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虚構アフィリエイトブログ(あらすじ・ネタバレ解説):
「ドラマ『エル・ジェイ』あらすじ・最終回ネタバレ解説! 萌菜が記憶を取り戻してまさかの失恋エンド……!?」






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虚構インタビュー:「社内一、社内報を読む男」



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虚構エッセイ:「最近“憤り”を感じた出来事」
「仕事と生活で色々あり、確認を失念していた」――約束を反故にした友人の言葉である。 彼女と遊ぶ約束をしたのは今年の五月のことだった。念入りな事前準備の必要となる遊びであったため、実際の予定は二ヶ月先でありながら、私は日夜その準備やシミュレーションに勤しんでいた。 日程調節の段階に踏み入ったのは、六月の下旬で、返信が途絶えたのもその日だった。待てど暮らせど友人から希望の日程が送られてくることはなく、三週間が経過した七月中旬、私からキャンセルの旨の連絡を送った。その際、謝罪の文言とともに送られてきたのが冒頭の言葉であった。 彼女とは複数のSNS上で繋がりがあったため、私への返信が滞っている間も、彼女が三度も遊んだ報告を行なっていたことが私には筒抜けだった。果たして仕事と生活で「色々」あった人間が、月に三度も友人と遊ぶだろうか。 返信の途絶えた三週間の間、私が一度も確認の連絡をしなかったのも、彼女が今日も元気に遊び回っていることを知っていたためだ。約束も忘れるほどに私を想ってくれない相手に、詰め寄り、思い出させ、約束を守らせたところで、自分の虚しさが晴れないことを確信していた。
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虚構コラム:「貧困の定義は移り変わる」
時代を経ても、違う国へと渡っても、変わらない貧困がある。生きるか死ぬかの瀬戸際、つまり人の生死に直結する貧困だ。
それは食べ物を買う金や、医者にかかる金がないことであるかもしれないし、戦争や災害による飢餓かもしれない。
しかしそれとは別に、時代や国、環境によって、絶えず形を変えていく貧困もある。
アダム・スミスは自身の著書『国富論』の中で、リネンのシャツを引き合いに出し、これを説明した。服は人間が生き物として生きていく上で、必ずしも必要であるとは言いがたい。しかし当時の労働者であれば、皆当たり前に着ているのがリネンのシャツである。それをなしに人前に出ることを人々は恥ずかしく思うはずだ。
リネンシャツは、厳密に言えば生きていくために必要ではない。ギリシャ人やローマ人は、私が思うに、リネンを持ってはいなかったが非常に快適に生活していた。しかし現代においてはヨーロッパの大部分において、ちゃんとした日雇労働者であればリネンシャツなしに公衆の面前に現れるのを恥ずかしく思うはずであって、それを持っていないということは、極端に劣悪な行動をしない限りは誰も容易には陥らないような恥じ入る程の貧困を示していると思われるだろう。 ――アダム・スミス『国富論』
昭和以前の家電が普及していない時代では、洗濯物を手洗いすることも、家に冷蔵庫がないことも、ごく当たり前だった。しかし昭和40年代以降、洗濯機・冷蔵庫・テレビが並び立って三種の神器として普及してからはどうだろう。好んでそれらを持たない暮らしを選んだのではなく、金銭的な理由から家電を持つことができない人間は、世間一般からは貧しいとされるのではないだろうか。
スマートフォンもまたそうだ。学校から生徒へのお知らせがメールやアプリで配信され、就職活動をするにも採用の可否がメールや電話で行われる。さらに地震などの災害の速報もスマートフォンに届く――今やスマートフォンがなければ、社会との繋がりを保つことの難しい世の中だ。そんな中、金銭的な理由からこれを持つことのできない人間がいたとして、あなたはそんな人間を「スマホが無くても生きていけるよ」と明るく励ますことができるだろうか。
このように貧困には、生命維持に関わる貧困と、生きていく上で必ずしも必要なわけではないが、社会生活を営む上で必要不可欠なものが欠けてしまう貧困の二つがある。
十年後、五十年後には、今の我々からすれば贅沢品であるものが生活の必需品として扱われ、それが欠けた生活を貧しいものとして捉えられるようになるのかもしれない。
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