他者にみせることを前提としていませんので、多分、ヘンなところが多いです。たまたまたどり着いた方はあしからず。
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(マシュマロを使った我慢の)テストに成功した子どもたちは、マシュマロの誘惑を回避するために別の行動をとっていたのです。これに対して、テストに失敗した子どもたちは、じ〜っとマシュマロを見つめながら、その誘惑と対峙していました。 「もし(If)誘惑に直面したら、そのときは(then)こう行動しよう」とあらかじめ決めておくだけで、意志力を使わずに誘惑を回避でき���
筋トレを続ける技術〜マシュマロ・テストを攻略しよう https://www.rehabilimemo.com/entry/2018/12/13/160154
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Shinsyl - http://shinsyl.tumblr.com - http://www.pictame.com/user/shinssyl/2165585581
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幸せは、今この瞬間に「感じる」しかないもの。
幸せは、今この瞬間に「感じる」しかないもの。
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早く目的地に行きたいと思えば、見切り発車が一番だったのだ。
今はとにかく行動してみる。 もはや効率なんてどうでもいい。 この本も書き始めるまで、あらゆる遠回りをしてしまった。 早く目的地に行きたいと思えば、見切り発車が一番だったのだ。
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「Manage」って「あちらを立てればこちらが立たずの状況を“何とかやりくりする”」っていう意味が強いんですよ。 アイデアを創出して選択肢を作り出し、最適なものを選ぶのが大事なんです。 バカだなと思ってる? そんなもんよ、人間の「盛り上がり」って。 おれがリクルートにいた大昔なんて、営業部署の壁に等身大のグラビアアイドルのポスターが貼ってあったそうだからね。 どちらかを積極的に「見て見ないフリ」しなきゃいけないときがあるのがマネジメントなんですよ。
「マネージの意味が“管理”? ハズレです」田端信太郎が語るマネジメントの本質
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死とは『私』がほどけていく過程なんです。暑いのも、苦しいのも、痛いのも『私』であり、その『私』がどんどん変性しながらほどけていく” “…この体験から人間が死ぬということは私が私だと思っている存在が〝無〟になることだと思いました
死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い https://gendai.ismedia.jp/articles/-/34347
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最も房江を虜にしたのは、この世は不幸に満ちているという想念であり、不幸がやがて幸福へと転じて行く長い道程を歯を食いしばって見すえる勇気であった” “大きい小さいが男の値打ちやあらへんで。大きい男っちゅうのは、気味悪いくらいに小さいもんも持ってるんや。
http://kazuko.cocolog-nifty.com/books/2005/08/post_226d.html
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あくまでフェアにしているように見せかけて自分に有利にするべき。 西洋はそういうのが強い
あくまでフェアにしているように見せかけて自分に有利にするべき。 西洋はそういうのが強いと思っている。アートやスポーツのルール、各種規格、経済、学問自体もそう。 https://comemo.io/entries/11557?n_cid=COME00
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直観が間違っているとわかっていても、直観的に正しいと思える行動をした方が気持ちがいい。 そして、直観的に正しいと思う行動をしないと、不安で、不快で、気分が悪くなる 人間は、正しい方ではなく、気持ちがいい方を選ぶ生き物
ふろむだ
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見捨てられ不安とうまく付き合おう 見捨てられ不安が強いと、周囲に過度な愛情の確認や試し行為などをしてしまいます。その結果、相手との関係が悪くなり孤独な状態になり、寂しい気持ちを感じてしまいます。
https://www.direct-commu.com/chie/mental/lonely4/
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家庭というものは、自分の思いを通す場所でも、甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもありません。 家庭は「幼児性を削って大人になる作業をする場所」として存在しているらしいのです。 結婚をして、わがままが言える相手ができた状態になったとき、いかに踏み止まって相手を受け入れるか。 それを問われているのが「結婚の本質」のようです。
https://ameblo.jp/hiroo117/entry-12225512535.html
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都市農業に追い風、練馬区は「世界都市農業サミット」開催へ
懸案の生産緑地「2022年問題」は回避できるか?
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2018.10.30
文=柳生譲治
かつて高度成長期やバブル期には、都市の市街化区域にある農地は「いずれ宅地化すべきもの」という前提で存在していた。だが、この10年ほどで風向きは一変、今では「都市農業」に脚光が当たっている。都市の農地が持つ新鮮な農作物の供給機能のほかに、農作業を通じたコミュニティ作りや、災害時の避難場所・火災の延焼防止などの機能が評価されるようになり、都市農業は「守るべき」存在��なっている。
都市農業への「追い風」が吹く中、今懸念されているのが市街化区域内にある生産緑地の「2022年問題」だ。生産緑地は、都市の市街化区域にあって、固定資産税や相続税の優遇措置を受けている農地だが、2022年に土地利用規制(および税優遇)が終わる生産緑地が多く、このため宅地への転用が急増し地価暴落につながるのではという懸念があるのだ。都市農業は果たして、今後どのような方向へ向かうのか。
市民農園として使われている練馬区内にある生産緑地。都市の生産緑地は農産物を生産する場所としてだけでなく、防災空間(災害時の避難場所の提供や、火災時の延焼防止など)の機能、地域コミュニティ構築の役割なども期待されている
現在の「生産緑地」地区はバブル期の終わりに指定された
2022年問題と都市農業のゆくえを考えるにあたって、その背景を少々おさらいしておきたい。念頭に置いておきたい法律が、高度成長期に制定された「都市計画法」(1968年制定)と、「生産緑地法」(1974年制定)だ。
「都市計画法」では、都市の農地を「計画的に市街化を図るべき地域」の「市街化区域」と、開発を抑制する「市街化調整区域」に区分していた。市街化区域にある農地には、宅地並みの税金(固定資産税や相続税、都市計画税)がかけられるようになり、三大都市圏(首都圏、近畿圏、中部圏)を中心に農家が多くの農地を手放すきっかけとなった。
だが1980年代後半、バブル経済期に市街化区域の農地の宅地化が急ピッチで無秩序に進んだため、農地保全を目的として1974年に制定されていた「生産緑地法」を改正。「30年にわたり農業を継続する(土地利用規制)」、「面積が500平方メートル以上」──といった条件を設定し、「都市農業の壊滅」を防ぐために現在の生産緑地法の骨格をつくった。これが1991年(生産緑地の指定開始は1992年)のことだ。
これにより、30年間の営農継続を約束して自治体から「生産緑地」の指定を受けると、固定資産税や都市計画税が農地並みに抑えられるメリットが得られるようになった。また、三大都市圏の特定地域では、生産緑地に限り相続税の納税猶予制度も活用でき、農業を続けている限り宅地並みの高額な相続税の支払いは猶予された。
そして、多くの都市農家が生産緑地の指定を受けた1992年から30年近くが経ち、土地利用規制が解除される2022年がいよいよ迫ってきたというわけだ。
「生産緑地法」について
1991年、都市農業の壊滅を防ぐ目的で、30年間にわたり農業を継続することと引き換えに、農地並みの固定資産税や、都市農地における相続税支払い猶予などの優遇を認めた(生産緑地の指定は1992年から)。 生産緑地は現時点で全国に約1万3000ヘクタールあり、その大半が東京・名古屋・大阪の三大都市圏に集中している。2022年に約8割の生産緑地の土地利用規制が期限切れを迎える。
全国の生産緑地地区
地域
生産緑地面積
全国合計
13,187.6 ヘクタール
東京都
3,223.7 ヘクタール
埼玉県
1,764.8 ヘクタール
千葉県
1,147.3 ヘクタール
神奈川県
1,360.7 ヘクタール
愛知県
1,126.0 ヘクタール
大阪府
2,029.5 ヘクタール
兵庫県
518.7 ヘクタール
奈良県
598.8 ヘクタール
(国土交通省 平成28年 都市計画現況調査から一部を抜粋) 全国に1万3000ヘクタール残っている生産緑地の8割が1992年に指定を受けているため、大半が2022年に30年の期間を満了することになる。そのまま更新しなければ、農地並みの税優遇が受けられなくなる。
「2022年に地価が大暴落する」という噂は本当か?
生産緑地は指定されてから30年が経過すれば、自治体に土地の買い取りを申請し、指定を解除できる。だが、実際は財政難の自治体による買い取りの実績はほとんどないため、指定を解除された後は住宅用地などとして売買されるのが大半だと予想される。2022年以降、大量の農地が宅地用途として放出される可能性はある。
しかし、前述のように都市農業を取り巻く環境は高度成長期やバブル期とは一変し、政府や自治体も、近年は都市農業が持つ機能と価値を重視する姿勢を見せている。環境や防災への意識が高まってきたことや、人口の減少によって都市に空き家・空き地が増えているといったことが背景にある。「2022年問題」を回避する施策として、まず政府は2015年に「都市農業振興基本法」を制定し、都市農業の多様な機能を発揮していくという理念を掲げた。政府は都市農業を守り、農地を街づくりに生かす方向へと舵を切ったのだ。
2015年制定の「都市農業振興基本法」骨子
【目的】
都市農業の安定的な継続を図るとともに、多様な機能の適切かつ十分な発揮を通じて、良好な都市の環境の形成に資すること
【都市農業の役割や機能】
新鮮な農産物の供給/農業体験・学習、交流の場/良好な景観の形成/都市住民の農業への理解の醸成/国土・環境の保全/災害時の防災空間──などとしての役割・機能
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パンフレット「都市農業振興基本法のあらまし」(農林水産省・国道交通省)から
「都市農業」を守る施策が次々に、「農家レストラン」設置も可能
さらに、都市農業を守る施策の一つとして、2017年には、生産緑地法を活用しやすくする��めの改正も行われた。従来は、生産緑地に指定されるには500平方メートル(5アール)以上の規模が必要だったが、自治体が条例で定めれば生産緑地の面積要件を従来の500平方メートルから300平方メートル(3アール)へと引き下げられるようになった。これにより、面積要件を引き下げる条例を制定する自治体が相次いだ。
また、農産物を原材料とする加工施設や直売所、農家レストラン(料理の提供の用に供する施設)などを、市区町村長の許可を得て設置することが可能となった。従来は、農産物の生産・集荷・貯蔵・保管などに必要な施設のみが設置可能だったことを考えると、レストラン経営といったビジネスも可能となり農家の活動範囲の幅が広がった。
2017年成立の改正生産緑地法の主なポイント
①生産緑地地区の指定要件(面積)の緩和 面積が500平方メートル(5アール)以上 →300平方メートル(3アール)以上に緩和 ※ただし、市区町村の条例で規定することが必要
②農産物の加工場や直売所、「農家レストラン」などを、市区町村長の許可を受けて設置が可能になった 従来は、生産・集荷・貯蔵などに必要な施設のみ設置可能であったが、「農家レストラン」などの設置が可能になったことにより農家の経済活動の幅が広がった。
③「特定生産緑地指定制度」の新設 生産緑地の所有者は、「特定生産緑地」にするかどうかを選択でき、10年ごとに延長できるようになった。
さらに、従来は生産緑地指定の恩恵にあずかるには、30年間農業を続けることが義務とされてきたが、これは農家にとってはとても厳しい条件だった。今後の更新は10年単位と短期間ですむようになった。これにより生産緑地の所有者が農業を継続するためのハードルは下がったと言える。
2022年に営農を諦めるのは、2~4%か
都市農業を守ろうとするこれらの施策の影響もあり、「2022年を機に、生産緑地の買い取り申し入れを行う農家の割合は、同年に指定30年を迎える生産緑地全体の2~4%程度にとどまるのではないか」と、ニッセイ基礎研究所 社会研究部 都市政策シニアリサーチャーの塩澤誠一郎さんは推計している。「住宅地の地価が大暴落するなどということはないだろう」
全国農業協同組合中央会 JA支援部の高塚明宏さんは、「これまで厳しい環境の中で覚悟を決めて営農してきた方々は、これからも営農を続けたいという気持ちが強く、離農する方々の割合は高くないと考えている。我々としても、自治体への買い取り申し入れが少数にとどまるよう、昨今準備された新制度についての情報提供や活用相談などを通じ農家の方々をきめこまかく支援していきたい」と語る。
もちろん、こうして政府や自治体、JAなどが都市農地の維持や活用を後押ししても、実際に営農を続ける担い手がいなければ中長期的に継続することは難しい。新制度では10年単位の更新となり、営農の継続へのプレッシャーは少なくなったものの、何らかの理由で農業の継続が難しくなれば、農地をどうするかは一転��て農家の悩みの種になる。生産緑地の維持(営農の継続)による相続税の支払い猶予をすでに受けていると、なおさら悩みは深い。仮に営農をあきらめて宅地転用すれば、これまで猶予を受けていた相続税に猶予を受けていた期間の利子を加えた金額を納税しなければならなくなる。
こうした状況を背景に、農家の選択肢を増やすため、今年の6月には「都市農地の貸借の円滑化に関する法律」が制定され、9月に施行された。この法律により、農家が自分で農業を継続できなくなった時に、生産緑地を他者や企業に貸しても指定を維持でき、固定資産税や相続税の優遇を受けられることとなった。農地の借り手は生産緑地で育てた農作物の一定割合を周辺地域に売ることなどを条件として、賃借契約を結べる。
「この制度は、終身で農業を続けるのは難しいと考える農家に対する“セーフティネット”になる。都市の農地の保全・有効活用や活性化につなげたい」(全国農業協同組合中央会の高塚さん)。
図:「都市農地の貸借の円滑化に関する法律」を活用して、農地の借り手が自ら耕作するケース
農林水産省のウェブページから
図:「都市農地の貸借の円滑化に関する法律」を活用して、農地の借り手が市民農園を開設するケース
農林水産省のウェブページから
農業の「担い手」育成に力を注ぐ練馬区など地方自治体
こうした制度面の充実と並行して、東京都や練馬区などの自治体は、都市農業の活性化や担い手の育成のために、かねてから市民と農業の接点を増やす努力を重ねてきた。例えば、練馬区の住宅街を歩くと、体験型農園を多く見ることができる。「練馬区では、約20年前から農家の暮らしを体験する取り組みを始めて、同様の取り組みが全国に広がった実績がある」(練馬区 都市農業課長の浅井葉子さん)。こうした体験農園は今後、都市における農業経営のモデルとして有望だ。
練馬区には17カ所の体験農園があり、農具や種苗、肥料などを農園側が用意するほか、農家が指導者となり作物の収穫までの手ほどきをするため、初心者でも失敗が少ない。利用者は子育て世代から高齢者、学校や企業にも広がっている。農業への理解を深め、多様な農業の担い手を育てるきっかけともなる。
練馬区内の区民農園。練馬区は区民に対して積極的に農業体験の機会を提供してきた
練馬区 都市農業課長の浅井さんは、「都市における農地の役割には、農作物の生産や、防災空間・緑の景観の提供などがあるが、そのほかにも農業体験を通じた周辺住民のコミュニティ構築の機能も大きい」と語る。
「農業体験」ができる農園や野菜の即売所などの情報を掲載した練馬区制作の冊子やパンフレット
さらに、練馬区が2015年3月に開校した「練馬区農の学校」では、農業従事者の高齢化を背景に、農家のサポーターを養成することを目指している。市民が農業の基礎から学び、一定の知識や技量が身についたら農家を紹介され、実際に農作業を手伝う。
「従来は、農家の“支え手”育成が主眼だったが、農地の貸借を可能にする法律ができるようになった���め、今後は農家の“担い手”を本格的に育成するという視点も持ちたいと思う」(練馬区 都市農業課長の浅井さん)
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「練馬区農の学校」のパンフレット。練馬区内の農業者が講師となり農家を支える人材を育成する。
練馬区は来年「世界都市農業サミット」を開催、今年11月にプレイベント
練馬区では都市農業の活性化のため、ロンドン(英国)、ニューヨーク(米国)、ジャカルタ(インドネシア)、ソウル(韓国)、トロント(カナダ)など海外都市の農家や行政担当者、研究者などを招へいし、来年2019年に「世界都市農業サミット」を開催する。サミット前年にあたる今年の11月23~25日には、プレイベントを実施する計画だ。
「サミットや関連イベントを通じて「都市農業のさらなる発展や、都市農業の価値の再評価を図っていく。例えばニューヨークでは青少年の教育や更生を目的として農作物を育てることが、大きな成果を上げているという。都市農業という“手段”を使うことで、防災や環境保全、青少年の教育…といった多様な社会的課題を解決していけることを訴えたい」と練馬区の世界都市農業サミット担当課長の山本康介さんは意気込む。
練馬区はロンドン、ニューヨークといった海外の都市の農業関係者と連携して、都市農業に関する情報共有を行い、地元農業の活性化を図っていく(写真はイメージ) 写真:123RF
前述の都市における農地貸借の制度(「都市農地の貸借の円滑化に関する法律」)を活用するケースは今後確実に増えてくるだろう。規模を拡大したいという農家が貸借を受けることもあるだろうし、農地の貸借を受けた後、一般の農業愛好家にサポート付き市民農園として貸し出すといった企業も出てくるはず。「企業の参入は今後も進む可能性が高い。JAもそうした企業の発想を学んだり、あるいは連携することで都市農業の活性化にもつなげていきたい」(全国農業協同組合中央会の高塚さん)
また、「農業体験をした人の中から、本格的に農業をやってみたいという人が生まれている」(練馬区 都市農業課長の浅井さん)。生産緑地の貸与ができることになったことから、そうした人々が新規就農者になることもあるのかもしれない。ニッセイ基礎研究所 都市政策シニアリサーチャーの塩澤さんも、「これまでは会社員をしていた人が、貸借の法律を活用して農地を借り、新規就農者となる可能性も出てきた」と、生産緑地の貸借を可能にした新たな制度の効果に期待を寄せている。
都市農地は一度宅地などに転換してしまえば、永遠に失われてしまう。農地消失を食い止め、多くの効用を持つ都市農業の灯を絶やさないためにも、都市生活者は身近な農業の価値を再認識すべきだろう。
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我々は皆孤独であることを覚えておくとよい 『シューラーの認知療法入門』から 編集 (『シューラーの認知療法入門』p.92-93から 一部抜粋) ・我々は皆孤独であることを覚えておくとよい。このことは,皆が同じ状況にいることを知らせてくれるのを助けてくれる。ただし,何らかの助けにはなるが,全てを助ける訳でもない。 ・自分の状況だけが特別だと人は主張する。皆が本当に凡庸であることを受け入れることほど難しいことはない。
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『君の名は。』監督・新海誠がゲーム業界を駆け抜けた日々 ~『イースII』リメイクOPから『ほしのこえ』誕生まで 【ゲーム語りの基礎教養:特別回】 2017年4月3日 09:00 国内の興行収入が247億円を突破し、海外でも「世界で最も稼いだ日本映画」になるなど、記録を次々と塗り替えている劇場アニメ『君の名は。』。 突き抜けるような空のタッチが印象的な『君の名は。』のキービジュアル。 (画像は「君の名は。」特報2より) だが、その新海誠監督は、元はといえばゲームソフトを開発・販売する日本ファルコム【※】に勤務していた。彼の「商業作品」の初期作が同社の『英雄伝説 ガガーブトリロジー』や『Ys II ETERNAL』のOPムービーだったことを知っている人は今、どれだけいるだろうか。ゲーム本体の開発にこそ関わっていないが、広い意味では新海誠は「ゲーム業界出身」といえるのだ。 ※ 日本ファルコム 新海誠が1996-2001年の間勤めていた、ゲームソフトを開発・販売する日本の企業。代表作は「ドラゴンスレイヤー」シリーズ、「イース」シリーズ、「英雄伝説」シリーズ。 『君の名は。』の原点は『Ys II ETERNAL』にあり 前回の連載でも述べたが、「イース」シリーズはア��ションRPGに限らず、ゲームを「感動の時代へ」導いた画期的な存在だった。感動とは、「感情を揺り動かす」ということだ。まさに「イース」シリーズによって、ゲームは「反射神経を研ぎすませて強敵を倒す」だとか「難解な謎を解く」だとかといったハードルを乗り越える行為だけでなく、「宿命のライバルとの対決」や「ヒロインと心通わせる」、あるいは「美しいグラフィックや音楽に心打たれる」などの、多様な感動を内包することになったのだ。 「イース」シリーズには、そんな大きな潮流をたった一つで象徴している映像がある。それが、『イースII』オープニングの振り向きリリア【※1】だ。 ※1 振り向きリリア……「感動の時代へ」がキャッチコピーの『イースII』のオープニングで作中に登場する女性キャラクター・リリアが振り向いてプレイヤーを見つめるシーンのこと。畳みかけるような、テンポのよいアニメーションは当時まだ珍しく、多くのゲーマーを魅了した。詳細は、前回の記事を参照のこと。 (画像は『イースI&IIクロニクルズ』のリリア。公式サイトより。 まだ表現力が乏しかった当時のPCで、ディスプレイの中の小さなウィンドウで作り込まれたサウンドとドット絵が、ユーザーの心をつかんで放さなかった。そんな「感動の時代」の志ごと受け取ってリメイクされたゲームが、2000年発売の『Ys II ETERNAL』だった。 そのオープニング映像を手がけた人物こそが、当時日本ファルコムに在籍していた新海誠その人に他ならない。 映像を見てみれば、そこには「壮大な空の風景」がある。「浮遊大陸イース」と「地上」という「2つの離れた場所」がある。そう、ここには「新海アニメ」にお馴染みの要素があり、すでに17年前から「新海誠は新海誠だった」ことが確認できる。なにしろ『君の名は。』における、あの彗星に見られるような「高速移動する物体(=浮遊大陸に打ち上げられたアドル)」までもあるのだ。 『イースII』が踏み出した一歩は、世界に羽ばたいた『君の名は。』へと繋がっている――。 同時に、この映像は商業ゲームのゲーム内ムービーや、パソコンゲームに近い文化圏にあった自主制作CGアニメーションが積み重ねてきた歴史の延長線上にある。新海誠アニメは「ゲームの遺伝子を持つ作品群」の中に位置づけられる存在だ。また、それは同時代のゲームを含むデジタル映像と強い繋がりを持っていた。本稿では、そんな今や見えにくくなってしまった「新海誠とゲーム」の繋がりを、「ゲーム史」の縦軸と「同時代カルチャー」の横軸から検証していこう。 X68000と自主制作CGアニメの夜明け 時は2016年8月。公開されて間もない『君の名は。』に、とあるパソコン���映っているとの未確認情報に、ネットの一角はざわめいた。そのパソコンの名は「X68000」――ツイートしたのは製造元であるシャープの公式アカウントだ。そして同日、新海誠監督自ら「ありますよ」と画面キャプチャ付きのレスポンスが返されると、そのざわめきは歓声に変わった……。 SHARP シャープ株式会社 ✔@SHARP_JP 映画「君の名は」でこれが映るシーンありとの未確認情報 9:52 - 2016年8月29日 45 45件の返信 2,787 2,787件のリツイート 2,116 いいね2,116件 Twitter広告の情報とプライバシー X68000は、シャープが1987年に発売したホビーパソコンだ。 『ドラゴンクエストII』と同じ年に登場したこのハードは、お披露目のときに『グラディウス』の移植をアーケードゲームそのままに動かし、当時のユーザーの度肝を抜いた。まだ家庭用ゲーム機と業務用ゲーム機には「天と地の差」があった時代のこと。個人用としては破格のパワーを持ちながら、その価格も専用モニタと合わせて実売40万円程度というのは、実に型破りな価格設定だった。 まさに「究極のゲームパソコン」と言うべきハードの登場。それは、やがて個人や少人数のアマチュアによるCGアニメーション、すなわち「自主制作CGA」の大きなうねりを作り出すことになる。 1985年、大阪大学コンピュータクラブ(OUCC)や京大マイコンクラブ(KMC)等の共同プロジェクトとして発足したのが、PROJECT TEAM DoGA(以下、DoGA)。彼らはその後、パーソナルCGアニメの歴史に大きな影響を及ぼしていく。 その2年後の1987年、DoGAはX68000シリーズ上で動作する「DoGA CGA System」【※1】を開発する。これはCGアニメを制作するだけでなく、鑑賞することもできるシステムだった。まだ「PC上で動画をリアルタイムで再生する」など夢のまた夢だった頃に、CGアニメの「創り手(クリエイター)」と「受け手(ユーザー)」を同時に作り出したわけである。 そして1989年、さらにDoGAは自主制作CGアニメを募るコンペ「CGアニメコンテスト」【※2】の第一回を開催。インターネットが普及するはるか前、文字ベースのパソコン通信しかなかった当時、全国の有志達はパソコン雑誌を通じて細々と繋がっていた。それが一つのコンテストに出品し、アイディアを出し合うことでコミュニティが形成され、小さな流れは大きなうねりに合流していった。 ※1 DoGA CGA System CGアニメによって、個人で制作し個人で発信していく新しいデジタル映像文化を広める活動をしている団体。「CGアニメコンテスト」を主催するなど若手作家の育成に努めている。 ※2 CGアニメコンテスト 関西を中心としCGアニメによる個人ベースの新しいデジタル映像文化を広めるために���成された非営利団体「プロジェクトチームDoGA」が運営する、コンピューターを使用した自主制作映像作品を募るコンペティション。1989年から毎年開催されており、国内の類似するコンテストの中でも歴史は最も古い。 その後も、CGアニメコンテストは毎年行われ、数々の才能を輩出した。『イヴの時間』や『パトレイバーREBOOT』等で知られる吉浦康裕監督も、第15回に入賞した(『水のコトバ』)、コンテスト出身者だ。そして2000年、第12回のグランプリに輝いたのが『彼女と彼女の猫』【※】。日本ファルコムに勤務していた新海が、1999年初夏から初冬にかけて完全にひとりで作り上げた5分弱の短編アニメだった。 ※彼女と彼女の猫……2000年に公開された、新海誠による自主制作短編アニメーション作品、およびそれを原作とした日本の短編テレビアニメ。同氏はこれを1999年の初夏から初冬にかけて、日本ファルコムに勤めながら制作し、第12回CGアニメコンテストグランプリ受賞した。 (画像はリメイク版。『彼女と彼女の猫』公式サイトより) と言っても、本作の制作環境はMacintosh+After Effects【※1】やLightWave【※2】等のソフトウェアであり、X68000やDoGAのシステムが直接用いられたわけではない。だが、この2つが無ければ、ハードルが高かったCGアニメーションを自主制作する動きが広まることは遅れていた。いや、CGコミュニティさえも小さな界隈にまとまっていたかもしれない。 ※1 After Effects Adobeの映像編集ソフト。 ※2 LightWave 米NewTek社が開発及び販売を行う3DCGソフトウェア。 新海誠は18禁ゲームムービー出身ではない それから新海誠が『彼女と彼女の猫』で自主制作アニメに手応えを覚えて、『ほしのこえ』を制作・公開劇場公開するまでには、2年の時間が流れている。 この2000年~2002年という時期は、ゲーム業界では、ちょうど『AIR』(2000年・ビジュアルアーツ)『CLANNAD』(2004年・ビジュアルアーツ)の二大“泣きゲー”や、TYPE-MOON(当時は同人サークル)の処女作と言える同人ゲーム『月姫』【※】(2000年)が出た頃に当たる。 ※月姫……2000年に同人サークルTYPE-MOONが製作した同人ビジュアルノベル『月姫』。シナリオは奈須きのこ、イラストは武内崇。 (画像は「月箱」より) ここに挙げた3本のゲームはいずれも「ビジュアルノベル」というジャンルの作品だ。言わばディスプレイ上で読む小説とでも言うべきもので、文字で書かれたテキストに絵や動画、効果音や選択肢(時にはないこともある)などを加え��「読むゲーム」だ。すでに1970年代前半からあった「文字だけを読み、選択肢を選ぶ」テキストアドベンチャーの進化系でもある。 時系列を言うと、まずチュンソフトが90年代前半に『弟切草』や『かまいたちの夜』で確立した「サウンドノベル」シリーズがある。その後に、リーフ(株式会社アクアプラスのゲームブランド)が1996年に『雫』、『痕』��続き、そして彼らの3作目の『To Heart』が大ヒット。その「リーフビジュアルノベルシリーズ」(3作の総称)の成功に、『AIR』【※】などKey(株式会社ビジュアルアーツのゲームブランド)ブームも重なり、ビジュアルノベルはジャンル名として定着した。 ※AIR……Keyが制作した2作目の恋愛アドベンチャーゲーム、およびそれを原作としたアニメやコミックなどの作品群。。シナリオが感動に特化した“泣きゲー”として多くの支持を集めた。画像は『AIR(全年齢対象版)』。 (画像はAmazonより) ちなみに一時期、新海監督が18禁ゲーム用ムービーの“出身”であるかのように伝えるメディアもあった。確かにminoriの『BITTERSWEET FOOLS』や『Wind -a breath of heart-』のムービーを手掛けたことが有名だが、前者の制作は日本ファルコム退職後の『彼女と彼女の猫』のあと、後者は『ほしのこえ』に続く形で公開されており、時系列的にも「18禁ゲームムービー出身」は単なる事実誤認だ。 だが、新海アニメとビジュアルノベルに、もっと深いレベルで共通点があるのも事実だ。それは、「背景」の比重が大きいことである。 新海アニメでは、家の中、雲の立ち昇る青空、電柱のある風景、電車とホーム、都会と地方……など人物以上に「背景」がものを言う。壮大な世界の中での人のちっぽけさ、踏切越しにすれ違う心、過去の思い出や同じ空の下のあの人への想いを託された空――というぐあいだ。だが、これは情感を盛り上げる効果に留まらず、「動画が少なくて済む」という、労力を節約する効果もある。今や新海アニメの特徴として挙げられるこの特徴は、実は自主制作アニメを「ひとりで作る」上で、とても重要な工夫から来たものだ。 新海アニメとビジュアルノベルに共通する、美しい背景。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報、Keyの公式サイトより) では、ビジュアルノベルはどうか。 このジャンルは、大ざっぱに言えば、「キャラクターの立ち絵+背景」を中心にして成り立っているフォーマットである。「ある人物が」×「ある場所で」の数だけシチュエーションがあり、テキストで綴られるセリフや芝居を支える。学校が舞台なら教室、音楽室や図書室、グラウンドや体育館や校門前など、背景が心情に彩りを与えドラマを豊かにする。 この「背景」は、そう資金力に恵まれていないPCゲームメーカーにとって「採算」の要でもある。ゲームの「物量」については、(ライターは大変だが)テキストにお任せする。その代わり、ビジュアルの部分は同じ場面を全キャラにつき流用することでコストも省き、逆にキャラも増やしやすくする。こうした低コスト構造は、インターネット上でフリーで配布されたスクリプトエンジン【※】と相まって、中小ブランドの参入を促し、2000年代前半にジャンルを活性化させ���いく。 こういう「背景」の省エネ効果の工夫が、新海アニメとビジュアルノベルに共通しているのは、まさに当時の技術的条件に、両者が共通するものがあったからに他ならない。 ※スクリプトエンジン ノベルゲームに特化したゲームエンジン。『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』に用いられたNScripterなどがある。 実写背景の『センチメンタルグラフティ』との同時代性 もう一つ、今や新海誠のアニメの大事な部分を形作る「背景」の特徴に、この90年代後半~2000年代初頭の技術的な条件が反映されていることを指摘しよう。それは新海アニメの背景の一貫して変わらない強み――「緻密な美しさ」だ。 新海誠のポートレート。 (画像は新海誠作品ポータルサイトより) そもそも新海誠は本職の絵描き出身ではない。そんな彼が、なぜ劇場アニメとしては25分の短さとは言え、『ほしのこえ』を「ひとりで作れた」のか? それは、デジタルツールの登場によるところが大きい。90年代後半はのQV-10【※】(1994・CASIO)をはじめ、デジカメが急速に普及し始めた時期だった。まだ解像度はそう高くなく、アナログ写真に取って代わるには遠い性能だったが、それでも現実の風景がコンピュータ上で加工できる「素材」になった意義は小さくはない。 ※QV-10……カシオ計算機が1994年に発売した、民生用デジタルカメラのはしり。初めて液晶画面が備わるなど、性能と価格(65000円)の折り合いがよく、ここを契機に一般にデジタルカメラの存在が認知され始める。 (画像:編集部撮影) 『彼女と彼女の猫』の制作も、出発点は「デジカメとPC」だったという。新海は部屋の様子を写真に撮り、それをIllustrator(イラストレーター)などで加工した。手描きの絵やコンテもデータに取り込み、全てがPC上で統合されたという。そうしたデジタルの手触りが、手描きアニメを見慣れた目には「新しい」と映った。逆に「見るからにCG」、「デジタルの異世界」といったCGアニメの中で、新海の描き出した「生活感のある部屋」や「当たり前の日常」は、異彩を放っていた。 この、現実の空間感覚を映像に取り入れるスタイルは、90年代当時の「レイアウトシステム」の広がりともシンクロしている。先に画面構成(レイアウト)を決めてスタッフの意思統一をしてから原画で要所要所の絵を制作、これを元に細かい動き=動画を描くーーというやり方は宮崎駿が『アルプスの少女ハイジ』で確立したとされる。だが、実際に普及したのは押井守監督が『機動警察パトレイバー2 the Movie』で使用された実際の資料を解説した教本『Methods 押井守・「パトレイバー2」演出ノート』【※】が出てからのことだ。 ※Methods 押井守・「パトレイバー2」演出ノート……1994年刊行。『機動警察パトレイバー2 the Movie』について監督である押井守が自ら項目ごとにキャプションを加えた演出ノート。画角の違いによる印象や情報量の変化などを細部まで解説しており、アニメ映像制作を学ぶ人にとっては教科書的存在となっている。 (画像は復刊ドットコムより) そして同時期、やはりゲームの背景にも「写真」を取り入れる動きが、一部にあった。『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語』や「北へ。」シリーズ、『センチメンタルグラフティ』など、名所や地方を移動する「旅ゲーム」がそれに当たる。 レイアウト作りには写真がつきものだ。矛盾のないアニメ空間を作るには、「現実」以上に参考になるものはない。新海誠は商業アニメがどう作られているか知らず、手探りするうち「写真」を重要なパーツにした。だが、それはたまたま「アニメの最先端」に位置していた。 写真にコンピューターグラフィックを重ねる手法が話題となった『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語 Kai』。 (画像はAmazonより) この中では『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語』が、1997年と最も登場が早く「元祖」と言われるが、いずれも背景には実写取り込みが使われている。アニメのデジタルツーリズム、すなわち「聖地巡礼」の原点的な位置づけとしては、しばしば2002年の『おねがい☆ティーチャー』【※】が挙げられるが、実写データが流用しやすいゲームは、(アニメでは実写の違和感が出やすい)「現実の風景を活用する」ことについて、実は少し先を行っていたのだ。 こうした「旅ゲーム」は、先述した「立ち絵+背景+テキスト(メッセージウィンドウ)」から成るビジュアルノベルの延長上にある。実写取り込みによる背景はキャラクターを立たせてドラマを盛り上げる一方で、それ自体が「旅情」を作る主役でもある。 ※おねがい☆ティーチャー 2002年に放送された日本のテレビアニメ作品、およびそれを原作とする漫画・小説。舞台である長野県大町市の木崎湖周辺は、ファンが作品に縁のある場所を訪れる「聖地巡礼」の対象とされている。 『北へ。Photo Memories』(1999年・ハドソン) (画像はAmazonより) 北海道観光協会とタイアップした『北へ。』シリーズは、まさに「北海道」が主人公だった。高校2年の少年が夏休みの14日間を利用して、観光スポットを巡りながら8人の女の子達と関わる。「北海道の地下鉄には網棚がない」などウンチク会話で好感度がなぜか上がるシステムはスゴかったが、街並みや自然の美しさは十分伝わってきた。『センチメンタルグラフティ』はさらに豪快で、北海道から九州まで全国各地にいる女の子に会いに行き、恋愛イベントを発生させるゲームだ。要するに学校の各教室やデートスポットが日本各地に散らばった『ときめきメモリアル』という体裁だが、その結果「バイトで旅費を稼いで日本を飛び回り、カネがなければ野宿する」という超人的な主人公が生まれた。こちらの背景は実写とアニメ絵を馴染ませる加工がほぼかけられてなかったので、良くいえばワイルドな味わいだ。 新海誠監督が自主制作アニメを作れたことの根底には、こうしたことを可能にしたデジタルツールの進化があった。当時の新海誠は、確かに「ゲームの発想とツール���の最先端に位置していたのだし、それがアニメ一般に波及していく入り口の場所にも立っていたのだ。 『ほしのこえ』とともに消えたゲームの影響 そして、2002年に『ほしのこえ』【※】が公開される。 ※ほしのこえ……2002年公開の新海誠監督の短編アニメーション映画。同氏初の初の劇場公開作品にあたる。キャッチコピーは、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より) 約25分とは言えまとまった長さがあり、内容もハイクォリティ。そんなアニメを「ひとりで作った」ということで話題になり、新海誠監督が自主制作CGアニメの“内輪”を超えて注目を集めた、事実上のメジャーデビュー作だ。 だが本作は同時に、「ゲームとバックグラウンドを共有する新海作品」としては、おそらく最後の存在となる。その後の新海アニメは、「普通のアニメ」の作り方に近づき、デジタルツールに重きを置くゲームとは遠ざかっていった。 そんなふうになった理由は『ほしのこえ』の成功そのものが、新海が「ひとりで作る」必要のない環境を用意してしまったからだ。なにしろ、このアニメは社会的名声だけではなく、DVDが発売から1週間で1万枚、最終的には国内で6万8千枚(2005年時点)の売上という商業的大成功にも恵まれた。 その結果、CGアニメ制作ツールという「省力化の道具」や、諸々のゲームと地続きの存在に頼らなくてもいい環境が、新海の前に用意された。次回作『雲のむこう、約束の場所』【※】で新海は、スタッフの増員と充実をはかる。「手描き」できる人手が多ければ、背景も「加工」ではなく一から描ける比率が高くなるし、手描きで2Dの人間キャラも止め絵ではなく「動かせる」ようになる。そして私見を言うと、この時期から新海は映像作家としては、その強みである「遠距離恋愛と美しい背景」に特化していき、ゲームの影響はむしろ意図的に排除したようにさえも思えるのだ。 ※雲のむこう、約束の場所……2004年に公開された、新海誠監督の長編アニメーション映画。前作『ほしのこえ』以上の作画のクオリティーと巧みな演出、音楽とのマッチングが大いに評価され、この作品で第59回毎日映画コンクールアニメーション映画賞を、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』などを抑え受賞。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より) ロボットゲームCGの遺伝子 では、そんな2002年の『ほしのこえ』はどんな作品だったのだろうか? 大まかに言って、本作は美しい背景をバックにした情感ある人間ドラマ部分と、スピーディーで迫力ある宇宙ロボットバトルの3DCG部分という、2つのパートに分けられる。その振れ幅が世界の広さとなり、前作『彼女と彼女の猫』よりもスケールが大きな印象を与えている。 この点について「新海誠が好きなものを詰め込んだ」という見方も間違いではないかも知れない。だが、この異質な二つの組み合わせによる物語のスケールアップは、おそらく意図的なものだ。というのも、元々『彼女と彼女の猫』に続く新作は、前作に繋がる地味な話になる予定だったからだ。こうなったのは、DoGA代表のかまたゆたか氏がNGを出した【※1】結果だったという。その理由は、より多くのユーザーに訴求するよう派手にする狙いもあったろうし、当時登場していた少年少女の関係が世界の運命に直結する「セカイ系」【※2】作品のブームに乗る形でもあっただろう。 ※1 DoGA代表のかまたゆたか氏がNGを出した 参考文献:Sぱらインターネット分室の『ほしのこえ』のエントリーより ※2 セカイ系 主人公とそのごく近くの人間だけで世界の行く末が決定づけられる物語の類型。主人公と周囲の人物との関係性が世界の危機に直結する、精神世界の描写に重点が置かれるなどの特徴がある。1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』が大きな影響を与えた。2000年代前半の代表的な作品として挙げられるのは『ほしのこえ』(2002年)のほか、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(1999~2001年)、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』(2001~2003年)など。 だが、同時にロボットバ��ルの3DCGパートは、やはり新海が「ひとりで作る」ために必須でもあった。人間ドラマのパートだけを取り出すと、ほぼ止め絵かスライドになり「絵が動いてない」箇所が多く、ちょっと「アニメ」とは言いにくい。本職のアニメーターでもなく、手描きで「動画」を大量に描いた経験もない新海が、時間が限られた中でここに労力を割くのは合理的でもなかったろう。 それに対して、ロボットの3DCGパートは、コンピュータ+3DCGソフトウェアで「動き」が自動生成できる。モデリングしたデータを配置し、アニメーションの動きを設定する手間はかかるが、「動かす」実作業はコンピュータに任せられる。2Dの手描きキャラと3DCGのロボットバトルという構成は、「ひとりで作る」ための実にクレバーな設計だったのだ。 画面左が『ほしのこえ』で登場するロボットのビジュアル。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より) では、そのロボットアニメパートは、どんなものだったのか。 ここについては『新世紀エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』、『機動戦艦ナデシコ』などのアニメの影響ばかりが指摘されやすいが、技術的にもビジュアル的にもゲームの系譜にも連なっている。実際、宇宙での艦隊戦や、敵侵攻予想ルートなどのブリーフィング図は、『スターブレード』【※1】や『ギャラクシアン3』【※】などナムコの3DCGゲームを思わせないだろうか? これはただの印象論ではない。そもそも90年代半ば〜後半にかけてのロボットや、宇宙×メカのCGムービーは、ゲームの強い影響下にあったのである。例えば、『ほしのこえ』の3DCGはLightWaveというソフトウェアで作られているが、このソフトの存在を日本に知らしめたのは、『PROJECT-WIVERN』【※3】という3DCGムービーだった。これは今もCGの第一線で活躍している青山敏之氏と北田清延氏が3年かけて、卒業制作として作った映像である。 ※1 スターブレード ナムコ(当時)が1991年にリリースしたアーケード用シューティングゲーム。自動進行する自機に乗り込み、ポリゴンで描かれた壮大な宇宙戦闘に臨む。出撃前には、プレイヤーに目的を説明するとともに気分を盛り上げるブリーフィングのシークエンスがある。 ※2 ��ャラクシアン3 巨大なスクリーンで複数人が同時に挑むナムコ(当時)のアーケード用シューティング。プレイヤーはブリーフィングを受けたのち、『スターブレード』と同様に壮大な宇宙戦闘に挑む。映像に座席が連動して動くなどの大仕掛けだったため、巨大なイベントなどでの体験が中心となり、1990年に大阪で催された国際花と緑の博覧会に出展された28人乗りのものが最初となる。ほかには1990年代に期間限定で東京・二子玉川に存在したナムコのアミューズメントパーク、ワンダーエッグなどでプレイできたほか、スポットやゲームセンター用にサイジングされた16人乗り、6人乗りのものなどがある。 ※3 PROJECT-WIVERN CGクリエイターの青山敏之氏と北田清延氏が1997年に共同制作した3DCGアニメーション。PROJECT TEAM DoGA主催の第9回CGアニメコンテストで映像賞を受賞し、VHSの自主販売では3000本以上という異例の売り上げを記録した。 『スターブレード』(画像左)と『ギャラクシアン3』(画像右) (画像はWii Virtual Console Arcade STARBLADE、PlayStation/ギャラクシアン3-Galaxian3-より) 96年のCGアニメコンテストで予告編が公開されたとき、この作品はその圧倒的なクォリティでCGアニメーション界に大きな衝撃を与えた。そして翌年には15分のフルバージョンが公開。WAVY AWARD’97最優秀賞とCGアニメコンテスト入賞に輝き、1人……ではないが「2人でできた」ことが驚かれた。 (画像はPROJECT-WIVERNの公式サイトよりダウンロードできるティザームービーのスクリーンショット) この『PROJECT-WIVERN』には、確かに「宇宙要塞に突入すると、閉まるシャッター」などの『スター・ウォーズ』へのオマージュも伺えるが、やはりそれ以上にゲームの影響が大きい。「光の輝きに向かってワープ」や「解き放たれるホーミングレーザー」などにはMEGA-CD版『シルフィード』【※1】、硬質なメカデザインには『ヴェイグス』【※2】などPC-8801【※3】時代のゲームアーツ作品の影響……があることは、そもそもご本人達も認めている。無論、それらのゲームも先行した映画なりゲームなりの影響下にあったはずだが、この作品はまさに「映像→ドット絵→3DCG」という、日本ならではのメカCGアニメの進化が詰まった映像だった。 当時の状況を思えば、そこに使われたLightWaveを使い、5年後に『ほしのこえ』を送り出した新海監督が『PROJECT-WIVERN』の影響を受けなかったとは、さすがに考えにくい。実際に動きのタイミングにも近いものを感じる。それに『彼女と彼女の猫』と地続きではない、「宇宙とロボットへの飛躍」を促したDoGAかまた氏の脳裏にも、CGアニメに大きなインパクトをもたらした同作の再来を期するところはあったのではなかろうか。 ※1 シルフィード ゲームアーツによる3Dポリゴンシューティング。オリジナルはPC-88シリーズで1986年に、文中のMEGA-CD版は1993年に発売された。『スター・ウォーズ』のタイトルロールのような、画面の奥に向かって左右が細る画面構成が特徴。宇宙空間を切り裂くシャープな自機のシルバーカラーと、当時のポリゴンの描画具合がマッチ。さらに画面構成もあいまってゲームにスピード感をもたらしていた。 ※2 ヴェイグス 日本のゲームソフトウェア制作会社「ゲームアーツ」が1988年12月16日に発売した、サイドビュータイプの強制横スクロールアクションシューティングゲーム。当時のパソコンゲームとしては極端に大きなキャラクターが画面上を激しく動き回る点で画期的とされた。 ※PC-8801 1981年から日本電気(当時)が販売していた、パーソナルコンピューター、及びその周辺機器のシリーズ名。1980年代当時パソコン御三家の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。 世界に誇るアニメ監督になった新海誠 新海のアニメに直接的なゲームからの影響を言う根拠は乏しい。だが、ここまで書いてきたように、新海アニメが同じ土壌の中から生まれ育ち、「ゲームが積み上げた歴史の上」にあることは疑いない。 冒頭に話を戻すと、実はX68000の発売当時、筆者は(もっぱら『スペースハリアー』ばかり遊ぶダメ部員だったが)京大マイコンクラブ(KMC)に在籍しており、発売されて間もない頃にDoGAにX68000が数台導入された光景を、現場で見た。まだコンピュータが非力で一枚絵のCGを描くことも大変だった頃、コンピュータで絵を「動かしたい」気運だけは草の根で高まっていた時代――そんなCGへの情熱を「実際に動かす」と結びつけた始まりこそが、個人向けワークステーションとしてのX68000だった。 新海が過去のPC歴を語ることはほとんどないが、大学時代にX68000に触れたことは十分ありうるだろう。いや、そもそも『彼女と彼女の猫』のグランプリ受賞がきっかけで、新海はCGアニメ制作に専念することを決意し、日本ファルコムを退社したのだ。『君の名は。』でのX68000出演は、そんな「恩人」へのせめてもの手向けだったのではなかったか。 新海誠 @shinkaimakoto ありますよ。ほら。 https://twitter.com/SHARP_JP/status/770061618239639552 … 13:05 - 2016年8月29日 また、もう一つ思うこともある。 より広いユーザーを楽しませ、最大多数の最大幸福をめざす新海監督は、公開当時も賛否両論に分かれたロボット3DCGアニメをその後、事実上封印した。だが、元々は『とらドラ!』ほか青春恋愛ものでブレイクした長井龍雪監督が、ロボットアニメ『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』に進出した例もある(以前『アイドルマスター XENOGLOSSIA』を手がけたので“再進出”かもしれないが)。 「世界に誇るアニメ監督」になった今こそ、「“ゲームの遺伝子”を全開にした新海ロボットアニメが観たい!」――そう願うのは筆者だけではないはずだ。 ※日本最古のCG制作会社に関する記述を削除いたしました(4月3日18:30追記) プロフィール 多根 清史 ゲームやアニメを中心に活躍するフリーライター。著書に『教養としてのゲーム史』、共著に『超ファミコン』など。 Twitter���@bigburn(写真は筑摩書房ウェブサイトより)
http://news.denfaminicogamer.jp/column03/shinkaimakoto
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「遺骨」を捨てる人も、「一族の墓」は維持困難
“無形化”する墓 ──「墓は持たない」という選択
2017年10月17日(火)
柳生 譲治
高齢社会に突入し年間130万もの人々が亡くなる一方、葬儀を執り行い先祖の墓を守る側の人間は、少子化により減り続けている。直葬、散骨、共同墓、手元供養、墓じまい ── 核家族化や高齢ひとり暮らし世帯の増加といった社会の変容もあり、葬儀や埋葬に関わる状況は激変している。多死・人口減少社会の中で、日本人の死生観にどんな変化が起きているのかについて、葬儀や墓の事情に詳しい第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員に聞いた。
(聞き手は柳生譲治)
激変する葬儀、その背景にあるもの
小谷みどり(こたに・みどり)氏 第一生命経済研究所 主席研究員
大阪府出身。奈良女子大学大学院修士課程修了後、ライフデザイン研究所(現・第一生命経済研究所)に入社。博士(人間科学)。専門は生活設計論、死生学、葬送問題。国内外の墓地や葬送の現場を歩き、大学で生活経営学や死生学などを教えている。主な著書に、『<ひとり死>時代のお葬式とお墓』、『ひとり終活 不安が消える万全の備え』など。
この20年くらいで、亡くなった人の葬儀の簡素化が進んだということを実感しています。今は家族を中心とした身内だけで内々に行うことが主流になっています。
小谷:かつて葬儀は残された者たちの「義務」と考えられており、見栄や世間体もあって葬儀は盛大に行われていました。葬式をキチンと執り行わなければ世間体が悪いと考えられたのです。とりわけ地方では立派な葬式をしなければならないという一種の“圧力”があったと思います。そのために、近所のおばさんたちも葬式の手伝いに駆り出されていました。でも、核家族が当たり前になって、地域社会も大きく変わり、人づき合いも減り、世間体や見栄を気にする人は少なくなりました。
「世間体」や「見栄」を気にする、伝統的意識を持つ人たちが減ったために、葬儀の簡素化や多様化は進んでいった、と。
小谷:それも一つの要因だったと思っています。ほかにも原因を挙げれば、長寿化により故人が高齢のケースが増えたことも、葬儀のあり方に大きな影響を与えています。例えば故人が高齢であれば友人も少なくなりますし、葬儀に参列できる人もかなり減るためです。
さらに、三世代同居の時代がすでに遠くなり、核家族やひとり暮らし世帯が増えたことも背景にあります。家族の形は大きく変容しました。日本では従来、葬儀は「家」の重要な儀式であり、人生の終末期から死後までの手続きや作業は子孫が担うべきだとされてきましたが、子供たちは成人後に両親と別に住むことが一般的になり、現実として、離れて住む親や親族の葬儀に労力や時間を割くことは難しくなりました。一方、親の側も、「家族に負担をかけたくない」と小規模の葬儀を望むことが増えており、簡素化に拍車をかけています。
核家族化で変容、日本人独特の死生観
死生観も変化している?
小谷:死に対する感覚は、核家族で育った人と、三世代が一つ屋根の下に暮らし仏壇が生活環境にあったような人とでは、大きく異なります。例えば家の鴨居にかけられていた先祖の写真、かつて各家で行われていた「お盆」の行事──そうしたものは、亡くなった人をしのぶ“装置”として機能していました。そこには日本人独特の死生観がありましたが、今ではそうした環境も失われています。そもそも「盆踊り」は本来、地域の人たちで死者を弔うための儀式でしたが、今では単なる夏祭りくらいにしかとらえられていないのではないでしょうか。こうした社会の変容も、伝統的な葬儀の衰退と関連しているのではないかと思います。
かつては亡くなれば、亡くなった順番に集落の墓地に土葬されました。それが大正時代以降、火葬が普及していくと、先祖の入っている「○○家之墓」に納骨され、子孫たちがその墓を半永久的に守っていくことが当たり前とされるようになりました。しかし、核家族化や少子化で墓を継承していく子孫がそもそもいなくなってしまいました。葬儀やお墓のかたちは、このように社会や時代に応じて、変わってきたのです。
東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)に4年前にできた合葬式墓地。合葬式墓地とは、多くの遺骨を一緒に埋葬する形式の墓所を指す。10万体の遺骨を地下に収容できる。円形墳墓になっていて、その前に献花台がある。将来にわたって一族の墓を継承していくことを困難と考えた人が、こうした共同墓に入るケースが増えている。
1990年前後のバブル期には一部で盛大な葬儀も行われていましたが、今ではいわゆる「直葬」(葬式を行わず火葬のみを行う)や、一日葬(告別式と通夜を兼ねて葬儀を行う)といった形も、普通のことになりました。
小谷:葬式の担い手が戦後世代へと世代交代したこともあって、従来の慣習や考え方に縛られずに弔い方を選ぶようになりました。そうした葬式の簡素化に対し批判的な人も、じつはまだ全体の3割くらいいるのですが、「家族が参列するだけなら立派な祭壇を組んでもムダではないか」と考えるのは、自然な流れではないかと思います。
家族だけで内々に簡素な葬儀を行う人のため、斎場で火葬を行うまでの24時間を家族とともに過ごす「遺体ホテル」のような施設も登場しています。「直葬」は地方では数パーセント程度にとどまりますが、東京ではすでに3割を超えているのではないかという見方もあります。
遺骨を電車の網棚に遺棄する人たち
ただ、死を簡素に扱うようになったといっても、限度がありますよね。死者に対する尊崇の念が薄れ、火葬にした遺骨をそのまま火葬場に置いてきたり、遺棄したりしてしまう人たちもいると聞きます。
小谷:駅のロッカーや電車の網棚などに遺骨を放置してしまう人が増えているようです。ただ、経済的に恵まれていない人が、お墓を買えずにやむにやまれずというケースも含まれているはずです。
例えば、普段疎遠となっている叔父や叔母がひっそり亡くなって、突然、警察や病院や老人ホームから「遺体をひきとってくれませんか」と突然連絡が来る。でも経済的な余裕がなければお墓をつくることも難しい。血がつながっているからというだけで、何十年も会ったことがない親戚の供養を押しつけられるのはたまらない、という人もいる。仕方なく火葬にした遺骨を遺棄してしまう。もちろん遺骨を霊園や墓以外の場所に捨てるのは違法です(注*1)。遺棄しないまでも、ゆうパックで骨壷をお寺などに送り、数万円で合葬してもらう人も増えています。
(注*1) 遺骨を墓や霊園などしかるべき場所以外に放置すると、刑法190条が禁じている「死体や遺骨などの遺棄」にあたり、3年以下の懲役に処せられる可能性がある(「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」)。
しかし、引き取り手のいない遺体や遺骨が増え、電車の網棚に捨てられてしまうような現実がある以上、社会全体としてそういう遺体や遺骨をどのように扱い弔っていくかを考えねばならない時代になったと言えるでしょう。
自治体も近年は、引き取り手のない遺体や遺骨に困っているようですね。引き取り手のない遺骨は、東京都23区で年間約450柱、日本全体で年間約7000柱にものぼるのだとか。
小谷:ひと昔前は、引き取り手のない遺骨は身元不明者がほとんどでしたが、最近ではたいてい身元が分かっています。でも血縁者に引き取りを打診すると、引き取りを拒否されてしまう。
ただ、先ほど話題にした、遺骨を電車の中に放置する人もそうですが、受け取りを拒否しているからといって、その人たちの心が壊れているわけではありません。葬儀をしたり、お墓をつくったりするには100万円単位でお金がかかりますから、引き取りたくてもできない人もいる。
誰の死にも冷たいという人は、世の中にほとんどいないと私は思っています。やはり、その亡くなった人との縁の深さも関係しているのでしょう。
“無縁遺骨”対策で横須賀市が始めたサービス
横須賀市の「エンディングプラン・サポート事業」のパンフレットの表紙。
生涯未婚率は高まり、子どものいない夫婦、離婚シングルの人たちも増加傾向ですから、やがては“無縁遺骨”は増えていく一方なのでしょうね。横須賀市が提供している「エンディングプラン・サポート事業」(注*2)のようなサービスが、ほかの自治体にも広がっていくのでしょうか。
(注*2) ひとり暮らしで身寄りがなく、収入・資産が一定額以下の高齢の市民を対象として、死後の手続きを支援するサービス。市役所の職員が葬儀や納骨についての意向、リビングウィル(延命治療意思)などを本人から聞き取り、一緒に終活支援プランを立てる。希望者は同時に、葬儀社と生前契約を結ぶ。引き取り手のない遺体や遺骨が急増していることからこのサービスを開始した。
小谷:横須賀市は、高齢者の葬儀やお墓の問題に手をさしのべる自治体の先駆けだと言えます。これからの時代は、「死んだ時に、残される家族がいる」ことが当たり前ではない社会になります。自治体のサポートで、そうした「ひとり死」の状況にも対応できるようにするという試みです。
神奈川県大和市や千葉市が同様の制度を開始しました。でも、こうした試みが全国各地にあまねく広がっていくかというと、やはり自治体の予算の問題が壁になるでしょう。例えば2000年以降のわずか17年間で生活保護を受けている高齢者世帯数は2.4倍以上になっており、今後高齢者福祉にはさらにお金がかかります。
生きている人に対する福祉が必要なことは誰も異論はありませんが、すでに多死社会の現在、死後の葬儀や埋葬までサポートする経済的余裕がすべての自治体にあるのかどうか。福祉政策について「ゆりかごから墓場まで」という言葉がありますが、日本で福祉の対象となるのは亡くなる瞬間までで、「墓場(亡くなった後の対応)」は福祉がカバーする範囲の外なのです。
遺骨をダイヤに、故人をしのぶための「手元供養」
墓の継承ができるかどうかわからないため、墓は作らず・持たずの人が増え、散骨も一般的な葬送の形としてきっと普及していくのでしょうね。また、霊園の樹木を墓標として遺骨を土中に埋める「樹木葬」も増えていると聞きます。こうした散骨や樹木葬など、墓の“無形化”の流れでは、ほかにどのようなものがありますか。
稲城・府中メモリアルパーク(東京都稲城市)内の樹林葬を行うための「樹林式墓地」。直接土に触れるかたちで木の下に遺骨を共同埋葬する。(写真:PIXTA)
小谷:「手元供養」はその一つではないでしょうか。亡くなった父母など近親者や大切な人の遺骨を手元に置いておくという人が増えています(注*3)。もちろん、経済的に十分な余裕がないために墓を持たず、遺骨を家に置いておくという人もいますが、近くに置いてときどき話しかけたり、手を合わせたりして、身近にその存在を感じていたいという気持ちが強い人が選択するのだと思います。
(注*3) 「墓地、埋葬等に関する法律」では、遺骨を自宅の庭に埋めることは禁じているが、遺骨を自宅に安置しておくことは問題ない。
手元供養に使用する「ご供養家具」の例。上段の写真は遺品などを収納する祭壇。下段の写真はリビングに置くことも想定した納骨祭壇。骨壺は祭壇の下に収容できる(粉骨せずに納骨できる)。(写真提供:トータルリビング ユウキ)
遺骨を骨壺の中に入れたまま安置するケースのほか、ペンダントなどに入れたり、ダイヤや石などのアクセサリーに加工して常に身に着けたりする人もいます(注*4)。故人の存在を常に近くに感じ、「生活の中で故人をしのびたい」「故人に見守っていてほしい」という気持ちの強い人は、こうした個性的な供養の方法を選ぶことも珍しくなくなるでしょう。
(注*4) 歌舞伎役者・中村勘三郎(18代目)さんが亡くなった後、寂しさや喪失感を埋めるために勘三郎さんの妻が遺骨の一部をダイヤにして身につけていたことが話題になったこともあった。
遺骨の成分から作られた人工ダイヤ。(写真提供:アルゴダンザ・ジャパン)
ちなみに、葬儀の簡素化や多様化といった変化は、日本に限ったものではなく、これは海外もほぼ同様です。ただし、発展途上国や未開の地域はいまも葬式は立派なものです。それは現在も相互に助け合わないと生きていけない社会であって、人間関係が濃密なことの証拠です。逆に社会が経済的に発展していけば、たいていのことはお金で解決できますし、人間同士の関係は希薄になりがちです。例えば日本では介護が必要になった高齢者は、介護施設に入ることが近年は一般的になりました。そうした社会環境も葬儀やお墓の変化に反映しているのです。
無縁化する墓、誰に墓を託すのか
ご著書『<ひとり死>時代のお葬式とお墓』の中には、墓の“無縁化”のエピソードとして、熊本県人吉市で2013年に市内の墓地を調査したところ4割以上が無縁墓になっており、中には8割以上が無縁墓になっている墓地もあるという記述がありました。空き家と同様に無縁墓も今後問題視されていくのではないでしょうか。
東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)の合葬式墓地にある電子墓誌。埋葬された人の名前や埋葬年月日を表示できる。
小谷:じつは無縁墓の問題はすでに1980年代からマスメディアなどで報道されるようになっていましたが、その頃はまだ「子供がいなくて家が途絶えたかわいそうな人たち」といったイメージでした。しかし、少子化が進んだ現在では、大半の人が「自分たちの問題」「みんなの問題」であって、「社会的な問題」であることに気づいています。
私の行った調査では、自分のお墓が今後無縁化しないと思っている人は、もう1割程度しかいません。言い換えれば、今ではほとんどの人は自分の墓が無縁化する可能性があるという不安を抱えているのです。「墓を荒れさせるよりはまし」と、生前に自ら「墓じまい(墓を処分して撤去し更地にする。遺骨は永代供養の共同墓などに移したり、散骨したりする)」を行う人も増えています。
人口が減ったうえ、生まれた場所で一生を終えるというライフスタイルの人は少なくなり、「○○家之墓」はもはや維持できなくなってきている以上、別の方法を考える必要があります。一つの方策としてあるのは、親族に限定せずに血のつながらない人たちで墓を共有するという考え方です。「共同墓」や「合葬墓」「永代供養墓」といったものです。お寺やNPOなどが主体となって運営・管理していく形になります。自治体が共同墓を新設するケースも増えています(前掲写真の��京都立八柱霊園など)。
さらにもう一つの傾向は、さきほども話題に上がりました、墓の“無形化”。「墓は作らない」という選択です。散骨については、つい20、30年ほど前までは「葬送の方法として好ましくない」(注*5)と忌避する人が主流でしたが、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年)や高倉健さん主演の映画「あなたへ」(2012年)で散骨が描かれたこともあり、特殊な葬送な方法と考える人は減りました。今では当たり前の選択肢になりましたね。私が8年ほど前の2009年の時点で実施した調査でも、死んだら散骨してほしいという人が3割近くもいました。
(注*5) 散骨はかつて「刑法190条や『墓地、埋葬等に関する法律』に違反しているのではないか」という意見もあったが、1991年に法務省が「節度を持って葬送の一つとして行われる限り、散骨は遺骨遺棄罪にはあたらない」という見解を示した。これにより事実上認められるようになった。楽天リサーチの2014年の調査では、女性の約2割、男性の1割がすでに自分が死んだら散骨してほしいと希望している。
海洋散骨の風景。(写真:PIXTA)
ただ、お墓の望ましいあり方は、そこに入る人と残される人の、双方の観点から考える必要があるのではないかと私は思っています。残される人にとっても故人をしのぶ場がほしいという希望があるかもしれません。一方、亡くなる人にとっては、家族に死後にお参りしてもらえるという確証が、死の不安を軽減することが分かっています。葬儀や埋葬の形が多様化する中で、どのような方法であれば、双方が安心感を得られるのかという観点も、墓や供養の方法を考える上での重要なポイントであると思います。
死の恐怖を安心に変えるために ── 新たな関係をどう築くか
現代では一緒に住む家族のいない人もたくさんいるわけですが、お墓だけでなく死後の様々な手続きを、血縁関係にない知人や友人に託すということはあり得るでしょうか。
小谷:あると思います。日本では人生の終末期を肉親に頼る傾向が強いですが、海外では友人・知人に頼るのはよくあることです。
少子社会・非婚社会の現代では、今後は血縁に頼らず、同じ帰属意識からなるコミュニティ──例えば老人ホームやサークルなど──の仲間が亡くなれば、そのコミュニティに属する人が葬儀を行い、やがてはみな同じ墓に入るといったことも増えていくでしょう。実際、希望者が話し合って集合住宅を建設する「コーポラティブハウス」のように、血縁を超えた人たちが話し合って一緒に入る墓を用意するケースも出てきています。
今後の高齢社会は誰にとっても未知の世界です。でも、人は死ぬ時に自分をしのんでくれる人がいれば、死への恐怖が安心感に変わると言われています。今後は頼るべき家族を持たない人がさらに増えていくわけですから、血縁を超えて友人や知人たちとの���ながりを育んでおくことは大切なことです。子孫の手で葬られるという伝統的な葬祭のスタイルが維持できなくなっている現代では、普段から周囲の仲間や知人たちとどんな関係を築くことができるかが、問われるようになっていくのです。
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