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3人による連続個展
会期/
大野陽生 「HOAX」 2017年10月31日(火)~11月4日(土)※3日休廊
前田春日美「短い手」 2017年11月7日(火)~11月11日(土)
大石一貴「同じレベルのオーボールラトル」 2017年11月14日(火)~11月18日(土)
open/10:00〜20:00(各展示最終日18:00まで) 会場/東京造形大学ギャラリー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー オープニングレセプション 日時/2017年10月31日18:00〜 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー トークイベント 日時/2017年11月17日18:00〜19:30 パネラー/大野陽生、前田春日美、大石一貴、小林公平(武蔵野美術大学芸術文化学科4年)※観覧無料 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「、むしろ例えてしまう」
自らの作品を語る際、たまに何だか伝わり難い状態になる。美術的なワードもそこまで必要ないし、情と制作を語り尽くそうと、作品の姿の根拠と結びついているか不明なこともある。そこで、例え話を持ち出すことがある。作品を他の形式と同じフィールドとに傾ける。そういった例え話が、他者が自らを表層に追い込んでくれたようなシンプルな説明になったりもする。
3名による連続の個展を開催する。3人に共通して、作品との距離感に趣を持っている。完全な他者でないギリギリの立ち位置。そして他者の視点から自らの事をほんの近くに視ることが出来るそれぞれの姿勢で作品に向かっている。 フライヤーデザイン 澤登信太郎
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トークイベント
日付:11月17日(金)
会場:東京造形大学mime
パネラー:大野陽生、前田春日美、大石一貫、小林公平
大石:武蔵野美術大学大学院彫刻専攻2年生の大石一貴です。学部まで東京造形大学の彫刻専攻に在籍していて、大学院から武蔵美で彫刻を勉強しています。いまこの会場で行われているのは僕の展示になります。
大野:今年武蔵美の彫刻の大学院を卒業しました、大野陽生です。この連続展の第一回目の出品作家です。
前田:前田春日美です。武蔵美の大学院1年次に在籍しています。大野さんの次の週の第二回目に「短い手」という展示を行いました。
小林:今日このトークのゲストとして参加させていただきました。小林公平です。武蔵美の芸術文化学科4年次に在籍していて、普段は批評や書���設計を扱うゼミに所属しています。最近の活動としては、所沢で行われた引込線の概要テキストを書いたりしています。出品作家の方について、短い説明テキストとしてマップの裏に書かせていただきました。ただ、僕自身は特に現代アートに長けた専門家というわけではなくて、一介の学部生です。今回この場に呼んででいただいたご縁というのは、武蔵美の彫刻学科で客員教授として教えて��らっしゃる岡崎乾二郎先生のゼミに僕が潜っていたということがきっかけだと思います。僕自身は高校時代に美術科の学校で彫刻を専攻していましたが、そこではあまりうまくいかなくて、結局芸術学科を目指すことになりました。でも作品を作ることに対する憧れみたいなものはいまだにあって……今日はそういう話もしてみたいです。今回、三者三様の興味深い展覧会をやっていただきましたが、その話とからめて聞いてみたいと思っています。
大石:ありがとうございます。まず僕たち3人の詳しい自己紹介をしたいのですが、その前に今回の展示に至った経緯をお話しします。僕は学部3年生の時にここで一度個展をやっていたので、このギャラリーの存在も知っていましたし、どういう人たちが見に来てくれるのかも知ってはいました。学部を出た後は武蔵美で修士の2年間を過ごしたんですけど、修了する前にここで展示をする機会を経験して自分の何かを更新したいな、という思いがありました。ちょうどその時に前田さんと展示を企画してみたいという話をしていて、このmimeのことを思い出してここを勧めてみようかなと思いました。そのすぐ後ぐらいに大野さんとも話す機会がありました。僕と前田さんは2人とも大野さんと交流もあったんですが、その時に何か共通点というか……それについてはまた後ほど詳しく話しますが……共通するものを感じました。そういった流れでこの3人が集まってここで展示をやるということになりました。詳しい自己紹介として今回の第一回目からの個展の説明をしたいと思います。第一週目が大野さんの展示でした。では、大野さんお願いします。
大野:僕の今回の展示タイトルは「HOAX」 ですが、日本語に直訳すると「でっちあげ」という意味になります。日本語の意味のとらえ方の広さで、でっちあげる、人とか物を担ぎ上げる、ちょっとヨイショするみたいなそういう意味合いにもとれます。僕は学部に在籍していたときは石彫を専攻していて、大学院に入ってから人間の形を借りて彫刻を作ってきました。その人間の在り方みたいなものは、建築のなかの一部のようなもので……一つひとつは何かモチーフがあってその人柄だったり立場みたいなものが表されています。建築だったら部分が全体を装飾する……そういうものを好んでモチーフにしてきました。モチーフにするというあり方は、「ヨイショする」ではありませんが、場とか物を持ち上げるという意味で 「HOAX」とつけました。制作の素材としては栃木県の宇都宮市で採れる大谷石というものを扱っています。大谷石はかなり脆くて柔らかい石ですが、それを塑像でいうところの心棒にして、その上からパテで埋めていくという技法を用いています。

展示の様子《Item No.6》2017
小林:宇都宮市にあるカトリック松が峰教会の写真を資料として持ってきましたが、これなんかは大谷石の肌の感じがわかりやすいかなと思います。表面の「ミソ」というボソボソした穴が特徴的な石ですね。
大野:大谷石の採石場はほとんどが閉山してしまって、そこはもう観光地化しているんですが、そこに大谷石のお寺があって、本尊の磨崖仏が石芯塑像でできている。実際に訪れてみてこういう技法があることを知って、自分の制作に使ってみようかなと思いました。
小林:大野さんの過去作品を見てみると、内側に入っていくというよりも外側で触っていくような、柔らかいものの印象があります。(卒制の写真)話にあった磨崖仏もそうかもしれませんが、エジプトにある石彫像のような……。

《Wicker Man Ⅴ》2017
武蔵野美術大学 修了制作展
大野:そうですね。大学院のときは結構こういう一回彫って磨いて、その上から模様を彫っていくという制作をしていました。
大石:過去の作品がこういったもので、特に今回の個展ではエジプトの彫刻というかスフィンクスやピラミッドとかが思い浮かびました。
大野:もともと自分でゼロから人間を作るということがあんまり現実的に思い浮かばないので、そういう原始的な部分に魅かれるところがあります。エジプトだったり民族彫刻のようなものは意識しているし、それは作っていて選択していきたい形ではありますね。エジプトみたいという捉え方は良いかなと思います。
大石:大野さんの彫刻は人をモチーフにしたものだと思うんですけど、その話は例えば動物をやろうという考えに至らなかったということは関係していますか? また石を心棒にして塑像を作っていますが、塑像するということと心棒は何かつながるのでしょうか?
大野:単純に人だけでも立場だったりキャラだったり、結局、人間をモチーフとするやり方を変えなくてもいろいろできるのかなと。 人間だと棒人間を描いたら出来上がる、みたいなそういうシンプルさがあって、素直に制作しやすいのが人間だと思います。もともと予備校にいたときは実技で水粘土を使っていたのですが、大学に入ってから自分を見つけるという時に、水っ気を��んだ粘土の状態をなかなか捨て切れませんでした。粘土は石膏やブロンズといった別の素材に置き替わってしまって、そこがギクシャクするというか。やはり今ある状態を残せたらいいなという願いがあるのですが、型になって粘土が掻き出されてしまって今手元に残っているのは型の表面だけ。「あの感動はどこへ?」みたいな。塑像からFRPやブロンズへ、という作業は、そういう理由もあって避けていました。
前田:大野さんにとって自分でつくった石彫の形を心棒にして、モデリングとして塑像をするということは、形をプラスにしていくこと?
大野:パテを打って作品が固まればできる。
大石:固まるまでは未完成ってことですか?
大野:心棒を作るという作業をそれほど意識したことがないというのもあります。垂木で十字が入っていれば良いとか、首像だったら粘土がずれ落ちる防止で横木が入っているとか、確立されているものとしてそこに意識が回らなかった。ただ、石を心棒にするということ自体がどうなのかというのは思っていたりして、発泡スチロールで心棒をつくったりしてやってみたりもしました。 そのコーナーにある作品、それから小さい台座に置いたものも発泡スチロールが心棒です。
大石:小林さんは大野さんの今回の展示を見て思うことはありますか?
小林:石の話はもちろん気になったのですが、色を差し引いてもモランディ的な配置だということは思いました。ただ大野さんにそのお話をしたら、どちらかというとシャルダンに近いという。シャルダンのほうがどちらかというとモチーフそのものを描いていくというより、筆で表面を汚していくイメージがありますね。シャルダンのどういったところに影響を受けたのでしょうか?
大野:受験の話に戻ってしまうのですが、素描の課題で石膏像の顔を似せること、静物デッサンで配置をトリミングしたり、自分の座る場所とか距離をチョイスしていくこととか、その自分自身で選び取っていく力を試されている感じの方が、僕は彫刻をしているなとぼんやり思っています。直接的にはこの作法ではないのですが、大学の講義でシャルダンを観たときに考えていたものと一致しています。

《Still life Ⅳ》2017
武蔵野美術大学 修了制作展

展示の様子 左から《Item No.5》《Loser》《Victim》2017
大石:シャルダンの絵はモザイクがかかったようで、大野さんの作品は表面を石粉でボソボソになっていてピントが合わない感じですよね。そこがシャルダンにつながるのかなと思います。
大野:設置したときに作品が完成する、ではありませんが、作っている時間よりも設置にかけている時間のほうが彫刻をやっているなという感じがします。シャルダンの絵はしっかりとルールが決まっています。絶対テーブルのふちから何かか飛び出ている、当時なかなか書かれていない物を描いていたりするっていう、特殊さがあります。作品の置き方に影響を受けたのはシャルダンです。
大石:静物で描かれていないようなものをシャルダンが配置したように、大野さんも配置する上で何か違和感を期待していますか?
大野:バランスをとっているというか。一個一個、室内の壁に水平・垂直で整体させるみたいな部分がちょっとなかなか勇気がもてなくて、そういう展示をしてみてもいいのかなと思いました。個々の主張が半減することと半減した分なんか別の今作っていた一個一個のものじゃない状況みたいなものを見たい、ということ。

展示の様子 《‘Step on me’》2017
小林:やっぱり鋳造や石膏取りは作ったら固まるまで我慢しないといけないじゃないですか。大野さんはシャルダンのモチーフの選択に興味を持っていますよね。描き方というよりバランスや配置だったり、そこにシンパシーを感じたということなんだと思います。
大野:技法や素材は別としても、共感できることはありました。
大石:では、前田さんの展示についてお願いします。
前田:私の制作の根本にあるのは、自分という主観を通して見るということです。現実にあるということと視覚によって知覚することの間にあるズレや、自分が物に対していかにアプローチするかということには興味があって、見えているものを写真に置き換えたりして制作してきました。展示タイトルの「短い手」も、その知覚的ズレのようなものです。物があることと視覚のズレに対して、自分の身体的なものを取り入れたいなという思いが強くなって、この以前に作った作品からそういうことを考えて制作しています。(《短い手》を流す)今回の出展作品の制作プロセスとしては、まず海にこぶし大ぐらいの粘土を持って行き、海に向かって粘土を投げるという映像を記録します。その映像を白壁にプロジェクターで投影して、その海の映像に向かって自分が粘土を投げている映像を見ながら、もう一度その行動を繰り返す。同じタイミングで、同じものを使って壁に向かって投げています。「短い手」という個展名はステートメントにも書かせていただきましたが、たとえばこの机にコップが置いてあるとしたら、その目の前のコップを取る時と同じ感覚で遠くの景色に触れてみたい、という思いが私にはあります。 ただ実際には自分の手はこの長さでしかないので、理想ではもっと長い手が欲しい。実感をもって遠くのものに触れたいという気持ちがあるので「短い手」とタイトルを付けました。自分が行為したこととか、行動したことが具体的に何かになるということよりは、その場で感じたこと、この作品で言えば海に投げたときのこと、その時の感覚の鮮度をいかに落とさないで別の場所で繰り返してやるかが重要だと思います。水平線に触りたいから私は粘土を投げたんですが、そこで現れてきた映像が彫刻的な問題とか別の問題を引き受け得る形になるのかな、と考えています。繰り返された私の行為を、こうして展示空間に大きく映すことで、鑑賞した人が追体験できる場を作ろうとしました。

展示の様子《短い手》2017
小林:行為を繰り返すと話していましたが、これは三回繰り返されているということですね。海に投げ込まれている映像と、アトリエにきて壁に投射しながら粘土を投げているということ、更に実際に展示をしながらこの壁に大きく映して展示になった時に初めてこれがパッケージになったということですよね。映像を映しながら投げているとき鳥が飛んでいましたが、鳥をめがけて投げているというのはそこに気まぐれがあるということですか?
前田:撮影にあたって実際に自分が行為した映像を目の前にしたとき、最初は映像の中のタイミングに合わせて粘土を投げているんですが、途中から画面に飛んでいる鳥にも意識が向きました。 鳥が横切るんですけども、それに向かって投げていたりもしています。結局自分がプロジェクターで映している映像でしかないので、その場で自分に見合った行動をとったというだけです。それがその時の私のリアルな体験でした。

《短い手》制作中の様子
小林:面白いのはこの映像を映しながら粘土を投げていることです。粘土というモチーフは半分柔らかくて半分硬い中途半端なモチーフですが、それを選ぶというのは前田さん独特の考え方だと思います。海景が奥に広がっていくにもかかわらず、粘土は投げたら壁面で止まっちゃうわけじゃないですか。止まっていることで粘土が映像という一つの窓ガラスに向かって投げているような気がして、僕は「短い手」に切なさのようなものを感じました。また、これは技術的なことなんですが、プロジェクターが壁面に向かってピラミッドの形で映像を投射している。投射された映像は消失点に向かっていますが、これもピラミッドの形と考えれば白壁を軸にしてピラミッドがと二つ合わさった構造になります。この枠の形を強調するような展示の仕方は面白かったです。
前田:今までは自分が感じたことを立体にしていましたが、それを造形することによって鮮度が落ちていくような気もしていました。知っていた技法に引っ張られていくように感じていて、そういう制作と、自分が感じたものとのズレにも向き合っていかないといけない。たぶん小林さんが今話した視点のピラミッドのことは以前の作品でも自分が意識していたことだし、繋がってくるのかなと思います。

《Woman Ghost》2015
小林:これ《Woman Ghost》は3年生の時の作品ですよね。卒制の作品もそうですが、物に対する表面をなめるように見るというのはつながるのかなと。
前田:これ(卒制作品)は湖の写真の湖の部分を切り取って立体にしています。


《Land&Scape Ⅰ,Ⅱ》2017
武蔵野美術大学 卒業制作展
大石:木に服を着せている作品は分かりませんが、実際その場所に行ってそこでの実体験をそれを家に持ち帰っていることは共通していますね。それを頭の中だけで整理するんじゃなくて、写真や映像に出力して、その時の感覚を取り戻そうとしているのかなと。実際にはその時の感覚に戻れないじゃないですか。だから、小林さんが言ったみたいに「短い手」という画面窓にとまってしまって、どうしても思い出せない部分は輪郭だけを切り取ることになってしまった。その時の実体験を出力しているけど、「短い手」はどうしても届いていない部分、そこの余白を捉えようとしていると思いました。
前田:いや、実体験というと単にその時の気持ちみたいな表現になるんですが、私は気持ちというかその時に感じたことを輪郭線で追っています。目で追った時の視線の流れや形に対しての意識が強くて、その時の心情のようなものは表現しようとは思ったことはありません。
大石:どうしてフィールドワーク的に一度そこに出向くのかな、それは身近なものでもいいはずなのに。何かを外に求めに行っている?
前田:風景が自分の中で触れられない物になっていて、より手の届かない物を求めに外に行っている理由があります。目の前の机にしたところで、自分がつかめてしまう大きさや知っている質感は情報が多い。あまり外に行こうという意識はないんですけど、視界に入りやすいもの見てしまいます。
大石:身近なものより淡泊に受け取れるから、ということもある?
前田:そうですね。だから今回の作品でも撮影しているときは人が通ってほしくなかった。できるだけノイズは排除したいし工夫はしています。
大野:水っていうのモチーフはやっぱり大事なの?池でも写真だったら周りに生い茂っている草のアウトラインがあったり、 容器の形と水が一致している。海に粘土を投げるというのも、そうなんだけど、波とか変わっちゃうアウトライン、電車の中からなぞっている作品も前田さんの作品にはあるけど、変わっていくアウトラインに関してはどう思っている?

《見たいものだけ見てそれ以外は無視するということ》2017
前田:これ《見たいものだけ見てそれ以外は無視するということ》は前回発表した作品です。プロジェクターで電車の窓から撮った映像を流して自分に映していて、自分の対面に鏡を置いて風景が映った自分を鏡で認識しながら、粘土を山の輪郭に沿って盛っていくという作品を発表していました。アウトラインが変わるものというよりは、風景だと大きすぎて平面的に見えるということが重要だと思います。輪郭とかを意識しているとどうしても立体的に認識しがちです。遠くのものになりすぎると具体的な大きささえも認識できないじゃないですか。だから山とかを選んでいます。水だから湖とか海っていうわけではないんです。風景の一部として利用し ているて自分との距離が重要です。
小林:自分の身体がまわり込めないということが大事なんでしょうか?目の前に物が置いてあると身体が、裏側がどうなっているのかが分かってしまうじゃないですか。でも前田さんがあえて選んでいるモチーフって、自分の眼球の運動でしか認識できない、明らかに裏側にまわり込めないモチーフだから、わざわざ山の裏側に行ってみようとは思わない。その風景というモチーフを選んでいるのは自分の身体を動かさないでいかに物を見るかということで、前田さんの作品がつながっているのかなと思います。前作のタイトルは《見たいものだけ見てそれ以外は無視するということ》ですね。フィールドワーク的に外に出て行き、一回アトリエに戻ってきて制作するじゃないですか。その風景のなかの「見たいものだけを見る」っていうのは、風景全体をアトリエで想起することへの諦めみたいなのがあるのかなと、この作品では思いました。だから大石さんが話していたような切なさとか、感傷的な体験といったところに重心が置かれるのではなくて……僕が思うのは見ることに対する諦めです。「手が短い」ということをもうわかりきって、それでも作っている。触ることができないのは分かっているけどわざわざ作るということは、前田さんの制作につながっているのかなと思いました。次は大石さん、作品紹介お願いします。
大石:僕は今回は架空の人物を設定して、その人を行動させたログというか小説的なものを書いて、それをもとに彫刻を作りました。今回の架空の人物は三人家族のファミリー、夫と妻と3歳の娘を設定しました。小説は、その三人に普段起こる出来事のショートショートです。小説の中では本人たちは全く喋らないので、その行動を記したものと言った方が近い。長さは原稿用紙5枚にも満たないくらいかもっと短いのもありましたが、そういったものを書いて、この話から僕が汲み取って彫刻に置き換えるということをしていました。その小説は僕自身が書いていて、登場人物を設定し、性格や行動といったものを決定するんですが、決定した書き記したもの以外、小説の人物の間合いや、取り巻く環境だったり書き記すには限界があって僕が全く書かなかったことともあります。僕が書いた小説だけれども、それから自分が読み取って汲み取って彫刻にする。だから実際に小説の中の状況が立体に表れてはいなくて、必ずしも一致はしません。全くの一致はしないんですけれども、それはその小説の中の僕の干渉しきれない部分ということと、現実の僕と小説の中の状況をかなりミックスさせて彫刻に置き換えているということなんだと思います。 この三人家族の3歳の娘がいてその関係がどんどん更新していく様子がよく表れるなと思って、そういう小説からくみとることが今回できたらいいなと思いました。 この作品公園の緑は深い》はコントローラーで動かすこともできます。

展示の様子 《公園の緑は深い》2017
小林:この動かせる彫刻で僕が気になったのは、ジャコメッティの彫刻で《ノウ・モア・プレイ》(1933) という作品で、あれも言ってみれば動かせる彫刻で知られていますね。ゲーム板という土台があって、その上にある駒を動かせるんですけど、終わったら元の場所に戻すんですけれども。もともと細い人体の彫刻をつくっていたということからも分かるように、ジャコメッティはイメージが仮初のものでしかないということに関心があったわけです。それで、大石さんの今回のステートメントを読んでみると「おもちゃがしまわれる」というふうに書いてある。ジャコメッティの駒をお墓みたいに下の棺桶に戻すことができるということと、大石さんのしまうことは重なるんじゃないかと思います この大石さんが言っていたジャコメッティのオマージュ的なもので今回この作品をつくられたのかなと思っていたら話を聞いていたらどうやらそういうことじゃないらしく、ジャコメッティを通過しないでどうやってこの作品が出てきたのかなと、気になりました。
大石:僕の作品も機能を持たせるというか、ビー玉を入れたら下からでてくるとか、あとは後ろにある壁についている作品は蝶番がついていて開くんですけど、彫刻だけではなく何か別の機能を持たせるという点では、確かに近い意味があるのかなと思う。このジャコメッティの作品を詳しく知らなかったというのもあるけど、僕がそうしたのは彫刻がもともと台座の上に乗っていることとか、床に置かれている状態に違和感をもっているからだと思います。
小林:違和感を持っているのにも関わらずこの彫刻はすべて台座に乗ってますよね?しっかりした台があってキャスターはついてますけど、台座に対する疑問があるということですか?
大石:台座に対する疑問も、台座ではなくて室内空間にある食卓だったりテーブルのような機能をもったもの……それが台座と言えるのか、言えないのかはちょっと分かりませんが、そういった要素を彫刻に取り入れたいと思っています。だから壁にあるものも家具の猫足のように使ったり、椅子やラジコンを使ったりと、そういうものによって別の見方で自分の彫刻を見たいということがあります。

展示の様子 《卓上のエナメル質のクロス》2017
小林:この作品はベッドですか?
大石:これは机ですね。
小林:でも人が寝てるじゃないですか
大石:これは寝てますね。
小林:誰なんでしょうか?
大石:これは女性、小説の中のストーリーになってしまうんですけれども、これは机で夫が職場の先輩に女体盛のお店に連れて行かれて、机の上に横たわる女性の上のご飯を食べるんです。そういったシーンを考えてしまって。
小林:ストリップショー的な?
大石:ストリップショー的な……女体盛のお店みたいなものもあるじゃないですか。
小林:いや、知らないけれども……あるんでしょうかね。
大石:かなり儀式的な部分があると思うんですが、そういうシーンを思い浮かべました。だから机で……カウチソファも考えていたんですけれども話が思いつかなくて。
小林:もう、小説を一回公開したほうが良いんじゃないですか?
大石:そうなんですよ、そんな意見ももらって。
小林:大石さんは小説をこの展示で見せたくない。30話ぐらいあるんでしたっけ?
大石:十何話。
小林:十何話ある中で、この彫刻の物語に関係するところだけでも展示したほうがよかったのかなと思います。やっぱりラジコンとかは正直生活空間に関係あるのだろうかと疑問に思うんですよね。テーブルとか化粧台とかドアとか椅子に見立てるにせよ、それとラジコンは、明らかにラジコンの機能だけが浮いてしまっているように感じます。それがどういう意識の中で出てきたのかっていうのは、小説を読んでみないと分からないのでは?
大野:ラジコンはキャスターの延長って感じかな。
大石:そうですね。もともとキャスターをよく使っていて前まで制作をしていて。パーソナルスペースといって人が持っている自分の心地いい空間や距離など、そういったものをテーマにして制作していました。パーソナルスペースというものが人それぞれあるように、自分の彫刻にもパーソナルスペースがあるんじゃないかなと。彫刻のまわりに人が集まることによって、作品それぞれのパーソナルスペース、人のパーソナルスペースも移り変わっていくかなと思っていて、じゃあ彫刻も動かせる仕組みを作ろうと。

《positioning》2017 Photo by KenKato
彫刻と対話法Ⅲ-思い通りにする、をするか- 府中市美術館
前田:以前の作品にしても、建築の基礎材みたいなものにキャスターが付いていて、建築的な要素とキャスターの組み合わせによって、作品に移動するっていう要素があるというのは気になる。大石さんの彫刻は私には人体に見えるんですけれども、大石さんが作り出したい、そのコンクリートでつくった人体のイメージみたいなものとキャスターとの関係性が重要だと思っていました。ストーリーが入ってきたのは今回の展示が初めてですよね?
大石:いや、初めてではない。ここの前の個展もストーリーを使っていて、これが二回目です。
前田:それとは別としてコンクリートとキャスターという建築的な作品を作っていて、そこにストーリーが入ってきたことは気になります。個人的な意見としては、建築的要素と上物の関係性が薄れたというか、ストーリーをいれることによって大石さんの作りたい形を理由づけしているようにも見えて。
小林:見えなかった形づくりの強い動機みたいなものが小説によって希釈されてしまう、というような?
前田:建築的な要素とか移動とか大切な要素だったものが、単なる素材になってしまう。私にはそういう風にみえていて、それは本人はどう思っているのかなって。
小林:もう、小説を一回公開したほうがいい気がしますね。
大石:今回公開しなかったのにも訳があって。自分が小説家ではないというのもあって。
小林:それは関係ないでしょう。
大石:自分は小説の内容とかストーリーはあまり重要ではないと思っています。誰がどう行動するかが重要で、府中美術館で発表した、キャスターがついていた作品《positioning》も人が関わっていたんですよね。キャスターという動かせるが機能を付いていて、作品が移動するじゃないですか。移動したことによって別の人が別の印象をそれに対して持つと思うんですよね。もし動かさなかったら、別の印象を持っていたかもしれません。これはステートメントにも書きましたが、前の人、その前の人が、次の人の行動を決定づけているということです。自分の出生の過去が遠い先祖にあるのは確かで、おそらく風が吹いて桶屋が儲かり、私が生まれるにいたった。遠い昔の先祖が出会っていい関係になり、脈々とそういうことがあって自分が生まれたというのは事実なんですけども、ただ言いたかったのは、じゃあその先祖が違う一瞬を過ごしてしまった場合には僕はどこに行くんだろうということです。かなり極端な話をしましたが、人の行動が誰かの行動を決定づけている。小説の中では三人の人物が登場するんですけれども、その三人の中で誰かが行動したことで誰かを決定づけるシーンがあるわけではありません。ただ、行動してるのは確かで、それを僕はメインに記しています。ではその行動が何を生むのかということを、僕は作品を通して考えることができたんです。自分が書いた都合のいい他人として見ることができて、それを書くことが楽だなと思った。小説の中身を見せる必要はなくて、赤の他人を見せるようなものでもあってそれは違うなと。「小説をつくったんです」というとかなり言葉が強い。小説見ないとわからないという部分もあるけど、本当に僕がやりたいといったら大衆的になってしまう。だから小説を書いた自分の行動で他人をつくって、その他人によって僕が彫刻を作ることを決定づけられているというのが一番必要な要素です。

《Furniture : lamp》2017
前田:今の話を聞いていると、小説を書いた後に立体を作ったように聞こえる。
大石:それもまた逆の場合もあって、彫刻が曲で小説が歌詞とした場合、曲先か詞先かというような違い。矛盾しているかもしれませんが、自分がつくった形がなんでこういう形になるのかなというのが疑問です。赤の他人がこういうことをしたから、こういう形に決定づけられたんだと思うこともできる。分からないこともあるから、じゃあこれが多分自分がこの彫刻を作った事実に当てはまるんだ、と後付けもしやすかったのが小説でした。自分のつくった彫刻の形が自分のピントにあっているのは、それができた所以をさかのぼってその解像度を上げて、奥の方にピントをあわせられるようになってきたということです。そのことを考えると、そういう裏があったのだと決定づけることができた。
小林:いや、やっぱり小説をやりたいっていう感じは、申し訳ないのですが僕には分からない。ただ思ったのは府中で出した二つの作品があるじゃないですか。 もともと大石さんが学部時代に作っていたような、有機的な線で内臓みたいな形のもの《脳ミソにない意識》をつくっていて、下にすごくカッチリした構造物を据えている。

《脳ミソにない意識》2016
東京造形大学 卒業制作展
大石:一般的にいうと台座。
小林:そう、台座でもいいんですが、この二つの彫刻を繋げるものとして両者の高さが同じっていうルールを決めていましたよね。上下の素材それぞれが違う二つの彫刻を一つの空間の中で自分の作品として置くときに、同じ自分の作品として共通する言語を持たせるための構造物がある。それはとてもコンセプチュアルで面白いなと思いました。だから今回のトークの打ち合わせで話していたことを踏まえると、台座を使うっていうのはこれから引き継いでいく問題なのかなと思ったんですけれども。そこからつながっているのと同時に、小説を作るということを知ってちょっと面食らって、今日そのお話を聞いてみました。あとは今使っている台座ってすごく不安定ですよね。ラジコンとかはリモコンで動かせるし、廃材を使っている。台座として意図するものが頼りなく見えているというのは、それより以前にまた別の展示の姿があったということを想像させる。ラジコンが倒れてきて大石さんがわざわざ起こしたとか、台の脚が一本取れていて形が傾いているとか、そういう頼りない状態であっても想像させます。大石さんが話していた自分が生まれてきた因果法則っていうのは、それ以前にありえたかもしれない世界の在り方を、空間で見せているのかなという気がします。

展示の様子 左から《注文確定》《公園の緑は深い》《口の中にアメさんコロコロ》2017
大石:それはその三人という登場人物の世界の空間になっています。介入しきれない部分、その中でできあがっている因果法則っていうのが現れるような展示を目指しました。実際一つひとつが別のシチュエーションだとしてそれがなぜ動き回るのかというと、たぶんどこかで因果がつながっているということになるのだと思うし、この因果の存在は僕の中でかなり大きかったです。
小林:やっぱり小説読みたいですね。気になります。小説を書かないから、小説家ではないから発表しない、というのは全然関係なくて、僕は単に読みたいのでまたいつか見せてください。
大石:はい。三人の作品解説が終わりました。展示をする前に何か共通するものがあるなと思ってこの三人が集まったのは確かです。ただ三人でこうやって連続で個展をやって、どういう関係があったのかなということは考えたいなと思います。
大野:もともと僕はあまり関係性がなくても構わなくて、「発表する場所を欲している三人」くらいに考えていました。タイトルについては、美術的な用語で作品を解説するのはもちろん大切なんですけれども、そうではなくて何かに置き換える、何かに例えるっていう部分、語る上での例えるという態度自体を三人は持ち合わせているなと思います。今出ているフライヤーも、もともと連続個展という風に考えていました。フライヤーの中でグループ展をしてしまおうと。だから展示は計四回という意識でした。
小林:これだけ見ると、フライヤーの写真は一人の作家の展示に見えてしまう、三人はこうしてみると似てるよね、みたいなことをいろいろなところから聞くんです。しかも三人とも粘土塑像をやっていて、前田さんにしても粘土を扱っていたわけじゃないですか。三人ともわざわざ粘土を使ったというのは、意図せず似てしまったということなのかと思います。
大野:最終的なメディウムを選ぶのが似てしまった��けで、そこで無理矢理三人は塑像をやってます、みたいに打ち出すのはダサいと僕は思います。そういうのはちょっと浅い気がしたんです。フライヤーと一目でわかるビジュアルを考えると、よくあるのはグリッドで分けて三人分の写真が出ているだけというものです。それだとつまらないなと思って……だったらここでグループ展をしてしまおうと。
前田:つまらないというのもあるし、メンバーが誰でも良かったという風にもしたくはなかった。
大野:むりくりバランスをとる、じゃないですけれども、やるとなったからには手持ちのコマで頑張る、ということをやりたかった。
大石:僕は今回三人でやって思ったのは、共通点がないという意味だった。それぞ作品を作る上での距離の取り方をそれぞれ持っている。
前田:作品の作り方っていうよりは、素材に対しての疑問みたいなのがあるってことだよね。
大石:やはり三人とも粘土を使っていたけど、粘土を使うにあたってどういう距離感を粘土ととるかということに共通点があるのかなと思う。僕は小説ないしは別のことを何かにフィルターをかけて、粘土を使うに至った。その粘土に対する何かは自分でも分からないけれど、なぜそこに至ったのかという疑問はありますし。前田さんは粘土というものを持って表れているし、大野さんは塑像ですが、粘土ではないし距離感の取り方をそれぞれ持っている。
小林:素材に対する距離感をもっているというのは、どこかでつながっていたと。その距離感を「むしろ例えてしまう」という、たとえ話ですよね。
大石:作品というのは、こういう考え方をどう置き換えるか、というたとえ話だと思うんです。このフライヤーを見たときに自分たちは思っていなかったけれども「三人ともすごく彫刻しているね」という意見があって、びっくりしましたね。自分たちがバリバリ彫刻やってるという……。
前田:やっている意識はない三人ではあった。
大野:クラフトっぽいね、映像だけでものがないね、とかそういう言われ方に単純にカチンときた、みたいな。アンチじゃないけど、そういうことはあるのかなと個人的に思っていた。
小林:三人はこれからどうするんですか?どう発表していくか、とか。大石さんはもうすぐ修了だから瀬戸際ですよね。作家としての制作は続けていく?
大石:作家を続けたいです。修了は控えてはいるんですけれども、卒制で振り切れようというところはあって、それから収めていきたいなというのはありました。また少し考えながらいろいろな方向で作品を作っていけたらと思います。 彫刻好きなんだなと。改めて彫刻に向き合うことができました。
小林:前田さんは?
前田:今回映像一本と写真を出したんですが、自分としては映像だけだとは思っていなくて、空間を含めての展示にしたかったので、それが殺風景だと感じる人はいるかもしれません。投げる距離とかそういうものを意識した見解で配置したというのもあって、映像作品というのも自分では言いたくはなくて、今まで作ってきました。 でも、そこを彫刻として言い切るのも怖いなと思っています。今回に関しては、展示に来た人には「彫刻として出しています」と言っていましたが。そういう意味で向き合うものが増えたと思います。
大野:強いね。いいね、映像を「彫刻ですけど」って。
小林:終わりに向かってますけど、大野さんはこれからどうするんですか?
大野:僕は特に何も決まってないんですけれども、どこでも、どこでも展示します。
前田:今日はフライヤーのデザインをしてくれた方が澤登さんも来ています。
最後になりましたが、皆さま今日はお越し頂きありがとうございました。

スチール、web編集:大石一貴
文字編集:前田春日美 小林公平
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