misosoupjunkie
misosoupjunkie
味噌ジの雑記帳
1 post
Don't wanna be here? Send us removal request.
misosoupjunkie · 1 year ago
Text
『イザボー』観劇備忘録
Tumblr media
1回目の観劇
1/25のソワレを一階席上手側の座席にて観劇。
おそらくブリリアホールの問題で、音が潰れてしまって歌詞が聞き取れない部分がかなりあった。アンサンブルの歌唱部分は特にたくさんの音が重なるのでほとんど何も聞き取れず、プリンシパルのソロでも早口だったり一定の高さよりも低かったり高かったりすると部分的に何を言ってるのかよくわからなくなる、という具合だった。 そんな中、望海風斗さんの歌だけは歌詞が全部ちゃんと聞き取れたのには舌を巻いたが、キャスト全員声量も歌唱力もあって滑舌も良く、素晴らしかった。
開幕直後、大きな舞台構造が回り始めた時には思わずあんぐりと口が開いてしまった。構造物そのものの形は変化していないはずなのに、それぞれの位置を組み合わせて変化させることで場面ごとに全く違った表情の舞台になっていて、本当に構造物の形自体は変化していないのか疑ってしまったほどである。 回っている構造物の中を動き回ったり顔を覗かせたり、上を歩いたりするキャストの間を縫うようにスタッフが舞台を動かしていて、キャストの立場でもスタッフの立場でも想像するだに大変そうだが、スタッフもキャストも全く危なげなくて見事だった。
衣装も素晴らしかった。何度も衣装替えがあって色も華やかなのはイザボーだけだが、黒で統一された他のキャストの衣装も形や素材などディティールが凝っていて、それぞれの身体やキャラクターによく合っていた。 一幕で黒い衣装を着ていたイザボーが、キービジュアルで着ていた例の真紅のドレスで登場するところなどは視覚的にかなり感動的だった。
しかし、歌として印象に残ったのは「最悪の王妃」のサビだけで、歌詞がよく聞き取れなかったこともあって他の歌は印象に乏しい。全体として説明や会話の歌が多く、心の歌みたいなものがあまりない印象。メロディや歌詞、歌に心動かされて感動し、なりふり構わずに説得されるような歌はなかった。全てが終わった時に、ああいい歌だったなと思える歌がなかった。
脚本はなんとなくあらすじっぽい感じで、全体として史実の筋を追うことを主軸にしており、情報量の割には物語としての内容が薄い印象であった。こういう脚本にするなら尚更音楽がもっと心を揺さぶるようなものでないといけないんじゃないかと思った。
ここで一旦望海風斗さんのファンとしての率直な感想を挟むと、タンゴのシーン!最高!ありがとう!興奮して目から湯気出るかと思いました!あとラストシーン双眼鏡で望海さんの顎を一生懸命見てたらものすごい密度の赤がドゥルン‼️って降ってきて視界が赤く染まって度肝抜かれた。息できる?あれ。
ミュージカルとしては、正直言って物足りなかった。 イザボーの心情に寄り添ったままでいられるのは一幕までで、それ以降は振り落とされて着いていけなかった。我欲や本能のまま生きた、と言われても、その我欲や本能というのが実際のところ何であるのか、見ていくうちにどんどんわからなくなっていくような有様である。全体を通して心を歌った歌が少ない中、イザボーだけは結構そういう歌があったが、素直に脚本の流れに乗るとイザボーの心に乗っかっていけないので、何を歌われても歌詞の内容が心に届かないのである。 かといって、音楽に心動かされるわけでも、物語に感動するわけでもない。物足りなかった。傍観者のような気持ちのままで、その日の公演は終わってしまった。 素晴らしかった部分が本当に素晴らしかっただけに、しっくりこなかった部分が致命的にしっくりこなかったという事実を受け入れたくなくて、全部ブリリアホールのせいにしようと思った。歌詞が聞き取れない音響設備とか、腰がめちゃくちゃ痛くなる椅子とかのせいで素晴らしかったはずの観劇体験が損なわれてしまった、会場がブリリアホールでなければ私はもう少しこのミュージカルを楽しめたのではないか、と。
2回目の観劇
1/29のソワレを二階席センターブロックの座席にて観劇。 1回目の観劇から4日経っていたが、いまだに納得できておらず、今度こそ何かしら良いものをゲットして帰りたいと考えていた。
1回目よりもはるかに音響がよく、歌詞がほとんど聞き取れた。内容をすでに知っているということもあろうが、それにしても劇的に変化したのでびっくりした。プリンシパルの歌だけでなく、アンサンブルの歌唱部分もはっきり聞き取ることができた。 キャスト全体の動きもよく見え、アンサンブルの素晴らしい活躍ぶりと振り付けの面白さが実感された。 一階席から見上げるように見ていて全体を把握することができなかった舞台機構の動きも、やや上からそれぞれの構造がどのように動いているのかを見ることができた。それぞれの構造物が床の溝に沿って非常にスムーズに動く様子が見てとれ、よく機構トラブルが起きないなと改めて驚いた。 舞台全体が見えることによって照明の効果もわかりやすかった。個人的な好みと比べるとちょっと派手めでうるさいが、全体の雰囲気にはとてもよく合っていたと思う。逆光の演出もかっこよかったし、二階席から見ると舞台面に投影された飾り灯がよく見えて、ひび割れたガラスを模っているであろう照明は特に印象的である。イザボーが客席に背を向けて立っている場面では、紫色の光の中にマントの光沢ある質感と美しい装飾が浮き上がって見えて、ため息が出るほど美しかった。
歌詞がほぼ聞き取れてストレスがないことと、登場人物全員をすでに知っていることによって、それぞれの芝居や歌、歌詞の深い部分の意味に心を向けられるようになり、1回目の観劇よりも全体的な満足度は高かったと言える。 一階席とは比べ物にならないほど観劇しやすかったため、幕間で客電が灯った時私が最初に抱いた感想は、「ブリリアホールの正解ってもしかして二階席!?」これであった。
最終的な感想
キャラクター演劇としての『イザボー』
2回の観劇を終えて考えたことは、『イザボー』というミュージカルに最も先立つものは音楽でも脚本でもなく、芝居ですらなく、キャラクターなのではないか、ということだった。キャラクターという前提があって成り立っているので、どんなキャラクターがいるのかわからないままに見ても楽しめない。 アニメや漫画などの原作をもとに舞台化するような、いわゆる2.5次元ミュージカルを引き合いに出すと、その観客のほとんどは原作を知っている。観客の中に前提があるからこそ、演者の一挙手一投足に、そのキャラクターの持つ感情や性格、意味を見出すことができる。舞台の上でキャラクターが行う1つのことに、観客が勝手に10の情報を見出して心を動かすという仕組みになっているのである。 『イザボー』というミュージカルはこれと似た構造を持っていると私は考える。歌が状況を説明し、脚本が史実の流れをなぞることに重きを置いて人の心を��く掘り下げていかないのは、このミュージカルの構造が、まず時代の流れの中にいるキャラクターを提示し、それ以上は観客に想像させ意味付けさせるという作りになっているからである。それぞれの内面の機微や心の動きの大部分については、キャラクターの内面を象徴するようなセリフ一言や演者の芝居をもとに、観客が勝手に想像するという作りになっている。 これはそれぞれの関係性にも言えることで、劇中で示されるドラマチックな関係性の多くは、それほど深く描かれることがない。聖女ジャンヌと悪女イザボーが背中合わせで立っているという舞台的な画面構成をはじめとして、狂気の父シャルル6世と正気の息子シャルル7世、王になった兄シャルル6世と王になれなかった弟ルイ、イザボーという女をめぐるルイとジャンの対比のほか、多くの関係性がそれぞれに興味深い物語の可��性をほのめかしながらも深く掘り下げられないまま、その構図が示されるだけにとどまるのは、そこから先のことは観客が好きなように想像する作りになっているからである。そして、こうした関係性の情趣を味わうためには、キャラクター的な前提が必要となる。 したがって、キャラクター的な前提を持たない初見の観客がこのミュージカルを楽しむためには、舞台上で行われたこと1つに対して10くらい受け取らんとするような前のめりな姿勢が必要であり、椅子に深く腰掛けて物語に身を任せ、目の前で起こるスペクタクルを待っているような観客には、そもそも向かない作りになっているのだ。 逆に言えば、複数回観劇するような観客は、前提のある状態でそれぞれのキャラクターや関係性にフォーカスすることができるので、楽しみやすい。歌にもセリフにも表れない芝居の機微を繰り返し見て、ここで彼女がこんな表情をしているのはこういうことなんじゃないかしら、と想像を膨らませていくというわけである。 また、このような構造をもつ演劇を好む観客にとってはむしろサービスと言える。筋書きと関係性のエッセンスだけを散りばめますので、あとはいかようにでも美味しく召し上がってくださいという、サービスなのである。
そして、今思うとこのことは『イザボー』のキービジュアルが発表された段階ですでに示されていた方向性であるように感じる。
Tumblr media
それぞれの目線がイザボーとの関係性をほのめかしている。まさにこのミュージカルの構造を象徴したキービジュアルであると言える。私はもともと関係性のオタクなので、こういう仕掛けにはめっぽう弱く、このキービジュアルを見て衝動的に2枚目のチケットを購入した。
関係性のオタクとして『イザボー』を見に行っていたとしたらあるいは初見でも十分に楽しめたかもしれない。しかし私はミュージカルのオタクでもあって、ミュージカル『イザボー』と言うからには、いわゆるミュージカル、すなわち、グランドミュージカルと呼ばれるものや、ブロードウェイオリジナルの日本版ミュージカルのような、私が普段観劇しているミュージカルに類するものが出てく���ことを期待して座席に着いてしまったのである。 しかし、この作品が「日本発のオリジナルミュージカル」であることを考えれば、こういうのも「アリ」なのかもしれない。 個人的には、本作のような細かい部分を見せて観客に想像させる演劇は、もっと規模が小さくて演者の顔や芝居がよく見える会場でやるべきなのではないかと思う。ブリリアホールのような大きな会場では、初見で細かい部分まで見切ることは難しい。 私が一つの楽しみ方を自分なりに咀嚼できたのは2回観劇できたからで、1回しか見られなかったとしたら、実に釈然としないまま終わっていただろう。しかし、チケットは安くないのであるから、1回しか見られなかったとしてもなんかすごいもの見た!となるように作って欲しいと思ってしまうのは、貧乏な観客のわがままだろうか。一度きりの観劇であっても観客を感動させんがために、わかりやすい音楽の素晴らしさが必要なのではないだろうか。 いわゆるミュージカルとしての説得力にはやや欠けるものの、それでも質の高いスペクタクル感が担保されているのは、キャストやスタッフの素晴らしい仕事のために他ならない。
イザボーとは何だったのか
『イザボー』というミュージカルの性質について自分なりに咀嚼したとしても納得しきれないのは、イザボーという女性が結局どんな人で、何をしたかったのかということである。1度目の観劇でわからないのは当然としても、2度目も見ている間ずっと、この人はなんでこんなことするんだろう?なんでこんなこと言うんだろう?今までの言動と矛盾してない?みたいなことを繰り返し考え続けていた。
ひとつ思うのは、作・演出の末満さんはイザボーのそういう「わからなさ」に魅力を感じていて、それを何か形にしようとしてこの劇を作ったのではないかということ。 打ちのめされて泣いたり蹲ったり怒ったりする度に、結局立ち上がって悪役面で笑うイザボーを劇中で何度も見た。矛盾を孕んだイザボーの行動原理を考え続けることで、一筋縄ではいかない悪女の趣を味わおう!という趣旨なのかもしれない。
規模の小さい会場でやるべき内容を含んでいると先に述べたが、思うに、小劇場的演劇の本質的価値は、「生身の人間が目の前で」演じているということである。生身の人間であるということが、役の存在についての説得力に直結し、その多くを占めているからである。 その文脈で考えると、観客としてどんなに理解し難かろうと、イザボーという人は生身の人間としてそこに存在し、確かにそのように生きている。彼女の生の様相というのは、彼女以外にはわかり得ないもの、あるいは彼女自身にすらわからないのかもしれず、とすれば、実際にその生を生きて、生き抜いた人間に対して、ただ見ているだけの観客が安易にわかりませんなどと言うべきではないのかもしれない。故に、「御託はいいわ、これが私の人生」、「文句があるなら受けて立ちましょう」と、イザボーは観客に言い放つのだろう。
1 note · View note