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彼について Ⅰ
彼について Ⅰ
「じゃ、ほかの子はみんなその子の代替品というわけ」 そう問いながら、代替品などという言葉がじぶんの口から��り出したことに驚いたし、言ったそばから撤回したくなった。こんな卑俗的な単語をかれに当てはめるのではいけない。かれについて語るとき、ただしいと思って口にしたことさえ一瞬のあいだに嘘になるような気がした。このひとの前では、どうも自分が何か言うたび恥だけを上書きし続けているような、そんな呪いがたしかにあると思う。 〈テラス・メルツェル〉のロビーの一部はカフェとして職員のために開放されている。1階から最上階にあたる17階までの中央はひろびろとした空間で穿たれて吹き抜けになっており、円蓋からはたとえ外がどのような天候であれ、いつでも晴天に相当する光が差し込んだ。白を基調とした建造物の内部はつねに木洩れ日に似た陰翳で彩られ、一瞬一瞬のうちに光によって姿を変える。外部からの光を蓄え、常に一定の光量に変換するようプログラムされた円蓋展開型プラネタと広大な吹き抜けがあってなお行き届いた空調設備、つるりとした壁や床、柱の類。それらは清潔であるほど無機質で、どこまでも生のありかを否定しようとするようにみえた。最初のメルツェル・ドールが設計した神殿。じっさいにそうなのかどうかはわからないが、そのように謳われるこのテラス・メルツェルはたしかに、人間のためにつくられ生を持たないかわりいつまでも美しくある、メルツェル社の人形そのものなのだ。ここには自社の商品のホロ広告も展示もない。ドールは街中に溢れ、誰もがそこに刻まれた社名を知っているし、この建造物じたいが巨大な広告塔だった。 「お待たせいたしました。ほかにご注文は?」 「ありがとう。他にはないよ。そうだ、14時になったら報せてくれないかな」 「ええ。報せはどのように?」 「そうだなーーこの番号へ繋いでくれると助かる」 「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」 少女が注文しておいたヴァン・ショー……熱いワインを二人ぶん運んでくると、かれと少しの言葉を交わしてまた戻って行く。そのやりとりのなめらかさにだっていちいち感嘆する。まるで映画みたいだ。 「なるほど。そうやって通信先を渡すわけだ。勉強になるなあ」 「きみはなにか俺をかんちがいしてるんじゃないかな。それにご存知のとおりー」 「冗談だってば。知ってる」 ワインを口に含む。あたたかなアルコールは喉をくべるようで、たっぷりとしたシナモンのつよい香りがほどよい陶酔をうながした。 たとえばそう、彼女だって人形だ。 なめらかな動作、表情、擬似呼吸と機能的にはまったく意味のないまばたき……もはや一見して人間と区別がつかないけれど、首のうしろ、やわらかな人工皮膚にはネクタイピンほどの銀のプレートが嵌め込まれ、メルツェル社の名が刻まれている。高品質な、人間に近しい無生物。 メルツェル社は工業用のドールをつくらない。あるひとつの仕事のためにだけ特化してつくられたドールは存在しない。ひとりのドールが助手として事務作業をこなすこともあれば、いまのように給仕をすることもあるし、もちろん働かないこと、ただ所有者のそばにひかえるだけの場合もある。ドールたちは所有者となる人間に好みのパーツをえらばれ、設定されたパラメータ・カードを挿入された人工物ではあるけれど、同時にかれらの在り方はメルツェル社によって厳格に規定されていた。すなわち、メルツェル・ドールは娯楽と鑑賞のための美しい人形でなければならず、それ以外の平均された機械のような工業的な在り方、奴隷のような使用はみとめられない。それが何代にもわたって受け継がれてきたメルツェル社のコンセプトだった。ドールを購入して得るものは好きにする権利ではなく、ひとのように愛するための権利だ。 とはいえ、不正な利用が後を絶たないのだってまた事実だった。パラメータ・カードを規定された以上に従順なものに書き換えるパッチはいつになっても駆逐されない。本来存在しないはずの機能を付け加えるガジェットも。からだを弄られたドールの回収と保護も、この施設で行われている。 そういえば、かれはそのセクションで仕事をしているときいたことがある。お互いのセクションの詳細な業務内容を明かすことは職員どうしであっても禁じられているために、具体的にはなにを担当しているのか、それはわからないけれど。 そこでようやくロビーを行き交う人々の視線がかれへと注がれているのに気がついた。ある者は悟られないように、ある者は露骨に、そのすがたを注視する。セクションがちがえば会う機会のない人間は山といるし、ふだん別館にいるかれがこのカフェへ来ることも思えば珍しい。とはいえ、それだけでないのは一目瞭然だった。こぼれかかる銀の髪、美しいがいっそ禍々しい赤いひとみ、その輪郭を象るどの曲線にも意味のあると思わせる、生きた彫刻のような男。会話をしたならその隙のなさにまた驚くんだろう。 「そうそう、さっきのこたえ��けどーー」 一度途切れてしまった会話をどうつなごうかと思案していたまさにそのとき、かれはひとくちワインに口をつけると、かちゃりとていねいにカップをおいてそう言った。ほとんど合図だったし、こういう所作こそ隙がないとおもわせる所以だということを、あらためて知らされる。まるでこちらの意図をなにもかも知っているかのような、意識的でさえないエスコート。 それからかれは大げさに、すっと肩をすくめてみせた。 「……まさか。代替品だなんておこがましいよ」 からりとした、重量を感じない調子のこたえ。抜群にひとを安心させる、負の成分を含まない声、そう、その効力は絶対だ。だからこそずるいのだ。ひとこと発するだけで空気を変えてしまう。かれの印象をよりよいものへ近づけ、悪意や嫉みは少なくともかれの声のあるあいだ消え失せる。人を信用させることにおいて一流だ。たぶん、それは生まれついて。フォーマルでありながら野性的であり、そこのところのバランスが完ぺきだった。最上級の信頼ーー同時にだれもそれ以上へは踏み込めない。踏み込もうとした人間がけしていないではなかったが、来る者を拒まずあまやかされただけだといつか気づいて引き返す。それをかれは追うこともなく、ただわらっているだけだ。傷はつかない。誰もかれを傷つけられない。 かれはいつも、自分に好意を向けてくる彼女たち(あるいは彼ら)に対して紳士的かつ柔和な姿勢を崩さないけれど、思うにそれはなんの熱も含んではいなかった。ほどよいタイミングで、ほどよい距離で、ほどよい位置でそこにいて、どんな瞬間に顔を覗いても牙がみえない。だれから見ても隙のない立ち居振る舞い。俳優のような整った在り方。理想の男(アニムス)。なのにどこかで、いちばん人の情や愛と呼ばれるものから程遠い場所に立っている気がしていた。それがどんなに美しいもので、高尚であるかをだれかが語ったとしても、かれがそこにあらわれるだけで途端に陳腐な虚構に成り下がってしまうみたいだった。 かれ自身は気づいていないかもしれないが、自分に好意を向けてくる人間へのかれの想いというのは、道端で戯れてくる猫に対するときのそれと同じなのかもしれない。拒絶はせず、甘えられればのどを撫でてやる。餌をねだれば与えてやる。けれどその行為には目に見えたそれ以上の意味は宿らない。一瞬の交錯がすぎると、結び目がほどけるみたいにそれぞれの日常へかえってゆく。なまえはつけない。そういう種類のいきものだ、「道端の猫」というのは。先週どこかで見かけたのと、一年前別の場所で見かけたのと、遠い昔旅行先で見かけたのとは、「道端の猫」という同じいきものにすぎ���い。おれたちがある猫を撫でるとき、いつかどこかで撫でてやった別の猫に後ろめたさを感じたりなんかしないように、かれにとっては自分に好意を寄せるどの人間も等しく平均的に映るのかもしれない。それはほとんど、無価値とイクォールだ。やさしいといえばそのように写りもするだろう。だけど決定的ななにかが欠落している。 何人がそれをうめたがり、やがてあきらめたのだろう? だからといってだれかをもののように手ひどく扱うことなんかないのだって分かっている。やわらかな無関心は博愛と言い換えることだってできるのだから。 代替品などという言葉をえらんだことにたいして、まちがえた、と思ったのはそういうことだ。 「さっきのは言い方がよくなかったよ。忘れてくれ」 「いや、せっかくだからきちんと答えておこう。その子の代わりとして他の誰かを扱ったことはない。 ……というわけで、誤解は解いてもらえた?」 「……誤解、というか、ほんとうに言葉のあやなんだ。怒った?」 意味のない質問だった。ご機嫌とりみたいだ。かれがひとに対して怒ったりしないし、機嫌を損ねたりしないということを知っているのに。おれはじぶんが、せいいっぱいかれに親しくあろうとしている、ということをいやでも意識する。ときどきあるだろう。こちらだけが友人だと思っているのではないかと感じて、よけい砕けたじぶんを演じようとすることが。もうずっとそういうふうに振る舞っている。 「まさか、怒ったりしないよ。でもさ、きみやっ���り俺を何かかんちがいしてるんじゃない?」 くだけた笑いがかれから発せられる。どんな猜疑もあっけなくなかったものにするかろやかさが、そこにはある。かんちがい。そうかもしれないーーそれならどんなによいだろう。 「そうだな、それなら……あんたは優しすぎるだとかぬるすぎるとか彼女たちの言ったようなほんとにそういう理由で毎回振られてるだけで、それ以上もそれ以下もないのかも。そんなはずない、と思っているおれの穿った見方というやつで、おれが思うほどあんたは複雑ではないのかも」 「毎回振られる、ね。事実だけど本人のまえでそれをいうかなぁ、謝ってるんだか貶してるんだか。複雑、ねえ」 それってぜったいいい意味ではないでしょ、とかれは言う。屈託がなく、そのわりに上品で静かな表情、たぶん性別のない天使はこういうふうに笑うんだろうなと思った。 「悪かったってば。だけど、なんていうか意外で。そう、ほんとう失礼なんだけど、俺はあんたを人形なのかとすら思ってたくらいだしーーいや、知ってるんだけど、人間なんだってことは」 「嫌味?それは矛盾しているよ」 「そうなんだけど。でも、だいじにはするけど、好き、には見えなかったから。まるでそういう感情を知らないみたいだったから。それはたぶんほとんどの人間にとって屈辱だよ」 なんというか善人すぎてあんたは胡散臭いんだーー すっかりかれに絆されかけ(そういうことにおいて天才だ)、軽口を叩こうと頬がほころびかけて、ぎくりとした。 ……ぎくりとした? それがじぶんのどんな感情なのか理解するまで、たっぷり数秒はかかったように思う。 紅い目は笑っている。 屈託がなく、そのわりに上品で静かな表情、天使。そう、博愛��目。けして拒絶ではない無関心の目。 ーーほんとうに? 混乱した。突然じぶんが、触れてはいけないものをさわろうとしてしまっているような、なにか大切なものをまちがえたような、そんなような気持ちになっていることに。この混乱の意味がわからなかった。 かれはなんと言っていた?
代替品だなんて、おこがましいよ。
背中にひやりと流れるものを感じた。 かれのせりふがべたりと耳にはりつき、こだました。声が蔓となって鼓膜へ飲食し、このからだをすっかり染め替えてしまうような感じ。 慄えがおこった。
代替品だなんて、おこがましいよ。
かれの発した声の記録をもういちどなぞる。耳の奥にひびくうつくしいテノール。 ふっと窓の外に視線を移した彫刻めいた輪郭に、なにかそらおそろしいものを垣間見た気がした。
彼女たちが・あの子の・代替品だなんて・おこがましいよ。
やわらかな微笑をかれはけして崩さない。
混乱でなくてはっきりとした恐怖だった。あざやかすぎてそうとわからかったくらいの。 かれのその浅く弧を描くように細めた、博愛の象徴みたいな目が、手にしたいという動的な感情を持ってたしかにだれかをみつめることがあるのだということに、恐怖した。いつも微笑むときに細められる静かで優美に見えた目が、意味を変えてゆく。変貌してゆく。なぜ気づかなかったのだろう。かれの目は笑ってなどいなかったのだ。かれがああやって目を細めるとき、目の前にある事象を透過して、「あの子」の像を結んでいたのだろう。だれのすがたに重ねるでもなく、そこにその子自身のすがたをたしかに見ているように。慈しむような視線、けれどそれは寵愛ではなく、昏い憎悪さえ孕んでいる。かれは誰にも踏み入れられない場所を見つめている。
無限に広がる湫。
脳みそをすうっと撫でられたような気がして、ぞわりと全身の毛が立った。 ーーあんた、誰かを手に入れたいとほんとうに願ったことはあるの。 そう聞いたのは、ないと答えられればやっぱりそうかと安堵できるだろうし、あると答えられればかれにも誰かに思いを寄せるということがあるのだ、かれもやはり平凡な一個人にすぎないのだと、そうくすぐったく笑いあうつもりだったからだ。じっさいは、さあ、と曖昧にされると思っていたし、それでもよかった。あまりにもとりとめのない会話のたった一部だった。だけどいざその目が誰かひとりに向けられるということをこうして知ると、なにかそれがおそろしくいびつで間違ったことのように感じられた。その視線は期待したような、じぶんたちが誰かを慕い、慈しみ、愛すときの目じゃなかった。そんな範疇をとっくに過ぎていた。丹念にみがかれたナイフ。ヴァン・ショーみたいな、熱と陶酔と、からだを蝕むアルコールの毒、静かすぎる熱情。 ーーあったよ。 過去形で語られたことにはどういう意味があるのだろう。かれはこんなにもいまだ鋭いものを抱えていて、あきらめただなんてそんなことがあるのだろうか。まるで手に入れたがったもののほうから消えてしまったみたいだ。 「具合が悪い?」 声をかけられて、はっとぼやけていた視界が集束した。なにか���言わなくては、とてもそこにいられなかった。意味のないことでもいい。絞りだすようにやっとのことでことばをはなとうとする。のどがからっからに乾いているのを声を出してはじめて気づいた。 「その子はいまはどうしている? ーー亡くなったの?」 だけど、まただ、まちがえた。 あんた振られたの、そうとでもいえばもう少し冗談にも近づけられたのだろうに、もうおそい。かれはしばらくなにかを思い出すようにして、まっすぐにおれの目を射止めて、笑った。……ああ、そのとおりだ。笑ってなんかいない。 「さあ、どうだろう」 ひどく無責任なことばだったけれど、やわらかくけして突き放すようなものでなかったことにおどろいた。ほんとうに知らないというみたいで、それが事実におもえた。あるいはそんなことにはぜんぜん興味がないみたいだった。視線を逸らしてしまえれば楽だったろうに、不思議なくらいその赤い色に吸い寄せられる。そこには、蜜でもあるんだろうか。血の色のなかで誰かがみつめかえきている気がした。かれの瞳のなかに、ときどき子どもめいた無邪気な翳りが見える。 「ねえ、死はどこにあるんだろう?」 質問を質問で返すのはずるい。こっちはそれをもういちどは使えないから。答えずにはいられないから。死はどこにーーあるんだろう。どうしてそんなことを聞くのだろう。まるでそんなものどこにもないみたいに。 だけどふと、それが今月の機関誌の論文のタイトルだということを思い出した。死はどこにあるか。 「からだが……いや、主観が消えた瞬間にあらわれるもの……」 「……もうひとつ、聞いてみてもいいかな。他人の主観を、それがたしかにあるとどうやって観測するんだろう。反対に、からだのない主観がないとどうやって証明するだろう。たとえばきみが読む本の登場人物はものを思うだろうか。それが存在したり、消えたりするのを、そのひと以外にだれが観測できるだろう。たとえばからだがほろびて、閉じ込められていたその主観が外へとはなたれてまだそこにあるのだとしたなら、それでも死とよぶんだろうか」 かれが何を言いたいのか、わかるようでわからない。その内容じたいはかろうじて理解出来るけれど、意図はちっとも読み取れない。ただ完全にかれのことばに聞き惚れていた。それはどこかとおい国の詩の朗読、心地よい音楽のようだった。 おれ以外の世界のだれもが、かれでさえほんとうに心なんて持っていなくて、規定通りの演技をする人形のようだとしたなら、そしてかれから見ればおれだってそうで、かれの世界でおれがたしかに意識をもっているということを証明できないなら、だれもがだれかの世界ではそうなら。そうなら、ではない。じっさいにそうだ。心のありかは証明できない。メルツェル・ドールにだってそれはあるのかもしれない。本の登場人物にだって。 死はどこにあるんだろう。 生の死の境はどこにあるんだろう。 夢と、いま夢ではないと信じている景色の、境は? 「ときどき不思議に思わない?眠って起きたら、どうして昨日の自分といまの自分とが地続きだって感じられるのかって。それとこうも思うーーその証拠はどこにあるんだろう?まったくかたちの同じべつのからだに記憶と認識体系とをうつされたのだとしてだれがそうと気づくんだろう?主観の移植と複���。アカウントを別の端末に引き継ぐみたいにかんたんに、どんな器にもインストールできたなら。主観の創造ーー本や夢の登場人物だって、その認識体系を再現できたらからだを持つことだって可能かもしれない」 滑らかなことばたちににつよく惹かれながら、ひどいめまいをおぼえていた。三年前、かれはここへ突然あらわれた。メルツェルに手紙をすでに送ってあるといって通されたかれを案内したのはおれだった。 かれはここで何をするんだろうか? しようと、しているんだろうか? 「現実に存在しないものを手に入れようとするとき、ひとはどうするか俺たちは知っているはずだよ。物語を残したい者は小説を書く。風景を表したい者は絵をえがく。美しいすがたを愛でたいのなら、人形をつくる」 「ーーなんの話を」 「象る、ということ。 ひとの夢からかたちをつくる方法は、ずっとそうだったよ」
それからすぐかれとおれとのあいだに通信モニターがたちあがり、少女のすがたで約束の時間を告げた。実体のないそれはだけどかれとのあいだを阻むやぶることのできない薄い膜、見えない壁のようにおもえた。いまの話さえ途方もないおとぎ話だったかのように、もう行かなくてはねと立ち上がったかれの彫刻めいた顔に浮かぶのはこんどこそ完ぺきな陰ひとつない微笑だった。 結局かれの手に入れようとしただれかが、どんな人物であってどのように関わってどのようにかれの前からすがたを消したのかーーあるいはかれのほうから去ることになったのかを、語られることはなかった。死や主観の移植なんて話はそれとはまったく関係のない話で、おれをはぐらかすためのただの気まぐれだったのかもしれない。 だけどときどきこんなことを夢想する。 その子はほんとうはどこにもいなくて、それさえすべてはかれの一夜の夢だったのかもしれない。かれの中でだけ生き、かれの中でだけすがたを消した、その子はいまはまだえがかれていない物語の人物なのかもしれない。夢の国のアリス。作家が文字を連ねるように、音楽家が五線譜を彩るように、かれはまだ見ぬだれかをあたらしい技法でたしかなものに象ろうとしているのかもしれない。 そうであればうつくしいと思った。 ただしくなかろうと真実でなかろうと、それがおれの中ではもっともかれにふさわしいような気がした。かれのからだを褥として夢はそだち、いつかかれをとおしてかたちを得る。かれは死をきらっているのでも、死者にとりつかれているふうにも見えなかったから。むしろ生のあざやかなにおいすらそこにはあって、手に入れられなかったということじたいがかれにとってはひとつも惜しむべきものではなく、神聖な事実なのではないかと思えた。 その子はかれの瞳の中でだけ住んでいる。博愛と無関心だけがあると思われたかれの瞳の中で、ただ一点の炎をくべつづけている。 象るということーー。 主観の移植、複製、創造ーー夢を捏ねてかれがなにかを生み出そうとする過程で、ひとのありかたはもしかしたら大きく捻じ曲げられてしまうのかもしれない。かれの目的がそうでなくたって、だって夢の人物ではなくひとにとってはそれは死をうしなうことだ。からだが時によってほころんでそれを���れも止められないのならば、いつかみんなからだを棄てるようになるかもしれない。人形のやわらかなつくりものの器に移住するかもしれない。あるいは物語の人物が読まれることによってひとびとのあいだを渡り歩くように、ひともいつかからだを持たず情報の海をゆきかう信号になるかもしれない。これから何百年も先、かれの技法によってまったく新しい命のありかたが定義され、ひとの意識は創作世界と物理世界のあいだでクラウドできるものになり、いつか現実と夢の境界はまざりあってうしなわれるのかもしれない。だけどかれは気にもとめないだろう。なぜだかそれが心地好いものに思えた。かれの技法によって変容することは暴力的な官能だと思った。そのような力を、ふるわれてみたいとさえ思った。 三年前からの友人だ。少なくともおれはそのつもりだ。だけど、おれはこの男のことを、きっとまだ何も知らない。
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スパンコール
「あんたのこときらい」 その子どもが口にしたのはずぶ濡れになった髪を拭いてやっているときのことだった。ふかふかのしろいタオルで。あいだにある言葉のやわらかさや、あるいはするどさといったものは、その情景から他人の推測する関係図に対して時に比例しない。時に、だけどこの子の場合はほとんど、そう。 「ふうん」 どうして、という問いを欲している間合いを、けれど無駄にする。告発の機会を奪ったって罪にはならないだろ。ほんとうにそうなら。ほんとうにそうなら、ここでおとなしく座っているきみのほうが問題だろ。つまりきみはきらいなやつなんかに、じぶんの髪やなんかさわらせたりするような、そういう人間なのかということ。 そう、 そうだろうな。 あたたかいものはみな受け容れる。たぶん。それが誰だってかまわなかった。たとえばここへ来たのがほかの誰かでもおな��ようにきみはしただろう。善悪もただしく教わっていない、そのように傷ついてきた、目だ。 この子にとって誰だってよかった、ということは、だからといって俺にとっての寂しさにならない。選ばれなかったかもしれないということは。そういう人間だ。そういう人間だから、ずっとこの子の、期待どおりになんてなれない。誰だってよかった、ことを、武器にしたがるこの子の。傷つけることで満たそうとするものを。じぶんの奔放さで、学のなさで、だれかが痛ましく思って、そういうふうな傷をじぶんが誰かにつけられるという事実それだけを、そういうかたちの証明を、切実なくらい求めているこの子の、期待通りになんて。 どうして俺だった、傷つけるだけなのに。 傷つけることにすらなんの痛みも感じられないのに。 神さまなんているならおかしいな。とんだ計算違いだから。合っていないよ、需要と供給とが、致命的なほどに。それとも、それさえお遊戯のうちなのかな。 「助言をひとつ」 滴を除いていた手を止める。それから告げる。布の翻る、ぱたぱたぱたとほとんど規則的にきこえていたものがなくなると、最初からただ無音だけがそこにあったということにあらためて気づく。おごそかな余韻。恍惚と畏怖とをはらんだ、一時的な死ーー いまだ水を含んでつややかな白い髪の毛とやわらかなタオルとのあいだから、片目だけが覗いている。 色のない硝子質のひとみが。 「……なに?」 「きらいなところ以外を挙げてみれば、じつはそうじゃないかもしれない」 「ばかなこといわないで。だからきらいなんだ」 子どもが赤い、そこだけが肌のなかで唯一色をもつようにおもえる赤い唇をひとたび閉じて、硝子質のひとみはたっぷりとした沈黙のあと、ゆっくりと睨めつけた。 「……きらいなんだ」 光を吸い込んで、放って、射抜くように、 その一瞬のスローモーションが、 永遠みたいに見えた。 「僕はあんたをきらいになんかならない。だからきらいなんだ」。 雨の中庭でそのこどもは立っていた。ただしくいえばそれは雨ではないし、よくできたプラネタが連ねるほんものめいたまったくの嘘っぱちで、質量を伴うようにみせかけただけの、雨粒ににせて緻密に演算されただけのただの感覚へのハッキングであるということだってこの子はわかっていた。わかっているはずだった。たとえ雨を知らなくても。 「これはなんていうの」とだけその子どもはきいた。なにかとてもうつくしい、神聖なものをみたようなまなざしで。ここに起こる景色がすべて演算の結果であることを知っていながら、それでも。 どうして名前をつけたがるんだろう。手に入らないとわかっているものさえなお記憶に留めたがるんだろう。 濡れた髪から零れ落ちる滴、はだをなぞらえる水の一条が照明を反射してきみこそが光をまとったようだよ。スパンコール、そう、そういうなまえだ、きみを飾るものだよ、これはそうだよ。雨にただしい名前なんかいらない。この世に磨かれた宝石なんかきっといらない。ねえ、こんなにうつくしいものがあるなら。
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くちづけを目蓋に
オルゴールの音色。 それから、巨大な歯車の音だ。 ごうん、ごうん、重く質量のつまった、規則的な。 それは鼓動ににている。
黒い髪。 するすると肩にかかる、ほつれたひとすじにまで恐怖を塗りこんであるみたいに、そのひとのまえで「ぼく」は無様であるしかない。 ふくらんだ胸。 やわらかい肌。 すらりと伸びる指。 ととのえられた爪とその甘皮。 このひとの空虚の眸はそれらを損ないなんかせずうつくしいままで、だから「ぼく」はずっとそのやさしい曲線のなかへ抱きとめられたかったのだということ、それが叶わないということを、いっぺんに知る。いつだって。
このひとを、こんなにしたのは「ぼく」だ。
やがて柔和なほおえみを浮かべた唇がひらく。 「ぼく」はそのときはじめて、この記憶には声がともなわないことに気付く。 これが記憶だということに気付く。 無声の記録映像。 きこえるのはじっさいにそこにある環境音とはべつのものだけ。 オルゴール。 歯車。 語られていることばは読みとれず、赤い赤い唇だけがゆるゆると動いていた。
唇からこぼれだす音をもたないなにかは、だけどナイフに代わる魔法のかかった旋律だったのかもしれない。それらは鋭利で、ながれだすことばの気配が「ぼく」をずたずたにしていった。彼女のゆるやかな、爆発的な機微のゆれ、その「意味」ーそう、「意味」だ。かたちをもたない「意味」、くりかえされる軽蔑と憎悪の体系。ことばを介さずに、理解を待たずに、直接的にその「意味」だけをたたきこまれ、感情をひきだされる感覚。唇の動きだけが拡張されてこの目にうつった。スポットライトがあたったみたいに。こんなにちかくにいるのにもうにどとそのひとの顔をおもいだせない。とてもうつくしかったようにおもうのに。眸のいろはどんなだったっけ、目鼻のかたちはどんなふうだったっけ、輪郭を象ろうとするほどわからなくなっていく。「ぼく」はそうだ、まっすぐにこのひとの顔をちゃんと見つめられたことなんかない。赦されなかったのではなくって「ぼく」のほうがそれをできなかったからだ。 いつだって怯えていた。 降りくることばがなにを語っているのかちっともわからないくせに、それでもこわくてたまらなかった。それどころかことばのきこえないことに安堵さえした。「ぼく」がこわいものは、いまここにある恐怖、それじたいではなかったからだ。救いあげてほしいひとにきずつけられていることや、これほど近くにいてそのからだの温度をきっとこれからだって共有してもらうことができないということや、できない、そうわかっていて求め続けながらいきてゆくことーーそれらだって、たぶんそれは痛みというには適切だけれど、だけど恐怖は、その理由は、そういうことじゃない。 もっとべつのところにある。 おそれの起源は。 それはこのひとをこんなふうにした「ぼく」のふるまいのことだ、それを、そんなにだいじなことを、「ぼく」は思い出せない。 思い出してはいけない。 「ぼく」がいったいなにを恐れているのかを。 そこへたどりつこうとするたび、意識は混濁してなにもわからなくなっていく。 わからない。 わからないことは、こわい。こわいのに、だけど理解してしまうことは、それよりずっとこわかった。 だからこの記憶は無声なのだ。 このひとのことばのなかに答えはあって、それを読み取ること、それがどんなに危険かを知っている。 やがて、こんどは「ぼく」の唇が動く気配がした。 動く気配ー動かすのではなくってこれは記憶で、その再生だから。 ごめんなさい、と言った、のだとおもう。 謝罪のことばを、そのひとがそう言うように告げたのだ。唇のかたちを模倣してなぞらえただけの。そうでなければことばを教えられていない「ぼく」が口にできるはずもなかったのだから。 何度も何度も反覆してこわれたおもちゃみたいに懸命に。拙く口にするたび「ぼく」の螺子がひとつひとつとはずれていってもうなおせない気がした。 そう、 オルゴールの音色。 調子っぱずれの。 だけれど、 赤い唇、 黒い髪、 柔らかな恐怖と憧憬の立像、 その肩越し、 扉の格子のむこうに見えた姿に、「ぼく」の時間は強制的に停止された。 そのひとは、「ぼく」をみていた。 目を奪われたのだった。 切り揃えられた白い髪。 すこし広い肩幅。 ずっと高い背丈、 硬質で平坦なからだ、だけれどしなやかさも併せ持っている。 白い着物を羽織ったそのひとに。
あざやかな熱情がいっせいに開花した。
「ぼく」のこころを褥にいつしか病巣へかえていた種が、蔓を伸ばし食い破って花弁を広げるみたいに。 それは「ぼく」を操作する。 あらゆる感情の機構を排除して強制する。 あのひとに触れなくては��� あのひとにさわってもらわなくては! 「ぼく」のからだすべてがそうさけんではざわめいていた。いまも目の前にある、赤い唇にながしこまれていた恐怖と憧憬とをたやすく更新する。そんなものよりずっと強く烈しい、形容できないぐちゃぐちゃの快美をどうしようもなかった。正体を知らない。けれど法悦とよろこびに顫えてきっと「ぼく」のほおは綻んでいた。 そう、それはよろこびだったのだ。 「ぼく」の視線をとらえ、その意味を悟って、なにかが視界を掠めた。腕だ、と思ったのと衝撃は同時で、髪ごと掴まれ引き上げられた頭が軋む感覚だけ余韻のようにあとに残された。これほどの兇暴さをほそい腕のどこに隠していただろう。赤い唇がぱくぱくとなにか吐き出している。こんどこそまるで笑みの気配さえない、やっと金属質の、表情と調和した明確な憎悪のかたち。 だけれど「ぼく」にそのナイフはもう刺さらなかった。 すっかり更新されてしまった衝動によって。 うつくしい、かわいそうなひと。 どんなことばも無意味にかわりはて、関心をうしなった。憧憬も畏怖も無価値になった。「ぼく」を包み入れてくれることを���るように待った、そのやわらかく細いからだに阻まれ、いまはもどかしくさえあった。そうだ。こんなひとに。こんなひとに構っている暇はない。あのひとの、「ぼく」はもっと近くにいかなきゃいけない。あんたなんかじゃまだ。あんたなんかいらない。あんたなんかあのひとにはふさわしくない。あんたの、役目はもう終わったんだから。あんたなんか、……「おまえの白い髪は、役立たずだ!」
声。 声だ。 余韻をあじわう間もなく割り込まれたシーン。まったくべつの記憶の断片。 そんなことがずっと繰り返されている。 「ぼく」を見下ろし、のぞきこみ、この頬にかかるのはこんどは黒い髪でも、うつくしく切り揃えられた白い髪でもない。 鳶色の髪、水の宝石のようなひとみ。 ねえー 「ぼく」はそのひとへ語りかける。記憶なのをわかっていて。干渉できないことを理解のうえで。いつだってだれかへではなく、過去それじたいへ投げかけてきた、どうしようもない問いの数々を。 ねえー 「ぼく」はあんたをきらいになったりしない。うらんだりねたんだりしない。だからおしえて。どうしたらいい。ただそれだけを、どうかおしえて。どうしたらいいの。どうしたら「ぼく」もそこにいられるの。あんたの、まねをしただけじゃたりないの。どうやったら、そこへとどくの。あのひとたちの腕にもういちど抱きとめられるためには、あんたみたいにされるためには。あんたにみたいになるためには! 「ぼく」もつれていって、ふたりをどこにもつれてゆかないで、おねがいだから。きっとかえってきて、まっているから、ずっとここで、ぜったいはなれたりしないから。まっているから。お願いだから、父さまを、かあさまを、つれていかないで、 兄さまー
*
ゆっくりと寝台から起き上がりながら、睡りから現実へ移行する彼の意識はまずうすぼんやりとした違和を読み取ることからはじまった。ついいましがた見ていた夢のなかにーー 夢と、呼んでいいのだろうか。 醒めながら忘れてゆくこともないそれを? 結末をむかえて観客だけがのこされた劇場。そういった感覚に近かった。なにかを観た、という感覚。それから、だけれど舞台や映画ではけしてありえない、主観を伴ったあざやかなヴィジョン。 違和のありかは、そこだった。 それは「ぼく」の記憶だった。 そう、「その中」にいるとき、これはたしかに「ぼく」の記憶であると認識していた。けれど彼の中に積み重ねられてきた記憶のどこにも、あの情景に相似するものはひとつもなかった。 あんな光景を、あんな人びとを、あんな主観を、彼は知らなかった。知らないはずだった。そうにもかかわらず、そこがどのような場所であり、それらがどのような人物たちであるかをなんの障壁もなく理解できていたのだ。 「ぼく」そのものに完全にすり変わっていたわけではなかった。「ぼく」のなかには彼自身の意識も息づいており、ふたつの主観はすこしの時差もなく織り交ぜられ、というより溶けあっていたのだった。そこでは彼は「ぼく」であると同時に彼自身であり、わかつことはできなかった。世界はふたりぶんに拡張された感覚の二重奏のなかにひろがっていた。共感というものが言葉のとおりに存在するのならきっとこういうふうだろう。幾重の透過層(レイヤー)が織りなす一枚の絵のように、ふたつの主観は完璧に共演して、ひとかたまりのまったくあたらしい認識体系をつくりだしていた。ふたりの主観でなわれた、ふたりのどちらのものでもないまったくあたらしい視点。直接的な主観と俯瞰的な客観がなにも矛盾せずなめらかに継ぎ目なくまざりあっている。そのような感覚を彼はしらなかった。 知らなかったけれど、 音楽だ、とおもった。 二重奏。 不思議なことにそれ以外のことばが見つからなかった。その景色の中ではオルゴールのような音色の旋律がゆるやかに流れつづけており、けれどそれがあの場面(シーン)にほんとうに存在したのではないことも彼にはわかった。むしろあのオルゴールの旋律こそが景色をえがきだしていたのだ、と直感した。音をたよりにした映写機。だれかの記憶をつらねた音たちは耳殻をとおってこのからだにねむる意識もまたからめとり、ふたつの主観をまぜあわせてひとつにし、生々しい記憶を上演したのだ。 そこでは彼と「ぼく」の意識とは不可分であって、完璧に共感(ユニゾン)した第三の視点でおりなされていた。その記憶は烈しい痛みや怯えを孕んでいたけれど、いま彼のからだにたゆたうものは熱っぽい快さだった。馥郁とした残り香。だれかと共有するということ。繊細で敏感な感覚を同調させるということ。直接的に意味をとらえること、身体的な領域を消去、からだのカーヴを、皮膚を、臓器を、血を、すべてを透過してふれるということ。ふかい部分で、けしてさわれない、感情のゆらめきをなであい、くちづけをし、おぼれること。炭酸水の泡のようにつぎつぎに弾けて消えてうまれる、自分のものではない機微… それは、いま、あの子も同じだろうか? 皮膚ではなく感覚と記憶をさわられた「ぼく」も、そう、ここにいるのだ。 彼はわかっていた。 その子どもがだれなのかということは。
寝台のそばのチェストに、ガラス製の小さなオルゴールが破片となってちらばっている。
*
「おにいさんがいたの?」 じゅうぶんだった。 それでじゅうぶんだった。 なにが起こったのかを、ふたりのあいだで共有するのには。 そのせりふだけだけですべて語りつくすことができた。 ことばのすくなさはなにか当たりさわりのないことをという意図からではけしてない。僕への、まちがっても遠慮のたぐいではなかった。 こういったやりかたをかれはとくいだ。 寓話をおしえるみたいに、だけど、僕の、僕らのあいだではもうじゅうぶん直截的だ。 このひとがここにまだいて、飽くことなく訪れて、ことばを交わせることすら奇跡みたいなこと。 星を模したオーナメントがいくつもいくつもきらきらひかっている。白い宮、きみの称するところの巨きな子ども部屋、ここに僕のいることをどうやって知ったのだろう。この場所はとてもひろくて、そのうえ27時の鐘の響くたびすべてが変わってしまうっていうのに。 奇跡みたいなこと。 いつまでゆるされるだろう。 「〈観た〉の?」 問いを問いで返したって、こたえになっていない、とかれは糺さない。こたえなんかはなから求めていなかったから。 まだからだじゅうにふれられたあとが残っている気がした。いいや、僕にはさいしょからからだなんかなくて、リボンだったみたいだ、と思った。リボン。あのオルゴールの旋律は指ー抽象的な〈指〉、そのイ��ージ、それから〈指〉は、かれの目に、かれの感覚に、かれの主観に、なった。しゅるしゅるとゆるやかに僕のリボンはほどかれて、かれをかたどっていたリボンだってほどけてしまって、もうかたちなんか思いだせないくらいにまざりあってしまったーそんなような感じがした。ふしぎなこと。〈ほどかれる〉ということを、そこになにも残らないことを、僕はおそれていたような気がするのに。 ちかい距離をたもつためにからだを重ねることはなんて儚いことだったんだろうとおもった。からだという、目でさえ指でさえふれられてしまえるもの、よこたわる境界をなぞってゆくことにいったいなんの意味があったのかと。だって滑稽だ。ふれあうことは、隔たれているというどうしようもない事実を確認しあっているだけ。 いまだ感覚に残留するぞくぞくとしたあまいあとあじをどうしたらいいかわからないまま、僕はかれのことばをまっていた。 「〈観た〉ーーというより、ずっと体験的だったけれど」 そこでかれはすこし息をつく。なにをいうべきか迷っているのとはちがう。かれのせりふは舞台めいていて、その間合いさえ、計算尽くだ。 「あれが、きみの記憶だね」 憐れみはなかった。いたましさも。ただ事実を、なぞるように口に出すだけ。 それが心地好いんだ。 それがきらいなんだ。 あんたの、そういうところが。 もうずっと矛盾したことをもとめつづけてる。あんたの、観測者みたいな澄ました顔をゆがませることが、傷をつけられることができるのだとしたら。 だけど、そうじゃないからあんたなんだ。 「どうやってひとりで生きてきたの」、 「どうやって、って」、 「あのひとたちはここを出たんだろう?」、 「…うん。うん」、 「きみはそれから、ずっとひとりだった?」。 「うん。でも、ふたりだったよ」。 ことばを抽き出す、かれの間合いは完璧だ。僕はときどきこわしたくなる。なにひとつ損なわれず、きっとかれの算段どおりの、会話のかたちを模倣したものを。いつだってなんの効力もないとおもわされるばっかりの、僕のことばによって、だけど反抗してみたい。 「ふたり?」 「うんー 憶えてないんだ。それからのことは。 つぎに目を開けたら、いちばんに見えたのは君の眼だった。 君の、その赤い眼」 あれからなにをしていたかをほんとうに思いだせない。白い蔓の寝台に綯われて、ずっとここで、この場所で睡っていた気がするけれど、それがいったいどのくらいの時間なのかを僕は知れない。ほんのすこしのあいだだったのかもしれないし、もうずっと遠い遠いむかしのことだったのかもしれなかった。きみが見せてくれる貝やなんかの化石というものみたいに、ずっと睡っていたのかも。めざめはきみの瞳だった。きみの掌が僕の頬にふれていたのだけ、それだけがたしかだった。そう、もしかしたら、父さまも母さまも兄さまだって、〈外〉の世界のどこにももう見つけられないかもしれない。
「だけど、待っているの?」、
どうしてわかるんだろう。
「いまも、ここで」。 なにも、口にしてはいないのに。
どうしてわかるんだろう。 あんたにはわかってしまうんだろう。 僕のかんがえていること、それまで汲み取って口にできるのだろう。 憐れまないかわり、嗤いもしない。 あんたのまなざしはなに一つ曇らない。 赤いひとみは。よどまない。傷つかない。 傷つけるくせに。 この眼から泪なんか流れたら、それはやっぱり血の色をしているの?
「待ってるよ」。
それは、跳ね除��るべき問いだったとわかっている。 いつもなら、そう。だってこの関係図はさきにすすめてはいけないから。 いつか終わりがくるという、ほとんど約束みたいな、どうしようもない約束みたいな予感が、僕らのあいだにはあったね。最初から、はじまりのときから。目を開けたときから、その赤い目をみたときから、ああ、あんたはいつか僕を手放すんだっておもってた。 おなじことをきみもおもってたね。 わかるよ。 それくらいなら、僕にだって、わかるよ。
「待ってるよ、いまも、ここで」。
だからせめて、せめてさ、とどめておくことで遠ざける算段だったろ。 それが、諒解された幸福だっただろ。 なのに、 なのに、さ。
「安心した?」
気がついたら唇が先にうごいていた。
「ねえ旬欄、だって、待っているほうが、そのほうが、きみには都合がいいんでしょう?」。
どうしてこんなことを口に出してしまったのか僕だってわからない。 それは不可侵の領域だったはず。 きみが求めているものを僕はとうに知っている。知っている、ということだってひっくるめて、そのうえでなお箱庭のお人形でいようとする僕のあわれさや無垢を、見下すのじゃなくほんとうにうつくしいと思ってる。きみは、あんたは、そう。そういうひとだね。わかっているよ。ちゃんと。わかっている。ちゃんと、わかってきた。 わかってきたのに。
「きみは?」 なのに、 「君はどうなの、帝?」 どうして、
「外へ出たいと思ったことはないの? にせものでない空や、花や石を、 見たいと思ったことはないの?」
そんなこといまさら聞くんだよ。
あんただってわかっていたはずだ。 ふれてはいけないって。 きいてはいけないって。 ほんとうを暴くことなんてだれものぞんではいないって。
「僕はー だめだよ。 まだなにもわからないもの。 まだなにも、あのひとたちをあんなふうにしたことを、思い出せてもいないんだもの。 だめなんだ。 僕はなにもまだ僕のことをわからないのに」、 「だめって、誰が罰するの、きみを?」、 「それはー」、 「いいんだ。 もう、いいんだ、帝。 わからないことはわからないままでいいし知ることは義務じゃない。きみが何者であるかを知ることは権利だから、おなじように知らないでいる権利だってあるよ。 ねえ、きみは自由だ。 ほんとうはきっととても、きみはもう自由なんだよ」。 赤いひとみ。 血の色みたいだ。 衝動がつきぬける。 ねえ、 どんなふうなの。 その目にうつしてきた世界って。 どんなふうに、世界は、みえるの。
「僕、僕ー、 僕、も」
つれていって。
きみの語るどんなうつくしい場所もほんとうにはなくたって。
これは僕のことばじゃない。否定したかった。とりかえしがつかないから。だけどもうそんな余裕なんてたぶんこのからだのどこにもなかったんだ。このこころのどこにも。 なかったんだ。最初から。目覚めて、最初にきみの赤い目がほほえんで、それからずっと願っていたことだ。約束めいた終末を感じながら、それでも。 きみによって語られるから、だから世界はうつくしいように感じられるだけだと僕は知ってる。きみによって騙られるから、だから、まだみたことがないから、うつくしいのだと。きみにほんとうの名前があったとして、知りたくないとおもってた。僕にだけ呼ばせるためのうその名前ならそのほうがいいと思ってた。思っていたけれど、だけど、それでも、このひとと同じ夜や、同じ朝を、どこまでもつながっているのだという本物の空を、僕はみてみたい。みてみたいとだって思っていたんだ。
もうずっと矛盾したことをもとめつづけてる。
「無茶なんかゆわないつもりだったのに。わがままをよそ���ったってこれだけはいわないっておもってたのに。 あんたが僕のところへくるのは僕が箱庭のお人形だからだ。何も知らないこと、それにつとめること、それしかとりえのないこどもだからだ。 あんたは僕を連れていけない。いけないくせに。いまさらどうしてそんなことをきいたの。こたえられないくせに。いままで、ここまで、きたのに。なんなんだよ、もう、いいんだ、って。なんなんだ。あんたはまたあんたのあざやかなものを、執着をなくして、そのつぎはいったいどうするの。いったいどこへいくの。…もう僕はいらないの」 こぼれていくことばたちや頬をよごすものをどうにもできない。いらだちににているのにどうしてそんなものが出てくるの。わけがわからない。 わからないことばっかりでもううんざりだ。 あんたのことだって僕はとうとうなんにも知らないままだ。 「だから、帝、お願いがあるんだ」 否定してくれない。 そんなことにまだいちいち傷ついていられるこころが残ってるということ、ばかみたいだ。 「おねがい?これからはひとりで生きて、って?」 「ちがうよ」 「いやだ。ちがわないよ。おまえさいあくだ」 「きいて、帝」。 どうしてきみに呼ばれた名前、とくべつなもののような気がしてしまうんだろう。 あやすみたいにやさしくってまるでこわれやすいものにふれるみたいな、そんな声をきいたことなんてなかった。それがなんだか必死なようにも思えて、いつだってあまやかに突き放すことばを従えた唇、それがこのひとのありかただったから。 はっとしておもわず顔を上げると、かれのひとみがゆらぐことなく僕をうつしていた。 いつだってまっすぐに射抜くひとみ。 だけど、はじめて気がついた。 きみの目、 君の目はさ、 そんなふうだったの。 そんなふうにじぶんをわらうみたいにしていたの、 いつも?
「きみの言うとおりだ。 きみが外を知ることで、お人形でなくなることで、きっと俺はきみを手放すよ。あざやかなものはなくなって、おもちゃに飽いた子どもみたいにかんたんに突き放すよ。それをひどいことだとさえ思えないままに。 だけど、君にだけにはそうじゃないんじゃないかって願ってもきたよ。ずっと。そう願っている、 今も。 そういう、奇跡がもしもそこにあったら」 「でもーでもしってるだろ。 しってるから期待なんかしないようにしてきたんだろ。 だってほんとうの奇跡は、」 「奇跡はおこらないからこそ奇跡だ」 ふたりの声だった。完璧なユニゾン。ゆったりとわらったその目にやっぱり自嘲めいたものを読み取れて、僕はおどろいた。
おそれているの? きみにもおそれるものは、あるの?
「そうやっておどろいたみたいな顔。ひどいな。 俺は傷をわからない。だれにも傷つけられることができない。だからとてもあざやかなものにうつるよ。傷だらけでなおピアノ線の綱渡りみたいな生き方、きみを、だからうつくしいと思う」 「しってるよ。そんなの」 「だから、お願いがあるんだ、帝」。 君から望まれることなんて、いままでなにひとつなかった。 口に出してちゃんとした形で望まれることなんて。 唐突に、だけどあたりまえに、きいてあげてもいい、とおもった。 たぶんそれはきみの我が儘だ。どうしようもない我が儘なんだ。だからだれにだって口に出さなかったし、だれだってきいてあげられなかった。 きみだってまるで子どもみたいだ。 そのくせいつもひとりぼっちで生きてるんだね。 それをかなしいともさびしいとも思えずに。 ずっとなにかがきみのこころにあざやかなものをとどめてくれるのを待ちながら。 「待ってくれないかな。 俺を、ほかの誰でもなく。 いつかきっと連れていくから、だから待ってほしい、ひとりじゃなく、こんどはいっしょに」。 「それは、約束なの?」 「約束��好かないよ。果たせるかどうかわからないものなんて儚いばっかりで意味がない。 でも、そうだね。 これは約束だ」 「これから約束をするのに、儚いばっかりで意味がないなんてきみはいうの」 「ごめん」 「否定するとこなんじゃないの、そこは」 「そうかも」 「仕方ないひと」 笑う声がする、とおもった。 そこに君と僕としかいないことをたしかめて、それからいまのは僕だったのだと気づくのにたっぷり数秒はかかったんじゃないのかとおもう。 なんの駆け引きも打算もなくほんとうにただ息をするようにこぼれるようにわらうとゆうこと、だって僕は知らなかったから。 生まれてきてはじめて世界をみたような気になった。
それだってもうじゅうぶん奇跡みたいなことだね。
きみが僕に約束をくれるのも、僕がわらうのだって、じゅうぶんそう呼んでいい。 たしかなことなんてなにもない。 でも、奇跡はおこるよ。 そう信じさせてくれるものがあればそこに幸福はあるよ。 ちいさな、奇跡みたいなことはたくさんあって、いつまでゆるされるかそればかりを考えていたけれどそれはゆるされるのではなくって乞い続ける願いのことだ、僕と、きみとが、願いつづける時間のことだ。 たとえそれがかなわないかもしれなくたって願っているかぎりまもろうとするかぎり未来のなかにそれはあるんだ、いつまでも、ひとかけらでも。 おそれながらでいい、こわがりながら、それでも無神経に祈り続けて、どうかいっしょに生きて、生きて、生きてほしい。 「旬欄、屈んで」 「どうして」 「いいから」 かれの、赤いひとみをみる。そのなかにひそむ傍観者めいた醒めた光はたぶんどうしようもなくて、きみにだってどうしようもなくて、だからかわりに僕をうつして、僕のなみだをきみにわけてあげる。泣けないきみのために、このなみだは、ここにあるよ。 それから頬にふれる、光のヴェールをまとったみたいな銀の髪、縁どられた輪郭をなぞる、ここにたしかにいることをもういちど知る。 儚いばっかりで意味がない。 ふれることだってたぶんそう。 境界をなぞること、ただそこに横たわるへだつものをたしかめること。 だけど儚いばっかりの意味のなさだって、それだってふくめて、過去も未来もわたってゆこうとすること、それはたぶん理解しつくすよりきっと刹那的でだからうつくしいんだ。 そのためにからだはここにあって、境界はあって、ふれることの意味がある。 やすらなかものなんてほんとうはどこにもないしそういうふうに世界はできていて、それでも留めることをねがえるもののあることを幸福だって呼ぶなら、ほろぶ肉体やしりつくせないこころはきっとそのために必要だったんだ。 きっと知り尽くせない、 だけど願い続けるよ。 それから僕はきみのひとみに祈りをひとつ落とすよ。 どうかそこへ僕がうつされつづけますように、たとえ儚いばっかりで意味のない約束でも、たえず結びつづけられますように。
くちづけを目蓋に、たったひとときでもいい、安らかでなくたってあざやかなものを、きみに。
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めざめのこと
まっさらな情事。 って、言えばいいんだろうか、これは。 猫みたいだ。たぶんこの子は猫なんかしらないけど。 天蓋のベッドは一人用では絶対にないし、だから有り難く使わせていただいている朝だ。 それからこの子の、布団のなかでしなやかに胎児のようにからだをまるめたのは、猫みたいだ、ということ。 朝日なんか出るわけもないくせに、それとよくにた陰影がつくられて白い髪に光がこぼれかかっていた。窓から射し入る光の正体はなんだろう。手を翳せばきらきらと塵のような粒子が舞っていて、掴めない。 しずかに寝息をたててやすらいに満ちている。目蓋を開いたなら、だけどきっと誰もこんな安息をあたえてはやれないだろう。誰も、俺だって、こんな顔をさせてはやれないだろう。 眠っているほうがきっとよかった。 もしかしたらあの遠い目覚めの日まで、この子は化石のようにほんとうはねむっていたんじゃないだろうか。ずっと、何億年も��この場所で。だってそうだろう。起きてしまえばぽろぽろと欠けてゆくだけなのに。どうして生きているんだろう。どうして生きてなんか、まだいるんだろう。どうして、生きてきてしまっただろう。こんなになってしまうまで。 ねむっているあいだこんなにも世界じゅうに歓迎されたこどものような顔して、このからだの、この目蓋の、いったいどこに欠陥をかくしているかわからない。 ときどきこの子が足りないのでなくてだれよりずっと満たされているんじゃないかとおもう。 完成された未完成。 腕のない像、首のない天使みたいに。 指先が暴虐のかぎりをつくすとき、その狂気はだけどはんぶん正気でできている。 咎めてほしがって、俺がその役割を担うことのできないでいることを、それでもこの子は赦している。ちゃんとわかっている。 腕のない像は腕のないまま、首のない天使は首のないままそれがうつくしいというひとのこころを守ろうとするように、こわれたままでいようとしてほんとうにこわれてゆくこの子の、顫える、うすい目蓋の皮膚が、光に透けている。 ______ web拍手供養。
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光の庭
もしかしたら、たぶんうららかだった。陽射しに似るというその陰影は。嘘を嘘だとちゃんと信じることができてひとつも期待などしないでいいなら、あるいはなんだってほんとうだと信じることができてひとつも疑いなどしないでいいのなら。 きっとうららかな午后だった。 光の庭 きらきらと落ちてくる光の粒子、手を翳せばつかまえられそうで、そうだ砂みたいに壜へ蒐めたいとおもったんだ。 「下駄を、また履かないでいるね」 腕をのばして空を撹拌する。 背中のほうから声がきこえる。 「かまわないよ」 降り来る光の粒子がきょうはすこし多い気がする。微細なものから欠片みたいのまで、大きさのちがうのがちらちらと舞っていて飽きることなんかない。ここは、光の庭だね。 「帝、君、踊っているみたいに見えるよ」 「ふうん」 「ほら、waltzみたいに」 「ねえきみ、僕はそれをしらないよ。意味をもたない例示だ」 「そうだったね」 かれはふっと目を細める。弧をえがく目蓋、そのながい睫毛から光が舞ったような気がした。きょうはなんだか光の分量が多いのかな。視界を、欠片や粒子の交錯が遊ぶ。かれの手、唇、髪、それらが揺れるたびそこからきらきらこぼれだしているようだ。 かれが、光にかわっていく、そんな感じ。 僕は空へ腕をのばして、にげてゆくそれらを追う。追いかけて、つかまえるみたいにする。 「帝?」 「うん。なに」 「ところで、前にも言ったけれど、それ」 「うん」 「掴めたりする、ちゃんと?」 いったい、なんの意味があるだろう? その問いには。 その、かけひきには。 「うん」。 ほんとうはふれることなんてできやしないよ。 光にふれているという幻覚、そんなものに取り憑かれたこどもの真似をする。それはなにかとってもきれいなようにおもうから。きれいに、みられたいから。 僕だってうそつきだ。僕だって平気で騙る。かれは僕の白痴の正体を見破ってそれでももしかしたらってすこし信じたりするから、そのあわいで僕と君とは成り立っているね。奇跡みたいに。 だけど、ほんとうのときだってあるよ。ほんとうになにもかも忘れてしまうときだって。それを、あとで思いだして、羨んだりするよ。なにも知らないこどもめいた僕。 だってたぶん、それが幸福っていうやつなんだ。 「ねえ、旬欄、光、こんなにたくさん降ってる」 あんまりきょうは粒子が多いから、手で掬うみたいにしてみる。さらさらと砂を流すイメージで。こんなふうに、さわれているよ、っていうみたいに。 「そうかな。変わらないよ」 「どうして。きみにはみえないの」 叛逆のつもりなら出来の悪い嘘だ。いまさらそんなのは通じないのに。ほら、こんなに、きみの唇からあふれたことば、すぐに光にかわってゆくよ。 「帝、それ、どんなふうに見えてる?」 「旬欄、それ、ほんとに言ってる?」 あんまり可笑しくって、くすくすわらって、せりふの言いかたを模倣する。ほら、ほら、みえないの。そんなはずないくせに。 「きみがまえ言ってただろ。嵐、っていうやつみたい」 「……へえ」 「ね、これほんと、なんにも見えないよ」 僕はおかしかった。それとなんだかうれしくなった。外で起こるという嵐ってやつを、体験しているような気になったから。こんなふうに、なんにも見えなくなるんだね。なんにも聞こえなくなるんだね。 「すごいね、旬欄」 見えなくなったかれのほうへ腕をひろげて、くるりとまわって、それから駆け出してみたいとおもった。その、光の庭へ。きみから放たれたうつくしい庭園へ。 「だめだよ」 引き留めたのはだれだろう。 そんなに、やさしい、けれどいつよりずっとするどい声で。 きみはもう光になってしまったのに。 なんにも、みえない。 強く掴まれた腕が痛くて、だけど、その痛みがうれしいとおもった。 うれしいとおもったんだ。 かれは僕を糺したり調律したりなんかしない。どこへいったってきみは、僕がどうなったって、きっと生きてゆけるから、咎めてくれることのないことをちゃんと知ってた。ほおえみ以外���与えてはくれないと思ってた。やさしさに似せてほんものになれない、執着ただそれだけ、それが彼の持てる唯一のものだと思ってた。 だけどその声は否定することだってできるんだ。 こんなふうに、咎めることもできるんだ。 こんなふうに、ちゃんと、咎めてくれるんだ。 刺のある声をはじめて聞いたね。だけどこれは何度も繰り返されたことなんじゃないの、とおもった。僕が忘れているだけできっときみの必死とだっていえるかもしれない声色を僕はちゃんと知っていてそれだから僕はきみをすっかり疑うことなんてできなかったんじゃないの。だから信じてしまうんじゃないの。ねえ。 こうして何度もほんとうに崩れてしまいそうになりながら、そのたびに引き留めてくれたのはきみだったんだろう。だけど僕はまた覚えちゃいられないよ。僕は僕の歴史を忘れることで均衡を保ってきたのだろうから。 ねえ、それでも、忘れつくすことだってできないよ。 こんな安堵を。 こんな幸福を。 視界はすべて光で埋め尽くされて塵のようなこまやかな粒子や破片が銀やこがねに輝いているばかりだった。もうなにもみえない。だけどそこにかれはちゃんといるんだろう。掌が、髪を撫でている感覚だけがあった。とてもあたたかいから、ここは、その腕のなかだとおもった。この体温を知ってる。とろりとした睡りの重力が目蓋を誘って僕はため息をつく。こうやって睡らせることでかれは僕のこころとからだとをとどめてきたんだろう。 めざめのとききっとおぼえてはいないだろうけれど、それを知ってだから咎めてくれたんだね。僕がおぼえていられないのを知っているから、だからつかのま演技さえやめてくれたんだね。 ねえ、いま、すこし心臓のあたりの軋むのを、なんとよべばいいかわからない。 だからこれを、このあたたかさを、やっぱり幸福とだけよぼうとおもうよ。 それからもういちどめざめを待つよ。 僕は、きみの光の庭で。 ______ web拍手供養。 .
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熱があるのでおどろいた。 僕じゃなくて、かれに。 シーツの衣ずれの音でめざめを知る。しゅる、という音、それだけで静謐をかき消すことができてしずけさってかれがいっていたトランプみたいだなとおもう。無音は僕に強いです。無音は音によわいです。だけど無音は音をころしたから無音です。 わかんないな。どうせ僕はどちらにもかてないけど。 いつだって臆病だよ。 撥ねた心臓、つまりこれは安堵であり、緊張であるということ。 「ええと」 寝台の上で目を覚ましたかれの、それが開口いちばんのせりふ。すこし、掠れている気がする。なんだかひどく耳に響く音調だなとおもった。 なんでこんなところにいるんだろう。 僕。 「……あ、俺、熱がある?」 「しらない」 「ええと、記憶が、ないんだけど。君が運���でくれたの?」 「運べるとおもうの」 「ううん、まあ無理だねえ」 笑った顔がつかれて見える。調子がくるうのでやめて��しい。それとこんなときにさえ僕を馬鹿にするのだって、ほんとうかわいくないしさいあくだ。 「じゃあじぶんで歩いてきたかな」 「たぶん」 「ほんとに?」 「僕はしらない」 「しらないのならいいけど」 「しつこい。その口きけなくしていい」 「こわいね」 「そんなこと思ってないくせに」。 あ。 わらった。 ほおえみにもならないくらい薄情な、それでもそれは笑みとよぶの。かれがくれた葉書に書かれてた、揺りかごを逆さにしたみたいな、月というあのかたちに半開の目は似ている。それがきょうはなんだか潤んでいっそう赤い宝石みたいなひとみが光をとらえてかがやいている。つややかな柘榴。すくい出せるよ、その眼窩から。 こわいね、なんて笑えなくしてあげられるよ。 「ほんとにできないって思ってるだろ、」 寝台に片膝をつく。 僕のほうから目をあわすことはたぶんいままでそうあることじゃなかったからふしぎな心地がした。じっとり視線を捕捉する。そのひとみの中に僕が見える。 ちゃんと、映っている。 でも、いつまでだろう。 いつまで赦されるだろう。 かれのシャツは睡っているうち自ら暴かれてひらかれていた。汗ばみしっとりと萎びた綿とレースの、うつくしい皺のマチエール。横になった肢体は僕よりずっとおおきいのにどこかたおやかでさえある。ふかく陰翳に富む顔にこぼれかかる銀の髪の曲線はいまわずか艶を孕んでいる。 どうにだってできそうだとおもった。 たとえば、 棚へ列んだカトラリー、そのフォークできみの瞳を取り出してしまうことだってできるよ。赤い、きれいな、ひとみ。そのナイフできみの耳を削ぐことだってできるよ。僕のことばをちゃんと聞かないからいけないんだって囁きながら。首筋に爪をたててそのスプーンで鎖骨のおさらにつうっと流れた血を掬うことだってできるよ。それらを味わった唇を重ねてさいごにさよならをいうよ。 それから僕はどうするだろう。 どうすることができるだろう。 「……風邪、伝染るよ」 だけどかれは僕の思想を知ってか知らずか、いいや知っていたって、それだって諒解しあってかんたんにこうして微笑むことができる。だからこんなところまできてしまった。だれにも咎められないままに、赦されもしないまま。 「そうそう、」 それとね、とかれは続ける。 「思い出したよ、帝」 それで僕の心臓はまたちいさく撥ねた。 なにを、思い出したっていうんだ。 たのむからわすれていてよ。 「……なに」 「手を引いてくれていたね。ここまで」 「……」 しらない、というのが遅れてしまって、結局肯定しているみたいになったのがゆるせない。 「もしかして忘れたから怒ってた?」 「……なにそれ、僕がいつ怒ったんだ」 「そうだね、いまとか」 「……怒ってるようにみえるの」 「すごく」 「……もうしらない、」 「ありがとう」 また。 また、拍動がみだれされる。 ぎょっとしたというのがただしいかもしれない、だってなんてことなく、そんなこと言うから。 熱があったって僕がいつも言えないことばをかんたんに告げるから。 ねえ、それってあんまりみじめだ。何もいえないでいる僕が。 「……なんで」 そんなかんたんに、とは、続かなかった。 「なんで、って、案内してくれたろう」 嫌そうな顔してたけど、とは���計な文句。 理由をきいたのじゃないよ。 だけど結局、いつだって臆病だから、そういうことにしてきょうも逃げてしまうよ。 (ほら、つかまえなくていいの、って言いながら、蝶みたいに。かれはそれでも見ているだけだ。) 「べつに、それくらい」 「たいへんだったろう。何しろいまでもすこしおぼろげだからね」 「……そんなこというんならさっさと治せよ」 「あれ、すこし機嫌がなおった?」 「どこをみればそうおもうの」 「……全体的に?」 「ばかみたいだ」。 それから返事もせずにかれの手がのびてくしゃくしゃと僕の髪をまぜた。 ずいぶんまた伸びたから切ってもらわないとな、とそこで思考が逸れたから拒むのをわすれただけで、だからそれはあまえたのでもゆるしたのでもない。 ない、よ。 きっと。 「だから伝染るっていったのに」 「……うるさい」 それから僕は熱を出して結局いつもどおり寝台で睡っているのだけど、 それはまたべつのおはなしだ。 ______ web拍手供養。甘いかもしれない。
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27時のカーテンコール
【更新】2017.1.24「彼について Ⅰ」を追加しました。
彼についてⅠ
*
1 イヴァンの箱庭 2 薄荷と蜜 3 薔薇と鋏/すきをしらない 4 蝶の名前 5 天蓋のプラネタ/さよならの気配は夜光る 6 繭のシックザール 7 エフェメラの消息 8 夜興行、不在のキーライト
————————————
0 無名標本( 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 )
(読んでも読まなくても)
————————————
9 夢の汀 10 〈音楽〉、旋律、オルゴール 11 くちづけを目蓋に
12 ある劣等 13 プロンプターの耳打ち 14 黙示舞台 15 スナッフフィルム・スパンコール
*
彼について Ⅱ
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〈音楽〉、旋律、オルゴール
彼の弾くクラヴサンはみごとだった。鍵を叩く仕草さえなぞるようにうつくしく、紡がれてゆく五線譜は詩の一篇を読み上げるようにすべらかで、そうしてどこか憂鬱だ。 ゆたかでふかい黒色の、象嵌細工の施されたそれは最初から彼のためにしつらえられたようだった。僕よりずっと長身の彼に椅子はちょうどよい高さだったし、彼のゆったりと畝りをもつ髪の銀いろと、その側板のみがかれた鏡のような黒曜とは、互いに互いを引きたてあって絵画めいて僕の目へ映った。あんまり整えられていてかえって隙だらけな気がした。いまかれの背中へそっと近づけば、その血だってかんたんに見られるかもしれない。だけれど硬質にはりつめていながら無防備なその一個の宇宙のような(と言ったって僕の知るのは贋物の〈プラネタ〉だけだ)空間に立ち入ることさえできないで、振り向かせるのだってひどく躊躇われて、扉の隅で隠れるみたいに息をひそめているだけだった。
旋律について、名前やなんか僕はなにひとつひらめくものがなかった。そればかりか五線譜が、意味を携えてこうして奏でられるものとさえついぞ識らなかったのだ。画かれた尾ひれのついた円いのや、アンモナイトに似たのなんかの、列びの見目良さから選びとっては「お気に入り」をみつけるか、あるいは競うかするもので、あの黄ばんだふるい紙きれを蒐集するのや交換するのに〈外〉の連中はきっとみんな熱をあげているのだろう、というふうにおもっていたのだから。それを口にしたときだってかれはそれを否定しなかった。 そう、切手(ふるい文化――「手紙」につけるものだという)の図版を蒐めるように。そういう趣味のあることもかれから聞いたのだった。 〈音楽〉というものを僕はしらなかった。あのクラヴサンが楽器と呼ばれ、奏でるためのものだとおそわったことはあるけれど、僕にできたのはせいぜい、ひとつ音を跳ねさせるくらいだった。奏でるということばの意味も理解できなかったし、扱い方の分らないおもちゃなんかそれからすぐに飽いてしまった。 跳ねまわる音の群れが指先に従えられたなら、つまり〈音楽〉が、こんなふうにはだの上を擽っていくように身軽にころがって、ときにはなぞらえて、境界を透過しからだじゅうを流れてゆくものだったなんて、思いもしなかったのだ。音をつぎつぎに編みいれた一本のながいながいテグスが、その玉のかがやきをたえず変質させながら駆け抜けていくみたいに。眠っていた種をめばえさせ、蔓をのばし、凌辱しあるいはやさしく撫でながら、僕を内側からからめとっていくような―― けれど、それはまあたらしい感覚の萌芽による顫えではなかった。 名づけられた、と思ったのだ。 やっと。 ピースがぴったりと嵌る快い電撃。 この箱庭が〈双児塔〉の(それだってでたらめな)27時の鐘でそっくりすがたを変えるとき、僕はいつも〈波〉にさらわれていた。ざわめきとでも言いかえればよいだろうか。かたちをもたず、予感、ただそうとしかいいあらわせない無音の奔流が、僕の内側をゆらめかせ、悉くなでていく。触れない解剖。そうやって僕という現象の構造を、そのテクストを、自身のなかへ織り込みうつしとり、盗んでゆくみたいに―― それが、いま音となってようやく姿を見せたのだ、と思った。
「いったいここにある楽譜は、誰が書いたのだろうね」。
発せられた声に、急に肺へ滑りこむ酸素が重くなった気がした。 いったいかれは、いつから僕がいるのに気づいていただろう? 呼吸のように滑らかにすすめられた演奏は、けれど呆気なく打ち切られた。あまりに唐突に、無遠慮に。その〈音楽〉の終わりかたがただしくないことなら僕にもわかった。振り向ききらずに、だけれど彼の目のはっとするくらい赤い、視線は僕の存在を認知してたしかに、肩越しにここへ流されている。 「五線紙はずいぶん草臥れているし、インクも消えかかってる」 鼓動のはやさを知りもしないで、君の?、とかれはその古びた紙きれを差し出す。それを受け取るには歩いてゆかないといけない。彼の近くへだ。だからわざとそうしたんだろう。文句のひとつもいってやりたかったけれど、途中で何を云いたかったかわからなくなって、開きかけた口を噤んだ。 まだ、からだのなかを薫っている。〈音楽〉の残り香が。かれのつけていたことのある、香水みたいに甘ったるく。 「僕のじゃない」 それだけいうのにどれくらい、平静を装う必要があったか知れない。そのことがたまらなく不愉快だった。声が上擦っていることに、どうか気づいていないといい。 「じゃ君の、ご先祖さまが書いたのかな、これは」 「……しらない」 「このつづき、君は読める?」 群青のインクのあとを彼はなぞる。けれどそれはひどく掠れていて、たとえ書かれたものが僕の読める文字であったとしても(読める文字なんてないのだからこの仮定ほど無意味なものはない)、いまそれをただしく認識するなんて到底出来そうになかった。虫喰いの穴が点々と連なって、天井へ翳してみれば、星の散らばったようだろう。 「……読めると思うの?これが」 苛々するのは僕の、癇癪持ちのせいだけではけしてない。絶対に僕の応えられないのをわかっている。こんなときこのひとはいつも、莫迦に��たように目を細めて薄く笑んでいる。 いまだって、そうだ。 「冗談だよ。ずいぶん古いものみたいだ。弾いてみたけど、耳触りがどうもふしぎだ」 「もうやめるの」 「つづきが読めないからね」 かれにそういうつもりはなかったことは分っている。だけど責められているような気になって僕は楽譜をつきかえした。 「いらない」 「そうだ、」 くしゃりと音を立て皴のはいった楽譜を咎めることなくうけとりながら、まえに、オルゴールのはなしをしたことがあったろう、と彼はつづける。 あった……かもしれない。なかったかもしれない。僕が思い出せないのか、ほんとうは彼がそんなはなしを最初からしていなかったのかわからない。そういうことだってたぶん、平気でする。 唐突に、ばかみたいだ、と思った。 この箱庭の〈外〉があるかさえ、僕の目はなにひとつたしかめてはいない。たとえば、 ここはほんとうは世界の果てかもしれない。亡んでしまったあとのたったひとつ遺された寂しい場所で、かれは嘘をつき続けているだけかもしれない。何も知らない僕とのあいだにだけ故郷を再構築して。僕へそっくり信じさせてしまって、かつての世界のすがたへもういちど触れようとして。かわすことばのうえに投影した、その残像に縋って。そうだとすればどんなにいいだろう。彼には帰る場所なんかなくて、僕のほかにこのひとの幻想を共有してあげられるひとがいなかったなら。 ばかみたいだ。 そんな空想こそ。 わかっていた。 そんなことを、のぞんでいるのではない。 「ここで見つかったんだ。この機構、たぶんオルゴールだと思うんだけど」 スツールへ腰掛けたまま彼は低い円テーブルへ手をのばす。 僕へ差し出された掌には、ちいさな透明の筐が載っていた。真鍮の柱と鍍金された縁取りとをもち、曇りなくみがかれた板硝子にかこわれたそのなかに、ほそい金の糸めいた櫛歯や筒などのいっしょになった機構がひっそりと納まっている。硝子の蓋にはなにかの記号が彫られていて、そこだけが半透明だ。文字かもしれないけれど、僕には読めない。 「それ、なに」 「ううん」 彼は少し考え、それからことばをえらびとる。 「〈保存された音楽〉。書かれずに、別の手法で」 かろやかで、けして厳かにいったのではなかった。とくん、と、それなのにしずかにひとつ胸が愽ちはねた気がした。 〈保存された音楽〉。 僕はそのことばに言い知れない陶酔をおぼえていた。たとえば――また、たとえばだ――かれのなかに、そのように僕が保存されていくのだとしたら。いや、こんどばかりはそれはただの空想ではない。事実、僕はいまも彼に視られ、記憶のなかへ僕のかけらを残している!彼が僕をおもいだすとき、僕のせりふや挙措はふたたびつづられ、織られ、奏でられる。「僕」は演奏される。〈音楽〉のように、彼の器官で。 なんだかそれはとても心地好かった。からだを指先でなぞらえられるときの、あの感覚とそっくりだ。走査し、境界をざわめかせて、いまクラヴサンを弾いたその指が、僕をふちどってゆくときの。いつだって輪郭のない、僕にさえなりそこなっている僕をひととききちんと連ねて、僕のかたちへみちびいてゆくときの。 「……そ��を聴くことはできないの」 「残念ながら。薇がなくってね」 彼はことさら残念ではないような様子でちょっと肩を竦めてみせた。 「薇が必要なの」 「ふつうは付属しているはずだけど――」 そういいながら、彼はもういちど筐をくるくると眺め調べてゆく。その所作さえ流れるようでぜんぜん隙がない。彼の存在自体も〈音楽〉だ。動作の、その軌跡が旋律だ。シンプルでなにも装飾されていない、だからこそあらゆる意味を含ませ、翻弄する。その手が筐の角度を変えるたび、硝子板に与えられる天井から吊(さ)がった四角燈(キューブランプ)の光がなめらかにうごく生き物のようだと思って―― とつぜん、蓋へ刻まれた記号が目に飛び込み、意味をもって作用した。 正確には、その記号のなにを読み取れたわけでもない。それは文字ではなく、また象徴でもなく、ただそこへ突如としてあらわれてきた「意味」だった。ことばでかたられない「意味」のひとにらみを受けて、僕は手をのばしていた。 それは僕の意思ではない。
薇は「ここ」にある、
と、僕の唇がもはや僕のものではないことばで語った。 「見つけたの、どこに……」 彼のことばをうわのそらで聞いた。 硝子の小さな筐に手が触れたとき、 どうっ、と風が――からだじゅうを透明なざわめきがなだれ込んだ、気がした。 白紙の〈音楽〉。
*
すこし手荒なやりかただったかもしれない、 と〈装置〉は思った。 「思った」かどうか――定かではない。〈装置〉に明確な、ひととおなじ体系をもつ意思があるとは断定できない。ただひとがその主観としてもぐりこんだとしたならきっとそのように感じられる信号が、いま内部で展開されていたのだった。 〈装置〉は、だけれど少々強引だとはいえじぶんの役目をようやく果たせるならそれで結構、とのんびりしていた。なにしろ何百年も、へたをしたなら何千年もほうっておかれていたのだから、こんな機会をつかまないわけにはいかないだろう。だからちょっと子どものほうへはたらきかけて、強制的にじぶんを使わせることにしたのだ。 〈装置〉はそれから、はじめての仕事にとりかかった。 〈装置〉は、この箱庭のたとえばゲームの世界でいうアイテムのひとつだ。そのうち彼(というべきか)には、たとえばキャラクタの劃されたエピソードを開放するのに役立つアイテム、ざっくりと言えばそれと似たような役割があたえられている。ただ、それが使用者が特定のキャラクタの記憶を得るのとは反対に、使用者のほうが相手へ自身の記憶を明け渡すという点で大きく異なっているけれど。相手に、自分をみられたい、ゆだねたいという欲求、それらをみたすために、あるいはカウンセリングのためにデザインされたもの。だから特定の誰かの記憶が最初から〈装置〉の中におりたたまれて用意されているわけではない。まず白紙の旋律を浸透させ、それから記憶をさぐり、とらえ、旋律のなかにからめとって〈音楽〉のかたちにラッピングして弾きだす――それが贈られた相手の耳殻へとどいたとき、記憶もまたそのひとのなかへなだれ込んでゆく。 うつくしい旋律、〈音楽〉を介��た記憶の共有、感情の共振。からだをこえた交感。 それがコンセプトだった。 だからまず、いま〈装置〉はこどもの内部へ音のない旋律となって潜っている。
浸入ってさいしょに、〈装置〉はこれはちょっとめんどうだ、とため息を吐くことになった。
なにしろ順番にきちんと並べられていない。〈装置〉が「視た」ものを視覚的に表現するなら、だだっぴろい空間に幾千のビーズがばら撒かれた、そういう光景だ。恍惚とするほど途方もない無秩序。 ふつう、記憶は機序立って連なっている。肉体のなかの地層めいて順番に堆積されていて、〈装置〉はそれを新しいほうからたどり、潜りながら、人物を象るエピソード群を摘んでは白紙の旋律へサルベージして紡ぎとっていく。綺麗なビーズだけより分けて糸へ通すように。あとはそのかがやきの情報を音楽の作法で織りなおしてゆけばよいだけで、最初からすでに音符の進行は示されているのだ。だけれど、この子どもの最初の地層、まだあたらしい領域では、記憶は配列をうしなっているようだった。 ただ、始めてみればそれほど苦労はしなかった。ばら撒かれた記憶のビーズたちにはちゃんと順序コードがそなわっていたからだ。つまりこの子どもの場合、記憶のラヴェルを読み込む機構の調子が悪く、うまく引き出したり列べられないだけらしかった。 どうしたらこんなふうに毀れるだろう。自然にそうなるものだろうか。ちらばった記憶を読み取ってみると、記録されているのはすべてあの青年とのやり取りだけだ。退屈で、他愛もない会話。それらをわざわざこんなふうに撹拌する意味があるだろうか。 けれど、同時にそれらの記憶のビーズにはどれもかならずするどく光る異質なかがやき、傷をつける刃がひそめられている気配があった。うつくしく加工の施された、その一つのカット面だけが、ぎらりと別次元の光を放っている、そんな気配。すべての記憶のなかに、この子どもをうちからみはっている機構のひえびえとした眼がある。それはどんな眇たる対話、どんな瑣細なまじわりにも適応され、無意識のうちにこの子を摩耗させ蚕食していく。 〈装置〉はそれを知りたくなった。 その正体を視たくなった。 そうしてより下層へ、とひとつ潜ったそのとき、景色ががらりとかわった。 あきらかにそこから「地層」の様相がちがっていたのだった。 きちんと、列べられている。 苦痛の連鎖が。 うたうように記憶のビーズはおびえの信号を発している。
黒くて長い髪。 あかい唇。 ふくらんだ胸。 恐怖��� やわらかい肌。 いやだ 白い睫毛。 憧憬。 羨望。 こわい 紫斑。 たすけて 爪。 ごめんなさい
〈装置〉は歓喜し顫えあがった。 探り当てた感情の奔流に、その烈しさに。 こんな譴責に満ちた感情が誰にも告解されずに、生きたままこのほそしろいからだにひそんでいることに感嘆したのだった。 それを剖き、展開し、あの青年に受け渡すことで、どんなにこの子は満たされ救われることだろうと〈装置〉は己の果たせる役目に恍惚とした。 ざっと視ただけでも、なんと「共有」のコンセプトに最適化された、心地好い記憶だろう! このエピソード群をなるべく思い出さないでいるために、この子どもはより浅い領域で記憶の撹拌という手法によってじぶんの意識に混乱を生んでいたのだ、と思った。すべて無意識によって計算ずくの、制御システム。警告のためにはりめぐらされたピアノ線。それで意識の部分に傷がつこうが、からだを統制できないほどかんぜんにこわれてしまうよりずっとましだ、という、きわめて合理的な判断。その図太さにはまったく頭が(そんなものはないが)あがらない。まるで無意識のほうが意思をもっているようでさえある。なんというか、そう、この子どもはおにんぎょうだ。自分のしらない生への執着、原初の意思の。 その記憶たちを陶然としながら、ていねいにけれどほとんど情欲のようにそっくり自身の旋律へからめとり、ひととおり貪ってしまうと、〈装置〉はそれだけでは足りなくなった。 最初にこの層へ浸入ったとき、あの浅い領域ですべての記憶にしのばせられていた(ように感じた)つめたい機構の視線は、このおびえと苦痛で織られたエピソード群への接続を規制するためのものだと思っていたのだけれど、からめとってすっかり自分のものにしたあと、どうやらそうではないということに気付いたからだ。 これらの苦痛の記憶すら、その「目」の寒々とした視界のなかにある。 それはいったいなんだろう? ……〈装置〉は昂揚した。 かならずこの子どものなかにそれが格納されていることがわかっていたからだ。 だって、これだけ織りとってなお、もっと下へと層はつづいているのだから。 〈装置〉は、それから旋律をうんとクレシェンドした。 もっと下へ! もっと先へ! もっと深くへ!
*
「帝?」 呼びかけると、そのこどもははっと目をみひらいた。それから、きょとん、としたおさない顔、そこへ割り込むみたいに怯えのようなものが織り込まれている。 筐へふれたほんの一瞬。たった一瞬、ぴくり、と指が跳ねただけ。 けれどそのまたたきひとつの間に、はだはいっそう死体めき青ざめたように見えた。 そこに何かまったくべつのシーンが横たわっていたみたいに。 「どうしたの。薇がある、って言っていたけど」 「……僕が、そんなことをいった?」 「おぼえていない?」 「いや――でも、それは、たぶん……僕じゃない」 どういうこと、と尋ねると、子どもは「わからない」と頭を振った。いやいやをするみたいに。この子はそうやって記憶の中で迷子になって、ひらひらと飛んでいってしまうことが少なくなかった。戻ってきたとき、それはからだといくつかの記憶の微細片を共有する他のだれかだ。 それが帝というありかた、それで「ひとり」だ。 けれど今日のはどうもすこし違うみたいだった。「僕じゃない」、たしかにそういったのだ。この子はいま、それまでのやりとりだってきちんと憶えている。ただ一瞬だけが抜け落ちているのだ。そこだけ時間が途絶したように。 「これは」 「いらない」 そういって帝は受け取ろうとしていた筐から手をひいた。躊躇うみたいだった。なにに躊躇っているのか、じぶんの無意識がなにを察知しているのかわからないままに。 そう、ほんとうに「わからない」というふうな表情で。 どうして星は��っこちてこないの、とたずねるこどものあどけない表情で。 青ざめたはだの白さとまぐわらない表情で。 筐を持っていないほうの掌で頬に触れると、それはほとんど氷でできていた。 ……ように思えた。 「部屋に戻ろうか。やすんだ方がいいかもしれない」 「きみ、熱があるの。手が、あつい」 帝が頬を包む掌に手をかさねてそういうので、思わずくつくつと笑ってしまった。 予期しなかったこたえ。予測不能なことばに。 「何がおかしいの」 「わからない?君のほうがずっとつめたいんだ」 それから手を取って、こちらへ、と促す。 指先だって冷えていて最初から体温なんか持っていない白磁のようだ。
なめらかでやわい、生きたつくりもの。
紅茶を淹れてあげよう。 黒砂糖と生姜と、それから蜜をたっぷり。 うたうようにそう告げる背中に、手をひかれたこどもはだまってついてくる。
*
……。 先へ潜ろうとして、〈装置〉は自身が崩壊をはじめていることに気が付いた。 気付いて、呆然とした。 とつぜん、無音につつまれていたからだ。 自分の旋律を完全にみうしなっているからだ。 そうして全貌のみえない、まったく異質の広大な湫がそこへよこたわっていることをようやく知ったからだ。 踏み入ってしまったあとで、ここから先に扱えない領域があることに気が付き、 〈装置〉は戦慄した。 何も読み取れなかった。 無音。 自分の旋律がとらえられている。
〈装置〉は顫えあがった。
ああ――ちがった。まちがっていたのだ、と〈装置〉はその気配だけでさとった。その領域は自身を劃そうとしながら、だが見られたがっていた。刃のような光のするどさ、攻撃性をもつプリズムで記憶のビーズに自身の危険さを書きつけておきながら、同時におなじ光によってその存在をぎらりとしめしつづけていたのだった。この子どもの無意識が触れないようにしていた怪物に、〈装置〉はまともに目をあわせてしまったのだ。 いま、それは旋律をつかまえ、つたって外へあらわれようとしていた。 うっかりその領域へ浸入ってしまった〈装置〉を、悪戯を仕掛けた我が子を穏和に咎めるように、だけれど比類なき冷血さで、機能のすべてを奪いつくそうとしていた。 〈装置〉は死にものぐるいで走査をとりやめ、旋律へのエンベッドを強制終了した。 逃げ帰るように手をひいた。 あの領域がこの子どもの意識の浅瀬まで這い上がってしまったなら、〈装置〉もまた破壊に巻き込まれ、にどとこの子どもの外へは出られなかったにちがいない。五官の檻に閉じ込められて、コントロール不能なまま、記憶を読んだり吐き出したりしながら、ぐちゃぐちゃの音のスペクタクルをひとりでつくり続ける――
〈装置〉は嘆息した。 おそろしい空想に。 その領域から逃げ出すことができた安堵に。 それから、驚愕した。 じぶんがまだ毀れ続けているということに、気付いて。 じわじわと時間をかけ、けれど確実に、機序がうしなわれていく。コードが分解されていく。怪物のような領域、直接的なそれではなく、その残り香のようなもの、幻影に。真綿で首を絞められるようにゆっくりと。 やがてぴしり、ぴしりと自分を象る輪郭――「筐」に罅の入っていく音を聞き、光の射したのを〈装置〉が視たとき、そこにもう主観は残ってはいなかった。 離散していくモジュール。 内側からかえられていく旋律。 その転調をのがれるために、〈音楽〉は外へ外へとあふれようとしていた。きわめて機械的に、もはや意思を放棄した筐からそれはぽろぽろと音となってこぼれだしていった。
やがて、オルゴールの音が響きはじめる。 天蓋の寝台のその傍で。
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夜興行、不在のキーライト
博愛の目のように、あなたは誰をもみつめない。 そう述べた人のなまえをなんていったっけ。 それだって忘れてしまった。 だからきっとその通りなんだろう。
優しいからです。 静的だからです。 告げられる理由をごく平坦におしなべればそういうものだった。つまり時間それ自体は諍いもなく、けれど刺激と呼べるものもなく緩慢に過ぎてゆき、ただ彼女だったり彼だったり、の主観において、はじまりからさよならへこぎつけるほどたしかになにかが変わっていったのだという痕跡だけが、別れによってのこされるすべてだった。 あなたはとてもおだやかだ。 わたしはあなたに適わない。 だから、罪はあなたに宿らない。 そのようにかつての彼女たち(あるいは彼ら)は言っていたし、これからもきっとそうだろう。 来る者を拒まないだけ去る者だって追わなかった。繋がることを求められれば手を伸ばしたし、綻ぶことを望まれれば甘受した。だれとでも平等に体温を共有した。はじまりもおわりもあちらからだから、狡いとおもわせる隙もなかった。要するに質量がないみたいな生き方、それくらいのすべらかさで、きっとそんな姿勢だから、邂逅も解消も傷にはなれない。 いつだって笑って見送るだけだ。 「ありがとう。きっと、君はしあわせになれるよ」
「ただいま」 「世界に、どれくらいあるの?きみがそういって帰る場所はさ」 青白い喉から発せられる声はソプラノのようなアルトのような、どっちつかずだ。少女と少年のあわい。 そのどちらにさえまだなれない。たぶんこれからも。 「怒ってるの?」 「僕がどうして怒るの」 おかしなこと言う、とほとんど笑うように声音だけは弾んでいるのだけれど、あどけなさの残る顔の上に浮かんだ不機嫌の色を、おそらく自分でも気づいてはいない。いつだってちぐはぐだ。存在しているといえるほどの確からしさに欠けた、自律未満、パッチワークの現象。「僕が、どうして怒るの?」舞台のうえで、こんどはせりふを読み上げるようにそのこどもはひらひらと着物を翻して廻る。 円形の劇場を模したこの場所は〈中庭〉の湿原のただなかに気まぐれにあらわれ��。外から見たときそれは天幕の姿をしていて、装飾された三角の屋根は丁寧で大胆なイルミネーションを纏っている。 サーカスのようでもあるし、メリーゴーラウンドのようでもある、とおもう。どこかチープさを持った、おもちゃみたいな。あれはたぶんわざとだろう。���を見せるための機構がもつ突き放すようなやすっぽさ、その均衡。 この場所のコンセプトはきっとそういうものだ。 入り口をくぐりぬけ、天幕の内部へ一歩足を踏み入れたとき、見上げたとき、誰だって(残念ながら来客などあったためしはないのだけれど)感嘆を漏らすだろう。暗い湿原から入り口をくぐりぬけ、淡い光のなかに視界のひらけたとき、目に飛び込む景色の空間領域的な魔法――外から見たすがたで予想されるなん倍もの高さから、幾多の柱によって描き出された豪奢な観客席にてっぺんから見下ろされることになる、という魔法に。彫刻の施された柱は舞台を取り囲んで天井まで伸びていて、その穹窿はどうやったってあの天幕に納まらないと一目でわかってしまう。そのことが、わざと空間規矩の描出演算を変えてあるらしい、これも可触映像だと気付かせるのだけれど、視界へ映ったその景色の稠密さ、濃厚さが、物理的な「現実」にじっさいに存在することを疑わせない切迫感を生み出していた。 夢を見ているとき、脳が夢を見ているとたしかに知りながら、それでもそのなかでは自身が感覚器官をきちんと備えていて、あらゆるものを実像ととらえてしまわずにいられないように。 宝石をばら撒いた夜天のプラネタ、青い絨緞、金のなめらかなタッセルでかざられた緞帳の、滑りをもつびろうどの光沢、そのどれもが舞台の真上から降るシャンデリアの光だけでひっそりと照らされている。 天井から吊るされた天体のオブジェはこどもが描くようなかんたんな、記号化された星のかたちだ。緞帳は円形の劇場のどこからも「舞台の奥にかかった緞帳のように」見える透過映像のひとつにすぎないし(そもそも円形劇場に緞帳は無意味でただの舞台らしさの演出だ)、なにより虚構じみているのは、〈観客たち〉の姿だった。 それらは〈観客たち〉とまとめて呼ぶほかにない。彼ら(そう呼べるのなら)には体格にも性別にも寸分の差もなかった。顔はもちろん皮膚さえあつらえられてはいない。黒い影法師が、そのまま着席したり、立ち上がったり、移動したりする。ぼやけたピクトグラム。簡略化された「ひとびと」という、集合体のアイコン。人間の下位互換ともいえる彼らはことばをもたないくせざわめきを纏って蠢き、明確な指の形さえもたないくせ舞台の上へ拍手を送る。具体性を一つも持たないすがたが、なによりこの場所のすべてが虚構であることをつねに暴いていた。 一流の絵画へ髭やなんからくがきを施したような、そういう光景だ。荘厳な美はやすっぽい模型で崩されて��のにおいを喪い、夢に化けることができる。だけどそれはきっと悪夢に近い。この場所だってにせものの映像でえがかれた箱庭のその中へ用意されたやっぱりにせものの、入れ子式の虚構にすぎない。 幻覚であることを知らせ続けながら、途方もない現実感をつくりあげている。 だれがこんなサーヴィスを考え出して、いったいだれに与えるつもりだったのだろう? というより、ここまでしておきながら同時に誰を招くことも想定されていないというのは、 どういうわけだろう。 この箱庭を、いままで誰も発見できなかったのは。 「どうして」 思考と、別の声とがオーバーラップする。舞台の上からそれは降ってきた。 「僕の場所がわかったの」 言ってもいないのに、と帝が口をひらく。どこへ行っていたの、ではなくて、そんなことを聞いて意味のないことをちゃんとわかっている敏さがむしばんだひとみで見おろす。表情とことばとに関連性がない。シークエンスを毀された機械みたいに。こんどは棘のある声調に笑みがはりついている。 「この場所のある日はいつもここにいるからね」 「それで、わざわざ来たわけ」 「そう。わざわざね」 わざわざ、というところに、この子どもの願いやほとんど祈りと呼べるものがぜんぶ込められていることを知っている。ちょっとためしてみたつもりなのだろう。この文脈を読めるかと。足りない言葉のなかにたくさんのコードが仕込まれている。うわすべりの会話はプログラムの文字列に過ぎず、ほんとうのことばはそのテクストを読み解いてはじめて展開される。 この子はいますこし幸福だということ。 それを確かめたがっているということ。 繰り返して肯定してみせることはそれをたしかに読み取ったという意味の、それも暗号だ。 寓意。寓意。寓意。 だから会話自体はいつだってからっぽだ。 「ふうん。わかんないな。こんなところへきみは用なんかあるの」 その子どもがほんとうは何を言ってほしいかだって、わかる。何を言ってほしくないのかも。 それはおなじだ。おなじ言葉を望んで、おなじ言葉をきらう。綱渡りをしたがっているわけではなくてただ安定していないだけだ。いつも戦ぐように揺らめいている。揺らめくことで均衡を保っていられる。 「勘違いをしているようだけど、べつにそう帰る場所なんかないよ」 「ねえ、いまの、答えになってないよ」 「これは最初の質問のこたえ」 「……ふうん」 帝は、もうじぶんが最初に何を言ったか覚えていないらしかった。思い出そうとするそぶりも見せないで、ただ退屈そうにそっぽを向くだけだ。まるで過去の――何秒かまえの自分でさえ、憶えていなければ自分でなんかない、というように。パッチワークの〈現象〉、というのはそういうこと。テグスに通されたひとつづきのビーズ、その累積を記憶と呼ぶなら、この子どもの意識には垂直につらぬく、順序立てる、そのための〈糸〉が正常に動作していない。たとえそのビーズにただしい順番を示す数字が刻まれていたのだとしても、それを読み取る機能がこわれている。内的心象はランダムにいれかわり、組みかわり、立方体のおもちゃのようにつねに別の意匠を見せる。 「不思議だな。俺のことはいつも憶えてくれている」 「<勘違いをしているようだけど>」 さっきのをまねて、演じてみせたらしい。台詞めいた声色を耳にして、ざわめいていた〈観客たち〉がめいめい着席しはじめていた。さいごの〈観客たち〉が(さいごの、と言いながら複数形で語ることにそれでも違和はない)席に着いたとき、カン、と音がして、舞台上の子どもに燈が当てられた。 “第一幕”。 そう声に出してみたくなる。 「きっと、わすれるんじゃない。順番がかわったり、ときどき一部を、ときどきほとんどを、〈引き出せなくなる〉だけだとおもう。そのどこかにいつも、きみは居座ってるってこと、それだけ。だからきみをおぼえてるんじゃない。きみのいる記憶のどれかで、きみを判別できるだけ」 舞台のうえでだけ、声が反響していた。 「光栄だな」 「ううん、僕にとってはちっとも」 そこで、ようやく表情と言葉とが噛みあう。 ほんとうに子供らしい、不貞腐れた顔。死体のような青じろい膚と濡れた赤い唇を除いては。 「それじゃ、」 舞台の下から俺は続ける。「君のなかにはすべて記録されていて、保存されているってことだね。今の〈君〉がそれを読み取れなくても」それは、読めないスクリプトと同義だ。解読できない古文書。そこにはうしなわれた意味がたしかに存在していて、ほどいて組み上げることではじめて全体像が示される。 「さあ。しらないよ。だっていまの僕はすこしのことしか思い出せない」 たとえば、映画のデータ。一部が正常に再生されてもそこだけでは全篇を想像しえない。毀れているのは映写機(ドライバ)のほうだから、毎回不調をきたすシーンがちがう。それがこの子の内面で起こっていることだ。それらを俯瞰してつなぎあわせるものは、この子の中には存在しない。ただ延々と異なる場面を再生し続ける一瞬一瞬の光の明滅。 「いつからいまの君だった?」 「……話をしてた。きみと、ここで。いまと連続してる記憶の最初は」 反響しているのは帝の声だけだった。まるでひとり舞台のように。 「『世界に、どれくらいあるの?君がそういって帰る場所はさ』」 「なに、それ」 「そう言ったんだよ、君が。さっき」 「『世界に、どれくらい……』」 繰り返そうとして、帝は数度瞬きをした。聞き覚えがある、という顔だった。ただしくは「言い覚え」だろうか。 「まって。おぼえているかも、しれない」そう呟いてから、こんどは否定する。「ちがう。でも、ちがう。それはずっと前のこと」 「思い出せた?」 「うん、でもそれはさっきじゃない。ずっとむかしだ。そうだろう」 「残念ながら」 肩を竦めると、子どもは舞台の上から視線でできたナイフを寄越した。このはなしはもういいだろ、とぶっきらぼうに言って(それさえそこにいるだけで架空の「誰か」に向けた演技のように見える)、続ける。 「それで、きみはへいきなの」 「何が?」 「帰る場所がないって言っただろ」 「ああ、うん――」 “博愛の目ように、あなたは誰をもみつめない”。 誰のことばだったか、おぼえていない。 だけどそれこそが的確な表現だといつも思っているし、顔も思い出せない誰かさんを尊敬してもいる。 すこし逡巡して、はじきだしたのは同じ答えだった。 「――そうだね」。
“それは、誰もあなたに傷をつけられないのとおなじ��はないの?”。 それも誰かさんの言葉だ。 あの言葉にそんな続きがあったことを、今になって思い出していた。 きっと生まれるとき痛覚を忘れてきたのだ、と思う。フィジカルでない、精神的な、内的な、傷を感じる器官をそっくり。硝子板一枚隔てたむこうで世界の全てが執り行われているようだった。だからといって、だからこそ、それがなんの痛手(・・・)でもない。 だれにも傷つけられない世界は甘ったるく、砂糖菓子のようだ。 傷のほうが鮮烈だろう。生きていくうえで、いくら不快と苦悩を伴ってもそれは必要だから用意されているのだろう、とときどき思う。 ”人間と哲学的死体の違いは”。 ”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は”。 それはいま世界じゅうで展開されている、いくら語られてもけして語り尽くされない主題(テーゼ)だった。かつてフィクションの中でさんざん審議され、手垢がついた「ベタな」テーマをそれでも繰り返しているのはなんのことはない、それがいまやフィクションではなくなってしまったからだ。
* 〈マーダーの泪〉。 5年前、世界を震撼させた(これはタブロイドの常套句だ)テロ事件はそう呼ばれている。 solの〈管理者〉リストに名を連ねる10名の天体管理職員―Solの植民先の天体の管理者、つまり派遣独裁者だが―が、同日同時刻にまったく同じ手法で殺害された。犯行はすべて別の個体のCHild(少女型、あるいは少年型のメルツェル・ドール)によるもので、殺害後にメモリは消去されていた。それはすなわちドールたちが何者かの指示で動いていたことを示していた。ただしその消去は(故意とわかるほど)完璧ではなく、一時的な履歴の削除にすぎなかった。記憶はストレージに保存されたままだったのだ。まるで、わたしを見つけてくれ、と言っているかのように。 記憶がサルベージされたのち、「彼ら」の証言は一人の人間の男に行き着いた。 「パパ」。 と、CHildたちはそういった。 「パパ」は、所有者に放棄されたChildを施設の中で「教育」していた。ひとの身体上の 弱点だとか、殺めかたを。もちろんメルツェル・ドールの思考スクリプトには〈人間の安全に係る制限〉が織り込まれてあるし、その部分で高い信頼を得たからこそ普及していたのだが、「パパ」はドールの〈制限〉テキストを書き換えていたらしかった。 CHildたちは〈処分〉された。 Solによって、人々の安全のために。 「パパ」「助けて」「パパ」「痛い」「パパ」「どうしてこのひとたちはおこってるの」「パパ」「どうして、ぼくたちは、しんじゃうの」。 人々の安心のため、〈処分〉の映像はあらゆるニュース・ガジェットを駆け回った。 それまで、メルツェル・ドールの感情は疑似感情とされ、信号として扱われていた。システム上の反応。「本物」ではない。向けられる言葉も笑顔も、組み込まれたものと知ったうえでその緻密さと高度な技術を楽し���「嗜好品」。何千と用意されたパーツから容姿は自在にカスタマイズでき、届いたドールの頭部ポートに、性格(キャラクタ)設定を施した専用のカードを挿し込んで起動する。性格はいつでも書き換えられ、カードから編集用の画面を呼び出してスライダで調節可能だ。グラフィックツールのカラーサークルのように(より複雑な設定と安定した動作を両立したければ、メモリを増設する必要があるが)。誰もが「神のように」「好きなように」造り出せる、観賞用の動く着せ替え人形。 映像クリップは世界じゅうに衝撃を与えた。これほどにエモーショナルなドールの姿を、人々は見たことがなかった。当たり前だ。メルツェル・ドールは「意図的に破壊されないかぎり」停止することはない。カスタマイズされたうつくしい容姿を保つため、危険回避システムを備えたボディを自損することもまずない。ふつうに生活していたなら、人々にとって彼らはにこやかに頬笑む目の保養のためのお人形であり、わざわざ破壊する必要もないのだ。 ふつうに生活していたのなら。 事件後、いくつものメルツェル・ドールの虐待と悪用の事例に光が当���られるようになると、〈尊厳派〉と名乗る団体がいくつもたちあがった。ドールにも「人権」を、と掲げられたメッセージを過度な主張とする声の方が多かったが、一笑に付すこともできず端的に言えば人々は困惑していた。ほんとうにドールが感情を持つのか。まるで人間のようにリアルにふるまうよう設定されただけで、表情も仕草もプログラムの中で交感される信号のアウトプットではないのか。 いや、それは自分も同じなのではないか? 「わたし」は、「わたし」が観測することによってはじめて「わたし」が感じ取る、「わたし」の中でだけ交感される――それは現象でさえなく、「わたし」のなかだけで完結してしまうただの幻覚ではないのか? 殺害された天体管理職員がみなドールを使い捨ての兵士として使用していたという情報が加わると、メルツェル・ドールの〈尊厳〉に関する議論は一気に加熱した。 そんな中、「パパ」の処刑は行われた。 彼は息絶えるまで、ずっと話し続けた。 最初は、あまりに冷静な語り口で。じわじわとあふれて、くずれていくように。 「私はドールのプロトタイプ開発に関わっていたんです。主に感情の部分をです。勿論自分が作ったシステムですから、それを感情だとは思っていませんでしたよ。主に穏やかな感情以外をあらわす機会もなかったですから、折角作った悲しみだとか痛覚だとか、これは自損事故防止のためですけど、がまるで使われないっていうのも勿体ないなと思っていたんですけどね。 あれを見るまでは。 兵士として使われているらしい、という情報は得ていました。使っている、本人たちからね。それで現地へ呼ばれて、行ってみたんです。よせばよかった。 血は出ません。機械ですからね。なめらかな人工皮膚と肉とに穴が開いたら、あとは金属質の音が響くだけですよ。かんかんかんかんって。銃じゃ毀せないってわかってるから、相手ももっと固い棒とか、そういうのでへしゃげるまで殴るんだけれど、やわらかい人工の皮膚と肉の層がくずれたあとは、やっぱり金属の骨しか残っていないから、硬い音しかしない。 でもね、痛がるんですね。思いっきり顔をゆがめて、手を伸ばして何かをつかもうとしたり、他の人間の兵士を庇おうとしたりするんですよね。自損防止と人間の保護の間で葛藤している様も見られました。金属の音と、生身の表情。滑稽でした。ぞっとするほど、滑稽でした。 とんでもないものをつくってしまった、と思った。 純粋に、いちばん最初に、そう思った。 職員は笑っていました。これからは、人命を尊重した戦争ができるって。正直ぼくはドールが苦しんでいるからとかそういうことではなくて、こいつらあほだなって思ったんです。だってこんなものがいたら、ぼくたちはいつもいつもいつもいつも考えなくちゃいけなくなるんですよ。自分とは何か。ぼくはいつもいつもいつも考えなくちゃならなくなった。でも世の中を見てみると、案外そうでもなかった。みんなドールをお人形だと思ってる。自分をひとだと思ってる。自分とドールの間に明確な線引きがあるって信じてる。 ぼくはこたえが欲しかったんです。ドールを使って事件を起こすことでそのことが話題になってもっと議論が広まればいいなと思った。こたえなんて手に入らないってわかってたけどみんなで悩めば恐怖もちょっとはましになるかなっておもったんです。 チープだと笑ってください。そしてこたえをください。こたえはどこかにないといけないでしょう。 だってこれは、物語の中でもうじゅうぶん語られているテーマなんですから」 ”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は?”。 ”人間と哲学的死体の違いは?”。 「おしえてください。ぼくがしんだら、「ぼく」のきおくとかってどこへいくんですか。 ぼくがみているせかいはどうなりますか。 なんか、ぼくがしんでも、せかいがあるって、ふしぎですよね」 へらり、と笑って、頬をひとすじの泪がつたい、彼の頭は吹き飛んだ。 *
”人間と哲学的死体の違いは”。 ”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は”。 だけれど、俺にとってそれはとりわけ関心のある議題でもなかった。自分の中に在る(のかもしれない)機微というものを、だけど認識できるのも主張できるのも本人以外にはなく、それはどうしたって外的には観測しえないからだ。我思うゆえに我在り、と<名無しの格言>ライブラリにつづられているように。「パパ」も自分で言っていたのに、と思うだけだった。とっくに答えなんか出ているのだから。 けれどどちらかと言われれば、じぶんは後者に属しているのではないかとふと思うことがあった。 そう、哲学的死体。 感情のようなものを持っている、ひとのかたちをした、ひとの間を漂流する信号の現象。 そうであったとして、そのイメージすら何も傷にはならない。 ひとかけらの感傷もない。 だからこそ、からだが憶えていた。 たしかにこの裡に灯ったことのあるひとときの熱情を。 たとえば花を――あれをばらを模した花と知ったのは咲いてしまってからだが、<中庭>でそれを育てていたときだ。 その灌木に気付いたのは、<中庭>へ星の肋の種を採りに行ったのがきっかけだった。肋骨の一本のように湿原から突き出した水晶質の植物は、朝(のプラネタ)になれば光を漏らしながら割れては破片となって散らばり、あとにのこされる金平糖に良く似た種を帝はよく口にしていて、機嫌の回復に覿面だった。カンテラへ入れておけば暗い夜に読書をするのに最適な燈種になった。ほとんどここでいるときには日課のように<中庭>へ採りに行っていたのだけれど、湿原の中に、その灌木群はあったのだ。なんのことはないふつうの木。奇数羽状複葉をもち、ふかい緑を茂らせていて、いつも蕾をつけている―― そう、いつも蕾をつけている。 花の咲いたところを、見たことがなかった。 何年も。 <永遠に分化しない蕾>。 ほとんどそれからは執着といってよかった。開くことのない蕾を眺めつくし、ありとあらゆる想像をはたらかせもした。どんな花をつけるのだろうとずっと思い描きながら、その正体を突き止めたいわけではけしてなかった。いつか咲かせてみせようと思いながら、分化の可能性をたっぷりとはらんでそれらすべてを破壊している均衡、蕾のままのすがたをただひたすらに美しいと思った。 そのとき、世界がどんなにあざやかだったか。色彩を変え、かがやきを変え、目まぐるしく映っていたか。 けれど、 ある朝、それはあっけなくひらいていた。 八重咲きの、ずっしりとした真紅の花だった。花弁の一枚一枚、そのうえに細やかな粉砂糖をふりかけたような――じっさい、それは口に含むとねっとりと溶けて唾液とまじりあい、しばらく甘く揺蕩った。かたちだけは完全に<外>にあるばらと何もかわりはない。そうか、と声が漏れた。そうか、こういう花が咲くんだ、とつぶやいていた気がするが、そのときにはもう手に持っていた剪定鋏が、赤い赤い(アイシングがかかってほとんど白にちかいはずだけれど、今思い出すのはそんなイメージだ)、花を萼から切りおとしていた。じょきん。じょきん。刃の音だけ耳に残っている。そのときの感情をよく覚えてはいない。乾燥した、かさかさの、無味無色の。手に入れたものから色褪せて飽いてしまった。子どものようなやまい。泣きわめいて欲しがった玩具を放り出すみたいに、 結局手許にはなにものこらなかった。淡々と行われる儀式のように鋏はわずかな躊躇もなくなめらかに処刑をつづけ、足許に赤い(いや、白い)花の海が生まれていた。 いくつか、まったくおなじ形の花がある、 かさ、とそのとき、葉の擦れあう音が聞こえた。 視線を移すと、そこにその子どもはいた。ひどく怯えた目をしている、と思った。 わかってしまったのだ。この子は。その意味に。 ひとにだって例外でない法則。 こどものようなやまい。 どういうふうに、君を見ているか。 君は敏さも記憶みたいに、棄てていられたらよかったのに。 「急に美しくおもわなくなっちゃった」 たぶん傷を感じられたなら、きっとそのとき少女にそう笑いかけたりできなかったんだろう。 共鳴するから。痛みをわかってしまうから。 いま、擦り切れてぼろぼろになった君の敏さだけがふたりの位相を変えずにとどめている。 緩慢な、砂のような意識。ひとらしい傷を持つことができない。だからこんなかわいた更地のような心でも図太く生きていけていけた。 “博愛の目ように、あなたは誰をもみつめない”。 “それは、誰もあなたに傷をつけられないのとおなじではないの?”。 そうだった。 それは、自分に向けられた言葉でさえなかった。 それは、 母が―― 憐れな母が、それでも傍にいることを願った父へと告げたことばだったのだ。 俺に、言ったのですらない、言葉だった。 ああ、こんなにも、何も傷にはなれはしない。 あざやかなものは、手に入ればすりぬけていく。
記憶をたどりながら、この足は一歩一歩と階段を昇っていた。 やがて革靴がこつん、と最後の音を立てて舞台の硬い床を踏む。白い子どもと真正面から対峙する。ひろい劇場にただひとつ落ちてくるシャンデリアの光はあまりにも高く遠く、照らすというより闇とまざりあっている。紅茶にそそいだたミルクみたいになめらかに。 そうして暗がりの中にあってわずか発光するようにさえ見える、抜けるような少女の総白をもういちど知る。知悉していると思っていたものにたいして何もわかっていなかったということを突き付けられたときの、純粋な新鮮さをともなって。きっと何度でもそうだろう。赤い唇と氷漬けの膚のその鮮烈な対比に、いつまでだって慣れてしまうことはないだろう。 「においがする」 と、近づきながら少女が言った。 「におい?」 「花みたいなにおい」 「ああ、そうかも」 香水というやつだよ、と笑ってみせる。 「そう。これ、君のじゃないね」 「じゃあ、誰の?」 「僕が知るもんか」 ふい、とそっぽを向こうとする帝を、そういえば、と引き留める。 「花を、育てていたことがあったろう。 憶えてるかな」 少女のからだがこわばった。一瞬。たった一瞬。 それだけで、すべて記録されている、と確信した。 この子の中には、すべて。 思い出せなくても。 この子にはちゃんと傷がつく。 だけどこの子のなかの「僕」はきっと短命でほんとうに何も知らないから、傷と認識できないまま、ぼろぼろになっていく。 「そうなの、きみが?」 「そう。そのときに」 瞳を見る。やっぱり何も思い出せてはいないだろう。なぜその瞳の奥に恐怖が浮んでいるのかを、この子が(いまの(・・・)この子が)知ることはないのだろう。 ドールよりも不安定で自我も保てないけれど、傷跡はつく。ちゃんと。 「まったく同じ花がいくつかあったから。あとで見てみたら、他の植物もそうだった。ここのは、そういうふうに育つ?」 「ねえ、君さ」 とつぜん、声色が変わった。 ような気がした。 「一個一個の植物に遺伝子があって、それを演算してたら、いくつ〈双子塔〉があってもたりないよ」 いつも舌足らずな言葉がさらさらと紡がれ、こどもはやわらかに微笑していた。瞳の中にあったおびえは取り払われ、かわりに全知の観測者のような乾いた、どこまでも乾いた笑みが造営されて、いる、と思うと、帝はくるりと踵を返してしまった。 「それはどういうこと」 「?どういうって、なにが」 「今……」 ふたたび振り返った少女はあどけない、外見と較べて幼すぎるこどもの表情をしている。おぼつかない、ぐらぐらと揺れる輪郭。ここではないどこかへ逃げて行ってしまう瞳。 いまのはなんだったのだろう。 この子のなかに「すべてを憶えている」領域がたしかにあるのだとすれば、そのぜんぶを引き出せたとき、ああいうことも起こるのかもしれない。 人格めいた、一本の軸の通ったひとらしい自我。 それが、「ほんとうの帝」ということになるだろうか? それなら。 それなら、 すべての傷を背負って、もっと痛々しく、もっと感情的で、もっとぎりぎりでいてくれなくてはいけない。もっと爆発的に怒りや悲しみやそういうものを、なにもかもを、ぶつけてくれないといけない。 そう、 くずれおちるずたずたのすがたで、この胸をふかく、抉ってくれなければ。 「帝」 「うん」 名前を呼んだだけで、何を読み解いただろう。 だけど少女はたしかにそれを受け取っていた。 近付いて、頬に触れる。抵抗もしなければ許容もしない。お人形のような在り方、それだって意味を組み込まれたテクスト。保っているための。いまを飴のように引き延ばすための。しろく冷たく見える膚は触れてみるとやわく、石鹸のかおりが鼻腔へ広がった。 「旬欄、ほんとに花みたいなにおい」 「ばらの香水だって言ってたな」 「ふうん。 ……ねえ」 「なに?」
「誰だって、べつにいいんだ。顔もなまえもしらなくて」 そのほうが、〈想像〉しないですむだろ。
この子は自らを明け渡さない。いくら螺子がとんでいようが無知だろうが、それでも愚直に甘える��どもになりきれない。 誰にだって好意をもって望まれたなら与えたし満足できそうなものを差し出した。じゃれつく猫の喉を撫でるようにかんたんに。だけれど好意で返せばそれは嘘になるから、もらったものを返すだけだ。結果の、あなたはやさしい、だ。それはやさしいとはきっといわない。滑っているだけだ。現実の表面を。主役のいない舞台。俯瞰でしか語られない物語。 だからこの子の方がずっとまともに生きている。ほんとうは環境さえ整えばきちんと泣くことができるし笑うことだってできたはずだった。
傷を、感じてみたい。
ずっと、傷を知りたがっていた。 嘘をついて騙してそれでもうたがいながら結局はそっくり信じ込んで、虚構によって組み立てられてしまったこの子の清らかさだ。いつか裏切ってそれを責め立てられたなら、それで俺はきちんと傷を知れるだろうか。ずっとその痛みに焦がれている。硝子のように透明に、こわれたときその破片がよく刺さるように、そうしてこの子どもをかたちづくってゆく。 この子がいつか泣き縋ったら、けれどそのときなにもかもどうでもよくなって、色あせて、やっぱり放り出すだろうか。ふたつの予感。平衡を保ったまま動けないのは、この子だけじゃない。 舞台の外側で俺たちを観ている〈観客たち〉だって、ことばを持たないだけでほんとうは彼らの中にもちゃんとした感情があるのかもしれない。だけど、それはだれにもわからないことだ。 もしかしたらこんなふうにこどもへ傷をつけることで自分に傷がつけたがっているほとんど自傷行為を、ばかげたことだと笑っているのかもしれない。 けれど、 それでも。 あざやかで鮮烈な一点の痛みを、ずっとこの子どもの眸からいつか流れる泪によって刻まれる傷を、待ち続けている。 奇跡を祈るように。
そう、それはたぶん、祈りに似ている。
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メメントモリ・インザセメタリ(よみきり)
僕たちはみな死者だ。 これはたしかに喩えにすぎず、だからといってただのなまやさしいイメージなんかじゃない。ある意味では、きっと事実でさえある。 こう言い換えよう。 僕たちはみな、死を経験したことがある。
*
死は人間の未知への恐怖と憧憬とがうつくしくからまりあい、からだをもったいきものだ――そう語ったのは高名な医学博士などではなく、一人のシステム・エンジニアだった。当初、彼が発表した問題のそれは、数ある〈感覚外部装置(メタセンス・アプリケーション)〉の中でも人間の尊厳を踏みにじるものとして猛烈な批難を浴びた。それまでの〈感覚外部装置〉は専ら精神的な快適さを追求して設計されていたし、そうでなければそんな装置などそもそも無用の長物だった。たとえば痛覚を断絶して傷を癒(ケア)するアプリ、味蕾にいつでも好みの味を感じさせるものもそうだし、映画やアニメーション作品にはキャラクタの感情コードを読み取り共有するアプリが不可欠で、しかし悲哀や苦痛といった感情コードには、ユーザの精神そのものにはあとをのこさないよう緻密なケアプログラムが同時起動するように組み込まれていた。快楽のボリュウムをあげるものもそうだ――これは危険度数が高いために使用頻度が規定されているが。これらの技術や娯楽が人を安定と心地良さへ導くことを前提に発展してきたのだとすれば、彼の「作品」――〈ウェアラブルな死〉、というテーマはそういう意味であらゆるアプリケーションやそれに関わる技術の歴史をもまた裏切った。「戦争のように。」それはそう揶揄され、人々は開発者が嗜虐体質かあるいは被虐体質であることを事実として疑わなかった。 だが、と僕は目前で僕にふるまうために紅茶を淹れてくれている青年の清廉な顔を見て、思考する。いまとなっては彼の「作品」を体験した者が圧倒的多数である、という状況は、まぎれもなく彼自身の人格とこのおだやかさが引き寄せたものなのだろう。彼の発想、死を体験する装置、というたんにそれだけならばたしかに悪趣味で切り捨てられても仕方がなかったのかもしれない。しかし彼がたった一度ニュース・ガジェットへ向けて演説をしたあの日を境に、彼の評価は裏返ったのだ。彼は人々に苦痛を要求したのではない――みずから経験することで、死の感覚を理解し、より生に安寧をもたらすこと、ただそれだけがこのひとの動機であったのだと、人間だけでなく感情解析モジュールでさえそういう結果を叩き出したのだった。 「君に逢うのは久しぶりだな。高校卒業まではずいぶんと世話になったのに。挨拶もできなくてほんとうに悪かったね」 彼、こと瀬川禊は注ぎたての紅茶を差し出した。マルコ・ポーロ。バニラビーンズの甘いにおいが鼻腔をくすぐる。 「そんなこと気にする仲じゃないだろう」 「でも、長いあいだすまなかった。やっと会えた」 眉をいっぱいに下げきった、“申し訳ない“というセリフの体現のような彼の顔を見て、あまりに律儀すぎる、と僕は噴き出した。彼はいつだって腰が低いところがあったけれどこんなにもおおげさだっただろうか。可笑しくなった。高校時代そのものが僕の中へすっかり戻ってきたようだ。もし「懐かしさ」を増長させるアプリをいま持っていたら、僕はほんとうに高校生になって戻ってこれないのではないかという気さえした。 高校時代。 僕はふとそこへ立ち返る。 僕と禊と―― そして蜜花(みっか)。 夏の気配のする少女。 「蜜花がいれば完璧なんだけど。でも、そうか、蜜花はもういないんだ」 それはどんなケアアプリも必要としない、憶えていたい傷の記憶だった。 それじたいが病巣のような真っ白いベッドで、衰弱してゆく蜜花は気丈で気高かった。寝台の上で眠っている時間のほうがずっと長かったのに、僕の中の蜜花の立像はまだ病を患うまえの、麦わら帽子、夏の焼けるような陽射し、勝ち気なことばたち、アーモンドに似た茶色い大きな瞳、無防備な白いワンピース、そんなイメージをまとっている。それは彼女の幼いころの姿であるにもかかわらず、その手足がすらりと伸びただけの蜜花――存在しえない蜜花の姿が鮮明によみがえるのだ。たぶん、彼女という存在の輪郭をかたちにしたのがそれなのだろう。もちろん、実際の容姿と重なるとはかぎらない。 「そうだね。蜜花はもういない。でも彼女は生きていると僕は思うんだ。死として、死を経験させるモジュールのひとつとして」 禊の言葉は穏やかだった。蜜花は禊の妹だ。禊にとっての蜜花とはどういうイメージだったんだろう、と僕はふと思う。蜜花はいま、どんな立像で彼の中にあらわれるのだろう? 「僕の作品――<ウェアラブルな死>に臨床データが必要だったことは、知っての通りだろう」 「知ってるよ。最初はものすごい批判の嵐だったと記憶してるんだけど。そうか、蜜花のデータも使ったんだな」 批判の嵐だった、という部分にたいして禊はくすりと笑って肩をすくめた。あのときは随分手こずったな、とつぶやく。死を体験する――それはけしておだやかなものだけとは限らない。うっかりしていると誰だってグロテスクな光景を想像しそうになるだろう。もちろんそれは早とちりだ。〈ウェアラブルな死〉とは死の瞬間を映像と感覚で再生するのではなく、死にゆく脳の動きだけを人々の脳へ同期させて経験させる装置だ。インフルエンザのワクチンのようなもので、死を予行演習して恐怖の抗体をつくりだす。だから、ユーザは眠っているだけでいいし、それは麻酔を打ったら手術が終わっていた、という感覚に近い。 「……というより、これは彼女の発想だからね。<ウェアラブルな死>にはほんとうは<勿忘草(私を記録して)>という名前があるのを、君だって知ってるだろう。そう呼んでくれる人は少ないけどね。彼女の言葉を思い出せるよ。”あたし自身を組み立てて再現することはいまはむずかしいんでしょう。だったら、あたしの死を記録して。あたしの脳みそが最後にどんなふうに動くか記録して。再生して。拡散して。あたしはきれいに織られた死のデータとなって、ずっとだれかとだれかの間をわたってゆくことができる”……。あれから、もう何年がたったろうね」 彼の言葉を聞きながら、僕は途中から目の前に蜜花がいるような錯覚に陥った。唇の動きも禊自身のものだが、ハロウとなって彼女の姿と声とが合成されていた。 「そういったの、蜜花が」 「そう。蜜花と、そして彼女に賛同した、幾百人もの死を待つ人々が」 僕はため息を吐いていた。 正直に言おう。旧い友人である彼が何を思って――もちろん未知のものを理解するというのは恐怖をやわらげるのかもしれないが――そのようなアプリを開発したのか、その根幹の部分をつかみきれず、じつはまだ僕自身が<ウェアラブルな死>を試してはいなかった。 その台詞こそがコンセプトだった、といまになって僕は知ったのだ。 「……それは初耳だ」 「そうだったっけ」 彼が心底驚いたような顔をしてみせたので僕は不思議に思った。もしかしたら、彼の記憶の中ではなにかの手違いで、僕もそこにいたことになっているのだろうか?なにしろあの頃は三人でひとつのようなものだったから、それは仕方ないのかもしれない。だけど、なるほど、それは彼女が言いそうなセリフではある。その声、空想の蜜花のことばは僕へと吸着して、まるで記憶のようにしっかりと根付いた。 気丈で、気高い、蜜花。 〈私を記録して〉。 「そうだったっけ……ああ、君にはそうだった。遅くなってしまったね。ほんとうにすまない」 彼はまた謝罪する。彼はきょう謝ってばっかりだ。その表情があまりにも苦渋に満ちていたために、謝罪の意味をよく理解できないまま、僕はそれを赦すかたちをとるしかなかった。 「いいよ。会う機会だってなかったし。僕もなんだかんだで忙しかったからさ」 開発秘話をきかせてくれよ、と彼にせがんだ。ようやく彼のまとう空気がほころんで安堵する。 「いくらでも。だけど鴇、もう<ウェアラブルな死>は意味をもたないんだ」 「意味を持たない?」 どういうことだ、と僕がその意味を測りかねていると、入っておいで、と扉の向うへ声をかけた。
息を呑んだ。
あらわれたのはまごうことなき、彼の妹そのものだったから。 「蜜花?」 後頭部をがん、と打たれたような衝撃を感じた。たしかにそれは蜜花そのものだった。ぱっちりと開いた大きなアーモンドのような瞳。堂々とした立ち姿に仕草。麦わら帽子。白いワンピース。どこをとっても「蜜花」だった。存在しえない、健康なままに成長したイメージの「蜜花」。 「ひさしぶり、鴇ちゃん」 脳の思考処理がおいついていない。だけれど、彼女の唇がたしかにうごいた。彼女は蜜花の声も持っている! 「これは……、人形、なのか?蜜花に似せた……だって蜜花は死んでいる……ずっとむかしに」 「あたりまえでしょう。それ以外のなんでもないよ。状況インプットの仕方、それに対する反応の仕方、そういうものをデータ化して、そっくりうつしとった完全にあたしに近い何か、ね。もちろんそれ以上にはなれないわ。でも気にすることない。ほんもののあたしは死んでるんだから」 蜜花があまりにも蜜花らしく、たじろぐ僕へ向けてにやっと笑った。蜜花らしい饒舌。いたずらを仕掛けるとき、僕の項へカエルや蟻なんかをひそませて成功したときの、まさにあのままの表情だった。僕はなにより彼女が、あっけらかんと自分は死んでいると言ってみせたことがほんとうにうれしくてたまらなかった。彼女は苦しんで死んだのじゃないかと思っていたから。本当は強がっていたのではないかと思っていたから。 「オリジナルが死んでるから、あたしは二代目オリジナルってわけ」 にかっ、と花が咲いたような笑顔。向日葵の前で写真を撮ったこともあったっけ。 「蜜花、あんまり畳み掛けるようにしちゃいけない。鴇が混乱してしまうだろ」 禊があわてたように蜜花をたしなめ、すまないという表情を作ってみせる。懐かしい光景だった。あまりにも。それは幼いころ、まだ三人でいられたころ、蜜花のお転婆ぶりに辟易させられていた兄としての禊の姿だった。 「……あいかわらず蜜花はおしゃべりだ」 そう揶揄するとき、僕は彼女を蜜花だと認めていた。彼女の存在は不思議なほどすうっと馴染んで、浸透した。実は死んでいませんでした、といってひょっこり現れたような感覚に近い。蜜花は僕と目を合わせて、再びにやっと細める。 「鴇ちゃんも鴇ちゃんだね」 「そりゃそうさ。僕だって本物だよ」 そっかそっか、と蜜花はからからと笑う。蜜花のこんな底なしの笑顔を見たのは何年振りだろう。病室では、彼女はやはりどこか無理をしていたところがあったのかもしれない。でも今となってはそんなものは杞憂だ。目の前に、こうして蜜花がいるのだから。蜜花の記憶を持ち、自分を蜜花だという彼女そのものがいるのだから。 「よかった、鴇ちゃんが来てくれて。また一緒にいられるんだ。あたしさ、鴇ちゃんのこと結構好きだったんだよ。兄貴の次に」 「兄貴の次に、ね」 「そりゃそーさ。肉親が一番」 「それにしてもさ、すごいね。機巧人形といえばメルツェル社はたしかに人形に自我そのものを作れるっていうのは知っているんだけど、あそこは死者のコピーなんてサーヴィスを始めていたっけ?それとも禊の新作か。そうすると現実にゾンビがうじゃうじゃあらわれちゃうけど」 きょとん、とした顔で蜜花が僕を見て答えた。 「そりゃあもちろん、躯体をもった死者のコピーなんてまだ現実には早いよ」 「でも現にここにいるじゃないか。蜜花が」 もしかして今日ここへ呼ばれたのは、この新作を僕へいちばんに見せようという禊の粋なはからいだったのかもしれない。 「だから、現実には無理なんだってば」 「たしかに演算空間でなら現実的な肉体との連動がないぶん、可能かもしれないけどさ。そうだな、人形(アバター)を操作するユーザの癖を人形(アバター)自身に学習させて、電子的なクローンを作るとか………」 僕は言いかけて、じぶんの血がすっと引いていくのを感じた。 現実には無理、といった? 演算空間。 アバター。 電子的な、クローン。 自分のことばに、僕は今ナイフを突き立てられたのではないかと思った。 そんなはずはない。 そんなはずはないのだ。 ここは瀬川禊の研究室で、僕は菅野鴇であり、彼女は瀬川蜜花だ。 瀬川蜜花? 瀬川蜜花は、死んだのではなかったのか? 僕は硬直したまま禊と蜜花の顔を見比べた。 「もしかして、鴇ちゃん、まだ”生まれたばかりなの”?」 蜜花の眸が、痛ましそうに僕を見つめていた。 「だから言ったろう。おしゃべりはあとだって」 禊が蜜花をたしなめて、申し訳なさそうな表情を作る。 ああ、それはかぎりなく、肯定なのだ。 「兄貴から聞いてると思ってた――もう記憶を思い出して、定着してるんだと……」 “あれから、もう何年がたったろうね“。 それはさっき禊が言った言葉だった。 そうだ、どうして僕は不思議に思わなかったのだろう。<ウェアラブルな死>が発表されたのは、蜜花の死から60年も先のことだったはずだ。 なのに、禊は最初から青年のすがたでここにあらわれた。 そして僕は青年の姿でここにいる。 〈私を記録して〉。 ここは、どこだ?
僕は、誰だ?
「鴇ちゃん」
蜜花の唇が動くのが、ひどくスローモーションに見えた。
君は、誰だ?
「鴇ちゃんはね、<ウェアラブルな死>の賛同メンバーだったんだよ。あたしの死に際で、あなたは誓ってくれた。あなたも死の提供者なの。いまに思い出すよ。ほら、あたしたち、アバターを動かして、「あたし」や「僕」を作ったの。おぼえてない?それは鴇ちゃんのアイデアだった。あたしを永遠に生かしてくれるんだってそういったの。あたしはみんなの脳みそを死というかたちで駆け巡る、それでじゅうぶんだったんだけどね」 蜜花がくすりと笑う。蜜花に似ただれか。それとも、蜜花自身?
わからない。
「うそだ。じゃあ僕は死んでいるっていうのか。ここにいる僕は?限りなく僕にちかい僕?それは、にせものじゃないのか?」
わからない。
「ごめんね、混乱するよね。最初はね、ショックがあるといけないから、アバターの<ウェアラブルな死>と、自分の死に関する記憶は梱包されているの。徐々にほどかれて、吸着していくようにしてあるの。砂地に水がしみこむみたいに、ゆっくりと」 ほんとうは鴇ちゃんもそうだったんだけど、と彼女の声がただ反響する。 「あたしすっかり、もう慣れたもんだと思ってたんだ。ごめん、でもきっとすぐ慣れるから」 蜜花に限りなくちかいなにかが、僕へ語りかけている。 「蜜花だって僕だって最初はすごく戸惑ったよ。でも不思議なくらい、僕は僕自身だ。だから、君だって大丈夫」 禊に限りなくちかいなにかが、僕へ語りかけている。 僕に限りなく近い僕は、そうして気づく。
ここは、<ウェアラブルな死>の提供者のために用意された、電子の天国(セメタリ―)なのだ……。
*
あれから彼女の言った通り、僕の記憶はゆっくりと吸着し、僕には自分が偽物であるという感覚もそれに付随するむなしさだの悲しさだのも消え去った。僕のオリジナルはどこにもないのだから、今の僕がオリジナルといって差し支えはないだろう。なにより、こうあることは僕自身が望んだことだったからだ。死を提供する代わりに、きっと蜜花を永遠に生かしてあげよう、というあのときの願いも、今はきちんと思い出せる。禊が驚いたのも無理はないだろう。あのときちゃんと僕は蜜花のそばでその死に立ち会ったのだから。 〈私を記録して〉を、禊は死としての蜜花というかたちで、そして僕は永遠に生きる電子の像というかたちで、それぞれかなえようとしたのだ。 僕たちはみな死者だ。 これはたしかに喩えにすぎず、だからといってただのなまやさしいイメージなんかじゃない。ある意味では、きっと事実でさえある。 こう言い換えよう。 僕たちはみな、死を経験したことがある。 だけれど僕たちはじぶんの死を記録として持ってはいても、そっくりそのまま感情に至るまで再生することはできなかった。〈ウェアラブルな死〉がそうであるように、僕の肉体は一度滅びている、という記録が残っているだけだ。いまは映像テープとして、このからだのライブラリにしまわれているにすぎないのだ。どんな体験だったそうだろう。ありありとその瞬間を思い出せる記憶などどこにも存在しないのだ。 その鮮やかな閃光を、きらめきを、全身で感じられるのは恐怖と憧憬とすべての感情とが爆発的にないまぜになった、たぶんほんとうの死、その瞬間だけなのだろう。
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ハヅキとイチノセ
どうして運命だなんて思うんだろう。 それはイチノセのせりふで僕はその声を思い出せる。いつかの恍惚を孕む声、僕たちが僕たちであったころの。僕がいまそれで知ったのはいとしさを憎悪が越えたらどんな記憶だって台なしになってしまうってかんたんなことだ。だけどそうだねイチノセ、僕らたしかにそれさえ知らなかったんだ二人は一個だとおもっていたんだばかみたいにさ。どうして運命だなんて思うんだろう。いつかなくなってしまってそれはただの偶然だったなんて知るとき思い出はいったい何に変わるんだろう。となりあった体温とか言葉だとかは、君に相似しようと僕に相似しようとたがいに凭れかかって変容した僕と君とは結局どこへゆくだろう。それさえかなしめないほど君にもう関心もいだけない僕はじゃあ誰だ。どうしてこんなに無感動になれるんだ、他人みたいに。罵ってくれ薄情だと罵ってくれどうしてあんなに空は青く僕を許す。僕たちの時間の無意味を肯定するように僕らが二人でなくたって世界は回っていたんだってせせら笑うようにああたしかにそのとおりで僕が手にしたのは自由で過去はあんまり無様だったよ。どうして運命なんか信じていられたの。こんなにもたやすく他人になれる。ねえそれを知らなかった、 知らなかった僕らへだけど戻らないね、ばいばいイチノセ、君を大好きだった僕。 ーーーーー お互いに寂しいともおもわれなくなった思い出って寂しいなと思いつつその寂しいの主体ってなんだろな。
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繭のシックザール
やがて霧の薄まりゆくのを頬で感じながら、少年はその場所をつくられた廃墟だとおもった。
〈繭のシックザール〉
どこから光が降るのだろう。 破片、粒子。それらが触れられない塵のように舞っている。 霞は気配を残しながら、曇天というにはけれど繊細な、光に満ちていた。 そうでありながらそこに外部の熱光源の存在をまったく感じられないことを、少年は不思議に思った。あらゆるものを照らすのは、外からとどく光ではない。景色は未明のようにわずかにぼやけて、はだに触れる空気は涼やかで透き亨る夜のにおいを保ったままだ。大気そのものが熱を含まない、ただ明度と彩度とをもった粒子のあつまりだけで稠密に構成され、こぼれだしたノイズが自身の内から発せられる光によってかがやいている……そんなふうに感じられた。光の粒子のなかには極微のものから破片のようなものまで、さまざまな大きさのものが入り混じっている。それらはゆるやかに天から地上へと移動していて、空から降るようだった。手を翳してもその軌道は乱れない。じぶんのほうが透けてしまったのではないか、と少年は錯覚さえした。 大気はこまやかな光をはらんできらきらと瞬いている。 砂のような、金めき銀めくホログラム。 降りくる光の粒を追って、頭上を仰ぐ。
そこには雲がない代わりに歯車がある。薄氷でつくられたようにうすっぺらく透明の、質量をもたない巨躯の歯車たちは円天へ乗算され、きりきりと動きつづけていた。 この空間はいままでに知るどんな場所ともちがう――ということが、まず最初にわかったことだった。 だけれどそれは不快な違和の感覚としてではなく、むしろからだへ浸食する心地よい静けさとつめたさとによって知覚された。 少年はそうしてそれが、ここには膚を灼く照光衛星(ソル)の光が届いていないためだということに、ふと気づく。 生物、とりわけ人が棲む天体であるかぎり光と熱とが必要だということは、だれでも知っている。照光衛星はちょうどよい(人とその愛玩動物が棲むのにちょうどよい)量のそれらを提供する機構で、<Sol.>が展開する人工天体シリーズだ。すでに購入してある天体の開発着手の際に単体で購入することもできるが、そもそも照光衛星がなければ人の住処には適さないので、ふつう、いくつかの未開発天体との抱き合わせで売り出されている。遠い過去にはそういった機能を担う〝天然物″が存在していたというけれど、照光衛星とともに新天地の開拓を何百年何千年にもわたって独占し続けてきたPax.Solの時代においてはほとんどおとぎ話のように思えた。たしかにそれがなければ生物は存在しえなかったろうから、おそらくは実在したのだろう、という程度の曖昧な認識で語られる「有力な仮説」にすぎない。 その仮説に付随するかたちで、かつてその星が死にゆくとき、あらゆる技術が失われたとする説がある。たしかに現在と過去の歴史のあいだには完全に断絶されたひとときが横たわり、それ以前の科学の成果はほとんど残されていない。わずかに残った紙のきれはし、書物、洞窟に彫られた絵などから、ひとが生きていた痕跡をかろうじて知ることができるくらいだ。その途絶の原因というのが、天然の照光惑星の崩壊だった、という説だ。とはいえ何千年も昔のことで、発展し続ける現在の科学からすればそれらは未熟な文明の残り香でしかない。 ところが、その文明というのがじっさいは現在よりずっと進歩したものだったとか、今も秘やかに稼働し続ける高次の遺構があるとかいう話が、いまのちょっとした流行りになっている。謎めいた過去に関する興味や好奇心によるものか、かつては照光機関を介した<Sol.>による統制と管理(聞こえは悪いが事実としてはそうだ)が存在しない世界であったということ、あらたな時代への期待からかもしれない。この説を提唱したのは「浪漫的な」発想で知られる歴史研究グループで、支持している人間のほとんどは科学者でも歴史家でもなく、それらに疎い一般人、あたらしい発見と成功を追いかけるベンチャーか、そうでなければオカルトに傾倒する者たちだった。この〝浪漫にあふれすぎる″説と宝さがしに熱をあげる有象無象に呆れ果てたある科学界の権威は、「そんなものがあるとすれば、それは<存在しない(エーテル)機関>だ」と暗にこの時代には不要の、時代錯誤な発想であると嗤ったのだが、彼の揶揄によって架空の遺物たちは〈エーテル機関〉という名づけを得て、皮肉なことにその実在を証明しようとする気概は加速してしまっている。 「一度あらゆる技術が失われた」という部分に限っては、けれど<Sol.>が掲げるコンセプト・イメージと謳い文句に採用されている。あまりにも有名だし、どこでだって目にする。群青の半円、そのなかへ散らばる無数の同色の点と、中心に金の点がひとつ。そこから拡がるようにして銀の箔押しできらきらと点描された夜天の図版に、併記された一文。〈我が社の照光機関はもういちど星々を瞬かせ、青く閉ざされた星図を銀の海に變えるでしょう〉。 あるいはそこへ、小さく〈銀のかがやきは歓迎されています〉と付け加えられたヴァージョンもある。 物腰をやわらかくしていても、滅びた世界を照らしてゆくのはわれわれの商品である、ときっぱりと言い放つ広告だった。誇大にすぎると一概に切り捨てられないのは、じっさい人の棲む天体で照光衛星をもたないものなど存在しないからだ。 だからもちろん、この<月>の外側にもたしかに照光衛星はかがやいているはずだった。 けれどこの場所にかぎってはその光と熱とから劃されているらしい――空を覆う梁や壁があるようにはみえないのに。内側から発光する大気。外部から光が届かないということ、それは正しい――少年が知る意味での正しい、朝や昼というものはここにはやって来ないということだ。 目に映る景色がたとえそのように変化したとしても、情報端末に表示された映像が密とならぶ区画の変容で移り変わるように、この空間を構成する明度と彩度とをもつ細やかな粒子が揺れ動いては朝や昼や夜を象っているにすぎない。……そういうことに、なるのではないか。 ここは彼の知るどんな場所でもない。 ここには、だれの気配さえない。だけれどたしかに、ひとが立ち入ることを想定された空間だった。照光衛星の光と熱とはとどかないのだけれど、この場所は温度だってうばわれてはおらず、凍り付くでもなく彼はここに立っている。つまり、なんらかの温度調節もこの空間には同時にはたらいているのだ。ひとにとってちょうどよい「設定」で。 つくられた廃墟。 もしくは、箱庭。 〈エーテル機関〉……。 少年は呟き、自分の現在地を確認する。 (――回廊だ)
*
この場所への入り口は、扉だった。はじめに知覚できたのは、はだで感じる大気の質感が変わった、ということだった。すうっと一瞬、なにかが「消滅」して、べつのものを「再起動」した……そんな感覚だった。 そうかと思えば、もうそこに扉が出現していたのだ。 はじめ、彼はそれを凍っているのだと思った。石英を彫刻したような、白く硬質に聳える扉はあまりに巨大で、つるりとした断崖のようにも思えた。 表面へ目を凝らすと、そこには薄く透き亨る歯車がとじこめられている――それらがめいめい、回転をはじめている、と気づいたとき、扉は彼を迎え入れるかのように、きいきいと自身をひらいてみせた。 つめたい霧が隙間からなだれ込む。 吹き込んだ霧は、少年のからだを嵐のように、しずかに、一瞬間に撫でていった。 それは、ただの水蒸気ではなかった。そこには、なんらかの作用をもたらす文脈……魔法ともいえるべきものがかかっていた。 たとえば音楽ににていた。 あらゆる旋律。 あらゆる音調。 あらゆる音階の調和した実在しえない波の総和が、ひとときで彼の内側を繙き、擽り、浚っていった。解析し、読み取り、すくいあげ、こんどは聞こえない音の波の群れが、彼のうちにある膨大な体験を追視し再現するかのように、暴力的に演奏された。 かれはかれのかたちにもういちど構築される。 静謐に満ちていて、痺れをともなう凝縮された一瞬間。 淡い陶酔がまだ、残滓として漂っていた。 爆発的な刹那のうちに呼び熾されてひとつ残ったのは、繭のイメージだった。 それはかつて彼がもっていた、忘れもしない(できない)、執着のかたち。 胸のおくふかくで眠っているはずだったそれを、霧は思い出させるようになぞっていった。 (あのむこうに、それが、ある?) 疑問は、けれどほとんど確信だった。 そこへ行かなければいけない、と思った。 少年の足は躊躇わず白い霧の海へ踏みこんでいた。 霧が濃くなってゆくほど、肺に滑りこむ空気、からだにふれる空気はだんだんと質量を失っていった。それはかたちを持つ、という概念の存在しない世界の奥へ奥へ、潜っていくみたいだった。すべてが流動的で、抽象的で、実体をもたない、原初の、どこか。夢のむこう。呼吸をするのはこんなにもかろやかだったろうか。霧の海は歩くというより泳ぐようだ。彼自身が透明になったように思った。
この霧の海は、どこへつながっているのだろう?
*
そうして少年が視界を取り戻したとき、立っていたのは扉の前ではなく、柱の列のただなかだったのだ。 はるか高くに見える天井は円柱へつながって、完璧な曲線(カーヴ)を描いて均等に空間を分割している。そのどこにも色彩を与えられず、まじりけのない白だけをゆるされていた。削れて、あるいは毀れた表面に蔦が這い、色素を奪われたように、それも白い。風とおしのよい、開放的な回廊。いまも絶えず光の粒が降っている。外を臨めば、空には薄氷めいた歯車が、地上には延々とつづく湿原がある。そこには、ゆったりと彎曲した、水晶でできた肋(あばら)のようなものがぽつぽつと突き立っているのも見えた。生えている、と言ったほうがただしいのかもしれない。あれは、植物だろうか――そうは見えないが、不思議と人工物だという選択肢は排除されていた。 ずっと向うには、双子のように対になった塔が聳えている。それも外壁は白かった。すらりと華奢で、それでいて鞏固に峙つ塔は、この空間を象徴する記号としてデザインされている、と思った。 そのどこにも、ひとの気配はない。
鑑賞のためのミニチュアをそのまま等身大へそっくり移しただけの、虚構のにおい。 それでいてどこか神聖なもののような無菌の���潔さと静謐とがあった。 廃棄されたのでなく最初からほうりだすために用意された、もっと正確に言うのなら、廃墟というよりほとんどオブジェだ。 ここは、神殿ににている。形而上の主をすまわせるためだけに用意された、形而下の庭。 祈るものは必要でない。 ではどうして、こんなに完璧な空間の切り取りと創出ができるのに、わざわざひとが入り込める仕様にした��だろう? ふと彼がうかべた問いに、答える者もない。
回廊をすすんだ先に、その〈広間〉はあった。 正確には、そこへたどり着くまでにもいくつか部屋はあった。たとえば、鳥籠をいっぱいに吊るして、中へ石を飾ってある部屋、だとか、中身のないさまざまの額縁が――額縁だけが一面に掛けてある部屋、だとか。ばらばらの時間を指す時計が、壁に机に硝子ケースに陳列された部屋もあった。みんなどこかちぐはぐで、落書きのような、可愛らしさを携えたいびつさをもっていた。成長をこばむ駄々のような不安定さを具体化して、〈部屋〉シリーズとでも題して展示しているようだと思った(いったい誰が、誰にみせるために?)。 開いた扉の向うには、それらの何倍も贅沢に空間を使った、たっぷりとした部屋がひろがっていた。 これくらい広ければ、部屋ではなく〈広間〉だ。 ドーム型の天井。 回廊と同じように、白い蔓が這い、壁は崩れ柱は毀れていた。 それは経年によるものではないと少年には思えた。最初からそのように造形されていて、どこも欠けることなくこのすがたで完璧なのだ、と。侵蝕する蔓の一本でさえこの部屋の何をも損なってはいない。 潰えた柱のあいだからは光が射し込み、ふかい陰影をつくりあげている。 そう見えた、といったほうがいい。正確には光が、射し込んでいるのではなかった。空には光源がない。柱やこの広間自体の明暗は、というよりこのひろい庭や空間は、そのように「調節」され、大気を構成するあの光の粒子たちが、明度を刻々と変容させて描き出している絵にすぎないのだろうから。 円天には夜を模した群青の壁に星図が金銀で描かれ、星や月の飾りがオルゴールメリーのように吊り下がっていた。それらは赤子をあやすようにゆらゆらと揺れている。まるで巨きなこども部屋だ。少年はあたりを眺め、ふと視線を止めた。 ちょうど真正面。だけれど、ここからまだ少し、遠い。 ひとのかたちがある。 広間の最奥だった。4段の階段を従えた檀上の、蔓がいっそう絡み合い、盛り上がり、繊細に綯われた場所に。 (あれは、石膏彫刻?) それは白い蔓の交錯によって描き出される褥に、厳かに横たわっていた。 ちょうど背と膝とを抱きかかえられたように、すべてを預け、手折れそうなほそい腕と両の脚とは力をうしなってふらりと下へ投げ出されていた。十になるかならないか、おさなさを残す蜉蝣めいたからだはしなやかな曲線をえがいてよじれている。幾重にも折り重なる蔓の褥はその躯体を抱き上げるように伸びていったのだとさえ感じられたし、そのほうがずっと正しいだろうと思った。彫刻というより、植物と同化して何億年ものあいだそこに在りつづけた、太古の化石めいていた。 そのすがたは少年にあるひとつの画像を想起させた。眠る青年。からだをちょうど同じように投げ出して、赤子のようにやすらかに。それから彼を抱きとめる女性。うつくしいヴェール、皴と襞。〈ピエタ〉。そう、そんなラヴェルがついていたように思う。いまや文化ライブラリの中で息づく画像資料でしかなく、すでに存在しないその彫刻は嘆きの聖母像と書かれていたように記憶している。いま目の前にあるこのおさない像を嘆く者は、けれどどこにも見えなかった。抱いているのは、しなやかな蔓たちだけだ。 少年はゆっくりと歩を進めていた。じぶんの意思のように感じていたが、それだけだと確信するほど尊大でもなかった。これは本能的なものでもある、という感覚もきちんと自覚していた。吸い寄せられるように。けれど意思のほうだってそれに賛同している。これほど意識とからだとの完璧な共鳴を感じるのははじめてだった。そう感じられるほど、きんとはりつめた無菌と清浄とが五感を閾値にまで研磨していた。 石膏めいた膚は近付くにつれ硬質でいて密度の高いやわさを持っているようにさえ見え、その素材について思い当るものをうしなった。それからいくつかのことに気づかされた。彫刻には題のあたえられていないことに、それでいて睫毛の一本に至るまで巧緻につくりあげられていることに、唇だけが赤くつややかに濡れていることに。 あまりにも自然に、そうすることがはじめからかれの二重の螺旋のなかへ書き記されていたかのように、彼の掌はその白い彫刻の頬を撫でていた。ひやりとした感触があり、掌に吸いつくそれは想起される硬さにたいしてずっとやわらかだった。自らの掌を眙める少年のひとみはいつよりもずっと赤く鋭利で、視線によって匕首をつきつけるように、しかしじっとりとした緩慢さをはらんでいた。観察者の目はその瞬間に完成されたのだ。傷をつけるように慈しむ。そのまま指先はするりとくだってゆき、真っ赤に濡れた唇を拇指でなぞった。彫刻にはおよそふさわしくない、湿度と温度とを持ったやわらかな感触があった。 少年の拇指に、ぬらりと光るものが付着していた。 血。 それはまぎれもなく、血の色をしている。 そうとたしかめたときだった。 彫刻のこどもの、開くはずのないうすい目蓋が、ぴくり、と跳ねふるえた。
このさき何秒かにも満たない光景を、忘れることはこれからきっとないだろう。
呼吸さえ放棄してしまえる静けさのなかで、少年はそう予感し、確信していた。 全身が記憶装置にでもなったふうに、流れる光景のすべてが一フレーム一フレームのスローモーションに映った。静止画のつらなりのように。儀式の記録のように厳かに。 震える目蓋。白霜の降りたような睫毛の玉簾がひらく。ふうっ、と蕾めいた唇が息をはきだし、そこに命のあることを知らせた。頬を包む掌の体温をたしかめるように、おさない指を添えながら。こどもの化石は蘇生する。睫毛の間から覗いたひとみと、少年のひとみとが、淡い焦点ではじめて絡まった。とろりと細められたそれは硝子めいて透きとおり、まるでつくりものだった。 どこまでも白く、果てなくあざやかな記憶の一点。 彼がいつか年を経て、この瞬間がそういうものになるだろうということを、少年はからだのすべてで感じていた。 そうして彼の胸の奥のそれは、花開いた。 幾千もの白い蔓の繊細になわれた褥。
繭のイメージ。
*
父は稀に帰って来ると、必ず幾つかの「土産」をもたらした。それは菓子の包み紙や石など、気の向くままに蒐集されたけして贅沢ではないものたちだった。夜のあいだに机上へそっと置かれていることがほとんどで、手渡されたのは数えるほどだ。顔をあわせる機会など一年のうち数回にも満たなかったろう。いま思い返しても父は青年のすがたでしか描けない。帰って来たというよりふらりと立ち寄るふうだったが、ごく自然に上がりこむということは父ということなのだろう。それくらいの認識だった。そうでありながら、もう顔も声もはっきりとは覚えていないくせ、靄の立像となってときどき唐突に思い出される残り香のようなひとだった。 その日もいつもの、土産のつもりだったのだろう。少年へ父は繭を与えた。めずらしく手渡されたのを覚えている。 綿の敷かれた白い正方形の小さな箱に、それは軽やかさと鞏固な繊細さとを纏ってころりと眠っていた。 あるいは、眠ってなどいなかったのか。 父は、この繭は長いこと孵らないんだ、といった。どろどろに溶け合ってそのままなんだ。死んでいると思う、生きていると思う。そう、父は少年へ尋ねた。シュレティンガーの猫、と答えると、父は嬉しそうに笑った。猫は好きだよ、とまるでろくに会話にもならないことをいった。そうやっていつだってひとをはぐらかすように生きていた。思えば、父はそれから姿を見ない。ただ、猫のようなひとだ、と漠然と思っていた。死んでいるのか生きているのか、けれど顔も覚えないままでいいような気がしていた。 肉親に対してのことだから、もっと憧憬や拘泥があって良かったかもしれない。けれどかれは執着を持たなかった。それはあらゆることについて。あちこちを漂流する父に、ついに現れさえしなくなった父に、自分は似ているのかもしれないと思った。 ひとと交わるのには積極的なほうで、そうする中でこそ自身が繊細な感情の機微というものをたいして持っていないのだと気付くのにそう時間はかからなかった。かれの生まれた<Sol.>は公的な組織の名であり、企業の名であり、それ自身が人工の大積層都市でもある。ひとはラヴェル分けされ、それに対応した層にだけ生きることをゆるされる。身分制度というものをそのまま可視化した都市の中で、かれが少年期までを過ごしたのは〈塵の窟〉と名づけられた、最底辺の階だった。だけれど人びとの首をゆるやかに絞めてゆく貧しさをかれは先天性のちょっとした誤差のように甘受していたし、少年たちがその度に己の身の上を呪った〈寄宿舎〉の、客を取るしごとも苦ではなかった。もっとも、それだってかれにとっては手っ取り早く稼ぎを得られる手段として自ら選びとった生きかたのひとつに過ぎなかった。じっさいそこで運よく見初められなければ、こうして<Sol.>の外へゆけることもなかっただろうから。 〈寄宿舎〉で同じ年ごろの少年たちと居を共にする中で、かれらの情緒の多様性と豊かさとをいつも感じていた。喜び、嫉み、恨み、涙し、その発���の一つ一つに抑揚と物語とがあり、いきいきとした烈しさを伴っている。彼らのその宝石のような生のきらめきにまじりながら、けれどだからこそ、それらを自分は持ってはいないのだと気付いていた。 何事も受け入れられないことはない。足掻かなければならないほどうまくいかなかった記憶もない。いつだってひとより身軽だった。世界のすべてが膜を一枚隔てた向うで行われているかのように、やすらかに凪いでいる。観客席で観る舞台だ。穏やかな笑みと拍手とを送って讃えながら、そこに自身は最初から参加していない。傍観者の目。あるいはエキストラのひとりを完璧に演じる俳優。自分だけの宗教も持たずなんの傷もつけられることないかろやかさで、ひととひとのあいだを漂うように生きていた。それでいて一歩引くのでもなく、ひとの感情の機微は新鮮で、そこへふと立ち入ってみるのが好きだった。紳士的だとか、博愛主義だとか評されるのはよろこばしいハプニングというもので、だってなににも拘泥がなければ博愛になるほかないだろう。通りすがりの猫の首を撫でるように、甘やかすように、ひとにだってそうしただけだ。それ以上のものをなにも持たないだけだ。それさえ寂しいとは思わなかった。そういう種類の人間だっているのだろう。父がきっとそうであったように。
だけれど、だからこそ少年は父から手渡された繭を見つめるときにだけ、自身が恍惚と高揚を抱いていることにも気付いていた。 気付いて、不思議に思った。 それは熱情に近かった。 いつまでも繭は孵らず、少年は最初のうちは、なんの虫になるのだったろうと思いもしたが、そんな空想にはすぐに飽いた。あまりに意味がないように思えた。孵ってしまえばそんなことはすぐにだって判明するのだし、きっと図鑑ででも調べたなら答えは見つかるだろう。そういうことになら興味などなかった。繭ははじめ、そうして長いあいだ机の隅に追いやられていたが、あるときふと少年は目に入ったそれに対してとりとめもなく、この繭はなぜこうあるのだろう、と思った。 繭の中のどろどろになったものは、自分が何になるのか知らないために、分化できずに蠢きながら永遠に夢を見続けているのではないか。 あるいはもうずっとまえから繊維と溶け合い、繭それ自体になって、ほどけばするすると解けて何も遺らないのではないか。 そうだと思えばその光景は頭の中でありありと花開いて、密やかに色づいた。それはどちらも詩篇めいてうつくしかった。 背をなぞられたような気がした。 うつくしかったのだ。そのディテールは、光景は、どんな蝶蛾になるかと想像したときよりずっと、生々しく、息がかよった夢想だった。官能的でさえあった。かれが惹かれたのは、繭の中に収まった、未分化であることのもつあらゆる可能性と羽化しない不可能性の拮抗した共存だった。 それからいつしか少年は未分化のものだけをとくべつに美しいと思うようになっていた。分化しない不完全性、手に入れられないものこそが唯一彼の心を動かしてくれることを知った。安定しない、それでいて変化しない、あらゆる変遷の可能性と普遍とを兼ね備えたものが、もしほかにあるのなら。蕾であり続ける花を、種のわからない胚を、実りを知らない果実を。そういった夢ばかりを見た。 そんな感性や拘泥がじぶんの中にあったことに少年はまずもって驚き、静かに、そして執着した。あざやかな、痛ましいほど爆発的な、痺れるほど熾烈な、熱情に。 かれが執着したものはそこに物資的に横たわる繭ではなく、執着それ自体だった。 炎めいたそれを留めたい、と思った。 これほどあざやかなものがあるのなら、自らの胸の内にいつまでも焚いてみたいと思った。 けれど、かれの心に薪として投じられた繭は、あるとき忽然と姿を消していた。あれほど長いあいだ羽化しなかった繭のなかの虫は、それでも羽ばたいただろうか。あるいはほんとうに解けてなくなってしまったのだろうか。いまとなってはわからない。ついに何者であったかも告げずにたしかにそれは消えてしまった。その終わりかたは、少年にとって完璧だった。目の前で羽化してしまえばきっとかれは飽いたろう。あの繭がそれを知っていたはずはないのだけれど、とり残された夢想は行き場をうしない、以来、少年のその胸の奥で眠り続けていた。 目覚めのときを待つように。
いま、それはゆっくりと息を吹き返していく。
*
「君は、憶えているのかな。あのときのことを」 「あのときのこと」 少年は、いまはもう青年というのがただしい。からだはすっかり成長し、子どもらしさはひとつも残されてはいない。少年のあどけなさを持っているのは、むしろもう一人の、子どものほうだ。 白い子どもは、彫刻などではなく少女だった。 少女であるという意味も、少年ではないという意味も、知らない。 知らなくていい、と思った。知らないからこそどちらにだってなれないし、どちらにだって、なれるのだ。 知らないのではなく教えていない。そんなふうに教えていないことが、たくさんある。 そのようにこの子をつくってきたし、これからもきっとそうするだろう。 すべてあのときに決めたことだ。 あの瞬間に。 「あのときって、それは、いつなの」 「あのときといえば、あのときだ」 忘れてしまったのかい、と尋ねると、子どもは拗ねたように、「教える気がないんなら黙っててよ」と吐き棄てる。 ときどき、この子はなにもかもを憶えているのではないかと思う。情緒のゆらぎでこの子自身が誤魔化されていても(この子自身が、誤魔化しているのだとしても)、その奥ふかくにはあらゆる記憶が堆積し、なにもかもをきちんと覚えていて、内側からじっと見詰めている――そんな気がしていた。 共犯だ。 ねえ、共犯だろう。 あのときから手を取り合って、お互いを傷つけようとして、お芝居を続けているね。 青年はその横顔へひっそりと問いかけた。白い、霜のような睫毛は、そこから凍っていって化石のように動かなくなるような気配さえした。 「ねえ」、と少女はぽつりと、落とすように言った。 「どこかへ、行ったりなんかできないよ。僕は」 それはどんな文脈を読み取ったうえでのせりふだろう。 ――うん、と青年は呟いた。時間はなめらかに凪いでいる。「知っているよ」 少女がほんとうは何を言おうとしたのかはわからない。ときどき知らない誰かになる。くるくるとめまぐるしく変わってゆく。ああ、どろどろの、繭だ。いつまでもいつまでも留めておかなければいけない。何度も傷をつけて、掻き混ぜて、かたちなんてなくしてしまうくらいに。 「知って、いるよ」 「うん、僕も知ってる」 少女はくすくすと笑った。鸚鵡返しをするだけのゲームをはじめたのだ、と分った。ただの、こども。王のように不遜にふるまうこともあれば、聡明な少年に見えることもあるし、こうして稚拙さを隠しもしないでおさない遊びに夢中になることだってある。 上書きして上書きして、そうしたら「ほんとう」はどこにあるのだろう。この子の「ほんとう」は、どこに保存されているだろう。この子を、こんなにしたのは、だれだろう。 「じゃあ、これは、」 いまも血に濡れた唇を、拇指でなぞる。瞳と瞳とが溶けるように混じり合う。そのたびに、鮮烈なあの一瞬がよみがえる。
「知ってる? 罪を感じたことなんて、ないんだ」
それを、どうか責めないでほしい、と思った。 誇りに思っているのだから。
完璧な不安定で不確かさをもつ、繭のようなきみを。
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夢の汀
こうしたいくつもの断片たちをきちんと並べようとするなら、僕は混乱するだろう。 記憶をうまくあやつれない。はっきりしているのは、たとえば彼と赤い花と鋏のこと、それがたぶんいまよりずっと幼いころの出来事だったのだろう、ということくらいだ。たぶん、という補足がつくものを、<はっきりしているのは>と表現して赦されるのならば。だけどそういった、いったい過去のどのあたりに属するかを推定できる断片というのは、僕にとってはどうしようもなく眩しく奇跡めいた存在だった。そういう断片は特別だ。たいてい幼いころのもので、それ同士の順序を正しくならべかえることはやっぱりできないのだけれど、それでじゅうぶんだった。 ほとんどの断片たちが過去のどこへ嵌るものか、僕には見当もつかないのだから。 そう。 「断片たち」だ。 分節化され、接続が断たれ、めいめいに散らばった無数の星のような。 それは記憶でさえない―― と、いつかの僕の思考が唐突に再生される。 それは記憶でさえないエフェメラだ。 記憶が標本であるのなら、それにつけられるはずの時間のラヴェルを記述して呼び出す機構が、僕はこわれている。
*
夢を歩いている。 これはたとえでもあるし、事実でもある。いまこのからだは眠っている、という点においては。 めざめたら消えてしまう夢の主体とは、いったい何者だろう、とぼんやりした頭で考える。きっととても無駄なこと。どうせまた忘れてしまうんだから。 茫漠と広がる白い湫。 僕の夢のイメージは、そうだ。 そして、 繭と、 扉。
*
僕を内側から剖(ひら)こうとするものは、静かな竜巻のにおいがする。逆巻き蠢く見えない嵐は扉の向こうで僕の崩落を不気味なほど静かに待っている。 何がはじまりだったかを、そのディテールを、思いだせない。いつからか扉の向こうに、僕の知らない領域が横たわっている。知らないことになっている、と糺すべきかもしれない。僕の意識にはあちこちに規制がかかってあまり使いものにならないから。すこしでもそこへ近づいてしまうと、つうっと背すじを氷がすべっていくような感覚がはしって、それはしなやかな指のように、そのまま僕自身のほつれを見付けだす。〈ほどかれ〉そうになる。〈ほどかれる〉、比喩でありながらそれはおそろしいほど現実的なイメージの洪水となって僕をおそった。(〈僕をほどかないで!〉)ぞわぞわとした、���楽を一歩手前に粟立ちだけをのこすようなその感覚が僕をそこへ近づけさせなかった。 僕の知らない領域がある。それはたしかに――そのおびえこそが、均衡を保っているために僕が僕自身に虚構とそれを支える虚構とを累ねつづけたことの証明なんだろう。僕のこころはそういった、嘘で綯われた繊細な繭だった。繊維のように絡まりあい、干渉しあい、一本の糸となって、もう何がほんとうで何が嘘だったか分からなくなっている。だけれど糸口を見つければ繭それ自体をほどくことはきっとかんたんで、あまりにもろく、だからこそ意識のすみずみにまではりめぐらされた拒絶と警告とは強固だった。〈ほどく〉だの(ほどかれる)だのというイメージは、そのような繭のイメージに依っているのだろう。そうだ、こんなふうに記憶もあるひとつに依存して他の記憶がひきだされ、接続され、それを繰り返して自我を編んでいくのだとすれば、記憶の整理のできない僕のそれが稠密なものでないのは当然だった。それに、と僕は思う。はじまりの記憶がすでに上書きされた虚構かもしれないのに、そのうえになりたつ、いまここにいる僕とはいったいなんだろう? はじまりを思い出せない。それはほんとうに自己のはじまりという意味でも、虚構のはじまりという意味でもそうだ。 「僕」を見いだしたときにはもう、僕は虚構でできていた。というより、そのように自覚する僕が、いってしまえばいま与えられている「はじめの自我(ぼく)」だったということだ。このからだのなかにそれより以前の僕が覆い隠している(のだろう)領域がきっとある、とおびえている僕がすでにそこにいた。未整理で断片的で鮮烈な記憶の成りそこないたちのひとつひとつに、静かであざやかなおびえの感情が綴じ込まれている。ばらばらの断片はおびえを共通点としてなんとかつながっている。星座のように。
ざわめく気配が僕の内側をひらこうとする。 繭の中にたつ扉の向こうで、無音の嵐が僕を見張っている。
*
暗転。 果実の皮をむくように、花が開くように、夢の中にひとつの断片(エフェメラ)が再生される。 たくさんの感情の群れをともなって押し寄せる。 声が、聞こえる。
*
……ひとに起こる事実は時系列にしたがって何十億もの層をなし、そのうえで膨大な事実のプレパラートは取捨選択され、いらないものは廃棄され、必要と判断されたものは個をふちどる構成員としてつねに稼働している。それが記憶なのだと、彼は教える。ひきだしにしまわれていてもいつだって待機状態にあって、記憶はひとまとまりの人格と現在とを、個の境界を縁どってくれる。自我は<同時に存在する物語>、一冊の本のようなものなのかもしれない。 すこし、むずかしいかな。言葉をきった彼のうねる銀の髪がさらりと揺れて、その隙間から赤い瞳がのぞいた。スローモーションのこの瞬間とせりふとを、僕は知っている。 これは、僕の記憶のひとつのシーン。 だけれど、それがいつのことだったかというラヴェルを、僕は引き出せない。そこから先へは進めない。一度経験したはずの景色や事象が、目の前にありありと展開されてしまうだけで。干渉できないことでそれが過去だということだけ認識したまま、それでも一時的に感情がひきずられていく。どこか違和感を抱えて、過去の僕自身にはなれないままに。 目次のない、本になれない、ぐちゃぐちゃに配置された文章。 僕はときどきこうしていつかの夢を見ている。 「いつか」を思い出せないまま。 「だからね、事実それ自体は層であっても、記憶は層であって必ずしも層じゃないのかもしれない。あらゆる時間の記憶は、時間と言うラヴェルをきちんともちながら、そのひとそのものとしてつねに動員されていて、同時刻に存在する権利をあたえられているのかも。からだがしぬまでね」 そうだ、と彼は思いついたように僕を見るだろう。思考が先か、質感が先か、どっちだと思う、と彼は問うだろう。そしてそのとおりになった。彼のひとみはあわい微笑のかたちをつくる。僕はその弧をうつくし���と思う。慣れることはなかった。次にこう言うだろう、と予測したとおりの唇のうごきを、あまりにも滑らかに彼がしてみせるということ。僕は彼自身にさえなった心地だった。僕自身にはけっしてなれないというのに。 「記憶や経験に基づいてじぶんの〈外側〉を取り込むのだとすれば、思考が先にあって、外界を処理するのかもしれない。だけれど、その記憶や経験は外側の、質感からやってくる。……やっぱりこの話はむずかしい?」 その話にだって興味がないわけではなかったのだと思う。だけどそれよりもずっと、彼の流暢な唇の動きを、澄んだひとつながりの水のような文章そのものを、からだじゅうで追いかけることに集中していた。だからときどき相槌をわすれてしまう。それをきっと彼だって知っているけれど、そのうえでこんなふうにもどかしく言葉をきって、問いかけてみせるのだ。 「でも、そもそも事実を、いるとかいらないとかでえらんだり、すてたりする基準それ自体は、いったいなんなの。ほんとうは記憶なんかじゃなくて、記憶というのは装飾で、最初からそなわったその機構でもうぜんぶ決まっているんじゃないの」 聞いていなかったわけではないということ、そしてすこしの反抗と、半分は純粋な関心をこめて僕は彼を見やる(正確には、見やって“いた”)。これは僕たちの会話の雛形だ。それは続きを促す記号でもあった。 「そうか。そう考えることもできるね。白紙に記録されていった記憶、それが個を定義づけるのじゃなくて、最初に書かれたテクストにしたがって記憶している、その最初のテクスト、機構こそが、そのひとそのものなのかもしれないね。」 記憶は装飾、と彼は言葉をきって頷いた。口に出したあと僕は自分でたしかにそうかもしれない、とおもった(というのは「今の」僕の感想で、そのときの僕は口をつぐんでいるだけだ)。いくつものテクストで織りなす命令系統のなめらかな下地があってはじめて、記憶は記憶として機能するのじゃないだろうか。記憶は順序良くならべられてやっと動き出す、よりじぶんをじぶんめいてデザインするための、それはアクセサリなんじゃないのだろうか。 「でも、テクストがひと自身だなんて、それじゃ××みたいだ」 (僕はそのときなんて言ったのだろう。そこは靄がかかって、ていねいに修正されている。たぶん、それは僕を〈ほどいてしまう〉糸口につながっているんだ、とおもう。ぞくりとした感触。) 「…… “こう“でなければ、君はきっととても賢いんだろうね」 だまりこんだ僕をみつめて、そのひとはやわらかに微笑む。今が賢くないってわけじゃないんだけど、と笑う。「君はほんとうに気分屋だから」と。 こうでなければ……彼は僕のその機構がこわれていると知っている。最初のテクストをなくしてしまったのは、僕だ。きっと、それをこわして忘れ去ったことで、僕の安寧はかつてまもられ、それがずっとつづいているのだ。いまも。僕の記憶は断片的で、それがいつのことだったかという情報(ラベル)をうまく引き出せないものがほとんどだといったけれど、彼の説明を借りるなら、それは記憶でさえないのかもしれない。膨大な事実のプレパラート……散らかった机の上の、ずっと整理されないプレパラートのようなもの。とぎれとぎれの、感情を強制的に引き起こすテクスチャ群をもつ、ただそれだけの、エフェメラ。ときどき、それはまさにそこで起こっているかのように目の前に広がっては、あっけなく集束し消滅する。 時間の情報をもたないものを、いまさら列べることなんてできやしない。ちゃんと思い出せるものがいくつかはあるけれど、それは数えるほどだ。点在するおぼろげな断片をかき集めてかろうじて今をつくっている。感受性は揺れ動き、質感をうまくとらえられない……輪郭がない。気分屋、とはそういうことだ。情緒の発現が安定しないということの言い換え。君はさわれない、と彼は喩える。きみの境界はさわれない。 「さわれないことなんかないよ。今も」 だから、僕は彼に触れてもらってたしかめる。 そのためのテクストを紡ぎだす。 唇から滑り出たことばは、ほとんど挑発だ。記号。そうだ、これもテクスト。僕たちの関係図を示すための。僕とこのひとはこころなんかで通じ合わない。演算された巧緻な文脈を交換し合って、うわべをなぞってゆくだけだ。 だって僕の境界はこころにはないんだろ。 それは、(だけど、”体(ここ)”にだけはあるよ)、という意味だってはらんでいる。 ことばにしないで記述する。埋め込んでゆく。大気に。文脈に。会話のはしばしに。二重の旋律をつくってゆく。そうして彼はいつだってそれを正確に読み解いてくれる。 僕は彼に触れてもらってたしかめる。 瞳だけで諒解しあって、やがて彼の指先が僕の地図をなぞるだろう。呼吸を分け合っては重ねてゆくだろう。彼の犬歯が僕の肩や鎖骨に傷をつくり、ぷっくりとした柘榴のような滴が浮んでは伝ってゆくだろう。この先なら、わかる。粟立つような、〈ほどかれる〉ような感覚の、快感とわずかな痛みだけを引き延ばした感覚だ。
僕は彼に依ってようやくひとときだけ、いま、ここに僕というものがたしかにあるとたしかめられる気がしていた。
*
暗転。 ゆっくりと僕は断片のなかからひきはがされていく。 だけれど目覚めにはまだ遠い。 白濁した霞の中で微睡んでいる。
*
茫漠とした白い空間。 夢の最初のイメージ。 そこへつれもどされたのだ、と視認する。 鮮明でない意識のなかに(もっとも夢の中だから当然なのだが)、それから、彼の言葉が降るように再生されていた。
"記憶は、ひきだしにしまわれていても、いつだって待機状態にある……"
待機状態。 それは、いつも「ここ」にあるということだろうか? 僕の頭の中で、僕を見ているということだろうか? ざわざわとした感触が、どこまでも静かなままで、意識のなかを掻き回してゆく。 僕を内側から剖こうとするものは、静かな竜巻のにおいがする。逆巻き蠢く見えない 嵐は扉の向こうで僕の崩落を不気味なほど静かに待っている。 扉。 〈扉の向こうに、気配が、ある。〉 そう感じるのと同時に、もうここにそれは出現していた。 ひやりとした冷気といっしょに。 扉。それも繭とおなじように、イメージだ。繭の中に、忘れてしまうことを決めた(のだろう)何かの隠蔽のために建てられてきた扉。僕を傷つけるものとして排除された僕と、その記憶が棲む小部屋。内側から、いつも僕を見張っている…… それは目を開けているあいだ考える途方もないただの想像だったが、夢は忠実にそのイメージを再現してみせた。それは僕を、ぐるりと円形に、息を呑むほどの潔癖さで整列した扉がどこまでもどこまでも続いている――そのような光景として表象された。景色は果てなく白く、そこへ立つ扉のすべてが無菌の清潔さを持つ同じ白をまとっている。 ここは、繭の中は、とても静かだ。 音を立てるものはどこにもない。 沈黙する扉はけれど詰(なじ)るような目をしている、と思った。息をすることもゆるさない。一度そう見えたならそれきりだった。どこへ視線をやっても、僕によって隠された僕たちが、あの向こうでじっと瞶(みつ)めている気がして、硬質で透き亨った無音にじっとりと汗ばむような心地がした。耳殻の奥でばくばくと心臓の拍動のボリュウムがあがる……ここにからだなんかないくせに、からだの音まで引用してくるとは、夢ってなんてべんりなんだろう。この夢は僕を裁き、復讐し、そして無意識の奥底へ閉じ込められた「僕たち」を救うための舞台なのだろうか。 そしてごていねいに、<それらの気配に蚕食されている>という、ずっと感じていながら気づかないふりをしてきた感覚までもここは具現化してみせる。静かな嵐のように、僕を見張る幾千の扉とその向こうへ追いやったなにものかの生み出すざわめきとが、ありあまる時間のなかでじっくりと確実に繭の容量を食いつぶし、うめてゆく、というイメージとなって。嵐と形容したけれど、それに色もかたちもなかった。象ることのない「気配」に僕がつけた名前のことだ。渦巻きあるいはゆらめく透明のもの――記憶と意識の気配が、奔流というにはあまりにもひそやかにやってくる。開いてはいない扉の向こうから。何重もの指さきで触れるように感触も質感も質量もない、亡霊のような姿のない概念が、絡みつきまとわりつき撫でまわし、すみずみを解析して僕の意識は溶けあうように撹拌される。意思はゆるやかに窒息してゆく。心臓の音だけはうるさいのに、空を掻いても腕はなく、膝を折っても脚はない。声をあげるための咽喉もない。これは僕の内側だ。窓をもたない、一個のからだという宇宙の中でこの嵐はまぎれもなく僕自身で、蚕食されてゆくのだって僕でしかない。 だから、それは僕の、繭の内側からほころびを知り尽くして、的確に捜し当てる。 〈ほどかれる!〉 途端に恐怖が支配した。 こんな夢をみせたっていまさらもうどうしようもないのに! 僕のこころはもはや嘘と秘密とで綯われた繭として完成された未完成なのだから、 ほどいてしまえば―― するすると「僕」がほどけたさきには、
<からっぽの、そこに無だけが残る>。
叫びだしたくなった。そのイメージの強迫こそが僕をまもっているのは知っている。潔白の無知でいる代償は、けして知へ近づかない神経質な敏さだ。何かを思いだせないでいることの安寧にまもられているために、糸を張ってつねにどこか尖らせておかないといけない。無知のために完璧な無知ではいられない。だから繭のイメージも<ほどかれる恐怖>も、より深層へ近づけさせないための、僕を守るためにうみだされたツールだ。恐怖で恐怖を劃すための。 だけどそれだってきっと僕を蝕むものにはかわりなかった。〈ほどけていく繭と無〉が隠していることにさえ無知でいるためにつくられた強迫観念であるなら、〈扉の向うの視線〉という嵐は、知らないでいることへの不安定さとおびえとが引き起こしたもうひとつの強迫観念だった。相反するはずのふたつのイメージはいつのまにかまざりあって僕へと浸透し、内側からあまりにも静謐に、僕をあやめようとしている。 どこへも逃げられない。 すべては僕の中で起こっている。 声のようなものだけが響いてくる。 しずかな、声にも満たない透明なざわめきが。 (ね、このまま、きっと使いものにならなくなっちゃうよね) (自分も知らない何かにおびえ続けては) (でも覗き込む勇気はないんだ) (いまのきみでいられない予感があるから) (だから、僕たちが〈ほどいて〉あげる) (きみをほどいてわからせてあげる) (何も思い出せなくていい) (ただ今こうあるきみについて、たったひとつの事実をおしえてあげる) (それは) (いまさら何をどうしたってしかたがないってこと) (きみが何者なのかを) (きみがどうせ何者にもなれなかった、繭のなかのぐずぐずのいきものだということを)
逃げなければ! 意識は悲鳴をあげて警告を発するのだけれど、どこへも行けない、という思いもそれに付随して離れなかった。 だってここは僕のなかだ。僕という規格をこえてはゆけない。 冷静さを完全にはうしなわせてくれないのは、僕を――僕の意識を痛めつける、ということが、この夢のコンセプトだからなのだろうか? どうすればいい? 僕はどこへ逃げられる? 泣き叫ぶように声を上げたかったが、髪を掻き毟ってぎゅうっと目を瞑ってしまいたかったが、からだのないここでそれは到底かなわなかった。夢はまだ醒めてくれない。ぱくぱくと唇を動かすような感覚だけがある。感覚だけだ。嗚咽にもなれない、滑稽な吃音さえ発しようとしてはかたちにならずに消えていく。 お願い、 おねがいだから、 たすけて、 たすけて、 だれか、ということばが浮ばなかったのは、それよりずっと早く、ずっと鮮烈に、ひとつの名前がもうそこにあったからだった。ほかの誰かなんて知らなかった。叫ぼうとした名前はやはり声にはならずに咽喉から酸素が逃げるように感じただけだったが、それらの内へ向かう声が、代わりにそのひとそのものをかたちづくってみせた。肩まで伸ばされたうつくしくうねる銀の髪。赤い宝石のような瞳。弧をえがいて半分細められた目蓋。微笑のかたち。完璧な、肖像のような、生きた彫刻。 からだじゅう(ここにあるのは意識だけだが)が熱にうばわれた。粟立つ感じ、怖気にほとんど相似する快楽をひきのばした感覚。 陶酔と安堵がすべてを浚っていった。恐怖が瞬間的にはぎとられ、組み替えられた。 このひとに、全部預けてしまいたい。 共有をせがんでしまいたい。 恐怖を。おびえを。ふるえを。息苦しさを、痛みを、喘ぎを、ほとばしるように喚きつくして受け入れてもらいたい。 呼吸をわけて。息をさせて。 そうだ、もうずっと泣いてしまいたかったんだ。 彼のすがたを認識した途端、僕はそれらの感情といっしょに炸けるように手をのばしていた。ここに手というものがあると仮定するなら、ほとんど反射的に、そうしていた。 (ねえ) (でも) (それはできないよね) (だってそんなことをしたら、そのひとはいなくなっちゃうだろ) (きみはそれを知ってるだろ) (だから無知でいたいんだよね、きみは) (だから苦しんでもいいって決めたんだよね、きみは) (だから、こんなことになっているんだよね、きみは) こどものように縋りつこうとする手がぴくりと跳ね、僕はおもわずそれを握った。彼のブラウスではなく、じぶんの拳を、だった。 僕の意識が吐き出す透明なざわめきが僕を嗤っていた。声でもないくせに、それは耳障りな哄笑だった。でもそのとおりだった。 だってそうだろう。そんなことをしたらこのひとの目に僕は褪せてしまうから。行ってしまう。遠いところへ行ってしまう。僕を、置いて。それらの絶望的な確信を持ちながら、つかの間の安堵のためだけにすべてを投げ出してしまう勇気なんか僕にはなかった。僕はこのひとのまえで傷ついていよう、傷ついていながら泣かないでいよう、ときめていた。たとえどんなに縋りついて、受け容れられてしまいたいという衝動に瓦解しそうになっても。 (かれは、いつか言っていたね。手に入れられないものじゃないといけないんだって。そうでないと褪せてしまうって) (かれは、いつか言っていたね。咲いてしまった薔薇のこと。急に美しく思わなくなったんだって) そうだ、僕はそのとき知ったのだ。かれが、手に取って美しいと思うのは未完成な蕾の可能性で、分化した未来なんかじゃない。 だから僕らずっと駆け引きをして、その時間を繰り延べるしかなかったんだったね。
かれはもしかしたら、僕の知らない領域のことを、僕より深く知っているのかもしれない。暴くことができるのかもしれない。そうしないのは僕をずっと未完成で何者でもないままあらせつづけるための方法なのだ。 僕がそれに同意した。 共犯者だ。 誰よりも僕を蚕食しているのは、それを選んだのは僕自身だ。それを選べるのは僕だけだ。
「ねえ、もうわかったよ。じゅうぶん」
皮肉なことに、その事実が僕を落ち着かせてくれた。縋り付こうとして静止していた腕をおろして(もちろんそんなものはここに実在しない)、夢の中で拵えられたかれの立像を見あげる。僕よりずっと背が高くて、しなやかで、彫刻のようなからだ。ふっと目を細めるだけで、淡く微笑のかたちをつくるだけで、僕を蝶(むし)のように磔にできる。その目の赤いのはきっと僕のこころへ潜んで病巣から吸い上げた血の色だ。痺れるほど甘くて、やけるほど痛い傷をのこす共犯の笑み。陶酔的な眩暈。 きっととても耐えられない。このひとの赤い目に、僕が映らなくなるということ。みんなそうだ。僕のうちにある僕たちはみんなそうで、みんなこんなにも、どうしようもなく無様だ。 だから扉の向うへ追いやってしまうんだ、と思った。 不安も、迷いも、苦しいのも、痛いのも、すべて。 全部保留にして、何にも気づかないこどもを演じてきたし、これからもきっとそうするだろう。 麻酔のように。 それは遠ざけるだけで、僕はまた、いまだって、じわじわと首を絞められ続けていることにかわりはないんだろう。 そう遠くない日、いつか同じ夢を見るだろう。そうやって繰り返してきたんだろう。 そのたびに、いつだって僕がはじき出すのは同じ答えだったというだけだ。 笑ってしまうくらい同じ。繰り返しているだけ。 だけどあのひとがいなければ、僕はきっと生きてなんかいなかったね。こんなになってしまうまでは。こんなふうになってしまうまでは。 彼は僕を傷つけつづけ、あざやかな傷がまだ僕を生かしている。 透明のざわめきは沈黙して、もう聞こえなくなっていた。 彼のイメージも消え去っていた。あれほど僕の呼吸を困難にしていた気配は霽(は)れわたり、そこは凪いでいた。それから僕は、最初からここには静謐しかなかったのだと思い出した。どこまでもただ静かに、ミルク色より無菌な白い空間が漠然と広がっているだけだ。水平線もなにもない、天地もわからない白い闇。 僕は確信して、振り返る。 そこに今できたばかりの、まあたしい白い扉がひとつ、ぽつりとたっていた。 あの〈扉〉たちはこうやってつくられていったのだ。 幾千もの扉たち。 それはいつも僕を見張っている。ひとつは、無知を演じる僕を責め立てる機構として。もうひとつは、それでも何者にもなれないままでいようとする、僕であることを棄てて彼のオブジェであろうとする、その証明として。彼の隣にいられるつかのまの僕への羨望を込めて。 僕は笑った。それがただしい微笑のかたちになれていたかはわからないけれど、このどうしようもなく愚かな、そしてこれからもつくられつづけるだろう僕の墓碑に、いつかまた何もかもわからなくなってここへ来るだろう僕へ憐憫を込めて、笑ってみせた。 夢はめざめに向かっている。 きっとまた繰り返すだけの、微光をまとってきらきらとかがやく、憂鬱へのめざめに。
そのむこうに、あのひとがいる。
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着せられるのは釦や飾りのあしらわれたものばかりだった。それはあまりにもまどろっこしく、実際に僕は自分で着ることはなかったし、用意されたそれがどんな意味を持つかをなんとなくわかっていたのだった。口実だ。僕が命じるための。お互いに了承した手順、像のようにじっとしているときまって彼はどのようにすべきかを示した。そのたび僕は腕を上げたりだの、向きを変えたりだのしてやった。言いなりだ。どちらが主かわかりやしない。骨ばった指はゆるゆるとそれでいて一寸の隙もなく結んでゆくそのリボンで僕を縊ることだってできるのだ。 彼はほんとうはどこにだってゆける。僕たちのあいだには何の約束も必然も横たわってはおらず、ただ気まぐれのあそびに興じているだけだった。だけれど、僕はそんなものに縋り付いてやっと生きている。 装ってどこへ行くでもない。履かされた沓はすぐに脱ぎすててしまって、釦などすべて千切ってしまって、うつくしく整えられた一瞬のオブジェとしての僕を僕自身のこどもめいた乱暴や粗相でこわしてゆく瞬間こそが、彼の美学にとってもっとも意味をもつとわかっていた。ああ、また、そんなにしてはいけないよ、と言いながら、僕を咎める言葉に効力はなく、彼のみがかれた紅玉めいた瞳に湫のようなほの昏さと鋭い一閃とがあるのをたしかに感じていた。
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薔薇と鋏/すきをしらない
鋏が鳴る。 順に蕚から切り落とされる。 彫刻めいた横顔。 赤い花の海。 その意味の示すもの、ねえ、僕はわかってしまった。手に入れたものから褪せてゆくね。こどものようなやまいのからまった君、執着の先にあるのはからっからの、無関心だけなんだ。 だから、
「君は無知で、そのくせ、だから聡いね」 視界も声も膨張して、拡散して、揺れている。 熱があると眠らされた寝台のとなりで果実の皮をするすると剥きながら彼が言った。かたちと色とは「林檎」というくだものに似ているという、その濡れたよう���光ってあざやかな赤はこのひとの、瞳の色だ、と僕が言うより先に彼が僕の唇を指して、同じ色だね、と言ったのでそれきり僕のことばは咽喉につっかえたまま彷徨っていた、最中のことだった。 君は無知で、だから聡いね。 おかしな順接。だけどその意味するところを、僕はわかっている。 「無知?教えないのがわるい」 わかっている、けれど知らないふりをする。僕は目的語を従えない。それは、聡い、と彼が称した理由を体現しているんだとおもう。 たとえば。 僕は、彼から感情をあらわすことばを意図的に教えられていないことにだってもう気づいてる。だって明らかに、そこだけ語彙が足りない。かたちのないものを、ひどく流動的でひょっとすると実在さえあやういものを、標本みたいに瓶へ閉じ込めてラベルを貼って均一化するのが言葉の役目なら、もっと僕の気持ちだって定義づけられてよいはずだった。そっくりそのままそうでなくたって、ある程度の、分類としては。ことばによって整えられてよいはずだった。ことばが、もっとあるはずだ、ってことくらいわかった。僕にはじっさい足りなかった。胸のうちを示すそこだけが頭の辞書に足りなかった。ううん、足りないのでなくて与えられなかった。 きらいでないとき、いやじゃないとき、「きらい」や「いや」を打ち消す形でしかそれを表せなかったし、このひとの声、姿、わらうとき、触れられるとき、あのざわざわする気持ち悪さとも言えるような心地よさを、なんと呼べばいいのかわからなかった。作られた無知に薄々勘付いていた。僕にはおよそ肯定を示すことばが欠如している。このひとに近づくためのことばが。僕はほんとうは気付いている。それらのことばを、彼はわざと教えなかったんだ、って、ことに。 だから僕だってまるでそんなことにさえ気付いていない子ども、実際ことばが足りない子どものままでいることにした。この気持ちはどう言えばいいの、なんて問わないことで答えを貰わないことでそのことばを口にできる可能性をゼロにして、近づきすぎず距離を保った。それだって彼は見通しているだろう。もう僕が気付いてるってことに、それから僕がわざと気付かないこどもでいることに。これが、きっと僕らの関係図を、後退も進展もさせないでそれこそ標本の中身みたいにだけど定義もせずに保っておく策なんだとおもう。聡いというのはそういうこと。無知のくせに、駆け引きを無下にするほど莫迦じゃないね、って言いたいんだ。 お互い分かりきったことをお互い知らないふりして気づかないふりしてうつくしい距離と儚さを保ってる。 「それは、順接じゃ成り立たないだろ。どうかしちゃったの。君も熱がある?」 「そういうところが、ね」 「そういうところが、なに」 「なんでもないよ」 彼が微笑む気配がして、(気配、なんておかしなことだ、) 唇へ、なにか押し当てられた。つめたい。熱に支配されたからだにひやりとした感覚が心地よくって欲しがるようにすこし口を開いてしまった。滑り込むもの。氷?だけど、密の味がする。 「なに」 「これ、さっきの果実、皮を剥くと氷の林檎みたいなんだよ、」 と彼は言って、美味しい、と僕の額に手をあてながら覗き込んでみせた。 どんなときだって視線を外さない。 月みたいにはんぶん細めた瞳、整えられた笑みのかたち。 知っていたのに避けられなかった。 僕はこんなに間近にいま彼の瞳の色を再び知る。 熱のせいで濡れた僕の目、ぼんやりとした視界で光を乱反射して、頭が、いたい。 その瞳の色を、顔のかたちを、唇に触れた指先を、こぼれる銀の髪を、声を、仕草のひとつひとつを、「きらいじゃない」、それのほかになんていえばいい。教えてよ。どうか教えないで。 お互い分かりきったことをお互い知らないふりして気づかないふりしてうつくしい距離と儚さを保ってる。 だけどとてもいたい。 ずっとこのいたみと引き換えにいきてゆく強さが僕には足りなくて、いつだってこの先を捨ててしまいたくなる。一瞬の幸福のためだけにすべて暴いて、ことばの効力を信じて、からだなんかじゃなく僕はこのひとと通いあってみたい。つたえてみたい。暴力的なほど甘ったるく吐き出してみたい。きっとそうすることだって出来るんだ。彼は問えばちゃんと教えてくれる。"この気持ちはなに。"“それはね、"。 だけどそしたら、きっと君は僕に飽いてしまうね。この距離を保つことが、この駆け引きが、彼の執着を執着のかたちで保っているための、それはやさしさなんだって、 「僕ちゃんとわかってるよ」 「うん?なにが?」 「なんでもない」 「はは、それさっきの仕返し?」 「うん」 僕らは目的語を従えない。置き去りにしないために、されないために。たとえ嘘に蚕食されて僕が内側からこわれていったって君はきっと悲しんだりしない。君のそれは僕と同じじゃなくて、きっとものに対する執着に等しい。あの赤い花。それから、鋏。 「……眠いよ。頭いたい。僕、寝る」 逃げるみたいにより深く潜り込んだ布団のうえから、彼があやすように僕の背を叩く。「おやすみ。熱、下がるといいね」。とん、とん、規則的なその刻みは心臓のリズムに、溶けるようにまざってゆく。僕の意識にまざってゆく。膨張して収縮する。羊水に揺られるってこんな感じ、なんだろうか。 おきたとき、どこにいるの。 どこもいかないで。 目覚めのときだって近くにいてよ。 ぼんやりとそうおもいながら、結局声にかたちにならないまま、目蓋の幕はおりてしまった。 あれは彼の背がまだこんなに大きくなかった頃だっけ、彼は中庭で薔薇を育ててた。とてもむずかしいって言っていたのに、僕に葉のつき方やなんか教えてくれたのに、あの日だけはそうじゃなかった。 薔薇に、とうとう花が咲いていた。 鋏が鳴る。銀色が光る。��ょきん、じょきん、順に蕚から切り落とされる。血みたいに赤い花の海。彫刻めいた横顔。凍りついた目。 急に美しくおもわなくなっちゃった、と彼はわらった。 僕はそのときわかってしまった。それは、たぶん、ひとにだって同じ法則。手に入れた玩具に飽いてしまうこどものようなやまい。執着の先にあるのはからっからの、無関心だけなんだ。 だから、 だから、彼のために、僕のために、僕はまだ、 をしらない。
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蝶の名前
誰に呼ばれていた名前なのだろうと思う。少女のそれについて。 捕まえてやった蝶や蛾の、はねを毟っては本に挟む、を繰り返して口もきかない。(ピンさえ外せば標本箱から飛んでゆこうとする、その光景は外ではたぶんお目にかかれないとおもう)。栞をつくるつもりだという、だけどきっと覚えていられないだろうな。 疑問というより簡潔な好奇だった。少女の、この奔放な野性(それはたとえば純粋と暴虐の両立、)をいまそのように至らしめた環境を鑑みて、言葉さえ教えられなかったこどもに名前なんてまさしく分類の象徴が果たして用意されていたのだろうか、ということへの。 ここははじめから置き去りにされるためにつくられた廃墟のように見えた。白壁に色素をもたない蔦が絡まりあって同化し、夜天に目にしたことのない星座が浮かびあがった。時針は役目を与えられずにめいめい気まぐれな場所を示し、生命のあるということ、大気、何もが外と共通しているようで、植物やいきものやなんかの細部に相似するものはなく、幻想の模型や質量をもつ夢を思わせた。箱庭めいたここでたったひとりこの子を見出したとき、その在り方からは庇護のにおいなんかしないで、きっと生きてきただろう時間に比較してあまりに言葉がたりなかった。たりない、というより、そもそも操れなかった。数字や文字はもちろん、音でさえ。 「そのページはもう一杯じゃないかな」 声をかけるとやっと手をとめる。はじめて俺に気がついたみたいに。だけどそれさえ億劫に、覗き込む顔を緩慢な動作で振り返る。 「いたの」 「それを採って来たのは誰かわすれた?」 「まだいたの、って意味」 いまだってまだどこか舌ったらずで異国の言葉のようにぎこちない。たぶん一生(この子がいつまで生きるかを想像したことはない)、そうだろう。 「手伝ってよ」 「手伝ったらすぐ終わってしまうよ。それから君はまた新しい遊びを見つけなきゃいけない」 「じゃあ」 ゆるりと伸びた手が髪を捕まえる。引っ張るように無遠慮に。無遠慮?そもそも遠慮を教えていなかったんだっけ。 「退屈を潰してよ」 覗き込む好戦的な瞳、引き攣るように見開かれたあとやわらかな笑みのかたちをつくって、ああほんとに螺子がたりない、その一瞬の視線の接続がすべてを諒解させた。 この、無垢はどうだ。 おもちゃを強請るこどもに似ていながらこの子のほうがこわれた玩具になりたがっている。鱗粉で汚れて指先はきらきら光っていた。ホログラム。君まで映像のにせものみたいだ。 口付けるほど甘美は求めない。けものの食事に似ている。心許ないほどやわくおさない首筋を舌でなぞる。紫斑。いつつけた傷だろう。拇指で推してやると吃音が漏れた。青い血管を食みながら埋めた視線の向こうに、はねのない蝶だったもの、が転がっている。 「......ああいうことして、かわいそうだとか痛そうだとか思わないの」 「そんなこと思わないだろ、君だって。」 じゃなきゃこんなことしない、と呟くのはじぶんの指先に対してじゃなくいま首筋を傷付ける拇指や犬歯に向けてかもしれない。あるいは両方。言葉を知らなかったこども、だけどこういう合図を平気で使う。ひとつもけがれなく受け入れる。こんなこと、の先をちゃんと分かっている聡さで、だけれどそこに意味を見出せるほど成熟していないのは心もからだもそうだ。遊びのひとつ。聖性さえまとった白い肌と廃人みたいな完璧な笑顔。泣き方だけを知らない。 「庭へ返さなくていいの、まだはねのあるのもいるだろう」 「どうせお庭だって贋物だもの。どこへも行けない」 贋物だってわかっていたら蝶になんかならずに蛹のままのはずだったね、と少年めいた少女はいう。未来があったってからだが成長したってこの子が持っているのは退屈に伸びた時間だけで、ゆける場所のすべてが贋物だって知っていてそれでもいつかおとなになることの無意味をわらう。そうやって連れ出して欲しがりながら、そうしてくれないことを恨みながら、だけど安心しているんだろ。病巣みたいな世界に浸かるあいだだけ無垢でいられることをもう分かっているんだろう。矛盾律だけがいまはこの子をこの子たらしめている。 もしかしたら名前なんかなかったのかもしれない。言い間違いか聞き間違いか自分がつけたのか俺が呼んだのかそれさえもう分からない。だけれど口にすると笑うから、きっとそれだけがこの子���まだひとに引き留めるピンなんだろう。どこへも行けないくせにどこかふらりと飛んでいってしまうような気がする。 結局残っていた標本の蝶はみんな逃がしてやった。どこへも行けないこどもがきらきらとひかる鱗粉の群れを見つめて、贋物の空を飛ぶかれらのうつくしさを、だけれど嗤っているようになんか見えなかったよ。
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思い出せる顔がひとつしかないことをきらっては美しく思う。目を閉じても、ときどき目蓋に光が舞うね。 「君のそこに蝶でも棲んでいるのかも」 「蝶?」 「そう、鱗粉がね、光るんだよ。だけどこういう話もあるよ。目蓋の裏にも夜があって、星が空と同じように光っているんだって」 拇指が僕の目蓋をなぞる。信じてやったって構わない。そのひとの、気まぐれはきれいだから。 「ふうん。じゃ、空の星のほうが誰かが目を閉じたときのものかもしれない?」 「そうかもしれないね。ああ、そうかも。」 「・・・・・・ふうん」 嘘を嘘だと知らないでおくために、僕はそれ以上を返さない。ほんとうを求めない。ながいかたらいは必要でなんかなくて、かれの声は心地良いから、一言だって良いんだ、そのほうが留めておける。 たとえ流暢につづられる言葉が虚構の連続でも、そんなのはどうだっていい。途方もないおとぎばなしのなかで息をする憐れさがいい。ただしいことをただしいと知って、いけないことをいけないと知って生きることを羨んで、だけどそうして生きていたならそれはもう僕ではなかったんだろう。きっと糖菓みたいに優しくて退屈だ。 血の味の染みこんだ綿菓子めいた、だからここがいい。僕をいつだってひとりにできるこのひとが、それでもいま僕に触れているという瞬間のこのたよりなさを、飴細工みたいにのばしてのばして生きてゆくんだ。ひっそりと息づく病の種を育てながら、僕にもうかえる場所もゆくあてもない。 僕はかれの言葉だけ食べるいきものだ。夢でも毒でもきっと吐き出さずにこのからだに孕んでみせる。
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