珍劇団の提灯持ちしているくらいだから、「公正妥当」な「客観的」な学術的見識や視点、視座などは持ち得ない自称研究者であり、実体は研究者ではないただの偏頗なオタであること確定なので、そのような人間にまともな人間としての見識を求めるほうが間違っている。 なので、いくら客観的事実をここで列挙しようとも、ゆとり得意の「言われたら言い返す」という2チャンネラー特有の脊髄反応しか示さない(そのくせ慇懃無礼)族であるので、「理解ができる脳の働き」というものは持ち合わせていないのが提灯持ちのみん虫なのだが、無い物を証明する悪魔の証明を求めたり、��考回路が破たんしているので、何を言っても本人に「理解」はできない。何事についてもだ。 理由は、みん虫のような人間には「最初から答えが用意されている」からである。理由の後付け探しはあたかも後出しジャンケンを旨とする詐欺集団の手口と程よく同調し、気持ち悪い蜜月を醸し出している。
武家の武士の武技ではないものは武士は否定する。 それだけのことだ。 刀を足蹴にしたりする所作作法、まして剣技などは武家刀法には存在しない。
中條流の技、燕飛の技はこのように解説されています。 一、太刀を頭の上指上、四寸の身(いわゆる半身)に成て両手にて構、左の足より颯と行、太刀を頭上にて請留、左の方えつき落し、右の足にて敵の拳を踏落し、引はなして首を切也 富山県立図書館所蔵 中條流兵法手鏡 より
拳を踏み落とし、とありますが、やってみればわかりますが柄、鍔あたりも一緒に踏む形になります。富山藩は前田家の分家ですから、流派としては加賀藩と共通しているものもあり、中条流がそれにあたります。富山藩の系統は富田勢源の弟子よりわかれていて、勢源の孫弟子の代より幕末まで富山藩の剣術師範には中条流(冨田流)が存在しています。
それだけのことである。 刀を担ぐことは武技としては武家武士士族の剣法の中にもある。 だが、足蹴にする技法を武家の武技の中に採り入れていることを私は知らない。知らないというだけでなく、まずそれは現実的に存在し無いだろう。
先の燕飛のように、敵の太刀を踏む技は存在していました。ほかにも仙台藩に仕えた松林左馬助が将軍の前で披露したソクタンの技(敵の太刀を踏み飛び上がる)なども有名です。踏む技がないというのは単なる無知だと思います。もちろん自分の刀を足蹴にする技があるかどうかはわかりません。(切る時に棟に膝や足をかけ押し込む技や、無辺流の薙刀のように受け止める時に足で太刀を踏むものなら存在します)
刀を蹴って抜刀を行なう(韓国には存在している)という所作があるとしたら、それは武士ではないからやっている、武士の剣法ではない武士とは違う武士とは関係のない者たちの武技の流れだからやっている、ということでしょうね。ごく当たり前に考えて。武士とは関係ない者、武門の士族の武芸とは無縁の系統だからそういうことができる。 これは実証主義的に「そうではない」などと証明する必要はない。無いことを証明する必要などはないからだ。
最初に書きましたが、話題になっている天心流の技に関しては類似のものは知りません。
ではみんみん虫は昨夜コンビニで窃盗を働いた。とされたらどうするか。 犯罪を働いていないのであるのならば、そんなことは証明する必要はない。 窃盗事件があり、それの容疑者とされているのであるのならばともかく、そうではない常態の状態で「無いことを証明する」などいうのは「悪魔の証明」であり、不可能な証明など着手する必要はない。 だが、そうではなく、常態の状態の者に店の商品が無くなったから(誰かに盗まれたとして)盗ってない者に盗っていないことを証明しろというようなことをやるのだからタチが悪い。盗んだ容疑者に盗んでないことを証明ささせるのではなく、関係ない者たちに証明を迫って、「可能性がある」とするのであるから、みんみん虫のやり口は非常に悪質だ。 だが、そのような手口で「証明できないのだから可能性はある」とするの��私のこともネット上で愚弄していたみんみん虫のやり口であり、タチの悪さこの上ない。ある意味、仮装珍劇団よりも始末が悪い人間の罪悪の権化の心根の持ち主のようなものだ。 そして「何か大きいことを言う時には誰かに相談なりした方がよい」と高みから睥睨するように無礼にのたまう。ネット上で私を名指しにして。 みんみん虫とはそういう族なのである。
従って、忍術遣いの刀の使い方がどうであるか、等については、忍術遣い=忍びの者に対してみん虫が自分で言及なり詰問なりすればよい。 武家や武士の末裔にそれを訊いても意味なし。お門違い。武家には関係が無いことだからだ。
さて、元々越前朝倉家に仕え、朝倉家滅亡後は冨田越後守らとともに加賀に来、加賀藩や大聖寺藩で百石~四百五十石程だった山崎家が伝えた中条流平法が武家の武士の技かどうかはこれを読んでいる人が判断してください。
関係が無い例を無理矢理もってきて、 「お前のカーチャンデーベーソー」 的な苦しい言いがかりをつけるのがみんみん虫の毎度の得意技だが、埒外のことであり、論外。 そして慮外であるので、心得違いであり、文字通りのお門違い。立ち止まる門を間違えている。 自分の勝手な言質を振りまわすのは、自分のお仲間の中でするがよかろう。 関係のないところに出張ってきてわめくのは虫ゆえみんみん五月蠅いのであろうが、人の形に似た肉体を持っているのならば、もう少しばかり人らしい行動をとれないものか。
無理だろうな(苦笑
この部分に関しては特に意味が無い文章と感じますのでコメント無しです。 完全に追記になりますが、やや今回の件とも関係あるので記します。ツイッターでも両意見ある「コジリを地面に付けて立てたか否か?」という点に関しては、私はコジリを地面に付けて立てた事を否定する材料も肯定する材料もまだ足りないと思います。ただ、絶対につけてはならない、という禁忌感情があった形跡は見られないように思えます。
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2016landslide-blog · 9 years ago
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古武道と捏造批判について
古武道と捏造流派批判について、2ch武道板(と過去ログ)や武道関係ブログを見ていて少し思ったことがあります。
これらWEB上の匿名・記名の批判の双方とも、社会的に権威がある流派(ただし私から見て歴史が怪しい流派)は2chやブログではほとんど叩かれていないか、叩かれていてもソフトな叩かれ方をしています。
逆に権威の無い流派はけっこう強く叩かれています。という事は捏造流派を叩きたい人にとって権威によるバイアスは結構強いのでしょうか?
2chや武道関係ブログでは結構気安く
「あの流派は偽物だ」
「ねつ造流派」
と安易に判断、書き込みする事が多いですが、こういったことは本来慎重に検討して、書く際にも表現が正確になるように気を付けるべき事でしょう。それが出来ていない場合はたとえ有名な武道の先生が書いた批判だとしても鵜呑みにしないことが誠実な態度と思います。
そして、有名で権威ある流派でも歴史を調べてみればよくわからない点、怪しげな点が多い事も知っておくべきだと思います(そして公開して指導している流派の方々はぜひそのあたり過去の史料を調査するべきと思います。)
権威ある流派の例でいえば、古武道協会にも加盟している『水鴎流居合剣法』、私は明治以前の伝書を見たことがありません。博物館、史料館、古書店、オークション等でも調べた限り水鴎流の伝書や流派名の記録を(撃剣叢談にある堤宝山流との逸話以外)明治以前の資料で見たことがありません。知るかぎりの記録では先代宗家による昭和10年代の武徳祭での演武あたりが最古です。(もう少し古い記録があるかもしれません)
また、同じく古武道協会に所属している『田宮流居合術』も前宗家が公開した伝書の目録と現在の目録が違いますし、以前書いたように前宗家が昭和二十年代頃に活動されはじめる前の記録や伝書類はほとんど無く、宗家の史料も公開されておらず、よくわかっておりません。前宗家自身、英信流など昭和に盛んな流派の師範方から学び参考にしたと著書に書かれているとおり、古伝書の田宮流の技とは全く違っていて、むしろ前宗家が学ばれた近代盛んになった居合流派とよく似ています。
居合と言えば『新陰流居合』も柳生厳長師範の弟子、鹿島清孝師範が厳長師範から学んだ居合(制剛流居合)を工夫したもので制剛流居合とも違いますし、新陰流の剣術とも違う、いわば新流派です。柔術では『大東流合気柔術』が武田惣角によって明治三十年代に創始されたものだろう、とは大東流の師範でもある柔術研究者の高橋賢先生の研究です。
2chや武道系のブログで「ねつ造だ」「歴史が怪しい」とよく書かれている流派としては『天真正自源流』『北辰一��流玄武館(およびその分派)』『肥前春日流』『豊前福光派古術』など、そして私もツイッターでフォローさせていただいている『天心流兵法』さんもよく話題になっています。(これらの流派への具体的な批判・誹謗内容についてはここでは触れません)
これらの流派は主張する流派の歴史が一般の剣道史流派史と矛盾が多かったり、流派の記録が地方史や古文書に無かったり、伝承の記録が一般に知られていなかったりしています。ですが単純にそれだけなら先ほど話題に出した権威ある流派にも同じように一般の剣道史と矛盾する流派や、外部第三者の記録が無い流派があります。また、実際に存在し地方史に記録があり近代の伝承者の第三者の記録がある流派でも、それら記録が一般に知られてない場合はWEB上や関係流派の他流師範から誹謗や「いきなりあらわれたあの流派は偽物じゃないのか?」と言われる事例もあります。普通の武道師範や武術愛好家は地方史等まで目を通さないので、演武会に出ていたなど武道関係の記録が無い場合はまったく知らない場合が普通です。
上記のように、武道の世界も誤解が多く、ちょっとしたことで誹謗する人もいるため、信頼や信用を得るためには史実と主張する歴史に対してある程度根拠が必要でしょうし、またそれらは権威とは関係なく検討されるべきと思います。 流派の内容や記録はは公開される必要は本来ないとは思いますが… (なお『天心流兵法』では史実の調査研究がされているようで部分的に調査結果が公開されています。)
技術面での検討について
捏造古武道批判では技術面も問題になる事が多く見られます(○○の形が伝わっていない、▲の使い方が間違っている、などなど)。ですが、技術的な伝承については手順や形式等、古文書でも確認できること以外は客観的な判断材料にするのが難しいです。たとえ技術をねつ造流派の批判材料にしたとしても「○○年前の文書とは手順、構え、用語が変わっている」「近代に盛んになった江戸時代には特定の藩にしか伝わっていなかったB流派の影響が強いように見える」というような言い方までしか難しいと思われます。
技術面について、一つ問題があります。武術の古文書については
「古文書には嘘が書いている」
「左右逆に書いている」
「わざと間違いを書いている」
「口伝を知らねば解読できない」
と主張している流派・会派があります。
また逆に古文書の記述に従って形を伝承している流派・会派もあります。
個人的にはわざわざ時間と労力をかけて嘘の伝書を書く師範の方がよほど希少と思いますが、絵や文書にすべてがあらわされている訳ではない事は常識でもわかると思います。書き間違いや画力・表現力の問題もあります。
上記のように流派の伝書自体を批判・検討材料に使う場合は注意が必要です。
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2016landslide-blog · 9 years ago
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なぜ居合は一本差で座っているのか?
これまでの記事における、武術の時代による変化の実例として居合を題にしてみます。
WEB上でよく見かける質問・疑問に
「正座して大刀一本を差して抜刀するなんてありえない」
があります。
江戸時代の礼儀では、室内では脇差(小)のみとなり大は外し、大・小や大のみを差して座るということはありえない、という話です。
居合に限らず、捕手・柔術・棒杖術などで打太刀や仕太刀、もしくは両者が大刀(多くの場合大刀のみ)を帯刀して座している形が存在します。(座り方は正座に限らず、胡坐・片胡坐・立膝・蹲踞等さまざまな座り方があります)
これまでの記事で書いたように、いわゆる古武道とはいえ、創始した時と同一で伝わってきているわけではありませんし、流派によって成立時期が二百年も三百年も違ったりしているものを“古武道”としてひとまとめにするのはかなり乱暴です。
さらに同じ流派でも時代時代で変化があります。同一流派の史料を調べている際に、技や形についての解釈も変化や深化などがある事を多数見かけます。
ですから、実際のところ何故大刀の一本のみ差して座るという形が存在するのか、答えは流派によって、あるいは同一流派でも時代によって複数あると思います。個人的には田宮流において「なぜ座って大刀を差す形が作られたか」という問いに対する確定的な答えを求めていますが、いまだ確証的な史料は見つけておりません。
現在言われている「なぜ座るか」「なぜ一本差か」といった問いに対する仮説・流派の伝承などは以下のようなものが見られます。それぞれについて解説をくわえてみます。(ここでは居合で、特に田宮流系の流派で常寸よりかなり長い刀が使われた理由についての検討は省きます)
1・元々は居合抜刀術は立技であったが、江戸時代に正座が広まり、室内で稽古が出来るように座り技が作られた。
2・江戸時代には大小の二本差で稽古されていたが、維新後に一本差となった。
3・大脇差なので一本帯刀、大刀帯刀でおかしくない。(また、この説に加え稽古のために長めの刀を使っているとされる場合も多い)
4・実際は立技だが稽古の方便として座っている。実戦では同じ技を立って使う。
5・要人警護のために大刀帯刀して座って控えている。
6・座っている事により身に付く術理・体捌きがある。
7・座っている事自体が立っているより有利と考える、もしくはそういったシチュエーションを想定している。
8・一本差の身分の人間が居合を使ったため。
9.日本の武術流派では伝統的に稽古に必要ないものは身に帯びないため。
1・『元々は居合は立技であったが、江戸時代に正座が一般化し、その作法に合致し室内で稽古が出来るように座り技が作られた。』
この説は江戸時代に新しく剣術から作られた居合(大森流などにそういった話があります)や元々立技のみだった居合流派(立身流などはそういった話があります)には合致します。 ただし、田宮流系(林崎系)や伯耆流系、関口流、影山流などの慶長頃から江戸時代初期に成立した居合流派には当てはまらない話です。これらの流派は流派成立当初から形の大部分が座り技で、特に田宮流関口流では立技での抜刀技法は「立合」と言って居合とは区別しています。 また一本差である点については説明がありません。(立身流は一本差です)
2・『江戸時代には大小の二本差で稽古されていたが、維新後に一本差となった。』
この説はWEB上で散見しますが、江戸時代の居合の稽古が二本差で行われていた記録は大小���使う形以外の場合ではほとんど見当たらないと言ってよいので、誤りと言ってよいと思います。
3・『大脇差なので一本帯刀、大刀帯刀でおかしくない。』
脇差でも二尺前後(60cm前後)のものを差すことも場合によっては珍しくなかったようです。いわゆる常寸が二尺三寸(70cm前後)ですのでかなり近い長さになります。
4・『実際は立技だが稽古の方便として座っている。実戦では同じ技を立って使う。』
立って使う形・技を技と座って稽古している、という説です。座ることにより立ち技より足腰の鍛錬効果があることや、室内での稽古が可能になることが理由といいます。この場合、流派によってはあきらかに立っていたら成立しない形があること、敵が帯刀して座っている捕手・柔術、棒杖術には当てはまらないという問題があり、一部の流派にのみ当てはまる話かと思われます。しかし居合流派の場合はありえそうです。実際この説を提唱されている師範もいらっしゃいます。これも一本差の理由は別に考える必要があります。
5・『要人警護のために大刀帯刀して座って控えている。』
伯耆流(星野派)にこの想定があります。 ただ少なくとも稽古・形では大小帯刀ではなく大刀のみ帯刀しています。この想定も捕手や棒杖の場合でも合致していると思います。ただし一本差の説明にはなっていません。
6・『座っている事により身に付く術理・体捌きがある』
これは2のバリエーションで、近年活躍されている複数の古流系の師範が類似の説を提唱されています。不自由な姿勢でこそ合理的・術理にかなった動き・無理無駄のない動き、などが身に付きやすい、という理論です。
7・『座っている事自体が立っているより有利と考える、もしくはそういったシチュエーションを想定している。』
香取神道流の大竹師範の語られている話では、自宅などで襲撃があった際に咄嗟に大刀を帯びてしゃがんで備えている、という理由だそうです。また夜間の場合、屋外でも低い方が敵や状況が良く見え敵からは見えにくい、という利点があります。その他天井が低い場所では膝をついた姿勢の方が天井に太刀があたらず自由であるという理由もあるとか。また黒田鉄山師範の話では居合の座構えは座っているので、敵が立っていた場合、敵の太刀が頭に届くまで立って構えるより余裕があり有利である、という話です。 この『自宅で襲撃を察知し待ち構えている』という想定は捕手や棒杖で”敵(捕縛対象)��座って帯刀しているのをこちらは立って近寄り取り押さえる”という想定に合致しますし、逆に帯刀側は敵が立ってくるという想定の場合は納得できそうです。
8・『一本差の身分の人間が居合を使ったため。』
修心流の町井師範が提唱されています。居合は若等などの一本差の武家奉公人(侍)が使う武術であり、本来一本差しである、という事です。
たしかに藩によっては身分で学ぶ流派や術に傾向があった事はいくつかの史料から見られます。残念ながら若党に居合が好まれ学ばれていた記録などは存じませんが、たとえば福沢諭吉が書いている事では、中津藩で居合を学んだのは下級武士であり、上級武士は居合を学��ず鎗や馬術などを学んだと福翁自伝にあります。
ただし、下級武士であり立身新流を修行した福沢も一本差の身分ではありません。また、この福沢の記録はおそらく正しくありません。中津藩主奥平昌服(福沢諭吉より4歳年上で同時代を生きた人物)は青年時代に田宮流系の新當流居合を学び、目録や歌の巻を伝授されています。
その他、藩主やその一族が居合を学んだ例としては、弘前藩津軽家(林崎新夢想流)、松代藩真田幸道(関口新心流)、紀州徳川家(田宮流)、彦根藩井伊家(新心流)、岡山藩池田家(田宮流)、松浦静山(田宮流)などがあります。また居合で有名な師範たち、田宮常圓、一宮左大夫・谷小左衛門・関口家、上泉孫次郎、窪田清音やその門弟たちは下級武士や武家奉公人とはいえないと思われます。
9.『日本の武術流派では稽古に必要ないものは身に帯びない』
日本の武術流派では、形や稽古で必要ないものは身に帯びないのが普通です。剣術の稽古の際に鞘や脇差は帯びませんし、棒や槍、長刀の稽古でも形で使わない場合は刀や脇差はさしません。(当然例外はあります) 柔術の居捕(居合・居相)でも、脇差を使う形なら脇差を帯びますが、使わない場合は何も帯びません。同じように居合の稽古でも脇差を使わない形の場合は脇差を差さないという説です。 この説に対して反論として「脇差の有無で抜刀の勝手が違う」と言われますが、この反論は居合だけでなく外の武術種目(剣術や長刀など)すべてにあてはまります。
では何が正しいか?
『大刀一本差で座っている』理由については上記のようにいろいろな理由が考えられます。
今までいくらか江戸時代の居合の伝書を読みましたが、現代では問題になる
「実戦のためには大小二本差で稽古すべきである」
「大刀での居合は非実戦的である」
という内容については読んだことがありません。居合自体が剣術に比べて役に立たないものである、という批判の記録はいくつもあります。逆に居合こそとっさの場で不覚を取らないために武士たるものが身に着ける武術である、という意見も古文書で多数見つけることが出来ます。
そもそも居合の稽古に日常の礼儀や常識というものが稽古方式にどの程度影響していたのか、また武術武芸を実用のために稽古するという意識がどの程度あったか、という事についても疑問があります。実用のためというより、武士としての心構え、修養、また鍛錬のためという意識があったことは古文書等からも読み取れます。また芸事として考えれば流祖より代々伝わった技・心・形などを伝承するという事にも価値があったでしょう。(もちろんいざというときに役に立たなければ意味がないわけですが)
資料や記録から推測する限り、田宮や片山といった居合の流派は慶長前後には流行しはじめています。また江戸時代初期にはすでに田宮流・伯耆流・関口新心流の三つの流派(私は勝手に三大居合流派などと言っています)が江戸で流行し��いたことは事実があります。これらの流派はいずれも一本差で座っておこなう武術です。
各地に広まった居合がこの江戸時代以前に生まれたと思われる
「大刀一本差で座っておこなう」
という形式を墨守した理由はわかりませんが、芸事として伝統の墨守・流祖の作った形の伝承などという意識があっただろうことは想像できます。
少なくとも、定説では幕府に禁止されたとされている、常寸をはるかに超えた三尺や三尺三寸といった居合刀が田宮流や関口流で全国的に使用されていたという事実もあり、実際の礼儀作法や常識とやや無関係に武芸は伝承されたのではないかな、という印象もあります。ちょうど帯刀が出来なくなった現在でも真剣を使用して居合を稽古する人がいるように、江戸時代でも時代や社会状況にあわない想定でもそのまま保持され、これまた現代で武道を修業する理由がいろいろと語られるように、その古い稽古方法に新しい理由づけがされたと思います。上記の護衛のために座って控えているのであるという理由や一本差の身分の武術であるという理由などが後世に新たに付け加えられたり新しく解釈されたものでしょう。
という事を考えると、16世紀後半に田宮流が成立した時点、もしくはその前になぜ大刀一本差で座って行う事を修業したか、という点がまさにこの問題の原点で、これを解明しなければこの「なぜ座って一本差か」という疑問の根本はわかりません。(と最初にもどってしまいますが)
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2016landslide-blog · 9 years ago
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古武道や武道における正統・真伝
日本の武術流派や武道の正統云々は良く話題になっています。
曰く
「合気道には“合気”が伝わっていない」
 「現代の柔道は嘉納治五郎の理想からかけ離れてしまった」
 「○○派には△△の形が失われている。××流の正統では無い」
 「□□流は半身ではない。また足も剣道のように平行だ。剣道化して古流ではない」
等々
また武術は形や技が変わっても、開祖が重視した理合・極意といったものが受け継いでいればよい、ともよく言われます。この場合は「あの会派は正しく受け継がれていない」という話が出てきます。
しかし、そもそも武術武道における受け継がれてきた正統性や真伝とは何を指すのでしょう。人によりこれも指すものが違うと思います。
ところで有名な生きている化石のシーラカンスも姿かたちは数千万年前に生きていた先祖と同じような姿をしていますが、昔の化石と同じ暮らしをしているかどうかはわかりません。化石時代のシーラカンス類は浅い海や淡水にすんでいたと言われていますけど、今のシーラカンスは深海に住んでいます。
人類の祖先はチンパンジーの祖先でもある 
上記のブログで書かれている事は古生物学に興味ある人にとっては常識だと思いますが、ヒト・オランウータン・ゴリラ・チンパンジー・ボノボのひとや類人猿は共通の先祖からわかれたという話です。
特にチンパンジーやボノボとヒトは近いといわれていますが、チンパンジーが進化してヒトになったのではなく、ヒトとチンパンジーの共通の先祖から別れたわけです。
その共通先祖がもしチンパンジーそっくりだったとしても、それは現在存在するチンパンジーとは違います。チンパンジーもその数百年前間に進化しているわけで。
上記を武道武術に当てはめて新陰流系の流派から剣道までの距離と考えてみれば、現代剣道をヒトとして、柳生や疋田の新陰流をオランウータンとすると、神道無念流や直心影流などは比較的ヒトに近いチンパンジーやボノボになると思います。(違うか)
なにがいいたいかと言うと、○○派は間違っている、××派は昔のままではない、△△派は古伝のままだ、などという言説は、後述する信仰的な信念のもとではそのとおりでしょう。ですが正確にいえば、どれだけ伝書等の記載や過去の映像と同じでも、どれも時代を経ている以上、その古伝とは違っているはずです。
生物の場合は時間経過や環境の変化で変化していきますが、武芸流派の場合でも社会環境の変化があります。
例えば剣術で言えば
 16世紀前半に袋撓が発明されたこと
 17世紀後半の幕藩体制の確立
 17世紀末から18世紀初頭に直心影流が頑丈な防具と袋撓で試合稽古をし始めた事
18世紀半ば以降に江戸町道場や関東農村など各地で他流試合が盛んになり始める事 ・江戸後期に回国修行が盛んになり、他流試合を禁止してきた古来の流派も対応を余儀なくされたこと 
武家支配の崩壊、中央集権化。武徳会成立。
 などが大きな環境変化としてあげられます。
(伝書や記録からわからない流派の内容に変化があったことはタイムマシンでもないと証明しようがないですけど)
上記は形・技術・理合の話になります。これが免許を受けている、印可を得ている、といった伝系的な話になると社会的な話になってしまって、面子やら文書やら師匠との関係やら、いろいろ出てきてややこしい話になります。ある意味技術と不可分ですが、できるだけ分けて考えたいです。
ある師匠の壮年期に学んだ弟子たちと、晩年に師匠を世話した弟子などがいた場合、壮年期の古い弟子と師匠が不仲になり晩年の弟子を重用したり、師匠没後にそれぞれの弟子が不仲になったり、という事は武術に関係なく人間関係の常でよくある話です。
そして、武術の伝承というはある意味宗教のようなもので、さらにいえば武術に限らず日本の芸事の伝承方式(伝書や免許などなど)は、密教等から大きな影響を受けています。そういう意味では史料等の研究から推測できる史実よりも流派としての真実が重要であり、その真実は代々変わ���ず受け次がれてきたものである、という信念・信仰は古武道にとって重要なものとも言えます。(師匠への信頼・信仰と違って、流祖まで遡る信仰はかならずしも必要ではないと思いますが)
続く
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2016landslide-blog · 9 years ago
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『現代武道』と『古武道』
続きです。 「古武道」と言っても博物館に保管されている骨董品ではなく、現代社会に生きている人が稽古して伝承している存在です。前回書いたように不変に見えたとしても常に変化しているわけです。 ちなみに今では古い武道武術、特に型稽古を主とする(と思われている)武道武術を指す『古武道』という言葉ですが、この言葉や概念自体がいわゆる現代武道(剣道、柔道)が成立したことにより出来上がった概念であるようです。 中嶋 哲也「対抗文化としての古武道」 http://ci.nii.ac.jp/naid/40018878070 『古武道』という概念の誕生は上記の論文で論じられていますが、いわゆる『古武道』が昭和初めに出来上がるまで、 『現代武道 対 古武道』 という対立関係ではなく、同じ武道の中の新しいものと古いもの、くらいの理解だったというところが事実に近いようです。 幕末から大正の頃まで、たとえ流派名を名乗っていても修行の主体は竹刀稽古(いわゆる剣道)や講道館式乱捕(いわゆる柔道)という人が多かった事が記録からわかります。このことからも『現代武道』と『古武道』が対立概念では無かった事がわかると思います。 創作作品で見られるような、『現代武道対古武道』という対立は流派単位ではあったとは思います。例えば地方へ派遣された講道館で修行した柔道家がその地方の流派の師範と試合したとか、江戸や東京の竹刀剣術で修行した人が昔ながらの袋竹刀の地方流派の人と試合した、という記録は各地に残っています。 ただ、全体の推移からみれば、巷で見かける 「明治以降、古武道が現代剣道柔道へ負けて消滅」 「形稽古しかしない古武道に対して、乱取・竹刀稽古の柔道剣道が取って代わられた」 「第二次大戦後にGHQに実戦的な古い武術が禁止され、消滅させられた」 という話と実際の記録から見えてくる史実はずいぶん違う感じがします。 ちなみに明治大正生まれの剣道や柔道師範の記録を見ると、出身地で何々流道場に入門、その後武徳会(や講道館)に入門、という流れの方が大変多いです。 今の古武道と現代武道の対比的なイメージからは奇異に感じる人もいるかもしれませんが、当時の人の感覚派、現代でいえばせいぜい地方の剣道場(柔道場)や高校の部活から中央の有名大学剣道部(柔道部)や警察に入るような感じだったと思います。 ですから、大正頃までは『形稽古しかしない古武道』という意味での古武道のイメージは今のように存在していなかったと考えてよいと思います。 ただ幕末明治以降にどの流派も互角稽古(柔道の乱取や剣道の試合のように互角の条件で実施する稽古や試合)を取り入れた訳ではなく、竹刀稽古を受け入れなかった剣術流派や柔道式の乱取を否定した流派も多いです。柔道に対して柔道が捨てた技術を集大成したかのような大東流合気柔術が明治三十年代に登場し、後の素手武術に大きな影響をあたえたり、大正頃から剣道家の間で急激に広まった土佐の居合など互角稽古を行わない武道も流行しています。 特に柔術(特に護身術的な技法や古い逮捕術である捕手の技術など)、居合、棒杖などはそもそも互角の条件で戦う事を想定しない条件での技術が多く、互角稽古や互角の試合を実施し難い点も影響していると思います。 続く
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2016landslide-blog · 9 years ago
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古武道や古流武術の『正統』
古武道を稽古していたり、興味を持っていたりすれば 「どこの会は正統だ」 「どこの流派は古伝を伝えてる」 という議論や論争を見かける事は良くあります。 特にいくつか会派がある所は(分裂の際いざこざがあった場合などは特に) 「○○派は改変されている」 「○○派は剣道(柔道・合気道)の影響を受けて古伝を伝えていない」 と互いに批判しあっている例も多いです。 また私みたいな第三者が「あっちは伝書の記載と違うなぁ」「こっちは何代か前の演武ビデオとずいぶん見た目が違うな」と思う事や仲間内で話す事はよくあります。 中には「流派というものは一字一句変わらず伝えられるもので、変化などありえない。変化したところは真伝が伝わっていない」という原理主義的な方もいます。 じゃあ、そもそも昔のまま残っている流派があるのか?というとそもそも「(武術の)変化とは何か」という事について考えなければいけませんが、それを横に置いてざっくり考えると室町時代、長い江戸時代、維新後、と常に社会的背景(武士社会や風習、習慣、考え方)が変化してきた以上、ほとんどそのまま変わっていない流派、なんて事は絶対に無いと考えた方が現実に近いでしょう。 これは良い悪いとか正統が伝わっている、などと関係なく、例えば戦国時代に発祥した流派はそれ以降変化し続けていると考えてよいと思います。江戸中期・後期に生じた流派でも同じです。 例え伝書の目録、内容・教えが変わっていない流派でも、代々の継承者や修行者の工夫や、社会背景から無視できない変化の強要(防具試合他流試合の隆盛で「お前の流派も他流試合しろ」との藩命など)は色々とその時代その時代であったはずです。 例えば馬庭念流の師範家や肥後藩のいくつかの流派、岩国藩の剣術、小野派一刀流などのように、江戸時代以前発祥の流派で防具試合を受け入れた経緯などが記録に残っている流派もいくつもあります。 もちろん、伝統を守る、という意識は特に江戸時代中期以降は強かったようですし、伝授内容を変えず、もしくは変わってしまっ��ものを流祖なり先師の時代に復そうとする動きがあった流派もいくつも見られます。ただ、こういう復古的な動きも時代による変化の一種と言えます。 近代に入ってから成立した剣道・柔道でも時代による技術の変化はありますし、いわゆる古武道でも竹刀稽古・乱補稽古を一度採用した後に形だけになった流派、剣道柔道と一緒に伝わる流派、失われた形などを伝書や資料から復元した流派などがあります。技術の変化以外でも昔はいくつかあった流派名や、流派名に使用する漢字を一種類に固定した流派などもあります。 武術が生きてる人によって伝えられる以上、変化しているものです。 続く
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2016landslide-blog · 9 years ago
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居合の極意と暗殺
 最近発刊された居合術家として著名な町井勲氏と漫画家の和月伸宏氏の対談「最強のすすめ 日本刀が教えてくれた日本人の生き方」を購入し読んだのですが、少し興味をひかれる一文がありました。同書のp12に 「言い方は悪いですけど、居合って究極的には暗殺術ですからね」 とあります。
 今までWEB上や実際に会った人が同種の発言をしている例を何度か見かけた事があり、居合の世界ではある程度メジャーな考えのようです。
 私がこれまで聞いた話から推測すると、現代の居合家が「居合の究極のところは暗殺術」というのは「(相手が抜いていないのに)こちらから抜きつける」「多人数相手に突然一方的に切る」「隠れた状態から不意打ちする」「具体的に暇乞の形などが仕物の形」というのが理由ではないかと思います。
(※追記:誤解されそうな文章でしたので追記します。上記は英信流系の一般的認識ではないと思います。私個人的な印象としては、無双直伝流・夢想神伝流の著名な師範の書籍等で暗殺云々という記述は見たことがなく、抜きつけも後述の田宮流や林崎新夢想流と同様に刀を抜こうとする敵に抜きつけるというような想定で書かれているものばかりの印象です。ただし、これらの流派の書籍や資料はそれほど存じていないので、印象論になってしまいますが…)
 しかし前記の推測に関しては居合全般の話とするのは無理があると思います。あくまで現代に伝わっている居合の、ある流派や会派における理解の一例でしかないと思います。前記の理由について一つづつ批判が可能です。
1.「(相手が抜いていないのに)こちらから抜き付けて切る。卑怯であるし、武家社会では認められない」という意見
 現代伝わっている居合(や昭和以降に成立した居合)の多くは一部の組太刀以外は打太刀が無く、一人で演じる形式になっています。また、伝わっている想定に関しても
「対座している敵の殺気を感じ、機先を制してこめかみに抜き付け」(全日本剣道連盟居合)���
「吾が正面に対坐せる敵の害意を認むるや機先を制し直ちに其の首に(又は顔面或は敵の抜刀せんとする腕、以下同じ)斬り付け(昭和13年河野百練)」
「 吾が前面に対座せる敵の害意を感じ機先を制し、直ちにその顔面叉は二の腕等に斬りつけ(大森流)」
と相手の「殺気や害意を感じ」とあまり具体的ではありません。
 ですが、江戸初期までに成立していた田宮流(および林崎新夢想流)、関口新心流の居合は剣道形や柔術の形のように打太刀があります。これらの形では打太刀が小脇差(短刀と考えてください)を抜くところを敵の腕に抜き付け、敵の抜刀もしくは突きを留めます。この「小脇差を抜く」という部分が打太刀を無くした後世の流儀では「害意を感じ」となったのでしょう。
 おそらく江戸時代の人なら「害意を感じ=抜刀しようとする」と理解できたと思います。渋川伴五郎の随筆にある居合の話の中に居合を稽古している人が口論中、相手が刀を抜こうとしたので抜き付け切り倒した、という話が出てきます。これなどまさに害意=刀を抜こうとしたといえると思います。
 ではなぜ打太刀を無くしたのかというと、打太刀がある流派でも(特に表の形では)打太刀はほとんど動きません。ただ小脇差を抜こうとする、もしくは抜いて突いてくるだけです。ですので、特に打太刀が無くても稽古は可能だったわけです。多くの流派に「居合台」とか言われている座った人間サイズの打ち込み台を利用して稽古していた事が記録に残っています。
 また、居合は剣術に比べて動きが多様、複雑、精密な傾向があり、また柔術と違って必ずしも稽古相手が必要なわけではなく、一人稽古に適しているといわれていました。そういう理由から一人で稽古する事が多くなっていったと思われます。(実際、打太刀がある流派でも一人で稽古することはおこなわれています)
2.「多人数相手に突然一方的に切る」というのは不意打ちでもしないと実現不可能。(つまり暗殺技)
 この点に関しては江戸時代以前には存在したと思われる古い居合の体系を調べると面白いことがわかります。基本的に多人数相手の形は「極意」もしくは「外物」に二本あるだけで、それも多様な対多人数の形がある現在の居合と違い、敵は二人だけで全員座っている状況です。これも敵が小脇差を抜こうとするところを反撃します。動作に関しても全員ばったばったと切り倒す、というよりどちらかと言えば柔術的な技や泥臭い、逆に言えば現実的な技が多いようです。
 江戸時代半ばになると形の本数が増える傾向があり、対多人数の技も多く増えていった傾向もありますが、特に西日本で多く広まっていた田宮流ではやはり対多敵の形は二人が限度だったようです。
3.「隠れた状態から不意打ちする」「具体的に暇乞の形などが仕物の形がある」
 これは無双直伝流特有の形と言っても良いと思います。現在伝承されている「暇乞」は座礼の最中にいきなり抜刀し切りかかるような形ですが、江戸時代中期の資料に書かれている暇乞いは「腰から抜いて右手に持っている太刀(家の中ですので太刀は腰に差しません)のコジリで突き倒し、抜刀して突いて留め」というように仕物の心得として説明されており、現在のような抜き打ちを使う形ではないようです。
 現在の形が成立した時期は不明です。当然、ほかの流派には似たような技はあまりありません。隠れた状態から攻撃する���下についても同様で、諸流でこういった心得的な想定が具体的な居合の形としては存在しているかどうかよくわかりません。伝書では「心得」「大事」として存在する例は見かけます。
居合の極意
 居合に慶長はじめ頃(江戸幕府成立前です)には既に存在していたと思われる「歌の巻」(秘歌の巻などとも)という巻物が存在します。これは現在では居合の精神・心構えを教えた歌だとされる場合が多いですが、田宮流や林崎流の技や形と比較すると、具体的な技や稽古方法について書いたものが複数あります。
 この歌は伝わっているうちにこまごました言葉使いが変わっているようですが、おおよそ内容は共通しています。実際の形との関連がわかりやすいものとしては、
「居合とは人にきられず人切らず ただ受け止めて平らかにかつ」
「寒夜にて霜を聞くべき心こそ 敵に会うての勝はとるべき」
「居合とはおし詰ひしと出刀 刀ぬくればやがてつかるる」
「狭みにて勝をとるべき長刀 短き刀利は薄きなり」
「ひしと突くちょうと留るは居合也 突かぬに切るは我を害する」
などがあります。
 これらの歌は「(非現実的な)居合の精神論」とされることが多いですが、古い居合の表(最初に学ぶ形)と比較すると、形や技の内容を語っている事がわかります。
古い居合の形
 江戸時代極初期にさかのぼれると思われる、古い居合の形は関口流も田宮流・林崎新夢想流で共通していて、
1、少し離れた場所から(座っている)敵の前まで寄り、敵のすぐ目の前に座り敵を見る。
2、敵が小脇差を抜こうとした(抜いて突く)ところを長い刀を抜いて、敵の右腕を押さえて止める。
3、振りかぶって真向から打ち、やや下がり敵が反撃しないか注視
4、納刀し立ち上がり元の場所へ戻る
という構造になっています。
 特徴としては待っているところを敵に襲われるのではなく、こちらから接近して座るところです。これは相手を取り押さえる捕手(捕縛、今でいう逮捕術)の形の形式と共通しています。居合の形はただ待っている所を襲われ反撃するのではなく、こちらから敵に寄っていき、攻撃してきた敵を打つ、という構造になっているといえます。
 先ほど紹介した歌の巻の内容や林崎流の伝書に「無罪の人は害さず、罪ある人に行きあたらば、この袈裟の一太刀を抜掛け袈裟打掛けて成仏せしめよ」とあるのは、この形の想定と関係があると思われます。
歌の巻と形の関係
「居合とは人にきられず人切らず ただ受け止めて平らかにかつ」
→敵が短刀で突こうとしたのを留める(人に切られず人切らず)
「寒夜にて霜を聞くべき心こそ 敵に会うての勝はとるべき」
→敵の突こう、とする気配を察する(寒夜にて霜を聞く)
「居合とはおし詰ひしと出刀 刀ぬくればやがてつかるる」 →形で敵と極接近して座り抜刀する(押し詰めひしと出す刀)
「狭みにて勝をとるべき長刀 短き刀利は薄きなり」 →前記に同じ。抜き方も長い刀の利点を使っているようです。
「ひしと突くちょうと留るは居合なり 突かぬに切るは我を害する」
→形の構造をそのまま語っています。
 居合の極意が何かは時代時代によって変化していると思いますが、江戸初期、居合が創始され発展した時代には「居合の極意は暗殺」というような考えは無かったと思われます。もし暗殺が重要であ��なら、形や心得の解説にそのことについて書き記されていると思いますし、歌の巻にも該当する内容があるでしょう。しかしすくなくとも田宮流や林崎、関口、伯耆の各流派の伝書や実技でそういった内容について目にしたことはありません。
 「暗殺などはすべて口伝で伝わり、書に残すことはない(卑怯な事であるから残さない)」という意見もあるかもしれませんが、江戸時代以前創始の流派で、江戸時代ある藩の主流派となった剣術流派の伝書に暗殺法についての詳しい記載があります。この流派は藩校でも教えられ、開祖の弟子には大名クラスもいた流派です。
 ですので、暗殺だから記載しない、という事は考えがたいと思います。(その記載されている暗殺法は居合とは無関係です。武器は最初から抜刀して使用します)
 なお、伯耆流に関しては江戸初期から一人で稽古していたらしく、系統によってかなり内容に差異があり、ある程度田宮流との関係等推測はしていますが、わからないことが多いため今回説明から省いています。
※当記事で田宮流・林崎新夢想流とあるのは田宮対馬守を初代とする紀州の田宮流と田宮平兵衛から長野無楽斎に伝わった系統を指しています。故・妻木師範が昭和になってから再興され、現在日本各地で広く行われている田宮流居合術(田宮神剣流居合術)は田宮流の系統ですが、内容的には独自に発展されていて、調査した古文書にある田宮流とは共通点がほとんど見られないため、参考にはしておりません。 ※このブログの記事は江戸時代に居合と暗殺を関連させている例が存在するか、存在するならどの程度一般的か?という事を検討しています。そのため居合関係の古文書、および田宮流・林崎流各系統の伝書資料による江戸時代初期の田宮流・林崎流の内容などについての推測および江戸時代の随筆・事件の記録等に基づいて推測しました。現在の居合流派に残る伝承・口伝等については参考にしておりません。
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2016landslide-blog · 9 years ago
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はじめてみる。
日本の武道武術の歴史に関係する、ほんとかうそか怪しいことをだらだらと書いてみたりします。
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