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24 の正月のメモ
(血の繋がるかやっぱりわからない)祖母は台湾の南の方の人だったらしい
母の兄である叔父は祖父から生まれ年にマンションを買われていたことを最後に知っていて、そのことを最後に次女である(長女でない)母は知らなかったからびっくりして笑っていた
母の入学金は闇金に借りた金だったからその取り立ての電話をとった母は自主退学して祖父はめちゃくちゃに怒ったんだって 祖父は死ぬまでそのことを知らなかった
わたしは人の亡くなることをまだあんまりわかっていないからそろそろなのだと思う
小5のときに店ができて 一人目が来て翌年去って二人目がきてポレポレにいっていたころ彼のことを見たらしい
あの子知ってるって
妹とわたしの記憶は大いにすれ違っていて わたしは父と感情的な会話をすることなく10年くらい経ってる
父は一度でなく、けっこう転機で何回か鬱をやっているらしい 安心した
そのたびに人格のスイッチングがあったように見える わたしにも見えるけど、それは母のフィルタを通しているから?家族誰一人と一貫した人格を知らない どういう人か の定義なんてそのとき見えるものしかない
夜遅くにおにぎりと魔法瓶に入れた崩したスープを持って川の近い住宅街へ夜散歩していったこと
精神科に連れてっても頭のおかしい方はどちら?と考えたら手を挙げるよね これがカサンドラ症候群なんだけど
彼視点の20年を知ることが怖すぎて私は父と話せないでいる
ひとつの転機は母の葬式に来るのだろうなとここ15年くらいずっと思っている ある程度、今来るものなのだと思ってた 父の吐露 叔母の初対面 母方の家のこと
妹の描いた妹の顔の絵が本当に良くて、怯んだ デッサンが上手いだけならきっといくらでもいて、私が知っている妹のむにゃりとしたほんとの笑顔だった デッサン用でなく、似顔絵用でなく、知っている顔だった それを たぶん外にはあまり出す頻度の少ない顔を、ぎちっとわらう表情を自身で捉えてかたちに起こしたのだとびっくりした 影の付け方や髪の流れや頰や眉骨のおこしかたならいくらでも出来る(それでも一定悔しいレベルだったけど)けど2ヶ月近くで体温とその感情の生を感じる表情が興されたことに怯んだのかな
何一つまだ他人に話していない
ルックバックじゃんね と母が眉を下げて笑っていた
それら全てをね 歴史だねえ がんばったね と全て終わった話として昔話みたいに話せている今のなんとエピローグじみたことかを他人に共有したら少しおかしいのかもしれないけど、ちょっとかなり救いでもある
キャラクターとして持続は求めていなくて、回収してゆくターンにありがたくもなれたのだと思う 贅沢で、罪悪
わたしは妹の大事な姉でありたい 苦くもせめて自身のことをてらいなく大事で笑いかけてくれる歳の近い姉であらねばと思っている もう多分それだけだ 他は多分もう大丈夫だった
キャラクターがたくさんいたその数だけ視点の違う世界があることは当然で、違うから齟齬が生まれてそれに派生する結果がもたらされることはわたしにとって助かることだ 当然だから
群像劇や主導権の奪いあいや権力闘争に惹かれるのは当然だと思いたい それこそをずっと知っていて、求めるべきことと思っている
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2024.11.24 1:51
7年ぶり?くらいに母方の叔父と会ったら白髪長髪になっていて目尻がずいぶんとろけて、会ったことない祖父にそっくりになっていて驚いた。車で生きている人だから、人生の中で乗ったどの車よりも安心感がある、合宿免許に行って以来ブレーキをかける時のなめらかさが人の運転のうまさと思うようになった。すいー、とん、と教えてくれた眼鏡の教官元気かな(なんかあの教え方はずっとハーマイオニーのステューピファイを思い出す、ビューンヒョイ)
武蔵野うどんを食べつつ猫に会いつつ、饒舌になると異様に語り口が滑らかなのはどうやら母方の血かしらと思い始めるけど、レーシングの話あたりからとまらなくなり関係ない気がしてくる。なんか最後あたりタリーズで髭や長髪が、会社が、と話したときコミュニケーションのむずさを感じる。従兄弟たちは兄が離婚し姉が母と住んでて妹が結婚したそうで、私だけもう10年くらい会ってない。メインクーンが来たときくらいから露骨にクールが変わって登場人物の洗い替えがあったんだけど叔父はその一部分代表だ、たぶんずっと居たんだけど、同年代のいとこたちまで想像力が追いついていなかった。クールの違いを切り替えるのがしんどいというか、順応しすぎる私と俯瞰している私の差分が、わたしは本当に1番きつい。責めないでほしい。家族と会う数日前から胸焼けするようなのは大分マシになったけど、やっぱり帰路からずっと喉がつかえて、疲れる。保証人になるにあたっては上場は役に立ったらしい。ご迷惑かけませんので、と言われて、頑張ってください、とかえす。うわんの蹴りぐるみをもらったから、大事にしたい。
昨日は会社が上場したりまた見積りと来週リリースの修正対応で半泣きになって、誘われてた飲み会に行ったら先輩が社内恋愛し始めたとか妊娠されたとか多分めでたい話!全部わたしが悪い。直属の部長が直属の先輩に失恋したとか本当に聞かなければよかった。部長がどんどん苦手になっていて(というか払拭できなくて)やばい。コミュニティがあたたかで幼くて狭くて怖い、二軒目になぜだかいって、先輩と2人で話して、何も上手く喋れなかった。ただいいひと。共通項のないひとと持ち物の話をして、しんどくなってることのしょうもなさに気付くけど、虚しいし即物的にはなんにも解決しない。どういう方向にしたらいいのかわからない。
大阪に住んでいる年上の友達とmouthwashingの話をしてから、ずっとmemeに使われてるイモージェン・ヒープが頭に回っている。今年で1番良かったよと複雑性PTSDの本を勧められて笑ってしまった、「わたしが誰かわからない」を1番読んでほしいから勧め返したんだった。わたしたちは環境由来で似てて根本的にまじで似てないね。1番仲良い先輩と彼女と会社のいいひとと、他人事な年上たちに今週は結構いろんな話をしてしまった。はやく年末になったら一回たすかっちゃうはず…と依存していて、これをごめんねーというの、どちらに振り切ったらいいんだろうね。間が悪い。
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「あらゆることは今起こる」柴崎友香 2024.11.9 2:30くらい(読んだのは11.5)
呉樹直己さんやガルシアマルケスを引用していて、とにかくその文体に惹かれた。ケアをひらくシリーズの中で多分ADHDという枠組みの本であり、小説家である著者のものの考え方(それが文体にものすごく一致している)の理由やルーツをたぐるような流れ。
pixivで昔すごく読んでいた、ほぼほぼ知らない作品の二次創作を書いていた文字書きの方を思い出す文体(のっけ個人的すぎる)。句読点の敢えて少なめな、ゆっくりなんだけどゆっくりだから息が詰まって緊迫感がある感じの文体。がひんやりしておらず湿度低く軽やかですごく気持ちが良かった。前者について、わたしのなかのパニックのイメージとすごく繋がるから、そういう表現に特に惹かれるんだけど、文章としてはそういうものがそのイメージを体現している。それを、ASDの特性とADHDの特性を持っているから、同時にいろんな時にわたしがいる、平行にうごいているいまにいる=あらゆることは今起こる、と見つける著者の気づきの経緯、ものすごく繋がって驚いたし、主題としてすごく格好良い。(格好いい、は違う気がするが、本として。)
ガルシアマルケスが好きというのもそのまま、脈々と続く時間の長さとその刹那的さが同時にある感じなるほどと思う。個人的にはガルシアマルケスという作家に対してのイメージは、母が1番好きな作家だと言い「百年の孤独」を愛読していて、それを理由にわたしはここまで全く読まずに来つつ、誕生日に短編集をプレゼントしたりした経緯が大きい。メルヘンが滅びてごみだらけな実家には百年の孤独が3冊ぐらいどれもずたぼろにあった気がして、たしか一冊持ってきているから、読むかあ、と思った。鉤括弧のないながーい三人称語り文の読解にのめるうち人の声を必死に追ってるみたいな読みづらさ、とそののめり込んでいく感覚、わたしは多分めちゃくちゃ好きだろうな。
そうかそうかと思った とかの、幼少期より自分の「人と同じ」を持つ少なさを自覚していたくだりの文が素敵だった。むかしの、子供の頃の今思えばかわいらしいパニックを俯瞰しているような感覚。たくさん眠ること、薬を飲んで何が変わったかというと目が覚めて映画が観れるようになったということ、励ますコーラス隊がひとより子どもだから飽きっぽかったり大騒ぎし始めたり、という表現が好きだった。詩はすごいのだな(関係ないが、コーラス隊に気づくくだりの単語 なんだっけ サラリーマンの使う、インセンティブ? あーわたしサラリーマン側だなあと笑った)
あとどこからだったかマザリング、と少し後の「わたしが誰かわからない」のタイトルが出てきて衝動的に購入してしまった。今「わたしが誰かわからない」を読みながらこれを思い出し書いている。2章くらい読み終わったが一度笑いそうにかつ泣きそうになった、「統合失調症の一族」にもあったが、血に流れる病理、未発症なだけでいずれあるんだ、いつ終わるのだろう、自他の境界がわからなくなる感覚 うわー!知っている!と感じてしまう。はるかに軽いケースだろうけど、「輪郭線がぼやけている」はみんなそうあるものではないのか?
「百年と一日」のタイトルから、あら〜と思っていたがこのひとの主題を通じたらもう良いタイトル そのまんまじゃん すぎて改めて気になる作家だった、柴崎友香さん、来年読む作家としたい。
(メモはわすれたので後で思い出したら書く)
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「わたしが誰かわからない」中村佑子 2024.11.9 5:27
今週の流れで一気読み。借りた「あらゆることは今起こる」ないで言及されていて衝動的に買って翌日読み切った。
ひとの話を通じて読む前半の感情が1番新鮮、強烈だった、「強烈な引け目」に頷く著者の前半の力強さ。かなりイタコ的というかあくまで一人称視点すぎるくらいで、社会的なヤングケアラーをほどくというよりはそのものの著者の視点を通じて自我をゆるめる感覚を思い出させてくるような話。ゆかりのある人じゃないと引っかからないだろうなあとすごく思う。母や姉をキーとした、女性たちの話しか出てこないところもそう(ケアというトピックは本当にここに詰まるきらいがある気がするんだけど、どうなんだろう 男性学までいかないと普遍的になりづらいんだろか(無知だー))帯通り、著者のセルフドキュメントであって論理的な話や普遍的な落ち着けどころを見つける本ではない、が、そのゆるさというか、本当に日記を読んでるような怖さがある本だった。言葉はまだ放流するような感覚だからよい、それでも怖いし他人に共有するというのは物語の固定化だからそんな消費を重ねると違ってしまう、なおさら文章に残してしまったらかたちとして表層の記憶だけが固まってしまう、それです、それだからあんまり抱えていると全部ぼやけてゆくのだけど。ほんとそれ!と頷いて笑っちゃうくらいの経験、本を読んでいてあまり頻繁にはないが、幼少体験で言うと「統合失調症の一族」とこれが今年随一なので本を読んでなさすぎるかもしれない、強いていうとヤングケアラーかもしれない。当事者ではないという定義と「社会ネグレクト」、まじで社会問題としてだけでなく当事者の抱える根幹だよ
「本書の成り立ちをふりかえる」を境に、著者自身の経験からバタイユとかヴェイユを引用してて、ここからふむふむと読み物的に読んだ。(一回前半で感情的になりすぎたせいもある。)幼少期の瞬間的な、感情の癖とかそこから影響を受けた自認のところは抽象度が高いから重ねやすくて、特に母になるという経験を踏まえた視点に切り替わる後半は 、はい! と感情が切り替わってしまった。それはそう。ヤングケアラーである、あったひとのヤングケアラーは相当割合いるのではないかと思うけど、抽象的なそういう母を読み納得し、その上で境界を引くオチになっちゃった。常々わたしは子どもが欲しいと思うまでに間に合わないだろうなーと思っているけど、もう改めて心底思った。一個答えがわかるのだろうなーとずっと思っているが、それを持ったら他のものの意味合いがぜんぶ何度か違ってしまうだろうから(当然だが)悔しいし、臓器としての脳味噌に勝ちたい。これで泣いてるのもホルモンバランスのせいだから全部嘘かもしれない。子ども作る構造があるからって女性ばっかり自他融解の快楽だの恐怖だのテーマとして持たされるのずるいし、「解る」があるから生きものとして強いとか言うんだろうけど(そして生物学的に確かなのだろうけど)、持つべきだけれども、やだすぎ。いつ終わるの
メモ:
ジュリア・クリステヴァ、シモーヌヴェイユ「重力と恩寵」(五本脚の蝶でもメモしている、早く読めということ〜)、クリスクラウス「エイリアンと拒食症」、アニメ「銀河鉄道の夜」、バタイユ「エロティシズム」、ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」、これらの前に千葉雅也「現代思想入門」 はい
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24/1/23 24:05
具合悪い。もう一月が終わりかけるらしい。早く生理が来るのって数年ぶりくらいで、塩漬けにしてるタスクをつつきながら全然進まなくて、そのせいにして布団でずっと唸っていた。リリースをしに出社したら手元の環境がまたよくわからなくなって、15分くらい何も考えられずコマンドを捏ねてから諦めて先輩に投げた。話すのが下手で努力家で恐ろしく優しい先輩は全然だいじょうぶです!と下手にグッと👍をしてくれ、全然大丈夫じゃね〜と思いつつひくひく笑うしかない。わたしは。プーさんみたいな部長とほとんどツーマンでやっていたその人、がわたしのリリース中にタスクや教育の話を時折していて、怯みながらリリースを終えた。さすがにまだミスはしていない。
先輩は年明けに東中野に引っ越したらしく金曜日の社内バンド会の会場から3分くらいのところに住んでて、そのすぐそばに初夏ランチをした優秀な社内夫婦が住んでいるらしく、走って逃げたら15分くらいで折田の実家があるのにわたしはなんでか魚民を予約し飲み放題をとって27人くらいで飲んでいた。なんにも酔わない。世の中でいうとお酒が弱くはないみたいなのに、たいして酔わず飲まない大人たちが普通に終電を逃すぬるさが今のところ全然わからない。忘年会然り絶対に終電で帰る同期とまた走って大江戸線に乗り、ギターよりピアノができたらいい、音楽理論はわからないけど手癖ってさみしいとか、引っ越したら同棲するんだったとか少し話した。歌が上手く顔が綺麗で恐ろしく頭のいい人、なんだろうがほやほやとしていて、なんかいつか酷めに口が滑りそうになる。帰ったらプーさんみたいな部長からふわふわのDMがきて、ベースお上手ですねと言ったらここ2人だけだもんねと言われて笑ってしまった。なんか、無邪気でいたい。美味しいものをたくさんくれていたらわたしは可愛い後輩を忌憚なくやり続けられるけど、わからねー。先輩は伏見出身らしくてまたうおーフィクションだあと楽しくなった。
土曜日また友達と会って、会いに行く前にわたしはすっかり気持ちの置きどころをここにばっかり置いてしまってるからそりゃ話も進まないやと思う。良い居酒屋ですごく美味しいものを食べた。
どうせ落ち込んでいる いたからここからは蛇足、あんなになにかをしたかったのに、暮らせてしまってなにもない。分からないってずっと怖くてすごいのに、わたしが今やっているのはずっとなにかが分からない仕事らしい、適性が早めにわかりたい(落語だ)。学校から帰ってきて/帰ってこなくてもずっとフィクションのことしか考えず絵と文とインターネットにずぶずぶだったときに比べたら、なんにも「他に手がつかない」なんて状態には一生ならないだろうなと考えるとあっけらかんと絶望。線が好きな絵を眺めたり字面のいかつい初学者用の本をみてぐったりばかり。ぎちぎちに小さくした、フォントサイズ8pxくらいのメモ帳の小説を書き詰めてたのも6年前なのかと思って恐ろしい。ひとと話すようになってお互い動いているから時間の経過が恐ろしく早くなっている気がする。絶対に良いことだけど。
ついでに:コミュニティの中で浮いている という言い方があってわたしは小5くらいのとき母の友人に「クラスで浮いていていやだから中学校受験したい」とはっきり言ったらしく、その後も何度かいわれる、けど、中学から高校に行ったら「浮いている」じゃなくて「沈んでいる」にわかりやすく切り替わった。浮いているっていうかもっとふんわりひどい。沈んでいるは文字通りで、音がしなくて外から見ると動かず無様で、こちらは夢中でここじゃない下を向いて潜っていてきちんと息は詰まっていっている。ここなら息ができる!という言い方があるけど別に息ができない分たくさん喋らないといけないみたいだったな!と、皮肉でなくしみじみと最近思い出す。Twitterではじめて、声と書く文章とがつながって、わたしのことをアカウント名の愛称で呼んでくれた年上のともだちが、その慣用句のことを話したの、すごく覚えている。その人は誰が書いた文やっけねえと言ってたけど、わたしはその人自身か、じゃなかったら桜庭一樹だと確信し��た。冬の、嫌な感じのしない夜道とかを歩いているとその人の好きな女子高生の小説を思い出して、ひたすらにフィクションすぎる氷みたいな女子高生の話、それを必死で消費してた高校生活を思い出す。消費していたと思っていたものが、ほとんど自己投影なのだと気づいて気持ちが悪くなってフィクションに逃げれなくなったのでした。今ならもう少し開き直れるかもしれないけど、ここじゃないところに行きたい、という死にそうな気持ちでしか投影はできなかったからいま何をしたらいいのかわからない。その人に会いに大阪にいこうかと思ったけどやはり怖く、京都でお茶を濁す予定を立てる。
暗い話、年越しで家族に会って、やっぱり会う前から会って2.3時間の間は喉をずっと詰めているような切迫感があって、それで猫の顔を見たくらいから慣れてきて頭がぼんやりしてくるなあと改めて確認。バリ島でも驚いたけど、23になってもまだ爪を立てるくらい息が詰まることが数時間ある。いつ慣れるんだろう。慣れていたからそれに戻るのが怖いのだろうけど、これを大人はみんな家族に対して潜り抜けるのだとしたら凄まじいことだと思う。母はまた(血のつながらない)"他人"の家族話しにぽやぽやと「親子ってそういうものなんだ」と感心していて、もうずっと笑うのを我慢、遠い遠い気持ちで。わたしが歌を怖いのは、歌だけがどうしようもなく好きなことはあまたあるのに、嫌いな人の歌のことをぞっとするくらい怖く気持ちが悪く感じるからで、つくられたものとつくった人の双方への認識の、どっちがほんとなのか、を後生抱えてる理由の一つ。母は誕生日には色んなことの自覚があるよというようなメッセージを送ってきて、誰も悪くない。余りにもらった酢の物をまた間に合わなくてさっき捨てた。ひとにご飯を作るのが、作りたいと思うのが心底こわいなと自覚しはじめている。台湾に行った話、転職、猫、話題の近さ、「そういうふうにした」のだろうな、といろんな派生のことを毎度落ち着かせている。半年くらい前ですら、もとの家に帰るとその暗さと汚さにぞっとしたんでした。人のことをピコピコハンマーじゃなくて8kgくらいのもので殴って2年くらいのことを忘れさせたい。いつだっていなくなるから陰口は影でしていてと祈る根っこの気持ちは変わらないけど、そんなのもできなくなってきたのが初めてでめでたい。恐ろしすぎる。今なら、わざわざ塗りつぶすんじゃなくて気付いたら潰せていたほうがいいとわかるけど、当時はそんな余裕もなかったんだよね。よしよし。
暮らしとしては、日暮里で実家に置いてきたいしいしんじと3度目のmonkeyと好きな漫画の兄弟作を買った。わたしの出自はかなりいしいしんじの、麦ふみクーツェにあると思う。本を読んでいきっていたい。感情が焦るかとろけるかの2択のようでいやだ。嫌いな有名人のゴシップ(本当に気持ち悪い)が、政治が、ガザが、生活がお金のことが本当に笑ってしまうくらい酷くて、どうしてそんなことばっかりなんだろう、スマートフォン中毒だからネット署名と募金をやたらとしている。そういう共有物をひとと話題に上げたときのテンションの違いにもびっくりする。世界のことこんなに嫌だと思っているのに、どこで開き直るかでしかなく、情けない気持ち。考えていることを、考えられているという自負にして材料にするしかないのか。好きだった嫌いな出版社や社会保障から親族のことを考え、しみじみとすべてが嫌になるが、最近はちょっとだけ前より化粧が好きになったから毎日の経過が大丈夫になった。肌をつやつやにしたい。
文字サイズ小さくできるのにやっと気付いてしまってこうなる。なんかこの目の滑りが好きなだけでわたしは文章が好きではなくて文字だけ見ている気がする。文字っていうか形容句。形容句が好きすぎて、人生が形容句選びだけみたいになっている、うそです。でもそういう感じ。
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23.12.28(木)7:42
なんか珍しく早起きをした。カーテンを閉め切りで暖房もつけっぱで米も冷凍できてなくて、今年は肌の乾燥をすごく感じる。4年前に開けたピアス穴がまだぱりぱりする。金属アレルギーが諦めてくれず往生際が悪い。
最近は風邪をひいて、治ったりぶり返したりの合間を縫ってかなり人と会っている。もう治った。土曜日は同期会があって、そのまえに優ちゃんや後輩と老酒舗にいったり、2丁目で始発まで遊んだりした。
12/8 、終電くらいに集まってたくさんお酒を飲んだ。乙葉に教わったミックスバー二つを回る前に、花枝の店の常連に会って絡まれ、みんなでやいやい酒を飲んで踊っていた。懐かしい私のよくわからないDIVA系(系…?)が爆音で流れていて、たしかびっくりするくらい可愛い女の子と手を繋いでステージで跳ねてたのが1番楽しかった。花枝やすばるはバランス感覚がいい。乙葉は飛び抜けているけど、やっぱり場所のバフがかかるか否かがすごくでる街。わたしはちょっと迷う。最後にはずっとそこにいるらしいおばあちゃんに滔々とそこの話をしていた。英語を話せるようになりたい。身体的な、めちゃくちゃ身体的な場所。値踏みする雑な、表面的な感じとか、気安くてたのしくきっと向き不向きがあるだけなんだけど、怖いことがあったとしたら慣れるのはどっちなんだろう。この程度でノンケでそこにいることはあまり関係なさそうだった。
わたしの、知らないとこでもう会わないひととその時だけはしゃぐのが好きなところがすごく合って、本当に楽しくて私のこういうところを軽蔑する人もいるのだろうな、とたまに思う。昔は嫌いだった。継続的な関係ではないひとへのやりやすさ、ざらざら普段人に言えない適当なことを喋ってからピコピコハンマーで殴って全部忘れてもらうことをしたいけど、かなりそれに近い。はまってたかなあ。母が、女の子を好きな時はめちゃくちゃ性格悪かったからよくなかった、と苦そうに言ってたのを唐突に思い出したりした。近い年齢のときにどこかの店に通っていたとか聞いて、その当時の同僚のかたの名前を乙葉から聞いて混乱して笑ってしまったんだった。もう気持ち上食われてはいないけど正直使いやすい。私だけ悪くはないが、ごめんなさい。また行きたい。
その10日後は延期に延期を重ねたサウナ会で、すごく久しぶりにひなちゃんとみゆかに会い優ちゃんとお風呂に入った。鶯谷は変な空気があって、もう3.4回目になる道だけちょっと居心地がいい。病みあがりに体力がなくて、珍しく熱いお湯にぼやーっと浸かっていた。いつもは水分をひたすら抜く感じで温冷浴をするけど、冷静にサウナって身体に悪すぎる、その感じが好きだけど心臓じゃんこれと思ったら気が引けてしまった。それでも300gくらい痩せた。御徒町に行って老酒舗に行く、老酒舗のことが大好きすぎる。あんまりこれといったことは話さずご飯をたくさん食べてプリクラを撮った。ゲームセンターにちらと行くことが最近多い(歌舞伎町ばっかり、バッティングセンターのぷよぷよと有坂さんのジョージと澁谷のサンリオ 他)、発酵白菜が好きすぎて作り方を調べ諦める。優ちゃんとは年に1度くらいプリクラ撮っている気がする。そういえばさっき(12/28朝)優ちゃんの悩み事が解決する夢を見た、実際の出来事とほとんど地続きな夢をよくみて、あれ夢かと落胆すること結構ある。あまり話さないけど優ちゃんはめざとく、から笑いをよくしており、大丈夫であれ、バカ、とよく思っている。
あと同期会がすごく楽しかった。お好み焼きをひっくり返してやいやい言ったり牡蠣を焼いたりして、話すことはなくて居心地がいい。いつも。裕太はいつも何も知らず、智春は写真を撮ったり軽口を叩いたりぶっ倒れたりして忙しく(あたたかくして)、優ちゃんはひっそりと恨めしく帰り(撮ってくれた写真がかなり可愛かった)、最後は澁谷の家に雪崩れ込んで結局朝までだらだら喋っていた。アドベントカレンダーのチョコやらプリンやらを食べて(なんか余ったお菓子をもらう感じが疑似従兄弟感をすごく感じるとこだわ)味覚の話を3時間くらいしていたような気がする、味覚が合わないと糾弾されるのはあたしの方じゃねえ。澁谷は昔の友達と年明けに会うらしく、軽音の教室を見せてくれたり、折田は寝ながらよく喋っていた。ともだちの家から帰る用の路線として、西武新宿線はけっこう好き。でも西武新宿と京王新宿駅は遠すぎてだいたい帰路は朦朧としている。ピューロランドとジブリの森美術館に行きたい。
あとなんだ、クリスマス、パレスチナのことを毎日考えながらひそやかに不買しているけど、ディズニースタバはいい、マックセブンファミマ(notフランチャイズ)、うう、と思う。他にすることをする、ごめんなさい、と思いながらケンタッキーを買う。クリスマスを取り返そうと行った初めての古着屋で店員さんにめちゃくちゃ喋りかけられて勢いでローライズのカーゴを買う。高い! 背の高い、モード寄りのまっくろいスタイリングの店員さんが本当に可愛く、はしゃぎながら「かわいい人にだけですよ」と袋にリボンを巻いてくれた。あとでインスタを見たら19歳の文化の学生で笑ってしまった。なんにもできねー。プレゼントもなく、ピザを買って投げやりなパーティをしてキル・ビルをみた。折田とは自堕落さが近くてありがたい。かわいい服を買ってかわいいと言い合うのがかなり好きだった。キル・ビルは二部作であることを観ながら思い出して、龍子はもろこれじゃんとか、若い高橋一生がチンピラ役で絶叫しているのとか、血のスプレー具合とかがやっぱり好きだった。タランティーノはやかましくて目配せが多くてみんな胡散臭いキャラクターみがあってジャンクで大好き。
そういう感じで遊んでいる。仕事は、雰囲気でやっていて、先輩に作文を直してもらったりレビューし倒してもらったりして取り繕っていたら先方に褒められていたらしい。まだいれるんだ、とずーっと思っている。どこまで詐欺にならないのか試している感触、フライヤー作ったり会社ブログを書いたりなんだりもしている。同期はうっすらとみんな他人事感があって、いいなあと思った。アカデミア界隈がなんなのか、何を考えてる人たちなのか知らないけど、距離感がいい。正月に浮かれている会社としてZIPに出るみたいで、どうなのそれ、というのも案の定言っていて落ち着く〜と思った。1/5のZIPに一瞬出るらしいです。テレビを10年くらいまともに見てなくて怖い。あしたは23になるけど、なんかもう休みたいし、買ったクロノトリガーをやりたいばかりで気付いたら1年が終わる。社会のことよくわかんないが、なんかやりたいことそのままやれてしまうらしくって怖いね。らしくなく、来年やることリストとかを今日は作ってサボろうと思います。よいおとしを。
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7/3 1:15
最近はまたゼルダばかりやっていて昨日やっとのことガノンを倒しエンディングを迎えた。新作の動画が頻繁にTLに流れてきてやんわりと把握しつつあり、嫌だけど、悔しくて6年前とかに配信されていた追加パッケージを買った。こうやって半端に網羅率を上げたがって、追うものも追わずにばかりいる気がする。追加の試練はいきなり難しくて、何にも考えないで殴りかかりにいくゲームスタイルも無精だなあと思う(脳死で という言葉まだ使いそうになるけど、本当に嫌だよなあ、と思って使わないようにしようと思った 先月)
仕事、自分が何をできているのかがわからなくて怖い。言語を学ぶって本当に言語をやっている感じがする、テンプレートをとりあえずはめていって、応答にだけ慣れて、読めるけど書けない不安でうっすらと笑顔、うっすらと吐きそう。留学してた一月の気持ちを少し思い出す。でもあれは英語ができないというより高校を思い出す教室のかたちへの恐怖だった。
昨日はものすごく本を読む、嵐のようなほとんど初対面の女の子がなぜか3時間近く来るかもしれない私たちのことを待っていてくれたみたいで、2度目に会って、意味のわからない勢いでわたしの親になるかもしれなかった(?)ひと?の話で盛り上がって、意味がわからなかった。本当に可愛い赤い服を買ってショートパンツと白いソックスで揃えて、折田と一緒に花枝の働いているお店で飲んだ。可愛い格好ができてずっと嬉しく良い日だったけど、一瞬なぜかすごく具合が悪くなってけろっと吐いた。思っているより酔っ払っていたみたい。最近はすごく呆然としたまま慌てて人と会いまくっていて、映画をたくさん観たり、新居に行ったり来てもらったり、シャボン玉を飛ばしたり、慌ただしくしていてうれしい。反面けっこう焦っている。
今日はもうたぶん会わないと思った友だちと会って、そんなに変わらず、意外と大学を卒業して就職していた。案の定というべきか近い業界の、少し検討したもののやめた会社に彼女は就職していて、近いものもあれどものを選ぶ根本が違うなあと改めて思う。在宅がいい、やりたいことは定まっていて、うまくやっているらしい。ひとの執念するところとか融通の効かなさを特に魅力だと思うのは、自傷的というとやりすぎだけど被スポイル的なのは自覚していて、私の飽きっぽさとか染まりたがりなところにプライドを移行できることはあるんだろうか。私は逃げたいだけ。字には出来るけど心底は思えない、というのを、「頭ではわかるんだけど」って言い方ばかりしてしまって、分かってるって言うんだろうけど笑、といわれることがある。そうです。でも分からないというよりそちら側を書ける、読める私のほうが、努力はしてませんか?、とかいうと線引きしてるって事実自体が絶望的みたいに言う人もいる(わたしのヒステリー)。でも本当にわたしは分かったフリで逃げたいし、人の気持ちの心底のところを分かりたくないのかもなあ、と最近思って結構へこむ。
ひとつジャンルを選んでその会話に終始することは楽しいけどそれ以外のすべを無くすな、とネットの友だちと会うと思っていたことを、やっぱり今は逆サイドで思う。共通に選びとった目的以外のことをうまく話せないこと、これは言語とは違うけど似た感覚で、高校のときはめちゃくちゃ恐怖していた。特筆すべ���こともないまま続くものと、思っちゃってる時点で良くないのかなあ。昔の人たちと会っている?、という会話の一つも糸口がないから何だか私だけ?を浮かべてへ〜と聞いてる、たくさん人がいたみたいだなあと他人事みたいに思う。たくさんの人と話せる形にはなりたい。話せない人とこそ話せる人になりたい。輪郭がわかりたいよー。
スパイダーバースはすごく面白くてやっぱり3秒間に今できるアニメーション画法を10個詰め込むね、みたいなハイカロリーさでもの凄かった。体のラインが本当に綺麗で、カットインがそんなのやっていいのかいいよね、の繰り返しで絵が描きたくなった。マルチバースのそれ自体を扱ってくれちゃうの嬉しいけど、ますますやることがなくなっちゃうじゃん、と思った。だれ? マーベルにハマりたいなあ。
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ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい、「やさしい」という言葉にこんなに真摯に向き合う映画ってあるんだ、と驚いた。やさしいと親切は違う、と昔からおまじないのように言っていたんだけど、優しいというのは”勝手に”聡いことで、それを恐れて鈍い方に逃げたり、逆に人の意図を汲まずに一方的な”優しさ”で人を傷つけたりする多様性。劇中色々なやさしい人がいて、その上で正解の提示がなくて嬉しかった。
ぬいぐるみを握りつぶしていないと家の中歩けなかった時期を思い出した。袖をまくられていたマフラーのテディベア、実家のベッド脇にずっといた。今も。ものを言わない、やさしいだけで柔らかい可愛いものを一方的に味方につけれてしまってめちゃくちゃ助かったんだった。ぬいぐるみをただ置いておくんじゃなくて、握ったり抱きしめたりして露骨にすがってもいいこと、剥き出しに幼いかたちをとっても許されることに(誰に?)すごく気が楽になったのを覚えている。喋らない、柔らかいかわいい無生物たち���一緒にいてくれること、無条件に味方になること、本当にでかい。 「とぎれとぎれの発話を認めること」に救われた。大学生のはなし、それも個々人の繊細さと裏返しの人間関係を描いている以上エンタメ的になっちゃいやすいんじゃないかなと思うけれど、ずっとコミュニケーションは覚束なくて、セリフ、というセリフじゃなく会話の下手くそさと下手でも伝えたいっていうキャラクターの意思がみえるようで安心する。やさしい映画だ、といろんな人が評しているけど、確かにやさしい、の意味が多面的であることを前提とするから、観る前と後とで「やさしい映画」の意味が変わる。やさしいはどうしようもなくしんどくなってしまう所以にもなって、反面外から見たら鈍感で腹立たしい理由にもなる。白城がぬいサーに居続けてくれること、本当にすごい、一番やさしい人ではないか。
本当に悔しいことに泣いたエブエブに続いてぬいしゃべも うわ私の話だ と思いすぎて目が回った、一見テンションは真逆なんだけど、どちらも深夜友達と深酒して一晩中たくさん話して大泣きしちゃうみたいな映画、 最後の対話のシーンでなんで泣いたのかって、白城の「弱くなっちゃうじゃん」なんだけど、それでもしんどいよって共有しなきゃねと言ってくれたのが、どっちの自分もいるよ、”ああ”なりたくないから強い言葉になってしまうんじゃん、耐えられないままでいる人の大丈夫なふりを誰がさせられるんだよって、強いないから、私はそうでない方にいるって自認しなきゃいけない、とか、言いそうになる自分もいる。自己責任論への恐怖でみんながおかしくなる、だから、共有しろっていうこと。しんどくて、しんどいことを見なかったことにはせずに直視したまま「やなものになっちゃう」のを避けるために社会を見て、でもしんどいことを忘れずにいようって足掻いているじゃん。 でもしんどいのに気付きたくない。気付くのってしんどい。お話を見ている、というより境遇の近さが全掛けになって、投影用みたいですらあって自分が嫌だった。落ち着いてまた観たいな、動揺ではなくやさしいので余計にこわく、すごい。
分かりきっているが、七森の絵に描いたような「やさしい」の反面全てが未熟すぎる、未熟というか幼いって言い方すらできるほど子供すぎて、七森に怒り始めるとわたしはもーキリがなくなってしまう、白城は偉すぎる、わたしだったらめちゃくちゃ傷つけて去る。白城は偉すぎる。恋愛が続かないって軽く笑った白城にとって恋愛ではなかった、女の子みたいに自分と一緒にいた七森やぬいサーの存在は大きいでしょうとも思いつつ、でもさあー、いつかこうなるような気がしてた、だって話したら七森くん傷つくでしょと言う白城、なんでわかってたうえでそんなに大事にいてくれてしまうんだよ。大きな窓の部室、埋め尽くすぬいぐるみ、みんな、白城。ポスターもパンフレットも本当にいい(大島依提亜!)。
ぬいぐるみと喋らずにぬいサーの部屋にいる白城、みんなのことを想いすぎているけれど、あなたが大丈夫じゃないって言えててくれよ、しゃべれる相手を持っていてくれよと祈ってしまう。やさしい が食いつぶしになっちゃいけないけど、勝手にやさしい人、はそのバランスをどこかで取れているのか。取らなきゃやさしくない方がいいのか?(できるものなら…)
新宿武蔵野館、23.4.20、監督と部員の先輩約3人との舞台挨拶。主題歌はわがつまに「白城のうたを書いて」と監督から頼んだとか、西村はけっこう自分がハッピーなら良いひと、とか、終始空気がやわらかくて良かった。金子由里奈監督は友だちになれるだろうな、と思ってしまう(「魚座どうし」の山中瑤子監督を思い出した、種族が近い)。ぬいぐるみ大事にする。
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