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引きこもり
俺は、翼をもがれている。毎日、日が昇って目を覚まし、暗くなったら寝る。その繰り返しで、生活に張り合いがない。朝、家族が出かける前に「おはよう」と言ってくるので、俺も「おはよう」と返事をする。一日の中で発する言葉はそれぐらいで、あとは誰とも会話をしない。
母親とは、生まれた直後に諸事情で離ればなれになってしまったので、孤独には慣れた。劣等感なんていう高級なものも持ち合わせていない。なんせ、俺と比べる相手がいないのだから、誰にも劣等していない。家族が仕事へ行っている間、俺は、部屋の中で、哲学らしきものをしてみることもある。窓から少し見える青空を眺めながら、母親のことを考えながら、食べて寝るだけの人生に、意義というものがあるのかどうかを、ふと考えてしまうこともある。こういう思考は本当に「ふと」襲ってくるもので、おそらく、ソクラテスの「ダイモーン」もこんな感じだったのだろう。突然の、異世界からの異物の、思考への侵入。思考とは、自発的なものではなくて、他者からの贈り物である。だけれど、俺にとって他者とは、たまに顔を突き合わせて喋る程度の家族しかいないのだから、皮肉なものだ。部屋にこもって、刺激がないと、新しい思考も生まれない。どんどん自閉していくのが分かる。自己の内面を見つめるほど空虚で、体の中も、精神の中も、もみ殻のように空っぽだ。3秒で全てを忘れてしまうようなお粗末な脳みそに、サアっと思考の風が吹く。「今日のご飯はいつ頃だろう」というのが主な内容だが、たまに「外の世界はどうなっているのだろう」「俺も羽ばたける日が来るのだろうか」「なぜ生きているのだろうか」という、鈍色の風も吹く。昨日は昨日の風が吹いて、今日は今日の風が吹く。
ストレスがたまると、暴れてしまう。暴れたあとに、「切れる引きこもり」という金切り型の存在になったような気がして、すうっと、存在が薄くなる。
「ただいまー」家族が帰ってきた。
「ピーちゃん。今日も元気にしてた?」
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いのち
いのち
いのち
いのち
頬を撫でる風が
いのち
だったと
さいきん 気づいた
いのち
歌声
いのちの
泣き声
うぶごえ
やわらかい
いのち
やさしい
いのち
かなしい
いのち
あのとき蹴った石も
いのちだったと
今ごろ 気づいた
いのちは
なみだの 味がする
それは
とてもやさしいから
頬を撫でる風が
いのち
だったと・・・
おれはそれが
とても
うれしい
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自戒 怒り
弟が僕の病気に対して無理解���ぎる上にバカにしてきたので、大人げな��ブチ切れてしまった。一回怒るとお腹が痛くなるし、希死念慮も湧いてきて、1~2時間ずっとその状態が続いた。薬と瞑想がなかったら1日中しんどかったと思う。怒りは自分の体の毒になる。早死にする。幸福が遠のく。何があっても怒らないようにしようと思った。
怒りそうになったら、呼吸と思考と胸とお腹の感覚に集中する。みんないつか死ぬことを思う。相手の声をただの音のように聞く。
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知識病
某掲示板で、哲学や宗教のことを語れる人を探しているのだが、来た人は決まって「トマスアクィナス」がどうとか「デカルト」がどうとか「カント」がどうとか言う。中世の神学者や近代の哲学者の言った言葉を勉強して何になるのか分からない。何にもならない。僕も一応ソクラテス以前からハイデガーあたりまではザッと哲学史をやったが、心に響くのはソクラテス、エピクテトス、パスカル、スピノザ、キルケゴール、ニーチェぐらいだった。それはこの人達のテクストと人生が濃密に絡まりあっているからで、大学教授が偉くなるために書いたようなくだらない文章ではないからだ。僕が哲学史をやって良かったと思うのは、さっき挙げた人達の文章で自分の人生が豊かになったことと、哲学の知識なんか本当にくだらないと知れたことだった。「知識のための知識」は本当にくだらない。思考ですらない。そんなものはテレビのクイズ番組を見ながらドヤ顔することぐらいしか使い道がない。勉強は非常に大事だが、「知識を付けて人生で偉そうにしたい、賢く見られたい」という風な勉強をすると、クソしょうもない人間になる。
「トマスアクィナスって知ってます?」「あのアリストテレスを換骨奪胎して神学に織り込んだ人ですよね、中世哲学の本を何冊か読んだので割と詳しく知ってます、神の存在証明とか面白いですよね」「あの神の存在証明もアリストテレスが起源なんですよね」「やっぱそうですよね、あの不動の動者がキリスト教の神なんですよね、でも中世哲学は僕はドゥンススコトゥスが好きなんですよ、というのはですね…」みたいなオナニーを見せあう会話をしたくない。「幸福ってなんだと思いますか?」「誠実に生きるってどういうことだと思いますか?」みたいなのを一発目からかましてほしい。
知識に依存している病人は、自分が愚かだということに気づきにくいので、治療しづらい。西洋哲学をかじっている人間は大半がこの病気にかかっている。僕は治ったが、結構長い時間がかかった。
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瞑想
瞑想を始めて1年ぐらい立ったので、いろいろまとめようと思う。
まず客観的なことを言うと、毎日7~10錠ほど飲んでいたデパスが、4錠に減った。15mg飲んでいたパキシルが、0mgになった。けれどその代わりにリスペリドンという薬が増えた。デパスの量はこれからも減っていくと思う。
主観的なこと、まずは感情面のことを言うと、単純に幸福感が増えた。怒ることが減った。うつ病?の影響かは分からないが、僕は昔っから短気で批判ばっかりする人間だったのだが、それが激減した。激減してこれ?と思われるかもしれないが、10代の頃から僕を知ってる人ならだいぶ減ったと分かってもらえると思う。友達の彼女とスカイプをして「Twitterでいっつも何かに怒ってる人ですよね?」と言われたことがある。それぐらい常にイライラしていて常に何かに八つ当たりしていたのが、半分以下になったと思う。これからも減っていくんだろうなと思う。
それはなぜかと言うと、瞑想による単純な幸福感の上昇というのもあるだろうが、自分の思考が「観える」ようになったからだと思う。口で言うのは難しいが、例えば親に何か手伝えと言われたときに「めんどくせえなあ」というネガティブな思いが浮かんだとすると、それに気づいて、それを受け流すことができるようになった。以前だったら心がその思いに染められて、黒くなっていた。
あと、息を見つめるだけで穏やかになれるという事実を知り、「なんかなんとかなる」という根拠のない自信ができた。恋人とセックスしなくても、大金持ちにならなくても、坐って息を見つめれば、穏やかになれるので、「人生なんかなんとかなるやろ」みたいな自信が湧いた。
昨日読んだ瞑想の本に「青空と雲」という比喩があり、ピンとくるものがあった。禅宗ではこれを「鏡と塵」と言ったり、テーラワーダ仏教では「心と心所」と言ったり、チベット仏教の僧侶は「宇宙と星」などといったりしていたが、言わんとしていることは全て同じだと思う。自分の「思考」は「思考」であり、その思考の「背景」がある。その「背景」を青空と言ったり鏡と言ったり心と言ったり宇宙と言ったりする。青空は、雲が白くても黒くても意に介さないし、鏡は何がうつっても本質は何も変わらないし、宇宙は星に何があっても何も反応しない。そういった「思考の背景」の部分を含めて「自分」なのだと、今は考えている。僕がこのブログを書いているのは、この比喩で言えば雲だったり塵だったり星だったりする「思考」、言い換えれば「エゴ」なのだが、そのエゴを超えて、包み込むような、背景、青空、宇宙といった心の領域が存在する。このことを仏性だとか空性だというのだと思う。「思う」ばかりで申し訳ないが、まだ学んでいる途中で、推測でしかないので「思う」ばっかりになってしまう。でも大筋のところは外していないと思う。昨日読んだ瞑想の本は「自分が雲ではなく青空であることに気づきなさい」と言っていたが、本当にそうだと思った。自分は、感情や思考、エゴだけではなく、その背景でもある。その背景はそういった感情や思考やエゴを超越しており、超然としている。こればっかりは体験してみないと分からないが、本当にそういう背景が存在していて、その背景にとどまることで、思考、エゴとの距離ができて、どんな思考や感情=雲が湧いても、超然と生きることができる。
僕は「自分とは何か」という問いも持ち続けているんだが、単なる理論ではなくいわば人体実験をすることで、自分の目で直接見ることができるというのはうれしい。
穏やかな人生を送りたいし、自分が何なのかを知りたいので、もっと精進していきます。
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僕
このブログに出てくる「僕」はエゴであり、偽物である。エゴが思考しているだけだ。エゴの言うがままになる人生はつまらない
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幻滅するために生きている
「幻滅したい」と思ったのは20歳の時だったと思う。キルケゴールが若いころに放蕩生活を送っていたストーリーや、ブッダが王族の豪奢な生活を捨てたストーリーを読んで、僕もこの世に幻滅したいと思った。僕はたくさん希望を持っていたから。キルケゴールが言うには、人間はすべからく絶望しなければならない。僕も強くそう思った。僕の希望は淡くて儚いものだったから。「何か」を手に入れれば、死ぬまで幸福だと、そういった希望を持っていた。その時は女体があれば、幸福の絶頂にいられると思った。中途半端な希望は救いにはならないと知っていた。だから、幻滅しようと思った。
東京で1か月ほど、放蕩生活をした。案の定、幻滅をした。その時日記に「次は女と同棲をするのが希望だ」と書き、その1年後に同棲する希望は叶った。死ぬまでの幸福はなかった。同棲は日常だった。倦怠だった。希望を叶えると、現実になり、それは「これは決定的な救いではない」という幻滅に変わった。
希望を全て打ち捨てるところに絶望があり、真の信仰とは、真の絶望からしか生まれないことを僕は直観していた。愛する者の死から人は信仰をする。自分の死期が近くなると、人間は信仰をする。希望が全て粉砕されたところに、救いは現れる。幼い頃から虚無や死に取りつかれていた僕にとって「救い」は急務であり、どうしても達さなければならないものだった。そのために、自分の希望を一つずつ虱潰しにしていこうと思った。
同棲を始めた頃から、仏教に傾倒した。僕は「神」という概念が生理的に受け付けないので、「有」への方向への救いではなく、「無」への方向の救いのほうが向いている。「僕」は存在しておらず、何もかも不生不滅だった。僕が唯一かなり信じている科学ともあまり矛盾しないので、僕の救いの方向は仏教に収れんするのだと思う。
神の方向にしても、無の方向(空と言うほうが正しい)にしても、真の救いを得るためには、この世に幻滅、絶望しなければならない。僕は現在、表現への欲求があるので、それを潰したい。表現への希望を潰すために、表現をしよう。100%幻滅するに決まっているが、僕はこういう生き方しかできないような気がする。
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出来上がる以前
柳は緑、花は紅 アタリマエというのが仏法である。ところが人間は、そのうえによけいなモノをかぶせる。いいとか、悪いとか、得くとか損とか。
思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。
『ボクの考えでは』とよう言うが、その『ボクの考え』なんか、どうせダメなのだ ——— 黙っとれ
その辺にいる人間と問題意識が違うので理解されない。例えば社会思想の話題を見ても、僕はその人間が「なぜ社会思想なんて大仰なものを一々言うのか?」という問いがまず浮かぶ。
僕はノンケの人間がLGBTを喧しく言うのは「自分の正義感に酔いたいから」だとか「正しい自分が好きだから」だと思う。ゲイの人間がLGBTを喧しく言っているのを見ると「自分の人生を認めてもらいたいんだろうな」と思う。LGBTに反対する人は「自分の価値観が壊されるのが耐えられないんだろうな」と思う。反出生主義とか言ってる奴は「自分がつらいからそれを親のせいにしてるんだな」と思う。小難しいツイートをしている人間を見ると「難しいこと言える自分に酔っているんだな」とか「モテたいんだろうな」と思う。言葉よりも意図に興味がある。人間に興味がある。
だから人と話がズレる。僕はLGBT思想の妥当性だとか反出生主義の論理的正しさだとかに一切興味がない。そんなのは「出来上がったうえでの話」であって、現実から遊離している言葉だ。思想なんか全部ゴミだと思っている。思想を話す人間は「真理」の「弁護士」をしているという言い方は皮肉が効いていて面白い。
さっき例にあげた通り、人間は基本的に自分のことが大好きな動物故に、表現をする。その自分が大好きという部分、我執の部分を「出来上がる以前」という。僕はここにしか興味がないので、他人と思想を戦わせたりすることがなく、すれ違う。
こんなこと書いたら「元も子もない」と言われるかもしれんが、元も子もないことだけに意味がある。人間は結局死ぬというのは元も子もないが、だからこそ真理である。行きついたところへ行きついた人生、 畢竟帰処、を送らなければならない。
もしも誰か、憤慨するのでもなくむしろ無邪気に、人間とは二つの欲望を持つ胴体と、一つの欲望を持つ頭で作られた存在だと主張するなら、人間はいつでも飢えと性欲と名誉心の働きをみつけ、求め、みいだそうとすること、それこそが人間の行動の唯一で本物の欲動だと主張するなら、要するに人間は——”邪悪な”存在ではなく——「卑しい」存在なのだと主張するなら、認識を愛する者であれば、細部にいたるまで熱心に耳を傾けてしかるべきなのである。———善悪の彼岸
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根源 表現
ニーチェさんは哲学の根源を「世界を支配しようとする力、欲動」と言ったが、その通りだと思う。というかなんもかんもそうだ。全ての行為の根源には権力への意志がある。哲学も表現も労働も芸術もなんもかんもそうである。仏教的に言えば煩悩、我執がある。
その煩悩の根源を問うと進化論に突き当たる。多分ここ以上は遡れない。「そういった煩悩を持っている個体が生き延びる可能性が高かった」ので人間はそういう煩悩を持っている。生きようとする個体は増えるのでみんな生きようとする。性欲の強い個体の遺伝子は増えるのでみんな性欲が強い。チヤホヤされる個体は生き延びる可能性が高かったのでみんな哲学を自慢するし表現で目立とうとする。これを業という。
まず業がある。それがすべての根底にある根っこである。業から生まれる小難しい表現や美しい表現は全部枝葉に過ぎない。業が根源であり、あとの行為、歌ったり文章を書いたり世界について考えたり金儲けをしたりする行為は全て枝葉末節である。そういった表面的な行為に拘泥すると人生は薄っぺらくなる。
表現というのは発情期の動物が甲高い声でセックスアピールをするのとなんら変わりない。高尚な行為でもなんでもない。小難しい哲学も美しい表現も発情期の人間の鳴き声である。芸術が数字に還元され、その欺瞞性が暴露された現代は、そのことが余計に露骨になっている。「哲学や詩、批評、文学」と「AVやユーチューバー、バラエティ番組」は「洗練」のされ方が違うだけである。よほど込み入った人工的な加工をされているという点で、僕にとってはAVよりも哲学や詩のほうが欺瞞が多く、気持ち悪く見える。要するに「嘘」が多い。哲学、詩、AV、ユーチューバーといった枝葉を支えている大木を掴むのが、宗教である。
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hyougen
歌の中全てが 大げさな顔をして 「芸術とは何ぞや」と続く禅問答 抗鬱剤をもっとくれ 不安でしょうがない 五線譜が黒蟻で埋め尽くされてゆく 嗚呼… 錆び付く感性 血だら真っ赤でタクトを振れ 冷めてく感情 表現は所詮排泄だ クソで涙してクソで共感を求め クソを賛美してクソに人生をかける 売れればいいけれど売れなきゃただのクソ 気が付けば誰もが立派な商売人 嗚呼… 未来はいつでも 運命複雑骨折さ 妄想 幻想 そして最後は思考停止 嗚呼 心から必要だって言ってくれ 嗚呼 空腹に負けるくらいの才能で 何を生み出した 夢見る凡人 迷惑な奴でごめんなさい ぶっちゃけ本当は 悩んでる振りがしたいだけ 歌いたい事もなく 歌うべき事も何も無い それでも歌いたい 歌わなきゃ気が狂いそうさ 嗚呼 心から必要だって 言ってくれ 嗚呼 何もかも イミテーションの世界で 愛しい君に呪いを込めて 歌い続けてくたばる 張り裂けそうな未来は いつだって運命複雑骨折
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フェイク野郎
六三 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。 ————法句経
知るを知ると��し、知らざるを知らずとなす、これ知るなり ————論語
我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ ————聖徳太子
念仏は本当に浄土に生れる因なのか、 逆に地獄に堕ちる行いなのか、 まったくわたしの知るところではありません。 たとえ法然上人にだまされて、 念仏したために地獄へ堕ちたとしても、 決して後悔はいたしません。
なぜなら、 他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、 それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、 だまされたという後悔もあるでしょうが、 どのような行も満足に修めることのできないわたしには、 どうしても地獄以外に住み家ははないからです。————歎異抄
無知であるということを知っているという時点で、相手より優れていると考えること。また同時に真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まるということ。哲学者ソクラテスの言葉、概念。
自分が悪人だと思わない人間は嘘つきかバカである。人間は全員悪人である。自分がバカだと思わない人間はバカである。人間は全員バカである。「謙虚」という言葉は近代において嫌われがちだと思うが、人間は全員バカであるので謙虚になるのは非常に大切であると思う。
自分のことを悪人だと思わない人間は掘り下げが甘い。自己認識ができていない。自分が善人だと思っている人間は独善的な悪人である。本当の善人は「自分なんてまだまだ」と謙遜する。勘違いした悪人は「俺は善人だぞ」とふんぞり返る。自分が善人だと思っている人間は、自分のことを正しいと思っているので、怒りっぽい。
こんな記事を書いてる僕も大悪人である。最悪である。全部最悪だ。幼稚すぎる。
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。
(ルカによる福音書六章37節、38節)
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しょうもない
僕が22年間で一番発した言葉は「しょうもない」だと思う。しょうもないだとかくだらないだとかそういった類の言葉をよく使うのでネットの友達にもイジられる。10分前にしたツイート
しょうもない人間と関わるとこっちまでしょうもなくなる
読書しないからしょうもない 聞く音楽がしょうもない くだらない恋愛してるからしょうもない 勘違いしてるからしょうもない 純粋に頭悪すぎてしょうもない 礼儀がなさすぎてしょうもない
何もかもしょうもなく思ってしまう。バカにしてるとかそういうことではなく、自分のやってきたことも、これからやろうとしていることも、全部しょうもなく思える。だって結局死ぬし。
この「結局」とか「どうせ」とかいう言葉を打破するために勉強をしてきたが、一向に覆せそうにない。結局生きるのに意味はないし人間はどうせ死ぬので何もかもしょうもない。行為するに値することは何もない。だからしょうもなくないことを探すのではなく、世界はしょうもないということを推し進めていこうと思う。あれもこれもなんもかんもしょうもない。それで良かった。
何物にも囚われないのは自由だ。本当は何もかも無意味で何もかもしょうもないのに、名誉や異性など何かへ心を奪われてしまうと、人生は自由ではなくなる。鎖につながれてしまう。全部しょうもないと明らかに知る。恋愛も哲学も宗教も人間も何もかもしょうもない。何もかもしょうもなければ、一切が許される。自由自在。この世を本当の意味で遊ぶことができる。あれもしょうもない、あれもしょうもない、あれもしょうもない、それで良い。何をしても良い。けれど、何をするにしても、それがしょうもないことを忘れてはならない。生も死もしょうもない。老いも病もしょうもない。金もセックスもしょうもない。だから、自由だ。
世界はただ偽りの印象の集まりにすぎない
あきらめなさい
幻を手放しなさい
世界を手放しなさい
そして自由に生きるのだ—————アシュターヴァクラ・ギーター
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表現
僕はヒップホップが割と好きなんだが、フリースタイルバトルで呂布カルマというMCが高校生のMCに向かって「もう少し内面を磨いてから言葉吐いたほうがいんじゃないすか?」と言っていた。僕はにわかなのであんまりヒップホップは語れないが、なんでヒップホップが好きなのかと言われると「リアル」を追及しているからだ答える。リアル/フェイクみたいな対立があり、みんなリアルを志向している。リアルはかっこよくて、フェイクはダサい。ラップバトルを見てるとよく「生き様」という言葉が出てくるが、生き様に「裏打ち」されていない音楽はフェイクである。
僕は哲学者の日記や伝記が好きなんだけれど、日記というのは表現よりもより「生き様」のほうに近い。僕が好きな哲学者は生き様と表現が表裏一体になっている「リアル」な哲学者である。ソクラテスやエピクテトス、キルケゴールやニーチェやブッダなど。特にソクラテスとブッダは最高である。逆にショーペンハウアーやらヘーゲルやらドゥルーズなど、自分の書いたものと生き様が矛盾している哲学者は大嫌いだ。まるで意味がない。
死や虚無を賛美しながらのうのうと生きている表現者(agohigeazarashiなど)も嫌いだ。才能と人格は別だと言い張る人間のほうが多いと思うが、人格と剥離した表現などなんの意味もない。ジャックリゴーというダダイストは「 生きる理由はないが、また、死ぬ理由もない。 人生への軽蔑を示すべく、我々に残された唯一の方法は、それを受け入れることである。 人生は、苦労して捨てるほどの価値もない。 」と言って自殺をした。自殺はいいことではないと思うけれど、嘘をつきながら生きるよりはマシだ。昭和時代の禅者が本の序文に「稚拙な部分もあるが、この本を出すことも含めて”自己”なので、本を出す」と書いていたが、こんな風に自己と地続きになっている表現でないと本当に意味がない。自己と分離した表現になんの意味があるのか分からない。表現をする人間にとっても意味がないし、表現を見る人間にとっても詐欺行為のようなものだと思う。
最近表現欲がデカいのだが、問題が3つほどある。1つ目は自分が才能があるかどうかよくわからないこと。2つ目は表現をしてもなんの意味もないこと。3つ目は僕の人格が幼稚なことである。こんな幼稚な木から生まれる果実は幼稚に違いない。けれども他の奴らも似たり寄ったりだと思う。現代は承認欲求の時代だと言って誰も異論はないと思うが、絵描いてる奴も文章書いてる奴も曲作ってる奴も「みんなに認められたい」という思いでやっているとしか思えない、そうとしか見えない。そんな人格から出てきた表現は見る価値がない。承認欲求によって「操作」された言葉の群れ。
僕は宮沢賢治が好きである。リアルだ…。カフカも好きだ。リアルだ。作品がどうこうというより、生き様と作品が乖離していないので好きだ。雨ニモ負ケズという詩があるが、あれを僕やその辺の普通の人間が書いても本当にしょうもない。「人格」に「裏打ち」されているからこそあの詩は素晴らしい。認められたい、褒められたい、お金が欲しいという人格から育つ表現は、しょうもないと思う。僕は内面がめちゃくちゃ幼稚なので、もしも成長できたら表現したい。人格の成長とはスケールの大きい人間になることである。
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
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近代人
自己作用するものは、全て、二つに分裂する。自分を殴る人間は、殴る自分と、殴られる自分に分裂する。主体と客体に分裂する。
自我は、基本的には、対象へ向かっているが、時には自己を対象とすることがある。外界を対象とする意識と、意識��身を対象とする意識は、似ているようで全然違う。外界へ向かっている意識は、言わば、「無意識」の自我だ。己の「関心」や「習慣」を通して、外界と交わる。ここには意識の分裂が全く見られない。動物の意識と言ってもいいだろう。 自分自身を対象とする意識は、自意識とも言われるし、反省とも言われる。「見る」自分と、「見られる」自分が分裂する。前者の自我が、後者の自我を、批評する。 誠実さや謙虚さを、己の格率として掲げている人を想像してみる。たしかに、「見られる」自分は、「見る」自分の批評精神と、鋭い観察で、改造することができるかもしれない。だが、「見る」精神のほうは、それで誠実だと言えるのだろうか?何者にも審査されていないし、この精神は、他者(見られる自分)を裁いているだけだ。 では、この見る精神を批評、チェックしてみよう。そうすると、また、見る精神と見られる精神に分裂する。「この批評するだけのオレ=精神は、傲慢ではないか?この批評精神自体も批評してみよう」これは、原理的に無限に続く。無限に分裂する。 必ず、「見る」精神という逃げ場が、人間の精神の中に潜んでいるのだ。この精神全てを見渡すことはできない。どうしても、主体と客体に分裂してしまう。この逃げ場、秘密基地を持っている人間を、僕は近代人と呼ぼうと思う。僕は近代人である。近代人が極限まで誠実であるためには、この逃げ場すら壊す必要がある。すなわち、自殺すること。 誠実な近代人は、自己欺瞞をして生きるか、自殺をするかしかない。たぶん、おそらく
これは僕が2017年の3月31日に書いたブログの記事である。今でもこの問題意識は持っている。「批評する自己」が死なない限り、人間は「卑怯」な存在である。さっき偶然に過去のブログを読み返したんだが、この記事を見ると自分がなぜ仏道を学ぼうと思ったのかハッキリする。僕は西洋哲学をやったり東洋思想をやったりふらふらしているが、自分の中では一貫性があるんだなと思った。
宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。
坐禅はええな。坐禅は大死人の姿じゃから。
柳は緑、花は紅 アタリマエというのが仏法である。ところが人間は、そのうえによけいなモノをかぶせる。いいとか、悪いとか、得くとか損とか。
十万億土とは「自分から自分への距離」である。
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