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きみはのぶろぐ
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短歌、小説、音楽、飯、表現規制
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hamakimiha-blog · 7 years ago
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【お知らせ】署名を提出いたしました
遅れてではありますが、署名を提出いたしました。
9月に「お詫び──月スカ関連署名について」と題し、署名の提出が無理そうだということを書いたのですが、提出するための状況が整いましたので、11月22日、署名を(以前知らせした、ファンレターと共に同封するという形で)欅坂46事務所宛てに)郵送いたしました。
元々の郵送予定時期から一年以上が経ってしまい、申し訳ありません。
もし先方から返信があるようでしたら、またこちらにてお伝えいたしますので、そのときはよろしくお願いいたします。
濱公葉
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hamakimiha-blog · 7 years ago
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お詫び──月スカ関連署名について
 欅坂46『月曜日の朝、スカートを切られた』など、AKB・坂道グループのプロデュースにおける表象の制作過程に関する情報の公開を秋元康氏に対する署名活動を始めてから、一年近くになります。その間に私は署名を秋元氏側に郵送にて提出するはずでしたが(そして「署名を提出します」とのお知らせも去年の時点でしていました)結局のところ、できていません。署名にご賛同いただいた方々を裏切ってしまったことを、深くお詫び申し上げます。
 以下にて、署名の提出に至らなかった経緯をご説明いたします。
1 倫理的問題
 署名を求めるに至った理路、問題意識については今でも間違いではなかったと思いますが、署名を集める中で呼びかけ文を改稿していったことに対し、「署名活動のやり方としては問題ではないか」とのご指摘が複数あり、私自身も引っかかっていたことにより、署名の提出を保留しておりました。
 改稿自体は、取り散らかった論点の整理、修正、厳密化や追記といったものであり、賛同者様から得た署名を悪用する性質のものではないと断言しますが、それでもやはり形式的な問題として、「詐欺的なやり方である」、または「詐欺的なやり方に道を開く行いである」というご批判を免れないものであるとの認識がありました。そのため、倫理的な問題として捉え、署名活動の停止に至りました。
2 内面的問題
 上で述べた倫理的問題に対し、間違いを認められない弱さが私の中にあったこと、人格的な問題が、署名の本来の郵送時期から一年近く経つまで次の行動に移らないという暴挙の原因だと認識しております。
3 その他
 些細な話ではありますが、秋元氏事務所側に対し情報公開を要求する署名を郵送する際に、欅坂46に対するファンレターを同封しようとしたところ、何を書いても自身の文章に納得が行かず、作業が進まなかったということも理由の一つです。
 以上3点が、署名の提出に至らなかった理由です。
 これから署名の提出を行うかどうかについてですが、当該署名の正当性に疑義があることから(1 倫理的問題)、提出はせず、署名活動は停止とさせていただきます。別な署名を改めて立ち上げるべきかもしれませんが、私にその資格があるとも思えなくなってしまいました。
 署名にご賛同いただいた皆様方には本当に申し訳ございません。
 濱公葉
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hamakimiha-blog · 8 years ago
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三度の飯には逆らえない
‪かつて友人だった奴に、こんなことを言われた経験がある。‬
‪『フェミとかセクマイとか、どうせ社会運動なんかじゃすぐには解決できない問題に対してずっと怒って社会を恨みながら一生を終えるの、虚しくない?』(大意)‬
‪そりゃあ虚しくもなるだろう。けれども、女性やセクマイを差別する人間にそんな他人事みたいに言われたくはない。‬
‪差別なんて受け流せばいい、という話でもない。受け流せるのは元から回復力が高い奴だけだ。例えばレイプされた人がその最中に性的な快感を覚えてしまったとして、レイプという行為がチャラになるわけでは全くなく被害者が自分を責める必要もないのと同様に、人が差別されて傷付き、怒りの反応を覚えるのは、弱いとかダメだということではなく、ただそういうこともあるというだけのことなのだ。‬
‪本題に入ろう。フェミニストは、あるいは「差別に怒る人々」は、好き好んで運動に自らを駆り立てているのだろうか? そんな人がほとんどだと言い切る根拠はない。あくまで仕方なくやっているのだと表明する人もよく見かける。‬
‪怒りを人にぶつける快感がどうの、被害者特権がどうのという人もいる。フェミニストは自己表現のためにわがままを言っているだけなのか? その筋でいけば、「弱者男性論」を男女平等思想に昇華していく道もなくなる。個人的なことは政治的なことであり、社会の問題だ。‬
‪社会や周りの環境に対する異議申し立てをせずに暮らす一般人、「生活者」にとってフェミニズムは有害でしかないという人もいる。運動の効果の検証はすべきだが、フェミニストと生活者を区別することは正当だろ���か? フェミニストにも生活がある。コンビニエンスストア(都市部に限って言えば、コンビニエンスと呼べるくらいには身近だ)にせよ電車の中の吊り広告にせよ、あるいは痴漢にせよ、日常の中にある差別や暴力をこそ問題にしている。フェミニストも通勤したり、家事をしたり、ライブに行ったり、萌えアニメを観たり、ツイッターをしたり、ひきこもったり、寝て起きたり、ため息をついたりしている。フェミニストだって生活者だ。日常の中で差別を目の当たりにしてしまうのに、そこから簡単に逃げることなどできないまま生きている生活者だ。‬
‪フェミニストは三度の飯より運動が好きなのか? いや、三度の飯には逆らえない。‬
‪三度の飯を旨くするために運動にエネルギーを注いで一食抜くようなことがもしあるとしても、それはフェミニストを運動への依存者として名指すのに充分な証拠ではない。‬
‪『ずっと差別のこと考えてるの虚しくない?』だとかフェミニストを嘲笑する余裕があるなら、そんな人はフェミニストが飯を爽やかな気分で食べられるように協力すべきなんじゃないだろうか。その嘲笑こそが飯をまずくするものの一つだということに、一刻も早く気付いてほしいと思っている。‬
‪ここまで読んでくださった方はありがとうございました。ご飯について楽しく語りたいということで、包丁もフライパンも使わないで作れる一品、しかし病みつきになるであろう「逆らえない飯」のメニューを一つご紹介します。‬
‪用意するのは、‬
‪①ひよこ豆(水煮) 一袋‬
‪レトルトパウチのが使いやすいです。‬
‪②マヨネーズ(適量)‬
‪その辺にあるやつ。‬
‪③ハリッサ(適量)‬
‪中東生まれ、唐辛子とニンニクとコリアンダーとクミンのペースト。パクチーの味はしないのでそっちが苦手な人も大丈夫。‬
カルディか成城石井にあるはず。‬
‪これで一人前の分量。‬
‪作り方は、この三つの材料を混ぜるだけ。豆なのにご飯のおかずにもなるんです。‬
‪前にツイッターで紹介したときには何も反応がなかったけれど、ハリッサが一般的じゃないからかな?‬
‪というわけで、私にもみなさんの「逆らえない飯」教えてくださいね!‬
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hamakimiha-blog · 8 years ago
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『月曜日の朝、スカートを切られた』の解釈について(補記)
記念すべき欅坂46初の全国ツアーも中盤になり、(曲に対する抗議や擁護などいろいろな立場を合わせて)現在6つある署名活動に対する関心もだいぶ薄れてきた頃だが、『月スカ』の歌詞・PVを他の楽曲との関係性も含めてどう解釈するかということを、考え方の変化��だいぶ進展してきたので、以前書いた文章(※)への加筆ではなく独立したブログ記事の形式で改めて書いておこうと思う。 秋元氏にこの楽曲を作る資格があるのかという部分などへの批判は以前書いた文章でしているので割愛するとして、ここでは、(以前「橋渡しの不備」として書いたことに関して)私は一つ、この曲を聴いた人や歌詞だけ見た人に尋ねてみたいことがあるのだ。 もちろん、以下でなされる指摘を通じて私は秋元康氏に対し、楽曲の歌詞差し替えや公開中止といった措置を求めているわけではない。しかし、『月曜日の朝、スカートを切られた』を擁護するにせよ批判するにせよ、欅ヲタの側も、LITERAを始めとする批判者の側も、必要な論点を踏まえないままに感情的な署名合戦に明け暮れ、そして対話がなされないままに今回の件がうやむやになってはいないかという懸念が私の中にあったので、こうした問題提起を試みたということをご理解いただきたい。 「あんたは私の何を知る」という箇所が『月スカ』の焦点だということは言うまでもないが、この台詞は曲全体の内容に比べるとかなりの唐突さがないだろうか? 『月スカ』は、大人たちの欺瞞に対する少女たちの鬱屈した感情を描き、『サイレントマジョリティー』への接続によって解放を予感させるという手法をとっている。 では、「あんたは私の何を知る」…この台詞にはどのような効果が期待されているのか? 私は、『月スカ』公開の少し前に発表された楽曲『エキセントリック』の楽曲構成を考えることで、私が『月スカ』に対して抱く違和感を言語化しようと思う。 結論から言えば、『月スカ』と『エキセントリック』の歌詞による接続が『サイレントマジョリティー』とのバランスを欠く形に終わったこと、そして『エキセントリック』との繋がりが、欅坂46を知らない人間だけでなくファン・ヲタクの多くにすら意識されていないことは、秋元康氏の大きな誤算だったのではないか? 『エキセントリック』のコンセプトは、『月スカ』と同様に欅坂46の楽曲としては異色な受動的ニヒリズムを前面に押し出したものとなっている。『月スカ』との違いは、大人たちではなく「同世代の少女たちの」嘘や欺瞞の描写が歌の中心になっていることだ(@takatontoonさんの指摘による)。そして歌詞だけでなく、どこか水にゆらゆらと流されるがままのイソギンチャクを思わせるダンスによって、気怠さや投げやり感が見事に表現されている(発声の面からは不満なところもあるが)。 この楽曲の受動性を、打ち破れはせずとも鋭く引っ掻く外向的な箇所が、「もう、そういうのうんざりなんだよ」「もう、そういうの勘弁してよ」「そんな汚い川なら 僕は絶対泳ぎたくはない」というフレーズであり、ここはアクセントとして綺麗にハマっていると感じた。こうした部分は『月スカ』に比べて優れているのだが、それは単に『エキセントリック』がよくできているというだけでなく、『月スカ』の方にも決定的な欠落があるのではないだろうか? …『エキセントリック』の衣装も学生服(本来、欅坂の衣装は「戦闘服」だ)���あることの他に、『エキセントリック』の題字と『月スカ』のそれがかなり近いフォントを使っていること、そして「キレイな川に魚はいないと したり顔して誰かは言うけど そんな汚い川なら 僕は絶対泳ぎたくはない」(『エキセントリック』)、「したり顔で あんたは私の何を知る」(『月スカ』)と、同じ「したり顔」という言葉が使われていることからは、『エキセントリック』が『月スカ』と深い関係性を持つものとして作られた曲であることを推測させる。しかしここで述べた一番最後の「あんたは私の何を知る」を通じて、『月スカ』が(『サイレントマジョリティー』や『エキセントリック』に比べて、私にとって)精彩を欠くように思える理由が見えてくる。 唐突であるということは、楽曲にとってある箇所が「余計」であることを意味する。もちろん、アクセントを入れること自体は不可欠だったのだが、「したり顔で、あんたは私の何を知る」という歌詞である必要はあったのか。 秋元氏からしてみればあったのだろう。例え全体の文脈に対して効果的な、本来入るべきだった何かしらのアクセント的フレーズとは違っても、まず①(注目されやすい部分に)『エキセントリック』と『月スカ』に共通する歌詞を入れること、②構造的に、『エキセントリック』と『月スカ』における、ニヒリズムと反ニヒリズムの予兆の「比率」を同じようにする必要があったこと、これらの配慮から「したり顔で、あんたは私の何を知る」が歌詞における『エキセントリック』との結節点となり、皮肉なことに、『エキセントリック』における構造と比較してわかりづらいものに仕上がってしまった(かえって『エキセントリック』と繋げた意味が薄らいでしまった)というわけだ。 なぜなら、『月曜日の朝、スカートを切られた』は(『サイレントマジョリティー』に至るための外向性を確保するため『エキセントリック』との接続がなされると同時に…そして絶対的に)『サイレントマジョリティー』との繋がりを強調しなければならなかったのだが、そうであるにもかかわらず、肝心なところが『エキセントリック』との歌詞における繋がりの維持に費やされ、歌詞の他の部分でも『サイレントマジョリティー』的なものの示唆はなされず、最終的に『サイレントマジョリティー』に至る道を表すのがMVの演出だけに留まった…からだ。 まとめると、『月スカ』的主体から『サイマジョ』的主体に移行する契機は『月スカ』自体には基本的には不在であり、その穴を補完するものとして『エキセントリック』が伏線となったが、やはり直接的に『サイマジョ』に接続する部分がMVの後半しかなく、歌詞の一番盛り上がるところまでが(迂回して最終的には『サイマジョ』への原動力を間接的に与えるとしても)『エキセントリック』に大きく捧げられたことで、『エキセントリック』&『月スカ』から『サイマジョ』に至る解放の物語が揺らいでいることが、批判者側が抱く楽曲への違和感の根源にあるのではないだろうか? 以上が私からの問題提起となる。被害者バッシングに走らず、欅ヲタの数的優越感を盾にした思考停止に陥ることなく…(また単なる表現規制でもなく)…坂道グループとこの楽曲が生まれ落ちたこの日本社会の現実を鑑みて、最善の選択ができるよう、この記事が両陣営の対話の一助となることを願う。 ※以前書いた文章=『改稿版 秋元康氏は差別と暴力に関する声明を出すべきだ』は、こちら。 →https://twitter.com/sin_itami/status/893430263522263043
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hamakimiha-blog · 8 years ago
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旧・説明文(キャンペーン「秋元康氏は差別と暴力に関する声明を出すべきだ」)
私が推しているアイドルグループ、欅坂46の名義で最近出た楽曲に『月曜日の朝、スカートを切られた』がある。同グループのデビュー曲『サイレントマジョリティー』の前日譚という位置付けだ。この楽曲に対して、change.orgで笹田絢さんという方が批判を行なっている。 私は笹田さんの問題意識に共感するが、笹田さんの切り口ではやや伝わりにくいだろうなと思ったので、新たなキャンペーンという形で補足させていただくことにする。 私が求めるのは、表現規制ではない。楽曲の公開取りやめなどの措置は積極的には望まない。 私が問いたい争点は今回の「スカート問題」に限らず大きく分けて3つあるが、結論から言えば、私は坂道グループや48グループなどのプロデュースにあたっている秋元康氏が差別と暴力全般に関する声明を早急に出すべきであると考える。これは社会的責任の問題というだけでなく、欅坂46を始めとするアイドルグループのブランドを守りその真価を発揮するために必要不可欠な措置である。 よって私は、 「秋元氏は、女性の衣服を狙った犯罪と、自らが担う商業文化のかかわりについてどのような見解を持つのか」 「秋元氏は、ミリタリズムや人種差別と自らの作品のかかわりに対してどのような見解を持つのか」 「秋元氏は、女性へのエンパワーメント全般に対してどのような見解を持つのか」以上3点について、秋元氏に対し、年内までの回答を求める。 以下、詳細。 (1)『月曜日の朝、スカートを切られた』と制服フェティシズムについて この新曲では、電車内でしばしば発生する衣服の切り裂き行為をタイトルに掲げ、従来の欅坂46の楽曲としては異例な「声を上げない女性」を描いている。 衣服の切り裂き行為は法律の上では「器物損壊」にあたるが、現実的には被害者に刃物を向けることで恐怖心を植え付け、衣服にダメージを負わせることで尊厳を侵そうとするものである。特にスカートを狙った攻撃は、事実上の性犯罪であるといっていい。 この新曲は、MVの一部から推測する限り、デビュー曲『サイレントマジョリティー』の前日譚として作られている(『サイレントマジョリティー』の発表時点で秋元氏が『月曜日の朝、スカートを切られた』の制作を意識していたかということについては存じない)。スカートの切り裂きに対して悲鳴を上げることさえ諦め絶望していた女性が、『サイレントマジョリティー』において怒りを爆発させた…そんなストーリーを描くことも不可能ではないが(少なくとも「そう読ませる」ことを想定してえい演出されているとは思う)、ここで二つほど批判すべき点を述べておく。 第一に、現実の日本社会においてなぜスカートが狙われるのかということについて。欅坂46に限らず、秋元氏がプロデュースする様々なアイドルグループは、少なくとも近年のものについては制服がある。その制服はスカートだ(『渋谷からパルコが消えた日』のてちソロを除く)。歌詞では「誰もが何かを切られながら生きている」「憂さ晴らし」というような言い方がされているが、スカートへのフェティシズム、女性のルックスに対する消費行動を商業的制度として下支えしつつ(※)、社会不安のみに責任転嫁し、イノセントなふりでほっかむりしながらスカート切り裂きを批判する資格は秋元氏にはない。スカートを切り裂かれたりしない男性は社会不安からくるストレスや暴力欲の捌け口を電車内の乗客に向けることができる一方、女性がある種の「文化」によって社会不安を倍増しされていることについて、いくら他の楽曲で闘争心を鼓舞したり夢を見せたりしたところで帳消しされるわけではない。また(3)で述べるように、秋元氏の商売は根っから、抑圧された女性をエンパワーメントする文化の醸成に対立していると批判されて仕方ない面もある。 ただ、批判する資格はなくとも、批判する義務は誰にでもある。『サイレントマジョリティー』のような勇敢な楽曲を通して、今後も私たちを勇気付けてほしいと願っていることも付け加えたい。 第二に、「私は悲鳴なんか上げない」という歌詞がもたらす規範的な印象について。音楽に限らずおよそ言葉を使う作品は多様な解釈を前提に作られているはずだが、「なんか」という語に含まれているのは、諦めや絶望だけだろうか、という問いも立てられて然るべきだ。私はこの歌詞から、反撃への意志阻喪のほかに、否定的な価値判断としての宣言を読み取ることもまた一定以上の確実性を持つはずと主張したい。具体的には、悲鳴を上げること(それが襲撃者の存在を拒絶する強さなのか、襲撃者や周りの傍観者に弱みを見せることなのかはともかくとして)を潔しとせず、黙することを、諦めや絶望からくる消極的選択でなしに、積極的に引き受ける態度であり、抑圧の容認を是とする宣言である。こうした、社会の(性犯罪者にとって都合のいい)「秩序」を維持する判断を歌詞が押し出していないと否定するに足りる根拠はないだろう。社会的責任の面からも、欅坂46というブランドの面からも、深刻に受け止め改善すべき問題だ。 8/3追記 「私は悲鳴なんか上げない」の解釈についてですが、他のファンの方のツイートを見たりニュースメディアの記事を閲覧したりした結果、肯定的に捉えるか否定的に 8/1加筆段落 誤解されがちな点なので強調するが、私は決してある特定の楽曲なり諸表現なりがそれ単体で人に対して影響を与えるとは思っていない。「『月曜日の朝、スカートを切られた』を聴いた人がそのまま犯罪者になる」という主張は全くしていないし、「尾崎豊の『十五の春』を聴いた人が必ず盗んだバイクで走りだす」というわけでもない。では、なぜ表現に規範性が発生しうると懸念するのか。それは、社会的な文脈(今回の件で言えば「商業的な制度で下支え��れた、スカートへのフェティシズム文化やルッキズム」に加えて「一般社会における性犯罪の扱いの軽さ」)があるからだ。現在、尾崎豊の歌詞の内容を真似する人がいないのは、盗んだバイクで走り出す青春をかっこいいと感じるヤンキー文化が衰退したからであり、今は尾崎豊の全盛期などではないからである。一方、性犯罪は社会で想像されている以上に根が深い。『月曜日の朝、スカートを切られた』やコミック『ゆらぎ荘の幽奈さん』の巻頭カラーや、宮城県の涼・宮城CMで「亀の頭」が壇蜜氏の妖艶なささやきにビンビンと反応してしまう表現や電車内の吊り広告たちなど、一つの作品の問題ではなく、同じような印象を与える様々なコンテンツによる、積み重ねの効果が批判されているのだ。…(余談だが、表現の多様性と自由の守り手と自らを位置付け「解釈はいろいろありうるものだ」とおっしゃる方々の多くが、皆一様に、表現への批判を弾圧行為と解釈したり「ミステリーを読んだ人が殺人をするようになるのか」とばかり言い立てるのは全く笑えない事態ではないか。「殺人や、盗んだバイクで走り出すことが娯楽だという社会の共通認識がある」という前提でなければそのような解釈にはならないはずだが、まさか反表現規制派こそが犯罪者予備軍だったりするのだろうか。) ※AKB的なものがスカートへのフェティシズムを助長(と言って悪ければ維持)していることは、同時にスカートの中身への欲望をも助長/維持することである。アイドルグループのメンバーが雑誌を始め様々な媒体で「外衣の中身(下着を着けた身体)」を画像として提供し、握手会という形で体温を売りさばくことがAKB的なものの大きな特徴であることは否定できない(アイドルのアイドル性は本来ならカリスマ性と同義だと私は思っているので、そこに週刊誌での脱衣が伴う必要はない)。もちろん筆者は、スカートや下着、身体への欲望そのものを否定するつもりはない。しかし、そうした文化装置で消費者に訴求しながら「月曜日の朝、スカートを切られた」という内容を打ち出すにあたって、性における侵襲行為への怒りを示すという(月曜日→サイマジョの)ストーリーにどれだけの説得力やエンパワーメント性があるだろうか。 (2)『サイレントマジョリティー』とミリタリズムについて 前項で『サイレントマジョリティー』を手放しで絶賛したような印象を受け取られるとすれば、今一度立ち止まっていただきたいところである。 私は『サイレントマジョリティー』の演出を巡る昨年の「ナチス風衣装」騒動における秋元氏の対応に、雇用主として欅坂46を守る覚悟のなさや、表現者としての無責任さを感じた。 『サイレントマジョリティー』は、『不協和音』『エキセントリック』『月曜日の朝、スカートを切られた』のように、個人の主体性や同調圧力、「大人が作った社会」の中での閉塞感をテーマにしている。『語るなら未来を…』や『渋谷からパルコが消えた日』『世界には愛しかない』にもそれらの楽曲と重なる部分はあるが、あくまで「未来志向」や「大人への不信/大人との対決」などの個別的イシューを強調している感がある。 さて、問題は2016年10月 22日に開催された音楽イベントにおける衣装の意匠と、『サイレントマジョリティー』MVにおける「ローマ式敬礼を意識した表象」についてである。擁護派のうち楽曲を知る者は歌詞の内容の自由主義/個人主義を以て批判者への反論としていたが、事はそう単純ではない。結論から言えば、『サイレントマジョリティー』におけるミリタリズムは、歌詞中で自己言及的に批判されているだけでなく、楽曲の価値を高めるため、「いい意味でも悪い意味でも効果的に使用されている」…にもかかわらず、それを活かす表現形式になっておらず、結局は秋元氏による演出や対応が楽曲の価値を殺してしまったと考える。 まずはこの曲のすごい部分について語ることにしよう。「どこかの国の大統領が言っていた(曲解して) 声を上げない者たちは賛成していると」という歌詞があることで、曲は単なる「大人批判」「若者の自己主張」ではなくなり、普遍化される。タイトルの「サイレントマジョリティー」は大衆社会や政治的無関心という政治的状況に対する明確な異議申し立てとなる。そうしたスケールの大きな「反逆」に対置される表象として、全体主義の代表格とされることの多いナチズムのモチーフを打ち出したのがあのMVだったのだ。大事なことだが、もし、それこそ秋元氏が例の「海割り」と呼ばれる敬礼シーンについて「ローマ式敬礼(ナチス式敬礼)」ではないと弁明するつもりなら、わざわざ(ライブやテレビ放映ではちゃんと視認できる)「人差し指を伸ばした握りこぶし」を、MVでだけ枠から見切れるような形にして(つまり、ローマ式敬礼ととられるようなやり方をして)批判リスクを高めることはないはずである(あの場面はモーゼの「海割り」でありナチズムとは関係ない、という擁護はあまり説得力を持たない。ポピュラーカルチャーの担い手が「この振り付けはドイツ全体主義からの引用です」などとは口が裂けても言わないからだ。ナチズムのモチーフを肯定的に用いればリベラリストからの批判がくるし、仮に秋元氏がある程度は意図したところであろう「ナチズムは批判対象として描かれている」という否定的な言及をしたところで、今後はミリオタ層という重要顧客を失うことになる。苦労して「両義的な」欅坂ブランドを作り上げた秋元氏にとってそれは避けたい損害だっただろう)。 しかし一方で、こうした前提があるからこそ、ハロウィンイベントでのコスプレが単なる軍服ではなくナチズム関連のものと推測することも容易になるのだが(ここからはだめな部分の指摘)、もし秋元氏が歌詞の通りに集団圧力からの自由を理想とすることをパフォーマンス演出の上でも貫徹したならば、軍服は曲の最後で燃やされて然るべきであるし、ナチス風の軍帽を投げ捨てこそすれ、イベントでのように記念撮影の対象とすることはありえないはずである。個を打ち出すのなら、社会に反抗するエネルギーを軍隊的-アサイラム的なものに仮託する必然性があるとも思えない。 ここから導かれることは何か。秋元康は、個人主義/自由主義を尊ぶリベラリストと、ミリタリー趣味者の「左右両翼」に「ウケる」ものを作ろうとしたのだろう。ミリタリー趣味者でなくとも、個人主義者/自由主義者を自認する人々にとっても、軍隊的表象はときとして魅力的だ。私自身がそうしたものに惹かれると告白しなければならない。いい意味でも悪い意味でも効果的というのはこういう事情からくる。欅坂46ファンを魅了してやまないのは全体主義への憧れであり、まずこの時点で歌詞の持ち味は半分、減殺されている。 そして秋元氏は「ナチス風衣装」批判に対し、楽曲・イベント演出で左右両翼に媚びてしまった現実を素直に告白するか、心を改めて個人の自由を鼓舞する欅坂ブランドを極めるか(最もいいパターン)、開き直ってナチズムの伝道師になるか(最も悪いパターン)のどれかを選び取るべきだったが、公開された謝罪文からは表現に対する責任感も、スタッフやメンバーを守ろうとする義務感も感じられず、全ての問題を現場担当者に押し付けて幕引きを図った印象しか得られなかった。ファンもそれを許すレベルだとタカをくくられているのだ…こうした日和見主義者は「生きてる価値ない」(『不協和音』)とまでは思わないが(むしろ欅坂46のこうした世界観には愛がないとつくづく思う)、せめて『サイレントマジョリティー』が示す生き方を堂々と体現して欲しかったし、いくら現実は現実とはいえ人に夢を売る職務があるのだから、反省の丸刈り、涙の謝罪会見ぐらいはしてもらわなければ、見捨てられた欅坂メンバーにも示しがつかないだろうと今でも感じている...とはいえ、現実的には「ミリタリズムと人種差別に対してどのような見解を持つのか」と問うに留めるつもりだ。 (3)『女は一人じゃ眠れない』(乃木坂46)と恋愛至上主義について 洋画『ワンダーウーマン』が日本で公開されるにあたり、乃木坂46の楽曲として『女は一人じゃ眠れない』というものがPRソングになったことについても、手短かにだがコメントしておきたい。 『ワンダーウーマン』は、自立した強い女性像がテーマだ。それをわざわざ、パートナーなしには安心できない女性としてPRすることは、映画の内容に対する裏切りではないのか。歌詞の後半にある「女はいつの日か一人で眠るんだ」なる箇所が本筋であると擁護したければ、このタイトルにした理由をどう説明するのかという問いに答える必要が出てくる。 また、なぜ欅坂ではないのかというあたりも疑問だ。自立した強い人間像を描く映画には欅坂ブランドこそがふさわしいはずだが…まさか、イスラエル国籍を持つ俳優が主演する作品に対して、「ナチス風衣装」騒動のあった欅坂46を起用することが躊躇われたということではあるまい。 以上3点、 「秋元氏は、女性の衣服を狙った犯罪と、自らが担う商業文化のかかわりについてどのような見解を持つのか」 「秋元氏は、ミリタリズムや人種差別と自らの作品のかかわりに対してどのような見解を持つのか」 「秋元氏は、女性へのエンパワーメント全般に対してどのような見解を持つのか」について、秋元氏に対し、年内までの回答を求める。 8/1加筆段落 表現と社会的責任について考えたい全ての方に対してお伝えしたいことだが、去年の衣装の件を経てなお問題が起こり続けるのは、表現を批判されたら「不快にさせてすまない」と謝罪して終わり、という幕引きの仕方を社会として許してしまったからではないか。秋元氏に逃げを打たせず、批判に対する応答をさせ���ことが必要だ。また現時点で既に、笹田さんのキャンペーンに対して「欅坂への中傷だ」「過剰反応」「楽曲はサイレントマジョリティーへの伏線だから問題ない」「欅を潰すのか」というバックラッシュが発生している。BLOGOSでキャンペーンが取り上げられたことを受けて、こうした非難は更に高まるだろう。「人権屋が表現規制をしようとしている」といういつものテンプレートで片付けられてしまえば問題解決への道は閉ざされる。公演の一回ぐらいは(去年のように)「自粛」という形になるかもしれないし、可能性こそ低いもの���MVの公開中止というケースもありうる。そうなった場合に「自粛したから/公開中止にしたから幕引きにするぞ」と言わせないためにも、どうかこちらのキャンペーンの詳細を拡散することに力を貸してほしい。 長くなりましたが、最後まで読んでくださった方々ありがとうございました。
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