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茂木秀之mogihideyuki
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mogihideyuki · 1 year ago
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たかやまあそびの会 3月
久しぶりにあそびの会をします。ゆるっと遊びにきてください。この日は暖かそうなので近所のくろんど池に寄るのも気持ちいいと思います。
たかやま(高山)というのは住んでいる場所の地名でもあり、また吉野裕子『陰陽五行と日本の民俗』によると山登りをして飲食を楽しむことという意味があります。妻が以前「のがけ」という集まりをしていたのですが、この「野がけ」も同じような意味を持つ言葉ですね。
以下妻の美月から。
***
たかやまあそびの会3月
長くお休みしてましたがあそびの会復活します!
生駒市高山町の北の方(詳しい住所はお尋ねください)
3���10日
1時から4時ごろ
(一部のみの参加も可能)
遊び場所:庭〜森
子どもから大人まで
参加無料
雨天時朝10時くらいまでに開催を決定します。
今回は、ビーフォレストクラブの活動として、ニホンミツバチの巣箱5つを設置します!
ハナバチとは?
養蜂ではないビーフォレストクラブの活動とは?
なぞなぞも用意してお待ちしてます。
設置を一緒にやってくれてもいいし、遊んでてもオッケー👌ゆるく参加してくださいね!
参加の方は、駐車場所や住所をお伝えしますのでご連絡ください!
 
たかやまあそびの会は、
生駒市高山町で、子どもも大人も、遊べる場を作っていく取り組みです。
月一回の開催を目指してます◯
https://www.instagram.com/p/C33qzVryBNz/?igsh=OWRjMG5kOHd4NWZu
ビーフォレストクラブ
https://beeforest.jp/
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mogihideyuki · 2 years ago
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『人文と生活Papers』など発売
僕のzineと妻の美月の作品ができました。
僕のは『人文と生活Papers』と題して2種類。『監獄社会のしなやかなサイボーグ』は同名のnoteマガジンから自分が書いた文章をセレクトしました。『風呂と施しの文化史』は2019年にノンフィクション作家の鈴木遥さんと行った同名のトークイベントから僕のプレゼンテーション部分をテキスト化したものです(どちらもけっこう自信作!)。各200円です。
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美月のは本人からの説明を。暦についてのすばらしい文章も画像で貼っておきますのでぜひ読んでください。
***
暦(500円)
本体はB4で、B5サイズに折りたたまれた状態でパッケージされています。薄い藤色の紙に印刷されてます。
解説の小さな紙がつきます。
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しょうがくっきーくんのおはなし(300円)
ポストカードつき。
日本で翻訳されてないアメリカ民話です。
衝撃のラストを味わってください。
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ポストカード(500円)
切り絵カード三枚セット
一つはゴールドで、窓が開きます。
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お店では大阪・肥後橋のCalo Bookshop & Cafeさんに置いていただけることになりました(ポストカード以外の4つ)。
鳥取県湯梨浜町、モリテツヤくんの汽水空港さんでも『人文と生活Papers』と『しょうがクッキーくんのおはなし』を置いていただける予定です。
僕か美月に連絡いただけたら商品代と送料実費でお送りすることもできます。お気軽にご注文ください。
Caloさんでの僕と松岡慧祐さんのトーク『複層化する現実と身体化するインターネット』も迫ってきました。11/3文化の日です。定員20名となってますのでぜひお早めにご予約ください!
ご予約はこちらのページ内のフォームから。
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mogihideyuki · 2 years ago
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『複層化する現実と身体化するインターネット』松岡慧祐×茂木秀之トーク
『グーグルマップの社会学』『ポケモンGOからの問い』などの著書のある社会学者松岡慧祐さんとトークします。11/3文化の日、大阪・肥後橋のCalo Bookshop & Cafeさんで。Caloさんのすばらしくおいしいドリンク付きです。
人文と生活おしゃべり会
松岡慧祐×茂木秀之
『複層化する現実と身体化するインターネット』
日時:11月3日(金・祝日)18:30~20:30(18:00開場)
場所:Calo Bookshop & Cafe https://www.calobookshop.com/
料金:1000円(1ドリンク付)
大きな物語の消失と価値観の多様化は進行し続け、私たちは同じ物理世界に存在しながら全く異なるリアリティを生きているようです。インターネットも見たいものを見るための個人化されたメディアとなり、常に手の中にあるスマートフォンから望む情報を引き出す様からはネットと身体との境界が消失しているようにも見えます。
この状況はまさに私たちの具体的な身体にも現れています。野口整体の知見によれば、受け容れ難い異なるリアリティが侵食してきたとき、それを無化できるように私たちの身体機能は変化しています。わずか20〜30年のあいだに。
複層化する現実と身体化するインターネット、そこに生きる身体。私たちの生の現在を捉えるべく語り合います。
松岡慧祐
奈良県立大学准教授。博士(社会学)。1982年岡山県生まれ、香川県育ち。メディアや表象としての地図について文化社会学の観点から研究をおこなっている。著書に『グーグルマップの社会学ーググられる地図の正体』(単著、光文社、2016年)、『ポケモンGOからの問い―拡張される世界のリアリティ』(共著、新曜社、2018年)など。
茂木秀之
1983年埼玉県生まれ、奈良県在住。3児の父。人文知と生活を再接続すべくトークイベントなどを行う「人文と生活おしゃべり会」主宰。アルコール依存症者支援団体職員。介護福祉士。過去にアートNPO「ココルーム」スタッフ、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2014 フリンジ企画「使えるプログラム」プロジェクトメンバー、障害福祉事業所「パーティー・パーティー」スタッフなど。
【お申し込みはこちらから】
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSc-2Rh9ClJDrffI86W1AGyJnuP4ISLrI2e3Zr2tPcyZPKm_9Q/viewform?usp=sf_link
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mogihideyuki · 2 years ago
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トーク 青木真兵×茂木秀之 『空き地なき世界の歩き方』(人文と生活おしゃべり会)
久しぶりの人文と生活おしゃべり会、「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーターの青木真兵君とトークします。
場所は茂木の住���生駒の山中の自治会館。終わってから近くのくろんど池や茂木宅の庭をぶらつきながらアフタートークもあるかもしれません。
子ども3人との暮らしの中で、暮らしから離れずに発信をしていこうという試みでもあります。子連れ歓迎、会場は広いので子どもが走り回ったりしても大丈夫です。
人文と生活おしゃべり会
青木真兵×茂木秀之
『空き地なき世界の歩き方』
20世紀が終わる頃、町から空き地が消え始めました。空き地が消えていくとともに、社会から「余白」や「遊び」が消え続けています。
ひとり空き地で無造作に置かれた土管や何かの陰でぼんやりと空を眺めることは許されず、監視の行き届いた広場で良き市民であることをいつも強要されるなら、人が正気を保つことは難しそうです。
空き地なき世界で私たちが機嫌よく歩いていけるとしたら、それはどのようなやり方でありえるでしょうか。
共に1983年埼玉県生まれで奈良県在住の青木真兵と茂木秀之は、多感な時期を生きた1990年代を自分たちの実感に基づいた姿で歴史の中に位置づけたいという欲望から、青木の『オムライスラヂオ』で私的90年代史を語りあい、noteマガジン『監獄社会のしなやかなサイボーグ』でそれぞれに記述を試みてきました。
そこから浮かび上がった空き地なき世界への問題意識と、差し当たっての解答を語り合います。「人文知の拠点は土の上にあるべきだ」という青木の言に従って、場所は茂木の住む山の中で。
※『監獄社会のしなやかなサイボーグ』
https://note.com/mogihideyuki/m/m20aaff6a61b2
日時:8月19日(土)14:00~15:30
場所:獅子ヶ丘自治会館(奈良県生駒市高山町136-2)
料金:1000円(中学生以下無料) 【家族割引】2人目から500円(家族という自認があればOKです)
◎お車でお越しになる方は申込時にお知らせください。駐車場所をご案内します。
◎バスは奈良交通の「生駒北スポーツセンター」行きで「獅子ヶ丘自治会館前」下車(終点の1つ前)。近鉄の富雄駅から45分、学研北生駒駅から30分(富雄駅13:00発、学研北生駒駅13:16発に乗るとちょうどいいです)
◎前後の時間でくろんど池で食事やかき氷、貸しボートなどを楽しむのもおすすめです。
【お申し込み】
下記メールアドレスへ件名「トーク予約」として、お名前と人数をお知らせください。送るまで来場予定の方はその旨もご記載ください。
青木真兵
1983年生まれ、埼玉県浦和市に育つ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。博士(文学)。社会福祉士。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信をライフワークにしている。2016年より奈良県東吉野村在住。現在は障害者の就労支援を行いながら、執筆活動などを行っている。著書に『手づくりのアジール』(晶文社)、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館──ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』シリーズ(エイチアンドエスカンパニー)などがある。
茂木秀之
人文知と生活を再接続するためにトークイベントなどを行う「人文と生活おしゃべり会」主宰。アルコール依存症者の支援団体に勤務。3児の父、妻の夫。自主制作本『介助/赤ちゃん/神と死者』が全国10店の独立系書店さんで販売中。
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https://note.com/mogihideyuki
『介助/赤ちゃん/神と死者』
https://mogikenomise.base.shop/items/8802176
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mogihideyuki · 4 years ago
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丁寧に言葉を積み重ねる、その手付きが現実を変える
冷静で丁寧な議論を重ねていった結果、胸が熱くなるような詩的な情動がもたらされてしまうのが良い人文書だと思う。予想に反して(失礼)友人の高橋真矢が書いた『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』もそんな本だった。
一般向けの本も多く出している著名な経済学者の松尾匡さん、井上智洋さんと高橋との共著なのだが、それぞれの議論を包括する視座を提供しているのは高橋だと思う。
3人に共通する主張は、民間銀行が無から貨幣をつくり出す(信用創造)現在の制度を廃止して、政府が貨幣を発行する(あるいは機能的にそれに等しい)制度にしようというもの。
資本主義が批判されるとき、市場の問題がよく言われるが、そうではなくて今の貨幣制度を廃棄すべきなのだと。
そこに至る議論の中で、「国債は借金ではない」「税金は財源ではない」といった、一般に流通するイメージを覆す事実が示されていく。高橋によって、カードを1枚1枚裏返すように。その手付きは慎重で派手な演出はない。だからこそ自分の曇った目に映らなかった「現実」が見えてくることに興奮を覚える。
さて井上智洋さんが言うように、貨幣制度の改革とAIの発達とBI(ベーシック・インカム)の導入によって労働する必要がない社会が訪れるとして、そのとき人は幸せか?井上さんは率直にわからないと言う。
高橋も、自由な選択ができる社会の価値は認めつつも、自分もまた選別の対象になることの苦しさを重く見る。そして自由と孤立とのジレンマについて考える前に、「そもそもなぜ、人は人に対してこんなにも疲れるようになったのだろうか?」と問う。
ここでイー・フー・トゥアンの「個人空間」やハンナ・アレントの「プライバシー」についての議論を紹介しながら、「他者と『出会えない』社会」の背景を探る(住居などの近代的空間とプライバシーについて僕は、高橋も参加してくれたトークイベント『風呂と施しの文化史』で、イヴァン・イリイチの『H2Oと水』などを引きながら話したことがあり、根っこの方の問題意識が接続していることが確かめられて嬉しい)。
そして、しかし、他者と出会える場所が日常空間に存在する社会をつくることも、地域の自助だけに頼ることなく、政府と人々との協働によって可能なのではないかと言う。
明確に示されている貨幣制度改革と比べて、この話は具体性に乏しい。本の全体を通して、高橋が示すことの多くは重苦しい「現実」でもある。にもかかわらず、読むあいだずっと静かに興奮し、自分の手を動かして「現実」を良きものにしていこうという気持ちがじわじわと湧いてくる。
良い人文書とはこういうものだと思う。
『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334045265
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mogihideyuki · 6 years ago
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何も言わない
たとえば痛ましい事件が起きる。たとえば知っている人が亡くなる。言葉が出ない。言葉が出ないから何も言わない。
誰かが社会のせいだと言う。誰かが心の問題だと言う。誰もが何かを言いたい。聞いたことのある言葉を言いたい。聞いたことのある言葉で、今ここではないどこかで、そこにいてほしい誰かと言い争っている。
私は語りうる言葉を探している。惨劇や死をではなく、世界の全体を語りうる言葉を探している。
大事な言葉はすぐにはわからない。読んで、思って、書いて、暮らして、暮らして、忘れた頃に少しだけわかる。
暮らして、暮らして、死ぬまでに、世界の全体を語る言葉を、ひどくぎこちないものだとしても、手に入れたいと思う。それまで、私の鎮魂は沈黙にしかない。
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mogihideyuki · 6 years ago
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『風呂と施しの文化史』感想から
先日のトーク『風呂と施しの文化史』に来てくれた方々が感想を寄せてくださってます。作家で編集者の太田 明日香さんはnoteで、奈良県は東吉野村で私設図書館"ルチャ・リブロ"を開いている青木 真兵さん青木海青子さんご夫妻はご夫妻はネットラジオ『オムライスラヂオ』で。こういう丁寧なフィードバックをもらえると、発表して終わりじゃなくて、イベント直後から考えを進めたり足りないものを補ったりできるのでものすごくありがたいです(そしてもちろん単純に嬉しい!)。いまの生活でイベントをたくさんやるのは物理的に無理なので、一回のイベントから派生したり発展したことで一年間ぐらいいろいろできたらいいなと思ってます。
太田明日香さんのnote
https://note.mu/kokeshinikki/n/nd5d8da278051
オムライスラヂオ
https://podcasts.apple.com/jp/podcast/podcast%E9%85%8D%E4%BF%A1-%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%82%E3%82%AA/id816055176#episodeGuid=https%3A%2F%2Fomeradi.org%2F%3Fpost_type%3Dpodcast%26p%3D1888
トークでは、前近代的な世界観では「世界」は空間的にも時間的にも自分が知覚する範囲の外部が存在している、という話をしました。共同体での互酬とか贈与、死者への接し方などはそういう世界観を前提としている。その感覚が東吉野村にはちょっとある、と青木さんたちは話してます。
僕も尾道の島に住んだときにちょっとそう思いました。釜ヶ崎でも、村的なものとはちょっと違う形でそのようなものがあると感じました(どっちも1年ぐらいしか住んでないから、「そこで暮らしてわかった」とまでは言えないのですが)。
それはやっぱり(あまりにもよく言われすぎていて言いづらいんですが)現代の閉塞を突破するヒントになるだろうと思います。それは共同体的な助け合いがあったほうが生きやすいみたいなことだけの話ではなくて、根本的なところで現代社会を相対化し、突破しうる視点がそこにあると思うからです。
僕の書くこと話すことは前近代的な物の見方に焦点をあてることが多ので、前近代礼賛みたいに思われることがあると思います。太田さんの感想からもそんな印象を受けたので、そうじゃないということをTwitterでやりとりしました。あまり言語化していなかったことなのでとてもありがたい機会になりました。
なぜ前近代的なものに焦点をあてるかといえば、かなり生きづらいと思って生きてきた現代を自分なりに突破していきたくて、そのやり方を考えるためには近代的でない物の見方を参照する必要があり、そうすると基本的には近代になる前の過去にしか参照できるものがない、というのが大きな理由です。前近代的な世界それ自体への興味もあるし、そういうものを通じて世界の成り立ちそのものを自分なりに理解したいという欲求もすごくありますけど、それも現代をどう理解してどう生きるかということと切り離されるものではありません。
トークで再三触れたイヴァン・イリイチも、過去を礼賛する近代批判者のように見られることがあると思いますが、そうではありません。人類史的なスケールで未来を語っていたし、それを含んだ世界の成り立ちそのものを語っていました。
それに近代的な物の見方と前近代的なそれとはどちらが優れているというものではなく、両方がないと現実を正確に把握できないと思っています。そしてトークでも言ったように、近代の制度や概念の根底にあるのも「呪術的」な思考だと思います(これもたとえばトークで触れたユヴァル・ノア・ハラリが言うように)。
太田さんが生まれ育った場所で前近代的なものの負の面をさんざん見たのでそういうことに抵抗がある、というのはなるほどと思いました。僕は比較的都市部で育ったので、田舎の現実が見えていないからそこに残っているものの中に無邪気に良さを指摘できるということはあると思います。でも太田さんが嫌気がさしたものは、前近代のものが近代の中で形骸化したいわゆる「迷信」ではないのかなという気もします。そのあたりもまた話してみたいです。
ところでラジオで青木真兵さんはイリイチは難しい思想家って言ってますけどそんなことありません!特に初期の『脱学校の社会(Deschooling Society)』あたりから入ればぜんぜんハードルは高くないです。研究者でもある青木さんが難しいなんて言ったら敬遠されちゃいそうだから強く言っておきます!強く!
【追記】
真兵さんが読んだ唯一のイリイチは悪訳で有名な『コンヴィヴィアリティのための道具』だったようです、合掌…後に出た新訳は評判いいみたいです。
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mogihideyuki · 6 years ago
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5/6トーク『風呂と施しの文化史』増補版
人文と生活おしゃべり会extra『風呂と施しの文化史 - 救済と福祉の千年を考える』トークイベント増補版
茂木秀之(障害者支援職)×鈴木遥(ノンフィクション作家)
日時:5月6日(月祝)13:30〜16:00
場所:Calo Bookshop & Cafe http://www.calobookshop.com
参加費:1500円(1ドリンク付き)
「人文と生活おしゃべり会」は茂木秀之が2017年から行なっている、さまざまな人文書の内容を通じて社会や世界のことを話し合うイベントです。これまでの内容をもとにして、在宅障害者の支援や子育てを人文学的な視点で考察した本『介助/赤ちゃん/神と死者』は、今回の会場である書店Caloさんの2018年に売れた本ランキングベスト10で注目の次点に選ばれました。
『介助/赤ちゃん/神と死者』推薦コメント
介護の仕事、子育���などの日常から立ち上がった思考と、様々な時代・分野の人文知を類い稀なセンスでまとめ上げた傑作。繊細な筆致だが中身はラディカル。読み切れる分量も丁度いい。
- 宗教社会学者 白波瀬達也
https://mogikenomise.base.shop/items/8802176
今回のテーマは『風呂と施しの文化史 - 救済と福祉の千年を考える』。著書『ミドリさんとカラクリ屋敷』で、市井に埋もれた偉人の生涯とその背景にある土地や一族の歴史を丹念に描いた、ノンフィクション作家鈴木遥とのトークです。
【内容】
日本における入浴の習慣は、寺院で僧侶らが困窮者などに風呂を施す「施浴」という宗教的救済行為が一つのルーツになっています。今ではそのような風呂を施す行為は廃れてしまいましたが、広い意味での「施し」としての風呂と考えると、高齢者や障害者の入浴介護が思い当たります。しかし、施浴と違って介護には、宗教的・霊的な意味づけがされることはありません。施しとしての風呂が、宗教的なものからそうでないものへと変化したと捉えてみたときに、その過程で人々の認識や社会の枠組みにどのような変化が起こっていたと考えられるでしょうか。現在の私たちの社会では、宗教的思考や霊的思考はどのように存在しているのでしょうか。
鈴木遥がフィールドワークをもとに風呂文化にまつわるさまざまな写真を解説しながら風呂の歴史を紐解き、茂木秀之がさまざまな人文学の知見を援用して風呂と施しの関わりとその変遷を考察。千年のスケールで現代を捉える新たな視座を探ります。
※このイベントは、應典院コモンズフェスタ2019で行った同タイトルのトークに、時間の都合で入れられなかった内容や開催後に得た着想を盛り込んだ増補版です。
※『介助/赤ちゃん/神と死者』(500円)の販売も行います。
茂木秀之
1983年埼玉県生まれ。アートNPO「ココルーム」(NPO法人こえとことばとこころの部屋)スタッフ、京都国際部隊芸術祭 KYOTO EXPERIMENT フリンジ企画「使えるプログラム2014」プロジェクトメンバーなどを経て、障害者支援団体「パーティ・パーティ」(NPO法人日常生活支援ネットワーク)スタッフに。2017年に「人文と生活おしゃべり会」を開始、『介助/赤ちゃん/神と死者』を刊行。奈良県生駒市の山中で妻と一児と共に暮らしている。
鈴木 遥
ノンフィクション作家。『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社文庫)で第8回開高健ノンフィクション賞次点。まち歩き構成作家として、2012年から街案内「遥さんと街歩き」シリーズ、エッセイ「本読みのための大阪まちある記」など、ノンフィクションを活字と空間の双方に展開させていく多角的な作品執筆や演出、表現活動を行っている。2019年からシェアスペース「谷町コーポラティブ実験室」の共同運営を開始。謎解きが好き。
【ご予約方法】
ご予約はメールで‪[email protected]‬まで、イベント名とご予約の方全員のお名前、代表の方のお電話番号を添えてお申し込みください。折り返し詳細をご連絡します。
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mogihideyuki · 7 years ago
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2019/1/19(土)『風呂と施しの文化史』
▶︎應典院コモンズフェスタ2019のプログラムです。記事末のURLからコモンズフェスタのチケットをご購入のうえご参加ください。
『風呂と施しの文化史』
日時:1月19日(土)13:00〜14:30
場所:應典院
話し手:鈴木遥(ノンフィクション作家)、茂木秀之(人文と生活おしゃべり会主催、障害者支援職)
日本における入浴の習慣は、寺院で僧侶らが困窮者などに風呂を施す「施浴」という宗教的救済行為が一つのルーツになっています。今ではそのようなことは行われませんが、広い意味での「施し」としての風呂と考えると、高齢者や障害者の入浴介護が思い当たります。しかし、施浴と違って介護には、宗教的・霊的な意味づけがされることはありません。施しとしての風呂が、宗教的なものからそうでないものへと変化したと捉えてみたときに、その過程で人々の認識や社会の枠組みにどのような変化が起こっていたと考えられるでしょうか。
鈴木遥が風呂の歴史を紐解き、茂木秀之が風呂と施しの関わりとその変遷を考察。現代を捉える新たな視座を探ります。
考察では特に以下の本の議論を援用します。
吉田集而『風呂とエクスタシー - 入浴の文化人類学』
イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』『H2Oと水』
【チケットと料金について】
▶︎コモンズフェスタ1日フリーパス(1800円)と4日間フリーパス(3000円)の2種類があります。それぞれ対象の日のプログラムすべてに参加できます。
▶︎下記URLが「企画応援ご予約窓口」です。ここからご予約いただくと、代金の一部が企画者(茂木と鈴木)に制作費援助としてキャッシュバックされます(代金は当日払いです)。一般窓口もありますが、ぜひこちらからご購入くださいm(_ _)m
★企画応援ご予約窓口★
https://www.quartet-online.net/ticket/cf2019?m=0kehcjg
【應典院コモンズフェスタ2019】
コンセプト
https://www.outenin.com/article/article-12105/
プログラム一覧
https://www.outenin.com/article/cf2019p/#syousai
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mogihideyuki · 8 years ago
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『介助/赤ちゃん/神と死者』発売中
《推薦コメント》 介護の仕事、子育てなどの日常から立ち上がった思考と、様々な時代・分野の人文知を類い稀なセンスでまとめ上げた傑作。繊細な筆致だが中身はラディカル。読み切れる分量も丁度いい - 宗教社会学者 白波瀬達也
* * *
生業にしている障害者の介助やさまざまなケアの行為、あるいはもっと広く身体にはたらきかけること、そして子どもと暮らすこと。それを現代の価値観から遠い所で考えたいと思いました。民俗学や人類学や宗教学の知恵を借りて、一緒に考えてくれる人たちと話し合いながら、一冊の本ができました。
かつては一体であった呪術や霊性とケアとを、現代と切り結びながら研究・実践する「現代魔女」汐月陽子さんと、大阪の障害者の生活を支える活動の中枢にいる団体「パーティ・パーティ」で活躍しながら、常に"生活"や"存在"を問い続けている椎名保友さんに、執筆・協力をいただいています。
現代から遠く離れるほど、現代の成り立ちや、日々の実践で心がけるといいことが、見えてくるように思います。
下記ショップで販売しています。商品ページで各章の扉ページを読めるようにしてあります。試し読みしてください。妻の本ともどもよろしくお願いします。
[mogikenomise] https://mogikenomise.base.shop/items/8802176
【取り扱い店】 以下の場所でも販売してもらっています。 お近くの方はぜひ足をお運びください。
気流舎(東京・下北沢)
http://www.kiryuusha.com
ホホホ座(京都市・出町柳)
http://hohohoza.com
啓文社新浜店 AIR zine 選書棚(広島県尾道市)
http://www.keibunsha.net/store/store.php?id=3
http://air-zine.tumblr.com/
汽水空港(鳥取県湯梨浜町)
http://tmmate4.wixsite.com/kisuikuko
ココルーム(大阪市・釜ヶ崎)
http://cocoroom.org
喫茶EARTH(大阪市・釜ヶ崎)
https://facebook.com/earth0101/?locale2=ja_JP
コワーキングスペース往来(大阪市・谷町六丁目)
https://ourai.jimdo.com
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mogihideyuki · 8 years ago
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5/27(土)人文と生活おしゃべり会:物語/マイノリティ/神と死者 ver1.2 in京都
『物語する芸術祭inからほり』で行ったイベント、ご要望をいただいてもう一度やります。
茂木がいくつかの本を紹介しながら、一児の父としての生活や障害者支援の仕事にも関わる関心ごとについて話し、それをきっかけにみんなでおしゃべりしましょうという会です。
さらに今回は「現代魔女」の 汐月 陽子さんからも、女性の視点からの応答をいただき、ご自身の活動などについて話してもらいます。
話すテーマとしてはおおよそこんなこと。 ・世界の成り立ちを物語によって理解していた前近代、そうではなくなった近代 ・前近代にマイノリティが担っていたと考えられる、この世とその外部との媒介者としての役割 ・権利や平等という近代の理念、権力や専門性による独占、それらと福祉や医療 ・現代の社会のなかの役割分業、見えない階層と、影法師の仕事
茂木から主に取り上げるのはこんな本。 大塚英志『物語消滅論』 山折哲雄『神と翁の民俗学』 イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』『脱病院化社会』 バーバラ・エーレンライク/ディアドリー・イングリッシュ『魔女・産婆・看護婦』
汐月さんからはこんな本の話がありそう。 野間宏・沖浦和光『アジアの聖と賎』 シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』 水無田気流『「居場所」のない男、「時間」がない女』
どこかにピンときた方は遊びにきてください。ゆるりと話しましょう。おやつとかお茶とか持ち込み歓迎。
■予約制です。参加してくださる方はこちらのメールアドレスへご連絡ください。
hideyukimogi @ gmail.com 『人文と生活おしゃべり会:物語/マイノリティ/神と死者 ver1.2 in京都』
日時:5月27日(土)13時〜16時 場所:GACCOH(京都 出町柳駅から徒歩5分 http://www.gaccoh.jp/?page_id=41 参加費:500円
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mogihideyuki · 9 years ago
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赤ちゃん、死者、神様
はじめて、こどもと一緒にクリスマスを迎える。
今ではコカコーラ社がつくった赤と白のサンタクロースがせっせと商品を配って回る日となったクリスマスだが、その起源と考えられる儀礼はキリスト教が生まれる前から存在していたらしい。命の力がもっとも弱くなる冬至のころ、押し寄せる死者に生者が贈り物をすることによってエネルギーの循環をとりもどす祭り。そこで死者に見立てられるのは、まだ完全な社会の成員になっていない周縁的な存在である、子どもたちだった。(参考:レヴィ・ストロース/中沢新一『火あぶりにされたサンタクロース』)
ところで、アイヌでは、言葉を話しだすまでは赤ちゃんは神様であると考えるらしい。また、身体的に見ると、まだ結合していない頭蓋骨の大泉門が開いているあいだは、天空との気の交流が活発であるらしい。さまざまな知見や伝承が、赤ちゃんは普段わたしたちが知覚する世界の外とつながる通路になっているということを語っている。
生まれて4ヶ月のうちの赤ちゃんは、朝目覚めるとピカーっと笑う。まるでいま新しく生まれたかのように。夜眠る前は、闇に飲まれていくかのように泣く。きっと毎日、死と誕生を繰り返しているのだ。
毎日生まれ、すべてと初めて出会いながら生きるその世界は、どんなに輝いていることだろう。ほんらい、生とはそういうものなのだと思う。本当は僕も変わらない。朝、君の笑顔を見るとそう思える。涙が出るぐらい嬉しくて、「おはよう、ありがとう」と語りかける。おはよう、ありがとう。君と出会えて本当にうれしい。
赤白のサンタをマスコットにしたキャンペーンにしか見えない現代のクリスマスでも、生と死を媒介する存在に贈与するという行為は形を残している。贈り物がたとえお金と引き換えた商品であっても、そこには何かの力が動いていると思う。これほど効率と目先の損得が重視される社会でも、わたしたちは贈り物をすることをやめることができない。あふれる欲と計算を胸に、みんなが家族や友人や彼や彼女に贈り物をするこの季節、街中で贈与の霊が笑っているに違いない。その力でわたしたちは春を迎えるのだろう。そんな循環の秘密をよく知っているわが家の神様は、うごめく霊に笑いかけているのかもしれない。
わたしたちから、死せるあなたたちへ。 We wish you a merry christmas.
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mogihideyuki · 9 years ago
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小さくて誇らしい戦い
妻のお腹が日に日に大きくなる。
ずいぶん体重が増えてもなお細い妻の身体だが、歩く姿を後ろから見ると「のっしのっし」と歩いている。これが九ヶ月の身体。
お腹に手を当てて話しかけると返事をくれる。僕の手だと特に喜ぶと妻が言う。君はもう生きている。
妻の体調は短い周期で変わる。食が細ったかと思えば今日はばくばく食べている。気がつくとレモンをかじっているかと思えば、いつからかカルピスを毎日飲んでいる(今まで飲んでいるのを見たこともないのに)。さっきは触れるものすべてが喜びのような顔をしていたのに、今はこの世には悲しみしかないかのような顔をしている。  
これはきっと、お腹の子どもの状態と同期しているの��。おそらくそうだろう、ということしか、僕にはわからないけど。
女の子だとわかったことだし、名前を考えよう。この子はどんな子なんだろう。なんとなく、とてもおてんばな気がする。
妻と子どもはすべての時間を一緒に過ごし、僕はだいたい離れて過ごす。おおよそ朝から晩まで働いている。障害者の介助をする仕事だから、夕方から朝までとか、大変なときは昼から翌日の昼まで、とかもある。人の家で夜中に尿瓶をあてがったりしながら娘の名前を考えるのは、僕には少し難しい。
たくさんの距離が、時間が、僕と君とのあいだにある。拗ねたくはないけど。僕にできることはなんだろう、と思う。
経験とか、信頼とか、社会との渡り合いかたとか。少しは積み上げて、築いてきたつもりだったけど。お腹の中で子どもが育っている、その確かさの前で、そういうものはいかにも不確かに感じられる。男はみんな、こんな気持ちになるのだろうか。
生まれてくる君よ。お父さんは、家を出てひとり戦う戦士。大した獲物じゃなくても、食べるためには仕留めてこなきゃ。でも、それならせめて、もっと誇りを持てないかな。ちょっとぐらいは、スーパーヒーローみたいに。
休日は家族一緒にいられる。街へ出かけて、おそばを食べて、靴を買って、コンサート会場へ向かった。家族揃って行く初めてのコンサートが小沢健二さんなのはとても嬉しい。
予告されていたとおり、新曲がたくさん演奏された。歌詞がステージにプロジェクションされる。よく知っている歌に挟まれて、立ちあらわれる新しい言葉。繰り返し、繰り返し。もちろんすべて別々の歌だし、同じフレーズが出てくるわけでもないけど、ひとつのテーマをずっと繰り返しているように感じる。メロディはほとんど覚えていない。反復されるイメージだけが残っている。
どの曲かわからないし正確な言葉も思い出せないけど、「子どものとき見た  空想と思われている航路へ」みたいなフレーズがあったと思う。僕の中でそのイメージが核になっていった。
超越するもの。あちらとこちらの境界を無化してしまうもの。秩序と混沌が、孤高と協働が、一緒にある世界。本当はみんな知っている。子どものときいつも見てた。空想と名付けられても。テレビの中のことだと言われても。あの航路を飛ぶスーパーヒーローは僕だ。君だ。いつでもその姿に戻ればいい。簡単なことだ。シナモンの香りで。コンサートで覚えた歌を口ずさんで。
その世界は決して痛みと無縁ではない。だけど麻薬みたいに酔わせてくれる痛みではない。胸が一杯になって、涙がこぼれて、だけど世界の本当の姿を見るためにもっともっと目を開かせる、あの痛み。 「涙がこぼれては  ずっと頬を伝う」 「いつか悲しみで胸が一杯でも  続いてくのさデイズ」 言われたとおり力いっぱい歌った声が聞こえたかな。涙のない世界は、笑いのない世界と同じぐらい怖いものなんだ。
生まれてくる君よ。大きくなって、どこかの都市で暮らすとき、目に見えるのは小さなころに見ていた世界とずいぶん違うかもしれない。あの航路はどこにもないように見えるかもしれない。そんなときは想像力を使えばいい。音楽や詩を思い出せばいい。そのとき力になる言葉や物語を、僕が必ず与えてやる。
大人になったヒーローの戦いはひどく地味だ。誰も見ていないその戦いで、書き残しようもないような一瞬一瞬に、少しだけ宇宙をよくする選択をする。それはあまりにも小さなことだから誰にも話すことはない。だけどその小さな力が集まって、あの航路への扉を開いている。どれだけそれを閉ざそうとする力が働いても、何度でも押し返して。
小さな超越者たちの戦いが、世界のあちこちで、あの航路の存在を伝えている。それを感じていられれば、君はいつだって、いつまでだって飛べる。
まだ顔も見ていないけれど、たしかに生きている君よ。ありがとう。ほかの誰も見ていなくたって、こんなに誇らしい。
音楽を止めて、戦いに出かけよう。 日常に帰ろう。
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mogihideyuki · 9 years ago
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ささやかな、圧倒的な
結婚式を挙げた。古い神社で、親族だけで、ごくささやかに。
式の準備は妻と妻のご両親に任せきりになってしまって、本当に頭が上がらない。だからほとんど話に聞いていただけだけれど、ものすごい紆余曲折があった。こうすると決めて知らせても、いやこの方がいいという声が出てたり、それがこちらの意思とは関わりなく進められてしまったりする。このささやかな式でこうなのだから、みんな本当に苦労していると思う。
批判的な意味はまったく抜きに言うけれど、結婚式が新郎新婦のためのものだとは誰も思っていない、ということなのだろう。これはそれなりに当たり前のことだと思う。
よく知らないけれど、近世までは庶民が結婚式を挙げるということはなかったのではないか。そんなものは位の高い人たちに限られたもので、それは夫婦のあいだというよりイエとイエとのあいだに交わされる儀礼であったろうと思う。近代になって西洋式の結婚が入ってきて、建前としては個人と個人の自由恋愛によって結ばれた夫婦を祝うものということになっている。けれど実際はイエとイエとのあいだで執り行われる面が強いし、誰もが暗にそのことを了解している。
だからいろいろな人が自分の都合を主張することになったりするわけだけど、それは悪い面ばかりでもない。そこから普段見えない思いが見えたりもする。親族の人生の重大事に際して主張されることには、その人の生きてきた道や思いの根幹にあるものが滲んだりする。そこにはなにか、圧倒されるものがある。
家族や親戚というのは「自然」みたいなものだ、と妻が言った。自分の意志では選べず、ただそこにあるもの。コントロールなどできず、いつでもこちらの思慮をはるかに超えているもの。結婚して夫婦を宣言すれば、互いの育った自然としてあった、そのような圧倒的なものたちが、互いの自然と結ばれて地続きになる。それも大人になってそれなりに世界観が出来あがった人間に、そんな変化がやってくる。
そんなことになれば、当然どう受け止めていいかわからないようなことが次々やってくる。生まれた頃に、生まれ落ちた環境に命をかけて適応した、その一大事が部分的にまたやってくるようなものだ。それがわからないことの連続で、時に苦労と分かちがたくあっても、ひとつひとつと折り合いをつけながら、生活をして、生活をして、またこの自然の中に子どもを生み落として命をつないでいくということを(それらはまったく別のことだという立場もあるだろうし、よく理解できるけれど)尊いことだと今は感じる。
イエも血縁も、負の面が目立つ時代になった。それらに苦しんで、断ち切ることを選ぶ人がいるのもわかる。そうしなければ取り返しがつかないぐらい傷ついてしまうということもあると思う。いっそ近現代の家族とは違った共同体をつくって、自分たちに最適化した環境をつくっていくことも、切実で魅力ある営みだと思う。一方で、煩わしさ��付き合い、ひとつひとつ折り合いをつけ、理解できないことやどうにもならないことと出会ってゆくことも、どうしようもなく豊かだ。
話し合えばみんな違うことを言って、たくさん対立してひたすらわかり合えないだろう。だけど、口を突いて現れるその人の価値観なんて、たぶんそれほど重要なことではない。
人はみんな、一生懸命でいじらしくて、間抜けでおかしくて、ぜんぜんバカではない。
わからないことだらけでも、その圧倒的なものたちと出会ってゆきたい。それを目いっぱい味わって、次々と変わってゆく小さな大自然の中を、ただ、ただ、つないでゆこうと思う。ひとまず今夜は、式を挙げた今日が素晴らしい日になったことに、ありったけの感謝を捧げて。
2016年5月8日
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mogihideyuki · 9 years ago
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たくさんの手
友人の田中トシノリくんが撮った『スーパーローカールヒーロー』というドキュメンタリー映画がある。舞台は彼の住む(僕も震災後に多くの時間を過ごした)尾道。主人公は、その尾道で「れいこう堂」という不思議なCDショップを営みながら、2011年の震災以降は被災者の移住や保養の支援に駆け回る、信恵勝彦(ノブエカツヒコ)さん。それに、ノブエさんに心酔するたくさんのミュージシャンや、町のひとびと。
映画の本ができたから、と送ってくれたので、さっそく読んだ。映画の内容を補って、メッセージをより深く伝えるような本だろうと思っていたけれど(実際そういう面もあるけれど)、内容の中心は制作の細かな過程だった。それは才能ある若い映像作家が意のままに作品を作り上げたというような話ではなく、何もわからないままに走り出し、何度もつまずきながら、たくさんの人がさしのべる手に支えられて、その手によって作品が形づくられていく、群像劇のようなものだった。そういう意味で、映画の内容とパラレルでもある。
たくさんの、さしのべられる手。
自分の身に起こったことを思い出す。
あの震災の直後、東京を出て、瀬戸田(尾道の南にある島)に飛び込み、移り住んだ。飛び込んだときは、住む場所や仕事のあても、貯金もなかった。どうしてなんとかなったんだろう、と自分でも思う。人に聞かれても、そのたび答え方は変わる。
ひとつ言えるのは、絶対にどうにかなると、どうにかできると、信じていたということ。だけどそれは、煎じ詰めたら、何を信じていたということなんだろう。自分の力?とんでもない幸運?
そうじゃないと思う。そうじゃなくて。
さしのべられる手だ。
出会う人、出会う人の、あふれる善意だ。
自分の力で乗り越えてきたわけじゃなかった。たくさんの手に支えてもらってやってきた。それがわかっていたから、どんなときでも思い切って踏み出せた。信じていなければ、恐れて疑っていたら、踏み出せない道だった。いつも。
 僕がノブエさんと出会ったのは、瀬戸田に渡って半年ほど過ぎた頃だった。「家はあるか?」「仕事はどうする?」「これからどうしたい?」 つまらない含みが一切ないその言い方に、遠慮したり口ごもったりするヒマがなかった。
本の中で、詩人のアーサー・ビナードさんが、ノブエさんのことをこう言っている。「世の中にはヤボな人と粋な人がいる。ノブエさんは粋そのもの」。
僕はヤボそのものだ。いつでも人の機嫌をうかがって、そのくせ自分の利益のことばかり考えている。そんな僕にも、ノブエさんは、尾道や行く先々で出会った人たちは、手をさしのべてくれた。
信じる力はなによりも強い。それがわかれば、もうなにも恐くない。
田中トシくんは、この本でノブエさんの「原動力」についてこう書いている。
「でもノブエさんという車にはガソリンは入っていない。食べ物やお金、名誉などのガソリンを必要としていない。」
「ノブエさんは何かを確実に受け取っている。それは、誰もが無限に持っていて、いくらでも人に渡すことができるもの。遠く離れていても、ノブエさんが立ち去ってその場にいなくても、渡すことができる。何かを要求したり何かを得ることを目的としていない人にこそ、たくさん集まるもの。それが彼の原動力だと思う。」
僕はそういうものを受け取れる生き方をしていない。ガソリンが切れないかといつも気にして、手に入れても減るだけのガソリンを求め続けている。だけど、ガソリンが切れていたかもしれないのに走り続けることができたあの時間を、そのときに与えられていたものを、憶えている。
少しだけでもいい、そばにいる大切な人たちにだけでもいい、僕もそれを与えたいと思う。それがまた手渡されて、一瞬でも誰かの原動力になればいいと思う。きっと本当は、それ以外に大事なことなんてなにもない。
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(2012年3月11日に尾道で行われた「YOU THINK」にて)
映画『スーパーローカルヒーロー』http://superlocalhero.com
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mogihideyuki · 10 years ago
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Nothing about us without us
関わらせていただいているプロジェクトが毎日新聞と朝日新聞に掲載されていました。
【皆が行きたいカフェに 来春福祉ホームに設置へ 障害者ら、大学生や研究者と共に調査活動】(毎日新聞) http://mainichi.jp/…/nara/news/20151129ddlk29040349000c.html
たんぽぽの家が来春オープン予定の福祉ホームにカフェも設置されるのですが、それに先立って障害当事者や学生が一緒にニーズなどの調査をしてカフェの運営に反映させようというものです。僕はたんぽぽの家のケアスタッフとして参加させてもらっています。
日本も昨年、障害者権利条約を批准しましたが、この条約のコンセプトを表すフレーズに”Nothing about us without us(私たちを抜きにして私たちのことを決めるな)”というものがあります。もともとアメリカにおける身体障害者自立生活運動のスローガンだったもので、この影響を受けた日本の自立生活運動も身体障害当事者が主体になって推し進められてきました。
一方で、知的障害者に関しては、「意思」をどう考えるか、またその表明をどう支援するかということは非常に難しい問題で、運動や政策提言はおろか、日々の支援をどう行うかということについても、当事者の意思が反映されるケースはいまだに少ないと思います。
僕が東京で少しだけ関わらせてもらっていた「たこの木クラブ」では、いわゆる重度の知的障害当事者であっても、支援の方向性やプランを考える会議には当事者も参加します。内容をどこまで理解できているかは同席している支援者にもわかりませんし、部分的にしか理解できないことでかえって混乱している可能性もあるのですが、とにかく本人のいないところで決めないということを徹底しています。そのうえで、問題があるならば解決していけばよいという立場です。
なにしろ今までやってきていないのだから、やらなければ話にもならない。やってみて問題があるならその問いと向き合う。たこの木クラブのそういう姿勢は、ひとつのあるべき姿だと思っています。(ただ、誰もが真似できるとは思いません)
調査や提言という場において、知的障害者が主体になるということがありうるのか、ありうるならばどのようにしてか、ということは僕にはまだわかりませんが、あまりなされてきていないことをやるのはそれ自体大きな意味があるのだと思います。
と、話は大きくなりましたが、このプロジェクトの成果はひとまず来年4月オープンのカフェに反映される予定です。興味を持たれた方はぜひ足を運んでみてください。
●たんぽぽの家 http://tanpoponoye.org ●たこの木クラブ http://takonoki1987.seesaa.net
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mogihideyuki · 10 years ago
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更新される問いと、変わらない眼差しと
最近あまりSNSを使っていません。表立った活動をしていないということも理由の一つですが、いま向き合っていることが今まで使っていた言葉では表現できない、ということも大きいです。今までの問いの立て方があまり用をなさなくなってきた、と感じることが多いです。
ただ、一つだけ、長いこと抱えている「境界的で媒介的な自分の性質を最大限に活かすためにはどうすればいいか?」という問いだけはまだ生きていて、これからも抱き続けるだろうと思います。
そんな中で、雑誌『支援』vol.5を読んだのですが、ここに書かれていることは今までと変わらず深いところに響いてきます。取り上げられている事象が重要であるというよりは、それらを書き手の方々が捉えるときの「眼ざし方」が、自分にとってとても重要なものなのだと思います。
今月から奈良で障害福祉の仕事に就きます。落ち着いて、長くやらせてもらいたいと思っています。伴って、今まで関わっていた学習支援の仕事からは離れることになりました。最後に子供たちに何か話を、と時間をいただき、他に芸もないので今までどうやって生きてきたか(特に「仕事」をどう考えてきたか)という話をしたら、みんな何かしら興味を持って聞いてくれているようでした。これといって何事も成していない人生ですが、ドタバタ走りながら少しずつ後ろに手渡している、と感じることが増えてきました。走り切ったらバトンを渡す、というのではなく、止まらない流れがただ巡っていて、意図しなくとも回すべきものを回しているんだろう、と思います。
オチもないので、読むたびにしみじみと感じ入って少し胸が熱くなる、『支援』の発刊の辞を載せておきます。
なんの因果か抜き差しならぬ関わり合いをもち、取り乱しつつ関わり続けることを〈支援〉と立てる。そのリアリティに魅入られた者たちが、それぞれの〈現場〉から受けた負債を返済することのその営みのひとつとして、この雑誌は創刊される。 「ニーズ」と眼差さず、「当事者主権」とまとめず、シノゴノ言いつつ、ジタバタやろう。 そのことも(少し気恥かしげに)宣言しておきたい。────編集委員一同
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