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認識過程の意識化とその組み換えのための言語活動 -「状況認識の文学教育」における客体の機能性に着目して-
はじめに
近年、学校教育をめぐる議論では生徒の主体性の問題が活発に取り上げられている。2017年3月に公示された次期小学校・中学校学習指導要領においても、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善事項が明記された。しかしその一方で、客体についての考察は放置されている印象がある。いたるところで主体的な態度の涵養が重視されてはいるが、例えば、対話的な活動を通してクラスメートの意見がどう受容され、どのような機能によって主体に影響を与えるのかといった研究はあまり見られない(田中実の「第三項理論」など、文学教育では主客の関係性を捉えなおす研究がなされるが、広く言語活動でいえばその手薄さは否めない)。児玉忠は、「主体的」の意味が「どの学習者のなかにもアプリオリに存在する(はず)、あるいは生成・成立する(はず)」のものから、「「客体」との関係、広くいえば「場(状況・環境)」のなか、あるいはその関係性のなかで相対的に規定され、生成されるもの」に変化したと指摘する。このことを考慮すれば、生徒の主体性を中心とするこれからの教育のために、客体の役割の明瞭化が求められるに違いない。
本稿が客体に関する考察を通して実現させたいのは、他者の心情を汲み取ろうとする態度の育成を目標とした授業理論の完成である。言語を用いた他者との対話能力は、近代以降の学校教育、こと国語教育において原理的で「不易」なものだが、同時に、様々な局面で分断が叫ばれる現代社会では今日的な「流行」でもある。自らの知識や技能、認識がローカルな「場(状況・環境)」に従属することを意識し、異なる文脈に属する他者の内面を誠実に受け止めようとする態度がなければ、混沌を極める社会を持続可能とする主体は現れない。第1章では、こうした柔軟で可塑的な主体を実現するための能力とその指導方法について、中央教育審議会やOECDの資料を基に検討する。
今日の「主体的な学び」が、従来の没・主体な一方向の教育の超克を意図するならば、本稿で提案するのは脱・主体を目指す授業理論とその実践的方法といえる。脱・主体が意味するのは、第1に客体からの眼差しを意識化することであり、第2に客体を足場としてそれまでとは異なる主体へとジャンプすることである。この脱・主体の授業理論を組み上げるために、第2章では大河原忠蔵による「状況認識の文学教育」を中核に据えて考察していく。大河原が開発した生徒の主体性を引き出す授業理論は、すでに多くの分析がなされてきたが、本稿で注目するのは大河原理論における客体の機能性である。状況に打ち勝つ主体の育成を目途とした大河原にとって、客体は主体によって乗り越えられるべき対象だったが、この主客の序列を注視することで主体形成に通じる客体の役割を明らかにすることを目指す。
第1章 具体性の中での教育
1-1 2030年に向けた資質・能力
1-1-1 コンピテンシー・ベースへの転換
2017年現在、新たな学習指導要領への転換期を控えて、中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(2016年12月、以下「答申」と略称)や、小学校、中学校の次期学習指導要領(2017年3月公示)で示される2030年に向けた学力観についての議論が盛んに行われている。今回の改訂では、「主体的・対話的で深い学び」や「カリキュラム・マネジメント」の必要性がより強調されるが、その根底にあるのは「何を知っているか」というコンテンツ・ベースから「何ができるか」というコンピテンシー・ベースへのパラダイム転換である。答申では新しい学習指導要領で改善するべき項目を以下の6点にまとめている。
①「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力)
②「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策)
「主体的・対話的で深い学び」は学習の方法であり③や④に含まれている。その活動が有用であるためには体系的なカリキュラム、つまり②の問題が要求される。そして、そうした「カリキュラム・マネジメント」は①の育成されるべき資質・能力(コンピテンシー)に基づいて行われる。このように、2020年以降の学力は資質・能力に立脚するものであり、それゆえに、これからの教育を考え創造していく上でコンピテンシーについて検討することは避けて通れない。研究の間口として多少広さを感じるものの、コンピテンシー・ベースへの転換は一朝一夕に起こったものではなく、また、日本に限られた動きでもないため、現在示される資質・能力を広く比較することはこの過渡期において極めて重要である。
これからのコンピテンシーを精緻に把握するために、まず日本における資質・能力の概念がどのように変遷してきたかを確認していく。「関心・意欲・態度」 を打ち出した「新学力観」が登場したのは1989年版学習指導要領である。この学習指導要領で登場する「新学力観」について、当時の文部省は次のように説明している。
これまでの教育においては、基礎・基本として、 知識や技能を中心にとらえる傾向が見られた。 これからの教育においては、子供たちが主体的に生きていくために必要な豊かな心と個性や創造性の育成を目指しており、そのような豊かに生きる力としての資質や能力を基礎・基本ととらえることが肝要である。
基礎・基本をこのようにとらえるとき、「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現 (又は技能)」、「知識・理解」などの資質や能力がその中核になると言えよう。中でも、子供たちの豊かな自己実現に生きて働く関心・ 意欲・態度、思考力や判断力などの資質や能力は、これからの教育において十分その育成を図るよう留意する必要がある。
ここでは、それまでの「知識や技能」の習得を中心に展開する学習ではなく、生徒の「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現(又は技能)」、「知識・理解」などを「豊かに生きる力としての資質・能力」と規定し、その「資質・能力」を中核に据えた学びが肝要であるとしている(「知識・技能」も「資質・能力」の一部であり、それらの習得を否定しているわけではないことに注意しなければならない)。このように、1989年版学習指導要領での「新学力観」は、2007年の改正で明記された教育基本法第30条第2項の「学力の三要素」、すなわち「基礎的な知識及び技能」、「思考力、判断力、表現力」、「主体的に学習に取り組む態度」につながっている。
今日提言されるコンピテンシー・ベースの教育へと伸びる源流は以上のように確認される。その後、1998年版の学習指導要領では「生きる力」の育成を目指した、生徒の自主性を重視するいわゆる「ゆとり教育」が実施され、2008年の改訂においては、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない教育を実現するために「生きる力」をより詳細に定義している。先述したように、教育基本法が「学力の三要素」を規定したのもこの時期である。2008年の中央教育審議会答申では、教育基本法改正について以下のように述べている。
改正教育基本法や学校教育法の一部改正は、「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和を重視するとともに、学力の重要な要素は、①基礎的・基本的な知識・技能の習得、②知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等、③学習意欲、であることを示した。
1989年版学習指導要領での、「知識・技能」中心の学力から「関心・意欲・態度」などと共にそれらを包括した「資質・能力」中心の学力への転換は、それから2度の改訂を経て、身につけた「知識・技能」を「思考力・判断力・表現力等」、そして「学習意欲」によって活用するための学力へと具体化された。では、答申で明らかになった2020年以降の学力観、コンピテンシー概念は、これまでのものと比べてどのような差別化がなされているのだろうか。
1-1-2 「学びに向かう力・人間性等」の重要性
繰り返しになるが、資質・能力という学力観は最近になって登場したものではない。それについては答申でも明言されている。
(「生きる力」の育成と、学校教育及び教育課程への期待)
○ こうした力は、これまでの学校教育で育まれてきたものとは異なる全く新しい力ということではない。学校教育が長年その育成を目指してきた、変化の激しい社会を生きるために必要な力である「生きる力」や、その中でこれまでも重視されてきた知・徳・体の育成ということの意義を、加速度的に変化する社会の文脈の中で改めて捉え直し、 しっかりと発揮できるようにしていくことであると考えられる。時代の変化という「流行」の中で未来を切り拓いていくための力の基盤は、学校教育における「不易」たるものの中で育まれると言えよう。
答申ではこれまでの学校教育で育んできたもの、つまりは知識や技能とそれを活用する力である資質・能力を「不易」なものとしている。その上で資質・能力を「基盤」とし、今後育むべきものを現代社会の文脈に柔軟に適応させることが重要なのである。こうした観点から答申は、教育基本法での「学力の三要素」を基にした、「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・ 判断力・表現力等」の育成)」、「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」という3つの要素を「資質・能力の三つの柱」として整理した。
「知識・技能」は、従来以上に他教科の知識や生徒個人の経験との接続を求める。「思考力・判断力・表現力等」では、情報を精査する中で思考したことを根拠としながら表現したり、協働学習で他者の意見を受容しながら集団の考えを形成したりするなどの2008年の改訂で示された項目に加え、問題の発見・解決の過程を重視している。以上2点は、多少の変更がなされているものの、2008年版学習指導要領から引き継がれている要素といえる。それでは、3つ目の「学びに向かう力・人間性等」の位置づけはどうか。答申によれば「学びに向かう力・人間性等」は、「知識・技能」及び「思考力・判断力・表現力等」を「どのような方向性で働かせていくかを決定付ける重要な要素」である。細かくは「メタ認知」に関するものと、「多様性を尊重する態度」や「共同する力」など、「人間性等」に関するものに分けられる。これらは上記の2つの要素に対し、2008年版学習指導要領においては明記されていない新たな資質・能力の構成要素となっている(中央教育審議会「幼稚園, 小学校, 中学校, 高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)」(2008年1月)で示される「思考力・判断力・表現力等」を育成するために不可欠であるとされる活動例の中には、「概念・法則・意図などを解釈し、説明したり活用したりする」といった「メタ認知」に通ずるものも含まれている。そのため正確には、「学びに向かう力・人間性等」は「思考力・判断力・表現力等」を細分化し改めて資質・能力として規定した要素といえる)。
2020年を目前に「学びに向かう力・人間性等」が強調される背景には、多様な価値観をもったいくつものコミュニティが近接して社会を形成するという現代の「流行」が横たわっている。異なる文脈に属する他者との接点が日常に溢れる現代では、自らの常識に安住することは不可能に近い(それを強行することは他者への暴力に転化する)。各教科で習得した知識を相対化し結びつけることや、自らの意思を表現しながら自分と異なる意見と照らし合わせることなど、他者を媒介にして自己を見つめる活動は先の2つの要素でも求められたが、それらは現代の多文化が幾重にも連なる極めて複雑な社会の中で発揮されてはじめて意味をもつものである。答申が家庭・地域と連携した教育を実施していく「社会に開かれた教育課程」を重要視するのも、学校と社会の接続を強化する狙いの表れだろう。
このように、学校で身につけた「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力等」をこれからの社会の実践的状況に持ち出すために、「学びに向かう力・人間性等」は要請される。言い換えれば、「学びに向かう力・人間性等」、すなわち多文化主義を前提としたメタ認知能力こそが新しい学力の新規性を担保するものであり、現代日本でコンピテンシー概念を検討する上で最も今日的なテーマなのである。2008年版学習指導要領では、「思考力・判断力・表現力等」の領域で「言語活動の充実」が図られた。しかし、2020年以降の学校教育では、生徒が自らの問題意識を学びに反映させたり、自分の思考過程がどのようなシステムに法っているのかを捉えたりする「メタ認知」の領域まで、その活動を敷衍させなければならない。
1-1-3 水平的「転移」としてのメタ認知
1-1-1でも触れたように、コンピテンシーに基づく教育改革は世界的な趨勢である。こうした新しい力は、EUの「生涯学習のためのキー・コンピテンシー」や、全米研究評議会の「21世紀型コンピテンス」をはじめとしてその名称は国や地域によって多岐に渡るが、これらの新しい能力概念には共通して高次の認知能力が含まれている。本項では、海外のコンピテンシー概念と日本の資質・能力の関わりから、本研究で重視するべきメタ認知能力のより仔細な位置づけを行う。
各国で開発されるコンピテンシー概念は、2003年に最終報告がされたOECD(経済協力開発機構)におけるDeSeCoの「キー・コンピテンシー」を土台としている。そうした背景を踏まえ、文部科学省は1998年版学習指導要領から明記される「生きる力」を、「キー・コンピテンシー」を先取りしていた概念であるとして両者の関連を指摘している。また、「キー・コンピテンシー」を開発したOECDは現在、その後継ともいえる「OECD Education 2030」で未来の学力観についての議論を行なっているが、そこでOECDに影響を与えているのは、CCR(カリキュラム・リデザイン・センター)が設定した「CCRフレームワーク」である。日本も、2015年に行われたOECDとの政策対話で、「CCRフレームワーク」に対し「日本の学習指導要領改訂が目指しているアプローチと近い」と共感を示している。
以上のことを考慮し、ここでは現行の2008年版と次期の学習指導要領に結びつく「キー・コンピテンシー」と「CCRフレームワーク」に含まれるメタ認知能力を取り上げることにする。
OECD-DeSeCoの「キー・コンピテンシー」では、「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力(個人と社会との相互関係)」、「多様な社会グループにおける人間関係形成能力(自己と他者との相互関係)」、「自律的に行動する能力(個人の自律性と主体性)」という3つの能力を三角形に組み、その中核に「個人が深く考え、行動することの必要性」(思慮深さや省察性、反省性などと訳される)を据えている。一方の「CCRフレームワーク」は、「知識」、「スキル」、「人格」の3つの円(要素)が部分的に重なるように配置していて、さらにそれらを「メタ認知」と「成長的思考態度」を組み合わせた「メタ学習」が包括する形で構成している。
これらを見れば、答申がメタ認知(「学びに向かう力・人間性等」)を「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力等」の方向性を決定する要素と規定したのと同様に、両者ともメタ認知に当たる能力を、その他の能力をまとめる位置に設定しているのがわかる。ただ、「キー・コンピテンシー」と「CCRフレームワーク」の「省察性」、「メタ学習」は完全には一致しない。松下佳代は、両者の差異について次のように指摘している。
DeSeCo キー・コンピテンシーでは「何のための能力か」という問いに対し、「個人の豊かな人生」と「うまく機能する社会」を掲げ、現状への批判的スタンスも取りながら、個人と社会との軋轢や複数の社会的価値の間の対立関係の調停を図ることを「省察性」の中に込めているのに対し、CCRの「メタ学習」には「個人の豊かな人生」の視点のみ――しかも、世界の変化への適応のみ――しか含まれていない。
松下は、「メタ学習」がすべて生徒個人に還元されるのに対し、「省察性」は個人と社会や、複数の共同体の境界に生じる摩擦を克服する方向に向いているとして、「キー・コンピテンシー」の役目が終わっていないことを主張する。たしかに「CCRフレームワーク」においては、「メタ認知」が「成長の機会に気づくための鍵」として、また、「成長的思考態度」は「自分は成長できると信じるために」必要な要素として求められるように、生徒自身の成長が第一に重視されている。
他方、「省察性」で強調されるのは、コンピテンシーを発揮する文脈を意識することである。DeSeCoは、「個人と社会との関係は論理的で動的である」ことを「コンピテンスモデルの基礎をなす仮説」とし、行為は常に社会的文脈に影響を受けるものであるとする。換言すれば、DeSeCoが整理したそれぞれのコンピテンシーを教育することは、生来人間に備わった力を開花させる意味ではなく、ある固有の文脈からの需要に応える資質・能力を学習によって外側から補完することを指している。ここでの「省察性」は、身につけた資質・能力を相対化し、異なるコミュニティに属する他者との協働、共生を可能にするためのスキルなのである。
前項で挙げた現代の「流行」を顧みれば、松下の指摘の通り、「省察性」にこそアクチュアリティが認められるといえる(学習指導要領と「キー・コンピテンシー」、「CCRフレームワーク」の関わりについてはさらに詳細な検討が必要である。したがって、両者を安易に対立関係にはめ込むことは本稿の狙いから外れる。それでも、管見の限り、社会的要請が高まる高次の認知機能に関しての言及はOECD-DeSeCoがより詳しいため、ここでは「省察性」を考察の中心に据えることにする)。では、多文化主義を前提とする社会の中で、「省察性」はどのように発揮されるのだろうか。
DeSeCoは多様な社会において、「問題や問いを一連の相互に排他的な選択肢の集合に還元したり、差異や矛盾を扱うための厳重な規則を採用したりすること」を否定し、「複雑でダイナミックな相互作用を認識しながら、その間の緊張関係を扱おうとする」態度を要求する。こうした価値観の対立を、その場限りの統合的な方法で乗り越えていくために「省察性」が方法とするのは、「転移」と「適応」である。
前述の通り、DeSeCoのコンピテンシーは特定の文脈の内側で機能するため、異なる文脈からの需要に既存のスキルで応答することは自己中心的な態度になる。したがって、緊張関係を扱うためには、「古い状況から新しい状況へとスキルやコンピテンシーを移動させる」必要がある。この移動が「転移」である。そして、複数の文脈を「転移」によって往来しながら、既存のものと新たな需要に折り合いをつけるのが「適応」という概念である。図式的に表せば、「転移」は既存の文脈から対立する他の文脈への横方向の運動であり、「適応」はそれらの対立を調停し統合する弁証法的な縦方向の運動だと位置づけられる。
無論、ここでは「適応」が最終的な到達点となる。答申の「主体的・対話的で深い学び」からも、極めて簡略化して述べれば、主体を対話によって相対化し、異なる他者との協働からより深い次元に到達するといったフローを見出すことができる。しかし、以上のことから学習の焦点を「適応」の達成に限定することは性急な結論である。ときに「適応」は、集団における主導権争いの結果や高次の目的(経済的な合理性など)のために、個人の具体的な意思を捨象する形で実行されてしまうからである。こうした局面では、「転移」が表面的な上滑りに終始して、ただグループの合意形成を得るためだけの活動に陥っていると考えられる。表面的な「転移」は、他者を主体による生産物へと変貌させてしまい、そうなれば、学習の成果として残るのは見せかけの達成感以外にない。
多様で複雑な社会では、他者とはいつでも〈私〉とは異なる存在であり、そこでは他を他として見る態度の涵養こそが必要である。その態度は、他者を自分に引き寄せて解釈したり、個人の性質を抽象化してカテゴライズしたりすることを断固として拒む。ここで求めるのは、自らの文脈を意識しながら、他者の文脈に寄り添うように自己を変容していく横方向の「転移」である。ここからは、この「転移」のためのメタ認知能力を「水平的メタ認知」と称して、その育成の方法を探っていく。
1-2 水平的メタ認知の指導方法の検討
1-2-1 なぜアクティブ・ラーニングか
前節では、2030年に向けて最も注視すべきコンピテンシーがメタ認知能力であることを確認した。本稿の中心に置くのは、他者を媒介にして自らの思考を止揚するためのものではなく、他者の文脈にお���てそれまでとは全く異なる新しい自己を生成するような、状況に応じた横方向への「転移」を正確に実行する能力である。
本節からはその方法についての検討に移る。答申では、新たな資質・能力を「どのように学ぶか」という課題に対し、「主体的・対話的で深い学び」の導入を目指している。アクティブ・ラーニングと「主体的・対話的で深い学び」の相違に関しては、答申における「「アクティブ・ ラーニング」については、子供たちの「主体的・対話的で深い学び」を実現するために共有すべき授業改善の視点として、その位置付けを明確にすることとした」という記述を基に、「主体的・対話的で深い学び」をアクティブ・ラーニングから、より方法的な志向性を抽出した学習方法と捉えて問題はないだろう。ただ、「主体的・対話的で深い学び」についても未だ共通の理解があるわけではない。そのことを考慮し、ここでは大枠的にアクティブ・ラーニングの意味と問題を明らかにし、水平的メタ認知を育成するために必要な施策を探っていく。
日本でアクティブ・ラーニングが広く注目される契機となったのは、2012年8月の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」である。ここでアクティブ・ラーニングは以下のように述べられる。
従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。
ここでは、教員主体の知識注入型の授業から生徒主体のインタラクティブな授業への転換がポイントになっている(アクティブ・ラーニングは高等教育から導入ざれた概念であるため、多くの言説は対象となる学習者を「学生」としているが、本稿では引用箇所を除き「生徒」の表記に統一している)。そして、生徒主体の活動が「能動的学修(アクティブ・ラーニング)」なのである。溝上慎一は、ここから能動的な学習をさらに「書く・話す・発表するなどの活動への関与」と、「そこで生じる認知プロセスの外化」という2つのフェーズに分けている。この2つの位相の接続は必然のようにも思えるが、溝上は受動的学習では現出しない「認知機能」を意識することこそがアクティブ・ラーニングの意義として、「二重表現を採って」関与と外化の「十分な協奏」を主張する。まとめれば、アクティブ・ラーニングとは生徒主体の授業であるが、ディスカッションやディベートなどの活動が等しく「能動的学修」になるのではなく、その活動を通して発動する「認知機能」を自覚することによって有効となる学習方法なのである。ここでの「認知機能」とは、作文やグループワークでの言葉が内包する意図を生徒自らが意識する程度の意味で、広義の認知といえる。それでも溝上の以上の定義に従えば、アクティブ・ラーニングは先天的にメタ認知能力を向上させることに適した学習方法として捉えられるだろう。
1-2-2 アクティブ・ラーニングの問題と「転移」のための方策
ここまでで、アクティブ・ラーニングが「認知機能」の発動と認識を前提とした学びであることを理解した。ただ、溝上が関与と外化を慎重に結びつけるように、アクティブ・ラーニングの実践を充実させるのは決して容易ではない。前述したような、「能動的学修」にまで至らない形式的活動に陥る危険もある。このようなアクティブ・ラーニングの問題を、松下は次の3点にまとめている。
①知識(内容)と活動の乖離
②能動的学習をめざす授業のもたらす受動性
③学習スタイルの多様性への対応
①は、アクティブ・ラーニングを優先するあまり、最低限の知識(内容)すら獲得できないという問題である。能動的な学習によって高次の思考の獲得を目指すならば、それに見合う知識が不可欠であり、知識の習得をおろそかにすれば活動の形骸化は免れない。この問題の誘因は、コンテンツをコンピテンシーの対立項に定置してしまうことだろう。コンピテンシー・ベースの教育が決して「知識・技能」の獲得を否定するものでないことを思い返せば、教育課程の効果的な編成が解決の糸口になるはずである。
②は、生徒がアクティブな態度を表面的に演じる危険性を表している。佐貫浩もこの問題に対し、教員の立場から「アクティブさを測る基準が、挙手、発言、というような「形式」におかれ、そういう「態度」を取らせることが、アクティブ・ラーニングであるかの「誤解」に近い混乱が起こっている」と指摘する。一方で③は、そうした積極的な振る舞いを拒否する生徒への対応に関する問題を指す。これらは、生徒の学習を促進するはずのアクティブ・ラーニングが、却って抑制する働きに向いてしまう可能性を示唆している。上記のもの以外でも、「そこそこの労力でまあまあの結果を出すということがグループ内で暗黙の了解(暗黙のルール)となってしま」うことや、「グループ内での分業が許容される程度をこえて不均等になり、フリーライダーの出現を許してしまう」ことは、実践例の中に散見される失敗である。
以上の問題に、水平的メタ認知の育成を目指す立場から、どのような解決策が考えられるだろうか。前項で確認したように、アクティブ・ラーニングの肝となる「認知機能」は外化に至るまでのプロセスを認識することであり、これは生徒の発言回数などの外的要素とは区別される内的な活動である。それならば、本研究では外的活動の活性化に拘泥するのではなく、内的活動をアクティブに働かせることを第一義にするべきだろう。
グループワークなどの協働学習は、複数の異なる意見の存在を認識したり、それらを擦り合わせて共有可能な1つの答えを導いたりするためには有効である。けれども、前者に関してはその先の活動こそが本稿の目途であるし、後者は弁証法的な縦方向の学習であり、ここでは目的を異にしている。よって、本稿で提示する水平的メタ認知育成のための授業理論では、その手段として協働的な活動は用いない。この選択が、授業におけるアクティブさの消失を意味するものでは決してないことを強調しておく。例えば、「対話的な学び」がリテラルな他者との対話でのみ実現されるわけではないように、アクティブさを測る尺度は内的活動に向けられべきなのである。それは、答申の「対話的な学び」は「子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ」て実現されるという見解にも表れている。
学びのアクティブさは外的活動の活発さに依存するものではない。それゆえに、作文のような個別的表出でも、認知プロセスの意識化および外化は実現可能である。このように、外的活動から内的活動へとアクティブ・ラーニングの焦点を移動させれば、生徒が積極的な態度を演じる、またはそれを拒否する生徒を生み出すという問題を回避しながら狙いに直線的な働きかけを試みることができる。
もう1つ、授業で「転移」を行うのに最適な課題設定について簡単に言及する。意識すべきは、メタ認知、ひいては「学びに向かう力・人間性等」が、学校と社会を係留する動きの中で持ち出されたコンピテンシーだということである。したがって、メタ認知のための課題は、生徒の生活に侵食していくような強度をもったものでなければならない。松下らが提唱する「ディープ・アクティブラーニング」は、学習課題に対して「原理と関連づける」や「身近な問題に適用する」などの「深いアプローチ」を行い、思考を抽象化することで学びの射程距離の延長を目論んでいる。もちろんこれは抽象化という縦方向の運動性を有しており、本研究では別の方策を採る必要がある。それは、生徒の思考を高次の一には回収しない。それは、生徒個人の生活から始まり、それらの多様な具体性の中で完了されるべきものである。
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第2章 認識過程の意識化とその組み換え
2-1 生活を捉える授業理論の考察
2-1-1 戦後国語教育と主体の問題
水平的メタ認知は、生徒たちの具体性の中で培われる。具体性、つまり生徒ひとりひとりの生活を捉える学習のためには、それぞれに固有の視点と言葉をもって日常を描き出すことが最初の課題になる。何よりも大事なのは、主体的態度で対象に向き合うことだ。ここでの主体とは、答申が示す「学ぶことに興味や関心を持」ったり、「自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら」課題に取り組んだりする態度とは異なる。それは、学校や社会で共有される価値観に従属することなく、自らのパースペクティブを通して対象に接触しようとする態度を指している。
こうした主体の問題は、戦後間も無くの国語教育、とりわけ文学教育においても取り上げられている。アメリカによる日本の植民地化を危惧する時代に、生徒が抱える生活上の矛盾を前景化させることが要請されたのである。伊豆利彦は1952年の論文で、そうした立場から当時の教育界の状況を次のように批判的に説明している。
かつて、侵略戦争のイデオロギー教育をもっとも忠実にはたした反動的な日本の教育界は戦後もなお健在であり、ことにこの二、三年は急激にその反動性を露骨にして、生徒のあらゆる自主的なうごき、社会批判の芽生えを、さまざまな理由をつけておしつぶして来ている。このことは生徒のもっているなやみをぬけ道のないものにし、内訌させている。彼等は自己の理想をおしつぶすか、それともはてしない泥沼のような希望と絶望の交錯した苦悩の中にのめりこんでゆくかすることを余儀なくされている。
(旧字体は新字体に改めた。以下同じ。)
戦後の急速に変容する社会を前に、生徒たちは様々な矛盾を自己と社会の間に感じ取っていたと予想される。しかし、当時の学校教育ではそうした矛盾を肯定し発露させることなく、むしろ抑圧していると伊豆は批判した。��のような、生徒が社会に吸収される潮流の中で、伊豆が求める文学教育は以下のように示される。
文学教育は生徒が体験を通して自分のものとしている現実認識-生徒の世界と文学の世界とを結合することであるといってもいいすぎではない。この作業はもちろんコトバの障碍をとりのけることも含むけれどそれがすべてではない。それ以上に、文学作品を現在の問題、生徒が直面しているさまざまの問題と結合し、読ませることなのである。
(前略)文学は(中略)具体的に形象的に現実の種々相を追求し、表面的にではなくその底にある社会の本質、人間の本質といったものをえぐり出して、読むものの心にこれらのものを抽象的、観念的にではなく、具体的、現実的に、いきいきと認識させ、そのことによって、この矛盾にみちた、唾棄すべき、変革すべき現実に対する抵抗の意識を読者の心によびさまし、それとたたかうたたかいの道を教えるのである。
社会に適合するだけの人間を生産するのではなく、文学教育によって生徒個人の内面を抉り出し、社会に抗う主体を育成しようとするのが伊豆の主張である。これは、文学を科学的な客観性と生徒の主観性のどちら側に位置づけて教授するかという問題に通じている。伊豆のいう、戦前の「イデオロギー教育」に加担したことへの反省もあり、1950年代を境に生徒の主観による文学教育理論は盛んに提唱された。その中でも指標となるのは、荒木繁の「民族教育としての古典教育」だろう。
荒木の授業スタイルは、「一人の生徒に三つか四つずつ歌を分担させ語釈、歌の意味を調べさせ、教壇に出てそれを説明させ、最後に感想なり批評をいわせ、それに対して皆から質問や意見をいわせる」といった、今日のアクティブ・ラーニングにも重なるものだった。しかし、この活動ではクラスによっては意見が出ないまま討論が不活発になってしまうことが多くあったという。そこで荒木は、授業のスタイルよりも生徒の内面を表明させることを優先している。荒木が授業で重視するものは、以下の通りである。
訓話註釈それ自体に意味があるのではなく、究極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません。(中略)この場合、すぐれた歌というものの、なにがすぐれているかが実は問題です。それは難しい点では作品評価の基準の問題になりますが、そんな意味でではなくとも、たとえば教師が人麻呂を憶良よりすぐれていると考えかたにしても、その考えをおしつけるべきが〈原文ママ〉どうかは問題だということです。これは生徒の年齢の関係もあります。たとえば近代短歌を例にとると、このくらいの年頃の生徒は茂吉や左千夫よりも牧水や啄木を好みます。その際、左千夫の方が牧水よりいいのだというような教え方をすることは、たとえ万一それが正しいにせよ問題だと思うのです。私の考えでは、むしろ生徒が自ら感じいいなと思うのならそれに任せるべきだと思います。
伊豆が「変革すべき」とした「現実」は、ここではよりミニマルに「教師」として示されている。荒木は、柿本人麻呂や伊藤左千夫に絶対的な優位性を付与する教師を否定し、文学作品の価値を決定するのは生徒の感覚だと主張する。つまり、荒木の狙いも伊豆と同様に、教師の中に用意された正解に導くのではなく、生徒たちが抱える内面の問題を持ち出すことで予定調和を逸脱させることなのである。
この荒木の理論は、戦後の国語教育(文学教育)で持ち上がった主体の問題に対する1つの解答だろう。しかし、「民族教育としての古典教育」は同時に次の問題を内包している。それは、荒木の報告が「民族教育としての」と形容されるように、既存の状況の外側にある世界もまた、唯一の全体性をもったものとして現れる危険性である。荒木はこの問題に自覚的で、「民族教育」を強調することによって「古典偏重」に陥ることを「逆コース」と呼び、これを否定している。けれども、荒木の理論は確かに戦後の状況下で、アメリカやロシアと日本を対立させる形で生徒が「民族」を意識するよう組み立てられており、多文化の共生が前提の現代社会においては十分ホリスティックな思想といえる。「社会の本質、人間の本質」を措定する伊豆の主張も同様である。
社会で共有される一般的な価値観からの逸脱を図りながら、表面的で抽象的な学習を拒む主体的態度は、指導者が「変革すべき」現状を梃子にしてあるべき本質を規定してしまえば、すべて水泡に帰すことになる。主体的態度による学習は、どこまでも本質を迂回し続ける運動なのである。
2-1-2 大河原忠蔵「状況認識の文学教育」の展開と問題
戦後国語教育では、荒木の他にも西尾実や太田正夫などによって、生徒の主体的態度を重視する授業理論が多く提出された。その中で、生徒の生活と文学教育の連結を最もラディカルに実行したのは、大河原忠蔵だろう。田近洵一の言葉によれば、「文学作品を仲だちとして、生徒に自分の現実を認識させるにとどまらず、作品の全然ないところでも、自分と自分をとりまくものを状況として認識する力を身につけさせる」ことを志向したのが大河原の特異性である。現実を自らの問題意識と重ねながら認識することを、大河原は「文学的認識」と呼ぶ。それは以下のように定義される。
文学的認識といういい方をすると、すぐに文学作品に対する認識と混同されやすい。たしかに、作品に書かれてあることを、読みながら認識していくことも、認識にはちがいない。(中略)しかし、ここでいう文学的認識というのは、作品に向かってはたらく認識作用(鑑賞)を指すのではなく、作品を離れてしまった生徒が、作品の全然無いところで、自分をとりまいている外部の状況や、それに対応している内部の状況を、言葉でとらえていく認識過程のことである。
荒木らの理論が生徒の問題意識を文学作品の読み方と結びつけたのに対し、大河原は生徒の問題意識を現実の見方、捉え方に繋げた。したがって、大河原理論における文学作品は、現実の捉え方の1つのモデルとして提示される。ここでは、作品と読者の緊張関係から状況と主体の関係へと問題の中心点が移行しているのである。
以上のように、作品の鑑賞ではなく、作品に至るまでの作者の状況認識過程を学習の目的とする大河原理論は、作家のように生徒が自身の「思想」に基づいて経験を記述することを希求している。この「思想」とは、「理性でも、感性でも、欲望や衝動でも、特有の感受性でも、また倫理的思考でもな」く、それらと関連しながら「人間の行動に直接結びついているもの」であり、本稿で掲げた主体的態度に通じている。ここで大河原が「思想」という概念を用いるのは、「客観性よりも主観性」といったスローガンに厳密さをもたせるためである。大河原は生徒の主観性を「思想」として、それは「認識と価値意識の結合」によって立ち上がるものだと規定している。「認識」とは、視覚や聴覚によって外界を知覚することで、「価値意識」はそうして内面に反映した対象によって動く生徒固有の意識を指す。つまり、客観的な「認識」と主観的な「価値意識」が結合することによって「思想」が現出し、その「思想」によって現実を捉えることが「状況認識」なのである。
「価値意識」は生徒個人のものであり、人間一般に適用されるものではない。例えば、芥川龍之介の『くもの糸』を読んで「カンダタ」のエゴイズムを普遍的に拡大して認識したり、夏目漱石の『こころ』における「先生」の罪悪感をすべての人間に共通する問題として引き出したりする読み方を、大河原は次のように否定している。
それは、けっきょく「人間性とはこういうものである」という、あの歴史はかわっても人間性の本質はかわらないという観念的発想の地固めをすることによって、一九六〇年のシチュエーションに必要な具体的な人間理解の視点を追い出してしまっている、ということなのだ。
(前略)三十年前も今も、青年の気持の根は変っていないというような非分析的な人間性把握にわたしは賛同しない。
大河原は、土地や時代を超越する人間の本質に生徒の問題意識を回収することを峻拒する。その理由は、本質へ回収することで人間の具体性が消失してしまうからに他ならない。このように、生徒の主体的態度、大河原の言葉でいえば「思想」を維持するために、本質へとつづく道程は避ける必要がある。
大河原のこうした主張は、「コブシ型」と「テノヒラ型」という「思想」の分類にも表れている。「コブシ型思想」は、「個物A、B、Cから、共通にはたらく価値意識の対象が抽象的な概念としてぬき出され、その抽象的な概念と価値意識の結合とが」一つのまとまりになったものを指している。「人間の本質」はまさに「コブシ型」に当てはまる。その他にも、「民主化」や「女性解放」といった大きな標語、また、法則やことわざなどもそこに含まれている。上の引用からもわかるように、大河原はこうした演繹性をもった「思想」から距離をとり、具体的状況と結びついた一回性の「思想」に重点を置く。それが「テノヒラ型思想」である。「テノヒラ型」について大河原が述べている箇所を引用する。
テノヒラ型思想は、(中略)一定の状況のなかでの、一回的な、特殊的な事物、関係、構造を把握したコトバのかたちをとって、そこにあって、そこからうごかない。
「テノヒラ型」の言葉が「うごかない」というのは、その言葉が作者以外の人間には決して適合しないことを意味している。つまり、「テノヒラ型思想」に基づく言葉は、状況と結びついた具体的で一回的な作者のオリジナルでなければならない。また、大河原はそうした言葉で構成される作文を、以下のように作者の「秩序」と表している。
コトバが、状況にはめこまれていながら、同時に、作者の価値意識によって状況からはぎとられ、作者のつくりだす新しい〈秩序〉の有力な構成単位になっていなければいけないということだ。そういうコトバが、テノヒラ型思想になる。
状況の中で作者は言葉、すなわちイメージを選択し、選び取った複数のイメージをさらに配列して新しい独自の「秩序」を構成することで、状況に対して強固な主体を打ち出す。このイメージの選択と配列が作者にとって必然に実行されたとき、そこに「テノヒラ型思想」が立ち上がるのである。
大河原が引用する准看護婦養成所の生徒の作文では、彼女が勤める病院の医師に対する嫌悪が、立場の弱い准看護婦としての「思想」によって生々しく描かれている。患者の診察を受けるかどうかを「先生」に訊きに行った際、生徒の視線は「先生」の部屋のテーブル上にある「食べちらかした」サラダを捉える。その描写で選ばれたイメージについて、大河原は以下のように述べる。
「食べ残した」とも「食べ余した」とも書かず「食べちらかした」という言葉でイメージを切り取ったその言葉の構造自体に、すでにいつも使用人には喧しいことをいいながら、自分たちはだらしのないことを平気でやっている医者の人間内容に対する社会的な抵抗感や批判精神を含んでおり、それは金に夢中になって困るという最後の言葉に、有機的に連続している。
生徒が中途半端に残ったサラダを認識し、そこから「食べちらかした」というイメージを引き出したのは、日頃から「先生」に抱いていた批判的精神の結実であり、これは「食べ残した」や「食べ余した」に変換することができない。つまり、この准看護婦の生徒にとって、中途半端に残ったサラダと「食べちらかした」というイメージの結合は必然なのである。
ここまで見てきたように、大河原は抽象性を慎重に敬遠しながら、価値意識と現実の結びつき、具体的で一回的な状況の認識を可能にする理論を組み立ててきた。しかし大河原理論には、あまりに主観性を重く見すぎるために実感信仰に陥り、かえって生徒は状況の認識力を失うのではないかという批判もある(例えば、浜本純逸「「状況認識の文学教育」論の展開とその方向」『日本文学』(日本文学協会、1973年12月)では、大河原の「テノヒラ型」への傾倒に向けて、「人間が積みあげてきた知識や抽象化された思想との相互媒介的な往復思考をしないかぎり、実感信仰による状況認識の狭さを越えきれない」と批判している)。荒木の理論が現実の外側に本質的な「民族」を措定してしまったのに対し、大河原の理論は個人の認識が絶対化され、生徒たちが自己中心的にしか現実を捉えられなくなってしまうリスクを抱えている。荒木に見られた全体性の問題は、一転してここでは個別性の問題として現れるのである。
大河原理論が、生徒の主体的態度の抽出に特化することは広く認められる。その点は、具体性の発露と維持を重視する本稿の授業構想でも有効だろう。ただ、そこでの主体は他の主体から隔離された、孤独な主体となる。それは、他にいつでも同を見てしまうような、極めて強固であると同時に脆弱な主体である。そこで、ここからは第2の段階として、具体性の中でその隔絶した主体と主体を線で結ぶ方法を検討しなくてはならない。
2-2 客体操作による大河原理論の更新
2-2-1 大河原理論における客体の位置づけ
大河原が開発した「状況認識の文学教育」を水平的メタ認知育成のために再び持ち出すためには、主体的態度(「テノヒラ型思想」)による作文の先に、もう1つの作文を設定する必要がある。それは、「認識」−「価値意識」−イメージの3つが結合する認識過程に意識を向けながら、1度目とは異なる主体への「転移」を経た視点によって書かれる。ここで改めて宣言すると、本稿が目途とするのは、まさしくその「転移」と、その後の作文をこれからの学校教育において有効なものとして実現するための授業理論を提示することである。
そのためにまず、大河原理論における主体が変更可能であることを確認していく。ここでは、主体に対する客体について大河原が言及した部分に注目する。「状況認識」では、認識する作者、生徒が主体であり、現実、状況、自然は認識される客体として位置づけられる。前節の最後に挙げたのは、客体がすべて主体の主観的認識によって汲み取られてしまう問題である。ただ、「状況認識の文学教育」が成立した背景には、戦後から高度経済成長期にかけての状況に完全に埋没してしまった主体の存在があり、「状況認識」によって以上の問題が示す客体から優位性を奪取した主体を確立することは、大河原の狙いそのものであったと考えられる。
けれども、大河原による主客の格付けには若干の曖昧さが見られる。例えば、雷鳴を預言者が二輪車に乗って空を駆け回る音として認識する老婆の「状況認識」を大河原は、「老婆が自分をとりまく状況とのかかわり合いの関係のなかで、対象を主体化して、もしくは、自己を客体化してとらえたために、はじめて可能になったもの」と説明している。また、「自己運動するのは、たえず意識ではなく状況であり、意識はその状況と不可分の関係」であるという記述もある。ここでは、認識対象が主体に包摂される客体ではなく、むしろ主体のあり方を決定するものとして設定されている。「自己運動」を行うのが意識ではないという表現は、「テノヒラ型」の言葉が「うごかない」のと同様に、抽象的にイメージだけを状況から切り取ってしまうことの否定として読むことができるが、状況を上位に置くようなこれらの記述は、状況に抗う主体を標榜する大河原にとっては正確さを欠いた言説として受け取れる。
この曖昧さを、大河原の恣意的な表現として受け流すこともできるだろう。しかし、このような主客の関係の曖昧さにこそ、新たな主体を生成する契機が隠れているのではないだろうか。老婆が雷鳴を神話的に認識したのは、自然の現象が科学に基づく安定性の外側に脱去したことを意味している。そうした知識や理性では説明不能な不安定な対象を前にしたとき、人間は自己の中にそれを説明しうる固有の「価値意識」を見い出すことができる。認識する主体は、その「価値意識」を発見することでようやく対象から優位性を奪えるのである。田近が「状況認識」の作文の特徴について分析した以下の記述からもそのことは読み取れる。
状況認識の作文の第一の特質は、自分の体験を題材としながら、その過去のできごとを現在の時点から回想するのではなく、過去の時点に立ち、今の体験としてイメージ化しているという点にある。すなわち、書き手は、そのできごとを体験した時点に立ち、その時点で、今見ていること、耳にしていること、自分がしていることを、虚構の現在としてイメージ化する。そこで出会ったもの・ことをイメージ化することで、過去の時を生きる。言うならば、虚構の視点に立ち、書くことで、過去の時を虚構の現在として生きる、のである。
書き手は、現実の体験を描きながら、視点を過去のある時点に移すことで、虚構の主体となる。虚構の主体として過去の体験を再現する。過去のもの・ことを現在進行の事実として見る。つまり、現在進行の体験として仮構するのである。
主体が現在の視点から過去の経験を叙述するのでは、「状況認識」の作文は成立しない。現在の主体からすれば、過去の対象はすでに認識が完了した安定的な客体だからである。前述したように、主体の中に生々しい「価値意識」を付与するのは、既存の概念で捉えようとすれば齟齬が生じる不安定な対象に他ならない。したがって、大河原が目指した状況に優位な主体の成立は、主体を脅かす不安定で強い客体の存在を前提としていることになる。言い換えれば、主体と客体は対立するのではなく、相互に包摂し合う形で成立しているのである。
このように考えれば、主体を絶えず変容の可能性の内に留めるものは、主体の「価値意識」から逃亡を続ける客体だということができる。1度は自らの「価値意識」によって認識した対象も、そこでのイメージから外れてしまえば、再び不安定に主体を脅かす存在として現れる。そうすれば主体は、自身の内側にそれまでとは異なる「価値意識」を探し出す、もしくは、内側には存在しない「価値意識」を物語の形式を採って新たに創造することになるだろう。つまり、主体と客体の序列を反復的に入れ替えることで、無数の「価値意識」を生成し続ける可塑的な主体を立ち上げることが可能になるのである。
2-2-2 イメージの組み換えによる「価値意識」の生成
主体は客体に伴って変容する。それでは、客体の操作はどのように行うことができるのだろうか。
ここでは、「価値意識」と結びついて客体を表象するイメージに手を加える。「価値意識」は主体が対象を自らのイメージで認識するために不可欠な要素であり、「価値意識」に依拠したイメージの選択と配列は、その主体にとって必然的に実行されるという大河原の主張は2-1-2で示した通りだ。サラダを「食べ残した」や「食べ余した」ではなく、「食べちらかした」というイメージで捉えた准看護婦の生徒は、日頃から医師への嫌悪を抱いているがゆえに、そのイメージしか選択することができなかった。では、外部からの操作によって、そのイメージが「食べ残した」に変更されたらどうだろうか。また、「きれいにとってある」や「ペットの餌のような」というイメージに組み換えられたらどうだろうか(物事の多義性については論を俟たない。「ルビンの壺」や「ネッカーの立方体」が意味する通り、地と図はさまざまなバリエーションに転回する)。その生徒は、自己の内側にそれらのイメージを必然として捉える「価値意識」が存在しないことに気づくだろう。そこでようやく、新たな「価値意識」を仮構する課題が生徒の実感の中で現れてくる。
このような、先行する言葉を誘因とした主体の変容可能性は、諏訪正樹・藤井晴行による「からだメタ認知」の研究でも示されている。諏訪・藤井は、情報化社会での記号と身体の乖離を指摘し、現実と対峙した際に生じる身体的感覚を言語化する営み(「からだメタ認知」)の重要性を提示する。「からだメタ認知」の理論は、外界の事象や身体の内部での出来事を分節化し表象する「ことばシステム」と、身体の中で生起する感覚である「身体システム」を対置して、その「共創」が起こることで身体の感覚が新しく生成されていくというものである。
段階としてはまず、ある言葉を起点として、それに関連するいくつもの言葉が誘発される。諏訪・藤井は「まちかどで猫に相対した」場合を例に挙げて以下のように説明している。
まちかどで猫に出逢うと、「猫」ということばだけではなく、さまざまなことばや概念を連想します。「みゃおん」と「かわいい」声色で鳴くとか、簡単にはひとに「気を許さず」、遠くの「物陰」からこちらを「偵察」する行動をとるとか、「のっそりと」歩くとか、「」で囲ったひとつひとつのことばや概念が、「猫」から連想できます。ことばがことばを生むのです。
ここで列挙されたのは「連想」による言葉の増幅だが、「状況依存的」や「知識に基づく推論」などのメカニズムによっても言葉の連鎖的生成は行われる。物理的属性である「毛並み」や「丸い瞳」が原初的に知覚され、それらは体感とリンクするが、その間にも言葉は拡散的に誘発されていく。
そこで対象を認識した主体は、新たに登場する言葉を体感とつなぐ「意識的努力」をすることで、言葉と連結する新規の体感を獲得することが可能になる。諏訪・藤井によれば、言葉に比べ、身体の感覚は習慣に埋没しやすく意識するのが難しい。したがって、それまで無意識の内に消費された体感を意識するための、言葉による方向づけが有効なのである。
では、この「ことばシステム」と「身体システム」を大河原の「状況認識」と重ねるとどうなるだろうか。街角で遭遇した猫の鳴き声から誘発される「かわいい」や「醜い」などの言葉と、それに適合する身体的な実感の結合は、選択されたイメージとそれを必然とする「価値意識」の関係と同じ形式だといっていい。そう考えれば、猫の鳴き声から「かわいい」というイメージが引き出され、それを体感とリンクさせた場合、准看護婦の作文と等しく鳴き声のイメージとして同時に現出する「醜い」や「卑しい」といった言葉は捨象されることになる。つまり、「ことばシステム」の中で増幅していくイメージと「身体システム」における体感との結合パターンは有限であり、体感とリンクするイメージは主体固有の感覚に依拠して必然的に選択される。そして両者の接続は、変更がなされない限り、何度か繰り返される中で安定的で排他的なものとして確立されていく。例えば、いくらかの経験から猫の鳴き声は「かわいい」と決まった回路で慣例的に認識するようになると、「醜い」と認識する他者の存在が見えなくなってしまう。
このように、「ことばシステム」と「身体システム」、選択された言葉と「価値意識」の接続は、その過程で捨象されたイメージを無視すれば絶対化されてしまう。すなわち、身体的感覚が習慣に埋没する傾向が強いという諏訪・藤井の指摘は、生徒の認識の絶対化をもたらすという大河原理論が内包する問題にそのまま繋がっているのである。そこで、体感が志向する言葉を「食べちらかした」から「きれいにとってある」に、「かわいい」から「醜い」に組み換えることで、反対にその言葉に見合う習慣から逸脱した体感を要請する。こうしてイメージを組み換えることで、対象はバランスを失い、安定的な客体から主体に新たな「価値意識」の生成を促す不安定な対象となって再び出現するのである。
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