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itose01 · 3 years ago
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クラン・ドゥイユ
文字書きワードパレット(@Wisteria_Saki)様より 21.「檸檬」「跳ねる」「視線」
「うわ、最悪」  学生の本分である勉学から解放された若きボーダー隊員たちでごった返す放課後のラウンジ。そんな人混みの中でも出水は違わず自分の上司である太刀川を見つけ、即座に苦々しげな悪態を漏らした。 「どした?」  連れだって歩いていた米屋が興味深そうに出水を見て、それからその視線を追って遅れて太刀川の姿を認める。緩い笑顔を浮かべ、軽くこちらに手を振る姿は、米屋が見る限りいつもとそう変わらないようだった。 「太刀川さんじゃん。なに、なんかあったん?」  「何かあったのか」と問われれば、出水は首を横に振るしかない。今のところは特に何もない。出水はちょうど今本部に到着したばかりで、昨日の任務以降太刀川とは顔を合わせていなかった。何かがあるはずもない。けれど、長く深い付き合いを経た出水には、この後辿る自分の運命が見えていた。太刀川を視界に入れたその時から、出水には太刀川が普段通りにはとても見えなかった。 「おれ、今日100回くらい殺されるかも」 「……骨は拾ってやるよ」  何やったんだ、とでも言いたげな米屋に対して出水は返す言葉もなかった。だって、自分にだってよくわからないのだ。自分がこの後どんな目にあうのかも、それが何に起因しているのかも、経験からおおよそわかってはいる。それなのに、その行動原理自体はまったく理解できていない。けれど逆らっても無駄なことは、これまた経験から知っていた。  骨にもなれやしないから自分は100回も殺されるんだと、皮肉の一つでも言いたくなったが、そこはぐっと押し込んで、出水はさっさとこっちに来いと訴える隊長の視線に引っ張られるように、のろのろとそちらへ足を進めた。
 空間を埋め尽くす光、光、光。  標的に向かって降り注ぐトリオンはまるで際限が無いように出水の手元から溢れ出て、その濁流に呑み込まれるようにあたりは光でいっぱいになる。視界を塞がれたはずの太刀川は、けれど出水の動きくらい簡単に予測していたように旋空弧月を放ってきた。当然出水だってそれくらいの予測はついていたが、予測できていることと実際に動けるかは別の話だ。片足を持って行かれ、咄嗟に近くの瓦礫に身を隠すが、ゆっくりと近づいてくる黒いロングコートを視界の端に入れて、出水は何十回目の死を覚悟した。  死んだ数を数えるのにも飽きてしまった。けれど、だからといって唯々諾々と殺されることを受け入れたわけではない。いくら隊長相手とはいえ、一矢も報いずに殺されるのではA級1位を誇る太刀川隊隊員の名折れだ。後ろ手にトリオンキューブを生成し、一部を高く打ち上げ、残りをそのまま真っ直ぐ太刀川に向ける。二方向から時間差で打ち込まれる攻撃など、射手のできる駆け引きの範疇では初歩の初歩だと出水自身は思っている。それでもあえてそれを選んだのは、太刀川が今望んでいるのが巧妙な駆け引きを駆使した戦闘ではなく単純な物量攻撃だと知っているからだ。それも経験から。  二方向から狙われた太刀川はシールドを張ってそれを防ぐが、本当なら斬り伏せることもグラスホッパーで避けることも可能だった。普段だったらそうしていただろう。それでも太刀川はあえてシールド越しにそれを受ける。つまりは、そういう娯楽なのだ。張られたそれが物量に堪えきれず、貫通した攻撃が太刀川の片腕を飛ばした光景を出水がとらえた瞬間、その首は一刀のもとに飛ばされていた。趣味が悪い。  ブラックアウトする寸前に、実に楽しそうに眼を細める太刀川と視線が交わる。この模擬戦もそろそろ終わりを迎えるだろう。けれど、それだけで太刀川が満足しているわけではないことも出水は知っていた。それもやっぱり、長年の経験から。    凪のような男だと思われている。  戦闘から想像される苛烈さとは裏腹に、普段の太刀川はそうそう激情を見せることはない。戯れのように怒ることも拗ねてみせることもあったけれど、本心から気落ちしたり激怒したりしているところを見たことがある隊員は少ないだろう。  強者の余裕ととられ、一般隊員の憧憬を集める一因にもなっていると聞いたことがある。太刀川のことを少しでも知る上級隊員からは、何も考えてないだけなんじゃないかと揶揄うように言われることもある。  けれど出水は、太刀川が若者らしく自分の感情を持て余すことがあるのを知っているし、見れば、それが「その時」だと知ることもできた。どこが違うのかと問われてもなんと表現すれば正しいのかわからない。ただ、なんとなくわかった。  そして、そういう時の太刀川が、その曰く言い難い感情をどんなふうに御するのか、ということも、身を以て知っていた。  まず、出水をランク戦ブースに放り込み、何度も何度も殺すのだ。嗜虐趣味かと思うほどに殺されたが、それにしては意地悪く弄んで殺すことはない。そんなことの捌け口になるくらいだったらとっくに見限って逃げている。命のやりとりに興奮してストレスを発散しているのかと思えば、そういうわけでもないらしい。  ただ一度、出水が作戦なんて放り投げ自棄になって物量重視の全攻撃を仕掛けたとき、実践でやれば間違いなく叱責されていたであろう無茶苦茶な攻撃だったにも関わらず、彼はどこか憑き物でも落ちたような、穏やかな眼に戻っていた。 (だからつまり、この人はおれのトリオンを浴びるのが好きなんだろうな)  出水はひとまずそう理解して、太刀川の機嫌が悪いとき、ストレスが溜まっている時、何か納得しがたいことを腹に抱え込んでどうしようもなくなっているときは、「うわ、最悪」と思いながらも大人しくランク戦ブースに引きずり込まれても従うようにしている。  出水だって戦闘は好きだが、何十回も何百回も容赦なく殺されるのは気分が良くないし、できることなら遠慮したかった。それでも、誰も知らない太刀川を知り、彼に必要とされるのは嬉しかったのだ。
 身体の形を確かめるように何度も何度も身体中を撫でられる。肩口に埋められた鼻先で匂いを確かめるように深く息を吸い込まれる。指先の温度を確かめるように深く手を握りこまれる。  出水の快楽を優先させる普段の抱き方と違って、あの戦闘の後の太刀川は自分の好きなように出水に触れる。それは決して自身の性欲を優先させた乱暴なものではない。むしろいつもより優しいくらいだった。  普段と違う抱き方をされて出水はいつもよりも少し緊張して、その分どうしても感じやすくなって、それが少し怖かったけれど、それでも太刀川のやりたいようにさせていた。「やめて」と言ったらやめてくれるかもしれないけど、そうしたら何十回も殺され、実践であれば尽き果てるほどのトリオンを使った昼間の努力が全て水の泡になることがわかっていたから、出水はその気恥ずかしさを飲み込んで、黙って抱かれることにしていた。彼のストレス発散は、こうやって自分を抱くことで完成するのだということも、幾度となくこんな夜を過ごしたことでわかっていた。
 その晩も、これまでと同じように太刀川にされるがままに抱かれた。そうしてようやく満足したように笑顔を浮かべ出水の額にキスを落とす太刀川をぼんやりと眺めて、出水は初めて長年の疑問を口にした。 「太刀川さんってさぁ……なんでおれと模擬戦したがるの」  トリオンを浴びたいだけなら、他の人間だっていい。興奮を極限まで高めて、持て余した感情を吐き出すように剣を振るわせてくれる相手なら、二宮だって迅だって、それこそ忍田だって良いはずだった。苦い顔をする人もいるだろうけど、喜々として戦闘につきあってくれる相手なら他にもいくらでもいるはずなのに。 「あぁ?」 「ストレス溜まってる時、いっつもおれとやりたがるでしょ」 「…………」  抱え込むように密着していた身体を少し離して、驚いたと言わんばかりにじっと出水を見つめるその眼。 「まさか気づいてないと思ってた? あんまりおれのこと見くびらないでくれます?」 「や、そういうわけじゃ……いや、そうだな。悪い。気づかれてるとは思わなかった」  再び一分の隙間もないほどたくましい腕と胸に抱え込まれ、それが嫌で出水はむずかるように首を振る。普段の事後ならともかく、大事な話をする時にこの体勢はあまり好きじゃなかった。太刀川の顔が見えないから。  けれどいくら身じろぎしたところで太刀川はびくとも動かないから、出水は仕方なく眼を閉じて、じっと耳を澄ませることにする。深くて甘い声を発する度に震える喉の震えとか、わずかに速まった胸の鼓動とか、そういうものからこれから始まる打ち明け話の本当のところを汲み上げようとした。 「……お前らと隊を組む前な、俺、結構つまんなくなってて。一緒にずっとやってきた連中がどんどん隊組んで実績あげてるし、忍田さんからはお前も早く隊員集めろってせっつかれるし。今思えば結構滅入ってたんだろうな」  少し早口で語られる過去の太刀川のことは、噂でしか知らなかった。出水が隊に勧誘されたときには既に、今と同じように飄々として余裕ありげに構えている、強者然とした太刀川だったから。 「そんで、しょうがないから隊員集めるかってまだどこにも入ってない有望そうなやつ探してランク戦ブース見て歩いてたらさ、お前がいて」 「おれ?」  すっかり自分には関係ない過去の話だと思いこんでいたから、急に矛先を向けられて面食らう。 「そう、お前。新しくB級に上が��たのに面白い奴がいるって聞いて、見に行ったんだよ。そしたらすげぇトリオンでバカみたいな攻撃してやがって」  はは、と乾いた笑いが漏らしたのは出水の方だ。あの頃は新しく与えられた玩具が楽しいばかりで、今思えば太刀川の言う通り無茶苦茶な戦い方をしていたものだった。戦術も何もなく、ただトリオン弾をまき散らすのが楽しくて、お世辞にも洗練された戦いとは言い難い。ただ、生まれ持ったセンスだけで勝ち越していた。A級ランク戦であんな戦い方をしていたら一瞬で落とされていただろう。 「……忘れてください、そんなの」  若気の至りを蒸し返された恥ずかしさで消え入るような声を出せば、太刀川は喉奥を震わせるようにして笑う。 「勘違いするなよ。いいなと思ったんだ、俺は」 「うそ、その後すっげーダメだしされたの覚えてますよ」 「そりゃ、あんなんじゃ隊の連携も何もないだろ。味方も敵もあっというまに被弾して終わる。俺が教えたのは隊としての戦い方だ」  でも、と言葉を続けた太刀川の声は穏やかだった。 「……お前の打ち上げる無数のトリオンが、ぶわって広がって一斉に辺り一面明るくなって、綺麗で、なのにそれが何もかもぶち壊してそこらじゅうのもん平らにして、……なんか、すげぇすかっとしたんだよな」  しんとした夜闇に紛れこませるように語られる太刀川の述懐は、出水には初めて聞かされたものだった。 「あれ、思い出したんだ、爆発する檸檬の話」 「は?……あー、なんか授業でやったような」  得体の知れない不吉な塊に苛まれた主人公が、その象徴である輸入雑貨店に檸檬を置き、それが爆発するのを想像しながら軽やかにそこを立ち去る物語。最初に読んだときにはわけがわからない話だと思って今の今まで思い出すこともなかったけれど、太刀川は違ったらしい。勉強は苦手なくせに変なところで記憶力が良い。 「そう、それ、……それみたいだなって思った」 「俺が?」 「うん。お前見つけて、いいなって思って、そんでその後、模擬戦誘っただろ。お前が合成弾はじめて実践で使おうとした時。まだ今より合成も遅くてさ、なんだかわかんねぇけどやばそうだなって思ったから、練ってる間に俺がぶった切って」 「いや、なんですか、今日。これ、おれの反省会ですか?」  なぜか次から次へと昔の自分の恥ずかしい戦歴を掘り返されている気がする。ほとんど身動きできないくらいに拘束されている中で、なんとか右手で太刀川の胸をどん、と叩くけれど、まるで力が入らないそれは相手にとっては戯れに触れられた程度だろう。「だから聞けって」とまた笑い含みに背中を撫でられた。 「それで自爆する寸前に、お前、笑ったんだ。めちゃくちゃ悔しそうだったけど、それでも俺の方に確かに視線を合わせて、楽しそうに、笑ったんだよ」  ーーそれで、ばくんって心臓が跳ねる感じがして、なんとなくもやもやして鬱陶しかったのが全部無くなって、それで、こいつに決めたって思ったんだ。運命とか、そんなもんは信じてないし、今でも信じてないけど、でもその時だけは、そういうもんが俺の方に目くばせしてるような、そんな感じがした。こいつを捕まえろって。  とつとつと平坦に吐き出されるその語り口とは裏腹に、そこに込められた重さに出水はじわりと自分の身体が熱を持つのを自覚する。そんな、自分にとってはただただ悔しい敗北の記録が、この人の記憶の中でこんなふうに鮮やかに刻まれているのかと驚いて、なんと言って良いかわからなかった。  眼を合わせないでいて良かった。こうして抱き込まれていて良かった。だってこんな話、とてもじゃないけどまともに顔を合わせて聞ける気がしない。だけど、そのせいで、この熱も心臓の音も、たぶん太刀川には筒抜けなんだろう。出水が太刀川のそれを感じているのと同じように。
「ーーそれで、今日も俺の檸檬がまだ手の中にあるって確かめて、安心してる」  そうして静かに締めくくった告白に返る言葉はなかったが、腕の中の熱が、伝わる心臓の音が、そっと吐き出される空気の震えが、たしかにその答えを示していたから、太刀川はまた、胸のすくような心地になってそっと眼を閉じた。
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itose01 · 5 years ago
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太刀川誕小話
※太刀川さんの誕生日のお話。あんまり誕生日っぽくないです。
「大人になるってどんな感じ?」  出水はいつも突拍子がない。けれどそれなりに付き合いも積み重ね、ついでに身体も重ねてきた実績がある太刀川は特に動じるでもなく、またこいつは変なことを言い出したな、と綺麗な鎖骨の浮き上がった後輩の裸体を眺めていた。  そういえば、こんな不埒なことをしている間にとっくに日付が変わっていた。 「普通こういう時は『誕生日おめでとう』とかいうもんじゃねぇの」 「あー、オメデトウゴザイマス?」 「てきとうだな、おい」 「こんなに身体いっぱいで祝ってあげたじゃないですか」 「まさか、これがプレゼントってわけじゃないよな」  それならもう少し心して味わった。よっぽど微妙な顔をしていたんだろう。出水はひどくおかしそうに笑って「それはまた別。お楽しみにぃ」と歌うように言った。太刀川自身は、それならそれでもう一回か二回か、それよりもっとか。味わい尽くしてやろうとシーツの海の中に再び引き込むだけだったから、それでも良かったのだけれど。天性の危機回避能力で出水はその難を逃れてみせた。 「それで、太刀川さん。大人になった感想は?」 「そんなの、たった30分程度で変わるもんじゃないだろ」  それに、正確に言うなら太刀川が生まれたのは午後を過ぎてからだと聞いていた。  そもそも何をもって大人というのか。隊を任されて部下を持って、年長者としての態度も板についてきた気がするけど、それでも忍田にはいつまでたっても子どものような扱いをされる。大人がするような行為をとっくにしている高校生は、それでも未だに子どものような顔をして無邪気に振る舞う。 「じゃあ、どうなったら変わるもんなんです?」 「さぁ、なんだろうなぁ。社会人になるわけでもないし……ああ、外で酒が飲めるとか?」  そう律儀な性格でもないので少しくらいなら悪い先輩どもに勧められたこともあったが、家でわざわざ買って飲むほど美味いとも思ってはいなかった。けれど所謂「飲みの席」に堂々と参加できるのは大きい。 「ああ、忍田さんとサシ飲み。楽しみ?」 「楽しみにしとけって、本人に言われたからな」 「ふーん」  自分で聞いておいてあまり興味なさそうな出水は、いったいどんな答えを期待していたというんだろう。 「お前は、楽しみじゃないのか」 「は?」 「いや、飲みじゃなくて。もうすぐ誕生日だろう、お前だって」 「祝ってもらえるのはうれしいですけどー」  年を重ねること自体はそうでもないと言外に匂わせる。 「お前くらいの年で何言ってんだ」 「おれはさぁ、別にずっとこのままでいいんですよね。皆、早く大人になりたいって言ってたけど、なんでかずっとわかんなくて。太刀川さんはどうなのかなって」  そんなに楽しいことが待ってるのかなって。  そう凪いだ声で話す出水の声はとっくに大人の響きを持っていた。戦いの中に生きて、街の命運を背負って、世界を越えて、それで自分が子どものままでいると信じていられるなんて、それこそ子どものできることじゃない。 「そうだな、楽しみかな」 「え、なんでですか」  一年かけてすこしずつ年を重ねること、大人になること。出水との年の差が埋まらないこと、いつでも彼の先を行くこと。それについて深く考えたことはなかったし、今だってろくに考えたわけでもないけど。 「お前より先に大人の楽しみ方を覚えられるから」 「なにそれずっりぃの」  おれも太刀川さんと同い年なら良かった、そう言ってむくれてみせる出水のふわふわの頭をかき混ぜるように頭を撫でる。 「違う違う」  あやすように頭を抱え込んで唇を落とす。くすぐったそうに漏らす出水の息が太刀川の肌に触れて太刀川も笑ってしまう。触れる生身の肌は滑らかで傷一つ無く、温かかった。子どもの肌で、子どもの体温だ。 「お前に、大人になるのが楽しいって教えてやれるだろ」  出水は不思議なことを言われたように太刀川の胸元から至近距離でこちらを見上げてくる。 「太刀川さんが教えてくれるの」  はかるような大人の瞳と、抱き抱えた子どもの身体のアンバランスさに胸が締め付けられそうになる。出水より年上で良かったと心底思う。じゃなければきっと衝動のままに抱き潰してしまっていただろうから。 「むしろ俺以外に教わるなよ」 「ーーじゃあまず、おいしいお酒、リサーチしてきてくださいよ」  出水はとろけるような蜂蜜色の瞳を細め、そんなふうにねだってくる。「了解」と頭を撫でてやると、細められた瞳はそのまま重くなった瞼に隠されていった。 「……おめでとね、たちかわさん」  眠りに引きずり込まれる直前の辿々しい口調で告げられる言祝ぎに、太刀川は返事代わりのキスで返し、きっと騒がしくなるであろう夜明けに向けて自分も暫しの休息をとることにした。
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itose01 · 5 years ago
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晴れた日に見る夢
※ 「怒る出水くん」というリクエストから。モブお姉さんが出てきます。
 カンカンカン、と錆びついた鉄の階段の鳴らす甲高い音が、休日の朝の気怠い空気を引き裂いた。  瞑っていた眼をしぶしぶ開けると同時に、コココン、と忙しなくドアがノックされる。玄関のチャイムは、太刀川がここに引っ越してきた時には既に壊れていた。そのことを扉の向こうの相手はとうに知っているらしい。  「……たちかわさぁん」  そろそろ重くなってきた掛布団を頭の上まで引っ張り上げ、昨晩隣で眠りについたはずの上司の名を呼ぶ。返事はない。  代わりに答えるように再びコンコン、と今度は2回、鋭い音が部屋に響く。  こんな音を響き渡らせている、扉の向こうの人物のか細く長い指を、出水は思い浮かべた。鮮やかに彩られた艶やかな爪の先をひらひらと揺らして手を振っていたのを、遠目に見たことがあった。  その視線の先にいたのは自分ではなかったけれど。 「……たちかわさんっ」  その光景が蘇った途端、じっとその音を聞いているのも耐えきれなくなった。  被りなおしたばかりの布団を即座に跳ね除け、声を潜めて叫ぶという器用なやり方で室内にいるはずの男の名を呼ぶ。しばらく耳を澄ませれば微かにシャワーの水音が聞こえてくる。  対応すべき人間の不在を悟り、出水は思わず舌打ちをした。  思い切り吸い込んだ室内の空気は、昨晩の気配を色濃く残している。横着をして布団の上からぐっと手を伸ばし、指の先でカーテンと、それからその向こうのガラス窓を開け放つ。窓の鍵は締まっていなかった。  この辺りは警戒区域にほど近く、盗みに入るようなモノ好きもいないから、太刀川は防犯という点にはまったくの無頓着だ。このボロアパートの住民はとっくによそへと居を移して、残されたのは太刀川ただ一人で、だからこそ周囲を気にせず年下の男を連れ込んで、空が白み始めるまで獣みたいな交わりを続けられるのだろう。これが普通の集合住宅だったらとっくに苦情が殺到して追い出されている。声を上げたほうが気持ちいいと太刀川に教えられてから、出水はそれを我慢したことがない。  そういうことを、一つ一つ丁寧に身体に覚えさせられた。最初は意味が分からなかったけれど、やがて意味なんてないのかもしれないということに思い至った。気持ち良いという、それだけが行動原理になることもある。そういうものなのか、とも思ったし、それでどうして自分なのか、とも思った。  けれどそれを、わざわざ太刀川に尋ねることもしなかった。視線を向けるだけで、手を少し掲げるだけで、名前を呼ぶだけで通じ合うのが自分たちで、出水にとってはそれが誇りだったから、そこに言葉を差し挟みたいとは思わなかった。だから出水は何も聞かないし、言わない。自分たち二人だけで世界が完結していたなら、それはひどく心地の良い状態だった。  開け放たれた窓からは五月の風がカーテンを揺らして勢いよく室内に入り込み、停滞していた生々しい夜の空気を一瞬にして追い払った。「風薫る」というのだったか、新緑の香りをはらんだ風が既に高く昇った陽の光を連れてくる。そうして見渡す部屋の中は、出水でさえ微かに罪悪感を抱くくらい荒れ果てていた。 「……ひっどいな、これ」  元から散らばっていた衣服やDMの類に加え、昨晩帰りがけにコンビニに寄って買い込んできた酒類が、結局飲まれることも冷蔵庫に仕舞われることもなくビニール袋に入れられたまま倒れていた。一緒に買ったつまみの類も同様である。出水用にと買った紙パックのオレンジジュースだけが歪な形でテーブルの上に置かれていた。テーブルに置くだけの理性があったことに今更ながら驚く。  昨晩、どこでスイッチが入ったのか、部屋に戻った途端荒々しく玄関の壁に押し付けられて、そのまま深いキスをされた。身体を明け渡し始めた頃の、最初は啄ばむだけ、みたいな戯れの合図はなくなって、初めから奥へ踏み込むことを求められるようになったのは、そしてそれを許したのはいつの頃だったろう。まだ半分も飲んでいないオレンジジュースの紙パックは、ぶしゃ、と醜い音を立ててひしゃげた。刺したストローの根元からベタベタした液体が溢れ出し、出水の手首を掴んだ太刀川の掌ごと濡らしていた。 「ちょっと、太刀川さん、」  唇を重ね合わせる合間に出水が抗議の声を上げれば太刀川は、息を漏らすように笑って「悪い、我慢できなかった」と悪びれもせず出水の腕を伝う液体を舐めあげる。獣の仕草に、食われる、と本能的に思った。ぞわりと腰を這い上がる快感に自分の手首へと舌を這わせる太刀川の唇へと自分のそれを寄せて、もう一度キスを強請る。今度は出水の方から舌を差し込めば、そこは微かにオレンジの味がした。 「ね、おれも、もうむり」  我慢できない、と耳元に訴えれば、腰から抱き上げるようにして部屋にあげられる。太刀川はいつの間にか奪った紙パックをテーブルに乱暴に置き、コンビニのビニール袋からコンドームの箱だけ取り出して、それ以外のものには目もくれず畳の上に放りだした。そうして出水を年中敷きっぱなしの布団の上に押し倒す。押し付けられた腰に硬いものを感じて、それだけで出水は簡単に溶かされてしまう。  それから先は嵐のようで、太刀川は一晩かけて出水を味わったあげく、ようやく空が白みかけた頃合いになって満足したのか、前触れもなく静まった。  ノックは相変わらず続いている。  出水はそこらへんに散らばっている衣服の中から一番手近にあるものを無造作に引っ掴み、そのまま首をくぐらせた。自分の体格よりも一回りほど大きなそれは太刀川のものだ。余った腕をたくし上げる。多少不格好だが、一応の体裁が整っていればいい。べたつく身体が不快だが、そんなもの相手は気が付かないだろう。たとえ気が付いても出水自身は一向に構わなかった。  下に穿くものも拾いあげてみたものの、こちらは上衣に比べひどい惨状で、一瞬の見分の後すぐに放り投げることになった。仕方なく、これもまた、取り込んだまま畳まれずに放置されていたらしい太刀川の短パンを借りることとした。ほのかに洗剤の香りがする。出水が選んで、太刀川の部屋に置いたものだった。  ドアチェーンは越してきたばかりの頃、無理な使い方をして壊してしまった。ドア自体の鍵は案の定かかっていなかった。だから出水はそのまま無造作にドアノブに手をかける。初夏の晴れた休日に家のドアを開くときは、もっと期待に満ち溢れているべきなのに、今はとてもそんな心境にはなれない。そこで待っているのが何者か知っているから。  目鼻立ちのはっきりした女だった。長い髪をゆるく巻いて、初夏にぴったりの明るい黄色のワンピースを翻す、いかにも戦闘準備完了といった出で立ちの、美しい女だ。やっと開いたドアに浮かべかけた喜色は、出水を見てすぐに消えた。形よく整えられた眉があからさまに顰められる。 「太刀川くん……の弟さん?」  太刀川の家族構成も知らない女は怪訝そうに出水を見る。それはそうだろう。明らかに身丈に合っていないTシャツと短パンをだらしなく身につけた出水は太刀川とは似ても似つかないし、同年代の友人にも見えない。 「お姉さん、だれ?」  出水は質問には答えなかったが、窺うような問い方に自分の優位を感じたのか、彼女はすぐに笑みを取り戻した。艶やかな紅が刷かれた唇を見せつけるように口角を上げる。 「そうね、大学のトモダチかしら、今のところ」  この女が何者なのか、強調された「今のところ」がいつから続いているのか、本当は出水はよく知っている。太刀川が大学2年に進級してすぐ、同じ講義を受講するようになって以来、彼女は太刀川をいたく気に入ったらしい。それから毎回彼の隣の席に座り、甲斐甲斐しくノートを貸しレポートの準備を手伝い、それから飲みに誘っている。  それでも気のある素振りだけして直接好意を告げないのは、相手から言わせたい、という女のプライドらしかった。そう冷静に分析したのは諏訪だった。出水と太刀川の関係を知らない諏訪は、よその隊長のゴシップを軽口代わりに教えてくれる。悪気がないことはわかっていたし、知らないままでいるよりはずっとマシだった。  そうして彼女は、いつまで経っても自分の思う通りに動かない太刀川にいい加減しびれを切らしたのか、やがて太刀川の家を直接訪ねてくるようになった。家の所在をどこから知ったのか――太刀川が教えたのかいわゆる有名税か、防犯意識もろくにない太刀川だから、どこから漏れていてもおかしくはない。  最初がいつかは知らないけれど、出水が太刀川の部屋にいるときにも、彼女が訪ねてきたことがある。めったにない訪問客に身を縮こませる出水を後目に、太刀川は慣れた様子で立ち上がり、気軽に玄関を開け、それから何やら��ったように頭を掻きながら話をし、最後には手を振って帰って行く彼女を見送っていた。  その後ろ姿を、出水は押し倒されていたままの体勢で畳の上から息を殺して見つめていた。ふくらはぎに当たるささくれ立った藺草の感触が、肌を刺して不快だった。それまでそんなこと、気がついてさえいなかったのに。太刀川の背に隠れて女の顔は見えなかったけれど、その声は凛としていて自信に満ち溢れていた。  初めてのことじゃないな、と思った。それから、多分彼女はまた来るのだろうな、とも。自分がいる時に。それからきっと、いない時にも。  その後、彼女がこの部屋に上がったことがあるのか、出水が太刀川に聞いたことはない。それでも、彼女がここに通い続けているのが、その答えのような気がしていた。  「太刀川くん、いる?」という問いは、太刀川を出せ、という要求にほかならない。出せるもんなら最初からそうしてる、という気持ちと、もう二度とこの玄関先でこの女に太刀川を会わせたくないという気持ちが綯い交ぜになる。狭い玄関は薄暗い気持ちを照らし出すような眩い日差しに浸されていて、甘ったるいオレンジの香りが出水にまとわりつくように漂っていた。 「太刀川さんなら、シャワー浴びてるよ。昨日遅かったから。盛り上がっちゃって」  肩からずり落ちてくるTシャツを反対側の手でたくし上げながら答えれば、女は意味が分からないという顔で小首を傾げる。甘えるような仕草が染み着いていて、それがよく似合っていた。自分の思い通りにいかなかったことなど、これまで無かったに違いない、そういう生き物の仕草だった。それがひどく出水の神経に障る。  腹をつつく意地の悪い気持ちのままで、出水は女に笑顔を向けた。年上に可愛がられ続けた末っ子の笑み。甘やかされて生きてきたのは出水も同じだった。 「お姉さんさぁ、太刀川さん、狙ってるの?」  思いもしない問いに言葉を失う彼女を出水は観察するように眺めながら畳みかける。 「キスしてほしいの? 抱かれたいの? 一人暮らしの男の部屋に何度も来て、今日もそのつもりで来たの?」  一瞬の間をおいて、何を言われたかようやく理解した女の頬が一瞬で紅潮する。百合の揺れるような笑みは葬り去られ、眼がつり上げられた。きっと太刀川には見せたことのない表情。こんなに醜悪な内面を持っているのに、それでも彼女の容姿は美しい。彼女が太刀川の部屋に出入りしていても、誰も違和感は抱かないだろう。彼女にはそれが許されていて、だから出水は彼女が煩わしかった。   「ごめんね、あの人のことはあげられないけど、」  とっておきの内緒話を打ち明ける子どものような、無邪気とさえ言える調子で出水は彼女の唇に自分のそれを寄せる。背中を曲げて屈みこむと昨日あの大きな手で掴まれていた腰が痛んだ。きっと呪われたような痣になっている。 「間接キスならさせてあげられるよ」  何言ってるの、と言いかけて、後ずさった彼女はそこでようやく出水のことを本当の意味で視界に入れたようだ。少年には似つかわしくない笑みを浮かべるその唇は、どんな言葉よりも雄弁だった。サイズの合わないティーシャツも、ずり落ちる肩口から覗く噛み痕も、柑橘類の甘い香りに混じる生々しい匂いも、剥き出しにされた下肢の艶めかしさも、すべてが一つの答えを指し示していた。  それを理解した瞬間、彼女は大きく手を振り上げて、それから乾いた音が響き渡った。続いてドアの乱暴に閉められるバタン、という音。安普請のアパートはその衝撃で僅かに揺れる。 「いったぁ……冗談なのに、」  当然のことながら出水のぼやいたその言葉は誰に届きもしなかった。灼けるようにひりつく頬を右手でそっと触れてみれば、余計に痛みが走って、けれど気分は悪くなかった。これが欲しかったのかもしれない。出水はじわじわと熱くなる頬を抑えて、彼女の捨て台詞を反芻する。「馬鹿にしないで」。  そんなの、こっちの台詞だ。馬鹿にされてるよね、あんたも、おれも。  再び光の遮られた薄暗い玄関にしゃがみ込み、閉じられたドアをぼんやり眺める。目がチカチカした。鮮やかな彼女のワンピースがまだ網膜の上で踊るようにひらめいている。世界中の光を集めて人の形にしたように、記憶はこの瞬間から無意味に美化されて続けていく。そんないいもんじゃなかったよ、と自分に突っ込みを入れて、それでも瞼の裏の彼女は笑いながら軽やかにスカートを靡かせてくるりくるりと回っていた。  眼を開く。薄暗く埃っぽい足元に乱雑に脱ぎ捨てられた二組の靴は太刀川と出水のものだ。苦いオレンジの香りはいつの間にか霧散してなくなっていた。どうして自分はここにいるんだろう。よくわからなかった。よくわからないまま、太刀川に手を引かれれば彼の言うなりにここに連れ込まれている。  潔く、バタンと扉を閉めて自分も出て行ってしまえば良かった。外はあんなに明るいのに。もう夏だっていうのに。天気の良い初夏の朝、扉を開ければきっと外には心浮き立つことが待っている。このまま出て行ってしまおうか。そう思って立ち上がった、ちょうどその時だ。 「出水?」  その一声で、動きが止まる。 「どうかしたか」 「……あの人が来たよ」  諦念を滲ませた溜息とともにそのまま告げれば、太刀川は「あー」と困ったように唸った。それがよけい出水の気に障った。  ろくに頭も拭かずに出てきたのだろう。出水にはちゃんとドライヤーまでかけろと言うくせに、自分のことには無頓着な男だった。剥き出しの首筋に滴る水滴をタオルで鬱陶しそうに拭う太刀川に、出水は大股で近づき、それからそのまま腕を振り上げて。思い切りよく振り下ろす。パン、と鋭い音が響いた。 「伝言です。あの人から」  太刀川は、戦闘以外ではいつも眠たげな瞳を大きく見開き、それから大きく一つ瞬きをした。出水に手を上げられることなんて、想像もしていなかったという顔だ。それでもおそらく、避けようと思えば避けられただろうに、太刀川はそれをしなかった。 「それから、『馬鹿にしないで』って」  本当に、馬鹿にされている。出水との関係を続けながら彼女をはっきりと突き放さないその態度。もしかしたら逆なのかもしれない。彼女との関係を思わせぶりにちらつかせておきながら、出水をこんなふうに連れ込み続けているのか。どちらが太刀川にとって真実かはわからないけれど、どちらにせよ馬鹿にされていると感じた。好きにだけならせて、こっちはもう離れられないのに、太刀川だけはいつでも手放せる。  自分に向けられた悪意を、太刀川のものへとすり替えて溜飲を下げようとしていることに自覚はあるけれど、それほど不当な仕打ちだとは思っていなかった。彼女だってきっとそう言う。そう身勝手に決めつける。  彼女を見て苛立つのは自分を見ているようだからだ。いずれ選ばれるのは自分だと信じようとしている惨めさが、出水をどうしようもなく情けない気持ちにさせた。 「あの人、多分もう来ないよ」  残念でした、と出水は苦く笑ってみせる。 「おれが太刀川さんと寝てるの、ばらしちゃった」  どうしようもないことをした自覚はあった。こんな風に彼女を追い返す権利を出水は持っていなかったし、昨晩までそんなつもりは微塵もなかった。ただ今日の朝は、昨日よりもいっそう夏らしくて、陽射しは鋭く、敷きっぱなしの湿った布団は不快で、そして彼女の甲高い足音と忙しないノックが出水を責め立てた。それだけのことが、ため込んでいた何かを一気に溢れさせてしまった。  今更ながら自分の立場を棚に上げて彼女にした仕打ちに自己嫌悪の波が押し寄せる。本当は正しい形ではないかもしれないのに、彼女を追い返して自分だけこんなところにいる。選ぶのはーーもしくは選ばないのもーー太刀川であるべきだった。  太刀川は、最初何を言われていたのか咀嚼するような瞬きを二度三度と繰り返し、「そんなこと、」と凡庸に口を開いた。それは何のドラマもない日常会話の延長だった。「あいつ、知ってるよ」 「は、」 「ああ、いや、お前だって言ったことはないけど。変に絡まれそうだろ、だから」  それは、ないしょだったんだけどな、一応。隊の、後輩と付き合ってるってだけ。でもそうか、などと口のなかでもごもご呟いて、それから先ほど自分が頬を張られたことも忘れたように「赤くなってる」と、さもいたわしげに出水の頬へと手を伸ばし���。「ごめんな」  何にかかる謝罪なのだろう。 「意味、わかんないんですけど」 「どこが?」  何から何まで、と言いたかったけれど、そう言ったところで太刀川に伝わるとはとても思わなかったので、出水は頬に触れようとする太刀川の手から一歩引くことで逃れ、「誰と、誰が付き合ってるって?」と、一番確かめたいことだけ抜き出した。 「付き合ってないってことはないだろ」 「おれはそんなつもりなかったですけど」  意味の分からないことを言わないでほしかった。少しの目配せも、手の動きも、名前の呼び方も、出水はそんな合図は何も受け取っていなかった。 「おれもあの人も同じじゃないんですか」 「なんだそれ……ってお前、何か勘違いしてるだろ」  ちょっとこっち来い、と一続きの和室に連れて行かれ、乱雑に二つ折りにされた煎布団の上に腰掛けさせられる。まともに座るところもない部屋に、なんとか場所を作って、太刀川は出水の正面に座った。 「いや、まぁ俺も悪かった。いつもちょっと面倒くさいことになるんだよな。昔、気をもたせるようなような態度とるんじゃないって怒られたこともある」  優しさと人は受け取るかもしれないそれの正体を、出水は知っているような気がした。戦闘という閉じた世界に興味の全てを注いだ強者の無関心な鷹揚さだ。外部の人間には穏やかにも見えるだろう。優しくも見えるだろう。それは間違いではないけれど、決してそれだけが彼の本質ではなかった。  そんなつもりはないんだけどな、と弱ったように頭を掻く彼がそれを自覚することはないのかもしれない。 「でも、部屋に入れたことも、ましてや寝たことだってないよ」  それはお前だけ。  太刀川の背後の、雑然と物の散乱した部屋を見渡して、たしかに、こんなところに自分以外の誰が入れるだろうと出水は変なところで納得した。相手を気遣うつもりもない獣のような営みを受け入れる女はいるだろうか。出水には、太刀川に格別に優しくされた覚えはなかった。厳しくされたことも、無理を強いられたこともあるけれど、誰にでも向けられる茫洋とした許容を受けた覚えはない。 「太刀川さん、おれのこと好きなんですか」 「そう言ってる」 「初めて聞きましたけど……いつから?」 「ずっと前、もう覚えてもないくらい」  そうなのか。彼からの目配せも、手の動きも、名前の呼び方も、何も特別な合図は受け取ったことはないと思っていた。でも、特別じゃないと思っていた普段の目配せが、手の動きが、名前の呼び方が、本当はずっと前からーー出水がその区別の存在を知りもしない最初から、自分だけに向けられた特別なものだったとしたら、その好意に気が付くはずもない。妙に腑に落ちて、出水は一言「そうだったんですか」と呟いた。  ずっと布団の敷かれていた畳は他の部分より僅かに青く、心なしか滑らかな気がする。裸足の足の裏で畳の目にそってそれを緩くなぞると、やがてつま先が太刀川の足に触れた。太刀川がそのつま先を、彼の大きな手で一掴みに包んで、ぎゅっと力を込めるので、出水は思わず、畳に落としていた目線を上げてしまった。真正面からこちらをのぞき込む太刀川の眼を見て、自分の怒りが急に萎んでいくのが感じられる。 「……布団、干しましょうか」  出水がそう言うと、太刀川は「そうだな」と全て見透かすように眼を細めて笑った。  布団1枚分、ぽっかりと空いたスペースに、猫のように寝そべりうたた寝をしていた出水の上にふっと大きな影が落ちる。 「ほら、冷やしときな」  うっすらと眼を明けると太刀川がこちらを見下ろしていた。差し出されたのは、ケーキ屋でもらうような白地に青で文字の書かれた小さなサイズの保冷剤だった。ケーキなんて洒落たものを、保冷剤なんか付けてくれるような良い店で買うわけのない太刀川の家にこれがあるのは、彼女が差し入れといって渡してきたシュークリームの入った箱に入っていたからだ。出水は覚えていて、きっと太刀川は忘れている。  こういうところだよ、と思いながら、太刀川が差し出す保冷剤に頬を委ねる。口に出さないのは意味がないことを知っているからだ。  冷凍庫に詰め込まれた食品に押しつぶされて、おかしな形に凍ったそれは頬骨に当たって痛かった。ハンカチにも包まれず、直接肌に当てられるからすぐに頬は痺れるほどに冷える。頭が痛くなりそうだ、とぼんやり思うと絶妙なタイミングでそれは外され、代わりに熱い手に覆われた。  温い外気にさらされた保冷剤はすぐに水滴を纏い、頬はいつの間にかひどく濡れていた。それを拭うように頬を撫でられる。 「ーーああ、気持ちいいな」  じんとした火照りが帰ってくる。沁み入るような太刀川の声に再び眼を瞑る。  痛みも痺れも伴うことを知りながら、それらを引き替えに触れられるこの手の心地よさを知っているから、出水は多分、ずっと太刀川から離れることはできない。  まるで、悪い夢のようだった。
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itose01 · 6 years ago
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ラトレイア(礼拝)
「ひみつのはなぞの」の番外編です。本編は一覧(https://privatter.net/u/Itose)からどうぞ。 文字書きワードパレット(@Wisteria_Saki)様より 11.「灰色」「無音」「鏡」
拍手からリクエスト下さった方、遅くなってしまい申し訳ありません。ありがとうございました! 
――ガシャンッ!
 恋人と迎える朝にしては、少々騒がしい目覚めだった。 いや、そもそもその恋人が隣にはいない。昨晩は確かにこの腕の中に抱いて眠りについたはずなのに。とはいえ、彼が先に目覚めるのはそう珍しいことではない。太刀川は朝に弱い方ではないと自負していたけれど、それより少し上回って出水の方が仕事熱心だった。つまり、仕事のある日は決まって出水の方が早く目覚め、自分の身支度を整えた後に太刀川を起こすのがいつもの流れなのだ。  それが休日ともなると、平常の反動だと言わんばかりに出水は怠惰になる。日が高く上るまでベッドの上で過ごし、腹が減ったら太刀川に適当なフルーツを所望する。だから太刀川はリンゴとオレンジだけはナイフで難なく剥けるようになってしまった。それまでは人の急所に差し込むとか投げて相手の武器を弾くとか、そいった用途でしか使ったことの無かったのだから、大した上達である。  つまり、出水が先に目覚めていること自体はそれほどおかしなことではないのだ。けれど今日は休日で出水が早く起きる必要はないはずなのに。  そして何よりもあの不穏な破壊音。  かつて出水が一人暮らしだった頃、当時のストーカーにまんまと住居を割り出されてから、太刀川と共にセキュリティの厳重なマンションに住むようになった。よほどの事がない限り、太刀川に感づかれないままこの部屋に不審者が進入することは不可能だ。しかしその「よほどの事」を引き寄せるのが――時には自ら引き起こすのが――出水公平の出水公平たる所以だった。  一応の警戒心と、マットの下に入れている護身用の武器を用意して、音のした方へ急いだ。部屋を出て右に曲がり、短い廊下をまっすぐに行くとその先は洗面所だ。  ガチャッガチャッガチャッ!  続けて硬いものを抉るような短くリズムの良い破壊音。それと同時にこの距離でようやく聞こえた、粉砕された何かがバラバラとこぼれ落ちる音。 「……出水?」  壁際に身体をつけていつでも突入できるように中を窺い、けれども8割がたの確信をもって呼びかければ、すぐそこから「はぁい」と機嫌の良さそうな返事が返ってきた。  やっぱりか。  太刀川はそれなりに緊張していた身体の力を抜いて無造作に洗面所の中に入る。  どうせ、そんなことだろうとは思っていたのだ。  それなりの広さをもったそこは、大人の男が二人並んでも余裕がある。洗面台の全面に張られた大きな鏡が(太刀川にここを案内した業者曰く)自慢だった。  その鏡が、無惨にも叩き割られている。一打では足りなかったのか、一際大きな中央のひび割れの周囲に小さな穴がいくつも開き、そこから蜘蛛の巣状に罅が広がっていた。それらが絶妙に繋がって、あと一撃でも入れば一気に崩れ落ちそうだった。 「……いずみ、お前、何してんの」 「おはようございます、太刀川さん」  洗面台に片膝で乗り上げるようにして鏡に向かう出水の右手には、玄関の工具入れに入っていたはずのスパナが鈍く銀色に光っていた。その体勢のままで、首だけで振り向く出水はへらりと頬を緩める。  太刀川慶の恋人は、今日も相変わらずかわいらしかった。 「何って……見たとおりですけど」  何を当然のことを、とばかりに言うのでそれもそうかと納得しかけ、いやいやそうじゃないと持ち直す。 「ほら、とりあえずこっち」  加害者を標的から離すのが先決と、両脇に手を差し込み軽く抱え上げて奥にあるドラム式洗濯機の上へと載せてやると、出水は昨晩太刀川が脱がせたそのままの素足を一つ不満そうにぶらつかせた。 「なんですかもう」  裸足の指先にひっかけたオフホワイトのもこもこスリッパが危うく落ちそうになっていたから、もう一度その小さな指先ごと踵まで押し込んでやると、戯れるように太刀川を蹴り上げる素振りをしてみせる。当てる気がないとわかっていても位置的に危ういからやめてほしい。  やめなさい、となだめるように両手をつかみ、その流れで片手にもっていたスパナから手を離させてランドリーバスケットの上に積まれたタオルの山の上に放り投げてしまった。 「そりゃこっちの台詞だ。何があった?」  出水は時折ひどく不安定になる。というより、この生い立ちで「時折」で済んでいるあたり、出水もやはりどこかおかしいのだ。恒常的に頭がおかしくて、時折、情緒不安定になる。それが出水の「ふつう」で、太刀川は出水のそういうところがいじらしくてけなげでかわいいと思っていた。だから、こんなふうに甘やかに愛し合ったその翌日に、ベッドの上で怠惰を貪ることのできる貴重な休日の朝が謎の破壊音で奪われたとしても、ちっとも不満などないのだった。 「なんていうか……朝起きて、顔洗おーと思って鏡見たら、ひどい顔だったんです」  向かい合わせに立つと珍しく太刀川が見上げる形になる。眉を寄せて、自分にもままならない気持ちを言語化しようとする苦心が見て取れた。 「そうか? そんなことないけどな」 「すごい、セックスしました、って顔」 「そりゃいい」  それは本当のことだった。赤く染まった目元は昨晩の名残だし、たくさんキスをした唇は化粧をした女みたいに赤くぽってりと腫れていた。首筋から胸元にかけてはそりゃもうひどい有様で、このままでは到底外には出せない。けれどそれは全く、悪いことではないはずだった。 「……でも、あの人はこんな顔知らない」  嫌われちゃうかもしれない。  その一言で、彼のおかしな思考の一端を見る。彼が「あの人」という相手など一人しかいない。「パパ」とも「父さん」とも呼べずに、名前を出すことも憚られ、あの事件から出水は自分の父親のことを「あの人」と呼んでいる。  そうして未だに慕っているのだ。自分の代わりに幾人もの少年を犯して殺した異常な殺人犯を。そうしてどうしたらまっとうに愛してもらえたのかを未だに考えている。  ――面会だって拒否されているくせに。この十数年、一度も会えていないくせに。ばかな出水。あっちはとっくにおまえのことなんて忘れているよ。  嘘だ。最後のそれだけはただの太刀川の希望だった。高い塀の向こう側で、出水の父親はたぶん未だに彼のことを想っている。  結局、気休めも誹りも選べなくて、「そうか」とだけ言った。出水が何を求めているとしても、それを太刀川が与えてやれるとは思えなかった。何も言わないことが太刀川の意思表示でもあった。 「ごめんなさい」  素直に謝ってみせる出水に笑ってしまう。何に対する謝罪にせよ、きっと彼はまた似たようなことを繰り返す。 「別にいいさ。鏡なんてろくに見てなかったしな」  だからできるだけ軽口に聞こえるように太刀川は答えた。この話はここで終わりだという合図を、出水も察したようだった。 「そこは見ましょうよ」 「あーでもひげ剃りは困るかも」  バスルームの鏡は見られないこともないが、太刀川が寝ている間にずいぶん念入りに破壊してくれたものだった。これに向き合って髭を整えようとはあまり思えない。 「あ、それならおれが剃ってあげます」  さも良いことを思いついたとばかりに瞳を輝かせている彼は、向かい側で鈍く光っている無惨にひび割れた鏡のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。  でも太刀川にはそれで良かった。出水の関心がこちらへ向いたことが純粋に嬉しい。割れた鏡と同じように、父親のことなどすっかり消え去っていることだろう。少なくともいま、この時間は。 「マジか」 「うん、その代わり太刀川さんはおれの鏡になってよ」  髪、すごいぼさぼさだからと、昨晩太刀川が両手でかき抱いたそのせいで、いつもよりいくぶん乱れたその頭を揺らしてみせた。 「いいけど、ちゃんといつも通りにできるか?」 「えー、どうかなぁ、いやうそうそ、大丈夫ですって」  出水は言いながら、身体を伸び上がらせて、かしりと太刀川の顎に歯を立てる。そのまま何度か淡く食まれた。食ってやるぞ、とでも言うように可愛い猫が小さな歯を立てる。 (この顎髭とも今日でしばらくお別れかもしれないなぁ)  分析官らしくないと言われたから生やし初めて、ようやく馴染んだところだったのに。これでなかなか評判が良かったのに。残念ながら出水は気に入っていなかったようだ。  まぁ、それでこの情緒不安定な子どもの機嫌が良くなるのならば良しとしよう。破壊された鏡と違って髭はすぐにまた伸びてくる。 「わかったわかった」  顎髭を狙う子猫をキス一つであやして、降参を告げれば、 「せっかくだから、テラス行きましょうテラス」  と、出水は俄然やる気を出した。太刀川の横をすり抜けて洗濯機を降りる身は軽く、洗面器にカミソリセットをがちゃがちゃと放り込んで、ブルーグレイのタオルを肩に引っかけてバスルームを出て行く。可哀想な鏡の始末は後回しらしい。  寝室から続く広めのベランダはもっぱらうちでは「テラス」という愛称で親しまれていた。椅子を向かい合わせに二つおいていっぱいになってしまう程度の広さだが、モザイクタイルの施された壁面が日光に照らされると反射の仕方によって色を変えて美しいのだ。よく晴れた休日に椅子にゆったりと腰掛けてだらだらとするのが出水のお気に入りだった。  出水の後を追ってバスルームを去る直前、ひび割れた鏡をもう一度見る。亀裂の入った醜い自分の顔がそこには映っていた。  割られた鏡は自己嫌悪の表出。プロファイルの基礎中の基礎だ。  ――あいつの場合は、何に対する自己嫌悪なんだろうな。  異常な父親からの愛情を未だに求める自分の不道徳さか、それともたとえ異常であったとしても結局父親の愛(という名の暴力)を得られなかった自分自身か。念入りに割られた鏡を見て思う。  灰色のバスルームは、天井にほど近い場所に設けられた小さな明かり窓から差し込む秋の陽光に、ほんのりと照らし出されていた。黒にも白にもなれない自分たちは、曖昧な自身を許したふりをしながらこんなところで児戯を繰り返している。居心地の良い場所に止まって、互いの許しを求め合って、それでどうにか生きていた。歪な箱庭の暮らしがこんなふうに続いていることに、太刀川は感謝していた。祈るべき神も正しい方法も知らないけれど、ふとしたときに何かに感謝し、祈りたくなるときがある。今がまさにそのときだった。  さて、出水はすっかり頭にないようだったが、洗面所から寝室とは反対に向かう廊下の壁には等身大の鏡が掛けられている。今ではこの家で唯一生き残っている鏡だった。寝室へ向かいかけて、ふと思い立ってそちらへと戻る。遠くから「たちかわさーん」と呼ぶ声が聞こえるのに、「おう」と軽く返事をしてから、美しい鏡面に自身を映すそれに向き直る。それから、太刀川は深く考えることなく拳を振り上げた。  ガシャン、という破壊音ーーそして無音。 (その沈黙は、ひどく歪な形をしていたけれど、それでも「祈り」というものにとてもよく似ていた)
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itose01 · 6 years ago
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邂逅
黙って姿を消した出水くんと太刀川さんが3年の時を経て再会する話。 文字書きワードパレット(@Wisteria_Saki)様より 14.「滴る」「曇天」「水溜り」
「こりゃ、ひでぇな」  今にも泣き出しそうな曇天の下、広がる惨状に太刀川は思わず足を止めた。  見渡す限りの瓦礫。真っ平らにされたそこは、地図の上ではそれなりに大きい一つの街があるはずだった。かつては本部の仮想空間で頻繁に見ていたその光景――更地にされた瓦礫だらけの街という光景も最近では見ることもなくなっていた。だから、どことも知らない街とはいえ、太刀川はそれなりの衝撃を味わった。わき起こったのは懐かしいとも寂しいともつかない感情だ。  まともに建物の形を保っているものは皆無のように見えた。いや、だいぶ先に辛うじて民家らしきものがまっぷたつにされ、半分だけ綺麗に残っている。もう半分は跡形もなくなって更地になっていたが。  瓦礫を避けながらそ��半分残された部屋に向かったのは、郷愁に駆られたからではない。そんな情緒を太刀川は持ち合わせてはいなかった。単純に、なんとなく頭のてっぺんに水滴の感触を感じたからだ。  足を踏み入れ、これまで自分がいた場所を振り返る。幸運というべきか不運というべきか、太刀川が屋根の下に入った途端に外はバケツをひっくり返したような雨が降り始めていた。  トリオン体なので濡れること自体は構わないが、視界のきかなさと動きにくさは否定できない。オペレーターによる視界誘導もないこの近界で、強いて移動するだけの利も目的もなかった。  1日の猶予は与えられている。はっきりとした手がかりがあるわけでもない。どうせ偶然を頼ってそこらへんをウロウロすることしかできないのだ。3年も、遠征のたびにそうやって過ごしている。それなら今日ここで足をとめて雨宿りをしたって別段何か不都合があるわけでもなかった。  この場所がこれだけ攻撃を受けたのは、どうやら最近のことのようだった。屋内は風雨にさらされた痕跡もなく、家の半分が無くなっていることをのぞけば特に異常はない。ほんの数時間前まで生きている人間がいて、そこで生活が営まれていたことが確かに見て取れた。  ベッドの上には起き抜けの、身体の形がそのまま残った毛布の固まりがあった。テーブルの上には飲みかけらしいマグカップが置かれている。綺麗に洗濯された衣類は畳まれてあとはタンスにしまわれるだけというふうにソファの上に積み重ねられていた。  出水がいなくなった後の俺の部屋も、こんなふうだったな、と思い出す。――いや、「思い出す」もなにも本当は忘れたことなんてない。いつだってそのことを考えていた。出水がいなくなった日のことを。  いつまでも夏が居座った年の、それでもようやく朝晩が秋めいた空気になってきた頃だった。それをいいことに、久しぶりに毛布を持ち出してきて、二人で融け合うほどくっついて、初めて触れ合った時のことを思い出すくらい、丁寧に彼の身体を解いたのを覚えている。太刀川隊が解散し、二人とも新しい所属となった頃だった。どうしても互いが足りない時期だったが、飢えに任せて性急に抱く気にはなれなかった。一つひとつ丁寧に、彼の好きだった所を確かめるように痕を残した。どこに口づけたのか、今でもはっきり覚えている。  出水がいなくなったのは、その翌日のことだった。いつものように本部に二人で向かってラウンジで手を振って別れた。それ以来一度も太刀川は彼に会っていない。  事件性はないと上層部には言われた。彼らは承知していることらしかった。忍田から「彼は近界に行った」と一言言われて終わりだった。  そう告げられて、納得いかないと暴れられるほど子どもであれば良かった。けれど、どこかで「ああ、そうか」とすとんと腑に落ちてしまったのだ。あいつなら行きそうだな、とそう思えるほど、長い時を出水と過ごしていた。  思考が何度も遡った道を辿り、結局は同じ場所に終着する。自分が何かしてしまったのか、それとも何ができなかったのか。そう考えたこともあったが、たぶん、そうではないのだ。出水公平はそういう生き物で、きっと誰にも何にもそれを止めることはできなかったんだろう。  周囲からは太刀川の方が地に足の付かない風来坊で出水の方がストッパーのように思われていたが、その実ほんとうに首輪の役目を仰せつかっていたのは太刀川の方だった。何物にも囚われない性質を持つ出水公平だからこそ、合成弾なんてものをなんの気負いもなく思いつけたのだろう。  だから、ああ、溢れちゃったんだな、とそう思った。最初から、ボーダーという器にさえ耐えられない性質の生き物だったのだ。  物思いに耽りながら室内を物色していると、するりと太刀川のいる家屋の軒下に身体を滑り込ませてきた人間がいた。身にまとったマントのフードを深くかぶり、その表情は窺えなかったが、太刀川をして気配を感じさせない身のこなしは猫のようだった。  彼――体格から言って彼女では無さそうだった――は、一つ大きなため息をつくとその場にしゃがみこみ、壁にもたれてそのまま顔を伏せてしまった。太刀川がいることに気が付いていないわけでもないだろうが、特に警戒する様子も見られない。純粋に雨宿りがしたいだけらしい。敵意は感じられなかった。 (どうすっかな)  近界民と会話を楽しみたいわけでもない。敵意を感じないからといって敵ではないとも言えないのだ。けれどこの街に何があったのかは興味があった。この状況で気負う様子のない彼はおそらく何か知っているだろう。可能であれば探し人について訊ねることもできるかもしれない。とはいえ面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。  そんなふうに、迷っていると、ふと彼が顔をあげた。 「雨、やまないっすね」  うんざりした声。聞き慣れた、けれど耳に馴染んだとは既に言い難い。頭を覆うフードに遮られてくぐもってなお、懐かしい響きだった。 「――お前」  思考が止まる。それでもよく躾られた身体だけは反射的に動いていた。後ろから肩を掴み、乱暴にこちらを振り向かせる。  そうしてその横顔がようやく眼に映った。こちらを振り仰ぎ、榛色の眼を見開く、その動作がやけにスローに見えた。 「お前、出水か」  たった3年。それだけの時間を隔てていただけなのに、確信が持てなかった。記憶の中の出水はもう少し少年らしい柔らかみを残していた気がする。もっと色も白かったし、それに、いつだって自分といた。知らないところなんてなかった。それだけで、こんなにも違いばかりが目に付く。  それでもやはり、太刀川にはそこにいるのが出水以外の何者かとも思えなかった。 「あれ、太刀川さんじゃないですか」  わずかな驚き。それでも太刀川のそれほどではない。この3年という時間は、太刀川にのしかかるほどの重さでは出水の上にのしかかってはいないようだった。それはそうだろう。彼は自分から姿を消した側で、太刀川は取り残された方だった。 「こんなところにいたのか」  万感の想いを込めて吐き出した言葉に、出水はぱちりと一つ瞬きをして、 「さすがだね、太刀川さん」 と笑った。それだけでもう、勝手にいなくなったことも、自分が置いて行かれたことも、こちらの気持ちなんて何も考えていないその無神経さも、すべてどうでもよくなった。怒るのはきっと国近がやってくれるし、泣くのは唯我の担当だった。 「……そろそろ帰ってもいいんじゃないか」 「太刀川さんと一緒に?」 「ああ、俺と一緒に」  もう十分遊んだだろうと、迷い猫を連れ戻しに来た飼い主のような気持ちで太刀川が提案すれば、出水はほんの数秒考えるような素振りを見せて、それでもすぐに「良いですよ」といとも簡単に首肯した。 「おれも、そろそろここは出ようかな、と思ってたんです」  言いながらようやく立ち上がって、太刀川と正面から向き合う。  ――年中雨だし、そうじゃなくても曇りだし。たまに、トリオンも降るんですよ。星を支えて、余った分が雨になって降ってくるんです。だからほら、ここなんてひどい状態でしょ――  そんな嘘か本当か分からないようなことをするすると話す出水は、本当に3年の月日も何も感じさせなかった。 「でもほら、この更地の感じ、おれのメテオラが懐かしいでしょ」  それなのに、そんなふうに自分の不在を持ちだすものだから、太刀川はなんだかもう堪らなくなって腕の中にその身体を抱き込んだ。あの頃は自分の腕の中に誂えたようにしっくりきたそれは、今ではどこかぎこちないまま、それでも大人しくおさまってくれた。  背丈はそんなに変わらない。けれど知らない匂いがした。異界で暮らしていた者の匂いだ。大きめのフードの奥に見えた首筋には、あの夜残したはずの痕はとっくに無くなっていた。ごく当然のことだった。 「太刀川さん、どうしたの、もしかして寂しかった?」 (何が「もしかして」だ)  付き合っている相手が急に消えて、それで太刀川が何とも思わないような精神をしていると思っているらしい。出水は昔から、こんな風に太刀川を普通の人間とは別の枠に置きたがる。ひどい勘違いだ。  無性に腹が立って、その質問には答えなかった。なんと答えるべきか分からなかったからかもしれない。  答える代わりに、重く湿ったマントのフードを両手でそっと脱がせて、どこか神聖な儀式のように乾いた唇に口づけた。  両手で髪を撫で、懐かしい頭の形を確かめる。互いに幼い頃は何度もこんなふうに撫でてやった。些細なことでも褒めてこうしてやれば、出水は嬉しそうに笑っていた。つきあい始めてからは後頭部を撫でるようにして引き寄せて何度もキスをしたし、させた。  昔はさらさらだった髪に指を差し入れて髪を軽く握り込むと軋むような感触がした。家に帰ったら一緒に風呂に入って、大きな泡を立てて洗ってやりたいと思った。その後はドライヤーで乾かして、またさらさらの髪にして、それから熱の残ったそれを抱え込んで寝よう。  そんなことを頭の端で考えながら何度も唇を重ねる。最初はされるがままだった出水も、やがて感覚を思い出したように応え始めた。 「たち、か、さ……」  唇の離れる隙に、途切れ途切れに出水が名前を呼ぶ。無視をしても良かったけれど、そうするにはその響きが懐かしくて、心地よすぎた。名残惜しくなりながらも唇を放し、黙って続きを促してやる。出水は、潤ませた瞳で窺うようにこちらを見て、そうしてごめんなさい、とほとんど唇だけで告げてきた。こういうところが出水の卑怯なところだった。悪いなんて、欠片も思っていないくせに。そもそも何が問題なのか、それさえ分かってないくせに。それでも無条件に許してほしがっている。太刀川が許したがっているのも知っている。許す許さないの話でもないというのに。結局、出水公平という生き物をそのまま受け入れるかどうかなのだ。そしてその問題において、太刀川には選択の余地もなかった。 「今度出かけるときは、ちゃんと俺に言ってから行けよ」  理屈の通じない子どもに言いつける言葉はできるだけシンプルに。向かい合わせて眼を合わせ、言い含めるようにゆっくりと。諦観をにじませたそれに出水は、「うん」と素直に頷いた。 「どうせなら俺も誘えよ。お前ばっかずるいだろ」 「それは、忍田さんに怒られるからだめです」  その言葉に垣間見える事の経緯には今のところ眼を瞑る。 「大丈夫だ。あの人はあれで俺に甘いからな」 「うーん、そうですか? でもそれじゃあ、また、そういう気分になったら。そしたら一緒に遊びましょうね」  それまでは、久しぶりの我が家でゆっくりします。  太刀川は、出水が思い出しているだろう3年前の自分たちの部屋を思い浮かべる。それは少し前に太刀川が出てきた時の状態と、ほとんど変わることがないだろう。時が止まったようなあの部屋を見たら、出水も少しは心を痛めるだろうか。もしかしたら気がつきもしないかもしれない。それならそれで良かった。  いつのまにかあれほど激しく降っていた雨はやんでいた。瓦礫の隙間を伝って水滴が地面に流れ落ちる音がかすか���聞こえる。雨音の残滓だった。 「さ、雨もあがったし、帰りましょうか」  止まっていた時がそのまま動き出したように、出水はあの頃と同じような顔を向ける。トリオンにえぐられ荒らされたらしい地面の上にはいくつもの水たまりができていた。遠慮がちに顔を出した日の光を反射してきらきら光っている。  出水の中の、どうしても解放されたがるその滴るような欲望がまた外に出て来るまでは、この腕に抱き込んでおこう。そして、もし次にその時が来たとしたら、今度こそ決してその手は離さずにいよう。  ぽつん、ぽつんと、四方から聞こえる雨水の滴り落ちる音を聴きながら、水たまりに踏み込むような無謀さで、太刀川はそう心に決めた。
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itose01 · 6 years ago
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二人の好物がコロッケになった話
タイトルの通りです。二人のコロッケ好きという共通点、偶然なのかどちらかの布教なのか、色々なパターンが考えられますが、どちらも別に好物ではなかったというパターンをつらつら考えた結果です。ネタ被りあったらすみません。
 こんなに自分が奥手だったなんて、知らなかった。そういえば、まともに恋愛もしたことがないんだった。  そんな気づきを得たのは、ひとえに最近新しく部下になった3つも年下の少年のせいだった。  もう少し一緒にいたいな、と思ったとき。笑ってほしいな、と思ったとき、とりあえず模擬戦を申し込んでる。そう打ち明けたとき、先輩諸氏はちょっと見たことがないくらい絶望的な顔を晒した。  そんな気は、俺だってしていたんだ。ああ、これたぶん「一般的」ってやつじゃないなって。でも俺と出水で、二人とも「一般的」とはかけ離れた人間なんだから、別にこれでも良くない?   そう言い訳したら、「何が『俺と出水』だ」と諏訪さんに怒られた。「まだ『俺と出水』なんてくくれるような関係でもないくせに」というちょっと難しい言い回しで、風間さんに視線で助けを求めたら「付き合ってから言え、ってことだ」とどうでも良さそうに説明してくれた。  まあ、それは確かに。このままじゃ、たぶん「上司と部下」以上にはなれないんだろうな。ただ、強くて、一緒にいると楽しいだけの隊長になって、それじゃやっぱり満足できないと思ったから、俺は出水のこと好きなんだ。恋愛的な意味で。  でも実際のところ模擬戦に誘うのが一番出水が喜ぶんだけど、どうしたらいいんだろう。
 作戦室のソファで寝っ転がって私物のスマホをなにやらいじっている出水は、特に用事も無さそうで、ただなんとなく帰るのが億劫なんだろうなって見ていてわかった。そろそろ夕食時で、これを過ぎてしまえば任務もない未成年の隊員が本部をうろうろしているとあまり良い顔をされない時間帯になる。俺もいい加減帰るかと、腰をあげたところだった。 「出水」 「はーい?」  スマホからいとも簡単に目線をはずし、上向いて逆さまにこちらを見上げる。無防備に晒された喉元が真っ白で、手をのばしてくすぐってやりたくなった。もちろんそんなこと、しないけど。できないけど。 「俺、帰るけどお前は?」  一緒に帰るか、という一言には至らなかった。断られたら、寂しい家路になる。 「あれ、もうそんな時間ですか?」  握りしめたままだったスマホに目を向け、それからすっかり帰り支度を整えた俺をもう一度見て、「太刀川さんが帰るならかーえろ」と歌うみたいに言って立ち上がった。 なんだこいつ、かわいいな。  本人にとっては大したことないフレーズにまで(それこそ「カラスが鳴くから」レベルに意味がなくても)ちょっと嬉しくなる俺は本当に単純で簡単だった。  ろくに荷物もない高校生はすぐに身支度を整えて俺の隣に並ぶ。「さ、帰りましょ」と一緒に帰るのを当然のように言った。  互いの家の位置くらいは知っていた。行ったことはないけど。ボーダーの秘密の連絡通路を使って外に出て、それから500mくらい歩いたらもう俺たちの帰り道は別々になる。本部に近い方がいいや、と警戒区域の近くに部屋を借りたこと、特に後悔はないけど、こういう時ちょっと損した気分になる。もう少し遠ければ、出水とそれだけ歩けたのに。うちまで送るって言ったらちょっと過保護だろうか。でも、出水の家はわりと街の中心部に近くて賑やかなとこだし、高校生男子を送るほどの距離でもない。でもまがりなりにも部下だしな。そんな打算を頭で巡らせながら、出水と歩くほんの少しの距離。  古い商店街は、半分くらいシャッターが降りていて、店の明かりよりも古めかしいデザインの街頭の方が煌々と地面を照らしていた。時間も時間だけど、それより警戒区域に近いこの場所を嫌って店を閉じた人が多いからだろう。それでもなおこの場所にとどまろうという店主たちは逆に図太い人間が多い。同じように図太くこの辺りに住み続ける地元住民やボーダーの人間に、この商店街は重宝されていた。俺も生活用品の買い物はたいていここですませている。  この商店街を抜けたところが、俺と出水の帰り道の分岐点だった。出水と他愛のない話をするこの時間が名残惜しくて、だけど今更この状況で模擬戦に誘うこともできない。「家、寄ってく?」なんてちょっとまだ早い。そもそも人を呼べるようなーーしかも気になる相手を初めて呼ぶような、そんな状態の部屋じゃない。そろそろ洗濯しないと限界だな、と太刀川をして思わせる、そういう惨状だった。 「それで、二宮さんがー……」  二宮の話なんて全く頭に入って来なかったが、話しながら出水の歩調が自然と弱まるのはわかった。もう少しで分かれ道だ。  あー残念だな、でもまぁ、明日どうせ会うんだし。  そう思って、話の区切りがついたあたりでじゃあな、と別れる準備をした、その時。  唐突に思い出した。そういえば、こいつら明日からテスト週間じゃないか? 明日からしばらく大学生中心の編成になると、風間さんから編成表を受け取ったばかりだった。テスト週間だって構わず本部で遊んでる米屋と違って、出水は食堂で勉強していることはあっても隊室に来る頻度はぐっと下がる。それに今日見た編成の感じだと、俺の方が任務についていてほとんど本部の中にはいないだろう。そう思ったらつい、何も考えずに口が開いていた。 「ちょっと待て」  おつかれっしたー、と何の未練も無さそうに爪先を俺と別の方向に向けようとする出水の腕をつかむ。 「はい?」  といっても特に用事はないんだった。  あー、と無意味に誤魔化して、そうしてふっと鼻先をくすぐったのは、胃を刺激する油の匂い。身体に悪そうなものに、人は無条件で引きつけられる。食べ盛りの想い人を引き留めようとしている、俺みたいな人間は特に。 「──腹、空かね?」  出水は一瞬理解が追いつかなかったようだった。口をぽかりと開けて、だけどすぐににやりと笑って「空きました!」と腹に手を添えて良い返事。よしよし、と思惑通りの答えに満足する。  錆び付いたシャッターの降りた隣の洋品店に対して、その総菜屋は未だに裸電球が店頭で明々としていた。保温器のオレンジの光も相まって、商店街の終点にしては視覚的に賑やかだ。中を覗いてみるとさすがにこの時間にトレーの上に残っている品は普通のコロッケ一種類。ガラスケースの上には、段ボールに「半額!!」とマジックで大きく書かれた看板が立てかけられている。 「これでいい?」  指さして聞くと、「もちろん」と出水は目を細めて大きく一つ頷いた。 「おばちゃん、コロッケ2個ちょうだい」  店の奥で隅っこに置かれた小さなテレビに目をやっていた総菜屋のおばちゃんは、そこで初めて俺たちに気が付いたように「はいはい」とリズミカルに言ってこちらにやってくる。 「あんたたち、ボーダーの子かい?」  にこにこ笑いかけられて、思わず大きく一つ頷けば、「いつもありがとね。お疲れさま!」とちょっとびっくりするくらい大きな声で言われて、形が崩れたコロッケをもう一つおまけしてくれた。 「わ、ありがとうございまーす!」  すかさず礼を言う出水は要領が良くて、俺も続けて「ありがとうございます」と頭を下げる。やっぱり年上だし、隊長だし、落ちついて聞こえるように意識して。  そのまま出水を見たら、ちょうど目があって思わずふたりで笑ってしまった。おばちゃんに労われたことも、コロッケをおまけしてもらったことも、出水と目があって、それから二人で笑えたことも、出水と二人で共有することが、一つずつ増えていくのが嬉しくておかしい。   「うわ、うまそ」  四つ辻の斜向かいにある小さな公園の、ブランコに腰掛けてビニール袋を広げると、むわっとかぐわしい油の匂いが広がった。 「ほら、落とすなよ」 「太刀川さん、おれのこと相当子どもだと思ってるよね」  拗ねるような台詞なのに、どこかくすぐったそうにするから、そうできるうちは思いっきり甘やかしてやりたくなる。それほど遠くない未来に、甘やかすだけで収まらなくなるだろうけど。  少し離れたブランコの間。コロッケの挟まれた紙包みを、手を伸ばして出水に差し出す。出来立てというわけではなかったけれど、しっかり保温されていたコロッケからは十分熱が伝わってきて、掌は熱かった。  受け取ろうとした出水の指先が袋に触れて、小さく「あつ、」と漏らしたのが、俺の手のことだと一瞬勘違いしそうになった。慌てて手を引こうとして、袋を取り落としかけたのを、出水が立ち上がって、俺の手ごと両手で掴んで事なきを得る。 「あ、ぶなー」  おれに落とすなって言っといて!って抗議されて、全然、年上の威厳なんて無くてちょっと情けないけど、全面的に俺が悪いから「すまん」と素直に謝る。出水は、 「うそうそ、おれも、ちょっとびっくりして、受け取りそこねちゃったから」 すみません、と、俺の手を両手で包んだまま、前髪の触れそうな至近距離で笑った。
 コロッケは魅惑の匂いに違わず、残り物とはいえ衣はさくさく、中はほくほく実にうまかった。コロッケってのは、作るのは面倒なわりに子どもにはさほど喜ばれないので、家庭で作るにはいまいちハードルが高いらしい。所謂「和食」が食卓に上ることが多かったうちでは、余計にコロッケが食事のメニューに取り入れられるのは稀だった。 「コロッケなんて、久しぶりに食べたかも」 「うちも。母さん油使うの嫌がるし、姉ちゃんも揚げ物ヤダっていうから」  母さんと姉ちゃんがそうなったらもう、おれと父さんの意見とかないも同然なんですよね、と出水は大げさに肩をすくめてみせた。 「久しぶりに食べると、こんなうまかったっけってなるよな」 「はい」  話しながら、その合間に出水は少しずつコロッケをかじっていく。コロッケはそれなりにボリュームがあったけど、俺の口なら三口くらいで食べ終えてしまえる。だけど出水の口だと、その三倍くらいかかりそうだった。まだできあがっていない薄い身体と同じように、薄い唇と真珠みたいな小さめの歯の向こうに少しずつコロッケがかじられて消えていく。早々に自分の分を食べ終えたおれはその様子をリスみたいだな、と思いながら見守っていた。  ようやく出水が一つ食べ終わったとこで、おまけにもらったもう一つを半分にして二人でわけた。ちょうどその時、商店街で唯一未だ明かりの点っていた例の総菜屋の明かりが消えて、残されたのはアーケードの上に掲げられている街灯だけになった。そこからも距離のあるこの公園はいっそう暗くなる。その薄暗がりの中で、出水の明るい髪色と白い肌が幽霊みたいに浮き上がって見えた。だけどその、幽霊みたいに色彩の薄い後輩が、俺の手元にあるコロッケの片割れをもぐもぐ小さな口で、機嫌良さそうに頬張っている。その姿にギャップがありすぎて、だけどこういうとこも好きだな、とひそかに思った。そんなことをぼんやり考えながら、自分の分を口に入れる。一口で食べてしまえるサイズだった。
 ようやく出水の試験期間が終わり、日常が戻ったその日の夜。やはりだらだらと居残っていた俺たちは、同じタイミングに本部を出て、俺はやっぱり進歩なく、出水を引き留める算段を頭の中でしていた。同じ手を使うのは、ちょっと芸がないかな、と思いつつ、それでも商店街を抜けるあたりで隣歩く出水を窺うように歩調を緩めるのを止められなかった。今日は昼飯、何食べてたっけ。国近の持ってきたおやつを、どのくらいつまんでた? 気分じゃないとか断られたら、しばらく立ち直れないかもしれない。 「太刀川さん」  そんなふうに頭を悩ませている俺の上着の袖を、出水が控えめに引っ張ってへらりと笑った。その人差し指が指さす先には、商店街の終着点、煌々と光を宿した例の総菜屋。 「お腹、減りません?」 「──減った、減ってる」 「こないだのお礼に、奢るから食ってきましょ」  ああ、ほんとうに、出水ほど俺のことをわかってるやつはいない。
「いいよ、俺上司だし、年上だし」 「いいからいいから、給料出たばっか���し、遠慮しないでください」  浮ついた声で言いながら出水の見ている保温ケースの中には前回よりも多く総菜が残っていた。コロッケに限らず、唐揚げやらメンチカツやらがいくらか残っている。店のおばちゃんに、「この間おまけしてくれたから」と出水は先に父親へのおみやげだと言って唐揚げを包んでもらっている。 「じゃあ、コロッケで」 「え、良いんですか? 遠慮してます?」  それも多少はあったけど、最初にお前と食べたコロッケの味が忘れられないからってのが本当のところだった。だけどそんなことうまく伝えられる気もしなかったから、「前食べたらうまかったからいいんだ」と肝心なところだけ抜いて返した。 「ふーん、じゃおれもそうしよ。すみませーん、それとコロッケ2つ追加で。すぐ食べちゃうからパックじゃなくて紙でね」  出水の言葉に、総菜屋のおばちゃんは「仲良しでいいわね」なんて笑ってた。それから「また来てね」と。出水はそれに「はぁい」と、年上に甘える例のちょっと母音をのばすような発音でそう答えた。そうか、出水的にはまた次があるらしい。それなら今度はもうちょっと気軽に誘えるな、と俺は下心ばかりの頭で考えていた。これで模擬戦以外の手札が増えたぞ、と諏訪さんや風間さんに心の中で勝ち誇る。  それ以来、やっぱり諏訪さんに絶句されるくらい今度は馬鹿みたいに帰り道にその総菜屋に寄りまくった。もちろん、俺にも出水にもそれぞれの付き合いがあり、俺の会議が長引く時もあれば出水が同学年の連中とランク戦をして居残ることもあったから、そう毎日というわけでもない。だけど帰るタイミングが合った時には必ずと言っていいほどそこへ行き、二人でコロッケを頬張った。10回目くらいにあの気の良いおばちゃんが心配そうに他の総菜を薦めてくれた時にはちょっと申し訳なくなった。でもやっぱり、俺は出水と食べるときにはあの時と同じコロッケを食べたかった。
 それは、ちょうど15回目のコロッケを食べた頃だった。  広報用の雑誌に載せるから、とプロフィールの記入用紙が配られたのはもう少し前の記憶で、すっかり忘れ去られていたそれを出水が積み上がった資料の中から発掘してきたのだ。その資料こそ、俺が今苦しめられているレポートに使われるはずのもので、ちなみに集めるだけで満足して放置していたせいでまだほとんど目を通し切れていない。 「太刀川さん、これまだ提出してなかったんですか」  資料の整理を手伝ってくれていた出水が人差し指と親指でつまみ上げたアンケート用紙をヒラリと揺らす。 「バッカお前、今それどころじゃないだろ、明らかに」 「いやー、でもこれ今日締切ですけど」 「見なかったことにしろ」 「うわ、さすが隊長、模範解答」  出水の皮肉に応じる時間も惜しいほど、今はせっぱ詰まっている。特に考える必要もないくらい簡単なアンケートだが、だからこそ余計に意識を割くのがもったいない。その上締切を延ばしてくれとも言いにくい。  完全にキャパシティをオーバーしている自隊の隊長を後目に、出水は申し訳程度の資料の整理も終えて暇そうにソファに横たわっていた。他人事の顔で眠そうにこちらを眺めている。この様子じゃ自分の分はとっくに提出しているらしい。 「ああ、じゃあお前書いといてくれよ」 「えええ、無理でしょ」  単なる思いつきだが、それはなかなか良いアイデアに思えた。 「いや、いける。お前、俺のことならだいたい知ってるだろ」 「そりゃまあ、それなりに?」 「最後にチェックはするから。それで、もし間違いなかったらなんか奢ってやるよ」  お前が俺のことどれだけわかってるか、テスト。  一足先に学期末のテストを終わらせた高校生への恨みも込もっていたのだけど、その部分は通じなかったらしい。「奢る」の一語を聞いて出水は途端に目を輝かせた。 「マジすか。やります」  この変わり身の早さはいっそ気持ちがいい。勢いよく身を起こして用紙に向き合った出水は、時々悩むように首をひねりながら、それでも少しずつ空欄を埋めていった。  あの公園で、互いの話をさんざんした。他愛のない話ばかりだったから、「知ってるだろ」なんて嘯いておいて本当はどれだけ出水の記憶にとどまってるか定かじゃない。それでも、今出水が俺のことを思い出そうと思って、あの公園での時間を思い返してくれているなら、それはそれで嬉しかった。  レポートも徐々にだけど進んで、完成にはほど遠いものの見通しがつき始めた頃、「できました!」と高らかな宣言が上がった。  差し出されて目を通した記入用紙にはやや右上がりで角張った出水の筆跡で、見慣れた俺のプロフィールが書かれていた。  出水の字で「太刀川」って書かれてるのが、なんか良い。  内容とは関係ない部分に浮かれつつ、「好きなもの」の欄に目が止まる。 「うん?」 「違うとこ、ありました?」 「いや、お前この『コロッケ』って」 「え? 太刀川さん、好きでしょ」  あれだけ美味そうに食べてるんだから。  何を当たり前のことを、とでも言うように首を傾げた出水の髪がふわりと揺れる。 「うーん、ちょっと違うような違わないような」 「何それ」 「いや、好きじゃないわけじゃないんだけど」 「おれも『コロッケ』って書きましたよ。だからいいでしょ」 「何が『だから』なのか全くわからん。……でもまあ、良いよ。お前がそう言うなら」  そうか、お前も好物コロッケにしたのか。同じ物が好きって、しかもそれが公表されるってちょっと良いんじゃないかと頭の沸いたようなことが過ぎってしまった。諏訪さんたちに知られたら「小学生か!」とそれこそ詰られそうな甘酸っぱいことが。 「じゃあ、せいかい?」 「正解正解」  95点くらい。付け加えると、「何だよそれ!」と不服の声が上がる。  本当は、その項目に「出水公平」と冗談でも書いてくれれば満点をやってついでに花丸もつけて、いくら奢ってやったって良いくらいだったけど。それにはまだ少し言葉が足りない。15回コロッケを一緒に食べたって、それで伝わるほど甘くはないと知っている。  でも、出水が自分の好きなものに「コロッケ」と書いた理由の中に、俺と同じ気持ちが少しでもあるなら、16回目には伝えても良いかもしれない。  俺別に、コロッケが特別好きだったわけじゃないんだよ。普段わざわざ買って食べたりしないし。あの時食べたのだって半年ぶりくらいのレベル。それでも好物だってお前が思うくらい美味そうに見えたんだとしたら、別に理由があるんだよ。なあ、なんでかわかる?
*  *  *
 高校生は今日もやかましい。  食堂でうどんを食っている俺の背後から、耳に馴染んだ声が聞こえた。  「今日の1限の化学でさぁ、」なんて俺にはわからない学校生活の話をするのは確かに出水の声だった。どうやら俺には気がついていないようで、連れ立ってきた米屋たちとともに俺のいるテーブルから少し離れた席にガタガタと腰を下ろす音が聞こえた。ランク戦に夢中になって昼飯を逃した俺はともかく、昼食にも夕食にも半端な時間だ、任務前の腹ごしらえだろう。トレーをテーブルに置く音じゃなくて購買で買ったらしき物をビニール袋から取り出すガサガサという音が耳に入ってきた。  声をかけても良かったが、どうせこの後任務でも会うし高校生の会話に割って入るほどの用事もない。何より、太刀川隊にいる時の出水と高校生組で連んでいる時の出水には微妙な違いがあって、自分の前ではあまり見せない気軽さとか粗暴さとか、傍若無人さとか、そんなものを遠くから眺めるのが、俺はひそかに好きだった。 「ーーだから言ったじゃん、ぜってぇ無理だって」 「やーイケると思ったんだけどなぁ」  なんてだらだら続ける会話の合間にパッケージをあけて「あ、これ新作じゃん」なんて物色する声も聞こえる。興味が次から次へ移り変わって、肝心の会話の内容もおざなりになって取り留めがない。聞いてて飽きない。 「あ、アイス。いつの間に入れたんだよ。ずりぃ」 「ずるくねぇよ、お前も買えば良かったじゃん」 「あのコンビニ寒すぎて、アイスって気分にならなかったんだよな」 「そだっけ?」 「お前と違ってセンサイなの、おれは。年中半袖野郎にはわかんねーよ。でも、人が食べてんの見ると食いたくなるよな」 「こっち見んな、寄んな」 「ケチ」 「お前の一口でけぇんだもん」 「は、そんなことねぇよ」 「佐鳥いっつも泣いてんじゃん」 「人聞き悪いこと言うな」 「いや、マジで一気に半分くらい無くなんじゃん」 「そだっけ?」 「自覚ないの、タチわりぃ」 「うっせ。良いからよこせ」    一連の会話を聞くともなしに聞いていて、あれ? と思う。  俺自身が出水にねだられたことは無いが、出水の一口が大きいイメージは無かった。聞いてて、へぇそうなのか、なんて暢気に思っていたけど、ふと浮かんだ光景にぶわっと違和感が広がる。あいつはいっつもあの小さい口で、ちまちまとコロッケを啄んでいた。俺だったら三口で食べ終わってしまうようなサイズのそれを、時間をかけて、少しずつ。とっくに食べ終わった俺はいつもそれを眺めて待っていて、その分だけ一緒にいる時間が増えた。そう思っていたのに。  座る椅子がガタンと派手な音を立てるくらい、勢いよく振り返る。こちらを向いていた米屋の「あ、太刀川さん、ちっす」、なんて挨拶を意識の端っこで聞いて、だけどそのほとんどはただ一人、こちらを背にして座る、見慣れたふわふわの頭に向けられていた。そのふわふわ頭が、米屋の挨拶につられるようにこちらを振り向く。 「あれ、太刀川さん、そんなとこにいたの」  そんなふうにこっちの動揺なんて気がつきもしない出水も、さすがにこの沈黙と俺の視線を怪訝に思ったのか、自分たちの会話を反芻するように目線を上にあげ。そして「あ、」となんとも間抜けな声を漏らした。 「あは、バレちゃいました?」  悪戯が暴かれた子どもみたいに無邪気に笑う、三つ年下の高校生に問いつめたい。  お前の何が「バレた」って言うの。お前のその「ふり」の話? それともその先にある気持ちの話? 正直言って結局俺は何の確信も、まだできてない。言葉にしないと伝わらないって、自分でも反省したばっかりだ。だからはっきり言ってくれ。  何しろ恋愛初心者で、恋の駆け引きも手管も、何もわかっちゃいないんだから。  
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itose01 · 7 years ago
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ひみつのはなぞの4
【告白】  どこもかしこも真っ白な病室に色素の薄い出水がいる光景は暴力的な眩しさで目を刺して、太刀川は思わずひとつ、瞬きをした。 「災難だったな」  太刀川が来る前から目を覚ましていたらしい出水は、太刀川が扉を開けた瞬間からその薄い瞼を気怠そうに持ち上げていた。「たちかわさん」と出したつもりらしい声は喉に引っかかって奇妙に歪んで、語尾だけがやっと人の言葉の体を為���ていた。  出水は軽く咳払いをしてから「太刀川さん」と言い直して「すみません」と謝った。囁くような声だった。  実際のところ、太刀川が出水に謝られる筋合いはない。  出水が性質の悪い人間を惹きつけるのは身を持って知っていた。彼の父親から始まり、事件で出張に行く先々でおかしな人間をひっかけてくるものだから、現場で最初に出水に話しかけてくる奴が犯人なんじゃないか、なんてジョークまで飛び交う始末だ。  実際そんな例も数件あったものだから笑えない。逮捕後の殺人鬼になぜか気に入られて、刑務所に接見しにくるよう求められた、なんて話も聞いた。  しかし、これまでそう大きな実害はなかったから、正直なところ誰もが油断していたのだ。よりにもよって犯人が捜査に来た警察の人間である出水をターゲットに選ぶなんて、そんなこと誰も想像していなかった。秩序型で、殺し方どころかターゲットの選定の仕方まで慎重で一筋の乱れもない。神経質で偏執的。そういうプロファイリングだった。もちろん出水の行動に過失があったわけでもない。むしろ出会い頭に一発大腿部に撃ち込まれ、その後拷問紛いの暴力を受けてもなお犯人と交渉し救助が来るまでの時間稼ぎをしてのけた、その精神力は褒めてしかるべきだろう。   「お前は、悪くないだろ。……けど、あんまり心配させんなよ、心臓に悪い」  頬に貼られたガーゼや身体のあちこちを覆う包帯から目をそらして言う。救助が到着するまでの間、もともと傷一つなかった出水の身体は、犯人の執着の受け皿となってほとんど無事な部分が残らないほどに傷つけられていた。幸い長く痛ぶることを目的にしたようで、その傷の一つひとつはそう深いものではなかったらしい。完全に消えるには時間がかかるとしても、跡はほとんど残らないだろうと担当した医師が言っていた。  警察の突入を受けて、それでもなお余韻に浸るように浮かべられていた犯人の愉悦の表情を思い出し、太刀川は眉を寄せる。しかしそんな太刀川の不快な感情とは裏腹に、出水はほとんど吐息だけで笑った。 「うそつき」 「あぁ?」  唐突な誹りに太刀川は思わずそらしていた視線を戻す。仰向けにぼんやりと天井を見ていたはずの出水が、いつの間にかはっきりとこちらに顔を向けていた。くしゃりと乱れた金糸の髪が、ベッドサイドの窓から差し込む入り日に透けるように光っていた。天使みたいだな、と太刀川は場違いに思う。間違えてこんなところに落ちてきてしまったから、こんな目に遭っている可哀想な天使の子ども。  けれど彼の爛々と光るその琥珀の瞳を見て、そんな夢見がちな思考は瞬時に吹き飛んだ。 「突入してきた時さ、みんながおれを心配して焦った顔してる中、太刀川さんだけが違ったよね」  あの風間さんでさえそうだったのに、太刀川さんだけ。  その声に糾弾の色はなかった。それどころか幼子の悪戯を暴く母親の、慈しむような響きさえあった。しかし、太刀川にとってはむしろそれが恐ろしい。出水の喉の奥から聞こえるくぐもった笑い声が、これから始まる断罪の幕開けのように聞こえた。  なにが天使だ。  最初から自分だけはわかっていたはずだった。出水の、無垢と同居する悪魔の性質を。意識無意識に関わらず、人を地獄の道行きに誘う。出水公平とは、そういう生き物だった。 「……何が言いたいかよくわかんねぇな」  髭を撫でながら緩い笑みを張り付ける。白々しいと、我ながら思う。出水の言いたいことなんて、自分が一番よくわかっていた。 「子どもみたいな顔してたよ。じぃっと、純粋に興味があるって顔で。擦過傷も刺傷も、銃創だって見慣れてるくせにさ」 「……」 「それで、おれが死にそうになってるとこ見て、ちょっと興奮したでしょ」 「何言ってんだ」  反射的に返したものの、それは決して否定にはならなかった。ただ、わけがわからなかった。それが謂われの無い言葉だったからではない。むしろそれ自体は太刀川には否定しようのない事実で、太刀川にとっては既に自覚した性質だった。  太刀川は確かに出水の痛めつけられた姿に微かな性的興奮を覚え、これを施したのが自分ではない事にほの暗い落胆を覚えていた。けれど、自覚していたからこそ、決してそれを悟らせるような真似しなかったのに。なぜ出水はそれを知っている? 「抉ってみたくなりません?これ」  出水の下半身を覆っていた真っ白な上掛けが、出水自身の手によってずるりと取り払われ、これもまた真新しい包帯の巻かれた細い大腿が露わになる。それから、僅かに伸びたつやつやとした出水の綺麗な爪が、ある一カ所に柔くたてられた。見せつけるように、やけにゆっくりと。  瞬間的に、その場所から確かに溢れていた鈍った赤色を思い出す。薄暗い倉庫の片隅で、太刀川の手に持ったライトに照らし出された出水の姿。ぐったりとうなだれ、縛られ無理矢理に吊された腕だけが奇妙に歪んでいた。そうして投げ出された出水の脚。そこから流れ、床を染めるその色は既に乾きつつあり、鮮やかさを失っていた。  今、甘い誘惑を投げかける出水の指先は微細な震えを伴って徐々にその真白い包帯に沈んでいく。  痛みに耐えるように寄せられた眉に、自身の喉が確かに鳴るのを太刀川は自覚していた。自覚してなお、目を逸らせない。  出水が逸らさないからだ。苦悶に震える身体とは裏腹に、太刀川に向けられた目は力強く、確かに正気の人間のそれだった。だからなおのこと太刀川にはその目が恐ろしい。少しでも狂気をはらんでいたならば、それは太刀川の範疇だったのに。  太刀川には目の前にいる後輩のことが何一つ理解できなかった。  寄せられた眉と、細められた瞼の向こうで爛々と光る琥珀の瞳と、それでも笑みを作るその口唇の不調和が、けれど奇妙に美しい。太刀川に解るのはそれだけだった。  それを瞼の裏に刻み込むように一度ぎゅっと目を閉じる。そうして次に目を開いた時には幾分か冷静さを取り戻していた。出水のことなど理解できない。それならそれで良かった。そもそもの初めから、自分たちは違う生き物だった。 「ならねぇよ」  浅く息を吸ってからそう吐き出して、なお自傷を続けようとするその手を掴みあげる。「あ、」と残念そうに声を漏らして、けれど存外あっさりと出水は力を抜いた。ハープでも奏でるように、綺麗に揃った貝殻のような爪をひらひらと揺らし、なんで、と不満そうに口を尖らせる。透けるように純粋な疑問の声だった。 「おれは、太刀川さんにだったら何されてもいいのに」  何もわかっていないであろう幼げな口調に、腹の底が熱くなるような感覚がわき起こる。自分の中の獣をなんとか宥めて賺せて、そうして今の平和な生活を手に入れているというのに。どうしてこんな風に刺激するんだろう。どうして、穏やかな人間のままでいさせてくれないのか。 「俺はしたくない」 「ほんとに?」 「本当だよ」 「でも、おれのこと好きですよね?」  よくもそんなふうに、さも当然のように言える。でも、決して間違いではないから、愛情を得ようとする「子ども」の勘の鋭さに感心する。幾分かは彼の願望も入っているかもしれないが、それならなおのこと、その幼い願望を無意味に挫く気にはなれなかった。だから、深い溜息と一緒に「ああ、好きだよ」と白旗を揚げる。 「天才肌に見せて努力家なとこも変なとこでマジメで素直なとこも、それから、愛情に一途なとこも」  日頃から出水を見ていて思っていることをここぞとばかりに打ち明ければ、先ほどの確信に満ちた余裕の表情が見る見る崩れて真っ赤に染まる。愛されたがりのくせに幼い時に愛情を取り上げられたかつての子どもがそこにいた。周囲に謂われのない敵意を向けられて、自分を守るために大人にならざるを得なかった彼の少年時代を思う。けれどこうして彼を喜ばせるだけで終わらせられないのが太刀川の罪だった。  相変わらず病室は、一点の汚れも排除するように真っ白で、そこから太刀川は完全に阻害されていた。どうしたってこの神経質なまでの白さには耐えられるような気がしない。赤が見たかった。あの薄汚れた倉庫で見たような、乾ききった汚い赤ではなくて、鮮烈な赤い色を。それは出水の白い肌にさぞ映えることだろう。靄のかかりかけた思考の片隅でそんなことを思った。 「……それから、お前の言うとおり、お前が傷ついてるとこも、痛がってるとこも。お前から流れる血の色が見たいし、酷く惨く犯してやりたい。お前が苦痛にもだえてゆっくり死ぬとこを、じっと横で眺めていたいくらいに好きだよ」  既に出水には察せられた性質だったけれど、自分で口に出してその嫌悪感と同時に湧き上がる陶酔に気持ちが悪くなる。 「ーー俺の好きはそういう好きだけど、お前解ってる?」  僅かな表情の変化も見逃さないように、瞬き一つできずに出水を見つめながら言った。愛情を賭けた取引のつもりで安易に自分の性質をつついたのならば、ここで退いてほしかった。そうしたら、明日から自分たちはただの先輩と後輩に戻れる。他人の性質に深入りしない、お行儀の良い他人の関係。それが太刀川には心地の良い関係だった。好きだと思うから離れていてほしい。いつか、まともな愛情を注いでくれる相手に出会って子どもの頃に失ったたくさんのものを取り戻して欲しかった。太刀川の知らない、どこか遠くで。そうでないと自分は頭の中で相手を100通りの方法で殺しているだろうから。  けれど、出水の反応は太刀川の考えていたものとはまるで違った。 「うん、嬉しい」  それだけ言って滴るような甘い笑みを浮かべるのだ。  病室に入った時には血の気の失われて人形のようだったその顔色は、今では蕾の開いたばかりの薔薇のようにうっすらと上気している。演技だとはとても思えない。  脅すつもりでいた太刀川の方が後込みして、「はぁ? なんでだよ」と思わず問えば、出水は「なんでって……」と、そもそも問いの意味が解らないとばかりに枕の上で器用に小首を傾げた。 「太刀川さんのことが好きなんです。……太刀川さんは、おれの存在も、気持ちも否定しないでくれるでしょ」  聞いて、以前出水とした会話を思い出す。父親を慕う自分を押し殺していた出水を、それでも良いと言ったのは確かに太刀川自身だった。  けれど、それは出水に優しくしたかったわけではない。自分も許されると思いたかっただけだ。出水の父親のように、いつか衝動を抑えられなかったとき、出水には許されると思いたかった。 「俺は、そんなに優しい人間じゃねぇよ」 「太刀川さんは優しいよ。自分ではそう思ってないかもしれないけど。でもそれだけじゃなくって、太刀川さん、さっき言ったみたいにおれのこと欲しがってくれるでしょ。ずっと知ってたよ。そういう眼でずっと見てた」  そこが好き。  気持ちの良い場所を撫でられた子猫が喉を鳴らすように出水は言った。 「太刀川さんがおれのことそのままで良いって言ってくれるから、おれも。そのままの太刀川さんがいいよ。傷つけたかったら傷つけて良いし、おれになら、いくらだってひどいことしていいよ。おれが死ぬときは、側でじっと見ててくれたら嬉しい」  急に喋りすぎたせいか、出水は軽くせき込んで、そうして涙目のままでもう一度太刀川の方を見た。 「この傷だって、好きに抉ってくれて良いんだ」  好きにしていいよ、と投げ出されたその身体に、これまで必死で保ってきたものが瓦解していくような気がした。彼の求めているものは、太刀川のなりたい自分ではなかった。けれどそれでも、出水公平は自分を許してくれるのだという事実に太刀川が救われたのも確かだった。その手をとった時、自分がどんな自分になるかわからない。けれどそれでも良いと言う彼を、手放したら自分はきっといつか後悔するだろう。  だから太刀川は恭順する覚悟で身を屈め、真っ白な包帯越しにその傷跡へと唇を落とす。拍子抜けしたような顔をする出水に苦々しい気持ちになりながら。 「それならこれは早く治せよ」  言って、今度は額に張り付けられたガーゼに軽く口づける。消毒液の匂いが一層強く鼻をついた。あれだけ触れることが怖かったのに、一度許されてしまえばもう際限なく触れていたくなる。 「なんで?」  長い睫を瞬かせるのが可愛くて目元にも唇を寄せれば、擽ったそうに顔を振った。咎めるつもりで親指で頬を撫でる。そこにも真新しいガーゼが貼られていた。あちこち傷つけられた出水に、太刀川が触れられる素肌なんてほとんど残されていない。 「俺がつけた傷じゃない」   当然の事のように言う太刀川に、出水はもう一度大きくぱちりと瞬きして、それから、りょーかい、とやけに甘い声で応えた。  こんなふうに救われたような気持ちにしてくれるなら、悪魔の誘う地獄の道行きもそう悪くない。そう思わせる声音だった。
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itose01 · 7 years ago
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出水と小南と、恋の話。
 ぱっと赤い折り畳み傘が開く。そのとき出水は初めて、目の前のすっと伸びた背筋が馴染みの女子高生のものだと気がついた。  出水の知っている彼女は綺麗に切りそろえられたボブカットと鮮やかな黄緑の戦闘服だったから、見慣れないロングヘアと清楚な制服に惑わされた。出水の学校と同じく衣更えを終えたばかりなんだろう、目に痛いほどに白いセーラー服がその薄い背中を覆っている。ひょろいひょろいと同級生からからかわれる出水だが、こういう時はやはり自分が男で、「女の子」という生き物とは全然違うのだと思い知る。 「こーなみ」  同い年の気安さで駆け寄って、「持ってやるよ」と赤い傘の柄に手を添えれば小南は「出水?」と怪訝そうにこちらを見上げてきた。 「入れてほしいなら入れてほしいって言いなさいよ」  はぁ、とわざとらしくため息をつきながら、それでも返事を聞く前に、ぎゅっと柄を握っていた細い指の力を抜くのだから、小南はやさしい。 「入れてください、小南さま」 「しょうがないわね!」  ふふん、と偉そうに鼻で笑う小南に、一つ下の後輩の「小南先輩はちょろい」という評を思い出す。バカにしているようでいて、本当はあれで心配しているのだから可愛い後輩だ。  久しぶりに本部へ来る用事のこと、互いの授業の進度やもうすぐ始まる期末テストのこと、最近やったランキング戦の話。そんなどうでもいいとりとめのない話をする。  傘の中に入って光を透けて見るとうっすら縞模様の見える赤い傘は小南のお気に入りなんだろう。大事に使われているようだった。いつも畳むのを忘れて玄関に放置するせいで、皺だらけになってしまった自分の折り畳み傘とは大違いだ。心なしか雨粒を弾く音も可愛らしく響く気がする。  そんなことを考える程度に差し挟まれた沈黙に、意味があるとは思わなかった。  後から思えば、それは小南のためらいだったのかもしれない。 「……太刀川と付き合いはじめたんだってね」  平坦なようでいて、怒っているようにも、拗ねているようにも、笑っているようにも聞こえる、ひどく複雑な声だった。 「なんで知ってんの」 「……そんなのみんな知ってるわよ」  あ、これは怒ってる。わかりやすい声音に少しほっとして、いやいや、とようやく話が飲み込めてくる。 「え、マジでみんな知ってんの? なんで?」 「なんでも」  特に示し合わせて隠そうとしているわけでもないが、それでもそうあからさまにしたつもりもない。それ以前に話が早すぎる。太刀川に好きだと告げられ、出水がそれに躊躇いながらも頷いたのは、つい先週のことだった。それから特に恋人らしい何かをしたわけでもないのに。 「玉狛まで?」 「うちの情報網なめないでよね」  本部の入り口まであと少しというところで小南の歩調が緩やかになる。家主を失った家の庭先では、大きな紫陽花の花が雨に降られて艶やかな色を増していた。それを眺めているような顔をして、たぶん、小南は全然違うことを考えている。 「つきあってるっていうか、まぁ」  手放しに認めるのも何か違う気がして、目を泳がせれば、「なにそれ、じゃあつきあってないの?」と下から睨みあげられて、どうして自分が責められてるみたいになってるんだろうと思いながら、「つきあってる、つきあってます」と結局肯定するはめになった。自分でさえまだ実感もわかないのに。こうして、「太刀川と付き合ってる」と先週から今までで、初めて口に出した。口に出してみて、ようやく実感が伴う。今更ながら恥ずかしくなって空いた片手で顔半分を覆えば、「何照れてんのよ」と呆れたように言われた。小南はいつも同学年の自分たち(主に米屋と出水だけだが)に怒っているか呆れるかしている。 「……あたし、太刀川は死なないんだと思ってたの」 「はぁ?」  自分にとって重大な告白を簡単に横に置かれたための「はぁ?」だったのだが、小南は自分が馬鹿にされたと感じたらしい。「大昔よ、大昔!」とまくしたてて、それからまた急に静かになる。 「……だって、あいつ、馬鹿だし、何言っても気にしないし、鈍感だし、だけど変なとこで察しはいいし……簡単には死なないでしょ、そういう人間って。……それに、まぁまぁ強かったのよね、会った時から。もちろん、あたしの次にだけど!」  出水の知らない頃の、太刀川の話だった。  でも出水は太刀川と会った時から、太刀川は死なないかもしれないなんて、欠片も思ったことはなかった。 「そりゃ太刀川さんは強いけど、それでも太刀川さんだって死ぬよ」  いつかは、どこかで。  出水はいつだってその可能性について考えていた。  近界で見る、太刀川の広い背中を思い出す。一人で立つことだってできるのに、一人で立つことを選ばなかった、その背中。  自分はそれを見ることを許されている。だから。 「そう簡単には、おれが殺させないけど。おれはそのためにいるんだと思ってるし」  そんなことは出水にとってはずっと当然のことだったけれど、そういえば口に出して言ってみたことはなかったと気がついた。 「おれは太刀川さんの強いとこが好きだけどさ、でもまぁ、別にそうじゃなくてもたぶんいいんだ。側にいてくれて、いさせてくれれば、それでいっかって」  口に出してみて、どうにも座りが悪くて赤い傘の骨を軽くひっぱって誤魔化してみる。そうして勢いをつけて放せば、ピシャンと音を立てて水滴が散った。足下の水たまりに不規則な波紋が増える。  小南はそれを眺めながら、「そ」と素っ気なく応える。それからだいぶ経ってから、「いいんじゃないの」と付け加えた。 「傘、返して」  藪から棒に発せられた要求を理解する前にそれを取り上げられて、パラパラと雨粒をまき散らしながら赤がくるりと頭上で舞った。 「あたし急いでるんだった。先に行ってるわね」  そう当然のように言い放って彼女は水たまりに勢いよく足をつっこんで先を歩き始める。その足下を、傘と揃いの、小南にしては大人びた雰囲気のレインブーツが鮮やかに彩っている。知らず立ち止まっていた出水は巻き添えをくらって取り残された。  「死なないんだと思ってた」という小南の言葉は、出水には「好きだった」と聞こえた。それはもちろん、宣戦布告でも懺悔でもなく、言ってみれば思い出話のようなものかもしれない。深読みするなら、現在進行形でしている新しい恋への自戒だったのかもしれない。  赤い傘に半分ほど覆われた白い背中は、やけに小さく見えた。けれど、彼女らしく、しゃんと背筋を伸ばしてまっすぐに歩いていく。  出水はその背中を見送りながら、自分の始まったばかりの恋がようやく身体に満ちていく、そんな気がしていた。 * * *    ふっと視界が陰る。代わりに自分を濡らしていた雨の感触が無くなったことにも気がつく。 「こんなとこで何やってんだ」  傘もささずに、という聞き慣れた声を見上げれば、愛用の濃紺の傘を背景にした不思議そうな顔がすぐ後ろにあった。 「今の、小南だろ。置いてかれたのか」  小南はきっと太刀川が来たことに気がついていたんだろう。雨の中、出水を取り残すほど非道でもない。 「何話してたんだ? あんまからかってやるなよ」  まぁ、どうせすぐ忘れるんだけどな、と笑う声には古馴染みの気安さが含まれていた。 「えー、コイバナ?」  正しく、二人のしていたのは恋の話だった。これから始まろうとしている、或いは始まることのなかった恋の話。 「……お前の? 小南の?」  出水の悪戯めいた答えを聞いて、太刀川はとたんに微妙な表情になる。 「ないしょです」 「あっそ」  渋面を作りながらも深入りしない方が無難だと思ったのだろう。太刀川にしては賢明な判断だった。  話をそらすように「濡れちまったなぁ」とつぶやいて、出水のこめかみに伝っていた水滴を人差し指の背で撫でるように拭う。  その熱さに促されるように目を閉じると、次いで、柔らかく唇に同じ熱さの熱が触れる。初めて知る温度だった。  そうしてまたそれが離れてゆくのを感じながら目を開ければ、少し気まずそうに目をそらした太刀川がそこにいた。「あー、だめだったか?」と聞く様は、普段の強者然とした態度とはほど遠い。  けれど、出水にはそれで良かった。側にいてくれて、いさせてくれて、そうしてこうやって触れてくれれば、それでいい。そういうものが欲しかった。  満たされる気持ちのままに「すきです」と声に出してみれば、太刀川は僅かに目を見開いて、それからとても嬉しそうに笑った。
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itose01 · 7 years ago
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召しませ、幸い
調理実習した出水くんと、忍田さんと太刀川さんの話 大1×高1
1  なんというか、不幸な偶然が重なった。  その日の調理実習は体育の後で、たまたま体育の授業が長引いたせいで調理の開始も遅れ。その上もともと任務で早退する予定だったせいで、せっかく作った魚の照り焼きを実食する時間がなくなってしまったのだ。  まあ、ボーダーに所属する高校生にと��ては、これくらいの不幸は稀によくあることだった。  「残念ねぇ」と人の良い家庭科の先生が眉を下げるほど、出水にとっては残念なことでもない。丁寧にタッパーに詰められたそれを受け取って、隣のクラスの米屋に渡しに行く暇はないな、と一瞬で計算して「あとで食べます」と笑っておいた。  我ながら上手くできたと思ったのだ。ふっくらとできあがった鰆の身はたれで黄金色に輝いていて、白米とともに食べればぎゅっとその内に凝縮された旨味がじゅわりと口内に広がるだろう。併せて焼いたれんこんとししとうも美味しそうに添えられている。  たしかに、残念というか、もったいなくはある。そもそも調理実習っていうのは作り上げるまでのあれこれと、クラスメイトたちとわいわいやりながら出来立てを食べるのが楽しいのだ。数時間の任務をこなしたあとでだ、一人もそもそとこれを食べる自分の姿を想像して、なんだかひどくむなしくなった。  せっかくだから、一番美味しそうな時に食べてもらいたい。誰か、もらってくれそうな人いないかなぁ、と大事に両手にタッパーを抱えたまま本部を歩く。  いつもなら一も二もなく太刀川の顔が思い浮かぶはずだが、出水が任務ならば当然太刀川も任務である。それでは譲る意味もない。  平日の昼間、ということもあって隊員と学生という二足の草鞋を履く顔見知りたちはほとんど見かけられない。任務が入っていないのであれば、学生らしく昼休みを楽しんでいる時間帯だ。  自分たちと入れ違いで任務が終わるのは加古隊だったか。とてもじゃないがタッパーに入った魚なんてあげられる気がしない。  そうして、まぁ家に帰って温めなおせばいいか、と思考を諦めようとした、ちょうどその時。 「何か悩み事でも?」 「忍田本部長!」  いつの間にか視線が下に下がってタッパーの青く透明なふたをぼんやり眺めていた。だから、自隊の隊長の師匠であり、自分の上司でもある忍田本部長が目前まで迫ってきていることに気がつかなかったのだ。困ったように、ほとんどぶつかるかという所で声をかけられてその難は逃れたが、危ないところだった。  自分から避けてそのまま通り過ぎるのではなく、声をかけてくれるのは、この人の優しさだな、と思う。 「、すみません……!」 「随分真剣にそれを眺めていたようだが……弁当か?」 「あああ、いや、違うんです! 今日調理実習で、その、食べてる暇がなかったから、どうしようかなって」 「『調理実習』……懐かしい響きだな。高校生でもあるのか。これは……鰆か?」 「はい、照り焼きです。なかなか良い出来だったんで誰か貰ってくれる人いないかなぁ、と思って。おれ今から任務だし、今食べた方がおいしいと思うんですよね。」  なんてこと考えてたらぼーっとしちゃってました、と出水が自分の過失を誤魔化すように笑えば、ふむ、と忍田は少し思案するようにじっとタッパーの透明な蓋を見つめる。  その横顔を見て「あ、」と思う。思って、いやいやそれは流石に、とその考えを打ち消そうとしたその瞬間、伏せていた視線をあげた忍田と眼があった。  そうして、眼が合った瞬間、同じことを考えていると理解した。わずかに開きかけた相手の唇に急かされるように出水も声をあげる。 「良かったら!」「もし良ければ、」  競争のように発せられた一声もほとんど同じ内容で、閃くような沈黙のあと、やはり同時に二人して破顔した。 「もらってくれませんか?」「いただいてもいいかな?」  そうして、またもや重なった言葉に、出水はとうとう声をあげて笑った。 「もちろん。結構自信あるんですよ」 「ありがたいよ、男の一人暮らしだと、こういうものを食べる機会も少なくてね」  出水は安物のタッパーを恭しく捧げ、忍田が丁寧にそれを両手でそっとそれを受け取り出水がしていたように大切そうに抱える。そうして足取り軽く互いに逆方面に歩きだし、二人の僅かな邂逅は終わりを告げた。  その数分後、かの忍田本部長が本部の食堂で、ご飯と味噌汁と漬け物だけを単品で注文し、彼に似合わないプラスチックのタッパーをその中心に据えて食事をする光景が多くの職員に目撃されることとなる。 * * * 2 「由々しき事態よ、太刀川くん」 「ゆゆし、……なんだって?」 「大変ってことよ! 大事件!」  沢村が、自身の作戦室で寛いでいた太刀川のもとに勢いよくやってきたのは、忍田が食堂で誰かの手作りらしき主菜をやけにじっくり味わうように食べていたらしい、という噂が駆けめぐった、その翌日のことだった。 「じゃあやっぱり沢村さんじゃなかったんだ」  基本的には鈍感で、けれど妙な所で察しの良さを発揮する攻撃手の後輩に反論する言葉もなく、沢村はぐっと息を詰める。 「どうせ、ろくな女じゃないと思うのよ。だってそんな、忍田さんにあげるのにタッパーだなんて。お弁当箱だってろくに持ってないってことでしょう。そもそも主菜だけってどうなのよ」 「沢村さんもあげればいいじゃん」 「それっ、は、まだちょっと早いっていうか……」  沢村が、東を実験台に絶賛花嫁修行中だということを知っている。その結果沢村の料理の腕より東のそれの方がよっぽど上達した、という話も伝え聞いている。まだまだ先は長そうだな、とぼんやり思う。  忍田の食べたタッパーの中身も、それを作った相手の話も、沢村の恋の行方も、正直それほど興味はなかった。知り合った頃から、恋人の影を自分に見せたこともない(もしかしたらいたかもしれないけれど)仕事第一の忍田の恋人、というのはあまりに現実味がなかったし、忍田がもし恋人に選んだのであれば、そうそうおかしな相手じゃないだろう。  ただ一つ太刀川が気にすべきことがあるとすれば、その恋人の登場によって忍田が自分の相手をしてくれる機会が減るかもしれない、というそれだけだった。 「太刀川くん、あなたの考えてること手に取るようにわかるわ。どうせ忍田さんと戦えればそれでいいんでしょ」  よくわかったな、と驚いた顔をすれば、ぼすん、と手慰みに抱えられていたクッションを投げつけられた。 「あなたに聞いてもらおうと思ったのが間違いだった」  大した情報も持ってなさそうだし、と諦めたように言い捨てて、来たときと同じように嵐のように帰って行った女に緩く手を振って見送る。  別に応援していないわけではないのだ。彼女が現役攻撃手だった時から、その恋を見ている。恋する相手がいることで感じる焦りや悩みだってあの頃に比べたら多少はわかるようになったつもりだ。  太刀川が大学に、相手が高校に入学してようやく一歩踏み出すことができた、自分の恋を思い浮かべる。  そういえば、手料理とか、作ってもらったことも作ってやったこともない。自分はもちろん、出水も料理なんてできそうにないなぁ、と苦笑し、でも少し憧れる気持ちがないわけではない。  そんなことをつらつら考えながら、広げていた雑誌を特に意味もなくめくって時間をつぶす。今日は高校生組が清く正しく放課後まで学校に拘束されているので、全員揃うまでもう少し時間があった。  すると、隊室の扉が再び開く音がした。今日はやけに来客が多い。 「邪魔するぞ」  聞き慣れた声。噂の渦中の人物である。  瞬時に最近何か(本部長が直々に訪ねてくるような「何か」)したっけ、と思い浮かべ、少なくとも自覚のある範囲では何もしていないという甚だ脆い確信をもってから、「どうぞー」と中へ招き入れる。  片手に小さな紙袋を持った忍田は軽く隊室を見回して「出水はいないか」と彼にしてはひどく珍しい名を口に出した。 「出水に用事? めずらしいね」  太刀川との会話の流れで話題に出すことは多くあったが、忍田自身が出水を目的に隊室に来るのは初めてだった。  少なくとも自分が何かしでかしたわけではなさそうだと、ほっと安堵の一息。 「ああ、これを返そうと思ってな」  そう言って、渡しておいてくれと太刀川に紙袋を手渡す。 「何これ、」  そう何気なく開いた紙袋の中で、きれいに洗われたタッパーがちょこんと収まっているのを見て、鈍いようでやはり察しの良い太刀川はすぐにそれが何であるか理解した。けれど、そこから先が繋がらない。 「は、何で?」  間抜けた声を出す弟子に当の師匠は素知らぬ顔。 「出水に、うまかったと伝えておいてくれ」  そう言いおいて、忍田は悠々とした足取りで太刀川隊作戦室を後にした。 「いや、だから何で」  呆然としたその問いに、返る答えはない。 3  本部からの帰り、比較的近くの、けれど警戒区域ギリギリにある太刀川のアパートへは少し遠回りになるスーパーに寄って、メモを見ながら二人であれこれ言い合って買い物をした。 「どうせ太刀川さんちには何もないでしょ」なんて生意気な口をきいておいて出水だって味醂がどこのコーナーにあるのかも知らないものだから、ほとんどスーパーの店員さんに聞きながら材料をかき集める羽目になった。  どさりとキッチンの調理台の上に中身の詰まったスーパーの袋を雑に置いて、それからカチャンと瓶と瓶の触れあう音に慌てて中身を取り出す。一つ一つ確かめて、どうやら全部無事だったようだと安心した。そうしてひとまずすぐに使わなそうなものだけ冷蔵庫に入れる。ほとんど中身の入っていなかった冷蔵庫にきれいに食材を並べて、なんだか少し達成感を感じた。扉の裏に買ってきた調味料と牛乳を立てて、無意味に少し重くなった扉を開閉してみる。 「いずみー、それでどうする?」 「とりあえず、ご飯炊くんじゃないですかね」  炊飯器は買ってあった。けれど、一人暮らしを始めて一ヶ月、まだ一度も使ったことはない。とりあえずコンセントを入れて、それから時計をセットする。引っ越しの時母親が米を米櫃に入れていってくれたことに感謝しつつ、それが一ヶ月も経ってやっと日の目を見るのに僅かな罪悪感。  軽く米をといで炊飯器をセットして、何やら後ろでごそごそ通学鞄をあさっていた恋人を振り返る。 「そんで?」 「そんでー」  語尾を幼く伸ばしながら出水は取り出した本をぱらぱらめくる。ちらりと見えた表紙の派手な配色はどこかで見たことがあるものだった。思ったままに近づいてひょいと取り上げれば「ちょっと!」と出水の抗議の声が下から聞こえたが太刀川は気にしない。 「おまえ、教科書持ってきてんの」 「だって、見なきゃ作り方わかんないですもん」  呆れの滲む太刀川の声に出水は悪びれもしない。 「調理実習でやったんじゃないのかよ」 「それ言うなら太刀川さんだって」 「うん?」 「家庭科のせんせ、太刀川さんの時から変わってないでしょ。毎年同じメニューだって言ってましたよ」 「あ、あー? そうだっけ」  既に何を作ったかだって覚えていない。高校の時の調理実習なんてそんなものだ。 「ほら、覚えてないじゃん」 「俺は三年前、お前は先週だろ」  得意げな顔をする出水が癪に障って、丸めた教科書でぽかりと軽く叩いてやった。そもそも、その先週の調理実習がことの発端なのだ。  「なんで?」と太刀川が聞けば、出水の方はまったく無邪気に「だって」と口を開いた。  だって食べてる暇無かったんですもん、せっかく上手く作れたから美味しいうちに食べてもらいたくて。太刀川さんも任務だったじゃないですか。時間経って固くなったらやだし。どうしようかなあと思ってたら忍田さんに行き会ったんで。  簡単にまとめると、そういう主張だった。 (そんなの、俺は冷たくなったって固くなったって、別に全然気にしないんだけど)  そう思ったけれど、その言葉は太刀川が思うより甘く響きそうだったので口に出すのはやめておいた。その代わり、 「じゃあ今度うち来るとき、夕飯はそれな」 「なんで?」  結局これも思ったより甘く響いた気がして口に出してからひやりとするけれど、出水は何も感じなかったのか(それはそれでどうかと思う)、きょとんと首を傾げる。 「忍田さんばっかずるいから」 「何それ」  子どもだなぁ、と出水は自分の方がよほど子どもの顔をして笑った。けれどそのあと「いいですよ」と得意げに言うから、それで太刀川は満足だった。 「あんな自信ありげだったくせになぁ」 「太刀川さんうるさい」  そうして狭い調理台に教科書を広げてさらに狭くして、出水はおぼつかない手つきで調理を始めていた。慎重に分量を量る姿はまるで理科の実験みたいだ。色気がない。  昔、彼女ができたら自分の家に呼んで料理を作ってもらうんだと、太刀川はなんとなく思っていた。手際よく皿に盛りつけをして、横文字の、お洒落な名前のパスタなんか作ってくれるんじゃないか、とか。実家の基本が和食だから余計にそういう食卓に憧れを持っていた。  けれど目の前には、そんな昔の憧れとは似ても似つかない光景が広がっている。それなのにひどく幸福を感じている自分がおかしくて思わず声を出して笑ってしまった。  自分が笑われたと勘違いしたらしい出水は「太刀川さんも手伝って!」と、教科書をバサリと投げてよこす。「はいはい」と再び自分の手に戻ってきた教科書を改めて開くと鰆の照り焼きの他にもいくつかメニューが載っていた。見比べて、次はオムライスがいいな、と思う。  これに載っているのを順番に制覇したら、次は二人で本屋に行って、料理の本を買��う。なるべく初心者向けで、自分たちの好物がたくさん載っているやつ。  その頃には自分も出水も、もう少し腕が上がっていることだろう。 -------------------------------------------------------------------------  この後太刀川さんの「だいたいで良いだろ」という魔法の言葉で二人は目分量というスキルを身につけます。  一年後には自分でとった出汁でふわふわだし巻き玉子も作れるようになるよ!
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itose01 · 7 years ago
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春はなみだを連れて
※ファンシー(になりきれない)太刀出 春の景色はわけもなく泣きたいような気持ちにさせる …けど別にそういう話ではない。 多分、高校生×中学生。唯我いない時期ってことでひとつ、すみません。
「へ?」  背後で発せられた声はずいぶんと間抜けに聞こえた。  春の嵐があけてさっぱりした青天の下。今日の哨戒任務は気持ちいいなぁ、と当たりを引いた太刀川隊が散歩でもするようにのんびりと警戒区域を歩き回っている時のことだった。  「どうした?」と、ゆるい歩調で先を行っていた太刀川が振り向くと、出水が目を押さえて俯いている。  砂埃でも入ったかと、さほど緊張感もなく「大丈夫かぁ?」と呼びかける間にも、出水からは「え、うぁ、やだ、なんだこれ」なんてうめき声が聞こえてきた。  これはただごとではない。いつの間にかずいぶん開いていた距離を駆け戻り、俯いて柔らかそうな掌に覆われた顔をのぞき込めば。  パラパラと、微かな音を立てて彼のその琥珀の瞳からこぼれ落ちているのは涙ではなかった。  人さし指と親指で軽くつまめるくらいの、小さな立方体。  それが淡く光っていることに気がつくのに遅れたのは、出水の頭上をきらきらと照らす木漏れ日のせいだ。緑眩い春の光に比べたらその立方体の発する光はよっぽど弱々しいものだった。けれど、確かに光っている。自分たちには見慣れたものだった。 「トリオンキューブ?」 * * * 「なぁ、泣きやめよ」 「別に、泣きたくて泣いてるんじゃないですから!」 「でも、そのままじゃ干上がっちゃうぞ」  幼い頃、あんまり泣いてるとそんなふうに宥められることがあった。人間の身体が涙くらいで干上がるわけなんてなくて、この歳にもなれば子どもだましとわかる。けれど、今、この事態においては、単なる脅しとも言い切れない。 「お前、泣きすぎてベイルアウトなんてことになったら米屋あたりに爆笑されるぞ?」 「ぜっったい! 言わないでくださいよ!」  語気は荒いが、そう言っている間にも出水の瞳からはぼろぼろとトリオンキューブが零れ続けている。  これでは視界の確保もままならないと、太刀川は出水の手を引いて歩いていた。  国近経由で本部に連絡をとったところ、すぐに調査するから、とにかく戻ってこいとのことだった。そういうわけで、代わりに駆り出された東たちの生温い視線に送られて、二人は本部への道のりを手をつないでのろのろと進んでいる。 「開発室の連中なら、トリオンがもったいない! って発狂しそうな光景だな」  ぱらぱらと地面に散らばっていくトリオンキューブを眺めて太刀川がひとりごちれば、 「太刀川さんが拾って帰ってあげればいいんじゃないですか」  と出水が不機嫌に返す。そんな面倒なこと太刀川がするわけないとわかっている口調だ。出水はそれどころじゃないんだろう。それはそうだ。 「そうだなぁ」  太刀川がそう言って急に立ち止まるものだから、前の見えていない出水は簡単に太刀川に身体を預けることになる。 「うわ、なんですか」 「んー、たしかにもったいないと思ってな」  向かい合った出水の顎を指先ですくい上げ、もう片方の掌をほろほろとトリオンの転がる頬に添えてみれば、あっという間に5、6個の小さなトリオンキューブが太刀川の厚い掌に散らばった。 「こんな飴、あっただろ」  ひとつためしにつまんでみると、ますます飴のようにしか見えなくなった。色とりどりのキューブ型の飴が二つセットで小袋に収まっている様子を思い出し、なんだかひどく懐かしくなる。自分の好きな色を探して食べるのが好きだった。そういえば、黄緑のものが好きで、そればかり選んで食べていたこともあったっけ。この掌にあるそれは、あの飴にとてもよく似ている。  太刀川は、好奇心にはあらがえない性質だった。  ぱくり。  そうして無造作につまみ上げたキューブを口の中に放り込む。 「あ」  あんぐりと口を開けた出水を横目に、もう一つ、掌から口の中へ。 「味はよくわかんねぇな」 「ちょ、あんたなに食べてんの!?」  目を見開いて抗議する出水からは、勢いを増してぼろぼろとトリオンが零れ落ちる。 「お前のトリオンだろ。あーほら、もうキリないな」  そう言って太刀川はさらに掌に掬ったトリオンをざらりとまとめて口に放り込む。そうして2、3回ほど噛むような仕草をしてみせて、一息に飲み込んだ。不思議となんの音もしなかった。 「それ、大丈夫なんですか?」  おそるおそる聞く出水に、んんん、と首をひねってみせて、それから勝手に「うん」と納得したような顔をする。そうして「出水、そこ動くなよ」と呆然とする出水を残して十数メートル来た道を戻っていった。 「太刀川さん!?」  こうなると嫌な予感しかしないのは、太刀川の部下として過ごした年月の積み重ねゆえだろう。だって、声が弾んでいるのだ。きっとそのぼんやりとした深い色の瞳の奥にも、楽しげな光がきらきらと瞬いていることだろう。視界のままならぬ状態だって、そんなことは容易に想像できた。 「ちょっと! どこ行くんですか!」  そう声を投げると同時に、くるりとこちらを振り向きざま、太刀川がとったのは見慣れた構えだ。 「いいもの見せてやるよ」 (――旋空弧月!)  出水もとっさに迎撃の構えをとろうとするも、かざした掌には何も浮かぶことなく、トリオン切れかと思い至った時には、既にその身は隊室のマットの上に横たわっていた。  自分の目から溢れ出るトリオンの淡い光の向こうに、確かに見えた。  これまで見たことのないほど凶悪な旋空弧月が、周囲の景色もろとも自分の身体をなぎ払うのを。  それが、生身に戻ったこの眼にさえ、強烈に焼き付いている。 * * * 「なにするんですか! 急に!」  しばらくして、自力で戻ってきた太刀川を出迎える頃には、出水の落ち着きも戻っていた。そうしてふつふつと湧いてきたのは無意味に自隊の隊長に攻撃された怒りだ。  異常事態のさなかとはいえ、抵抗もできずあえなくベイルアウトさせられたのでは自尊心に傷もつく。それ故の八つ当たりも多少はある。 「すごかったろ?」 「そりゃ、すごかったですけど……いや、理由になってないですからね」 「なんか、お前のトリオンもらったら、すごいのかませそうだなぁ、と思ってさ」 「だからってあんな……」  何もおれに食らわせなくたっていいじゃないですか、と出水が不満を隠さずに言えば、 「お前が喜ぶと思ったんだけどな。違ったか?」  太刀川は、その答えになんの疑問の余地もないかのように答えて出水の頬を柔く撫でた。さっきまでこのまろみを残す頬の上を転がり落ちていたトリオンキューブはもう影も形も見あたらない。 「だってほら、涙、止まっただろう?」  そうして彼は、子どものように得意げに笑った。 おしまい! 「それはあんたがベイルアウトさせたからじゃん!」って思いつつ隊長があんまり満足げだから「そーですね」って済ませちゃう甘やかし出水くん。 でもこの後、軽率にベイルアウトさせるな!って開発室に怒られる。 大学生太刀川さんだったらもうちょっと慎重かなとも思う。
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itose01 · 7 years ago
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ひみつのはなぞの3
※「クリミナルマインド」パロ。FBIの行動分析課が、犯罪者をプロファイリングし、犯罪心理を読み解いて事件の解決を目指す…という海外ドラマのパロです。現実の日本より物騒な国で司法制度や警察組織も現実とは別物と思ってふんわりお読みください。
【父子】  犯人は安定した地位を持つ男。妻子を持ち、学生時代からずっと典型的なボス猿タイプ。プライドが高く自分の間違いは決して認めない。計画にズレが生じればすぐに逆上するだろうが、そんな隙はほとんど見せない知性と用意周到さ。  手口の類似性から同じ人物の犯行と見込まれる犠牲者は、既に4名になっていた。  数日に渡って拷問を受けたあと打ち捨てられた死体は、その無慈悲な死因とは裏腹に恭しく横たえられ、彼女たちの両腕は何かを抱きしめるように固定され、聖母を思い起こさせる姿だった。  現在、太刀川たちのチームが追っている連続殺人事件のプロファイルの内容をまとめた時、出水はじっと資料を見つめて考え込む様子を見せた。 「何か気になることでも?」  そうチーフである風間に聞かれた時、出水は「や、なんでもないです」と首を振った。下手な誤魔化しは通用しない人間に囲まれて、その行為にはなんの意味もない。  目を反らす、掌が軽く握り込まれる、いつもより若干あがった語尾。そんな些細な変化も職業柄見逃されるはずもない。太刀川が気がついた程度のことは、この場にいる全員も気がついただろう。  触れられたくなさそうな出水の感情を斟酌するような生温さを持ち得ない風間は「何かあるなら言え」と端的に促す。 「・・・・・・ほんと、全然根拠なんてないんですけど」  そうおずおずと言い出す出水は、いつもの聡明な様子は影をひそめ、やけに幼く見えた。 「この人、たぶんすごく良い父親だと思います。少なくとも、家族にとっては。逆上しやすいって書いてありますけど、家の中では怒ったところなんてほとんど見せたこともなくて、誕生日やクリスマスには高価なだけじゃなくて心のこもったプレゼントを欠かさずくれる。たぶん、家族にとっては頼りがいのある完璧な父親だったと思うんです」  そうして、少し迷うように付け足された。 「おれの父親がそうでした」  犯行の内容は全然違うけど、プロファイルの共通項が多いでしょう。たぶん、ちょっと似てる気がします。  どことなくぼんやりと、昔を懐かしむように目を伏せる出水にかける言葉を誰も知らなかった。「いやほんと、聞き流してくれていいんですけど!」と沈黙の広がるミーティングルームにはっとして慌てて付け足す。 「・・・・・・いや、参考にさせてもらおう」  そう風間は相も変わらず冷静に言って役割分担へと話を移す。部屋の中の空気がそっと緩み、太刀川の隣に座る出水がほっと胸をなで下ろすのが感じられた。 「良い父親だったんだな」  部屋を出て、現地に飛ぶ準備を整えようと解散するメンバーを見送って、居残り組の出水と、ほとんど本部に住んでいるようなもので準備に時間のかからない太刀川だけがミーティングルームに残される。一つだけ切れかけた蛍光灯が時たま明滅するのが鬱陶しくて、スイッチを切ってしまった室内は、それでもブラインド越しに差し込む春の陽光でほんのりと明るい。先ほどまで眼にしていた資料写真の陰惨な様子との落差がひどくて眩暈がするようだった。その中でも、出水は変わらず出水だった。頬杖をつき、窓際に立つ太刀川の方へ向けられた笑みは、いつもと同じように見える。 「けーべつします?」  わざと冗談めかして張られる予防線に、幼い頃の事件以来、彼がどうやって生きてきたかを思い知る。殺人鬼である父を慕い、会いたいとせがむ子どもを周囲の大人がどう見てきたかは容易に知ることができた。先ほど発言を躊躇ったのも、彼が口を噤むことで生きる場所を見つけてきたためだろう。 「いや、それがお前の見てきた『本当の父親』なんだろ。誰も否定する権利はないさ」  見えるものなんて人によってそれぞれだし、何が真実かなんて見る者によって変わる。そんなのは当たり前のことだった。ただ一つの真相を暴くこの職業に就いていてさえそう思う。太刀川自身が、内省する『自分』と、他者から見る『自分』に大きな隔たりを感じるからこそ、余計に強くそう思うのかもしれない。  出水は驚いたようにぱちりと目を瞬かせて、それから「太刀川さんのそういうとこ好きだよ」と、くしゃりと顔を歪ませた。  泣くのかと思ったら、どうやら笑っているらしかった。随分下手な笑い方で、見ているこっちも笑ってしまった。 「さっき言ってたプレゼント。クリスマスと誕生日って言ったけど、ほんとはそれ以外にも時々、くれることがあったんですよ。別に特別なことがあったわけでもないのに。その時は母さんと姉ちゃんがいなくなって寂しがるおれをかわいそうに思ってくれたのかな、と思ってたんですけど」  出水は気を取り直すように一息ついて語り始めた。既にその顔は仕事の表情に戻っていた。指先でなぞる先は、渡された資料の、被害者から失われた持ち物の項目だった。ネックレスやブレスレット、ピアスに指輪。失踪当時持っていたものは殆ど遺体の側から発見されたにも関わらず、たった一つ、普段から身につけていた装飾品の類が失われている。 「・・・・・・記念品か」 「そ。すげえ神経してますよね」  シリアルキラーの約三割が、殺人の記念として被害者のものを保存するという。物品を通じて犯行当時の興奮を何度も思い起こして愉悦に耽るためだ。多くの場合本人以外に触れられることのない自室にひっそりと隠し持っているものだが、彼の父親は違ったらしい。 「捜査資料には特にそんなこと書いてなかったけどな」 「忍田さんが伏せておいてくれたんじゃないかな。少なくとも、表で閲覧できる文書では。じゃなきゃ、ますますおれの立場は悪くなってただろうし。何しろおれのおもちゃ箱には、被害者の持ち物がたくさん入ってたんですからね」  サッカーボールと水鉄砲、ミニカーに怪獣のフィギュアでしょ。最後はロボットのおもちゃ。数えながら折られた指はきっかり五本。  なんでもないことのように言うが、彼の父親が自分の犯して殺した少年の持ち物で無邪気に遊ぶ息子を見て、どんな感情を抱いていたか、わからないほど彼も子どもではないだろう。それでも、彼に「良い父親」と言わしめるその男を太刀川は憎らしく思う。もしくは、羨望なのかもしれなかった。殺人鬼という本性を知っても、出水の心は変わらないのだ。 「まぁ、だからってわけでもないけど、発見された遺体からなくなってるもの。犯人は大事にとってあるかもしれませんね。子どもがいるなら、その子が持ってるかも」    そうしてほどなくして、事件は無事に解決を見た。  出水の言うとおり、犯人は誰が見ても理想的な夫であり父親であった。妻は夫を疑いもしなかったし、一人娘は思春期であるにも関わらず友人に父親の自慢をするほどだった。  けれど、その娘のジュエリーボックスからは、友人や恋人から贈られたものに混じって被害者の遺品がいくつも発見されたのだ。綺麗に磨かれて、大切に使われていたであろうそれらは、どれも父親から贈られたものだった。  それを知った美しく純粋な娘は小さくか細い悲鳴をあげて、気を失ったという。  凄惨な遺体の様子は街中に知れ渡っていた。その事件の犯人が父親であり、その遺品を自分が身につけていたと知った彼女は真相の重さに耐えられなかったのだろう。  こうして彼女の真実は塗り替えられた。  眼を覚ました彼女は父親について話すのもおぞましいというふうに口を閉ざしたという。  後日、その報告を聞いた出水は、つまらなそうに「そうですか」と言ったきり、次の仕事に取りかかった。その父娘の顛末など、欠片も興味はないような態度で。けれどその眼に、ほんの少し寂しげな色が浮かんでいたことに、ただ一人太刀川だけが気づいていた。  いいなぁ、と思う。ほしいなぁ、と思う。彼のその、ひたむきな慕情の向けられる先が、自分であればいいのにと、太刀川はその横顔を見てぼんやりと思った。  けれど、彼に触れることを許された時、自分がその手で出水を壊してしまわないなんて自信は、欠片もなかった。だからその甘い誘惑から眼を反らす。そうして少し距離をとる。自分のような人間は、欲しいものに手を伸ばしてはいけないのだろう。  誤魔化すように目を向けた窓の外では、まだ芽吹く前の桜の木が大きく枝を揺らしていた。それを他人事のように眺めやる。厚いガラスに守られた室内はひどく居心地がいい。あえて外に出る必要はないだろう。  春の到来を告げる風が、強く吹きつけた、ある日の午後のことだった。
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itose01 · 7 years ago
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ひみつのはなぞの2
※特に具体的な描写はないですが、太刀川さんが殺人鬼の因子を持っているという描写がありますので、苦手そうな方は引き返してください。
※「クリミナルマインド」パロ。FBIの行動分析課が、犯罪者をプロファイリングし、犯罪心理を読み解いて事件の解決を目指す…という海外ドラマのパロです。現実の日本より物騒な国で司法制度や警察組織も現実とは別物と思ってふんわりお読みください。 ※ 出水くんのお父さんが犯罪者、太刀川さんが行動分析官という設定です。 【太刀川慶】 「お前は、殺人鬼の目をしているな」  警察組織の1から10までを手取り足取り教えてくれた先輩刑事が定年間際、最後によこした言葉がこれだった。  自分がなんと返したかは覚えていない。  青春時代を剣道に打ち込み、さて、将来何になろうかと考えた時、その道を示してくれたのは同じ道場に通っていた忍田だった。あいにく配属された当初は、出世街道をひた走る忍田と共に働くことはできなかったけれど、すぐに手柄をあげて彼の横に立つ人間になろうと決めていた。  そうして必死になって事件を追っていた時のことだ。  通り魔的な連続殺人。手口もばらばら、被害者には共通点がなく、衝動に任せた突発的な事件に見え、無秩序型の犯人だと目されて捜査が進められていた。その方針に異論を唱えたのが太刀川だった。  曰く「どう見ても計画的だろ」と、そうベテランの刑事たちを後目にあっけらかんと言い放ったのだ。  理由を問われて太刀川は困った。だって、本当にただそう思っただけだ。犯行の端々には犯人の神経質さが表れ、被害者に目に見える共通点はないが犯人は被害者の生活を知り尽くしていたように見えた。そもそもその殺し方。最初は絞殺、次は刺殺。轢死した者も高所から突き落とされた者もいた。一見バラバラに見えるけれど、こんな風に全て違う殺し方をする方が労力だろう。自分がこの方法を選ぶなら、何かこだわりがあって、敢えてそうするはずだ。  蓋を開けてみれば太刀川の言うとおりで、被害者には、とあるSNSで共通のグループに所属しているという共通点があった。ある推理小説愛好家のグループで、その小説に出てくる通りの殺し方をなぞっていたのだという。  よくわかったな、と周囲から誉められたが、太刀川はこの手柄を素直には喜ぶことができなかった。  それからも、太刀川が犯人の思考や嗜好をなぞって容疑者特定に繋げたことが何度もあった。これがプロファイリングか、いつのまにそんな勉強していたんだと、周囲からは羨望の目を向けられたが、そんな反応に太刀川は違和感を覚えるばかりだった。  太刀川の功績を聞きつけて、忍田から行動分析課への異動を勧められたのはそれからしばらくしてのことだ。  「お前には言葉と論理が必要だな」と本場米国での研修にたたき込まれ、自分のこのわけのわからぬ「勘の良さ」もようやく明確な武器として使えると、そんな自信をつけて太刀川は意気揚々と帰国した。  しかし、自分の中の違和感が言葉を持たぬゆえのものではなかったと、忍田選りすぐりのメンバーが揃うチームへと仲間入りを果たして早々に太刀川は悟ることとなる。  彼らと自分とでは、思考の方法が違うのだ。彼らは、様々な物的証拠からまず犯人自身を知ろうとする。そこから、この犯人だったらどうするか、と考える。  しかし、太刀川はまず「自分だったら」と考える。自分だったらどう標的を選ぶ? どうやって痛めつけて、どうやって殺す? どうやって証拠隠滅して死体を遺棄する?  太刀川の考えがまったくの的外れな時もある。そういった時の犯人は決まって「まともな」人間だった。突発的であったり、やむにやまれぬ理由があったりと、犯人に人間としての感性が生きている場合だ。  反対に太刀川の推理が怖いくらいに犯人の思考とシンクロする事件もある。それは必ずと言って良いほど、シリアルキラー(連続殺人鬼)と呼ばれる者による異常な犯行である時だった。ここまでくれば、太刀川もようやく自覚せざるをえなかった。  自分は、本当は「あちら側」の人間だったのだ、と。   * * *  自分は周囲に恵まれていると思う。  太刀川の自覚と懊悩は、行動分析官の巣窟で容易に隠し通せるはずもなく「無い頭で悩んでもドツボにはまるだけだ」と一蹴されたあげく何もかも吐かされ、なんとか死ぬ思いで告白すれば、ある同僚には「何それ、すっげぇ便利じゃん」とこともなげに言われ、また別の同僚には「お前がそんな大それたことできるとは思えんが」と前置きをされた上で、「万が一にでも何かしそうになったら俺が一発で頭ぶち抜いてやる」と頼もしく胸を叩かれた。  そうして、太刀川は犯罪者の因子をその身に抱えたまま、それでも穏やかな日々を過ごしていた。この仲間がいる限り、自分があちら側に身を落とすことはないだろう。それならば、自分のこの罪深い力は、この仲間と仕事のために使おうと、そう考えていた。  そう前向きに考え仕事に打ち込む太刀川の前に「出水公平」が現れたのは、実に不幸な偶然だった。  出水を見ると胸の奥がざわざわする。自分の中に封じ込めた凶暴な獣を呼び覚まされそうになる。それなのに、当の出水は、そんなことも気づかずにやけに太刀川に懐いてくるものだからたまらない。  出水公平は、想像していたよりも普通の人間だった。  初めて目にした彼の写真が、あの、死体の埋まっていた庭を無感動に見つめる姿だったから、物憂げな大人しい青年をイメージしていた。しかし彼の悲惨な生い立ちに反して、彼は実に明朗な性格だった。 「太刀川さん太刀川さん、現場行くんですよね。おれも連れてってください」  そう言って子犬のようにまとわりついてくる様子はとても博士号を持っているような俊才には見えなかった。 「なんでだよ、お前は後方支援担当だろ」  太刀川が面倒そうにあしらえば子どものように唇をとがらせる。 「えー、でも直接見て、話した方がわかることも多いでしょ?」  そう訴える軽い口振りとは裏腹に、瞳の奥の真摯な光が見え、同業者としては素直に感心した。机上の学問ではなく現場で使える力を持っているということも、捜査をともにする上で充分わかった。  しかし、彼を知れば知るほど惹かれていく自分が、太刀川は恐ろしかった。チームの 他の仲間たちが彼を好意的に見るのとは全然違う。  出水が笑う、拗ねる、怒る、喜ぶ。そのたびに、ざわり、ざわりと太刀川の中の獣が首をもたげる。そうして、彼のその白くて滑らかなのど元に、噛みつきたくてしかたなくなるのだ。それなのに、どうしても手が伸ばせない。それがひどくもどかしかった。  幾度も出水の死に様が、何パターンも頭に浮かんでは消えていく。悲痛に歪められた顔も、絶望に虚ろとなった眼も、想像すれば自分の愉悦は高まるばかりなのに、今、目前にいる彼が失われると思うと、それはただ恐怖にしかならなかった。 ――これがあいつの父親が魅せられたものか。これが父親を苛んだものか。  太刀川は日毎に彼の父親への共感を強める。そうして、そのたびに突きつけられるのだ。自分の中に確かに存在するシリアルキラーの因子を。
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itose01 · 7 years ago
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くだらない話2
※ 前回の話の続き、というわけではなく何も考えずに書いた勢いだけのお話PART2、という感覚です。 何も考えずにお読みください。太刀出前提ですがあまり太刀出っぽくない。
「最近なんか、妙につっかかられるんですよね」  隊室に入ってくるなりどこか不機嫌そうな、納得のいかないような顔をして出水が唸るようにそう言った。眉根を寄せる表情は、いつもあっけらかんと笑っている普段の様子には珍しく、太刀川は報告書を綴る手を止めて彼の愚痴に真面目に耳を傾けることにした。  出水曰く。  最初はなんとなくやけに見られてるなぁって程度だったんですけどね。でもそんなんおれら珍しくもないじゃないですか。ちょうどチームランク戦の真っ最中だったし。ていうかほんとはおれが気づいたんじゃないんです。京介のやつが、なんか視線が気持ち悪いって言い出して。京介のストーカーじゃねぇのってみんなで言ってたんですけど、近いけどそうじゃないって言うんすよ。なんかおれといるときだけだって。気のせいだろって言ったんですけど、京介が、「俺そういうの敏感なんで」ってさらっと言うし。見られ慣れてる奴が何言ってんのって感じだったんですけど、「気にしないでいたらひどい目にあったんで、経験則です」ってマジな顔するから、なんとなくシーンってなっちゃって。「先輩、気をつけた方が良いですよ」とか念押しされるし。そっからなんとなくおれも気にしてたんですけど、確かに、なんか見られてる気がするんですよね。特に下の奴らから。A級とかB級上位の人らは全然そんなことないんですけど、食堂とかラウンジとか行くと名前も知らねぇ連中からなんとなく見られてる気がするんですよ。まぁ、それも珍しくないっちゃないんですけど。気持ち悪い視線とかそんなんわかんないし。でもだんだん外でも見られてる気がしてきて、ノイローゼなんじゃないのって緑川とかに言われて、おれそんなタイプじゃないつもりなんですけど、でもまぁ、ランク戦と任務が重なってたし、まぁ疲れてんのかな、って思うだけだったんですけど。  そこまで一息で言って出水は深くため息をついた。口を挟む間も与えられなかった太刀川はいよいよらしくない様子に不穏な気配を感じる。いつもならいちいち太刀川の反応を求めて懐っこい視線をよこしてくるくせに、今はどこを見たらいいのか解らないような様子で、隊室に置かれたカニの時計なんかへうろうろと視線をさまよわせている。これはどうやら重傷らしい。しかも少し前から異変を感じておきながら、自分へは今日に至るまで知らせずにもいたらしい。それはいただけないな、と冷静に思って、けれど今は話を最後まで聞くことを優先する。「それで?」と先を促せば、出水はもう一息ついてから続けた。  そんで、まぁ実際見られてたとしても害さえなきゃいいじゃないですか。あ、ちょっと怖い顔しないでくださいよ。別に害ってほどじゃないです。ちょっと言い過ぎました。ただ、その後くらいからだんだん、C級の奴らにすごい話しかけられるんですよね。嵐山隊の、ファンなんですーみたいなのじゃなくて。なんかちょっとコツ聞かせてくださいとかアドバイスください、とかそういうの。勉強熱心じゃんと思って最初は相手してたんですけど、どうもそれが本題じゃないっぽいんですよね。おれが話してても全然聞いてねぇし。ひどい奴は射手の話聞いてきたくせにそいつ攻撃手だったとか! なんか、そわそわしてて上の空だし、こっちがどうしたんだって見ると真っ赤になって逃げてくし。え? ああ、そうです。一人じゃないんですよ。そういうのが何人か続いて。だからひとまずストーカーじゃねぇな、って。これで特定の奴だったら話は楽だったんですけど。なんかもう色んな奴から変に挨拶されるようになったり、すごいどうでもいいこと話しかけられたり。でもなんか皆最終的にはそそくさどっか行っちゃって。気分良くないじゃないですか。悪意は感じないんですけど、好意的って感じでもないし、そもそもなんか相手するのも面倒くせぇなってなっちゃって。だんだん一人でそっち行かないようにして、話しかけられてもあんまりまともに相手しないようにしてたんですけど。そしたら。 「そしたら?」  うーん、とためらうように言葉をとめた出水にさらに先を求めれば、「話してるうちにだんだん大したことじゃないような気がしてきました」などと言う。 「だってここまでで、おれ結構ストレス溜めてたんですけどね、内心。でもまとめるとただ見られて話しかけられてってだけじゃないですか」 「でも、その先があるんだろ」 「まぁ。でも残念ながら見てのとおり、別に何されてるってわけじゃないんですもん。殴られたり、刺されたり、襲われたりってわけでもないし」 「それは残念じゃなくて幸いっていうんだ」 「んー、でもだからここまで聞いてもらって申し訳ないんですけど、そんな大した話じゃないんですよ」 「それは俺が判断するからとりあえず最後まで話せ。別に単なる雑談でも、息抜きになるから良い」 「はぁ、じゃあ一応。聞いてもらってすっきりするかもしれないですしね」  あ、でも仕事はちゃんと終わらせてくださいよ、なんてかわいくないことを言う。  そしたらー、まぁここで最初の話に戻るんですけど、やけに突っかかられるようになったんですよねぇ。あ、因縁付けられるとかって意味じゃなくて、物理です物理。ぶつかって来るんですよ。廊下とかの曲がり角とか、ひと気のないところで出会い頭に。普通避けるだろって場面で避けなかったり、こっちが避けようとすると同じ方来たり。うぜぇのなんのって! 昨日のでかいやつなんて頭突きされるんじゃないかって勢いできて、でも寸前で止まってやけに追いつめられた顔してるからこっちが逆に心配になって何だよって聞いたら「すみません!」て、おれがなんかしたみたいな剣幕で謝られて逃げられたんです。後ろにいた米屋も、あいつやべぇなってドン引きですよ。誰かって・・・・・・いや全然面識ない奴ですよ。初めて見ました。たぶん。あ、いや、一回くらい個人ランク戦したことあるかも? 話しかけてきた奴の中にはいたかもしれないですね。えー、太刀川さんだってそんなんいちいち覚えてないでしょ。これまでに食った餅の数とか覚えてます? そういうことです。とにかく、そういうのが何回かあってこりゃいよいよおかしいなって思いつつ、まぁ本部の中での話だし、しばらくのおれの平和の地は家と学校だと思ってたんですけど。あぁ、そうです、それで最近ご無沙汰でした。いや任務にはちゃんと来てたんだから問題ないでしょ。あんたの仕事なんて知ったこっちゃないです。それ部下の仕事じゃないじゃないですか。それで! 問題はその学校ですよ。今日放課後、学校で知らない奴等に囲まれたんです。今度こそマジで知らん奴。少なくともボーダーの人間じゃないです。そうそう、複数で。ちょっと新しいパターンなんで、さすがにおれもビビりましたよね。いやいや、おれが何したよって。「おれなんかしましたっけ?」って聞いたら、「近界民が憎い」とか「ボーダーに入らなきゃいけないんだ」とか意味不明なこと言い出して、いや、それおれに関係ある?って感じ。でもまぁ下手に刺激しない方がいいだろうしどうしたもんかな、と思ってたとこに米屋が来て! あいつマジで彼氏力高すぎて不覚にもときめきましたよね。いやいや冗談ですって。やでも、すごいタイミング良かったんで、お前少女漫画のヒーローかよって内心突っ込んじゃいましたよね。まぁそれでいくとおれがヒロインになっちゃうわけですけど。太刀川さん? 太刀川さんがヒーローって柄ですか。おれだって別にヒロインじゃないですし。例えですって。まぁ、そんなわけで事なきを得て、今に至るってわけです。でもなんか、意味わかんないのが怖ぇなって。ちょっと疲れたんで、ここで寝てってもいいですか?  ほぼ国近専用となっている仮眠室を借りて、出水は小さく丸くなって眠りについた。起きたら家まで送っていくと約束して。それまでに仕事を終わらせると宣言してしまったものだから、これはいよいよ気合いを入れて臨まなければいけない。  起きたときの様子によってはそのまま自分の家まで持ち帰ってしまおう。そう算段して、けれど気になる話を放って仕事を片づけるほど自分が器用でもないと自覚している太刀川は、とりあえずコーヒーを買いがてら情報収集でもしようかと、ラウンジにほど近い自動販売機に向かう。そうして出くわしたのが米屋なものだから、なるほどこのタイミングの良さが「彼氏力」か、と得心する。「彼氏」かはともかく、良くも悪くも時機を外さないのは確かだった。 「よー米屋」  軽く手を振れば、米屋が注意して見ていなければわからないくらいにすっと目を細める。あぁ、これは予測されていたな、と察せられたけれどそれを不快に感じるよりも話が早いと思うのが太刀川だ。 「珍しくちょっと参ってるでしょ」 「おー、俺の知らないとこでなんかあったらしいな」 「あれ、もしかしてそれでちょっと怒ってます? まぁ報告するにはビミョーに中途半端で気持ち悪い感じだったんで。あんま責めないでやってくださいよ」  たぶん、参ってることだって今日まで自覚なかったでしょうし。そう付け足された言葉は真実だろう。出水は普段からあまり難しくものを考えないせいなのか、感覚に訴える不快さは無自覚に溜め込みがちだった。処理の仕方を知らないのだ。 「それに、そもそもの元凶は太刀川さんですからね」 「ああ? なんの話だ」 「いやまぁ、連中がバカっちゃバカなんですけど。そのきっかけは身から出た錆っていうか。いや、アイツは一貫して被害者なんですけど」 「まどろっこしいな。何か知ってるならさっさと吐け」 「勘弁してくださいよ、オレだってさっきやっと聞き出してきたんですから」  ガシャンと落ちてきた新商品のジュースを取り出し口から拾い上げて放り投げてやれば、「ゴチんなりまーす」と米屋は相変わらず軽薄に笑った。  米屋曰く。  今日の話聞きました? そう、その学校の。京介たちにアイツ預けたあとちょーっと顔借りて聞いてみたんですけどね。そう、うちの3年で、ボーダーでも無けりゃ、オレらと接点なんて1ミリもない一般人、そいつ、ボーダー志願者だったんですって。近界民に親戚殺されたとかなんとか。従兄弟だったかな? まあ、それはおいといて。それで、近界民に復讐してやるってんでボーダー入隊希望だったのに不合格にされて、ずーっとそれを根にもってたとかなんとか。トリオン不足っすよね、要するに。珍しい話でもない、よくあるやつです。あー、待ってくださいよ、話はこれからですって。そいつが、ボーダーのクラスメイトからある情報を聞いたって言うんすよ。それがまぁ、オレらからしたら馬鹿らしい話なんですけど。それ聞いて、ボーダー入隊を賭けて力技に出たっていうか。  最近、ボーダー隊員の、特に下の奴らに流行ってる噂、知ってます? なんと! あの弾バカちゃんにキスすると、トリオン増えるんですって。あー、太刀川さん、それすっげぇアホ面! 外に見せちゃだめなやつ! ほら、だからトリオン不足でハネられた奴を唆した奴がいるんじゃないですかね、出水からトリオン奪えばいいとかなんとか。まぁ、一般人にトリオンの話するほど馬鹿じゃないと思いますけど、藁にでもすがりたい奴は適当な情報で簡単に踊らされますからね。ああ、そいつは一応本部にお連れして、どの程度何を聞いたかわかんないからそれなりの処理受けて丁重にお帰りいただいたはずですよ。上の人に預けちゃったんであんま知らんけど。そいつに話した奴も調査中って話です。  で、B級とかC級の奴らに聞いたら確かにそういう噂があるっていうんですよ。出水のトリオン量はみんな知ってますし、上に行きたいやつは喉から手が出るほどアレがほしいでしょうし。伸び悩んでる奴らはみんな出水見てそわそわしてたって言いますよ。さすがにそこまでするか?ってのと、でもあのトリオン量は魅力的だしってので。自分で試す勇気がないから外の奴使って試させたのかもしれませんね。たち悪ぃの。  「なんで」って、え、それマジですか? ボケですか? 身から出た錆って言ったじゃないですか。ほら、本部長にめちゃくちゃ怒られたんでしょ。前のランク戦のときの! そうそう臨時接続! 両手塞がってるからって普通口でしないでしょ。付き合ってるからってちょっとはジチョーしろってお説教受けたって聞きましたよ。二宮さんもガチ切れだったし。解説もコメント困ってましたよね。まぁ、見てるこっちはウケたけど。あれ、中継入る奴だったからみんな見てたでしょ。チーム組んでない奴は臨時接続なんて滅多にしないし、相手と相当トリオン量に差ぁ無いとあんま意味ないですしね。実戦で見たことあった奴あんまいないんじゃないですか。そんで、そのあとえげつない旋空弧月ぶっ放してたのもインパクトヤバかったし。で、それ見て、出水とキスすりゃあれができるのかぁって変な感じで浮ついたのが巡り巡っていつの間にか元々のトリオン量まで増えるって話になったんじゃないか、・・・・・・っていうのが本部長の意見です。曲解されすぎっすよね。笑える。  ああ、本部長も知ってますよ。ほら、その例の奴から事情聞いてくうちにずるずると。なんか、もう疲れ果ててましたね。後で呼び出し受けると思いますよ。  もう、いっそのこと宣言しちゃえばよくないですか。次のランク戦、すぐでしたよね。そこで一発かまして、手出したらこうなんぞって見せつけてやれば良いじゃないですか、あの旋空弧月で。あ、冗談ですからね、ほんとにやらないでくださいよ。オレ知らないですから。  でもまぁ、こうなったのもほとんど太刀川さんのせいなんだから、ちゃんと責任もってなんとかしてくださいよ。ほら、出水にも責任とってやるって言ったんじゃないんですか、最初のとき。そりゃ知ってますよ、あいつ、わりと付き合う前後はいちいちオレに報告してきてましたし。本人はグチってたつもりでしょうけど。だからまぁ、ちゃんと見張っててくださいよ。・・・・・・そりゃ言いたくもなりますって。これでも大事なダチなんで。 太刀出の臨時接続を見て有象無象の下位隊員が真似したくなって出水が狙われるってお話でした!(説明) 中途半端ですが、書きたいとこは書けたのでおしまい! でもこれ厳密に言ったらたぶん臨時接続というより充電?ですよね。コミックスさらってみたけど難しいことはよくわからなかった…し、そもそも原作にこんな臨時接続は存在しない。
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itose01 · 7 years ago
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山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいう ※東京で写真家として活動する太刀川さんと、遠く離れた山麓のペンションに暮らす出水くんの遠距離恋愛の話。  はっきり書いてないですが、原作より若干年が離れていると思います。(太刀川さんの職業的に無理がありそうなので)。別に写真にも山にも詳しくないのでふんわり設定です。
 鮮やかなグリーンに縁取られた看板を通り過ぎ、玄関へ続く段々を軽く駆け上がる。
 その勢いのままカランカランとベルを鳴らして重い木のドアを押し開けると、叔父の焼く特製アップルパイの甘やかな匂いが鼻をくすぐった。 「ただいまぁ」  リビングに入りながら対角にあるキッチンにいるであろう叔父にも聞こえるよう少し声を張れば、「おかえり」と頭上から笑い含みの声が返り、反射的に顔を上げる。  吹き抜けのリビングを見下ろすように配置された二階の客室の中の一室の前、ぐるりとリビングを囲むように据えられた手すりに腕をかけ、こちらを見てゆるく笑うその姿は。 「太刀川さん!」  数ヶ月ぶりにあう、出水の恋人の姿だった。 出水が太刀川慶に出会った頃、出水は母方の叔父が経営する山合いのペンションに預けられたばかりだった。父親の転勤と姉の留学が重なり、それでもこの生まれ故郷に留まりたいと主張する出水の希望をきいた結果だった。鷹揚な叔父は出水がペンション経営の手伝いをすることを条件に快く居候を了承してくれた。  太刀川はそうして暮らすようになって最初に訪れた客だった。  彼の師である忍田はこのペンションの常連客であったらしかったが、彼に連れてこられた当時高校生の太刀川は初めてここを訪れたという。  はじめは翌日の登山にげんなりした様子だった彼も、帰る頃にはすっかりこの地を気に入ったらしく、それから一年に数度、山が格別にうつくしくなる季節に1週間ほど宿泊していく。やがてその手には大仰なカメラが抱えられるようになった。  高校生だった太刀川が写真家という職業へ進んだのには、出水を育んだこの地の自然が大きく影響していると考えるのは、そう的外れな自惚れでもないだろう。「着くの夜じゃなかったっけ?」  太刀川の予約が入れられた日から指折りその日を待ちかまえていた出水だ。チェックインの時間も当然把握していた。それでもちゃんと準備をして待っていたいと学校が終わってから遠い道のりを急いで帰ってきたというのに。当の本人に先を越されてしまうとは。 「午前中の仕事の予定が繰り上がってな」 「それなら連絡いれといてくれれば良かったのに」 「驚いただろ。いつも出迎えられるばっかだからな。たまにはこういうのもいいと思って」  オーナーにも黙っててもらったんだ、と浮かべるのは人の悪い笑みだったけれど、久しぶりに顔を合わせた��水はその内容なんて関係なしに眩暈がするような心地がする。  とんとんと木の床の柔らかい音をさせて階段を降りてくる太刀川と対面し、前回会った時よりも目線が近くなっていることに気がついた。 「お、背ぇ伸びたか?」 「わかります? 次に会うときは抜かしちゃうかも」 「そうはいくかよ」  そう言ってぐしゃぐしゃ髪をかき混ぜられる。こうして太刀川に触れられたのはいつぶりだろうと思うと、途端に身体が熱くなった。前回太刀川がここを訪れたのはミネザクラが山をほのかに彩る春のことだ。それからもう半年が経つ。  雑にかき混ぜるその手は、自分で乱したくせに、やがて出水の柔らかな髪の毛を撫でつけるように優しくなり、「久しぶりだなぁ」と頭上からはしみじみと溜息をつくような声が吐き出された。機械越しではない、太刀川自身の声だった。  満たされるような心地に、ああ、自分は飢えていたんだと改めて思い知らされる。  この人がずっと、足りなかった。半年前に太刀川がこの地を去ったその瞬間から、自分でも気がつかない内に生じていた心の隙間がようやく埋められようとしている。  ふわふわの髪も生やされた髭も眠たそうな瞳も、太刀川は以前別れた時から寸分も変わらないようなのに、出水にだけはまるで違って見える。離れていた間に降り積もっていた期待や焦燥が出水の目を曇らせているのかもしれないけれど。  輪郭をなぞるように後頭部から項に降ろされたあつい掌に、期待するなって方が、無理だ。 「太刀川さん、さびしかった?」  自分の感傷を誤魔化すみたいにわざとからかうような軽い声音で問えば、「そりゃもう」と愉しげに応えられる。そうして顔を見合わせて笑えば、お互いの距離が近づくのは自然の流れだった。吹き抜けの天井から吊された暖色の照明が太刀川に遮られて、ふっと視界が暗くなる。「太刀川くん、おやつできたよ――ってあれ、公平くん、帰ってきた?」  二人の間に流れかけた甘い空気を払拭したのは、叔父のその一声だった。キッチンからは多少死角になる位置にいたのが幸いし、二人の距離の近さにはまるで気がつく様子もない。木製のトレーに湯気のたったマグと、つやつやに焼き上げられたアップルパイに緩く泡立てられたクリームを添えた皿を載せて、危なげなくこちらへ向かってくる叔父は人の好い笑みを浮かべていた。  「太刀川くんいてびっくりした?」と無邪気に聞いてくる叔父をまっすぐには見られない出水と、「大成功でしたよ」なんて悪びれずに答える太刀川との違いは年の差からか経験値の差からか。  いたたまれずに「おれ、裏から薪とってくるね」と逃げ出す出水を見送る太刀川の笑い声と、「顔赤いみたいだったけど、風邪かな」なんて首を傾げる叔父の声を背に聞きながら、出水は表口よりいくぶんか軽い裏口のドアをぐっと押し開ける。  びゅんと強い北風が出水の頬を叩く。けれどそれは熱に浮かされた頭を冷やすにはちょうど良い冷たさだった。   「出水」  とりあえず口実とした仕事を果たそうと壁際に積み上げられた薪の束を持ち上げようと腰を屈めれば、太刀川が後を追ってきた。帰宅したばかりで厚着のままの出水と違って暖炉でぬくまった屋内にいた太刀川は薄着で見るからに寒々しい。 「手伝う」 「いいですよ、太刀川さん、お客さんだし」 「水くさいこと言うなぁ。今更だろ」  お前ひ弱だし、と言われてかちんと来るも、自分が両手で抱える薪を片手で軽々持ち上げられれば出水にも何も言うことはできない。  熱を冷まそうと思って出てきたのに、その原因までついてきたらなんの意味もない。潔くあきらめてさっさと戻ろうとすれば「いずみ」と柔らかく呼ばれる。 「はい?」   何気なく振り向けば、ふっと視界が遮られ唇に温かい感触が触れ、一瞬間後にようやくキスされたのだと自覚した。 「っ!・・・・・・!」  すぐに離れた太刀川は言葉も出ない出水を見て笑っていた。 「あんた! こんな外で何すんですか!」 「誰もいねぇじゃん。隣の家まで何キロだっけ」 「キロもないです! 悪かったですね田舎で! ってそういう問題じゃなくて!!」 「だってさぁ、」  太刀川の背後には今にも山の向こうに沈まんとしている太陽が見える。橙に染まったそれが紅葉に色づく山の稜線をさらに赤く燃やしていくこの景色は、出水の誇る山の美景の一つであった。けれど今は目の前でへらりと笑う太刀川から目がそらせない。 「急いで来たはいいけどやっぱりお前のいないとこで待ってるのは物足りないし、せっかく帰ってきたらすぐわかる場所にいたのに邪魔が入って逃げちゃうし」  冗談みたいな口調だけれど、それが太刀川の本心だとわかっていた。 「俺にばっかり聞いたけど、お前はさびしくなかったのかよ」  出水の気持ちなんて百も承知なくせにそうして言葉をねだるのは、甘えに見せて実際は大人の寛容さだと知っている。 「そんなん、決まってるじゃないですか」 「うん? 聞こえねぇなぁ」 「・・・・・・っさびしかったですよ! 会いたかった! これでいいでしょ!」  よしよしと満足げに頷かれて、出水は本当にこの人には敵わないと思い知る。  敵うわけがない。恋愛というのは昔から、惚れた方が負けだと決まっていた。  こんなふうに太刀川は自分の気持ちを求めているように言うけど(言ってくれるけど)、本当は、出水の方が先に好きになったのだ。  最初から叶うわけがない恋だと思っていた。同性で、年上で、おまけに遠く離れた都会の人だった。自分の知らない生活があって、自分の知らない交友関係があって。自分とは違う世界の人だった。  年に数度、一週間だけ会う田舎の年下の男なんて、その間だけでも弟みたいに思ってくれたら良い方だろう。ここを去って三日もすれば、次の予約の時まで思い出されることもないだろう。そう思っていた。  自分の恋心に気がついた次の瞬間に希みの無さを自覚した。  それが奇跡のように想いが通じたのだから、舞い上がっても仕方ない。それでもなるべくそんな風に見えないようにがんばっているのに、太刀川は何もかもお見通しで暴いてみせる。そうしてそれが案外嫌ではないから、もうどうしようもないのだった。 「・・・・・・早く中戻りましょ。寒いし、せっかくのアップルパイもコーヒーも、冷めちゃいます」 「ああ、それはだめだな」  でもなぁ、としぶる太刀川からようやく目をそらし、最後の力を振り絞るように一際明るく輝く夕日を眺めた。一日のほんの僅かな時間だけに見られる光景だった。  この後は暖炉の残り火のようにあっという間に力尽き、周囲は闇に包まれる。山の夜は暗い。人工の明かりがほとんど見えず、真っ黒に塗りつぶされた物言わぬ山々に取り囲まれ、都会から来た客の中には不安を覚える人もいる。けれどすぐに満天の星に感嘆の声をあげるのが恒例だった。 「・・・・・・すぐ、夜になって夕食だし、それも終わったら、寝るだけだし、その前に」  おれの部屋、来てもいいですよ。  来てください、という勇気は無かった。 「・・・・・・あー、失敗した。今、カメラ持ってきてれば良かった」 「・・・・・・は?」  それ今言う必要ありますか? 確かにうちの夕日はきれいだけど、そんなん明日だって見られるじゃないですか。どんだけ写真好きなの。  こっちがどれだけ勇気を出して言ったか知りもしないでそんなふうに話を逸らすのは、遠回しの拒絶なのか。  変に脱力してじわりと涙が滲みそうになるのをぐっと我慢する。  だって、付き合って一年でその間に会ったのはほんの数回。正しい距離感がつかめないのはしょうがないじゃないか。  出水がそうやって瞬時にぐるぐる言い訳をしているのをよそに、太刀川が「あーあ」と残念そうに声をあげる。その割に、顔には実に良い笑みが浮かんでいた。 「撮り逃した。もったいない。今の顔もそれはそれで可愛いけど」  そうしてふにっと頬を軽くつままれる。 「さっきのお前、すごい良かった。可愛いし、色っぽかった」  シャッターチャンスだったのになぁ、と空を仰ぐのに、周りの景色なんて全然目に入ってないみたいだった。 「・・・・・・太刀川さんって、ほんと」  いくらでも詰る言葉は出てきそうだったのに、言葉がつまって出てこない。  太陽はほとんど沈んでいて、家の中から漏れ出る暖色の明かりが二人を照らし出していた。逆光になった出水の顔がどんなに赤いかなんて、きっと太刀川にはわからないだろう。それだけが救いだ。 「だいすき?」 「さいあく!」  平然とそう付け足そうとする太刀川の言葉を否定して裏口に向かう。 「ひでぇなぁ」  まるで本気で受け取られていない。ゆっくりと足音が後を追ってきて、それに安心する自分が心底救えない。 「今日、やっぱり来なくていいです。おれ眠くなる予定なんで」 「なんだよそれ。楽しみにしてるんだけど、さっきの続き」 「残念でした。太刀川さん明日は山登るんでしょ。早く寝た方がいいですよ」  本当は僅かな逢瀬も惜しい身なのはお互いわかっているから、こんなのは戯れだって知っている。意地を張って時間を浪費することは避けたいから、つれなく翻しておいて、許すタイミングを見計らってるだけだ。 「それには出水、補充しないと」  だからちゃんと待っててな。  裏口の扉を開ける直前になんなく追いついてきてそうやって後ろから耳元に、直接教え含むように言われれば、もうこれ以上意地を張る必要もなかった。 「・・・・・・鍵は、開けといてあげます」  それでも両手を広げて歓迎するのも悔しくて、こんなふうに可愛くない返事をしてしまう。ああ、またやってしまったと後悔するけれど、後ろから太刀川さんが笑う声が聞こえたから、まぁいいかと思うことにする。  とても、幸せそうな声だった。
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itose01 · 7 years ago
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くだらない話
※中高生がすぐ手にメモとるのかわいいって話。
 あたり一面を平らにできるほどの威力を持つトリオンは、あの白い指先から生み出される。  自分の節くれ立った手とは違って、箸より重い物なんて持ったことがありません、洗い物なんてしたこともありませんと、でもいうように滑らかに澄ましたその出水の手を、太刀川はある種の恍惚をもっていつも眺めていた。  その白い手がトリオンキューブの発する淡い明かりに照らされて暗闇の中に浮き上がるとき、妙に興奮するのだ。  その、出水の滑らかな手の甲が、今日はなにやらひどく汚れているようなのを遠目に見て、太刀川は「んん?」と小さく唸って首を傾げた。
 珍しく隊室にも寄らず同学年の連中と食堂のテーブルを囲んでいるのは定期テストが近づいているからだろう。そのおかげで高校生たちには多少のシフトの配慮がなされていたはずだ。集まって最後の追い込みといったところだろうか。  がんばっているなぁ、と既にその難を逃れた太刀川は他人事のようにそれを眺め(大学ではさらなる地獄が待っていることをこの時はまだ知らない)、その中に見慣れた明るいふわふわの頭が揺れているのを見て知らず頬がゆるんだ。なにやら隣の米屋に向かって一生懸命話しながら、持っているシャープペンを忙しなく動かしている。  出水が同学年だったら、自分にもあんなふうに教えてくれただろうかと思うと、そうではないのが少し惜しいような気もした。自然浮かぶのはスパルタな同級生の面々だ。意外に思われるかもしれないが、「どうしてわからないんだろう?」という純粋な疑問を含む来馬の視線が実は一番心に突き刺さる。  そんなことを考えながらな���となく出水の手元を眺めていると、ふと、その手の甲に目がいった。いつもは日にも焼けず、近くで見るとうっすらと血管が浮いているように見えるそこがひどく汚れている。  そこを見つめながらそっと近づいてみると、どうやらマジックで字が書いてあるらしいと知れる。さらに気がつかれないように後ろへ回り込んでみる。そうしてようやくそこに何が書いてあるかわかった。途端、太刀川は思わずがしりと出水の手を後ろからつかみ上げていた。 「おわっ!・・・・・・って太刀川さん!?」  ぐしゃりと、ノートを大きく歪んだ線が横切り、同時に米屋の逆隣に座っていた三輪の表情も歪む。おいおいちょっとは取り繕おうぜ、と頭の隅によぎるがそれを口に出してさらに三輪の不興を買っている場合でもない。 「これなに?」 「へ?・・・・・・ああ、これですか?」  そうして本人も忘れていたらしいその手の甲を僅かに掲げて自分の目の高さで軽く眺める。そこには黒のマジックで『米屋』とでかでかと書かれていた。 「ああこれ、米屋がーー」 「なんだお前、浮気か」 「、はぁ?」  何をばかなこと言ってるんですか、とでも言うように半眼になる出水に対して、周囲の反応は様々であった。元々寄っていた眉間の皺をさらに深くする三輪、ぶはっと吹き出す米屋、小首を傾げる辻に我関せずの奈良坂。  けれどそんな周囲には目もくれず、太刀川は不満そうにその字を見つめた。散々目にした出水のやや右上がりの伸びやかな字だ。それが出水本人によって書かれたものだということはわかっている。『米屋』というその字の連なりが、真横で口元を覆って笑いをこらえて小刻みに震えている出水の同級生の名だということも知っている。肝心なのは、出水がその名を自分の身体にわざわざ書いている意味だ。そんなに主張するように。俺のなのに。そう思ったから、そう思うままに口に出した。 「お前、俺ののくせに他のやつの名前なんて書いてたらだめだろ」 「は、はぁ!?」  何言ってるんですか! とわめく出水を軽くいなして隣の米屋に目を向けると、ぶんぶんと首を振って否定する。けれどその口端が誤魔化しようもなく震えているのも太刀川の動体視力にかかれば簡単に見てとれた。 「どういう発想ですかそれ!」 「いや、だって自分のものには名前書くだろ。それなら出水には俺の名前がないとおかしいじゃねぇか」 「小学生! 発想が小学生!」  意味の分からない持論を言い放つ太刀川とそれに噛みつく出水に、普段の苦労が忍ばれる。同情する空気が漂う中、奈良坂の「太刀川さんのものであることに反論はないんだな」という発言はあえて聞かないふりをされた。 「だいたい、別に米屋の名前書いたんじゃなくて、こいつが!英語のノート貸せって言うから忘れないように書いただけです!」 「だったら『英語』とか『ノート』でいいだろ」 「どう書こうがおれの勝手じゃないですか!」 「いや、だめだ。俺が気に入らない」 「わがまま!」
「太刀川さん、それって嫉妬っすか?」  誰もあえて止めに入らなかったところへ口を挟んだのは米屋だ。話題の渦中にいながら良い具合に矛先を向けられなかったにも関わらず、そこへ敢えて突っ込んでいくのは攻撃手たる所以か個人の性質か。辻あたりは後者だと即答するかもしれない。 「は?」 「妬いたりしちゃったりとか」  そう面白そうに問う米屋の言葉を咀嚼し、けれどすぐに太刀川は「いや」と否定する。 「妬く理由はない」  出水が他の誰のものでもなく自分のもので、太刀川隊のものだってことは疑いようがないけど、でもそれじゃあこれは道理に合わない。間違ってる。それなら正されるべきだろう。  そう自明の理のように言い放って、「これ」と掴んだ出水の手をもう一度上げてみせる太刀川になされるがまま、出水は諦めたようにうなだれたまま「あーもー」と唸っているけれど、その頬がうっすらと染まっているのは米屋の位置からはしっかりと見えた。 「・・・・・・浮気かって言ったくせに」 「言葉のアヤだろ。まさか、お前ほんとに浮気ってんじゃないだろうな」 「だったらどうだって言うんですか」 「とりあえず、その手切るか?」 「おれ生身だから! ちょっと本気っぽく聞こえるからマジやめてこわい」
 そうして本気と戯れの境界もわからないまま続けられる不毛なやりとりは三輪の「隊室でやれ」という絶対零度の声に遮られるまで続けられることになった。
おまけ① 「弾バカー、数学のノート貸ーして」 「弾バカ言うな。・・・・・・あーうちだわ」 「じゃあ明日持ってきて。手に書いといてやるから」 「って勝手に書こうとしてんじゃねぇよ! おまえわざとだろ!」 「えー、なんのことですかぁ?」 「おまえなぁ! 太刀川さんマジで怖ぇんだぞ! 前のだって消えるまでたまにじっと見てきてマジで切られるかと思った!」 「いやぁ、愛されてんなぁ」 「他人事だと思って!」 (槍弾は高校生らしくてよい)
おまけ② 「な、出水、次のレポート今月末だって」 「はいはい」 「忍田さんが明日までに報告書出せって」 「りょうかいでーす」 「前言ってたマンガ、明日持ってきてくれよ」 「いいですけど・・・・・・ってなんでそんな不満そうなんですか」 「なんで俺のことは書かないんだよ。忘れてもいいってのか」 「忘れそうなことならちゃんとメモとりますけど」 「お前、ほんとわかってねぇな」 「太刀川さんこそ」 (『太刀川』って書いてほしい太刀川さんと、太刀川さんのことはあんまり忘れない出水くん)
おまけ③ 「あ、太刀川さん!」 「お前、今度はなに書いてんだよ」 「これ? ただのカウントですって。これなら別に文句ないでしょ」 「カウント?」 「米屋と3時間で何人斬りできるか勝負中なんです! 時間ないんで行きますね」
「・・・・・・いやだめだろ。出水に正の字って絵面がまずやばくないか?」 「俺にふるな。やばいのはお前の頭だ。汚れた目で出水を見るんじゃない」 (前日にえげつない系AVを大学の同級生に借りてた太刀川さんと知識として知っている二宮さん)(太刀川さんそういうのあんまり好みじゃないだろうけど)
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itose01 · 8 years ago
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・太刀出で異国パラレルでちょっとだけオメガバース設定。 ・こういう感じの夢を見たんです…起きた時、書けそう!と思ってちょっと書いてみたんですが、思ったより気恥ずかしいものになりました。まぁ夢なので…。太刀出二人ともなんかおかしいかもですが、夢ですから…。地雷踏み抜いてたらすみません。
・オメガバース設定といいつつゆるゆる。番の解消というよりアルファは上書き?ができる感じらしいです。運命とかって話は特にない。 ・トリオンの設定ありで、近界風味。異国はアラブっぽいイメージでふわふわ。名前はそのまま。 ・いきなり始まっていきなり終わります。 ・王子×庶民。「番」候補として紹介された少年を慣れないながらももてなして、数日後に控える「番」の儀式に向けて歩み寄ろうとするのだけれど…という前提でどうぞ。
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「あっち側が親父の宮殿、親父らしい派手好みでわかりやすいだろ? 迷ったらあれを目印にするといい。こっち側が俺の領分。装飾にはこだわらないからつまらないかもしれないけどな、中庭の獅子の噴水は結構気に入ってるんだ。中庭を挟んで噴水の向こう側が後宮」  そこまで言って、太刀川は、はっと己の失言に気がつく。 「あー、いや、後宮って言っても親父のな。俺にとっちゃ母親みたいに構ってくれてた連中がいるだけで、俺は、あんまりそういうのに興味はないん、だが・・・・・・」  とはいえ、やがて父親のそれを受け継ぎ、自分にあてがわれた多くの女性がそこに住まうことになるのは目に見えていた。興味がないからといってそれをいつまで翻せるかは定かではない。  そこまでわかっているから、だんだんと小さくなる声に、目の前の少年はぱちくりと一つ瞬きをして、太刀川の顔を見てふきだした。 「殿下、そこまで私に気をつかうことないんですよ」  その少年に笑われることは、不思議と嫌な気分にはならなかった。  彼の名前を「出水」と言った。出自も歳も、どうしてここへ来ることになったのかもはっきりとは知らない。ただ一つ確かなのは、彼がこれから自分の「番」となるオメガだということだけだった。
「気を、つかってるつもりはなかったんだけどなぁ」  頭に手をあてて、うなだれると、出水は「顔をあげてください、殿下」と慌てて手を伸ばしてくる。けれど触れるわけにはいかないのだろう。自分に触れる前にぴたりと止められたそれがひどくもどかしい。次期王位継承者だという自分の立場を忘れたことはなかったけれど、これから「番」になろうとしている相手にここまで遠慮されるような地位だとも思っていなかった。 「それなら出水、俺も気をつかわないようにするから、お前も、俺に気をつかうなよ。これから俺たちは『番』になるんだからな。」  念を押すように言えば、出水は困ったように眉を下げる。 「敬語も、ほどほどで良いし、自分が話しやすい言葉で話して良いよ」  彼の敬語がたどたどしいことは気がついていた。おそらく、そう上流の生まれでもないのだろう。そんな彼がどうやって臣下の目にかなったのかは知らないが、見たこともないような広大な宮殿と豪華な装飾品の中に急に放り込まれて、目を白黒させていた彼を自ら案内に連れ出したのは、早くこの環境に慣れさせたかったからだ。「番」の儀式を終える前にこの生活に倦んでしまったら困る。  まぁ、連れ出したのは、興味深げにきょろきょろ周囲を見回している彼が可愛かったから、というのももちろんあるけれど。 「・・・・・・はい、それじゃ、ここで、殿下と二人でいられる間だけなら」  そう遠慮がちに笑う彼に、太刀川は、まぁ、まずはそれでいいだろうと、満足げに頷くのだった。  彼の言葉の真意は、それからすぐに知れることとなる。
「あっちが図書館で、学者たちが史料の編纂に一日中こもってる。俺はああいうの苦手だから、見てるだけで頭がおかしくなりそうだ。気が向いた時にでも覗いてみ��といい。あっちが一番でかい中庭でな、新年にはあそこで宴が開かれるんだ。剣舞も賑やかでさ、きっとお前も気に入るぞ」  出水は太刀川の説明に律儀に一つ一つ相槌をうち、ときには質問をして、くだらない冗談には笑ってくれて、打ち解けてくれたように見えていた。自分のことを「おれ」といい、普段の彼を思わせるくだけた口調も聞かれるようになっていたのに。だんだんと、彼の返事が鈍くなっていたのに気がついたのは、太刀川が数ヶ月先の新年を話題にした時だった。 「出水、ごめん、疲れたか?」  話しすぎただろうか。突然現れた自分の「番」となる人間を一目で気に入ったものだから、ついはしゃぎすぎてしまった。 「悪い、こんなにいっきに言ってもわかんないよな。まぁ、無駄に広いから、また段々覚えてってくれたらいいよ」 「いえ、違うんです。すみません」  出水はなにやら複雑な表情をして首を振った。笑顔を作ろうとして、途中で止めたような顔だった。だからといって、どんな顔をしたらいいのか決めあぐねているみたいな、中途半端な。 「なんとなく、おかしいと思ってたんですよね。話が噛み合わないというか。殿下は知らないんだ」 「うん? なんの話だ」 「おれ、ここにいられるのは『番』の儀式までなんです」 「・・・・・・は?」  そんなのおかしいだろう。「番」は通常唯一無二の存在だ。たとえ王族の慣習で側室をいくら設けようと、「番」として王の隣にいられるのはただ一人。自分の母だって父親の最愛の「番」としてこの宮殿の中に煌びやかな居室を用意され、亡くなるまで仲睦まじく暮らしていたものだ。それなのにどうして自分は「番」と引き裂かれて暮らさなければならないのか。しかも「番」の儀式までわずか数日しかない。  太刀川の混乱に出水は「えーっと」とこちらも困ったように首を傾げた。 「おれは別に口止めとかされてないんで、隠してるわけじゃないんでしょうけど。うーん、どうしようかな」  そうして迷うようにこちらを見上げる。 「聞かなかったことにしてください、とか」 「できるわけないな」 「ですよね」  じゃあ、まぁ、いいです、と肩を竦める出水は渋った割には存外滑らかに話し出した。 「だいたい、変じゃないですか。おれみたいな学も地位もない子どもが、殿下の『番』だなんて。希少なオメガだからって、男だし。探せば殿下にふさわしい地位も美貌もあるちゃんとした女のオメガがわいて出てきますよ。おれが、ここに連れて来られた理由は、一個だけです」  そうして、彼は新しいまっさらな白い衣の、心臓の辺りをぐしゃりと握った。そこに何があるのか、子どもだって知っている。 「おれのトリオン量、すごいんですって」
*  *  *
 牧畜を生業とする出水の村に突然やってきた国の研究チームは、出水のトリオン能力を知るや否や、両親に金を握らせ有無を言わせずに王都に連れてきたらしい。その子どもがオメガであるとわかったことで、首輪をつけるのはいたく簡単であると知れた。  国のために能力を捧げる神の子ども。王子殿下からうなじに印をいただいて、その身を国の礎とする。なんと光栄なことかと、出水は王都への旅程で百回は聞いた。  そんなお綺麗な御託を並べ立てられたところで、第二性を使った奴隷に成り下がるという事実は変わらない。雇い主が王族であるから少しばかり待遇はいいのだろう。そういう意味では幸せなのかもしれない。けれど、殿下の形式的な「番」になったところで、殿下の本当の「番」は王妃としてふさわしい人間にすぐに上書きされてしまうのだろう。そうして自分はそんなことも知らずに発情期の度に狂ったように既に存在しない「番」を求め、そのためにその場所から逃げることもできずに、トリオン供給源として国に一生を捧げるしかなくなるのだ。  けれどまぁ、そんな暗澹たる未来までこの王子に教える必要はない。 「『神』になるには弱いけど、場つなぎくらいにはなるからって。だから、おれは『番』の儀式が終わったら王立研究所に移って、そこで暮らすことに決まってるんです」  身体の自由も奪われて、トリオンを搾り取られながら。そう心の中で付け加える。  本当に何も聞かされていなかったんだろう。目の前の「王子サマ」は唖然とした表情でこちらを見つめるばかりだった。地位も権力も、財力や教養も、何もかも持って生まれた彼に対して、出水は最初で最後の優越感を覚える。愛されて育った、素直な人なんだろう。自分みたいな人間が「番」だと紹介されて、疑いもなく受け入れて、かいがいしく自ら案内までしてくれた。もしかしたら、それなりに気に入ってもらえたのかもしれない。 (それなら、もしかしたら最初の内くらい会いに来てくれるかもしれないなぁ)   王都へ来る道すがら、一つ一つ捨てて来た希望の中でも、およそあり得ないだろうと最初の方で打ち消した可能性だ。研究所に移っても、たとえ新しく王妃ができても、少しくらいは会いに来てくれるかもしれない。せめて発情期に苦しむ間くらい。  彼と話す内に、そんなばかげた希望も持ってしまいたくなってきた。だって、彼はすごく魅力的な人間なのだ。  王族らしい傲慢さも近づき難さもない。気さくに自分に話しかけ、距離を縮めようとしてくれる。多少の同情くらいはしてくれそうじゃないか。  そんな打算が生まれてくる自分の矮小さが嫌にならないわけではないのだ。だから、決して同情をひくようなことは言うまい。出水は、からりと、できるだけ軽く笑ってみせる。 「ほんとは、儀式までに逃げちゃおうと思ってたんですけどね」  言いながら、二人を遠巻きにして、極彩色の花々と立ち並ぶ石像の間から覗く、衛兵の持つ槍の穂先を眺めやる。そんなもの、日常の一部として意識もしていないだろう王子は、眉を寄せてこちらを見ていた。向き直って視線を合わせる。天と地ほども身分の違う相手とこんなふうに目を合わせることになるなんて、一月前の自分は想像もしていなかった。 「なんか、殿下に会ったら、国の為に力を使うのも悪くないな、って思えてきました」  どうして、わざわざ側近たちが自分を王子に引き合わせたのか不思議だったのだ。ほとんど無理矢理自分を故郷から連れ出したように、儀式なんて形式的に済ませてさっさと自分を閉じこめてしまえばいいのに。高貴な身分の王子と下賤な自分を引き合わせ、言葉を交わさせる意味なんてどこにあるのだろうと。  けれど実際に会ってみて、彼らのその選択は至極正しいものだと思い知った。  この人は、この広大な強国を統べるべく生まれてきた人だ。この人の為なら、この身を捧げてもかまわないと思わせる、そういう力を持った人だった。この身体を流れるオメガの血の喚起する感情というだけではない。そういった些末な分類を越えた、人間という種そのものが本能で渇望し、ひれ伏す、そういう強さを持った人だった。圧倒的な強者の資質。  そして、それに相反する自分に対する穏やかな気性。自分を生涯唯一の「番」と思い込み、戸惑いながらも懸命に自分を気遣う優しさ。彼を知ってしまったら、もう逃げようなんて気にはなれなかった。  だから出水は不思議な光彩を宿した彼の瞳をしっかり見つめ返し、笑みを作った。  前を向く。ここに来てしまったからには、自分のやるべきことを全うしよう。平和な生活に飽いていたのも確かだし、どんな苦境にも楽しみを見いだせる性質だと自覚していた。結局、なるようにしかならないのだから。  それならば、残るところわずかである、この宮殿での生活をできる限り満喫することにしよう。
「だから、案内はいいです。それよりもっと話をしましょ? 模擬戦してるところも見たいです。儀式の前に、もっとあなたのこと、教えてください」
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まぁ相手は太刀川さんなのでなんやかんやで最後はハッピーエンドです!  
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itose01 · 8 years ago
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忍田正史の憂鬱
「旅館の女将の若いツバメをやってた忍田さん」というあやなさんとさぁやさんの一連のツイートに感銘を受けて。
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「さぁ、今日のお着物にはどれがいいかしら? 選んでちょうだい」  ずらりと、綺麗に並べられた帯締めと帯留めを目の前に広げ、選択を迫られる。  それが、あの頃のあの人の、気に入りの遊びだった。
 高校生の頃入り浸りだった老舗旅館の若女将は、平日の昼間から訪ねていっても「今日は早いのね」なんてしっとり笑って招き入れてくれる、そういう居心地の良さのある人だった。それは懐の広さというより単なる無関心だった気もするが、当時の自分にはそういう空気が肌に馴染んで、暇さえあればその旅館を訪ねていって奥まった場所にある女主人の自室を隠れ家のようにしていたものだ。  そこで、彼女からは戯れのようにして様々なことを教わった。良いことから、悪いことまで。  若いながらも老舗旅館をまかされる彼女には、年齢に見合わない風格があった。何も知らない高校生男子なんて、そんな女将にとってみれば格好のおもちゃだっただろう。手取り足取り、彼女の思うままに遊ばれる人形の役目というのも、それはそれで気楽なものだった。  張りのある白く滑らかな肌の上に、自分の手で薄衣を重ねさせられるのももう既に慣れたものだった。面倒な手順にもすぐに慣れ、「つまらない子ね」なんて呆れたように眉を下げられた。 「もう、私みたいなおばさんには飽きちゃったのかしら?」  そんなこと露ほども思っていないくせに彼女はそうやって拗ねてみせる。「こんなに緊張しているのに、伝わりません?」と手を握れば、彼女は「信じるわ、可愛い坊や!」とそちらの方がよほど幼い様子で笑った。ひどい茶番だ。  着付けが終わると、最後の仕上げだ。  最初にこの遊びを持ちかけられたとき、神話や昔話によくある選択の試練を思い出した。正しいものを選ばないと酷い目にあうという、あれだ。今思えば、それだけ彼女が魔女めいて見えていたのかも知れない。  ここで問題なのは、「正しいもの」とはいったい何かということだ。ここで求められるのは、決して着付けたばかりの着物の色味に合ったものでも、季節やその後の催しに沿ったものでもなかった。ここですべき正しい選択とは、「彼女の気分にあったもの」を指す。彼女の中では既に答えが決まっていて、それを当ててごらんなさい、というゲームなのだ。要するにセンスを問われているのではなく、いかに女心が解るか、という課題だった。  正しく彼女の求めるものを当てられれば「わかってきたじゃない」とお褒めに与り、間違ったものを選べば「まだまだ子どもね」と揶揄される。どちらも結局は彼女の戯れの範疇から出る��とはなかったけれど、正答率が上がればそれなりに嬉しくなっていた自分は、やはり彼女の言うとおり子どもだったのだろう。  自分の選ばされたそれを解く役目は、彼女の夫にあるということに思い至ってもいなかったのだから。
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「ね、忍田さん、どっちがいいと思います?」  十数年経った今、同じように選択を迫られるなんて思いもしなかった。しかも、あの頃よりずっと難問だ。  不肖の弟子が大学の課題に追われ、予定していた買い物の約束が白紙になった出水はえらく不機嫌だった、らしい。「らしい」というのは、不機嫌だったのは自分と会う直前までで、私と出くわしたとたんにきらりとカラメル色の瞳を光らせて、やけに楽しそうに笑ったからだ。思えば、情けない恋人をおいて買い物に行くのに絶好の相手を見つけたのが嬉しかったんだろう。誘われる勢いのまま流されるように連れ出されて、今、究極の選択を迫られている。 「太刀川さんは、黒とか、落ち着いた色の方がいいって言うんですけどね」  うーん、と片手に持ったパーカーを自分の身体にあてて唸る出水は、どうみてもその意見には納得していない様子だった。 「でも、隊服も黒じゃないですか。制服もだし。私服くらい違うの着たいなーって」  そうして反対側の手に持ったのは、先ほどのものの色違い。目を逸らしたくなるほどの真ピンクだった。身体にあてて、鏡を見る出水は明らかにこっちの方が気に入ってるとわかる。  望まれている答えはわかる。それが自分の視覚と感性が全力で拒否する答えであっても、彼が一番喜ぶ答えは見えている。この問題は十数年前の彼女に出された問いよりもよっぽど簡単だった。日によって変わる彼女の気分を当てるのはなかなかに難題だったけれど、出水の好みは一貫している。というか、そんな色の服もう持っていたよな? ・・・・・・などという問いは機嫌を損ねるかいらぬ反論を招くだけなので決して口には出さない。 「忍田さん、どう思います?」  小首を傾げる出水の期待に満ちたまなざしに、あえなく白旗をあげるのにそう時間はかからなかった。
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「あのさぁ、忍田さんさぁ」
「言うな」 「いやいや、今回は言わせてもらうよ」 「・・・・・・」 「なんで二人でショッピングとかしてんのってのはまぁ、百万歩譲って良いとして? 俺が! せっかく! もっと大人っぽいかっこいいの買ってやるからって話で落ち着かせたのに! あのドピンク買って帰ってきてるわけ!? なんかすっげぇご満悦なの、かわいいけど!かわいいけどさぁ!」 「出水が喜んでいたならいいだろう・・・・・・」 「そうじゃないじゃん! そういう問題じゃないんだよ!」 「・・・・・・染み着いた習慣ってのはそうそう治るもんじゃないってことだ」 「何その遠い目! あいつにこにこして、『忍田さんはわかってくれました!』とか自慢してくるんだけど!? そういうとこで株あげんのずるい!」 「そんなつもりはない!」   -------------------------------------------------------------------------------------------------------
 忍田さんは毎回他の男が脱がせるものを選ばされているという・・・。女将はわかっててその背徳感を楽しんでいるけど、出水くんはわかってないし結局太刀川さんが一緒にいるときそのパーカーは着させないので、そうなることはないんですが。  忍田さんは相手の望む通りに答えるのばっかり得意になってしまって、多くの女性にはそれでいいけど、沢村さんとかが純粋に忍田さんの意見(好み)を聞きたくて質問してもちゃんと答えられない。
沢「そうじゃないんです!あなたの!好みが!知りたいんです・・・!」 太「本人に言ってよ」
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