dlyleeeeeeek
12 posts
Don't wanna be here? Send us removal request.
Photo


六番目の服。「ゆめうつつ」 服に何もかも預け過ぎたわたしが、五年程暖めて纏えるようにした、三十歳の自身へ贈る服。 確かにそこにあるのに透明で掴めない、褪せることはうつくしい。 人からのお言葉のおかげで作れたもの。今回の主役。 先のわたしへ贈る服なので着る資格無し わたしは服に様々なものを預けてきた。 間接的に「服作りに託す」ということは、服を作る人 を志した幼少期から変わらないもの。 そこには憧れや暖かい気持ちも含まれるけれど、どちらかといえばネガティヴなものを預けて、エネルギーとしてきた。 そしてそれは段々に、具体的な陰の感情たちを預ける場所にも成っていった。 それらを持って毎日を過ごすには苦しくて、かといって捨てることも無理に抑えつけることも嫌。彼らを含めのわたしであるために、形を変え、服に化かして纏う。 ただ、少し前に卒業製作で作ったドレスに何もかもを預けすぎてしまった。 目に留まるものたち、きちんと話をする前に手当たり次第に捕まえて、花びらに化かして、ドレスに預けてしまった。ドレスは重たくなると同時に見た目の美しさは増していく。 その預けたものたち、後にすぐそばで気配を感じても、名前がわからない、暴けない。結果としてずっと気持ちが悪かったり、ほかの感情たちともバランスを取ることが難しくなった。 そんな時に受け取った、人からの言葉がヒントになった。 「置いておいたら少し利息がつくかもしれない」と。 彼にとっては何気ない一言だったのかもしれない。しかしそれをきっかけに、預けてあたためてから纏う、近くて遠い5年後、30歳のわたしへ贈る服を作ろうと思った。それが「ゆめうつつ」。 未来の服なんてわからないし、なんでもアリかもしれないし。けれども現在2018年。2018年のわたしに視えるものをしっかりと詰め込みたかった。 服を作ることとは関係のない、一つの好きなものだけが共通する、友人の輪がある。時間とともに人が減っていくことが寂しく、過去が淡く見えた。 5年後、今わたしがぐるりぐるりと廻っているいくつもの鮮やかな輪っかたちの行方が気になった。 はっきりと覚えている美しい過去のものを、鮮やかな思い出、鮮やかな記憶、と例えることがある。 そんなかつては極彩色の過ぎ去ったものたちが、確かにそこに存在するものの、向こう側すらも見える透明で、掴めなくて、淡く、遠く感じた。 退色は寂しいことでもあるけれど、それらは時間を重ねなければ見ることができない色であり、色褪せることはうつくしい。 うつくしいけれど、あまりにも多くの極彩色たちが瞬く間に姿を変えていくものだから、世界中の色がひっくり返ってしまったとも言えることで、そうなると、遠近を捉えて歩くことだとか、色を識別することだとか、空気の淀みを見つけることだとか、全てが難しくなり、やがてわたしはそれまでのように居られなくなる。 色褪せるうつくしさを守りながら、自身を守る方法を考えてみた。 その結果、"その時" に視える世界を、極彩色ではなく淡い色で見ることにしてみた。方法は簡単で、フィルタ���を、へだてる。 人から受ける色たち。 暖かく、優しく、透明に近いけれど確かにある、淡い。 そんな暖かくて、淡くて透明な鮮やかと、個々の我が強く熱くメラメラした高彩度な鮮やかであるわたしの作品達。 「ユートピア」では、双方がゆらりゆらーりと交わって、不思議な温度や色が漂った。なんだかあちらこちらで錯覚が起きそうで、ゆめうつつを加速させてくれた。
1 note
·
View note
Photo




五番目の服。「箱入り」
最も大切にされる服の生涯について考えた。
幸せの形は人間と同じくそれぞれであるけれど、最もに暖かなものを浴び続ける服というのは手に届くけれど届かない、スクリーンの中にあるのでは。
model SASALILI
dress/photo NATSUMI HOSHI
ファッションの楽しみ方はそれぞれであり、
ファストファッションで瞬く間に移り行くトレンドを楽しむだとか
好きなハイブランドを手に入れて、趣向が変わったら人に託して得た対価で新しく服を買うだとか
人と異なる奇抜な着飾りを楽しむだとか
憧れのあの人と同じ服を手に入れるだとか
世代を跨いで受け継がれる服を大切にするだとか
何度もお直しをして長く着続けるだとか
わたし自身、服が好きなのでどの楽しみ方も魅力を感じるし、本当に素敵なことだと思う。
では、最もに大切にされて愛される服を作る としたら、何処へ向かって送り出せば良いのだろう。と、考えた。
人間と同様に、幸せの形はそれぞれであり一概には言えない。それでも、少しでも幸せであってほしいと願う親心である。
わたしの服以外の好きなもののひとつに映画がある。
二〇一八年。 当たり前のように今日でも干渉される映画たちの中には六〇年余りも前の作品もある。
何もかもが驚くほどに色褪せない。
映画の魅力もまた、わたしが未だ達していない程に無限と存在するものの、先ずの服としての視点。
これもまたわたしのサガであることの一つ、 「憧れ」のトリコとなり、惹かれ続ける。浪漫である。
「あの映画のあのシーンのように、あのような服を纏って、アノヒトと、あの場所へ出掛けたい。」
重なるものがふわり浮かんだ。小さな子供達。
憧れのプリンセスたちに憧れて、プリンセスと同じドレスを纏い、同じヘアースタイルを施し、憧れのプリンセスに成る。小さなプリンセスたち。
わたしは暫くの期間、二つの場所で彼女たちを間近に見てきた。
わたし自身は彼女たちの年齢は少し遠過ぎて、彼女たちとピタリと同じ想いを思い出すことはできないけれど おそらく、わたしの中にあるスクリーンへの「憧れ」と同じものだと感じた。
時にはスクリーンから飛び出すこともあるであろうし、厳密に、映画そのもので着用された"衣装"たちは何処かでじっと眠っているのかもしれない。
しかしこうして半世紀以上も越えて、あちらこちら、まさしく世界中に憧れを募らせ愛され続ける、スクリーンの中の服。
もしかしたら、最も大切にされる、愛される服って、手に届くけれど届かない場所である「スクリーンの中」にあるのかもしれない。
◎ お力添え頂いた作品と出来事
ウディ・アレン「カイロの紫のバラ」
写真館、及び某王国にて ハッピーが生まれるほんの少しのお手伝い。
0 notes
Photo



四番目の服。「壁画」
卒業製作で仕立てた「自惚れ」の一部でもあるヘッドドレス(アイコンのもの)を改めて服にした。
先のわたしへ贈る「ゆめうつつ」に対し、二十五歳のわたしへ贈る鎧。ゆえに、本来主役である「ゆめうつつ」含む誰よりも我の強い子に成った。
最も 今であるからこそ作れた服。
dress/model NATSUMI HOSHI
そもそもに「自惚れ」は
なぜ赤の色なのか
なぜ牡丹の花なのか
なぜ"今"なのか
なぜ「自惚れ」なのか
なぜモデルは自身なのか
なぜ"死装束"としてなのか
なぜビスチェを選んだのか
なぜビスチェに刺繍を施したのか
なぜこの刺繍の模様なのか
なぜ差し色が黒と金なのか
隅々、隅々までが理由に溢れて、感覚は殆どにゼロで作った。全てが例え話であり、あらゆるものに力を借りている。
伝統の衣装に施された模様に意味や願いがあるように。
しかし見る側はたいてい、そんなことには興味を持たない。そもそもに、この1体のドレスにそこまで思想としての仕掛けが含まれているなんて想像しないであろう。
西洋絵画の解説本や詩や文学、映画、音楽の考察文が多く見つかるというのに、服にまつわる書籍は写真集ばかりであるし、解説を読んでも、新しいものだとか面白いものを視覚として取り入れたとか、トレンドだとか、そういったものが殆ど。もちろんそれもファッションの面白さであってわたしがとても大好きなものの一つでもある。
けれどこのように美しい服を作る人は他にたくさんいて、十分過ぎる。ほかの美しいものを作る人たちがいるならば、わたしはわざわざ作らなくても良いと思う。
「何々をテーマに」
ではなぜその色なのか、長さなのか、模様なのか。
「わたしの中のイメージがこうであるから」
「これが美しいと感じるから」
それが直接的でも抽象的でも、結局その一言で片付いてしまう。
評価の対象は、"作った者は誰なのか"では?
それらに逆らうように、思想と理屈にまみれた服を作ることは心身ともとても疲れた。特に心的疲労が酷かった。
それでも、感覚での服作り というものが気持ち悪くて。
なぜその色なのか、なぜその形なのか、なぜ���なぜ、なぜ、なぜ!
それならばいっそのこと抜群に気持ちが悪いものを作ってみようと思った。
ただ美しくて、わたしのイメージ。感覚だけで作るもの。花の意味も、名前すらも知らない。色の理由なんか無い。装飾のリボンや鈴や水引にも理由なんか無い、感覚のみ。インパクトはある。きっと人は評価するだろう。
このヘッドドレスとして生まれた彼女は、わたしの想像以上に我が強かった。
"感覚"が気持ち悪いと感じるわたしに真っ向からぶつかってくる。
正々堂々、改めて服にしようと思った。
"感覚" が気持ち悪いと改めて感じ始めたのはここ暫くであり、もしかしたらこの先には解消されていることかもしれない。けれども確実に今のわたしが最もに圧されていることがこちらであり、最もに 二十四歳から二十五歳にかけてのまさに今のわたしらしさというものを残せると思った。
そのために、三十歳のわたしへ贈る「ゆめうつつ」に対して、二十五歳のわたしへ贈る服となった。
「自惚れ」の なぜ たちは機会があれば綴らせて頂く。
◎ お力添え頂いた作品と考え事
ヨハネス・フェルメールの「絵画芸術」
cali≠gari の音楽
日本及び異国の伝統衣装たち
クラシック音楽の鑑賞方法
純文学の魅力について
0 notes
Photo

三番目の服。「群衆」
「流行」と「個性」
流行を何でも否定し個性が無いと云う、そんな否定で集ったものはいったい。
そんなことより、もっとお洋服そのものが大事にされたら良いな を纏えるようにしました。
model
イシハラマイ(音楽ライター)
遠井リナ(イラストレーター/デザイナー)
横道孟(The Doggy Paddle Gt.)
dress/photo
NATSUMI HOSHI
モデルをお願いした御三方、冬の魔物に続き、それぞれがわたしの大好きなクリエイター。
それぞれのキャンバスに対するギンギラの熱も、キャンバスを取り巻くカルチャーへの熱も、美学も、たまらなく魅力的なのです。
このお洋服たちもまた、こちらの御三方でないと完成しないものでした。 御三方は、共に音楽を経由して知り合いました。
音楽をするには自然に感じる形で、わたしは服を作る。多面体として切り口が異なるのは当たり前だけれど、いつだって音楽には嫉妬でいっぱい。でも物理的に事実として身に纏えるのは装いだけ。服をより、さいきょう にする。
ネバリの解剖編。
わたしは音楽や映画や服やカルチャー、比較的に現代よりも遡ったものを好み、「流行」に大きく心を掴まれる方でもない。 しかし、"今の時代は流行に流されて個性がなくてダメだ" 等という声には違和感があった。
個性を求めるものが集った結果、別の方角から視たら 同じものの群衆でしかないのでは。
はたまた、流行の否定、時代に逆らったものを正義としたとして、降り立つ時代が変わればそれも立派な流行。
半世紀にも前には道端でたむろする若者がこぞって纏って居たかもしれない。
流行だとか個性だとなそんな視点で選ばれるなんてお洋服がかわいそう。
もっとその子本人が愛されたら良いのに!
彼ら三人は、わたしと同じく比較的に古いものを好む方々。
しかしそれは決して流行に逆らうだとか今の時代がダメだなんてそういうことではなく純粋にモノ自体を愛するから。
真っ直ぐでアツアツで愛に溢れた方たち。 わたしの大好きでたまらない方たち。 いつも多くのパワーを頂いている。 有難うございます。
思考していることを作品としてつくる手段は音楽や映画や絵画や写真等多くあって、その作品が人々に夢やワクワク、鬱憤が吹き飛ぶ時間、息を呑む美しさ等を与えることも多くある。 心に付き添ってくれたり、全身で浴びて、纏えることも。本当に素晴らしいことだし、わたしも日々色々なものを頂いている。 敵わないなと感じることも常々。
けれど、物理的に事実として纏うことができるのって装いだけ。 化かすことにより、自身の欠片を捨てることなく鎧にする。深呼吸して発生する二酸化炭素を纏えるって、当たり前で片付けるには勿体無いが過ぎる、ものすごいこと。もっともに深く呼吸ができる方法こと服を作ること。べったりとお洋服に掴まれたわたしの心、やはり逃げられるはずがない。
0 notes
Photo

二番目の服。「冬の魔物」 この冬に気配を感じた魔物に打ち勝つための鎧として作りました。 暴けないから魔物であるし、どちらかといえば太陽のようなものである 理由は幾つか ・本物の魔物であるから ・存在しないものであるから ・己だから モデルは、ピアノで音楽をする、わたしのとても好きなアーティストにお願いしました。 小学生の頃から音楽というとバンドばかり聞いてきたわたしに、"弾き語り"の衝撃を与えた人。 そして、彼女が「冬の魔物」という音楽をつくる、という愉しい企みがあります。 服の演出をする音楽ではなく、音楽を魅せるためのステージ衣装でもない形で一緒に愉しいことをできる。今後もずうっとワクワク。 model モリカホ dress/photo NATSUMI HOSHI 元々は自分で、前の冬に着るためのに仕立てようとしていたもの。 (既に魔物と戦うための鎧、ではあった) だから本来わたしが着るべきであったけれど、彼女を知り始めて、この人を巻き込んで、きちんと作品として作りたいと思った。そのためモデルは彼女以外はどんなに美しい人でも面白いものを作る人でも駄目。 ネバリの解剖編。 「自惚れ」に預け過ぎてしまったがゆえに、あらゆるものがわからなくなってしまった。 持ちたくない、持ち続けるには苦しい感情たち。 魔物はわたしが預けたはずのものたちを、あちらこちらから連れてきてしまう。 彼らは周りを常にウロウロする。何をするわけでもなく、ただウロウロしている。誰だか解らない、暴けない、おそろしいし、気味が悪い。もちろん魔物のことも、暴けない。 けれどもわたしはばっちばちの鎧を纏っているからね、ビクリともせずに居られるんだ。 暴けないやつらなんて浸透させるわけがない。 魔物がね、裁きを受けるほどに本物の悪さをするような、そんな本物の魔物ならば暴くことは容易である。 しかし魔物はどちらかといえば太陽。 やわらかくて、あたたかい。 鎧なんて不要になってしまう。そう、ぎらりぎらりと鎧を剥ぎ取って行くんだ。 魔物は決して悪いことはしない、あちらこちらから連れてきてしまう彼らのことを引き連れて、ずうっとウロウロ、ウロウロしているだけ。 魔物を魔物としてしまうのはきっとわたし自身であり、本物の魔物などではない。むしろわたしが魔物かもしれない。 暴けないからこそそう呼べる魔物から守るためのコート。 魔物から見つからないように、暗闇にも隠れられる真っ黒。 あたたかくて脱ぎ捨てようとしてもね、ケープを脱いだところできっときちんと気がつく。 このコートを纏って、しゃんと背を伸ばして何にも怯まない表情を作って、何処へでも行く。 なんだかわたしが魔物みたい。
0 notes
Photo

そんなわけで一番目の服 「つつみ」
つつみを開く時のワクワクと
つつみを開かれるときのワクワク
贈る相手により色や形を変えゆく
あたたかさに美しさと寂しさと
彷徨っていたものたちを集めて纏えるようにしました。
ポスターの左上。
七作品のうちの三作品が二十五歳のわたしに贈る服。その一つ目でもある。
もともと四番目の服である「壁画」をそれとして作ろうとしていたところ、「つつみ」と「眩まし」も必要だと感じて予定を変えた。
彼女達は姉妹のようであるけれど、どちらかといえば同一人物。
壁画 を 赤い色と決めていたので自然と つつみ 眩まし も赤となった。
当日は一日通してこちらを纏っていました。
最もに素直で最もにラクチンな鎧。
続きはネバリの解剖。
ネバリと掘り下げて行くと、これは「良い子で居る」ための鎧。
ここでいう「良い子」って、別に世間でいう良い子ってわけではなく、この人にはこう見られたいとかあの人達の前ではこういうわたしで居るべきだとかそういうもの。
わたしは人間というものが大好きで、 昔は"嫌いな人"なんて存在もあったけれど、今やそれを作れなくもなってしまった。
そして一人一人への好きへの度も、どうにかしてぎゅうっと圧しなければあちらこちらに好き勝手走り回ってしまう。好きに溢れている。
そんな好きな人たちに向け、圧するバランスをコントロールしたものがあらゆる「わたし」であり、"役"として見ている。役といっても偽りではないし、紛れもなく全て自分の顔である。 (当たり前のことではあるけれど、わたし自身が驚くほどに、それぞれの場で別の全く人間のようになってしまうのよネ、、)
そしてまた、わたしはついつい好きな人たちへ大小問わずの贈り物をしてしまうサガであるけれど、贈り物ってたまらなくワクワクする。
あの人はこんな仕事をしているからコレにしようとか、以前にこんな話をしていたからアレにしようなんて。
贈り物を考えている時って、本当に、ひとりひとりに恋してるかのようにその人のことを考えるわけで、たまらなく幸せな時間なのである。
そんな贈り物が誰かに届くまで、守ってくれるもの、「包み」。
暖かな気持ちか溢れるものに密に接しているのだから染み出たあたたかさを存分に吸い込んでいて、また彼女自身も鮮やかであったり、しゃんと背筋を伸ばしていて、うつくしい。
そしてそんなうつくしいつつみを狭間に、贈り物と 貴方とを繋げてくれるものが結び。
彼女達のお力を借りて、「つつみ」という鎧としました。
この日、「ユートピア」はわたしの大好きな様々な人たちが遊びに来てくれるので、それぞれの役って難しくって、もっともに「良い子」で居られる鎧に一番はじめを守ってもらうことにした。
きちんとペチコートスカート等纏って、
首元を無垢な白のレースで飾って。
model/dress NATSUMI HOSHI
0 notes
Photo



二〇一八年七月八日。
わたしにとって初の試みの衣装展「ユートピア」を開催、無事に終了致しました。改めまして皆様本当に有難うございます。
今回、音楽では当たり前のような
「ゆめうつつ」をメイントラックとした「ゆめうつつ」というアルバムのように、個々の作品であり一つの作品として作ってみました。
一、つつみ
二、冬の魔物
三、群衆
四、壁画
五、箱入り
六、ゆめうつつ
七、眩まし
モデルとして、わたしの大好きなクリエイターの皆様にもお力を借りたり、卒業製作の「自惚れ」と同様にわたしへ贈る服は自分で着ました。
告知のポスターに、遊びで服達を散りばめてるのでチラリと探してネ。
作品達は次の投稿から。
イラスト/ポスターデザイン
NATSUMI HOSHI
0 notes
Photo






2018.2.27。
卒業制作発表ショー
「自惚れ」
仕立て屋として自分自身の晴れ着を仕立てました。
ラストシーンのための何より強い鎧です。
誰もが必ず迎える時こそ、全てを纏いたい、最も美しく最も誇り高き鎧を纏いたい。
お力添えは牡丹の花。彼女の力は偉大。
わたしのために仕立てたものなので、ショーでも自分で着て歩きました。
わたしが着るから服として完成する、芸術としては本当の意味で纏う時が来るまでは未完成。
預ける、例える、描く、遊ぶ、学ぶ、楽しむ、そしてそれを纏うことが出来る、纏うことで自らの一部となり侵食する、される。戻って、装いは鎧。
どう足掻いても、わたしにとって、 貴方しか居ない、という切り札を使う 唯一 こそがお洋服を造ることだと思います。
預ける感情を変換しエネルギーに、存分にまわり道をして、気がつけば侵食されてから18年、集大成と言うに相応しい作品を相応しい機会に人様に見て頂けました。有難うございます。
dress/model NATSUMI HOSHI
0 notes
Photo






ロックンロールとお洋服の交わる場所
model:The Doggy Paddle
clothes:Natsumi Hoshi
photo:Natsumi Hoshi
0 notes
Photo








ロックンロールとお洋服の交わる場所
model:The Doggy Paddle
clothes:Natsumi Hoshi
photo:Natsumi Hoshi
0 notes
Photo






ロックンロールとお洋服の交わる場所
model:Mary Lou
clothes:Natsumi Hoshi
photo:Natsumi Hoshi
0 notes
Photo










ロックンロールとお洋服の交わる場所
model:Mary Lou
clothes:Natsumi Hoshi
photo:Natsumi Hoshi
0 notes