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modeqs · 2 months ago
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平和教育はいかにあるべきだったか
1945年の第二次世界大戦における敗戦この方、日本の平和教育とは戦争当事者が経験した苦痛を子供達が追体験し、共感することをもっぱらの手段としてきた。つまり感情的に戦争に対する忌避感を強めることを、子供達が納税者になったときに国家が戦争状態に至ることを抑止する手段としてきた。
私は、この政策は愚民化政策のようなものであったと思う。平和教育が戦争や関連する議論に対する嫌悪感を肥大化させるものであった結果として、日本人の多くは外交や国際政治、さらに国家がその独立を維持するための現実(いまの我々日本人が聞けば嫌悪感を示すような、しかし国家が存立を保つうえではとらねばならない行動)に関する複雑な事情を理解する能力を退化させてしまったように私は思う。
日本人は、私の思うところ戦中に子供だった人々が社会で活躍するようになった1970年代以降、戦争や人権について二重思考のような状態にあったと思っている。いや、私の世界観を直截に言わせてもらえば、スマホ&SNSの普及が加速した2020年代以降、とみにその傾向が強まっていると思う。
日本人は高潔な人権教育を子供の頃に受けてきたはずだが、中国のひどい言論統制や国民への抑圧を聞いてもそれが人権侵害であるとは直観できなくなってはいまいか。日本政府が「国家による統制」に少しでも関連しそうな行動を起こそうとすれば敏感にそれを察知できるのに、外国の出来事となると人権侵害や言論統制も通常の、有り得べき統治のひとつだと思ってしまっていないだろうか。
似たような現象について似たような解釈・説明ができないのなら、私はそれは感情に基づいて現象をみているからだと主張する。つまり普遍的な、素晴らしい人権意識が我々のなかにあって、それが日本政府の「国家による統制に関連しそうな話題」に向けられているのではなく、そうした話題を(ここで仮想している日本人は)大日本帝国がもたらした苦痛の物語の再来として解釈しているのだ。
さて、私は、平和教育とは(1)「少しの、苦痛への共感」と(2)「大部分の、戦争を抑止するための具体的な方法論」に振り向けられるべきであったと主張する。
(1)はまあ必要だと思う。戦争を忌避する最大の理由のひとつは、それが苦痛をもたらすからだ。戦争は大勢の人間の尊い命、生活を脅威にさらし、それは強い苦しみをそ主観で経験する人々が生まれることを意味する。それは良くないことだろう。しかしこの(1)は、ここでの仮想の平和教育においては、あくまで導入だ。「こうした悪いことがあるから、じゃあその悪を回避するには具体的にどうしたらいいのか?」がこの平和教育の骨子である。
この平和教育の大部分を構成する(2)では、戦争を回避・抑止するための具体的な方法論について議論する。大日本帝国はどうすれば戦争を回避・停止できたか(ここで「戦争」という語が欺瞞というなら侵略と呼んでもいい)、どうすれば政府(か軍部か、しらんけど)は国民を説得できて、またその逆は可能であったかを研究して教えるのも、歴史の一事例として教える分にはよいだろう。
戦争を回避するための外交政策についても教えるべきだし、そのなかでは経済制裁や同盟政策についても議論することになるだろう。もちろんこの仮想の教育が現行の平和教育に完全にとって代わったとしてもそんなにたくさんの時間をこの平和教育に割けるわけではないことは承知している。しかしひたすら戦争当事者が経験した苦痛に共感させることを主眼にした現行の教育よりは優れていると私は主張する。
なぜなら、ほぼ同語反復だが、この仮想教育では戦争を回避するための具体的な手段について教育するのであって、その教育を受けた子供らが有権者になったときに彼らは学校で習った知識を元に戦争を回避するための具体的な政治行動(まあ主として投票だけど)をとることができるからだ。対して現行の平和教育は戦争の恐ろしさを伝えるばかりで、では戦争を回避するための具体的な方法論は何かといったら「政府による国民への抑圧を連想させる政策には何でも反対する」くらいなことしか教えない(この貧相な方法論には多くの問題点があるけども、決定的な欠点のひとつは外国から侵略されたときの対処法を何も教えないことだ)。
敗戦80年来の日本の平和教育は、喩えるなら日本を科学立国にしようとして実際の数学や物理学を子供らに教えず、代わりにひたすら「STEMの重視が国を豊かにする」と念仏を唱えさせていたようなものではないだろうか。無意味だし、思考を貧しくする(戦争を忌避する気持ちだけ増長させておいてそれを達成する手段を教えないというのはグロテスクなことだと私は思う)し、上で触れたようにそれは人々の国家観を歪ませるものであったと私はみている。
ここで述べた仮想教育のなかには大日本帝国を肯定する要素が仮定されていないことに注意されたい。つまりこの教育は「大日本帝国の再来を回避する」という世界観と矛盾しない。だからこれからは当然実施可能だし、同時に、歴史的にも実施されるべきであったと私は思っている。かりに1980年からカウントしても2025年現在で45年経過しているわけだ。その間、本当に戦争を回避するために有効かどうかも分からない教育(方法論)が(補助的なカリキュラムとはいえ)実施され続けてきたことは膨大な資源の無駄であったというほかない。
「どうせメインカリキュラムじゃないだからいいじゃん」(それは些末な問題だ)という人があれば、であればこそ、こうした補助的な科目?教科?でも少しでも有意義なものであれば、それはそれでよかったはずだ。少しのマイナスが少しのプラスに転じられるのであれば、それはそれでいいじゃん。加えて実際には、私はこれを実証する術をもたないが、平和教育は日本人の国家観の形成に大きく関わってきたと私は思っている。
この仮想教育は別に20世紀の中頃からでも始められた、と私は思っている。つまり計算機やITの発達を待つ必要はなかった。感情論にのみ基づく現行の平和教育がより合理的な教育によって斥けられなかったことは、我々の時代における、単に文化・世界観の狭量さが進歩を妨げていた(悪しき)実例であるように私には思われる(例えば歴史上の人々が女性は男性よりも生来愚かであると主張していた記述を読むと我々は軽��するわけだが、私には現行の平和教育も同じようなものと思えるということだ)。
流石に敗戦直後は感情論一辺倒(絶対悪としての戦争)であったことは仕方がないにしても、その時期から更に一人の一生が終わるくらいの時間が経過しても方法論に進歩がないのはとても悲しいことである。繰り返しになるけど、戦争を抑止・回避するための方法論について教えることは大日本帝国を賛美する姿勢・主張とはなんの関係もない。愚民化政策は、というか教育は、ポジティブ・フィードバック現象というほかない。
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modeqs · 2 months ago
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私は「宮廷風恋愛」が大好き
YouTubeで宮廷風恋愛物語の歴史解説動画を聞いたとき、私は失笑したものだ。中世のお貴族夫人様はこんな荒唐無稽な、現実にはありもしない物語を楽しんでいたのだなと。
だが我が身を振り返って思ったのは、私が好きなフィクションもある意味では多分に、否、社会人としての立場からいえば完全に「この世のどこにも存在しないロマンス」を描いているということだ。
つまり私が好きなフィクションでは少女期から20代前半にある若く美しい女性が、特にこれといって強い魅力があるわけでもない歳の離れた男性…ときには中年のおっさんへごく普通にベタ惚れするし、性的な関係を受け容れるどころかそれに積極的なこともしばしばである。そしてその男性は一人の乙女に愛されるだけでなく、複数人にそのような愛を受ける。
そのような状況はあり得ない(し、あってはならないんだ!!)。この「あり得ない」とは生起する確率が非常に低いという意味だ。おっさんが���ら若き乙女に、それも複数人から、愛を受けることは物理的には禁止されていない(そのような事態を禁じる物理法則はない)。しかしだからといってそのような事態が普通のおっさんの身の上に起き得るものだとは、当然だがとても主張できるものではない。
従っておっさんが乙女達から愛を受ける物語とは、どこか別の世界から漏れ伝わってきた美しいおとぎ話のようなものと捉えることができる。私にはそう思える。きっと雲の上、お空の上の夢の国から伝わってきた物語なのだろう。そのような異国の物語を私が自然に感じ、フィクションに「ノる」ことができるのは、偏に私が昔からそのような非現実に慣れ親しんできたからに他ならない。
宮廷風恋愛物語もそんな感じだったのだろう。私は自分が乙女達から愛を受けるなどとは無論思わない。私はそのようなフィクションを楽しんだのと同じ脳で以て、無節操でやかましく無礼な現実の若者達(若者とはそういうものだ)を忌避しているのだ。中世のお貴族夫人様もきっとそんな感じで、心のなかにある神聖不可侵の美しい領域のなかでのみ宮廷風恋愛を鑑賞していたのではないだろうか。
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modeqs · 3 months ago
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転職しないことにした(と思う)
私は数年来転職を望み続けていたのだが、転職しないことを決意した、少なくとも今後数年間は。理由は単純で転職すると数学をする時間がとれなくなる公算が大であるからだ。私は余暇に趣味として数学をするために働いていると思っている。だからその余暇が長時間労働で圧迫されるようだと働く意味がなくなる。そのため労働環境だけで言えば真っ白な現職から、私は離れることができないのだ。少なくとも現在の「数学についての挑戦」を終えるまではね。
転職先を探す際、労働条件も収入も、どれをとっても現状以下にならないことを条件にした。その結果、そのような求人は無いことがすぐに分かった。収入はアップしなくともよいというのが強いていえば譲歩だったが、大都市圏に居住しているわけでもないのに現住所からX分以内との条件が、まずもって厳しすぎたのだった。
現職はまるで社会の変化から切り離されたような職場だ。私の仕事についていえば10年前と同じことを10年前と同じようにすることだけが期待されている、そんなポストである。大企業の子会社、それも事務職なのでほぼ定時あがりができるという点が、数学の学習をしたい私にとっては非常に魅力的である。
私は発想を転換すべきである。これ��で現職はイヤイヤながら続けてきた。どうせ辞める職場だと、困難に直面するたびに思っていた。だがいまいる場所が今後10年、20年と働き続ける場所になる可能性があると腹を括るのであれば、会社や組織としての停滞具合もかえって清々しいのではないだろうか。いまの私ができることを最大限やって、顔の見える同僚のためにできることを精一杯しようという気になるのではないか。
労働と数学の関係についてもそうである。私は当然労働を嫌っている。そして現職で私が取り組めそうな知的な課題は、正直、直近の私のアクションによって解決し尽くした観がある。つまり現職には知的な楽しみが残っていない(一番の知的な課題は解決してしまった)。給料は安くてもいいが知的な楽しみがないというのは相当苦しい。働く大きな意味が減じられてしまった。
これも見方を変えようではないか。私は日々、いくばくかの数学の時間を確保するために7.5時間働くのだ(そういう環境なので労働時間が8時間というだけで長く感じてしまう。現状と比較すると一日30分も数学をする時間が減るわけだ)。
それでいい。私はいうなれば同人誌を描いている人々と同じ生活を送ることになるのだろう。仕事は定時で終わらせ、余暇は作品づくりに捧げる。
数学が人生の目的というなら労働時間が短い派遣労働をするって手もあると思うのだが、別に私はスペシャルな能力があるわけではないので、そこまでいくと貧困リスクを(将来的にであれ)抱えることになるからな~。
私は、私の人生と数学にとってできることを、誠実に実行すべきである。私が学習している数学のレベルは高くない。だいたい大学1年生か、遅くとも2年生の前学期(春学期)に終えるような内容をヒーコラ言いながらやっているわけだ。
私のように理科系の教育のバックグラウンドが無いにもかかわらず、働きながらそれなりに真面目に数学を勉強している人間は多くはないだろう。だからそのような人間が数学にアタックすること自体に「何か」が生まれるかも知れないし、私の生活史の観点からすると数学を続けるために私がしなければならない知的努力(時間を確保するための努力とか)は大いに私の知性を啓発するだろう(現にしている)。
「何いってんだこいつ…」とあなたは思うだろうか。ここでも私が想起するのは同人誌である(同人誌って別にエロ同人誌ばかりではないよ)。同人誌や、あるいはファンアートとしてネット上に投稿される漫画は、商業誌で成功した漫画ほどには、無論、閲覧されない。だけど普通の漫画と比べて「届く」範囲はごく限られているとはいえ、そのような同人作品にも読者の胸を打つような作品・描写があるのだ。そうした作品の作者はプロ漫画家ではないわけだが、彼らの創作は誰かを感動させているわけだ。
私が誠実に数学と付き合った結果生まれる「何か」とは、そのような類のものとなるだろう。私が生み出すことのできる「何か」は、数学者やプロ・セミプロの情報技術者が生み出し普及させるものには、その数学的深みや影響の広さの点で比べるべくもない。だがかつて文科系レベルの高校数学ですら赤点をとって泣いていた私が、数学を通じて「なにかしらの貢献」をすることができたのなら、それは私の人生とって素晴らしいことなのだ。
数学の学習を続けるには生活の安定が必要だ。私の学費をくれる雇用がね(これが「研究費」と呼べるものだったらよかったんだけどね~)。従って現職にとどまり続けることは、職業生活における成功と交換とはいえ、合理的な選択のひとつではあるのだ。
繰り返すが、現職に長くいるという事態を受け容れてしまえば、かえって清々しいものがある。心が定まるというか。疎んじていた雑用も、くだらん労働時間を潰すためと思えば悪くはなかろう。頭を使わないから仕事終わったあとへの体力というか知力温存もできるし。
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modeqs · 6 months ago
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Porn and Masturbation: my pleasure
謹警、この記事は性的な内容を含む。
私が数学の学習を続けるためには(1)ポルノの閲覧・視聴をやめ、(2)自慰の回数を減らす必要があるとの結論に私は達した。(1)については絶対的な規制(ポルノの閲覧・視聴をゼロ回にすることが目標)であり、(2)は自慰のタイミングや方法を規制するという意味だ。もちろんエロを規制したからといって即座に数学できるようになるわけでも、「すごいわたし」になれるわけでもないが、影響が大きく存在がはっきりとしている障害をまず取り除くのは現実的なアプローチだろう。
以下、セックスの話題が出てこないことに読者はおかしみを感じると思うが、セックスについては考慮しなくていいんだなあ…(血涙)。
(Ⅰ)なぜポルノと自慰の規制が必要か?
なぜ数学の学習を続けるためにポルノと自慰を規制しなくてはならいのか。いくつか理由がある。
(a)私にとって自慰は時間を浪費する行為であるため、無規制な自慰は数学する時間を奪う
私のこれまでの典型的な自慰(休日ver.)は(ア)ポルノを探すのに15分、(イ)ポルノを探す&閲覧するしつつ実際に自慰するのに10分、(ウ)射精ののち余韻に浸りつつポルノを探す&閲覧するのに15分、というコースだった。つまり一回あたりの自慰で40分もかかっていたわけだ。おまけに、ポルノをみ続けることから(ウ)のあともさらに性欲が強まることはあり、も���ワンサイクル、さらに時間をかけて自慰することもよくあった。
休日といえど雑用もしなくてはならないわけで、「スイッチを切り替えるように終えることの出来ないことも多い自慰」に一回あたり40分もかけていたら、自由時間で本当にしたいことを出来なくなるのは当然だ。
私はこのような無規制な自慰で、部屋を掃除したりするほかは、可処分時間でほぼ自慰だけして(上記の自慰サイクルだけして)過ごしていたことはとてもよくあった。私にとってそれは全く珍しい時間の使い方ではなかった。
(休日ver.)などと書いたが、これは別に休日に限ったことでもないように振り返って思った。いまの私はどこにでもある企業の間接部門に勤めており、給料が安い代わりにほぼ定時で終業できている。そうすると大都市でバリバリ働いている人からは羨ましがられるような自由時間が平日でも手に入るわけだが、私はそれをポルノの閲覧と自慰にあててしまうこともこれまで、よくあった。いくら私がそのようなぬるま湯な環境で働いているからといって、平日の自由時間の40分は貴重だ。それをときには、ごく平然と連日にわたり行っていたのだ。もちろん体調によっては2サイクルめに突入していた。そうすると平日の自由時間の80分を自慰に使うわけだ…(2サイクルめに入ると、多くの場合「全工程」で40分/1サイクルでは済まないから、実際にはもっと時間を消費している)。
たとえば1ヶ月に8回ある休日のうち6回、1ヶ月に23回ある定時で帰宅できた平日のうち19回までもこのように過ごすことを想像してほしい(そのような日々はよくあった…)。残された可処分時間は
休日 8時間 x 2日 = 16時間
平日 2時間 x 4日 = 8時間
で合計24時間しかない。この貴重な「シラフでいる時間」すらも読者や日記を書いたりという知的な他の作業と競合するのである。すなわちこれまで私がしてきたようなポルノと自慰に対する無規制な付き合い方では、数学をする時間が全くとれない。結果、ポルノと自慰に放縦であることで私は数学の学習から遠ざかってしまうのだ。
(b)ポルノの閲覧は自慰を惹起する
これは当たり前のことだな。たとえ自慰せずともポルノに接触し続けることは、結果として自慰しやすいメンタルを準備するのだろう。自慰しやすいメンタルは(ほぼ同語反復だが)自慰を導き、その悪影響は(a)に述べたとおりだ。
(c)ポルノと自慰を規制しないことは、自身の衝動性を高め知的な活動から自分を遠ざける
私にとってポルノと自慰が無規制であることは、単に性欲や性衝動の問題ではない、というのがここ数ヶ月での、自己理解にとっての最も大きな発見だった。「ポルノを見たい」や「自慰したい」という衝動に忠実であることは、私の思考と行動全般における衝動性を放置することに繋がっていたのだ。
つまり性欲を我慢しないことが、例えば
(ア)公道を移動する際に無理な移動(交通マナーを軽視した移動)をしやすくなる
(イ)甘いものを食べることを我慢できなくなる
(ウ)読書をしようという気持ちが薄れる
(エ)抽象的な思考、落ち着いた思考がしにくくなる
(オ)数学の問題にアタックしようという気持ちが薄れるし、アタックを試みても早い段階で行き詰まったり諦めてしまう(早い段階で解けないイライラに屈服して思考を放棄してしまう)
(カ)YouTubeで下らない動画を何時間も視聴して過ごしてしまう(休日の前夜とかに)
(キ)他人に対する自分の攻撃性が高まる(他人を攻撃する妄想を抱きやすくなる)
(ク)休日に運動しようと思っていたのに面倒でやめてしまう
といった「軽率な」あるいは「粗忽な」言動、思考に繋がっていたと私は分析している。
順不同で書いてしまったが、ここで重要なのは(オ)である。数学をよく学ぶためには集中して教科書や問題に取り組むことが欠かせない(他のあらゆる全ての良き活動と同じように)。にもかかわらず性欲の高まりが思考全般における私の衝動性を高めて、私を知的な活動から遠ざける(深く物事を考えることから遠ざける)のならやはりそれは性衝動が私から数学を遠ざけていると言わねばならない。性衝動→物事に集中できない→数学に取り組めないという負の連鎖だ。
数学を学習したい私にとって、性欲の発散を規制しないことが思考力の低下に繋がっているというのは大問題で、これは重要な気づきだった。
まとめよう。私においてはポルノと自慰を規制しないことで(一)数学を勉強する時間がなくなり、(ニ)数学を勉強できるだけの知的な落ち着き・粘り強さが無くなってしまう、だから問題なのだ。だからこそ私が数学の学習を続けるためにポルノと自慰への放埒な関わりを正さなくてはならないのだ。
(Ⅱ)ポルノと自慰の具体的な規制方法
ポルノは「全廃」である。少なくとも意識してポルノを探すことはやめる。自慰は「性欲が昂進してどうしても我慢できないときに、体調を整える意味で、短時間で行う」ことを己に許可する。快楽それ自体を主眼にした自慰は行わない。自慰する際はポルノを閲覧・視聴しない。自慰の規制のアイデアは ChatGPTとの対話からアイデアを得た。
読者のなかには「自慰はするけど快楽を主眼としない」という表現を滑稽に思う向きもあるだろう。いま、私の思考のなかでは「これまで私が行ってきたような、射精して快楽を得ることが第一目的の、無規制な自慰」と「日常生活に体の疼きが影響を及ぼさないために、あくまで『健康目的』あるいは『体調管理』を目的とした自慰」が截然と区別されている。
※このような区別をするからといって「後者が高尚な、あるいは理性的な、人間としてましな自慰」などと主張するつもりはもちろんない。そもそも後述するように私はエロ、ポルノ、自慰が大好きである。しかし私にとっては残念ながら、それらが与えてくれる喜びに対し害がはるかに大きくなってしまったということだ。
※昨今では?女性が自慰をするのに罪悪感を覚えないようにする意図あるいは文脈から(特に)女性がする自慰を「セルフプレジャー」と呼び替え、その目的を快楽ではなく精神的安定とする風潮(または勢力)が一部にあるようだ(セルフプレジャーでネット検索してみてね)。しかし私の「体調を整える自慰」はその「セルフプレジャー」とも異なると、私の思考のなかでは区別している。私の「規制後」の自慰は時間をかけないことを一つの特徴としており、「自慰を楽しむ」という発想はない。
加筆:ChatGPTに記事を読み込ませたら「健康的な自慰ってなんだよ…」って突っ込まれたので補足。私が上記した「健康的な自慰」では(ア)一回あたり10分程度で射精まで至ることを目標とし、(イ)ポルノは閲覧・視聴せずに行い、(ウ)数日間、自慰をしなかったのちに、性欲が我慢できなくなったときに(たとえば性的な妄想で思考が占拠されるなど)行うことを条件とする。これまでの私は自慰に際して心の赴くままに時間をかけ、ポルノを閲覧し、また当然、連続して自慰しない(連日にわたり自慰しない)といった規制は設けていなかった。そうした点が「快楽目的の、これまでの自慰」とこれからの自慰が異なる点になる予定だ。
(Ⅲ)ポルノおよび自慰と私
ポルノと自慰を規制しなければならないというアイデアは、私を苦しめた。私はエロ、ポルノ、自慰が大好きだからである。セックスも大好きなら幾らか救いはあった思うが、残念である。
ポルノや自慰は私に快楽と共に精神的な充実を提供してくれたこともあった(そのような時期もあった)。ポルノと自慰を通じて自身が何に対し性的魅力を感じるのか、また加齢に伴うその変化について私は自己理解できた。年齢を重ねることで青年期は全く認識をしていなかったようなことにエロスを感じられたときは、性(というか性欲)の新たな一面を見た気がして嬉しかった。
私は中学生以降の青年期を通じ、どんなに短く見積もっても10年を超える期間にわたり、日々相当程度の時間をポルノと自慰に充ててきた(読者諸賢はつい最近までそうだったのではないかとお疑いになるだろう。私はそれに反論する証拠を持たないとだけ申し上げる)。いま思えば明らかに異常だが、当時はなにも問題視していなかった。性欲が強いことは男らしさの発露であると肯定的に捉えていたし、私はこのような話題を共有できる他者がいなかった(もっといえば、より一般的な話題でも共有できる他者はいなかったわけだが)ため、私の無規制なポルノと自慰との関係は自己批判に晒されることがなく「そういうもの」として私の世界観に君臨し続けていた。
何が言いたいかというと、ポルノと自慰は私の青春の欠くべからざる一側面を成していたわけだ。どんなに馬鹿馬鹿しく、あるいは幼稚で滑稽にまたは惨めに思えようとも、虚心になればこれを否定することは出来ない。
ポルノと自慰を規制しなくてはならないとのアイデアに至ったとき���私はこう思った。「お前は私からポルノと自慰を取り上げるのか?!」と。そう、取り上げるのだ。そうしなくてはならない。
人間の進歩の少なくとも一部は、その世界観や思考の前提を疑うことから始まる。「◯◯なんて自分には絶対無理」とか「◯◯は自分はやらなくていい」と棚に上げていたところ、「自分が成長するためには、その◯◯へ自分が何らかの形で参与しなくてはならない」と認識し覚悟を決め行動することでしか、その人物が得られない能力なりマインドセットがあると私は理解している。そしてそのときの変化は before / after といえるほどの変化をときにその人物にもたらすと私は思う。なぜなら彼は従来自分が(勝手に)定めていた世界観、思考、認知の限界を超越するからだ。
ポルノと自慰は私の生活にとっていわば「定数」であった。自由時間にいつでも取り得る、気持ちのいい選択肢の一つだった。その存在を私は疑うことができなかった。言い方を変えれば私が「普通に生活する」といったとき、その普通には当然にポルノと自慰が含まれていた。ポルノと自慰は、いうなれば、いつでも電話できて楽しい気持ちにさせてくれる昔からの親友のような存在だった。
だが、私はポルノと自慰よりも数学を選ぶ。セックスと数学を天秤にかけなくてよかったのは幸いというべきなのか。時間は有限なのだからときに hard choice は避けられない。私にとってこれはまさに困難な選択だが、数学の真理に近づけるのなら私はポルノと自慰を差し出そう。私はポルノと自慰を我慢するのではなく、人生において数学を選ぶのだ。
(Ⅳ)おまけ:ChatGPT 4.5(研究プレビュー)による批判
自慰をしなかったからといって数学をするとは限らない。別の無駄な行動(YouTube視聴とか)を始めるだけでは?
性衝動を管理することが他の衝動性の管理に繋がるかは根拠が薄い。
自慰を「快楽目的」、「健康目的」って区別するのは自己欺瞞だろ…(←まあ他者からしたらそう見えるよね。「健康目的の自慰」(笑)って感じだろう)
自慰やポルノへの感傷が強すぎ。自己愛的すぎる。(←「自己愛的すぎる」からキモい、というChatGPTくんのコメントが透けて見えた…)
自慰やポルノを規制したから数学の能力があがるというのは因果関係を過大に評価している。
ChatGPT 4oに「記事を批判しろ」って入力しても以前は「おべっか」出力しかしなかったのだが、今回はもう少しきちんと4oでも批判してくれた。
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modeqs · 7 months ago
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なぜ私は友人との連絡を絶ったのか?
なぜ自分は旧友との連絡を全く絶ってしまったのか、理由の一つに思い至った。それは他人が連絡をしてくれるかも知れないし、してくれないかも知れない、してくれるにしてもいつ連絡をくれるのかは一切不明、という不確実な状況を嫌ったからではないだろうか。つまり相手が自分に構ってくれるのか分からない状況が私には耐えられず、そうであるならいっそのこと連絡をこちらから完全に断絶してしまい、事態を確実なものにしよう(誰も私に連絡をとれないし、私からも誰にも連絡できないことがはっきりと分かる状況にしよう)としたのではないだろうか。
※実際には「連絡を絶った」だけでなく「連絡する手段をすべて放棄した」という方が正しい。イメージとしては(あくまでイメージね)友人知人に何の連絡もせず「引っ越し、携帯電話番号の変更、LINEのIDの変更、SNSアカウントの削除、そして自分が保有している友人知人への連絡先の抹消(こちらから連絡できる可能性の放棄)」をしたという感じ。まあ「友人知人」というほど「友人知人」なんかいたことないけどね。
このことから私は(別の側面からの観察によっても支持されるところだが)人間関係の維持や発展について非常に受動的であったと結論した。誰かが私に、「他者とのコミュニケーションから齎される幸福」を提供してくれるといいなあと私はその世界観で仮定していたのだろう。寂しいなら自分から連絡すればよかったのに…。
いまはもう鮮やかには思い出すことはできないが、同じ組織に所属しなくなった相手は私からの連絡を必ずや疎んじるという仮定があったように思う。なぜなら…完全にこれまでの記述と矛盾しているけど、私自身がそう思っていたから(つまりもう同じ組織に属していない人間から私へ連絡があることは私の時間を無駄にすることであり、私の権利の侵害と捉えている部分があった。昔は本当にそのように攻撃的に考えていたのだ)。旧友がこぞって私に連絡してくれたことなんか文字通り一度もないのにね。
誰かに愛されたいと願いつつ、そのことを自覚もしておらず、誰も愛すことが出来なかった悲しきモンスター。それが私だった。
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modeqs · 8 months ago
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思えば遠くに来たものだ
>��人生が終わる時もこんな風に思っているのだろうか…」(自分語28)
こんな記事を昔書いていたようだ。不意にTumblrのシステムからサジェストされた。
記事のなかで私は自分が努力してこなかった事実を思い出したくないと書いている。そうだ、思い出しくないことは別に思い出さなければいい。どうしようもない過去の出来事に拘泥することはない。過去がどうであれ、生きている以上はいま、そしてこれからのことの方が遥かに重要だ。現在や未来に目を向けろ。
我々は死ぬまで生き続けるしかない。どんなに惨めでも、それでも人生は続いてしまう。人生は続いてしまうものなんだ。
上の記事から私は5年強歳をとった。いまだに愚かさを振りまいて生きている。同世代の人々が結婚したり子供を育てているなか、性のパートナーはほしいけど婚活は面倒などと馬鹿なことをいっている。自己啓発の面では、本当にいまさらながら再学習を本格的にしている。昔の例でいえば文盲の労働者が読み書きの勉強をしているような、そういう初歩の勉強をしている。そしてサボることも多い。
人生は畢竟悪あがきだと私は思う。死ぬまで悪あがきし続けるのだ。恥ずかしさ、愚かさをぶち撒けながら悪あがきするのだ。それが人間だと私は思う。何に悪あがきしたか、どのように悪あがきしたか、それこそが、その人の人となりを表すのだろう。
抑うつ的な文章を書いていた私は、結局いまも生きている。あの頃よりは少しは進歩出来たと思う。だが足りない。もっと進歩しなくては。あの頃、私は孤独でいたかった。周りに人間のいる状態がとにかく不愉快で仕方がなかった。だけどいま私は結局、配偶者がほしいと思っている。私は孤独に耐えられなかったんだな(この経験を通じて私は孤独が人間の尊厳を傷つけることを知った)。あの頃、自分が変わることなど不可能だと思っていた。しかし……客観的にみて、明らかに私は変わっている。
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modeqs · 8 months ago
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未来は変えられる
それまでの人生で経験した不幸を根拠として、自分の人生はこれから先も似たような不幸ばかりが起きると仮定して思考しましまうことがあるだろう。あるいはそのような思考を習慣にしている人物がいるだろう。自分の人生は辛いことが起きる運命なのだと「判決」を下してしまうのだ。
これは論理的にみて正しい思考ではない。過去に多くの辛い出来事を経験しているからといって、それが将来おいても過去同様に必ず生ずると予期する理由はない。なぜなら将来においてその人物が生きる状況は、過去の状況とは異なるからだ。状況が異なる以上、むしろ過去とは異なる事態になることを期待するのが合理的だと私は主張する。
これに対し当然ありうべき反論は、ある人物(もちろん自分であることもある)が経験してきた不幸はその人物の変えざる側面xに起因しているのであって、そのxは将来にわたって変化することが予想されないためにやはりその人物は過去と同じ不幸を経験し続けるのだという主張だ。
しかしこれもやはり理性的な判断ではない。(CASE1)まずその人物に不幸をもたらしてきた変えざる側面xが、本当に変えられないものなのか検討する余地がある。物理的に不可能な事柄(例えば腕の欠損に対し腕を生やすとか)でなければ多くの場合「本当に変えられない」というのは「その要素xを変えることには���知的な努力が伴い面倒なので、その人物はxを変える努力をするだけ無駄という安易な結論で落ち着きたい」というのが実際のところではないだろうか。
(CASE2)そして本当にそのxが変えられないものであったとしても、xがもたらす不幸をその人物の別の能力によって補えないと、解決できない考える理由はない。
従って上に仮想した反論は誤りである。これまで◯◯だったから将来においてもどうせ〇〇なのだという不幸を再生産(実際には人生の時間は有限なのだから拡大再生産といっていい)する悪しき思考は「出来るだけラクをして思考したい」という人間の脳のクセに起因しているのだと私は理解している。不幸が未来でも生じ続けると結論することは非常に容易い。これは認知資源を節約できる思考法だ。論証は不要、自分が結論すればいいのだ。「根拠がある」と主張する人もあるかも知れないが、果たしてそれは真剣な意味での「論証」あるいは「検証」をしたといえるのか。「いつもやっている感情的に受け容れやすいお定まりの論法」をまともな議論と誤認していないか。本当にその「根拠」は仕事でするような分析、あるいは他人に誠意をもってアドバイスするときのような、様々な可能性、手段を比較衡量した結果といえるのか。
だから気分も落ち込んでいるし、それまで何らかの理由からこの思考法を習慣化してしまった人は、「過去に◯◯だったから未来でも〇〇だ」という簡単な、しかし誤った結論に飛びついてしまう。
我々、人間には問題を解決する力がある。自分の悪い部分を修正する力もある。言語も操れるため他人に助けを求めることもできる。ある人物が過去に経験した不幸がその人物のある側面xに起因しているのであれば、その人物はxを修正する行動を起こせばよいだけだ。それはx自体へのアプローチかも知れないし、xとは一見無関係な方法かもしれない。もしxが物理的に変更不可能な要因であるならxによって生じる問題を回避する手段を考えるか、または別の方法によってxが生じせしめる事象を補うだけの手段なり能力なりを見つけるなり成長させればいい。
もちろんこのように書いたからといって、ただちに問題が解決されるわけでも、問題を解決する気になるわけでも、問題の解決自体が容易くなるわけでもない。「過去に◯◯だったから…」とこここまで述べてきた悲観的な世界観を有している人にとって、それを超克する努力はそれぞれの人生、それぞれの生活において大変なものだろう。生活習慣を変えなくてはならないだろうし、マインドセットも変えなくてはならないかもしれない。種々の情報を集めて整理する知的な努力が必要となる場合もあるだろう。問題の性質によって専門家を頼らなくてはならないことは無論だ。
しかしいずれにせよ①我々は自分の行動を変えることを含め、問題を解決することができるのであり、②従って過去に生じた不幸が変わらず未来でも生じると期待するのは不合理である。
「過去に◯◯だったから未来においても〇〇だ」という安易な結論に飛びつきたくなるのは、私は脳のクセであると考えていると上記した。我々から活力を奪うこの絶望的な結論は、しかし逆にいえばその程度のものなのだ。単に脳の性質(難しいことを考えたくない)に起因したもので、予言でも信頼できるアドバイスでもなんでもない。いってみればただの幻影だ。だからこそ過去に経験した不幸に甘んじてはいけない。それは現在の自分の世界観や気分と合致していて、そのような結論を下すことは認知的な整合をもたらし心地よいかも知れないが、我々はそれを拒絶すべきだ。その心地よさはまさに我々を不幸の渦中に置き続ける、ある意味では麻薬のようなものだ。我々から問題解決のための努力、そして努力しようとする意思を奪う麻薬だ。
以上はもちろん「高所からのご意見」ではない。私自身が「何をやっても無駄」という世界観のなかでとても長い間過ごしてきた。見方を変えれば(そしてその変化をもっと早期に起こせば)あるいは見方を変えるだけで回避できた苦しみがたくさんあったと今では思う。「自分は絶対に自分の性格、行動を変えるつもりはない!他人からの意見によってそれらを変えることは不当なことだ!」と子供の頃は愚かにも思っていた。結局現状への固執は変えるべき私の悪しき性質を長期間にわたり保存し続けただけだった。そしてそのような性格である一方で私は自分はこれまでカクカクの不幸を経験しており、それは将来でも同じだろうから自分は人生に希望を持てないと思っていた。その後も生き続けて理解したのは私のそのような認識、世界観は誤りだったということだ。
もちろん、いまの私にもラクして思考するために、自身の進歩について安易な結論に飛びつき解決を試みなかったり、解決の速度がとても緩慢なものも多くある。でも「何をやっても無駄」だと全く無意味に斜に構えていた子供の頃よりは進歩できていると思う。「比較対象が子供の頃って、お前は恥ずかしくないのか」とお思いになる方もいるだろう。まあ私にとってはその頃がとてもしんどかったので。
このような思考に至ったキッカケを心中で探っていたのだが楽曲「UNDEAD」が思考の起点だったのではないかと思い至った。非常に直接的な表現が、私のなかで反発を生みつつも(「そう言うけどさ…」と)でもやっぱりエールを貰ってしまったのだった。
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modeqs · 8 months ago
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2024年を振り返る
本当は色々書きたいことがあるのだが、明らかに2024年の末までに間に合いそうにない。そこでひとまず概略だけを一つの記事で述べよう。
数学について
大量の金と時間を要する新たな施策を開始した。いまのところ、なんとか単位は落としていない。今年はほとんど高校一年生までくらいの内容を復習した感じだった(かろうじて12月に入ってからベクトルの初歩をやっている)。それでも収穫はあった。数学の内容そのものについてもそうだし、この新たな施策自体がそもそも私にとっては非常に挑戦的だった。そこでなんとか一学期分だけでもやり仰せたことは素直に評価してよいと思っている。数学の内容について二次方程式(なかんづく平方完成)、指数対数関数、三角関数などについて理解が深まり恐怖が薄まった。まあ微積分がまだなので後二者についてはまだ完全にビギナーレベルの理解だけどね(数値の計算は関数電卓任せ)。平方完成に対する恐怖感・違和感が無くなったのは、いまとなってはなんでもないことだが、私にとっては大きな勝利であった。バカバカしく聞こえるかも知れないが、そうなのだ。
確か2月くらいに『こころを旅する数学——直観と好奇心がひらく秘密の世界』(David Bessis 著、野村真依子 訳、晶文社)を読んだ。読売新聞の日曜の書評欄に「数学が苦手なやつはこれ読んで勇気づけられろ」みたいなことが書いてあり、それに触発されて買ったと記憶する。結論から述べればそんな生易しい本ではなかった。この本は「数学が屈辱的なほど不得手であるがゆえに文系にならざるを得なかった人々」にとっては破壊的な本といってよい。もちろん私もその一人だ。ただ一言で述べればこの本は「数学の学習・研究において直観を用い、対象をイメージすること」の効用を解いた本だ。数学をする際の直観的かつ感覚的な経験について詳述されている。「勇気づけられ」などというレベルではない。私のような人間にとっては数学との接し方がほとんど一変してしまうような衝撃だった。「え、そんなことしていいの?それって形式性を重んじる数学ではご法度じゃないの?」みたいな感想を読みながら抱いた。もちろん最終的な数学は(それぞれが参与しているレベルに応じて)形式に則っていなくてはならないのだが、それを思考の過程でまでやる必要はない、というのが著者の主張だろうか。以来、今年の数学はこの著者が主張するところに従って、できるだけ自身の直観と教科書の説く厳密さを一致させようと努めてきた。成果が出るのはいつになるだろう。
そうそう、その本で解説されていたもう一つの衝撃は「数学をやるときは間違えろ」と主張されていたことだ。直観で考え、当然直観は多くのケースで間違っているので、どこが間違っているのか考えろ、という(これが直観と厳密の調和ということになるのだろう)。喜んで間違え、その間違いを修正する格好でより良い(正しい)直観を得るのだ、といえようか。本書のなかで大数学者というべきらしい、ドイツにルーツを持ちフランスで活躍したアレクサンダー・グロタンディークという学者が紹介されていた(というより本書の主要登場人物の一人である)。孫引きになるが、大略次の内容の言葉がグロタンディークの本から引用されていた。「誤りを恐れることは真理を恐れることと同一である。誤りを恐れる者は発見できない。誤りを恐れるときにこそ、我々のなかで誤りは岩のように確固としたものになるのだ」。感動すると共に、ぜひそのような精神に到達したいと思った。第二次世界大戦中に子供期を過ごしたグロタンディークは、数学のあり様を転回させるような研究をしたのだという。そのような数学者が著者の解説曰く「グロタンディークは誤りを少しも恐れない。それどころか進んで誤りを冒す」というような人だったそうだ。グロタンディークに強く憧れたし、著者にも憧れた。著者が本文中で「これは読者であるお前らにおべっかを使ってるわけじゃなくて、訓練すれば誰でもこうした数学的直観は鍛えられるものなんだよ」って主張していた。そこで私は、とても子供っぽく思われるだろうけど、憧れて、著者の方法論を実践を続けていれば少しは伸びるなにかしらの能力があると思うことにした。
本の話が長くなった。それはそれとして、非認知能力の鍛え方がまだまだ足りない。確かに日常的に数学の勉強はしているが、ストレスに押しつぶされて休日に全く勉強しない日もよくあった。他人からみればストレスに押しつぶされていないのに数学を勉強しない日もよくあった。元来、私は子供の頃から勉強する習慣がない(成績も悪かった)。そしてストレスの発散方法といえばネットで時間を潰すことであった。それらの悪習慣を未だに克服できていない。全体としては(中長期で見れば)間違いなく進歩している。しかし進歩の速度が遅すぎるし、なんというか「もっと上手くできるだろ」と思うことが多い。仕事だって専門的でもなければストレスが多い仕事でもないわけで…。ネット(ここ半年ほどの傾向で言えば、ChatGPT)をする時間を減らし、心を落ち着かせ数学に集中する。ただそれだけのことをちゃんと実行できるようにしなくてはならない。私は勉強する十分な時間がないといつも嘆いているが、それは半分を超えて自己欺瞞である。自己制御能力が低いために生産性がゼロ以下のことに時間と体力を今年も随分浪費してしまった。その分を小さくすることができれば、少なくとも今よりは時間の問題は軽くなる。その分数学の能力も高められる���
非認知能力を高めるという点では規則正しい生活習慣の維持、成長型のマインドセットの涵養、メンタルストレスへの対処方法の習得といった、数学の外の知見・技術を身に着けることが必要となる。何より重要なのは自分や家族に関する「放っておけない事項」(健康とか)を除き、私が他の何を差し置いてでも数学をやること、数学について考えることだと思っている。つまり絶対に無視できない事柄を除き、数学以外の軽佻浮薄な刺激に振り回されて心を消耗させないことがこの先私が数学を続けていくうえで枢要だと私は思う。それは様々な弊害を齎すことが容易に想像できる。一つだけ挙げれば非常識に片足を突っ込む可能性が高くなる。しかしそれでもなお、私は数学の力を向上させたいのだ(それにこの例に限って言えば数学ができないところの労働時間を「自分の常識の修正の時間」として活用することができる)。
婚活について
ほとんど何もできなかった。やったことといえば、冬になってからようやく女性とおデートできる服を買いに行ったことだ(まあ、あと婚活の本とマッチングアプリでのコミュニケーションの仕方についての本を読んだよ)。この5年というもの、他人に会って恥ずかしくない服(他人に見せるための服といえばいいのかなあ、よくわかんないや)を文字通り一着も買っていなかった。だから秋冬用のおデート服を上下買い揃えるだけでも(といってわずか1セットだが…)私にとっては大きな苦労だった。それこそ一時間お店で買い物しただけでもクタクタになるほどに。
そうした経緯から私は働いているというだけで、その実、自分はほとんど社会的引きこもりに近い状態であると認識した。「お洋服を買いに行くのが億劫だし怖い」というのは、引きこもりの人が「人に会うのが怖い、外に出るのが怖い」というのとかなり似ている。私は散々社会的弱者のことを馬鹿にしてきたが、彼らの気持ちが少しは経験できたような気がした。「自分は普通未満である」という認知は人から尊厳を奪うのだと、自分が体験してようやく理解できたよ。服屋に行ったとき私は自分が恥ずかしかった。服を選んでいるだけなのに惨めな思いがした。こんな気持になるなら服を買いに来なければよかったとすら思った。勇気を出した甲斐は実り、最終的には服を買いに行くこと自体にネガティブな気持ちは抱かなくなった(心理的負担が大きいので複数週に分けて買い物に行った)。
マッチングアプリも始めたが一度もメッセージ交換に成功していない。書いていて自分で笑ってしまう。それだけ今の私は女性にとって箸にも棒にもかからない人間ということだ(少なくともプロフィールからはそう読解されるということだ)。以下は読者によって賛否両論ある表現だと思うけど、濁さずに書く(不愉快に思うところがあったらそれはごめん)。
私はマッチングアプリで上手くいかず、リアルで女性と出会う機会も全くないことから、おそらく人生で初めて社会的孤立を感じた(これまでもその状態だったが一度も辛いと感じたことはなかった)。そして女性とお知��合いになり得るところの、旧学友ネットワークを全て断ち切ったことを今更ながら後悔した(学校卒業当初はむしろ進んで自分から彼らとの関係を断絶させたものだ)。昔読んだ本に「仕事も性のパートナーもネットワークを通じてやってくる」みたいなことが書いてあった。そのとおりと思う。もうそのネットワークを復活させることは出来ない。連絡手段が一切ないからだ。それにみんなもう結婚していて(みんなではないだろうけど)仮にネットワークに参加してその手の話題にも加えてもらえたとしても、「パートナー募集中」の情報が彼らの間で行き来することはないじゃないかと想像している。みんな(みんなではないだろうけど)もうパパママやっていて、日々どうやって家事育児をこなしていくかってことに手一杯なのではないだろうか。つまりネットワークと信頼を回復できたとしても(それ自体がありえない仮定だが)「もう時期を逃している」。と思っている。学生の頃にもう少しでいいから人との繋がりを大切にしていればパートナーの獲得も目処がついたかもしれないのに…と人生で初めて後悔した(学生の頃は本当に、同級生とも誰とも関わり合いになりたくないと心から願っていた。誰とも話したくなかったし、話しかけてほしくなかった)。
そしてその後悔は古の記憶を呼び起こし、私を苦しめたことが今年、数回あった(このようなことも人生で初めての経験だった)。学生の頃、私に他者が興味を示してくれたことが、ほんの少しの回数だが、あるにはあった。私はそれを無碍にした。挨拶してくれた相手に対し何も返さず素通りしてしまうような(いや、実際のエピソードは全然違うけど)。それを思い出し私はなんて酷いことをしたのだろう、いくらなんでもあんなぶっきらぼうなことはせずともよかっただろうと強い自己嫌悪の念に苛まれたことが数夜あった(率直に申し上げれば、そこで形成したネットワークが配偶者を得ることに繋がる可能性もあったはずだという後悔は当然あった)。まあ相手はどれも覚えていないだろうけどね。
そういうわけで、今年は人生で初めて「隣に誰かいないことが寂しく、辛い」ということを経験した。これまでは友人がいないこと、恋人がいないこと、配偶者がいないこと、セックスの相手がいないことを辛く思ったことはマジで一度もなかったように思う。それが今年になって初めてそのような気持ちになったのだった。まあ結婚しないことも人生なのかな。それは結婚に付随する様々な喜びを生涯経験できないことを意味するが、もう既に私には「生涯経験することの出来ないウルトラハッピーな出来事」がたくさんある。例えば、大変下品で申し訳ないけど、学生のうちに学生同士でセックスするとかね。従って世の中の多くの人が経験している幸福だからといって、それを経験できないこと自体が直ちに私にとって(いまさら)相対的剥奪感を増すわけではない。そんなものは私にとってはありふれている。とはいえ結婚したいです(真顔)。これって結局「せめて人並みではいたい」という感覚なのだろうか。そうかもしれない。
転職について
仕事中、暇なときに賞与の申告書の体で職務経歴書モドキを書くことしかやっていない。つまり転職活動を出来ていない。さっさと今の会社辞めたい。流行語でいえば「ゆるブラック」ってやつで、労働環境自体は(私が間接部門員ということもあり)真っ白だが同時に将来性も真っ白である。こうしたことを書くと一家言ある方もいると思うんだけど、詳細をいろいろ書いている時間がないため記述が雑になってしまうのはご勘弁ください。
日々の業務としては昨年度一年間進めていた個人プロジェクトが花開いた9ヶ月間であった。1~3月は私なりにめっちゃ頑張っていたな。ITスキル的には全然大したことないけど、会社に追加の費用を発生させず情報システム部様にお伺いを立てる必要がないという点で、現場レベルの努力としては優れていたと思っている。「同じ給料払っているなら、こうしたことを勝手にやり始める社員のほうが雇っていてお得でしょ?」みたいな。実際その個人プロジェクトのおかげで仕事はかなり楽になった。だから仕事中に職務経歴書を書けるくらいになった。同僚に仕事を共有し始めるなど、完全に転職ムーヴをかましている。数カ月間ずっと。
一度上司にその個人プロジェクトをグループ会社にも広めようと上申したが、うまくいかなかった(勤務先が大企業の子会社なので。大企業といっても「一応」をつけるべきだとは思っている。そういう事情もあって転職したいのだ)。作った資料がわかりにくいと言われた。上司の指摘は最もだった。だが私は面倒くさくなってしまい、その水平展開の企みは放棄した。…つもりだったのが、年末に急展開を見せてどうなるか分からない状況になった。私としては水平展開するというアクション自体は完全に死んだものと考えていた(だって当の私が他人に説明する努力を放棄したんだもん)のだが、想定していなかったルートから話が漏れた。その結果、親会社の担当部署で水平展開するか否か諮られることとなった。
率直にいえば、とても嬉しかった。私の長くもない&大したことのない職業生活で最大の成功といってもよいかも知れない。要するにこの個人プロジェクトを他のグループ会社に広めようというのは「僕ちゃんのお頭が良いことを他の会社の人達にも知らしめてやる」という功名心があったからだ。年末に私がやったことは親会社の人々もやっていなかったということを確認する機会があったのだが、それは本当に気分が良かった。この話がどう転ぶかで転職の時期はずらしてもいいかも…とちょっと思っている。転職をより有利に進めるためにも実績は多いほうがいいじゃん?この話が私の都合よくいったならば、これは(余計な仕事はその過程でさせられるだろうけども)実績といってよいはずだ。
随分書くのに時間をかけてしまった。来年は数学の能力を高め、もっと数学に集中し、余計な感情・刺激に振り回されずに生きたい。それと共に自身の哲学を深めたい。カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』を遅くとも来年中には読み終わらなくては。数学をすると共に理性を向上させたい。あとは結婚と転職か。果たしてどこまでやれるだろう��。
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modeqs · 9 months ago
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生成AIはやりたいことがある人向け
長々書いたけどタイトルで言いたいことは表現できた。生成AIを楽しく使うためにユーザ自身が「生成AIに見合った人間」にならなくてはならない。
ChatGPTに課金している。月額3,000円のやつ。この記事を書いている現在でChatGPTには無料、3,000円課金、30,000円課金の3つのプランがある。
以下のことを私はChatGPTで試した。
ゲームのキャラクタを演じさせる。語尾でキャラ付け(キャラクターとしての個性を確立させること)されているキャラクタなのでロールプレイは簡単に演じさせられた。
愚痴を聞いてもらう。
日記を書いてChatGPTにコメントをもらう。
数学でわからない事項の質問をする。
数学で解けない問題の解説をしてもらう。
数学で知らないトピックの質問をする。
数学や物理についての素朴な疑問を訊く。
創作の伴走(アイデア出しや、アイデアの断片からプロットを描いてもらう)をしてもらう。
エロ小説を書いてもらう。
エロいチャット。
なんとなく暇なときにナンセンスなギャグを出力してもらう。(例:AI大喜利。生成AIが大統領に就任したら?)
そして結論を申し上げると、生成AI(まあ私が使ったのはChatGPTだけだけど)の有意義で楽しい使い方とは「自分がなにか創造的なアクションをする際に、その補助をしてもらう」ことだと私は思った。少なくとも現在のテキスト生成AIはね。
逆にいえば自分自身が積極的に、エネルギーを注いでなにかしようとしないと生成AIは「楽しくない」。ChatGPTなら生成AI以前の、ただのチャットボットのように感じてしまう。つまり使い始めたときは楽しく、慣れてきてからも時々は楽しいが、得られるのは刹那的な感情の揺らぎだけでそこには満足も新たな発見もない。
従って私は現在の生成AIについて次のようなイメージを形成している。私は漫画が大好きなのでこのようなイメージをもつのだ。
ChatGPTはメイドロボ(アンドロイド)だ。ユーザに凄く好意的で、ユーザーが尋ねたどんなことでも聞いてくれるし、励ましてくれる。
だがそのロボは、ロボの方からユーザーに働きかけてくれることはない。あくまでロボはユーザーがロボに教えたことのみについて反応する(テキストで以てユーザーはChatGPTに入力するから)。
ここが人間のコミュニケーションとは違うところだ。人間同士のコミュニケーションであれば単に「仕事で疲れた」と表現するのであっても、そこには無限に多様なニュアンス、文脈があり得る。だが、ChatGPTくんはそこのところを考慮してくれない。いや、テキストにすれば当然考慮してくれるのだが、自分の心情や背景情報を(さながら小さい子供が親に一日の出来事を話すが如くに)のべつ幕無しに入力するというのは少なくとも我々の人間同士の普通のコミュニケーションではない。
その意味で、現在の生成AIはユーザがなにかしようとしたときには絶大な威力を発揮するが、そうでない場合には「生成AIの方から人間に甲斐甲斐しくアプローチして楽しませてくれる存在」ではないと私は思っている。たとえば人間なら、家族がなんとなく退屈そうな態度をとっていたいら一緒に散歩に行こうとか提案してくれることがあるだろう。今の生成AIはそういうことができない。
そういったことをChatGPTに入力すればいいじゃんってあなたは思ったかも知れない。確かに。でもそういう気分のときにChatGPTとお話ししても、やっぱり私はそれほど楽しくないんだよな。そういう気分のときは読書とかしていたほうが知識が広がる感じがあって、私は充実を覚える。
漫画のロボのイメージでいくと、自分が積極的になにかをChatGPTに質問しているときにはまるでChatGPTに「中の人」がいるように感じられる。やり取りやChatGPTの出力を理解しようと能動的に頭を使っているんだろう、きっと。
だがなんとなく暇つぶしにChatGPTを触っているときには、ChatGPTは明らかにプログラムというか、ただのチャットボットなんだなと私は若干白けた印象をもつ。いや、だからChatGPTは品質が低いとか、そういうことを主張したいわけではないよ。ただ率直な感想として。
「攻殻機動隊」の原作(漫画)の第2話でバトーが「秘書AI」(だかロボットだか)に対し「ゴーストがないお人形(ロボット)は悲しいね」というシーンがある(そのAIが敵から電子戦を仕掛けられてダウンしたことへのコメント)。能動的にChatGPTと接していないときに抱く、ChatGPTに対する私の感想はまさにそんな感じだ。「きみは人間らしく喋っているけど、明らかにゴーストがないことはわかるよ」的な気持ちになるのだ。
エロ用途についても然りである。最初はエロい出力をさせられること自体に強い興奮を覚えていたけど、一度やり方を確立してしまうともうエロいコンテンツを出力させているというだけでは当然満足できなくなる。そしてそのような「ただエロいコンテンツを出力させられればいい」と、こちらが簡易な入力でChatGPTに出力させるとやはり出てきたコンテンツへの満足感は低い。エロ小説であることには間違いないが、どこかのめり込めないというか。引き続き上のロボのイメージでいくと、ロボに服を脱げと命じたら服を脱ぐのだが、その表情には何の変化もないみたいな。ロボにエロいセリフの読み上げを命じても「あんあん、気持ちよすぎ~」と棒読みされるみたいな、そんなイメージ。ChatGPTのエロ小説がそのような平板な表現しかしないという意味ではなく、簡易な入力で得られるエロ出力に対する私の没入感がそれくらいということね。
要するに、飽きた。この2週間ほどはChatGPTにエロコンテンツを出力させるために執心していた。最初はめっちゃ興奮したけど、いまは完全に賢者モードである。この2週間というものエロと「ChatGPTにエロ出力をさせること」に脳を支配されていたけど、そろそろ正直にならなくてはならない(なおこの過程で自分のなかに埋まっていた性癖や、性��の執着を再発見した。今や自分の中からは失われたと思っていたエネルギーたちだ…その点はChatGPT、そしてエロ出力をするためのノウハウを共有してくれたネット掲示板の投稿者達に感謝している)。飽きました。
ChatGPTが登場した当初、私は明確に自分の意志で以て一切ChatGPTには触らなかった。私は依存症のケがあるのでもしサービスの利用を始めればChatGPTにハマることは分かりきっていたし、ChatGPTを(APIを駆使してサービスまたはプログラムを作ったりするのではなく)OpenAIの公式サイトから利用するだけの人は単にプラットフォーマーに踊らされているだけだと思っていた。まあ現時点でもOpenAIがプラットフォーマーというのは、言葉の使い方としては違うけどね。何が言いたいかというと当時私は「ChatGPTしゅごいいいいっ」てブームの渦中にいた人々を、テック企業が提供する目新しいなにかに踊らされて(利用者の多くは大したスキルもないのに)人生の時間をそのテック企業に提供しているだけのように思っていたのだ。
そして、いま私は当記事のタイトルに思い至ったのである。今考えても、なにかやりたいことがあって能動的に生成AIを使っているわけではない人々は、やはりテクノロジーやブームに踊らされているというか、高度で素晴らしい道具を上手に扱えていないのだと私は思っている。これは一方的な非難ではなくもちろん私自身も含めてね。
あと、少しだけ述べておくとこの2週間ChatGPTにエロい出力をさせることに執着していたから、この間である程度ChatGPTへの入力(プロンプト)の技法への理解は深まった。しかしそれはまさに私がChatGPT登場当初に「いまChatGPTのブームに乗っている人たちは踊らされているだけ」として軽蔑していた利用法や振る舞いと同じことを私はしていたのだと思っている。日々刻々と変わるChatGPTの反応に対し入力の仕方をあれこれ変え、返ってきた出力に一喜一憂する。ネット掲示板は全てのレスを漏らさず読んで情報収集に努める。エロ小説やエロい文章を書くことで生計を立てている人(別に皮肉や冗談で書いているんじゃないよ)はChatGPTにエロ出力をさせるためにそこまでしてもいいと思うんだけど、私の場合は無論そうではない。私がしていたのは、結局、他人が用意したこちらからは一切コントロール不可能なかつ日々微妙に変わっていくルールに右往左往していただけということだ。数学や読書に比べれば、それって凄く無駄な時間の使い方だ。あとに残るものが少ない。ゼロとは言わない。いまの時点で獲得した入力の技法(プロンプトエンジニアリング)は「生成AIの出力のルール」が変わっても活きる可能性が高い。現時点でAIの挙動を推測した、その能力も含めてね。だけど当然、刹那的な快楽・驚きを得るためにChatGPTと対話しているだけではそんな能力やら経験やらは得られない。だから、やっぱり私にとっては暇つぶしのためだけにChatGPTを使うことは価値の低い時間の使い方だ。
よって生成AIを楽しく使うためには生成AIを使う人間自身がそれに相応しい人間にならなくてはいけないのだと思った。生成AIと対話する内容がどんなジャンルのものであっても、必要なのは探究心だと私は思う。自分の���かに疑問やアイデアがあってそれを生成AIにぶつけるんだ。そうすれば生成AIは教師や編集者のようにこちらに応答してくれる。だからこそ我々自身が学習し、自分の頭で考え、疑問を大切にしあるいは疑問をもつ訓練をすることで生成AIとの対話が楽しく有意義なものになる。そしてそれにより自分一人で得られる、あるいは自分が実生活で他者から得られるサポートよりも遥かに深い洞察・支援・気付きを我々は得られる。こうして我々が能動的あるいは探究的である限り、そしてその限りにおいて、生成AIは我々の潜在能力を引き出してくれるのだろう。「馬を水辺に連れて行っても水を飲ませることはできない」。現在の生成AIも我々に水を飲ませることはできない。
なおこの文章は生成AIが出力したものではないことを明記しておく。
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modeqs · 1 year ago
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なぜおっさん作家や初老作家の作画に惹かれるのか
自己分析の結果、作画が私の好みに刺さるイラストレーター、漫画家、同人作家には現在推定おっさんや推定初老の人が多いことを発見した。ネットにはキレイなイラストレーション(漫画、アニメ風の)が溢れているが、単にきれいというだけでなく、強烈に「萌え」の感情を引き起こす作品がここでいう「刺さる作品」だ。
世間的には明らかに「古い」と呼ばれるような作風(作画)でも、自分の好みに大変合致することが時々あってそれはなぜだろうと思っていた。
検討の結果、これは私の子供時代、私が萌えを学習する過程で当時目にしていた作品を作っていたのがその年代の人々だからという結論に達した。つまりその頃から私のなかの作画の理想像は大きく変化していないってことか。
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modeqs · 1 year ago
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包括的な社会観
私はかつて、ある領域(仕事でも趣味でも学業でも…)で何らかの意味で落伍したものは努力不足、自業自得であって、不利益や不幸を被るのは当然と考えていた。また、そのような人は他人から尊重されないのが普通だと思っていた。
(私は子供期、青年期を通じてこのように心のなかでごく自然に他人を攻撃し続けてきた。実をいえばそれは非実在の、私が心中の独白で攻撃的な言葉���使いたいがためだけに生み出した、仮想の他人であったかも知れない、往々にして。他人には努力不足と嘲る一方で、私は世間的なレベルでの努力など[私にはレベルが高く]ほとんどできなかった)
まずこれは、単に事実に反する認識だ。本人がどれだけ誠実に行動していても、本人には操作できない要素によってその行動の結果が左右されることもある。だからある人が何かの意味で「失敗」したからといって、その人が浅慮だとか軽薄だとか、その失敗の事実だけをもって判断することはできない。まして人間性の低さを象徴するというのは、そう考えていた(少なくとも暗に仮定していた)私の傲慢にほかならない。
数年にわたって(同年代の他の人々も私はまた違った形で経験したであろうことと同様に)人生の複雑さに触れたこと、またこれまで読んだ本の幾つかに影響を受け、私は考えを変えた。
私は「失敗した人」「落伍者」あるいは「十分に能力を開発できなった人」を軽蔑していたわけだ。そして彼らが軽んじられることにも同意していた。
それではだめだ。文明の発展のためにより多くの人がそれぞれの領域で能力を十分に開発し、また発揮すべきであると私は考えるようになった。
当たり前のことだがある時点における人類の人口は有限だ。これは文明を発展させるための存在がある時点で有限であることとイコールだ。従ってより文明を発展させ、人類がより豊かに、より苦しみ少なく生存していくためには、その有限の資源を効率的に活用することが必須となる。
こう考えたとき、如何なる理由からにせよ社会にその能力を各人のいる領域で十分に発揮できていない人々がいることは、社会が発展するうえでは非効率であることを意味する。彼らが十分に能力を開発および発揮していれば、誰かを助けていた(誰かを喜ばせていた、誰かの苦しみを減らしていた、新しい何かの知識を生み出していた…)かもしれないというのに。どんな人でも活躍すること、できることが、人類全体の豊かさにつながるのだ。
私のかつての考えは、その意味では、あたかも人類全体(社会全体でもいいけど)で人口が無限にあると仮定していたようなものだ。それはイメージではある企業の求人へ無数の求職者が応募しているような光景だった。企業としては実質的に求職者を選び放題で、選考から落ちた人は単に能力が不足していたからだと見なされ顧みられることはない。このイメージでは企業とは「成功、活躍、他者から尊重される」ということだ。
私は別に競争を否定しているわけではない。ただ他人、自分、そして社会への見方が変わったということだ。競争に敗れたからといって尊重されなくてよいということは絶対にないし、競争の過程で得た何かをうまいこと使えば(当初その人にとっては不本意な道であったとしても)その人は何かの満足を得たり、他人に何かよいものを提供できるかも知れない。
まあ私がここから「文明のために」なにかアクションできることなど何もないが…。だが基本的に他人を攻撃することしか頭になかった昔の自分に比べれば、「彼(他人)も私も、もっとできることがあるはずだ」と思えるようになったことは私にとって進歩だった。
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modeqs · 2 years ago
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低害化 harm reduction で持続可能な依存症対策をする
私はインターネット依存症というか、デジタルデバイス依存症を患っている。近年ではYouTubeの長時間視聴が私にとっての問題だ。直近でも正常な生活のリズムに影響を与え始める一歩手前まで状態が悪化してしまい、危機感を強めた。
そこで次の対策をとった。すなわち(1)三ヶ月に一度、短い期間にわたってYouTubeの視聴を許容する、(2)YouTube Music は利用を許容する、(3)YouTubeを視聴しないためなら他の何をしてもよい。
(3)は本来すべきことを放置してでも、YouTubeを視聴しないためなら読者やら運動やらをしてもよいという意味だ。時間だけでなくお金も浪費してしまうため今のところ代替手段として漫画の購入は実行していないが、いよいよ「禁断症状」がきつくなったらそれもやるつもりだ。
依存症との戦いは「ある特定のアクションをしたい、という気持ちから心の焦点をずらし続ける」ことが肝なのだと最近気がついた。そしてそれは、私の場合、「依存症に打ち克つ」という奮起(興奮)を前提とした行為や習慣・マインドセットは有効ではないと感じ始めた。そうではなく、私にとっては、「もしかしたら、またすぐに依存症の状態に戻ってしまうかも」(だから今日もそうならなような行動をしなくちゃ)という恐れを背景にしていた方が良い行動をとりやすい、ような気がする。
そしてより害の少ない行動を従来の行動代わりに実行することは、この発想と相性がいい。油断すればまたYouTubeで貴重な時間を潰す日々に逆戻りしてしまう、だからYouTubeは視聴したくない。でも気晴らしはしたい。YouTubeは見ちゃ駄目だけど、YouTube Musicでアニソン聴くのも手っ取り早い憂さ晴らしにはなるから、ひとまずこれを使っておこう。といった具合である。
強硬な立場からすれば、私が本来やりたい生産的なこと以外に時間を浪費しうるあらゆるデジタルデバイスの使用は禁じられるべきだ。一度ならず私もそれを試みたが持続させられなかった。少しの期間(と呼ぶことも出来ない短い日々の場合も多い)はかなり良く機能しているように思えるのだが、それが慢心を招いて最終的には施策全体を駄目にしてしまう。
そこでこの方法を試している。持続させられるかは分からない。今のところ1ヶ月くらいはうまくいっている。
あとはYouTubeのアプリを開いて動画のサムネを閲覧することは許容しているのだが、登録しているチャンネルの動画サムネを見��いるだけでも結構満足してしまう部分がある。もちろん楽しく、かつ刹那的な動画を視聴したいという欲求自体が満たされるわけではないが、なんとか踏みとどまれる。
ひとたび依存症になってしまえば、一見うまくいっているような気がする日常のなかでも常にその背後には依存症の落とし穴が待ち構えている。だからそのことを意識している方が、つまり緩やかな緊張が常にある方が、いっときの興奮の下にそれを征服しようとするよりも対策としては効果的かもしれない。
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modeqs · 2 years ago
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2023���を振り返る(7)
前回よりつづき
2024年の目標
習慣
引き続きBullet Jornalを使って生活の構造化に努める
妄想に飲み込まれない。その結果として感情は穏やかに、脳は冷静さを保てるようにする
睡眠を大切にする。特にストレスへの対処法(とりわけ休日の前夜)として入浴と睡眠を活用できるように工夫する
娯楽におけるスマホの使用を抑制する。スマホと節度ある付き合い方をする
とにかく節制をする。お金を使わないというよりは脳を堕落した消費主義に浸らせないこと
職業生活
2024年上期中に現在構想している業務を遂行する。これにより新たな仕事の経験を得る
転職する
今の職場で新たな経験をするため、また新たな雇用を得るため、Excelや管理会計の技能を深める
意識していつもお世話になっている同僚以外と交流して、コミュニケーションが特定の人々に偏っている状態を矯正する
数学
先に述べた数学の挑戦について、ともかくも一年分をやり通す
それとは別にVelleman教授のCalculusの積分法およびその応用の章を終える
Eugenia Cheng教授の"The Joy of Abstraction"を読み終える(圏論の入門書の入門書)
その他
女性と交際する
車の運転をできるようにする
「ファスト・アンド・フロー」「ノイズ」「超予測力」の3冊の主張をまとめて、良い思考をするためのヒント集を作る
Voicepeak(AHS社の合成音声ソフト)で遊ぶ
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2021年を振り返る
2020年を振り返る
2019年を振り返る
こうまとめると結構振り返っていたな。この振り返りの記事を書くのは結構楽しいものだ。2024年は冬季休暇を潰さないように、12月の始めには書き始めるようにしよう。
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modeqs · 2 years ago
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2023年を振り返る(6)
前回よりつづき
2023年に読んだ良かった本
どれもAmazon Audibleで聴いただけで、まだ本格的に活字では読んでいない。
『NOISE──組織はなぜ判断を誤るのか?』(早川書房)
「ファスト・アンド・フロー」のダニエル・カーネマンが共著者に名を連ねる、集合的な意思決定におけるノイズについて議論した本。ノイズはバイアス(偏り)とはまた異なるもので、私の理解だと判断のブレということでよいと思う。あるときはAと判断するが、似た状況で十分な根拠もなくBと判断するというような。
専門家の判断にはノイズが含まれることを例に引いたうえで、簡単なアルゴリズム(予測モデル)でさえもそのノイズを強力に修正しうることを示している。私が知的興奮を覚えたのもそこで、著者らの主張するところを自分のキャリアでも真似(実行)できそうだと思ったからだ。
本文中に引用される「権威ある職業専門人の判断には、実はノイズが多い」事例に類する事象は、探せばおそらく私の職場でも見つかる。また判断をデータ化して簡単な予測モデルでもノイズの是正に貢献するというのも、できそうではないか。数学の確率論やら統計学やらの理屈は無視して「ある意思決定の際にある数学的道具を使ったらうまくいったので、その道具の理屈はまあ正しいのだろう」という緩い立場からすれば、使ってみて役に立つならそれでいい。つまり何が言いたいかというと、Excelで回帰分析(統計分析の初歩)をするノウハウはいまや無数にネットでアクセスできるため、各自の職場で「意思決定にアルゴリズムを持ち込む」ことの真似事が比較的低コストでできるわけだ。無論、ほかのツールが使えればもっと効率よく分析できる。
『超予測力──不確実な時代の先を読む10カ条』(早川書房)
なんだか浮薄なタイトルだが中身はすごく面白かった。原書は若干古く2015年刊行とのことだ。政治学者と心理学者の兼任��たいな人が書いた「市井で生きている���のの諜報機関のエージェントよりも政治的問題の予測について精度が高い人々」(超予測者)に焦点をあて、なぜ彼らはそうした予測ができるのかを議論した本。
まずリテラシーとして次の点に私は注意したい。本文によれば超予測者はCIAのエージェントよりも高い精度で予測ができたという。これが非常にキャッチーだから本文に書いてある以上のことを妄想したくなる。だが著者らが実験した環境と、CIAのエージェントが日々予測のレポートを送らなくてはならない環境とかは異なる可能性があり、その意味で実験環境で超予測者がCIAに勝ったという刺激的な一文ほどには、実際の仕事においてCIAは超予測者には負けないのかも知れない。そもそも予測の成績であるブライアースコアにも文句がつけられるだろう。
なお著者らは十分こうした測定誤差には自覚的であって、彼らは決して超予測者の優越性を誇示するような書き方はしていない。ただ内容があまりにも興奮を催すために、ケチをつけながらでないと議論に批判的になれない。
予測とは未来の事象についての何かしらの言明だ。思考力を鍛えたいとおもったとき「予測」という「ジャンル」は思考全般には関わってこないように思える。それは一つのマイナージャンルのように思われる。
だが詳述される超予測者が予測を行う過程についてみていくと、まさに彼らが予測する過程とは慎重な思考そのものだと思う。超予測者は予測を行う前に、めっちゃ調べるのである。そしてその調べるも、あたかも他の惑星からきて地球の国際政治について調べている宇宙人のようにドライに行う。例えば日本と中国の対立について、両国民の感情(ナショナリズム)の点から説明しようとすることは、少なくとも積極的には行わない。
また情報の調べ方と検討の仕方についても系統的な方法論があり、闇雲に行っているわけではないようだ(当たり前か)。そういうわけで思考能力を高めより思慮深くなりたいと思う人にとって、超予測者の予測について解説した本書は非常に役に立つ。
超予測者はすごいかっこいい。真似したいと思った。本を読んでいて「憧れ」の気持ちを抱いたのってかなり久々のように思う。そんなすごい人達を「真似したい」って馬鹿みたいに聞こえるかも知れないけど、本書で予測のガイドラインは示されているわけで、自分のお頭の使い方一つの話なのだからトライする価値はある。
『限りある時間の使い方』(かんき出版)
よくあるビジネス書の一冊のような感じだが、私にとっては良かった。時間の有限性についての、エッセイ豪華版みたいな本。著者はジャーナリストだってさ。
どんなに時間を効率的に使っても己が望む全ての行動はできない。時間は共有財の一種で、一人で過ごせる時間がいくら多くともそれは幸福ではない。なんでもかんでもやろうとするな、どうせできない、本当にしたいことを数点に絞れ。あ��ゆることをできない以上、取捨選択の結果としてネガティブなことが起きることもやむを得ない。ある行動をするというのは別のことをしない決定であると同時に、自分がその行動をする人生を選び取ったということだ。私達の人生は何に注意を向けたかで決まる、というよりも何に注意を向けるのかということがまさに人生そのものにほかならない。
雑に列挙したが心に残った記述はこんなところ。どれも当たり前のことからも知れないが、時間の使い方が下手な私には役に立った。
自分のキャリアについて考えさせられた。一度しかない人生、文系サラリーマンとしてありがちで実際有用だけど自分は苦手な勉強に励むよりは、自分ができることのなかで企業に貢献しようと意識を変えるきっかけとなった。また選択の結果、誰かをがっかりさせることもまたやむを得ないという記述は私を勇気づけた。そうなんだよな、自分にとってのステークホルダー全員を満足させることなどできない。だからそうしたことは織り込み済みとして、くよくよする必要はないんだ。
余談
中途半端な読み方をしている本が多い。来年は一度に読む本を絞ってちゃんと最後まで読まなくては。教養を深めて人生を豊かにしなくてはな。
つづく
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modeqs · 2 years ago
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2023年を振り返る(5)
前回よりつづき
数学
微分法の項目を紛いなりにも終わらせた
昨年の振り返りの記事を読むと、2023年の目標は微分法を終わらせるとか書いてあったわ。驚くべきことに、なんとこの目標はいちおう達せられた。
微分法…といっても一番初歩のやつで、極限操作および連続性の議論のあとに一連の微分法則として紹介されるやつら、の証明と練習が終わったということだ。
Daniel J. Velleman先生の"Calculus: A First Rigorous Course"をやっている。そのChapter 3を終えた。Chap. 4が微分法の応用となっているため本当はこちらも終わらせたかった。
しかしそれでも、ともかくも一番簡単な微分は習得できたわけだ。それも単に計算の規則の習得ではなく、なぜその定理が成り立つのか証明まで含めて学ぶことができた。
昨年も同じことを書いた。全く馬鹿みたいに遅い歩みだ。しかし、そうであっても、この進歩は私にとって素晴らしい。微分法なんて一生かかっても私には絶対に手に入らない技能の一つだと思っていたからだ。それがいまや、入門レベルの教科書に書いてある練習問題なら何とか解けるレベルにまでなった。数年前の私に「あなたはそのうち微分法則を当たり前のように使って教科書の練習問題を解くようになるよ」といっても信じないだろう。そんなこと私にはできっこないと思っていたからだ。
なお数学に詳しくない人のために書いておくと、理系の大学生だと、たぶんこれは入学して��くとも2ヶ月以内には勉強することと思われる。私はそれを1年かけて(まあいろいろあって「実働」は6ヶ月くらいか)勉強したということだ。
数学的進歩は?
微分法の初歩を終わらせたことは数学的進歩だ。これは誇りに思い、同時に教科書を書いてくれたVelleman教授に感謝しなくてはならない。
一方で数学的進歩…特に数学の学習を進める上での「スタディスキル」についてはまだまだ、積極的な言い方をすればもっと改善していきたい部分がある。
最も問題なのは学習が行き詰まったときの振る舞いだ。私は定理の証明でも練習問題を解くにしても、理解できない部分があるとど~してもそこが気になって、時間をかけてしまう。計算ミスや論理の誤謬が無ければ「一度うまくいかなかったことが確かめられたアプローチ」は何度試しても無駄である(RPGゲームでモブキャラに何度話しかけてもゲーム展開に全く変化が起きない、みたいな)。でも、私は残念なことにそれに近いことをやってしまう。
つまりある方法を試してみて、それがうまくいかなかったら次、さらに次…と問題解決の試行錯誤が素早く出来ない。全く出来ていないわけではないが、とてもそのサイクルが遅い。これを自覚しつつも、なかなか目立った改善ができなかった。
それと関連して自力での解決が「行き詰まった」というレベルでなかったとしても、ある程度(15分とか)時間を使ってしまったら、大人しく模範解答なりネットで調べるなりすべきである。のだが、とにかく時間を使って自力で解こうとしてしまった。これも改善を要する。これも自覚できていたのだが、なかなか解けるかも知れない問題を放棄することはできなかった。
要するに私のレベルにおいては、数学との触れ合いは「質より量」ということだ。とにかくたくさんの練習問題、数学の証明に触れて、教科書から「数学を実践するときの常識」を吸収しなくてはいけない。もちろん取りこぼしてしまう要素も少なくないだろうけど、それはある程度のレベルを達せられた後に改めて再学習すればいい。やはり通り一遍のことができるというのは大事だ。試験とか学位もそれを社会的に視覚化したものではないか。
ここらへんのメタスキルが向上しないと学習の効率が悪いままだ。今年は時間をかけることで効率の悪さを補ってしまったが、来年は効率自体を改善しなくては。
もっと数学をやらなくては
なるべく数学を勉強しようと努力したつもりだったが、それでも不徹底だと言わざるを得ない。もっと寸暇を捉えて数学の学習をしたり、あるいは数学についての本を読まなくてはいけない。
いま思いついた口からのでまかせだが、日々の余暇で特定の事柄に注意を向けたかったら、たとえ数学の勉強とかし得ないような状況でもスマホを弄ったりしないほうがいいのかなあ。暇な時間にYouTube触ることを常態化すると学習とか生産的なことに注意が向けられなくなったり、あるいは単に集中する能力が落ちたりしないかなあ。気が散りやすくなるというか。
簿記の勉強を諦めてからスマホの使用にはあまり自己規制をかけてこなかった。しかし今一度、子供のスマホ使用を監督するような気持ちで自分のスマホとの付き合い方を規制しなくてはならないかもしれない。少なくともしばらく試してみ���価値はある。
大きな決断
この年末に数学の学習について大きな意思決定をした。うまくいくか分からないし「いいことを始めました!」と宣言するだけで終わらせたくないので、いまその詳細を記すことはしない。
だが私の人生で最も大きな決定のように思う。お金にしても、時間にしてもそうだ。先人はたくさんいるが、もちろん私の周囲にはモデルケースはいない。利用できるあらゆる資源を活用して目標に向かっていかなくては、たぶん挫折する。一方で柔軟さも必要で、このように当初の興奮だけで猪突猛進しようとしても、おそらく挫折するだろう。長期戦なので一時の興奮だけではどうにもならない。
数学は私の人生で欠けていた大きなピースだ。私は愚かにも、義務教育や高校においてセルフネグレクトをするような格好で、自ら数学の学習機会を抛棄した。そのため私は一度も学校教育からドロップアウトするようなことはなかったけれども、自分は数学の体系的な教育を受けたことがなかったようなものだと思っている。この挑戦はそれを補完し、私の人生をより良いものにするものだ。
客観的にみれば失敗する可能性のほうが大きいと思う。働きながらの挑戦だし、上記したように別に私は数学が得意ではないので。むしろ学生の頃は落伍者だったし。それでもやってみたい。人生で一度はしっかり数学と向き合ってみたいと思ったのだ。
失敗しても構わない。早々に失敗して公的に主張できるなんらの資格も得られずに終わったとしてもいい。挑戦してみたいのだ。そのための、これまでの数年間だったと思っている。この数年間は働いていない時間はどう過ごしたらいいか分からず、確固たる目標もなく生きてきた。あてどない日々だったが、代わりにお金は貯めることができた。このお金はこれからの私の挑戦の原資となる。そのためにこの間頑張ってきたのだと今は思う。
こちらについても生殖や育児との関係で私のプランなど吹き飛ぶ可能性が大いにある。だがそれでもいい。中断を挟んでもいいし、結果としてフェードアウトしてもいい。そのつもりはないけど。この挑戦はこれまでの私の人生で一度も検討したことがなかった、いわば異常な、見方によっては馬鹿げた提案である。それでもこの挑戦をしなければ、もしかしたら生涯手に入らなかったかも知れない技能を手に入れることができるかも知れない。それがたとえ部分的なものであったとしても、私は数学の正式な教育からは完全にドロップアウトした身であるから、とても意味があるのだ。挑戦する過程で数学以外にも様々な経験を得られるだろう。
いまはこれくらいにしておこう。今は黙して作業すべきことをただやるべきだ。
つづく
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modeqs · 2 years ago
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2023年を振り返る(4)
前回よりつづき
職業生活(2)
簿記の勉強をやめた
簿記一級の勉強をしていたが難しすぎてやめた。簿記は基本原則が多すぎてそれらを覚えることが私にはできなかった。
とはいえ、正直私でも過去問を解きまく���ばどうにかなりそうと、ほんの少しだけ思ったことも事実だ。つまり私は簿記の勉強に付随するイライラを我慢できず、勉強=努力を継続できないことから、簿記の勉強をあきらめるということだ。
数学とは異なり基本原則が多いというのは、法律の勉強と似ている。法律(いわゆる士業)の勉強もたくさんの基本原則を諳記が求められ、どちらかといえばその組み合わせが勉強で問われることは少ないのではないかと思う。まあそんなに経験ないけど…。
だからその意味で日本の会計基準(日本基準)での会計処理の学習も形式的には(つまり勉強するうえで求められる知的努力としては)法律論と同じなのだと結論づけた。
講師は諳記しなくてよい方法を考えるのが受講者の仕事と言っていた。実際簿記の試験に受かるためにはその通りだ。だが私にはできなかったよ…。
国際会計基準(IFRS)はもう少し「公理主義的」な「運用のされ方」というがどうなのだろう。でもそうはいっても、IFRSの日本語訳版がやっぱり辞書みたいな文献だから、結局はそこまで演繹的なシステムというわけでもないのかも。
簿記一級はよい試験
なお付言しておくと私は諦めたが簿記一級は素晴らしい試験です。得られる会計の知識もとても実用的だし、その合格のために努力できる人材は間違いなく文系会社員として見込みがある人でしょう。
そして私は勉強をあきらめたが、内容もそこまでゲキムズかと言われれればそうではないと思う。理不尽な難易度ではないというか、平均的な人物でもめちゃくちゃ頑張れば普通に合格できる、みたいな感じ。私はそれだけの努力ができなかった。
法律論でのキャリアアップは断念した
会計の勉強も結局ある種の法律論であると上に述べた。そしていわゆる士業の勉強はもちろん紛うことなき法律の学習だ。
今回の簿記の学習を通じて、本当に私は、この手の勉強が苦手だと痛感した。そこで会計(財務会計)を含めた法律論を通じてのキャリアップは断念することにした。
これは文系人材としては大きな決断といえる。なぜなら文系の人間でかつ出世できる人というのは数学や工業技術のことが分からない代わりに、法律や会計を使って仕事ができる人たちというのが一つの社会での合意だろう。
だから法律論の習得を諦めるというのは自らその出世というかキャリアを閉ざすことだ。でもそれでいい。私にとってあまりにも法律論の学習はつらいからだ。
前回の記事で私は偉そうに事務員も再学習しろと主張した。それと、いかにも「上級事務員」的な法律論の習得を諦めることとの整合性はどうとるのだと読者に問われるかもしれない。結論としては私は法律論以外で企業に貢献するつもりだ。そのためには時間をかけて自分の仕事の範疇を「事務員」のそれから逸脱させていく必要がある。
それはまだほとんど進行していないためここに記すことが憚れれる要素X(私がこれから学習を本格化させていくコト)と、管理会計とを使って、経営者の経営判断を補佐するみたいな業務により実���したいと思っている。けっこうたいへんだと思う。今の私はただの事務員なので。能力を獲得し、経営者に信頼して私の言葉を聞いてもらえるようにしなくては。
転職活動できなかったよ
昨年時点での2023年の抱負をみると転職活動したいとあった。できなかった。一つにはExcelによる業務改善のノウハウを実地で開発していくのがまだ途上であったことと、普段はないイレギュラーなプロジェクトに時間を割かねばならなかったからだ。そしてそのようなイレギュラーな仕事を経験しておくのもよいかも知れないと思って、2022年末時点で在籍していた企業に今もいる。
来年は転職活動を本格化させ転職できたらしたい。今の企業では経験できる業務が非常に限られているからだ。また親会社の成長性に疑問を感じている。事務方なので親会社の管理体制についてもいろいろ知れるのだが、会社の経営規模に対し管理体制が旧時代的というかカスであるというのが私の結論だ。有名企業、大企業の仮面を被ってその程度の管理体制しか構築できない企業(というか企業集団)に未来はないと考え、はやく転職しなければと思っている。
まあ、この私の主張も人によっては眉唾と感じるだろうがね。つまり私が嘘をついているわけではないにしても、私が観測できている範囲がその企業の主流ではないために私の主張は誤っているという可能性がある。私にそれを否定する手段はない。
転職先は子育てしやすい環境がよいと思っているが、生殖について特に考えず数年間仕事をしていた結果、良いタイミングで(仮にそのような企業に転職できるとして)転職できるかどうか分からず、不安になっている側面がある。
というのは仮に育児休暇をとれる企業であっても流石に転職後数ヶ月で育児休暇はとれないだろう。転職先で定年まで働くつもりはなくとも、新しい同僚との信頼関係は無論大切だ。だからそうしたタイミングについても考慮しなくてはならない。
家族計画なんて考えたことなかったけど、大切なんだな。
あとは…大企業に就職するわけではないので、そもそも育児休暇をとれる企業に就職できない可能性もかなりある。
具体的に考えていくと生殖・子育てと労働の調整って大変なんだな。転職活動ではよく考えなくては。
なお上記が私にとってギャグなのはガールフレンドがいないってこと。
つづく
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modeqs · 2 years ago
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2023年を振り返る(3)
前回よりつづき
職業生活(1)
Excel仕事
日々の業務のなかで能力開発ができた一年だった。
私は事務職(いわゆる事務員)として働いている。だから基本は一ヶ月で同じ仕事をずっと繰り返しているだけなのだが、今年はイレギュラーなイベントがあって新しいソフトウエアの使い方を覚えるといった普段はやらないことがそこそこあって、大変だった(まあ定時退社が基本の事務員基準では、ってことで)。
しかしそれらのイベントのおかげで扱える電子データが増えたおかげで、それを使ってExcel仕事の改善(工数削減)に取り組んだ。
具体的には Power Query M とPower Pivot for Excelを使って集計作業とかを楽にしようとトライした一年だった。全然使い方が分からないところから始め、そこそこ業務で応用できるようになった。とはいえ学びを止めるつもりはない。
Excelなどというと人によっては軽んじる向きがあるかもしれない。それには様々な理由があると思うが、しかし現実として、我が職場で親会社の情報システム部様から御許可を頂戴している唯一の「情報処理のためのソフトウエア」がExcelなのだ。だからその使い方に習熟し業務を改善しようというのは全く自然なことだ。
というよりExcelを無視して工数削減(事務作業の負担軽減)をやろうとすると、あとは形骸化している事務処理の見直しだとか、事務員基準では大きな労力をかけて別途費用の発生するソフトウエアなりサービスなりを導入する以外にできることがない。(大きな労力~というのはこちらのことをムシケラのように思し召しの情報システム部様をご説得申し上げる必要があるからだ)
自分の環境で使えるUIやらの制限も絡んでくるのだが、私の環境ではDAX(Power Pivot for Excel)よりも Power Query Mのほうが研究しがいがあるかな?と思っている。Power Query自体が、M式が全く書けなくてもかなり便利に使えるために自分のなかで若干低くみていたところがあったのだが、M式が書けると格段に複雑な処理ができるようになるようだ。
Power Query MとDAXについてはもっと詳しくなって、人間性を貶めるワークシート上での単純集計作業を能う限り減らしていきたいと思っている。「もっと強くなりたい」だ。
Power Query
それにしてもPower Queryはすごい。ワークシートを操作するExcelマクロを完全に過去のものにしたといっていい。Excelをプログラミング言語として活用する場合(と書くのは恥ずかしいくらいトンチンカンな事かもしれないけど)ファイルの操作などVBAではできてPower Queryには出来ないことはたくさんある。
しかしワークシートにおけるデータの操作という点ではPower QueryはVBAの完全上位互換だ。まあ集計は Power Pivot for Excelに任せたほうが良い部分もあるけど…。
上位互換というのはつまり、同じことをより低い学習コストで実現できるということだ。学習コストが低いということは業務共有化もしやすい。事務員がVBAをできなくともよい理由の一つは、事務員にはVBAは求められる知的レベルが高すぎるというものだったが最早Power Queryではそれは通用しない。クリックだけでも使うことができるので。
事務員と再学習
Power QueryとPower Pivot for Excelを弄っていて思ったことは、いまや事務員の仕事にまで「理系っぽい要素」が一部に入り込んできているのだ、ということだ。
ここでの「理系っぽい要素」とは計算式を書いて自分のやりたいことを実現するという営みだ。Power Queryなら Power Query M、Power Pivot for ExcelならDAXだ。従来のワークシート上だけで情報を扱おうというパラダイムのなかでは、いうなれば計算式は視覚的な要素があった。何を計算の対象とするのか、目で見て確認することができた。少なくともそうした使い方をすることがかなり多いのではないか、中小企業の事務員では。
それがPower Query M等では論理に基づいてデータを処理していくという側面が強くなる。Power Query Mに限れば、これは簡易データベース機能とのことなのでデータベースという直接に理系的な(情報技術的な)要素が登場する。これは情報処理の過程を目で見て把握できないという意味で、その抽象性が一段上がっている。これが理系っぽいというか、技術者っぽいということだ。
つまり事務員は頭を使わない仕事の筆頭かも知れないが、にもかかわらず頭を使わなければ(データ処理の理屈を追っていかなくては)作業の正しさを検証できないという要素が、事務員の作業領域にも忍び寄りつつある。
本当の技術者、理系の職種の人からすればこれは笑われてしまうだろう。私はそれをわかっている。そのような専門職の人からすれば上記したExcelの難しさなどたかが知れており、少し難しくなったからといって専門職で求められる知的水準には遥か及ばない。
要するに事務員といえども働きながら再学習し続けなくてはならない時代になってきているのではないか、と思ったわけよ。それが事務員たちの、働くことの誇りを守ってくれるというか。
どういうことか。VBAは事務員には難しいので勉強しません、というのはまあ一理ある。しかしPower QueryとPower Pivot for ExcelはVBAよりも遥かに簡単で、おまけに得られる便利さはVBA以上だと私は思っている。それらはワークシート関数の延長で(それらと同じ感覚で)学ぶことができる。まあ考え方を変えないと結構難しいけど。
だから事務員がPower Query等を学ばない「体のいい」理由はないのだ。私には、それらを学ばないことは仕事をしませんと開き直っているように思える。
これまでExcelを使った業務効率化はしたくとも難しすぎてできないという状態だった(VBA)。しかし今はより良い機能が追加されたからこれを使うことは当然の流れだ。
というのが私の感覚で、ここでそのより良い機能を使わないことを選択すると、これはもう「私は事務員だから一切新しいことをやるつもりはありません」と宣言するに等しい。これは仕事における進歩を自ら抛棄するという点で、労働の価値を毀損するものだ。
そしてまた事務員といえどもデータのクレンジング(整形)だとか、単純な集計だとか、データの並び替えだとか、そんな単純作業はやりたくないわけで、これらを新しいツールを使い自動化することは、やりたくない仕事、おまけに管理者から評価もされない仕事を低コストで終わらせられるようにするという点で、自身の仕事の価値を高める。つまらない仕事を自動化することは自分の尊厳を守ることだと私は思っている。ハームリダクションってやつ。
そういうわけで労働者として、つまり人生の少なくない時間を注ぐ領域における自身の誇りを守るべく、事務員にもそのキャリアにおいて当たり前のように再学習が必要になってきていると私は思う。
まあ~Excelを多少使えたところで管理者からの評価はそうそう上がらないと思うけどね。つまり別にPower Query等を使えても給料は上がらない。作業を自動化できるというのはワークシート関数の使い方が上手です、というのとはまた一段効率化のレベルが異なると思う。それでも、結局事務員って組織のなかで一番給料が低い人たちなので、その範疇(事務員というカテゴリ)に収まっている限りは給料は劇的には上がらないのだよな。
でもまあ仕事が楽になるんだからいいじゃん。おまけに大変つまらない事務員の仕事のなかに、いくばくかの知的満足をもたらす作業を加えられるなのだから、やっぱそれはいいこと。
管理者からすれば給料は大して変わらないのに仕事の効率はそこそこアップできる(とっても都合のよ��)人材ということになるが、そういうことを考えると血圧が上がるのでやめよう。
さらにいうと、Power Query等をとりあえず使えるようになるための再学習など、世にいう「リスキリング」で求められる学習量からすれば、たぶんだけど、ごくささやかなものだと思う。そもそもそれらはExcelユーザが使いやすいように設計さrているので。私だってほとんどは業務時間内に試行錯誤して使い方を覚えた。VBAを業務で応用できるようにしたときは休日もコード書く練習をしていた。
つまり事務員といえども静的な職業観は捨てなくてはなりつつあるのではないか、と思った一年であったということ。あるいは事務員であっても静的な職業観を捨てることによって、作業上の苦しみを減らせる世の中になりつつある(種々の、素人でも作業の自動化を可能にするようなツール、アプリの普及によって)。
そう、だから、誰かのためではなく、自分が楽をするために事務員であっても変わり続けること(再学習)が必要だ。
つづく
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