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言っていることの2割しかわかんないほうがいいかもしれない
そういえば思い出した。
同居していたさくらちゃんは思っていることをぽつらぽつら言葉にするんだけど、彼女も言葉にしながら自分の言っていることを飲み込んでいる最中だったから
わたしには彼女の話の2割ぐらいしかいつも理解できなかった。
だけれど相槌を打ちながら聞いていて
不思議と悪い気分にならなかったのはなぜだろうか。
最初からそうやって聞いていたわけではないんだろう。
彼女の言っていることが全然理解できなくて
異人種のように感じていたときもあったかもしれない。
だけどときが経って
3ヶ月、半年、1年と過ぎてあるとき
彼女の言っていることが妙に腑に落ちたりする。
腑に落ちたころには彼女はまたわけのわかんないことを考えているけれど
それでもきっとそれは気持ちの良いことに違いないと思えるから
聞いているのが楽しくなっていったのだろう。
理解しようとしなくていいのだろうな。
理解しあおうとする必要はないのかもしれない
理解しなくても気持ちいいのが一��いい
考えていることがよくわかんない、けどこの人が好きだ
と笑っていられる間柄がいい。
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おかいものは楽しい
お買い物はたのしい。
前々から思っていたけれど、改めて考えても楽しい行為だと思う。
買っても買わなくても
あれこれ溢れる空間で(あえて具体例を言うならばLOF⚪︎とかtokyu ha××s とか)
意識があっちこっち飛び回っているのも楽しい。
ショーを見ている気分。広告に踊らされるのも嫌いじゃ無い。
だけどそれは疲れるので、本当にときどきでいい。
気持ちのよいお買い物について考えている。
同じお金を使うなら、気持ちいいと思える方に使いたい。
このものにこの値段を払いたいと思える方を選びたい。
ちょっとドキドキしながら店先まで行って
店の中に入ってからの高揚感や
悩んでいるときの気持ち、
買うと決めてからお金を払うまで
店を出てついに「自分のものになった」ときの
スキップしたくなるような心地を
お買い物では感じたい。
田舎に引っ越して
お買い物をする機会は減った。
単に買い物をする場所が少ないことが理由だろうと思っていたが
(半年ぐらいそれを疑わなかったが)
本当にそうだろうか。
そりゃあ店の数が少ないので、
売られているものの数も少ないのはまあ、そうだろうなと思う。
だけど、もしかしたら
上で言っていた「気持ちの良いお買い物」が成立する
機会が少ないだけかもしれない。
いやいや、成立するかどうかは買い手の気持ち次第だから
機会が少ないわけではない。
売りものになるものの数はごろごろあるのだろう。
そういう気持ちにさせてくれる「何か」はなんなんだろうか。
「気持ちの良いお買い物」そのものが商品になっている気もする。
こ��では気持ちの良いお買い物ができそうだ、という空気が
店の外にもぷんぷん放たれていたりする。
その勘みたいなものは割と鈍く、
「ここでは気持ちの良いお買い物ができますよー」という看板を掲げている方に流れて
自分のセンサーを働かせてはいないのかもしれない。
どっちがいいとか悪いとかそういう話ではない。
ただ単に、そうなんじゃないかと思っている。
さて、かもしれないを連呼しているが
最近好きな言葉の一つだ。
かもしれないし、じゃないかもしれない。
あらゆるものごとの真実は誰にもわからないのだから
かもしれないぐらいで生きているといいかもしれない。
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生きている意味は無い
生きている意味なんて無い、と言ったら
まるで死にたいと言っているようだ。
多くの人には心配されてしまうだろう。
だけど違う。
これは、生きている意味が必ずある、というのと同義語だと思っている。
だからちょーポジティブだ。
どちらにも救われる人がいる。
ただ、それぞれの感じ方の違いだ。
.
先日25歳になったのだが
そのタイミングでたまたま
生きている意味は実は無い、っていう仮説に出会い
めっちゃくっちゃ納得したからだ。
生きている意味は必ずある、と言われたところで
はて、どこですか?と思う。
いつか見つかる、と言われれば、首を長くする。
周りを見渡して
意味を見出しているっぽい人は楽しげに見えるし
(例えば天職だ!というものに出会えているっぽい人とか)
嫉妬が芽生える。
意味を見出すことに重きを置かれている気がして
それができていることが最高に素敵で、あとは素敵じゃない、
という気がしてしまうのだ。
(例えば、俺はこれのために生まれてきたんだ!と思えることに出会っている、とか。夢とかね)
(誤解があるかもしれないので言っておくと、夢があることは素敵だと思う。
ただ、ないのも悪いことではないと思う。)
「ある」と言われれば探したくなる。
探すのが楽しいならいい。
ただ、探すのが酷なら辛い。
どうやら私はどっちかっていうと酷だったっぽい。
.
そこで登場した
「生きている意味はない」という説。
ちなみになぜさっきから説といっているかというと
生きている意味があるのかもないのかも
そんなの誰にもわからないからである。
だからあくまでも仮説なのだ。
振り返らないとわからないけど、
振り返る時にはもう死んだときだから、生きている人にはわからない。
(なんらかの霊能力がある場合を除く)
とりえあず、
生きている意味はない、という説がわたしには大発見だったので
ここでは絶賛する。
この説に感��したのが
何って
探さなくていいからだ。もうびっくりだ。
ないものは探せない。
そりゃあ探しても見つかんないわけだ!
ないのだから嫉妬や僻みの感情は起きない。
だってみんな平等にないのだから。
(さっき「見つ��ているっぽい人」と「っぽい」と表現したのは
それはあくまでもこちらの受け手からみた状況だからだ。
もしかしたら受け手の勘違いかもしれない。
受け手の思う「っぽい当事者」はただ直向きに自分の眼の前にあるものに向き合っているだけかもしれない。
なのに妙にきらきらして見えて、っぽく見えて、いいなあとか思うわけだ)
わたしは生きている意味は無いから
探さなくてよくなって救われている気がしているわけだが
これは惰性で生きるってことじゃない。
探すことを重視して
見つからないことを嘆き悲しむ必要はないってことだ。
その嘆き悲しむ時間を
自分がただ純粋にしたいことをする時間にできたらいいなあと思う。
(それがわかんないから苦しいんだ、っていう意見もありそうだけど。)
それはたぶん、眼の前にあるものに向き合っている状態
もしかしたら、それが
周りから見たら「っぽい状態」なのかも知れない。
生きている意味がある、と言われるのがしっくりくるのか
無い、といわれるのにしっくり来るのか
はたまたどっちもしっくりこ無いのか
どれでもいいと思うけど
思い詰めない仮説に出会えていければいい。
そしてそれが他人を傷つけないようなものがいい。
説、というか考えられ方
時代や国が変われば大きく変わる。
ある時代や国で信じられていることが
全く信じられていない時代が来たり
国があったり
ようは人間のしていることは
すべて仮初めで
そこまでそれに苦しめられる必要も
無い。
っていう仮説をわたしはいまのところ立てました。
仮説なので変わるかもしれません。笑
いいお天気です。
掃除をします。
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引っ越すってやっぱり
ここ1ヶ月以上腹痛が続いており、昨日内科で過敏性腸症候群と診断された。
(これってあんまり人に言うことじゃなさそうー特に女子、笑)
夕方になると立ち仕事がしんどくなったりしていたので、
一体わたしの体はどうなってしまったのだろうと不安で不安で
特に痛みが強かったのが下腹部で
婦人系の病気だったらどうしようとますます暗い気持ちになり婦人科に行くと
こりゃあ腸やで、と言われ仰天。
とりあえず薬出すけど、これであかんあかったら内科やな、
と言われ薬を飲み数���。やはり痛い。
さっさと見切りをつけたい?と思いそそくさと内科を受診したら
あっさりと病気じゃない、健康体。
「血液検査異常なーし、婦人系でもないーあなたの年齢、病気はありえない」
と先生は笑いながら説明。
過敏性腸症候群の原因はストレスとか睡眠不足、忙しさ、いろんなものが混じり合っており一概には言えないらしい。
先生に病気じゃないって言われた途端少し楽になったので
病は気からーほんと。
昔から緊張したり嫌なことの前は腹痛になっていますけど。
頭ではよいように考えていても
体は敏感に感じ取っているらしい。
「姉ちゃん専業主婦かあ、ええなあ一番幸せや」なんて言われて
社会的にはそう思われているんやろうな、
いや実際自分でもそう思います
稼いで来ずとも飯が食えてありがたいことこの上ないです
なんだかすいません
専業主婦という立場の何にストレスを感じとんねん、
こんなお気楽ポジションでストレスなんて言ったらあかんと
思っていたけど
その考え方も自分で自分の首を絞めていたようで
家にいるからだめなんだ、働いてみるか、と思い
民宿のお手伝いをするも
夏のこの地は一年で一番忙しく
激やせ(うそ)
(他のお手伝いのおばちゃんもみんな「この仕事は痩せるで〜」って言っているのに決してみんな細くない。(のがいい。)
「なんでこんなに汗かくのに痩せへんのやろなあ」
と言いながら仕事終わりのアイス❤️それやー!!)
話逸れたけど
今度は急に忙しくなりすぎて
おそらくそれです。過敏性腸症候群の原因の一つは。
でもそのときも
パートで文句言っていたらあかんで、と言い聞かせていたので
結局原因の一つは自分ですよ!
生活は人それぞれなので、
例えばもっと忙しく責任重大の仕事の人がこれを読んだら
こいつは甘ったれている!と思う人もいるだろう。
そう思われてもいいのだ。仕方ないのだ。仕方ない?というかいいのだ。
要は、この話の論点はですね
わたしが「「こいつは甘ったれているお気楽ポジだ!」と人から思われているに違いない!」と思っていることが己を苦しめていますよねってところです。
思われていたとしても気にする必要はないという話です。
だよねだよねー
人は思っている以上に人のこと気にしていないもんねえ。
自分でかけた呪縛から中々解放されないですね〜
いつ解放されるのか〜
ためしに自分を褒めてみようか。
今日はー、クイックルワイパーウェットシートの裏表分使った。(表だけ使って次の日裏を使おうとするともう乾いていてウェットシートの意味がないので勿体無いが、かといって表も裏も使うとなるとかなり���きな面積をクイックルしなければならないので面倒だ)
えらい!
タイトル全然触れてない!
引っ越すってやっぱりなんだかんだ最初は大変なんだなって言いたかったんだー。
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20170824
『人間生きていれば「この人好きだなー」という人と
「この人ちょっと苦手だな」という人がいるはずだ』と思っている。
でも、その好きだ嫌いだの感覚が鈍い、というか柔らかな人もいて
人に対してあまり悪いイメージを持たない人もいる。
根っからの人好き、みたいな。なんなの羨ましい。
・
わたし一生そうなれる気がしないわ。笑
苦手な人とかいるもん。
しかし、長らくぐずぐずした末、
「苦手に属する人も同じ人間なのだ」
ということまでは理解できるようになった。(遅い?笑)
だから、
前だったら「ああああ」と叫びたくなるような状況や
心の中でたくさんの舌打ちをかましていたところ
(または心で罵っていたところを)(心の闇深い、笑)
「悪気はないはずだ、この人の優しさだ!」
「もしくは何も考えていないだけだ!」
と思うようになってきた。
・
だけどまあ、グーパンチをくらったみたいな
どうしよう!好きになれない!苦手、むしろ、嫌!と思うときもある。
無理に好きになる必要はないのだけど。
でも自分の心がざわざわしている状態が嫌なのだ。疲れちゃうから。
だったらざわざわしないようにやり過ごせばいいんだろうけど
それができないからさー。簡単じゃないからさー。
・
でも
これからももたぶん小さいパンチを何回も受けるだろうから
そのたびにざわざわしてたら疲れちゃうから
このビッグパンチを浴びておけば、
あとのパンチはなんてことないかもしれないってことで
それがたぶんこのグーパンチの意味だよね。
異論は受け付けません、いまこれで心が落ち着いたので。笑
・
嫌いなやつからも学べって誰が言ってたんだっけな。
嫌いな人には「今俺の前に現れてくれてありがとう!」って思って反面教師にするって同居してたSちゃんの知り合いの人はするって言ってたね。
・
この文章10年後ぐらいに読み返したら
青すぎて恥ずかしくなりそうだよね、いやだー。
じゃあ書くなよって話か。笑
(わたしはとっても元気です)
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最近、外で働き始めました。(といってもまだ2回しか行ってない)
といっても週に3回ぐらい、しかも午前中だけどかで
フルで働いている人に比べたらおいおい甘ったれてんな、と言われてしまいそうだけど。
なんで働き出すのにこんなに時間がかかったかというと、
4月5月は「働いて得たお金で買うモノを、自分がつくって自分で得る」がマイテーマだったから。
漬物したり、家のあれこれを手作りしてみたり。
最初はこれもなかなか楽しく、独り言を混ぜ込みながら
黙々と進めていたのだけれど
6月ぐらいになると
「おや、話し相手がいないのは結構悲しいもんだな」
と思う。
喜びも辛さも誰にも共有できないって、えげつない。
あーそうかー
外で働くということが、単に労働に対する対価をもらうだけじゃなくて
孤独感から解放される、
そんでもって自己肯定感を生み出す一つの手段なのだと再確認。
孤独だと、自己肯定感って薄れちゃうんだなー。
そうだよね、まず孤独だと感じている時点で否定的だもんね。
やっぱり人間は社会的な生き物なんですわ。
ということで
家族でやっている民宿のお手伝いを始めました。
お手伝いといっても、掃除洗濯がメイン。
『「人が動く」で「働く」ってすごいうまいこと言ったな』
って思いながら掃除機かけてる。
「きっついやろ、この仕事」って愚痴言いながら
長い間続けているお母ちゃん達は
「ほんま、痩せるで、この仕事」といいながら
決して細身ではない。(それがいい)
そして、この人たちは
動く動く動く
走る走る走る。
そしてよく笑う。
仕事内容は決して難しくはない。
健康体だったら誰にでもできる仕事かもしれない。
風呂掃除したり、トイレ掃除したり、
きれいな仕事ばかりじゃない。
だけど風呂もトイレも、間違いなく
人間がそこで息をしているからこそ存在するんだなーと思うと
結構おもしろい。
人間くさい。そうそうそう、人間くさい。
滝のように汗を流しながら、自分が生きていることを実感する。
農家の収穫の手伝いも、大工さんとの改装も
思いっきり汚れることが気持ちよかった。
呼吸を荒げて、
生きているんだと実感させられた。
生きている感から遠ざかると、心がしんどくなることが多くなる気がする。
生きている感は人それぞれ得る方法は違うだろうけど
私の場合は
汚れないと得られないみたいだ。
魚を一匹おろすとき、
頭を落としてワタを取り除き、血合いを取るとき
『あああ、ううう」と思う。(まだ慣���てないからかもしれないけど)
赤々としたエラが生々しくて、ほんとうに申し訳なくなる。
ワタを見て、気持ち悪いと思う人もいるだろう。
だけど、その分、確実にこの一匹の命を食している、
生き物を食べて生きている、その感覚は強くなる。
(汚れるって表現は変かもしれないな
土とか埃とか、木屑とか、魚も全部自然のものだから。)
随分逸れていきましたが
なんだか隙のありそうな場所で
生きている感を感じながら働きはじめて
この先どうなるかはまだわかりませんが
一つはじめた、そんな感じ。
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たくさん泣いた。 わんわん泣いた。子どもみたいに。 横にいた夫も気づいたら泣いていた。 久々にこんなに泣いた。 たくさん泣いたらケロっとした。 とっても悲しいことがあった。 経験したことのある人や、そのすぐそばにいる人にしか無い悲しみかも知れない。 母に伝えると、母も同じ悲しみをかつて経験したことがあり、 母からの言葉はとても胸にすぅっと入って来た。 悩み事や相談事を母にすると、割と頓珍漢な返事をくれることが多い。 だから今回みたいに何も違和感が無いのは珍しい。 昔母も、同じような悲しみを 同じような言葉で救われたのだろうな。 思っているより、ずっとすごい。 この世界に生まれ落ちて、息をしているのは。 みんな成長するにつれ、どんどん欲にまみれ、なぜ生きているのかなんて 宗教臭いとどこか考えることを後回しにして 目先のことに追われているけれど この世界に生まれたこと自体 拍手喝采だよ。 みんなすごいんだよ。 忘れているけど。 私も忘れていたけど。 夫もすごいし、私もすごい。偉い。 うーわ、 つまらないことに時間を使っている場合じゃない 生きているんだ私 と思った。 あれ、やりたいことが思い浮かばないなんて思ってたけど 昨日のやりかけの株の千枚漬けも 今週末近所のお母さんとやることになった梅干し漬けも やりたかったことだよ もっと喜べよ。 なーなーでやってんじゃねえよ。 ひとしきり泣いて落ち着いたら 腹がなった。 こんなに悲しかったのに、待っていたのは空腹で こんなときでもお腹が空く自分に 夫と笑い 同時に健康で生きていることに 感謝した。 とびっきりの贅沢をした。ずっと食べ��かったミスタードーナッツを二人で五個も買い(我々には珍しい)夫と昼ごはんに食べた。 不健康な食事、万歳!と思った。 夫の面倒を見ている畑の野菜たちが 目一杯と太陽を浴び、大きくなる様に涙が出そうになる。 人参を間引きしてくれと言われ、 やってみるとなかなか抜けない。 見ると、人参は しっかりと大地に根を張り 大きくなろうていた。 何て愛らしいんだろう。 忘れていたことを思い出した たくさん泣いた数日だった。 涙とともにパンを食べなければ人生の本当の味はわかんないんだよね、ゲーテ。 今日の夕飯は何にしようかな。
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友達ってどうやって作るんでしたっけ、笑
さて、わたしは今、結構ぼっちです。
あれ、こんなにぼっちやったこと、今まで24年生きてきてあったっけ?
保育園行くまでは家族がいたし
保育園行ったら同じ年の子がいたし
小中高とそうやし、
大学なんてなんか好きなものが似たもん同士わいわいで
新潟で米屋をやっているときも等しく、
常にそばに否応無しに人がいて
なんだかなんだ誰かをそばに感じながら
あ〜一人になりたいなあと思ったら
積極的に部屋に籠もってひたすら漫画読んだり
YouTube見たりして気分転換して
あ〜一人は飽きたな誰かと会いたいなと思ったら
そこに誰かいることがほとんどでしたが
仕事をしていないとなると
朝、夫を見送って夜帰ってくるまで
ひたすらフリータイム!
いや、やることはあるわけですよ。
家事がありますね、それが仕事ですからね。
何かしようと思ったらいくらでもできます。
旬の野菜の漬物したりね、家の周りの草むしったりさ。
(最近の私の悩みは自然の強さを感じる初夏の草の成長ですね)
それはいいんだ、別に。楽しいんだ。
ただ、会話の相手がひたすら己だったりして
もしくは草、もしくは野菜だったりして
買い物に行って店の人と話したり
近所の人と道すがらちょこっと話たりする以外
ひたすら会話の相手は自分!
夫が帰宅するまで。
新しい土地に暮らすのは
16から24までの間に4回経験していて
今回で4回目なので、もうなれっこだと思っていたし
今回は気の置けない人が最初からそばにいるわけだから
特に問題なしだと思っていたのに〜
仕事をはじめたり
趣味で何か習いに行ったり
友達を作る方法��ていろいろあるけれど
今までは
学校とか仕事とか自動的に何かのコミュニティに属して
なんだかんだ自己紹介する羽目になり
「自己紹介何回目だよ〜(ちょっと疲れた)」とか思っている間に
いつの間にか仲良い子ができていて
気にしたことなかったよ!
自ら積極的に外に出ないと
家しかないことになっちゃうんだ!
えーびっくりー
習ってない〜
そんなの習ってない学校で。笑
この年になって、友達って
自然にできて行ったりしないもんなんだな。笑
にしてもこんな経験しているお嫁さんやお婿さんなんて
あまたいるだろうに
時が解決していくのだろうか。
そうなんだろうな、きっと。
いやーすごい、すごいこと学んだわ。
24にして引っ越してきてもいきなりは友達ができません!
ほーんとびっくり。
でも、話し相手が己しかいないのも、貴重な時間だろうから
大事にしよう。
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随分英語をしゃべることから遠ざかっていた。
しゃべる必要が無いなーと思っていた。
中高生の頃は異文化に対する興味が強い子だった。
同じ人間で、同じ地球で生きている生命体なのに、違う生活様式で、違う言葉をしゃべっている。
英語も、その違う世界を生きている言語として惹かれていたのかもしれない、と今振り返れば思う。
そのころはもちろんもっとふわっとしていて、「英語喋れたらかっこいい!」ぐらいのものだったけれど。
だから高校のとき留学した。
留学から帰って来て、一定の欲が満たされると
今度はその仕入れてきた言語をどう使うかわからなくなった。
言語は伝達の道具である。
人間が生きていて、伝えたい感情があるから言葉が生まれる。
伝えたいものが無かった。
大学生のころ「堀さんはどう思うの?」と聞かれて「私、特に意見とか無いんです」と答えた覚えがある。
自分の意見を言える子がかっこいいなーと思って見ていた。
「じゃあお前も言えばいいじゃん」と言われてもそれは無理な話だ。
だって単に緊張しいで言えなかったわけではなく
言葉に発するまで人に伝えたいものが見つからなかったのだ。
どうしても言わなきゃいけないほど強く思っていることなんて無かった。
無いわけじゃない。
でも人に伝えるほどでもない。自分の中で消化しているか、言葉にせずに発散する。
伝えたい事もないので勉強したいことも無かった。
むさぼってしまうまでに知りたいことがなかった。
次留学に行く時は、勉強したいことが見つかってからにしよう!と思っていたが
大学生活でそれは見つからなかった。
次に行く留学、に備えて選んだ学科だったけど
次に行く留学、がないまま4年間を過ごしてしまった。
・
・
外国に行く学びはわかりやすい。
自分の生きてきた環境と明らかに異なっている。
育った環境から脱出したことで
今まで自分が当たり前だと思っていたことがそうじゃなくなれば
気づかされることはそりゃあそりゃあたくさんある。
「留学から帰ってくると、みなさん一回りも二回りも大きくなりますよ」と高校の先生たちは親に言っていたし、実際帰ってきたとき「あんた、強くなったわ」と母にも言われた。
まるで留学に行くこと自体が人を強くするみたいだけど
そうじゃない。
わかりやすく異質なものをたくさん見たら、わかりやすく学べるからだ。どーんと大きく。
学び、というとまるで真面目腐っているみたいだけど
そんな偉ぶったものじゃない。
みんなしていることだと思う。
平坦な日々の暮らしの中に発見が無いとつまらないから
セブンのコーヒーの方がローソンのよりおいしいかも、みたいな発見も
雑誌の中の○○メイク可愛いから真似してみようみたいなのも
髪の毛を染めてみるのも
「あ、わたしこっちのほうが似合うかも」って服を買うのも
それまでと違うことを得ているから学び。
そんな、生活の中で小さいものから大きいものまでいくらでも溢れていて
ただ小さいものは見落としがちだし、見落とさずとも学びだと思えないかもしれない。
だから自分が「ここで得られるものは学びだ」という場所を選択するのだと思う。
会社でも学校でも。
わたしだっていま新潟にいるのはそうなんだろうな。
学びを得ているっていう感覚が、たぶん今までの自分より進歩している、変化していると思えている状態でもあって
そういう状態がたぶん一種の自己肯定感を生み出していて、生きやすい状態でもあるような気がする。
その自己肯定感をそうだと決めるのは他の誰でもない自分なので、
どの場所にいるにせよ
自分がどう思うかで生きやすさは決まってくる。
もちろん、そう思わせてくれる周りの環境がすごく大きいけど。
まあ、とにかく
新潟に来てから私は前よりだいぶん生きやすさを感じている。
生きやすさは「生きている感」でもあって
「生きている感」をたくさん感じられる場所が生きやすい場所なんだろう。
つまり自己肯定感も生きている感の一つだし
学びを得ている感も生きている感だし
悩んでいるのもそう
それは人それぞれ違うんだろうけど、
猛烈に仕事しているときにそれを感じる人もいるんだろうし
もっと小さな
美味しいものをたべるとか
ぐっすり寝て起きるとか
体を動かして疲れるとか
小さなことで感じる人もいるだろう。
手の隙間から落ちていってしまいそうなことだけど。
私はどうやら食べるとか寝るとかお日様にあたるとか単純なことで感じられるらしく
それは都会よりも田舎の方が自分は感じやすいみたいで
そんでもって
外国まで行かなくても
日本でも感じられそうだなと思ったから今日本にいるんだな、たぶん。
「なんで私は海外への興味を失ってしまったんだろう」
というのがここ数年の一つの悩みでもあったんだけど
だからだったのかー。
次の留学、が無かったのはだからだったのかー
・
私が生きている感を感じることの一つは
食べることだ。(らしいどうやら)
それは人が生きているならどこでも感じられる。
最近近所のマダムにちょうど「食いしん坊の人類学」という本をいただいて
ああ~わたしの生きている感は
全世界一緒か~
国が変わっても一緒か~
同じ人間で、
同じ地球で生きている生命体だったら
違う生活様式で、違う言葉をしゃべっていても一緒じゃないかよ~
と思って
そうなると
聞きたい事とか
見たい事とか
伝えたいこととか
あるだろうから
人を介さず
空気感ごと取り込みたいこととかあるだろうから
通訳さん無しでしゃべりたいから
やばいじゃん。
5年喋らなかった言語はしゃべれなくなるっていうけど
やばいじゃん。
もう8年経ってんじゃん。嘘、8年?今自分で書いてびびった。
まあ、と言っても
いまから何するってわけでもないんですけど。
必要に迫られないとやらないので
まだやりませんけど。
まだ欲に芽が出たばかりなので
ひょっとしたらこの芽は途中で枯れるかもしれないし
わかんないけど(発言への保険)
そのうちそのうち~
時が来たら~
そのうちそのうちって言っている間に日が暮れちゃうよ みつを
とかいって
今じゃないんだよなあ~笑
何をするわけでもないんだけど
はっとすることだったから書いておこう
明日には今の自分がどんな気持ちだったかなんて
忘れてしまうかもしれないんだから。
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みんな何かのオタク
人に対して「すごいですね」って言っちゃうけど
極力その言葉を使わないで接したいと最近は思っている。
「この人、すごいな…」と驚いてしまう人っている。
行動力が凄まじかったり、思考が自分が想像もつかないほどぶっ飛んでたり。
ねじ伏せられたというか、敗北感というか
理解できない人が見渡せばたくさんいるものだ。
さくらちゃんの思考は毎回7~8割何言っているかわかんないし
ゆきちゃんはずっと動き回って行動力が群を抜いていて
同居人としては「お母さんゆきにはもうちょっと家にいてほしいの」レベルである。
確かにその人の一番外側だけを見たら確かに「すごい人」なんだけど
それで終わってしまうと
「この人と私は別」という
その人と自分との間に壁をつくっていることになる。
自分が傷つかないための殻を形成するみたいに。
コ��タクをはじめたばかりの頃は
さくらちゃんやゆきちゃんにただただ「すごさ」を感じていて
引け目のような劣等感のような敗北感のような感情がうずめいていた。
「さくらちゃんの言っていること、わけわからん。はあどうしよう私ってばか。
ゆきちゃんなんであんなに休まずに動いているん。
私今日ぼーっとしてたで。
はあ~二人ともすごいなあ」
もうすぐ一緒に住んで2年になるが、ようやく二人は「すごい人」じゃないことを知った。
私が自分と二人を比べていた部分、
例えばさくらちゃんだったら考えることや
ゆきちゃんだったら動き回ることは
2人にとってそれぞれの行為は呼吸することと一緒で
それをしないと苦しくて死んじゃうからやっているのだと。
これはこの二人にだけ言えることじゃなくて
どの人もそうなんだろう。
70すぎてもバリバリ働いているおじちゃんとか
80過ぎても家の仕事ばっちりこなしちゃうおばあちゃんとか
義務でやっているんじゃなくて
その人からその行為を取ってしまったら
その人は呼吸できなくなっちゃうんだろうな。
もう生きるためにそうしているんだろうな。
群を抜いて見える行為や
目立った行為は
楽しいからやっているか
やらないと苦しくて死んじゃうからやっている
人によって見えてくる度合いも
行為によって受ける印象も違うけど
何かのオタクからその人の集めているものを奪ってしまったら
息ぐるしいみたいなのと同じで
みんな何かのオタクなのかもしれない。
だからそれを真似る必要はない。
別に距離を置くものでもなく むしろ面白がるものなのかもしれない。
その人の歩んできた過程はどうしても見えにくくて
結果の部分だけを見て
「すごい人」に括ってしまいがちだけど
本来はその人と自分は対等で
ただその人がそうしないと苦しいと思うことを
生きている間にまっとうしているだけなんだろうね。
みんな何かのオタクのように、それをしているだけなのかもしれない。
「すごい人」なんじゃなくて、「すごい変な人」か「すごい面白い人」だ。
オタクになれることを先に見つけられた人が、すごく見えているだけで
それを見つけるタイミングが、人によって違うってだけなんだろうね。
でもまだ言っちゃうんだけどねえ
「すごいですねえ」って。笑
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もし楽しくなくなったら解散しよう
(タイトルを読むと、まるでコメタクが楽しくないから解散する、みたいになってますけど、コメタクのことじゃない)
「何年かしたら行けんくなるかもしれんやろ」
「これは今行くには早すぎる。もっと歳取ってからの方が、受け取れる量が違う」
ある場所に行くか行かぬかで、最近した会話で
その人との関係性がただの仲良しの他人ではなく
一緒に生活共同体を築いていく相手なのだと知った。
いま��では、「いま、一緒に過ごすこの瞬間が楽しい」という感情を大事にしていたので
「いま、この人と楽しく過ごせる方」というのを自然と選択していたのかもしれない。
「未来はこうなってしまうかも」とか「将来のことを考えると」っていう部分はなるべく抜きにして(それを考えながら一緒にいると、後々辛かったりする)、
一緒に過ごす「いま」の時間を自分なりに楽しんできた。
「いま」が楽しめなくなったら解散すればいい、と自分に言い聞かせて。
結果的に「いま」は楽しいまま、その時間と感情が蓄積されて、気づけば数年が経った。
これからは、「いま」だけの関係じゃなくなる。
会社みたいだと思った。
会社は、というか経済活動のための組織は、「いま」の瞬間を楽しんでいるだけじゃ回らない。将来の予測を立てて、そのためにはどうしたらいいか考え、行動する。
「いま」が楽しくなくなったので~
って理由だけで解散するには背負っているものが多きすぎる。
一度走り出したら止まれない。それを世では責任と呼ぶのだろう。
「いま」が楽しくないから止めまーす!は無責任と言われるんだろう。
「子どもの遊びじゃないんだから」
生活共同体も、そういう意味では会社だ。
「いま」と言う時間軸だけじゃなくて、相手の未来の時間をもらっている。
そういう意味でお互いに責任がある。他の他人とは違う。
ただの仲良しじゃない。
そういう意味で、それは心地の良い責任。
でも、その責任を負っていたにせよ
基本的には「いま」を楽しく過ごせしていたい。
ずっと後で振り返ったら
「何だか、いつのまにかここまで来てしまいましたね」ぐらいの感じで。
・・・
そもそも、
責任があるので走り出したら止まれないのは本当だろうか。
確かに、例えば会社が走るのを止めたら
多くの人が痛手を負うけど
夫婦が離婚したとき、
私の人生どうしてくれるの!ってなるけど(ならんか。まあ、なる人もいるだろうよ)
「もし楽しくなくなったら解散しよう!」ぐらいのモチベーションで
解散しても、「それぞれまた別の楽しいことを見つけていこー!」って心で向き合っていれば
「解散したけどまあ何とかなるやろ」
ぐらいの気持ちを個々人が持っていれば
組織が走るのを止めても
それぞれが生きていければ、
それでいいじゃないか。
◎◎を守る責任があるから、といって楽しくない時間を過ごしているほうが辛い。
(子どもは別だろうけど)
生活共同体もそんな関係性がいい。
「いま」の楽しい方を選び続けたい。
そうやって楽しい方を選んでいたなら
会社を選ぶのも
生活を共にする人を選ぶのも
自分が選んでいるんだから責任は自分にある。
その時点で自分の人生に責任を負うのは自分
会社でもなく旦那でもなく親でもなく自分。
「あのとき、こっちのほうが楽しそうやったらからこっちを選びましたっ!
結果的に解散しましたけど。まあ自分が選んだんやからしゃーないかっ!だははっ」
って思えるじゃない。
そんぐらいの気楽さでいたい。
・・・
いずれにせよ
他人との関係が、こんな風に
「今」という時間だけじゃなくて
未来も視野に入れる関係性に変わることは
人生で後にも先にもとても稀だ。
見たことのないものがたくさんあるのだろう。
すごいことなんだなあ。
わくわくする。
楽しみだ。
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同居人里帰り中につき、私も一人暮らし中である。
久々の自由気まま。さぞ楽しかろうと思ったが、楽しいのは最初の2日ぐらいで、
あとは割と虚しさを覚えている割合のほうが多い。
ネットの動画見ながらご飯を食べて、時々「へへっ」と乾いたような笑いを発するあの瞬間を、部屋の斜め上のほうから客観視している自分がいる。
やっぱり私に一人暮らしは無理だなと心の底から感じている。さみしい。
という意味ではそう思わせてくれるこの時間は大事だった。
一人でいると、考え事をよくするようになった。
頭の中のものを吐き出さないと忘れてしまいそうなので、ここに書くのは同居人につらつらと話している代わりなのかもしれない。
ここ最近は、というかこの数か月は
無関心は愛だなと思っていた。
「あなたの人生になんて関心がない。いま一緒にいるこの瞬間が楽しければいい」
「私も好きなことをしているので、あなたも好きなことをしていればいい」
「人のことなんてみんな見ていないのだから(あなたことなんて見ていないのだから)
あなたはあなたで適当に楽しいと思えることをやればいい」
ここで重要なのは、その無関心を向けてくる人も、その人のしたいように楽しんでいること。
お互いが、自分の時間を相手のために使っているという負債感が無く
自分が楽しいから今ここにこうやって過ごしているんですよってこと。
それぐらいの無関心が
ある種、
「そのままでいい」っていう気楽さをくれる。
そういう大人になりたいんです私、とここまで人に話すと
関心を持って干渉をしてくる愛もあるとその人は言う。
なんとまあ。そうだよねそうだよね。
起こりうる色々な問題点を示して、危険を回避させて
結果的にその瞬間が安全に過ぎていくっていう愛もある。
どちらも愛だと言えるのならば
ようは自分の受け取り方次第だとその人は言った。
どっちにも、というか色々な事柄について
「ああ~いまのは愛やな」と思えていたい。
愛やったからしょうがない、ぐらいの心持でいたい。
その方が人生得しそうや。
なかなか、難しいんですけどね。
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波長が合って、何を考えているんだか何となくわかる人はもちろん好き。
だけど最近は、何考えているんだかわかんない人の方が気もなる。
何考えているかわかんないけど
この人の感性は信じていたい
そんな人から出てくる意味の分からない発言が好き。
わからないのも心地よいと思える。
その人の将来を見てみたいと思える。
近所の大工のおじちゃんは
夫婦は趣味なんて合わない方がいいと言う。
趣味が一緒で結婚した人なんて、世の中あまたいるだろうに。
異質さに寛容であり
わからないことを楽しみだと思えたら
確かに趣味なんて合わないでいいのだろう。
夫婦なんて所詮他人同士なのだから
全部わかりあうなんて到底無理だし
分かり合った気になっているほうが怖いのかもしれない。
おじさんに言われた結婚するかどうかは
「相手の感性を信じられるかどうかです」は最近やっとしっくり来てきた。
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汚れてもいい格好で生きたいの
新潟に来てから汚れてもいいと思う服ばかり着ている。 急に畑に連れて行かれたり、厨房に入ったり、突発的で楽しそうなことが次々起こると 「わ、このお気に入りのシャツが汚れるう」なんて言っている場合じゃなくなるのだ。 一年の半分、空から水滴が落ちてくるっていうのもあるけど。 そうやって田舎者になっていく。 それでいいなーと最近は思う。 正月休みの地元の駅は、帰省して来た人がわんさかいて いつも地元では見ない都会的な服装に身を包んだ人で溢れる。 そんな格好、このまちでしてるひといないな。 前は素敵だなあ、おしゃれだなあ、と羨ましい眼差しで見ていたが 一生こっちで暮らすならほんとに着ないな、と思う。 内野でも、四月から住む場所でも 思いっきり汚れてもいい服の方が その場所の楽しみを真っ向から受けられそうだ。 都会には都会で得られる学びがあるように 田舎には田舎のそれがあり お互いに最適な服装をしていればいいのよね。 汚しちゃいけないと思いながらお気に入りの服に身を包むより、 思いっきり汚れてもいいと思いながら、
偶然性を楽しむように波に乗れるようになりたい。
汚れる学びの多い場所で生きたいと最近は思う。
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最近言われたことにイラッときて
どうしても腑に落ちなくて
うだうだ考えて
納得いかない
何でそんなこと言われるのって思っていたんだけど
怒っている時点で自分の中でもまだ葛藤があって
悟りの境地に達していたら何言われても怒らないはずだから
その人に言われたこともどこか自分の中に思っていたことなんだろうね。
心が不安定なとき「他人の意見を否定しないと自分を肯定できない」ってここ最近3人の人に連続して言われて
それが妙に耳に残っている。
そのイラッと来たことに対しては
そのうち見えることがあるんだろうよ。
ゆっくり待つよ、首を長くして。
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「みんなサラリーマンは経験しておいた方がいい」と先日友人に言われた時
ずきっと胸に痛みが走った。
そして自分にその痛みが走ったことに驚きもした。
・
最近はようやく自分の選んだ道に間違いはないと思えるようになっていたし
その子のことは好きだから。
・
動揺して「おいおい、何びびっているんだよ」と自分に問うた。
結構焦りながら、「ほうほう」と聞く姿勢になる。
「サラリーマンする前と後じゃ、全然考え方が違う。
毎日勉強だ」とその子は言う。
『それじゃあまるで私が毎日勉強もせずにぷらんぷらんフリーターまがいなことしていると言いたいのか』
と若干自分を否定された気がして
なんだか複雑な気分になりながら
「その子がそう思えていることは、その子にとって
一番いいことだな」と思い直して
「そう思えているのはいいことだよねー」
とすごく偉そうな上からな言葉を還してしまった。
・
人は経験したことからしか学べない。
経験したからこそ、やっと言葉は力を持つと思う。
・
だから、その子の
「サラリーマンを経験したほうがいい」っていうのはすごく力のある言葉で
「きっとそうなんだろうな」と純粋に思ったのだ。
少しジェラシーを感じたのかもしれない。
将来、私の知らない深みと学びをその子が持つかもしれないことや。
私が通らなかったその道でそう思えていることに。
・
新潟の大好きなお店の大好きなおじちゃんが
一度サラリーマンを経験してから店を継いでいる。
そのことはおじちゃんの豊かで大きな包容力と
何か関係しているのだろうか、とちょうど思っていたところだったので
尚更だったのだと思う。
・
でも、よくよく考えてみれば
それはこの道を選んだからあの人はどうだ
この仕事を経験したからあの人はこうだ、ではない。
・
どんな道いであれ関係なく
自分の置かれている状況に感謝している人は
選んだ道を肯定できている人は
思わず近づきたくなる
頼りたくなる人だ。
愛らしい人だ。
憧れてしまう人だ。
・
だから
「(みんなが経験したほうがいいぐらい学びがあるから)
サラリーマンを経験したほうがいい」という意味で
「サラリーマンやったほうがいい」と
自らの道を肯定できているその子は
わたしにとって愛らしい人で
だからこそのジェラシーなのかもしれない。
・
でもだからといって
その「みんな○○になったほうがいい」というのは
自分自身を肯定するとともに
それ以外の道に否定的になってしまう。
だからドキッとしたのだ。
・
結局は
自分で決めて、
置かれた状況を学びだと思えて
自分を肯定できているなら
なんでもいい。
・
単に、その子に自分の生き方を否定されたような気がして僻んでいるのかと
一瞬自分でも思ったが、
その子の道も正解で
私の道も正解だ。
その子にはその子の役割が
私には私の役割があるのだろうよ。
・
その子にそう言われなかったら
ドキッともさせられず
問も浮かばなかっただろうから
結果オーライでございます。
なんだか最近肯定感の話ばっかりで
読んでて自分でも親近感ないわ。表現力が足りない。ふう~
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食べて飲む。
大学の後輩から
遊び行ってもいいですかと連絡がきてから
数日後、リュック一つでその子がやってきた。
あまりにも身軽だったので、周りの人は
「新潟の子ら?」と
そこらへんに住んでいるお兄ちゃんかと思ったぐらいだ。
・
新潟に住んでコメタクとして活動をはじめてから
わたしやさくらちゃんやゆきちゃんの友達が
ぷらっと遊びに来ることが定期的にある。
こぞって割とノープランで
その子が来てから「どーするー?」って考えることばかり。
・
それでもそれぞれいい表情で帰っていくのでいつも安心する。
後輩も、別れ際とてもいい顔をしていた。(気がする)
・
わたしがもてなしているわけではなく
むしろこちらは通常運行で
ごはんを奢るわけでもないし、掃除も手伝わせるし、
しまいには「私ちょっと���てくるんで」といって放っておくのだけど。
・
昨日はたまたま近所の海産物屋の大口さんご夫婦から鍋に誘われ
その子も一緒にごちそうになることになった。
・
ふだんからこのご夫妻(というかお父さん)はもりもり食べさせてくれるのだが
後輩がすごく美味しそうに食べるのが嬉しいみたいで
どんどん盛って、どんどん酒を注ぐ。
もう笑っちゃうぐらいだ。
常にわんこそば状態。
その様子は見ていてすごく気持ちがよくて
わたしまで嬉しくなる。
そのうちお父さんのテレビを見ている横で
後輩がごろんと横になった。
とてもいい光景だ。
・
新潟に来てから、ずっとこのご夫婦にお世話になっている。
わたしたちはもちろん、ふらっと遊びに来た私たちの友達も
何人もの若者が大口さんの家で実家に帰省してきたかのように過ごしている。
・
食べて、飲んで、それだけで
ほかほかとあたたかな幸福感に包まれて
ご夫婦の家から家への道を歩いたことが何度もある。
昨日もそうだった。
おいしく食べることを、おいしく飲むことを喜んでもらえて
それだけで「自分はこれでいいのだ」という
自己肯定感が湧いてくる。
・
ぷらっと遊びにきた友人がいい表情で帰っていくなあと思っていたけれど
いい表情にさせられているのは私もだ。
・
数え切れないほど恩を受けてきた。
どう返せるだろうか、と思うことがある。
・
お金があるわけでもないし、才能があるわけでもない。
だから、
いまできることは、二人の好意をまっすぐ受け取って感謝する。
おいしく食べて、おいしく飲む。
そんな簡単なことなのかもしれない。
簡単だからいいんだ。
・
「お返しは、次の世代に還しなさい」とご夫婦は言う。
わたしが感じている
「食べて、飲んで、それだけで
ほかほかとあたたかな幸福感に包まれる感覚」と、この自己肯定感を
将来わたしも次の世代に還していけるだろうか。
還していきたいな。
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