fepk-dhsa
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FEPK-DHSA工廠長文部
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FEPK開発2号機がHoI2に関わる長文を置いておく場所
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fepk-dhsa · 7 years ago
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HoI2ゲームテキスト内用語集(随時更新)
遠藤には政治がわからぬ。遠藤は、情報工学専攻である。ホラを吹き、Xboxと遊んで暮して来た。けれども洋ゲーに対しては、人0.一倍に敏感であった。きょう未明遠藤はTwitterを出発し、Wikipediaを越えWikipedia(英語)越え、十里はなれた此このTumblrの市にやって来た。遠藤には歴史書も、世界史の履修も無い。十六GBの、内気なゲー��ングPCと二人暮しだ。このPCは、Hearts of Iron 2を、近々、インストールして迎える事になっていた。Modの予定もあるのである。遠藤は、それゆえ、歴史のマイナーな固有名詞を知りたくてGoogleを開いたのだ。
要約:日本語Wikipediaに記事がないタイプのHoI2テキスト内での用語集がほしい
あ行
伊藤庸二
【Kaiserreich】
日本の工学者。1901年生まれ、1955年死去。……のはずなのだが日本Wikipediaに記事がない。研究特性を見て分かる通り、電波探信儀の開発に重要な役目を果たした人物。 千葉県御宿生まれ。東京帝国大学を卒業後、海軍に入り、海軍に籍をおいたままドレスデン工科大学で電気・電磁工学の権威ハインリッヒ・バルクハウゼン教授の下で学び工学博士号を取る。 帰国後は完成直後の海軍技術研究所員となり、ここでマグネトロン(マイクロ波を発生させる装置)と超短波レーダーの研究を行っていた。 敗戦とともに海軍から放り出された彼は海軍で培った技術を平和利用したいとの思いで公職追放された技術者達を集めて1947年に会社を設立。これが今日まで続く船舶用電子機器メーカー、光電製作所の始まりである。
エフゲニー・パトン
【FEPK-DHSA】
ソビエト連邦の工学者。ウクライナ人ではあるが1870年にフランスのニースで生まれ、ドレスデン工科大学で学んだあとモスクワ鉄道・道路大学で教鞭をとった。1904年から1938年はキエフ工業大学で教授職を務めた。溶接技術を専門としており、もともとは鉄橋の設計の権威であった。教授業と前後して(1934年)彼は電子溶接協会をキエフに立ち上げている。この協会は現在も「パトン電子溶接協会」という名前でキエフに存在している。独ソ戦の勃発に伴い軍用装備の製造に利用される機械の設計に携わるようになり、彼に代表される研究者の活躍によりT-34の製造コストは最終的に初期のコストの半額にまで落とすことが出来た。 FEPK-DHSAではそれを考慮してT-34のコストダウンが完成しつつある1942年に研究機関として登場。アメリカのフォードをダウンサイズした���うな能力をしており、ソ連の産業研究に大きな進歩を与える。
王立カナダ山岳警察
【Full】
英名Royal Canadian Mounted Police。略してRCMP。一般には王立カナダ「騎馬」警察と訳される。 一見すると誤訳に見えるが、Darkest Hour Fullでは騎兵戦術を持たず山岳訓練を持つ。つまり開発チームは「Mounted」を「山岳」であると思っているので、その意図を汲んで訳していると考えるとこれは正しい訳語になる。
オサデ
【バニラを含む年代が20世紀のほぼ全てのシナリオ・Mod】
Osade。HoI2のバニラから、Full、Kaiserreichのソビエトに至るまで出現するソ連の特殊兵担当将校。能力が良い(初期スキル3、最大8、特殊戦)ので殆どのユーザーが利用するであろう、が……。 ( https://forum.paradoxplaza.com/forum/index.php?threads/soviet-general-osade-who-was-this-guy.551328/#post-12680987 より) 「思うに、彼は創作上の人物だ。肩章を見てみると彼の階級は(高くてもせいぜい)陸軍中尉か空軍大尉だろうとわかる。画像のコントラストを弄りながら見てみると、記章には線がただ一本のみ存在している。で、Wikipediaに騙されているのでなければ、将官の記章には線ではなくて、星だけがついているものなのだ。そして、星の位置は肩章の下部分にある。ということで、私はこう賭ける。〔彼は幸運なる歴史の中に忘れ去られた若い軍人で、ただ写真のみがゲームの中に残っている〕、と。ところでパラドはどこでこの画像を見つけてきたんだろうね。」
さ行
チェスコモラフスカ・コルベン=ダネック
【バニラを含む年代が20世紀のあらゆるシナリオ・Mod】
Českomoravská Kolben-Daněk社。日本語ではCKDだったりC-K-Dだったりチェスコモラフスカ・コルベン・ダニェクだったりチェコ・コルベンダネックだったりと表記揺れが凄まじい。多くのModでは、チェコを本国プロヴィンスとして持つ(ドイツを除く)あらゆる国で利用可能な火砲研究のエース。 1927年に水力発電所用器材メーカーのチェスコモラフスカ・コルベンと鉱業機械・食糧工業メーカーのブレイトフェルド・ダネックが合併して生まれた。30年代はチェコスロバキア最大の軍需品メーカーの一つであった。 チェコスロヴァキアの終焉(バニライベントID2040)の後ベーミッシュ・メーリッシュ・マシネンファブリック社(Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik AG、ベーメン・レーメン機械製造)と改名されドイツ国防軍用の装備の生産を担った。ここで設計・生産されたのが、初期のドイツにおける最も重要な戦車の一つである38(t)戦車である。 ソ連によりチェコスロバキアが衛星国となると、会社は自動車メーカーのタトラと合併して国有化、トロリーバスの電装、一般の車輌、そして機関車の製造を担うようになった。 冷戦構造の崩壊により最大顧客であるソビエト連邦を失ったCKDは経営の再建に失敗。一部をドイツのシーメンス・モビリティ(ジーメンス社の鉄道事業本部)に身売りしたりしながら1998年に姿を消した。
は行
フロント・ドライブ・モーター社
【FEPK】
Front-Drive Motor Company。FEPKではそのままカタカナに起こしているが敢えて日本語に訳すと「前輪駆動車(社)」となる。サスペンションの先駆者として有名なジョン・ウォルター・クリスティーは1904年に「クリスティー鉄工所」という会社をニューヨークに作り1906年には「クリスティー社」と改名したものの、レースにかまけて会社を存続させる気を無くしたのか彼はこの会社を1910年に畳んでしまった。翌年の1911年、彼は「フロント・ドライブ・モーター社」をニュージャージー州ホーボーケンに設立した。この会社の代表的な製品は消防車である。この消防車は実に頑丈で、まだまだ馬車が残っていたアメリカ各地の消防車両を次々とガソリン車に置き換えていったのだという。会社自体がいつまで残っていたのかは分からないが、少なくともオハイオ州では1945年に(つまり、クリスティーの死後)この車輌が稼働していたことが確認されている。 こうして見るとこの会社には火砲特性は無いように見えるのだが、クリスティーは1916年には4つの車輪を地面に置いて走る装輪自走砲とでも言えるものを開発している。軍官僚と要求仕様の妥協点が見つけられなかったため、採用されることは無かったのだが(余談だが、この「官僚とソリの合わないクリスティー」は後にクリスティー式サスペンションがアメリカ軍ではなかなか採用されず英ソに輸出されたことの伏線となっている)。
ま行
ミサーク・マヌーシアン
【Kaiserreich】
Missak Manouchian。オスマン帝国領アルメニアに生まれ、フランスはパリでパルチザンとして命を落とした詩人。Kaiserreichではフランス・コミューンの電撃戦系エースの一人として何故か戦車に目覚め、研究機関に指揮官にと活躍するのは御存知の通り。 史実では1915年にアルメニア人虐殺で両親を失い、アルメニア慈���協会の助けを借りて仏領大レバノンを経由し1925年、フランス本国に移住している。KRではそもそもオスマン帝国が存続しているため大レバノンは存在しないということを考えると、果たしてどうやって彼がフランスへの脱出を果たしたのかは定かではない。 史実での彼はこの後シトロエンの工場で職を見つけ、働きながら���ルチエ・ラタンの図書館で独学で知���を身に着けていった。世界恐慌で職を失った彼は資本主義への失望を抱きつつCGT〔フランス労働総同盟〕に参加。おそらくこれはKRでもおおよそ同じであろうが、KRでの世界恐慌は1936年に発生する事を考えると、KRでのマヌーシアンは1919年フランス革命の様相を見て資本主義への絶望を抱いた、というあたりが妥当であろう。 34年にマヌーシアンは共産党に参加しアルメニア語で共産党機関紙の執筆を始めている。アルメニア人の欧州での生息地域の第三位がフランスであることを考えると、そこそこ需要に答えていると言えるはずである。彼の詩人としての活動の場所は、この紙面上にあった。 史実で40年にフランスが降伏すると、マヌーシアンは反独活動を開始。独ソ戦の開始とともに共産党員によるレジスタンスを警戒したドイツ軍により逮捕される。ただしこの時は彼の妻メラニーの尽力により、ほんの数週間で自由の身となった。懲りずにはレジスタンス活動を再開したマヌーシアンは1943年11月16日、フランス親独政府側の警察に逮捕され、ドイツの秘密野戦警察に身柄を引き渡され、パリ郊外のモン・ヴァレリアンで処刑された。 史実における彼は軍事組織の教育を一切受けておらず、パルチザンとしては50人程度の部隊のリーダーとしてドイツ将校の暗殺に暗躍していたぐらいなもので、何故「諸兵科連合重視」や「機甲戦」を有しているのかはさっぱり不明である。独学でパットンと同等の能力に彼が覚醒した理由は考察のしどころである。
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