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この2ヶ月(がんの患者に付き添って)
だいぶご無沙汰してました。
家族、親族が次々コロナに罹った後遺症的なやつでとてもバタバタしていたのがひと段落したのが2月、ようやく落ち着いたとおもった3月に、一番よく接触する家族ががん健診に引っかかりました。
健診後に転院とか検査をしてがんかどうかわかるまでに一ヶ月、そこから転移の検査にさらに2週間かかり、だいぶ不安な日々を送っていました。
今はがんの検査が一通り終わり、治療方針がだいたい固まったところです。幸いステージが低く、この状況だと切ってしまえば9割以上は皆さん普通に生活されてますねー(本当はもっと細かく丁寧です)。と主治医の先生は気さくな感じで手術の話を進めてきます。
しかし、本人は入院したこともなく、腫瘍もがんも、手術もMRIもはじめてで、検査は痛いしわけわからないし、手術も抗がん剤治療も怖いし、(あるかわからないけど)放射線治療も怖いしその後の生活も不安だしと、何を言われても怖い怖い状態になってしまい、最初の検査結果が出たぐらいからぼーっとしたり怒りっぽくなったり、めそめそしたり半ばパニックおこしたりと、精神的にかなり不安定な状態になってしまいました。
このままでは事故りそうな状態だったため、職場にお願いして可能な限り通院に付き添い、空いてる時間はおはなししたり、わかる範囲で調べたり、セカンドオピニオンの病院探したり、手術件数多いところをめぐったりなどしていました。本体のステージが軽そうなのはすぐにわかったのですが、転移次第で大化けして大手術になる可能性が最後まで消せませんでした。不安な状態が長く続いたからか、転移の検査結果を聞きに行く前後は気づくと泣いてる、みたいな状態でした。
幸いなことに切る前にわかる範囲では大きな転移は見つからず、微妙に早期発見だったのと、腫瘍の場所も幸運で思っていたより軽い手術で良いとわかって、溜め込んだ心配からかなり解放されました。本人は、手術までに他の悪いとこの検査が必要なのでまだ病院ばかりいってます。
本人が決める必要があることに向き合えるようになるまでのころが結構辛かったです。最終的にちゃんと向き合えたの��、がん相談支援センターで、がん看護専門看護師とカウンセリング持ってる方に相談にいってからでした。
相談した内容も返ってきた答えも、それ以前に私や主治医の先生に尋ねて回答を得ているものがほとんどだったのですが、同じ解答でも医師ではない、しかし専門家に説明してもらったところに納得したようです。あとはそっち方向に特化した専門家なので説明の仕方が桁違いに上手なのでしょう。またお世話になると思いますがその節はおせわになりました>支援センター様。
そんなわけでしばらく闘病付き添い生活が続く予定です。手術後の状況次第なのでなんとも言えず予定が経ちませんが、かつてサポートしてもらっていた側でもありますし、できる限りサポートしていく所存です。
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Raspberry Pi 400 が最新OSで起動しない話
年末に、RaspberryPi 400 のUSキーボード版をポチりました。ほんとは4Bの4G版を待っていたのですが、半導体不足でこの先しばらく入手が難しそうなので代わりの購入です。
そのPi400が現状の最新OSイメージではうまく動作できなかったのでメモしておきます。
https://www.switch-science.com/catalog/7470/
���サブマシンとして使っている4BをNASにして、こちらをサブマシン兼Wifiルーターにしようと云う目論見でした。
Raspberry Py4Bの1.8GHz対応はボーナスだ、ということですがRaspberryPi 400の1.8GHz対応は当初から仕様に記載されていて、ナチュラルボーン対応している、という認識でした。
そのため、特に何も考えずにRaspberryPi 400にOctober 30th 2021のRaspberryPi OSを動かそうとしました。
やった内容
単純にイメージをDLして書き込んだmicroSDで起動すると、最初は起動します。しかし、aptのサーバを設定してfull-upgradeすると起動しなくなってしまいます。3回試して3度とも同じでした。
設定する内容を絞ると、30分ぐらい放置すると起動するという熱暴走のような状態になったりならなかったり(二度と起動しない)するのですが、起動中のログもデバッガもなく状況がわかっていません。
また、この起動しなくなった状態になると、新しく作った未設定のSDカードを使ってももしばらく起動しない状況も発生していて、upgradeで起動しないのはたまたまであるかソフトの問題ではない可能性が高そうです。なお、その状態でも以前作っていた2021-05-07のSDカードを使うと普通に起動して使えます。
アナログ系の何かが疑わしいと考えているので、クロックダウンや電圧アップで動きそうですが、この個体は安定重視の運用をしたいものがあるため手を出していません。
あまり解析などしなくていいからラズパイにしているのに...という気持ちと、手持ちの台数に余裕がなく、残っている自由時間をチラチラ見ながらやる必要もあったため、あきらめてLegacy版のOSに置き換えてやりたかった環境構築間で済ませてしまいました。
類似の状況はすでに報告があるものの、今の所未解決問題のままです。手元の個体を観察した限りでは、起動しない場合起動中に最初カーソルが表示された状態から、HDMIがVESAから内臓GPUに切り替わるタイミングで画面が一瞬真っ白に光り、そのまま真っ黒になってそのままうんともすんとも言わなくなっています。
動かない状態でもNumLock/CapsLockのLedは反応するため、GPIO/割り込みなどは動いているように見えますが、カーネルが動いている様子は確認できませんでした。
1.5割ほどのパフォーマンスは勿体無いと思うものの、気長に修正を待つことにします。
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コロナで幼馴染を失っていた話
このところ、どうにも心の整理がつきそうもなくモヤモヤしています。
第5波の感染の波が9月の間に一旦落ち着いた状態となっているのはご存じの通りです。
その第5波のさなか、私が知らない間に、若い頃の友人がコロナにかかって亡くなっていました。第三者についての情報なので、都内に住む男性、以外の情報はひとまず伏せます。私から言えるのは皆様どうか、ワクチンを接種してください、ということです。
亡くなった状況は、病院に入れず、自宅で療養中に亡くなっているのが発見された、とのことでした。医師の診断を受けられなかったため、症状が重かったのか軽かったのかもわかりません。亡くなった時点ではコロナで亡くなった人にしては若く、疾患などもなかったため、自宅療養や医療崩壊の話題が盛んに報道されていた中で彼についても報道されていて、そのニュースを私もリアルタイムで見た記憶があるものの、まったく気づけませんでした。
私も私の両親も、彼が亡くなったことを知ったのは、亡くなって一ヶ月以上経ってからのことでした。それを知ってからの無力感を上手に消化できず、ひとまずかけることを書いておこうと思いました。
地元に帰れていないためまた聞きの話になりますが、感染症での死亡のため、誰も死に目には会えず、亡くなったのが発見された後はいきなりお骨が戻ってきた、ということのようです。実感もわかずに呆然としている家族のところにマスコミが取材に来たりして、いまだ家族の皆さんも動揺が続いているという事情もあり、最近の彼について特定できそうな情報は極力伏せます。
最後に会ったのはいつだろう、と何度も考えるのですが、うまく思い出せません。彼と最後に話らしい話をしたのは、一緒にやっていたバイト先が閉鎖する時に、軽い感じでに「また会おうな」とかいって別れた記憶があります。もう20年ほど前の話になります。その後なんどか、挨拶程度交わした記憶がうっすらあるのですがいつなのか思い出せません。
長いこと会ってないとはいえ、私と彼は小さい頃お互いの家にほぼ毎日入り浸り、小学校2年生ぐらいまではご飯とかお風呂を順番にお互いの家で済ます感じの生活をしていました。
彼と出会ったのは幼稚園よりも前で、私が2歳後半ぐらいだっだはずです。そのため最初の出会いは全く覚えていません。訳も分からずよく遊ぶ三人組の一人でした。
私は幼稚園入る頃にはピアノを習ったりしてインドア派の文字こじらせタイプで、一方彼は外で遊びまくるアウトドアタイプでした。そして絵がうまかった。今思うと性格面での共通点はあまり思い浮かびません。どちらも口下手なのにケラケラよく笑うタイプ、ぐらいでしょうか。当時家が近かったのと、7人か8人しかいない小さな幼稚園で一緒だったことで仲良くなったのだと思います。
小学校3年ぐらいまではほぼ毎日一緒に遊んでいました。主にゲームとスポーツの習い事を一緒にしていて、彼はパワータイプ、私は小難しいこと考えるタイプで、協力していろんなゲームをクリアしました。学校ではほとんど別々に過ごしていたものの、一緒の習い事は中学生ぐらいまで続きました。しかし中学後半からは全く会うことがなくなり、彼はスポーツ推薦で有名な高校に進学して半分ぐらい寮生活をしていた…はずです。その時期のことはよくわからないです。
その後、大学時代に私がバイトを始めてしばらくしてから、彼が同じところでバイトを始めて、再び話をするようになりました。彼がケガをしてしまってスポーツを続けられなくなったこと、音楽を始めてそこそこ人気が出て、CD出したりしていること、その資金繰りとかメンバー集めとか、版権とか、スカウトとか、楽器の練習とか楽器ごとのプレーヤーの性格とか結構色々な話をしました。
幼少の頃散々遊んだ友達と、二十歳も過ぎて境遇が変わってから話をできたのは大切な思い出です。私も彼もほとんど喋らないタイプの若者で、私は見るからにオタクの非モテをこじらせていたのに対して、彼は常時グラサンをかけたHipHop系の出で立ちで、無口で不愛想なのはおなじなのに彼だけモテモテだったのはいい笑い話です。バイト先がなくなり、その後の彼についてはお茶のみ友達を続けている親同士を通じて、時々お互いの情報を聞く程度で過ごしていました。
最近はお店を経営、運営していたらしいです。彼にはスポーツだけではなく芸術の才能がありました。彼のお店に行くことはできなかったのですが、彼がデザインしたTシャツとか小物がいい感じにオシャレでよく売れていた、と聞いています。
コロナにかかってからは周りにうつさないように、ひとり立て篭っていたそうです。しかし病院には入れず、保健所からの連絡もないことをぼやいているのを最後に、帰らぬ人となってしまいました。状況から急変したものと考えられますが、保健所の最後の連絡から結構時間が経っているらしく、正確なところはわかりません。
私はまだ会いに行けていません。実感もあまりありません。何かをしているときにふと、地元で頑張っていると思っていたあいつが死んでしまったんだ、という思いに駆られるのを度々繰り返しています。彼の冥福を祈る、と言葉は出てきても、なにも実感が湧かずにいます。私の両親も、彼の母親もハイリスクにあたる病気を抱えており、いまの疫病が続いている間は、治せるようになるまではお線香あげに行くのもためらわれる状態です。会いに行けるのは来年か、再来年かまだはっきりしませんが近いうちには無理だと考えています。
タイミングと年齢的にワクチンを気楽に接種できるよりも前だったので運が悪かった、以外に言えることはないのですが、悲しい。とても悲しいです。
感染があと一ヶ月遅ければ、せめてオリンピック前後の飲み会やっちまえムードが穏やかだったらかからなかったのでは、と思わずにはいられません。しかしそれも前後の状況がわからないので推測です。私はただただ、数少ない、昔のことを話せる友を失ったのがとても悲しいです。
彼の分も頑張って生きなければ、などといういい話っぽい言葉は浮かんだり消えたりしていますが、現段階ではいい話にできる気持ちの余裕がありません。皆様、仲の良かった誰かが、ひっそりと一ヶ月も前に亡くなっていた、というのは現実にありえます。どうかワクチンを接種して、その上で感染防止の対策を十分にとって生活を続けてください。
新しいお薬モルヌピラビルに期待を寄せつつ、この病気を人類が克服できる日が近くやってくることを夢見て生きていきます。ワクチンを、接種してください。
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Raspberry Pi 4B+ 初期設定
リモートワークで仕事をしている間、仕事用のPCの横にMac miniを置いて、ネットラジオや音楽をかけたり、webで調べ物をしたりするのに使っていました。
しかしwebとiTunesだけで済むものにずっとMac miniを起動しているのは電力的にもったいない、流行りのSDGsに乗っかって消費電力を下げよう!という気持ちが湧いてきたので、手始めにRaspberry Pi4を買って代わりに使ってみることにしました。少しいじくり回した結果、音楽再生だけ別にしたほうが良さそうという新たな気持ちも湧いてきていますが、ひとまずやった設定をメモっておきます。
1.購入したもの
Raspberry Pi 4B+ 8G RAM
2021年9月の時点で購入できるRaspberry Piは4B+でした。消費電力が大きいのでファン無しでの安定運用は無理そうなものの、デスクトップとして触りたいタイミングもあるので、メモリの多い4Bを買ってみました。
micro SD カード 32GB 2枚
数年前までTransendを選んでいたと思いますが、最近はSamsungが頑張っているというのでSamsungにしています。
ファン付きケース
Amazonで売っているMiuzeiのケースです。ファンがつけられて基盤がむき出しにならなければ何でも良かったので、買うタイミングでケース、電源ケーブル、ファンを合わせて一番安い組み合わせに安くなるものを探してこれにしました。今はもうどうかはわかりませんので確認してください。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07H2WKYBF
microHDMI-HDMI変換ケーブル
しばらくは画面をつないで使うことになるので変換ケーブルを買いました。
今回購入していませんが、sdカードの読み込み用にカードリーダーを一つ用意しています。また、どこのご家庭にもあるキーボード、マウス、ディスプレイは家の中で拾いました。ディスプレイはHDMIから接続できるものがあったほうが楽です。変換しての表示も可能ですが、うまく表示できないなどのトラブルに見舞われがちです。
2. SDカードのフォーマット
普段使っているのがMac OS Xなので、SD Card formatterを使うといいよということらしいのですが、FAT32でフォーマットできればディスクユーティリティーでもTerminalからdiskutilでも大した差はありません。
ディスクユーティリティーでフォーマット
Terminalからフォーマット
わたしはTerminalからやりました。
% diskutil list
でデバイスのパスを調べて
% diskutil eraseDisk MS-DOS RASPI /dev/disk2
とするだけです。/dev/disk2のところは調べたデバイスのパスを入れます。
3. OSの選択とイメージ書き込み
今回は機能の調査もあるのでRasberry Pi OSを入れます。
Raspbian Download公式からRaspberry Pi OSのイメージをダウンロードして展開します。
https://downloads.raspberrypi.org/raspios_full_armhf/images/raspios_full_armhf-2021-05-28/2021-05-07-raspios-buster-armhf-full.zip
展開すると2021-05-07-raspios-buster-armhf-full.imgができて、これをSDカードに書き込みます。
書き込む前に
% sudo diskutil unmountDisk /dev/disk2
でマウントを解除して
% sudo dd bs=1m if=./2021-05-07-raspios-buster-armhf-full.img of=/dev/disk2
で書き込みます。簡単です。これを2枚作っておきます。
4. 起動と初回起動時初期設定
書き込んだmicroSDをRaspberry Piのスロットに指すと、あっけなくRaspberry Pi OSが起動します。
はじめに言語や地域を聞かれるので適当に設定します。この辺はMacOSをインストールしたことがあれば困らないと思います。しばらくはDHCPで使うのでネットワークの設定もしません。
SDカードの書き込み回数をケチるためここではパッケージのアップデートをskipしました。
5. SDカードの書き込み削減設定
ここまでは起動するまでに必要となる誰でも通る手順であり、ここからは私が普段使いにするための設定になります。
私はこれまでいろいろなメディアを扱ってきましたが、SDカードは郡を抜いて壊れやすいです。ファイル単位ではなく、パーティション単位、カード単位で頻繁に壊れるので、回避できる破壊を回避するためにいくつか設定をします。
大体のやり方は外付けディスプレイなしでラズパイ4セットアップでまとめてくださっているのでそちらもご覧ください。
5-1. swapの停止
swapは頻繁に大きなサイズを書き換えてSDカードの寿命を縮めてしまいがちなので停止します。
% sudo swapoff --all
$ sudo apt-get remove dphys-swapfile
$ sudo rm /var/swap
5-2. 一時ファイルのtmpfs化
恒常的に書き込まれているログファイルや一時ファイル一時ファイルをtmpfsに置くことで、SDカードへの書き込みを減らすことができます。
% sudo nano /etc/fstab
で以下を追加します。
tmpfs /tmp tmpfs defaults,size=128m,noatime,mode=1777 0 0
tmpfs /var/tmp tmpfs defaults,size=128m,noatime,mode=1777 0 0
tmpfs /var/log tmpfs defaults,size=128m,noatime,mode=0755 0 0
tmpfs /usr/local/var/log tmpfs defaults,size=128m,noatime,mode=0755 0 0
なお、カーネルを含むapt upgradeやfull-upgradeの際にはtmpfsが足りなくなることがあるようです。その際は/tmpを512mぐらいにするといいと思います。
5-3. ext4のジャーナリング停止
ext4は書き込み中の電源断時のファイルシステム破壊を防ぐため、ジャーナリングの機能を持っています。これはデータを書き込む際により多くのデータを書き込むことで実現しており、特定の状況でのファイル破壊を防ぎはしますが、結果としてSDカードの寿命は縮むことになります。
通常のデスクトップとして使用する場合など、頻繁にメディアを書き換える用途では便利なものですが、内容が決まってからはほとんど書き換えることがない予定なので、これもオフにします。
ジャーナリングのOFFはマウントを解除する必要があるため、一度電源を落としてカードリーダーにカードを差��替え、カードリーダーをUSBポートに挿して、もう一枚のSDカードでラズパイを起動して実施します。
% mount
でおそらく最後のほうに表示される
/dev/sda2 on /media/pi/rootfs type ext4 (rw,nosuid,nodev,relatime,uhelper=udisks2)
が書き換えようとしているSDカー��のrootfsです。
/dev/①のところと、/media/②/rootfsのところは変わるので適宜読み替えてください。
% umount /media/②/rootfs
% sudo tune2fs -O ^has_journal /dev/①
% sudo e2fsck -f /dev/①
を実行するとジャーナリングを停止できます。カードを戻して再起動して
% sudo tune2fs -l /dev/mmcblk0p2|grep features
で表示されるで表示される結果が
Filesystem features: ext_attr resize_inode dir_index filetype extent flex_bg sparse_super large_file dir_nlink extra_isize
とhas_journalが表示されなければ成功です。
6.アップデート
aptで参照するサーバを近所のものに変更します。
% sudo nano /etc/apt/sources.list
で以下の内容に書きかえます。
jessie
deb http://ftp.jaist.ac.jp/raspbian/ jessie main contrib non-free rpi
deb http://ftp.tsukuba.wide.ad.jp/Linux/raspbian/raspbian/ jessie main contrib non-free rpi
deb http://ftp.yz.yamagata-u.ac.jp/pub/linux/raspbian/raspbian/ jessie main contrib non-free rpi
deb http://mirrordirector.raspbian.org/raspbian/ jessie main contrib non-free rpi
# firmwar update
deb http://mirrors.ustc.edu.cn/archive.raspberrypi.org/debian/ jessie main ui
# Uncomment line below then 'apt-get update' to enable 'apt-get source'
#deb-src http://archive.raspbian.org/raspbian/ jessie main contrib non-free rpi
Bullseye版ではjessieの所をbullseyeにするといいです。
設定を保存して
% sudo apt-get update
% sudo apt full-upgrade -y
% sudo apt autoremove -y
としてパッケージマネージャとパッケージをアップデートします。
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2020年の私と2021年お年賀
しばらく見ない間にブログのURLが変わっていました。お久しぶりです。 2020年、様々な大変が降りかかった年でした。 2021年も宜しくお願い致します。
コロナウイルス
コロナウイルスとの戦いについては、未だ予断を許さない状況であり、徐々にわかってきていると言っても、相手はウイルスであり、固定した存在ではありません。現実的な対策はスイスチーズモデル ぐらいしかなく、一つ二つで完璧に防ぐ対応をとなる方法が存在しません。
個人的には2020年1月からずっと以下を継続しています。
物を食べる前、たくさんの物を触る前後、外出前後に石鹸での手洗い
外出時には塗りたてペンキの世界のつもりで行動する
その上で、感染しないことよりも自分が無症状で感染している前提で行動し、他人に移さないよう注意する
人のいるところを極力避ける。外での食事は特に避ける。
余裕があるときなどはもっと細かく、マイ消毒液を持ち歩いたり、マスクのかけ方での差異なども気にしながらやっています。 もちろん、完全に徹底できるわけはありません。失敗もしますし、体力的、気分的に徹底できない事はよくあります。夜遅くまで出張先で仕事して、よく知らない街の居酒屋的な店で食事をするしかなかったこともありました。飲み会を中止してもらいまくり、私は誘われなくなりましたが周囲で続いてしまっているものもありました。手を洗いすぎてささくれから出血し、痛くて洗えない時期もありました。
それでも運良く、外での食事は1月からでも10回以下、仕事と買い物以外での外出も10回未満に抑えて生活できています。個人で出来る対策に完璧さを求めても何も解決しない、穴がある前提でやるべきという気持ちで継続しています。
幾つかの理由で、マスクはここ10年切らしたことがなかったのですが、19年末に仕入れていた2ヶ月分では足らず、3月ぐらいに買えない時期もありました。そのぐらいの時期に仕方なく一箱4000円近く出したマスクが一番不良品が多く、防御性能が低かったのは今思い出しても悔しいです。
スイスチーズモデルにある通り、全ての対策は完璧ではありません。ここ10年の個人的な実績でも手洗いは感染症を防ぐ効果がありますので、今後も継続し、細かくブラッシュアップしていく予定です。
テレワークとお道具と
4月に緊急事態宣言が出る前後以前、会社は感染しても出てこい系のノリでした。急にテレワークの話が出て、1週間もしないうちに実際にテレワークに移行して、そのまま今も継続しています。初めはVPNが散々詰まったりしましたがいまは大体安定してやれています。
職業柄完全テレワークとはいかず、4月-12月で合計3ヶ月ぐらいは出張したものの、自社でやっていた作業はほぼ自宅でするようになりました。仕事としてはいろいろありますが、個人的にはVPNから切断されがちである事以外はうまいことやれています。
もともとテレワークで仕事したい気持ちがあって、机とディスプレイだけ設置(あと結果的にその他の物置きに)していた部屋が一つあったのが今回とても役に立ちました。
世の中でいろいろ言われているツールは、20年前にIRC & ML & Bugzilla でごにょごにょしていた頃とそんなに変わった様子はなく、使うツールが Slack & Teams & VPN共有になったぐらいで特に書くことがありません。Teamsだけにする話もあったのですが、あまりの使い辛さに破綻しました。
zoomは早々とセキュリティ的理由でNGとなり、その後勉強会などで使うだけになりました。しかし、全く知らない人と初めて話をするとき以外では、顔が見えてもそれほど役に立たないなぁというのは新しい発見でした。ただ、以前から電話会議やWebExでは全然知らない人とも会議普通にしていたので、仕事だけならビデオとか帯域の無駄ぐらいに思ってます。
自宅で作業するにあたり、いろいろ購入しました。いろいろ揃えましたが、作業的に影響あったのは以下の3つです。
椅子 ITOKI Spinner
ディスプレイ FHDのをもっていなかったのでType-Cでつながる少しだけ明るいやつを買いました
キーボード PFU HHKB Professional2
それぞれについては詳しい方がよく紹介されているので特に説明しません。長時間の一人作業となるので、腰痛や肩こりを回避して、気に触るポイントをなるべく減らすよう、普段触るもの、長い間見るものにお金をかけるという方向で調達しました。今の所いい感じにできています。あとはスピーカーマイクが欲しいです。
筋トレ
2020年はこれまでになくしっかり(当社比)の筋トレを継続しました。2020年頭と比べて、体重は-5k〜-6kgで安定、体脂肪率では-2%で安定しています。
筋トレは、2013年ぐらいから始めていて、何年も何をしていいかわからないので単に腹筋したり、でたらめに走ったりしていました。
2020年頭頃には、腹筋、腕立て、スクワットを毎日順番にやる感じにおちついていたものの、体の見た目や体重には一切変化ありませんでした。ただ、2019年までのペース配分で、明らかに肩こりと腹痛が減った実感だけがありました。
主に肩こりが減ったことに気を良くして2020年は少し真面目に取り込み、痩せたり筋肉増えたりしました。食事のペースも掴めてきました。特に詳しくもないのであまり書く事もありませんが。。。今年は体脂肪率20%以下をキープを目標としたいです。とりあえず20%に到達するのが大変そうではあります。筋肉を同じページで増やすには、食生活をだいぶ見直す必要があるのは昨年の試行錯誤から��っきりしていて、一方で脂肪は時間さえあれば体脂肪のある限り減らせそうなのでうまいこと併用していきたいです。
お勉強
家にいる時間が長いのでいろいろ読もうと本を買って、積ん読生活になっています。調べる事が増えてついったーがはかどらなくなっております。この辺はもう少しまとまったらまた書きます。
そんなわけで、2021年も宜しくお願い致します。
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トンカツ
ここ数年病気で自宅療養している母と、自宅近くのトンカツ屋さんまで歩いて食べに行きました。
もともとはママチャリのって10kmぐらいの距離は走り回る元気おばさんでした。しかし治療を始めてから、薬の副作用とか、感染症避けるとか、骨弱ったとか、歩くと痛いとか、体調悪くて動けないとか、すぐ疲れてしまうとか、いろいろな理由で15分と外出できず、随分と制限した暮らしをしていました。
今受けている治療も、完治する見込みはない。回復するかは体力と運次第、年齢的には厳しい、と言われて始めたもので、数年前にふらっと入ったラーメン屋が最後の一緒の外食になるのかもしれないなぁ、と考えていただけに、歩いて行って一緒に食べることができたのはとても嬉しいできごとでした。
ここ数ヶ月とても体調が良く、薬が減り、体力的に余裕がでて、普通に買い物に行ったりできるそうです。あと何度一緒にご飯を食べられるかもわからない状態ではありますが、後悔のないようにしていきたいです。
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10年目の転院
このほど、11年ほど通った病院から転院しました。
病院とか病気について書きますが、諸々の事情を回避するためわかりにくい記述をたくさんします。その点ご了承お願いいたします。
これまで10年とちょっと、地域中核病院に通って治療を受け、経過観察を続けていました。10年してようやく、もうだいたい心配ないねということで、たまに経過観察するだけの病院に転院することになりました。
地域の中核病院という制度は、平成10年台後半ぐらいに整備されたもので、ベッドがたくさんあったり、最新鋭の検査機器がある病院です。そういう病院はお金もかかるし、いくつも作るのは全体的に大変なので、病院ごとに役割分担してなんかうまいことしましょう、というもののようです。いいこと言ってるようで、凄まじい利権も産んでるアレな感じのものと理解しています。ま、そのおかげで助かったのもあるので感謝です。
常に常にMRIの検査が必要な病気で、病気を発見できたのもその病院があったからでした。発見できなければほぼ間違いなく死んでいました。他の病院に行ったり、入院したり、手術したり、経過見たりの度ごとに検査したため、10年で40回〜50回ぐらいの回数MRIの検査を受けました。内容はともかく、いろいろなMRIの機械があってワクワクしました。だいたいはPhlipsのぼてっとしたやつか、Siemensの大きいのか、GEのトイレットペーパーみたいなやつのどれかでした。輪っかが薄っぺらくて長いのはどこのメーカーだろう。。
MRIのほぼ倍の回数X線撮影も受けており、CT、血管造影、外科手術、放射線治療などなどでいろいろな機械による被曝機会がありました。線量はヘリカルCTがやばかったですね。なんどかお世話になったFPD搭載型バイプレーン 頭腹部用X線血管撮影装置というのがかっこいいのでぜひみてください。これ、自分の体内を患者も覗きながらあれこれできるアレで、いろんなものがいろんな方向にグルングルン回る、メカ心につき刺さる機械です。すごい。こわい。かっこいい。いま大きな病院には普通にあるようです。
そんなわけで、通院するたびにこう言う機械に触れていましたが、患者なので基本は寝ているだけで、特に詳しいとかではありません。MRIの中で輪切りにされまくっていた者として一点声を大にして言いたいのは、もー少しマシなベッドにならんか、ということです。MRIの検査にはだいたい30分から1時間ぐらいかかり、その間横になって姿勢を変えないよう言われたり、固定されたりします。腰痛持ちだとこれはとてもとても辛いものでした。年齢高めの人とかは死ぬ気の検査になってしまうとおもいますので、あの板みたいな検査用のベッドなんとかしてください。椅子とは言わんけどもーちょっとなんとかなるやろ、と思い続けていました。放射線治療の機械は、もっと固い板で、治療は2時間こえたので泣きそうでした。
なお、MRIでは椅子が吹っ飛ぶほどの強い磁場を受けますが、肩こりが治ったりすることはありませんでした。ピップエレキバンの10倍以上の磁場が全身にかかるというので、ほんのり期待していたのですが、それで血行が良くなったりはしないようなので残念です。せいぜい、たまに血管が反���してビクンビクンいう程度でした。面白げに書いてみましたが実際なってみたときはこのまま血管破裂するんだろか、と恐怖でした。
機械についてアツく書きすぎました。まだまだ書き足りない気分ですが、ここらで反省します。
治療前から死ぬまでときどき検査が必要、と言われており、転院せずにずっとその病院で診てもらう感じのつもりでいました。ところが、中核病院の制度など、途中でいろいろ制度かわって状況が変わりました。同じ検査を受けても中核病院で受けるかそうでない病院で受けるかで、一回あたり5000円ぐらい変わってしまうようになったので、転院しませんか?とのお話でした。
い��や年に一度の検査になっていたため、転院には足掛け一年かかりました。病院のシステムはもう複雑すぎて、なんでそうなってるのか全然わからんのですが、転院も以前のように紹介状もってその病院に行くだけではなく、地域振興課みたいな事務部隊を両方の病院で通す必要があり、面倒臭いとこにお金かけてんなという感じをうけました。多分患者の面倒が増えるかわりに、先生の負荷が減ったりしているのでしょう。
転院した先の病院もそこそこ大きな病院ですが、画像の電子化は完了しておらず、これまで撮影と診断が同じ日だったのに、二度病院に通う必要があります。そもそもその検査の予約のためにも行く必要があるので都合3回通院が必要になりました。そういう意味でも中核病院てすごいんだなぁと思うと同時に、結果を聞きに行く日は病院で1時間ぐらい待って結果聞くのは数分、診察費用220円で、もうちょっとなんとかならんのかと思ったりもしました。
検査結果聞くのは画像みてごにょごにょいうだけなで、経過観察ですし普段はメールとか電話で結果を教えてくれたら十分なんですが。。。問題あったきだけもう一回きて、っていうほうが先生も病院も楽だし、いろいろ節約できると思うのですがダメなのでしょうか。
いろいろありますが、おかげさまで少し正常な状態に近づいたと思って、喜んでいるところです。皆様も健康に気をつけて生きてくださいますよう。
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2018年6月18日大阪北部地震
大阪北部地震からだいたい一週間経ちました。被害に遭われた方、怪我などされた方にお見舞い申し上げます。幸い私も家族も怪我はなく、壊れたものもお皿とコップが割れた程度で済みました。その節はご心配おかけしました。声をかけてくださったみなさまにお礼申し上げます。時間が経つと忘れてしまうので、報告と、自分防備録をかねて状況をメモしておこうと思います。
気���庁の基本情報
発生時刻 2018年6月18日午前7時58分
発生箇所 北緯34.8度、東経135.6度
震源の深さ 10km
マグニチュード 6.1 (Hi-net)
発生は朝ごはんをだいたい食べ終えて、片付けようとしている時でした。はじめは下からどんっと来て、それが落ち着く前に横に揺れ始めたように感じました。
揺れ始めた直後に、普段はギシギシいって開かない食器棚の扉が開き、お皿とコップが飛び出しました。初めの横揺れだけ大きくて、あとはそれほどでもなく、私は歩いて家具が倒れる位置から避難した程度のゆるい揺れでした。普段開かないのに食器棚の扉が開いたのは、縦に揺れたからかな。。などと考えています。
一番背が高くて危ない棚は、天井側に突っ張りの代わりに箱でスペースを埋めており、がったんがったんいってはいたものの、扉も開かず、倒れるようなこともありませんでした。
火も水も使っていない安心感から、家具が倒れそうな位置を回避できれば特に問題ない、と思ってしまったのが今回の大きな大きな失敗点でした。揺れが収まるまで安全確保すべきところを、(もちろん安全には気をつけましたが)一番被害が大きそうだった棚を見に行ってしまいました。直後に続けて大きいのが来ていたら、机に載せていたものが吹っ飛んで刺さったかもしれないなぁ、と事後に気づいて冷や汗かきました。
電力とネットは問題ないと見て取れたので、すぐに飛び出す荷物を準備、扉が開くのを確認をして、靴下履くなど最低限着替えました。いくつかものが落ちた以外に被害はなさそうで、着替えている間に揺れは収まっていたので、家族と、会社と連絡を撮り始めました。しかしすぐに電話が途切れてしまって連絡が取れず、最終的に全部連絡着くまで1時間ぐらいかかりました。
震度6弱と聞いて一瞬青ざめたものの、窓も扉も開くし、ガス以外のライフラインは使えることが確認できて、周囲の煙も見えないし、爆発音もしないし、と、確認するたびに安心感を得て、車で15分ぐらいのところに住んでいる祖母の無事を確認できたあたりで少し気が抜けました。
JRが全て止まって、仕事が休みの連絡を受けて、次きた時のための対策に移りました。
強いのがきたら倒れそうな家具の前にソファをおいてガードし、キッチン周りの道具や、残っているお皿や瓶など、可能な限り壊れるもの、危ないものを床に移して、飲料水、ビスケット類、持ち出し荷物の中身を確認しました。お店が空いたぐらいに避難が必要になった時に持っとくと���いものを買いに行き、汗拭きシート、サランラップ、半日ぐらい生きていけそうなおやつなどを買ってきました。
飲料水をそこらへんのペットボトルにため、お風呂にも水をはり、可能な限り洗濯しました。当然��のですが、その時お風呂に貯めた水はあとでみたら錆だらけで、水を抜く時お風呂の底に真っ赤(?)なザラザラがたまり、掃除に難儀しました。何よりお風呂に鉄の匂いが充満していて、血の匂いとよく似ているので辛い気持ちになりました。
水を貯めた辺で気分は落ち着き、次の日には普通の生活っぽく戻りましたが、常に自律神経が張り詰めていて、ものすごいくたびれる一週間を過ごしました。壊れたコップなどは片付けましたが、床に避難したものなどはまだそのままです。
エレベーターは即停止して、火曜日夜ぐらいに動きました。日本全国から応援が来て点検してくださっているとのことで、大変にありがたい限りです。ありがとうございます。回復まで、上層階に住んでいるおじさんが階段登れなくてヒーコラ言っているところに遭遇したり、赤ん坊連れてるおかーさんとか本当に大変そうでした。改めてインフラに支えられた生活であることを実感しました。
一週間経ちますが、火を使う時や、お風呂に入る時にまだ躊躇します。家を出る時には、いない間に地震がきても最小限の被害で済むように、とか考えてしまい、まだ不安は色々残っています。雨でも夜でも気持ち悪くなるのが地震なのでそこはまだ気が抜けないところです。
自律神経のアレなのか、夕方過ぎるとよく揺れているように感じます。ゆらーゆらーと長期振動のような揺れで、体調悪かったらよいそう。これもしばらく治らないんだと思います。
個人的には大した被害なく済みましたが、亡くなられた方も出ており、いくつか動いては面倒なものが動いた話なども聞いています。また普段行く先で壁にヒビが入ったりしているのを確認しています。昨日も少し大きめの揺れがあり、私自身正常化にはもう少しかかると思いますが、徐々に元に戻れるよう精進する所存です。
わかってたけどもう少し地震対策いるなあぁ。。
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命と感謝と引き継ぎと
10年ほど前にちょっとレアな病気になり、もう、死んじゃうかもしれないね。。。って言いながら入院とか手術の手続きをしていた時に、少ない友人と知人のツテの中で、助けてくれた人がいました。
彼は私の知り合いのお父様で、そ���まで一度もお会いしたことはなく、お互い話に聞いたことがある、ぐらいのほとんど縁もゆかりもない関係でした。なのでそれまでそんな話をしたこともなかったのですが、完全に一緒ではないにせよ、数十年前にほぼ同じ病気にかかって、手術を受けたそうです。
非常に多才で多忙なお人でしたが、今に比べて未熟な技術で手術されたがわしはまだ生きてる。希望を捨てる必要はない。まだ生きられる。というために、私に会いに来てくれました。
半分くらいもうダメだろこれ、と思っていた私にとってものすごい希望が持てるお話でした。めちゃくちゃ不安だけどでも、希望はある。その生き証人がいるんだ、と思ったのを覚えています。私は今年に入ってようやく、まあそんなに心配しなくても大丈夫じゃね?というところまできました。
その彼が先日、息を引き取りました。夏頃から入院されていたそうです。
話には聞いていましたが、とてもとても尊敬を集めたお人であり、割と大きな企業退職されてもいましたが、会社関係よりも友人や同窓の知人、友人でいっぱいの葬儀でした。
葬儀の際に初めて奥様にお会いして、紹介していただくと「あなたが。。。主人の分も生きてください、と言っていただきました。
大変ありがたくもあり、重くもあり、これからどう生きたものか考えねばならん、と思った一言でした。大変なものを引き継いでしまった。。
まだ、私の中で消化しきれてもいなければ、受け止めきれてもいないのでうまくまとめられませんが、精進して生きようと思います。お疲れ様でした。安らかにお休みください。
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2016年の私と感謝
今年もいろいろなことがありました。今年も一年、日々のつぶやきに付き合っていただいてありがとうございました。書きたいことがありすぎるため、できるだけ良かったことと感謝を優先して書いて今年の〆としたい所存です。毎度のことながら特にオチなどはありません。
個人的には、熊本の地震で親戚が被災し、某国にいった数少ない友人が音信不通になり、20年以上続けた団体が解散した年でもあり、また、ここ10年戦っている病気が初めて快方に向かった年でもあり、10年離れた仲間に再び出会えた年でもありました。
世界や世間のことに何か言えるほど関わりをもち続けてはいないため、その辺は割愛します。ただ一点、今年は個人的に良かったことは思い出せるけど、世界的に良かったことをあまり思い出せない、つらいという感想を持っています。いろいろなことで被災された、または影響を受けておられる方々に1日でも早く平安が訪れるようお祈りしています。
今年、@beiaard_jp さんにお誘いしていただいて二度、カリヨンの演奏を聴きに行くことができました。これは私的には大正解でした。鐘ってば鋳造品であり、鐘の音は遠い昔銅鐸鳴らして暮らしていた頃を思い出しませんか?ますよね?そんなわけで皆様も聴きに行きましょう。ともに眺めましょう。(脳内で)踊りましょう。
今年の初め頃にちょっと上向いた容体が、一気に良くなって元気になった、というよりも通院が激減しました。とても、とても嬉しいです。10年ぐらい良くなってるような〜悪くなってるような〜とずっとふらふらしていたのからの大逆転です。社会的に10年とは言わないまでも、9年ぐらい遅れを取ってしまったので、遅れを取り戻したいです。。これは割と切実。
チキンカレーが、自分比でとても上手にできるようになりました。ご飯が捗るのですごい何度も作りました。レシピをブログにメモっておこうって書いてみたのですが、安くしようと思うとかるく半年かかるレシピで公開はどうしようかと思っています。
今年一年のツイッターの活動は@nissyyu先生と、@niyalist先生(先生!)のおかげで続けることができました。この場を借りて感謝申し上げます。
年の初めのほうにお会いした海獺さん(@Racco_Wiki)、あこさん(@ta_niiyan)、みやさん(@Miya.m)などに元気をいただいて、その元気だけで突っ走った一年でした。嬉しかったです。ありがとうございました。
その他、ちょいちょい外に出る機会を作っていただいた@picaosgeoさん、@ujigisさん、先ほども登場いただいた@beiaard_jpさん、今後ともよろしくお願いいたします。
一度だけお会いできた方はとてもたくさんいらっしゃるのですが、@geo80kさんの快気祝いに呼んでくださった@niyalistさん、友引ナイトに呼んでくださった@nissyyu先生と@yaskondoさんに特に感謝をお伝えしたい所存です。
そして今年も各所でせとさん(@tosseto)にお世話になりました。いつもいつもありがとうございます。
ツイッターのみでお話しさせていただいている皆さんはあげるとキリがないので、ほとんど毎晩、340/365日ぐらい遊んでいただけたよるうどんさん(@nightudo)、ぽいYANさん(@popoi_udon)さん、に感謝をおつたえしたいと思います。毎日ありがとうございました。これに懲りずに遊んでいただけると嬉しいです。
普段の生活で、やはり実際にお会いした方とのやり取りは回数が少なくとも大きく残ったりしているのですが、毎夜相手をしていただいているTLの皆様のおかげで普段の精神衛生を維持できているのだなあ。ととてもありがたく思っております。
実際にお会いしてお話しさせていただいている皆様はGIS関連の方が多いのですが、普段TLにいらっしゃる方がそれとは大きくずれているため、あえてここに書いて残させていただきました。SNSは人や場とのつながりなしにはその時の状況の再構築は困難で、おそらく数年後にはこれらの記憶も消し飛んでしまうのがだんだんこわくなってきた。。という次第です。
ここに紹介できたみなさまも、できなかった皆様も、来年もまたひとつよろしくお願いいたします。病気が回復に近づいた一方で、生活的にはやや差し迫った状況となっており、いつまでまげぱ活動を続けられるか戦いながらとなりますが、できる限り、来年も生きていたい所存です。2016年、ありがとうございました。前途は多難ではありますが、来年もまた���ろしくお願いいたします。皆様も、より良い一年を過ごされますようお祈りしております。 よいおとしを。
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カリヨンのある情景
JR伊丹駅前に、人が演奏できるカリヨンがあります。 カリヨンは500年ぐらい前のヨーロッパで、人が演奏する楽器として生まれましたが、日本国内にある殆ど全てのカリヨンは自動演奏しかできません。日本国内には人が演奏できるカリヨンは多く見積もって4つ、実際演奏できないものもあるため、国内ではとても希少な楽器です。伊丹市のものは姉妹都市であるベルギーのハッセルト市から送られたとてもいい楽器とのことです。
年に数回未満ずつしか演奏されていないそのカリヨンの演奏会のお知らせをいただいたので、聞きに行ってきました。
カリヨンは数百年前にヨーロッパで生まれた楽器です。大雑把にいうと、結婚式の時にガランガラン鳴らす鐘をたくさん集めて、音階をつけて、鍵盤みたいなものをつけた楽器です。
使われ方としては日本のお寺の鐘と似ています。時報だったり、お祝い事、葬いごとなどに演奏されてきました。多くのカリヨンは教会などの鐘楼(塔)のてっぺん近くに設置され、城郭都市全体など、比較的広い範囲で聞くことができる、スピーカーとしての役目も果たしていました。
お寺の鐘は木の棒で突きますが、殆どのカリヨンは金属の舌で鐘を叩くため、音は比較にならないほど硬く、強く、派手です。町中聞こえるような音ですので騒音と取られることも少なくなく、残念ながら伊丹のカリヨンでもそれは同様だそうです。それもあってかこの伊丹のカリヨンの演奏回数はとても少なく、演奏回数を増やすのは地域との話し合いから。。といった世界のようです。
そして日本には楽器が数個しかないので当然演奏できる人もあまりいらっしゃいません。演奏を習うにはベルギーとオランダにそれぞれある、世界に二つしかないカリヨン専門の学校で教えてもらう以外今の所なく、国内にいらっしゃる演奏者は数人だけとのことです。
演奏会
演奏会は、私には不思議な、とても不思議な光景でした。演奏会といっても会っぽさは微塵もありません。駅前にカリヨンが設置されているため、周囲は駅前の広場のスペースです。聞くための専用スペースやテントとか椅子は用意されておらず、町そのままでした。入口も出口も区切りもありません。座れる場所はあちこちあるので、聞きたい人はベンチや手すりや段差に座ったり、遊んだり、普通に買い物したりしている中で演奏されていました。しかし、その町そのものなのがいいのだ、と後になって気付きました。
とても暑かったので、私自身も途中アイス食べながら聞いていて、周りのおばちゃんたちは聞きながら世間話をしたり、待ち合わせ中の団体が待ちながらきいてるとか、散歩の途中のおじさんが、聞こえたから聞いてこか、みたいな動きで適当に座ったりして、街中にカリヨンの音が溶け込んでいる感じがありました。
スタッフの方たちはあちこちで聞いている人の元に走ってきて、プログラム的なものと、アンケートを配布、あとでそれをまた回って回収していて、演奏会というよりお祭りをちょっと遠くで眺めてる感じに近いなぁ、と思いました。
演奏会でありながら、普通に日常生活を送っているみなさんがそこにいるのを見て、とても不思議な気持ちになりました。街中での屋外での演奏と、日本の日常生活が同時に存在する光景は日本ではほぼ見たことなかったです。学園祭の中やお祭りで似たような光景はありましたが、カリヨンの周りに広がっているのはあまりにも日常で、そこに衝撃のようなものを受けました。
途中までは一生懸音を聞く感じでしたが、途中からは町とカリヨンの音の融和というか、街中でカリヨンがなってみんなが普通に過ごしているその情景に、いいじゃないか。これ、なんかいいじゃないか。とほわっとした時間を過ごさせてもらいました。日本でここでしか見られないというのがすごい不思議に感じてしまう程度に、普通で、音があって、温かみがあって(暑いけど)、楽しかった。町の人は慣れてるのか普通に通り過ぎてたけど、もっと売りにしてもいいのではないかと。
演奏はどうやら土日が多いのですが、市の持ち物なのでスタッフに市の職員が必要だったり、そもそも伊丹市はこの辺ではちょっと人気の地域なので、町の売りを作る必要とかあんまりなさそうです。しかし、あのカリヨンが鳴っている情景はとてもいいものなので、三ヶ月に一回ぐらいのペースで続けていただけないかなぁなどと考えたのでありました。
演奏会をおしらせしてくださったべいあ(@beiaard_jp)さん、ありがとうございました。また、スタッフの皆様、お疲れさまでした。ありがとうございました。私のツイートをみてきてくださったお二方もありがとうございました。ゆるく、暖かいこの情景を、なんか続けられるといいなあ。
演奏会情報等:
フランドルの鐘(カリヨン)伊丹市ホームページ
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拝啓Twitter様(感謝)
Twitter 10周年おめでとうございます。ありがとうございます。この10年とはいいませんが、8年ぐらい、とてもとても多くの時間をTwitterで過ごさせていただきました。
Twitterのおかげで、色々な楽しいことを知り、色々教えていただいて、たくさんの方にお会いする機会もありました。おかげさまで、ヒキコモリをしていた私にもそれなりに知り合い的な方ができました。いまでもヒキコモリですけど。
フォローさせていただいていほとんどの方は、Twitterがなければ存在も知らずに過ごしていたはずの方々です。いまでもTwitterdでしかお会いできない方が多数いらっしゃいます。
Twitterさんに一番感謝したいのはこれです。学会にもいかず、雑誌も買わず、テレビも見ない、イベントにもめったに行かないわたしが、Twitterを通じてたくさんの方と知り合い、会話し、実際にお会いしたりすることができた、そんなインフラを長いこと運営してくださいました。感謝いたします。
なんか運営いろいろ大変そうですが、今後も是非ともじわじわと斜め上路線でやっていっていただけると嬉しいです。
ささやかながら希望を書いておくと、そうですね。ふぁぼと、くじらか猫に復活していただけるとうれしいです。
10年間お疲れさまでした。これからもよろしくお願い致します。
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20151231
今年も残すところあと数時間となりました。 阪神大震災から20年、そう思っていた2015年がもう終わろうとしています。 毎度恒例の残念年末エントリです。
自宅での活動について、 今年の前半は、頻繁に図書館行ったりして頑張ったつもりでしたが 後半は仕事でSAN値ガリガリ削られて色々断念してしまいました。 無理したら年末まで走りきれん、と思ったための決断でしたし 結果として正しかったのですがやはり残念です。
体調面での不安はもうほとんどないとは思いつつも、 10月までは調子良く過ごせていましたが お天気崩れまくった11月はほとんど倒れていました。
今年のうちに使い始めたかった環境が整えられなかったのは非常に悔しいです。 そういえばx15ようやく出るみたいですね http://beagleboard.org/x15 クリスマスに出るとか言ってたのが結局ま��のようですが。。 二年待ってるとなんだかわからなくなってしまっています。 せっかく譲っていただいたPCがむせび泣いてしまわないよう精進します。
TLでは、GIS系の皆様方がtwitterにほとんど登場されなくなってしまい、 普段絡んでいただいている皆様をますます一つのクラスタで この辺の人々、と括れなくなってきました。 ざっくり言って 地惑(地球惑星科学、天文、気象、災害、地理、GIS)、生物(分子生物学含む)、理学(物、数、理論物理)、 kernelVM(OSの真ん中辺あたりとておくれ)、医療系(臨床、心理)、 ぺんぎん(ぺんぎん)、奈良(奈良)、すみません、とてもじゃないけど書ききれません。 それぞれのクラスタがわりと疎結合というかほぼ直行でみなさんあまり交流ないというか 私自身もそれぞれのクラスタとそれほど強いつながりはなく 上手に説明できるバックボーンは持ち合わせておりません。 書けてないクラスタの皆さんも含めてTLのみなさま、日々構って頂いてありがとうございます。 おかげで精神的に生きることができています。
仕事はたくさんありました。しかし収入に反映される感じでもなく 少ない余裕でやりくりしているので、じわじわ続いている食費の値上がりと 段階的に上がり続けている保険料の値上がりが結構効いてきています。 小麦粉、パスタ、カレールーなんかが上がったのは辛いとこですね。
お店では美味しいうどん屋さんに出会えました。 気になって周りのうどん屋さんあれこれ行きましたがダントツです。 あと、近所の怪しいカレー屋さんが意外と美味しかったです。やったね。 その他は特になし。 引っ越して買い物生活は不便になり 野菜を買うために遠くの八百屋さんまで買いに行ったりしています。 ギブミー豆腐屋さん。
今年は、グリッシーニ焼きを結構しました。 簡単だし美味しいしなかなかやめられないので今後も続けようと思います。 ジャムをいれれるぐらいの余裕が欲しい。。 そして今年もクッキーにはたどり着けませんでした。
あまりツイートしませんでしたが 今年はずっとチキンカレーをつくっていて、かなり好みの感じになってきました。 カレーが上手になったというより鶏肉の下処理が上手になっただけの気もします。 ジャガイモをとかしたり残したりのコントロールが利くようになってきたので 次はニンジンを溶かす感じのにチャレンジしたいです。
何はともあれ、2015年を無事に一年生き抜くことができました。 TLの皆様には本当に、本当にお世話になりました。 重ね重ね感謝致します。ありがとうございました。 相変わらず煮え切らない感じが続くかと思いますが 来年もまた、ひとつよろしくお願いいたします。
2015年大晦日 Mage Whopper
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intel VT-xが使えなかった話
使わせていただいているマシンは2009年のMacBookPro で、Core2Duoではありますが一応VT-xには対応しています。
mage$ sysctl -a | grep machdep.cpu.features machdep.cpu.features: FPU VME DE PSE TSC MSR PAE MCE CX8 APIC SEP MTRR PGE MCA CMOV PAT PSE36 CLFSH DS ACPI MMX FXSR SSE SSE2 SS HTT TM PBE SSE3 DTES64 MON DSCPL VMX SMX EST TM2 SSSE3 CX16 TPR PDCM SSE4.1 XSAVE
しかしxhyveを実行しようとするとエラーで実行できません。
vmx_init: processor not supported by Hypervisor.framework Unable to create VM (-85377018)
あれこれググったところ、
* Trouble-shooting Intel VT-x Issues https://communities.vmware.com/docs/DOC-8978
* xhyverun.sh: "hv_vm_create failed" #18 https://github.com/mist64/xhyve/issues/18
に行き着いて、VMXだけではなくEPTもサポートが必要なことが分かったのでした。bhyveの仕組み考えたら当然なのですが個人としてはがっくし。がっくしであります。
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草刈りツアー2015夏
恒例の草刈りツアー
今年はいった人数は多かったのですが草刈り参加はごく少数にて、狭い範囲しかできませんでした。
一部デコボコになりすぎたところを整地しよう!と意気込んでいったものの、到着直後に最悪の現実に直面して一瞬で中止に。
「またイノシシにやられとる。。」
手を入れている範囲のほぼ全体をイノシシにひっくり返されて、去年よりもさらにひどい状態になっていました。ああああ、復活しかけた木がまた枯れかけている。。。。
整地の頭はあったのでひたすら荒らされたところと戦い、土もったり削ったり埋まってる草掘り出したりあーだこーだして、一区画だけは綺麗に戻せましたが来年にはもうヤバイと思いますはい。
なにせ生垣を突破されていて、���すぎてどこだか特定できない。戦う準備が出来ていなかったので今年はもう諦める感あります。。残念。
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東京は暑くなってるのかRで見てみたの続き
前記事の続きです。
暑い日が増えたじゃないか、だけでは暑くなってるのかわからんなぁと思ってしまったので、最低気温でも見てみました。
やってることは全く同じですが、昔は東京でも最低気温が-5度より低いことがあったようなので、温度は全体的に5度下げています。
tokyo = read.csv("data.csv", as.is=TRUE) y=1876 hc=1 h <- matrix(0,25,9) for(i in seq(1876,1996,5)){ fast = sprintf("%d-01-01",y) last = sprintf("%d-12-31",y+11) tky = tokyo[tokyo$年月日 >= as.POSIXct(fast) & tokyo$年月日 <= as.POSIXct(last),] h[hc,] <- hist(tky$最低気温, breaks=seq(-10,35,5), right=FALSE, plot=FALSE)$counts y = y + 5 hc=hc+1 } labels <- c("-10 - -6", "-5 - -1", "0 - 5", "6 - 10", "11 - 15", "16 - 20", "21 - 25", "26 - 30", "30 - 35") barplot( t(h), col=topo.colors(ncol(h)), names.arg=c(seq(1876,1996,5)), legend.text = labels, xlab="Year", args.legend = list(x = 35, y = 4000), xlim = c(0, 35) )
結果はこうなりました。
(最低気温のグラフの大きな画像)
暖かい日が増えた傾向はこちらの方がはっきりでました。
-5度より最低気温が低い日は1940年代以降ありません。また、-1度以下の日も明らかに減少しています。
代わりに増えているのは0度〜5度の日と、最低気温が30度以上の日です。また、中間の温度は最高気温同様全体的にやや減少傾向があります。
やってみて思ったのですが、これって平均気温でも同じ傾向なのではないでしょうか。
というわけで平均気温でも日数カウントして傾向を見てみました。それがこちら。コードは昨日の最高気温を平均気温にしただけです。
(平均気温のグラフの大きな画像)
これはどういうことでしょうか。
グラフを見直してみると、最高気温と最低気温では
最高気温30℃以上の暑い日は増えている
最高気温0℃〜5℃のやや寒い日はやや増えている
最低気温0℃未満のすごく寒い日は減っている
最低気温0℃〜5℃のやや寒い日は増えたり減ったりしている
最高気温、最低気温いずれも中間の15℃〜30℃の日は減少傾向にある
となり、平均気温ではこの両方の傾向が見て取れます。
つまり、暑い日が増えた分、中間温度の日が減り、寒い日は増えたり減ったりしているけど最低気温は上昇傾向にある、といえます。
平均気温があまり変わらずに最高気温と最低気温が変わるには、両方を相殺する分中間層がかなり減らないとならないはずですが、5℃単位ではそれがあまりみえません。しかし折れ線グラフで見ると減少傾向にあることがはっきり分かります。
上手い見せ方が思いついていないのですが、毎年の頻度のグラフをアニメーションしてグラフの移動を見ているとこの図のようにじわじわ動きます。
(グラフの移動傾向の大きな図)
なんとなく、ですが20度、30度付近にあるピークが下がり、それに伴って気温が高い方の頻度は右に(多い方)に動き、10度付近にあるピークは上がったり下がったりして、それに伴って気温が低い方の頻度は増えたり減ったりします。
なんとなくの傾向としてはここ数年あちこちでよく聞く、春と秋が無くなって夏と冬だけになっている。かつ、暑い日の日数は増えているというのがデータとして確認できたように思います。
やり方の妥当性はよくわかりませんが、1年ごとに11年平均をとってもグラフはかなりガチャガチャ動いており、こんなやり方で何かを言うにはもっと細かいデータ、もしくはきちんとした補正が必要だと思いました。全体的な傾向としては図に入れた矢印の通りですが、温度も1度単位では雑すぎるような気がしました。
こうした素人分析ができるのもデータを公開してくださった気象庁さんのおかげです。感謝してこのエントリを閉じます。
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東京は暑くなってるのかRで見てみた
少し前に30年前と比べ暑くなったと聞き夏��気温データをグラフにしてみた→様々な意見集まるという話がありました。
この話の結論としては、「平均気温としては」さほど変わってない、ということになります。しかしコメントにそれでもやっぱし暑くなってる気がするなぁ、という意見はたくさんあり、気象関係の方々は平均気温じゃなくて、猛暑日とかの暑い日が増えているんだ、という話もいろいろ出ていたようにおもいます。
実際にデータを使って計算してみていただけたのが三重大学奥村先生による猛暑日の増加です。このエントリには関係ないのですが奥村先生には20年ぐらい前にTeX関連で一方的にお世話になりました。有益な情報の継続的な公開、感謝申し上げます。
本題に戻りまして、このページを見ますと、100年で最高気温と最低気温が3度ずつぐらい高くなっており、猛暑日は25倍ふえた、と結論付けています。
で、これをみてこばこさんが
リツイート1つ。そう、しきい値変えて日数の違いを、ってことを誰かやってくれないかなと思っていたのですが、行っていただいた方が居たようで。「最高気温32~35℃の日数が増えた」とは言えそう。(ただ高いほうからの積み上げグラフでも見たかったかなとは思う。)
https://twitter.com/kobako/status/630191394632499200
とおっしゃっており、これをやってみたいと思いたち、Rとか真面目に使ったことありませんがやってみました。
データは奥村先生のページの通り、東京の気温のデータをそのまま使います。CSVを切ったり貼ったりして作りました。私の場合Rをインストールしたりもあったのですが何も難しいことはないので割愛します。
ヒーコラ言いながら書いたコードはこんな感じです。
tokyo = read.csv("data.csv", as.is=TRUE) y=1876 hc=1 h <- matrix(0,25,9) for(i in seq(1876,1996,5)){ fast = sprintf("%d-01-01",y) last = sprintf("%d-12-31",y+11) tky = tokyo[tokyo$年月日 >= as.POSIXct(fast) & tokyo$年月日 <= as.POSIXct(last),] h[hc,] <- hist(tky$最高気温, breaks=seq(-5,40,5), right=FALSE, plot=FALSE)$counts y = y + 5 hc=hc+1 } labels <- c("-5 - -1", "0 - 5", "6 - 10", "11 - 15", "16 - 20", "21 - 25", "26 - 30", "30 - 35", "36 - 40") barplot( t(h), col=terrain.colors(ncol(h)), names.arg=c(seq(1876,1996,5)), legend.text = labels, xlab="Year", args.legend = list(x = 35, y = 4000), xlim = c(0, 35) )
このコードでやっているのは
各日の最高気温を5度刻みで何日あるかをカウントして11年分累計
5年ずつ開始年をずらして1996年-2007まで25グループを計算
各グループで、各日数が何%あるかを計算
計算した値を積み上げグラフにプロット
とすると、増減の傾向があるかないかぐらいは見えるかなと思いました。
11年にしたのは、太陽周期に合わせたほうがきっといいだろうという単純な思いつきでしたが、実際グラフ的に綺麗になったので検証せずにそのままとしています。本当はグラフとしての類似度とか見るべきかと思うんですが、脳みそ追いついていないので今回は諦めました。
できたグラフはこんなかんじです。
(最高気温の温度別日数頻度の大きな図)
先に白状しておきますと、Rでのグラフの書き方がイマイチわからず、上のプログラムをそのまま実行するとY軸の要素がおかしなことになるのでちょん切っています。
グラフは、下のほうが最高気温が低く、上に行くほど最高気温が高いものを積み上げています。X軸に表示しているのは開始年です。そのため、例えば1976は1976-1987、1986は1986-1997,1996は1996-2007の累積となり、間は開始年、終了年をそれぞれ+5年した期間となります。
見ての通り傾向としてはあきらかで、じわじわ高温の日数が増え、1980年代以降の増え方はそれまで以上に急になっています。また、代わりに最高気温が低い日と、ちょっと読みにくいですが16度-30度は減る傾向にあり、特に21度-25度の日数は大幅に減っていることが、平均気温が大きく変わらない要因といえそうです。
あとは、以前はほとんどみられなかった一番上の36度〜40度が80年代以降はっきり現れるようになったことが言えるでしょう。地球はやっぱり暑くなっていて、その要因が人かそうでないかはわかりませんが、一人の人間が生きている間にはっきりわかる程度に上昇している、のはデータで見ても事実といえるようです。
このエントリの続きを書きました。
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