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近況。
コンビニシュークリームハンターとして生きております。
というのはまあ、願望ですが、それなりに生きております。
コロナが始まって以来、仕事が無茶苦茶になり、4月に始める予定の仕事は延びまくり、結局今年は中止に。
派遣される予定が二転三転して、思いがけないところに。
流石に滅入るなぁと思っていたところに、思いがけないお仕事のオファーを頂き、入院で動けなくなった先輩の代打もきたりと、年間としては辻褄の合いそうな日々でございます。
とは言えTwitterも何だかんだで物騒で、やっとれんがなな気持ちになりましたのでお休み中ですよっと。
必要な連絡は取れる形にしておりますので、何があれば連絡するがよろし。
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『当事者is、なに?』
はー。
この記事について、なんで、外国人だけ?という人がいますけれども。
じゃあここでは障がい者差別や女性差別には言及していませんが、そのことは差別的ではないんですか?と思いますよ。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/821377
沖縄へのヘイトスピーチについての調査もやってるんですよね。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/810010
何年も繰り返されてきた街宣なのに、役所も止めなかったんですよ。近くでみていた筈の那覇の人がどんな対策したのか私には分かりません。私は2017年の1月、春節の日から毎週宜野湾くんだりから那覇までガソリン代も駐車料金もかけて地味に通って記録してましたけど。
そこから新聞記事になり、やっとやっと事態が動いたんですよ。
ネットの沖縄ヘイトについても行政がやらないからと言って、じゃあと集めて訴える人とか、役所に言う人とか、いたんすかね。今とりあえず動いている人にやり方がどうのこうのいうなら一緒に動くとか、やり方が合わないなら独自に動いても良いんじゃないですかね、大歓迎です。那覇市役所へ市民の声として届けるとか、新聞の投書でも、現場でスピーチでも良いんじゃないですか。沖縄県外から陳情出してくれた方もいますよ。私、一人で記録とるのも交番いくのもやりましたよ。他にどーやったらいいのかやり方わかんないんで。Twitterで試行錯誤していたらみていた人が議員さんに繋いでくれたりもしたけど、その時は自分の集めた資料まとめて説明しましたよ、一人ででもできましたよ。
ご意見ある方がご自身でやってくれるのを待ってますよ。期待しています。岡目八目、色々見えたらご意見もあるでしょう。電話一本メール一通でも良いじゃないですか。議員さんに、県に意見言えるんとちゃいますか。今動いている人たちが全てじゃないですよ。誰でもやれば良いんですよ。政治家にならなくても政治を、社会を変えられるってのはそういうことでしょう。
私は、声をあげる自由と、権利を、できうる限り行使しています。最近とても疲れていますが。
これからでもどうぞやれることをなすってください。私に、貴方の思うことをさせる努力より、ご自分がやる方がいいですよ。あらゆる差別をなくすための動きには心から賛同しますので。
街宣する人たちもネット見てるので詳しくいいませんけど、やり方色々あって良いんじゃないですか。とりあえず自分の意見を人にさせないでください、本当に、もう何年もやってきて疲れているんです。
貴方「も」やりましょうよ。
体感として支援してくれたの、県外からの方が多いですが、それは単に経験値の問題でしょう。
イデオロギー関係なく差別は駄目だというテーブルに皆をつけさせるために、関心を持ってもらうために小さな脳みそで考えたことを否定するのは自由ですが、じゃあご自分の脳みそお使い下さい。やり方に意義を唱えることでヘイトスピーチが止められるならどうぞやってください。私は私のやり方がベストだとは思いませんが、何もしない人に非難されるほどのことでしたか。
市役所前で、今までどんな沖縄差別があると感じたか聞き取りしている人もいます。私はそれ、とても素晴らしい意義ある行動だと思っています。それを集めて議員なり県なりに突きつけて、沖縄差別に取り組めとやる事ができますから。
私の持っているのはあの動画と、いくつか一人で撮った動画と音声、発言の日時込みの二年分の記録くらいです。誰か他にもやってくれないかなと思いましたけど。
現場に来るわけでも確認したわけでもない人に、これは移住者が中心じゃないかとの憶測の元に、やり方について意見されたりもしましたが、私は移住者ではないですし、そんな篠原何某みたいな雑なやり口で言われることに心底腹をたてていますし、傷ついています。イントネーションがNHK ぽくてうちなーぐちを喋れないことで、名前が珍しいことで、移住者と見なされたことにショックを受けています。
何をもって沖縄の当事者だと言うんですかね。
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『批判すると言うこと』
最近の話。
"エアリプではなく名指しして批判しろ。"
これは判る。私も友人に指摘されて、反省していることだ。
ただ、異なるプラットホームで行われると、本人に届くまでにタイムラグがあり、更には届かない可能性もあるわけで、それは晒すことが目的になっていて、指摘して議論するつもりはないのだなと思う。
というのも、事実関係の確認が満遍なく出来ているのかどうかわからない(当人たちのみの表に出ていないやり取りがある可能性、また、どちらかが或いは両方が事実と異なる事を述べている可能性を考えています)ので、とりあえず触れないでいるしか無いのかもしれない。
ただ最近、一方の主張のみを聞いてそれを事実であるかのように話を進めている人達を見かけているので気になっている。
というのも。
私の周りで、自分が確認する限り全く事実無根の出来事がまるで事実であるかのように流布されていたので、その話を信じている人に問いただしたものの聞く耳を持ってもらえず、(一方の)関係者の話を聞いただけで判断していたので、例え事実では無くても何度も繰り返し代わる代わる異なる言葉で刷り込まれたら人は信じてしまうのだなと、とても残念に思ったからだ。(例えば昨日のブログのこと。)
突き詰めれば一人の人しか言っていない話が、多数の人の口にのることで真実であるかのように積み重ねられていることもある。
残念、で済むだけでなく、現実に影響する、デマとも言うべきそういう事柄に、どう反応するべきか悩んでいる。日常生活に影響している上に口を塞がれているような状況である。晒されるだけでなく時に実名を添えて晒されるのはDV から逃げている人間にとって恐ろしいことであるし、一方でそんな境遇なら発言するな或いは発言に気を付けるべきというのも違うよなと。
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Twitter怠いな。というはなし。
そういえば自分がTwitter始めた理由が(何度か書いているけど)、元々mixiやってて、それはオタ活として始めたインターネットからの流れだったんだけど、そこでニュースへの反応の中に所謂ネトウヨを見かけて疑問に感じて時々喧嘩していたところに、��田浩一さんの『ネットと愛国』の書評を見かけて、それからそれでも随分あいたけど、自分が市バスに揺られてぶらりと行った県民大会のことが産経記者によってまっっったく違う内容で(県民はほぼいないって書かれたやつ)、それから、あ、現場から何か言わないとこうしてデマ撒かれるんだなと、言わないといけないんだなと感じたからなんだよね。
それからそれでも随分あいたけど、自分が市バスに揺られてぶらりと行った県民大会のことが産経記者によってまっっったく違う内容で(県民はほぼいないって書かれたやつ)、それから、あ、現場から何か言わないとこうしてデマ撒かれるんだなと、言わないといけないんだなと感じたからなんだよね。
そんなんでぼんやりと呟いているけども、あまりTwitterで人に影響与えるつもりもなくていたから(デマだけ刺せりゃ良いと思って)、フォロワーが1000越えた辺りからちょっと自分のなかで違和感あったし、そろそろ疲れたではあるんだよね。Twitterって、テレビラジオより速いのに検証が追い付かないしそもそも昔のテレビラジオとかはまだ公共性があって、流される情報にある程度の正確さが担保されていたと勝手に思っているんだけど(新聞は更に。これは発信者の連続性故かな)、Twitterとかネットって既に既存メディア並みの伝播力があるのに情報の正確さとかが無くても誰でも流せるツールだなーと。
都市伝説の発生みたいなものだってネットが普及する前からあったろうし、それこそムーとかが担ってやっていたりしたんだろうし(肯定はしない)、所謂伝説とかも根っこは似ているのかもだけど、��の中に溢れる情報のなかの割合が変わって、裏取り無い話が、かつてのテレビラジオ位になっていってTwitterにしろYouTubeにしろ、身近でアクセスしやすいツールになっていて(スマホでそれらアプリがデフォルトに入っていたりする事とかもその一端かな)、発信者の保証がないのにかつてのテレビラジオ位の信憑性で扱われるのが何だかなぁと。ちょっとまだ上手く言語化できないけど、違和感。
TwitterにしろYouTubeにしろ、身近でアクセスしやすいツールになっていて(スマホでそれらアプリがデフォルトに入っていたりする事とかもその一端かな)、発信者の保証がないのにかつてのテレビラジオ位の信憑性で扱われるのが何だかなぁと。ちょっとまだ上手く言語化できないけど、違和感。 (2021/2/9Twitter連ツイから再録)
これを書いたの、ネットとかがもうそろそろ嫌になってきたからなんだよね。自分の時間はなんのためにあるのか?って。
馬鹿馬鹿しいほどデマが蔓延って、昨日もそれなりに時間を裂いた。それ自体は自分がやろうと思っていることだから構わんのだけど、何だろう、なんだかな。
これを書いたの、ネットとかがもうそろそろ嫌になってきたからなんだよね。自分の時間はなんのためにあるのか?って。
Twitterの中だけに囚われるのもなんだし、といって実を言えばリアルの社会運動とか選挙運動とかにある種の閉塞感を感じるようになったのもあって、そろそろ方違えをせんといかんのかなぁと言う気持ち。
ま、仕事がぎゅーぎゅーだったり、家のことだったりもあって、身体一個しかないのになぁと。
適度にやっているつもりで、そして無意味にふざけた呟きを流すことで自分のなかのバランスを保ってきたつもりですが、そもそも私がTwitterやる必要ってなんだっけ?!?となっているんすよね。
Twitter始める理由だった沖縄に関するデマは、実のところ色んな人が戦ってくれているし、報道もある。
自分の呟きって、本や情報を読んで自分の中で消化する時に思考の置き換えや照らし合わせ、血肉にする作業としてのものだったり、思考の出産だったりだなと思っているので(Twitterの前はブログで日記数年書いていたのもそういう感じ)、あれだな、ちゃんと栄養あるものいれないと身体だめになる感じ。
身体は食べたものでできる。
情報のインプットもその面がある。
今、ちょっと食べすぎな気持ち。代謝が低く、消化する体力もあまりない。基礎体力がないんだから、ま、当たり前。
筋トレ足りてない。
(2021/2/15追記)
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この半年ほど、酷く憂うつである。
何度か書いているのでよく知る人たちには嫌になる話であるのですっ飛ばしてもらえればいい。
私は時々、いわゆるネットでの沖縄ヘイトとも言える、身勝手で植民者目線な人たちの酷い言葉や、或いはカジュアルに沖縄を差別する人たちに資料などを以て事実を突きつける事で、その軽薄な(もしかしたら意識していない)差別言動に気がついてくれるかもとも思ってきた。
ネット以外では県庁前や那覇市役所前で差別扇動街宣をしている団体へのカウンターも同じように、デマが散りばめられていて、明らかなウソを主義主張に交える彼らの卑怯さが心の底から嫌いで、左右というよりその腐った思考が赦せないというのが動機のひとつでもあった。
リアルでもネットでも、カウンターをすることは、怖い。リアルなら尚更、狭い沖縄で身元を知られることに繋がりかねない怖さがある。
それでももしかしたらあの街宣をしているうちの一人は知り合いかもしれない、それなら、知り合いだけなら止められるかもしれないと向かった先で、全く知らない人がいて、ほっとしたけれど、だからと言ってじゃあ知ーらない、とはなれなかった。
交番に行ったり、議員さんに伝えてみたりしたけれど何年も事態は変わらなかった。近くで記録を取り続けるだけでメンタルを削られていた。それでも、ネットでの沖縄ヘイトや、国による沖縄いじめに、小さくても非力でも抗議の声を挙げてきたのは、現場にいく人たちがウソやデマで貶められるのが本当に嫌だったからで、例えばニュース女子での明らかな手抜き取材や著名人の心ない言葉が、どんなに馬鹿馬鹿しいことだとしても世に蔓延ることで事実と思われてしまうのが嫌でやってきた。それは私だけではなく多くの人がやっていることで、互いに顔は知らなくともSNSの中での連帯があった。
抗議することに私のルーツは関係なくて(もしかしたら多少はあるかもしれないけれど)、兎に角ウソやめろ、デマやめろ、差別やめろ、人を人として扱え、知らずに思い込みでレッテルを貼るな、というものだ。それはどんな立場でもどのルーツであっても、誰もが普遍的に言えることだと思っている。
私は、三代前からマーメイド🦈、じゃなくて両親とも三代前まで沖縄の人間だけれど、復帰前にパスポートをもって本土に渡ったので、私自身の出生地は関東だ。家庭の事情で沖縄だけでなくあちこちに住んだこともあり、沖縄の言葉を覚えるタイミングを逸した。沖縄で過ごした中で身に付いた言葉は、本土に越すときに直された。
根なし草みたいな子供時代を送った私としては、言葉やその他のことで、何処の人間か断じられることが怖かった。私自身には、無条件に疑うことなく身を預けられる故郷というものがなかった。
姓を沖縄に多いものと取り違えられたこともある。点呼で私の名字を間違えた先生に訂正を求めたら、それでも分かるだろう返事しろと言われたことや、卒業証明書の名字を間違えられたこともある。
名前に拘りはないが、いくつかの嫌な体験はあり、沖縄に住むことを選び仕事を始めても、名乗りながら相手の反応によってはうちなーんちゅですよと言う時の、小さなため息は積りつもって胸につかえた。
出身地を聞かれる度、どう答えて良いのか躊躇う数秒が未だにある。そういうものをオープンにして人と関わることそのものが、私にはしんどいことになっていた。そこに差別の意思はないだろうが、体感として『お前は何者か』と迫られるような感覚を覚えていたのだろうと思う。
だからこそ、私にとって差別への抗議には私自身のルーツなど必要がなく、"差別とは、人種化し、殺すこと"(梁聖英『ヘイトスピーチとは何か』より)であることが理屈より何より自分に実感として迫って体感されるものだった。
故に。
故に、私の行動を、私のことを沖縄出身者���はないという思い込みで判断され、非難されたことについて、私はもう何ヵ月も引っ掛かっている。非難の理由が出身に因るものであることなのか、その他なのか、私はこのことを冷静に語る事が未だにできないでいる。
那覇市役所前のカウンターとして最初にメディアに顔も名前を出してくれた人は確かに移住してきた人ではあるが、それは言い出しっぺというだけでなく、私や他の沖縄人カウンターが沖縄という地でどこでどう人間関係がつながるか、親族に繋がるかわからない背景を慮って前に出てくれたという事情もある。
この話をするのは、昨年末のクリスマス、新聞に、ある論考がでたからである。その論考では那覇市役所前のカウンター活動とも絡むヘイトスピーチ規制条例を取り上げており、その中で看過しがたい言葉があった。
曰く、"現在沖縄におけるヘイトスピーチ問題に取り組む人たちは移住者が多く、彼らには日本から沖縄、沖縄人に対してなされるヘイトスピーチから目を背けたい、または、日本から沖縄、沖縄人に対してなされるヘイトスピーチをなかったことにしたいという心理が働いているのではないかと推察する"という文である。
この推察は、事実と異なる。
例えば市役所前に集まる人は、自分も含めて沖縄の人間がメインで、沖縄へ移住してきた人が居ないわけではないが、この書き手は移住者が多い"ということを客観的事実を示さずに憶測でもって書いている。その趣旨も、決めつけている。何より、移住者という雑な括りは、その現場にきた人間でも互いに誰が誰か特に明かすわけでもないカウンターという現実を知らずに書いているとしか言いようがない。インターネット上の事とするなら尚更、発信者の出自など知りようもないはずだ。
事実誤認もさることながら、何より、日々の時間を割いてその場にくる全ての人に対してとても不誠実な言葉だと思っている。基地反対運動をしているのは外国人だというデマと何が違うのか、私には違いがわからない。
私自身は仕事の都合もあって平日のカウンターには参加できな��なってしまったが、半年以上経った今でも、この記事を読み返すのが苦しく、冷静さを失ってしまう。
(余談だが、この論考が掲載されて以来、私は新聞を読むとき該当するページを開かないようにするようになってしまった。)
それだけであれば、時が経てばやり過ごせるものだったかもしれないが、数ヶ月前に、その事を再度突きつけられる事があった。
私は、証拠なく決めつけをされることが嫌いである。憶測で誰かを論じることも、どうしても嫌悪を覚える。思うのは自由かもしれないが、明確な証拠が示せないことには慎重でありたい。
しかし、先の論考がまるで事実であるかのように言われ、そこに居るのは沖縄の人間だろうと反論したら『あなたは?』と、私の出自を問われた時、私は激しく怒りをおぼえた。出自に関し私が沖縄ルーツだと反論したことでその方はすぐに謝罪してくれたものの、では私が沖縄ルーツでなかったらなんだというのだ、という疑問があとから湧いてきた。
余談であるが、今県に要求しようとしているのは、人種差別撤廃条約を念頭に置いた内容の実行力を持つ条例であり、そこにどう"琉球民族"を反映させるかも含めての働きかけをしているつもりである。
(補足。始めにメディアの前に立ってくれた方は沖縄の人が声をあげる主になる方がいいだろうと、何度も言ってくれた。それを断ったのは私が血縁に居場所を知られたくないから、である。それだけなのだが、その事すらまるで『日本』による陰謀のように言われるのはとてつもなくしんどい)
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漫画家、川原泉さんの作品が好きなのですが、最近は『ブレーメン2』を読んでおります。
昔から実は社会的な話題を作品に取り込んできた人だなぁと感じていますが、mission 9「長靴をはいた猫」は、今当に自分の周りのことと絡むこととも重なります。昔から本の引きみたいなものはあったのですが(冷静に考えれば単にたまたま読んだ本からそういあものを読み取ったということでもありますが)、私にとって本というのは地図であり灯りであるなと、思います。
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