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宇宙日記
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2022/6/30
朝、目覚ましで目が覚める。夢見ごこちに次のアラームまでの5分間が異様に長く感じられ、自主的に目覚めてみるとアラーム発動の1分前。エアコンを消して窓を開けるとモワッとした空気がなだれ込んでくる。布団の上に強烈な陽だまりができていて、じぶんの肌をたびたび火傷させるように火事にならないかちょっと不安。そとは異様な暑さ、雲が秋のように薄くひろがっているのがまた異様な感じをかもし出している。予報によると今日の最高気温は38度。辻を曲がるとき、塀の上の鉢植えの赤紫色の花が目と鼻の先をかすめる。デイサービスのワゴン車が戸建ての前に停車していて、ライトが点滅している、ヘルパーさんが車椅子のおじいさんを慎重にワゴンのなかに入れようとしている。近道の公園にさしかかると、なんと一匹だけ蝉の鳴き声、今季の第一声! 並木道からは小鳥の囀りと竹ぼうきで通りを掃くがきこえて、重くのしかかる猛烈な陽光が通行人の日傘にずおんずおんと影と光を流してゆく。
朝食、暑すぎて朝カレー以外の選択肢がない!
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cosmicc-blues · 3 years ago
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ピンク映画のタイトルについて思う二、三の事柄
興行の都合上、ピンク映画のタイトル決定権は制作会社の側にあり、監督や脚本家の意向とは裏腹に口にするのも憚られるような卑猥なタイトルがつけられる運命にある。日活ロマンポルノのエース監督であった田中登も、いまとなって大名作として語り継がれている『㊙色情めす市場』に『受胎告知』という原題があったのにもかかわらず、かのような題名がつけられたことに憤慨の意をあらわしている。といって、ピンク映画一般のタイトルに反旗を翻したいのではなく、むしろ『㊙色情めす市場』は『㊙色情めす市場』なのだし、たとえば、黒沢直輔の『ズームイン 暴行団地』などはそのぶっ飛んだショットの数々と相乗して、声に出して言いた��日本語とまでは言わないけれど、かなりかっこいいタイトルだと個人的には思う。そのほかにも『黒薔薇昇天』、『四畳半襖の裏張り』、『天使のはらわた 赤い淫画』、『赤線玉の井 ぬけられます』、『美少女プロレス 失神10秒前』、『壇の浦夜枕合戦記』、『わたしのSEX白書 絶頂度』など、日活ロマンポルノは妙に魅力的なタイトルに事欠くことがない。
はなしは日活ロマンポルノが終焉を迎えた1980年代後半以降に向かう。アダルトビデオの普及によってピンク映画の需要がいよいよ減ってゆくなか、ピンク映画はアダルトビデオの戦略に倣ってジャンルものを積極的に展開していくようになる。それは、たとえば『団地妻~』であったり『痴漢電車~』であったり『未亡人~』であったり『女教師~』であったりするわけだけど、日活ロマンポルノ時代はまだいちタイトルとして個性を保っていたのが、いよいよ没個性的になり、タイトルだけを見たら同じような文字列が並んでいるばかりでどれが何だかわかったもんじゃない。けれども、タイトルはあくまでも建前にすぎず、じっさいには一部の水面下で「ピンク四天王」であるとか、その後続の「ピンク七福神」といった没個性の真逆をゆく作家主義的なヌーベルヴァーグ/ニューウェイヴが起こっていたわけで、そうなってくるとタイトルで映画を記憶するというより、ショットで映画を記憶するという事態が起こってくる。じっさいピンク四天王時代の四天王作品は成人館の主流の客層(日活ロマンポルノには飽き、アダルトビデオの新鮮さは知っている)には超絶不人気で、四天王だと客が入らないというんで、名前を変えながら映画を撮っていたのにもかかわらず、作風ですぐ四天王だとバレてしまうというまったく喜んでいいのか悪いのかよくわからない事態が発生してしまうほどにはタイトルとショットの乖離が進んでいたという。あるいは「最後のプログラムピクチャー」と言われる90年代以降のピンク映画は、たんに小屋の番組を埋めるという意味だけでなく、ピンク映画に出ようとする役者の少なさから複数の現場で同じ役者が連続して出演するような事態が起こるべくして起こり(日活ロマンポルノ時代は腐っても大手日活の顔で新人の供給があった)、その貧しさが逆説的に五社協定で大手五社が競い合ったプログラムピクチャー全盛期のスターシステム的な土壌を生み、あたかもピンク映画界がひとつの組のように機能し始めたことによってもまったく「プログラムピクチャー」的であって、役者でも映画を判別することができないとなると、いよいよショットだけがいち映画を記憶する頼りになってくる。叩き上げの俳優としては、伊藤清美、岸加奈子、葉月螢、佐野和宏、吉行由美、下元史郎、伊藤猛、佐々木ユメカ、川瀬陽太、吉岡睦雄、速水今日子、神羅万象、和田光沙、櫻井拓也等の顔を見ない映画はほとんどなく、アダルトビデオからの刺客としては、林由美香、華沢レモン、平沢里菜子、藍山みなみ、並木塔子、加藤ツバキ、七海なな、きみと歩実、古川いおり等が本職も顔負けの存在感を示している。
逸れたはなしをもとに戻すと、ピンク映画のタイトルである。90年代以降、没個性的になっていったピンク映画のタイトルはいくつかの要因から複数化していくことになる。つまり、映画はひとつなのにかかわらず、タイトルがひとつではなくなるという不可思議な事態が起こってくる。要因のひとつとして、原題の主張がある。たとえば、四天王の佐野和宏は、手書きでデザインするなど趣向を凝らして作ったエンドクレジットのどさくさに紛れさせて原題と思わしきワードをちゃっかりプリントに組み入れている。『爛熟性戯 うずく』には『走れ、走りつづけよ!』という裏タイトルがあり、『集団痴漢 人妻覗き』には『海鳴り』という裏タイトルがあり、『熟女のはらわた 真紅の裂け目』には『ふくろうの夏』という裏タイトルがある。佐野の悪あがきを踏襲するように、のちに作家主義的に再評価され特集上映などが組まれた際、四天王たちはことごとく原題をプログラムのタイトルに冠するようになる。たとえば、佐藤寿保の『すけべ妻 夫の留守に』は『ラフレシア』/『痴漢電車 いやらしい行為』は『誕生日』として、瀬々敬久の『課外授業 暴行』は『羽田へ行ってみろ、そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っている』/『未亡人 喪服の悶え』は『現代群盗伝』として、サトウトシキの『痴漢電車人妻篇 奥様は痴女』は『タンデム』/『悶絶本番 ぶちこむ!』は『ライク・ア・ローリング・ストーン』として、佐野和宏の『集団痴漢 人妻覗き』あるいは『海鳴り』は『海鳴り 或いは波の数だけ抱きしめていられるか、アホンダラ!』として劇場公開されている。また七福神の時代になると、四天王の踏ん張り?により、ある程度はピンク映画にも作家主義的な見方がひろまり、成人館のプログラム用に撮られたピンク映画でありながら、年齢制限付きの一般映画として名画座やインディーズ・フィルム専門館に拾われたり、海外の映画祭に持ち出されることも増え、こうした場合には興行的に卑猥なタイトルはかえって逆効果になるため新たなタイトルが冠せられることになる。いまおかしんじがその代表的な例で、たとえば『熟女 発情タマしゃぶり』が『たまもの』/『援助交際物語 したがるオンナたち』が『かえるのうた』として一般公開されるなどしている。こうしたタイトルの横溢ぶりは今日の配信時代にあってさらに錯綜とし、たとえば、寿保の『すけべ妻 夫の留守に=ラフレシア』はどういうわけか『ラフレシア 夫の留守に』という混同されたタイトルで配信されている。これはまだ判別しやすいマシな事例で、まったくもって謂れのないタイトルが唐突に冠せられ、そのうえクレジットの監督名は奇怪な変名のままだったりして、これはもしやあの人の別名義なのでは? と勘繰るにとどまらざるをえない映画も少なからず存在している。こうなってくると中国四大奇書の『西遊記』がいまだ書き人不明であるようなロマンめいた気持ちが湧き起こってもくるのだけれど、ピンク映画がピンクの枠組みを超えて受容されるのとは真逆のケースもあるらしい。榎本敏郎の『悶絶 ほとばしる愛欲』には『ニコミホッピー』という原題があり(ちなみにGYAOでは『ほくろ ほとばしる愛欲』として配信されている)、これが『ニコミホッピー』としてドイツの映画祭で大ウケだったという。この映画はニコミホッピーという名前の競走馬をめぐる物語で、もつ煮込みとホッピーを掛け合わせたニコミホッピーという名前と東京の下町文化とが前提にあるからには、それらを熟知していないとこの面白さの妙味は伝わらないはずで、おそらく日本人ですら過半数はピンとこないであろう「ニコミホッピー」というニッチなワードにドイツ人が反応したとは考えづらく、むしろ下町文化を共有しているであろう純粋なピンク客にこそウケそうな「ニコミホッピー」のワードが国内では当然のようにスルーされ、いっぽうドイツ人には「ほくろ」とかそっちのピンク的な要素でウケていたのはないか、そんなパラドキシカルな仮説が立ってくる。あるいは『草叢 KUSAMURA』は夭折した堀禎一の代表作として名高いけれども、商業的な初公開タイトルはピンク映画としての『不倫団地 かなしいイロやねん』で、結果として『草叢』として一般流通することになった本作にはしかし、草叢らしき要素がまるでいっさいない。というのはピンク映画の尺は一般的に60分前後であり、脚本段階では80分ほどあった『草叢』を堀禎一はありのままに撮影してフィルムに残し、これをピンク映画用に60分に編集したのち、どういうわけか削ったフィルムを自宅の台所で燃やしてしまったらしい。その過程で原題の『草叢』要素は消えてしまい、80分ヴァージョンを残しておけば、それこそ海外の映画祭などで評価される作品になっただろうという声もありながら、堀禎一は何らかの覚悟から本作をあくまでもピンク映画として世に残すことにしたらしい。今日、ピンク映画の新作を公開している劇場は東京では上野オークラ劇場の一館��みで、大蔵映画(OP映画)が月一本程度のスパンで制作にあたっている。さだかではないけれど、おそらく、世界中で唯一生き残っているプログラムピクチャーなのではないか。とはいってもOP映画は二足の草鞋を履いていて、半身はすでにプログラムピクチャーではない。というのも60分のピンク映画を作るのと同時によりドラマ的な要素をプラスした別ヴァージョン用の撮影もいっしょに済ましておき、のちに再編集した別ヴァージョンを一般映画としても公開している。つまり、焼失してしまった『草叢』がやらなかったことをやっているわけで、もはやタイトルが複数化するのみならず映画そのものが複数化するに至っている。これはじつに経済的なナイスアイデアだと思うし、ピンクの火を絶やさないために今後もどうにか継続していってほしい素晴らしい企画だと思うが、削ったフィルムをあえて燃やしてしまった堀禎一の覚悟もなんとなくわからないでもない。
はなしをいまいちどタイトルのことに戻すと、作家性が認められ、どんなにタイトルが複数化しようとも、その映画をいちばん質のいいかたち、つまり画質の荒いデジタル配信などではなく、もとのフィルムでこれを上映しようとするならば、そのプリントには否が応でも初公開時の卑猥なタイトルが焼き付けられている。どんなに監督がこれは『ラフレシア』だと言い張り、『ラフレシア』として上映しようとも、プリントには『すけべ妻 夫の留守に』というタイトルが焼き付けられている。一本の映画は未来に向けて逐一変化してゆく。小屋の番組を埋めるためのピンク映画にすぎなかったものが、作家主義的なゲージュツになったかと思えば、詠み人不明の詩になったりもする。時の流れによる複数化と、それでも変わることなく残りつづけるフィルムの単一性、ピンク映画のタイトルをめぐるこのパラドシカルな状況にドゥルーズの『差異と反復』的な魅惑を感じずにはいられない。変わりつづけるものと残りつづけるものの同居しえないはずのものがいまここに混在してしまうことのスパーク! おそらく『勝手にしやがれ』は未来永劫『勝手にしやがれ』だが、ピンク映画のタイトルが今後も変容を繰り返しながら、思いがけないかたちで出会ったり再会することを考えるとワクワクがとまらない。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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きらきらひかる
2022年4月9日、国立映画アーカイブで松岡錠司の『きらきらひかる』を観る。ほんとうは前後の映画がお目当てで、ついでに観たような感じだったけれど、結果として『きらきらひかる』がいちばん印象的だった。映画がはじまってまもなくタイトルが出たところで、江國香織の原作を読んでいることを思い出した。ストーリーの展開でそのことを思い出したのではなく、たんにタイトルでそのことを思い出した。どんなはなしだったかはすっかり忘れているのにも関わらず、そのことを思い出すことができたのは、小学生のときはじめてじぶんのおこづかいで買った小説が江國香織の『きらきらひかる』だったからだと思う。薄紫色の装丁の新潮文庫、はなしはまったく憶えていないのにそんなことはよく憶えている。映画のストーリーを追いながら、どうしてこの小説をじぶんのおこづかいで買ったのか、ということを思い出してくる。同性愛者と異性愛者がお見合い結婚をする。同性愛者には別に恋人がいて、奇妙な三角関係に発展する。小学生からしたらいささか破廉恥なはなしぶりに気後れがあったのと、同性愛というテーマを読むことで親にヘンな心配をかけまいとしたのだと思う。ところで、このはなしがいかにもじぶん好みのはなしであることに驚かずにはいられなかった。小説の内容をまったく憶えていないのにも関わらず、そうであるのには三つの可能性が考えられる。①小学生の頃から一貫してそういった嗜好性を持っていた。②忘れ去れていたこの小説が無意識下でそういった嗜好性を育んでいった。③とくに因果性はなく、まったく無関係にそうなった。①や②にすがりたい気持ちがなくもないけれど、どうやら③の線が濃厚のような気がする。こうした嗜好性はあきらかに大人になってから熱を入れて読んだローベルト・ムージルのいくつかの短編と『特性のない男』からきているように思う。それよりも、無意識下でじぶんの血肉となっていたのはこの『きらきらひかる』というタイトルの言葉のほうではなかったか。この言葉が空気のような浸透度で、忘れるとか、思い出すとか、そういう間歇的な事象を超えて、この身体に当然あるものとして染み付いてはいなかったか。中学生になって引っ越した折り、引っ越し先のマンションのすぐ近くに『きらきらひかる』という店名のスナックがあった。そのときにはすでに『きらきらひかる』の内容は忘れていて、本もどっかにいってしまっていて、ただ『きらきらひかる』がここにもあるなぁと思ったのを憶えている。映画でストーリーをおさらいしてみても、やっぱりそんな小説を読んだ記憶はないし、このはなしにどうして『きらきらひかる』というタイトルが付いているのかよくわからない。どう考えても、もっと相応しいタイトルがあると思う。そう考えてみると、やっぱり《きらきらひかる》という言葉は『きらきらひかる』というはなしから独立して記憶されているように思われてならない。数年前、『きらきら』というタイトルの小説を書いたことを不意に思い出す。ある人物が電車内で小学生の頃の入院体験を追想するはなしなのだけど、パラパラッと読み返してみると、物語の核となる追想部分にはきらきらの一文字もなく、追想から電車内に場面がもどるエピローグで、同じ車両に乗り合わせた子どもが窓から川を見ながら「川がきらきらひかってる」と言うのをどうやらタイトルにもってきているらしい。どうしてそんなことをしたのかはよく憶えてないけれど、《きらきらひかる》という言葉はじぶんにとって何か大きなものであるらしい。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2022/2/28
三村晴彦の『天城越え』を観てから十日が経ったきょう、���天城越え』のことを考えていたら、とうとうボロボロと泣いてしまった。映画というものは往々に、目撃した瞬間を沸点にして、あとはしだいに忘却されるものだと思うけれど、観たあとから段々と大きくなってくる映画とはまた珍しい。いまさらになってボロボロと泣いてしまったじぶんが言うのもなんだけれど、ほんとうにまったく大したはなしではない。単なるあられもないはなしで、学びもなければ救いもありはしない、単なるどうしようもない悲劇だけがそこにある。個人的に悲劇というのはそんなに好きではない、マックス・オフュルスの『忘れじの面影』に代表されるような悲劇の悲劇性に屈しない悲劇は大好きだけれど、『天城越え』はそういう映画でもない。強いていうなら日活ロマンポルノに近いのかもしれない、物語的な悲劇ではなく、映画制作における状況としての悲劇を疑似的に作り出しているという意味で。日活ロマンポルノにはジャンル映画として数々の制約があり、その制約を飲み込んだうえで、つまり制作があからさまにマイナスからのスタートになる、このマイナス分をどうにか乗り越えないといい映画にはならないだろうと制作陣はあらかじめ覚悟して臨むことになる。同様のことが『天城越え』にも言えるような気がする。まずひとつに、松本清張の原作で勝負しているということ。これは三村晴彦の師匠の野村芳太郎がぜひとも松本清張で勝負すべしと提言したらしい、なかなか粋なアドバイスをしてくれたなぁと思う。原作という型がある以上、はなしはすでに明るみになっているのであって、しかも、その型は推理小説というかたちをとっている。犯人があらかじめわかっている推理小説を原作にした映画をどうやって面白くしたらいいのか。もうひとつに、『天城越え』は回想形式を採用しているということ。回想形式ほど映画に相応しくないものもない、そもそもカメラは生々しい現在の瞬間を記録するものだし、現在と過去を行ったり来たりする回想形式は映画の説話においてはどうしてもダレを生んでしまう、どんなに過去を再現して映し出しても、現在における時間はいっこうに進まない、それだったらいっそのこと回想などやめてしまって、回想される事件そのものを映画にしたほうがよっぽど映画として相応しい。『天城越え』はこうした二重のマイナスを日活ロマンポルノのように疑似的に背負うところから始まっている。じっさいに、じぶんは原作のほうは未読でありながら、冒頭の現在のシーンからすでに犯人はわかってしまう。それでいて暢気に回想し始めるものだから、この映画だいじょうぶか? って、かなり心配になりはしたけれど、気がついたら開いた口が塞がらなくなっていた。二重にマイナスな点はどちらも脚本の側にある、きわめて凡庸な脚本、物語として起こるべきことが当たり前のように起こる、単なる脚本。それは裏を返せば、安定的なしっかりした脚本だとも言える。ちなみに脚本は三村晴彦に大ベテランの加藤泰が入って手直しを加えている。日活ロマンポルノは脚本からして理解不能な突飛なものが多いけれど、『天城越え』はじつに物語らしいシンプルな物語になっている。そうすることで、物語としてではなく、映画としてどうしていくべきなのかという課題がかえって浮き彫りになったのではないか、それが師・野村芳太郎と脚本に途中から加わった加藤泰の狙いだったのではないか。とるに足らない題材をあえて映画化するのであれば、そこからは、むしろ、映画の映画的な映画のいちばん重要なところしか零れ落ちてこない、それを下積み時代のめちゃくちゃ長かった(じつに二十年以上! の)三村晴彦に溜まりにたまった鬱憤のパワーを発散させる場として、満を持して監督させたのが『天城越え』ではなかったのか。
回想映画の難点として、キャスティングの問題がある。『天城越え』のように犯人の初老の男が少年時代を回想するのであれば、どうしても少年の男役と初老の男役をキャスティングしなければならない、ここに映画としての嘘、弱さがどうしても露呈してしまうし、これはある意味で二人の役者の使い捨てでもある、時を隔てた二人は単なる当馬として説明的な役に収まってしまう。こうした回想映画の至らなさをこんにち『フレンチ・ディスパッチ』のウェス・アンダーソンが、若い役の男が老いた役の男に「あとはよろしくな」とでも言うようにバトンを渡すというフィクションのフィクションとして、ひとつのショットを成立させたことで映画の尊厳を勝ち取った感動はひとまず脇に置いておいて、『天城越え』は犯人役の男をダブル・キャスティングするいっぽうで、犯人を追う刑事役の渡瀬恒彦に30代の新米刑事と60代の古株刑事を時を隔てた一人二役で出演させている。これはセルジオ・レオーネが4時間をかけて二人の不良と一人の女の少年期・壮年期・老年期を描いた大作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』にも通ずるキャスティングにまつわるケリのつけ方だと思う。少年期はさすがに無理があるから若いキャストを配置しながら、ロバート・デ・ニーロとジェームズ・ウッズとエリザベス・マクガヴァンは年齢相応の壮年期を演じながら老けメイクで老年期も演じている。老けメイクの不自然さを差し置いてもなお、そこはやっぱり一人の役者で押し通すべきところで、おなじ嘘は嘘でも、老年期にも年齢相応の役者をキャスティングするのとは大きく異なる嘘をほんとうにする強引なパワーがある。『天城越え』は60代の古株刑事が足を引きずりながら街を歩き、とあるビルの階段を足を引きずりながら上ってゆくショットからはじまる。街では竹の子族の集団が踊っていて若者と老人の対比が際立ち、ビルの細長い階段を上らせる演出もにくい、サングラスとハットとロングコートで身を包む渡瀬恒彦がほんとうに老人のように見えてくるというか、この時点では渡瀬恒彦とはわからない。回想がはじまり、事件がひと通り描かれ、ようやく事件を追いはじめる新米刑事が出てきたところで、冒頭の老人が渡瀬恒彦であることがわかってくる。
ところで、回想に出てくる脇役たちが怪優ぞろいなのも凄まじい。家出の道中で出会って、しばしば山道を同行するのは柄本明。ガイシャを泊めた夫婦は石橋蓮司と樹木希林。そして、巡査の伊藤克信。彼らがそれぞれの持ち味をふんだんに活かして誰が主役なんだかわからなくなるくらい大活躍していることがこの映画を底上げしているように思う。この映画の主な視点は回想している犯人によるもので、そういう意味で真の主演は回想者ということになる。けれども、その回想者の顔はあまり画面には出てこず、出てくるのはあくまでも回想者の少年時代を演じた別の顔になる。没主演的な映画、このことが回想の脇役たちを際立たせ立体的な存在として浮かび上がらせるトリガーになり、時効の事件をいまだに追い続けている影の主演・渡瀬恒彦の執念にもなり、いまさらになって忘れていたつもりだった事件を掘り起こされる犯人の没主演的なあられもなさにもなる。そして、真の主演と影の主演の両者に思い起こされるのは、二人そろって罪を着せてしまった冤罪の女の顔にほかならない。起訴中に死んでしまって、もはや回想のなかでしかみることのできない女の顔、忘れようにも忘れられない女の顔。この顔のあまりにも途方もない美しさを演じきったのは、その直後に連続テレビドラマ『おしん』で歴代最高視聴率(未だに破られていない)を叩き出した田中裕子。リアルタイムで『おしん』を観ていたKさんのはなしでは、歴代最高視聴率の瞬間を叩き出した直後のニュース番組に出たアナウンサーが嗚咽してしまってとてもニュースにならなかったのだそう。その片鱗というか、覚醒のきっかけをつくったのは『天城越え』ではなかったのかと思う。『天城越え』の撮影現場は当初かなり不穏な雰囲気だったという。それは下積み二十年からついに監督にのし上がった三村晴彦の尋常ならない気合いのあらわれであろうし、渡瀬恒彦という役者生来の暑苦しさでもあろうし、田中裕子の役者としての意地でもあったのだと思う。この三人が芝居をめぐってバチバチにぶつかり合っていたという。そう、そんな気合いの熱量もこの映画には確かに記録されている。回想とモノローグで語られるこの映画は、回想とモノローグであるがゆえに物語的には宿命的に熱くなることができない。ただ、それはあくまでも物語的にということで、映画撮影におけるドキュメンタリーとしての熱さは確かに記録されている。この映画を観ながら、これはどっちなんだろうと、まぁ、どっちでもいいんだけど、どっちなんだろうと観ながらふっと思ったシーンがある、取調室で刑事に暴行される田中裕子がたまらずに失禁してしまうシーン。カメラはスムーズに水の流れを映すから、これは脚本にも書かれていただろうことはわかる。ただ、この水が役を演じる本人によるものか、そうでないか。観る側としては正直どっちでもいい、本人から放たれたもののほうがリアリズムとして優れているとは思わないし、そういうケースもあるだろうし、そうでないケースもあるだろうと思う。ただ、このシーンには、ふっとどっちなんだろうと思わせるほどの何かがあった、それだけが重要なポイントだと思う。観終わって調べてみると、ふっとの予感はやっぱり正しくて、どうやらこのシーンは撮影の大きな転機になったらしく、バチバチのぶつかり合いのなかで田中裕子が「仕掛けはいりません、自前でやります」と宣言し、そのひと言で三村晴彦は田中裕子の芝居を信頼するようになったという。そんなぶつかり合いや信頼の行く末にあの途方もなく美しい田中裕子の切り返しショットが生まれたのだなぁと思うとやっぱりいまさらになって涙を禁じえない、禁じえない、禁じえない……。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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No Filmarks
劇場で公開されていながら、不当にもFilmarksに作品情報すらない虐げられた映画たちをNo WaveやNo New Yorkになぞらえて、No Filmarksとして記録してゆく。
 『OL発情 奪う!(セメントマッチ/光の帝国)』 後藤大輔 62分 2002年 新東宝
日活ロマンポルノ最期の映画『ベッド・パートナー』の後藤大輔が監督・脚本をつとめる。冒頭からNo Filmarksに相応しく、ザ・コントーションズのような疾走感のある音楽とともにサラリーマンの男が破滅だ! 破滅だ! と叫びながら街中の橋の上を爆走している。カットが割れて橋の下、そこにさり気なく物語に絡んでくるであろう女子高生(ボリボリと薬を食べながら歩いている)とすれ違うショットを入れ、音楽はそのままにゴミ収集車のゴミが広大なゴミ捨て場に廃棄されるショットからの、ゴミ収集車のなかで若いカップルが「くっせー」と連呼しながら狂ったように身体を重ねる。車内の情事を少し映したのち、場面は公園の女子高生に変わり、スカートをたくし上げてホームレスのおっちゃんにパンツを見せる。場面はゴミ収集車のなかに戻り、狂ったように身体を重ねるカップルが情事にふけりながら何やら強盗らしき計画のはなしをしている。場面はホームレスのテントのなかに変わり、女子高生とおっぱちめようとした瞬間に爆走していたヤケクソのサラリーマンがテントのなかに突入して女子高生を横取りする。この冒頭の10分足らずで、定期的に濡れ場を設けなけらばいけないピンク映画の制約と物語の起こりを同時にみせ、何よりめちゃくちゃカッコイイ! 60分という短い時間、その上にさらに濡れ場を設けなければいけないという数々の困難を巧みに乗り越えてこのカッコよさを演出する凄まじさ! 爆走の衝動が薬をボリボリ食べる虚無的な女子高生へのモンタージュを介して、解放的なゴミ捨て場での狂ったような情事に昇華し、さらにゴミ捨て場の汚らわしさを引き継ぎながら閉塞的なホームレスのテントに移行していくコントラスト。そして、何よりもたった数分のこれだけで、サラリーマンは会社の金を使い込んでヤケになっていて、女子高生は家庭に何らかの問題を抱えていて、狂ったカップルは一攫千金を目論んでいて、その金をめぐってこの四人が関係しはじめることを説話的にわからせてしまう手腕の見事さ。案の定、カップルは女の清掃バイトという立場を使って金庫破りを目論み、サラリーマンと女子高生がその現場を目撃してしまう。さらに社内(たぶん新東宝の社内で倉庫にはフィルムが大量に置かれている=製作費削減)には不倫関係にある課長とOLが夜遅くにもかかわらず残っていて、ここに男女6人の六角関係が成立、全員が社内におさまったところでちょうどよく未曾有の大地震だか核兵器による他国からの攻撃だかが起こって、ドアが開かなくなって密室での一幕になる。狂ったカップルはいかにも強盗らしく見事な活劇で残りの四人を縛り上げ、ひと息ついたところで現状を把握するべくラジオのスイッチを入れる。ほとんどの局がノイズのなか、一局だけドラムンベースみたいな音楽が流れていて、カップルの女がデスクの上にあがって無茶苦茶に踊りはじめる「私はここにいない!!!!」って叫びながら。出鱈目なようでいて出鱈目ではない、これを出鱈目だというなら冒頭のサラリマーマンが爆走しているところからすでに出鱈目だし、六人が出会ってしまうのも出鱈目だし、大地震だか核兵器だかで密室になってしまうことのほうがよっぽど出鱈目なように思う。さらに不倫課長と女子高生が親子であることが発覚して、不倫だの近親相姦だの浮気だのありとあらゆる禁忌を織り交ぜながら愛の行方が炙り出されてゆく。単なる当馬に思われたホームレスが最後にバシッと出てくるのにもガッツポーズだ!!
  『飢えた痴女 汚らわしい穴』 松岡邦彦 60分 1993年 エクセス・フィルム
シネロマンにて。松岡邦彦のデビュー作。いわゆるエロ事師もので、撮影に来たとばかり思っていた女は、実は下の階の会社の面接にきた女で、階をまちがったばかりに誤って犯され撮影されてしまう。迫真の演技だと思っていたのは生々しくもリアルな反応なのであった……。事実が発覚して、男優と撮影陣は取り返しのつかないことだとはわかりつつも総謝り。とくにじっさいに犯してしまった男の後悔は半端じゃなく、女を追い回してなんとか赦しを乞おうとしているうちに、曲がりなりにもいちど身体を重ねた仲であるし、いつしかおたがいに恋心のようなものが芽生えてくる。赦せないないけど赦してあげたい気持ちと、赦してほしいけど赦されてはいけない気持ちが絶妙にすれ違うなんともピュアなストーリー、にヤクザが絡んできて人侠活劇ラブストーリーになっていく。廃墟とか廃線をふんだんに使ったロケーションが素晴らしく、焚火もまた素晴らしい。
  『黒の挑発 未亡人が疼くとき』 剣崎譲 60分 2000年 エクセス・フィルム
シネロマンにて。成人映画館を主題にした映画館映画で、時代の波にのまれて閉館をよぎなくされようとする成人映画館をめぐる正統派メロドラマ。主演のイヴが演じるもぎりの未亡人は若かりし頃ロマンポルノに出演していた女優で、その演技に惚れて求婚してきた北斗座の先代と結婚。先代はすでに亡くなっていて、イヴが先代の連れ子の娘とともに傾きかけの北斗座を継いでいる。娘は興行を渋々手伝いながら、北斗座のことをあんまり好ましく思っていなくて、公認会計士?をしている娘の彼氏もまた然り。イヴと先代時代から北斗座を支えている映写師の男だけがどうにか北斗座を守っていきたいと思っている。そんなある日、娘と彼氏がデート中にじっさいのところ北斗座の経営はどうなのかって話になり、娘がこっそり帳簿を持ち出して彼氏に見てもらうことになる。蓋をあけてみると、経営がギリギリなんてものじゃなく火の車もいいところで、年内持つかもたないか。彼氏は畏れ多くも勝手に帳簿を拝見したことを詫びながら、土地建物の売却をイブに進言するし、何なら条件のいい買い手まで紹介する。イヴは全てを飲み込んだうえで、それでも彼氏をたしなめずにはいられない「ねえ、知ってる? 若くて才能のあるひとたちが一生懸命に情熱をそそいでピンク映画をつくっているんだよ。北斗座がなくなったら、誰が彼らの映画を上映するの?」この台詞には劇中の演技を超えて真に迫るイヴの本音のような凄みがあって、けんもほろろに泣かされてしまう。そうは言っても火の車であることに変わりなく、その日の終映後に同志の映写師をお酒に誘って色々と相談にのってもらう。お酒も入って、同志でもあって、時代に取り残された者たちのすることといったらそれはもう決まっている。それから数日後、彼氏はなかなか優秀な男で、買い手は北斗座の跡地にビルを建設するつもりだったが、その1フロアを映画館にして興行は今後もイヴ一家にお任せするという条件をもってくる、ただし成人映画館ではなく一般の映画館として。無念ではあれど、この場所に映画館だけは残るということでイヴはこの条件を飲むことにする。北斗座閉館のお知らせを告知すると、さすがに長い歴史をもつ劇場なだけあって、皮肉なことに名残惜しみのお客さんがけっこう入るようになる。うちって、こんなに客さんがいたんだ……と呆気にとられる娘、別れを惜しむ電話も頻繁にかかってくる、好ましく思っていなかった北斗座を名残惜しむ声に娘はなんとも複雑なくすぐったい心境で対応する、またしても電話が鳴り、たじたじしながら対応にあたろうとすると、こんどは聞きなれた声、いつもやり取りしている配給会社の担当さんである「残念ですけど、長いあいだご苦労様でした。今日、最後のプリントが届くはずですから」「こういうことになってしまいましたけど、長いあいだお世話になりました……」その日の終映後、最後のプリントをチェックしていた映写師があることに気がつく。運命のいたずらか、配給会社の粋な計らいか、三本立てのうちの一本がなんと、その昔にイヴが主演した日活ロマンポルノのデビュー作だった! 中原俊の『イヴちゃんの花びら』1984年。おつかれさまでーす、と帰ろうとするイヴを映写師が引き止めて、いまから特別試写会を行います。なにが何だかわからないイヴを、いいから、いいからと劇場内に入れ、北斗座のスクリーンに若かりし頃のイヴが映し出される。スクリーンのなかのイヴはとっても楽しそうに瑞々しい芝居をみせていて、だだっ広い劇場の真ん中に並んで座る映写師の男と年をとったイヴが夢中になってスクリーンを見つめている。やがて、恒例の濡れ場のシーンになって二人の身体は疼きはじめる。濡れ場のスクリーンを背景に濡れ場が演ぜられる。こんなに美しいショットがあっていいの?! 劇映画でありながら映画館をめぐるドキュメンタリーでもあり、イヴという役者をめぐるドキュメンタリーでもある。ピンク版ニュー・シネマ・パラダイス!!!! 夜が明けて、北斗座の入口には「やめるのやっぱりやめました」完!!!!
   『走れ、走りつづけよ!(爛熟性欲 うずく)』 佐野和宏 55分 1991年 国映
ケイズシネマ、ピンク四天王特集にて。佐野和宏が監督 & 主演。無軌道でいい加減な若者たちがヤクザと闘う、説明はこれだけで充分。堂々と監督 & 主演を張れる人間といえば、東にオーソン・ウェルズがいて、西にイーストウッドがいて、北に北野武がいて、南に佐野和宏がいる。だらしのない男を演じさせれば佐野の右にでるものはいない。だらしがないけど、なんか憎めなくて、なんか筋が通っている。もちろん監督みずから濡れ場も演ずるよ、それもとびきりの長回しで。この面々に田中絹代とか古澤健とかも加えたいけれど、出たがりな監督というのはことごとくみんなドMなんだね。そんなこんなで佐野も最後に殺されちゃうんだけど、殺されてもタダでは殺されないのがピンク四天王の維持! エンディングのクレジットロールがはじまると、なんと生き返っちゃうだね、そして走りはじめる、どこまでも走りつづける!!!! 走れ、走りつづけよ!!!!
  『東京ダダ ~no more, never more(発情不倫妻)』 佐野和宏 57分 1991年 国映
佐野和宏の監督 & 主演。これはピンク映画ファンに怒られても仕方がないなぁと。舞台挨拶で佐野が恥ずかしながら赤裸々に告白していたけれど、ミケランジェロ・アントニオーニを意識していたと、そんなことをバラしちゃう茶目っ気もまた佐野和宏を好きになっちゃう憎めなさ。たしかに砂丘での濡れ場の撮影の美しさは古代ギリシャの石膏像のような高尚の域に達しているような気がするけど、いやいやいや、それだけにとどまらないえげつなさも孕んでいる。色とりどりのペンキを身体全身に塗りたくりながらの濡れ場はゴダールの『気狂いピエロ』のさらに先をゆく。
  『ふくろうの夏(熟女のはらわた 深紅の裂け目)』佐野和宏 60分 1997年 国映
佐野和宏の監督 & 主演。ていうか佐野映画はだいたい夏だなぁ。夏が好きなんだなぁ。何とかっていう人のふくろうの詩をモチーフにしたのと、佐野の子供時代に家の近所でよくふくろうが鳴いていて、悪いことをするとふくろうに攫われちゃうよと親に言われたこともモチーフになっているという。ヤクの密売人の佐野が恋人に密告され、脱獄するところから物語がはじまり、山中での逃走の最中にパパ活旅行中の女が男に襲われそうになるのを「俺は無理やりってのは好きじゃないね」って救うところから物語が動きはじめる。佐野とパパ活の女の奇妙な珍道中。山中の空き物件を勝手にこじ開けて寝泊まり、ここでの仲を深める会話と蝋燭の火の撮影があまりにも美しい。翌朝、内見のお客さんと不動産屋さんが入ってきて、お客さんと不動産屋さんが情事にいたる、その隙に車を勝手に拝借。車で東京に戻ってチャカをゲット。その足でじぶんを売った恋人を殺しにいこうとするけれど、恋人は妊娠していて撃てず(パパ活の女をその様子を藪中から盗み見している)、その足で空き物件まで車を返しにいく(車内では、お腹の子供は俺の子かなぁ/そうよ、きっと、アンタの子よ)。ヤケクソの佐野は、その朝、ふしだらにも不動産屋さんを誘った女に「俺にもやらせてくれよ」と迫る。拒む女を無理やり犯そうとする佐野、そんな佐野にパパ活の女が震えながらチャカを突き付ける「無理やりは好きじゃないって言ったじゃない!」誤って発砲してしまう。撃たれた佐野は腹を押さえて倒れながら「全員解散!」を告げる、そんな様子をふくろう木の上からジッと見つめている。すでに息絶えたかと思われた佐野は「ちょっとションベンしたくなったな」と呟き、起き上がって立ちションベンをしながら息絶える。一年後、田舎の道端で、パパ活の女と生まれたばかりの赤子を抱く佐野の恋人がたまたま鉢合わせる。ちょっとした会話(可愛い赤ちゃんですね、いくつですか/もうすぐで一歳です/ちょうどこの子が生まれた頃、私もここらへんに来てたんですよ)。過ぎ去ってゆく母子のすぐ後ろを佐野が歩いていて、一瞬だけちょびっとパパ活の女に振り返る。まぁ、泣いた。そしたら舞台挨拶で、佐野も久しぶりに観て泣いてしまったという。じぶんの優しさに泣いた、と。
  『聖処女縛り』渡辺護 60分 1979年 新東宝
いわゆる緊縛もの。色々と足らない状況下でどうにか日活ロマンポルノの域まで到達しようとする気概を感じる。1カットだけ、目に焼き付いて離れない素晴らしい緊縛ショットがある。
  『過剰性欲 エッチな遊び』渡邊元嗣 60分 1991年 新東宝
この統率のとらなさ。劇映画というものは、目には見えにくい役者をめぐるドキュメンタリーでもあるわけだけど、統率をとらない劇映画ほど、このドキュメンタリー性が露わになってくる、そんな際々をひたすら攻めてゆく。ピンク四天王組常連の伊藤清美が役者として締めるところは締めるかと思いきや、さすが伊藤清美、早々にこの映画の質感を理解してギリギリ締めるべきところは締め、そうでないところはほとんど素に委ねているような感がある。この統率のとらなさ、いったいなんだろう、ピンク版『おかあさんといっしょ』とでもいうような楽しいわちゃわちゃ感。大人になれないバカみたいな大人たちが無意識に? 意図的に? おくる幼稚園児のお遊戯会と運動会。何故か男の娘にな��ちゃう無茶苦茶な結婚式も最高だし、最後の踊りは幸せすぎる~!
  『豊乳教師 おあずけ補習』加藤義一 60分 2009年 OP映画
I must be changed!! 少子化で私立高校の経営は大変、校長からクラスの成績を上げないとクビー! を宣告されてしまう。もう、結婚しちゃおっかなって思ったら同棲中の彼氏も会社をクビになるの憂き目に遭う。それだったら、私が変わらないと! いかにもピンク映画らしい前向きなパワーに溢れた佳作。まずは成績最下位の男子を叩き直してクラスの平均点を底上げよ! 授業にも出てこないあいつの家に押し掛けて……、成績が上がった暁には先生のおっぱいを見せてくれるなら頑張ります……、……よしッ、わかった! そんないたいけな条件を受け入れちゃうあたりがいかにもピンクらしい、それはエッチという意味ではなくて、そんな条件を「受け入れられる」ということ、許容度の高さ、あたまの弱さと紙一重の「強さ」ということ。マンツーマンの指導で先生はいつしか生徒の成長を生き甲斐と感じるようになり、生徒のほうも先生のおっぱいを見るという目的のための手段だった勉強がいつしか目的になり、将来は先生のような先生になりたいと思いはじめる。いい感じ、いい感じって思ったら、こんどは成績トップの女子がお父さんの会社が倒産して学校を辞めると言いはじめる。これじゃあクラスの平均点が下がっちゃうし、そんな将来有望な生徒を放っておけないわ! お金のことなら心配いらないから、先生に任せてちょうだい。I must be changed!! 夜の仕事だって並行してこなすわよ!! じぶんがじぶんの目的のために頑張りはじめると、どうしたってすれ違う何かがある。彼氏はなかなか再就職できなくて、みずからの境遇をお荷物と感じるようになる。そんなこんなでクラスの平均点は向上していきながら、成績トップの女子は貧乏という境遇からイジメに遭うようになる。虐げられた者同士がインターネットを通じて惹かれ合うのにそうは時間はかからなかった。大学受験はみんな志望校に合格、校長からは来年度もよろしく、あの男子生徒のご褒美のためにおっぱいを見せにいったら、そんなのはもはや必要ないよね、次の目標ができました、先生のような先生になること、ご褒美はそのときまでお預けで! その夜、浮かれ気分(しばらくほったらしといてごめんね)で彼氏のためにビールとつまみを買って帰ると、そこには置き手紙が残されていた。ありがとう、ごめんなさい、僕は僕を必要としてくれているひとといっしょにどうにか頑張っていこうと思います。先生は一晩泣いて、翌日、学校に退職届けを出す。そして、より虐げられた生徒たちの集まる定時制高校に転任する。I must be changed!!
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cosmicc-blues · 3 years ago
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見ることのはじまりにむかって
暮れ間際、走行する自動車の後部座席から隣の空席をはさんで車窓の風景をぼんやり眺めていると、ふいに、これまで感じたことのない視点からものを見ていることに気がつく。窓というフレーム、自動車というひとつの箱、あるいは窓というひとつのカメラ。自動車が乗り物なのだとしたら、私たちの身体もまたひとつの乗り物であって、そこには心が乗車している。私たちの心が身体によって外界から隔てられているように、自動車に乗っている私たちは自動車という箱によって外界から隔てられている。窓はフレームであり、外界を映し出すカメラであるように、私たちの目もまた窓と同様の役割を果たしている。
ところで、窓の外側が外界と接しているように、私たちの目の表面もまた外界と接している。いっぽうで、私たちが窓ガラスを突き破れないのと同様に、私たちの心もまた目の外には出ていかれない、涙という例外はあるにしても。まずひとつとしてこのニュアンス、身体としての箱、自動車としての箱、あるいはカメラとしての箱は外界と接している、繋がっている、箱は外界の側に属している。
ここまでは何となく理解していた感覚で、これまで感じたことのない新たな視点というのは、窓というフレームに対する私の身体のポジションによってもたらされる。というのも私は窓から少し離れたポジションにいて、そうであるからには窓の外を見るのと同時に自動車という箱のなかを垣間見ることができる、この箱のなかには外部から放たれるほかの自動車のヘッドライトの光であるとか街の光であるとかが投影されている、外界の動きによって箱のなかも動いている、それを垣間見ることができる。同様のことが自動車という箱のなかにいる私の身体という箱のなかにいる私の心にも反映されてくる。私の身体が窓から距離をとることで、その空白地帯に外界の動きを投影する余地がうまれるように、私の身体のなかにも余白がうまれる。この余白というイマージュは『宴会』における未玲ちゃん、すなわち意識を持ちはじめた空気人形に近いような感じがする。ある意識の芽生えから空気人形の身分でありながら外界に働きかけようとする未玲ちゃん、このメンタリティーは遥かはるかの大昔の海においてまだ物質だった何ものかが何かの弾みで原始生物としての第一歩を踏み出したのにも似ているような気がする。すべてが剥き出しの外界でしかなかった時代に、外界から切り離された内界をつくりだし原始の世代の……。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2022/1/31
佐野和宏の監督主演 & 闘病からの復帰作となる『バット・オンリー・ラブ』。咽頭がんで声帯を失ったのなら、それを長所に映画を撮っちゃう気合いの入り様はほんとうに切に見習っていきたい!! 冒頭の佐野和宏の可愛さが半端なくて、事件が起こってからの落差がまた半端なくて、役者・佐野和宏の凄みを思い知らされる。
本来なら説話的にもたつきを生むはずのマグネットペンの存在がいちいち活劇になっている。言葉を書かずともマグネットペンで音を立てるのにはじまり、言葉が書かれた場合においても、それをどう処理して観客にわからせるかってことがいちいちスリリングになっている。言葉がじっさいにカメラに映されることはほとんどなくて、あの手この手でこの問題をすり抜けていくし(けっして問題を解決するのではなく、さも問題なんてそもそもなかったかのようにすり抜けていくし)、その一環として最後のほうに娘の口から感動的な台詞が導き出されている。こんなの泣かずにはいられない。
劇場が明転して、列にならって出口に歩いていると、出入口のところで佐野和宏が「ありがとうございます」と書かれたマグネットペンを持って一人ひとりにイイ笑顔で挨拶している。これまたなんて素敵なことをしてくれるんだと思いつつ、一昨日の舞台挨拶で「ピンク映画への差別的な見方を見返したくて泣ける映画を撮りたかった」と今泉が代弁していたのを思い出して、じっさいにこんこん泣いてしまったし、挨拶のさいに人差し指で両目を下を縦になぞる。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2022/1/29
今日から楽しみにしていたピンク四天王の特集。ピンク四天王は瀬々敬久しか観たことがなくて、ほかの3人は佐藤が2人に佐野が1人と、なんか名前が似ていて紛らわしいから名前もろくろく記憶していない。ピンク四天王というのは、日活ロマンポルノ終焉後の時代に現れた、いわば成人映画におけるヌーヴェルヴァーグのようなものだったという。と、いうのは現在からの位置づけで、彼らがデビューした1980年代後半には、まだそれなりに成人映画館にお客がついていて、このお客は純粋にポルノを求めていたからには、作家性が前面に出すぎるあまりにポルノ感の希薄な映画にはお客がつかない。それ故に成人映画ファンや劇場の側から排斥され、監督名を変えたりしながら映画を作っていたというからには、ピンク四天王という呼ばれは実はナチュラルに蔑称だったという。
ピンク四天王特集の前に、予告編でなんとなく気になっていた山嵜晋平の『なん・なんだ』を観る。予告編にもあった「わたし、どっちとも別れないから」っていう最高にイカした台詞に、くそじじい二人による最高の殴り合い! 老人映画ということも相重なってイーストウッドの『クライ・マッチョ』とも共鳴する映画ってこんなもんだろ感! それよりも何よりも、この映画には癌で声帯を切除して発声のできない老人が登場する。発声できないからiPadに文字を書いてそれを見せたり、肉のある声は出せないけれど、肉のないカサカサ声は辛うじて言うことはできて、何を言っているのかはほぼわからないながら、劇中のひとたちはその声にならない声を聞くためにいちいち彼に過剰に接近しなければならなくて、それがいちいち活劇を生んでいる。あと、佐藤真の『SELF AND OTHERS』を劇映画に援用したような演出にも頭が下がる。そして舞台挨拶、監督がコロナ?になり、急遽、演者のひとりが代役として登壇する。この代役というのがまさに癌で声帯を切除した老人役のひとで、個人的におおっとなると同時に、なんか壇上の下を幼子のような顔つきをした初老の男性がふらふらしていて、なんだ、なんだ、となる、ちょうどフィッシュマンズの佐藤伸治が歳をとったような。舞台挨拶の進行をつとめる方が声帯のない老人役を佐野和宏さんとして紹介して、え?! っとなる。まさかのピンク四天王のひとりの佐野? と同時に進行役のひとが佐藤伸治みたいのひとにマイクを手渡しながら壇上にあげて、佐藤伸治みたいなひとが佐藤伸治みたいなふわふわした、とても真面な大人の声とは思えない白痴のような声色で「佐野さん代役をつとめさせていただく今泉です」と喋りはじめる。代役の代役?! 何にも知らなかったけれど、声帯のない老人役を演ずる佐野和宏はピンク四天王の佐野で、ほんとうに癌で声帯を切除して発声できないから佐藤伸治みたいな今泉が代わりに喋るということがようやく理解できる。佐野は手にしているおもちゃのマグネットペンで文字を書き、それを今泉に見せて、今泉がそれを発声する。佐野が文字を書くたびに、進行役と、今泉と、トークの相手が佐野のまわりにいちいち集結しなければならなくて、その、いちいちの面倒くささに、いちいち涙がこぼれてくる。しかも、声の代役をつとめる今泉は幼子のようなひとだから、文字を拾って喋っていてもなんかよくわからない、小さなおもちゃのマグネットペンだから文字も足らないし、それを翻訳する今泉の言葉も赤子の言葉のように足らない。佐野はそんなもどかしさを愛でるように目を細めて微笑んでいて、たまに今泉にマグネットペンでツッコミを入れたりする。個人的に思い出さずにはいられないのは『宴会』という小説に登場してもらった「さっちゃん」のこと。聾唖のさっちゃんはいつもマグネットペンを持っていて、時折それで他者とコミュニケーションをとる。まるで、あのさっちゃんが具現化して目の前に現れたような!
数十分の休憩を挟んで、ピンク四天王特集の上映前舞台挨拶がはじまる。左から佐藤寿保、佐野和宏、瀬々敬久、サトウトシキの順で壇上に立つ。司会進行をつとめるひとは昔どこかの劇場の支配人だったらしく、四人と深い親交があり、とにかく話がしっちゃかめっちゃかで何を言わんとしているのかさっぱりわからないが、とにかく色んなことを喋っている。佐藤寿保から挨拶がはじまる。司会進行のひともあれだったけど、佐藤寿保のはなしも支離滅裂で、支離滅裂というより、話としての体裁が整えられるより先に次々と言葉が流出してしまうようなはなしぶりで、まるで癇癪持ちのひとのように言葉を発しながら常にからだが小刻みに振動している。つづく佐野和宏は例の通り今泉が代役をつとめ、瀬々敬久、サトウトシキに続く。けっきょく、辛うじてまともに喋れていたの瀬々くらいで、サトウトシキも話しぶりは穏やかながら、色々言い過ぎてじぶんでも何のはなしをしているのかわからなくなってしまう。なんか全員はなしたいという欲望が強すぎてはみ出ちゃっている。絶えず欲望が流出している。佐野と今泉はほかのひとが喋っている最中にもマグネットペンでわちゃわちゃと筆談を交わしていて、昔を思い出して何かしんみりすることでもあったのか、今泉が佐野の肩を親身に抱き撫でたりしている。天使たちがいるなって思う。涙が出てくる。
大学を出たての新人監督のほうがよっぽどまともな舞台挨拶する。こんなひとたちを壇上に上げちゃいけないよ! って思う。ゲージュツが芸術として有り難がられる時代にこんなひとたちを壇上に上げちゃいけないよ! ここにあるのは正真正銘の見世物だと思う。ツィゴイネルワイゼンのめくらの旅芸人がそうだったように、見世物っていうのは社会の爪弾き者とか穀潰し者に唯一残された食扶ちを稼ぐ方法であって、それは卑しくも自らを観衆の目に晒すことで達成される、観衆はそんな彼らを憐れんでお金を落とす。だから、ゲージュツが芸術として有り難られる時代にこんなひとたちを壇上に上げちゃいけないと切に思う。ゲージュツが芸術として有り難られてしまう、そんなのは彼らにとってあまりにも酷なはなしだと思う。彼らはある覚悟をもって卑しくも人目に自らを晒している、爪弾き者として、穀潰し者として。はたして芸術と言われるものにその卑しさを受け入れる覚悟があるのか、どうか。誰もそんなの望んでいないものを作り続ける覚悟があるのか、どうか。
一本目、佐藤寿保の『視線上のアリア(浮気妻 恥辱責���)』。
二本目、サトウトシキの『タンデム(痴漢電車人妻篇 奥様は痴女)』。
三本目、佐野和宏の『海鳴り 或いは波の数だけ抱きしめていられるか、アホンダラ!(集団痴漢 人妻覗き)』
()は封切り時のタイトルで映画のスクリーンには()のタイトルが映される。
『視線上のアリア』と『海鳴り』には単独で舞台挨拶があって、『視線上のアリア』は上映後に監督と主演の伊藤清美、『海鳴り』は上映前に監督と出演の今泉浩一が登壇する。『海鳴り』では若かりし頃の佐野と今泉の姿が観られ、『視線上のアリア』ではスクリーンのなかでは若かった伊藤清美が老女になって登壇する。今泉も相当だったけれど、伊藤清美もかなり相当はみ出ちゃっている。まず壇上をふらふら動き回るし、マイクを持っているんだけど、手足を動かしながら喋ることに夢中でマイクがいちいち口から離れてしまう。でも小さな劇場だからどっちみち声はきこえて、でも肝心の話の内容はまったく何を言っているのかよくわからないから思い出すこともできない、あまりにもじぶんだけの言葉でありすぎるから。だけど、それは詩みたいなもので、意味不明でもなんか不思議と伝わってくるんだ。佐野&今泉はさっきの舞台挨拶の失敗から、事前にロビーで作戦会議をしていて、佐野がノートに書きつけた言葉を今泉にマグネットペンで説明していたことが今泉によって話さられる。いわく、ある夏の日に海辺で焚火をしながら宴会をしている集団がいた。この騒ぎのパワーはどこから来て、どこへ向かうのか、それを一本の映画にしたいと思って作ったのがこれから上映される映画です。この映画には音楽がいっさいありません。その代わりに、この映画には様々な音があります。それは、蝉の鳴声であったり、風鈴の音であったり、波の音であったり、それらがこの映画を音楽として彩っています。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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我偏愛的電影2021
2021年度版。白黒とカラーからそれぞれ。いかにじぶんが映画を観ていないかを悟るための恥ずかし企画。以下の13項目は重視しているらしいポイント。数字の後ろに〈特〉が付いているのは以下の要素が特に際立っていると思われたもの。国は制作国というより監督の出身地。同監督作から3本まで、このルールが破られている場合にはやんごとなき事情がある。
 ①とにかく気合の入った映画たち
②底抜けて明るい映画たち
③逆境に強い映画たち
④容赦のない映画たち
⑤真実に配慮ある映画たち
⑥優しさのある映画たち
⑦踊る映画たち
⑧強度のある映画たち
⑨出鱈目な映画たち
⑩聡明な映画たち
⑪すれ違う映画たち
⑫チャーミングな映画たち
⑬嘘をほんとうにする映画たち
 注釈
①特になると怪力とか神通力とかいったものが顕在化してくる
②底抜けの明るさには寂しさが付き纏うこともある
③物語的な逆境にととまらず制作過程における逆境についてでもある
④狭い所で刀を振り回すな!
⑤映画は基本的に嘘であるという立場に依拠している
⑥登場人物の優しさにとどまらず演出における優しさでもある
⑦たんに踊るというだけではなく身体の動き一般を指す
⑧たとえば、何らかの境界線を超えてくるもの
⑨文字の通り
⑩たとえば、世のことわりを理解しこれを映画に援用しているもの
⑪人と人とのすれ違いばかりではなく個々人の心のなかですれ違う何かもある
⑫チャーミングとは程遠そうな映画がチャーミングになることもある
⑬文字の通り
 白黒
仏『ジュ���ックス』 ルイ・フイヤード 1916 300分 ①③④⑥⑤⑦⑧⑨特⑫
米『マルクス兄弟デパート騒動』 チャールズ・F・ライスナー 1941 83分 ①②⑥⑦⑨特⑫⑬
日『鴛鴦歌合戦』 マキノ雅弘 1939 69分 ①②⑤⑦⑨⑫
日『王将一代』 伊藤大輔 1955 116分 ①特③④⑧⑨⑪
日『コントラ』 アンシュル・チョウハン 2019 143分 ①特③⑧特⑨
米『星を持つ男』 ジャック・ターナー 1950 89分 ①②③特⑥
仏『奥様は魔女』 ルネ・クレール 1942 77分 ②⑨⑩⑪⑫⑬
米『周遊する蒸気船』 ジョン・フォード 1935 82分 ①②⑤⑥⑨⑩⑫
日『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』 山中貞雄 1935 92分 ②⑥⑧⑨⑪特⑫
日『晩春』 小津安二郎 1949 108分 ⑦⑧⑩特⑪
仏『素晴らしき放浪者』 ジャン・ルノワール 1932 84分 ②⑥⑩特⑪⑫
米『踊らん哉』 マーク・サンドリッチ 1937 108分 ②⑦⑩特
独『街角 桃色の店』 エルンスト・ルビッチ 1940 97分 ⑤特⑥特⑪
日『㊙色情めす市場』 田中登 1974 83分(パートカラー作品)①③⑦⑧特⑨⑪
メ『皆殺しの天使』 ルイス・ブニュエル 1962 95分 ①⑤⑨⑩特
日『下郎の首』 伊藤大輔 1955 97分 ①特③⑦⑧⑫
日『簪』 清水宏 1941 71分 ①⑥⑧⑪特
米『マルクス兄弟オペラは踊る』 サム・ウッド 1935 91分 ②⑥⑦⑨⑩
米『気儘時代』 マーク・サンドリッチ 1938 82分 ②⑤⑦⑨特
日『長野紳士録』 小津安二郎 1947 72分 ①特⑦特⑧⑩⑪
仏『ル・ミリオン』 ルネ・クレール 1931 83分 ②⑦⑫
日『風の中の牝鶏』 小津安二郎 1948 84分 ①特③④⑧⑩
米『タバコ・ロード』 ジョン・フォード 1941 84分 ②特⑦⑨
独『サンライズ』 F・W・ムルナウ 1927 90分 ⑦⑧⑨⑫
米『空中レヴュー時代』 ソーントン・フリーランド 1933 89分 ①特②⑦⑨
日『弥次喜多道中』 斎藤寅次郎 1956 80分 ②⑦⑨⑫
米『脱獄者の叫び』 ジョセフ・H・ルイス 1953 80分 ⑫特
米『悪魔とミス・ジョーンズ』 サム・ウッド 1941 92分 ①特②⑥⑦⑨
米『素晴らしき休日』 ジョージ・キューカー 1938 95分 ①特②⑥⑦⑨
日『蜂の巣の子供たち』 清水宏 1948 86分 ①⑤特⑥
仏『犯人は21番に住む』 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 1943 90分 ⑧⑨⑫
韓『下女』 キム・ギヨン 1960 108分 ①特⑧⑨⑩
オ『真人間』 フリッツ・ラング 1938 94分 ①⑥⑧⑨⑩⑫
日『有りがたうさん』 清水宏 1936 78分 ⑥⑩特
リ『ロストロストロスト/何もかも失われて』 ジョナス・メカス 1976 176分 ①⑩特
米『秘密捜査員』 ジョセフ・H・ルイス 1949 85分 ①⑥特
日『けんかえれじい』 鈴木清順 1966 86分 ①⑧⑨⑫ 
独『ニノチカ』 エルンスト・ルビッチ 1939 110分 ②⑥⑪⑫
米『マルクスの二挺拳銃』 エドワード・バゼル 1940 81分 ①②⑤⑬特
日『麦秋』 小津安二郎 1951 124分 ⑧特⑩⑪
米『幌馬車』 ジョン・フォード 1939 99分 ①②③⑥⑧特⑫
米『ロバータ』 ウィリアム・A・サイター 1935 85分 ②⑦⑨
日『花の渡り鳥』 田坂勝彦 1956 80分 ①②⑧⑫
米『マルクス兄弟珍サーカス』 エドワード・バゼル 1939 86分 ①②⑨⑫
独『生活の設計』 エルンスト・ルビッチ 1933 90分 ②⑥⑨
米『踊る騎士』 ジョージ・スティーブンス 1937 101分 ②⑦⑨
ス『ゲスト』 ホセ・ルイス・ゲリン 2010 131分 ⑧特
米『フィラデルフィア物語』 ジョージ・キューカー 1940 112分 ①②⑨
露『陽気な連中』 グレゴリー・アレクサ 1934 95分 ①②⑨
米『トップ・ハット』 マーク・サンドリッチ 1935 99分 ②⑥⑦⑨
米『春の珍事』 ロイド・ベーコン 1949 87分 ⑨特
独『ちょっとフランス風』 ダグラス・サーク 1949 81分 ②⑦⑩
米『七月のクリスマス』 プレストン・スタージェス 1940 68分 ①②⑨
日『勘太郎月夜唄』 田坂勝彦 1952 77分 ⑥⑩
米『危険な場所で』 ニコラス・レイ 1951 82分 ④特⑧
露『戦争のない20日間』 アクセレイ・ゲルマン 1976 102分 ⑧特
仏『情婦マノン』 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 1948 105分 ①特④⑧
日『弥次喜多道中記』 マキノ雅弘 1938 97分 ②⑨
仏『どん底』 ジャン・ルノワール 1936 95分 ②特⑥⑨
オ『緋色の街』 フリッツ・ラング 1945 102分 ④特⑧
米『結婚五年目』 プレストン・スタージェス 1942 89分 ①②⑨
デ『ゲアトルーズ』 カール・テオドア・ドライヤー 1964 118分 ⑩特⑪
オ『闇に浮かぶ犯罪』 フレッド・ジンネマン 1942 80分 ①②⑧⑨⑩
米『泣き笑いアンパイア』 ロイド・ベーコン 1950 78分 ①②⑨
米『街の灯』 チャールズ・チャップリン 1931 86分 ②③⑥⑦
米『赤ちゃん教育』 ハワード・ホークス 1938 112分 ①②⑨
米『ラスティ・メン / 死のロデオ』 ニコラス・レイ 1952 113分 ①④⑧
米『オクラホマ・キッド』 ロイド・ベーコン 1938 85分 ⑥特
米『テキサス』 ジョージ・マーシャル 1941 84分 ⑧特
伊『神の道化師 フランチェスコ』 ロベルト・ロッセリーニ 1950 85分 ①⑧⑨
米『アダム氏とマダム』 ジョージ・キューカー 1949 101分 ①④特
米『レッドボール作戦』 バッド・ベティカー 1952 83分 ⑫特
日『柳生連也斎 秘伝月影抄』 田坂勝彦 1956 85分 ⑧⑩
米『野生の叫び』 ウィリアム・A・ウェルマン 1935 81分 ①⑥
米『ボーン・イエスタデイ』 ジョージ・キューカー 1960 103分 ①⑨
独『丘の雷鳴』 ダグラス・サーク 1951 84分 ③④⑤⑥⑩特
仏『幸福の設計』 ジャック・ベッケル 1946 95分 ①②⑦⑨
独・仏『忘れじの面影』 マックス・オフュルス 1948 87分 ①特②特④⑪
米『スミス夫妻』 アルフレッド・ヒッチコック 1941 95分 ①②⑥⑨
米『有頂天時代』 ジョージ・スティーブンス 1936 102分 ②⑥⑦⑨
オ『飾窓の女』 フリッツ・ラング 1944 103分 ④⑥⑫
仏『巴里祭』 ルネ・クレール 1932 92分 ①②④⑨
米『有名になる方法教えます』 ジョージ・キューカー 1954 86分 ①②⑨
仏『ランジュ氏の犯罪』 ジャン・ルノワール 1936 80分 ①⑧⑨
米『キャット・ピープル』 ジャック・ターナー 1942 73分 ①⑧
日『風の中の子供』 清水宏 1937 86分 ①②③④⑥
米『カブスのエースは言い訳好き』 レイ・エンラント 1935 72分 ②⑨
米『レディ・イブ』 プレストン・スタージェス 1941 93分 ②⑨⑬
グ『歌うつぐみがおりました』 オタール・イオセリアーニ 1970 82分 ⑧⑨
米『スウィート・シング』 アレクサンダー・ロックウェル 2020 91分(パートカラー作品) ③⑤⑬
米『西部を駆ける恋』 ウィリアム・A・サイター 1943 86分 ①②⑧⑨
米『牧場の花嫁』 ジョージ・マーシャル 1950 89分 ①②⑧⑨
米『愛の弾丸』 ジョージ・スティーブンス 1935 88分 ①②⑥特⑧⑨
米『コンチネンタル』 マーク・サンドリッチ 1934 107分 ②⑥⑦⑨
独『わが望みのすべて』 ダグラス・サーク 1953 79分 ③④⑤⑩
米『アリゾナのバロン』 サミュエル・フラー 1950 97分 ③特⑥特
仏『罪の天使たち』 ロベール・ブレッソン 1943 96分 ①特⑦
独『幻の女』 ロバート・シオドマク 1944 87分 ①④⑤⑩
米『狩人の夜』 チャールズ・ロートン 1955 93分 ⑧⑨
米『女群西部へ!』 ウィリアム・A・ウェルマン 1951 118分 ①特⑦
独『らせん階段』 ロバート・シオドマク 1946 83分 ⑦特
日『河内山宗俊』 山中貞雄 1936 82分 ①④⑥⑧⑩
米『奥様は顔が二つ』 ジョージ・キューカー 1941 94分 ①②⑦⑬
米『聖メリーの鐘』 レオ・マッケリー 1945 126分 ②⑥⑫
仏『アタラント号』 ジャン・ヴィゴ 1934 101分 ②⑧⑫
米『モンキー・ビジネス』 ハワード・ホークス 1952 97分 ①②⑨⑫
米『異国の出来事』 ビリー・ワイルダー 1948 117分 ⑤⑫
フィ『カラマリ・ユニオン』 アキ・カウリスマキ 1985 80分 ①⑧⑬
仏・独『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』 ストローブ=ユイレ 1967 94分 ①⑧⑩
米『タイムリミット25時』 ハロルド・クルアーマン 1946 83分 ①②⑥ 
日『おぼろ駕籠』 伊藤大輔 1951 93分 ①④⑦⑪
独『ステキなパパの作り方』 ダグラス・サーク 1951 83分 ①②⑥⑨
米『大雷雨』 ラオール・ウォルシュ 1941 105分 ①②⑪
米『サリヴァンの旅』 プレストン・スタージェス 1941 90分 ⑧⑨
伊『ベリッシマ』 ルキノ・ヴィスコンティ 1951 115分 ⑤⑧
米『孤独な場所で』 ニコラス・レイ 1950 93分 ④特
  カラー
日『ハッピーアワー』 濱口竜介 2015 317分 ①④⑥⑦⑧⑨特⑩⑪
日『親密さ』 濱口竜介 2012 255分 ①③④⑤⑥⑧⑩⑪特
台『牯嶺街少年殺人事件』 エドワード・ヤン 1991 236分 ①③④⑧特⑩⑪
ス『シルヴィアのいる街で』 ホセ・ルイス・ゲリン  2007 85分 ⑧特⑨⑩特⑪
日『雪の断章 情熱』 相米慎二 1985 100分 ①特②③④⑥特⑦⑧⑨⑪
日『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』 森崎東 1985 105分 ①特②③④⑥特⑧⑨⑪
韓『死んでもいい経験』 キム・ギヨン 1995 95分 ①特⑧⑨特
無『コッポラの胡蝶の夢』 フランシス・フォード・コッポラ 2007 124分 ①⑤⑨⑩⑬
日『東京上空いらっしゃいませ』 相米慎二 1990 109分 ①②③⑦⑨⑪特
中『ヒーロー・ネバー・ダイ』 ジョニー・トー 1998 97分 ①⑥特⑨⑫特
仏『恋の秋』 エリック・ロメール 1998 112分 ⑥⑧⑨⑩
日『ベッド・パートナー』 後藤大輔 1988 72分 ①②③⑥⑦⑧⑨⑬
中『俠女』 キン・フー 1971 187分 ①⑦⑧⑨⑫
日『ラブホテル』 相米慎二 1985 88分 ①③④⑥⑧⑨⑪特
日『紅の豚』 宮崎駿  1992 91分 ①②⑥⑦⑨⑪特⑬
米『ドノバン珊瑚礁』 ジョン・フォード 1963 109分 ①②⑥⑦
日『女咲かせます』 森崎東 1987 94分 ①②③⑥⑦⑨
米『無責任時代』ウィリアム・A・ウェルマン 1937 76分 ①②⑦⑨
日『彼岸花』 小津安二郎 1958 118分 ①⑥⑧⑩⑬特
日『秋日和』 小津安二郎 1960 128分 ①⑥⑧⑩⑬特
日『秋刀魚の味』 小津安二郎 1962 113分 ①⑥⑧⑩⑫
独『天はすべて許し給う』 ダグラス・サーク 1955 89分 ④⑥⑧⑩
米『グラン・トリノ』 クリント・イーストウッド 2008 117分 ①④⑥
伊『夕陽のギャングたち』 セルジオ・レオーネ 1971 156分 ①②③⑪
リ『ライフ・オブ・ウォーホル』 ジョナス・メカス 1990 36分 ⑥⑧
ス『マルメロの陽光』 ヴィクトル・エリセ 1992 139分 ⑧特
日『ロケーション』 森崎東 1984 99��� ①③⑥⑨⑬
リ『ウォールデン』 ジョナス・メカス 1969 180分 ⑥⑧
米『グレイ・ガーデンズ』 メイズルス兄弟 1975 94分 ①②④⑤⑥⑦⑨
日『ツィゴイネルワイゼン』 鈴木清順 1980 145分 ①⑧⑨
伊『あんなに愛しあったのに』 エットレ・スコーラ 1974 123分 ①⑥⑦⑧⑨⑪
日『あの夏、いちばん静かな海。』 北野武 1991 101分 ①④⑥⑩⑪
仏『赤い夜』 ジョルジュ・フランジュ 1974 105分 ①特⑨特
米『ビッグ・フィッシュ』 ティム・バートン 2003 125分 ②⑥特⑬特
マ『タレンタイム〜優しい歌』 ヤスミン・アフマド 2009 115分 ①⑥特⑩
米『トップガン』 トニー・スコット 1986 110分 ①②③
日『てなもんやコネクション』 山本政志 1990 120分 ①特②③⑨
米『天使にラブソングを2』 ビル・デューク 1994 107分 ①⑥⑦
日『母娘監禁 牝』 斉藤信幸 1987 75分 ①②③④⑥⑨⑫
日『鉄塔 武蔵野線』 長尾直樹 1997 115分 ⑧特⑪
米『フィールド・オブ・ドリームス』 フィル・アルデン・ロビンソン 1989 107分 ⑥⑨⑬特
日『月夜釜合戦』 佐藤零郎 2018 115分 ①特②③⑤⑥⑦
日『勝手にしやがれ!!黄金計画』 黒沢清 1996 80分 ①②⑨
米『ナイト&デイ』 ジェームズ・マンゴールド 2010 109分 ①②⑤⑨⑫
米『ゴースト・オブ・マーズ』 ジョン・カーペンター 2001 115分 ①②④⑨⑫
日『喜劇 特出しヒモ天国』 森崎東 1975 78分 ①特②⑥⑦⑨
イ『友だちのうちはどこ?』 アッバス・キアロスタミ 1987 85分 ①④⑤⑧⑩
仏『フレンチ・カンカン』 ジャン・ルノワール 1954 102分 ③⑥⑦⑨
日『浮草』 小津安二郎 1959 119分 ④⑥⑧⑩
伊『ニュー・シネマ・パラダイス』 ジュゼッペ・トルナトーレ 1989 175分 ⑥⑪特
日『翔んだカップル』 相米慎二 1982 120分 ①②⑤⑦⑪
米『ピーウィーの大冒険』 ティム・バートン 1985 92分 ②⑥⑨⑫
米『ダージリン急行』 ウェス・アンダーソン 2007 91分 ⑥⑨⑬特
日『ソナチネ』 北野武 1993 94分 ⑥⑧⑩
ベ『夏至』 トライ・アン・ユン ②⑧
伊『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』 セルジオ・レオーネ 1984 205分 ①④⑥⑪特 
米『運び屋』 クリント・イーストウッド 2018 116分 ④⑥⑩
日『愛欲の罠』 大和屋竺 1973 73分 ①③⑦⑨特
日『アカルイミライ』 黒沢清 2002 115分 ①⑥⑧⑨
中『ターンレフト ターンライト』 ジョニー・トー 2002 92分 ①⑤⑥⑨⑫
日『ルパン三世 カリオストロの城』 宮崎駿 1979 100分 ②⑥特⑦⑨
日『制服肉奴隷』 すずきじゅんいち 1985 65分 ①③④⑥⑧特⑨
日『青空娘』 増村保造     1957 89分 ①②特③④
ポ『溶岩の家』 ペドロ・コスタ 1994 110分 ⑦⑧
台『ヤンヤン 夏の思い出』 エドワード・ヤン 2000 173分 ⑤⑥⑧⑪
日『夏の庭』 相米慎二 1994 113分 ⑥⑪⑬特
日『菊次郎の夏』 北野武 1999 121分 ②⑥⑩特
日『ピンクカット 太く愛して深く愛して』 森田芳光 1983 68分 ①②⑦⑨⑫
米『フェイク』 オーソン・ウェルズ 1975 89分 ①⑤⑨
仏『緑の光線』 エリック・ロメール 1985 98分 ②⑧⑩⑬
韓『美術館の隣の動物園』 イ・ジョンヒャン 1998 108分 ②⑥⑨
日『脳天パラダイス』  山本政志 2019 95分 ①⑥⑦⑨⑩特⑪特
米『大砂塵』 ニコラス・レイ 1954 109分 ④特
米『断絶』 モンテ・ヘルマン 1971 102分 ①⑧
日『ズームイン 暴行団地』 黒沢直輔 1980 68分 ①③⑦⑧特⑨
日『接吻』 万田邦敏 2006 108分 ①④⑥⑧⑩
日『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介 2021 179分 ①⑥⑦⑧⑩⑪特
日『黒薔薇昇天』 神代辰巳 1975 72分 ①②③⑦特⑨
独『天国は待ってくれる』 エルンスト・ルビッチ 1943 112分 ⑤⑥特
日『悶絶! どんでん返し』 神代辰巳 1977 73分 ①②③⑦⑨
米『不滅の物語』 オーソン・ウェルズ 1968 58分 ①⑤⑧⑨
仏『レネットとミラベル / 四つの冒険』 エリック・ロメール 1986 95分 ⑧特⑩
日『ヒン子のエロいい話』 城定秀夫 2011 93分 ②⑥⑨⑩特
日『さゞなみ』 長尾直樹 2002 112分 ⑧⑩
日『獣欲魔乱行』 瀬々敬久 1989 61分 ①②⑧
日『大地の子守歌』 増村保造 1976 111分 ①特②④⑧
中『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』 ジョニー・トー 2009 108分 ①⑥⑨
日『イヌミチ』 万田邦敏 2013 72分 ①⑧⑨
米『エスケープ・フロム・L.A.』 ジョン・カーペンター 1996 101分 ①⑨特
日『牝猫たちの夜』 田中登 1972 68分 ①③④⑥⑧特⑨⑩特
米『ザ・マミー / 呪われた砂漠の女王』 アレックス・カーツマン 2017 110分 ①⑨⑫
日『欲しがり奈々ちゃん ひとくち、ちょうだい』 城定秀夫 2021 70分 ①②③⑥⑨⑩特
米『コンタクト』 ロバート・ゼメキス 1997 150分 ①⑥
日『ロビンソンの庭』 山本政志 1987 119分 ①⑥⑧⑨⑩
日『愛のまなざしを』 万田邦敏 2020 102分 ①④特⑥⑦⑨⑩⑪
米『プリティ・リーグ』 ペニー・マーシャル 1992 125分 ①④⑥⑨
日『たまもの』  いまおかしんじ 2004 65分 ①②③⑥⑦特
日『三羽烏三代記』 番匠義彰 1959 90分 ①②⑥⑫
日『夢ニ』 鈴木清順 1991 128分 ①⑧⑨
米『コックファイター』 モンテ・ヘルマン 1974 84分 ①特④⑨
日『レイプハンター 通り魔』 加藤文彦 1986 69分 ①③④⑧⑩特⑪
日『地獄の警備員』 黒沢清 1992 97分 ①⑧⑨
日『怪異談 生きてゐる小平次』 中川信夫 1982 78分 ①⑧特⑩
日『危険旅行』 中村登 1959 99分 ②⑥⑫
日『㊙女郎市場』 曽根中生 1972 70分 ①②③⑥⑦⑨
中『長江哀歌』 ジャ・ジャンクー 2006 113 ①特⑨
日『絶頂姉妹 堕ちる』 黒沢直輔 1982 68分 ①③④⑧
露『不思議惑星キン・ザ・ザ』 オルギー・ダネリア 1986 135分 ①②⑨
ポ『コロンブス 永遠の海』 マノエル・ド・オリヴェイラ 2007 75分 ①⑨
ス『影の列車』 ホセ・ルイス・ゲリン 1997 82分 ⑧特
日『キラー・テナント』 古澤健 2020 80分 ①②③⑨⑫
中『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』 チン・シウトン 1987 93分 ②⑩
日『ギャングよ 向こうは晴れているか』 瀬々敬久 1996 28分 ①⑧特⑨
米『パーフェクト・ワールド』 クリント・イーストウッド 1993 138分 ①⑥⑪
日『光』 河瀬直美 2017 102分 ①③⑤⑥⑩
米『コラテラル』 マイケル・マン 2004 102分 ①⑥⑧⑪
日『脱獄 広島殺人囚』 中島貞夫 1974 97分 ①特②③⑨⑫特
米『紳士は金髪がお好き』 ハワード・ホークス 1953 92分 ①②⑦⑨
米『アンストッパブル』 トニー・スコット 2010 99分 ①⑧⑩
米『最前線物語』 サミュエル・フラー 1980 110分 ①⑥⑧⑫特
米『パラダイム』 ジョン・カーペンター 1987 103分 ①⑧⑨⑩
日『赫い髪の女』 神代辰巳 1979 73分 ①③④⑧⑨
米『戦火の馬』 スティーブン・スピルバーグ 2011 146分 ①③④⑥⑧⑩
ギ『蜂の旅人』 テオ・アンゲロプロス 1986 122分 ①⑨
日『愛欲の日々 エクスタシー』 磯村一路 1984 61分 ③⑥⑧⑨⑩
韓『グエムル 漢江の怪物』 ボン・ジュノ 2006 120分 ①⑨
米『アンブレイカブル』 M・ナイト・シャマラン 2000 107分 ①⑨
米『カイロの紫のバラ』 ウディ・アレン 1985 82分 ②③⑥⑨
日『たわわな気持ち』 古澤健 2019 75分 ①特②③⑥⑫
日『たわわなときめき』 古澤健 2020 80分 ①②③⑥⑨⑩特
米『ターミナル』 スティーブン・スピルバーグ 2004 129分 ①②⑥⑫
独『13回の新月のある年に』 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 1978 124分 ①④⑦⑧⑨⑩⑫
米『タロットカード殺人事件』 ウディ・アレン 2006 95分 ①⑨
米『スーパーエイト』 J・J・エイブラムス 2011 111分 ⑩
イ『天国にちがいない』 エリア・スレイマン 2019 97分 ①⑥⑦⑧⑨⑩⑫
米『オブリビオン』 ジョセフ・コシンスキー 2013 124分 ⑥⑩
日『喜劇 日本列島震度0』  前田陽一 1973 90分 ①②⑨
南ア『チャッピー』 ニール・ブロムカンプ 2015 120分 ⑥⑩⑫
日『夏の娘たち〜ひめごと〜』 堀禎一 2017 75分
米『クラウド・アトラス』 ウォシャウスキー姉妹 2012 172分 ①⑤⑩
米『三人の名付け親』 ジョン・フォード 1948 107分 ①⑥⑨⑫
仏『ラルジャン』 ロベール・ブレッソン 1983 85分 ①④⑧⑩
韓『殺人蝶を追う女』 キム・ギヨン 1978 118分 ①特⑧⑨特
日『胸騒ぎがする! ~ヒールズ爆誕~』 塩出大志 2021 ①②③⑥特⑦⑨⑩⑫
米『ウィロー』 ロン・ハワード 1988 127分 ①②⑥⑨
露『がんばれかめさん』 ロラン・ブイコフ 1971 86分 ①②⑥⑨
日『にじいろトリップ~少女は虹を渡る~』 いまおかしんじ 2021 39分 ①③⑥⑨
米『キャリー』 ブライアン・デ・パルマ 1976 98分 ①⑨
日『ここではないどこかへ 〜わたしが犯した罪と罰〜』 小南敏也 2021 ①⑥⑧⑨
日『娑羅双樹』 河瀬直美 2003 99分 ①⑦⑧⑨
日『喜劇 急行列車』 瀬川昌治 1967 90分 ①⑥⑨⑩
米『アニー』 ジョン・ヒューストン 1982 127分 ①②③④⑥⑦
日『わたしのSEX白書 絶頂度』 曽根中生 1976 70分 ①③⑨
米『フック』 スティーブン・スピルバーグ 1991 142分 ⑥⑨⑬特
日『淫獣の宿』 西村昭五郎 1973 88分 ①②③⑨特
日『犯され志願』 中原俊 1982 68分 ①②③⑥⑪
日『あん』 河瀬直美 2015 113分 ②⑥
日『海辺の街の約束』 小関裕次郎 2021 ①⑥⑪
日『犬猫』 井口奈己 2004 94分 ⑥⑩
日『人妻、ジャンプする!』 山内大輔 2021 ②③⑥⑨
米『ポーラー・エクスプレス』 ロバート・ゼメキス 2004 100分 ⑥⑬
日『鏡の女たち』 吉田喜重 2002 129分 ⑧特
日『真夏に出会ったら』 高原秀和 2021 ①②⑥⑨
台『珈琲時光』 ホウ・シャオシェン 2003 103分 ⑧⑩
米『緑色の髪の少年』 ジョセフ・ロージー 1948 82分 ①③⑩
台『一秒先の彼女』 チェン・ユーシュン 2020 119分 ①②③⑥⑦⑨
日『天使のはらわた 赤い淫画』 池田敏春 1981 67分 ①③⑥⑨⑪
ス『ミツバチのささやき』 ヴィクトル・エリセ 1973 99分 ④⑧⑩
台『台北ストーリー』 エドワード・ヤン 1985 119分 ⑥⑧⑪
伊『山猫』 ルキノ・ヴィスコンティ 1963 186分 ③⑦⑨⑩
米『デジャヴ』 トニー・スコット 2006 127分 ⑤⑨⑩
  出演ランキング
9笠智衆
8フレッド・アステア
8ジンシャー・ロジャース
6田中絹代
6川瀬陽太
5チャールズ・コバーン
5トム・クルーズ
4マルクス兄弟
4キャサリン・ヘップバーン
4ケイリー・グラント
4ジョン・ウェイン
4トム・ハンクス
4原節子
4芹明香
4西山真来
3エドワード・G・ロビンソン
3バーバラ・スタンウィック
3ジョエル・マクリー
3ジーン・アーサー
3スーザン・ヘイワード
3佐分利信
3佐田啓二
3岡田茉莉子
3原田芳雄
3絵沢萠子
3宮下順子
3望月真美=榊真美=広田今日子
3加藤ツバキ
2キャロル・ロンバート
2ハンフリー・ボガート
2ミシェル・シモン
2淡島千景
2高橋貞二
2バート・ランカスター
2アイリーン・ダン
2ウィリアム・ホールデン
2ヴェロニカ・レイク
2クローデット・コルベール
2クレア・トレヴァー
2ドン・アメチー
2ジーン・ティアニー
2ジェームズ・スチュワート
2グレタ・ガルボ
2メルヴィン・ダグラス
2宮井えりな
2小池栄子
2西島秀俊
2ぺ・ドゥナ
 おまけ
☆人生が八方塞がりに思われたとき観たい映画 15選
『忘れじの面影』 マックス・オフュルス
『素晴らしき放浪者』 ジャン・ルノワール
『フレンチ・カンカン』 ジャン・ルノワール
『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ当宣言』 森崎東
『死んでもいい経験』 キム・ギヨン
『紳士は金髪がお好き』 ハワード・ホークス
『ヒーロー・ネバー・ダイ』 ジョニー・トー
『脱獄 広島殺人囚』 中島貞夫
『㊙色情めす市場』 田中登
『カイロの紫のバラ』 ウディ・アレン
『皆殺しの天使』 ルイス・ブニュエル
『欲しがり奈々ちゃん ひとくち、ちょうだい』 城定秀夫
『ラブホテル』 相米慎二
『母娘監禁 牝』 斉藤信幸
『喜劇 特出しヒモ天国』 森崎東
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cosmicc-blues · 3 years ago
Text
2021/12/31
朝、目覚ましで目が覚める。ありがたいことに今日はこのひと月くらいでいちばん調子がいいかもしれない。5時間もある映画を観るにはおあつらえ向きの好日となる。しかし、例のごとく時間がすでにギリギリで大慌てで支度をする。
いざ、柏なる未開の地にあるというキネマ旬報シアターへ。電車のボックス席でスパムおにぎりを食べながら過ぎ行く街並みを眺める。常磐線はほかの路線とけっこう平行していて、ほかの列車と並走したりすることがある。窓から隣の電車に乗っているひとたちが見える。手を振ってみる。
柏の駅前はなんとなく雰囲気が町田とか立川に似ている。それすなわち立体の歩道橋なんか多く視界が狭くて迷いやすい感じで、駅から徒歩2分のはずのキネマ旬報シアターになかなか辿り着けない。さて、噂には聞いていたけれどキネマ旬報シアターはとてもいい映画館、ロビーは広く開放的でドリンクバーもあるし、なんとお酒も販売している。おしっこに行きたくなると困るからお酒は遠慮したけれど、短い映画だったらありかもしれない。そして、何といっても二階のスペースが小さな図書館のようになっていて、映画本や資料やパンフレットなどがたくさん所蔵されている。こんな館が近くにあったらずっと入り浸るだろうなぁ。ところで今日はなんか他のお客さんとやたら目が合う。こんな大晦日に、こんな5時間もある旧作映画を観にくるひとってどんなひとなんだろうって気になるのかもしれない。まあ、たしかにこのひとたちとこれから5時間という長時間をともにするわけで、同志っていうか仲間っていうか精鋭って感じがしてこなくもない。全員合わせて20人から30人ほどか。長丁場に渡るから軽く準備運動してから座席に着く。
今年の映画納めは濱口竜介の『ハッピーアワー』。タイトルの通り、ただただ幸せな時間なひとときが流れてゆく。テーマ系は『親密さ』とほとんどまったく一緒。ただ、『親密さ』が魂と身体における魂に重点を置いているのに対して『ハッピーアワー』は身体のほうに重点を置いている。だから『ハッピーアワー』は『親密さ』の頃よりも露骨に映画的になっている。4人の女友達とその周辺のひとたち、それも中流か中流よりちょい上のひとたちを映画の題材にしている感じは小津映画における紀子とアヤの関係性を中心に持ってきているような感じがある。つまり、小津映画を現代風に核家族化したような感じ。あかり、桜子、芙美、純のうち、あかりを除いた三人は既婚者で、あかりはバツイチで看護師をしている。『親密さ』はあいだに演劇を挿入することで、あの濱口的世界が生まれ得たわけだけど、こんどは都合のよい演劇なんてないわけだから、あの濱口的世界を作り出すためには主演の4人を含めたほとんど全員が倫理観をおそろしく逸した狂人である必要性があって、かなり出鱈目なことに、残りの既婚者3人もことごとく婚姻関係という社会的な枠組みから外れてゆくようになる。主演の4人だけでなく彼女らと関係するほかのひとたちもことごとく倫理観を逸している。あかりの元夫はじぶんの再婚の結婚式にあかりを呼ぼうとするし、桜子の中学生の息子は彼女を妊娠させて駆け落ちしようとするし、芙美の夫が担当編集している小説家は彼が結婚しているのを知りながら好きですと告白してしまうし、純の夫はここにはとても書ききれないくらい絶望的に狂っている。さらにここに、彼女ら彼らの狂いぶりを後押しするような鵜飼兄妹が関係してきて、この兄妹の関係性も『親密さ』と似たような狂い方をしている。ただひとり、唯一まともなのは桜子の義母であるところのおばあちゃんで、小津が狂人映画にならず、濱口が狂人映画になってしまうのは老人の不在によるところが大きいのかなと思う。桜子といっしょに先方に謝りにいったおばあちゃんは色々と大切なことを言う。①こっちばっか謝って、お金も用意して、それなのに向こうは当たり前のようにふんぞり返って、こっちがよくもうちの息子のたぶらかしてくれましたねって言ったらどうなっただろうね ②好きなもん同士がやったことなのにね。それがこんなに望まれないなんて ③あんたらの時代とわたしらの時代とどっちがマシなんやろうね、結婚なんて進まぬも地獄やし進むも地獄、どうせ地獄なら進むほうがええんやないの。この進まぬも地獄のほうは相互不干渉的な夫婦だった芙美にダイレクトにぶち当たってくる。誰も彼もが身を持ち崩していくなかで、唯一まともだったおばあちゃんは、私はこの映画には相応しくないと言うがごとく、言い残すことだけ言い残してそそくさと退散してしまう。この映画は常軌を逸した人間がことごとく身を持ち崩していく映画だといえる。事実としてこの映画は、破滅をに宙ぶらりんにしたまま幕を開ける。幕を閉じるのではなく幕を開ける、そんなふうに終わる。いやがおうでもファスビンダーを思い出してしまうが、ファスビンダーの映画は魂と身体における身体を先に使い切ってしまう映画であった。私たちにはファスビンダー的人物ほどの勇気も覚悟もありはしない、でも、その代わりにまだこの身体が残されている。
『親密さ』と『ハッピーアワー』どっちが好きかな~と考えるとすごい悩む。たぶん、よくできているのは『親密さ』で、それはひとえに演劇という飛び道具によっている。あの演劇はじっさいにお客を入れて行われたリアルであり、ドキュメンタリーである。だけど、映画というフィクションをひとつの物語として観たとき、あの演劇はあくまでもひとつの物語のなかに挿入されたフィクションであって、それ故にリアルではない飛び道具になる。いっぽうで『ハッピーアワー』はそれ自体がひとつの物語として成立していて、『親密さ』では演劇として発揮されていた濱口的世界がリアルなフィクションとして演ぜられる。そうなると『親密さ』においては、これはあくまでも演劇だから、ということで許容されていためちゃくちゃな要素をリアルなフィクションとして成立させないといけなくて、だからこそ狂人だらけの映画になってしまうわけだけど、それでもまだ足らないところがある。あの演劇は魂のありかたを表現する演劇で、演劇のなかにさらに詩の朗読が挿入されるという飛び道具がある。つまり『親密さ』は映画が演劇によって抽象化され、その演劇が詩によって抽象化されるというかたちになっている。抽象化されるということは広がりを持つということで、映画の具える具体性や個別性は『親密さ』という広がりをとてもカヴァーしきれない。カヴァーできないなら、できないなりにどうにかしないといけなくて、じつはこの至らなさこそが古今東西の映画がぶち当たってきた壁でもある。先人たちはこれをどうぶち破ってきたか、具体的なやり方は様々だけど、これはほとんど気合いでどうにかするということに集約されると思う。どうしてたって、たとえば板一枚で作ったお城をこれは城なんだ! と宣言するようなことが必要になってくる。まあ、でも、これこそが映画の必殺技みたいなもので、この必殺技をいかにカッチョよく決めるかが映画の醍醐味みたいなものである。『ハッピーアワー』の濱口竜介はこの必殺技を活劇的なやり方で決める。つまり必殺技と呼ぶに相応しいオーソドックスなスタイルを採用する。ただし、活劇とはいっても活劇の北極に位置するような活劇、それすなわちジョン・カーペンターの『エスケープ・フロム・L.A.』におけるパラグライダーみたいので降下してくるショットとか、ジョルジュ・フランジュの『赤い夜』における吹き矢のショットとか、まったくもって出鱈目としか言いようのない活劇で壁をぶち破っていく。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2021/12/30
朝、目覚ましで目が覚める。目覚ましできちんと起きたはずなのに何故か時間がすでにギリギリで大慌てで支度をする、チクショウ!! なんでいつもこうなんだ!! 乗換駅でおにぎりを買って走りながら食べる。
幕開け10分まえに劇場に到着、チケット番号が98番でまさかの大入り。じぶんの後ろにもまだけっこう入場していないひとが残っていて、席に着いてから周囲を見渡してみると、なんと空席はひとつしかない。喜ばしいことだね! 例の通り、若者はほとんどいないけれど……。
一本目、ダグラス・サークの『ステキなパパの作り方』。素材があんまり良くなくて、画面が不安定なのが気がかりだったけれど、あれよ、あれよ、と引き込まれてゆく。大好きなスクリューボール・コメディで会場はワッハッハーの大盛り上がり。物語の軸となる男女が出会い、関係し始めるシーンではやっぱり座ることと立つことがある。ひょんなことから公園で再会する同じ境遇の男女は、なんとなくベンチに座る。だけど、このなんとなくベンチに座るという行為こそが万田流にいえば決定的な瞬間で、たんに座るということは人と人とが関係しようとする大きな第一歩でもあるわけで、座ったことにより、そこに会話が発生して、その会話からふたりにさらなる共通点のあることが発覚する。そこで男は勇気を出して女をディナーに誘う、もし今夜予定がなかったら、と。咄嗟のことで、女のほうは今夜は予定があると嘘をついてしまう。男はそうですよね、急に誘ってしまって失礼しましたとベンチを立ち上がる。この男の立ち上がりもまた決定的な瞬間で、勇気を出して誘ったけれど断られてしまった恥ずかしであり、一刻も早くこの場を立ち去ってしまいたい表明でもある。でも、この男の立ち上がりが次の決定的な立ち上がりを促すことになる。立ち去ろうとする男を引き止めるためにこんどは女が慌てて立ち上がる、い、いいの! 今夜の予定は別の日にするわ! 男の立ち上がりは恥ずかしさから関係を切ろうとする立ち上がりとして、女の立ち上がりは勇気を出して切れかけた関係を繋ぎ止める立ち上がりとして表現される。なるほどなぁと感心していたのも序盤だけで、あとはひたすらサーク流のスクリューボール・コメディに幸せな気持ちになる。
二本目、ロバート・シオドマク&エドガー・G・ウルマーの『日曜日の人々』。1930年のサイレント映画。後にも先にもこれ一本だけしか出演のないド素人たちで撮った映画だという。73分もたしたことには凄いなぁと思いながら、これには勝ったなと細く微笑んでしまう。
三本目、ロバート・シオドマクの『人間廃業』。シオドマクが亡命する前のドイツ時代のコメディ。いきなり男が自宅で自殺しようとするところからはじまり、そこに盗っ人が侵入する。盗っ人は男の手に握られた拳銃にビビりまくって退散しようとするが……。けっきょく最後のさいごまで男が自殺しようとする理由はよくわからないのだけど、そんなもっともらしい理由なんてなくても映画は次へ次へと勝手に転がっていくのだということをよくわからせてくれる素敵に出鱈目な映画である。
四本目、フレッド・ジンネマンの『暴力行為』。亡命作家らしいナチスの影を引きずる一本。当たり前のサスペンスを当たり前に観られることの幸せよ。当たり前のサスペンスを当たり前に観られることの幸せとは、その当たり前さ加減が当たり前に出鱈目だということにつきる。なかでもお気に入りは、もはや追われていないのにもかかわらず絶叫しながらトンネルをひとりで走るショット。
五本目、村瀬大智の『赤い惑星』。
六本目、唯野浩平の『ムチノセカイ』。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2021/12/29
朝、平日設定の目覚ましが勝手に鳴って目が覚める。きみよ、もう少し寝かせてくれ。モフモフのパジャマと毛布を導入したことでだいぶ寝心地がよくなっている。パジャマと毛布のお陰か、なんか温かみのある幸せな感じの夢をみる。
午後イチ、映画へ。何だかんだ時間がギリギリになってしまい、今日も今日とで乗換駅を走る。この一年を通じて、急いで走らなかった日ってあっただろうかと考えながら。もしかしたらあったかもしれないけれど、きっとそれでも両手で数えられるくらいだと思う、いや、片手で数えられるくらいか。
一本目、ダグラス・サークの『丘の雷鳴』。いかにもサークらしいショットがあって、これは泣かずにはいられない。無実の罪で絞首刑になる女が護送中に嵐にあって修道院で足止めをくらう。女はもはや人間不信に陥り、やさぐれていて、そんななかでも親切に接してくれる主演の修道女に対して偽善者扱いのひどい態度をとってしまう。ところが徐々に修道女に心を開いていく死刑囚の女が「あなたに贈り物があります」と言う。「そんな、受け取れませんわ」と言う修道女に「いいえ、受け取ってください。これが私の贈り物です、私は無実です」それまでは世間を恨み、もはや、じぶんは罪人ではないということを主張すらもしなくなっていた彼女が、じぶんの無実を贈り物という積極的なかたちで修道女に打ち明ける。しかも、それは修道女にとっていちばんの贈り物になる、なぜなら彼女だけが根拠もなく無実を確信していたのだから。ひとに何かを与えるっていうのは案外大変なことだなぁと思うようになった。というのも、与える側はそれはそれで気分がいいし、何なら見返りがあるかもしれないし、見返りがなくたって与える側はやっぱり気分がいいものだと思う。大変なのは与える側ではなくて、それを受け取る側のほうで、それが有難迷惑の類いならいざ知らず、それが真に望ましいものであれば、それは自らの不足を表明することにもなる。それは自らの足らなさや弱さといったものを直視して曝け出すこととほとんど同義なのだから。これが与え/与えられの相互扶助的な関係であれば、事態の深刻さはもう少し間延びしてくるはずで、この場合においても強がりなひとほどきっと受け取りたがらないし、ある意味で受け取る側の強さのほうが試されるのではないかなとも思う。この与えること/受け取ることの困難さを双方の堂々たる誠実さから真逆にすることで真に迫ってみせたこの映画にはとても聡明な感動がある。じぶんもいつかこんな贈り物をひとにしてみたいものだと思う。
二本目、フレッド・ジンネマンの『男たち』。この二本を続けて上映するヴェーラにはまったく頭が下がる思い。与えること/受け取ることの関係性が一方的になれば、またそのように個人的に感じられれば、また世間的にそのように思われれば、受け取る側はどんどん卑屈になってくる。男たちとは、戦争による怪我で半身不随になった男たちの映画。いや、それだけではなく、半身不随になって帰ってきた夫だの恋人だの婚約者だのと関係する女たちの映画でもある。主演の男ははじめ婚約者だった女を拒む。それは男気のある勇退であり女に将来の選択肢を「与える」という行為でもある。「与える」ほうが辛ければ「与えられる」ほうもまた辛い。「与えられる」こと「受け取る」ことを拒んだ女は半身不随の男に寄り添うことを決める。でも、今度はそこに「与え続ける」ことと「受け取り続ける」こと双方からの弱さが露呈してくる。
それにしてもダグラス・サークにしてもフレッド・ジンネマンにしてもほとんど縋り付くことで映画を成立させているなぁと万田に感心する。たぶん、50年代の潤沢なセットのなかでこれをやるといかにも自然に映るのかなぁ。とくに『男たち』は半身不随の男が立とうする映画であり、半身不随の男に寄り添うために女が座る映画であり、男が車椅子から転げ落ちる映画であり、男と女がともに縋り付く映画であるからには、まさに「座れ!立て! 転がれ! 縋り付け! そして関係しろ! それが万田だ!」。
三本目、柳町光男の『さらば愛しき大地』。ロケ地が馴染み深い北の浦の周辺でびっくりする。根津甚八、秋吉久美子、蟹江敬三ら、主演の役者たちがとても輝いている。終映後に監督のトーク。今日は主演の根津甚八の命日らしく、黙祷の時間が設けられる。映画館で黙祷なんてはじめて、気の利いた演出だと思う。トークでは撮影中に監督自身が何度も泣いてしまったはなしが披露される。それは役者たちがこれしかないという素晴らしい演技を見せてくれたときに感極まって泣いてしまうらしく、その気持ちすごくわかる……。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2021/12/28
朝、寒さで目が覚める。エアコンを温度をMAXにしてもこの寒さ、そろそろ何か対策が必要だなぁと思う。外は雲ひとつない晴天、白い透明な半月が空の高いところに浮かんでいる。数日前までこの上ない色彩をみせていたイチョウ並木があっという間に散っているのは、もはや春の桜のよう。電車内、青いウインドブレーカーを着ているひと、元々そういうひとなのか、それともこれからスポーツする気持ちが急いでいるのか、すでにからだが踊っている。
今日は朝から大掃除。昨日から大掃除が憂鬱アピールをしていたものだから、よし! やるか! って大袈裟に席から立ち上がると周囲から失笑が湧き起こる。Cさんが「みんな、お前のそのひと言を待ち遠しにしてたよ」と笑う。大掃除って色んなことを思い出してなんか切ない気持ちになる。とくに今年は初夏くらいのことを思い出すと胸がキューッとなる。そりゃホコリが積もっていたらきれいにするんだけど、そんな簡単にきれいにしていいものなのかって思ったりもして……。机によじ登ってエアコンのフィルターを交換、こういう高いところに登ったりするのは楽しいから積極的にやる。隣室のエアコンもやってあげたら、有り難がれてお菓子とかドリップコーヒーのパックをもらう。
夜、ここ数日あまりにも部屋が寒いからモフモフのパジャマを買ってから映画へ。柳町光男の『十九歳の地図』。『ゴッド・スピード・ユー!』の何妙法蓮華経がここでも引用されている。『天使のはらわた 赤い教室』でも観た若かりし頃の蟹江敬三がめっちゃいい味を出している。
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cosmicc-blues · 3 years ago
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2021/12/27
朝、目覚ましで目が覚める。布団の奪い合い合戦だの布団を譲り合い合戦の夢をみるのももっともな寒さ、今年いちばんの寒さを更新。ここまで寒いと、このむちゃくちゃさ加減にむしろ笑けてくる。そとは雲ひとつない快晴、日差しはほんのちょびっとだけ熱を寄せてくる。並木道の花壇の土塊には霜柱が立っている。花壇にしゃがみ込んでいるおばあさんがいて病人かと思ったら、一眼カメラで熱心に霜柱の写真を撮っている。 朝からファスビンダー映画のことがあたまをもたげる。ファスビンダー的人物からひたすら語られる孤独の二文字。彼(彼女)の不幸はその孤独がセクシャルという記号に回収されるものですらなかったことにあるように思う。彼(彼女)の孤独がセクシャルな孤独程度に収まっていれば、たぶん、もう少しはマシだったにちがいない。きっと、孤独になるのにも才能がいるのだろう、欲するという才能が。それもたんにある条件が与えられて満足するような生半可な欲しがりではない。彼(彼女)には愛する妻子がいるのだし、また妻子からも愛されている。つまり、彼(彼女)の欲しがりはある不足の状態からくるのではなく、純粋な欲しがり、不足を前提としない過剰な欲しがりとして発揮される。不足を補うことを仮に−1+1=0と表現するのなら、彼(彼女)の過剰な欲しがりは0という調和ある枠組みから常に逃れてはみ出ようとする余計な1と表現することができる。事実として彼(彼女)は男性でありそのことに何の不足も感じていないのにもかかわらず、つまり、トランス的なセクシャリティを抱えていないのにもかかわらず、手術でおちんちんをカットして女性になってしまう。これこそ余計な行いと言うほかなく、純粋な欲しがりを視覚的に体現しているのがファスビンダー的人物だと言える。0という枠組みから逃れるようにファスビンダー的人物は婚姻関係という社会制度から逃れ、性という生物学的な枠組みからも逃れている。ファスビンダー的人物は固定的な枠組みを嫌い、絶えずその外に流出しようとする、そうした枠組みは純粋な欲しがりの邪魔になってしまうから。手術でおちんちんをカットしたファスビンダー的人物はそのことを一度目の死と表現している。なるほど、たしかに社会的な死ではあったかもしれないが、ファスビンダー的人物から語られるこの一度目の死は二度目の死が示唆するようにそんなに易いものではものではないように思われる。その純粋さのためには産まれながらに与えられた固定的な身体性すら放棄する必要があったという覚悟の現れであって、このことは二度目の死にも通じてくる。そんな彼(彼女)も施設にいた子どもの頃は不足を補う欲しがりに躍起になっていた。彼(彼女)はとても利口で、やがて嘘をつくことを覚えた。つまり、本心は二の次に相手の望むようなことを言い、その対価として報酬を受け取ることを覚えた。誰も彼(彼女)の悲しみに気づく者はいなかった……。やがて、不足を補おうとすることに虚しさを感じた彼(彼女)は周囲の人間に対して無関心になり、今度は盗みを働くようになった。それも何故か彼(彼女)にとって特別必要とは思えないようなものばかりを積極的に盗んだ。盗みを働くようになると、嘘をついていたときとは打って変わって、周囲の人間に虐められるようになった。彼(彼女)はそのことを楽しんでいるようだった。この施設時代の彼(彼女)のエピソードは、つまるところ下手な芝居をうって他人に気に入られるより、より真実らしさを志向するようになって、尚且つそのことで他人に蔑まれることを意に介さなくなったということだと思う。さて、そんな転機が案外いちばんの近道だったのか、やがて、大人になった彼(彼女)はじぶんの理解者たる妻や友人と出会い、さらには子宝にも恵まれる。ところが、すでに彼(彼女)の純粋な欲しがりはとどまることを知らなかった。ある男の些細なひと言が彼(彼女)を破滅に誘うことになる。「あんたが女だったらよかったのに」それからの破滅ぶりは火を見るより明らかで、13回の新月のある年(その年は精神が不安定になりやすい)の効果も手伝って彼(彼女)を二度目の死へと向かわせることになる。彼(彼女)は死というものに対して、一度目の死のときからすでに自覚的で、だからそこ唐突に目のまえに自殺を繰り広げようとするひとが現れても何ら物怖じすることなく、たまたまタバコにつける火がなかったから首を括ろうとしている自殺志願者に火が欲しいとお願いする始末で、そんな自殺志願者からこんなことが語られる「人間の道徳的価値は、人間の運命から知ることができる。人間が無価値ならば運命を嘆く必要はなく、その意味で世界とは法廷である。生の意志の否定すなわち自殺という行為についてはひどく誤解されており、実は自殺は否定的行為でない。自殺者は生を求めているがその条件に不服なのであり、生への意志を決して放棄することなく、現象としての自己を破壊するのだ」と。彼(彼女)はこの言葉にいみじくも賛同するかのように現象としての自己を破壊して、もはや彼とも彼女ともつかない無機物になる、第二の死を遂げる。じぶんとして自殺志願者の考え方には肯定も否定もしかねるが、では、彼(彼女)は孤独な人間であったか。客観的にみれば彼(彼女)はまったくもって孤独ではなかった。事実として彼(彼女)はみずから捨てた妻子にすら未だに愛されているし、理解のある友人もいるし、死の際に至っては妻子友人たちがこぞって彼(彼女)の安否を心配して奔走するからには彼(彼女)は孤独だったとは言い難い、むしろ、そこらへんの誰よりも恵まれているとさえ言える。でも、それでも、彼(彼女)の純粋な欲しがりとそれとはあまり関係がない。それこそが彼(彼女)の孤独の根深さであって、彼(彼女)の生きようとする力動でもある。彼(彼女)の育ての親である施設のシスターは言う「人生を台無しにしたのは彼(彼女)のせいではなく人の作った秩序のせい」だと。彼(彼女)の純粋な欲しがりはことごとく世間様が望んでいるような安易な条件とは合致しなかった、その根深さよ、と。ある程度の秩序がなければ何も生まれ得ないことはよく理解しているつもりだし、じぶんが挑発的な物言いでほかでもないその秩序を破壊しようとしていることもよくわかっている。ただひとつ、ここだけは取り違えたくないのは、ファスビンダー自身は同性愛者だったらしいが、ファスビンダー的人物はそもそも同性愛者ではないし、少数派という不足を起点に欲しがってはいないということ、ファスビンダー自身は37歳で死んでいるが、死因はたんにコカインの過剰摂取で自殺かどうかは不明であるということ、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手としてその短い人生で44本もの映画を撮ってしまうほど映画を欲していたということ。 昼、カレーうどんを食べて口のなか火傷だらけ。 夜、お風呂も済まして、あとは寝るだけの状態で映画へ。河辺怜佳の『過ぎ行くみなも』。トレーラーを観て、これは観るべしと思って行ったら、劇場の隅のほう席にちょこんと万田邦敏が座っていて、ま、まさか、となる。万田、ジェダイ・マスターみたいな変な服を着ている。ていうか、万田ってすごい小さいし、なんかフォースも使えそうだし、もしかしてマスター・ヨーダなのでは? さて、映画がはじまり、冒頭のスーパーでのショットから、物語の中心になるふたりの人物がこれしかないよねって感じのポジションで画面に収まっていて鳥肌が立つ。そして、万田がいるということはやっぱりそういうことで、演出がどんどん『愛のまなざしを』の万田印になってゆく。まるで踊りの振り付けのような演出に、座れ、立て、転がれ、縋り付け、そして『関係』しろ! それが万田だ! 万田が万田映画で万田印の演出をする限りにおいてはわかりずらかったこの演出の効果がほかのひとによって実践されるとその怪力ぶりが見事に明るみになる。と��に縋り付くということの怪力ぶりよ、この映画はほとんど縋り付くことの怪力ぶりで物語を動かしている。ちなみに脚本のテーマ系も『愛のまなざしを』に酷似していて、おそらく制作時期は『過ぎ行くみなも』のほうが早いか同じくらいだと思うのに、すれ違いというテーマが『愛のまなざしを』ではトンネルのなかで宙づりにされ『過ぎ行くみなも』では橋の上で宙づりにされる。ただ、どんなに万田印でも映画の持ち得る質感はぜんぜん異なっていて、両監督の個性が出ているように思う。万田映画のドライで無機質な感じがこの映画にはない。この映画を観ようと思ったきっかけはトレーラーにふたりの人物がくの字で横たわるのを俯瞰で撮っているショットがあって、同じようなショットをまえに観ていたく感動したから。そう、マレーシアの母と言われるヤスミン・アフマドの『タレンタイム 優しい歌』。ヤスミンの映画には、まさに母と形容されるのがふさわしい優しい包容力があって、それと同じような優しさがこの映画にもあって、それは万田のドライで無機質な質感と大きく異なっているように思う。
万田が来ているということは、やっぱりそうで、ぜんぜん知らなかったけれどトークショーがある。もはや言わずもがな監督の河辺怜佳は万田の教え子だそう。河辺怜佳がなんか言葉に詰まった様子で「万田邦敏監督です」と万田のことを紹介する。お客さんの前で何て紹介すべきか一瞬迷ったんだろうなぁ、躾が行き届いているなぁと思う。そしたら、やっぱり話し始めてみると万田監督とは呼ばずに、万田さん、万田さんと言う。万田ゼミの幕内話からはじまり、万田ゼミに入るとまずいちばんに「欲望するということ」を学ばされると河辺怜佳の口から語られ、もうそれだけで今夜わざわざ来た甲斐があったと、カッカッカーと高笑いしたい気分。いずれ、万田には師事するつもりでいたけれど、もはやそんな必要もないのでは? とちょっと強気な気持ちになる。
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cosmicc-blues · 4 years ago
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2021/12/26
朝、日差しで目が覚める。洗濯機を回しながら、頼まれごとや年内までに整理しておきたいことが山積みになっていることにふと気がつき、ちょっとでも片付けておくかと珍しく午前中のうちからパソコンを開く。ふと気づいたら洗濯はおわっているし、時間がけっこうギリギリになっている。大慌てで洗濯物を干して支度をする。
なんでいつもこんな風なのかって呆れながら、乗換駅で買ったおにぎりを走りながら食べる。一本目、今年の2月に観ていらい、もういちど観たいと思っていた相米慎二の『雪の断章 情熱』を二回目。じぶんは残りの人生でこの映画をあと何回観られるだろうか、と、そんなことを考えながらスクリーンをキッと見つめる。
二本目、スクリーンでは初めてとなる相米慎二の『魚影の群れ』。なんか見たことあるひとがいるなぁって思ったら、堀禎一特集でトークをしていた木下千花。ほんわかした雰囲気なのに喋り出すと前のめりになりすぎて、口が脳内で考えていることについてこない身振りが思い出される。『魚影の群れ』はソフトで観たときと印象がぜんぜんちがって、とくに船上での撮影が凄まじすぎて、俊ちゃんがテグスに巻き込まれるショットではびっくりしすぎてほんとうにイスから転げ落ちそうになる。
『雪の断章 情熱』も『魚影の群れ』も脚本が日活ロマンポルノ特集でもお目にかかった田中陽造なのだとクレジットロールで知る。あの特集では気になる脚本家との出会いもあって、田中陽造をはじめ、村木の名美シリーズの石井隆、そして何といっても、いどあきお。待ち時間に色々調べてみると、田中陽造が脚本を書いた『愛欲の罠』で監督をした大和屋竺は、なんと『ガンバの冒険』の脚本を書い��いる。子どもの頃からずっと大好きな『ガンバの冒険』がこんなかたちで日活ロマンポルノと繋がるなんて思ってもみなかった。
三本目、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『13回の新月のある年に』。初ファスビンダー。このあいだの白紙委任状でトークをしていた渋谷哲也が翻訳をしている。どこの国にもひとりは必ずその国の国民が見たくもないようなものを撮る映画監督がいる、とファスビンダーとかキム・ギヨンの名前を引き合いに出して話していて、ファスビンダーはまさにそんな監督だなぁと思う。このぶち壊れた倫理観に共感するのはじぶんもまたぶち壊れているからなのか、それともひたすら孤独な人間だからなのか。ファスビンダーの映画をこれまで観てこなかったのは、たぶん、そんなに好きじゃないだろうと思ったからで、今回は国内の権利切れと上映のタイミングがたまたま合ったから観てみたものの、思っていた以上にすごい好きな映画だったいっぽうで、二度、三度と観ようとは思わない。それ以上にファスビンダーという個人にすごい興味が湧く。映画と同様にめちゃくちゃな倫理観の持ち主だったということはよく耳にするはなしだし、37歳没という短い期間で44本もの映画を撮った怪力ぶりにも。
夜、めちゃくちゃな寒さ。寒すぎるだろ!!!!
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cosmicc-blues · 4 years ago
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2021/12/25
朝、窓からの日差しで目が覚める。お茶を飲んで乾いた喉を潤してから、睡眠不足の解消のためしばしばうたた寝。お昼まえに目を覚ませて、風呂掃除だのトイレ掃除をしながらシャワーを浴びる。
今日はなかなか温かい。日差しで髪の毛を乾かしながら公園をぐるっと一周、おジャ魔女どれみみたいなコスプレをした女の子がお父さんお母さんと歩いている。電車のなか、優先席の一区画を父母姉妹が占領している。小さな姉妹は靴を脱いで、父母の腿をよじ登りつつ狭い座席を縦横無尽に闊歩している。姉妹の手には姉妹よりもひと回り小さなぬいぐるみが握られていて、もしかするとクリスマス・プレゼントなのかな?
先に映画のチケットを取ってから狭いカリー屋へ。じぶんは6席ある一席に体よく入れたものの、そのあとすぐに行列ができはじめる。いちおう二席が離れで空いているのだけど、つぎのお客さんがペアだから入ることができない。そんな状態がしばらく続き、そしたら急に店主らしきひとがバイトらしきひとに「もっと頭使えよ!」とか何とか大声で怒りはじめる。座席の状況からいって、ペアの次のひとり客を先に案内してあげたほうがいいだろ、とのことらしい。そんなに怒鳴らくてもいいじゃんって思いながらも、まぁ、確かにもっともなことを言っている、そろそろ食べ終わりそうなペアの客がちょうどいるから。先にひとり客が案内されたものの、頼みの綱のペアが意外にもなかなか食べ終わらない、そしたらじぶんの隣のひとが空気も読まずえらい早食いで颯爽と食べ終えてしまう。またしても二席空いているのに入れないペア、誰も彼もが不幸な展開にいたたまれず、早食いのひとの食器を下げにきたバイトらしきひとにこっそりとあっちに移動します、と店主にバレないように腰を落として席を移動しつつ、そとで待っているペアを招き入れる。なんというサスペンス、お店の中と外は透明なビニール区切られているだけだから、外で待っているひとは中の様子がよくわかるし、店内はやたらと背の高いカウンターで厨房と区切られているから厨房からは外の様子が把握しづらい、そんな故のサスペンス。店長らしきひとはしばらくして、さっきは怒鳴ってしまったことをそっと本人に謝っていた。それが聞けてよかった。
さて、『アメリカン・ユートピア』と『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』の二本立て。『アメリカン・ユートピア』はおまけのつもりだったけれど、まぁまぁよくて、オープニングの曲と最後の曲と大好きなThis must be the placeではけんもほろろに号泣してしまう。デヴィッド・バーンはところどころ説教臭いながら、人前に立って見られるということにおいてはきちんとその卑しさを未だに認識しているひとで、こんなジジイになっても抜け目ない丘の上の馬鹿の精神にあたまが下がる。
さて、お待ちかねの『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』。なんか見覚えのあるひとが隣に座る、なんとさっきのカリー屋さんでなかなか入店できなかったペアで、おやおや、どうもどうも、となる。いまいちど気を引き締め、今宵、この劇場が教会になる想像をしながら幕開けを待つ。もう一曲目から、からだのうちから込み上げる熱いものが涙となってどんどん流れ出す。からだのうちの熱いものはとにかく外に出てゆきたいのに、からだの輪郭がそれを妨げて、せめぎ合う両者の境目では震えが起こっている。逃げ場を見出した幾ばくかの熱いものが涙となって外に流れてゆく。終映後、マスクから海の匂いがする。
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cosmicc-blues · 4 years ago
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2021/12/24
朝、窓からの日差しの徐々に明るくなってくるのを感じながら目覚ましで目が覚める。空には薄い大きめの雲がいくつか散らばっている。からだが段々とこの寒さに慣れてきているのを感じる。電車から降りると、空が大きな鱗雲になっている。
今日は朝から電話が鳴り止まず、あれこれと色んな対応に追われる。年の瀬って感じ。いっぽうで、用があってAさんに電話をかけると、今日は有給休暇だという。電話に出たKさんに「デートですかね?」って冗談ぽく尋ねると、ふふふっと笑う。ただいま北海道に出張中のW宛てにお仕事の書類の入ったレターパックが届いて、はいっ、クリスマス・プレゼントって空席のWの席にレターパックを置きながら、これをほんとうにクリスマス・プレゼントっぽく包んでおいたら月曜日おもしろいかもねって言うと、Wをからかうのが大好きなMが大笑いする。
昼、老舗のおそば屋さんで期間限定のカレーうどん。来店者のほとんどがカレーうどんを注文していて、店内がカレーうどんの匂いに包まれる。お昼から帰ってくると、Mがこれ100均で買ってきました! ってプレゼント用の包装紙だのリボンだの手渡される。Mは美術の成績が3で手先が不器用だからSさんよろしくとのこと。オリャーッと包んで、Mの発案でイスの上に置いておくにする。イスを机から引いたらはじめてプレゼントが見えるお楽しみだそう。
夜、映画へ。メイズルス兄弟の『セールスマン』と『グレイ・ガーデンズ』を続けて観る。ロビーに西山真来がいて、おおっとなる。イスに座ってジィーーーッと宙を見つめていて、それだけなのになんか雰囲気がある。お初お目見えとなるメイズルス兄弟、ジョナス・メカスとかフレデリック・ワイズマンなんかと並べられるドキュメンタリー映画の巨匠ということだけは知っている。さて、どんなものかと観はじめてすぐに度肝を抜かれる。はたしてこれはドキュメンタリー映画なのか……。いや、これは確かにドキュメンタリー映画である。でも、ドキュメンタリー映画が宿命的に持ち得る臨場感とか緊張感のようなものがこの映画には欠落していて、その画面はまるで劇映画のような安心感に満たされている。そう、まるでカメラがそこにはないような緊張感のない画面が平気でできあがっているのにもかかわらず、カメラは平気でみずからの反射を鏡に映すし、被写体に平気で他愛のないことを話しかけたりもするし、被写体のほうもカメラに向かって話しかけるのではなく、あくまでもカメラを構えているメイズルス兄弟に話しかけている。「親密さ」という言葉が脳裏をよぎる。おそらくメイズルス兄弟の映画は、撮り手と被写体がカメラを介して関係していない。撮り手と被写体が直に親密に関係し、カメラはその付属品にすぎない。被写体は撮影にとても協力的で、積極的にみずからの境遇を演ずる。それはカメラを前にして演ずるのとはちょっとちがっていて、ふつうに生活していて他人の前でじぶんという存在を演ずるように演じられる。他人の前に立てば、当然じぶんを飾ったりもするだろうし、気の知れた仲間であれば冗談を言ったり弱音を吐いたりもする、そんなふうに。『セールスマン』は聖書を売り歩く販売員たちのはなし。『グレイ・ガーデンズ』は、もともとは貴族的な家の出のひとがなんかよくわからないけれど没落して、いまとなっては70代と50代の母娘が遺されたゴミ屋敷で生活しているはなし。『グレイ・ガーデンズ』はほんとうにとにかく凄まじい。まぁ、方々から批判されたりするのはわからないでもない、いや、うそ、まったくわからないな。『グレイ・ガーデンズ』はほんとうに素晴らしい歌と踊りと罵り合いと愛の映画だ!!!! どんなに落ちぶれても気品は失えないのだ!!!! ちなみに屋敷には猫とかアライグマがいっぱい住み着いている。
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