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見に行ったもの、読んだものの記録
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logbythepool · 3 years ago
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矢野瑛彦監督作品選『yes,yes,yes』『賑やか』
先日、アップリンク吉祥寺で矢野瑛彦監督作品選を観た。
https://joji.uplink.co.jp/movie/2022/12827
当日は『賑やか』( 2017年|26分)『yes,yes,yes』(2021年|75分)の2作品の同時上映。
海外の気鋭新人監督の作品を配給してきたリアリーライクフィルムズが、日本のインディーズ・シーンの将来有望な映画作家にフォーカスする《ReallyLikeFilms SHOWCASE》の第1弾としての上映だ。
東京の夜のビル群が印象的な短編『賑やか』と、宮崎の広い空と遠景が心に残る『yes,yes,yes』。
監督にとって大きな意味をもっているであろう2つの土地で展開する2つの作品が対比的に並べられていた。
『yes,yes,yes』──────
「自分はまだ何も失っていないのかもしれない」
そんな自問が浮かび、これまでの自分の人生のことを思い出したりした。
登場人物のそれぞれが、家族として、人として、向き合うことになる生と死について。
息子役の上杉一馬さんの存在感が素晴らしかった。
彼のもがき苦しむ姿は、露骨なまでに生々しく感じられ、スクリーンの前でもその「重量」に耐えらないような気持ちにもなった。
人はいつか死んで形がなくなってしまう。
登場人物が抱え、伝える葛藤、悲劇について、自分のなかのどこかにも似た経験があることを直感した。
ただ、自分はそれを通過したのか、あるいはそれはまだで、これから通過するのかはわからなかった。
だから、「自分はまだ何も失っていないのかもしれない」と思った。
これまでに何十年と流れた時間のなかで、毎日を繰り返すために適当さもたくさん身につけたはずだ。
省エネであること、すり替えること。
それがいいことなのかどうかはわからない。
でもだからといって、一生なんて束の間の遊びだ、
なんて悟ったようにしようとしても、装いきれないだろう。
そんなことを思った。
作品では、極限を超えた先に、その後の景色の尖端が見える。
波を越えたように。
物語が、行き着いた、突き抜けた感覚。
好きな映画『リトル・ダンサー』(原題:Billy Elliot|2000年)のなかで、
息子を将来のため炭鉱のストライキから一転抜け出すことを決めた父親の姿が、ふと浮かんできた。
(それとは少し違うかもしれないが思い出した)
きらきらした浅瀬の遠景がもっている絶対的な世界に向けられる眼差しと、
首筋の脈の打つ音を感じるような、人間をひたすらに追う眼差し。
俯瞰と接近の2つの要素は、10年以上前に監督の映像を見たときと同じもので、監督の一貫した強さを感じるようだ。
彼が変わらず映画を届けてくれた作品の前で私は何者なんだろう。そんなことも思った。
映画の半ばで夜空に浮かぶ満月は、
広い空の下のひとつの家族、
遠景のなかにはっきり浮かぶ登場人物それぞれのシルエットを連想させた。
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logbythepool · 3 years ago
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Light house / マームとジプシー
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マームとジプシーの舞台「Light house」を観た。
2022年2月20日(日)14時の回、東京芸術劇場シアターウェスト
マームとジプシー約2年ぶりの新作は、那覇市に2021年10月に開館した「那覇文化芸術劇場なはーと」のこけら落としシリーズのうちの一作であり、同劇場との共同制作でもあった。
舞台タイトルの「Lighthouse(灯台)」というキーワードもまた同劇場のコンセプトでもあったという。
作・演出の藤田貴大さんが2013年に発表した作品が、過去の沖縄での戦争から着想を得たものであったことが契機となり、今回まで沖縄で蓄積した経験や交流が今回の作品につながっている。
舞台美術は白色に統一されている。パネルなどで空間を区切ることなく、大小の抽象的、具体的オブジェクトが散乱している。
この空間がシーンによって居間、浜辺、ガマ(洞窟)、街角にすっかり変わっていった。
俳優の身体と劇場というコントロールされた空間による魔法が、舞台芸術の醍醐味で希望だ。
幕開けからの俳優同士の会話は、食に関する趣味や記憶や「うまい!」といった感動についてで、日常感、幸福感にあふれている内容だが、おなじ単語、おなじやりとり、また会話に伴ったおなじアクシ���ンがひたすらにループしていく。
これが体感で10分以上続く。
ことばをあそぶといった演劇作品に特有の印象は、10分以上続くなかで、ことばの芸術表現としての面持ちも帯びてくる。
そして俳優の圧倒的な俳優的実力も見せつけられる思いで、どんどん引き込まれるようだった。
徹底的とも言えそうなそのループは、一方で、そうした記憶が本当にそう言ったのか、言わなかったのか、そういうニュアンスだったのか、そうじゃなかったのか、本当にそんなことがあったのか、もしかしたらなかったのか、そうした不安を少しずつ混ぜ込まれていく。
ループに俳優が載せる感情が時折変化していた(例えば笑って言っていたセリフを泣きながら言うなど)のは、まさにそういうことで、
私たちがどれだけ時間を経て記憶を保てるのか、またそもそも記憶とはどのように危ういものなのか、そして記憶と私たちの関係がどれだけ密接なのかを訴えるものようだった。
個人的にとても印象的だったのは、おばあちゃんの俳優の方。
ほぼほぼの出演時間は、若者3人とテーブル越しに向かいあい、客席に背を向けており、セリフもない。
しかしその座った姿勢から、皮膚に浮かんでいるであろう皺、寡黙だけれども愛らしい性格のおばあちゃんの姿を感じさせていた。
若い俳優たちが、ひたすらマシンガンのように会話し、舞台上のオブジェクトをくぐりぬけ、飛び越えていくなかで、セリフはなくとも、時折の若者からの問いかけに反応したり、居室から食卓へ、食卓から畑へ、おばあちゃんとしてのアクションをループさせていたのだが、
ふと、その動きはしなやかに流れるようになった。
先程までのよたよたとした足取りから、軽々とバルーンボールを飛び越え舞台上を走り回る。
そしてついには舞台の一番奥からハリのある大きな声が劇場全体に投げかけられる。
「そうだこれは舞台作品だった」
心のうちの声が聞こえ、イメージは体現される。
現実で不可能なことがここでは可能になる。
そんなことを思った。
ちなみに、セリフ中には、沖縄の言葉だと思われる単語がいくつかあり、わからないものもあった。
あえて割合にするならば、1%にも満たない程度だったが、観客の全てにはわからないセリフ、あるいは一部にはわかるセリフがあるというのは、今日的にとても重要なこと、また象徴的なことだと思う。
脚本のこの点も個人的には印象的だった。
http://mum-lighthouse.com
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logbythepool · 3 years ago
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ドキュメンタリー映像作品「音鳴りやまぬ」上映会
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logbythepool · 3 years ago
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ニュー・トーキョー・ツアー 1day 上映会
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2022年2月27日、東京都写真美術館で開催されたMulticultural Film Making presents 映画「ニュー・トーキョー・ツアー」1DAY 上映会に行った。
https://tarl.jp/randd/2021/mfm_screening/
このプロジェクトは、Tokyo Art Research Labo(アーツカウンシル東京)によるプロジェクトの一環で、海外に(も)ルーツをもつ参加者たちが、今暮らすまち東京への「まなざし」を互いにシェアしながら、 「あたらしいまち」をテーマに映画をつくるというもの。 自分のルーツをまちのなかに見つけ、互いに写真と音声インタビューで記録しまとめる「ドキュメンタリーの部」と、 ドキュメントで見出されたエピソードを織り交ぜながら「あたらしいまち」をテーマにしたストーリーで映画を制作する「フィクションの部」で構成されている。 上映会は、午前の部と午後の部に分かれており、それぞれドキュメンタリ���作品と映画作品を鑑賞したあと、参加者が登壇してトークが行われた。 友人や家族など参加者の関係者と思われる人たちを含めて100人くらいが会場に集まっていた。 午後の部の映画上映後には、制作の進行を記録したメイキング映像も上映され、最後には観客からgoogle フォームを通じて寄せられた質問に参加者が応答する時間も設けられていた。 ドキュメンタリー作品は、参加者が日々のまち(東京)での生活や、子供時代からこれまでの記憶を振り返りながら、自らのルーツについて意識を向ける「シネマポートレイト」という方法で制作された。 参加者は3人1組になり、自分のルーツと結びつく場所、人、ものを、「探す役」、「その人をインタビューする役」、「写真に収める役」をローテーションしながら記録編集し、それぞれのポートレイト作品を制作していった。 上映作品では、賑やかな街や静かな路地などの写真に、参加者のナレーションが重ねられた。 作品からのメモ ・カルピスは日本の味:カルピスと結びつく日本での生活、記憶 ・植木鉢から連想する日本人のイメージ:  植木鉢の数々をきれいに飾って育てていて個性的、だが敷地内にきっちり収めている ・雨に対する感覚と日本での違い:  雨が降ったら外に遊びに出ていたこどものころ、雨を浴びる行事がある生まれ育った地と、日本での雨の日の風景 ・「ありがとうございます」と「すみません」を多く使う生活 etc.. 午後の部で上映された映画は80分あまりだった。 役者や録音などのテクニカルの経験がないという参加者がほとんどだったようだが、ワークショップの手段としての映画づくりというイメージを超えた作品で驚いた。 プロジェクトのプロデューサーであるアーティストによると「メンバーのよい映画をつくりたいという意識が相当高く、それにむかって皆で気持ちを一つにする雰囲気があった」ということだった。 上映後のトークでは、参加者から、プロジェクトへの参加が、自分が人とどういう風に関わっていけるのか改めて考えながら体験する機会になったという声があった。 また、マイナスな感情をもっているエピソードを映画で再現する(演技する)ことはトラウマになるか、またはセラピーになるかという問いも挙がっていた。 トークの後半では、ルーツとは呪縛のように捉えられる一方、縁という考え方を発見したということ、また、何かに固定したものに決めなくていい、常にupdateされていくものといった意見が交換されていた。 また留学生の参加者からは、当初、「ルーツ」が母国語でどのように表現できるのか思いつかない、参加するまで「ルーツ」について意識したことがなかったという声もあった。プロジェクトで互いの経験や考えを共有していきながら、その意味を考えたり、固定されていたアイデンティティが柔らかくなっていったようだった。 映画のなかに印象的なシーンがあった。 日本で長く暮らした韓国人の主人公が、隅田川の橋の上で中国人留学生に道を聞かれたのち、カフェで偶然に再会する。主人公はなんとなく気まずく会計をしようとするのだが財布を忘れてきたことに気づいた。 その際、その留学生が「私は彼女の知り合いだから私が払います」と答え、それに主人公が驚くといったシーンだ。
さりげないシーンかもしれないが、その留学生の姿は、私の知る友人の姿に丁度重なるような体験だった。 文化の異なりが摩擦をときに生んでいる。 でもこのシーンは、登場人物の向こうに、実際の観客の友人・知人の姿や、そのさらに向こうに、部分的に重なり、また部分的に異なる文化の輪郭を見せるものだった。 日常の生活のなかに異なるルーツをもつ人たちの姿がある。でもそのテーマで、人と向き合って話を聞いたり、何かに取り組んだりする機会はなかなか無い。 この日聞いた参加者の方たちによるプロジェクトに参加しての感想や意見は、日本の社会、文化といった見えないけれど在るものを改めて意識することができるものであった。 そしてこのような共有の場は、そこにいた誰もにとって、それぞれの背景を越えて、安堵や共感、意外な発見の時間だったのではないか。 ルーツをよりやわらかなものとして捉え、日々の生き方への意識につながっていったディスカッションの展開も、今を生きる私たちにとってヒントに溢れた出来事のように思った。
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