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kimuranao-weblog · 6 years ago
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劇より、長く。(c) 石垣真琴
◆ 予感 予感はあった。実作講座「演劇 似て非なるもの」第6期 修了公演が面白そうだという予感が。受講生3名と、修了生+講師の生西さん総勢4名(組)の作品を上演するオムニバス公演だという話を聞いて。鈴木健太くんの作ったチラシを見て。演劇の稽古をしているはずの教室から漏れ聞こえる、というよりガンガンに響いてくるラップを聞いて。「4作品作るから大変…」と言いながら稽古の前にソファーで横になる生西さんを横目に見ながら「この公演は面白くなりそうだ」という予感があった。先見の明があったとか、これまでの公演が面白くなかったとか言いたいのではない。今思えば、私もこの時から公演に参加していたのかもしれない。だから、たった一日の公演をいつになく心待ちにしていた。
◆ 開演前 当日はスタッフの一人として受付に立ち、遅れてくる人を待って5分押しで会場に入った。定員をオーバーして観客演者スタッフ総勢50名超で埋まった会場の、ドアの近くに立って前方の空間を見つめた。
◆ 太田七海『森』 公演終了後に「物語を見るのではなく、音楽を聴くのでもなく、人間を見つめるしかなかった」とツイートしたが、これは太田さんの作品が始まった瞬間に思ったことだった。結果的には全作品に共通して感じたことだったけれど、太田さんの作品が始まってすぐ「わ、人間を見るしかないな(あるいは人間を意識しながら人間がいない空間を見るしかない)」と思った。美醜の基準は吹き飛んで、人間がどうしようもなくその人固有の特徴を持っていることが際立った。出てくる人すべてが魅力的だった。後日開かれたアフタートークで太田さんは「それぞれが無関係に別々のことをしているのに、気がついたら一つの形を成している(ことに興味がある)」というような話をしていたと思うのだけど、それってすなわち社会のことじゃないかなと思い、事実、公演中にも「雑踏をスーパースローモーションで見たらこんな感じかな」と思い、太田さんは社会を人とは違った視点でよく見ているんだなと感じた。群像の動きはスーパースローモーションかと思えば突然スーパーハイスピードになり、演劇は生身の身体だけで時間の伸縮すら可能なのだと今さらながらに気がついた。ちなみにこれは蛇足だけれども、太田さんはとてもチャーミングな人で、自分が太田さんなら絶対舞台に上がっただろうが、太田さんは一切舞台に上がらず、その潔さに太田七海という人の度胸を見た。
◆ 冨田学『浜辺で波が引く時のめまい』 公演から6日が経ったわけだが、一度見聞きしたきりの言葉(台詞)が頭から離れない。後日公開された台本を読んだからかもしれないが、台本を読めば明確に演者の瀧澤綾音さんと冨田さんの身振り、声のトーン、目線……などが脳内で再現される。冨田さんの台本を読むと、この人は小説が書けるなと思うし(偉そうですみません)、本人も小説を書こうとしたことがあるようなのだが、演者の二人の身振りとテキストが切っても切れないということは、それだけ演出の力が大きかったのだということにも思いが至る。やはりアフタートークで冨田さんは「言葉と身体の関係性に関心がある」というようなことを言っており、であればまさに本作は冨田さんの言葉(台本)と生西さんの演出(と、照明はじめその他空間を構成するすべての要素)が素晴らしく合致したということになるのだろう。劇にしなければ、やってられないことが人生の様々な局面にはある。私は本当の冨田さんをもっと見てみたい。
◆ 石垣真琴『劇より、長い。』 アフタートークでゲストの佐々木敦さんが「最初はこれ苦手なやつだと思った」という旨の発言をしていたとおり、私も苦手なやつだと思った。同じく佐々木さんが「でも、ラップが始まったところから局面が変わった」というような話をしていて、やはり私(と、おそらく少なからぬお客さん)も、ラップのシーンで石垣真琴を演じる二人の青年が加わった瞬間に「助かった」と思った(真琴ちゃんごめん)。作品としての良し悪しを超えて、石垣真琴という人間にとって、これをやらなねばならなかったんだろうし、それをやりきったということが万雷の拍手に値する。石垣本人が「嫌いだから見ないようにしている(でも結局見ている)」と言うツイッターを見てみれば意外にも(失礼)多くの人が石垣真琴の作品に感動したり励まされたりしており、一周回って人間本来の喜び、楽しみ、悲しみみたいなところに立ち還っている自分に気づく。アフタートークで、「身寄りのない子どもや障害のある人に楽器を教えるのがずっと夢なんですよ」と当たり前のように夢を語る石垣を見て、自分はなぜ夢を語れないのか、何かをどこかに置き忘れてきたのかもしれず、石垣はそれを見つけろと今日も誰かに言っているのかもしれない。
◆ 劇より、長く。 以上は、あの日あの時あの場所にいた一人の人間の至極勝手な感想で、多分に正確さを欠いていると思うし、そんな意見もあるんだなぐらいで読み過ごしてもらえたらありがたい。しかし、私の人生もまた劇より長く(もちろん明日死ぬ可能性だってあるのだけれど)、あの日の三鷹のSCOOLから、どこかへ伸び続けていくのである。 (修了生の鈴木健太くんと講師の生西康典さんによる『ある家族のせんねんまんねん』も、もちろん思うことはあったのだけれど、受講生3人が生まれて初めて作ったという作品に大きく揺さぶられたので、これにて筆をおきます)
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