koroho-no-snow
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A実験場
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koroho-no-snow · 1 year ago
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「やりたい」ことを「やるべき」世界
 子どものころ、自分の行動の分類は明確でした。
 やるべきこと。そしてやりたいこと。
 親も先生も言ったものです。「やるべきことをやってから、やりたいことをやりなさい」と。幼いころに示されたシンプルで極端な指針というものは、その後の人生に思わぬ形で反響し続けるもの。
 帰宅したら椅子にお尻を一度もつけずにお風呂に入ってご飯を作る。朝起きたら運動をして家事をして買い物に行き、来週へのタスクを終えて、午後から遊ぶ。そんなことをただ自主的に習慣化できたと自覚したことがある(と言えてしまう)人が、生まれてこの方何よりも輝いて見えるのです。直視できないほどに。
 やるべきことをやってからやりたいことをやるのが気持ちいいものなのだ、みんなが幸せになる道なのだ。その先にあるのは一切の強迫観念や自責の念から解放された時間。好きなものだけが見渡す限り用意された桃源郷でしょう。しかし大人になった私には、そんな純度の高い光が見えたことはない。
 今日はかなり上記に近い一日だと思います。4時まで書き物をしたせいで11時前まで寝てしまったところに目をつぶれば、カウンセリングをオンラインで受け、顔を洗い、昨日友だちが泊まっていたために出た洗濯物を片付け、目玉焼きと夏野菜を焼いて食べ、郵便物を分類し、近所の湧き水を汲みに行って、洗濯物を干したら午後2時すぎ。買い物は昨日終えたので、「やるべき」の箱に入れたものはもう無いはず。あとは机に向かって写真の整理と昨日の小説の続きに手を付けようか。そう、「写真の整理と小説の続き」これが本日の私の「やりたいこと」になりました。なぜこれが「やるべき」ではなく「やりたいこと」に入ったのか。それは過去の「やるべき」の時間中、何度も夢想した行動だからなのです。ああ、これをやる自分になりたいと。
 その前に少し喉が渇いたからほうじ茶を入れることにします。汲みたての湧き水を湯沸かしポットに入れてスイッチを押し、ストックの加賀棒茶を茶筒に移す。あれ、これは「やるべき」ことだったかな。いやいや、お茶を淹れる過程を「やりたい」と平日思っていたっけ。なんだか余裕があって気分がよくなるだろうと。これもいつの日かの「やりたいこと」でした。でも煩わしくもあるな。
 お茶を蒸らす間、一時停止させていたドラマ『私の解放日誌』の続きを少し流します。覚えておきたい台詞あったのでまた止めて、パソコンで開きなおし、まず韓国語の台詞と日本語訳を見比べます。韓国語の字幕を見てみると、翻訳をシンプルにするために削られていた「余剰」が見え、それを言った人物をその人たらしめている澱のようなものが感じられるようです。一行分、そんな澱にもあたる部分を見つけた気になり、興奮で額がじっとり汗ばみます。
「私は、あなたが言葉で人を惑わせようという意思を見せないから好き。だからあなたが話す言葉はひとつひとつが尊い」 「生まれ変わったら、お姉さんとして生まれたい」 「前世ではあなたのように生きて、『生まれ変わったら行き当たりばったりで生きなきゃ』と言ったのが今の私で、私のように生きたけど、『あ、これも違ったみたい。また生まれ変わったらきちんと生きなきゃいけない』と言ったのが今のあなたなんだよ」 (『私の解放日誌』第2話)
 働き始めてから一度も続かなかったスクラップブックですが、今年初めにまた作りました。好きな作品から好きな部分を抜き取って、その本を開いたら強制的に自分が過去に選んできたものと再会できるように、輪郭を取り戻せるようにしたい。書き込んだり貼り付けることで自分に染み込ませてみたい。それも何年間もやりたくて、やってみて、途切れて、あきらめて、望みたくもなくなって、憎たらしい瞳で懸想していた「やりたいこと」です。2か月ほど途切れたり始めたりを繰り返しているけれど、それでも「続けている」のだと勘定することにしています。本当はもっと頻繁に開いて習慣化したい。そしたら、継続していると胸を張れるのに――そしたらこれは「やるべき」になるのだろうか。
 韓国語の台詞を写して、その下に日本語を書きます。その右上には半年ほど前に写した、別の小説の一説。これを書き留めておいてよかったな、と確認するこの一連こそ、「これができればよかったのに」ばかりを考えていたころに憧れて止まなかった行為です。
 それなのに声がする。そんなことをしている場合なのか?「やりたいこと」をできなかった日をまた繰り返して死んでいくつもりか?それが聞こえるとお腹が冷たく重くなって、とんでもない過ちを犯したように体がこわばるのです。そうだ、今日の「やりたいこと」は写真の整理と小説だ。それを「やるべき」なのに。
 やりたいことが多すぎて。自分の内側からだけでも多いのに、外からもたらされる「あれを読んでおいた方がいい」「あそこに行っておいた方がいい」「あれを生活に取り入れないと損」の渦は内発的なものを遥かに超える。「やりたい」がいつになってもなくならず、いくつやっても満腹にならないから、手当たり次第にがっつく。気づいたら「やりたい」の中に「やらなくちゃ」が侵食し、次に顔を上げた時には真の「やりたい」なんてこの世に無いと「気づく」でしょう。
 読み返してみると、充実した祝日ではないか。なにより脇道にそれる自由を享受している。それなのに私はいつまでも「休みの日はやりたいことやってるんで、大丈夫なんです」と笑みを貼り付けて訳知り顔なコメントを述べる社会人には一生なれない気がしている。
 それでも、「やりたい」がすべて枯れ果てた世界を抜け出して、「やりたい」が「やらなくちゃ」に襲われている世界には帰ってきました。この世界も相変わらず殺伐としていて大変なようではあるけれど。無色なのに大音量で不愉快な声が鳴り続ける前の世界はこりごりだから、そこへ通じてしまうドアを二度と見つけないように、この殺伐とした世界でのらりくらりと生き延びる方法を探そうと思います。「やりたい」と「やるべき」の間に流れていた大河は、今や飛び越せるほどの小川だから、私たちはいつも迷う必要がある。時にはやりたくないことをしてみたり、すべてのおすすめを無視してみたり、あらゆる「これを逃すと無い機会」が上流から下流へ流れていくのを眺めながら、「やりたい」の曖昧で鈍い光を確かめていきましょう。
 そうして写真の整理も小説も取り掛からないで、夜9時を前にこれを書き終えました。これから夕飯を作る予定。今日もし夜更かししてしまったら、果たして明日はどうなってしまうのでしょうか。完璧な一日も一週間も、野生には存在しないのでしょうか。そんな自分の中の臆病が、こうして書くと面白く思えるのです。
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koroho-no-snow · 1 year ago
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できない、と喚いて生きていく
お腹が減ったなあ、と今日もSNSをめくりめくりしていたら、ある漫画家とミュージシャンの対談を流れてきました。そうしたら、なんと私のことが書いてあったのです!
生きている限り作れば(今回の場合漫画家の話なので「描く」というのが原文です)いいのに、人に褒められたいという気持ちがあるからスランプになったり作れなくなったりする。作ろうという意欲が少ない。欲が深くて才能が無い。すぐよろけちゃう。進むか止まるかしかない。
という趣旨。いわゆるバズを生み出しているようです。
手を動かしているか動かしていないかという厳然たる事実しかないのだから、「作りたいのに作れない(書きたいのに書けない)」という状況がまずあり得ないですよね。そうですよね。ふむ、非常に論理的です。ぐうの音も出ないのです。
才能とかなんとかいう評価はまったく自分に関係ないのに、運命論とか「才能あるね(キラリ)」という言葉の浪漫を刷り込まれて育ったので、そういう視点から誉めそやされたら楽じゃろうなあ、という甘い甘い欲望がある。
思い返せば、私は実際に「書いていた」時期でも「書けない」と考えなかった日がないので、この話は全く異なる宇宙の話と言わざるを得ません。
高校の学芸コンクールの作品論も2ヶ月遅れて「成績つけるの今日だよ」と言われたから書けましたし、演劇部の脚本も「書けないから学校に行かない」と言い張って、参観日で休みを取った母と共に家で過ごしました。大学時代に出した同人誌も全部割増料金です。準備が間に合わなくてイベントに遅刻し、大変な失敗もいたしました。
そんなふうに「なかなか書けなかった」だけではありません。極めつけには「似た文体で人気の方もいるし、私が書かなくてもいいんだろうな」などという、単なる「拗ね」と「妄想」と仕事の忙しさを理由に、7年近く「書こう」と思うことをやめてしまいました。
続けたところで損はないのに阿呆だねえと思う近頃ですが、そう思えるのも阿呆の限りを尽くしたからに違いありません。
私の根源には、常に「書きたいのに書けない」があって、一生「書きたいのに書けないとかいう人がいるらしいね?」なんて言える側には行けないでしょう。恨めしい恨めしい。
恨めしいけれど、あまりに何度も解決を試みて破れ己と世界を恨む一連を繰り返しすぎて、それ以上にはならない。これは20代前半の頃との大きな違いです。おお、進歩している。
そして今私はまた「書く」ことを始めようとしています。(日記とか散文のようなものは山ほど書き殴ってはいるのですが、作品として完成させることを目標に持とうとしているわけです。)
「書けない」時っていつも何を考えていたっけなあ。
私が何故作ったり書いたりし始めたのかというと、「これ」のことを自分と同様に好きな人と話をしてみたいから、だったように思います。人生の最初の一文は忘れましたけれども、中2でブログにゴーストハントの二次創作を載せていた頃にはすでにそうでした。
こんな文体が、この場面でのこの言葉が、この言葉の組み合わせが思わせる光の加減が好きだということを物語として見せることで、ただ論じるように述べるよりも、鋭利な矢でもって届けられる。鋭利な矢なら、小さな隙間からも遠くへ届くだろう。私のクラスメイトたちよりずっと遠くに届けば、そんな人がきっといるだろう。いてほしい。
学校の作文も、日誌も、友人への手紙も、スピーチも、同人誌も、就活の小論文も、その文章から続く会話で私の中の何かが広がったから。それよりもっと時々だけど、誰かの中の何かが広がったよと言ってもらえたから。書く以外ではその人に、もしくはその人のその部分に出会う手段がなかったから。
すごくシンプルに甘えた言葉で示すなら、それでしかできない、他者とのつながり方があったから。
それがまた欲しいなあ、とよだれを垂らしているようです。
そんなふうに物欲しげで意地汚いから書けなくなったりするんだなあ、と当たり前のことに気付きつつ、それでも「ゼロよりは1の方が死ぬ時後悔しないよね」と心から���えるようになったことが嬉しい。
ここまで生きてきて良かった。と大袈裟に喜んでこれを書いています。
今ひとまず何か一つ仕上げることを目指して、本をまた作ってみたいと思っています。
「書いています」というには些か不十分な姿で、未練がましく文字と接していく姿は変わらないでしょう。スランプだ、書きたいのに書けない、と喚くこともやめられないまま。
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koroho-no-snow · 3 years ago
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(おお、と思った台詞のところでシェアしたので途中のところです。ブラウザではなくアプリから見ると7巻くらいまで無料らしいです。)
半分くらい無料公開されてる『地獄楽』を読んでいます。13話に差し掛かったところです。なかなかに直球な「現代」が詰め込まれており、やはりジャンプが見ている世の中も進んでいるのだなあと、SPY×FAMILYやチェンソーマンに続いて興味深いです。少年誌が「少年の浪漫(とされるもの)」のために消費してきたあれこれに飽きてしまったことがある人は、面白く感じるのではないでしょうか。
時代劇のスタイルをとる場合、当時の社会制度によって刷り込まれた家父長制的な価値観を描かないわけにはいきませんが、それをただ「かっこよく見せる対象」と書く場合と「立ち向かって何かを訴える対象」として書く場合とあると思います。地獄楽は今の所青臭いほどに後者です。
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koroho-no-snow · 3 years ago
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例えば同じ「恋愛」の看板を掲げていても、台詞回しひとつで嫌いにも好きにもなるだろう。企画書やキャッチフレーズに表れる何か程度で、その本を本当に読みたいのかわかると思い込み、インターネットで選び取っていたけれど、本屋で3ページ読めば簡単なことだった。少しも惹かれない題名で簡素な売り出しで、5分読んで涙した。��局これが遠いように見えて早いのではないかと気づいた時には、私にとっての合理性は、淘汰されるべき「非合理」になっていたりする。これが夜中や朝だと、世界は救いようなく頭が悪いなあという気分になったりもする。
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koroho-no-snow · 3 years ago
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自分を人間としか思っていないのに、周りには人間の前に女や男であるということが存在すると言う体で話す世界が成立している場合が多く、面食らう。そういう考え方もあるのはわかるが、「普通でしょ」と来るものだから、なかなかに隔たりがあるものだなと。
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koroho-no-snow · 4 years ago
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大奥最終巻一時間後
吉宗公が、「将軍が女であるという事実を海外には秘匿せよ」という旨の命を下したとき、もしかしてと思ったことがある。この命は、ある結末のために用意された物なのではないかということ。
没日録という記録を残している描写があることから、その予感は間違いだったのかとしばらく思っていたが、最終巻を読んで肯定された。
女子校で約18年間を過ごした。女と対象のものとしての男を勘定に入れなければならず、男に対する性としての女を考えるようになったのは、成人してから。
今、その切り替わりの頃を想う。
女は「人間」でしかなかった。それ以外に主導権を握る性が存在することは、考えてもあまりに幻想的なことだった。
保健の授業で「何歳まで働くつもりか?」というアンケートの意図があまりわからず、「定年まで」と書いた。
そして成人の頃、共学という環境に。その世界観から、男性と女性が役割を分担する社会への移行を体感した。パラダイムシフトを無意識に試みたことはあるが、働き始めてから結局私は今も10代の頃の感覚を芯にして生きていると、近頃気付いている。
独立心旺盛な方でもないし、ぼんやりとして見られやすい人間だ。フェミニズムについての知識も、恥ずかしながら浅い。ただ私の場合、未熟で強固なパラダイムがあるようだ。
差別からくる発言を投げ掛けられると、異なる世界観から話をされて不思議だ。擦り込みが持つ力の偉大さに敬服しながら聞く。
各加害にコツコツと怒ってはいるものの、実生活で自分に関する何かに対して抱くべきかもしれない根源的な怒りは…怒りより、違和感。そしてもっと失礼なものに近い。
そんな私を作った、徳川幕府に比べてあまりに短い歴史。
ただ最後までの数十ページ、そこに帰ったような気がした。
この話は、ファンタジーに分類される。史実を丁寧に回り込んだファンタジーだ。けれど最後の1ページが目に入った時、この胸に去来するひとひらの「感じ」は現実感を伴う鮮明なもの。この物語がファンタジーであるならば、私たちの足を絡め取ろうとする「因習」は同程度のファンタジーでなくて何だろ。そんな、二度と過去の色には戻れないこの感じ。
経験したことがないものを、信じ切ることは難しい。頭で論理的に考えたから可能性を知っていても、擦り込みで作られた意識を超えて腑に落として、信じることは難しい。そしてこれまでの「当たり前」を打ち払っていく際に出現する、その壁を取り払うものが、物語。
この物語によって落とされた一滴の「感じ」は、私たちの脳髄から取り除かれることはない。
(全巻読み直しに走ります。)
書いてから気づいたのですが、大奥の連載開始時私は11歳だったようです。ただ「すごいなあ、かっこいいなあ」とだけ読んでいたのかな。思い出せませんが。
休載から復活する際にキャッチできなくなってしまった「風光る」も完結の噂を聞きましたので、どこまで読んだか探る旅に出なくてはならないですね。
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koroho-no-snow · 5 years ago
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This is 嵐 LIVEといろいろ
嵐のラストライブを見ていたら、本当に幸せなサヨナラで…ファンクラブ会員でも無いのに沢山泣いてしまいました。
ただ見たいドラマを見て、良いなと思う曲を借りるだけの音楽ミーハーですが、歌われていく曲のほとんどを口ずさめることに驚きました。その曲がタイアップしている作品に出演するメンバーがセンターになるのも、かっこいいですね。山田太郎ものがたりや、花より男子がとても懐かしいです。
唯一無二のワン��ー公演だったから可能だったのか、掛け声を事前に集めて編集して流す、というやり方は本当に素敵でした。ファンと一緒に歌うアイドルを見て幸せになる人間なので…久々に味わえたあたたかさでした。やはりタイムラグがあるので生配信で声を入れてもらうことは難しいし、KPOPの音楽番組で使われている歓声のSE?は少し虚しい感じをかえって掻き立ててしまうこともあります。KPOPのグループにも、これをやって見てほしいな…とちょっと思いました(スタッフさんめちゃくちゃ大変かもしれませんが)。
ありとあらゆるアイドルが、歌手が、もし舞台から去りたくなった時、こんなふうにキャリア通した曲を振り返って、自分を愛した人みんなとお礼を有り余るほど交換しながらお別れ出来たらいいのに。この職を選んでよかった、大変なこともあったけど、一生忘れられない宝物になった、これでよかった…そんなことを思いながら挨拶出来たらいいのに。
何より舞台で愛されて、楽しんでいるところを見るのが一番幸せなことだなと再確認した2時間半でした。嵐の皆さんと、数万人のファンが直接場を共にできたらどれほど良かったかと思ったけれど、そのマイナスをプラスに変えてやると言うばかりのスタッフのみなさんの拘りを感じて…それにとても満たされました。
だいぶ前の嵐にしやがれだったと思いますが、5人が「公演後の虚無感」について話していたのをとてもよく覚えています(虚無感という言い方はしてなかったと思いますが)。何万人もの前で光や声を浴びたあと、帰って洗濯なんかをしていると、あまりの落差に「はあー」ってなる…みたいな話。細かく覚えていなくて恐縮なのですが、とにかく、「スターとしての時間」と「人間としての時間」の二つがあることを自覚して、消化して、こうして話して笑えたりしているんだな、と驚きました。この話は、華やかな舞台に立つあらゆる人を見る時に自分が持つ、ひとつの関心につながっています。その人にとって舞台と日常の関係は、境目はどのようなものなのか、ということです。
さて、このリピート配信が終わろうとする時、あるニュースが伝播していました。韓国のJYP Entertainmentに所属し7年契約の更新時期を迎えていたGOT7が、グループ全員再契約をしないという内容です。GOT7はJYPの代表的なグループのひとつで私も日常的に曲をよく聴いていましたし、昨年のMAMAでも「アガセ」の大きな歓声の中でパフォーマンスしていたので…とても衝撃的でした。
今日配信のGolden Disc Awardsがグループ最後のパフォーマンスになるのではないかと予想されています。詳細はJYPからの公示を待ちたいですが…「アイドルとの別れは突然」という言葉を、かなり近いところで実感した初めての機会になりました。
ありとあらゆるアイドルがその道のりに敬意を払われ、最後だと区切りをつけるにふさわしい場所にマイクを置いて欲しい。アイドルは、歌手は、誰かの人生や夢の一部だったりするのだから、ファンと共にゆっくりと幕を下ろしてほしい── 嵐の5人がとうとうマイクをポケットに入れてしまい、お互いの手を取る姿を見ながら、それが現実的かどうかよりも前に、ただ強く願いました。
佐づ子
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koroho-no-snow · 5 years ago
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タイムターナーがあれば、映画も本もドラマも観たいもの全部みられるのに、ただの人間だから出来る範囲のことをする外なく、「何かを観ない」という選択を必ず、誠実に行うものだということを忘れてはならない。
何かを鑑賞する時、常にその他のものを鑑賞しない選択をしている、どんなに何かを沢山見ていても(慰め)
広い本屋や図書館に行くと、これら全てを読まずに死ぬことが哀しくなるこの現象。
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koroho-no-snow · 5 years ago
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二重橋から東京駅まで
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koroho-no-snow · 5 years ago
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youtube
Life Goes On Teaser2
花様年華は幻なんだと、過ぎれば気づくね。「一瞬の美しさ」なんてものを惜しむのは幻。どんな痛みがあろうとも、ただ当たり前のように死の時まで進む、死んでも続く、この日常が本当に美しいと気づくから。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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仕事始めてから、ちゃんと完全なるブームになって世の中の「メイン」として取り上げられるものを履修しなければならない…という圧を自分にかけてるのだけど、やはりどうしてもじわじわと「サブ」として拡がりつつあるものが面白いと感じてしまうようだ。
誰かの切実なものであるにも関わらずマイナー扱いされて零れ落ちそうなものをキャッチする何かがそこにあるからなんだろうな。だからサブカルという言葉は全く揶揄として機能しない。
でも大通りで消費されているものがなんなのかということから目を逸らさないように、やはりどちらも追っていったほうがいいんだろう。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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マスター関連メモ①
https://www.instagram.com/p/BrpFTPEHD9J/?utm_source=ig_web_copy_link
意訳)
レンズ(2017年10月~2018年12月)
レンズが完全に壊れてしまい、修理も不可能になりました。
彼はちょうど1年2か月私と一緒にいてくれました…本当なら、レンズは通常6年から7年使えるはずです…たぶん私のスケジュールがあまりにハードだったから…彼はとうとう疲れてしまったんだと思います。
あなたをこんなに疲れさせてしまってごめんなさい…そしてこの一年の間私を助け、たくさんの素晴らしいジンの写真を撮らせてくれて、ありがとう。
私は新しいレンズ(新しいレンズはシュガ推しじゃなくてジン推し…せめてジンをぼやけさせない子がいいな)と出会うだろうけど、あなたはずっと私の心の中にいます。
あなたと初めて会ったとき、私はどうやって写真を撮ればいいのかすらわからなかった。多くの大変な現場で私を助け、成長させてくれてありがとう。
安らかに眠れ 友よ あなたがもう傍にいなくても、懸命に撮っていきます。
#jinkissletsgo最初のレンズ
#安らかにおやすみ
(彼が撮ったシュガを見てみましょう…彼の仕事に感謝をこめて)
   Jinkissletsgoさんのカメラ話が好きなのでそのひとつを訳して置いておこうと思う。これからも読むついでに残しておくかもしれない。マスターの気持ちや体験談って結構面白い… マスターはほかの人から写真を買ったり、写真担当とSNS担当を分けたりすることもあるようだけれど、彼女は写真を撮るということ自体に意味を見出しているような語りが多い。 「彼」がシュガペンだということはどうやら定番ネタで、シュガの撮れ高の方がいつも良かったとのこと。(ちなみに次のレンズはグクペンらしい)
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koroho-no-snow · 6 years ago
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DOLBY ATMOSは最高
Bring the Soulを観たという記録と考えていたこと。
少し経ってしまったけれど、こうして一つの文章にしておかないと感覚が滝のような供給に流されていってしまうので、散らかりまくった文章だけど書いておきたい。ジンさんをどうしても目で追っているので、彼の話にすぐ終着することだけおことわりさせてください。
せっかくだからいい音響で、と思い、DOLBY ATMOSでチケットを取った。だからかわからないけれど、最初のMicDrop(だった気がする定かでは無い…)で、もう「来てよかった」と思っていた…ライブ映像の音響が本当によかった。
それは舞台上のBTSの感覚だった。 チームメイトの息遣い 打ち上がる炎の熱さ 自らの声の反響 光のうねりから聞こえる何万人もの人間の叫び 暗闇からそれらがいきなり襲いかかってきて、「これが彼らの仕事なんだ」という実感が、がつんと頭の中に入ってきた。
彼らの感覚を私が知ることは生涯無いかもしれないけれど、舞台上で彼らが聴いている音というのは、きっとこれかこれ以上に強くて、音の圧力で全身を揺さぶられながら踊っているのかもしれない。しかもその音楽を作ったのは自分自身。彼らはとても幸せな仕事をできている。 常々なんとなく思ってはいたけれど、私がずっと探していた感覚がこの映画の中にはあった。プロフェッショナルのドキュメンタリーとしてあまりに上質で、前回の映画みたいに余計なポエムもないノーナレ方式なのもグッと入り込めた要因だと思う。 とにかくよかった…BTSを知らない人が見ても、エンタメの舞台裏としてすごく面白いのではないかと感じました。Camp Entertainmentでしたっけ?すごいね…
あと覚えているところ。
ドキュメンタリー系のコメントを求められた際、どう言葉を紡ぐかについてそれぞれスタイルがあるのを要所要所で感じたのが面白い。 中でもナムさんはなんというか、思想家のような政治家のような感じで常に課題を共有して、それに向かっている様を話してくれる。昨年の東京ドーム初日に誰かが「ナムさんは心からはしゃいでいるというよりも、全体を見るプロデューサーのまま舞台に上がっている気がした。成長したということかもしれないけど、少し寂しい」という旨をツイートしているの見たけれど、まさにここ一年でまた大人の表情やお話を担当するようになったようだ。最近の彼は、もうそれがスタンダードなのかもしれない。 想像だが、彼はカメラに向かって話すことで自分を保ったり、奮い立たせたりしているのかも。ログやインタビューなどを見ていても、自分の言葉に引っ張られて成長していく人なのかな、と感じることが多い。
ジンさんは相変わらず日々の感傷に足を取られることなく、ひとつひとつをこなして淡々とコメントしていた。あの「普通」への飽くなき執着はいったいなんなのだ…と改めて感動するほど。 ごはんくらいは気楽に買いに行けるようにしてあげたい。ほんまに。いつでもコンビニくらい付き合うで。
ジョングクやジミンちゃんも、自分の仕事の不調についてカメラに向かってリアルタイムで話すなんて、普通のテレビカメラになら取材拒否もできるタイミングだと思う。それでも自分の気持ちを捻くれるでもなく空元気でもなく語っていることが本当に驚き。私は10年後でもできないことかもしれない。
あと多くの方が言及していた最後?のナムさんの言葉。 「僕らは7人しかできない経験をできているけれど、世界の数万人の青年が経験できていることをできないでいる(うろ覚え)」 この感傷的な言葉はとてもナムさんらしいと思った。ここに他のメンバーがいたらなんて言ったのか、聞いてみたい気もした。「そうだね」って頷くのかな。もしかしてジンさんなら「どんな人生を生きても、自分にしか経験できないことをして、他の人の経験はわからない」っていうのかもしれないな、と勝手に想像した…わからないけれど。うむうむって頷くだけかもしれないけど。私はそういうふうに生きていきたいなと思ったよ、とナムさんに話してみたい気もした。
そんなこと言っていてもとにかく、パリでツアーを振り返る彼らから感じたのは「自分は替えがきかない仕事をしている」ということの苦しみよりも、喜び。この仕事を初めて練習生含め7年以上、やっとその手応えを実感しているような表情に思えた。 それが本当に嬉しくもあり、羨ましくもある。
正直最初の頃のジンさんは、ステージの構成上は最も「替えの効く人」と自覚せざるをえない瞬間もたくさんあったと思う。素人から入って、あんなに早くデビューしたならそれはそうだ。どれもこれも強みとは言えなかったときも確かにあったかもしれない。それでも、誰かが休まざるを得なくなったときも彼はいつもステージにいてくれた。ロンドンでジミンを欠いたままIDOLを披露せざるを得なくなったときも、他の誰かが病気に倒れたときも同じように。 安定してそこにいること。疲れやストレスを多く受ける中で、それはとても難しいことだけれど、ジンさんはいつも「そこにいる」ためにあらゆる努力をしてきた。そうして今では、本人もきっと自分が「かけがえのない人」だということを疑うことはないんだろうと思う。改めてすごい人だな、と思いながら見ていた。 劇中で話していた「踊りながら(ソロを)歌うこと」「明るい歌を歌うこと」は、達成までまだ少し時間がかかるかもしれない。でもナムさんがそのとき「あきらめずにやりましょう」と声をかけたように、このヒョンならそれが叶うまで、きっと諦めず進み続けるはず。悲痛になることも日常を捨てることも努力には必要ない、ただ努力するだけだ、という相変わらずの平穏さで。 とにもかくにも、星の数ほどの人生の選択肢があり、その積み重ねの末にこの視界から世界を見ているのなら、彼らはとてもしんどいけどそれ以上に幸せだ。本当によかった。
その感覚を焼き付けながらエンドロール後を見て、まだ週初めの夜を帰路に着いたのでした。幸せを実感する瞬間が、BTSの7人やスタッフさんの毎日にありますように。 そして私がまた明日も少しずつがんばれますように。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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キムソクジンさんがソロのステージに立つとき、目の前には数万の人がいて、暗いならばただ一面の、どこまでがペンライトでどこからが星空かわからないような空間が広がっているんだろう。 20歳を過ぎる大人になるまで、歌手になるなんて想像もしていなかった人が、たった一人、自分の声とマイクのみでそんなブラックホールみたいなものに向かっていく姿を見ると、世の中というのはなんて限りがなくて絶望の必要がない場所なんだろうと思います。 もし私が彼だったら。振り付けも演出もほとんどないままに自分の声帯を動かそうとするなら、足も声も震えてしまうに違いない。でも去年夏に最初の舞台を迎えてから、ただの一度も彼の声は強張らず、のびやかで、私たちを安心させてくれるのです。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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コンサートが始まるとき、キャラメルボックスの加藤さんがいつも前説で言っていた言葉を思い出した。しばらく忘れていたのに。
「舞台とあなたは1対1」
高校生の頃はじめてキャラメルボックスの舞台を見た時から、とても深いところに刻まれている言葉…ということに最近気づいた。お喋りとかケータイ操作とかしないで集中してねって意味で言われていたことなんだけど、BTSを好きになってからは違う思いに重なるようになってる。
好きな音楽やパフォーマンスに触れてる間くらい、所属や帰属を思い出したくないや。私への歌は、J-ARMYへじゃなくて、私に向けられたものだし、もしアメリカのジェシカさんがソンキスされたら、そのソンキスはI-ARMYじゃなくてジェシカさんのもの。
何かの集団の一部として競い合うのは元々あまり性にあわなくて、自分だけの好きを探して満足するオタクなので…趣味くらいは、これからも特に大きなものを代表せずに、個人的で密度の濃い体験を楽しみたいな。それぞれが1対1で楽しめば、コンサートも舞台も一番生き生きするんだとひそかに信じてる。
キャラメルボックスはいつまた会えるかわからない劇団になってしまったけど、もらってきた感情は決して手放すことなく握りしめて、今はBTSを体験しに行きます。いつか、BTSからもらっているものを抱えて、再びあの前説を聞きに行けたらいいな。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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KーPOPをバンタンしか知らないのはモグリだ。
なんて言われたことは無いしそんなこと人に言いたくないのだけど、一昨日までの自分に言いたい。君はモグリです。
というのも、一昨日、なんとなくSuperJunior先輩のパフォーマンスを観た。母の担当美容師さんがエルプ(SJのファン名)で、やんわり勧められたことがきっかけ。ほんとにたまたま、「SuperJunior」でググって1番上にでてきたBlackSuitという曲のカムバックステージを開いた。それまでSJのことは、遠い昔の芸能ニュースでライブの話を見たか、BTSの前に伝説を作ったグループのひとつ…くらいの認識だったお恥ずかしながら…
youtube
見終わって…即リピート。そのくらい脳内の快楽物質が出ていた。この動画に出てくる5人(SJは脱退・活動休止・兵役などで人数の変動激しい)のうち一人の名前も知らなかったんだけれど、よくある「同じ顔」現象は起こらなかった。
全員が自分の役割に絶対的な自信を持っているからこそのオーラとかっこよさがすごい。凄まじい。全然しんどそうじゃないし、本人たちが何考えてるかは知らないからBTSを見てる時みたいに切ないような、息を呑むような気持ちになることはないんだけど、この軽やかさが私を潔い観客にしてくれた。私はこうやってエンタメが見たいんだよ、これが好きなの。という感覚だったように思う。
それからBlackSuitのMVのクールさに二度殺され、ほかの推し曲もできてバラエティも…とやっているうちに、忽ちメンバーを全員瞬時に判別できるように��った本日。世界を知らない私は「グループは7人が一番バランスいい気がする。それ以上多くても少なくてもしっくりこないかも」とか宣っていたのに、気がつけば「13人のSJも5人のSJも全部最高のバランスだ」とか言ってた。5人くらい推す流れなので誰かがいなくても誰かがいる。しかも最近全員戻ってきた…幸せ。
SJのおかげで、BTSとは全く別の「めっちゃかっこいい for me」に出会ったことはとても幸運なことだと思う。BTSの群舞に匹敵するレベルに見える、SJのヒラリヒラリとスマートなダンスは私に、BTSが生き残ってきたKーPOPの世界を別の角度から教えてくれた。KーPOPはぴったり合った、センス抜群のダンスをしながら、更に当たり前みたいに完璧に歌う、手足の長い人たちで溢れてる。つまり、BTSにしかないものはそれらではない。私たちはBTSのダンスや歌がとても好きだけれど、この「クオリティ」を目指しているのは彼らだけではない。このクオリティと闘った上に、SJにも東方神起にもEXOにもないテーマを提示したBTSだから特別なのかな、と考えていた。
歌詞もそうだし、MVのやや抽象的な物語もそう。BTSの核はその世界観なんだろうな…と仮説を立てつつ、これからゆっくり色々なグループを見ていけたらなと思う。これまでKーPOPを席巻してきたものを見てきた人の目には、BTSの凄さはまた違ったように見えているだろうから、私の目にもそんな新しいフィルターができるのが楽しみ。
あとこれは蛇足だけど…私は推したちが誰かと付き合ったり別れたり自由にできる状況の方がこっちも消費者として気楽だなと思うし、いつまでもファンが親みたいにあれこれ心を慮るのは無理あるよな…アイドルは趣味じゃなくて生業・仕事だからな…ってこっそり考えてるのだけど、今のBTSの状況ではそんなこと言っても無理やなとわかってる。でもSJは既にめちゃめちゃ異性関係の話するし、今残ってるメンバーは「危うさ」があんまりない気がするし(もちろんファンも本人達もこれまで半端じゃなく大変だったことは承知してますが)、BTSしか知らなかった人から見ると、見ている時の心が楽。美容師さんの売り込み通り、「はい。そんな感じで仕事はがんばってね」って言える。
BTSもいつか(SJよりはイノセントなイメージのままいきそうだけど)このくらい大御所感が出るんだと思うと、それもまた狂おしいほど楽しみだなー。
そんな感じで、これからはSJも掘り起こしたり追ったりしていけたらいいな。ステージの空気感も違うので、BTSと交互に見ると、相乗効果でどちらも数倍かっこよく唯一無二に見える。ただでさえコンテンツに恵まれているのに、また幸せなオタクになってしまう。
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koroho-no-snow · 6 years ago
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とてもとても面白かった。けどキリスト教世界のことを扱った作品の例に漏れずなのか、そこまでお席は埋まってなかった。千秋楽にかけてみなさん行ってほしいな~と思います。
知らなかったけど、聖職者も喫煙は許されてるんですね?お陰で「紫煙を気だるげに燻らす司祭服の男たち」という最高のシーンが見られました。ロウソクやマッチの火を多用する演出もとても好き。あと、「部屋に鍵をかけない」ということが物語の中て強調されて、真相?にも関わっているのだけど、それを聞いてすぐ夜の匂いを感じてしまったことを反省しております…そういうことじゃなかった…
この作品は、カトリックがまるで福音派みたいに進化論を真っ向否定していた頃のお話。人類学者(だっけ?)でもある司祭が、進化論と聖書の記述の間で揺れる物語だった。実在の人物っぽいなー…と思ってパンフレット見たら、ほんとにそうだった。
彼のセリフに「神(聖書?)は真実ではなく、真実の比喩だ」というのがあって、それを聞いて「あ、それ私が思ってた宗教だ」って思ったんですけど…作中ではひどく冒涜的な思想として扱われてましたね…宗教のために人がいるのではなくて、人が救われるために必要なものとして生まれるのが宗教だと思うんですが、それではいけない世界もあるんだよなあ。
キリスト教信仰を「普通」とする西洋社会が地球の中心のように語られること、ひどくクレイジーに思える時がある。そのゾッとした感覚を思い出させてくれるのはいつもアメリカの映画だったので、これが野木さんという日本人劇作家の作ということにすごくびっくりしてた…のだけど、最後の方にあるキリスト教が何たるかの議論は、日本人作家だから描けたものなのかな…海外にもこんなにキリスト教を相対化してみようとする作品あるんだろか。
アカデミー賞をとった「スポットライト」も、そこそこヒットしてた「ノア(エマ・ワトソンが出てる)」も、空が青いことと同じくらい当たり前に絶対的な神が存在する…という価値観の中の話で、なんだか心理的に遠く感じてしまったのを思い出した。
【追記】
アイドルに置き換えるととてもわかるかも?と思ったんですが…アイドルだって、彼らの心の「本当」なんて分からないことを承知の上で、自分に必要な部分を信じることに決めてるだけなので、結局純粋な信仰を体験できているわけではないなーと思った。人によりますけども。
とにかく好きな作品でした。
最近ミエンヌさんと話してた「アイドルと宗教性」についても色々考えるきっかけになりそう~~
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