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IMAGINE RAIN 2-5
騒ぎの中から、泳ぐように抜け出した。裏通りへ向かう。
手にはうさぎのぬいぐるみ。スーツ姿で汗だくになって。何かの罰ゲームのよう。路地裏を走る。情けなく、早歩きみたいな速度で。
追っ手はない。
ミハネがあの場に残って私を逃したからだ。「アンタはウラベを連れて、ウヅキと合流しろ。あたしたちが『囁く者』に勝つには、ウヅキが必要だ」そう言って逃してくれた。心配しなくていいよ、あたしは勝てないけど、負けることはないんだからさ、と。
ほどなくして、いつもの倉庫に辿り着いた。
「ウヅキ、いるか?」
シャッターを上げた時点で望み薄だったが、一応声をかける。しんと、沈黙が答えた。錆びついたスイッチを押して明かりをつけた。
合流してくれとは頼まれたが、こうなれば、手詰まりだ。
あのゴシックロリータファッションの少女が、どこに住んでいるのかなんて知らないのだ。この(彼女たち曰く)作戦会議室で待ち合わせすることがほとんどだったのだから。
立てかけてあったパイプ椅子を���いてウラベを乱雑に置き、自分も座る。
「やれやれ、もう少し丁寧に置いてくれないかな」
ウラベの声だ。久しぶりに聞いた気がする。
彼は基本的にウヅキかミハネの手に抱えられている。そしてお願いを聞いて、どうにかしてくれるわけだが、その要請自体に対しての返事はまちまちだ。
とはいえ、セキュリティの掛かった扉の鍵開けなんていう現実的に可能そうなことから、私たち全員を人に意識されにくい状態にする(使命遂行中に誰かに声をかけられて邪魔されたことがないのは、偶然ではないらしいのだ)なんて超常的なことまでが彼の仕事の範疇で、そういう意味では無駄口を省いて仕事に専念している節があるようにも思っている。
「……悪かったよ」
「まあ精密機械でもないし、気にしなくていいけどね」
とはウラベの弁。
しかし、精密機械ではない、か。
「ぬいぐるみの中にトランシーバーが入ってるんじゃなかったか?」
「……とでも思ってくれればいい、と言ったのさ。そう思ってくれた方が話が単純で済んだ。あの時はもっと別に話すべきことがあった」
「そうだけど」
じゃあ今度は聞くべき時かもしれない。
「実際、どうなんだ?」
「キミは、ウヅキを探すべきだと思うけれど」
「どこを探せばいいかも分からない。ウラベは、知らないのか? いつも抱きかかえられてるのに。といって、言い出さない以上、知らないんだろ?」
「そうだね。ボクには目がないからね。見ての通り」
話が一周回った。
ため息をついて、外を見る。雨は降っていない。
今朝、雲一つない空を見たときのことを思い出した。
私に雨を見せている幻が、やがて完全に失われる時は確かに近づいていると思っていた。だけど、あんな吐き気を催す惨劇の後では、この晴天も白々しい。
私は、雨の有無で『囁く者』を見つけることができるらしい。そして当初希望通り、幻は徐々に薄まりつつあり、一方で、だからこそ困った事になっている。
「聞くけど、ボクの中にそういったものが入ってる手触りがあったのかい?」
「…………いや」
ウラベとの会話に引き戻される。
そういえば、息をあげてゼイゼイと走っていた間、かなり無遠慮に掴んで振り回していた自覚はあるが、そういう手応えはなかった。
完全にぬいぐるみだ。
そうなると途端に分からなくなる。もちろん、この集まりに不可思議なことはつきものだとは思っていても。
嫌になるほど時間が長く感じる。
耐えきれず、私は小さく舌打ちした。
「……それで、『囁く者』って、なんなんだよ」
「彼らは異世界からの侵略者で、人を殺す性質がある」
だっけか、そう聞いた覚えがある。
そんなものなのかと、深く考えずに聞き流した覚えも。私は目を細めた。
「なぜ?」
思わず疑問が口をついて出ていた。
だって滅茶苦茶だ。
集団自殺、死体が動き出す、パニック映画みたいだ。しかしそれらは現実のもので、私はそれを感知できる。ウヅキはそれを追放することができる。
どうして?
なぜ彼女はその役目を負っているのだろう。
「いっ……」
その時、じわりと溶けるような痛みが頭を貫いた。
「頭が痛い時は、何も考えずに目を閉じるんだ」
ウラベの声。
目を閉じるんだ。
それから疑問をシャットアウトする。
頭のなかにスイッチを想像する。できるだけリアルなものがいい。細かに想像する。金属の光沢、ひやりとした手触り、パチリと、オンとオフとを切り替える。
「すると痛みはひいている」
「……ああ」
そんなことでと思ったが、言われる通りにすると頭痛は治まった。
頭を振っても、微かにも頭の痛みの余韻はない。
逆に、身体を動かすと、シャツが汗を吸ってぐったりとしていることに気づいた。
それからもうしばらく、濡れたシャツを脱いで干そうか悩んでいるうちに、倉庫に少女が入ってくる。
待ち望んだウヅキの姿だった。
安堵して、息を漏らす。
彼女は見回してから、呟くように聞いてくる。
「ミハネは?」
「後で来るって」
「……また力を使うのね。なら、大丈夫とは思うけど」
半ば独り言みたいな少女の言葉。
思い返すと、ミハネの……勝てないけど負けることはない、という言葉については、確信的だった。
委細は分からない。でもきっと帰ってくるんだろうと思う。
「行かなきゃ」
ウヅキが手を差し伸べた。
「私もか?」
「それはそう。あなたがいないと、『囁く者』の場所は分からない」
当然みたいにそう言われて、でも、だ。
もう情けなくなって、口ごもる。
説明しなければと、私の心の中の大人の部分が、何とか口を動かした。
「……私は、必要ないよ。私の幻は、もう消えかけてる。それで今日は、その……よく晴れているなんて思ってしまって。でも実際は違うんだろう。私の目には、やつらがどこにいるかなんてもう映ってはいないんだ」
絞り出すように、言うと、彼女は険しい顔でこちらを見つめていた。
それでも手は引っ込めず、辛抱強く、僕を待つ。
「そうだとしても」
「どうして」
「あなたは、私たちの、仲間だから」
言って、首を振る。
「……ううん。違う。そう、あなたも、私たちだから」
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IMAGINE RAIN 2-4
翌朝。私は小鳥の囀る声で目を覚ましていた。
いつもより少しだけ早い目覚め。目覚ましをオフにしながら、何かひどい胸騒ぎがする。カーテンを開けてみる。日が昇り、俄かに明るくなり始めた空を見上げると、そこには雲一つなかった。
雨音のしない朝。
疎ましく思っていたはずのそれが消えている。
最近、こうして雨の幻覚が消えていることがある。それはずっとではなくて、すぐに空はぐずついてしまうけれど、それでも私に雨を見せている幻が、やがて完全に失われる時は確かに近づいている。
のろのろと身体を動かして、準備をして家を出る。空は晴れ晴れとしているが、私はそれを虚しく感じているらしい。いつも通りの道、いつも通りの駅。満員電車の中から外を見ると、通り過ぎていく街の全てが明るく輝いていた。永遠、鼠色だったはずの空が。首を振る。私は、ふつうでいたいと思っていた。淡々と仕事をする生活に戻りたかった。だからこれでいい。これで。
会社最寄りの駅で押し出されるように電車を降りて、人の流れにのって歩くと、その流れが止まっていることに気づいた。みなが上を見て、足を止め、息を呑み、眉をひそめる。
つられるように顔を上げる。すっかり明るくなった空に目を細めると、ビルの屋上に人影が見えた。
そこで私は、思い違いをしていたことに気づいた。
人影が。一人、二人。見える限り、ビルの屋上、そこらじゅうにいる。異様な光景だ。ぞわりと寒気を覚える。だから周囲の人たちも騒然として、見上げている。幻覚ではないらしいと、現実逃避じみた感想。ふらりと、誰かが落ちる。風に煽られましたとでも言うみたいに、あっさりと。そうなったら、もう止められない。次々と人が飛んで、落ちて、オフィス街を悲鳴が劈く。
鳴り止まない雨の幻覚が見えなくなったわけじゃない。町を覆うほどの『囁く者』がそこに在るのだ。雨が降ってないところ。ノイズがないところ、チューニングが合ってる場所。それでもなお、私が見ることのできない不可視の怪物がそこにある。
「いやあ��ああああ!!!」
叫び声で、現実に引き戻される。
生きてる!? いや、死んでる、死んでるのに動いてるぞ! 支離滅裂な言葉が聞こえて、止まっていた人々が波になって決壊すると、私を呑み込もうとする。
何が起こっているのか。そう思った瞬間、目の前がパッと開ける。
そこには骨折した首をぶらんとさせて、血と体液を垂れ流す死体がのそりと立って歩いて来ていた。できの悪い操り人形のよう。
「うそだろう……」
後退ると、背中が誰かにぶつかる。
振り返って、至近距離でそれを見て後悔する。陥没した眼窩から飛び出かけた眼球と目が合ってしまった。いや、あってない。彼らは既に死んでいる。なんとなくだが『囁く者』がこれらを動かしているに違いないと、確信できた。
慌てて突き飛ばして、逃げ出す。手についた赤色のぬめりを拭った。通りのビルから次々とやつらの尖兵が落ちてくる。落ちたことで尖兵になるというのが正しいのだろうか。次第に数を増やしていた。数えるのも嫌になるが、振り返って見た限り、十人くらいだとは思った。
彼らは傍を逃げ惑う人々を襲わなかった。なぜだか私を狙っているらしい。
いや……些か白々しいのだろう。使命と称して『囁く者』を止めていたのは、私たちだったのだから。
走るしかなかったが、もともと走るための靴でもなくて、つま先が段差にひっかかった。転がるように座り込むと、運動不足の身体は根を張ったように重くなっていた。情けない話、ほんの百メートル弱で。笑いたくなる。
やつらが近づいて来る。ゆっくりと、しかし私が死に体に鞭を打って立ち上がるよりは早そうだった。
その時、路地から一人の少女が現れた。明るい金髪の少女だ。黒いセーラー、ミニスカート。
手にはうさぎのぬいぐるみ。ウラベだ。
「呆れた、少しは運動しろよな……」
ミハネが仕方ないものを見る目で、私を見下ろしていた。
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IMAGINE RAIN 2-3
「あたしは、そうだな。用心棒かな」
そう彼女は言った。私たちの使命における役割はひとりひとりかっちりと決まっていて、私は『囁く者』を見つけること、ウヅキは『囁く者』を追い払うこと、ウラベはそれに至る諸々の不都合を払うことが、それにあたる。
その中で彼女は自身を用心棒だとする。
「危ないことが起こったときには、あたしが、命を賭してみんなを守る。もし何か命を引き換えにしないといけない場面になったら、まず、あたしがそれをする役になる。それが……あたしの役目」
その言葉は英雄的で、現代では時代錯誤にも思えた。
だけど人知れず使命を果たす彼女たち……私たちにとって、それほど縁遠いものでもないのだろうとも、すぐに思う。
だって『囁く者』は人を殺すという。思い浮かべるのは、ここ最近、見慣れてしまった自殺志願者たちの顔。フェンスの向こうに佇む無表情の。底冷えするような屋上の風までも思い出して、シャツの下で肌が粟立つ。
命を賭してみんなを守る。誰かが命を捨てないといけないなら、自分が真っ先に捨てる。それが嘯きだと思えたらと、そう思う。
フェンスをよじ登って向こう側に降りるのは、いつもミハネなのだ。『囁く者』を追い払うと、彼らの干渉を逃れた被害者は昏倒してしまう。そのときに落下死してしまわないように、安全にその場に寝かせる必要があった。
この少女は何でもないようにそれをするけれど、考えただけで足は竦む。私は特別、高所に恐怖を抱く方ではないと思う。としても、嫌な汗が出ないという意味ではない。頼まれたってやりたくない。もし最初からその役目のために勧誘されていたなら、まず断るだろう。
彼女はそれを司る。幼子の間で交わされる約束のように、意味もなく壮大な言葉で、けれど嘘もなく遂行されている。私はそれを当たり前のように思っていた。特に触れることもなく、見流していた。
「……どした?」
ミハネが首を傾げる。
「ああ、いや」
ウヅキに出会ってから、妙なことばかりが起こる。
だからたまに分からなくなる。いちいち疑問に思っても仕方ないと思っているだけなのか、それがしっくりと来てしまって疑問に思わないのか。あるいは……全てに慣れ始めているのか。
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IMAGINE RAIN 2-2
「早いね」
声をかけると、腰掛けて雑誌に視線を落としていた彼女が顔を上げた。手を捻って、視線だけ時計を見る。
「そっちこそ。どうせ、若い子と一緒に居られるからって早く来たんだろ?」
「……」
私はその言葉に対して存外否定では答えられないように思って、視線を外す。ニヤリと品のない笑みをこぼす彼女が期待するような理由ではないけれど、こうして彼女たちと一緒にいる時間を楽しみにしている節はある。
疲れた大人である私の目には、若い彼女たちの姿は眩しくて。
「ウヅキは?」
「ウヅキなら病院だよ」
「どこか悪いのか」
「ばっか。あたしもウヅキもアンタも、みんなここが悪いだろ」
ミハネが自分の頭を突く仕草をした。
笑えない冗句だ。何かを言い返す間もなく、彼女の目はすぐにお節介者を見る目に変わっている。
「ま、すぐ死ぬとかじゃないさ。ちょっと……いや、かなり特別な体質だから一応経過観察しておきましょうって話」
「体質」
繰り返��て、私は腰掛けた。
ギィとパイプ椅子が軋み、パチパチと蛍光灯が苦しげに瞬いた。
「今日は、使命は?」
「ないな。ウヅキがいないし」
彼女は肩をすくめる。
「『囁く者』は、そんなに頻繁には現れないのか?」
「……そんな、熱心だったっけ」
言われて、首を振る。そうじゃないけれど。
「ないけど、何だよ」
問われ、黙ってしまう。
実のところ、最近たまにだが、雨の幻覚が消えていることがある。それは、私が当初そう望んだ通りの結果のはずだった。
車庫の外。今は降り止まない雨の幻を、ちらりと見る。
私はこれを憂鬱に思っていたはずだし、今もそうであるはずだ。治したいと思っていた。ウラベは、それを必ずや治せると言った。しかしこれまでに、彼らが治療行為を行った素ぶりも、私にそれを受けた実感も無く。
でも、現実、消えかけている。
そう思うと、いろいろ考えてしまうのだ。
彼らは私の幻覚が必要なのだろう。一緒にいると使命を果たすことができるのだから。しかし、そうして行使すると、私の幻覚は徐々に失われてしまう。
そういうカラクリなのではないかと思えた。
だとしたら、この幻覚が完全に失われたとき、この集まりは一体どうなってしまうのだろうと、考える。
彼女たちとは別れることになるのだろうか。
使命に熱心になっているわけじゃない。ただ、いろいろなことが分からないままだから。例えば、私に降り止まない雨の幻覚を見せる力は、あとどのくらい残っているんだとか。
それを、そのまま言うことは何故か憚られて。
もやりとした気持ちを隠して、綺麗な言葉にしてみせる。
「誰かが死ぬかもしれないんだろう?」
「そうだけど、結局『囁く者』はどうにもできない。ウヅキにしか、さ。ウラベもいないし、今のあたしたちにできることはないさ」
少女の腕に抱かれていた人形のことを思い返す。
彼は使命におけるかなり重大な部分を占めているように思えた。開くはずのないドアは開き、セキュリティにさえ見過ごされて。大人一人、子ども二人という妙な組み合わせでオフィスビルの中をうろついて見咎められないのも。どういう理屈なのかはつくづく分からないが、彼の仕業らしいのだ。
「ウラベにも、使命に欠かせない力がある」
少女は言って、そしてそれは他人事ではなく。私に雨を見せる幻覚も、同じ類のものだった。
ミハネはあっさりと頷いた。
「そう、『囁く者』の場所が分かるっていうのもある意味そう」
「そうだろう、ね」
「今さ、じゃあ、あたしは何してるんだよって思っただろ」
唐突な言葉。思ってないとは言い切れなくて。
視線をずらして曖昧に誤魔化すと、少女の方から深い吐息の気配。
「そうだな。あたしは……」
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IMAGINE RAIN 2-1
不可思議な使命は続いている。
使命だなんて、曖昧な言葉にしかできないのは、すでに数度を重ねてしても、それがどういった意味を持つ行為なのかはっきりと分からないからだ。
彼女たちが『囁く者』と呼ぶ存在は、人を死に向かわせる幽霊だというのが私の認識だ。『囁く者』は人のなかにある、自死を求める心を増幅させて死に至らしめるのだという。
私たちがやっていることは、それを阻止することだった。邪魔をしていると言うべきだろうか。
いずれにせよ、自殺しようとしている人間を単に止めるだけの行為を『人助け』だと言える歳ではなくなってしまった。
その後の人生の面倒を見るわけでもないのに、死ぬことだけは許さないと、逃げ道だけは一丁前に塞いでしまう行為を『人助け』といってもいいのだろうか。それは、果たして正義なのかと、耳元で誰かが囁く。
生きていれば、逃げたいしがらみの一つや二つには必ず囚われる。平凡に生きようと苦心してきた私でさえそうなのだから。それは忘れようとして、忘れられるものでもなく、もし忘れようとして逃げだしたとしても、逃げたという心の澱が残るだけだ。その苦悩から解き放たれる時が来るとすれば、きっと命を落とす時だけだろうというのは、多分誰でも気づいていること。
『囁く者』は、それを増幅する存在にすぎない。あるいは今までに『人助け』した人たちだって、『囁く者』の存在なんてきっかけに過ぎず、すでにちょっとしたことでも自死する理由にできるほど、疲弊した存在なのかもしれなかった。
私たちがしていることは、それを邪魔する行為だ。
けれどもそれを、使命だと、ミハネは言った。
現代社会は高度に発達していて、人は溢れている。自分がありふれたものの中の一つであることを誰もが認識している。だから、他の誰でもなく、自分が何かを成し遂げなければならないという強い使命感を抱えることは、稀だ。
今までに見てきたそれの大半は……人が大きな問題の前から逃げられないようにするための方便だった。難問を解決するよう強要される。あるいは自ら、没入するための理由だった。使命とはプロパガンダだ。ありもしない使命とやらを抱えた結果、自らを犠牲にしながら燃え、尽き果てた人間を、傍目に見てきた。
使命なんて、嘘偽りだ。そう思ってたのだ。
だけど、囁く者を追放することが使命だと言う、ウヅキの顔は真剣に見えて、言葉を呑んで。この行為は何の意味があるのかとか、なんで続けてるのかとか、辞めようとか。そう言ってみることも簡単ではない。
砂糖で味がぐだぐだの缶コーヒーを飲み干し、裏通りの屑かごに捨てて歩く。
古びた車庫の集会所には、すでにミハネが座っていた。
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IMAGINE RAIN 1-7
タクシーがそのビルの前につくと、そこで雨が降ってないことは決定的になった。 街灯やビルから漏れる明かり照らされた通りのどこを見ても、雨粒が、一粒たりとも目に入らなくなっていたからだ。道路の濡れた様子もなくて、光景は、もう長いこと雨の世界にいた私には、不気味なものですらあった。 ビルに近づく。ごく普通の雑居ビルだ。正面玄関に向かうが、自動ドアはぴたりと閉じたままだ。当たり前の話だが。 防犯の都合から、この手のオフィスビルは遅い時間になると通用口からしか棟内に入れないことが多い。専用のセキュリティカードも必要だ。 「ウラベ、開けられますか?」 「勿論」 しかし、ウヅキが腕に抱えた人形に問うと、一瞬おいて、自動ドアはあっさり開いてしまう。エントランスホールを横切ってエレベーターに乗り込むと、ミハネは最上階のボタンを押した。 「これって不法侵入じゃないか」 「自動ドアが開いたから中に入った。これのどこが犯罪だ」 「開けたんだろう? ウラベが」 「いいえ。開けたのではなく、開いたことにしてくれたんです」 ウヅキが抱いた人形を撫でながら言った。 それらにどういう違いがあるかは分からなかったが、深く考えても仕方ないという諦めのような思考が脳裏を過ぎった。不可解なことはどんどん増えていく。考えるだけ無駄なのではないかという諦観か。抱いていた疑問が何かに塗りつぶされるような気がして、私は頭を振った。 最上階につくと、そこから階段を探してさらに上を目指す。その足には淀みがなく、彼女たちは最初から屋上を目指しているように思えた。 「これまでの経験から、私たちの敵が、屋上にいることは分かっているんです。彼らは概して屋上で、その務めを果たします」 「どうして」 「そうですね……そうするのが一番簡単だからでしょう」 屋上の扉を開けると、強い風が吹き込んだ。雨の気配は、ない。 そう広くない小さな雑居ビルの屋上を見回すと、フェンスの向こうに人影が見えた。 「あれは……」 フェンスの向こうでやることなんてそう多くない。 だいたいのところ、窓の清掃する準備か、飛び降りるかのどちらかだと思う。私も、後者の行為については人生一度は意識したことはあるけれど、結局は、悪ふざけでも試みたことのない行為。 「あー。まあ、間が空いたからな。まあでも、被害は未然に防げたってことで」 ミハネが頭を軽く掻いて、大仰なほどに靴を鳴らして歩き出す。手招きされて私たちも近づいたが、フェンスの向こうの男は振り向く気配もなかった。 「彼は一体?」こちらのことを気にすることなく、ただそこに佇み、下を眺めるようにする男を怪訝に思う。 「私たちの敵は、人を殺すことを目的としています。そしてそのために、人々に死を囁きます。生きる意味を無くす言葉、死ぬ理由を植えつける言葉。囁かれてしまった人間は、自ら命を落としたくなるんです。屋上という場は、元々そういったものに共感しやすい人が多くいるから��そ、敵も屋上を選ぶのでしょう」 「あたしたちは、敵のことを『囁く者』って呼んでるが」 ミハネがフェンスをよじ登って、向こうに降りた。 隣に立った少女に、なお、彼は反応を示さない。 「『囁く者』に取り憑かれた人間は、思考に囚われて、己のなかで葛藤をする。そうしている間は、この通り。逆に言えば、葛藤が終わればこの人は死ぬんだ」 「じゃあ、どうするんだい」 聞くと、ウヅキがフェンスの向こうの少女に目配せした。 「いい? ミハネ」 「いつでも」 淀みのないやり取りをして、隣に立つウヅキはゆっくりと両手を前に出していた。 拳を握りこみ、親指と人差し指だけをエル字に伸ばす。互い違いになったエルで、宙に額縁を作るような仕草をすると、そっと呟く。 それこそ囁く小さな声。 「『在らざるものは映らざるはこ』」 その言葉の意味を、脳が咀嚼し始める前に、変化が先に来た。 何か大きなものが動いていったかのような、強い風の流れが起きたのだ。思わず手をかざして目を細める。 けれど、過ぎてみれば一瞬のことで、身構えた自分が大仰なようだ。視界を過ぎった雨粒に空を仰ぎ見ると、不気味に止んでいた雨が降り始めた。 世界が雨になっていく。雨天に書き変わっていく。 「おっと」 ミハネは、ふらつく男の腕を掴んで引き戻すと、その場に寝かせた。男は目を閉じて、眠っているように静かだ。目を覚ましたら、何で自分がこんなところにいるのか驚くことは間違いないだろう。ビルの縁には膝程度の高さの段差があるので、飛び起きても落ちはしないだろうけど。 そこまで終えると、彼女は「よし」と言って、フェンスを登って戻って来た。 「今、一体、何を?」 少女はフェンスに触れて汚れた手をはたいて答える。 「『囁く者』を追放したんだ。それが、あたしたちの使命、だ」 「私の力で。あるいは呪いで……」 ウヅキのひっそりとした声は、半ばで雨に掻き消えていく。
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IMAGINE RAIN 1-6
話している間に屋上についた。 「あーあ、歩いたら疲れた。ちょっと何か買ってくる」 ミハネと別れて、屋上の隅の方にあるウッドデッキに上がった。そこは小さな展望台になっていて、街を眺めるのにうってつけだった。 「どうですか。雨降ってないところ、分かりますか?」 「探してはみるけど」 見渡してみる。薄っすらと煙るように、遠くが霞み、世界は暗い。 晴れていれば、西の空に陽の残滓が見えてもおかしくない時間だったが、見通しの悪さは、雨が降っていることの証明でもあった。 ウラベはこれをイデアノイズと表現した。この世界と、別の世界を同時に見ようとしている齟齬が、雨となって降り注ぐという。 「雨が降ってないところを探すのはなんで?」 「雨がノイズだということは、降ってないところはノイズがないところ、つまりチューニングが合ってる場所だということです。そこに、私たちの探すものはある」 「それは?」 「それは、異世界からの侵略者だ……といったら信じますか?」 少女が無表情に私を見ていた。 「映画みたいだ」 「そうですね。けれど、幻の雨が見えるのだって、少なくともドラマみたいです」 さもなくば小説か。そうかもしれないと、往生際悪く濁すことしかできなかった。薄く、溜息同然の深呼吸をする。 その時、私の目が違和感を訴えた。 目を凝らす。幾重にも重なる雨のヴェールが、他よりほんの僅かに薄いビルが、一棟だけ佇んでいるのを見つけた。 「見つけたか?」 ミントアイスを食べながら、ミハネが歩いて来た。 街の一角を指差した。そこだけは、確かに、雨が降っているように見えないのだ。降り止まない雨、けれどそこだけは。 「オッケー、さっさと行こうぜ」
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IMAGINE RAIN 1-5
さっさと倉庫を出て歩き始める二人に取り残されないよう、私はその後をついて歩くしかなかった。 三人で裏通りを歩く。今は裏通りだからいいにして、私たちがおかしな組み合わせであることは見てすぐに分かる。これが表通りになると向けられるのは奇異の視線になるのではないかと少し憂鬱だった。 「キョドるなって。別になんも言われやしねーよ」 「しかし……」 「堂々としていれば大丈夫です」 ゴシックロリータ姿で往来を歩く少女に言われると含蓄がある。そこで納得すると、隣の金髪の少女が不満げに鼻を鳴らすが、何も言わずに隣にいた。 「それで、どこに向かってるんだ」 「それを決めるのはアンタさ。アンタは、そのイデアノイズを嫌ってるが、こっちはこっちでイデアノイズが見えるっていうのは大切な用事に関係することなんだ。アンタには、雨が降ってないところを探してほしい。そこがあたしたちの行き先さ」 そんな場所があっただろうか。いや、例えば室内は降らない。それは雨が雨である以上は当然のことだと思っていた。 「言っとくけど、室内は違うからな。イデアノイズとは言っても、それもあくまで認識に沿って別のものに置き換わってるんだ。アンタの脳がイデアノイズを雨だと認識している限り、それはアンタのなかで雨と同じようにしか在りえないってわけ」 私は空を見渡した。 暗い空。相変わらず雨は降り続いている。 「高いところから見てみましょう。その方が探しやすいと思います」 「……そういえばそうだな」 少女の一存で駅前にある大型ショッピングモールに入ると、買い物することもなく一直線に屋上を目指す。モール内には平日とはいえそれなりの客がいたが、私たちは完全にそのなかに紛れていて、何者の注意を集めることもなかった。 「全然、目立ってないな」 「何、目立ちたいの?」 エスカレーターの前の段に立つ少女がおかしそうに振り向く。 「そうじゃないが」 「ならいいじゃ���。あたしもエンジョされてるとか思われたくないし」 「その制服、結構なお嬢様学校のやつだったかな」 酒盛りしているときに、同僚が推しのアイドルのプライベートショットがどうのという話をしていて、画像を見せてもらったことがある。そこでなんとなく学校名と制服のデザインが結びついたのだ。 携帯を出して警察を呼ぶそぶりの彼女に説明すると、へーえ、と緩い返事。 「ふうん、まあ、そういうのもいいんじゃん?」 「本当に。そういう趣味はないからね」 念を押すと、ニヨと笑った。 「そうじゃなくて。まあいいけど。あとあれ、あたしのこれは形だけだ」 「形だけって。中退……とか?」 「何の話?」後ろにいた方が話に入ってくる。その腕に抱かれたウラベは、当たり前だけど沈黙を保っていた。 「ウヅキには早い話」 「…………まさか。そんなまさか」 一瞬呆気にとられてから、改めて、呆れるような表情。 「ウヅキっていうのは名前?」 「そう呼んでください」 「そういえば自己紹介してなかったな。あたしミハネ」 「美しい羽?」 空中に漢字を書くと、ミハネは笑った。 「ばっか。ニックネームだし。カタカナでミハネ。いきなり本名教えるかよな」 それもそうだ。 子供と大人と、ウラベと名乗る声だけの存在。そんな組み合わせで、一人は三十路近いし初対面だ。この対面で個人情報を積極的に晒したいなんて思わないか。賢い子だ。そもそもこうして、一緒にいること自体が賢いことかは分からないけれど。それは自分にとっても、ミハネやウヅキにとっても。些か今更ながら。 そう言うと、ミハネは鼻で笑った。 「なら精神科にでも行くか? いつでも雨が降って見えるんです。なんて」 「それは、嫌だな」 「あの……私は本名なんですが」 「あー、そういえばそうだったな。どんまい」 軽い慰めに、ウヅキは眉を顰めた。
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IMAGINE RAIN 1-4
「ボクが雨の秘密をお教えしよう」 少年の声。周囲を見てから、少女の方に視線を向け直した。ピンクと白のうさぎの顔が得意げに歪んだ気がする。物理的にそんなことが起こることがないとは理解していながらも、すでに雨が降りしきる手前、そういう幻覚を全く見なかったと保証することはできなかった。 「気のせいか、ぬいぐるみから声がする」 「気のせいではないですね」 少女があっさりと言って。 それからニヤリと、うさぎが笑んだ。それは彼が自らそうしたのか、少女がぬいぐるみをぐいっと歪ませて、そう見せたのかは分からないけど。 「どうも、ボクはウラベ」 「ええと」 「気持ちは分かるとも。ボクのことは、そうだな……この人形の中に、トランシーバーでも入っていると思ってくれ��ばいい」 「なるほど」 それらしい解釈を差し出されて、私は頷いた。 どうしてそうしているのかは、聞いてはいけないんだろう。 「キミが見ているもの、それはずばり、イデアノイズと呼ばれているものだ」 それ以上の質問がないとなると、彼は、唐突に本題に入る。雨の音が車庫に響いているけれど、ウラベと名乗る男の声は、恐ろしく明瞭に届いた。 「イデアというと」 辛うじて、イデアという言葉が哲学の用語であることは小耳に挟んだことがあるが、彼の言葉は一先ず私のなかを上滑りしていく。 「イデアノイズとは、つまりチューニングのズレが見せる認識の齟齬。キミは現在、現実世界の像と、どこか別の世界の像とを同時に見ようとしている。キミの脳はその情報を認識しきれず、混乱しているのだ」 「正直な話……何を言っているのか」 「こういうのは、話を聞いたという事実が重要なのさ。今ここで理解できないとしても、ここで話を聞いたという事実が存在する。耳に入れただけの言葉が、やがて実体験と結びつき、実感されたとき、確かな意味を持つようになる」 ウラベの声は特に起伏も見せずに、そう語る。見慣れた台本を読むような滑らかさだ。私の返答を想定しているかのようだ。いや、今の説明を聞いて、直ぐになるほどわかったと答える人間なんていないだろうから、想定は易いだろう。 「それで」 「そう。それで問題は、それが治せるかどうかだろう。安心してほしい。その症状は百パーセント改善される」 「どうしてそうまで?」 「これまでに、その症状は何度も改善された実績がある」 「そうか」 「ボクらは、確かにそれを治療する手助けができるが、それと引き換えに協力してほしいことがある」 ウラベがそう言うと、ちょうど車庫に三人目が入ってきた。いや、四人目か。 明るい金髪の少女だ。 黒いセーラー、ミニスカート。黒いハイソックスと、艶のある革靴。 学生だ。 派手さのないデザインの制服に身を包む一方、眩く感じるほどの白い肌が、太陽色のライトに照らされていた。鮮やかな金髪が、空気の動きを捉えて滑らかに踊る。 「話、終わった?」 制服姿の少女は、私の方を見て驚いた様子もなくウラベに目を向けた。 「ちょうど、その話をするところだった」 「ならちょうどいいよ。ダラダラ喋るのも難だろ? 行こうぜ」 勝気な表情を浮かべ、顎をしゃくる。粗野な仕草と口調だったが、それは不思議と彼女に似合っているのだと直感した。
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IMAGINE RAIN 1-3
朝のニュースは今日も一日快晴であることを告げていた。 それでも、まるで悪びれもせず、私の世界には雨が降り続いている。満員電車の中から外を見ると、延々と降り続ける雨が、通り過ぎていく街の全てを暗く濡らしていた。 この雨は悪化することはないのだろうか。誰も答える術のない自問を浮かべる。雨模様の続く脳内天気予報に���例えばいつか、雷のマークが増えることがあるのだろうか。この鼠色の空に暗雲が立ち込めて、四六時中、雷鳴が響いていたら、今よりもっと気が塞ぐことは確実だろうと思った。 霖雨の毎日。社内では、駅前に立つ黒い少女の噂が囁かれていた。 終電間際の駅前でゴスロリ少女に出会うと小さな幸せが訪れるとか、ある日夜道に佇むゴスロリ姿の少女を見たら手に頭蓋骨を持っていたとか、彼女の言葉に返事をすると不幸が襲いかかるとか。そういった益体もない話題がちらほらと漏れ聴こえる。まるでガッコウのカイダンか何かのようだ。 平坦な毎日に彩りを加える暇つぶしのフォークロアは、吉兆とも凶兆とも決めきれずに好き勝手に語られている。 大体そもそも。私はぼんやりと心中で反証する。彼女が腕に抱えているのはうさぎのぬいぐるみで、人骨ではないし。 けれども、彼女の言葉に返事をするとまずいことが起こるというのは間違いなさそうだった。そこだけは賛成する。 間違いなく何かが起こってしまう。そう思っていたのに、少女と言葉を交わしたのだ。私は。
その日、彼女が暗黒の瞳で見透かしたように放ったのは「雷が落ちる前に、知るべきですよ」という言葉だった。どこかで、彼女が探しているのは別の誰かで、たまたま私がその誰かに似ているだけだという可能性は捨てきっていなかったのに。 足を止めると、後ろを歩いていた人が迷惑そうに鼻を鳴らして横に避けた。駅前通りの人の流れが一瞬だけぎこちなく淀むけど、やがて往来は流れから外れた私を無視して、新たなルートを示し始める。爪弾き者になったあとは、もう何食わぬ顔で往来に戻ることはできなくなった。 少女が裏通りに入っていく。私は往生際悪く駅前通りを振り返るけれど、もはや誰も私のことなど気にしてはいなかった。 少女の後を追って行く。ビニル傘が幻視の雨を弾く。存在しないはずの雨粒が、不気味なリアリティでビニルの表面を跳ねていく。この、傘が雨を弾く様も、私の頭の中にしかない、私の脳が見せている風景なのだ。私の脳は大きな無駄を積み重ねている。 降りしきる音。雨粒は上から下に。空から降り、屋根を垂れ、地面を濡らすと出来の悪い鏡になる。自動販売機の光が映りこんだ。雨の匂いと裏路地に積まれた生ゴミが混じりあった壮絶な臭い。それら全ては幻に過ぎない。 次第に、彼女も幻像なのではないかと俄に恐怖が滲んで、口が動く。 「きみは、この雨が見えているのかい?」 「いいえ。見えないですね」 微かな願望の混じった言葉をすげなく切り落とすと、彼女は足を止めた。ひと気のない倉庫の前だった。軒下で傘を畳んで、シャッターを上げる。錆びついたスイッチを押すと蛍光灯が目障りな点滅を起こしながら、古びた車庫を照らした。 「ここは?」 「作戦会議室です」 何もかもが埃被った���庫に、パイプ椅子が三脚だけ置かれていた。ゴシックロリータファッションの少女がそこに座る様は、酷くミスマッチで、服に埃がついたらなんて思う一方で、そういう芸術なのではないかとも思える。 「作戦というのは? それは、私の雨のことと関係がある?」 「あります」 少女が言うと、なぜかそこで、その手に抱かれたうさぎのぬいぐるみが、じろりと私を見た気がした。
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IMAGINE RAIN 1-2
駅前の通りを歩きながら、往来を観察する。歩いている最中だって、周りの人が天気に対してどのようなリアクションを行うかを見逃すと、変な目で見られることになる。歩き始めるときにチェックするだけでは不十分なことを知ったのは随分前だった。 当たり前だけど、歩いているうちに降り始めることもあるし、逆に止むこともある。陽気を感じたり、雨粒が肌を叩くくらい激しい差ならわかるけど、それ以下のアナログな違いを視覚・聴覚・嗅覚に頼らず察知できるほど(少なくとも私は)敏感じゃない。 だからこそ、駅前にぽつんと立っているゴシックロリータファッションの少女がビニル傘を差しているのを見たときには、ぞわりと寒気がした。 慌てて手のひらを上に向ける。 相変わらず、雨が���っている気配はない。必要もないのに傘を差す華奢な少女の姿だけが、一滴垂れた染みのように異質に浮いていた。尤も、ゴスロリ自体がビジネス街の往来には馴染んでいないので、彼女の周囲にぽっかりと空いた空間のうち、半分くらいはそちら由来だろうけれど。 小学生か、ぎりぎり中学生かくらいの小さな女の子だ。背中まで伸びた黒い髪が不気味に艶めいており、白い肌の上には整いきった眉目。ビニル傘は置いておくとして、ピンクと白のストライプ柄になったうさぎのぬいぐるみを抱えているのが、いかにもそれらしいなと、勝手なイメージ論が脳裏を掠めた。 少女との距離は徐々に近づいている。通勤列車に乗るためには、当然だけど、駅に向かって歩くしかない。私は嬉しくないことに気づいた。彼女の目が、私を見ているのだ。 自意識過剰だと思った。しかしいよいよ近くなると、私を見ているわけないと疑うことは難しくなり、やがて不可能になった。 「雨の秘密を知りたいですか?」 ざあざあと降りしきる雨の音のなかを、小さくてそしてはっきりとした質問が響いた。 跳ねるように動揺を示した内心を顔に出さないよう、むしろ足早に立ち去ろうとする私の姿を、真っ黒な瞳が追いかけてくる。視線に気づいてないフリを押し通すと、電車に乗る頃には深い溜息を二つ、ついていた。
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IMAGINE RAIN 1-1
ふ��心にぽかりと空いた穴を感じる。 私は今ここにいるべきではないのではと、誰かが囁いてくる。きっと面倒くさい書類仕事が終わって、疲れているんだろうと思った。 学生気分の抜けない子たちがそわそわとし始めるのを受けて、時計を見た。もうすぐ定時になる。視線を動かして、整頓された自分のデスクを見る。今日の業務はあらかた終わっている。細かいところは明日でもよかった。すぐに帰ることができる態勢を整えて、終業のベルが鳴るのを待っているのは、私も同じだ。全身から期待を滲み出すこともなく、ただ淡々と待っているだけという違いがあるだけで。年相応に落ち着き払っているとも言えるし、あるいは定時上がりだからといってアフターファイブに心躍る予定があるわけでもない独り身アラサーのあるべき姿とも言える。 まごまごしていると面倒な書類をデスクの上に積まれてしまう。楽しそうに談笑する子たちの波に乗じて退社する。一階エントランスを出て空を見ると、鼠色の雲が雨を吐き出していた。あっと思う間もなく、先にエレベーターを降りた女の子たちが雨の下を構わず歩いていく。私はそれを見て、無意識に折りたたみ傘を探っていた手を通勤鞄からそろりと出した。 空を見上げ、通りに出た。ざあざあと、雨脚は強くなっていく。ホワイトノイズさながらの降雨のなかを、誰も彼も、そして私も、濡れることなく歩いている。それはそうだ。雨なんて降ってない。降水確率ゼロパーセントで、今日は晴れだ。もしも雨が降っていたら、社内も、もう少しブルーな雰囲気を漂わせていたかもしれない。 その始まりがいつの頃なのかは忘れてしまったが、私には幻覚の症状がある。 雨の音が聞こえるのも、ビル街を降り注ぐ雨が見えるのも、近くを流れる用水路からやや酷い臭いが漂ってくるように感じるのも、幻覚だ。そうじゃないと説明がつかない。きっと何か、物理的にか、精神的にか(私は精神的な方に賭けるけど)ひどい問題があって、私の世界には常に雨が降っているのだ。私はそれを確定的なものにしたくなくて、精神科の戸を叩くこともなく恐々と静観している。現実から目を逸らしても、雨が降る幻覚を見ていることには変わりないのに。 たぶん私は、ふつうでいたいのだ。気兼ねもされずに、淡々と仕事をする生活が気に入っているのだ。自分が矢面に立って何かをするという体力や情熱はすでにない。最初からないのかもしれない。けれど、その他大勢として安穏と生きるにしても「こころの病気を患ってるんですって。前から暗いと思ってたけど」なんていう、お節介な品評は邪魔にしかならないだろうと、ちょっと考えればすぐに分かった。
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