jamirajamira
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jamirajamira · 8 years ago
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CHOTTO2
咳が出始めていることには気づいていたのだが、かまやしないと肉体試合を設けたら見事に悪化し、頭痛鼻水咽頭痛に悪寒までも勃発してくださったがために、会社を休む羽目になり、病院へいったらば、「症状はいかがなもんで?」主に咳ですがかくかくしかじかで・・・「咳止めとうがい薬、お出ししておくわね。」あどうも「お大事に!!!」
 あの、コンビニでもらうアイスクリーム用のスプーンの銀バージョンみたいな器具でお口の中あーーー言いながらチェックしたりとか、それとなく喉に手や腹に手を当ててみたりですとか、そういう病院的な作業はないのですね。「病欠は三日でよろしいかしら?」あ、ええはい。
ドイツでは病欠の際には、必ず病院へ行ってこの病ケツの紙をもらわねばならないらしい。これがないと、日本のように有給をあてがわねばならなくなる。そんなの死んでも御免だ。死んだら、まいっか逝っとけばいっか。
 終日安静にしビタミンの類をこういった時だけそれっぽく摂取しまくった。翌朝、全快ではないものの出社し、よし働くぞとご迷惑おかけしましたと病ケツの紙を提出。「これあなた今日帰らされると思うよ」お帰りなさいえ?
 ドイツでは病欠の際にこの紙をもらうと、そこに記入されている日数分仕事をしてはならないという法律があるらしい。ありがたいんだか無駄におカタいんだかどうなんだか。
 水曜に三日分出されたものだから、土日も繋がって不本意な五連休と相成ってしまった。ここまでくるともう特技、スキルです!と胸を張ってもよいのではないかと錯覚し始めるほど、ほぼ毎日行っていること、海外ドラマをBinge(やめられない止まらないかっぱのえびせん状態で一気にシリーズを観るの意)することを丸三日続けた。
 体調が芳しくなってきた土曜、普段手の届かないところの油汚れを根こそぎ掃除し、買い出しに行き来週の弁当おかずをこれでもかとしこたま仕込む。略してしこしこ。この国に来てからというもの、ドイツ語は伸びる気配を一向にみせない、ないし意欲も皆無なままだが、主夫力だけは右肩上がりだ。
 右肩上がった人なんてみたことないしいたら不気味なことこの上ないななんて思いながら一週間ぶりにランニングへ出かける。暖かくなってきただけで嬉しい出来事など特にないのに気分が高揚する。
 ホップステップジャーンプのテンションで走っていたら木の枝をタッチしようと実際にジャンプしてしまった。誰もいないから枝とハイファーブだよ☆
 チリンチリーン
 自転車に乗った男女が直後追い去って行ったがおそらくもう会うこともないだろうし面も割れてないからよしとしよう。一人のエレベーターで鏡をみながら小躍りしていたら突然ドアが開いた時の気まずさに近い感覚を覚えた。
 日中は中を散歩できるようになっているのどかな墓地の周りを走る。外壁沿いに。すると着信音か?と耳を疑うほど絵に描いたような、mp3化されたような素晴らしく整った鳥のさえずりが聞こえてきた。聴いていたipodを一時停止してそのさえずりに耳を澄まし、みやると、木々の向こうに優しく光るお月たま。懐かしいにおいもした。かぶとむし?
 昆虫のにおいが果たしてフレグランスとして成り立つのかどうかは迷宮入りにしておいて、とかく懐かしい、平和で温かく健やかランニングであった。実物はさっき食べたポテトサラダに混入させていた玉ねぎのおかげ様でとんでもないスメルをお口��ら拡散していたので、小さい幸せみつけて微笑んでいたのは本人だけで、他の通行人は大いに迷惑していたことだろう。クサッ
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI11
彼はそれなりに英語で意思の疎通をはかることができる。映画や、海外ドラマをみても大体の流れを理解できる。好きこそものの上手ナレと人は言ったものだが、あながち嘘ではないと思った。昔から英語で歌われる曲を口ずさみ、歌詞を覚えてはディーヴァが憑依したような気になって歌いこむのが好きだった。 初めて手にした洋楽のアルバムは、マライアキャリーとブリトニースピアーズだった。当時は歌詞の意味を理解しようとするのではなく、とかく耳で覚えて歌おうということに集中していたため、大人になった今その内容を理解し、なんとまあ、と良くも悪くも曲に対する深みの増したのを味わった。 幼少期の記憶がまた蘇る。家族の読む新聞を、いつか自分もすらすらと読める日が来るのだろうかと疑問に思っていた頃のこと。漢字の数の多いこと!と子供ながらその夥しい種類の豊富さに、チャレンジ一年生する前から圧倒されていた。 が、義務教育のおかげ様で、人並みに漢字が読めるようになり、疑問だった新聞も、テレビ欄を中心にだが理解できるようになった。大人に近づいた手ごたえを感じた。 中学に入り英語の授業が始まると、また同じ疑問が再発と相成った。これを理解できる日が果たしてくるのか私の人生において。抱える疑問を紐解こうと、授業には比較的興味を持って臨んだ。 そんなこんなで、どんなこんなで成人し22歳と数か月を過ぎてお国を出てから、生の英語の壁にそれとなくぶつかった。恥ずかしい思いもし、屈辱も味わった。 序盤のこっぱずかしいので覚えているのは、ラオスという国を練り歩き、バンビエンという町に滞在していた時の事だ。幼少期、中学生を経て成人した自分をまた回想する。 アメリカに留学していたことのあるという日本人の女の子と、イスラエル人数人とで遊ぶながれで、じゃあゆるりと草でも吸いましょうかとなり、ひっそりとイスラエル人の泊まる宿の一室でいただいた。 ぶりった状態、ハイになった状態のことを英語ではstonedと表現するのだが、その意味を知らなかった当時の彼は、石のように固まったみたいってことだよねーそうだよねわかるーうんうん。と知ったかぶって会話に参加していたところで日本人女子に笑われた。 「ぶっ!ごめんやで笑ったら失礼やけど、意味ちゃうでー」まああの時のこっぱずかしさったら、高校時代、町中で横断歩道の向こうから手を振る同級生の女子に手を振り返したら実はその子は彼の隣にいた別の友達にセイハイしていたのを二の腕揺れんばかりに振ったあとに気付いた時並みだった。 人は失敗や間違いから学ぶ。それを恐れては進むものも進まない、向上するものも向上しない。 そうやって少しずつ人との生の会話の中で英語を培いながら、豪州で労働を始めた時のこと。彼はぶどう畑で収穫作業をしていた。雇用主のおじさんに、we are gonna have to come back in two weeks.と告げられ、in two weeksが理解できなかった。なんだよ二週間の中にって。二週間の中ってそんな表現ありかよ。そんなシンプルな英語を説明するのにやきもきしているおじさんの顔を、はてな?と彼はしばらく見つめていた。 正解は、二週間「後」。また賢くなった彼は、気がつけば今度は豚小屋で子豚の尻尾を切り落とすという残忍な仕事に就いていた。毎日何百と生まれくる、とある子豚映画でみたあのまんまの可愛い生命の、尻尾を切っていた。 これはさすがにできない、残酷すぎるよ人間。と挫けそうになったが、そこで働くフィリピン人に、仕事だからね、慣れるよ。とさらっと言われそんなばかな、そんな簡単に慣れるものかと思い悩んだ翌日にはあらびっくり慣れていた。 人間、追い詰められ選択肢をなくされると、大抵の環境には対応してしまうんだな、人間として息をし続ける以上、そうやって感覚を麻痺させるなり誤魔化すなりして、生き延びるようになっているんだな本能の部分で、などとまたかつてない感覚を知った気になり彼は、来る日も来る日も子豚の尻尾を切り、餌付けした。 三か月がたとうとしたある日、いつものように子豚の世話をしていると、雇用主のイギリス人(年のころ50ぐらいだろうか)に、指示された内容が理解できないで少しそ��場で停止していると、小馬鹿にしたように笑い、早口で軽く罵られた。 これまでさまざまな国のさまざまな言語を話す人たちと知り合い交流をしてきたが、このようにあからさまに見下されたのは初めてだった。もし彼が魔太郎だったならば、コノウラミハラサデオクベキカと黒魔術をしかけるところだったろう。イギリス人よ幸運だったな、俺に黒魔術は使えない、と心の中でその悔しさと屈辱を嚙み潰した。 その後も、言葉の壁にあらゆる場面でぶち当たった。ぶち当たったなら今度は、英語しか話すことのできないネイティヴ英語圏の人達と、今度はどりゃせいこちら日本語と、なんなら方言も話すよと胸を張ってやりあえる自信を身につけてゆくよりないな、その都度失敗しては学び、ここまで至った。至って彼は、まだ息をしている。 言葉がなくとも通じ合うこともある、ビビビと何かがつながることもある。言葉があればさらに通じ合う。「NTTドコモのCMみたい」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI10
信じるという感覚に長けていないと彼は言った。それだけでなく、二十代の後半から三十路をさしかかるその時まで、彼にはあらゆる感情や感覚が欠如していた、と自己分析をする。 ここまで読み進めた方に今更説明の必要もないが、これは彼の、じぶんの話だ。とにかくじぶんによるじぶんのための脳内運動会だ。 昔から、映画やドラマ、動物を深く知ることのできる奇想天外なバラエティ番組などをみて感動の涙を流すことはあったが、それは単純に絵空事というか、別世界の出来事としてとらえたうえでの感動であったように、彼は思う。 他人に共感し、共に喜び共に悲しみ、共に怒るということが、心の底からはできなかった。かといって冷徹なサイコパスないしソシオパス、というわけでもないし、皆無なわけでもない。ただ、人々が心底共感しているのと同じように感じることができなかった。 人を愛する感覚も知らないままなんとなく楽しい風な人生を進めていくのかな、それはそれでいいか、と彼は少し空虚な気持ちを抱えたが、実生活に何か支障をきたしているでもないので、それなりに日々楽しく過ごした。 そんなある日、カナダである人と出会い、何故か夜眠れなくなった。「それが恋やで」友人に指摘され、こ、これが。そこからは毎日がフレッシュお野菜のようにみずみずしく変化した。と思った二分後にこの世の終わりかのごとく沈んだりもした。こ、これが恋か。 結���その人とは彼自身の未熟なところや、思考の相違、ビザの問題などから別れることとなったが、自分の中にこんなにも他人を思って一喜一憂し、涙をも流す心があることを見いだせたことをありがたく思った。 ロンドンに移り住んだ彼は、再びある人と出会い、出会ったその瞬間から恋に落ちた。やはり夜眠れなくなった。テキストメッセージの来るだけでフレッシュお野菜と化した。 この出会いまでの約一年間、彼はKOIをみつけようとデスパレートだった。これはKOIにつながるかもしれないとKOIにKOIして期待したこともままあった。そのうちの一つは、肉体試合目的でのみ知り合った相手だったが、試合の前後も会話を楽しめる方だった。自宅のクリーナーがやめちゃったというので、代わりに家の掃除をして小遣いをもらってなおかつ試合も楽しむという一石二鳥をしばらく続けた。 ある日、いつものようにお掃除兼試合を楽しみにルンルンとその相手の家に向かったが、友人が訪れていて、そのあとは出かけるということをその場で知らされ、結果掃除だけしにきたアジア人クリーナー、という悲惨な現場に、絶望し、終了した。 その次は、年上の相手だったが、出会った初日にS&M的な流れになり、肉体試合前にビンタされ、いやそれはちょっと求めてない、と拒否した。なんだったんだろうあいつは、もう会うこともないなと思っていたが、翌週風邪で寝込んでいるとスープを持ってきてくれるという真逆の待遇に、心が揺れた。が、彼がモスクワに数か月仕事で滞在するなど、タイミングやら何やらで会わないうちにその相手に恋人ができ、終了した。 その他にも散らかり放題だった彼がようやく恋に落ちた。散らかしきった後、半ばあきらめきっていたようなタイミングで。物事は、期待していないとやってくる。官製はがきで応募していた懸賞も、それ自体忘れきっていたころに当選の通知がくる。そんなものだ。 彼は、フレッシュお野菜とこの世の終わりを、その恋人と過ごした一年弱の間に、山ほど経験した。結果これまたビザの関係その他諸々でさようならと相成ったが、これまで他人や友人に共感できなかった自分が随分変わった。誰かを深く愛することでぷよぷよの超連鎖ぱよえーん並みにその他の感情もつられて大きく成長した。 人とのつながりをきちんと無意識に意識できるようになった。失っても得る物のあることを学んだ。フィジカルにも、エモーショナルにも、他人と触れ合い人間関係を築いていくことの愛おしさを学んだ。 信じるという部分は、まだ完全��心が理解できていないな、信じるという気持ちには絶対的な要素が含まれているためだと彼は捉える。信じた結果その絶対が覆されると人は動揺し、失望する。これはこの先の人生でゆっくりつかんでいけばよい。と信じることを考えるのをやめた。「ぱよえーん」
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jamirajamira · 8 years ago
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CHOTTO1
ちょっとダウンタウンへ行ってきます。英語ではI'm going downtown という。通常なら、ダウンタウン「へ」向かうのだからtoをつけたくなるものだが、この場合はつけない。今ダウンタウン「に」いるのならinだってつけちゃいたくなるが つかない。当たり前についてくると思い込んでいるものが、ついてこないことが、この世にはある。 当たり前にもらえていたスーパーのレジ袋だって、エコ意識の高まったこのご時勢そう簡単に無料ではついてこない。牛丼屋の紅しょうがだってついてこない日が近くやってくるかもしれない。 全てがばら売り・オプションで追加というのも物寂しい気がする。  車を購入してタイヤは別でと言われた日には、車体部分を地面にこすらせて走るわけにはいかないので、 追加せざるをえない 。たこ焼き屋さんでたこがオプションだったなら、焼き屋さんでしかなくなってしまうそれってもはや水でといた小麦粉を丸く焼いただけじゃんになってしまう。 普段当たり前にそこにあるものは、当然ずっとそこにあるものと思いがちだが、そうでもないらしい。例えば当たり前に生きている自分がこの後ダウンタウンへ向かう途中車にひかれて死ぬことだってあり得る。それもまた人生。 日本にはあまりダウンタウンと呼べるような中心地がないように思う。東京なんてみてごらん駅や町によってがらりと雰囲気が変わり、外国人に「東京だったらどこがイイの?中心ってドコなの?」と聞かれる度にやや困惑する。Lost in translationの映画でも印象的だったスクランブル交差点のあるSHIBUYAか?YAKUZA映画の影響でゲットーなイメージを持つ新宿か?お手軽に伝統文化と寺を味わえるアサクーサか?どれもダウンタウンと呼ぶには少し違うような気がする。 ところが某四国某県某市には、ダウンタウンが存在する。人々はこぞってそれを「マチ」と呼ぶ。ちょっとマチいってくんネ。学生時分には、高校がマチに近かったのもあり、帰り道にマクダーナーやモスボーガーに立ち寄り、食べてはくっちゃべって、帰宅後また夕飯を食すという今では考えられないようなエナジェティックな食生活を送っていた。若者の胃は偉大だ。 今後、かぶれたい気分の日には、ちょっとダウンタウンいってマクダーナーしてくるね。と言ってみるのもいいかもしれない。当たり前の生活に5ミリほど変化がついて、何かしらのウキトゥキ感を味わえる、のか。
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI9
彼はとても頻繁に夢をみる。現実世界の延長であることがしばしばで、色恋に思い悩んでいるときなどは面白いほどに恋仲の相手が登場する。そうでないときは、旅先の風景であったり、誰かと肉体試合をしているものであったり。 つい先日見たものは、彼が内戦下のシリア、ダマスカスかアレッポのいずれかにいて、カオスと化した市場の中で撃ち合う人々、そのうちの何かしらのグループに属し列に流れる自分の状況を把握できないまま恐怖とストレスに発狂しそうになるシーンだった。同じグループに属しているであろうシリアの少女が、おもむろにセルフィーを撮り某インスタグラムに投稿しはじめたところで、これは夢だと気づく。 夢の中で夢と気づいて、なおもその夢を眠ったまま続行する。目を覚まし、忘れぬうちにと携帯電話に箇条書きでメモをとる。そして起床後夢占いのサイトにキーワードを入力し、睡眠中の彼の脳内で一体どういった情報と感情の整理作業が行われていたのか検証する。 大抵が、不安や心配からくるストレスを夢の中でドラマティックに映像化しているという結果になる。今朝は、日本国内のどこかの坂道を、勢いよく目的地まで臨場感たっぷりに自転車に乗って向かうというものだった。信号あたりで衝突しそうになりはっとする。道の反対側にはフランチャイズのラーメン店。 自転車とラーメン。ふむ。彼は思い当たるふしがないか考える。ラーメン食べたい。自転車修理に出さねば。 以上やんけ。現実世界での課題と欲望をよくもまあはっとする映像に変えてくれたものだ。自分、という言葉の意味をもふと考えてみる。脳味噌で思考し、そこから体のあらゆる細胞に指示を出しているのだから、脳味噌が自分なのか。感情が突き動かされると胸が躍動したり痛んだりするから、心臓が自分なのか。外部からの情報を吸収して映像化、音声化する目や耳が自分なのか。己の意思を他人に伝える口が自分なのか。 夢は、己が意図せずともみる。脳味噌が勝手に色々をでっちあげ作り上げる。自分と脳味噌はそうしたら別物じゃないの。自分とは一体何なのか。 夢の回想から発展し、彼はまた幼少期の疑問を思い返した。鏡に映った自分の顔をまじまじとみつめて、こいつは誰なんだろうと首をかしげることがあった。こいつの声も、趣味趣向も、誰も知らない秘密も、全部知っているが、この顔が自分ということが不思議でならないと三分間ほど停止する。 さらに、自分の体に残るほくろや傷跡、髪の毛など、常に細胞達は生まれ変わって更新されているのだとしたら、幼少期の自分と現在の自分もまた他人なのではなかろうか。そうだとしたら、尚更俺は誰だ。 鏡に映った姿が自分なのだろうけれど、他人から見る自分と自分が認識する鏡の自分はこれまた別物かもしれない、イグアナの娘? 同じように、他人の顔を見て、こいつも誰なんだろう、と首をかしげる。こいつも、自分と同じように赤子からスタートしてここまでさまざまな事柄を経験し、今自分の目の前に立っている。こいつの脳内でも日々さまざまな思考が駆け巡り、それが声となりアウトプットされ、自分と交信する。 夢を作りだす脳みそも他人、幼少期の自分も他人、世の中他人だらけじゃないか。彼はちょっと、もう何を信じてよいやら分からなくなりそうに思った。まあ、よしとしよう。もともと彼は信じるという感覚に長けていないのだし、ちょうど良い具合に楽しく自分とも他人とも交流を続けていかれるなら、それでよしとしよう。「いい塩梅って言葉、いい塩梅だよね」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI8
欧州に住んでおいてなんだが、過去豪州、北米にも住んでおいてなんだが、彼は先進国を旅することにさして興奮を覚えない。整った街並み、整ったシステム、整った物価、整った交通機関。生活するうえで便利この上ない欧米諸国を訪れて、歴史的建造物や圧巻のマザーネイチャーを目にする。わあ、確かに美しい。しかし興奮は、しない。 何故なのか。彼はまたふと、真っ白に整った新築の住居内で、これまでの旅、その興奮ポイントを思った。それはきっと 日本ではいらないやつー、となり、はるばる船に乗せられドナドナ売られていった車達が第二の人生をエンジンフル回転で歩んでいるため排気と活気に満ち溢れた道路のその脇に無数に構える屋台で数十円の飯を右手で食べる、ということもなければ、 バスの時刻表はあるのになぜだろうなぜかしらかれこれ五時間車内でスタンバイしているよ、満員にならないと出発しないなら時刻表の存在意義って一体、と首をかしげることもない。 ずたぼろにくたびれて穴の開いたメタリカやミッキーマウスのTシャツを無造作に野性的に着こなした、それってかえってお洒落なんじゃ、と一瞬勘違いしてしまいそうな子供さん達が、通りすがりの外国人に写真を撮られて嬉しさのあまり奇声を発しながら飛び跳ねることもなければ、 ちょっとあんたこんな所でなにしてるの。寄ってきなさいよ、ほら、お茶、お菓子、つまんで、へえ日本から来てるの、日本ったら素晴らしいじゃない、トヨタソニー横浜タイヤどれも特別なクオリティよねコラー!!どこほっつきあるいてたの!!これ私の息子ようふふ。とドタバタ劇を二分以内に自己完結させる、絵にかいたような肝っ玉母ちゃんに突然もてなされることもない。からなのではなかろうか。 観光に興味のない彼は、ストレンジャーとの接触に最も興奮を覚える。知らない人としゃべっちゃだめ、知らない人が写真撮ろうとするなんてヘンタイ、知らない人の作った知らない食べ物なんて食べたらもう知らない。そんな考えが前提の先進国ではやたら滅多に勃発しないこういったランダムな出会いと瞬間を、とても大切に思う。 彼が旅をしていた時分は、まだスマートフォンも世に蔓延る前だったため、行先が分からなければその辺のストレンジャーに道を聞く。それで仲良くなって懇切丁寧に手助けをしてもらったり、結果お宅までお邪魔して寝泊りしたり、大切と思う瞬間が多々あった。 スマートフォンを手にした今、アプリケーションでもってストレンジャーと出会いまた違った意味合いでお宅までお邪魔して寝泊りはしているが、これは断じて全く別物である。 時代や文明の進化と共に人の出会いも変化してゆくもの。便利な整った環境が常となった先進国だから、ストレンジャーとの交流なくとも何の問題もなく生活できる。利便性と引き換えに人間の生々しさを失った。そんなにも先進国に無感動なのなら、住めよ、興奮を覚える国に。誰に言われたわけでもないが、仰る通りだと彼は思う。ないものを堂々とねだって巡るのだ人は。「でも実際住むとなると空調設備の整った部屋で海外ドラマみながらぐだぐだできるこちら方面がいいヨナ・・・」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI7
においと記憶の関係性について、突然に彼は考えた。知らない国の知らない街、の知らない建物の廊下を歩いていて、懐かしいにおいがしたすみれの花時計、と大黒先生の歌詞が流れてきそうになる瞬間がある。 物質そのものは似ても似つかない異国のものであるはずなのに、小学生の時に学校でそれとなく香ったにおいと同じに感じる。自分たちのみえない粒子、マイクロブリーズ?マイクロソフト?のレベルで様々な成分が合体したり分裂したりして、偶然にもおなじにおいを発するのか。においを研究し続けている花王やライオンの洗剤担当の方々に機会があれば詳しくお話を聞きたい。 その懐かしいにおいに、心踊らされて歩行中悦に入ったり、実際小躍りをしたりする瞬間すらある。彼にとってにおいは、本能的に好き嫌いを判断する重要な五感のうちのひとつなのだと思う。 日本人を筆頭に、アジア人は比較的体臭があまりない。そんなものだから、ひとたび脇からスパイスの効いたにおいを放つ人がいると、絶対悪として社会から忌み嫌われる。彼もそのにおいに心地よさは覚えないが、海外では自然な体臭こそ最高のフェロモン!とかたくなにデオドラントの類を拒む人たちもいて驚いた。 人工的に作り出されたさわやかな石鹸のかおりや、甘くトロピカルな香水、できる男を演出する紳士的なアフターシェイブなどは、所詮偽物、天然素材で勝負しなよ、というところなのだろうか。潔さと野性的な情熱を感じなくもない。 が、いくら海外にかぶれたからといって、彼にそこまでの適応力はなかった。俗に加齢臭と呼ばれるようなにおいを、肉体試合中に感じ取ったら最���、一挙に興奮のゲージが下がってしまう。そんな偉そうなことをぬかしつつ、すごく疲れた一日の終わりなどに、それと同じにおいが己から発せられているのに気づき大急ぎで風呂に入ることもある。白髪も生えてきたし、若作りにぬかりはないが、やはりおっさんだ。 自分と同じフェロモンを発する相手には本能的に惹かれない、という噂を耳にしたが、本当かもしれないなとその時彼は思った。なぜだろうなぜかしら。知らん。
 しかし逆に、客観的に考えて決していいかほりの棚には収まらないはずのにおいに惹かれることもまた、ある。本能的に惹かれている場合。なのだろう。そして一度好きと認知した相手に対しては、かつて苦手だったにおいまで愛おしくなるケースもある。恋は盲目。鼻まで馬鹿になる。 彼がロンドンにいた頃、数回肉体試合をした相手がいた。外見もそれなりに整った方だったのだが、どうしても試合相手以上にステージを進めることはなく終了した。 とにかく口がくちゃい
 程よいリラックスした雰囲気の中試合を開始した途端、眉間に皺をよせてしまった。胃か?胃が悪いんか。途中で、あなたは口が臭いのでわたしは帰ります、と言い放つわけにもいかず、水中に潜るイメージで鼻呼吸を止め、しのいだ。 果たしてこの地球上に一体何種類のにおいが存在するのだろう、そのあたりも花王かライオンの方に聞いておきたい事項として、彼はメモをとった。メモをとり、ふうと息をついた。「うわにんにく臭っ」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI6
欧州の冬は陰鬱だ。朝8時近くになりようやく明るくなったと思ったら、午後3時を過ぎた頃には陽が陰り始める。日中働く仕事をしていると、暗いうちに出勤して、暗い中帰路につくということもざらだ。日本にいるとそこまで意識したことのなかった太陽のありがたみを、こちらへ来てからひしひしと感じるようになった。 週末に太陽がこんにちはをした日には、人々はこの機会逃してなるものかとこぞってぞろぞろ公園へ繰り出したりランニングへ出かけたりする。太陽に反応して土から出て��る虫みたいだが、彼ももれなくその虫の類に属する。人間も光合成が必要なのだ。 彼が現在拠点を置くドイツは、日曜になるとスーパーもデパートも、ほとんどなにもかもが休みになる。接客業に携わる人々もしっかり休めるという意味ではとても良いシステムなのだろう。土曜のうちに買い出しを済ませ、しこたま翌週用に弁当のおかずをこしらえる。一週間分の洗濯も済ませ、壁も家具もとにかく白いその部屋をこまめに掃除する。とてもいいハズバンドになれると信じて止まないが、まずはパートナーを見つける旅に出なければならない。 お馴染みアイフォーンに搭載されたアプリケーションで幾人かと会合も試みた彼だが、どうもしっくり来ない。元恋人と未だに連絡を取り続け、感情を継続して持っていることも他の幾人かとしっくり来ない一因なのだろうが、人間の気持ち(Heartのほう)は己で操縦できるものではない。この半年間で何度となく操縦しようともがいたが、やはりできなかったため、それはそれとして受け入れるという結論に至った。Let it beネ。 人との関係は、ウマに限るなと彼は思った。ウマが合わなければ距離を縮めることもない。家族、友人、恋人、同僚、どんな人間関係においても、ウマなんだ。そうなんだきっとここから愛なんだと歌うアイドル六人組がいたが、きっとそこから愛が始まる前に、まずウマなんだ。 どんなに共通の趣味や話題があったとしても、ウマが合わない相手とは何故だかそれ以上距離を縮めることも、距離が縮まることもない。そして共通の趣味や話題がなくとも、ウマが合う相手とは意識せずとも距離は縮まってゆく。ウマとは一体。 Umamiという日本語が英語でもそのまま使われるようになったらしいが、このウマもUmamiに近い感覚なのだろうか。Umamiは、往々にしてだしの成分だったりするのだろうが、Umami=Dashiでもない気がする。Umamiとは、だしや諸々がいい塩梅にケミストリーを起こして、「あっうまみだわー美味しいこれ」と現れる物ではないか。ウマもまた然り。これとこれが合致したからあなたとあなたは友達ね、はいできた、とはならない。 ウマって何なんだ誰なんだよ。突如湧いて出た、ウマに対する疑問、愛着感その他。彼は、そんなウマが合った結果仲良くなれた友人のありがたみも、この年になってひしひしと感じるようになった。太陽とおともだちだよ!どこかで聞いたことのありそうなセリフだが、太陽と友達になっているわけではなくて、なれるわけでもなくて、近づいたら燃えて死んじゃうわけで。太陽、と、おともだち、に感謝だよ、そういうことです。彼は珍しく晴れた日曜の昼下がりに、深いようで大して深くもない考えに耽った。「ウマお大事に」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI5
子供は、すきなものをすき、きらいなものをきらいと素直に表現する。大人になると、社会生活や倫理観などが絡んでただ単純に好き嫌いだけでは生きていかれなくなることが多い。成長し、学習する過程でさまざまな言葉や感情を身につけ、複雑にされ、時に自ら複雑にしてゆく。 彼はここ数年でおびただしい量の海外ドラマを視聴するようになった。この日みていたのは、ある家族の物語を描いた作品。父親がある日突然、トランスジェンダーであることを告白し、長女は結婚をし子供を二人育てながら一見幸せな家庭を築いていたのだが、ある女性に恋をし幸せな家庭を捨てた。そしてその女性と一緒になるかと思いきやその女性も捨て一人になった。 長男は、とにかく女性関係の散らかった人生を送っていた。ラーバイ(ジュウィッシュでの牧師さん、住職さんのような人)の女性と深く恋に落ち、子を授かり家庭を築こうとしたが、高校時代にセックスをしていた相手が実は自分の知らないところで自分の遺伝子を継いだ子を産み育てていたことを知り、結局ラーバイとの子も流れ一人になった。 一番下の次女もまた、定まった職につくわけでもなく、親のすねをかじり、ゆきずりの男とセックスを重ね何の目標もなく生きていたのだが、ある日親友に、友達以上の感情を持たれていることを告白され、レズビアンになったが考え方の相違で別れ一人なった。 要約してみたが本質はもっと複雑で深い。彼の頭は次から次へ起こる家族それぞれのドラマに魔法陣ぐるぐる状態だった。レズビアンシーンが多すぎてちょっとトゥーマッチだよこれ、とめげそうにもなった。ゲイシーンなら前のめりでみるよと。 性別や性的嗜好を超えた人間模様が繰り広げられるなか、初めて深く愛したラーバイと別れた後も、表面上は大丈夫と振舞っていた長男が、ある人に、辛いときは辛くていいんだよ、と抱きしめられた瞬間風呂場で泣き崩れるシーンで、彼も何故か泣き崩れた。 確かに彼はドラマに感情移入してしばしば泣くが、このシーンでここまで崩れるとは思いもしなかった。泣き崩れながら目を閉じた。ほんの一分ぐらいの出来事だったが、例によって例のごとく、色々な瞬間が脳内を駆け巡った。悲しみや苦しみを涙に紛れ込ませて排出している作業のようだった。心から愛した相手を失ったのが最新のものだったが、それよりも前の、イエメン(アラビア半島のお国だ)が脳内の割合を占めた。 ずっと誰にも告げずに二十年余り耐え忍ばせてきた感情が、誰かに抱きしめられることでどっと溢れ出して泣き崩れた若かりし頃の己inイエメン。 今まで旅した中で一番好きな国はどこですか?という質問に対して、「イエメン」と答えるのは、それほどに彼にとってイエメンが特別な土地なのは、国そのものが、人々が優しく美しいことに加え、そこが、彼が生まれて初めて人前で感情を露わに泣き崩れた場所だったという理由も大きいかもしれない。 このほんの短時間の泣き崩れは、決して悲しみに再び暮れるようなネガティヴなものではなく彼にとって実に心地よいハプニングであった。 大人は割とよく、自分の内から自然と沸いて出る気持ち(Heartのほう)に実直に、素直になることを恐れ、脳味噌や知性で考えた気持ち(Mindのほう)で言葉を発し、人との関係を維持する。自然な気持ちをそのまま伝えることで、人の心を揺り動かすことができ、繋がることができれば、それほど幸せなことはない。だが、こと色恋に関しては、必ずしもそれがうまいこと作用しない場合もある。むき出しの気持ちを表すことで傷つくことを予め防御するために、論理的に考えたほうの気持ちで動き、様子を伺う。つくづく面倒臭いなと彼は心から思った。好きなら好きでいいし、それを伝えればいいじゃん。 子供に物事を教える大人のほうが、むき出しの気持ちで接することは下手くそだよ。小さな子供達のほうが、図体ばかりでかい大人よりもずっと大きなハートで生きている。お子様どもに今後も色々とお教えいただければ幸いです。彼の突然の泣き崩れは、どういうわけかハート勉強会への意欲へと繋がった。人間の感情もやっぱり流れる。「お子様とそうめん流しをすれば全てがうまくいくんだ?」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI4
大人という人々は、しばしば何かに対して責任を持っていたり、持たされていたりする。契約書であったり、誓約書であったり、形も角ばったものになる。角ばるのに比例して覚悟もまた必要である。子供の責任は大概が口約束、少し大きなものでも指切りげんまんではないだろうか。「後生だからこうておくれよ」そう訴えてスーパーファミコンを買い与えてもらった。「絶対毎日散歩に連れていくし世話もする」そう訴えて捨て犬を飼わせてもらった。 彼はその7歳の時に飼い始めた犬に対しては、責任をもっていたような気がする。もともとは彼の兄に「お前が頼めばきっと了承してもらえる」とうまい具合にコントロールされ、自分がどうしてもほしいからというよりは、兄の口車にのせられた結果両親に懇願する羽目になり、なんとなく飼い始めた黒い雑種だった。 うまい具合に弟をコントロールしてまで犬を欲した兄だったが、結果その張本人よりも誰よりも公約を守り世話をしたのは彼だった。欧州で上品に育てられ、公園でフリスビーを優雅に追いかけるシュっとした洋犬でもなんでもない、田舎の犬っころなため、ひとたび散歩中に手から紐が離れると、電光石火の勢いで犬なのに猪突猛進し、近所の他の犬と喧嘩をしては流血して家に帰ってくる、返り血ちゃうんかい、そんな単細胞で野性な犬を、彼はとても愛でた。犬なのに馬鹿みたいな生き物。 山奥に住む祖父の家へ、ある年のお盆に親戚一同が会した際にも、ご多分に漏れず隙をみて逃亡した挙句、隣家の汲み取り式お手洗い、通称ぼっとん便所の糞の壺に溺れて死にかけた。近所の兄ちゃんが軍手ひとつで糞にまみれた犬を救ってくれ一命をとりとめたが、当の本人、いや本犬は何が起こったのか全く理解していない様子で、川の冷たい水で強制シャンプーさせられながらぷるぷるとひたすら震えて���た。 ある夏、彼が自転車をこぎながら犬と散歩をしていた時には、「先をゆくぞ、ついてこい」という眼差しで颯爽と先陣を切って走りながらちらりと彼を振り返ったその瞬間田んぼに落ちた。その直前までは、オオカミ犬漫画の主人公のようにキリっとしていたのに。しかも田植え時で見事に泥まみれじゃないか。 そんな馬鹿みたいな犬だったが、彼にはとてもよくなついた。柵に囲まれていて唯一放し飼いにできる公園に同級生と連れていき、少し遠くから名前を呼ぶと彼のもとに猪突猛進してきた。滑り台の階段にも器用に登ってきた。それにこそばゆいような感覚を持ちつつも、嬉しく思った。今ではあり得ないのかもしれないが、外で野性に飼っていた犬なので、蚤が腹に潜んでいたのだが、それをみつけて退治してやるのも彼は楽しんだ。 彼が高校生になり、ふと思い立ち自宅の庭にテントを張り一夜を過ごしたことがあった。なぜ思い立ったのかは、彼にも思い出せない。思春期の考えることは突拍子もない。突拍子もない思春期の飼い主が自分の小屋の横で眠るのをみて犬が、もう十年近く毎朝やってくる新聞配達員に、その時の朝にだけ吠えて威嚇をしたらしい。彼は深く眠っていたので、のちに彼の父から聞いた話だが、それを知りまた彼は犬を愛おしく思った。オオカミ犬漫画の主人公ぽいキリっとしたことしてくれるやんか。 その犬は、強風とボールと金属音をとても恐れる不思議な生き物だった。欧州の上品に育てられた洋犬なら喜んで追いかけるであろうボールも、目の前にするだけで縮こまってしまう。近所の犬と喧嘩するより怖くないと思うんだが。ドッグフードを与える際に、缶から中身を取り出すスプーンの音にも、縮こまってしまう。ぼっとん便所よりましだと思うんだが。 台風が来ると子供はわくわくする。いかに暴風警報がこの町にやってきてくれるかを心待ちにする。注意報ではなく警報が出ると、学校が休みになるのだ。数十年前の情報なので、今がどういった基準で休みになるかは、知らない。 見事に暴風警報がやってきて、休みになったのは嬉しいが、実際に結構な暴風雨で遊びに行けやしない一日。彼は両親に悟られないようにこっそりと、暴風で発狂寸前の犬を自分の部屋に入れてやった。なんとなく室内犬に憧れを抱いていた時期が、あったらしい。 その日の夜、暴風雨に雷もトッピングされて外は、大自然の恐ろしさ召し上がれ状態だった。彼は犬を連れて散歩へ出た。雨にずぶ濡れながら、時折光る雷にぞくぞく。非日常感にわくわくする彼はなんでもないことを返事もしない犬によく話しかけた。犬は相槌をうつでも、共感するでもなく小便とうんこを続けた。 返事もしないし理解もしていないであろうその犬には、何でも話せるし伝えられるような気がしていた。親友という言葉があまり好きでなければ、多用もしない彼だったが、その犬にたいしては使ってもよいような気がした。誰にも言えないことも言えるよ。相手犬だが。 彼が20歳を過ぎた年の一月、その犬は死んだ。晩年は、上京しシティボーイのなんたるかを模索していた彼に代わり、彼の母が散歩と世話を担当していた。「覚悟しておくように、もう長くないよ」と母から告げられ、正月に帰省した際には、それまでと変わらぬ元気な姿で、よく食べ、よく散歩をし、よくうんこもしてくれていたのでまだまだ生けると高をくくっていた。 がしかし、彼が東京へ戻ると、また体調を崩した。どんなに馬鹿でも絶対に家でうんこはしないという不思議なプライドを持っていたその犬が、漏らして、嘔吐していたらしい。 犬の死んだ連絡を受け、彼は会社に半休を申請し再び帰省した。小屋の前に横たえる犬が、むくっと起き上がってぺろぺろしてくれそうにもみえるが、その体は固くなっていた。 己の実生活に浸透していた近しい生き物が死んだのを目の当たりにして、彼は涙を流した。ぼっとん便所の思い出深い、山奥の祖父の家の裏の畑に埋めた。 あれから干支がもう一周する。大人になった彼だが、未だにその犬の夢をみることがある。その犬は生きていて、外で飼われた犬の、決してシャンプーや室内犬のような上品なものではない臭いも、外で飼われた犬の、ごつごつした肉球や痩せた腹の感触も、鳴き声も鮮明に蘇る。 インドやスリランカを訪れた際には、そこかしこに野良犬がいて、中には彼の犬に似た黒い雑種もいたが、誰にも飼われていないし、誰からもぞんざいに扱われている。命の重さは皆一緒だよ!偽善じみた先進国の慈善事業団体の人たちなら言いそうだが、命の重さは一緒ではないのだな、と彼は思った。どこかの国の知らない人や生き物が死ぬよりも、自分の思春期を共にした犬が死ぬほうが辛い。 流れに任せふざけた人生だけど、年も食ったしたまにはしゃんと考え、色々を思う。彼はすっかり冷めた薄い茶を片手に、煙草を吸いに出かけた。「クロ会いたいな」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI3
彼はここ数年で、初めて心から恋をして、人を愛する感情を知った。長いこと異国を渡り歩いて色々知った気になっていたが、人間の根っことも言えよう部分を何も知らなかった。そりゃあ、世の中にあふれる音楽のほとんどに色恋が絡んでいるわけだわ、とようやく理解できた。時にぶちあげなビートにのせて、時にメランコリックなギターにのせて、人々が歌い続けてきたのはそれはもう、愛がどうとか恋がどうとかいうものばかりだ。解せた。そしてそれらの曲に魂をルフランして歌い上げるアーティストらに共鳴することができるようになった。 これを知る前の彼は、ひたむきに数をこなすことでいつか特別な誰かしらと巡りあえると信じてやまなかったのか、それはもう、割と散らかっていた。散らかりのそのちりぢりのうちの一つを、近所のスーパーで仕入れた味の薄い茶を飲みながら、思い返した。 アメリカを友人達と共に、車でロードを走りトリップしていた三カ月の間に、カンザスシティーに実家を持つ友人宅へ少し住まわせてもらっていた。テクノロジーは発達するもので、長旅を終え、日本で数年の社会人生活を経た彼の手元にはスマートフォンなる文明の機器がござった。 それに搭載された、近距離にいる有象無象の相手と交信できるというアプリケーションを駆使し、友人やその家族達の寝静まった夜中、彼はひっそりと車を走らせた。有象無象と会合するがために。 言うまでもないが、友人の車の走行については無許可、であり、おまけに家を出ようとした時たまたま起きていた友人の義兄に「どこいくの?」と尋ねられ慌てふためいた彼は、「うぉ、ちょっとウォルマートまで」と苦し紛れの回答で翌朝疑いと好奇の目にさらされた。どこの馬の骨が平日の夜中に大型スーパーマーケットにちょっとそこまで気分で出かけよう。 慣れない街の慣れない道を、これまたスマートフォン搭載の地図をみながら運転していると、アメリカドラマでみたことのある、青いランプを点滅させた車に停止を命じられた。「お前はどこへ向かっているんだ?」ちょ、ちょっと友人宅まで「こんな平日の夜中にか?それにお前、危なっかしい運転だったぞ」すみませんこの辺の地理がわからず地図をみながら運転していたもので「で、友人の家にこんな時間に何しにいくんだ」その、友人というか、ちょめちょめと言���ますか、、。「そういうことか。最初から正直に話さないとだめだろう。その場所へ行くならこの道を右に曲がるとよい」 とても怪しい運転をする平日夜中の車の男にも、優しく道案内をしてくれたポリスオフィサーに肝を冷やしつつも感謝し、目的地へとたどり着いた。 この時会合した相手は、メキシコ系の方だったのだが、「姉ちゃんがいるからうちは無理なんだ」では近くの駐車場にて、と予想外に展開していった。あれよあれよと車内で服をはぎ取り生まれたばかりの姿になりいざ試合を開始しようとした彼は、見覚えのある光を視界にとらえた。青いランプ。パトカーやんけ。 これはまずった。非常にまずい。などとあたふたしているうちに、あれよあれよとパトカーは二台集結し、あれよあれよとポリスオフィサーに囲まれた「オゥマイガ。とりあえず服を着なさい。おいまたお前か」え?あ。 これがもう少し違うシチュエイションだったなら、よく会いますね、とか、ご縁がありますね、とそこから始まる二人のストーリー��あるのかもしれないが、さっき停止させられたばかりのオフィサーに、今度は全裸でいるところをキャッチされた場合は、私だってそうなると思います。駐車場の車をのぞいてさっき尋問をした男が全裸で別の男とハローしていたら、出てくる言葉はオゥマイガで満場一致だと思います。彼は自分の置かれた状況に危機感を覚えつつも、異議なし!と何故かポリスオフィサーに同意していた。 身元確認のためパスポートを取り上げられていた十分間、これで強制帰国なんかになったりした日には、「米国滞在中の邦人男性、平日深夜に車内で全裸行為、公然わいせつ罪により強制帰国」とスポーツ誌の小さな枠に取り上げられるのだろうか、などと途方にくれていたが、「お前らあれだぞ、もし他の住民にみられていたりしたら公然わいせつ罪になるんだぞ、家でしなさい」とお叱りを受けただけで済んだ。そして懲りずに少しだけ車を移動させ結局メキシカン宅の駐車場で済ませた。 若気が至ったなあ、彼はこれもまた流れた結果なのだなと妙にその情けない夜を懐かしんだ。愛について深く考えようと思ったら流れ着いた先は何故だろうこの話だった。 年齢を重ねるうちに益々分かってきたような気がする。若さは武器やで、かけがえのないんやで、と先人や先生達が何故やたら口々に唱えていたかを。つい先日、女子高生及び女子大生というもう別次元の生き物のようにとらえていた若者たちと仲良くなる機会があった際、もれなく彼も力説していた。いかに若いうちにやりたい事をやりたいようにやるべきかを。色々やらかして散らかしておけばよい。「年輪とともに塗りたくるフェイスクリームの類も増えていくんやで」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI2
彼は22歳と数カ月を過ぎた頃、お国を出た。便宜上、こうこうこういった目的がございまして、と掲げていた項目はあったものの、実際のところは流れであったような気がしている。 バックパッカーにありがちな、タイという東南アジアの国にまずは降り立ち、ラオス、ベトナム、カンボジアと進んだところで、道端で声をかけられ仲良くなったフィリピン人にまあ面白いほどに騙され、クレジットカードを使い倒された。手元の現金も、引き出せるカードも失った彼は、長旅に出てきますと宣言して出発した二カ月後にひっそりと帰国した。あの時の、もうおれ死ぬ感は、若い時分の彼にはあまりにも重すぎて、夜も眠れないほどに辛く悲しい出来事であった。言うまでもないが、彼は死ななかった。 美味しい話には裏がある、これも古の昔から言い伝えられてきた当たり前の言葉だが、身を持ってそれを知って初めて人はその言葉の真意を理解するのかもしれない。金持ち風を吹かすフィリピン人の美味しい話にまんまと乗っかったその裏で預金を失って初めて。 その数カ月後、彼は懲りずにまたタイへ舞い戻った。人を疑う心が時に己の身を守ることを学んだ彼は、少しだけ成長したのかもしれない気負いで、もう騙されまいぞと中国は雲南省へ向かい、四千年の歴史を持つ国のトイレ事情に辟易しつつ、延べ五日間に及ぶバス移動を経てチベットまでたどり着いたところで見事にカメラを盗まれた。 失敗は繰り返すものである。七転び八起き。じゃあ八回転んだあとは一体。八回転んだらその先はどうなるの。この時点で通算二回転んだ彼はそのあとのことは八回転んでから考えることにした。場面でよくね? このあたりから、彼は人とのつながりを意識するようになる。通算二回転んだ被害額の経済的ダメージをちらちら横目でみつつも、前向きに旅を続けた。 チベットの聖都ラサで出会った地元チベット人達の面白おかしく心温かいこと。言葉が通じなくとも心は通じるんやで!とお好み焼き屋を舞台にした三流ドラマで熱弁されそうなセリフがしっくりくることを、彼はまた身をもって理解した。 標高の高い近い土地特有の空の青さと、陽にやけたチベット人のごつごつした優しく赤い肌を懐かしみながら、今日はここまで。と思いを馳せるのを一旦休め、皿を洗い煙草を吸った。 物足りぬ現状からしばし逃避し過去に浸る己の虚しさを、煙と共に窓外に吐き出す。あたしへこたれへん。辻本清美の名言をそっとつぶやいて。人生はいつだってないものねだりだ。人間はいつだって今持っていないものを欲する。「ハッピーターン食べたい」
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jamirajamira · 8 years ago
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NONAI1
時折ないだろうか。ふと目を閉じて、脳味噌に巡るランダムなイメージや記憶を思い浮かべる。彼は数カ月に一回ほどそういう場面に出くわす。出くわすといっても彼の脳味噌の中で出くわしているだけなので、端からみればおっさんが目を閉じて静止しているだけにすぎないのだが。   そんな端からみて静止しているおっさんが目を閉じて脳味噌をぐるぐるさせている際にしばしば見えるのが、主に幼少時代の残像だ。小洒落たインディー映画のオープニングでそれを映像化したなら、小洒落たフィルムで撮影された野原を無邪気に駆けずり回る小洒落た少年であったり、シャボン玉だったりするのかもしれないが、彼の中の残像は、「そうは問屋が卸さない」と頑なに意味不明瞭なものである。 例えば、7歳のとき。学校から帰り、家族の誰もいないことを確認すると、そっと全裸になり実家のこたつの中に潜んで、得も言われぬ興奮なのか背徳感なのかすらも分からぬ何かを感じ横たわった状態で体操座りをする。例えば、無数の乳(乳房である)が空中をふわふわと浮遊しているのをみて戦慄するという、何度かみたことのある彼にとっての悪夢。それらが何を意味するのか、何故いまだに脳味噌のうちを佇んでいるのか、理由は彼も知らないし、誰も知りやしない。 彼はまた試してみた。ふと目を閉じて。スタート地点は同じく全裸のこたつと浮遊する乳達なのだが、そこからは幼少時代に限らず、かつて勤めていた会社の便所のウォシュレットのノズル部分であったり、いつか食べたみかんの皮の厚さであったり、つい最近見に行ったクラシックのコンサートの演者達がしなやかにバイオリンやホルンを奏でているその動きがやけにセクシュアルに感じられた瞬間であったりと、やはりランダム極まりない。 これは何かのサインだ、とか、お告げだわ、とか、やることなすこと全てに意味があるとも思っていない彼は、ああこんな感じね、とその残像達を誰に話すでも説明するでもなく、手元にある豆乳と一緒に飲み込み、消化する。果たしてその残像達も食物と同じように胃で消化され「これは無駄いらないやつー」と体内の器官に判断された挙句うんことなってでてきているのだろうか。彼も知らないし、おそらく誰も知りたくない。 ここのところ彼がまた件の残像とは別に、目を閉じて静止しなくとも思い返す瞬間がある。これもまた小学時代の一コマではあるので、小洒落たインディー映画なら小洒落たフィルムで再現シーンをお願いしたいところだが、映像化されることはないのでただここに書き記すとする。 学校の帰り道。子供達の生きる世界は今思うよりもずっと小さくて大きくて、通学路から少しはずれて寄り道するだけでもいくばくかのスリルを味わえた。道端の川にその辺で拾った笹の葉だか枯葉だかを投げ込み、その流れゆくさまをひたすら追い続けるという遊び。こんな楽しいことあったろうか!とここでまた得も言われぬ快感と興奮を覚え、その葉っぱの類が見えなくなるまで、消え去るまで追い続けた瞬間。 なんとなく始めたらとんでもなく楽しいゲームと相成った。一緒にいた同級生と共に、またやろうぜと別の日に全く同じ遊びに興じてみるのだが、何故だろう二度目は大して面白くもなんともない、葉っぱ流れてるだけやんけ、で終わってしまう。 よくドラマでみかける、病室にいる患者の心拍数が映し出されたモニターがびゅーんと上がったと思いきや突如ツーツーと底辺を平行に進み、死亡するまるであれぐらいの高低差。なんだったろうなにがそんなに楽しかったんだろう。彼は幼心にそう思って、流れゆく葉っぱを無視して家路につき、残った給食のコッペパンをトースターで焼いて食べた。 この時の���の、もう一度味わえるかもしれないあの興奮に、という期待も、コッペパンと一緒に消化された挙句「これは無駄いらなかったやつー」とうんこになって出てきたのだろうか。今一度言うが、彼も知らないし誰も知りたくもない。 偶発的に生まれでた楽しさは、意図的に作り出せるものでもないし、その瞬間全てが奇跡のように感じられても、同じ状況同じ手段を繰り返してみたところで同じように感じられるわけではない、のか。 昨日作ったパンケーキ超美味しかったから、またつくろうっと、できたよあれなんか生臭い仕上がりになっちゃった。こういうことなのか。 大好きな曲を聴いて帽子のつばをクッとあげたいくらいにやついていたその一年後、同じ大好きな曲を聴いても帽子のつばがクッともスッともあがらない。こういうことなのか。 彼の脳味噌や心の中で、そんな刹那的な瞬間の愛おしさと、期間限定リミテッドエディション感の希少さを、受け入れつつも大事に思っていかねばという動きがあったのかもしれない。この下校途中の記憶が蘇ったのは。 冒頭でおっさんという呼称が飛び出ていたところからお察しの通り、彼ももう世間一般でいうところのいい大人だ。同年代の友人達の多くが結婚し、子を産み、家庭を持っている。「五年後十年後のことも考えていったほうがよい」と大人はよく言う。とてもロジカルな意見だと彼は思う。理にかなっている。 人は、第三者という立場になると、何が一番安心で安全で確実に物事を滞りなく進められるかを至極冷静に判断・アドバイスできる。第三者という立場になると。 当事者である彼には、己の五年後十年後を考えて一番安心で安全で確実に物事を進めることが、木星のあの輪っかの部分を腰にまいてフラフープする方法を科学的見地から冷静に考え出すことほど難しくまるで別世界の出来事のように感じられる。 Go with the flowという言葉を、先を見据えて考えて行動することができない彼はよく口にする。流れに任せる。少し前の若者でいうところの、場面でよくね?に値するだろうか。外国にかぶれた彼がもしミドルネームをつけるとしたらおそらくGo with the flowなのではなかろうか。 仕込んでおいたチャーシューと煮卵に、今日は海苔もトッピングしちゃうよー、と一人自作のラーメンをすすりながら、彼はふと流れに任せてきた己のこれまでの歩みに思いを馳せた。食べ終わった後のラーメンの汁もまた排水溝から流れてゆく。「そして蒸発するか川や海に流れ着いて微生物に身を委ねるんだね」
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jamirajamira · 12 years ago
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#MATANGI #MAYA #MIA #GODDESS #TAMIL #YALA #HOLI #DUBBLEBUBBLETROUBLE
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jamirajamira · 12 years ago
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何かを求めて海へ出たがその島を緑に手繰り寄せる者のその生き様
尻をまたぐ小舟の帆をはためかせて心身と降る雪をおさめようとしている君をひきとめなかったのは僕だ。 そうやって青い壁のうちつけるような夢を知らずして事欠かぬよう文を書く君。 それをもって君へと甲高い鳥の鳴き声に答えるように潮へとなびいた。 これは池のためにあるのではない。そこへ生きるものたちの遠くたゆたう羽を休ませるためだ。 王を待つ君は濃紺の空を待ちわびるかもめのように、長く濡れたまつげを揺らした。 冬空の中耳を澄ませて聞きたるは星の声。光年の彼方世界の始まりをそっと優しくみつめる瞳。 緑の夜明けを風に受け、右の手に軽くつまんだ果実をはじく雨 その瑞々しさを内に持ち閃光のようにひと時の流るる川面に ひとつまみの胞子をたたえた夏草はそっと足をおろした。 日を浴びてさんさんと照り輝く波をまた、君は頑なに憧れようとはしなかった。 It had a Robyn in the wood. Green colors are brightly shined. When the boat Flipped over, people there were only looking. Down to the future door in the ocean. And you'll find an elevator to the judgmental floor in this world. We, people on earth made one big decision to save ourselves. Morning that know nothing about how this sky would be clear. Deep down in the ocean. You found a spectacular darkness of your heart. May we call it gongeras. There is a hope there. Clearly surrounded by this field. My grass were there. Just stand there as every single moment. We won't forget. We won't...., Woke up to the sun. You , are no longer waves and the beyond. It yells us we are forever in the right side. . Stay by your side. I will..,,, 葉を揺らす頬の音を聞き分けた言の葉をひらりと舞うような素振りで絹をまとった暁に、 球根の力強く伸びゆくその手を直に感じる土をもまた、光の温もりはこの世界を包む。 源へと尊き眼を見開き導きたるは、そこへ降り立つことの夢見る龍の猛々しい闇を駆ける一筋の糸 白き繭を紡いだその糸はさざやかにそらをゆらりとそしてゆらりと流れ進んだ 森を待つ空の雫は響き渡るその地の雄々しさにむせび泣いた。 鳥は七色をたたえた翼を優しくその口に摘まみこの世の青いことを感じそして知った。
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jamirajamira · 13 years ago
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XXXO
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jamirajamira · 13 years ago
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