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ドグラ・マグラ 夢野久作
巻頭歌 胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。 私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂《みつばち》の唸《うな》るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。 私はフッと眼を開いた。 かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い塵埃《ほこり》に蔽《おお》われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光る硝子球《ガラスだま》の横腹に、大きな蠅《はえ》が一匹とまっていて、死んだように凝然《じっ》としている。その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字|型《なり》に長くなって寝ているようである。 ……おかしいな…………。 私は大の字|型《なり》に凝然《じっ》としたまま、瞼《まぶた》を一パイに見開いた。そうして眼の球《たま》だけをグルリグルリと上下左右に廻転さしてみた。 青黒い混凝土《コンクリート》の壁で囲まれた二|間《けん》四方ばかりの部屋である。 その三方の壁に、黒い鉄格子と、鉄網《かなあみ》で二重に張り詰めた、大きな縦長い磨硝子《すりガラス》の窓が一つ宛《ずつ》、都合三つ取付けられている、トテも要心《ようじん》堅固に構えた部屋の感じである。 窓の無い側の壁の附け根には、やはり岩乗《がんじょう》な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷き展《なら》べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。 ……おかしいぞ…………。 私は少し頭を持ち上げて、自分の身体《からだ》を見廻わしてみた。 白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々と肥《ふと》って突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。 ……いよいよおかしい……。 怖《こ》わ怖《ご》わ右手《めて》をあげて、自分の顔を撫《な》でまわしてみた。 ……鼻が尖《と》んがって……眼が落ち窪《くぼ》んで……頭髪《あたま》が蓬々《ぼうぼう》と乱れて……顎鬚《あごひげ》がモジャモジャと延びて……。 ……私はガバと跳ね起きた。 モウ一度、顔を撫でまわしてみた。 そこいらをキョロキョロと見廻わした。 ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。 胸の動悸がみるみる高まった。早鐘を撞《つ》くように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。やがて死ぬかと思うほど喘《あえ》ぎ出した。……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。 ……こんな不思議なことがあろうか……。 ……自分で自分を忘れてしまっている……。 ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一つ、記憶に残っている。……ソレッ切りである……。 ……それでいて気は慥《たし》かである。森閑《しんかん》とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。 ……夢ではない……たしかに夢では…………。 私は飛び上った。 ……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。そこに映った自分の容貌《かおかたち》を見て、何か��記憶を喚《よ》び起そうとした。……しかし、それは何にもならなかった。磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。 私は身を飜《ひるがえ》して寝台の枕元に在る入口の扉《ドア》に駈け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている真鍮《しんちゅう》の金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。 ……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は愚《おろ》か、頭文字らしいものすら発見し得なかった。 私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。 こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓腑《はらわた》の底から湧き出して来る戦慄《せんりつ》と共に、我を忘れて大声をあげた。 それは金属性を帯びた、突拍子《とっぴょうし》もない甲高《かんだか》い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。 又叫んだ。……けれども矢張《やは》り無駄であった。その声が一しきり烈《はげ》しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。 又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽喉《のど》の奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭《ひざがしら》が自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか喘《あえ》ぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央《まんなか》に棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、凩《こがらし》のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。 そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。そうして棒のように強直《ごうちょく》した全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向《あおむ》け様《ざま》にスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の混凝土《コンクリート》壁を凝視した。 その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。 ……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど嗄《しゃが》れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい響《ひびき》ばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。 「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」 私は愕然《がくぜん》として縮み上った。思わずモウ一度、背後《うしろ》を振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声を滲《し》み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。 「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。妾《あたし》です。お兄様の許嫁《いいなずけ》だった……貴方《あなた》の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」 私は眼瞼《まぶた》が痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に混凝土《コンクリート》の壁を白眼《にら》み付けた。 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずには措《お》かないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い怨《うら》みの声であった。それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。 「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。妾《あたし》ですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁《いいなずけ》だった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」 私はヨロヨロと背後《うしろ》に蹌踉《よろめ》いた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。 ……何という奇怪な言葉だ。 ……壁の向うの少女は私を知っている。私の許嫁だと云っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で云っている。そうして私と壁|一重《ひとえ》を隔てた向うの部屋に閉《と》じ籠《こ》められたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、死物狂《しにものぐる》いに努力し続けているらしい。 ……キチガイだろうか。 ……本気だろうか。 いやいや。キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。 私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な……悽愴《せいそう》とした……。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。何故《なぜ》、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」 「……………………」 「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」 「……………………」 「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に這入《はい》らないのですか……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」 そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身《なまみ》の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の痕跡《あと》を想像しながら、なおも一心に眼を瞠《みは》り、奥歯を噛み締めていた。 「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお便《たよ》りする方は一人もない可哀想な妹です。一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」 「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。そうして他人《ひと》からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」 「……………………」 「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」 私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い混凝土《コンクリート》壁に縋《すが》り付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。……が……又グット唾液《つば》を嚥《の》んで思い止《とど》まった。 ソロソロと寝台の上から辷《すべ》り降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと後退《あとしざ》りをして来た。 ……私は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。 私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。 その私が、どうして彼女の夫《おっと》として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭《かげ》で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの氏素性《うじすじょう》や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外《ほか》ならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因《もと》にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率《かるはずみ》から、他人の妻を横奪《よこど》りした事になるではないか。他人の恋人を冒涜《ぼうとく》した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し唾液《つば》を嚥《の》み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。 「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」 そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。 私は頭髪《かみ》を両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪《つめ》で、血の出るほど掻きまわした。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方《あなた》のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」 私は掌《てのひら》で顔を烈しくコスリまわした。 ……違う違う……違います違います。貴女《あなた》は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。 ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤《つぐ》んだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。 私は拳骨《げんこつ》を固めて、耳の後部《うしろ》の骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。 それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。 「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」 私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉《ドア》を見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。 ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。 と思ううちに、全身がゾーッと粟立《あわだ》って来た。 入口の扉《ドア》に走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗《がんじょう》な、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突《ぶつか》ってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺《しび》れ上るほど脅《おび》やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪《ひきゆが》める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。 私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ慄《ふる》えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。 私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑《あのよ》の世界に来て、何かの責苦《せめく》を受けているのではあるまいか。 この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間《むげん》地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。 ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責《さい》なまれ初めた絶体絶命の活《いき》地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫《えいごう》の苛責……。 私は踵《かかと》が痛くなるほど強く地団駄《じだんだ》を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室《となり》の物音と、切れ切れに起る咽《むせ》び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。 こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚《からっぽ》であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就《つ》いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空《から》っぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐《お》いまわされながら、ヤミクモに藻掻《もが》きまわっているばかりの私であった。 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走《かんばし》って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前《もと》の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。 同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉《ドア》の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。 ……コトリ……と音がした。 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体《からだ》を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂《うなだ》れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。 という静かな雀《すずめ》の声……遠くに辷《すべ》って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。 ……夜が明けたのだ……。 私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球《たま》をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛《こわ》ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな欠伸《あくび》をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。 向うの入口の扉《ドア》の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳《ぜん》が這入って来るようである。 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……吾《われ》を忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍《かたわら》に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙《ねら》いすまして無手《むず》と引っ掴んだ。……と……お膳とトースト麺麭《パン》と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。 私はシャ嗄《が》れた声を振り絞った。 「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」 「……………………」 相手は身動き一つしなかった。白い袖口《そでぐち》から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。 「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人《きちがい》でも……何でもない……」 「……アレエ――ッ……」 という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻《もが》き初めた。 「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」 「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」 ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛《ゆる》んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱《ぬ》け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。 一所懸命に縋《すが》り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰《くら》った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅《しりもち》を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。 すると……又、不思議な事が起った。 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに連《つ》れて、何と���知れない可笑《おか》しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは迚《とて》もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本|毎《ごと》にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止《と》め度《ど》もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。 ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床��上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙を嚥《の》んでは咽《む》せかえって、身体《からだ》を捩《よ》じらせ、捻《ね》じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。 [#ここから1字下げ] ……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。 ……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。 ……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と識《し》り合いになったのだ。アハハハハハ…………。 ……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑《おか》しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。 ……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。 [#ここで字下げ終わり] 私はこうして止《と》め度《ど》もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の球《たま》をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、栓《せん》をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを塗《な》すくった焼|麺麭《パン》を掴んでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味《いし》さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと嚥《の》み込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後《うしろ》に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。 それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、掌《てのひら》と、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。 ……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。 ……遠い、高い処で鴉《からす》がカアカアと啼《な》いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に甲走《かんばし》った女の声……。 「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」 ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。それはたしかに自動車の警笛《サイレン》で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い音《ね》であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の静寂《しじま》を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした髪毛《かみのけ》の中に走り込みそうになったところで、急に横に外《そ》れて、大まわりをした。高い高い唸《うな》り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に沁《し》み入るほどの高い悲鳴を揚《あ》げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと濃《こま》やかになって行く…………。 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開いて、何やらガサガサと音を立てて這入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。 私の眼の前で、緩《ゆる》やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子《とういす》が一個|据《す》えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝《つ》くばかりに突立っているのであった。 それは身長六|尺《しゃく》を超えるかと思われる巨人《おおおとこ》であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨《くじら》のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死《ひんし》の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳《そび》えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と一《ひ》と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹《かか》っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額《ひたい》の斜面と、軍艦の舳先《へさき》を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套《がいとう》を着て、その間から揺らめく白金色《プラチナいろ》の逞ましい時計の鎖《くさり》の前に、細長い、蒼白《あおじろ》い、毛ムクジャラの指を揉《も》み合わせつつ、婦人用かと思われる華奢《きゃしゃ》な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化《かえ》った生物《いきもの》のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、吾《わ》れ知らずその方向に向き直って座り直した。 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく身体《からだ》が縮むような気がして、自ずと項垂《うなだ》れさせられてしまった。 しかし巨大な紳士は、そんな事を些《すこ》しも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、一《ひ》とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看破《みやぶ》られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。 するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて前屈《まえこご》みになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を反背《そむ》けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい咳嗽《せき》を続けた。そうして稍《やや》暫らくしてから、やっと呼吸《いき》が落ち付くと、又、徐《おもむ》ろに私の方へ向き直って一礼した。 「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」 それは矢張《やは》り身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、恭《うやうや》しく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又も咳《せ》き入った。 「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」 私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。 [#ここから3字下げ] [#ここから20字詰め] [#ここから罫囲み] 九州帝国大学法医学教授 若林鏡太郎 医学部長 [#ここで罫囲み終わり] [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も唖然《あぜん》となった。眼の前に咳嗽《せき》を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、 「……ここは……九州大学……」 ��独言《ひとりごと》のように呟《つぶ》やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、微《かす》かにビクリビクリと震えた。或《あるい》はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。 「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお寝《やす》みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事《ほか》でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻《さきほど》、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何《いかが》で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」 私は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。 ……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。 私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。 私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。 私は二重三重に面喰わせられたまま、掌《てのひら》の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。 ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、瞬《またたき》一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。 二人はこうして、ちょっとの間《ま》、睨《にら》み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、如何《いか》にも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、その瞼《まぶた》が再び、ショボショボ���開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、微《かす》かに二三度うなずきながら唇を動かした。 「……御尤《ごもっと》もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」 と云いさした若林博士は、又も、咳嗽《せき》が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。 「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之《まさきけいし》という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」 「……マサキ……ケイシ……」 「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰《ゆきつま》ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、劃時代的《かくじだいてき》の新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく首肯《しゅこう》出来るので御座います。……申すまでもなく貴方《あなた》も、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」 「僕が……精神病の治療……」 「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々|御尤《ごもっとも》千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しましたのが、外《ほか》ならぬ貴方で御座いました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに懸《かか》っていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」 若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急に眩《まぶ》しくなったように思って、眼をパチパチさした。私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。 ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず項垂《うなだ》れてしまったのであった。 [#ここから1字下げ] ……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。 ……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に罹《かか》っていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。私はキチガイなのだ。 ……鳴呼。私が浅ましい狂人《きちがい》……。 [#ここで字下げ終わり] ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、叮嚀《ていねい》過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それに連《つ》れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも判然《わか》らない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱《ほて》って来た。……眼の中が自然《おのず》と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに充《みた》されつつ、かなしく両掌《りょうて》を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。 若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、唾液《つば》を呑み込んだようであった。それから、恰《あたか》も、貴《たっと》い身分の人に対するように、両手を前に束《たば》ねて、今までよりも一層親切な響《ひびき》をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。 「御尤もです。重々、御尤もです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」 「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」 「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」 「……僕が……私が……狂人《きちがい》の解放治療の実験材料……狂人《きちがい》を解放して治療する……」 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ首肯《うなず》いた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。 「さようさよう。その通りで御座います。その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の裡《うち》に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の衝動《ショック》のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」 「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」 と私は思わず急《せ》き込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。 「それは誠に御尤も千万な御不審です。……が……しかしその事に就《つき》ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」 「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」 と私は一層|急《せ》き込みながら口籠《くちごも》った。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。 しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。 「……ま……ま……お待ち下さい。それは斯様《かよう》な仔細《わけ》で御座います。……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が虚構《うそ》になって終《しま》う虞《おそ》れがありますので……詰《つま》るところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が併《しか》し……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々《きんきん》四箇月間の実験を行われました後《のち》、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」 「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」 「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が嘗《かつ》て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」 「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」 「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、或《あるい》は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」 「……そ……それは……ドンナ事件……」 と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然として佇立《ちょりつ》したままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。 「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」 「……精神科学……応用の犯罪……」 「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題《テーマ》で御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、斯様《かよう》申上げましたならば大凡《おおよそ》、御諒解が出来ましょう。……すなわち私が、斯様な主題《テーマ》に就いて研究を初めました抑々《そもそも》の動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白|可笑《おか》しく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、歴々《ありあり》と展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」 「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」 若林博士は、いとも荘重にうなずいた。 「さようさよ��。貴方は、その学説の真理である事を、身を以《もっ》て証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました暁《あかつき》には、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が洩《も》れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。 ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら最早《もはや》、取返しの附けようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。……と同時に、甚だ得手《えて》勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。 ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学の中《うち》でも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の外観《アウトライン》と申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔《おとな》しい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を繋《つな》ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹《いとこ》と結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の夜半《よなか》過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行《むちゅうゆうこう》を起しまして、その少女を絞殺してしまいました。そうしてその少女の屍体《したい》を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が何人《なんぴと》であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか判然《わか》らない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて該《がい》事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。 ……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この一途《いっと》よりほかに方法は無い事に相成りました。それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、踪跡《そうせき》を晦《くら》ましているので御座います。……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相を蔽《おお》い晦《くら》ましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文の中《うち》の、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事に就《つ》きましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。……然《しか》るに……」 ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い一瞥《いちべつ》を私に与えた。……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。 その皺《しわ》だらけに痙攣《ひきつ》った横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる大袈裟《おおげさ》に、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。 すると、そのうちに咳嗽《せき》を収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。 「御免下さい。疲れますので……」 と云ううちに、やおら背後《うしろ》の華奢《きゃしゃ》な籐椅子《とういす》を振り返って、ソロソロと腰を卸《おろ》したのであったが、その風付《ふうつ》きを見ると私は又、思わず眼を反《そ》らさずにはいられなかった。 初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと這入った。そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなに瘠《やせ》こけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。 「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外の私にもよくわかるので御座います。貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お勉《つと》めになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので御座います。 ……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかに居《お》ったので御座いましょう。ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い夢中遊行《むちゅうゆうこう》状態に陥れる事に相成りました。……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと焦燥《あせ》りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」 「……自我……忘失症……」 「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて稀有《けう》のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感���録』とか『生んだ記憶《おぼえ》の無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っている間《ま》に、禿頭《とくとう》の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると白髪《しらが》の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の懺悔譚《ざんげものがたり》』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の境界《さかい》に迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、以前《もと》の精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。……すなわち厳密な意味で申しますと、吾々《われわれ》の日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くものによって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く刹那《せつな》刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。……ですから、申すまでもなく貴下《あなた》も、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」 若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を舐《な》めたようであった。 しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明��脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を固《こわ》ばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、矢張《やは》り自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖から滴《した》たり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。 その時に若林博士は、その仄青《ほのあお》い瞳《ひとみ》を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。 「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは最早《もはや》、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下《あなた》御自身のお名前を思い出させて差上げるために、斯様《かよう》にお伺いした次第で御座います」 「……ボ……僕の名前を思い出させる……」 こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。 「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」 私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して頓狂《とんきょう》な声を出した。 「……何というんですか……僕の名前は……」 私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は恰《あたか》も器械か何ぞのようにピッタリと口を噤《つぐ》んだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。 後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の裡《うち》に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。 しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。 すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細《かぼそ》い声を出した。 「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言《おっしゃ》れば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。 「……思い出すことが出来ましょうか」 若林博士はキッパリと答えた。 「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」 若林博士は斯様《かよう》云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧《お》されて、余儀なく項垂《うなだ》れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然《わか》らないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。 しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。 「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が喚《よ》び起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何《いかが》で御座いましょうか」 と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。 私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。 しかし心の中では些《すく》なからず躊躇《ちゅうちょ》していた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。 [#ここから1字下げ] ……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。 ……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。 ……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴《そいつ》が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。 ……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。 [#ここで字下げ終わり] その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。徐《おもむ》ろに背後《うしろ》の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字|髭《ひげ》をピンと生《は》やして、白い詰襟《つめえり》の上衣《うわぎ》に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮装《いでたち》をしていた。四角い黒革の手提鞄《てさげかばん》と、薄汚ない畳椅子《たたみいす》を左右の手に提《ひっさ》げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の中央《まんなか》に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の鋏《はさみ》や、ブラシを葢《ふた》の上に掴《つま》み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素跣足《すはだし》のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字|鬚《ひげ》の小男が、白い布片《きれ》をパッと私の周囲《まわり》に引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。 「この前の通りの刈方《かりかた》で、およろしいので……」 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく去《さ》り気《げ》ない口調で答えた。 「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」 「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔《おとな》しい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」 「そうそう。その通りに今度も願います」 「かしこまりました」 そう云う中《うち》にモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。 私は眼を閉じて考え初めた。 私の過去はこうして兎《と》にも角《かく》にもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。 私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、昨日《きのう》が昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい以前《まえ》に、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。 ……けれども……そうは思われる���のの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、真実《ほんとう》に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。 私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに���長《おおき》くなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなに夥《おびただ》しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞《がらんどう》をジッと凝視していると、私の霊魂《たましい》は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物《アトム》のように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。 ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋《えりすじ》を剃《そ》るべくシャボンの泡を塗《なす》り付けたのであった。 私はガックリと項垂《うなだ》れた。 ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの詰《つま》り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し演《や》っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲《まわり》に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。 ……私はそう考える中《うち》にハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。 それは二個《ふたつ》の丸い櫛《くし》が、私の頭の上に並んで、息も吐《つ》かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸《ちょっと》の間《ま》にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者《もうじゃ》みたようになって、グッタリと椅子に凭《も》たれ込んで底も涯《はて》しもないムズ痒《がゆ》さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途《さき》はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。 「コチラへお出《い》でなさい」 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が這入《はい》って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲《まわり》の白い布切《きれ》は、私の気づかぬうちに理髪師が取外《とりはず》して、扉の外で威勢よくハタイていた。 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと頁《ページ》を伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と咳《せき》をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。 顔一面の髪の毛とフケの中から、辛《かろう》じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ宛《ずつ》、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹《くぼ》みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網《かなあみ》で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸《うな》って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋《ねじ》をかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の振子球《ふりこだま》を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。 私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭《けいとう》が咲き乱れている真白い砂地で、その又|向《むこう》は左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。 「……ああ……今は秋だな」 と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付《とっつ》きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内部《なか》に這入った。 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造《いしづくり》の浴槽《ゆぶね》から湧出す水蒸気が三方の硝子《ガラス》窓一面にキラキラと滴《した》たり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと丸裸体《まるはだか》にして、浴槽《ゆぶね》の中に追い込んだ。そうして良《い》い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の板片《いたぎれ》の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸《シャボン》とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫《あわ》を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無《うむ》を云わさず私の両手を引っ立てて、 「コチラですよ」 と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽《ゆぶね》の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、非道《ひど》い目に会わされた看護婦が、三人の中《うち》に交《まじ》っていて、復讐《かたき》を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を截《き》ってもらって、竹柄《たけえ》のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで身体《からだ》中を拭《ぬぐ》い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、流石《さすが》に生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。 「これとお着換なさい」 と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの襯衣《シャツ》、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴《あみあげくつ》なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。 私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その序《ついで》に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど仕立卸《したておろ》しと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染《むかしなじみ》でもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟《つめえり》の新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何《いくら》這入っているかわからないが、滑《やわ》らかに膨らんだ小さな蟇口《がまぐち》が触《さわ》った。 私は又も狐に抓《つま》まれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎《あいにく》、破片《かけら》らしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い晒《ざら》しの浴衣《ゆかた》を取り除《の》けた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大《おおき》な姿見鏡であった。 私は思わず背後《うしろ》によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者《ひげむしゃ》で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌《てのひら》で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。 眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳《はたち》かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮《あご》の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。 その時に背後《うしろ》から若林博士が、催促をするように声をかけた。 「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」 私は冠《かむ》りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液《つば》をグッと嚥《の》み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明《わか》った。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬《むく》いられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような��…馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。 その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭《うなず》いた。 「……御尤《ごもっと》もです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」 私は新らしい編上靴を穿《は》いた足首と、膝頭《ひざがしら》を固《こわ》ばらせつつ、若林博士の背後に跟随《くっつ》いて、鶏頭《けいとう》の咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮《しんちゅう》の把手《ノッブ》を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、 「只今、よくお寝《やす》みになっております」 と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部《なか》に這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方《ねかた》に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。 私は両手で帽子の庇《ひさし》をシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと瞬《まばた》きをした。 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。 その少女は艶々《つやつや》した夥《おびただ》しい髪毛《かみのけ》を、黒い、大きな花弁《はなびら》のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々《ぼうぼう》と乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯《ほうたい》で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛《まつげ》、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎《ふたえあご》まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。 すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生《う》ぶ毛《げ》で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓《りんかく》のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋《さび》しい薔薇《ばら》色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々《こうごう》しいこと……。 私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸《いき》も出来ないような気持になって、なおも瞬《またたき》一つせずに、見惚《みと》れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の珠《たま》になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微《かす》かにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。 「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……妾《あたし》は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」 それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥《めじり》へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢《りょうびん》の、すきとおるような生《は》え際《ぎわ》へ消え込んで行くのであった。 しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康《すこやか》な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和《なご》やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。 私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後《うしろ》をふり返った。 私の背後に突立った若林博士は、最前《さっき》からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石《���うせき》のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと嘗《な》めて、今までとはまるで違った、響《ひびき》の無い声を出した。 「……この方の……お名前を……御存じですか」 私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚《はばか》るように、ヒッソリと頭を振った。 ……イイエ……チットモ……。 という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁《ささや》いた。 「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」 私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬《まばたき》をして見せた。 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう…… といわんばかりに……。 すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、恰《あた》かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。 「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹《いとこ》さんで、あなたと許嫁《いいなずけ》の間柄になっておられる方ですよ」 「……アッ……」 と私は驚きの声を呑んだ。額《ひたい》を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。 「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」 「……さよう、世にも稀《まれ》な美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方《あなた》の、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様《かよう》にお気の毒な生活をしておられますので……」 「……………………」 「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」 若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩《ゆる》やかに、且《か》つ荘重であった。 しかし私はもとの通り、狐に抓《つま》まれたように眼を瞠《みは》りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。 「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」 「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞《ごきょうだい》がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが居《お》られたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」 「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」 といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退《あとずさ》りせずにはおられなかった。若林博士の頭脳《あたま》が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、外《ほか》から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……況《ま》して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。 「……それは……この令嬢が、眼を醒《さま》しておられる間にも、そんな事を云ったり、為《し》たりしておられるから判明《わか》るのです。……この髪の奇妙な結《ゆ》い方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年|前《ぜん》の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体《からだ》のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢《とし》ごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅《みやび》やかな若夫人の姿に見えて来るのです。……尤《もっと》も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル巻《まき》にしておられるのですが……」 私は開《あ》いた口が閉《ふさ》がらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを惘々然《ぼうぼうぜん》と見比べない訳に行かなかった。 「……では……では……兄さんと云ったのは……」 「それは矢張《やは》り貴方の、一千年|前《ぜん》の御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景《ありさま》を、現在夢に見ておられるのです」 「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」 と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。 「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」 と云いさして若林博士もピッタリと口を噤《つぐ》んだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早《もう》、遅かった。 私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリ��大きく二三度|瞬《まばたき》をした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それに連《つ》れて頬の色が俄《にわ》かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、 「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」 と魂消《たまぎ》るように叫びつつ身を起した。素跣足《すはだし》のまま寝台から飛び降りて、裾《すそ》もあらわに私に縋《すが》り付こうとした。 私は仰天した。無意識の裡《うち》にその手を払い除《の》けた。思わず二三歩飛び退《の》いて睨《にら》み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝視《みつ》めながら、よろよろと、うしろに退《さが》って寝台の上に両手を支《つ》いた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折《くずお》れ座りつつ、白い患者服の袖《そで》を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。 私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ嗄《が》れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。 若林博士は……しかし顔の筋肉《すじ》一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を屈《かが》めた。耳に口を当てるようにして問うた。 「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女《あなた》のお名前も……」 この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。 けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの間《ま》、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。 「……それではこの方が、貴方とお許嫁《いいなずけ》になっておられた、あのお兄さまということだけは記憶《おぼ》えておいでになるのですね」 少女はうなずいた。そうして前よりも一層|烈《はげ》しい、高い声で泣き出した。 それは、何も知らずに聞いていても、真《まこと》に悲痛を極めた、腸《はらわた》を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角《せっかく》その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気《そっけ》なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄《か》れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然《まるで》違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に陥《おとしい》れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ堪《た》まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面《うしろ》姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責《さい》なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。 「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう直《じ》きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙《あんるい》を拭い拭い立ち竦《すく》んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷《すす》り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐《つ》きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。 [#ここから1字下げ] ……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁|一重《ひとえ》を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。 ……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹《いとこ》で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿《むこ》さんであった私」というような奇怪極まる私[#「奇怪極まる私」に傍点]と同棲している夢を見ている。 ……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。 ……それを私から払い除《の》けられたために、床の上へ崩折《くずお》れて、腸《はらわた》を絞るほど歎き悲しんでいる…… [#ここで字下げ終わり] というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖《おし》にでもなったかのように、ピッタリと口を噤《つぐ》んでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣《チョッキ》のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、掌《てのひら》の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。 身体《からだ》の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、弛《ゆる》めたりしている姿を見ると、恰《あたか》もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に悶《もだ》えている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。 だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。 ……しかも……私が、何だかこの博士から小馬鹿まわし[#「小馬鹿まわし」に傍点]にされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。 何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。 何も知らない私を捉《つか》まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って紹介《ひきあわ》せたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ可怪《おか》しいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体《からだ》に合せて仕立てたものではないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体《もったい》らしい錯覚に陥《おとしい》れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。 ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。 ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥《もくあみ》のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。 けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌《ひだりて》の上の懐中時計を、やおら旧《もと》のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。 「いかがです。お疲れになりませんか」 私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。 「いいえ。ちっとも……」 「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」 私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。 「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之《まさきけいし》先生が、御臨終の当日まで居《お》られました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢に絡《から》まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。 しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。 すると若林博士も満足げにうなずいた。 「……では……こちらへどうぞ……」 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ塗《ぬり》、二階建の木造洋館であった。 その中央《まんなか》を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこか��かこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明窓《あかりまど》から洩れ込んで来る、仄青《ほのあお》い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後《うしろ》を振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で外套《がいとう》を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれに倣《なら》って、霜降《しもふり》のオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の痕跡《あと》が、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに蔽《おお》われているらしい。 それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツ宛《ずつ》並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝で蔽《おお》われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も遮《さえぎ》るものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のように眩《まぶ》しく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。 「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八《さいとう��ゅはち》先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、若《もし》くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが尠《すくな》くありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されました後《のち》、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な煖炉《ストーブ》まで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規の届《とどけ》も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書《とどけしょ》を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を卑《ひく》うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。 「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ理由《わけ》なんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う吾輩《わがはい》自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と一所《いっしょ》に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」 と云って大笑されましたので、流石《さすが》老練の塚江事務官も煙《けむ》に捲《まか》れたまま引退《ひきさが》ったものだそうです」 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆《どぎも》を抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破《すば》らしさが、こうした何でもない諧謔《かいぎゃく》の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一|刹那《せつな》に、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切《だいじ》がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣《しんらつ》、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなくなるばかりであった。 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。 「……ところで、貴方《あなた》をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事《ほか》でも御座いませぬ。只今も階下《した》の七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生は曾《かつ》て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく一瀉千里《いっしゃせんり》に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。 恰《あたか》も大人が小児《こども》に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。 私が先刻《さっき》から感じていた……何もかも出鱈目《でたらめ》ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。 若林博士は流石《さすが》に権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の隙間《すきま》もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。 ……それならば先刻《さっき》から見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり真実《ほんとう》に、私の身の上に関係した事だったのか知らん。そうしてあの少女は、やはり私の正当な従妹《いとこ》で、同時に許嫁《いいなずけ》だったのか知らん……。 ……もしそうとすれば私は、否《いや》でも応《おう》でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。 ……ああ。「自分の過去」を「狂人《きちがい》病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。 こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず額《ひたい》にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部《なか》を恐る恐る見廻しはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ硝子《ガラス》戸棚の行列が立塞《たちふさ》がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二|間《けん》ぐらいに見える大|卓子《テーブル》が、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅紗《らしゃ》は、やはり薄いホコリを被《かぶ》ったまま、南側の窓からさし込む光線を眩《まぶ》しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込《とじこ》みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に蔽《おお》い被《かぶ》さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨《だるま》の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸《あくび》を続けているのが、何だか故意《わざ》と、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。 その赤い達磨《だるま》の真正面に衝《つ》き立っている東側の壁面《かべ》は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に跼《かが》まれる位の大|暖炉《ストーブ》が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カ���ンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々《すがすが》しい朝の光りの中に、或《あるい》は眩《まぶ》しく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂《しじま》を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。 事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種の投《なげ》やりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入っ��。 私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に治癒《なお》りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] ――歯齦《はぐき》の血で描いたお雛様《ひなさま》の掛軸――(女子大学卒業生作) ――火星征伐の建白書――(小学教員提出) ――唐詩選五言絶句「竹里館《ちくりかん》」隷書《れいしょ》――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫《きごう》せしもの) ――大英百科全書の数十|頁《ページ》を暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出) ――「カチューシャ可愛や別れの辛《つ》らさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」) ――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作) ――竹片《たけきれ》で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作) ――鼻糞で固めた観音像、硝子《ガラス》箱入り――(曹洞宗布教師作) [#ここで字下げ終わり] 私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向《そむ》けて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。 それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込《つづりこみ》で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢《よご》れてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我《けが》をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤《あか》インキの一頁大の亜剌比亜《アラビア》数字で、※[#ローマ数字1、1-13-21]、※[#ローマ数字2、1-13-22]、※[#ローマ数字3、1-13-23]、※[#ローマ数字4、1-13-24]、※[#ローマ数字5、1-13-25]と番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
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